ジャパニーズ・コネクションPart-1 加藤さん編
バンド初来日35周年記念、ストラングラーズオフイシャルサイト/SIS Japan公式サイト合同掲載企画「ジャパニーズ・コネクション」第1弾!!
昨年(2014年)は、ストラングラーズ結成40周年であると共に来日35周年でもありました。それでストラングラーズオフィシャルのOwenさんが、バンドに関わる人にインタビューをしようという提案をされ、ここに実現しました。
第一弾は、バンドの日本デビューの立役者であり、現在は日本のマネージメントをされている加藤さんへのインタビューです。いろいろ興味深い話が盛り沢山な内容です。お楽しみください。
なお、このインタビューの英語版は、本国オフィシャルサイトにも掲載されています。
First part of [Japanese Connection]. An interview to Mr. Katoh who is currently managing the band in Japan and was the first one to contribute to the band's mega success in Japan.
English version →here
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《2014年10月26日収録》
このインタビューは、昨年10月に空手でJJが来日したのを機会に実現。当初はメールで…、という話もあったが、この機会があった為に対面でお話しすることが出来ました。
K:Masafumi Katoh
JJ:J.J.Burnel
Y:Yuka Takahashi
Y:ストラングラーズとの最初の出会いはいつでしょうか?
K:76か77年頃かな、キングレコードの前にいたワーナーパイオニアを辞めて、レコーディングエンジニア、プロデューサーになりたいと思ってアメリカに4か月くらい行ったりして一年半ほど経っていて、そうしたらキングの人から、UAレコードが移ってきたので来ないかと誘われた。様子見に行ったつもりがいきなり面接になり、キングのことをどう思うか聞かれて、”海外でヒットしているレコードを、ちゃんと売っていない”とか、ダメな部分を言ったんだけど採用されちゃってね。その時にはRATTUSがすでに何か月か前に海外で出ていて、前任の担当がトライしたけど会議で3,4回落とされて発売されてなかった。日本語タイトルが怪傑ねずみ小僧!?とか、わけのわかんないタイトルつけてたみたいで。(笑)キングに行ってUAレコードのカタログ見たらすでに海外では大ヒットしてたElectric Light Orchestraとかあってね。
Y:ELOの大きな紙袋がありましたよね。
K:その時点でストラングラーズはイギリスではすごく当たってるんだけど日本ではまだ発売になってない。それで初めて聴いたんだけど、音楽的なクオリティは高いし、音質は若干こもり気味というか、そのころのパンクバンドと比べるとね。でもストラングラーズはどっしり重くて破壊力がある。それに曲の構成力もすごいし、演奏も上手いし、これはすごい!と思って、売れる!って勝手に判断した。(Y 素晴らしい!)それでこの手書きのストラングラーズブック(巻末資料参照)をいうものを作って、それがキングでの最初の仕事だった。周りの連中はプロモーションにも行かずになにやってんのって感じだったけど、いやこーゆーのが必要なんだよって言って作って、それからプロモーションを始めた。日本での発売が決まるとUAUK(英国のUAレコード)のKick Van Hengelからテレックスがあり、ベーシストのJJバーネルさんをプロモーションで日本に行かせられるよ、ということで、じゃあ呼ぼう!という事で実現した。
Y:それはJJが一人で来たときですか?
K:そう、初めて日本に来た時のインタビュープロモーション。
Y:ではまだほかのバンドメンバーには会っていなかったのですね?
K:そうだね、JJだけ。
Y:では一番最初に会ったのがJJだったのですね?
K:そう
Y:ではそれが最初で、この予定で。
K:そう、まあ一日中インタビューで大変だったね。
空港に出迎えに行ったんだけど全然出てこないんだよ。当時の上司とか3、4人で2、3時間くらい待ってたんだけど出てこなくて。。空港の人に聞いてもわからないと言われ。。。後から知ったんだけど、あっちはロビーにページングしたらしいんだけどね、実際はなかったと思う。なにしろずーっと待っててやっとJJが出てきたら、デカいバッグを持ってるの。すごい荷物だと思ったら全部プロモーション用で、LPレコードが40-50枚くらいと、ストラングラーズが大きく取り上げられているイギリスの音楽雑誌Melody Makerを何十冊と持ってきてたんだよね、全部お前らのだ!って。で、自分の荷物は?と聞いたら”これ”とコンビニのビニール袋みたいなの一つだけ!パスポートしか入ってなかったよ。
Y:なぜ足止めくらってたんですか?
K:わかんない。でもレコードたくさん持ってたから、商売しに来たと疑われたんじゃないかな。
Y:問題はなんだったの?なぜ止められたのか覚えてる?
JJ:あの時はランディングカードの目的をプロモーションて書いたんだ。入管は報酬が発生していると思ったんだよね。彼らが勘違いしたんだよ。俺は正直にそう書いたんだけど労働ビザを持ってなかったからね。でも、実際はお金はもらっていなかったからビザも不要だったんだよ。加藤さんたちが説明してくれたんだと思うよ。3時間後くらいにやっと解放されたよ。
あの頃のフライトはアラスカのアンカレッジ経由で今よりずっと長かったから18時間くらいかかった。足止めされて空港から強制送還されるかと思ったから、せっかく18時間かけて来たのに、勘弁してくれ!って思ったね!
