2.疾走 (1)SNS

20XX年7月7日(日)

 富田林が仮眠室で寝ていると、ドンドンとドアを叩く音がした。
「なんだよ、昨日は遅くまで寝られなかったんだぞ」
 富田林はぶつぶつ言いながら体を起こした。時計を見ると7時を少し回っていた。横では増岡が「う~ん」と言って寝返りを打ったが起きようとしない。
 実は、土曜に県警からツイッターに例の男の情報募集ということであの似顔絵が配信されたのだが、似顔絵のユニークさからそれがリツィートされ、予想以上に広がってしまったのだ。そのために担当の富田林たちが処理に追われていた。おかげで昨夜から葛西まで狩りだされる羽目になり、富田林たちの寝た後も徹夜で情報取集に当たっていた。
「起きたまえ、二人とも」
 声の主は九木だった。
「げ、警部補まで駆り出されたんか。こりゃいかん」
 富田林は驚いて隣の増岡をゆすぶった。
「起きろ、なんかあったようだぞ。おいこら、増岡!!」
「う~ん、勘弁してください。ちょっとしか寝てないんですよ」
「ばかもの! 九木警部補殿が直々に起しに来られてるんだぞ」
「けいぶほ…? …えっ? マジっすか?」
 さすがの能天気増岡も、驚いて飛び起きた。
 

 ふたりが身支度もそこそこに対策本部に入ると、葛西と九木がPC画面を覗き込んでいた。
「おはようございます。なにかあったんですか?」
 入って来た二人を見て、九木が言った。
「おはよう、凸凹コンビ」
「で、でこぼこ?」
 凸凹コンビと言われて思った以上に反応した富田林を見て、九木は肩をすくめた。
「おっと失礼」
「お疲れのところ起して申し訳ありません」と、葛西が立ち上がって言った。「実は、削除されていた嶽下友朗のSNSデータが復元されてきたのです」
「ようやく来たか」
「SNSデータを復元すべきかもめましたからね」
「さっさと見ようぜ。オレは早くこのクソ野郎の件から足を洗いたいんだ」
 と、富田林が言ったので、増岡が不服そうに訊いた。
「えー? トンさんにうるうるのミナミサに毎日会えていいじゃないですか」
「オレにはカミさんと娘がいるんだよ。お前みたいな能天気独身貴族じゃないんだ」
「ほんとにどうしてトンさんなんかにねえ。一緒に彼女を庇った若い独身刑事の葛西さんには目もくれず」
「ほっとけ!」
「ああ、でも葛西さんはあの年上のカノジョがいるから…」
「あ、バカ、おまえ」
 富田林は焦って止めたが、パソコンを操作していた葛西の手が一瞬止まった。地雷を踏んだことに気付いた増岡は、バツの悪そうな顔をして謝った。
「あ、葛西さん、すみません」
「何の話でしょう?」
 と、葛西は笑顔で言ったが、表情が若干ひきつっている。その横で黙っていた九木がしびれを切らせて言った。
「何をやっているんだ。早くしたまえ」
「はいっ、すみません…」
 せかされた葛西はフォルダを開いてエンターを押した。画面が開いて某SNSの投稿記録がダラダラと連なった。記録は削除された部分から始まっていた。
「へえ、ほんとにこんなこと書いてやがったんだ」
 と、富田林が言うと、増岡が続けて突っ込んだ。
「『美波美咲似を見つけたなう』~? こいつマジ馬鹿ですね」
「写メ撮ってアップしとるな。ミナミサ、ビール飲んでたのか」
「あ、飲みながらサイキウイルス記事の掲載されていたサンズマガジン読んでますね」
「くつろいどったんだな」
「フォロワーの友人たちがミナミサ本人じゃないかって騒いでいるな」
「当の本人は、画像アップの後、投稿が途絶えたようですね」
 と、葛西が言うと、横で九木が口を挟んだ。
「ああ、美波君を襲ったり謎の男にボコられて捕まったり逃げだしたりと忙しかっただろうからな」
「確かにそうですが、身も蓋もない…
「友人からの評判も良く無いようだな。この後本人が沈黙している間にボロクソに書かれとる」
 友朗の書き込みはその後しばらく途絶えていたが、翌朝10時過ぎに書き込んでいた。

昨日のミナミサ似、ミナミサ本人だったwww。テレビで見るよりずーーーっと可愛かったwwwww。仲良しになろうと隣の席に座ってハグしようとしたら、通りがかりのリーマンらしいオッサンに邪魔された(怒)。

おい、ハグって、キサマ、もっととんでもないことをするつもりだっただろ。

氏ね!ミナミサはおれの嫁だ。

犯罪者ハケーン。通報しますた。

 それを発端に友朗の行為を非難する書き込みが殺到し、あっという間に炎上した。

「うわあ、これが炎上ってやつですか。すごいな」
「なんかすごく怖いですねえ」
「ローカルアイドルで、しかも未遂だったために表ざたにならなくて、アカウント削除で事なきを得たようだが、もし有名アイドルだったら某所で祭り間違いなしだったな」
「というか、こいつら他にすることないのか?」
「まったくです」
「この先、こういう書き込みだけか?」
「いえ、炎上に驚いた友朗本人がなんとか炎上を止めようと、弁解の書き込みをしていますね。でも、それがすべて火に油を注ぐ結果になってますが」
「彼女のみゅう(美優)ちゃんの書き込みもいくつかありますね。最初怒ってたけど、途中から庇ってますね」
「プロフィール写真まだ幼げで可愛いなあ。性格もよさそうだし、こんな子まで犠牲になっただなんて…」
「つきあった相手が悪かったんだな。しかし、こんなアホみたいな書き込みばかりで、手掛かりはさっぱりだな。さっさと終わらせようぜ」
 富田林はそういうや否や、葛西からマウスを取り上げスクロールのスピードを上げた。
「わあ、富田林さん、やめてくださいよ。まだ手掛かりになる書き込みがあるかもしれな…、あっ、ちょ、ちょっと待って…」
 というと、葛西は富田林からマウスを奪い返し、慎重に書き込みを少し前に戻し始めた。
「どうしたよ」
「ちょっと、気になる文があったので」
 
「あのスクロールのスピードでわかったんですか、葛西さん」
 と、増岡が驚いて言った。
「ええまあ」と、葛西が頭を掻きながら照れくさそうに言った。「動体視力はけっこうあるんで」
「じゃあ、パチスロとか強いんじゃあ…」
「増岡ァ、てめー警官のくせにギャンブル…」
「静かにしてください」
「すまん」
 いつもは控えめな葛西に諌められて、富田林は素直に謝った。
「あった、これだ! ちょっと見てください」
 葛西に言われ、3人は画面を覗き込んだ。
「こ、これは!?」

くそ、あのリーマン野郎が俺の足に何かしやがったのか。右足がかなりはれて痛い。フルボッコにされたんでよく覚えとらんけど針みたいなものを刺されたような気がする。殴られたアゴも痛いし最悪だよ。

 その書き込みは、その後「おまえ自業自得って知ってるか」「酔っぱらってたろ、おまえ」「だな」「いや、ひょっとして電車内でドラッグキメてたんじゃね?」「バッドトリップしてんじゃねーよ」というようなレスポンスで一瞬にして埋まった。4人は一様にして顔を見合わせた。最初に富田林が言った。
「嶽下の足に針刺し傷なんて検定書にあったっけか、葛西?」
「刺し傷の記載はありませんでしたが、確か右足大腿部にひどい潰瘍が認められたという記載がありました」
 それを聞いて九木が言った。
「もういちど調べなおす必要が出て来たな。美波美咲感染の疑いを晴らせるかもしれんぞ」
「そうですね」と、葛西が言った。「もし、ミナミサの指摘した通りに意図的にそのサラリーマンがウイルスを感染させた可能性が出てきたら、これは傷害致死、いや、致死率がほぼ100%である今の時点では殺人事件と言ってもいいかもしれません」
「それに、似顔絵から容疑者が上がることがあれば、一気にテロ事件に迫ることが出来るぞ!」
 4人の刑事は暗中模索に近い状態から光明を見出し、今までの疲れが少し報われたような気がした。

