2.急転 (1)そして彼はため息をつく

 その後の調査で、葛西たちが重症者優先で屋根裏部屋に飛び込んだためスルーした二階の部屋からも、半ば腐敗した数体の遺体が発見された。葛西が遠くから感知していた臭いはそこから発生したものだった。その屋敷が『ルビー』の『魔窟』になっていたことは間違いなさそうだった。
 間の悪いことにその遺体を発見したのは青木だった。彼は凹む気持ちを奮い立たせ完全防備に着替え屋内捜索に当たったのだが、その時最初に開けたのが件の死体の部屋だったのだ。
 予期しなかった酷い遺体に遭遇した彼は、悲鳴を上げてドアを背に座り込んでしまった。その拍子にドアが閉まり、青木は完全にパニックに陥ってしまった。葛西が駆けつけすぐに青木を引っ張り出したが、葛西がその時一瞬目にした遺体は残暑の高温で既に膨張をし始めており、彼ですら目をそむけたくなるシロモノだった。
 完全に出鼻をくじかれた上に酷い遺体を目の当たりにした青木のパニックは収まらず、葛西と共に早瀬から撤収を命じられてしまった。屋敷中に悪臭が充満していたために、葛西にも他に遺体があることを予測できなかった。よろける足取りで己が不甲斐なさを謝り続ける青木を支えながら、葛西は自分の思慮の足らなさを悔いた。

 だが、そこまで時間のたった遺体にもかかわらず、例の蟲たちが寄ってきた気配がないのは不思議だった。屋根裏にはそろそろ集まり始めていたのに。その謎はすぐに解けた。屋敷から例の虫よけのボトルが大量に見つかったからだ。その場にいた何者かが撒いたのだろう。おそらく感染リスクのない、恐ろしく冷静で冷酷な誰かが……。末端バイヤーの紀ではなく、テロリスト側の人間の可能性が高いと思われた。葛西は自分たちが現着する前にまんまと逃げおおせた、『マキさん』と呼ばれた女性が該当するのではないかと調書に記した。さらに、虫よけを撒いた理由は、おそらく集団発生からアジトが発覚するのを避けたためと思われると付け加えた。
 達人少年の証言から、ウイルスはV-シード(ルビー)に元から仕込まれていたわけではなく、マキという女性が後から混入した、あるいは混入済みのV-シードを入れたと考えられた。ということは、結城以外にもウイルスを持ち歩いている者がいるということになる。いずれにしろそんなものが市場に出回った場合大変なことになる。SV捜査班はV-シード拡散の捜査に尽力することとなった。
 しかし、どんなに捜査しても紀から末端まではたどりつくが、やはりその上層には杳としてたどりつけなかった。しかも、タスクフォース縮小に伴い捜査員も減っており、現場からは不満の声が上がり始めていた。

20XX年9月30日(月)

「僕たち、しばらく部屋のベッドで寝ていないですよね」
 青木が首をコキコキと左右に傾けながら言った。葛西は苦笑いをしながら答えた。
「そうだね」
 それを耳にした富田林が檄を飛ばした。
「何を軟弱なことを言っとるッ! 青木、葛西までなんだ!? 警察官なら家に帰れない日が続いたことは今までもあっただろうが!!」
「でも、いつもと違ってこんな、なんだかわからない雲をつかむような捜査は初めてで、なんていうか五里霧中どころか百里先まで霧の中みたいな……」
 青木が少し不服そうに言った。
「霧はいつか晴れる。泣き言をいうな」
 富田林はそう言い捨てると足音を鳴らして去って行った。葛西はため息をつきながら言った。
「ああいうところはいつもの富田林さんなんだけどなあ」
「あ、そういえばあの人、H駅爆破事件で相棒を……」
「そうなんだ。二人とも真っ先に被害者救出に向かったのに、増岡さんだけが感染して亡くなってしまったんだ。富田林さんもしばらく隔離されてて、発症することなく退院できたんだけど、あれ以来、なんか近寄り難くなっちゃって。周りが気を使いすぎているのかもしれないけど」
「まあ、気を使いますよね」
「ところで、青木君は大丈夫なのかい? 少し痩せたみたいだけど」
 葛西は、元気そうに振舞う青木を心配して聞いた。
「大丈夫です。直後は食欲が全くなくて病院にも行きましたが、今はほぼ本調子です」
「ほぼ?」
「実は、まだ焼肉の類や一部の発酵食品が食べれなくて。でも、睡眠導入剤を飲んだら夜は眠れますし」
「って、それまだ……」
「大丈夫です。だって、葛西さんもそれを乗り越えたんでしょう。なら僕だって。なので、落ち着いたら今度焼肉に行きましょう」
 と、青木が笑顔で言ったが、
「そんな死亡フラグみたいなこと言わないでくれよ」
 と、葛西の心配は募るばかりだった。

「はあ……」
 由利子を送る車の中で、葛西がため息をついた。それを見て由利子が怪訝そうに尋ねた。
「どうしたん? 盛大な溜息をついて」
「僕の不注意で、青木が精神的に参っているようで……」
 そう言うと、葛西は由利子に事情を話した。由利子は少し表情を曇らせて言った。
「そっか、アレ見ちゃったか」
「しかも、けっこう強烈なやつだったんです」
「そりゃぁ、キッツイな。でも……」
 由利子は笑顔を浮かべながら、真剣な目をして言った。
「葛西君、後輩君が可愛いんだね。だったら信じてあげなよ」
「そうは思うんですが」
「意外と過保護なんだねえ、君」
「僕、過保護ですか?」
「うん。でもさ、ほんの数か月前はさ、葛西君って虫にビビったり遺体見て卒倒しかかったり食欲無くして十秒飯で過ごしたりしてたろ?」
 黒歴史を言われて葛西は焦り気味で言った。
「ちょ、蒸し返さないでくださいよっ。って、なんで知ってるんですか」
「内緒♡」
 と言いながらギルフォードを真似てウインクをした。
「だからさ、それから考えても葛西君だって短期間で随分と成長したじゃない。今はとても頼もしいよ。青木君だって覚悟して警察官になったんだよ。きっと乗り越えるって」
「そうは思うのですが……」
「青木君、もう葛西君の有能な部下だと思うよ。もっと頼ってあげなって」  
「そ、そうですよね」
 そう答えながら、葛西は少し嬉しそうだった。部下を有能と褒められたからか自分を頼もしいと言われたからか、おそらく両方だろう。それで勇気が出たのか、葛西はこの後なりゆきで思い切った行動に出る。

 葛西はいつものように由利子を部屋まで送ると、自然な流れで玄関まで迎えに出た猫たちをしゃがんで撫でた。猫たちもすっかり懐いてしまい、若い方のはるさめは、はっちゃけて葛西の頭にまで登ってしまった。
「こら、はるさめ、葛西君の髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃうよ」
 と、由利子が焦ってはるさめを抱き上げた。
 離しても離しても葛西にまとわりつく二匹に業を煮やした由利子は、二匹を抱えてケージに一時撤収させた。
「あーあ、今日の歓迎はいつも以上だったね。葛西君毛だらけやん」
 由利子は葛西の服の毛をコロコロで取りながら、ふふっと笑って言った。
「二匹とも、すっかり葛西君になついちゃったね。最初の頃からは考えられないよ」
「まあ、送迎を始めてから何か月か経つし、最近はアレクが忙しいので、ほとんど僕が由利子さんを送ってますからね」
「葛西君の猫の扱いもだいぶ板についてきたみたいだし」
「はるさめちゃん、僕を見たらぷーぷー言ってましたからね」
「この子の威嚇って、『シャーッ』じゃなくて『ぷー』だからね。迫力ないったら」
「その後は『やんのかステップ』でお迎えに昇格しましたし」
「あれ、昇格だったのかい。まあ、いまではすっかり慣れちゃったわけだし。あ、今日はちょっと早いし、上がってお茶でも飲んで行く?」
 由利子が珍しく部屋に上がるように誘った。愛猫たちの歓迎に気を良くしたからかもしれない。
「え? でも」
「どうしたん? 滅多にこんなこと言わないよ」
「そうですね。初めて言われたような気がします」
「そうだよ、アレクにも言ったことないんだから。この前お茶出したのは、そうだね、富田林さんと増岡さんが聞き込みに来た時以来かなあ」
 そう言った後、少し遠い目をして言った。
「ほんの四か月ほど前なのに……。増岡さん、もういないんだよね……って、ごめん、こんなこと言ったら余計上がりにくくなるよね」
「そんなことがあったんですね」
「うん」由利子はくすくす笑いながら言った。「ひとしきり話を聞いたら、ふたりとも嬉しそうに猫を愛でて帰って行ったんだよ。増岡さんなんて嬉々として写真も撮ってた。おまえら猫見に来たのかと」
「……」
 葛西が無言になったので、彼の方をよく見ると目いっぱいに涙を浮かべていた。由利子は靴箱の上に置いてあるティッシュケースを差し出しながら言った。
「もう、涙もろいところは相変わらずなんだから」
「ゆ、由利子さんだって」
 ティッシュで涙を拭いながら、葛西が言った。気が付くと自分も左目から涙がこぼれていた。由利子は自分も涙を拭きながら言った。
「K署で初めて会った時もこんなことあったよね」 
「デジャブ感ありますね」
 自然と二人の口から笑いが漏れた。泣笑いだった。
 ひとしきり泣笑いをして、落ち着いたころ由利子言った。
「なんか、いつまでも玄関にいると変だよ。緑茶と紅茶、どっちがいい?」
「すみません、今日は帰ります。上がったら本格的に泣いて帰れなくなってしまいそうで……」
「そっか。ごめんよ、水を差すようなこと言っちゃって」
「いえ、むしろ増岡さんの意外なところを知れてよかったです」
「だったらいいけど……」
「ではまた明日!」
 葛西はそう言って背を向けドアノブに手をかけようとしたが、その手をぐっと握って由利子の方に向き直り、まっすぐに見て言った。
「唐突ですが、ずっと言いたかったことがあります」

 葛西が帰ったあと、由利子はさっさとキッチンに入り電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。そのあとやや手荒に椅子を引いてどさっと座ると、テーブルにつっぶした。
「あのバカ、いきなり何を言い出すんだよ……」
 いつもと少し様子が違う飼い主に、にゃにゃ子は足元に座って不思議そうに首を傾げ、はるさめはおかまいなく盛んに足にじゃれつき膝に上がろうとした。

 その頃、美葉はF市郊外にある場末の宿に居た。結城の逃亡資金も底をついてきたのだろうか、そこは昔の所謂連れ込み宿だったが、今は外国人のバックパッカーや訳ありの労働者などが宿泊するような場所だった。
 ここで二・三日潜伏してから市内のアジトに向かう、と結城は言い、夜には帰ると出かけて行った。くれぐれも逃げるなと釘を刺して。もちろん、美葉には逃げる選択肢はなかった。結城が怖かったからではない。逃げる時はあの、おぞましいロケットペンダントを奪ってからだと決めていたからだ。それが結城への一番の復讐になるだろう。さらに、美葉は逃げる希望を持ち始めていた。
 それは、以前アパートの2階に住んでいた時のことだった。
 美葉は毎日のように窓を開けて外を眺めていた。結城がいる時はレースのカーテン越しに、いない時はカーテンを開けて空と雲を眺めていた。
 ある日、ふと下の方を見ると、狭い道路のアパートから遠い方の歩道に男が立っていた。男は美葉のいる窓の方を見上げていた。その顔に美葉は見覚えがあった。確認しようとそっとカーテンを開けた。やはり知った顔だった。
 それは、美葉が結城に誘拐される前まで彼女を見張っていた警察官の一人だった。美葉の脳裏に当時のことが蘇った。数か月前のことなのに、ずいぶんと前だったような、ついこの間のことだったような不思議な感覚に襲われた。美葉が自分を確認したことが判ったのか、男は美葉に手振りで頭の上に大きく丸とバツを描いてみせた。結城の不在の確認だと認識した美葉は首を小さく横に振り、両人差し指でバ

ツを作って男にわかるように見せた。男は頷くと素知らぬ顔で歩き始め、すぐに角を曲がって姿を消した。それを見て美葉はため息をついた。
「何をしている?」
 結城は美葉の様子に気づき、足早に近づくとシャッと遮光カーテンごとカーテンをしめてしまった。一瞬部屋が真っ暗になったが、すぐに結城が照明を付けた。古い蛍光灯なので部屋の中は陰気な明るさに変わった。
「なんでもないわ。すこし、疲れただけ……」
「そうか、すまないな」
 結城が珍しく優しい言葉をかけた。
「まだ暑いのにエアコンがないんだからな。だが、待ってろ。もうじきこんなところから抜け出してやるからな」
「うん、ありがとう」
 美葉は力ない笑顔で言った。ひどい目に遭わないためには逆らわず従順にすること。美葉はすでにそれが身についてしまっていた。だが、それが出来たのは、きっと警察が見つけてくれるという希望を失わないでいたからだった。そして、とうとう警察がかぎつけて来てくれた。美葉は微かな希望に灯がともったような気がした。
 そして、その数日後、家宅捜索が入った。彼が密かにスマートフォンで撮った美葉の写真が決め手になったからだ。しかし、すんでのところでガサ入れの報告を受けた結城は、美葉を連れて逃げた後だった。指揮をとった富田林は地団太を踏んで悔しがったが、急いで逃げたためにさすがの結城も存在の証拠を消す暇がなく、いくつかの遺留品を遺してしまっていた。ふたりの生存が確実となり、結城捜査網はわずかに活気づいた。

 深夜の逃走で検問も間に合わず、結城は堂々と逃げ切ることができた。その頃には夜が明け始めていた。結城は山中に車を捨て、美葉と共に歩いて山を下りJRのローカル線に無人駅から乗り込んだ。そのまま、また結城の足取りは消えたのだった。

 そういうことがあり、美葉はきっとまた警察が動いて探し出してくれる。きっと助けが来てくれると希望の灯を絶やしていなかったのである。

20XX年10月1日(火)

 翌日、由利子は時折キーボードを打つ手が止まったり、ぼうっと窓の外を見ていたりと仕事に身が入らない様子だった。ギルフォードは久しぶりに朝から研究室にいたが、それに気が付いて声をかけた。
「ユリコ、どうしました? 珍しく集中力が欠けてますよ」
「あ、いや、その、昨夜ちょっと寝られなくて……」
 そう言うと、誤魔化すようにコーヒーカップを手に取った。
「ジュンにプロポーズでもされましたか」
 由利子は危うくコーヒーを吹きそうになった。その横で、紗弥が書類の束を落としそうになり、慌てて書類をしっかりと持ち直した。動揺を隠せず、由利子が訊いた。
「な、なんでそれを……」
「おや、カマかけただけですけど、図星くんでしたか」
 ギルフォードは腕組をしながらしてやったりという表情をした。
「だって、君たち最近ちょっといい雰囲気になってたじゃん」
「いい雰囲気って、いやいやいや……」
 由利子はそう言いながら右手を左右にぶんぶんと降った。ギルフォードはニヤリと笑うと興味深そうに聞いてきた。
「で、どう答えたんですか?」
「断ったに決まってるよ。だって私、葛西君より八歳近く上なんだよ。うまく行くわけないじゃん」
「彼は年上がちょうどいいと思いますよ。それに恋愛に年齢も性別も身分も血縁も関係ないです」
「教授、血縁はさすがにダメですわ」
 紗弥がようやく落ち着きを取り戻して突っ込んだ。

 その頃、葛西の方も公用車の中でため息をついていた。運転しながら青木が訊いた。
「葛西さん、さっきからため息ばかりついてますが、篠原さんと喧嘩でもしたんですか?」
 青木はからかうようすもなく至って真面目である。葛西はさらにため息をつき頭を抱えた。
「喧嘩はしてないよ。だけど、僕は馬鹿だ。お調子者の大馬鹿野郎だよ」
「ひょっとしてですけど、……篠原さんに告白とかしました?」
 それを聞いて、葛西は頭から手を放し、顔をそっと青木に向けると言った。
「どうしてそれを……?」
「バレバレです。で、断られたんですね?」
 葛西は無言でうなづいた。
「葛西さんのことだから、直球で言ったんでしょう?」
「……そうみたい」
「そうみたいって……」青木は苦笑しながら言った。「よかったら、僕に相談してくださいよ。その件については僕の方が先輩ですから」
「……うん」
「で、篠原さんはなんて?」
「『急に妙なことを言い出すな馬鹿。年上をからかうんじゃない馬鹿。帰れ馬鹿』って……」
「(三回も馬鹿っていわれてる)……で?」
「言い訳する間もなく追い出された」
「でしょうね」
「で、玄関ドアを叩きながら『由利子さん、もう一度話を』って言ったら、『うるさい馬鹿、夜に騒ぐな馬鹿。近所迷惑だ馬鹿。さっさと帰れ馬鹿』って……」
「(馬鹿追加四回)……でしょうね」
「馬鹿って七回もいわれた」
「(数えてたんだ)なんか、篠原さんらしくて微笑ましいですね」
「はあ? どこが?」
「(めっちゃ照れてるのわからないかなあ)玉砕覚悟でもう一度言ってみたらどうですか?」
「すでに玉砕してるし、そんな勇気残ってない。はあ、こんなことなら素直にお茶飲んで帰ればよかった」
「お茶?」
「うん、上がってお茶でも飲んで行かないかっていわれて……」
「めちゃめちゃ信用されてるじゃないですか」
「うん、それだけに、馬鹿なことを言っちゃった感がすごくて」
 そう言うと、葛西はまた大きなため息をついた。青木は葛西を慰めるように言った。
「まだ望みはあると思いますよ」
「そう……かなあ」
 その時、無線が入った。
「S区のドーソン××町店前で、薬物中毒と思われる男が暴れているという通報在り……」
 それを聞きながら葛西の顔が警察官のそれになった。
「この話は後だ。現場に急ぐぞ」
「了解!」
 青木も笑みが消え、真剣な表情でハンドルを握りかえした。
「A大とは逆方向なので、Uターンします」
 そう言うと、青木は近くに見えたファミレスの駐車場に入り、向きを変えるとそのまま駐車場を後にした。通行人が数人胡散臭そうな表情でそれを見送った。

