3.潜伏 (1)歪んだ朝

20XX年6月1日(土)

 雅之は、祐一と一緒に夜道を歩いていた。何処に向かっているのかわからないが、彼は祐一の歩く後を黙ってついて歩いた。すると、物陰から男達が数人現れて、二人を取り囲んだ。
「秋山雅之だな」
 男の一人が言った。
「祭木公園ホームレス殺害容疑で逮捕する」
 男はニヤニヤ笑いながら雅之に手錠をかけた。雅之は驚いて祐一を探した。しかし、いつの間にか祐一は居なくなっていた。気がつくと雅之は取り調べ室の机の前に座っていた。その前にはさっきの男が座っており、ライトを雅之の顔に当てた。眩しさに彼は顔をそむけた。
「5月31日の夜、お前はこの男を暴行して殺害した、そうだな」
 男は笑いながら、自分の後ろを指差していった。そこにはあのホームレスの死体が、あの時の格好のまま転がっていた。雅之は、驚いて立ち上がったが、後ろの男達に押さえつけられて、また席に座った。
「祐ちゃんは・・・、西原君はどこ?」
 雅之は不安になって聞いた。取調べの男は答えた。
「西原祐一な・・・、あいつはあそこで首ば括っとる」
 男は窓の方を指差した。窓の外には吊された祐一がぶらぶらと揺れていた。
「祐ちゃん!」
 雅之はまた立ち上がったが、再度男達に押さえつけられた。
「お前もすぐに後を追え!!」
 男達は雅之を指差して、げらげらと笑っている。刑事だと思っていた男達は、いつの間にかホームレスに変わっており、場所はあの公園に移動していた。雅之を囲んでげらげら笑い続ける男達の後ろで、死んだ男が起き上がった。口から黒い吐物を垂らしながら、ふらふら立ち上がり、ゆっくり雅之を指差した。
「ツギハ、オマエ、ダ」
 男はそう言うといっしょになってげらげら笑い出した。 

「うわぁっ!!」
 雅之は飛び起きた。眠れないと悶々としながら、いつの間にか眠っていたらしい。全身汗でびっしょりになっていた。目を覚ます直前に、宗教めいた荘厳だが気味の悪い歌が聞こえた。とにかく気味の悪い夢だった。雅之の良心の呵責から見た夢だったのだろうか。
 雅之は、起きあがるとバスルームに向かった。何となくフラフラして階段から落ちそうになる。洗面台で自分の顔を見ると、寝不足のせいかひどい顔をしている。熱いシャワーを浴びると、心なしかすっきりしてきた。(やっぱり、よく眠れなかったからかな)雅之は気を取り直した。昨日男に引掻かれた右手の甲の腫れは治まっていたが、傷口からかすかに血がにじんでいる。それで、部屋に帰って大きめの絆創膏を貼った。
 雅之は落ち着いたらあの夢が急に気になり、祐一のことが心配になり始めた。それで、メールを送ってみたが、返事が来ない。不安になって電話をしてみようと思ったところで返信が来た。返事は自分のことよりも、雅之の方を気遣うような内容だったが、どうやら彼は大丈夫なようだ。雅之は安心した。安心すると少しお腹が空いてきた。そう言えば昨夜からろくなものを口にしていない。その上何度も嘔吐している。雅之は何か飲もうとキッチンに向かった。そこでは母親の美千代がいつものように朝食を作っていた。
「まーちゃん、おはよう。気分は大丈夫なの?顔色がすごく悪いわよ」
 美千代はは雅之の顔を見るなり言った。
「あまり寝られんかったけん・・・」
「あらまあ・・・、大丈夫? ごはん食べれる?」
「うん・・・、おなかは空いとるし」
「ちょっと待って、すぐに出来るから」
 美千代はいそいそと支度を始めた。

 正直、味はどうでも良かった。とにかく食べられるだけ食べたが、やはり食は進まない。それでも2/3ほど無理矢理腹に詰め込み雅之は席を立った。
「あら、いつもならおかわりするのに、本当に大丈夫なの?」
 美千代が心配そうに言った。
「うん・・・」と、力無く雅之が答える。
「今日も学校でしょ? 休んだほうがいいんじゃないの?」
「うん・・・。でも補習とかあるし・・・」
 それに・・・、オレが学校に行った方が都合がいいんやろ。そう言いそうになって雅之は思わず言葉を飲み込んだ。

 さっさと支度をすませ、雅之は家を出た。よい天気で空も青く、空気は爽やかで心地よい朝だ。太陽が眩しい。だが、雅之がその太陽を見た時、眼の奥がかすかにズキンと痛んだ。寝不足のせいだと思った。今日は早く帰って早く寝よう。雅之は思ったが、果たしてゆっくり眠れるかどうか一抹の不安を感じていた。しかし、あのホームレスを殺してしまったことが、永遠に彼から平穏な眠りを奪ってしまったことに彼はまだ気がついていなかった。

 美千代は、いつものように朝の掃除に余念がなかった。一階の掃除はすでに終わらせ、二階の雅之の部屋に来ていた。そこは、男の子の部屋にしては、かなりきちんと片付いている。雅之はかなり几帳面な性格だった。しかし、そのせいで、美千代の目にあるものが目に付いた。それは、無造作に丸めて屑篭に捨ててあるものだった。美千代はそれを拾い上げて広げてみた。それは、汚れた制服のシャツだった。
「もう、あの子ったら・・・。制服のシャツだって安くないのに・・・」
 美千代はため息をついた。しかし、妙な汚れだった。どす黒い汚れが点々とついている。中には少し大きめの染みもあった。
「いったい何で汚したのかしら・・・? 血・・・じゃあないわよねえ・・・」
 そういいながら、なんだか家で洗うのが気持ち悪くなってきた。それに今日は出かける予定がある。
「そうだ」美千代は独り言を続けた。「お義母さんに洗ってもらおう!」
 美千代は、歩いて15分位のところに住んでいる夫の母親を思い出した。二人は近くに住んでいるのに滅多に会うことをしなかった。特に、夫が単身赴任で大阪に行ってからは盆正月くらいにしか会わないんじゃないかというほどに疎遠になっていた。たまには役に立ってもらわないと・・・。美千代は、いい人を思い出したことに満足した。その時、「エブリシング」のメロディが鳴り響いた。美千代の携帯電話の着信音だった。はっとして彼女はエプロンのポケットから携帯電話を取り出してメールを確認した。彼女はにっこりと笑っていそいそと返事を書き始めた。その間、彼女の癖だろうか、ずっと左手の親指のツメを噛んでいた。

 30分後、すっかりおめかしをした美千代が家を出て行った。

 雅之の祖母、珠江は、紙袋に入ったシャツを手に、ぼんやりと窓の外を見ていた。そこには、たった今シャツの洗濯を頼むだけの用件でやってきた、嫁の後姿があった。夫が単身赴任中だというのに、あの派手な格好はなんだろう。美千代も珠江もお互いを嫌っていた。同居は断固として美千代が認めなかった。それは珠江の夫が亡くなって、一人残された時ですらそうだった。珠江も気兼ねしてまで一緒に住もうという気にはならなかった。
 珠江は、袋からシャツを出して広げてみた。なんか汚い染みがたくさんついている。それに、なんとなく生臭い臭いがした。いったい雅之は何をやってこんなに汚したんだろう。珠江は思った。何か悪いことに関わってなければいいのだけれども。
「全部、あの嫁のせいだ」
 珠江は吐き捨てるように言った。
 雅之は子どもの頃はとても素直で良い子だった。今だって、なんとなく斜に構えており悪ぶっているけれど、本当は優しい子なのだと珠江は思っていた。小学校の頃の雅之は、母親がここに来ることにいい顔をしないので頻繁ではないが、たまに顔を見せに来た。その時は、少し家に上がって何をするでもなく珠江の傍に座って少しテレビを見て、帰っていった。彼が中学になってからは、ますます足が遠のいたが、この前、珠江が友人から感染されたインフルエンザで寝込んだ時、やはり様子を見に来て、玄関に果物やらジュースやら置いて行った。あの時は、本当に苦しかったのに、息子も嫁も見舞いにすら来なかったが、雅之だけが心配して様子を見に来てくれたのだ。。
「ううっ・・・」
 珠代は思い出すと情けなくなって涙が出てきた。そのまま涙が止まらなくなってしまい、目頭を手で押さえた。仕方がないので落ち着くまでキッチンの椅子に座っておくことにした。数分後、ようやく気持ちが落ち着いた珠江は、立ち上がると、風呂場まで行ってバケツに水を入れ、さらに、しこたま漂白剤を入れると、最後に預かったシャツを入れた。他の洗濯物と一緒に洗うのは気持ちわるかったので、別洗いをすることにしたが、こうすれば、多少汚いものでも消毒されるだろう。
「さて・・・っと」
 珠江は気を取り直しベランダの戸をあけた。明るい日差しと爽やかな風が心地よい。
「洗濯ものが良く乾くやろうねえ」
 彼女はそうつぶやくと、ぐうっと背伸びをした。
「さっさと洗濯と掃除を終わらせて、あとはゆっくりすることにしよう」
 そう言うと、珠江は家事の続きに戻っていった。