 一区切りついた4人は、休憩室でコーヒーを飲んでいた。
「取り合えず再解剖を申請して許可を待つだけだ。感染と刺し傷の因果関係が証明されれば、ミナミサの容疑も晴れて自由の身だな」
 と、富田林が心持嬉しそうに言った。
「でも、退院したら、さらに取材への意欲がましてさらに厄介になるかもしれないですね」
 と、葛西が言った。C川で追いかけられたことを思い出したらしい。
「う~む、それは困りますね。捜査の邪魔ですからもう少し入っていてもらいましょうか」
「バカ言え、増岡。それじゃ俺が困る。第一、ギルフォード教授のレコの解放も遅れるぞ」
「富田林君、『レコ』なんて、今やオヤジでも言わない死語だぞ」
 と、九木が突っ込むと、葛西がきょとんとした顔で言った。
「レコってなんですか?」
 富田林は説明に困った。
「え~と、彼氏とか彼女とか」
「ほら、あのきれいな黒人の博士ですよ」と増岡も説明に加わった。「何て言ったかな、葛西さんも一緒に河川敷で…」
「ジュリーのことですか? やだなあ、彼は男性ですよ」
「へ? おまえ、あれだけ一緒に居てあの二人の…」
 呆れて言う富田林を九木が制した。
「ややこしいことは、まあいいさ。とりあえず、ミナミサが無症候性キャリアじゃないと判れば、キング先生も解放されるわけだからな」
「そうか。じゃあ急がないといけませんね。どうもジュリーが捕まって以来教授の機嫌があまり良くなくって」
「ところで、葛西よぉ。篠原由利子の件だが、本当なのか? 教授と…」
「僕がみんなと別れた後のことなんで、真実はわかりません。僕があれほど誘っても拒んだくせに教授とは行くんだ」
「ほう、葛西君も挑戦者だな」
「気にするな。あの教授に限ってそういうことはないから」
「いえ、由利子さんだって教授の方が…」
 ここまで言って、葛西は自分があらぬことを口走っていることに気付いた。
「すっ、すみません。今のは無しです、無しっ。忘れてください。それより、その件ですが竜洞組から襲撃された後、教授と由利子さんを付け狙っていたと言う連中は何者でしょう」
「彼らの予想した通り、テロリスト関係かもしれんが…」
「連中が本気出していればいくら彼らでも誘拐は防げなかっただろう。新兵の訓練のようなものだったのかもしれないね」
「って、お試しってことですか?」
「もしくは遊ばれたか」
「くそ、余裕こきやがって!」
「で、人間『顔認知システム』の篠原由利子はそいつらの顔を見たのか?」
「いえ、マスクをしてキャップを目深にかぶっていたらしくて、顔の確認ははっきりとは出来なかったとか」
「そうか、最近は新型インフルとか隣の国の大気汚染、さらに今回のサイキウイルスのせいで、マスクをしていてもあまり不審がられなくなったからな」
「それでも、会えばわかるかもしれない、と言っていたそうですが。絶対に捕まえてやるとか」
「強気だなあ。やはり彼女は警官になるべきだったな。道を誤ったなあ、もったいない」
「絶対に嫌!って言われます、きっと」
 と葛西が苦笑気味に言うと、富田林が豪快に笑いながら言った。
「まあ、良かったじゃないか。もし彼女が警官の道を選んでいたら、確実に今おまえの上官になっとるそ。恐いぞぉ、きっと」
「え?」
 葛西はそれを聞いて一瞬固まった。なにやら想像してしまったのだろう。
「まあ、再解剖の結果は待つしかない」と、九木が言った。「とにかく今は集まった情報をまとめて美波美咲に確認してもらうことが先決だ。諸君、もう少しだ。頑張ってくれたまえ」
「はいっ」
 葛西たちは答えると、持場へ戻るべく立ち上がった。

20XX年7月8日(月)

 由利子は気まずかった。
 例え、何もなかったとはいえ、ギルフォードと一晩共にしてしまったからだ。ギルフォードといえば、いつもと全く変わらない様子で、朝研究室に来た時も「ハイ! おはよう、ユリコ」と、普段と変わらない様子で挨拶をしてきたし、由利子も普段通り「おはようございます」と返したのだが、どうも照れくさい。しかも、紗弥はそのことを知っているのだ。それで、思い切って言ってみることにした。
「紗弥さん、あのね、私、アレクとは何も…」
「気にしなくてよろしいですわ。以前わたくしも訳あって教授と一晩過ごすことになったことがありましたの」
「え? そうなの? やっぱり教授はソファに寝てた?」
「もともと女性にストイックな人ですから」
「そっか。そうだよねえ」
「むしろ…」
「アレクの場合は葛西君と一緒だったほうが危なかった?」
「うふふ、まあ、そういうことですわね」
 紗弥は由利子から先に言われて、意味深な笑顔で言った。

 午後、葛西がギル研にやってきた。由利子は葛西の顔を見るなり「葛西君おはよう」と明るく声をかけたが、葛西は由利子を一瞥してつっけんどんに「おはようございます」と言っただけで、そのまま由利子の横を素通りしていった。
(うーむ、あのことで腹かいとおっちゃろか(腹を立てているんだろうか))
 と、由利子は思ったが、言い訳するのも変だと思い放置することにした。その後すぐにギルフォードから呼ばれたので、すぐに応接セットに行ってソファに座った。ギルフォードはいつもと変わらない様子だったが、ギルフォードが横に座り由利子が前に座ったので、葛西は複雑怪奇な表情をしていた。紗弥はと言うと、ポーカーフェイスの奥でなんとなく面白がっているように見えた。
 葛西が来たのは美波美咲についての報告のためだった。彼はバツの悪そうにしながらも説明を始めた。
「え? ということは、トモローはその男になにかを刺された覚えがあったということですか?」
「はい、嶽下のSNSを復元したものを調べていて、そういう記述を発見したんです」
「それで、実際に傷があったのですか?」
「検定書には右足大腿部に著しい潰瘍ありということで、刺し傷の記述はなかったのですが…」
「潰瘍があるということは、そこが感染源という可能性はありますね」
「はい、それで再解剖の申請をしているのですが、一旦司法解剖を終えているので、なかなか許可がおりなくて」
「遺体は感対センターにあるのに?」
「事件性のある遺体の場合、なかなか取り扱いが面倒なので…」
「じゃあ、今から僕が行ってトモローの遺体を…」
「わ~っ、待ってください。話をややこしくしないでください」
 ギルフォードが今にも立ち上がって部屋を飛び出しそうな勢いだったので、葛西が慌てて止めた。
「でも、早くミナミミサキの感染疑惑を晴らさないとジュリーが解放されないじゃないですか」
「わかってます。必ず疑惑は晴らしますから、もう少しだけ待ってください」
「アレク、葛西君の言うとおりだよ。餅は餅屋に任せようよ」
「そうですわ。焦っても良いことはありませんわ」
 逸るギルフォードを3人がかりで説得して、ようやく本題に戻すことが出来た。
「えっと、それから例の似顔絵の件ですが、ツイッターで公開したところ、情報が殺到して…」
「ああ、見た見た。どっかの掲示板にも『F県警の公開捜査の似顔絵がすごすぎる件』ってスレッドが立ってたよ」
 と、由利子が笑いながら言ったが、葛西は由利子の方を見ずに、不服そうに答えた。
「まさか、あんな風に広まるとは思いませんでした。情報は殺到しましたが、残念ながらほとんどが誤認か冷やかしでした。振り分けるのがもう、大変で…。その後にSNSの復元データが来たんですよ。もう、目が死ぬかと思いました」
「でも、おかげで友朗の脚の刺し傷のことがわかったんじゃない。がんばった甲斐があったね」
「ええ、対 策 室 に連日泊まり込んだ甲斐がありましたよ」
 と、葛西がやや皮肉っぽく言った。
(あかんわ。こりゃ完全に勘違いして怒ってるよ)
 と、由利子は確信したが、ここで言い訳するわけにもいかないので無視することにした。
「で、ミナミサには確認してもらったの?」
「もちろんです。結果は全部スカでした」
「そう簡単に解決するほど甘くないってことか」
「刺し傷のことが証明されて、件のサラリーマンの正体がつかめれば、一気に事件の核心に迫れると思います」
「とにかく、急いでください」
「じゃっ、そろそろ署に戻ります」
 と、葛西は用件だけ済ませると立ち上がった。
「あ、私、送ってくよ」
 と、由利子が立ち上がったが、葛西は「送らなくていいです」と言うなり、教授室を飛び出した。由利子は「あんのぉ~、お子ちゃま刑事(デカ)は~」と言うやいなや、後を追って駈け出した。
「こらまて、葛西」
 研究室の学生たちは、脱兎のごとく教授室からから飛び出し、研究室から出て行った葛西の後に、由利子がすごい顔をして追いかけて行ったので、呆気にとられてドアの方を見た。

 葛西はものすごい勢いで走って階段を降りていた。その後ろで負けじと由利子が葛西を追った。葛西はエレベーターに向かっていたが、すごい形相で追いかけてくる由利子の姿を見ると「由利ちゃんも大きい方が良いんだーーー!」と叫んで「うわ~ん」と言いながら傍の非常口に飛び出して階段を駆け下りたのだ。
「何じゃあ、そりゃあ」
 由利子は一瞬唖然としたが、毎朝のジョギングで鍛えているため、元中距離ランナーの葛西に負けない勢いで後を追った。葛西は足音に後ろを振り向き由利子を確認すると、「やば」という口の動きをして足を速めた。なんと、一段跳びで駆け降りている。
「葛西君、そんなことしたら危ないよ、危ないったら!」
「だったら、追いかけないでくださいよっ!」
「じゃあ、待ちなさいよ!」
「嫌です!」
「待てと言ったら待てったら!!」
「待ちません!」
「ほんとにもうっ。とまれ! 止まらないと撃つぞ!」
「なにバカなこと…」
 そう言いかけた時、葛西は足を踏み外しそうになり、「わっ」という声を上げた。しかし、なんとか態勢を保ってそのまま「おっとっと」という感じで危なげに階下に降りた。一階への階段であと数段と言うところだったので転ぶことなく降りきることが出来た。しかし、さすがに驚いたらしく、階段の手すりにもたれかかって心臓あたりに手を当ててハアハア言っている。由利子もこれには驚いて、血相を変えて駆け下りた。
「だ、大丈夫っ? けがはない?」
「僕のことなんかもう、ほっといてください!」
「ちゃんと話を聞けよ! って、これ普通逆やろ!」
「由利ちゃんなんて、アレクとホテルでもどこでも行けばいいんだ! 僕の時は投げ飛ばしたくせに!」
「あ、こら、バカ、そーゆーことは公にはしてないんだぞ」
「由利ちゃんだって、やっぱり大きい方がいいんだ!」
「はあ? さっきから何言ってんの」
「ジュリーだって僕より立派だったもん。アレクだって」
「何のことだよ」
「だって、僕、ジュリーとシャワー浴びた時、つい見ちゃったんだ」
「ばっ、馬鹿か、オマエは!!」
 ようやく葛西の言わんとすることが判り、呆れた由利子は目点になっていた。
「何、中学生みたいなこと口走ってんだよ! 第一見てねーよ、そんなもん。ほんとに緊急避難で入ったんだってば」
「うそだ!」
「ホントだよ。アレクは私にとって戦友なの。天地神明にかけてやましいことはしてないから」
「ホントに?」
「ホントにホントだってば。私が信じられないの?」
 と、由利子は真摯な表情で葛西をまっすぐ見て言った。由利子の誠実さが伝わったのか、これ以上怒らせたらまずいと我に返ったのか、葛西はようやく納得して言った。
「信じます。うろたえてすみませんでした。僕、由利ちゃんがアレクとラブホに行ったって聞いて、すごいショックで…。」
「わかってくれて良かったよ、って、なんでこんなトコであんたにこんなコトを申告せにゃならんのよ」
「すみません。僕、ミナミサの件でここ数日睡眠不足が続いてて、昨夜も徹夜同然で、ちょっとハイになってたようです」
「そっか、大変だね。とにかく、私はアレクに異性としての好意は持ってないから。これだけは言っとくよ」
「僕は?」
「アンタは異性でも弟! そういうおバカなところもウチのに似てるし」
「弟ですか」
「ま、葛西君がもっと頼りがいのある警官になったら、違ってくるかも知れないけどね」
「え? ホントですか?」
「あ、え~と」由利子は要らんことを言ったと少し赤くなった。「ま、まあ、だから頑張って、はやくテロリストの尻尾を掴んでちょうだい」
「はいっ! がんばります」
「えっと、それから、さっきの大きい小さいの話だけどさ、それ、気にするの男だけだと思う。そりゃ、あまりに規格外だと困るだろうけど」
「そうですよね、男は先ず、持久力ですよね。それなら僕、自信あります!」
「いや、そんなことは聞いてないし」
「じゃっ、これから対策本部に帰って頑張ります」
「いや、その前に少し寝た方が…」
「由利ちゃん、心配してくれるんだ。嬉しいなあ」
「調子に乗るんじゃない、バカ。しかも、さっきから気安く由利ちゃんを連発しおって」
「あ、気付いてたんですね」
「気付くわ」
「あ、いい加減に帰らなきゃ、富田林さんがお冠だ。では、由利ちゃん、これにて失礼します!」
 葛西はそういうとビシッと敬礼をして、くるりと踵を返すと、駆け足で去って行った。
「誰が由利ちゃんだっ! まったくもう」
 と、由利子はぶつぶつ言っていたが何となく嬉しそうだった。
(しかし、純平の『純』は多分単純の『純』だな)    
 由利子は遠のいていく葛西の後ろ姿を見ながら思ったのだった。 
 