 

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2.急転 (2)フォーチュネイトエラー

 葛西たちが現場に急行すると、警察からはまだ誰も来ていなかった。コンビニを遠巻きにして野次馬の群れが出来始めている。
 件の男はコンビニのドアやFIX窓を何かわめきながら叩いて回り、時折野次馬に威嚇のようなしぐさを繰り返している。
「やった! 一番乗りですよ」
「あのね、こういうの一番ヤバイ事件(やつ)だろ。さて、駐車場内は入れそうにないなあ」
 そう言いながら、葛西は近くの路肩に車を止めた。青木は無線で受けた情報を改めて葛西に言った。
「同居人がいきなり暴れ出して、身の危険を感じた女性が近くのコンビニに逃げ込んできて、男が追って来るのを確認した店員が、慌ててドアをロックしたということですが……」
「薬物中毒(やくちゅう)なのは間違いなさそうだけど、『ルビー』の中毒とは違う気がする……」
 その時、ドアを乱暴に叩く音がした。店内を伺おうと目を凝らすと、ドアを店員や客の男性たちが必死で抑えている。
「ヤバい!」
  葛西はそう言うと、急いで車から飛び出しコンビニに向かって駆け出した。その後を追いながら青木が言った。
「あっ、葛西さん! 僕たち丸腰だし、防刃チョッキも着てません!」
「だからって、このままだとドアが破られて、中の人たちが危険に曝されてしまうよ」
 葛西はその足を緩めずに犯人の方にまっすぐ向かって行った。
「警察です! 少し落ち着きましょう」
 葛西は五メートルほど男に近づくと立ち止まってから言った。男は興奮のあまり葛西の接近に気が付かなかったらしく驚いて振り向き固まった。葛西は青木を野次馬整理に行かせ、男を落ち着かせようと出来るだけ穏やかに声をかけた。
「どうされたんですか? 話なら僕がお聞きしますよ」 
 男は葛西が厳つい警察官ではなく中肉中背のリーマン風な優男だったので、少し拍子抜けした様子だった。警察と名乗るものの、屈強さは感じられない。少し安心したのか、息を荒げたまま男が大声で言った。
「この中にいる女と話をさせてくれ。あいつ、いつの間にか間男を作ってやがったんだ」
「お店の中に女性がいるんですね。奥さんですか?」
「結婚はしていない。けど、俺の女なんだ。頼む、刑事さん、あいつを連れて来てくれたら大人しく話をするから……」
 すると、コンビニ内から女の金切り声がした。
「ふざけんな! あんた、あんたこそ……」
 女は言いかけたが、店員らしき女性に口を押さえられて店の奥に連れていかれてしまった。
「てめえ、やっぱりここに居やがったな。さっさと出てこい!」
 その後、男は再び興奮してドアを激しく叩きだした。
「落ち着いてください。そんな状態だと、彼女さんだって怖がってでてきませんよ。さあ、落ち着いて、僕に任せて……」
 その時、少し遅れてパトカーが数台到着した。そのサイレンの音がトリガーになったのか、男の表情が変わり目が座った。突如、男は奇声を上げて野次馬の方に向かって行こうとした。パトカー内から状況を把握した警察官たちが一斉に飛び出してきたが、パニックを起こした野次馬に阻まれてしまい、群衆を抑えるために手を取られて葛西たちの加勢に向かうのが遅れた。男は奇声をあげ続けていたが、その中で「化物共が」ということが聞き取れ、葛西は血の気が引くのがわかった。禁断症状で群衆が化物に見えているのだろう。このままでは大惨事になりかねかねない。葛西はとっさに男の足にタックルをした。
「は、離せぇ! お、お前も化物だったのか!」
「葛西さん、刃物ッ、こいつ刃物持ってます」
 青木が悲鳴に近い声で叫んでいた。葛西がそれに反応して顔を上げると、刃物らしき光るものを振り上げようとする男と、走って来る青木の姿が見えた。

 由利子が息抜きにコーヒーを淹れていると、紗弥の携帯(スマートフォン)に電話が入った。紗弥は要件を聴きながらなにやら焦った様子で応対している。由利子が(何かあったのかな?)と思ったところで、紗弥が珍しく慌てた様子でやってきた
「葛西さんと青木さんが、職務中に刺されたそうです」
「えっ?」
 由利子は驚いてカップを落としそうになって、あわてて態勢を整えた。
「たった今、県警にいる教授から電話が入りました。急いで病院に行きましょう。教授も直接向かうそうです」
「え? なんで? そんなこと……。容体は?」
「教授も焦っておられて、搬送先を告げると直ぐに電話を切ってしまって……」
「わかった。早く行こう!」
 由利子はすぐに立ち上がってロッカーに走った。

 病院に向かう車の助手席で、由利子は黙ったまま両手を膝の上で固く組んだままじっとしていた。目は組んだ手をじっと見つめている。紗弥は車を運転運転しながら時々由利子の様子に目をやっていたが、我慢出来ずに声をかけた。
「大丈夫ですわ。葛西さん、きっと……。大丈夫に決まってますわ」
 そう言う紗弥の顔もいつもより白く緊張しているようだった。
 搬送先の病院に駆けつけた二人は、受付で入院患者の名を告げ病室に向かった。幸い彼女らには見舞いの許可が出ていたらしく、待たされることはなかった。それが逆に容体が良くないのではないかという不安を掻き立て、エレベーターのボタンを押すのももどかしく指定の病棟のフロアについた。そこでは、看護師たちが気忙しく駆け回っていた。由利子が紗弥を見ると、紗弥が不安そうな表情で見返してきた。自分も同じ表情をしているのだろう。表記に従って葛西たちのいる病室に向かい、前に着くとややためらっていると、すれ違った看護師が目を伏せて会釈した。ふたりはまた不安そうに顔を見合わせると、意を決して病室のドアをノックして言った。
「篠原です。紗弥さんも一緒です」
 すると中から『どうぞ』という青木のくぐもった声がした。由利子はそっとドアを開けた。そこは二人部屋らしくベッドが二台あり、ベッドに横たわる葛西と、その横で病衣を着て椅子に座りうなだれたような青木の姿があった。葛西の頭には包帯が撒かれていた。

 その頃、富田林はドラッグ男、目代(めしろ)圭一と同居しているという被害者の女性西山妃都美(ひとみ)から事情を聴いていた。男の所有物から『ルビー』らしきものが少量見つかったからだ。ジッパー付きビニールの子袋にはわずか二グラムほどの赤い結晶がはいっていた。二グラムとはいえ、使用したら大変な事態を引き起こしかねない。
 妃都美はそれを使っていないときっぱりと言い切った。
 そもそも体質的にドラッグ類を受け付けず、同居し始めてからもそのような気配はなかったと言った。普段の圭一は爽やか系の好男子で、職業も営業職で真面目だと評判の男だったという。ところがある時期から営業成績が落ち始めた。苦悩と焦燥の中、大学時代の仲間から何の気なしにももらったハーブ(危険ドラッグ)がきっかけでどんどんエスカレートして行った。妃都美が気づいた時には常習化しており、会社も休みがちになってある日相談もなく辞めてしまった。それでも彼女は元の彼に戻って欲しい一心で何とかドラッグをやめさせようとしたが、圭一の方は彼女にもドラッグ使用を勧め始めた。妃都美は圭一に否定的な彼女に対して、間男がいると妄想し始めたのがこのころからだと言った。
 ある日、騙し打ちで『ハーブ』入りの紅茶の飲まされ、二日間ねこんだという。身の危険を感じた妃都美は別れることを決め、圭一に今日それを告げた。すると圭一は赤い結晶を持ち出して来て妃都美に使えと強要してきた。知り合いからお試しでもらったから、一緒にキメよう。君を俺からは逃げられなくしてやるよと。
 恐ろしくなった妃都美は隙を見て逃げ、近所のコンビニに助けを求めた。

 その後はみなさんご存知の通りである。

「その知り合いって、誰か心当たりはありませんか?」
 富田林が訊くと、妃都美は少し考えてから言った。
「赤いドラッグと関係あるかはわかりませんが、最近目代の電話での会話に『マキさん』という名前が頻繁にでていたように思えます」
「マキ? 男友達ですか?」
「おそらく女性です。その名前を聞くようになってから、あの……たまに朝帰りしてくることもありましたし」
「マキという女性ですか」
 そう言うと、富田林はしばらく黙り込んだ。
(葛西の報告書にそういう名前があったな。マキ……、マキ……、真樹村? まさか、あのKIWAMIとかいう……)
「刑事さん?」
 富田林は妃都美の声で我に返った。
「ああ、申し訳ない。つい考え事をしてしまいまして」
「マキとかいう人、やっぱり危ない人だったんですか?」
「いえ、まだなんとも言えません。でも、西山さんが目代から赤いドラッグを試される前に逃げきれて良かったです、本当に。万一これからそういうことがあっても、絶対に拒否してください。ドラッグはダメです! 絶対!!」
 そう言うと、富田林はいきなり立ち上がり「ご協力ありがとうございました」と言いながら一礼し、その場を去った。残された妃都美は、豆鉄砲喰らった鳩のような顔をして座っていた。 

 由利子はふらつきながら病室に入った。心臓がバクバクしていた。紗弥は相変わらずポーカーフェイスだが、目に不安の色は隠せなかった。
 青木はさっと立ち上がると言った。
「篠原さん、紗弥さん、ご心配をおかけしました」
「青木さん、ご無事だったんですね。で、あの、葛西君は……」
「ああ」青木は笑顔で答えた。「葛西さん、昨日徹夜して調べ物をしていたらしくて、爆睡しちゃってて……」
「はあ、寝てるだけ……」
 いきなり緊張が解けて、由利子はへたへたと座り込んでしまった。紗弥がすぐに由利子を支え、青木が慌てて自分の座っていた椅子を持ってきて由利子に座らせた。そして包帯を巻いた自分の右手を見せながら言った。
「葛西さんも僕も、ちょっと切り傷を負いましたが、出血量にしては大した傷じゃなくて数針縫う程度で済みました。特に葛西さんはナイフをよけた時にナイフが頭をかすって、頭って怪我のわりに出血が多いんでビビりましたが」
「頭を数針……。てことは避けられなかったら……」
「大丈夫です。僕らは訓練してるんで、油断しなきゃそうそう刺されたりしませんから」
 青木は由利子を心配させないように明るく言った。
「なんにしろ、良かった……」
 と言いながら、由利子が安どのため息をつくと、紗弥が同意して言った。
「本当に……」
 そういう紗弥の顔は、先ほどより和らいで見えた。
「看護師さんたちが慌ただしくしてたんで、ひょっとしたらって」
 由利子が少し照れ臭そうに言うと、青木が納得して答えた。
「ああ、この階に入院してたお爺ちゃんが危なかったみたいですよ。だいぶ持ち直したみたいですが」
「そっか。なんだ勘違い」
「でも、そのおじい様、持ち直されてよかったですわ」
 周囲の話声で葛西が目を覚ましたらしく、布団がもぞもぞと動いた。包帯の頭が左右に動き葛西がむくりと起き上がった。
「なんか良く寝た……」
 葛西は呑気に言うと、欠伸をした。その後、由利子たちに気づいて言った。
「あ、由利ちゃん、紗弥さん。わざわざすみません。僕はこの通り大丈夫ですから……」
 葛西ののほほんとした様子に、由利子は今までの不安と心配の分だんだん腹が立ってきて、椅子からザッと立ち上がって言った。
「馬鹿ッ! 誰が由利ちゃんだッ! 本当に心配したんだぞ。ジュリーに続いて葛西君まで失ったらどうしようって! 気を付けてよ、本当に!」
 気が付くと、目からぽろぽろと涙がこぼれていた。由利子はそのまますとんと椅子に座ると両膝を掴みそのまま涙をこぼし続けた。思いがけず由利子が泣き出したので、葛西は焦って謝った。
「由利子さん、ごめん。心配かけて。本当にごめん」
 二人の様子に青木は少し困っていたが、紗弥がそっと立ち上がってドアに向かったので、自分も上着をはおってその後に続いた。
 病室から出ると、そこにギルフォードが立っていた。実は由利子たちより先に来ていたのだが、葛西たちの怪我が深刻ではないと聞き、対策部と感対センターに連絡していたとのことだった。戻ってきて病室に入ろうとしたら由利子が泣き出したので、入ろうか迷っていたという。そう説明した後、ギルフォードは紗弥の肩をポンと叩いて言った。
「あの二人、いつの間にかいい感じになっちゃいましたねえ」
「ええ、そうですわね」
 紗弥は相変わらずつんとした表情で答えた。ギルフォードはそんな紗弥の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「僕らは完敗ですね」
「え? 教授はともかく、わたくしはそんな……」
「ジュンはいい人ですから、みんなから好かれマス。そして、僕はジュンとユリコは良く似合ってると思いマス。ですから、僕はジュンをアキラメマス」
 それを聞いて紗弥はクスッと笑って言った。
「教授、日本語が退行してますわよ」
 ギルフォードは、紗弥の頭をもう一度ぽふっと優しく叩くと明るく言った。
「さて、お邪魔虫はお茶でもしばきにいきますか。病院内に可愛いカフェがありました。アオキさんもご一緒しませんか?」
「ええ、ええ、もちろん行きます」
 青木は彼等の会話について行けなくてぼうっと立っていたが、不意にお茶に誘われて、二つ返事で答えた。青木も病室の二人をしばらくそっとしておいてあげようと思っていたので、渡りに船のお誘いだった。

 しばらくして、由利子は涙をぬぐうとため息をついて言った。
「よく考えたら、そんな状態で身内でもない私たちが入れるわけないよね」
「はあ、なんかすみません。僕も薬物中毒を甘く見てたかもしれません。あんなにいきなり豹変するなんて。実は、青木君が駆けつけてくれなかったら危なかったかもしれません」
「ほんとに気を付けてよ」
 由利子が葛西の顔を不安そうに見ながら言った。葛西はそれを受けて申し訳なさそうに言った。
「僕は警察官です。志をもってこの職業に就きました。なので、これからも危ない目に遭うかもしれません。なのに昨日、あんなことを言って混乱てさせすみません。なんか浮かれてたみたいです」
 由利子は無言で下を向いていた。しばらく沈黙が続いたが、それを破ったのは由利子だった。
「葛西君、私ね……」
 そう言うと、大きくため息をついた。
「昨日、本当は嬉しかったんだ。葛西君みたいなまっすぐな人に言われて。若いころだったら喜んで受けたと思うよ。でもさ」
 由利子はショートカットの髪を右手で何度かかき上げながら、少し辛そうに言った。
「この歳になるまで色々経験してさ、そういうことは軽々しく受けられなくなったんだ」
「僕は決して軽い気持ち言ったわけじゃないです。ずっと考えてたんです。多美さんに乗せられたからじゃなくて……、いや、若干それはあったかもしれませんが、初めてお会いした時に、思ったんです。なんかこう……この人いいなって……あー、えっと、あの、うまく言えませんが……」
「うん、葛西君に下心とか全然ないってわかってるよ。真摯に言ってくれたんだって。だけどさ……」
「年の差ですか? たしかに僕は7歳下です。頼りないってことは判ります」
「葛西君は、もう頼りなくないよ。私から見ても、立派な警察官だよ。でもさ……」
「そうですよね。僕、幼い頃、母が父を笑顔で送り出した後、いつも一瞬だけ不安そうな顔をしていたのを見てました。父が殉職した時の母の様子は、今もはっきりと覚えています。それを由利子さんに負わせるのは……」
「考える時間をくれる?」
 葛西の話している途中でいきなり由利子が言った。
「え?」
「そしたら答えを出すから。真摯に言ってくれた葛西君には、真摯に答えんとね」
 それを聞いた葛西の表情がパッと明るくなった。
「待ちます。待ちますよ、もちろん!」
「ありがとう。取りあえず軽症といっても頭を怪我したんだから、今日は安静にしてなきゃダメだよ」
 由利子が言った先から、葛西は嬉しさに万歳しようとして右手が頭の傷に当たってしまい、痛たたたたと頭を押さえてベッドにつっぷした。
「わあ、葛西君大丈夫!?」
 と言いながら狼狽えた由利子がナースコールを押した。すぐに担当看護師が駆けつけ医師も後から駆けつけてきた。その後ろから、やはり心配で、お茶を早めに切り上げて帰って来たギルフォードたちが心配そうに顔を出した。
「大丈夫そうですね」
 ギルフォードは病室を覗くと、肩をすくめて言った。扉の向こうには、葛西と由利子が仲良く医師と看護師に謝っている姿が見えた。