 明るい空、日差しを受けて輝く新緑、申し分ない朝だった。誰もこれから起きる恐ろしい事態など想像もしていなかった。しかし、水面下では確実になにかが広がろうとしていた。そしてそれは、その災厄の大元を作った人間達でさえ予想だにしていなかったのである。

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3.潜伏 (2)関わり

 洗濯と掃除を終えた珠江は、居間でくつろいでいた。預かったシャツは、なんとかシミも落ち真っ白になって他の洗濯物と一緒に風に吹かれている。この分ではすぐに乾くだろう。あとは、アイロンをピシッとかければ、ほぼ新品のようになるに違いない。
「あの嫁じゃこうはいかんやろうけんね」
 とつぶやき、珠江は満足した。そろそろお昼も近づいている。珠江は食事の支度に席を立った。支度と言っても昨夜の残りを温めるだけだ。こういう時は気楽な一人暮らしであった。準備が出来上がってテレビをつけたところ、お昼のニュースのローカル版が始まっていた。K市の公園でホームレスの集団不審死が発見されたらしい。
「いややね。こんな事件ばっかり・・・」
 食事中に見たいものではないと、珠江はチャンネルを変えた。

 由利子は、猫たちのごはんクレクレ攻撃にあって目が覚めた。時計を見ると昼の12時近かった。由利子は慌てて飛び起きた。休みとはいえ、寝過ぎだ。
 あれから部屋にたどり着いたのは午前四時をまわっていた。カラオケ屋では、しまいには半分眠ったような状態だった。そろそろ帰らなければと爆睡していた美葉を起こすと、寝ぼけた美葉が彼氏と間違えて抱きついてきた。ちょうどその時、様子を見に来た店員が入って来たが、「す・すみません!!」と、驚いて出て行った。精算をする時のバツの悪さと言ったら・・・。由利子は思い出しただけで赤面してしまった。
(だいたい、私の家の近くにあるカラオケ屋だぞ。2度と行けなくなっちゃったじゃないか。それ以前に妙なウワサが立ったらどうすんだ!ったく・・・)
 それでも由利子は、美葉に自分の部屋に泊ることを提案したが、彼女は愛犬が待っているからと、タクシーに乗って帰っていった。

 寝すぎと深酒のせいで少し頭が重かった。由利子はもう一回ゴロンとベッドに転がり、仰向けになって背伸びをした。その端から猫たちが腹の上に乗ってきて、口々にニャーニャー文句を言った。由利子は30秒ほど転がっていたが、すぐにむっくりと上半身を起こした。乗っていた猫が転がって膝の辺りまで落ち、またまた文句を言う。
「あ~~~、わかったわかった、すぐにご飯にするから。その前にシャワー浴びさせて」
 由利子は猫たちに言い聞かせると、まず、窓のカーテンを開けた。部屋がパアッと明るくなった。ついで窓を開ける。すでに初夏を感じさせる陽光とまだ冷たさの残る風が部屋に入ってきた。眩しさに眼を細めながら深呼吸する。彼女は幸いにも花粉症は患っていない。
 すばらしい良い天気だ。しまった、こういう日は早起きして洗濯などをするべきなのに・・・。由利子は後悔した。明日もこんな天気かしら。
 よどんだ空気を入れ替えるために部屋の窓を開けたままシャワーを浴びることにする。なに、ここは4階だから、曲者の入ってくることはあるまい。ただ、猫たちが脱走しないように、網戸だけはしっかり閉めておいた。
 シャワーを終え、スッキリさっぱりしたところで、猫たちにご飯を作り始めた。テレビは普段からつけっぱなしの時が多い。やはりひとりだと寂しいからだ。テレビをつけてないときはお気に入りの曲をランダムにかけっぱなしている。どうも、何か音がないと暮らせなくなってしまった。長年の1人暮らしゆえの癖である。そういうわけで、今日も起きた時からテレビはつけっぱなしだった。12時のニュースが始まった。由利子はニュースは必ずチェックするようにしているので、今も、猫たちのご飯の用意をしながら時々テレビに眼を向けていた。猫たちが足にまとわりついたり離れたりして、早くくれと大騒ぎしている。
「いてててて・・・!」
 待ちきれなくなったはるさめ(猫の名前)に足をかじられたのだ。彼女は甘えモードが高じると飼い主を甘咬みする癖があるが、こういうときはちょっとだけ本気を入れて咬んでくる。
「痛てぇよ、はるちゃん、もうちょっと待て! それはあんたのごはんじゃないぞ」
 少し怒って言うと、はるさめは足元に座って「ニャアッ!」っと短く怒ったように鳴いた。にゃにゃ子のほうは「ニャニャ、ニャニャ」と鳴きながら、部屋をぐるぐる回っている。彼女はいつもこうだ。大騒動の末、猫たちにようやくご飯を与え、立ち上がり、テレビの方を確認した。すると、どこかで見たような場所が映っていた。なんとなくデジャビュを感じて急いでテレビの前に座る。

 見たことがあると思ったらK市にある祭木公園だった。由利子の通勤エリアではないが、お花見やお祭りの時、たまに行ったことがあった。そこで数人のホームレスらしい遺体が見つかったらしい。公園の周囲には黄色い立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。昨夜9時ごろ、その公園に男が倒れているとの通報を受け、急行した警官が、通報どおり倒れている男を見つけたが、男はすでに心肺停止状態だったらしい。その後、周囲を捜索した結果、公園傍のホームレスの「住居」で残り3人の遺体を発見したという。なお、最初に発見された、公園で倒れていた男には暴行の跡があるということで、何らかの事件に巻き込まれたものと見て捜査しているらしい。
 由利子の脳裏に否応なく昨日の少年の顔が浮かんだ。いや、まさか・・・。由利子は否定した。単なるホームレスの仲間割れの可能性だってある。だって、ニュースでは暴行の跡は公園内で死んでいた男にしかなかったと言っているじゃないか。しかし、2度目に少年に会った時間帯といい、彼らの様子といい、思い出すごとに疑惑が持ち上がっていく。しかし、いきまいていたとはいえ、あのそんなに体格がいいとは思えない少年に、いくらホームレスとはいえ、暴行死させることが出来るだろうか。それに、そうと仮定して、残りの3人は何故死んでしまったのか。仮に友だちのあのイケメン君が共犯だったとして、大の男を4人も殺すなんて考えられない。それも、現情報ではだが、残りの3人には外傷の跡がないらしいのだ。だけどもし、少年達がもっと大勢だったら・・・。

 由利子は考えるのをやめた。そんなあやふやなことで警察に連絡するのもはばかれたし、第一、妙な事件には関わりたくなかった。それに、いい加減自分の昼食も作らねばならない。由利子の切り替えは早かった。そうだ、昼食はトマトとひき肉とたまねぎを入れたオムレツにしよう! 添え物の野菜は冷蔵庫にある夏野菜を適当にゆでたものがいい。それにトーストにカフェ・オ・レ、デザートはこの間買った大粒マンゴーヨーグルトだ! そう思ったら急におなかが空いてきた。由利子はさっさと行動に移した。