K&Y:ちゃんと出てこられて良かったね~!!
K:それで空港からホテルに着いたら、キョードー東京のボス、ナガシマ タツさんっていう、ビートルズを呼んだ、日本の音楽業界の中で、世界的に一番知られてる人が来てて、こっちもプロモーションでそんな大物の人が出迎えにくるとは思ってなかったからびっくりしたよ。そこで軽い食事をしながら話をしてプロモスケジュールを確認してもらったんだけど、日本には暴走族とかドラッグの問題はないのか?とJJに聞かれ、ナガシマさんは、日本はクリーンカントリーだからそんな問題はないと言ってね。俺はいやいや、そんな事はないって、心の中で。(笑)で、疲れてるだろうから、休んで下さい、という事で終わったんだけど、これは日本の実態も伝えておかなきゃ!と思って一人で戻ってJJの部屋に電話して、偉い人の前では話せないことを話してね。それで打ち解けたって感じかな。その後はたった2日の怒涛の取材。
K:でね、インタビューが終わった頃には、業界内でJJの事が噂になってたみたいで、赤坂のスナックでいろんなレコード会社の連中がちょうど集まって宴会みたいのやってたのね。それでみんなJJに興味を持ってて、パンクミュージシャンで日本に初めて来た人だったから、連れてこれない?ってことになってね。それで行ってみたら誰かがCCRの歌なんか唄ってて、JJにとっては最悪の雰囲気だったね。で、当然つまらなそーにしてて。で、せっかくだから何か一言、って言われて本当に一言”ボロックス”って言ったんだよ。それを”くそったれ”とかなんとか訳したら、みんな真面目に怒りだして、それで二人で帰った。
Y:そんな感じで打ち解けたんですね?
K:そうね。それで、インタビューで疲れただろうと思って部屋で指圧をしてあげようとね。とりあえずベッドに横になってって。
Y:そう言われた時はどう思いました?
JJ:部屋に来てマッサージをしてくれる、って言ったから、どんなだろう?と思ったけど(と、ニヤリ)、、、 ”じゃ、お願い”と頼んだ。そうしたら普通にマッサージしてくれて、そのあとよく眠れた。最高だったね。
K:だけどそのマッサージを勘違いしちゃって、裸になり始めたんだよね。
Y:上も下も?
K:まずシャツ脱いで、Gパンまで脱ごうとしたから、いやいやいや、って
JJ:そうそう!そう言われたから、”あ、そう。じゃ脱がないよ。”ってね。
Y:その次が空手での来日ですね?
K:そうだね。最初はうちに泊まったんだけど、狭いしトイレは和式だし!トイレに入ろうとして、どうやってするんだ?って。はっはっは!
J:そうだね、加藤さんのうちで寝たのを覚えているよ。壁からベッドが出てきて、、、
K:いやいや、それは押入れから布団を出したんだよ。
意外と面白いんだよねー、風呂から出てきたときに頭にバスタオルをかけて、テッド・ニュージェント!とか言ってね!
JJ:それは覚えていないなぁ!(爆笑)
K:うちにいる時は色々とレコードをかけてたんだけど、Juju MusicのChief Commander Ebenezer Obey & His Inter-Reformers Bandとかの、アフリカのレコードを気に入ってたね。
JJ:ああ、そうそう!加藤さんがくれたコンピレーションテープはその後何年も持っていたよ。彼がアフリカのジュジュミュージックを紹介してくれて、Chief Commander Ebenezer Obey and His Inter-Reformers Bandというものだった。ああいう音楽を聴くのは初めてで、そのテープは何年も何年も持っていた。とっても気に入ってね、すごく良かった。
このタイトル、Chief Commander Ebenezer Obey and His Inter-Reformers Bandを覚えるのにはかなり時間がかかったけれど、素晴らしい音楽だと思った。
K:で、話は初来日に戻るけど、この時はプロモーションをこなして一度イギリスに帰ったんだけど、帰る前に空手道場が見たいということで、キングレコードの人が知ってた、恵比寿にある空手道場に見学にいったんだけど、子供がたくさんいるところでね。で、JJは、いや、こういう所じゃなくてもっとちゃんと道場を見たかった、ということだったのね。それで次はプライベートで日本にくるので極真会に入りたいということになった。
JJ:1978年だね。本部は東池袋だよ。K:JJを連れて行ってちょど入門の手続きをしてた時にマス大山が出てきたの。奥から、館長お出かけです!って声が聞こえて、弟子がずらーっと並んでね。すごい緊張感で、館長はやっぱり雰囲気が違うんだよね、俺なんかも背筋がのびたよ。
それで、うちが狭いから、知り合いの紹介でキースのところ、四谷に行ってね。そこはARBのアパートだったけど、広いし、トイレも洋式で。それにキースは料理もできるしね。
JJ:料理の件は覚えてないなあ。。。
K:そのあとも何回かうちに泊まったりもしたね。キングレコードが池袋近くの護国寺にあったので、仕事が終わると道場に迎えに行って、買い物して、目黒からバスに乗って帰ったりとかね。
それである日、5人組手?かなんかやって、胸か腹のあたりをかなり痛がって帰って来た。それでも練習に行ってて、2,3日してから病院に行ったら肋骨が折れててね。それでイギリスのマネージメントに電話をしたら、即帰ってこい! ってことになった。だから予定よりかなり早く帰ったね。
JJ:ああ、もう練習できなかったからね。
K:相当痛そうだった。
JJ:誰がとってくれたのか覚えてないけれど、あのときはモスクワ経由のアエロフロートだった。当時一番安いフライトだったよ。
K:その後にUAUKが、ストラングラーズを頑張って売ってるからって、イギリスでのライヴに招待してくれた。彼らはロンドンからボイコットされててコンサートができなくて、スタッフォードのカウパレスみたいな、5~6000人くらい入る結構でかい会場。サポートがスティール・パルスだったね。その時初めてストラングラーズのライブみたんだけど、すごかった!前半はふつうのカラフルな照明で、それだけでも十分に良かったんだけど、真ん中くらいでHughがB&W!って叫ぶと照明がバーンと変わってエアクラフトライト、白一色になって。もーカッコいい!檻の中でやってるみたいで、その時のJJの片足をほぼ垂直に上げて、そのままゆっくりとぐるぐる回りながらベースを弾く、あれはかっこよすぎて、感動しましたよ。終わってから楽屋で初めてほかのメンバーにも紹介してもらった。
Y:そこで初めてバンドを見て、その後来日ですか?