 

 

 

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2.急転 (3)星空のピチカート

20XX年10月3日(木  

 由利子がPCに向かってせっせと作業をしていると、ギルフォードが声をかけた。
「今日からジュンが仕事に復帰したそうですね。ユリコの送迎も復帰すると言って、さっそく今日迎えに来ると連絡してきました」
 しかし、由利子はそっけない口調で「そっか」と一言答えただけだった。
「それだけですか」
 ギルフォードは不思議な笑みを浮かべて言った。
「なんか、もう少し、こう」
「そーゆーところが日本人と感性がちがうんだよ。感動動画あるあるみたいな、例えば、指輪もらってきゃあ♡って抱き着くみたいな単純な話じゃないんだ」
「だって…イギリス人なんだもん、仕方ないじゃん……」
 その口調がいつもと違ってトーンダウンしていたので、由利子は彼なりに傷ついたのだろうと気が付いた。
「あ、ごめん。いつものアレクは日本人より日本人っぽいからさ」
「ポイ……」
「あー、言葉の綾だってば。いちいち傷つかないでよ」
「すみません、言葉のアヤの意味は……」
「そういうとこだよ!」
 由利子はそう言ったあと、カップをひっつかんでお茶を飲み干し、タン!と机に置くと、ギルフォードを無視して改めてパソコンに向かった。ギルフォードは肩をすくめると、紗弥に向かってこっそりと言った。
「怒られちゃいました」
「当然ですわ。唐変木は、余計な事おっしゃらないでくださいまし」
「トーヘンボク……。 僕が?」
「女心は複雑なんです」
 紗弥はそう言うと同じくギルフォードを無視してパソコンに向かった。ギルフォードは再び肩をすくめると、軽くため息をついて自分の机に戻った。

 そのころ美葉は、結城と共にK市内の、ある施設に移っていた。
 結城が言うには、そこは碧珠善心教会という宗教法人が運営するマンションで、万全なセキュリティに守られており、自分たちが居る上層階はシェルターの役目を担っているという。そこは、DV被害の女性やその連れ子のみならず、保証人になったために借金取りに追われたり無実の罪で警察に負われたりなどの訳アリの人たちを男女問わず保護・収容しているという。結城は美葉に、その宗教がどれだけ素晴らしいかを目を輝かせて説明した。美羽はもちろん結城も知らないことだが、ここは真樹村極美が一時期身を寄せていたところである。
 美葉は、結城が新興宗教というものにそこまで傾倒しているとは思ってもいなかったので、内心驚いた。というかかなり引いていた。しかも、その口調からすると、かなり中心に近い存在のようだ。しかし、美葉はそれをおくびにも出さず、静かに頷きながらそれを聴いていた。
 しばらくの間それは続いたが、最後に結城は
「もう大丈夫だよ、美葉。僕らの逃避行は終わったんだ。ここは教団に直結する施設だ。僕はようやく長兄様の御傍にもどれたんだよ。長かった……」
 と、晴れやかな表情で言った。
「じゃあ、これでもう逃げ回らなくていいのね」
 美葉はそう言うと涙ぐんで見せた。その後トイレに駆け込み本気で泣いた。何も出来なかった自分の不甲斐なさに悔しくて悔しくて……。
 おそらくこのテロを画策したのはこの教団だろう。結局、自分は結城を説得も逮捕に導くことも出来ず、おめおめとここにきてしまった。敵中に陥ってしまった今、何をすべきか目的を失ってしまった。もう逃げることが出来ないだろうと絶望していた。しかし、美葉には一筋の希望があった。公安が動いてくれている、あの、武邑という公安警察官。彼がきっと私の居場所を見つけてくれる。……美葉はそう気を取り直して顔を洗い、自分を励ますように両手で頬を二回叩いた。
 美葉は、その武邑という童顔の小柄な男が、結城より数倍危険な男だということを知らない。

 由利子が葛西のプロポーズともいえる言動に心揺れ、美葉がどん底から希望を見出していたその間にも、ルビーことVシードの汚染はじわじわと進んでいた。
 それはネット経由で進むため汚染はF県のみならず、全国規模でゆっくりと広がっていく。葛西の所属するSV対策班は、本来のウイルステロの捜査よりVシードの対応に追われていた。
 復帰初日の葛西は、デスクワークを言い付かっていたため自分の席で作業をしていた。資料のまとめに集中していると、背後で聞き覚えのある声がした。
「怪我をしたそうだが、大丈夫かね?」
 驚いて振り向くと九木が立っていた。葛西はすぐさま立ち上がると言った。
「九木警部補! こちらに来ておられたのですか?」
「ああ、ルビーとかいう厄介な『宝石』のためにな。まあ、元気そうで安心したよ」
「切られた怪我自体は命に係わるものじゃなかったですが、一応頭も打ってるので、念のため検査入院させられまして。でも、もう大丈夫です。明日からは現場でバリバリがんばります」
「そうか。だが、まだ頭の包帯は取れないんだろう?」
「そこは大丈夫です。昔親父が被ってた帽子を借りてきました」
「そうか、親父さんの帽子をな」
「昨日、久々に実家に帰りまして、その時帽子も出してもらったんです。怪我を隠すために一時的に被るので、新しく買うのはもったいないかなと」
「堅実だな」
「で、被って見せたら母から泣かれました」
「ほう」
「親父にそっくりだって」
「そうか、君の父親は……。くれぐれも親不孝はするなよ」
「はい」
 と、葛西は笑顔で答えた。

 ギルフォードに伝えた通り、夕方葛西がギル研まで由利子を迎えに来た。珍しく被ったグレーのキャスケットに皆の視線が集中した。葛西は少し照れた様子で教授室に入ると力強く言った。
「由利子さん、お迎えにあがりました!」
 その声に三人が立ち上がった。
「あ、葛西君、もう大丈夫?」
 真っ先に声をかけたのはもちろん由利子だった。紗弥は笑顔で会釈をすると、コーヒーを淹れに行った。ギルフォードは葛西の方に歩み寄り、軽くハグをしてから言った。
「元気そうで何よりです。帽子、似合ってますよ」
「ありがとうございます。まだ包帯が取れないので、帽子を被ることにしたんですよ」
 葛西は、帽子のつばを軽く持って少し傾けながらにこやかに答えた。ここ数ヶ月でギルフォードのハグには慣れたようだった。照れ屋の由利子は未だに「きゃあ」とパッチンセットで返しているが。
 葛西はコーヒーを飲みながら、九木がこちらに来ていることを皆に伝えた。葛西の前のソファに座ったギルフォードが、考え深げに右手を顎に宛てると言った。
警視庁まで動き出したということは、首都圏も今がマズい状態だと危惧しているのでしょうか?」
「九木警部補は、ルビーのせいだと言っておりました。本意はどうかわかりませんが」
「長沼間さんたちがどれだけ情報を持っているのか、どう報告しているか気になります」
「そうですね。残念ながらあちらの情報は僕らには入ってきませんし、そういえば、スポーツクラブの一件以来、会ってません」
「そういえば、僕も最近会ってないですね。あの時も僕はすぐに帰って話をしてませんし。だいたい週一は情報仕入れ方々茶々入れに来るのに。ねえ、ユリコ」
 ギルフォードはいきなり由利子に話を振ってきた。葛西の隣に座らされた由利子が居心地悪そうに答えた。
「そ、そうですね」
「あの時のビンタがこたえたのかもしれませんが」
「う、うるさい! 変なことを思い出させるな、馬鹿!!」
  色々思い出した由利子が、顔を赤くして言った。

 帰りの車の中は、気まずい空気が漂っていた。葛西は「スポーツクラブの一件」などと言ってしまったことを後悔していた。ほとんど会話のないまま、ラジオでDJが陽気にしゃべる声が響いた。途中、なつかしコーナーのリクエストで『恋人試験』などがかかって、最高に気まずくなったところで由利子のマンションまでたどり着いた。
 車を降りると日はすっかり落ち、ブルーモーメント名残の濃紺の空には星がまたたき始めていた。街並みのシルエットにも灯がともり、その後ろを微かにビーナスベルトが照らしている。
 二人は駐車場に立ったまましばし空を見上げた。
「綺麗だねえ……」
 由利子がそっとつぶやいた。
「そうですね」
 葛西も空を仰ぎながら言った。なぜか泣きたいほど美しいと思った。そしてふと思った。
(守らなきゃ。このひとを……)

 そのまま由利子を部屋の前まで送り室内確認のルーティン終了後、じゃれる猫のはるさめをそっと撫でて帰ろうとする葛西を由利子が引き留めた。
「葛西君、せっかくだからお茶でも飲んでかない?」
「いいんですか?」
 葛西は戸惑い気味に言った。
「うん。このまえ答え出すって言ったし、このままじゃ気まずいだけだから、色々話そ?」
 由利子はそう言いながらドアを開けたまま、葛西を招き入れた。

 キッチンのテーブルに座って、少し緊張気味の葛西が言った。
「なんか、あの結城が空き巣に入った事件以来です。あの時は、富田林さんや増岡さんもいて……」
「そうやね。あの時は色々あり過ぎて、お茶どころじゃなかったもんね。リクエストは? 紅茶でいい?」
「は、はい」
「ミルクティー? それともストレート?」
「あ、えっと」
「私はミルクティーにするけど?」
「あ、じゃあ僕もそれで」
「砂糖はどうする?」
「あ、入れなくても大丈夫です」
「オッケー。ちょっと待ってて。あ、そこから部屋のテレビが見れるから見ててね」
 というと、由利子は部屋の戸を開けてテレビをつけ、リモコンを渡した。
「これで、好きなチャンネルに合わせていいよ」
「すみません。あ、チャンネルはこのままいいみたいです」
 見ると、ちょうど夕方7時のニュースが始まったばかりだった。

 数分後、由利子がミルクティーを運んできた。
「紗弥さんみたいにうまく淹れられないけど……。どうぞ」
「ありがとうございます」
 葛西は受け取ると、由利子が座るのを待って、紅茶を口に運んだ。ふわりとミルクの良い香りがした。
「美味しいです。ほっとします」
「ホットだけに」
 由利子が思いがけずオヤジギャグをかましたので、葛西はどう対応すべきかわからなくなって、愛想笑いで紅茶をまた一口飲んだ。
 その後、また気まずい空気が流れ、葛西はお茶請けのクッキーを立て続けに三枚食べてしまった。
「このクッキーも美味しいです」
「駅前のケーキ屋さんで買ったんだよ。昔は割と自分でも焼いてたんだけど」
「お菓子作れるんですね。僕も今度挑戦してみようかな?」
(そこは『由利子さんが焼いたクッキーも食べたい』だろうが)
 由利子は、そう思ったところで、焦って自分の考えを打ち消した。
(いかん、完全にオヤジの発想になっとる)
 由利子はひそかに落ち込んだ。
 その後、またも沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは由利子だった。
「おなかすいたよね。クッキー無くなっちゃったね。出前でも取ろうか?」
「すっ、すみません。なんか間が持たなくて、つい。出前はまだ大丈夫です。いつも晩飯は九時過ぎるんで」
「そう。じゃ、そろそろ本題に入らないとね。その前に、飲むもの無くなっちゃったんで、持ってくるよ。緑茶でいい? ティーバッグのだけど結構いけるよ」
「ありがとうございます!」
 と、葛西が妙なテンションで答えた。その間、暇なのでテレビを見ていると、今日放送される番組のCMが流れた。

 ~♪(センセーショナルなジングルとBGM)『討論バラエティ! ディスカッション0(ゼロ)』! 本日のテーマは『人を救うとは何か?』
 若い宗教指導者集合!! 熱い討論を戦わせるぞ!! 今回もタブーコンプラガン無視で放送!! お楽しみに!!!

 煽りナレーションと共に、宗派と名前がセンセーショナルな自体で書かれたテロップと共に出場者の顔が次々と映し出される。葛西は妙な既視感をもってそれを見ていた。そこに由利子がお茶をもって戻ってきた。
「ごめん、来客用のお湯のみなんてなくて。ドーソン景品のマグカップだけど」
「お構いなくです。リラッ○マ、可愛いくて好きです」
「リ○ックマはアレクも気に入ったみたいで。特にトリさんが」
「なんかその子が一番人気だとか聞きますが、アレクのお眼鏡にかなうとは意外ですね」
「それが傑作なんだよ」由利子はクスクス笑いながら言った。「この前ラブホ避難したじゃん。そこがあろうことかリラック○部屋で……」
 そこまで言って由利子は葛西の顔が引きつっていることに気づいた。
「ああ、ごめん。デリカシーなかったよ。でも、私とアレクなんて男同士みたいなもんだし、アレクだってソファに寝たし、ほんとに何にもなくて……」
「由利子さんがあっけらかんと話すので、そういう関係にならなかったって信じます。でも、まだその時の話は聞きたくなくって……」
「だから、ニブチンでごめんって」
 その後、また沈黙。
(ほんとにもう、何口走っちゃったんだよ、私。今から話すことがことだけに、失言もいいところだ)
 由利子はうっかりしたことを言ってしまったことを後悔した。