 由利子がお笑いクイズ番組の再放送を見ながら昼食を摂っていると、美葉からメールが入った。電話をしていいかというお伺いのメールだった。それで、今食事中だから、30分くらい後なら大丈夫だよ、と返事をしておいた。
 ちょうど食べ終わって食器を流しに下げた頃、美葉から電話がはいった。ほぼ30分経っている。時間に正確だということは、よっぽど大事な用があるんだろう。ひょっとしたらさっきのニュースのことかもしれないと由利子は思った。
「もしもし、美葉? どうしたの? ニュース見た?」
「ニュース? 何かあったっけ?」
 由利子は、簡単に事件の内容を説明した。美葉はようやく思い出して言った。
「ああ、あのニュースね。昨日のサイレンの音はあれやったっちゃねって、私もちょっとビックリしたけど、考えすぎだよぉ、由利ちゃんってば。でも4人も死んどったなんておどろいたねえ」
「なんだ、てっきりその件で電話してきたのかと思ったけど」
 由利子は拍子抜けした。
「ごめん、ちがうっちゃん。あのね、彼のことどうしようかと今日起きてからずっと考えとって、それで、とりあえず話し合おうと思って電話したったいね、そしたら、全然電話に出んと・・・。メールしても返事がないし、今までこんなことなかったから、何かあったっちゃないかって」
「連絡取れんのなら、ちょうどいいやん。美葉も電話番号とか変えて、これですっぱり縁を切っちゃえ!」
「もう、由利ちゃんってば、ドライやねえ・・・。それが出来たら苦労はせんって」
「そりゃそうよねえ・・・」
「それに、番号変えたって彼は私の部屋を知っとうとよ。でも引越しする余裕なんかなかもん」
「そりゃそうやね。だったらどうしたいの、美葉は?」
「・・・・・。どうしたらいいかわからんけん、電話しよったいね」
 確かにそうである。
「そうやねえ・・・。シビアやろうけど、あっちから連絡があるまで放置しとくべきやね。っていうか、連絡がつかんならそれしかないし。だけど、連絡があっても会わないほうがいい。話はすべて電話で済ませること。いいね」
「・・・・・」
「会ったら、また情が湧くやろ?聞こえとお?」
「・・・・・うん、わかった・・・。シビアに対応する。あっちから連絡あったらまた電話するけん、また相談に乗ってね!」
「もちろん。遠慮なく電話してきてちょ」
「うん、ありがとう。じゃ、ね」
「じゃあね。がんばって!」
 思ったよりあっさりと電話が切れたので、由利子は再度拍子抜けした。しかし、その短い間にどっと疲れて、そのままリビングの床に寝転びながらつぶやいた。
「あいつ・・・、あまり大丈夫じゃなさそうだな」
 ふうっとため息をつく。男女間の関係なんてそう簡単に割り切れるものじゃない。由利子は心の中でなにかもやもやした不安を感じていた。しかし、これ以上自分にはなにもすることは出来ない。要は美葉にどれだけ精神力があるかどうかだが、それはあまり期待できそうになかった。
「日がもう少し落ちたら、散歩でもしようかなあ・・・」
 由利子は寝ころんだまま、窓の外をぼ~っと見ながらつぶやいた。嫌になるほど良い天気だった。

 夕方、日が落ちかけた頃、由利子は散歩兼買い物から帰って来た。両手にいっぱいの買い物をしている。散歩後の、思い切り空腹状態でスーパーに寄ってしまったせいであった。色々なものが美味そうに思えて、つい買いすぎてしまう、これが「空腹時に食料品売り場に寄ると買いすぎる法則」である。
 テレビをつけると夕方のニュースが始まっており、またしても昼のニュースで見た、例の事件が放映されているところだった。
「忘れていたのに・・・」
 由利子は荷物を放り出し、頭を抱えてベッドに座り込んだ。さらに、そのニュースは全国版に昇格して流れていたのである。

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3.潜伏 (3)水面下

 由利子はそのままどさっと寝っ転がり、ベッドに大の字になった。その状態でしばらく天井を睨んで何か考えていたが、不意に起きあがった。そして、勢いよく椅子に座りなおすと机に向かい、パソコンを立ち上げた。気分転換にメールとブログのチェックをしようと思い立ったからだ。
 メールの方は、ほとんどメールマガジンとスパムだった。まったく何もメールが来ないのは寂しいのでメルマガも「枯れ木も山の賑わい」だが、スパムはうざったいだけだ。迷惑メールは振り分けるように設定しているのだが、それでも何通かはセキュリティーをかいくぐって入ってくる。
「バイアグラなんていらんっつーの! 日本語で送ってみろってんだ、腐れスパマー!」
 由利子は英文スパムに恒例の文句を言いながら受信拒否の設定をした。それでも英文なら意味がストレートに通じないから良い。腹が立つのはタイトルから不愉快な言葉を並べ立てる日本語のスパムだ。それにしても、スパム送信者はネット人口の半分は女性であるという認識がないに違いない。一連の迷惑メール撃退作業を終えたら次にブログのチェックだ。いくつかコメントがついていた。各コメントをチェックしていた由利子は、あるコメントを見て、少し眉間にしわを寄せて言った。
「こいつ、また来てるよ」
 それは、何時ぞやのインフル完治報告エントリーを書いた時、謎のメッセージを残していた『アレクさん大王』なる人物だった。彼(彼女)はあれ以来よくコメントを残すようになったが、大概は意味不明の妙な文章だった。最初は割と普通だったのだけど。なんとなく鬱陶しくなった由利子は、とうとう彼(彼女)に投稿規制をくらわせることにした。
「そ~れ、投稿規制フラッシュ! くっふっふ、ざま~みれ!」
 由利子は更新をクリックしながらパソコンの画面に向かって愉快そうに言ったが、猫たちがモニターの両サイドに狛犬よろしく座って、不思議そうに彼女を見ていることに気がついた。なんとなくばつの悪さを感じて苦笑いした。
「さ~て、晩ごはん作ろ! 今夜は豚肉のしょうが焼きとサトイモの煮っ転がしだぞぉ」
 由利子は2匹の猫の頭を両手でかいぐりかいぐり撫でながらそう言うと、立ち上がってキッチンに向かった。その後を猫たちが追う。彼女らも晩御飯が欲しいらしい。まあキッチンとはいえ、1Kのいわゆるマンションとは名ばかりのアパートだから大きさもたかが知れているのだけれども。
 キッチンに入ると、冷蔵庫の前にスーパーで買ってきたものが、袋に入ったまま放置されているのが目に入った。
「しまった! すっかり忘れていた!」
 由利子は慌てて中身をしまいはじめた。帰るなり放り出したのをすっかり忘れていたのだ。由利子には珍しいことだった。

  

 雅之は異様な倦怠感に襲われて早めに床についていた。何もする気がしない。そのくせなかなか寝付けなかった。そのため、ベッドの中で丸くなりながら、今日のことを徒然に思い出していた。

 学校から帰ると、案の定母親の美千代は居なかった。夕方には帰るという走り書きを残していた。しかし、雅之は内心ホッとしていた。最近どうも母親の顔を見るとイライラする。特に今日は。
 美千代の様子がおかしくなったのは半年くらい前だ。どうも浮ついた雰囲気で、時々ぼーっとしている。父親は単身赴任で3年前から大阪に住んでいる。仕事が忙しいのと旅費節約のため、家に帰って来るのは月1土日を利用して帰ってくるのがせいぜいだった。そのせいで、最近両親の仲がしっくりしておらず、3人家族の筈なのに、雅之は深い孤独を感じていた。
 美千代は書き置き通り夕方、しかし、すっかり日が落ちてから帰って来た。手にはデパートの袋を下げている。その中には、デパ地下の惣菜が詰まっていた。
「ゴメンねえ・・・、つい話し込んじゃって。遅くなったからお総菜で我慢してね」
 と言いながら、美千代は居間でテレビを見ている雅之の横にすわり、惣菜を広げ始めた。彼女が座った時に、かすかに煙草の臭いがした。雅之は尋ねた。
「喫煙席におったと? 母さん煙草吸わんけんいつも禁煙席におるやん」
 美千代は少し驚いたようだが、とりたてて何もなかったかのように言った。
「うん、喫煙席しか空いてなかったの。友だちがとにかく座りたいっていうもんだから、仕方なく空いている席に座ったのよ。ほんとにもう、最近煙草吸う人減ってるんだから、もっと禁煙席を作るべきよね」
 美千代は東京生まれで、プライドも高く、F市に住んで長いのに絶対に方言は使わなかった。多分一生どころか死んでも使わないだろう。
「中華のバイキングやってたの。まーちゃんの好きな福樂飯店のよ。だから、たくさん買ってきちゃった」
 美千代は嬉々として戦利品を広げていたが、雅之はその臭いを嗅いでウッとなってしまった。母親が心配するので何とか胃袋に押し込んだが、せっかくのご馳走なのにまったく美味しいと感じなかった。ひょっとすると昨日の事件のせいかもしれない。そう言えば・・・。