K:そうだね。そのイギリスに行ってる時にJJに、ロンドンのグラフティを見せてやる、って言われてね。それが実はやばくてね。車でホテルまで迎えに来てくれたんだけど、イーストフィンチリーの寂れたラウンドアバウトにある、パブの前で車とめて、車の中で待ってろって言われてね。そこの環境が強烈すぎて、ビビってた。ちょっとしてデニスとピートというフィンチェリー・ボーイズのトップ二人がJJと出てきたんけど、ピートはビーサンはいてて、パンクのイメージじゃなかった、アフロでね。それでじろじろ見られた後に、パブに入ってきていいぞって言われたんだけど、おっかなくてね。で、パブに行ったら、まー悪そうな連中がいっぱいいてね(笑)。やばいところに来ちゃったなー、って思ったんだけど、しばらくしたら馴染んできてね。スヌーカーをちょっとやってから廃墟みたいなところにいって地図を拡げて、何かチェックしてるんだよね。その時はまだグラフティがどーいうものがわかってなくてね、アメリカングラフティのイメージぐらいで。で、現場に行ってからようやくわかったんだけど、街中にメッセージを書いて、これは洒落にならないぞって。そうしたらデニスが、お前日本語で書けよってスプレー缶を四つくらい渡されて、それから署名も書いとけって言うので、これはアブナイと思って前の会社の上司の名前を書いといたんだよ。日本に帰った後にUAUKからテレックスで、ロンドンの裁判所に出頭するか、弁護士を頼めって連絡がきてね、びっくりしたよ。
クリスタルパレスに行ったときは警報がなって警備員が走ってきたので、俺たちも逃げたね。
Y:面白い経験ですね。それで、裁判所出頭命令はどうしたのですか?
K:ジョークだったのかわからないんだけど、駐車違反程度の事だったみたい。でもちょっとビビったよね、なぜかというと、リザードのロンドンでのレコーディングの話が進み始めていたので、入国できるか心配だったの。パスポートがちょうど切り替えだったし、ま、結果的に問題なかったんだけどね。
Y:では、そこでストラングラーズ全員に会い、バンドとしてのライブも見られたわけですね?
K:あれは今まで見た中で一番カッコいいギグだったね。衝撃がすごかった。
Y:その時点では日本でのアルバムリリースはどうなっていたのですか?
K:日本ではどんどん好調になってて上り調子。一枚目は、僕が入る前に何回も会議で落とされたせいもあって発売に消極的で、しかも他社から移って来た人間だから、最初は1000枚とか1500枚とか低い数字をつけてきたので、営業とは喧嘩腰でね。ぜったい売れるからって言ってね。
JJ:じゃあそれは1978年の春だった?B&Wツアーは1978の3月か4月くらいだったと思うよ。それでその年の後半に極真に行ったんだよ。
K:順番が逆だね。
Y:最初プロモーション来日、B&W招待、空手来日、初来日、二度目来日?ですね。K:だね。で、イニシャル1500枚ぐらいでスタートして、どんどん伸びたんだよ。すぐに3,000枚、6500枚、と伸びて行って1万枚を超えて。会社も、売れるんだ、ということがわかり、NMHはもう最初から一押しで、キングの洋楽の中では当時は一番売れてたと思った。カーペンターズ以外でね。で、売上がもっと伸びて、会社の態度もガラッと変わったね。
その当時は日本のレコード会社はパンクはあまり真面目にプッシュしていなかった。コロンビアのピストルズは別として。パンクを積極的に扱う雑誌も少なくて、パンクは売れないって業界紙にも書かれたり、これはもう、絶対売ってやるぞって思ったね。
それでコロンビアとかポリドールの連中とパンクのフィルム・コンサートをやったりね。大きい場所はじゃなくて高円寺とかの、パンクスがいた地域の喫茶店やバーとかでプロモーションフィルムの上映会やったりね。Y:私も行った記憶があります。
では、RATTUSは1500から10000くらいは売れたとのことでしたが、NMHはどうでした?