 五分以上経っただろうか。まず沈黙を破ったのは由利子だった。
「時間ばかり経ってもしゃあないし、いきなり本題に入るね」
「はい。お願いします」
 そう言うと葛西は姿勢を正した。
「あのさ……」
 由利子は少し口籠ると言った。
「えっと……この前も言ったと思うけど、あれ、ホントは嬉しかったんだ」
「………」
「嬉しかったけど、どう反応していいかわからなかった。なので、馬鹿って七回も言ってしまってごめん」
「(数えてたんだ)いいんです。僕が調子に乗って余計な事を口走ったからで」
「でもさ、嬉しかったとしても、『嬉しい、ありがとう』って率直に受けることできないやろ?」
「そんなことないです」
「あるよ。だって私は三十七歳のアラフォーだよ。片や、葛西君は三十歳になったばかりじゃん。葛西君のお母さんだって反対するに決まってるし」
「そんなのわかりませんよ。それに僕たちはいい大人ですよ。周囲の反対に左右されることもないでしょう」
「それに不安なのは年齢だけじゃない……」
 そう言うと由利子は辛そうに下を向き、また口籠った。
「由利子さん?」
「あのね……、あの、さ……」
 由利子は顔を上げるとやや上を向いて目をぎゅっと閉じた。何かに葛藤しているのだと察し、葛西は由利子が話すのをじっと待った。
 数分後、由利子が意を決したように口を開いた。
「あのさ、今から少し生臭い話をするよ」
「構いません。どんなことでも受け入れる覚悟です」
 葛西はまっすぐ由利子を見て言った。
「私……さ、昔、東京に住んでいる時に、半同棲状態の彼氏がいたんだ」
「ぼ、僕だって、大人の関係になった彼女いました!」
「真面目か?」
「だから、そんなの気にしなくても……」
「そうじゃない。まあ、そういう関係だったし、それに、そいつ、その、……避妊……具……つけたがらない、アレクが激怒しそうなやつでさ。まあ、いろいろあってさ、不安になって、内緒で婦人科に行って診てもらったんだけど、結果は予想以上に残酷だった」
 由利子はそこまで言うと、お茶を一口飲んで話を中断した。葛西は黙って話の再開を待った。膝に組んだ両掌に無意識に力が入る。由利子はもう一度お茶を飲むと話をつづけた。
「妊娠の心配はない。でも、これからも妊娠は望めないかもしれないって、とっても言い難そうに言われたよ」
 由利子は淡々と、しかし、皮肉な笑みを浮かべて言った。葛西は何と言っていいかわからず、大人しく話を聞くことにした。
「で、もっと最悪なのはその後でさ、そのクソ彼氏、二股してて、そっちの方が妊娠したらしくて、お決まりのセリフで別れをきり出されてさ。もう最悪。さすがに立ち直れなくて、奴が結婚する前に会社を辞めてリターンしたんだ。全部忘れて新たな人生を歩もうって。その時、美葉が親身になって助けてくれたので、だいぶ気が紛れたけど」
「そうだったんですか。すみません、男の僕は何と言っていいか……」
「だからさ、体質的にも年齢的にも、子供を作るのは無理なんだ。だから、葛西君は、私なんか諦めてほしい。もっと若くていい娘(こ)を見つけなよ」
「いやです。僕は、由利子さんだから好きになったんです。由利子さんがいいんです」
「嬉しいこと言ってくれるねえ。でも、今はそう思ってるかもしれないけど、きっと、後悔するよ」
「後悔なんかしません。それにうちは姉が総領娘だし子供も三人いますから、母に孫を見せなくても大丈夫です。それに、まだ可能性だってある。でもずっと二人で猫と暮らすのも悪くないって思うし、どうしても子供が欲しいなら、養子を迎えたっていいじゃないですか」
「いや、でも……」
「ひとりじゃ寂しかったら、もっとたくさん。いっそ世界中から……」
「いや、それ、私が過労死するし」
「すみません、調子に乗りました。でも、由利子さん、僕は由利子さんが本当に好きです。今の由利子さんが好きなんです。由利子さんは僕が嫌いですか? 僕を信じられませんか?」
「嫌いじゃないよ。それに、誰よりも信じるに値する人だとも思ってる」
「じゃあ、僕が警察官だから?」
「それはあると思う。不安要素が多いかな」
「やっぱり……」
「でもそれは覚悟の問題だと思ってる。葛西君のお母様だって、多美山さんの奥様だって、覚悟をもって結婚されたんだと思うし。ただね、葛西君とは知り合って半年もたってないし、結婚とか考えるには早いと思うんだ。それに、事件は一向に解決していないんだ。落ち着かないよ」
「そうですよね。すみません。勢いで変な事せまっちゃって。恥ずかしいです……」
 そう言うと、葛西は見てわかるほど赤い顔をしてうつむいてしまった。その様子があまりにもしょぼくれていたので、可哀そうになった由利子は、またもついフォローしてしまった。
「ほら、だからさ、ちゃんと付き合ってみないとわからないってことで……」
「そう! そうですよね!」
「今のは……」
 『言葉の綾』と言いかけて、由利子は何故か昼間のギルフォードの訂正が頭をよぎって言いよどんだ。
「結婚を前提としたお付き合い、まずそれからですよね!!」
「ちょ、ま……」
 由利子は言いかけたが、葛西の顔があまりにも嬉しそうなのでつい言ってしまったのだ。
「はあ、わかった。負けました。お付き合いしましょう。そのかわり、正式な答えはこの事件が片付いてから出すからね」
「はい。嬉しいです」
「その代わり、これがフラグにならないよう、ほんっとうに気を付けてよ。この前は本当にこっちの心臓が止まるかと思ったんだからね!!!」
「はい。絶対に由利子さんを悲しませるようなことはしません。でも、由利子さんの方も、まだ狙われている可能性が高いです。ですから、みんなの言うことをちゃんと聞いて……」
「わかった、わかった。逆に説教されちゃったよ」
 由利子は肩をすくめると、テレビの方に目をやった。いつの間にか時間が経って、『ディスカッション0』が始まっていた。数秒それを目にした由利子が葛西に言った。
「葛西君、これって」
「ええ、どこかで見たラインナップです」
 二人はその後、食い入るようにテレビの画面に見入ってしまった。

 

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2.急転 (4)走れ! 美葉!

 二人は『報道バラエティ ディスカッション0(ゼロ)』の内容を見ていたが、大き目の画面とはいえキッチンからでは見えにくい。由利子は葛西を部屋に招き入れることにした。葛西は戸惑っていたが、恐る恐る部屋に入って言われるままにテレビの前にかしこまって座った。
「何緊張しとるん。美葉の事件で部屋を荒らされた時に入ったやろ」
「あの時と違って二人きりなのはどうも……」
「信用してるからさ」
 と、由利子はにっこりと笑った。(でっかい楔だー!)と葛西は思った。

 最初に参加者の属する宗教とプロフィールが紹介されていった。出場する宗教団体は、神聖御統(みすまる)礼拝教団・不思議教団封魔・碧珠善心教会・ミネルヴァ騎士団(ナイツ)・聖宇宙神軍。すべて、由利子が警察から頼まれて調べた教団だった。
「なに、このどこかで見たような豪華ラインナップは!?」
 由利子がやや当惑気味に言うと葛西が
「番組スタッフにあの時の情報が流れていたとしか……
「どんだけザルなんだよ、あんたの組織って!」
「すみません。僕らも色々な重要組織に内通者がいることは把握しているのですが、全容がまったく。だれも尻尾を出さないんですよ。そうとう洗脳され統制されているのではないかと」
「公安はなにやってるんだよ」
「僕らにも彼らはアンタッチャブルな組織なんです。長沼間さんたちは特殊な存在で、それすら計算づくかもしれないんです。その彼等が手を焼いてるのですから」
「推して知るべし……ってやつか。ところで、私の記憶している限りでは、大地母神正教と海神真教がいないようだけど」
「海神真教は、教主のアイさまが超高齢なことやさらに信者も近所のおばあちゃまばかりだから、スルーされたんじゃないでしょうか?」
「そうか、『若い宗教指導者集合!』ってのが前提だからか」
「百二歳ではさすがに」
「ほんとにご健在だったんだ。大地母正教の方はH駅爆弾犯が居たということで、解散命令がでたんだっけ」
「まだごたごたしてますけど、こちらもスルーでしょうね」
「あ、本編始まったよ」
 二人はとりあえず番組に集中することにした。
 最初の方は、『神聖御統礼拝教団』教祖山岡星明・『ネルヴァ騎士団』代表アテナイ・『聖宇宙神軍』教主ウラヌス元帥の三教団が電波全開のトークを繰り広げて司会者やスタジオ観覧者たちの失笑を誘っていた。葛西が最初に音を上げた。
「由利子さん、僕なんだか頭痛がしてきました。それに、タブーコンプラガン無視って、ピーだらけで何言ってるのか……」
「看板に偽り在りだね。まあ、ゴールデンの限界かな。それに災害関連はヤバいでしょ。さっきググってみたけど、生放送故にピーが間に合わなくてずれることがあって、そこがまた人気なのだとか」
「遅延送出システムとは」
「わざともあるかもね。それにしても、こんなに頻繁では、スタッフが討ち死にしちゃいそうで……」
 二人の予想通り、舞台裏はややパニック状態で司会の若手芸人MC『金木星サターン』もフォローで顔面大汗になっている。案の定SNSは絶賛大炎上中である。プロデューサーにいたっては、放送を打ち切ることも出来ずに頭を抱え、心の声がダダ洩れになっていた。
「勘弁してくれよ。嫌な予感はしてたんだ。誰だよ、こんな企画通したのは! 誰でもいいから軌道修正してくれよ」
 彼の願いが通じたのか、その流れを断ち切るように不思議教団封魔の神官炎皇(ポオ)がひときわ通る声で言った。
「いい加減不毛な言い合いはやめましょう」
 鶴の一声に、言い争っていた三人は言い争いを止めた。スタッフたちが感謝と不安の残る目で彼を見た。
「いい気分で言い争っていらっしゃるけど、会場のお客さんをごらんなさい。戸惑っておられるのがわかりませんか?」
「だけど、今、地球が危ないのです! 高次元の存在が……」
 黒のギリシャ風ドレスとブルー系の宝石で彩られたティアラを纏ったアテナイが不満そうにさけんだが、炎皇はそれを遮って言った。
「高次元の存在もディープステイトの陰謀もプレアデスからの救いもありえません! 気象兵器も存在しませんし、大震災も人工地震ではありません!」
 それに由利子が反応した。
「なんか、アレクみたいなこと言ってるなあ。ばりばりの日本人面だけど」
 由利子がつぶやくと、葛西が大きく頷いた。そこに、ディスカッション開始以降、黙って座っていた若い女性がようやく口を開いた。
「炎皇さまのおっしゃるとおりです。現実のこの世界で救済を求めている方々が数多におられるというのに……。戯言で言い合うのはやめて、もっと有意義なお話し合いをいたしませんか?」
 そこで、待ってましたとばかりMCが声をかけた。
「あなたは碧珠善心教会の……」
「はい。月辺陽花(げつべ ようか)と申します」
 彼女はそう言うと立ち上がり、静かにお辞儀をするとつづけた。
「教主が公に姿を現すことが出来ないため、私(わたくし)が代理で参りました。教主の代りとはいえ、若輩者故、つたないところはご容赦願えれば幸いです」
 言い終わると、また優雅に一礼し席に着いた。淡いサーモンピンクのスーツが良く似合っており、仕草に気品と知性を感じさせられた。
「さて、閑話休題。皆さん、改めてディスカッションをお願いします」
 MCが、水を得た魚のように生き生きと仕切り直した。
 その後は炎皇と陽花の独壇場で、人口問題や気候変動やエネルギー問題などが真剣に話し合われた。件の三人は話について行けず、時折アテナイが謎の口出しをして深刻な空気を和ませていた。
 最後に陽花が立ち上がり、カメラに向かって良く通る声で言った。
「この星は、創造主……神が私たちのために最適な環境に作っていただいたものです。金星も火星も地球……私たちは碧珠と呼んでおりますが、この星と似ていながら、生命の育つ環境ではありません。陳腐な言い方ではありますが、まさに奇跡の星です。神はそれを与えて下さいました。そして、守るのは我々人類なのです。守りましょう、この美しい星を!」
「ブラボー!」
 炎皇が拍手をしながら立ち上がり、陽花と握手とハグをしてデスカッション終了となった。
 最後にMCが出演者一人ひとりの意見と感想を聞いたが、最初の三人の勢いは何処へやら、すっかり陽花の言葉に感化されていた。炎皇はにっこりと笑い「存外有意義なお話が出来、重畳でございました」と答え、「きゃ~♡」というファンの歓声がスタジオにこだました。最後に陽花が立ち上がり優雅に礼をして胸に手を当て言った。
「私も、このような場所におよびいただき感謝いたします」
「あのぉ……」MCが陽花に向かって言った。「失礼ですがおいくつなのでしょうか」
「女性に年齢を聞くのはNGですよ」
「申し訳ありません。確か大学生だとお聞きしていますが」
「はい。○○大の1年で、二十歳になったばかりです」
「え? たしか英国のC大を卒業されているとか」
「ええ、間違いありませんわ。今の大学には、サークルで学生たちに、私たちの地球を守るための啓蒙をするために入りましたの」
「しかし、よりによって名門大学からFラン……失礼しました!」
 陽花の不愉快そうな表情に気が付いたMCが言葉を濁し、気を取り直して番組を進めた。
「そういえば、顔出しNGの碧珠善心教会教主さまから特別にメッセージを頂いておりました。ご覧ください」
 それと共に画面が切り替わり、暗い中ろうそくの光が煌く部屋が映った。その中央に白いスーツ姿の男が姿勢よく立っていた。逆光なので顔は見えないが、すらりとした容姿で巷で美男子と噂されるのも頷けた。遠くでショパンのピアノ曲が流れている。男が口を開いた。
「みなさん」
 深く心を揺さぶられるような良い声が響いた。
「初めてお目にかかります。碧珠善心教会の教主です。父である教祖の教えを踏襲する者として、すべての信者の兄として、『長兄』と呼ばれております。
 教義により教主は信者以外の前で姿を見せてはならないので、このようなご無礼な形での出演をお許し下さい。月辺から話されたと思いますが、我が教団の教義は、非常に単純に言うと地球を守るということです……」

 テレビ画面を見ながら、葛西が言った。
「確かにイケメンっぽいし声も素晴らしく良いですが、アレクが一番嫌がりそうなエコエコっぽいですよね」
 そう言いつつ由利子を見たが、当の由利子はぼうっとした表情で画面にくぎ付けになっていた。
「由利子さん、由利子さん。どうしちゃったんですか?」
 葛西に呼ばれて、由利子はハッと我に返った。
「ごめん、つい声に引き込まれてしまった。『1/fゆらぎ』ってやつかな?」
「たしかに、なんか安心感のある声ですね」
 と葛西も同意する。
「でも、それ以上になんか引っかかるんだよな」
「ひっかかる?」
「う~ん、うまく言えないけど、なんか遠くの方に不安があるみたいな、夢に出てきたお化けに遭ったような」
「たしか、どこかで似たようなことを言ってましたね」
「そうだっけ?」
「あのカルト教団調査の時も、この教団にのみ反応してましたし」
「でも、不安。それだけ」
「う~ん。だけど言ってることは常識の範囲で、特に過激なことはなにも言ってないですよ、って終わっちゃったじゃないですか」
「ミステリアスな男なのは認める」
 そこで二人はしばし会話を止めた。番組のエンディングでクレジットを確認するためだった。

 番組が終わると、まず葛西が口を開いた。
「特に怪しい感じはしませんね。由利子さんはどう思いますか?」
「えっと、私は炎皇さまが好きかな?」
「いや、そうじゃなくて!」
「あ、ごめん。これって偶然とは思えないよね。制作スタッフを調査した方がいいと思う。そういえば、あの後はどうなったのさ」
「今回も由利子さんが反応した、碧珠善心教会について調査を依頼したんですが、なんかうやむやにされちゃって」
「まあ、情けないことに、私もその件についてはすっかり頭からなくなってたけどさ」
「あんなに色々あったんです。仕方ないですよ」
「でもひょっとしたら、何者かに握りつぶされた可能性もあるよね」
「ただ、あのH駅爆破事件の犯人が特定され、そのためにカルト教団もほぼ大地母神正教と決まったようなものですから」
「あんなレベルの宗教団体がウイルスとか作れるわけないじゃん」
「公式発表では、S-hfウイルスはたまたま海外から侵入してきたもので、爆弾犯人はたまたま教団内で感染していた、になってます」
「たまたまって、そのウイルスの侵入経路だって未だ不明じゃないか」
「ただいま調査中だそうです」
「平和ボケかよ」
「知事交代が痛かったです。おかげさまで僕たちウイルス班は今や冷や飯食いですよ」
 と、葛西はふっと自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「自虐してないで、もう一度碧珠善心教会について調査すべきやろ。ほんと公安は何してんだよ! ケミカルテロの後にバイオテロとかシャレにならんから」
「とにかく、僕は戻って過去の調書を洗いなおしてみます」
 そう言うと、葛西は椅子からすっくと立ち上がった。
「え? 今から?」
「はい。善は急げです。それに……、あまり長居すると送りオオカミになっちゃいますから」
「えーっと、それは冗談で言っているのか……な」
 由利子はそそくさと玄関に向かう葛西の背に向かってつぶやいた。
  
 葛西は玄関で靴を履くと、立ち上がってくるりと由利子に向かい合った。由利子は不安そうな表情で葛西を見ていた。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。お茶とクッキー美味しかったです。ではまた」
「なんか急かしちゃったみたいでごめん。でも無理はしないでほしい」
「大丈夫です。こう見えても僕はタフですから」
 葛西は由利子を安心させるように笑顔で言うと、去って行った。葛西が去った後、言いようのない不安と寂しさに襲われ、由利子は玄関先でしゃがみこんだ。ベッドの上で爆睡していた猫たちがドアの音で起きてきたらしい。二匹は葛西を探すような仕草をした後、そっと由利子に寄り添った。

 その少し前のこと、美葉の身に転機が訪れようとしていた。
 夕方結城が所用で出かけていた時、ドアをノックする音がした。美葉は用心深くインターフォンの画面を見た。そこには清掃員の姿をした武邑が立っていた。
「はい」と美葉が小声で返事をし存在を知らせた。ターゲットの存在を確認した武邑は用心深くスマホ画面を向けた。それには『決行今夜九時四十五分。気取られぬように』と書いてあった。美葉の表情がぱっと明るくなった。しかし、美葉は努めて冷静に「はい」と答え、それを受けて武邑はすぐにその場を離れた。
 美葉はそのままへたへたとその場に座り込んだ。
(やっと……、やっと解放されるんだ……)
 嬉しさに涙がこぼれた。しかし、気を緩めてはいけない。もし今夜失敗したら、その時はもっと過酷な生活を強いられることになるだろう。美葉は涙をぬぐうと今のことは心の中に抑え込み、平常どおり籠の鳥を演じることにした。