 今日は、昨日の事もあって祐一と一緒に帰ったのだが、祐一が腹が減ったというのでハンバーガー屋に寄ったのだ。しかし、雅之は自分に食欲がまったくないことに気がついた。それまでは特に気分が悪いとは感じなかったが、店に入った途端臭いで気持ち悪くなってしまった。それで、祐一に店内ではなく、テイクアウトして外で食べようと提案したのだった。

「あのさ・・・」
 駅ビルと近くの商業ビルをつなぐ人工地盤にある広場のベンチで、ハンバーガーを食べ終わると祐一が言った。
「今日、ヨシオが来とらんかったやろ? 電話したら、朝から熱を出したらしい。お前は大丈夫か?」
「うん・・・」
 下を向いたまま雅之は答えた。本当は自信がなかったのだが。それを聞いて、祐一は少し安心したらしい。
「そうやな。昨日のあれじゃ、気分が悪くなってもしゃあないな。ヨシオは気が弱いしなあ。オレも眠れなかったもんなあ・・・。実はほとんど寝とらんっちゃんね・・・。やけん、今日は休みたかったっちゃけどな。ったくもー、公立やったら休みなのになあ」
 といった後、祐一はしばらく考えていたが、意を決したように言った。
「昨日のアレな、・・・やっぱ、警察に行って事情を話すべきやと思う・・・」
 雅之は、半分ほど食べたハンバーガーを持て余し、冷たいコーラを少しずつ飲んでいたが、ぎょっとして祐一を見た。
「雅之、な、今から駅前の交番に行かないか? オレと一緒に事情を話しに行こうや。オレな、さっき職員室に行った時見たニュースで昨日の件やっとって、結局あそこで4人死んどったらしい。このままやったら4人ともオレらのせいにされてしまう。・・・それにオレな、あのオッサンが死んだのは雅之のせいやないと思う。アレはやっぱ何かの病気やったって・・・」
「待てよ、祐ちゃん!」
 雅之は祐一の言葉を遮って言った。
「嫌だよ、例えそうでもオレがオッサンに怪我させたのは事実やろ、結局オレは捕まるっちゃろ?」
 祐一は黙っていた。何か言いたいけれど言葉が見つからないようだった。
「祐ちゃん、祐ちゃんはオレの味方をしてくれるって思うとったのに!」
 雅之は立ち上がって叫んだ。
「味方だよ! だから・・・」
「もう、オレに構わんでくれ! さよなら!」
 そういうと雅之は祐一の元を立ち去った。祐一は驚いて立ち上がったが、後は追って来なかった。ただ、立ち尽くしたまま雅之の方を見ていた・・・。

「祐ちゃんがあんなこと言うなんて・・・」
 雅之はゴロンと寝返りをうって反対向きになりまた丸くなった。胎児のような寝方だった。あのあと、祐一からの連絡は何もない。
(オレ、これからどうなるのかな・・・)
 漠然とした不安が雅之を襲った。とにかく無理やりでも寝よう。しかし、彼には電気を消すのが恐かった。消すと「あれ」が出てきそうで怖かったのだ。それで、雅之は布団を被って目をぎゅっとつぶった。精神的にかなり参っていたのだろう、しばらくして雅之は深い眠りの谷に落ちて行った。

20XX年6月2日(日)

 翌朝、日曜なのに雅之はいつも通りの時間に目が覚めた。早く寝たせいか、昨夜感じた倦怠感はすっかりなくなっていた。ただ、何度も嫌な夢を見たが、眠りが深かったせいかよく思い出せなかった。
 昨日は何もせずに寝たので、今日は朝のうちに宿題をすませておこうと起き上がり、窓を開けた。今日は昨日に比べると薄雲っていたが、それでも雅之は目の奥に痛みを感じて目を押さえた。良く寝たのに変だなと思ったが、きっと起きてすぐだからだろうと自分を納得させた。

 由利子は、寝る前に予定した通り8時におきて鼻歌交じりに窓を開けたが、外を見てがっくりした。昨日はあんなに快晴だったのに、薄曇で空がかすんでいる。ニュースでは大陸から大量の黄砂が飛んできていると伝えていた。
「あああ、洗濯・・・」
 やっぱり昨日しとけばよかったと後悔したが、後の祭りだった。室内干になる可能性もあったが、仕方なく洗濯機に汚れ物を放り込んだ。

 さて、その日の昼下がり。

「オー!」
 F市内にある、とある大学の研究室で、パソコン画面の前で1人の大男が大袈裟に額に手を当てて言った。歳の頃は40代前半、白衣の下に黒いハーレー・ダヴィッドソンのTシャツを着て、年代物、すなわち、色あせたボロボロのブルージーンズを履いている。さらに足元を見ると裸足でサンダルを履いていた。肩より少し長い濃い目の金髪をひっつめて後ろに束ねている。黒い細縁のメガネの下に見える眼はグレーがかった緑色で、日に焼けてはいるが、その容貌はどう見てもアングロサクソン系である。だが、彼は流暢な日本語で言った。
「参りましたね、投稿禁止にされてます」
「教授ってば、またそのブログで遊んでいたんですの?」
 教授と呼ばれた男の横で書類整理をしていた女性が言った。細身で日本的な、なかなかの美人だ。年の頃は20代後半、艶のあるまっすぐな黒髪を軽く後ろで束ね、短めのペパーミントグリーンのTシャツに、黒のスキニージーンズと黒いローヒールのパンプスを履いている。
「教授は話すほうの日本語は90点以上ですが、書くほうはからっきしですから。最初はどうしてもコメントを書きたいからって、私が代筆しましたでしょ? 教授の妙な作文でコメントされ続けたら、そりゃあ投稿規制もしたくなるでしょうね」
 件の教授は座ったまま椅子をくるりと回転させ、彼女の方を向くと言った。
「相変わらずキビシイですねえ。それから何度も言いマスけど、教授なんて堅苦しい呼び方やめて、『アレク』ってもっとフレンドリーに呼んでくれませんか?」