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2.疾走 (2)夕日への祈り

20XX年7月9日(火)

 降屋は逃走していた。

 再解剖の結果、嶽下友朗の右大腿部から刺し傷が確認され、感染源がそれにほぼ確定されたために、美波を助けた男が重要参考人と認定された。それに伴い、件の似顔絵が大々的にばらまかれた。それ以前からネットで話題になっていたが、何の容疑かわからないが警察が本気で探しているらしいという複数の書き込みがあったことからさらに騒然としたネットでは、男を探すことに熱中する連中が現れ『F県警の面白似顔絵の中の人を捜すスレ』など各板にスレッドが立つまでになり、まとめサイトまで出来るまでになってしまった。
 そんな中、降屋は教主に呼び出されたのだが、近しい者から教主がかなりお怒りらしいという情報を受け、恐ろしくなった彼は、そのまま極美にもなにも告げずに姿を消したのだった。
(何故だ? 何故こんなことになったんだ? 僕は長兄さまのために尽くしてきた。今回のことだって良かれと思ってやったことだし、長兄さまだって喜んでくれた。どこで歯車が狂ってしまったんだ?)
 降屋は完全に目標を失い、戸惑っていた。

 それとは対照的に、ミナミサこと美波美咲は無症候キャリアの疑いが晴れ、隔離病棟から解放されていた。美波は病室から出されると、センター長の許可をもらって河部千夏の病室の前に立った。
 千夏の病状はかなり持ち直していた。予断は許されないものの、未だ赤視の症状もなく、サイキウイルスからの生還第1号になるかもしれないと、感対センター内では一筋の希望の光になっていた。
 美波は千夏に笑顔で言った。
「河部千夏さん、初めまして。私、めんたい放送の美波美咲と申します」
「初めまして、美波さん。あなたのことは、よくテレビで拝見してます。お会いできて光栄ですわ」
 と、千夏も微笑んで答えた。
「横になったままですみません。まだ起き上がれないんです。顔もひどい状態でしょ? これでもだいぶマシになったんです」
「あ、気になさらないで。お顔もきっともとに戻りますよ」
「ギルフォード先生にもそう言われました。自分もそうだったからって」
 それを聞いた美波は驚いて言った。
「え? あの先生も同じ病気に?」
「いえ、出血熱であっても違う感染症らしいです。たしか、援助に行ったアフリカで感染した新型ラッサ熱だったとか」
「あ、そうですよね。サイキウイルスはまったくの新種でしたね。名前はついたもののまだ病原体は見つかってない」
 と、美波は苦笑して言うと続けた。
「あの、いきなりぶしつけで申し訳ないですが…、小耳にはさんだのですが、ご主人がウイルス感染を理由に会社をクビになったって、ホントですか?」
 美波に質問され、千夏は一瞬驚いて目を見開いたが、少し口ごもった後答えた。
「……ええ、事実です」
「ひっどい! どこの会社です、そこ?」
「いえ、もう終わったことです。主人は結果的に感染はしてませんでしたが、会社に迷惑をかけたことは事実ですし、これ以上迷惑をかけることは出来ません」
「でも、故意じゃないでしょ? たまたま感染者がいた現場を通っただけで、ご主人だって被害者なのに」
 美波は長沼間が言ったことを思い出していた。

『いいか、おまえたちの本分は事件の解明ではないだろう。もっと他に取材することがあるんじゃないのか?
 口蹄疫や原発事故のような大規模災害で、被災者がどのような思いをしたかを考えたら、このウイルス禍でも辛い思いをする人が大勢出てくるはずだ。いや、既にいるだろう。確かにそういう取材は派手ではないし、辛いだろうがな、そういう人たちの声を届けることも必要じゃないのか』

(そうか、あのオッサンが言ってたのはこういうことなのか)
 美波は改めて思った。

「あっ、出てきた! ミナちゃ~ん」
 
 美波が病院を出ようと病院のエントランスに向かっていると、待合室で小倉と赤間が待っていて、彼女の姿を見つけると駆け寄ってきた。
「良かった~。ミナちゃん退院おめでとう~」
 二人は異口同音に言うと、美波の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「実物だ~」
「あたりまえやろ。外で待っとってって言うとったろーもん」
「だって、ミナちゃんが心配だし待ちきれなかったし」
「なによ、さっきから異口同音で気持ち悪いわね。で、ちゃんと取材の準備してきた?」
 と、美波は男二人を暑苦しそうに見ながら言った。
「してきたけどさ、ホントに今から取材に行くの?」
「1日くらい休んだ方が…」
「十分に休んだわよ! 今まで病気でもないのに拘束されてたのよ。しかも一週間も!! 取り戻さなきゃ。行くよッ!」
 美波はそういうとさっさと出て行った。男二人が「ミナちゃ~~~ん」と言いながら後を追った。
 

 世間では、ウイルス禍を忘れたかのように祭り賑わっていた。F市内や近郊からの感染者が6月17日以降4週間以上出ていないため、人々から警戒が緩み、それまでの景気を取り戻そうと皆が祭り気分にシフトしていったからかもしれないが、元来の土地柄が祭り好きである所以だろう。しかし、やはり祭り目当てのツアー客は激減しており、特に海外からの客はほとんど望めない状況だった。そんな状況だったが、地元の参加者たちはそれを振り払うように快活にふるまった。彼らの体の中には伝統が脈々と受け継がれているのだろう。
(このまま何事もなく終わってくれるといいが…、いや、終わってくれ!!)
 森の内は、全流お汐井取り(※)の行事で浜に来ていたが、法被に締め込み姿の男衆たちが浜の真砂を掬う姿を見ながら切に思った。その後、夕日に向かって柏手を打ち祭りの無事を祈願する男衆と共に、祭りが何事もなく終わることと、ウイルス事件の早期解決を祈るのだった。