 その夜、結城も『ディスカッション・ゼロ』を見ていた。美葉はその横に座ってぼんやりと画面を見ていた。彼女にはどうでもいい内容だった。特に陰謀論バトルを見ながら思い出すのは由利子のことだけだった。
(由利ちゃん、こういうのにツッコミ入れるの好きだったよね……)
 美葉は、一緒に見ているのが由利子だったらと、ぼんやり思っていた。現実には結城が横で訳の分らないことをぶつぶつ言っている。それは、炎皇と陽花の対談になるとさらに激しさを増した。結城がぶっ壊れていることを美葉はとっくに気が付いていた。純粋にこの男が気持ち悪くなっていて、この悪夢から一刻も早く逃げたいという気持ちが募った。そう、悪夢はもう終わるのだ。きっと帰れる。帰ろう。帰るんだ。帰ったら……。
「長兄さま!」
 美葉は結城の声で我に返った。テレビ画面では、謎の男がなにか語り掛けている。
「長兄さま、私は長い旅を終え帰ってきました。どうして未だお声をかけて下さらないのですか……」
 その後はまた聞き取れなくなってしまった。男が語り終え退場した後も結城は床にひれ伏してぶつぶつ言っている。その時、インターフォンの呼び鈴が鳴った。はっとして時計を見ると、九時四十五分になっていた。美葉が玄関の方に向かおうとすると、我に返った結城が素早く立ち上がり、それを阻止しようと美葉につかみかかった。しかし、美葉は今までの恨みを込めて結城の腹を肘で一撃した後軽々と結城を投げ飛ばした。空中に弧を描いて結城は床に落ち、気を失ったようだった。美葉は素早く結城の首から例のロケットペンダントを奪うと、玄関まで駆けドアを開けた。そこには武邑が一人立っていた。美葉は結城の方を指して言った。
「結城はあそこで伸びています」
「あれをあなたが?」
「はい!」
「すごいですね」
 武邑が関心して言った。
「あの、ひとりで?」
「すぐに応援が来ます」武邑はにこっと人好きのする笑顔で言った。「このまま非常口から階段を下りて建物の外に出てください。そこで車が待機していますから。さあ、急いで」
「はい!」
 美葉は言われたとおりに部屋を出て駆けだした。
(自由! 自由! ようやく自由になれるんだ!)
 今までのことが脳裏に浮かんでくる。美葉は緑に光る非常口誘導灯を目指して走りドアを開け、躊躇せずに階段を駆け下りた。

 武邑は結城に近づくと、軽く頭を蹴った。
「あの時は、お世話になったな。おかげでたっぷりひと月ちかく『休養』できたよ」
 そう言うと、武邑は結城の顔を踏みにじろうと、ゆっくりと右足を上げた。
「やめるんだ、武邑」 
「長沼間さん」
 応援とは彼のことだったのか、開け放されたドアを背に長沼間が立っていた。
「多田美葉は?」
「非常口から逃げて行きました」
「逃がしたのか? 護衛もつけずにたった一人で?」
「保護の手配はできていますよ」
 と、武邑は笑顔で立ち上がり、結城の頭を足でつつきながら言った。
「こいつには引っ掻き回されましたからね。蹴り殺したって足らないくらいですよ」
「ミイラ取りがミイラになる。潜入捜査官にはよくあることだ」
「そうですね。で、長沼間さん、ここが敵陣だとわかってて一人で来たんですか」
「ああ」長沼間は、外に数人の気配を察しながら落ち着いて言った。「お前さんが眷属だってこともな」
「あーあ、かなわないや。やっぱりわかってたんだね」
 武邑は、屈託のない笑顔を長沼間に向けながら言った。

 美葉は、非常口から外に出ると、辺りを伺った。そこは人通りのない、ビルのはざまの路地だった。右手の方に自動車が止まっていた。あれが武邑の言っていた車だろうと判断し、美葉はその横に立っている男に駆け寄って呼びかけた。
「助けてください! 私、私……」
 そこまで言うと、かすれて声が出なくなり座り込んでしまった。
「よくがんばりましたね」
 男は優しく言うと美葉に手を差し伸べた。
「立てますか?」
「あ、はい。すみません」
 美葉は男の手に支えられながら立ち上がった。小柄な中年くらいの男だが、街灯に照らされた顔の半面は冷たく整っていた。美葉が立ち上がると、車の後部座席から声がした。
「早く美葉さんを車に」
「かしこまりました。さあ、美葉さん。早くこちらへ」
 男は車の後部座席のドアを開けた。美葉は急いで座席に滑り込むように乗ると言った。
「ありがとうございます。たすかりました」
「よく頑張りましたね」
 と、横に座っていた男が言った。心にしみるような優しい声音だったが、美葉には聞き覚えがあった。
「さあ、行きましょう。車を出してください。
「かしこまりました」
 車は美葉を乗せて発進した。美葉はほっとしたものの、なにか違和感を感じていた。運転手の答え方からして、警察官ではなさそうだった。では、いったい何者が……? 美が葉がやや不安になってきたところで、横の男が言った。
「美葉さん、結城から奪ってきたものがあるでしょう?」
「はい」
 なぜか、美葉は素直に答えた。
「私に渡してくださいますか?」
「はい……」
 美葉は言われるがままに、結城のロケットペンダントを差し出した。男はそれを受け取り、穏やかな声で言った。
「ありがとう。これは私のものだったのです」
 男の声の心当たりに、美葉はやっと気が付いた。ついさっき、テレビに出ていた教団の教主とかいう男の声だ。その教団の名前は、名前は……? 美葉の背筋に冷たいものが走った。
「あなた、ひょっとして? じゃあ、あの人もグル? なんで私を連れだし……て?」
「申し訳ありません。あなたと結城を、ある男をおびき出す囮にしたのです」
「そんな……。じゃあ、私は」
「はい。解放するわけにはいきません」
「冗談じゃないわ! 私を家に帰して。私の日常を返してください……。お願い! 私を平和な日々に戻してください!!」
 美葉は懇願したが、男は残念そうに首を横に振って言った。
「そういうわけにはいかないのです。でも、あなたにはもっと心地よい部屋を用意していますから……」
 ようやく解放されたと喜んでいた矢先に希望を奪われ、絶望した美葉が教主の顎に一撃をくらわそうとした時、彼女の鼻先になにかガスのようなものがかかった。美葉はそのまま気を失った。

 由利子は葛西が帰ったあと、気が抜けたようにベッドサイドに座っていた。遊び相手が帰ったがまだ遊び足りなかったのか、猫たちが由利子にちょっかいを出していたが、相手をされずにゃにゃ子は由利子の横に寝そべった。若いはるさめは不服そうに座って体を掻いていたが、何を思ったのか由利子の机の上に飛び乗った。
 ガチャンと言う音に由利子が我に返った。音の方を見ると、はるさめが机の上でイカ耳状態で座っていた。下を見るとフォトスタンドが落ちていた。春雨がじゃれついて落としたのだろう。
「はるたん、落としちゃったの? いたずらっ子だなあ」
 そう言いながら、フォトスタンドを拾うと、ガラスにひびが入っていた。写真は、美葉失踪後に飾った、数年前に美葉と二人で旅行した時に撮った写真だった。明るい青空に楽しそうに笑う自分たち。美葉は今どうしているんだろう、どんな目に遭っているんだろう……。まさか、美葉の身に何か起きたのだろうか?
 由利子は多少なりとも浮かれていた気持ちが沈み、不安がゆっくり頭をもたげてくるのがわかった。

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2.急転 (5)グレート・エクスティンクション

 長沼間は武邑に車に乗せられ、一時間ほどのドライブ後に碧珠善心教会のF県支部に連れていかれた。

 一見普通のビルだったが、中に入ると大理石の豪華な壁の吹抜けのエントランスがあった。その壁を一人の男が興味深そうに見つめている。武邑が男に声をかけた。
「長兄さま、そんなところにいらしたのですか」
「武邑、早かったですね」
「仰せの通り長沼間を連れてまいりました」
「ご苦労様。さて、お客様をお連れいたしましょう。では、長沼間様」
 教主は長沼間に笑みを向けて言った。
「私についてきてください」
「ああ」
 長沼間はそっけなく答えたが、その表情の奥に警戒心と嫌悪の感情がにじみ出ていた。

 エントランスにはエレベータが二基ずつ向い合せに計四基設置されており、そのうちの一基のドアが開いた。教主はすっとその中に入り長沼間と武邑がその後に続いた。目的階に着く間、武邑が尋ねた。
「長兄さまは何を真剣にご覧になっていたのですか?」
「大理石には碧珠……この星の歴史が刻まれています。それは繁栄と絶滅の歴史です。先ほどはオルドビス紀の生物の化石を見つけました」
「オルソセラスあたりか?」
「長沼間様、正解です。今から約四億五千万年前の生物です」
 教主は満足げに微笑んで言った。その時、エレベーターが止まり、ドアが開いた。
「着きました。さあ、行きましょう」
 教主は振り返り様に言うと、歩き始めた。

 案内された部屋の前には、黒スーツの女性二人が立っていた。彼女らは教主の姿を認めると、さっと左右に身を引いた。長沼間は彼女らの身のこなしから、かなり訓練された兵士だと直感した。
(これは迂闊に動けんな)
 長沼間の心に警鐘が鳴り響いた。と、ドアが開いて中から白スーツの女性が現れた。教主はにっこりと微笑むと部屋に入って行った。女性は長沼間と武邑を招き入れ、扉が閉まった。