K:最終的には6,7万くらい行ったね。NMHは最初から15000ぐらいでスタート。それでも少ないって営業とやりあって。結果さらに売上がのびてB&Wでまた伸びて。はっきりは覚えてないけどRavenはイニシャルで6、7万とかついてたかな。それは当時としてはかなり大きな数で日本のパンク系としてはダントツだった。
Y:そうですか。シングルではキングが日本でリリースしたのはPEACHESではなくSOMETIMESでしたが、それはなぜですか?
K:売り出そうとするイメージにあってるというか、単純にヒットすると思ったんだよ。イギリスとは感覚、マーケットが違うからSOMETIMESが良いと思った。あと、PEACHESはプロモーションフィルムがなかったんだよね。Y:それから79年にバンドとして初来日となりますが、B&Wが出ていたんですね?来日記念盤がありますね。
来日決定のいきさつ等ありますか?
K:来日の話が現実的になり始めた頃に、当時のマネージャーのイアン グラントが一人で来て、コンサート・プロモーターのトムズ・キャビンと会って、その流れで何かのライブを参考に見に行ったりして。その時に来日の具体的な打合せをしたんだと思う。
Y:1979年2月に初来日したときのパブリックの反応はどうでした?
K:すごく良かった。最初の大物パンクバンドというとられかたでね。プロモーションもすごくしてたからパンクを扱っていなかった音楽雑誌や新聞にも露出してたので結構有名になってて。後楽園ホールに来た時は日本の今のJポップみたいなミュージシャンも大勢見に来てて、注目度が高かった。特にベースの弾き方なんかはすごいって、評判になった。
初来日で2,000人を超す後楽園ホール3発なんて、なかなか出来ないからね。それだけストラングラーズの人気と、勢いは大きかったと思う。
Y:ストラングラーズ自身、ファンの本当に強烈な興奮反応を体験したとのは日本だった、と言っていましたが、日本の若者がそれほどバンドに狂ったのはなぜ? なぜそれほどうけたのでしょう?
K やっぱり、かっこいいって事かな。曲もいいし演奏のスキルもしっかりしてるしね。いわゆるギター系パンクバンドとは違うし、音楽的にも例えばTOILERなんかの構成力も他と違ってて、音楽的に別格だった。それに彼が空手やっていて、日本の文化に関心もってたしね。日本のパンクバンドに、一番影響力があった。ピストルズはファッション的にもアイコンとしてみんな好きだったけど、スピリットとしてはストラングラーズが一番核になってた。JJの発言も大きかったね。
Y:その頃はクラッシュはどうでした?K:クラッシュは最初はあまりプロモーションしてなかったんじゃないかな。コアなファンの間では人気あったけど、レコードの売上では比べものにならなかった。ピストルズはまあ別格だったけれど一枚だけだったからね。ストラングラーズはアルバム出すごとに売上が伸びていった。
Y:その79年2月の初来日のことで覚えていることは結構ありますか?
K 忙しくて仕方なかった。コンサートの前や後にインタビューいれたりとか、やたら忙しかったよ。今ツアー・アイテナリー見て思い出したけど、日本にコンサートの日程より早めに来て多くの取材を受けたりとか、S-KENスタジオでリハをニ日予定してたのが多分一日しか行かなくて。色々やったあとにコンサート・ツアーを始めた感じ。Y:では、来日してまず一仕事してからツアーという感じだったのですね?
K:そうだね。なぜか新宿ロフトでウェルカムパーティーなんてあるけど、行った覚えはないしパーティーの記憶もないんだよね。キャンセルしたのかもね。
Y:パーティーはなかったけど、予定外にロフトは行った気がするのですが。。。リザードを見に行ったんでしたっけ?
K:そうだねぇ、、、そんな感じだったかもねぇ…。
それでその時、俺も知らなかったんだけど、なぜかリハスタジオに映画のクルーがいたのね。ストラングラーズがリハやるって噂が流れたのか、スタジオに行ったら映画のクルーがいるんで、なんだ?ってことになった。「東京ロッカーズ」っていう映画を作っている最中で、他はすべて日本のバンドだけどその中にストラングラーズを入れたいってことで。最初は、少しもめ
たけど、とりあえずオッケーをもらって、撮らせてあげた。その時は彼らのマネージャーがいなくてね。少し遅れて日本来たんだよね、私の為に革ジャンを買うのでニューヨーク経由で来るとかで。ほら、ユカちゃんにあげた革ジャンだよ。
Y:ああー、思い出した!あの硬くて重い革ジャンですね?!
K:そうそう。あれは小さくてねぇ。
で、イアンがいなかったから、できたフィルムをイギリスに送ってくれれば後で確認してからオッケーをだす、ということにしたんだけど、結局送ってこなかった。正式に上映したのかどうか…完成品はイマジカとかの映画の編集会社で一度見ただけ。
それから来日ツアーが始まった。Y:ではツアーの時には忙しくてあまり何も覚えてない、ということですか?