 その頃、真樹村極美の元に思いがけない客が現れた。
 極美は降屋と連絡が取れず、教団のシェルター施設であるマンションでやきもきしていた。
 デスクからはサイキウイルスレポートの続きはまだかとせっつかれているものの、情報源がない上、降屋がいないため、建物内から出ることが難しいために、この2・3日の間足止めを食っていたのだ。
「え? 長兄さま…」
 極美はモニターに映った男の顔を見て驚いた。教主とはシェルターに入る前に一度会ったきりだが、その時の印象は衝撃的で忘れられないものであった。
「こんにちは、極美さん。降屋のことでお話があります。中に入れていただいてよろしいですか?」
「あ…、は、はい」
 極美は急いでロックを解き教主を部屋に招き入れた。驚いたことに、教主は護衛を誰も連れておらず単独で来ていた。極美は教主をソファに座るよう誘導しながら尋ねた。
「あの、おひとりで?」
 教主はソファに座ると言った。
「ええ。正確を言えば、一番信頼できる者を外の車で待たせてます」
「その程度で大丈夫なのですか?」
「大勢では目立ちますし、私には身の危険を案じるような敵はいませんから。ただ、私は車の運転と公共の乗り物が苦手なものですから、運転手は絶対に必要なのです」
「まあ」
「男のくせに、変ですよね」
「いえ、そんなことありませんわ。あ、今お茶を淹れますから。お口に合うかどうかわかりませんが…」
「ありがとうございます。いただきます。あ、御自分のも淹れてくださいね。一緒に飲みましょう」
 教主は屈託のない笑顔で言った。極美は教主の教主らしからぬ謙虚でつつましい態度に好感を持った。
「ああ、美味しい。極美さんはお茶を淹れるのがお上手ですね。お茶本来の味がします」
「いえ、あの、我流なのでお恥ずかしいですわ」
 極美は褒められて少し照れくさそうに言った。
「それで、お話しというのは?」
「ああ、そうでした」
 教主はそういうと湯呑を茶卓に置いた。
「極美さんは降屋さんからなにか連絡は受けていらっしゃいますか?」
「それが…、何もなくて私も困っているのです。取材の続きが出来なくて…」
「そうですか」
「裕己さん、何かされたのですか?」
「いえいえ、そんなことはありません」と教主はきっぱりと言ったが、すぐに悲しそうな表情になった。「降屋さんはなにか誤解されているらしくて…。それで、私もなんとか連絡が取りたいのです」
「誤解?」
「はい。私の不興を買ったと思い込んでいるらしくて…」
「不興を? どうして…」
 極美が驚いて尋ると、教主はさらに暗い表情で答えた。
「警察の手配書の似顔絵に似ているということで、私に迷惑をかけたと思ったらしいのです」
「あ、あのネットで話題の? え~、あんなの全然似てませんよ」
「ご存知でしたか?」
「ええ、だって暇なんでネットやテレビばかり見てて」
「そんなことしてたら体がなまっちゃいますよ?」
「あ、それは大丈夫です。この建物にはジムがあるから毎日そこで2・3時間は鍛えていますわ」
「そうですか。気に入っていただけて嬉しいです。ジムは私の提案なのです。シェルターに閉じこもる生活は精神的にけっこう過酷ですから」
「そうですね。体を動かすことでかなりの気分転換になります。私もこうなってみて、外出がままならないという辛さが良くわかりました」
「ここから出たくなるでしょ?」
「はい。でも、降屋さんが危険だっていうので、取材もいつも彼とコンビみたいになって」
「おやおや、では、はやく誤解を解いて降屋さんに出てきてもらわないといけませんね」
「そうなのです。困ってるんです」
「極美さん、もし、降屋から連絡があったら、なんとか説得して会ってくださいませんか?」
「ええ、それは構いませんが、そこまで私が裕己さんに信用されているかどうか」
「大丈夫です。きっと極美さんには連絡を取ります。そんな気がするのです」
 極美は、教主にそう言われて嬉しくなった。
「わかりました。必ずお知らせしますわ」
「本当ですか? 良かったぁ。降屋はああ見えて思い込みが激しいので、私の信頼を失ったと思い込んでどれだけ落ち込んでいるかと思うと心配で心配で……」
 教書の言葉からは、心底降屋を心配する気持ちが伺えた。極美は信者の身を案ずる教主の姿を見て心を打たれた。
「きっと、きっと連絡しますから!」
「ありがとう」教主は極美を頼もしそうに見て言った。「では、私の名刺を差し上げます。信用できる人だけに配る特別な名刺です。この電話にかけてくださると、私に繋がりますから」
 特別な名刺と聞いて、極美はさらに嬉しくなって言った。
「光栄ですわ。必ずご連絡いたします!」
「ありがとう。たすかります」
 教主は、講演で万人を虜にする笑顔を浮かべて言った。
 その後、教主は15分ほど極美と世間話をすると、予定があるからと立ち上がった。玄関のドアを明け、部屋を出る間際に、教主は思い出したように振り返って言った。
「あ、極美さん。あなたが今取材している記事は何処まで出来ているのですか?」
「え? あ、あの三分の二くらいでしょうか」
「もしよかったら、読ませてくださいませんか?」
「ええっ、私の記事を?」
「はい。非常に興味があります。是非!」
「あ、はいっ、喜んで! 読み直して不備を修正したらお送りします」
「ああ、よかった。断られるかと思いました」
 と、教主は安どの笑みを浮かべて言った。
「では、データを名刺のメール宛てに送ってください。これもホットラインですから私に直接届きます」
「まあ、長兄さま…、いいんですの? 私なんかにそんな…」
「極美さん、そんなにご自分を卑下されてはいけません。あなたは十分魅力的です。あなたはまだご自分の才能をわかっていらっしゃらないのです。この前の記事は素晴らしかったですよ」
「長兄さま…」
「では、極美さん、またお会いしましょう」
 そういうと、教主はにっこり笑ってドアの向こうに消えた。
 教主の去った後、極美はしばらく玄関のドアの前でぼうっとしていた。
「信じられないけど、長兄さまが直々会いに来られたのよね…」
 極美は熱にうかされたように言った。
「信じられないけど、私なんかを頼ってこられたのよね」
 そう口に出すと、今度はじわじわと感動が湧きあがっていった。
「素敵! 本当に素敵な方…!! そしてあんな素晴らしい方が私の才能を認めてくださったのよ。私、あの方のためならなんでも出来そう」
 教主に最初会った時、極美はまだ若干の胡散臭さを否めないでいた。しかし、彼女は今、すっかり教主の魅力に憑りつかれたようになっていた。

 教主は遥音涼子の待つ車に戻った。後部座席に座ると、すぐに涼子が訊いた。
「いかがでした?」
「ええ、極美さんは快く承諾してくださいましたよ。逃げ場を失った降屋君は極美さんに必ず連絡を取ります。教団に与していないのは彼女だけですから。少なくとも降屋君はそう思っているでしょう」
「はい…」
「降屋君にはもう一働きしてもらわねばなりませんからね」
「もう一働き…?」
「おや、何か不満そうですね」
「いえ、そんなことは…」
「まあいいでしょう。それより、真樹村極美さんはこれからいろいろ役に立ってもらえそうです」
「役に…」
「はい。実に魅力的な女性です。これから教団の広報としてがんばってくれたらと思います。しかし、ジャーナリストには向いていませんね。せっかくのチャンスに遭遇したのに、自分の考えで真実に向かうことをやめてしまいました。しかも、未完成の記事を他人に見せることを了承しちゃいけません。もっとも、もし真実に近づいていたら、例の病院で遺体袋に入ることになっていたかも知れませんが」
「……」
 長兄が饒舌にしゃべるごとに涼子の表情は陰っていった。それに気づいた教主は、少しからかうような口調で言った。
「遥音先生、どうされましたか?」
「いえ、なんでもありません。私は何があっても長兄さまについて行きます。母なる碧珠(地球)を本来の姿に戻すために…」
 涼子は答えたが、言葉とは裏腹に終始無表情のままだった。
「遥音先生、あなたはまるでロボットのように生真面目なんですね」
 と、教主はやや呆れ気味に言った。
「まあ、いいでしょう。これから忙しくなります。遥音先生にも前にもましてがんばっていただかないとなりません」
「はい…」
「では、行きましょうか」
「はい」
 涼子はすぐに車を発進させた。ハイブリットカーは静かに黄昏に消えて行った。

 ギルフォード研究室では、葛西と森の内がやってきて祭りの報告をしていた。
「へえ。それはさぞかし壮観だったでしょうねえ」
 葛西の報告後、ギルフォードが残念そうに言った。
「やっぱり僕も見たかったなあ」
「アレクには目の毒かもしれないけどね」
「余計なことは言わないでください、ユリコ。ところでジュンは祭りの衣装を着てたんでしょうか?」
「僕らは警備ですからこの格好のままです。てか、僕は地元じゃないんで、あの姿はちょっと恥ずかしいかも」
 葛西に言われて森の内がすかさず反論した。
「葛西さん、なんば言いよっとですか。めちゃめちゃカッコよかでしょうが」
「あ、すみません、知事」
「そっかなあ。私もあれはちょっと。子供や若い人はともかく、おっさんやじーさんはねえ」
「あ、それ、セクシズムですよ、篠原さん」
「え~?」
「まあまあ、感想は人それぞれというコトで」
 森の内がヒートアップしそうになったので、ギルフォードが慌てて止めに入った。
「それより、わざわざ来られたのは、他にも報告があったのではありませんか?」
「まあ、最近ご無沙汰していたから、近くを通るので挨拶代わりに寄ったということもありますが」
 と言うと、森の内は姿勢を改めた。
「ここ4週間ほどF市内や近郊でウイルス患者の発生がないということで、このまま何事も無ければ祭りを完遂出来ることが正式に決まりました」
「そうですか。良かったですね」
「それも、先生や葛西さんたちタスクフォースの皆さんが頑張ってくれたおかげです」
「いや、僕は特に何もしてませんよ。知事、あなたの情熱の賜物だと思います。でも、最後まで気を抜かないでくださいね」
「もちろんです」
「で、ジュンは?」
「僕は知事の護衛を兼ねて来たのですが、お知らせが一つあります。例の似顔絵があまりにも『好評』だったので、もっとリアルな似顔絵が公表されました」
「えっ、そうなの? 見たい見たい」
「わたくしも見たいですわ」
「県警のHPでも公表されていますけど、一応お見せしますね」
 と言うと葛西はスマートフォンで画像を見せた。
「これもミナミサのお墨付きです」
「まあ」
「へえ、けっこういい男じゃない」
「ホント、いい男ですねえ」
「これって同じ人が描いたの?」
「いえ、別の者です」
「いるんじゃん、ちゃんとした絵を描ける人」
「でも、こうして見るとあの絵はしっかりと特徴を捉えていたと思いますわ。見た目はシュールでしたけど」
「紗弥さんにそう言ってもらえると、波平も喜びますよ。紗弥さんはクールビューティーだって署内でもけっこう人気があるんですよ」
 それを聞いて、紗弥は困った表情で言った。
「まあ、どうしましょう」
 本気で戸惑っているようだった。ギルフォードがそれを見てにっこり笑って言った。
「サヤさん、ホントきれいですよ。もっと自信を持っていいです」
「そうだよ紗弥さん。戸惑うことなんかないんだよ」
「私も、今の嫁さんがいなきゃ、猛アタックしてますよ~」
「知事、そこで乗っからない!」
「すみません、つい」
 由利子にたしなめられ、森の内は頭をポンとたたいて言った。