 長沼間は武邑と共に、ソファに座り待つ事数分間、教主が再び彼らの前に姿を現した。先ほどのスーツの上に紫布に金糸で刺繍(ししゅう)が施された長衣を纏っている。彼は優雅に長衣の裾を広げ長沼間たちの前のソファに座ると、微笑んで口を開いた。
「長沼間様、……警部補殿の方がよろしいでしょうか?」
「長沼間でいい」
 教主の問いに長沼間がぶっきら棒に答えた。教主はふっと笑うと話をつづけた。
「改めて自己紹介いたします。碧珠善心教会教主、白王清護と申します。信者たちの全ての兄として、長兄とお呼びください」
「信者でもないのに、俺がそんな呼び方する必要はないだろう。俺に用があるならさっさと本題に入ってくれ」
 長沼間が不機嫌に答える。すると横に座った武邑が、今まで見たこともない憎悪の表情で長沼間を見て言った。
「長兄様の御前です。無礼は控えてください!」
「武邑、私は長沼間様とお話をしているのですよ」
「しかし……」
「武邑。この方と暫しお話がしたいと思います。その間席を外していただけませんか?」
「でも長兄さま……」
「わかりませんか、武邑?」
 そう言うと、教主は武邑を見つめた。その声音は穏やかで表情は笑顔だが、一瞬にして武邑の表情がこわばり青ざめた。
「承知いたしました。失礼いたします」
 武邑は立ち上がり深く一礼すると、部屋を出て行った。教主が微笑んでそれを見送るのを見て、長沼間が不審そうに尋ねた。
「いいのか? ボディガードを追い出しちまって」
「何をおっしゃいます。武邑があなたにかなうはずないでしょう。それに、万が一のことがあれば、扉の前に居た女性たちがすぐに駆けつけてきます。彼女らはあなたや鷹峰紗弥さんと同じくらい強いですよ」
「まあ、殺気がすごかったからな」
 長沼間が相打ちを打つと、教主は満足げな笑みを浮かべながら長沼間に言った。
「さて、暫し私の話を聞いていただけますでしょうか?」
「なる早で頼むぜ」
「意外と軽薄な言葉をお使いですね」
「asapの方がよかったか?」
「存外面白いお方なのですね」
 教主はくすくす笑ったが、すぐに真顔になって言った。
「では、先ほどの化石のお話の延長をいたしましょう」
「それが関係あるのか?」
「地球の歴史上、これまでに五回の大量絶滅があったのをご存知ですか? 最初は先ほどのオルソセラスがいたオルドビス紀末……」
「次がデボン紀後期で三回目がペルム紀末。これは史上最大の大量絶滅と言われている。四回目は三畳紀末、五回目が恐竜絶滅で有名な六千六百万年前の白亜紀末だ」
「正解ですが、一気にまくしたてましたね」
「戯言はいい。さっさと本題を話してくれ」
「もう本題に入っていますよ。長沼間様は、今が六回目の大量絶滅のさなかだということはご存知ですか?」
「ああ、野生動物の絶滅が加速している。ニンゲンによる環境破壊でな。だが、そんなことは半世紀以上前から言われていたことだ。代表が『沈黙の春』だ」
「このままだと未来の教科書には第六の大絶滅だと記載されるでしょうね。果たしてそれが人類の教科書かどうかはわかりませんが」
「ヒトも元より自然発生した『野生動物』だからな」
「人類はとっくにそれがわかっているのです。だから二酸化炭素削減やSDGs等の対策を始めました。だけど、人類が今のまま生息しているだけで、環境破壊は止まりません。そもそも二酸化炭素による温暖化問題が大きく取り上げられるようになったのは1985年のフィラハ会議からです。それから四半世紀超えても深刻さは増すばかりです」
「そりゃあ、いままで環境汚染しまくってた先進国がいくら『世界中のみなさん二酸化炭素排出を抑えましょう』と言ったところで、不公平だろ」
「そうなるのは判りきっていたことです」
「で、おまえさんはヒトが絶滅すべきって考えなんだな」
 教主はクスクス笑うと言った。
「おまえさんと呼ばれたのは初めてすが、新鮮ですね。でも武邑を下げててよかったです」
「俺もああいう武邑をみたのは初めてで新鮮だったがね。で、俺の質問に答えていただきたいんだが? 長兄さま?」
「あなたのおっしゃる通りです。碧珠のためにはヒトという種は必要ないと。でも、絶滅してもらうと原発や遺体の処理など後々困ることもありますから、産業革命以前の人口に戻るのが最適解だと思っております」
「それで、人間だけが罹る致命的な病原体を撒く計画を進めているわけだ」
 教主はそれを聞くと一瞬目に動揺が走ったが、すぐに微笑みを浮かべて言った。
「おやおや、そんな絵空事をおっしゃるとは。そもそも私共のようささやかな宗教団体にそんな大それたことができるでしょうか?」
「O教団が何をやらかしたか知ってるだろ?」
「彼等とは規模が違いますよ。私共は信徒の方々から頂いた浄財をもとに、さまざまな施設をつくり社会に貢献しているだけです。たしかにその中には医療施設もございます。でもそれだけで、あらぬ疑いをかけるのはやめていただきとうございます」
「公安なめんな、と言いたいところだが、確信を持ったのはキング先生が殺されて渡米した時だ。実は、ある人物から色々情報をうけてな」
「はて。あなたはアメリカから情報は得られなかったとおっしゃってらしたそうですが」
「やはり筒抜けか。そのとおりさ」
 長沼間は芝居がかった様子で両手を広げて言うと、続けた。
「情報は受けたがその証拠はない。全て|極秘事項《EYES ONLY》だったからな。馬鹿正直に報告したって信じてもらえねえよ」
「賢明ですね。そのとある人物とは、デスストーカーさん……ですよね」
「その仇名は本人に直接言わない方がいいぞ。気にしてるようだからな」
「しかし妙ですね。あの方はギルフォード先生の天敵とお伺いしていますが」
「まあ、いろいろあるんだろうが、あいつらにとっては|アメリカ合衆国《USA》の国益が優先されるからな。とばっちりが来る前に抑え込みたいんだろうが、やったら黒塗りされた書類を見せられたよ」
「それで、あなたはそんな米国の言うことを真に受けるのですか? あまつさえ、ギルフォード先生の天敵からの情報を?」
「さっき言ったとおり、連中の考えは至極シビアだ。それに、俺の調査に照らし合わせても矛盾はなかった。あんたの所に潜入して連絡を絶っている同僚、彼等からの情報もな」
 教主は長沼間の言うことに頷くと、笑顔で言った。
「そろそろ、腹蔵ないお話し合いをいたしましょうか」
「それは助かる。このままだと夜明けまでかかっちまうからな」
「長沼間様は、妹さんを先ほど話題の教団が起こしたサリン事件で亡くされていますね」
「そんなことはちょっと調べればわかることだ」
「私は霊視ごっこをするつもりで言ったのではありませんよ。事実を言ったまでです」
「おまえさんは、アフリカでアレクサンダー……ギルフォード教授と共に生き残ったサバイバーだったな」
「そのとおりです」
「それを教授にカミングアウトした時(第3部第2章11話)は、都築M&L商会の都築翔悟と名乗っていたそうだな。なぜ、宗教団体の代表だと言わなかったんだ?」
「よくご存じですね」
「H駅爆破事件の時、感対センターの防犯カメラも精査したからな。まさか、あれがおまえさんとは、ここに来るまでわからなかったがね」
「そう……でしたか。迂闊でしたね。一目でもお会いしたいと思ったのが仇になりましたか」
 そう言いながら教主の表情が柔和になり、やや控えめな口調に変化した。
「前もってお断りしておきますが、あれは兄の会社で、そのつながりで私は取締役で共同経営者をさせていただいております。ですが、それだけで、我が教会が携わっているわけではありません。我が教会とはまったく関係ありません。兄の会社はそっとしておいてください」
「それはこちらで判断する。で、正体を明かさなかったのは何故だ?」
 すると、教主の表情がまた変化したのを長沼間は見逃さなかった。
「正体とは人聞きの悪い。私は信徒以外に教主として姿をみせることが出来ませんから、一般人としてもう一つの顔が必要なのです。それに、教授は宗教アレルギーでいらっしゃるようですから、私が教主だと知れば警戒されてしまうでしょう?」
「まあ、多分そうなるだろうな。あいつは良くも悪くもおぼっちゃまだ」
「ご理解いただけましたか?」
「腹の探り合いはもういいだろう。何故俺をここに呼んだのか教えてくれ。前もっていうが、取り込もうとしても、俺は結城や武邑と違って手ごわいぜ」
「承知しております。それでも私はあなたとお話がしたかった。あなたも教授も、私と同じ思いをされたと思うから」
「同じ思いか……。実はな、お前さんの話を聞いていてふと思ったんだが、ひょっとしてお前さん、世界を道連れにするつもりなんじゃないのか?」
 長沼間は静かに教主の目を見ながら問うた。とたんに教主の顔から優しい笑みが消え冷やかな微笑に変わった。彼は長沼間の視線から目をそらさず、むしろ見据えて言った。
「では、お聞きしましょう。長沼間様は妹さんを亡くされた時何を思いましたか? たった一人の肉親を奪われてた時の耐え難い喪失感の中、この世など滅びてしまえばいいと思ったことはありませんか?」
「そりゃあ思ったさ。しかも、あんなとんでもない事件だったのに、あっという間に時に流され埋もれていく。教団は分裂したものの無くならず、信者を増やしていく。妹は何のために死んだんだ。ささやかだが幸せな人生を歩むはずだった。俺の足元は崩れかけ深淵をのぞかせていた。苦しかったし、この世も呪ったよ。こんな世界など滅びてしまえってね。いや、今だって思っているかもしれん」
 思い通りの答えが返ってきたせいか、教主はにっこりと微笑んで言った。
「私とギルフォード教授は、共に地獄を見ました。それでも、多くの方たちが手を差し伸べて下さり、何とか生き永らえました。一緒に疫病と戦った村人たちも救われました。それなのに、くだらない理由で彼等は国ごと消されてしまいました。しかも、宗教の名のもとに……。愚かなことに、今も神の名のやイデオロギーの下で争いが絶えません。そんなくだらないことで大地は穢され疲弊し、ヒトだけでななく、それ以外の生物たちが巻き込まれ絶滅あるいはその危機に瀕しています。要らないんですよ。ヒトの支配する世界は」
「おいおい、それを笑顔で言うか? おまえさんこそ一端(いっぱし)の宗教家だろう? クソどもと同じところに堕ちてどうするよ。以前は志があったのかもしれんが、今のおまえさんは、俺を地獄に叩き落したやつらと同類なんだよ」
 長沼間が揶揄したが、教主はそれに答えずに続けた。
「このままだと近いうちに核兵器がさく裂しますよ。そうなると報復合戦が起き、碧珠の環境は激変しましょう。そうなる前になんとかしなければなりません。時間がないのです」
「おいおいおいおい、いつのSF小説だよ」
「私は大真面目です。実際、滅亡時計はその頃よりさらに零時に近づいています。……私はあの時死に損ねた。生死をさまよったせいで、私の中のシャーマンの血が目覚めたのでしょう。その頃から繰り返し夢をみるようになりました。荒れ果てた大地に私がただ一人立ち尽くしている夢を。不気味な空、燃える大地、焼けた肉や炭化した木々の匂いや腐臭が漂い、時折吹く強風がそれらを舞い上げる。熱、におい、体に当たる風の痛み……、すべてがリアルで……。私は理解しました。それは碧珠が私に見せている、そう遠くないこの世界のビジョンだと。碧珠が、その覡(みこ)である私に送るSOSなんだ、と」
「それで、ヒトだけに致死的な病原体を作って、人口削減をもくろんでいるということか? この国を起点として?」
「おや、病原体とおっしゃった。ウイルスでなく?」
「だからどうした?」
「あなたはどこまでご存じなのでしょう。もう、すんなりとお帰しすることはできなくなりました」
「端(はな)っから一ミリも帰す気はなかっただろうが」
「あなたは今から私のダークマターとして動いてもらいます」
 教主はそう言うと腰を上げ、テーブルから体を乗り出すと長沼間に顔を近づけじっと目を見据えた。
「だから、俺はそう簡単には落ちないと言っただろう。催眠術も薬物も俺には効かん」
 長沼間は教主と目を合わせたまま泰然と言った。
「それに、俺だって無策で敵陣にきたわけじゃない。俺が一定時間たっても戻らなかった時は突入するよう、そろそろこの建物を部下たちが囲んでいるところだ」
「そうですか」
 教主はふっと笑って何事もなかったようにソファに座りなおした。
「では、これはどうでしょう?」
 教主は余裕の笑みを浮かべて言った。
「遥音先生、ここへ」
 すると、すぐに隣室の扉から白衣の女性が姿を現した。長沼間はそれを一瞥すると、軽口をたたいた。
「なんだ? 拷問の名人でも連れてきたのか? 女医と警察官の拷問プレイとか性癖が陳腐すぎるぜ」
「何をおっしゃいますやら。彼女は優秀なお医者様ですよ。もっとも、今は人間ではなく碧珠の治療に専念していただいておりますが。では、遥音先生、この方にあなたの研究成果をみせておあげなさい」
「はい」
 遥音は頷くと、教主の机からリモコンを取り、スイッチをいれた。壁に飾ってあった大型の額縁の絵が消え、モニター画面になった。そこに二つのウインドウが開き、それぞれに男性が解剖台に寝かされている映像が映った。二人の顔がアップになると、長沼間の表情が固まった。
「前崎! 川村!」
「彼らは田中と鈴木を名乗り、最後まで口を割りませんでしたが、やはりあなたの手の者(潜入捜査官)でしたか」
「きさま、こいつらに何をした? どうやったらこんな……、いや、まさか……」
「あの病院(感対センター)で似たようなものを見たことがあるかと」
「連絡が断たれたんで、生きてはいまいと諦めていたが……、あんたら、こいつらをモルモット代わりに……」
「碧珠を守るための尊い犠牲ですよ。貴重な資料を遺してくださいました」
「きさま……!」
「ようやく本気になってくださいましたね。それではこちらはいかがでしょうか?」 
 教主は手を挙げてパチンと指をならした。その後、遥音医師が入って来た扉の方が騒がしくなり、それがだんだん近づいてきた。そして扉が開くと椅子に拘束された男がスーツ姿の大柄な女性たちに囲まれて姿を現した。その顔を見て長沼間は驚いた。
「結城!?」
 長沼間の様子を見て、教主は満足そうな笑みを浮かべて言った。
「そうです。結城俊、本名は東堂誠一、あなたの後輩ですね」
「今はあんたの手駒だろう。ようやく長旅から帰って来たんだろうに、なんでこんなことになっているんだ?」
 さすがの長沼間も動揺を隠せず、ソファから立ち上がりかけて言った。
「そうです、長兄様! 私は仰せの通りにウイルスをばら撒き、その後も捜査を攪乱していきました。それなのになぜ……?」
「結城、あなたはウイルスを私怨を晴らすために利用しました。さらに、計画にない多田美葉を誘拐してしまった。あなたの無計画な行動のために私の計画が少しずつ狂っていきました。あなたはその負債を払わねばなりません」
「そんな……。お許し下さい、長兄様。せめて、せめてもう一度チャンスを……!!」
「残念ですが……。では、遥音先生、お願いします」
 教主はそう言いながら、遥音医師にテーブルの上においてあったケースを目で指示した。遥音医師はそのふたを開けると注射器が二本入っていた。その中から一本を取り出し、結城にゆっくりと近づいて行った。
「りょ、涼子……」
 結城は能面のような無表情で近づいて来る妻を見て恐れおののいた。
「何をするつもりだ? 僕がだれか判らないのか? 結城だ、結城俊だよ、君の夫じゃないかッ!!」
「なんだって?」
 それを聞いて長沼間も驚いた。
「この女医さんと結城、いや、東堂が夫婦だって?」
「そう、彼は我が教団に入心する時に遥音先生と結婚されたのです。その後、碧珠を守るという誓いと共に、私の結成した組織『タナトス』に入っていただきました」
「タナトス……。やはりそれがテロ組織の名前か」
「テロ組織とは人聞きの悪い。碧珠を人類から守るガーディアンですよ」
「中二病かよ」
「なんとでも。さあ、遥音先生」
 教主は躊躇なく遥音医師を促した。
「招致致しました」
 遥音医師は無表情で結城に近づいて行く。
「やめろ、やめてくれ!!」
 結城は必死にもがいたが、拘束されている上に女たちから押さえつけられ、身動きが出来ずシャツの前をはだけた状態になった。
「いいかげんにしねえか? 俺にはそんなもん鑑賞する趣味はねえと……」
 長沼間がげんなりしながら言いかけて、ふっと嫌なことが頭をよぎった。
「おい、その注射器の中、ひょっとして……」
「そうですよ。お察しの通り、サイキウイルスの最新株です」
「まて、多少命令違反があったかもしれんが、何年もあんたのために単独で働いて来た信徒だろう? あんまりじゃないか?」
「彼は最後に身をもって碧珠に尽くすのです。これは光栄な事なのですよ」
「んなわけあるか」
「多くの信徒は進んで受け入れてくださいました。私と同じ苦しみを経験したいと」
 この言葉で長沼間の脳裏に、院内感染後、死に赴きつつあった時の園山看護師を思い出した。
「園山修二ってヤツを覚えてるか?」
 園山看護師の名を聞いた教主は、一瞬邪悪な表情になったがすぐに悲しそうな表情に変化し言った。
「先生、少しだけ待ってください。……ええ、覚えておりますとも。ずいぶんと役に立ってくれましたが、最後の最後に裏切られてしまいました」
「あいつはな、最後まであんたらをかばっていた。あいつは俺たちにとっても裏切者だったが、事実、献身的な看護師だった」
「可愛そうに、彼は奈落の底に落ちてしまいました」
「生憎、やつは救われたよ。アレクサンダー君のおせっかいでね。あんたなんかに引っかからなきゃ、看護師としてまっとうな人生を送られただろうに」
「残念ですが、碧珠を裏切った者には救済などありませんし、私の信徒たちには今の会話は響いていませんから」
 教主は冷たく言い放つと、勢いよく立ち上がって言った。
「遥音先生、続けてください」
 鶴の一声で遥音医師はまたゆっくりと動き始めた」
「涼子! 頼む、やめてくれ!!」
「おい、先生、旦那だろ? 許してやれ!!」
 長沼間も不本意ながら一緒に許しを乞うたが、遥音医師をとめることは出来なかった。止めようと長沼間が立ち上がった時、結城の右肩に注射針が刺さり、結城の悲鳴が響いた。
「貴様ァ!!」
 仲間の映像が重なり、一瞬理性が飛んだ長沼間が立ち上がって叫んだ。女性二人が鋭い目で長沼間を見た。教主は長沼間の方を向き、にっこりと微笑んで言った。
「もうひとつお教えしましょう。蛾にあなたの部下を襲わせたのは私の指示です」
「貴様!!!!」
 その一言で長沼間の理性が完全にふっ飛び、教主に掴みかかろうとした。しかし、あっという間に女性二人に取り押さえられ床に押さえつけられた状態になった。普段ならあり得ない大失態である。
 それを見下すように教主が近づいてきて長沼間の目の前に片膝を立て座った。
「あなたが理性を失うのを待っていました」
 教主は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、長沼間の目を見据えた。


 

 長沼間さんが、錦織さんにっ!

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2.急転 (6)ディスカッション&ディスコンフォート

 話は少し前に戻る。

 碧珠善心教会F支部の建物の周囲で、突入待機をしていた三之丸たちは、なかなか指示がないことにやきもきしていた。
「何してんのよ、長沼間さん」
 警察車両やパイロンで道を塞いでいるにも関わらず、徐々に野次馬が増えていく現状に、三之丸はイラついてつぶやいた。他の警察官たちも不安そうに建物の方を見ている。SV対策チームの主任で今回の突入の指揮を任されている富田林は、かなり前からイライラの空気を纏わせていたが、しびれを切らして三之丸に訴えてきた。
「おい、遅すぎやしないか? 中で何か起きているのではないのか?」
「長沼間に限って、そんなことはないと……」
 言いながら一抹の不安を覚え、三之丸の語尾がかすれた。
「ほー、俺はただの胡散臭いヤツとしか思っていないからな。そもそもあんたら公……」
「ちょっ、やめてください」三之丸は富田林の言葉を遮って小声で言った。「私が公安ってことが周知されていないのはご存知でしょう」
 そんな中、武邑から電話が入った。
「すみません、三之丸主任、今回の突入は中止です」
「はあ、中止? 何を今更! 長沼間さんはァ⁈」
「もう少し教主と話すということです。建物の突入に十分な証拠や証言が得られなかったのと、結城から解放された多田美葉は自主的にこちらに保護されたということで、男女間のトラブルという見方をされ、誘拐事件ではないという判断になったそうです。多田美葉は、結城が行方をくらましたという危機感で残りたがったようです」
「は? ナニソレ……。で、肝心の結城は?」
「それが、数日前に多田美葉を連れて来てからすぐに出て行ったということで、行方が分からないと。僕たちが救出に行った時、室内には多田美葉だけがおどろいた顔でこっちを見ていて……」
「はあ? 一体どういうこと? わけわからんし、どうすんのよ、これ!」三之丸は自分の装備と周囲を見回して言った。「私ら、もう突入する気満々だったんだよ。このモチベーションどうしてくれんのさ!!」
「申し訳ありません。取りあえず本部に戻ってください。詳しい説明は後ほど」
 そう言い捨てて、武邑の電話は切れた。
「もう、何考えてんだよ!! だからあいつらとは仕事したくなかったんだよ」
 三之丸はガンと壁を殴った。思い切り殴ったので手袋で守られている手に結構な衝撃が走り、三之丸は顔をしかめた。彼女は右手を二回ほど振ると、ため息をついてから、横で事情を察し不機嫌さMAXの富田林に伝えた。
「とりあえず撤収だそうです。申し訳ない」
「はっはあ、申し訳ないで済んだら警察は要らんわ! って俺ら警察官だったわ、って、ふざけんな!!」
 富田林はそうぶちまけると、隊員たちに号令をかけた。
「撤収する!!」
 当然隊員たちから不満の声があちこちに上がった。
「命令だ! 四の五の言わずに帰るぞ!!」
 富田林は吐き捨てるように言うと、自ら撤収の準備を始めた。その横を、スモーク窓の黒塗りハイブリッド車が、独特の人工音を立てて通って行ったが、誰も気に留める者はいなかった。

 美葉が目を覚ますと、自分の部屋のベッドに横たわっていた。横を見ると、由利子が心配そうに自分を見ている。
「美葉、頑張ったね」
 由利子が泣笑いで言った。
「私、うちに帰れたと?」
「そうだよ、公安の人たちが助け出してくれたんだよ」
 それを聞いて、美葉の目からぽろぽろと涙があふれた。
「由利ちゃん、私、頑張ったんだよ。絶対助けが来るって信じてたんだよ。何度も死んだほうがましだって思ったけど、四か月近く……、長かった。長かったよ」
「うん、うん……」
 由利子も涙でくしゃくしゃの笑顔で答えている。
「これからも大変だと思うけど、諦めちゃだめだよ。ほら、アレクも心配してきてくれたんだよ」
 そう言われて由利子の背後を見ると、ギルフォードが立っていた。
「ハイ☆」
 ギルフォードはウインクをしてにっこりと笑った。
「ミハ、辛い状況をよく耐えてくれました。ミツキちゃんも元気になりましたよ。おいで、ミツキ!」
 ギルフォードの合図で、待ってましたとばかりに愛犬の美月がベッドに上半身を乗り上げ、満面の笑みで美葉の顔を舐めてきた。
「美月、良かった。生きてたんだね。ありがとうね。良かった、本当に良かった」
 美葉は、その時何か違和感を感じた。残暑の名残があるとはいえ、もう十月に入っている。ギルフォードはともかく、由利子は何故夏服を着ているのだろう。これは確か、最後に会った日の服装だ。そう思った時、ハッと目が覚めた。 
 美葉はベッドに寝てはいたものの、違和感しかなかった。横を見ると、座っているのは由利子ではなく若い女性だった。彼女は心配そうな表情で、優しく美葉の顔の汗をぬぐっていた。 
 美葉はガバッと起きて周囲を見渡した。自分の部屋とは全く違う部屋に居た。美葉の脳裏に今日の出来事が走馬灯のように浮かんだ。
「私、また、監禁されちゃったんだ」
 美葉はそう呟いた瞬間、反射的にベッドから飛び出し、ドアに向かった。しかし、当然ドアノブを回しても扉は開かない。美葉は周囲を見回すと、ドレッサーの鏡に気が付いた。迷わずそこに向かうと、右ひじでガラスを打った。ピシッと蜘蛛の巣状のひびが鏡に走った。もう一度肘打ちをしようとして、同室に居た女性が羽交い絞めにして止めた。見かけによらず、強い力だった。
「もう死ぬんだ! 死なせてよ! もう生きていたって仕方がない」
「だめだよ! 事情は分からないけど、死んじゃダメ!! ここはいいところだよ。ごはんもちゃんと食べられるし、毎日お風呂にも入れるし、ベッドは柔らかくてあったかいし!!」
 思いもよらない女性の言葉に、美葉は彼女の方を向いた。そこには邪気の全くない幼さの残る顔があった。それで気が緩んだのか、眩暈に襲われ床に座り込んだ。
「ああ、ほらほらぁ。お姉さん、すごい熱があるのよ。よっぽどのことがあったんだね。取りあえずもう少し寝ようよ。ね? ね?」
 女性は、美葉を抱えてベッドに運んだ。見かけによらず強い力だった。彼女は美葉をベッドに寝かせると、掛け布団をかけ、またベッドの横に座った。
「何があったか知らないけど、死ぬのは絶対ダメ。せっかくひどい家族から逃げてきたんでしょ?」
 美葉は女性の顔を見た。彼女は自分(美葉)のことを、家族のDVから保護されたと聞かされているらしい。確かにDVから逃げたことには間違いはないと思うが、実際の状況は全く異なっている。しかし、ここで事実を離しても彼女は理解できないだろう。自分だって状況が良くわかっていないのだから。女性は美葉に諭すような口調で言った。
「大丈夫、お姉さん先生が診てくれて注射とかしてくれたから、ゆっくり休んだらすぐに治るよ」
「うん。そうする……」
 美葉は短く答え、すなおに横になった。彼女に敵意はなさそうだ、しばらく様子を見てみようと、美葉は冷静さを取り戻した。