K うん、仕事だね。とにかくやる事がが多くてね、二度目の時は、ヒューがステージの前に毎回サウナに行きたいって言うんだよね。移動先でも毎日行くんだよ。サウナのあとにうどん食べてね。でJJは、コンサート前にサウナに入ってたらステージができないだろう! とか言っててね。
JJ:ホント? それは全然覚えてないな。でも、ヒューが若い日本人の女の子と恋に落ちたことは覚えているよ。
Y:ああ、いましたね。初来日でしたっけね?名前は覚えてないけれど、すごく若い子……
JJ:ものすごく若かった。Y:ヒューがその子と結婚するとか、イギリスでも噂になりませんでした?
JJ:そうだね。彼女は十分に若かったからね。
K:あまり覚えてないなあ。。。
Y:そういえば先ほど話にでた、加藤さんが私にくれた革ジャンは、せっかくJJが頼んで買ってきてくれたんだから彼には内緒にしておいて、って言われたと思います。K:あれはとにかく小さくてね。彼にも小さいって言ったんだけど、いや、革ジャンはずっと着てたら馴染んで体にフィットするからそのうち大丈夫になるよって言われた。だからだいぶ頑張って着てたんだけど全然大きくならなくて。
JJ:ああ、スミマセン。フィットしなくて残念。それでそれを加藤さんが君にあげたんだね?イアンに頼んで買ったことは覚えてないなあ。。。
K:でもユカちゃんにはちょっと大きかったんだよね。
Y:ええ。それにとにかく硬くて重かったけど、私も何年か着ていましたよ。
JJ:ホント?それは良かった。
Y:今更ながら、イアン、ありがとう!
K:その前にRATTUSで着てるジャケットをもらったんだよ。
JJ:この襟にファーがついてるジャケット?!あげたんだっけ?!あれ、どこにいったんだろう?と思ってたんだよ。(笑)K:プロモーション来日から帰るときに羽田に見送りに行ったらジャケットとTシャツ脱いで、これを着てくれってくれたの。ラッタスのアルバム・カバーで着ていた赤いTシャツとジャケットをくれた。
JJ:え、本当に? 赤いシャツもあげた?!
K:あのフレンチスリーブのやつね。空港でいきなり脱いだからびっくりしたよ。
それで初来日か二度目か忘れたけど、大阪のグランドホテルの地下のバーに、コンサート後に行ったらイギリスのヘビメタバンドがいて、よく覚えてないけど坊主頭が一人いるバンドで、先に彼らはそこで飲んでたんだけど、入ってきたストラングラーズを見たら、こっそり出て行ったよ。
JJ:賢明だったね。(笑)
K:だけどそのバンドと一緒にいた女の子たちはバーに残ったんだよ!(大爆笑!)
Y:その初来日ツアーは大成功だったわけですね。初めてのいわゆるパンクバンドの来日で、しかもすごくかっこよくて、ものすごい影響力があったということですね?そしてその後同じ年の12月に再度来日することになるわけですが、それは珍しいことですよね。どうして一年に二度の来日が実現することになったのですか?相当稀なデマンドがあったからですか?K:経緯は覚えてないけど、なにしろレコードの売上が来日でさらに伸びたんだよね。二度目はRavenリリースの後だったよね?
Y:そうですね。ステージのバックドロップが大きなRavenで…。
K:そうそう!メンバーが出てくる前に後ろから照明をあててRavenの目から光線がでてね、カッコよかったよね!
二度目は後楽園のテントで、初来日よりもっとでかい会場だったね。
Y:あそこは楽屋に檻がいくつもあって猛獣がいたんですよね。
K:そうそう、それでキースがオラウータンかチンパンジーにたばこを吸わせようとして手を噛まれたか叩かれたかで、怪我をしたよね。(笑)
Y:その二度目のツアーではどんなことがありましたか?
K:成田空港に到着したんだけど、迎えに行って、彼らが出てきたらJJがすごく怒ってるんだよ。なに怒ってるのかと思ったら、彼がプロデュースしたリザードのアルバムを直接送らなかった、ということでね。ちょうどサンプル盤ができたときに、共通の知り合いが明日からロンドンに行くから届けてあげる、その方が早いよ、と言われて、確かにそうだなって頼んでしまった。そしたら、それに怒ってて、ツアー中ずっとね。
JJ:ホント?うん、そういえば何かそんなことで怒ってたねえ…。
Y:初来日時と違って2度目は機嫌が悪かった、という記憶がありますよ。.
JJ:それは、スミマセン。。。
(大爆笑)
K:こうやって話しているといろいろ思い出してくるね。
JJ:そう、俺もだよ。ワタシモ。 オナカ スイタ?
K:ちょっとね。
Y:では二度目の来日でまず思い出すことは、JJが機嫌が悪かった、ということですね?