 ギルフォードの研究室が妙な盛り上がりをしてから少し経った頃、感対センターでもその話題で盛り上がっていた。由利子が山口にメールで知らせたからだが、千夏に回復の兆しが見えてきたために、皆若干気持ちに余裕が出てきたのかもしれない。手の空いたスタッフがPCの周りでワイワイ言っている。
「けっこうイケメンねえ」
 山口が興味津々で言った。
「なんでこんな人が美波さんを陥れようとしたのかしら」
 それを聞いて、高柳が言った。
「おいおい、山口君。見た目で人を判断しちゃイカンよ」
「ああ、ごめんなさい。つい、もったいないって思ってしまって」
「ほんと、もったいないですよねえ」
 と、横で春野看護師が同意したが、それを受けて男性スタッフの一人が肩をすくめて言った。
「まったくもう、女性はイケメンにはほんっと甘いんだからな」
「何言ってんの、男性だって美人には甘いじゃな~い?」
 妙なテンションで盛り上がるスタッフの中、甲斐看護師だけが呆然とした表情でそれを見ていたが、一瞬ふらついたあと、そっとその場を離れていった。 
 

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2.疾走 (3)ターゲット

 ジュリアスはむくれていた。美波美咲の感染疑いが晴れたという情報を得、せっかく解放されると思ったのに、メガローチ捕獲作戦終了後3週間すなわち21日目までは隔離病室から出られないと言う。メガローチから感染した川崎三郎が発症まで10日かかったために、念のため倍以上の3週間まで隔離することに決まったのだと言う。
 ふて寝しているジュリアスに、見舞いの人物がやってきた。
”よお、なにをむくれてるんだ?”
”!?”
 ジュリアスは一瞬驚いて飛び起きたが、誰かを確認し知り合いだとわかるとまたごろんと横になり、腕枕をするとうざったげにブルームを見ながら不愛想に言った。
”なんだ、ヴァイかよ”
”なんだとはご挨拶だな”
 ジュリアスから不機嫌な応対をされながら、ヴァイオレット・ブルームは怒ることなく飄々と言った。
”せっかくだから見舞いの花束くらい持ってきてやりたかったが、隔離病棟には持ち込めんのでね、あきらめたよ”
”いらねーよ、そんなもん。だいたい、シーバーフの隊長さんがこんなとこでなに油売ってるんだよ。さっさと仕事しろ”
”いやなに、ちょっとした野暮用でこっちに来たんでね。ついでに君の顔を見に来たんだ”
”言っとくけど、ぼくはパンダじゃないからな。ここの『窓』は日本の感対センターと違って四六時中丸見えなんで、居心地悪くてかなわないよ、まったく”
”まあ、動物園の動物の気持ちがわかっていいだろう”
”帰っていいぞ”
”まあ、そうぶんむくれるな。メガローチ捕獲オペレーション終了後21日ならあと1日か2日の話だろう”
”おまえな、一週間もこんなところに閉じ込められた方の気持ちになってみろ。そもそも、帰国後10日以上僕は野放しだったんだぞ。この隔離になにか意味があるのかよ”
”まあ、デス・ストーカー野郎の腹いせだろう。刺されたと思ってあきらめるんだな”
「たーけ! ほんなもんに刺されたら下手すりゃ死のーがッ!」
”出たな、名古屋弁”
”あんた、面白がってるだろ。しかし上官のことをそんな言い方して大丈夫なのかよ”
”位は確かに上だがヤツは今、私の上官ではない。命令系統は全く違うんでな。まあ、だからヤツも私が来ることにいい気持ちはしないだろう。もしなにかやましいことがあればなおさらだ”
”おい、あんたの本当の任務ってのはなんだ?”
”おっと、妙な勘繰りをするんじゃない。今日はさっき言ったようにお前の顔を見に来ただけだからな。それじゃ帰るとするかな”
”あ~、帰れ帰れ”
 ジュリアスを鬱陶しそうに言うと、ごろんと仰向けになり足を組んだ。ブルームはクスッと笑ってジュリアスに背を向け数歩歩いたが、また振り返って言った。
”そうそう、ミスターカワベの件で日本に行って来た。ついでにアレグザンダーとも会って来たぞ。あいつめ、なんだか生き生きしとったんで安心した。もう大丈夫だな”
”たしかに腹が立つくらい生き生きしてたよ。悔しいが、僕には出来なかったことをあいつらがやってのけたんだ”
”まあ、何も知らなかったことが功を奏したんだろう。後は君が日本に帰って彼を支えてやれ。頼んだぞ。ここを出たら出来るだけ早く帰ってやれ。いいな”
 ブルームは言うだけ言うと、さっさと帰って行った。ジュリアスは起き上がってベッドサイドに座ると、頭を掻きながらつぶやいた。
”結局からかいに来たのか、アレックスのことを頼みにきたのか、良くわからんし”             
 ジュリアスの部屋を後にしたブルームは心持ち微笑んでいたが、すぐに厳しい表情に戻り足早に去って行った。

20XX年7月10日(水)

 こちらは朝のギルフォード研究室。
 ギルフォードは来るとすぐにジュリアスの兄、クリス・キングに電話してジュリアスの解放を尋ねたが、念のため11日(日本では12日)まで隔離されるということを知らされた。電話を切り不貞腐れ気味のギルフォードを見て、由利子がこっそりと紗弥に言った。
「英語で良くわからなかったけど、あの様子じゃジュリーはまだ解放されてないようだね」
「ええ、金曜日まで隔離されるみたいですわ」
「なんで? ミナミサがシロってわかったんじゃん」
「それが、メガローチがどうのこうのと…」
 紗弥が言いかけると、ギルフォードが割って入った。
「あのね。カワサキさんが発症まで10日以上かかったので、その倍を考えて3週間様子を見るんだそうですよ。バカバカしい。アツモノ(羹)に懲りてナマス(膾)を吹くとはこのことです」
「なんか、小難しい諺を言いながら怒ってるよ」 由利子が苦笑いして言った。「アツモノというのはこの場合エボラ熱を指すんかな?」
「多分そうでしょうね」
「ところでさ、時差あるじゃん。今、あっち(アトランタ)は何時?」
「こちらが朝9時過ぎですから、夜の7時過ぎくらいですわ」
「ふうん。あっちはまだ『昨日』なんだね」
 すると、ギルフォードがまた話に割って入った。
「僕はちゃんと時差を考えてます。朝5時にかけたりしませんから」
「朝5時にかかってきたことがあるんだ」
「けっこう根に持つタイプですわね」 
「聞こえてますよ」
 と、ギルフォードは二人の方を見ないでパソコンのモニターに向かったまま言った。二人はお互いの顔を見て肩をすくめた。その時、何も知らない如月が鼻歌交じりで研究室にやってきて、教授室を覘いて「あ、皆さんおはようございます」と言ったが、なんとなく気まずい空気を感じて、首をかしげながら自分の定位置についた。由利子はそれに気づいて(彼も損な役割よね)と思ったが、その時ケータイにメールが届いた。見ると、元同僚の黒岩からである。
(あれ、黒岩さん、長野に引っ越すって言ってたけど、何かあったのかな?)
 そう思って少し不安げにメールを確認したが、内容は、いろいろ手続きをするために明日こっちに帰って来て2・3日いるので会って夕食でもしないかという内容だった。由利子はすぐに返信をして、金曜の夜に黒岩と会う約束をした。

 夕方、真樹村極美は地下街の一角で降屋を待っていた。昨夜ようやく彼の方から連絡をしてきたので、極美は熱心に彼を説得して会うまでにこぎつけたのだ。降屋の方もあてのない逃亡に疲れたのだろう、極美が想定していたよりもあっさりと説得に応じたのだった。極美は時計を見ると、不安そうに周囲を見回した。集合時間を既に10分ほど過ぎていたからだ。
(ひょっとして、場所を間違ったかしら?)
 ホームタウンではない慣れない場所での待ち合わせに極美が不安を覚え始めた頃、後ろの方で小さく彼女を呼ぶ声がした。
「え? 裕己さん?」
 極美はそうつぶやくとゆっくりと声の方を見た。そこにはグレーのパーカーを着、薄い色のサングラスをかけ目立たないよう、ダークグレーのキャップを目深にかぶった降屋が立っていた。
「裕己さん! どうしてたの? 心配してたのよ」
「しっ。小声でお願い」
「ごめんなさい。でも見違えたわ。一瞬誰かわからなかったもの。いつもお洒落なスーツ姿だったし」
「こんな無精ひげの地味なオッサンになってるとは思わなかったかい?」
 降屋は笑顔で言ったが、どことなく精彩にかけていた。しかし、極美は首を横に振って言った。
「ううん。それはそれで渋いと思うわ。それよりとにかく訳を説明してよ。私、取材の続きが出来なくて困ってたのよ」
「しばらくの間取材は無理だ。それよりしばらくここを離れたいんだ。当面東京の君ん家にかくまってほしいんだけど、だめかな」
「ううん、せまいマンションでいいなら私は構わないけど、でも、まず訳を説明して」
「それは出来ないんだ。ただ、ちょっと事情があっておおっぴらに出歩けなくなったんだ」
「それって、長兄さまを怒らせたから?」
「何故それを?」
 降屋の表情が固まった。
「長兄さまが私のところにいらっしゃったのよ」
「長兄さまが君の部屋に?」
 降屋は呆けたように鸚鵡返しをすると、一歩後ろに下がった。極美はその過剰な反応に驚いた。
「長兄さまは、あなたが誤解しているとおっしゃっていたわ。あなたのことをそれは心配なさっておられたのよ」
「誤解? 僕が?」
 降屋は戸惑って言ったが、すぐにギョッとして振り返った。そこにはいつの間にか月辺とその部下が立っていて、あたかも待ち合わせをしていたように手を挙げて挨拶し「やあ、降屋君。久しぶりだね」と言いながら近寄ってきた。
「月辺主教さま…。極美さん、君…」
 降屋が極美を非難する様な目で言った。しかし、当の極美も何が何だかわからず混乱していた。
「違うわ。確かに私、長兄さまからあなたから連絡があったら知らせるように言われてたけど、あなたがあまりにも必死で知らせないでくれっていうから黙ってたのに…。そもそもこの人たち誰?」
 極美の疑問に月辺が恭しく礼をして言った。
「わたくしは長兄さまの片腕として仕える月辺と申す者です。降屋が必ずあなたと連絡を取るだろうと見越して、申し訳ありませんがあなたを見張らせていただきました」
「ひどいわ。せめて私の了解を取るべきじゃないですか!」
「こうでもしなければ、降屋に気付かれてしまい、保護することは出来なかったでしょう。極美さん、これは降屋君のためでもあったのです。不愉快な思いをさせて申し訳ない」
 月辺は極美に対して深く礼をすると、降屋の方を向いて言った。
「さて降屋君」
 降屋はすでに観念した様子で、楽しげに談笑する男3人に囲まれていた。傍目には、友人か会社の同僚が待ち合わせて合流したと言った風情に見えた。月辺に呼ばれた降屋は、少し不安そうに彼を見た。月辺はそんな降屋を安心させるかのように笑顔で言った。
「長兄さまが君にお話があるそうです。極美さんの言うとおり、長兄さまは心から君の身を案じておられるのですよ」
「私の身を? 長兄さまが…?」
「そうですよ。慈愛に満ちたあの方を疑うとは、罪深いにも程があります」
「長兄さまが、私を…」
「さあ降屋君、行きましょう。さ、皆さん、降屋君を車まで案内してください。では、極美さん、心配させてすみませんでしたね。降屋はもう大丈夫です。あなたはシェルターに戻って待機していてください。よろしいですね」
 月辺は極美に言うと、降屋たちの後に続いて去って行った。極美は納得出来なかったが、月辺の丁寧で穏やかな口調に何故か強い圧力を感じて、それ以上抗議することが出来なかった。