 葛西が対策室で『ディスカッション0』を配信で見直していると、仏頂面の富田林が帰って来た。
「あれ、富田林さんどうされたんですか?」
「どうもこうもねえよ。いきなり宗教施設突入を命令されてよ、人員そろえて装備整えて現場行って待機しとったら、また唐突に中止命令が出てな。とんだ無駄足だったわい」
「え? そんな命令が?」
 葛西は少し不満そうに言った。
「僕は聞いていません!」
「おまえ、今日は半休を取っとったやろうが」
「まあ、そうでしたが」
「どうせ、篠原由利子とデートでもしてたんだろう?」
「会ってましたがデートというわけでは……」
「そんなこたぁどうでんよか。まあ、それもあって連絡が行かなかったんだろうよ」
「あ、ということは、由利ちゃんに関係がある? ひょっとして、多田美葉の救出……」
「相変わらず勘だけはいいな。中止になった理由だが、公安さん曰く『結城はとっくに宗教施設から逃走し、多田美葉はその施設での保護を希望』だとよ」
「そんなバカな! 美葉さんがそんなこと希望するはずないです。結城から解放された美葉さんに、もう隠れる意味はないでしょう。それとも、その宗教に洗脳されてしまったのでしょうか?」
「そんなこたぁ、俺に訊いてもわからん! おそらく逃亡中の結城が不安なんだろう」
「そっか。で、それは、どこの宗教なんです?」
「碧珠善心教会だ」
「え?」
「何か心当たりでもあるのか?」
「由利ちゃんが……」
「おまえ、職場で『由利ちゃん』呼びはやめろ。公私混同だぞ」
「すっ、すみません」
「で?」
「あ、はい。篠原さんに以前、死ぬ間際に園山が言った言葉に該当する、カルト教団を見てもらいましたが……」
「ちょっとまて。その調書は俺も見たぞ」そういうと、富田林は腕組をしながら少し上を向いて考えていたが、手をポンと打って言った。
「そうだ、篠原が一番気になっていたという教団か!」
「そうなんです。H駅爆破犯の古河勇が入信していたと言われる大地母神正教に嫌疑が移ってしまい、捜査対象から外されてしまいましたが」
「てえことは、実のところ公安は碧珠善心教会をまだ疑っていたということか」
「突入指示が出たということは、それなりの証拠があったはずです。古河が大地母神正教の前に入っていた教団ですし」
「そもそも民間人の誘拐程度で公安が動くとは思えん。突入はウイルステロ画策の重要参考人の目星がついていたとしか考えられん」
「命令は何だったんですか?」
「結城の確保と人質の保護だ」
「それが、いきなり中止になったんですね」
「その時は頭に血が上っとったんで、とっとと撤収したんだが、今、頭を冷やして考えると色々妙だな。急に路線変更になったってことか」
「僕もそう思います。長沼間さんはよくギル教授の研究室に来るので、出会えたらカマをかけてみます」
「ムカつくが、相手が公安じゃそれしかなさそうだな。おまえ、このことは篠原由利子には?」
「伝えるべきだと思います。救出出来なかったのは残念ですが、多田美葉の生存は確認されているようなので」
「頑張れよ。伝え方に寄っちゃあ、彼女、県警に怒鳴り込みかねないぞ」
 富田林に言われて、葛西は頭を抱えた。富田林がしてやったりという顔をしていたので、葛西は件の配信を富田林に見せることにした。
「その碧珠なんたらという宗教団体なのですが、これを見てください」
 それを閲覧して、今度は富田林が頭を抱えていたが、教主の例の話が始まると、「ふむふむ」とたまに感心しながら聞いていた。
「教主サマのおっしゃっておられることは、筋が通っていると思うし、俺も納得するところもあるな。時々引き込まれそうでヤバかった。しかしなあ、なんだろう、この違和感は」
「やはり、違和感ありますか?」
「うむ、イケメンすぎる」
「はあ?」
「イケメンで教主という立場ってこたぁ、明らかに勝ち組側だろ。そんなリア充が、なんで地球の未来を憂える必要があんだよ? 教主なんて、女侍らしてウハウハしてりゃあいいのによ」
「もう、富田林さんてば、鹿爪(しかつめ)らしい顔で聞いていたと思ったら、そんなことかんがえてたんですか」
「おおよ、おれはキングオブ俗物だぜ。悪いか?」
「はいはい、番組終わったから切りますよ」
 葛西はため息交じりに言うと、PCの電源を落とした。
(こういうところは、元の富田林さんなんだけどなあ)
 葛西は、「ちょっくらシャワー浴びてくるわ」といって部屋から出ていく富田林の背中を見ながら、若干の寂しさを感じていた。

 由利子は、美葉奪還計画の失敗どころか、それがあったことも知らずに床に就いていたが、何故か不安で眠れない。
「なんか、興奮して眠れないのかなあ」
 由利子はつぶやいた。確かに、あんな風に告白されたのは初めてだった。
 初めて由利子が結婚を意識した相手は、なんとなく付き合い始めてなんとなく半同棲状態になって、二股かけられて破局という、今考えると若さ故のしくじりであり、黒歴史だった。なので葛西の告白は非常に新鮮であり、嬉しくもあったのだが、七歳も年上の自分とはやっぱり釣り合わないとも思うし、さらに今まで異性というより弟ポジだった彼を配偶者としては、出会った頃ほどではないが、やはり少し頼りなさも感じていた。
 それより、心の底に何か違う不安を感じているような気がした。
「好事魔多し……?」
 由利子はまたつぶやいた。いやいや、今は全然好事ではない。美葉も見つからないし、なによりウイルス事件は殆ど進展していないではないか。では、それ故の不安か? ふっと落ちて割れたあの写真立てが頭に浮かんだ。
 色々とりとめのない考えが浮かんでは消え、由利子はしばらく寝返りを繰り返していたが、いつの間にか眠っていた。

20XX年10月4日(金)

 三之丸は昨夜県警本部に帰ってから、早々警備部部長から突入中止についての説明を求められた。仕方なく武邑から聞いた長沼間からの伝言を言うしかなかったが、非常に気まずい思いをしてしまった。あれから長沼間も武邑も姿を見せていない。二課課長の大野に訴えかけても、ぬらりくらりと誤魔化されるだけだった。

 結局、調書やら何やらで徹夜した三之丸は、目の下に隈を作ったまま由利子の朝の護衛にあたった。マンションから出てくる由利子を見つけて、軽く会釈をしてからお互い顔を見合わせた。すると両者ともに目の下に隈を作っている。
「おはようございます。あはは、色々考えたらなんか眠れなくて」
 由利子が照れ笑いをして言った。三之丸は苦笑いで答えた。
「私はクソ男共のケツ持ちで徹夜ですよ」
「なにかあったんですか?」
「いえ、大したことではありませんよ」
 三之丸がにっこりと笑って答えた。由利子はあっと思った。任務についてうっかり聞いてしまった形になったからだ。
「働いていると色々ありますよね」
 由利子はそう言ってお茶を濁すと、三之丸の先に立って走り始めた。三之丸は軽くため息をつくと、数秒置いて由利子の後を追った。

 由利子は仕方なく寝不足の状態で出勤した。迎えにはギルフォードが来たが、由利子の顔を見て一瞬意味深な笑みを浮かべ真顔に戻った。勘違いされたかなと思いながら助手席に乗ると、ギルフォードはニコッと笑って言った。
「おはよう。おや、ジュンの方が良かったですか?」
「おはようございます。どっちでもいいです。二人には感謝していますから」
 由利子はむすっとして答えた。
「葛西君とは特になにもありませんから。ただ、昨日気になる番組があったんで、葛西君と見てたんです」
「昨日、二人からメールで連絡があった討論番組ですね。僕もすぐに配信をみましたけど、なんか、こう、すごかったですね」
「ええ、久しぶりに頭がクラクラしました」
「ユリコ、会話が敬語に戻ってますよ」
 ギルフォードはそう言うとクスッと笑った。それで、由利子も可笑しくなって答えた。
「あはは、ホントだ。でも、そういえばアレクはいつも敬語やん。まあ、らしいっちゃらしいけど」
「まあ、僕は日本語をシンイチから習ったんで、敬語が一番使いやすいんです」
「あ、新一さんもそんなしゃべり方だったんだ」
「はい。シンイチが僕のために日本語レッスン用のテープを作ってくれて、そのために敬語感が増し増しになっちゃってて」
「レッスン用テープ! 時代だなあ。でもほほえましいよ」
「まあ、そんなわけで、あまり気にしないでどんどんタメ口で話してください」
 その後、やや自分に踏み込んだことを言ってしまったと思ったのか、ギルフォードは話題を元に戻した」
「で、昨日の番組についてですが、ユリコにお願いがあります。今日はその配信を見ながら文字起こししてほしいんです」
「え? またあれを見るの? しかも文字起こし? アプリ使えばいいじゃん」
「正直、僕は『碧珠善心教会』をまだ疑っています。H駅爆破犯人の古河がかつて入信していたところですから。ユリコも文字起こししながら、何か思いつくことがあるかもしれないと思ったのです」
「そっか、わかった。やってみるよ」
 由利子は快く引き受けた。
「そうそう、文字起こしだけじゃなくて、その時の状況も書いてください。誰がどういう表情をしていたとか気になった点は特に。君の主観でかまいません」
「え?」
 由利子が嫌そうにギルフォードの顔を見た。
「文章は得意でしょ?」
 ギルフォードがにっこり笑って言った。

 その日の午後、葛西と青木がギルフォード研究室に行くと、ノートパソコンの前で由利子が頭を抱えていた。
「みなさん、こんにちは」
「こんにちは、って、あれ? 由利子さんどうしちゃったんですか」
「チャオ、ジュン、カズ。 昨日の例の番組の文字起こしを由利子にお願いしたのです」
「あー、あれね。そりゃあ、ああなりますよね」
 葛西の声に、由利子が顔を上げて言った。
「おー、葛西君に青木君。こんにちは」
「今日のお茶請けは、16区(フランス菓子16区)のダックワーズです」
 青木が明るく言うと、由利子がほっとした表情で言った。
「あー、ありがとう(たすかった♪)。早いけど、お茶しよう、お茶」
 いそいそと立ち上がろうとした由利子の両肩を抑えて、紗弥が言った。
「お茶はわたくしが淹れますわ。由利子さんは続きをどうぞ」
 紗弥は由利子を椅子に座りなおさせると、さっさとお茶の用意をしに行った。由利子はげんなりとした顔をして、パソコンに向かった。
 青木がこっそりと葛西に訊いた。
「そんなすごい番組だったんですか?」
「たぶん、君の想像以上」
「うわあ」
「あとで配信先メールするよ」
「え?」青木は驚いて葛西を見たが、彼はさっさと持ってきたお土産の箱を開け、お茶の準備に取り掛かっていた。
 (おれ、見なイカンと?)
 乗り気のしない青木は、余計なことを言ったと後悔していた。

 由利子がお茶の時間を切り上げ文字起こしに戻ろうとした頃、ふらりと長沼間が姿を表した。
「よお」
 長沼間が珍しく親しげに声をかけた。ギルフォードは立ち上がり、長沼間の方に向かって言った。
「久しぶりですね」
「ああ、色々と忙しくてな」
 長沼間はそう言いながら、すっと研究室内に入って来た。
「相変わらず遠慮のない人ですね。まあ、取り敢えずソファにでも」
「ああ、そうさせてもらうよ」
 ギルフォードに言われて、長沼間は遠慮なく葛西の隣に座った。そこはさっきまで由利子が座っていた場所だった。葛西は一瞬嫌な顔をしたが無理やりポーカーフェイスを作った。長沼間はそれに気づいてニヤリと笑って言った。
「おっと悪いな坊や。カノジョの席を奪っちまって」
「構いません。由利子さんは仕事に戻ったので」
「篠原は何をやってるんだ?」
「いう必要あります?」
 いつになく長沼間に冷たい口調の葛西に、ギルフォードは「おや?」という表情をしたが、すぐにいつものアルカイックスマイルに戻った。
 長沼間はその後、軽く世間話をすると、不意に立ち上がってギルフォード研究室内をぶらりと眺めて回ると、ドアに向かった。
「もう帰るんですか?」
「ああ、邪魔したな」
「何しに来たんですか?」
 ギルフォードが問うと、長沼間は心外だと言う表情をして答えた。
「いや、いつもこんな風だと思うが」
「まあ、そうですが」
「じゃあな」
 長沼間は、一言暇(いとま)を告げると、ギル研を出て行こうとしたが、いつの間にかドアを開けて立っている紗弥を見て、一瞬驚いた風だった。しかし、「お気をつけてお帰りくださいませ」という挨拶に「鷹峰ちゃん、またな」と普通に返してさっさと帰って行った。
 ギルフォードはいぶかしげな表情のまま、長沼間が出て行ったドアを見つめて言った。
「なんか、いつものナガヌマさんじゃないような……」
「そりゃあそうでしょうよ」
 葛西がやや声を荒げて言った。
「どうしたんですか、ジュン。らしくない」
「僕だって、らしくない時くらいあります!」
「ジュン、えーっと?」
「じつは」青木が割って入る。「長沼間さんたち公安が大ポカをやらかしたらしいんです。で、無駄足させられた富田林さんたちが滅茶苦茶怒って、結果公安二課とちょっとしたごたごたになってしまいまして」
「なるほど。それでなんとなくいつもと違ってたんですね」
「きっと、様子を見に来たんですよ」これは葛西。「で、僕らが居たので長居を止めてさっさと帰ったんです」
「で、何をやらかしたんです?」
「それが、ある人の奪還作戦がいきなり中止になったと……」
 それを聞いて、はっとした由利子が話に割って入った。
「ちょっと待ってよ。ある人ってまさか」
「公にされていませんが、おそらく美葉さんです」
「美葉? 無事だったの⁉」
「無事ではあったようです。が、今いるシェルターに残りたいと、救出を拒否したと」
「そんなわけない!」
 由利子が激しく椅子から立ち上がったので、キャスター付きの椅子が後ろに下がって一メートルほど後ろの壁にぶつかった。
「美葉がシェルターに隠れる意味なんかない。結城はどうなったの? 逮捕されなかったの?」
「武邑さんたちが突入した時には、とっくに姿をくらましていたらしいです。なので、美葉さんが怖がってシェルターに残ることを希望した……らしいです」
「逃がしたっていうの? 結城を? なんで? なんでだよ!!!」
 由利子はそのまま悔しそうに、机をグーでガンガンと二発叩いた。
「由利子さん、落ち着いてください。壁をぶち壊したいくらい悔しいのは僕らも同じです」
「そうですよ、ユリコ。そんな風に冷静を欠くなら、情報共有は難しくなりますよ」
 由利子は、机に両手をついたまま下を向いていたが、三回ほど深呼吸して椅子を元に戻して座った。
「ごめん。私はもっと冷静にならなきゃね。でも、もし救出作戦がうまく行ってたら、今頃は美葉に会えてたかもって思ったら、頭に血が上っちゃった」
「OK、ユリコ。良く自制しました」
「無事が確認できたことは良しとしなきゃね。ごめん、葛西君。話を続けて」
「はい。結局、富田林さんたちは、昨夜十時過ぎ、突入ギリギリで中止を告げられ撤収を余儀なくされたそうです」
「長沼間さんの判断なんだね?」
「報告ではそう上がっています。僕はまだ直接話してないので、詳しいことは……」
「とりあえず、長沼間さんが変だったのは納得した。起こったことには納得していないけど」
「ですよね。僕から改めて聞いてみます」
「じゃあ、私は、さっさと例の番組の文字起こしをがんばるわ」
 そういうと由利子は席に戻っていった。