K&JJ:そう、怒ってたね。(笑)
Y:では、それ以外になにか覚えていますか?一度目と二度目ではかなり違うことはありましたか?K:二度目はもちろんセットリストが違って(笑)。あと、京大西部講堂で外で焚火にあたってて、楽器がワイヤレスだったから、会場の外からギターとベースをならして、場内からのオーディエンスのワーって声が聞こえてきて。それで会場内にバリケードがたくさんあったから、メンバーがそれを外しながら後ろから入っていった。演奏しながらバリケードをはずしつつ入ってきてね、もう毎回最初から大混乱になったね。
Y:そうでしたか。ナチスの格好をした男の子がいてJJが言及したのは確か一度目の来日の時の後楽園ホールでしたっけ?それから、彼らがステージに出てきたらキャーっっていう歓声があがって、俺たちはBCRじゃない、とか言ったんですよね。
K:そうそう、あれは後楽園ホールの二日目だっけ? サムシング・ベター・チェンジを1曲目にして何度も繰り返し演奏したんだよね。
JJ:ああ、それらの事は覚えているよ。サムシング・ベター・チェンジを3回連続で演奏したけど、あの時はみんなその意図を理解しなかったと思う。ナチスの格好をした男も、なぜ自分が話題になってるのか理解できなかったと思うよ。
K:あ、今思い出したけど、後楽園ホールでは警備が厳しくてさ、JJにステージに上がってこい、って呼ばれて、日本語に通訳してくれって言われたんだけど、英語がそれほど流暢なわけでもなかったし、あの興奮状態のなかで何言ってるのかはっきり聞こえなくてね。でも要は、冷静に、みたいなことを言ったら、逆に盛り上がっちゃって。けが人まで出て。
Y:ああ、あの時は会場では警備員に向かって、少年やくざ!とか叫んでいましたね。でもけが人まででましたっけ?
K:うん、女の子が一人救急車で運ばれた。病院まで行きましたよ。
JJ:そうだったの?あれは.ちょっとした文化的な誤解だったんだと思うけど。
K:それから二回目にも似たようなことがあったんだよね。客がどんどんステージに上がってきちゃって。あまりにすごくてステージが壊れて真ん中に穴が開いちゃってね。でも黒いカーペットが敷いてあるからどこが穴か見えなくて危険なんだよ。
JJ:そう、そう!!!壊れたのは覚えている!K:結構大きい穴だったよ。もうそんな大騒動の連続で死ぬ思いでしたよ。
それで二回目の来日の新幹線での移動の時に、プロモーターと11PMのTV出演の打合せをしてたの。11PMはバンド側のリクエストにこたえるから演出、要望を教えてくれ、と言われて新幹線の中でヒューとJJがアイデアを出したんだよね。全体的に真っ黒な谷底みたいな感じにして、照明も上から白だけにして、メンバーは顔を能面のように真っ白に塗って、B&Wのイメージにする、というもの。それで最後はそのセットを壊すとかなんとか、詳細ははっきり覚えてないけれどそんな感じだった。それでツアーが終わった後に日本にクルーも全員に残ってもらった。この、付け足してある20日ってやつね。それでクルーは朝から楽器のセットアップとかしてね。機材が、とくにキーボード関連がものすごく多かったんだよね。それを全部セッティングできたと連絡が入ってからメンバーと一緒に日テレのスタジオに行ったら、打合せと全然違って普通のセットだったの。それでヒューとJJが、これは打合せと違うから演奏はしない、帰るぞって。えーーーーっ!?ってことになった。 プロモーターの人が土下座して、なんとかお願いします!!!って頼むんだけど、ダメダメ!って。俺もやってほしいんだけどバンドには強く言えなくて、仕方なかった。でも日テレの11PMなんて看板番組だし、テレビ局はもうカンカンでさあ。ツアー終わって数日後に取締役と謝りに行ったよ。でも僕なんかが、謝ることないだろう、と強気でね。コーディネートした人間がバンドのリクエストをちゃんと伝えてなくて、希望とおりの用意がされていなかったんだから、バンドはやらなくて当然じゃないですかって上司ともめて。でもレコード会社ってプロモーションにお願いする立場だから弱くてね、結局は謝りに行ったけどね。
Y:では二度目のツアーもかなり大変で色々な問題もあったけれども、ツアーとしては大成功だったわけですね。
K:そう、レコード・セールスも上がり人気もすごかったね。Y:二度のツアーが終わってRavenの後はMIB(Men In Black)ですね。
K:そのMIBのリリース前に僕はキング・レコードを辞めたんだよね。
Y:1979年のツアーの後、何年か来日しませんでしたが、最初のものすごい勢いを後押しできなくて、がっかりしませんでしたか? 加藤さんはキングを辞めてしまったけれど、加藤さんだったらその勢いをキープできたかもしれないし。
K:それは寂しかったよね、こっちもやむを得ない事情で退職したし。でもその後もアメリカツアー中とか、何度か絵葉書とか手紙とかくれたんだよね。それで僕が次に徳間に行ってる時に、JJガ「プロデュースしたベルギーの男女のユニットが日本に来ることになって訪ねてきた。でも契約まではいかなかった。
Y:ではその後はストラングラーズとかかわったり一緒に仕事をしたことはありましたか?K:来日したら見には行ったけど、仕事ではなかったね。こっちも徳間でスターリンという日本のバンドを担当してて、ツアーに行ったり忙しくて。JJはARBと一緒にツアーをしてた頃かな?その時にビッグ・カントリーが来日してたんだけど、イアン グラントがマネージメントをしてて連絡があってね。その時たまたまキースからも、ロフトでARBの打ち上げをやってるから来ないかって連絡があって。それでイアンとロフトに行ってJJに会ったね。あとは渋谷公会堂とか川崎にも見に行ったんだけど、渋谷は空手の偉い人たちがどっと来てて、ゆっくり話も出来なかった。
JJ:そうだね、あれは92年かな?添野館長達と食事にいく予定があったから。
K:川崎チッタの後はちょっと会えたかな。デイブにも、久しぶり!って言ったら、誰だっけ?って言われたよ。
JJ:デイブは誰も覚えてないよ。笑
Y:その渋谷と川崎はもうヒューが抜けた後ですね?