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3.潜伏 (4)プロフェッサー

「フレンドリーに? ですが、わたくしは教授の秘書ですから、そういうわけにはまいりません。わたくしの美学に反しますわ」
 と、美人秘書は淡々と書類整理を続けながらクールに答えた。
「んー、『アレク』が嫌なら、『プロフェッサー・ギル』でもいいですケド」
 教授は足を組み、机に片肘を載せ頬杖をつきながら、面白そうに彼女を見つめて言った。
「もう、いったいどこでそんなネタを・・・」
 秘書はため息をつきながら言った。
「わかりましたわ、アレクサンダー・ライアン・ギルフォード。それより、午後から研究室のメンバーが集まって資料作成をする予定でしょう? 急いで準備しないと間に合いませんわよ」
「Oh!サヤさん、フルネームはやめてクダサイ。なんだか怒られた様な気がします!」
 予想外の答えに、ギルフォードは肩をすくめて言った。
「そりゃあ、怒られてるんだと思うぜ、ギルフォード先生」
 急に研究室の入り口あたりで男の声がして、ギルフォードは驚いて立ち上がった。立ち上がると身長は優に180センチを超えている。紗弥の資料整理する手が止まり、直後に一瞬右手だけがピクリと動いたが、相手の顔を確認すると、にっこり笑って言った。
「あら、長沼間さんでしたのね」
「あ~、驚かしてすまん! さっきからあそこに立って一応ノックはしてたんだけどな。ドアは閉めておいた方がいいぜ」
 と、入り口を指さしながら中年男性が入って来た。黒の背広を着て手には分厚い書類を持っている。背は170センチ半ばくらい、痩せ形だが筋肉質で、かなり身体を鍛えているようだ。髪は整髪料で軽く後ろに流してセットしているが、一房程前髪が額に垂れており、濃いめのサングラスをかけている。顔は長めでさらに鼻の下が若干長いのが特徴的だった。
「オー、ナガヌマさん! 日曜なのにご苦労様です」
「まあ、職業柄俺には曜日はあまり関係ないけどな」
「僕らも似た様なものです。しかし、相変わらずMEN IN BLACKみたいな格好ですねえ。あ、M町の資料持って来られたんですか。PDFファイルなんだからメールで良かったのに」
「近くに用があったからついでだ。それに、この頃官庁のネットワークも信用ならなくてな。例のソーセージみたいな名前のアレのせいだ」
「官庁のデータ流出は、必ずしもファイル共有ソフトだけのせいじゃないんですケドね」
 長沼間のぼやきに、ギルフォードは軽くウインクして言った。
「それを言われると恥ずかしいよ、先生。ま、これも平和ボケってヤツだな」
「それはともかく、資料どうもありがとうございマシタ。プリントアウトの手間も省けます。最近個人情報保護法とやらで、なかなかカルテも集めにくくて・・・」
「ただし、これも結構な箇所がマジックで塗りつぶされてるからな、どこまで役に立つかわからないぞ」
「そうですか。公安警察のあなたでもこれが限界ですか。まあ、だいたいの場所と家族構成等がわかればなんとか・・・」
「犯罪と結びついていることならば、もっと正確な情報が手に入るんだが」
 と、長沼間は少し悔しそうに言った。
「資料、お預かりしますわ」
 資料を持ったままギルフォードと話し込む長沼間にしびれをきらしたのか、紗弥が声をかけた。
「おっと、すまないねぇ、姐(ねえ)さん」
「鷹峰紗弥ですわ。そろそろ覚えてくださいね」
 紗弥の顔は、にこやかに笑っていたが、言葉にはかすかだが明らかにトゲを含んでいた。
「わたくしはこのカルテのコピーを地域別に分類しておきます。研究生が来るまでもう少し時間がありますから、お二方はごゆっくりなさっていてください」
 というと、彼女は別室に消えていった。
「恐いな」
 長沼間はこっそりギルフォードに耳打ちすると、ギルフォードも小声で答える。
「恐いです。この研究室の影のドンですから」
 うんうん、と長沼間がうなづき二人はぶははと笑った。

「とりあえず、そこら辺に座っていてください」
 ギルフォードに促され、長沼間は彼の近くの机に陣取った。
「チョット待ってて」
 と言いながらギルフォードが出て行くと、手持ち無沙汰になった長沼間は、ギルフォード研究室、通称ギル研の中を見回した。しかし、すでに何度か足を運んでいる長沼間には、さして珍しいものは無かった。しかし、ギルフォードのパソコンに開いたままになっているサイトを見て、少し驚いた様子だった。しばらくすると、ギルフォードがコーヒーを運んできた。
「あ~、先生直々に申し訳ない」
 と言いながら、長沼間はコーヒーを口に運んだが、小さい声で「あち」と言って机に置き続けて言った。
「猫舌なんだ。もう少ししていただくよ。ところで・・・」
 長沼はギルフォードのパソコン画面を指さして言った。
「このホームページ・・・ブログっていうんだっけ、いつも見てるのか?」
「ええ、最近。M町のインフルエンザについて検索していて、ヒットしたブログです。ここの管理人さんもあれに罹って大変な目にあわれたようですけど」
「なるほど」
「それで、毎日立ち寄るようになりました。日本での妙齢のご婦人の会社における微妙な立場とかわかって面白いですよ」
 長沼間は目の前の外国人が『妙齢のご婦人』とか『微妙な立場』とか言うのを聞いて、改めて妙な感じがした。ただし、『妙齢』については、使用法が違うと思ったが。少なくとも30代の女性に使う言葉ではない。多分『微妙な年齢』と言いたかったんだろう。
(それにしても・・・)
 長沼間は思った。
(イギリス人の教授が、30代独身OLのブログウォッチを日課にしてるという図ってのも相当アヤシイもんだな。おまけにこいつは・・・)
「ひょっとして、ナガヌマさんもこれをご存知だったんですか?」
 と、ギルフォードは長沼間が黙っているので我慢できずに質問した。
「あ・・・? ああ」
 長沼間は我に返って言った。
「実はな、俺が今追っている男がいるんだが、そいつの愛人と接触した女性がいたんで、彼女についても色々調査したんだ。その女性が作ったブログということで、一応チェックしたというわけだ」
「はあ、関係者と接触しただけで、ブログまで探られるんですか・・・。恐いトコロですねえ」
「疑わしきは全部疑え、が基本だからな。だが、件の男とはまったく無関係だった」
「そりゃそうでしょうねえ。・・・あ、と言うことは・・・」
 ギルフォードはワクワクして言った。
「ナガヌマさんは、彼女との連絡方法を知ってるんですよね!」
「直接連絡したことはないが、しようと思えば出来るだろうな」
「実は、是非彼女と連絡を取りたいと思ってたんですケド・・・」
「却下」
 長沼間は速攻で答えた。
「捜査上の個人情報を無関係の人間に漏らすワケにはいかんだろう?職権乱用だ」
「ケチ」
「ケチ・・・って、あのね、協力できるところは充分してるだろう?」
「今、半分は情報を漏らしたくせに」
「・・・」
 痛いところを突かれ、長沼間は一瞬絶句した。こいつと話していると調子が狂う・・・。
「わかった。機会があったら教えることにする。たとえば、彼女が君の近くにいるとかね」
 そういうと、長沼間はコーヒーを飲み干した。すでにぬるくなっていた。
「確率低そうですねぇ・・・」
 ギルフォードはぼやいてコーヒーをすすったが、すぐに顔をしかめて言った。
「しまった、砂糖を入れ忘れてマシタ!」
「砂糖を入れるのか???」
 長沼間は驚いて言った。ギルフォードは、うえ~という顔をしながら答えた。
「僕はイギリス人ですから、コーヒーはどうも・・・」
(なら、飲むなよ・・・!)
 長沼間は心の中でツッコミを入れた。

「ところで、M町のインフルエンザになんで興味を持ったんだ? これがあんたの専門とどう関係するんだ?」
「そうですね、これは、かなり局地的なインフルエンザの流行でした。だから、学生達にもアウトブレイク(感染爆発)時に感染源を特定する訓練になると思って、感染経路を調べ始めたんです。すると、妙なことに気づきました」
「妙?」
「なんか、感染の仕方が食中毒に似てるんですよ。と言っても何かに中ったという意味ではありませんよ。最初の感染が、ある保育園に限定されていたんです。そこの園児が4月も終わろうかという頃、いっせいにインフルエンザを発症したんです。まるで誰かがヴァイラ・・・ウイルスを撒いたみたいに」
「意図的に誰かが保育園にウイルスをばら撒いたってか? いったい何のメリットがあるっていうんだ?」
「いえ、今の段階ではなんともいえません。だからあなたにもっと多くの資料をお願いしたのです。可能性としては、生き残りのウイルスがたまたま遅れた流行を起こしただけ、というほうが合理的です。僕にもそんなことをする理由がわかりませんね、特撮の悪役じゃないんですから・・・。目的があるとすれば・・・」
 ギルフォードはそこで言葉を止めた。
「あるとすれば?」
 と、長沼間。
「世界征服?」
「おい!」
「ジョークですヨ、ジョーク。いちおうウイルスの分析をしてもらうため、CDC(米国疾病予防管理センター)に送ってますけど」
「CDC? アレクサンダー、君ならフォート・デトリックの方かと思ってたが?」
 長沼間がそう言うと、ギルフォードの笑顔が一瞬固まった。しかし、すぐに悪戯っぽくにやりと笑って言った。
「こういうときはCDCと相場が決まってますでしょ。でも、結果はいつになるかわかりませんね。新型のA型H1N1騒ぎもほぼ終息しましたし、トリインフルエンザとかならまだしも、季節性のA型インフルエンザじゃあ僕がいくら変だと言って「知り合いに頼んでも、どうしても後回しにされてしまうでしょうから。――ところで・・・」
 ギルフォードは立ち上がりながら言った。
「そろそろ学生が集まって来たようなので、こちらの作業を始めたいのですが・・・」
「あ、ああ・・・」
 気がつくと入り口に学生が数名、入っていいものか悩んで立っていた。
「おっと、オレもあまり油を売っているわけにはイカンな」
 長沼間も立ち上がった。
「じゃあな、また何かあったら言ってくれ」
 と言うと、長沼間はさっさと研究室を出て行った。
「今の、どなたですか?」
 と、やっと入室できた学生たちの1人が興味津々で尋ねた。
「僕の授業の優秀な聴講生だよ。今日使う資料を持ってきてくれたんです」
「あ、そうですか」
 学生は少し安心して言うと、頭を掻きながら自分の席に向かい小声で言った。
「僕はまた、てっきり先生の・・・」
 その直後、ドアがいきなり開いたので彼は飛び上がった。長沼間が引き返してきたのだ。
「あ、伝言があったのを忘れてたよ、アレクサンダー。K大の勝山先生が、あす司法解剖するのに気になることがあるから、立ち会ってくれってさ。例のK市の異常死体の件」
 そういうと、長沼間は今度こそ帰って行った。
「解剖?」「司法解剖だって」「すげ、先生。本格的やん」
 学生達がざわついた。しかし、ギルフォードは少しお冠で言った。
「解剖って・・・。何も伝言じゃなくたって電話してくれればい~じゃん」
「教授が電話じゃいい返事をなさらないからでしょう?」
 と、いつの間にか別室から出てきた紗弥が言った。
「解剖・・・、苦手なんですよね・・・」
 ギルフォードは憂鬱そうに額に手を当て、首をゆっくり振りながら言った。