 教団のF支部に戻った降屋は、教主室の隣の控えの間でおとなしく座っていた。その姿は、今までの自信に満ちた華やさが微塵もなく、必要以上におどおどして見えた。控えの間には、教団屈指の美しい女たちが4人ドアを背に並んでいた。しかし、彼女らはヴァルキリーと呼ばれる教主の私設SSの小隊であり、その強さも教団屈指であり、降屋がもしここで抵抗したとしても、敵う相手ではなかった。降屋はそれを知っており、彼の落ち着かない様子は彼女らもその一因だった。
(この女たちがこちらに来ているということは、作戦が本格的に動き出したのだろうか。オレには新たな仕事が科せられるのだろうか。それともまさか…)
 降屋が最悪のケースを思いついてぞっとした時に、教主室のドアが開いて黒スーツの男が出て来た。降屋は男を見て立ち上がったが、すぐに女たちに座らされた。
「”ロキ”…!」
「おや、”グングニル”」
 と、男が笑顔で言った。「いったいどうしたんだい、君ともあろう者が」
「長兄さまからお呼びを受けただけだ。君こそなんでここに来ている? こことの繋がりが知れるとまずいんじゃないのか?」
「俺は公安警察として聞き込みの一環で来ているだけだよ。F県内にある新興宗教団体の調査が俺の任務だ」
「で、君が来た本当の目的は?」
「長兄さまからお預かりしたシンジュサンが殺されてしまったのでお詫びに来た」
「お怒りにならなかったか?」
「最初涙を流されたが、我が碧珠の御為に命を失ったのだから、これで輪廻の順序が一足飛びに上がって、次の転生は人となれるだろうと、むしろ喜んでおられた」
「虫にすらそのような愛情を注がれるとは…」
「まったくだ、長兄さまの御心のなんと豊かであることか」
「我々など足元にも及ばない」
「それに、新たな御指示もいただいた」
 それを聞いた降屋はため息をついて言った。
「そうか、うらやましいな」
「気に病むな。計画は順調だそうだ。君にも新たな御指示があるんじゃないか?」
「そうだと良いが…」
「すべては我が碧珠の御意志だとおっしゃっていた。君のスタンドプレーに御咎めはないさ」
「で、君の新たな任務とは?」
「長兄さまは以前から俺の上司をいたく気に入っておられてな、仲間に取り込みたいとおっしゃっている。今、部下が植物状態になっているが、その前の北山紅美の死もかなり堪えているだろうから、さすがのあの男も隙が出来るだろう、そうおっしゃって…」
 ”ロキ”がそこまで言った時、降屋が呼ばれた。
「降屋様、長兄さまの御前に参られませ」
「は、はいっ」
 降屋は慌てて立ち上がると、もう”ロキ”には目もくれずに教主の部屋に向かった。
「やれやれ、あいつの長兄さま好きは尋常じゃないからな」
 ”ロキ”は呆れたように言うと、ヴァルキリーたちに会釈をして控えの間を去った。
 同僚に二度に渡って重体の大怪我を負わせた挙句植物状態に追いやった、教主が”ロキ”と呼んでいた男の正体は、あろうことか長沼間の部下であった。

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2.疾走 (4)ヤヌス

 美波美咲は途方に暮れていた。
 「退院」してからの初取材で意気揚々としていたものの、現実は高い壁に阻まれていることに気が付いたからだ。最初はこのウイルス事件の真相を掴んでやるつもりだった。美波は本能的にこのウイルス過になにか人為的なものを感じていたからだ。
 しかし、長沼間に言われ、その後河部千夏と話して感染者の辛さを目の当たりにした彼女は、被害者の実態を調べてみようという気持ちになった。真相にはそのうち運が良ければ近づくことが出来るかもしれない。美波は軽い気持ちで取材に向かった。だが、実際ふたを開けてみると、取材拒否の連続だった。ひどい時には身分を告げただけで目の前で荒々しく戸を閉められた。
「やっぱ、厳しいなあ…」
 美波は自分の机に突っ伏してつぶやいた。
 今日行ったのは、感染の広がる元となった秋山家の遺族、ホームレスの安田を助けようとして感染した救急救命士の古賀正志の遺族、森田健二を車で轢いたことから感染した窪田栄太郎の親族、栄太郎から感染した笹川歌恋の遺族、秋山珠江から感染した川崎三郎・五十鈴夫妻の遺子たち(といっても成人でそれぞれ独立しているが)、秋山美千代から感染した森田健二の両親、健二から感染した北山紅美の遺族。
 秋山家では、唯一生き残った父親の信之は自殺未遂で未だ入院中、意識は戻ったものの後遺症が残り、その上精神的なショックが大きく身内以外は面会謝絶状態だった。信之の姉妹からはそっとしておいてほしいと静かに断られた。美波には二人ともどことなく怯えているように感じた。他の遺族たちも言い方の強弱はあれ、どれも似たような感じだった。特に川崎夫妻の子供たちは鼻先だドアを閉め、内側から「知らん、帰れッ!」「帰ってくれ!」と怒鳴られた。もっとひどいのは笹川歌恋の遺族たちだった。インターフォン越しに、「あんな恥さらしはもう縁を切った」と冷ややかに言い、あとは頑として応じなかった。
「縁切ったって、もう死んでるんじゃないよ」美波は思い出してブツブツ言った。「歌恋さん、可哀相だ」
 美波は長沼間の言った言葉が改めて心に刺さった。
「どーするかなあ。こうなったらあの子らに当たってみようかなあ…」
「あの子らってミナちゃん、ひょっとして…例の中学生たち?」
 赤間が言うと、隣で小倉がさらに付け加えた。
「なんだって、死んだ秋山雅之の友人たちに? そりゃまずいよ、未成年だし抱えているトラウマもきっと相当なものだよ」
「多分、周りのガードも硬いって、きっと」
「でもね」
 と、美波が言った。
「彼らが一番真実を知っているような気がするのよ。それに、彼らの取材をすることによって、むしろ彼らの真実を世間に知らせて正当化することも出来るわ。私たちの取材が彼らを守ることが出来るかもしれないじゃない?」
 そう言うと、美波はすっくと立ち上がった。
「さーて、明日からまた頑張るわよ!!」
「めげない人」
 赤間と小倉は一緒に言うとため息をついた。二人とも今日の取材で既におなか一杯なのであった。

 教主に呼ばれて、教主室に入った降屋は一瞬たじろいだ。横に幹部ツートップが並び、少し離れて遥音医師が立っていた。ツートップの一人、月辺が静かに言った。
「降屋君、何をしている。早く長兄さまの御前に参られよ」
「はっ。」
 降屋はそれにはじかれたように前に進んだ。教主は立ち上がるとにこやかに降屋を迎えて言った。
「降屋さん、よく帰ってきてくれましたね」
 しかし、その後席から離れて降屋のほうに向かうと申し訳なさそうに彼の両肩に手を置いて言った。
「あなたに勘違いをさせてしまって辛い思いをさせて申し訳ないと思っています。あなたは大切な私の兄弟です。私はあなたが必要です。戻ってくれて本当にありがとう」
 そう言いながら、教主は降屋を抱きしめた。
「長兄さま…」降屋は驚いて目を見張った。(長兄さまが僕を抱きしめて兄弟と言ってくださった。そして僕を必要としてくださる…!)
 感動した降屋はすでに目を潤ませていた。教主は降屋から離れ席に戻ると言った。
「降屋さん、実は困ったことがおきました。あなたが使用したウイルスの容器に欠陥があることがわかったのです」
「欠陥? それはどういうことですか?」
 と、降屋が訊いた。嫌な予感がした。
「ほんの微量ですがウイルスがもれていたようなのです。感染するには至らない量ですが、使用した場合、稀に感染するかもしれないという結果が出ました」
「そ、そんな…」
「本当に稀なことだというし、20日経過したあなたが感染している様子もありませんから大丈夫でしょう。しかし、このタイプは潜伏期間が長い。ですから念のためにワクチンを摂取してさしあげましょう。あなたもご存知のようにそのウイルスは進化型ですので従来のタナトスいや、もう公式にはサイキウイルスでしたね、それ用ワクチンでは効果が薄いですから」
「そのワクチンを打つと発症しないのでしょうか?」
 と、降屋は不安そうに言った。教主は遥音医師に向かって尋ねた。
「先生、大丈夫ですね」
「はい、もちろんです。すでに発症していない限りは」
 降屋は遥音の言葉の後半部分に不安を覚えながらも安心したようだった。
「それでは、善は急げです。早速ワクチンを打ってもらいましょう。降屋さん、どうぞ、医務室まで行ってください。先生、お願いします」
「はい。それでは降屋さん、こちらへ」
 降屋は遥音に促され、歩き出した。教主室を出る時、降屋は深々と頭を下げた。