K:そうだね。いまだに覚えているのはヒューが脱退した時のNMEでJJが言ってるみたいな
感じでWhere are Hugh baby?って見出しで出てた記事。Y:それがこれですよ。加藤さんから私のオフィスにいきなりファックスで送られてきたNMEのページですよ。加藤さんHIPにいらしたでしょ?この少し前に何かのコンサートで私が窓口に行ったら、普段なら絶対いないであろう窓口になぜか加藤さんがいたの。
K:DMかPILかな?あの時はツアーを一緒に回ってたから。
Y:そうかもしれない。それで、わあ久しぶり!ということで連絡先を交換してたんですよね。で、後日この、会社となんの関係もない記事がいきなりオフィスのファックスからピーって出てきたの、ヒューが抜けたの知ってる?って。K:オフィスはまずいよね。爆笑
Y:ま、大丈夫でしたけどね。
K:この写真のJJの顔が悲しそうに見えてさ。
Y:お互いこれについては何も知らなかったんですよね。
K:しかし、話していると本当に少しずつ思い出してくるけど、多分本当はもっといろんなことがあったはずなんだよね。くだらないことしか思い出せない。
Y:ではその後数年ストラングラーズは来日しませんでしたが、その間はバンドから絵葉書とかもらって連絡はとっていたんですか?K:いや、してなかった。レコードはずっと買ってたけどね。
それでしばらく後、2000年くらいかな?に日本の雑誌にでてたJJのインタビューを知人が教えてくれて読んだら、最後にJJから、加藤どうしてる?っていうメッセージがあって、ああ、覚えていてくれてるんだ!って感動したね。
Y:その時には連絡したのですか?
K:いや、その時は連絡先が分からなくなってた。その後に東京ロッカーズのリハスタで撮った映画をDVDで出したいという話がきて、ストラングラーズの許諾が欲しいので、手伝ってくれないかという連絡があって、その時にJJのメールアドレスを誰かからもらったんだ。それでメールしたら返事が返ってきたね。
Y:私が2001のコンベンションで何年ぶりかでJJに会った時に、確か加藤さんからも連絡があって、日本のコネクションが戻ってきた、と言ってたようなきがしますけど。。。その後私が加藤さんにメールしてまた会えたのかなぁ。。。JJ、多分あなたがくれたのかな。。。
ところで、それまでの間は日本に何度か来ていましたか?
JJ:空手で来たことはあったね。あとはARBとキース関連で来た。
Y:その後2004年に6段の昇段試験、そしてアニメの巌窟王の仕事で来日しましたね。
K:そのアニメのこともユカちゃんから聞いたんだよね。
Y:その頃から加藤さんが再び関わり始めて日本でサマーソニック、パンクスプリング、ロフトでのソロアコースティックギグ等々がありましたね。
JJ:いつか覚えてないけどビリーアイドルと一緒にロフトに行ったことがあったよ!
K:それを覚えていないんだよね……。GXは東京で見たけど…。
Y:ところで、No Mercyのビデオに入っている、Ravenのバックドロップがあるステージのライブビデオが79年の日本のツアーからとられているらしいのですが、他に79年の2度のツアーから撮影されたものはありますか?
K:記憶にないなあ。。。昔の資料を見ると、どこかのテレビの中継が入っていたようなことが書いてあるけど…、ああ、FMラジオだね、これは。撮影は入ってなかったね。だから録画もないと思うけど。
Y:そうですか。 それでは、今のように来日ごとに会うような関係はここ10年くらいですか?
K:そうだね。NCが出たあとからだね。久しぶりに会ったときにJJが僕の顔見てにやっとして、日本での共同マネージメントできないか?って言われてね。それで復活したんだよね。
JJ:そうだったね。Suite XVIより前だったね。
K:昔の話を一つ思い出したんだけど、二度目のツアーの時にメンバー、クルー、そしてキースもいれてキングレコードのディナーをやることになったの。それでキースがいい店があるって、四谷三丁目の焼き肉屋に行った。ディナーの後店を出たら雨が降ってて、キースが「タクシーを止めてくる」って言って、紙袋にワインを1,2本入れたのを持ってタクシーを止めたんだ。でもその前に男三人、女一人がそのタクシーを止めていて、キースが「こっちが先だ」って言って男ともめ始めたんだよ。その時に雨で濡れたキースの紙袋が破けてワインが落ちて割れちゃって、キースが頭にきて喧嘩になっちゃった。俺も止めに入ったんだけど、半分参戦しててね、そうしたらJJ登場で、実際には殴らないんだけど寸止めみたいなことをやって一瞬でおさまった。でも四谷三丁目の交差点って警察署の前にあるんだよね、それでパトカーと警官が大勢来るのが見えて、これはヤバい、とにかく逃げろ!ってことで、ホテルわかるよね!?って言って、みんな裏道とかに入ったりしてバラバラで逃げたんだよ。それでホテルに戻って、全員いるな、よし大丈夫!って。
Y:こちらは全員で何人いたのですか?