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3.潜伏 (5)家族の絆

 さて、当の由利子は、自分が全く知らないところで話題にされているなんて露ほども思わず、部屋で悶々としていた。結局洗濯物は部屋干しにした。中国の黄砂なんて、一体何が混ざっているかわからないので気持ち悪くって、とてもベランダに干すなんて出来ないと思ったからだ。昨日はあんなに青空が広がって気持ちよかったのに、今日は景色が嫌な色に霞んでいる。
(乾燥機を買った方がいいのかも)
冬季以外はちゃぶ台代わりの炬燵に頬杖をついて、ぼんやりテレビを見ながらそう思った。猫たちはベッドの上で、思い思いの格好をして寝ている。
「おまえたちは悩みが無くていいねえ・・・」
由利子は手近にいたはるさめの頭を軽くポンポンと叩きながら言った。はるさめはうざったそうに薄目を開け、起き出して体の向きを変えながら再び寝転がった。
 由利子が悩んでいたのは、もちろん洗濯物のことではない。例のホームレス殺害事件のことが、どうにも頭から離れないのだ。関係ない、有り得ない、忘れよう・・・と思えば思うほど気になってしまうのだ。
「あ"あ"あ"~~~、もう!」
由利子は、両手を伸ばした状態で炬燵のテーブルに突っ伏し、そのまましばらく動かなかった。どうやら落ち込んでいるらしい。にゃにゃ子がむくっと起き出してベッドから降り、由利子の背中を登りはじめた。彼女は人の背中が大好きなのだ。しかし、今回調子づいた彼女はそのまま頭まで登っていき、髪の毛で滑って由利子の左側にころりんと落ちてしまった。由利子がそれに気づいて顔をそちらに向けると、ころりんとなった状態のにゃにゃ子がきょとんとして飼い主を見ていた。由利子は吹き出した。
「あはははは・・・、おまえはホントに悩みがないねえ」
そういうと、大きくため息をついたが、吹っ切れたように立ち上がり電話に向かった。日はすでにだいぶ傾いていた。

 雅之は、午後から再び倦怠感に襲われて横になっていた。昼食を食べた頃は、特に何ともなかったのだが、3時を過ぎた頃から急に気分が悪くなりはじめたのだ。右手の例の傷口は腫れは引いたが治る気配がなく、絆創膏には血が滲んでいた。雅之はその手を見ながら、(やっぱりばい菌が入ったのかなあ)と思った。彼は、今一人きりだった。母親は昼食後、ちょっと用があるからと家を出て行ってしまったのだ。「夕方には帰るからね」彼女はそういうと、いそいそと出て行った。
 時間が経つに連れだんだん熱が上がってきたらしく、ひどい頭痛と寒気がし始めた。そのくせ大量の汗が出る。さらに手足の関節まで痛みはじめた。急速に容態が悪くなっているのが自分でも判る。
「母さん・・・」雅之は不安そうにつぶやいた。「早く帰ってきて・・・」
雅之は母を呼んだ。無理もない。日頃悪ぶっていても、まだ15歳にも満たない少年なのだ。外はもう日が落ちかかり、徐々に薄暗くなっていった。雅之はさっきからひどい吐き気に襲われていた。しかし、トイレまで起きるのも辛いので、ずっと我慢をしていたが、限界だった。雅之は意を決して起きあがり、薄暗い中を壁や手摺りを伝い、よろけながらトイレまでたどりつき、そこで、昼食べた物を全部吐いてしまった。何故かほとんど消化していない。その上もうほとんど胃の中が空なのに吐き気が止らない。
「母さん、なんで帰ってきてくれんと・・・・」雅之はうめくように言った。彼はしばらく便器を抱えてうずくまっていたが、数十分後少し楽になったので、部屋に帰ることにした。とにかく起きているのが辛かった。トイレを出て自室への階段を上ろうとしたが、2・3段上ったところで意識が朦朧としてきた。雅之は手摺りに寄りかかって、何とかして自室に戻ろうとしたが、とうとう力尽きて階段の途中で倒れ、そのまま動かなくなった。

「祐一! ごはん出来たけん、さっさと部屋から出て来んね!」
ドアが軽くノックされて開き、母親が顔を覗かせて言った。
「あ、ゴメン、すぐに行くけん」
祐一は言った。彼はさっきから携帯電話を手にしてずっと考え事をしていた。何度もメールの内容を書き直しつつやっと書いた文章の量は、30字程度だったが、さらにそのメールを出そうかどうしようかと悩んでいたのだ。母親に呼ばれたので、彼はメールを下書きに保存し、電話を机の上において部屋を出た。居間に行くとまだ誰もテーブルには就いていなかった。
「何や、誰も来とらんやん」祐一は母親に言った。
「あんた、いつもなかなか来んけん先に呼んだと!」
と、母は笑いながら言った。
「うわ! 騙された!」
祐一は言った。母親はさらに笑った。
「あ、オレそれ運ぶわ」
祐一は母親が料理を盛った皿を運ぼうとしたのを見て言った。運びながら祐一は唐突に訊いた。
「かーさんさ、オレが警察に捕まったら困るよね」
母の動作が一瞬止ったが、すぐに笑いながら言った。
「何ば言いよっとね、あんたは! あんたが悪そうをするはずなかろうもん。この真面目一徹君が!」
(かーさんが思ってるほど真面目じゃないよ、オレ・・・)
祐一は思ったが、あんまり笑われるので口には出さなかった。

 食事が終わって、祐一はまた部屋に戻ろうとしたら、妹の香菜が驚いて言った。
「あれぇ? おにいちゃん、今からおにいちゃんの大好きなアニメがあるやろ? 見んと?」
「あ・・・、ああ、すぐに来るよ。 ちょっと部屋に用があるけん」
「うん! すぐに来てよ、一緒に見よ! ジュースとお菓子持って行っとくけんね!」
香菜は、食卓の椅子からぴょこんと飛び降りると、冷蔵庫に向かった。母があきれ顔で言った。
「こん子はも~、今食べたばっかりなのに・・・」
「食べ盛りやからなあ、二人とも」と、父親が発泡酒を飲みながら言った。
「オレもたまにゃあビールが飲みたかばってん・・・」
「我慢して下さいよ。食べ盛りの子どもたちのせいで食費がかさむんだから」
やぶ蛇であった。
 祐一は部屋に戻るとまた携帯電話を手に取りメールを開いた。電気もつけず椅子にも座らず、立ったまま、文章を何度も読み直した。