 遥音医師は降屋へのワクチン接種を終え教主室に報告に入った。
「入ってください」
 と、インターフォンから許可する教主の声がしたが、それは妙に弱弱しかった。遥音はハッとして室内に急いで入った。ツートップは既に退室し、広い部屋には教主一人がぽつねんと机に座っていた。遥音医師の姿を見て教主は怯えた目で弱弱しげに言った。
「涼子さん…」 
「翔悟さん、戻ったのですね?」
「私はどれくらい眠ってました?」
「この前の講演の間は翔悟さんだったと思いますので、その後40時間くらいかと」
「降屋さんにはアレを打ったのですね」
「はい。長兄さまの仰せの通りに」
「ああ、なんということだろう。私を慕ってくれる降屋さんに、私はなんという仕打ちをしてしまったんだろう」
 そう言うと教主は頭を抱えて机に突っ伏した。遥音医師は驚いて教主に駆け寄ると、優しく肩に手を置いて言った。
「翔悟さんのせいではありません」
「いえ!」と、教主は顔をあげて言った。「やはり、私がやってるのです」
 そう言うと今度は顔を覆うようにして頭を抱え、話を続けた。
「私は幼いころから教祖の子として崇められていた反面、孤独でした。周りはへつらう大人ばかりで、母は教祖の威を借りて尊大に振る舞い、親として私を顧みてくれませんでした。唯一私を心から愛してくれた父は忙しくてなかなか私の元には帰って来ませんでした。幼い私は本当に孤独でした。先妻とその息子である兄と出会うまでは。
 ある時、私は偶然母が父に話していることを聞き、信じられない事実を知りました。私には双子の兄がいたのですが、死産だったと聞いていました。しかし、それは違ってました。跡目争いになることを怖れて、発育の悪かった方の兄は、こっそり殺害されていたのです。自分の分身が殺されていたことを知り、私は怒り、悲しみました。そして、同時に母への恐怖も植え付けられました。その夜私は、ガラスに映った自分の姿に語りかけていました。すると、兄が生き返ったように思いました。それ以来、私は鏡やガラスに映った自分と話すようになり、いつか、自分の姿を映さなくても、『兄』と会話出来るようになりました。その『兄』が私の意識と入れ替わったものが長兄なんです。長兄は私がウイルス感染して死の床にいた時、苦しみや恐怖、そして父が死んだことの悲しみから逃れるために私が作り出したもう一人の私です。私があなたに命じたも同然です」
「いえ、私は違う薬を、たとえば抗ウイルス薬や本物のワクチンを降屋さんに接種することも出来たのです。それをやらなかったのは私の意思です。私は長兄さまの人口のコントロールが必要というお考えにも同意しています。私は長兄さまにも翔悟さんにも…」
 しかし、遥音の言葉を遮って教主が言った。
「涼子さん、自分を偽らないでください。あなたのお姉さんであるハルネさんの治療に教団の財力と医学力が必要なのはわかります。でも、私はあなたがこれ以上罪を重ねて行くのは耐えられません。このままではあなたは人類史上最も多くの人を殺した科学者となってしまいます。原子爆弾で広島や長崎の人々を殺した科学者たち以上に。自分のためならもうやめてほしい、きっと、植物状態のハルネさんも同じ気持ちだと思います。早くここから逃げてください。長兄の計画はあなた無しでは継続出来ません」
「いえ、この教団を失くすわけには行きません。今、信者であるかどうかに関わらずこの教団を頼っておられる方が何千人といます。夫のDVや生活弱者などこの教団の福祉施設に身を寄せたり新たな生活を手に入れようとしている人たちです。ここが無くなれば彼らがまた元の辛い生活に戻ってしまいます」
「でも、涼子さん、このまま計画が進むと彼らだってただでは済まないでしょう。私は、このまま長兄が暴走を続けたらと思うと…、恐い。僕はたまらなく怖い…」
 教主は再び頭を抱え込み、椅子からずり落ちるとうずくまり震えながら言った。
「私は恐い、ただ、ただ恐いんです」
「翔悟さん」
 遥音医師、いや、涼子は教主を上から包み込むように抱きしめると言った。
「大丈夫です、私が、私がなんとか長兄さまの…」
「僕の何をどうしようっていうの?」
 うずくまった教主から震えが消え、からかうような声が湧きあがった。涼子の背に冷たいものが走り、とっさに教主から離れた。
「長兄さま? まさか…」
 驚いて目を見開く涼子の前で、くっくっと笑いながら教主がゆっくりと立ち上がった。
「君が僕を止めようと画策していることは知っていたさ。だけど、君はどうしても僕の手の内から逃れることは出来ないんだよ。それに、僕は翔悟と自由に入れ替われるけど、今の翔悟にはほとんどそれが出来なくなっているんだ」
「そんな…」
「そう、翔悟より僕の方が強いんだよ。翔悟はもはや、篠原由利子に僕の正体を見破られないためだけに存在しているんだ。僕が翔悟でいる限りは、彼女は僕があのデータの人物とは気付けないだろう。彼女の能力はそういう種類のものなのさ」
 そう言う教主には先ほどまでの弱弱しさは微塵もなかった。彼は机に片手をつくと、呆然と立ち尽くす涼子に向かって言った。
「さて、遥音先生。降屋に打ったウイルスの性質は?」
「は…はいっ」
 涼子ははっと我に返って答えた。
「通常のタナトス・ウイルスほど感染力は強くありませんが、熱には比較的強くなっております」
「火災や爆発等に対する耐性は?」
「それには細菌でも炭疽菌のように芽胞を作るような一部のものしか不可能ではないかと。ですからウイルスを爆弾に仕込むのは無意味かと。ただ…」
「ただ?」
「耐熱性の容器に入れてクラスター弾のようにばら撒けるようにすればあるいは…」
「なるほど。それは人の肉体でも良いわけだ」
「え?」
「独り言だよ。気にしないで」
 教主はそう言ったが、涼子には彼が何を考えているかがわかり、恐怖と非難の入り混じった眼で彼を見た。

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2.疾走 (5)ディテクティヴ

20XX年7月11日(木)

 亀田次郎吉、彼は「鼈(すっぽん)のジロキチ」とあまりありがたくない二つ名をもった探偵だった。その名の通り、一度食いついたら離さないという少々面倒くさい男だが、見かけは坂○二郎というよりもカンニング×山といった風体である。彼は、めんたい放送情報部の藤森から、ある事件の調査依頼を受けていた。

 その調査とはもちろん、感染死した嶽下友朗の周辺調査と美波美咲が無症候キャリアで隔離された件でカギを握る、「通りすがりの会社員(サラリーマン)」と記録されている男を見つけ出すことだった。しかし、その男についてはまったく資料がなく雲をつかむような現状であったため、まず、友朗の交友関係から洗っていくことにした。当然、警察の捜査と被ることになって、既に彼らから聞き込みをされていた者たちから煙たそうに応対されることもあったが、比較的安易に情報をペラペラ垂れ流す連中も多かった。そんな中、調査ターゲットの男の似顔絵が発表された。勿論、その男の容疑が何かは伏せられていたが、亀田は独自の情報網からそれが件の「リーマン」野郎であることを知ることが出来た。それで、警察の捜査がその男に集中し、ますます調査が難しくなると判断した亀田は、友朗の周囲をもう少し洗ってみることにした。そうしてある気になる男にたどりついた。それは通称「笑顔のセールスマン」と呼ばれる男で、置き薬屋を装って、麻薬まがいの危険ドラッグを売っているという。いささか都市伝説めいた話だが、亀田が仕入れた警察情報に、美優を除く4人は危険ドラッグの注射によって友朗から感染が広がったらしいとされるものがあった。それで、亀田はそのセールスマンに何かがあると確信したのだ。
 実は、亀田も今回のウイルス事件に疑問を持つ一人だった。明確な理由があったわけではない。長年探偵という商売をやっていた勘のようなものが働いたのだ。もっとも、彼に来る仕事依頼は御多分に漏れず8割以上が浮気などの素行調査の類であったのだが。
 それで、友朗の身体から、感染源であるだろう刺し傷が確認され、美波の無症候キャリア疑惑が消え解放されたあとも独自で調査を続けることにした。亀田は大胆にも大学生アルバイトの助手、香東を通じて友朗と同じ大学の学生に「笑顔のセールスマン」とやらにコンタクトをとらせる作戦に出た。それは思ったより上手くいった。数日後の今日、その学生は「セールスマン」をおびき寄せることに成功し、夕方、亀田は香東が仕掛けた超小型カメラの映像と音声で、学生の部屋で行われた交渉の一部始終を知ることが出来た。男の名前が中目黒大吉と言うのを聞いて噴き出しかけたが、自分の名前もあまり変わらないことに気付いて苦笑いした。その後、マンションから出てきた「セールスマン」の尾行を開始した。
 学生の「友人」として一緒にセールスマンと会った香東は、超小型ビデオカメラで撮った男の姿とサンプルで置いて行ったハーブを事務所に持ち帰った。
 香東には中目黒が心なしか焦っているように思えた。当面金が必要だったのか、やたら「ハーブ」を買わせようとしていたのだ。中目黒の押しに負けてつい購入しそうになった学生に、それとなく買わないよう忠告するのが大変だった。うっかり買わせてしまうと、犯罪行為になってしまう可能性があったためだ。なんとかサンプルだけもらって、後日また連絡するという確約をして、なんとか中目黒を帰らせたあと、香東は心身共にへとへとになっていた。