K:キングレコードの人も何人かいたからね、結構いた。
Y:その人達は止めようとしたのですか?
K:その人達は何が起こってるのかわからなかったんじゃないかな。
Y:笑えますね。では、話は戻りますが、最近は仕事と関係なくても友達として来日の度に会っていますね?K:そうだね。マネージメントの話があってすぐ、Suite XVIリリースがあって、日本での新しい発売元を探したり。あと、歩いている時にEMI出版の知り合いに偶然あったら、”加藤さん昔ストラングラーズ担当してましたよね?”って言われたから、”最近また連絡とってるよ”と答えたの。そしたら”CMで使いたいから連絡を取ってくれないか?”ってことだった。それで日立WoooのCMに起用された。ドイツのレーベルが権利を持っていたライブ音源だったので、イギリスのマネージメントと連絡とって最終的には最新ラインナップの音源になった。
Y:あれは結構長く放映されていましたね。でもクレジットがでなかったんですよ。
K:そうなんだよね、芸能界の事情があってね。
Y:アニメ巌窟王からサマーソニックやWoooのCM、Suite XVIの日本リリースなど、日本関連が続けてありましたね。
K:そうだね、サマソニで本当に久しぶりにバンドとしてのライブを見られた。
Y:サウンドチェックの時に久しぶりにバンドとして日本で見て、二人でステージの端で涙ぐみましたよね。
K:そうそう、ジーンときてね!笑
Y:その後パンクスプリングでの来日でしたね。
K:そう。単独来日はまだ実現しないけどね。
Y:私たちSIS Japanも2人でできる限り努力を続けます。
それにしても本当にいろいろあったのですね。裏話など、貴重なお話が聞けて面白かったです!今日はどうもありがとうございました。
K:いえいえ、また何か思い出したら話しますね!
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とにかく笑いに満ちたインビューでした。インタビューの後、加藤さんは”ここ10年くらいはJJとは友人として来日するたびにカジュアルに会っているけれど、今回昔からの色々な話をして、あらためて彼は偉大な人だし、偉大なバンドだと思った。”とおっしゃっていました。
Yuka Takahashi
加藤さん、インタビュー及び資料提供どうもありがとうございます!!
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以下、続巻。
この企画は、加藤さんとYukaさんというバンドとの太いパイプがあるからこそ実現出来たものだと思います。加藤さんは日本で誰よりも先にストラングラーズを熱心に紹介してくださり、彼らがほかのパンクバンドに先駆けて来日を果たし数々の伝説を残すことになりました。また、SIS Japanが存在するのはYukaさんのおかげです。途切れない絆と友情に敬意を表すと共に、改めてお二人に感謝したいと思います。
また、この素晴らしい企画を発案してくださった、ストラングラーズオフィシャルのOwenさんに、心よりありがとうと申し上げます。
これを読んで、もう一度彼らのステージでの雄姿をこの日本で見たいという思いが湧きあがりました。
SIS Japan 管理人 丸木理恵子
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コメント
加藤さん、JJ、Yukaさん、Owenさん そして丸木さんに感謝です。これは面白い対談ですね、日立のCMのいきさつも聞けてよかったです。何度でも読み返したくなります。きょうは、お礼を言いにきました。本当にありがとうございます。また来ます!
投稿: kiyo | 2015年2月13日 (金) 21時49分
面白かった~。貴重なお話伺えてより親近感がわきました。ありがとうございました。次回はキースさん、楽しみぃ。
投稿: Meg H | 2015年2月14日 (土) 18時29分
貴重な懐かしいお話をたくさん読めて楽しかったです。
本当に懐かしく、読んでいてワクワクしてしまいました。
皆さんに感謝です。単独公演、実現したらいいなあ、と
心から思いました。
投稿: onchan | 2015年2月15日 (日) 17時52分
70年代後半、リアルタイムで経験してました。確か、初来日の衝撃、二度目の来日の名古屋市公会堂でも、ファンが花束を渡した?だったか?“BCRじゃないぜ”と言ってました。懐かしい思い出です。
その後、リザードも好きでしたし、なによりJJに影響されてベースをやり始め、憧れの京大西部講堂、新宿ロフトにもたてることができました。
今はサラリーマン生活ですが、35年経った未だベースは遊び程度ですが弾いてますし、ストラングラーズの新譜もネット購入してます。
是非単独来日して下さい。
必ず観に行きます。
今回のこの記事はものすごく興味深いものでした。
ありがとうございました。
投稿: chu | 2015年2月22日 (日) 11時42分