明日朝、K駅前の交番に行く。雅之も来てくれ。待っとるから。

「あんたが悪そうをするわけなかろうもん」と言う母の笑い顔が浮かんだ。
(かあさん、ごめん)祐一の顔が歪んだ。(オレ、やっぱりこのままにはしておられんけん・・・)
部屋の外で妹の呼ぶ声がした。
「おにいちゃん、始まっちゃうよぉ~」
「ああ~、すぐ行くけん! ちょぉ待っとけ」
祐一は意を決して「送信」を押した。無事に送信できたのを確認して部屋を出ると、香菜が待っていた。
「どうしたん? 何か辛そうだよ?」
と言いながら、兄に手をさしのべる。その手を掴みながら祐一は言った。
「気のせいやろ? 早くテレビ見に行こ! もうオープニング始まっとるやん」
「もぉ! おにいちゃんが遅くなったんやろ~もん」
「あははは・・・」
祐一は笑った。二人は手をつないで居間に向かった。妹の手の温かさがいつにも増して伝わってきた。祐一の顔がまた少し歪んだ。
 しかし、雅之がそのメールを見ることはなかった。主のいない部屋で、携帯電話の着信音が空しく響いていた。

 「雅之! 雅之! 大丈夫か?」
雅之は自分を呼ぶ声に目を開けた。目の前には大阪にいる筈の父親の信之がいた。
「父さん、帰って来たん?」
雅之は、今いる筈のない父親を目前にして、状況が把握できないまま、しかし、ほっとして言った。
「明日、こっちで緊急に会議があるけん帰って来たんや。そしたらお前が倒れとった。母さんは?」
「昼頃出かけていった。夕方には帰るって」
「病気のお前を放ってや!?」
「違うよ、その頃はオレ全然大丈夫で・・・」
そこまで言って雅之は口ごもった。本当にオレはそれまで何ともなかったんやろうか・・・?
「とにかく病院に行こう! ちょっと待っとれ」
信之はすぐに毛布を持ってくると、雅之を包んで抱きかかえ、そのまま玄関に向かった。そこに何も知らない美千代が帰ってきて鉢合せをした。
「あ・・・あなた」想定外の夫の帰還と状況を目の当たりにして、手に持った荷物がどさりと落ちた。
「おまえは! 息子がこげな状態になるまで気が付かんかったとや?」
信之が大声で怒鳴った。
「父さんやめて! オレ本当に昼間は何ともなかったっちゃん」
雅之が必死で弁解した。
「とにかく今から病院に連れて行く」
「あ、私も一緒に・・・」
「おまえは家に居れ。階段に雅之の吐いたもんが残っとるけん掃除しとってくれ。何かあったら電話するけん」
信之は雅之を抱いたままそういうと、美千代には目もくれず玄関を出た。雅之を車の後部席に乗せ、「吐きそうになったらこれにな」とコンビニ袋を持たせた。運転席に乗り込み、
「山田先生に診てもらえるかどうか訊いてみるから、ちょっと待っとれよ」
というと、かかりつけの医師に電話をかけ始めたが電話はなかなか繋がらない。
「日曜の夜やけんなあ、無理かなあ」
信之がつぶやいたところでようやく電話が繋がった。
「時間外それも日曜にすみません。息子が高熱で倒れまして・・・、・・・はい。・・・・・・。そうです、急に・・・。・・・・・。・・・はい、わかりました。どうもありがとうございます!」
「雅之、先生はいないそうやけど、大先生が診てくれるって。良かったな! 行くぞ!」
信之は車を発進させた。「山田医院なら5分くらいで着く! もう少しの辛抱やからな!」
「ん・・・」雅之は力なく答えた。全身の関節がたまらなく痛い。皮膚もピリピリしてきた。多分熱は40度近くあるだろう。おまけに喉もだんだん痛くなってきた。何度か吐きそうになりながら、雅之は耐えた。車に悪臭が漂うともっと気分が悪くなりそうだったからだが、父親にも気兼ねをしていた。
「雅之・・・。母さんはいつもああやっておまえを置いて出て行くとや?」
雅之は答えなかった。
「あのな、雅之・・・。なんぼ仕事言うたって何年もおまえを放っておいて悪かった。すまん。来年には帰ってこれるように申請しとるけん・・・」
「父さん・・・」
「とりあえずは、おまえの病気が治ったら、母さんと3人でどこか旅行でもしような。おれも久しぶりにこっちの温泉でゆっくりしたいし」
「うん・・・、うん・・・」雅之はなんどもうなづきながら、心の中で叫んでいた。
(ごめん、父さん、もう遅いんだ! オレ、犯罪者になってしまった・・・。ヒトゴロシなんだよ!)
そう思うと涙がポロポロこぼれてきた。後部席で息子が泣いているのに気がついた信之は、雅之が泣くほど苦しいのだと判断した。
「雅之、もう少しやけん、がんばれよ!」
そういいながら、信之はアクセルを踏んだ。

 山田医院に着くや否や、父は雅之を抱えて病院に飛び込んだ。すでに、大先生こと山田正造は診療が出来るように準備をして待っていた。

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3.潜伏 (6)山田医院

 小柄な雅之は父親に抱かれたまま、診察室に通された。どうやら医院に出てきたのは大(おお)先生だけのようだった。
「すまんねえ、今日は休みだから看護婦はおらんとよ」
と、大先生は椅子に座りながら冗談っぽく言った。さらに、
「残念やねえ。うちの看護婦は美人ばっかりなんやけど。」
と付け加えると、ふぉっふぉっと笑った。大柄で太り気味で、頭はほとんど禿げ上がってしまっているが、その分白い口ひげを蓄えている。一見怖そうだが細い金縁メガネの奥の目は優しそうだった。
「雅之君はキツそうやね。診察台に寝かせてやんなさい」
信之は、言われるままに息子を診察台に寝かせた。
「熱を測ってみようかね。かなり高熱みたいだねえ」大先生は体温計を信之に渡しながら言った。
「あ、脇の下じゃ汗で正確な体温が測れんかもしれんから、口にくわえてな。大丈夫、ちゃんと消毒はしてあるから」
雅之は父から体温計を受け取ると素直に口にくわえた。それは昔からある水銀を使ったものだった。
「信之君、そんなところに立っとらんでこの椅子に座りんしゃい」
大先生は信之に診察用の椅子に座るように勧めた。信之が座ると大先生が質問をした。
「いつからこうなったとね?」
「あの、実は・・・今日の夕方僕が家に帰ったら、雅之が倒れてまして・・・」と、信之は言いにくそうに答えた。
「倒れていた?」大先生が驚いて信之の顔を覗き込む。
「はい、お恥ずかしい話ですが。ですから、わたしには何が何だかさっぱり・・・」
「そういえば、君は今大阪に単身赴任しとるんやったな」
「はあ。そしてたまたま今日、妻も午後から出かけていて、その間に具合が悪くなったらしいとです」
信之はばつの悪そうに言った。
「まあ、急に発熱することは珍しくなかけんね・・・おっと、3分過ぎた」
大先生は立ち上がり、雅之から体温計を受け取ると驚いて言った。
「39度2分! こりゃあ、なんらかの感染症やね、熱が高すぎる。どこか化膿しとらんね?」
雅之は首を振りながら、そうっと右手を隠した。
「最近、何か生き物に触れたとか引っ掻かれたとか、海外旅行に行ったとか、山でダニに刺されたとか心当たりはないね?」
「ないです。動物あんまり好きじゃないし、山とか嫌いだし、旅行も今学校で行けないし」
雅之は答えた。
「ちょっと診察するけど、起き上がれるかね?」
大先生が言うと、雅之はうなづいて身体を起こそうとした。信之が背中を支える。
「あ、降りんでよかよか。そのまま診察台に腰掛けて」
大先生は、雅之の方にガラガラと椅子ごと移動した。
「喉の様子を見よう。お口開けて・・・。う~~~ん、妙に赤くなっとるねえ。はい、もうよかよ」
そういうと、大先生はそのまま雅之の首の方を触って診た。
「おや?リンパ腺が腫れかかっとるね・・・」
大先生は少し首をかしげると、聴診器を当てて胸の様子を診、
「雑音もしないし、今のところ特に異常はないようだね」と言ったあと改めて問診を始めた。
「熱はいつ頃から出始めたね?」
「あの・・・、お昼過ぎて、3時頃から気分が悪くなって・・・腰や手足の関節が痛くなって、頭も痛くて、それからすごい吐き気がして・・・」
「熱が高いからねえ。その前に何か思い当たるようなことや症状はなかったね?」
「ないです」
そう答えたが、もちろん雅之には心当たりがあった。しかし、それを言うには犯罪を告白するのに等しかったし、それ以上にあの男の死に様を思い出し、自分もそうなるのではないかと思うと、二重の意味で怖かった。
「うーん、ひょっとしたらインフルエンザかも知れんけどね、ちょっと今キットの在庫を切らしとおとよ。今日は日曜で設備も充分に動いてないからね、明日になっても容態がかんばしくなかったら、必ず来なさい。今日は脱水症状を起こしとるようやから、とにかく点滴をしようね。解熱剤と吐き気止めも入れとこう。かなり楽になると思うよ。あと、飲み薬でも解熱剤を出しておくから、熱が下がらないようなら飲ませて。ひょっとしたら40度越すかもしれん。熱があるほうが病原体にとっては厳しい環境なんやけど、40℃を越えると人体にも厳しい状態になるけんね」
大先生がそう言ったとき、ドアが開いて彼の息子である院長の山田昭雄が入って来た。まだ若い。今帰ったばかりらしくまだカバンを持っていた。
「お父さん、また勝手に病院を開けて! 僕のいない間に勝手をするなって言っているでしょ!」
「おや昭雄、帰って来たんか。急患がうちを頼って来たんやから、診るのは当たり前やろ。それより、診察室に入るなら、着替えてきちっと手を洗って白衣を着て来なさい」
「わかったわかった、後は僕がするから。すぐに着替えてくる」
逆に怒られてしまった昭雄は、そういうと診察室から出て行った。
「まったく、あいつは基本がなっとらん。あたらしい機材や技術ばっかりに気をとられて、大事なことを忘れとる」
大先生は腕を組み、口をへの字にしながら言った。