 

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2.急転 (7)キッズアタック

 葛西たちが帰った後、由利子は書き起こしの続きをしていたが、ある個所までいくとキーボードを打つ手が止まった。
 いち早くそれに気づいたギルフォードが、席を立ち由利子の方に向かった。
「どうしました?」
 由利子のPCモニターを見ると、それは碧珠善心教会の教主が挨拶をする場面だった。イヤホンをしていたせいか、由利子はギルフォードの言葉が聞こえないようで、キーボードに手を置いたままぼーっとしている。ギルフォードは急いでイヤホンジャックを抜いた。そのとたん、教主の声が教授室に広がり、一瞬ギルフォードも軽い眩暈に襲われた。ギルフォードは慌ててボリュームを下げ、由利子の肩を軽く2回叩いて言った。
「ユリコ、どうしました? しっかりしなさい」
 その声で、由利子は弾かれたように我に返った。
「あれ? あ、ごめんアレク。私、ひょっとして居眠りしてた?」
「いえ、起きてましたよ。ただ、急に動きが止まってぼんやりしていたので……」
「やばっ。実は、昨日もこの教主の演説聞いててぼうっとしたんだよね。葛西君の声で我に返ったんだけど」
「演説……。確かにこれは演説ですね。実は、僕も君たちの知らせで配信を見たとき、彼の声を聴いて少し不思議な気持ちになったんです」
「アレクも?」
「はい。ぼうっとはしませんでしたが、彼の声になんかノスタルジーめいた……、聞いたことがあるような懐かしいような不思議な気分になったんです」
「そういえば、あの時……カルト教団データベースでこの教団を調べていた時も、アレク、『会ったことがあるような気がする』みたいなこと言ってたよね」
 そこで、二人は顔を見合わせてしばらくの間無言になった。
 先に口を開いたのは由利子だった。
「やっぱりこの教団、気になる……」
「そうですね。これは、なんとしてもキョウ(松樹警視正)にこの教団を徹底的に調べるよう、お願いしなければなりませんね。ユリコはそのまま書き起こしを続けてください」
 そう言うと、ギルフォードは席に戻り受話器を手に取った。

 夕方、葛西が由利子を迎えに行こうと県警の駐車場を歩いていると、長沼間が柱にもたれかかっているのを見つけた。葛西は不機嫌そうな表情を浮かべながら、無視して通り過ぎようとした。
「よお、お疲れさん。篠原を迎えにいくのかい」
 すれ違ったところでからかうような口調で声を掛けられ、葛西はむっとして振り返った。
「なんか用ですか?」
「ぶっきらぼうだな。そういうところは相変わらずのお子ちゃまだな」
「そんなんはいいです。要件があるなら早く言ってください」
「そうじゃけんにするもんじゃないよ。失敗は成功の基ってな」
 長沼間は、意味深に言うと、内ポケットに手を入れながら言った。
「今日は、ちょっとしたネタを渡そうと思ってな」
「な、なんですか?」
「鉄砲なんか出しゃしねえよ。ほれ」
 と言いながら、長沼間はリーフレットを葛西の目の前にちらつかせた。
「なんですか、それ?」
「碧珠なんちゃらとかいう教団の教主が講演するてなチラシだよ。気になってんだろ?」
「どうしてそれを? それにそんなもんどっから……」
「公安なめんなよ。と言いたいところだが、T神をぶらついていたら道端で配っとった」
「長沼間さん、チラシとか受け取るんですか?」
「情報収集の一環でな。まあ、行くか行かないかはおまえさんたちに任せるよ。明日の午後かららしい。デートの場所にしては無粋だけどな」
「デ、デート?}
「明日は土曜だ。ちょうどいいじゃないか」
 長沼間は、若干うろたえる葛西にリーフレットを渡すと、笑いながら去っていった。
「あいつ、やっぱキャラ変わった???」
 去っていく長沼間の後姿を見ながら、葛西は首をひねっていた。

「へえ、そんなことがあったんだ」
 葛西に送ってもらう途中、車の中で由利子がリーフレットを見ながら言った。
「明日の午後二時から、T神のXXホールかあ。駅から割と近いやん」
「なんか、出来すぎたタイミングで、ちょっと気が引けますが」
「いいやん。行ってみよう。行って直に教主様のお言葉を聞いてみようよ」
「え? 行くんですか」
 葛西は内心(どうせなら、映画とかがいいのに)と思いながら、やや不満そうに言った。しかし由利子は、にっと笑って答えた。
「公安(長沼間)さんが何か企んでいるとしても、渡りに船じゃん。せっかくだから乗ってみようよ」
「危険です。行くなら僕が同僚連れていきますから」
「民間の私と行った方が、何かと誤魔化せるって。行ってみようよ」
「じゃあ、アレクも行った方が……」
「アレクは目立ちすぎて、嫌でも人目をひいてしまうやろ。でも言ったら付いてきたがるだろうから、事後報告しよう」
「絶対にいじけますよ」
 それを聞いて、由利子は一瞬戸惑ったが、「やっぱり目立つのはなあ……」と言って、ギルフォードと行った時の情景を思い浮かべた。
「やっぱり、二人で行こう」
「そうですね」
 葛西も同じ想像をしたようだった。

 その夜、ギルフォードは松樹を食事に誘った。もはや、電話では埒が明かないと思ったからだ。松樹は多忙であるものの、快く時間を作って会ってくれるといった。
 場所は、松樹指定の某繁華街にある割烹料亭である。場所が場所なので、悪目立ちするギルフォードは紗弥を残し一人でタクシーを使って、松樹が言うところの「密会」場所の割烹に向かった。店の前に着いた時、駐車場から訳ありげな黒塗りのクラウンが出ていくのにすれ違った。一瞬の横顔から、運転手はおそらく早瀬隊長だろうと判断した。腹心の部下に送らせたということは、松樹は誰にも知られないよう、サシで話し合いをするつもりだろう。冗談げに密会と言っていたが、本気だったのかと、ギルフォードは苦笑いをしつつ、松樹も何かただならないものを感じているのだと確信した。

 店の玄関に向かうと、庇の柱になにか小さいものがめり込んでいるのに気付いた。よく見ようと思ったが、店の人が出てきて早々に店内に引っ張り込まれた。その後、案内されてた部屋には既に松樹が座っていた。盃を片手にくつろいでおり、ギルフォードを見ると笑顔で手招きをした。
「おう、早くこっちに来て座れよ」
「すみません。なんか場違いすぎて気後れがして……」
「何を謙遜している。君、上流階級のパーティなんかしょっちゅうだったろうが」
「そんな昔のことなんか覚えてませんよ。今はしがない大学教授ですからね」
「まあ、とにかく座れ。さあさあ」
 松木に急かされて、ようやく彼の前に座った。
「あれ、掘り炬燵式じゃないんだ」
「無粋なことを言うな、って、何おかっこしてるんだ」
「だって畳には正座でしょ」
「男は黙ってあぐらをかくんだ」
「そんなクールポコみたいな……」
「そもそも君は正座に慣れてないだろ。痺れてぶっ倒れるぞ。あぐらでもなんでもいいから、正座以外で座れよ。先に進まんだろ」
「横坐りでもいいですか」
「どうでもいいから早く座ってくれ」
「はいはい」
 ギルフォードはとりあえず横坐りをした。
「では、仕切り直して、まずは乾杯だ」
「まだ乾杯するような気分じゃないですけど」
「あのな、なんで君は俺に対してだけ、普段以上に絡むんだ?」
「うーん、なんとなく?」
「あのな、引っ捕まえて日本酒ラッパ呑みさせるぞ。まあいいや。とりあえず、君のためにとっておきのワインを用意したんだ」
「僕を酔わせて何するつもりですか?」
 ご存知の通り、ギルフォードは下戸である。
「アホか。ノンアルのワインだ。本物のワインの製法で作られたヤツだ。いつか君とサシで飲もうと思ってな」
「それは光栄ですね、センパイ」
 口調はおちゃらけ気味だが、実のところ嬉しそうな様子だった。グラスに注がれたノンアルワインの赤は、室内の灯りに照らされて美しかった。
「飲むのが勿体無いですね」
「とりあえず、乾杯しよう」
「では、ボーディングスクール(英国の寮生学校)からの友情に,乾杯!」
「乾杯!」
 二人は軽くグラスを合わせ、ワインを飲んだ。
「あ、これ、ホントに美味しいです」
「喜んでもらえてよかったよ。おっと料理が来たようだな。どうぞ、お入りください」
 松樹が声をかけると、襖が開いて、中居さんたちがお膳を運んできた。
「では、ごゆっくりとお寛ぎくださいませ」
 女将らしき年配の女性が、三つ指をつきながらそう言うと優雅に立ち上がり、イケオジ二人に若干色めきだっていた若い中居さんたちを引き連れて去っていった。
「ねえ、キョウシロー。女性たちにお酌とかして欲しかったんじゃ?」
 と、ギルフォードが松樹をからかった。
「莫迦言え、俺は妻一筋だぞ。手酌が気遣いなくて一番良い」
「オー! イッケツシュギ!」
「下品な言い方をするな。誰から教わったんだか」
 と、松樹は苦笑したが、ぱん!と手を叩いて言った。「さあ、腹が減っただろう、まずは、食べてくれ」
「では、いただきましょう。会席料理、wonderfulです♡」
 ギルフォードは料理に感動しながら、両手を合わせて「いただきます」と言い、箸をとった。

 
「さてと、お膳は下げてもらったし、腹が充実していい具合に思考もまったりしたところで、本題に入ろうか」
「美味しゅうございました。特に、お刺身の舟盛と海老しんじょのあんかけは、絶品でございました」
「気に入ってもらえてうれしいよ。では、早速だが、これからの会話は英語で話してくれ」
 “ああ? 唐突になんだよ。そんなやべぇ状況なのか?”
 “いきなりキャラを変えるな。アメリカンのほうじゃなくて、イングリッシュで頼むよ。なお、出来るだけ上品にね”
 “Certainly(承知しました)"
 “遜(へりくだ)るな。ではまず、君の用件から話してくれ”
 “昨日のテレビ番組なんだけど……”
 “ああ、君が送ってくれたURLから見たよ。最初の方は二倍速でようやく視聴に耐えたよ”
 “あの、新興宗教のラインナップどう思った?”
 “園山看護師の自供からピックアップした宗教とほぼ同じだったな”
 “流石。その中で特に目立った碧珠善心教会ってのがあっただろう?”
 “君のところの篠原さんが、件の新興宗教の中で、唯一気になったところだと記憶している”
 “僕とユリコは昨日の放送で、碧珠善心教会の教主の演説を聞いて、やはりなんかひっかかるものを感じてしまったんだ。違和感みたいな既視感みたいな”
 “違和感と既視感……か”
 “で、聞きたいんだけど、この前の報告の後はどうなってるの? 調査はしてるの?”
 “実はな、宗教関係は調査しづらいという理由で棚上げされていたらしい”
 “何だと? 地下鉄サリン事件の時の教訓はどうなったんだよ、クソ公僕どもが!!”
 “落ち着け。上品が一瞬でどこかへ飛んでったぞ”
 “……じゃあ、ユリコが半日以上費やしたことは無駄だったのかい?”
 “それはない。秘密裏に長沼間君たちが探っているはずだ。餅は餅屋に(Leave it to the experts)ってね”
 “そう言うこと? 正直、信じ難いのだけど?”
 “今は長沼間君を信じてほしい、としか言えないんだ”
 “わかった。信じよう。で、君からの情報は何?”
 “ウチの警備部部長が襲われた“
 “は?“
 “幸い、早瀬と私が一緒だったんで、未然に防げたが、犯人は逃してしまった“
 “君とハヤセ隊長がいて逃したのかい“
 “子供を使った巧妙なやり口でね。利用された子供たちはショックで大泣きするわで大事だったよ“
 “それはなんと言うか、ゴシュウショウサマデシタ“
 “あのな、誰も死んでいないぞ“
 “そんな事件なら大ニュースでしょ。SNSも大騒ぎだろうに、なぜ公にしなかったの?“
 “おそらく、’からかいレベルの警告‘程度だったんだろう。端から暗殺する気はなかったんだよ。大騒ぎをするのも癪なんで、公表は避けてやったんだ”
 “からかいレベルって、どんな攻撃を受けたんだ?”
 “その日は、早瀬と警備部部長と三人で会合していたんだ。今後の方針とか色々ね。ところが会合が終わってから……”
 と、松樹はその時のことを語り始めた。
 会合が終わったのが夜九時前で、ほろ酔い気分のオッサン二人と早瀬が店を出ると、店の前で小学生低学年くらいの子供が、三人遊んでいた。こんな時間に、繁華街の路地で遊ぶのは危ないと思ったが、保護者らしき女性はついている。女性は生活に疲れた表情で、車止めに座って子供達を眺めていた。見窄らしいコートを羽織り、大きめの古いバッグを持っている。それで、若いお母さんだし訳あり風なので、念のため職質をします、と早瀬が近寄ろうとしたその時、女性が自分たちを示しながら子供たちに何か指示をした。
 すると、子供たちは真剣な表情で自分たちに向かって駆け出してきた。手には、何やらおもちゃの銃のようなものを持っている。本能的にやばいと思い、早瀬は子供達の方へ、松樹は警備部部長を庇い、店の庭園に立つ黒松の陰に身を隠そうとした。その時、一人の子供の銃から「ぱあん!」という乾いた音がして弾が発射された。反動で子供は尻餅をつき、惚けたような顔で座り込んだ。残りの二人は、持っている武器を放り出して、わんわん泣き出した。銃撃をする羽目になった子供は、その泣き声に我に返って、遅ればせながら泣き出した。その後すぐに右手がぶらんとなっているのに気づいて、火がついたようにギャン泣きした。泣き声の三重奏に、早瀬は困ってとりあえず周囲を見回した。
 幸いにも弾丸は、誰に当たることもなく、店の庇の柱に当たってめり込んでいた。思ったより強力な銃だったようで、もし誰かに当たっていたらと思うと、ゾッとした。
 女は、保護者ではなかった。子供たちはこの辺りで有名な放置児らしく、良いように利用されただけのようだった。銃を撃った子は、右肩を脱臼しており、駆けつけた警察官たちにより、残りの二人と共に最寄りの救急病院へ連れて行かれた。
 “いや、びっくりしたね。まあ、早瀬君の子供達に対する滅多にない狼狽えぶりが見られたのは収穫だったが”
 “あまりからかわないであげてよ。で、そのけしからん女は?”
 “子供たちをけしかけてすぐに、さっさと退散したよ。私たちが子供たちに手間取ることは計算ずくだったんだろう。今、付近の防犯カメラを精査しているところだ。特定され次第君に送るから、篠原くんにも確認してもらってくれ”
 “わかった。ところで君たちが襲撃された店って、ひょっとして……”
 “察しがいいな。ここだよ”
 “察しも何も、玄関の柱に思い切り跡があったじゃないか。何かと思ってたから謎が解けてすっきりしたけど”
 “『被害者』柱だけで済んだし、児童が絡む事件だけに公表は憚られてね。だからニュースにもならなかったわけだ。もちろん、警察幹部三人がいるところで行われた強行なのは間違いないので、捜査の方は慎重かつシビアに進められている”
 “で、君は、この事件があのヘキジュなんとかという教団がらみだと思っているんだね。会話をわざわざ英語にしたのが、ひょっとして店側に敵のスパイがいると?”
“いや、今時英語の判る日本人はざらにいるだろう。単に、久しぶりに君の綺麗な母国語が聞きたかったのさ”
 松樹の相変わらずひょうひょうとした態度に、ギルフォードはテンションがやや下がるのを覚えた。
「わかりました。で、僕からの要望は届いたと思っていいのですね」
「先ほど言ったように、長沼間君の捜査能力を信じてほしい」
「わかりました。ただ、僕にはなんか嫌な予感がするんです。なにかがまたじわじわ動き始めたような……」
「最近起こっている事件から、俺もそう思っている。わざわざ君と会う時間と場所を作ったことで、俺の真摯な気持ちを分かってほしい」
「了解です。僕たちもなにか情報を得たらそれを早急に報告しますから」
「おお、頼むよ」
 松樹はそういうと、また手酌で日本酒を注いだ。
「もう少し時間があるな。世間話でもしながら時間をつぶそう。君は何を飲む?」
「えっと、日本茶で……」
「じゃあ、デザートに和菓子でもお願いしようか」
「ごっつあんです」
「相撲取りかよ」
 ギルフォードから思いがけない言葉がでたので、松樹は声を上げて笑った。ギルフォードもつられて笑ってしまい、緊張した空気が一気に和らいだ。
 

 

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