 雅之は左手に点滴を受けながら、ぼうっと病院の天井を見つめていた。
 その数分前のこと、院長自らが点滴の注射針を刺したのだが、「あれ?・・・変だな・・・」と独り言を言いながら手間取った挙句、うっかり自分の指を刺しかかり、大先生からまたダメ出しを食らっていた。
「看護士ばかりに任せとるけん、腕が落ちっとたい。非常事態に備えて何でも1人で出来るように日ごろから訓練ばしとかんといかん!」
院長は、秋山親子に肩をすくめながら言った。
「親父は僕にここを任せて、あちこちの国に医療協力で出かけてますからね、こういうことには厳しいんですよ。僕なんていつまでもヒヨッコで・・・」

 傍らに座った父親は、暇つぶしに医院においてあった週刊誌を読んでいる。雅之もだんだん退屈になってきて、信之の読んでいる週刊誌の表紙を見るとはなしに見た。今話題の女優がにこやかに笑っている表紙には、殺人現場のレポートやUFO目撃談、中央アフリカでの疫病感染爆発の写真つきレポートから政治家のスキャンダルまで、いかにも人目を引きそうなセンセーショナルな見出しが躍っていた。と、いきなり静かな診察室に『笑点』のテーマが鳴り響いた。信之の携帯電話着信メロディだった。
「うわぁ、しまった! 病院にいるのに電源を切ってなかったよ! いかんねえ・・・」
信之はあせって電話を背広のポケットから取り出したが、曲はすぐに途切れた。メールだったらしい。
「父さん、その着メロ変だよ」
雅之はクスクス笑いながら言った。
「ようやく笑ったなあ、雅之。少しは気分の良うなったごとあるねえ」信之は、そう言いながらメールを確認する。
「お母さんからや。おまえの容態を気にしとぉよ。ちょっと電話で報告して来るけん、外に出てくる。すぐに戻ってくるけんね」
信之はそう言うと、小走りで診察室から出て行った。
 信之が電話を終え帰って来た頃には、ほとんど雅之の点滴は終わっていた。
「母さんは何て?」雅之はすぐに尋ねた。
「点滴したら、だいぶ落ち着いたようだって伝えたら安心しとった。気づかないでごめんね、って謝っとったよ」
父親がそう言い終わった時、院長が入ってきた。
「ああ、点滴終わったね。針を抜くから、もうちょっと我慢してて」
そういうと、雅之の左腕をとり、針を抜きその跡に絆創膏を貼った。
「あれ? ちょっと内出血してしまったね。ごめんね」
「大丈夫です。オレ血管が細いけん、よくこういうことがあっとです」
「気分はどう?」
「だいぶいいです」
「そう、よかったね」昭雄は雅之にそういうと、信之に向かって言った。
「熱が高いですから、食欲はないと思うし無理して食べても内臓が受け付けないでしょうから、雅之君が食べたがらない時は無理強いしないで、今は安静に寝かせておいてあげてください。脱水症状に気をつけて、時折スポーツ飲料を飲ませて。半分番茶で割ったものがいいですよ。念のため、10分ほどそのままそこで安静にしておいてください。その後、お薬を出しますから、待合室で待っていてください。」

 10分後、雅之は父親に支えられながら自分で歩いて待合室に向かい、椅子に座っていた。受付の窓口では、信之が清算をしている。
「吐き気止めと解熱剤、いずれも雅之君の様子を見て飲ませてください。続けて飲ませるときは間を必ず6時間空けてください。抗生剤はウイルスには効かないので様子をみましょう。症状が改善しない時はまた明日来てください。万一症状が急変した場合、すぐに病院に運んで」
「わかりました。どうもありがとうございます」
「では、お大事に」
信之は軽く会釈すると、雅之の方に向かって言った。
「ちょっとおまえの履きもんを持って来るけん、待っときなさい」
信之はすぐに戻ってきた。院長は病院の玄関先まで見送りに来て言った。
「雅之君、さっきの点滴のとこ見せて」
雅之は左手を昭雄の前に伸ばしたが、右手はしっかりとポケット中に入れていた。昭雄は雅之の無礼をとがめることもなく彼の腕に目をやった。雅之の注射跡の周りはすでに青く染まっていた。
「やっぱり、血管からちょっと血が漏れちゃったかな、ゴメンね」
院長が言うと信之は恐縮して言った。
「そんな・・・、こちらの方こそ、時間外に押しかけて申し訳なかったです。診て頂いて本当にありがとうございます」
信之は深々と頭を下げた。
「いやいや、礼なら親父に言ってください。僕はいなかったし、居てもきっと断ったでしょうから」
院長は頭を掻きながら言った。 
「じゃ、雅之君、お大事にね」
秋山親子は、再びお辞儀をすると病院を出て行った。遠ざかる車のテールランプを見ながら昭雄は考えていた。(親父には怒られたけど、僕は技術的にはそんなに劣ってないつもりだった。それが、あんなに内出血するなんて・・・。それに、針を刺す時なんか様子が変だった。まるで高齢者のもろい血管に刺しているような・・・)昭雄はそこまで考えて思い直した。多分、発熱と嘔吐で脱水症状が進んでいたせいだろう。そう思うと少しは気が楽になり、玄関を施錠しシャッターを下ろした。最後に待合室の電気を消したところで、昭雄はいきなりふうっと溜息をついてつぶやいた。
「親父に知れたらまた大目玉を食らうな・・・」

 家に帰ると、雅之のベッドには氷枕が用意されていた。雅之はパジャマに着替えるとすぐに横になった。その傍に母親が座って「ごめんね、ごめんね」と言いながら盛んに雅之の頭をなでていた。点滴で楽になったせいか、雅之はすぐに眠りに落ちた。次に目を覚ました時は夜12時近かった。下で両親が話しているのが聞こえる。時折母親がヒステリックに叫び、父親がなだめる声がした。それを夢うつつに聞きながら悲しい思いで再び眠りに落ちたが、熟睡しなかったのか、夜中に時折父母が交代で様子を見に来ているらしいことがぼんやりとわかった。しかし、時折雅之の部屋の隅に見える人影は父でも母でもないような気がした。様子を見に来る両親の肩越しにその男の顔が垣間見え、雅之はその夢うつつに現れる男の正体がわかった。あの公園の男だった。
(オレを連れにきたのか?)
雅之は思ったが、もうどうすることも出来なかった。身体も意識も、もはや麻痺状態に近かった。雅之は男の顔をぼんやりと見つめながら、再び浅い眠りに入った。

(「第三章 潜伏」 終わり)

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