 亀田は、電車を乗り継ぎ移動する中目黒を見失わず食いついていた。
 降車後、中目黒はしばらく雑踏する街中を歩いていたが、徐々に人通りの少ない道に向かった。ところが途中電話を受けて急にそわそわし始めた。そして急に早足になり逃げ場を探すかのようにきょろきょろと周囲を見回し始めた。亀田は見つかってはヤバイと、とっさに建物の陰にかくれ、念のためにスマートフォンのカメラを準備した。中目黒が路地を見つけて入ろうとした矢先、その横に乗用車がすっと止まった。中目黒は一瞬逃げようとしたが、中の人物を見てほっとしたようだった。それでも、彼は用心しているのかなかなか車に乗ろうとしなかった。しびれを切らしたのか、中から男が降りてきて中目黒に二言三言何かを言った。亀田は咄嗟に暗視カメラ機能をつけたスマートフォンで彼らを撮ろうとして、画面を見て驚いた。肉眼では暗くて見えにくかった男の顔がはっきりと確認できたからだ。それは、似顔絵で手配されている例の重要参考人にそっくりだった。やはり彼らは関係があったんだ! 亀田が確信したのもつかの間、中目黒は車に乗り込み男と共に去って行った。亀田は何か見てはいけないものを見てしまったような気がして恐ろしくなり、そそくさとその場を離れた。

20XX年7月12日(金)

 由利子が昼前にお使いから研究室に戻ると、葛西が来ていた。
「あら、葛西君がまたサボりに来てる」
「人聞きの悪いことを言わないでください。中間報告に来たんです」
 由利子からからかわれて、葛西は少しお冠で言った。
「なんか、疲れてるねー」
「祭りの警備に僕たちサイキウイルス班も駆り出されて。昨日も早朝から駆り出されたんです。今日は、富田林さんたちが出ています。夕方にはまた大きな行事があるので僕も行きます」
「大変ねえ。でも、そういう警備って、警察には警備部みたいな専門の部署があるんじゃなかったっけ?」
「平時でも大きな行事の時は警備はありますし、所轄も駆り出されます。ただ、右翼の街宣みたいにおおっぴらにやるわけにはいかないんです。しかも、予告とかあったわけじゃなく、 あくまでもサイキウイルス散布の可能性を考慮した危機管理としての警備ですから、僕らが駆り出されるのは当然なんですが、やっぱり僕らは捜査の方がしたいです」
 葛西は一気にまくしたてると、応接セットのテーブルに突っ伏して言った。
「つかれた…。マジ早く終わって欲しいっす、この事件」
「あらあら、葛西さん。コーヒーでも飲んで、少し休憩なさってくださいな」
 紗弥がそう言いながらテーブルにコーヒーを置いた。ギルフォードがそれを見て言った。
「サヤさん特製のカフェラテですよ、ジュン。元気が出ますよ」
 葛西はそれを受けてのっそりと起き上がった。
「いい香りですね。元気が出そうな気がします」
 葛西はそう言うとカップに手を伸ばして一口飲んだ。
「美味い! これ、すっごく美味しいです、紗弥さん!」
 葛西が目を輝かせた極上の笑顔で言ったので、紗弥は一瞬嬉しそうな表情を見せた。しかし、その後、照れくさそうにお盆をもってそそくさと湯沸かし室に退場してしまった。
「一撃必殺の笑顔ですねえ」
 ギルフォードが感心して言うと、由利子も同意して言った。
「世界中の女性が胸キュンするね、きっと」
「男性だってキュンキュンですよ。いいなあ、サヤさん」
 と、ギルフォードがぼそりと言ったが、由利子は華麗にスルーを決めた。
「ところでユリコ」と、ギルフォードが気を取り直して言った。「僕の車は運転どうだったですか?」
「全然問題なし。整備もされていたし、最初はちょっと不安だったけどスイスイ行けたよ」
「そうですか。それならこれからも気軽に運転を頼めますね」
「任せてちょ。あ、これ、品物とお釣りとレシートね。水槽用浄化器、これだったよね」
 と、由利子は量販店の袋をギルフォードに渡した。ギルフォードは中身を確かめて言った。
「上等です。ありがとう、ユリコ。フィルター替えたばかりなのに本体が動かなくなってしまって」
「最近便利よね。写メで商品バッチリ判るもんね」
 そう言った時、由利子の電話が鳴った。
「わあ、噂をすればと言うべきか」
 由利子が急いで電話に出ると、それは黒岩からだった。由利子は夕方会うことを約束した。黒岩たっての願いで、ギルフォードや紗弥も一緒に行くことになり、黒岩は電話の向こうで大はしゃぎしていた。葛西は誘われたが、勤務の関係で泣く泣く辞退した。
「あー、ほんっと、早く終わって欲しいっ! 祭りもウイルス事件もっ!」
「切実ですねえ、ジュン」
「でも、早く終わって欲しいというのは、みんな同じでしょ。このまま滞りなく祭りが終わって、ウイルス発生も終わってしまえば…」
「そうあれば、いいですけどねえ。楽観は禁物です。万一を考えて最悪の想定をするのが僕たちの仕事ですよ」
(って、アンタが一番緊張感がないんですけど)
 由利子は心の中でこっそりと突っ込んだ。

 相変わらず極美はシェルター内に軟禁状態だった。デスクからはサイキウイルス事件続報記事はまだかという催促のメールが毎日送られてきていた。携帯電話にも幾度となくかかっていたが、なんとか誤魔化して締め切りを1週間延ばしてもらった。それでも、このまま待っていても埒があかないので、なんとか一人で取材する糸口を見つけようと、ネットで資料になりそうなネタを探したが、例のタワーマンションでの感染死以来ぱったりと感染者が途絶えていて、ネット民の関心は早くも薄れつつあった。シェルター内でのネットからの情報収集に限界を感じた、極美は大胆な行動に出ることにした。

 祭りの現場に戻った葛西は、早速不審物や不審者情報に翻弄されていた。夕方からフィナーレのリハーサル的な行事があり、沿道はすでに見物客でいっぱいになっている。こんな状態でウイルスが撒かれたら大惨事になるだろう。しかも、数日の潜伏期間の後に。それは、F県や周辺のみならず、日本中、最悪国外に広がることを意味する。葛西は自分等の責任の重大さに胃が悪くなりそうだった。
 テロに関しては警察でも葛西たちサイキウイルス対策部他一部の者にしか詳しい内容は知らされていない。休憩と今後の打ち合わせのために詰所に戻ると、朝から警備に駆り出されている富田林たちが、暑さにうだりながら缶のアイスコーヒーを飲んでいた。その姿はどう見てもそこら辺にいるリーマンのオッサンである。
「お疲れさまです!」
 葛西がカラ元気を出して挨拶すると、富田林が商店街の団扇で忙しく自分を仰ぎながら言った。
「よお、葛西。どんな具合だ?」
「相変わらずガセネタと冷やかしばっかですよ」
「そっか。ま、俺らもそんな具合やったけどね」
「まあ、本当に不審物があったらあったで大ゴトですけど」
「ははは、違いない。しかし、暑かなあ。俺、もう自分がしょっぱ臭くてかなわんよ。はやく家に帰ってひとっ風呂浴びて冷たいビールで…」
「トンさん、やめてくださいよう。余計に暑くなりますやん」
 と、増岡が同じく団扇で激しく自分を仰ぎながら言った。

 シェルターから抜け出した極美は、街中の、特に沿道に群がる人の多さに驚いていた。
(そうか、今はお祭りの真っ最中だったっけ)
 極美は、こっちに派遣された時、この祭りについても調べたことを思い出した。もっとも、デスクに取材の申し入れをしたが、却下された。あまりにも女性の入れない行事や場所が多すぎるという理由からだ。
「なによ、おかみさんたちに密着取材とかいろいろ方法はあったじゃん」
 極美は思い出して小声でぶつくさ文句を言った。その横で、おおーっという歓声が上がってすぐそばの道路を特有の掛け声と共に山が駆け抜けて行った。
「あ、せっかくだから写真撮るんだったわ」
 極美は人垣の向こうに走り去る山を見送りながらつぶやいた。 

 その頃、ギルフォード研究室はみんなでテレビに釘付けになっていた。リハーサル的行事がテレビ中継されていたからだ。
 由利子がテレビのチャンネルを合わせるなり言った。
「うわあ、山笠の舁手と見物人で埋まってら。テレビで見ると余計にすごいね。葛西君あの中のどこかにいるのよねえ」
「すごい。リハーサルなのに、あんなに本格的にやるんですねえ」ギルフォードが感心して言った。「見に行けばよかった」
 それを聞いた由利子が言った。
「じゃ、最終日のフィナーレに行こうよ。迫力が違うわよ。朝早いけど」
「早いって?」
「まあ、走り出すのが4時59分だね」
「オー、早朝過ぎます。しかも、夜のニュース番組みたいな中途半端な時間です」
「しらんわよ」
 由利子が例の如く突っぱねるように言った。
「あら、一際大きな山車が走ってますわよ。まあ、知事ですわ。山車に乗ってる前方3人の真ん中!」
「この流れだけが、昔ながらの飾り山で走るんだよ。だから、重すぎるんで競争には加わらないんだけど、やっぱり大きいとド迫力だねえ」
 由利子が説明すると、ギルフォードがニコニコして言った。
「知事、念願がかなって良かったです」
 「台上がり」の森の内は、中継で映っているのを知ってか知らずか、真剣な表情で力いっぱいに指揮をとっていた。

 降屋が一仕事終えて部屋に帰り一息ついていると、呼び鈴が鳴った。モニターを見ると極美が立っていた。降屋は驚きながらも極美を招き入れた。
「極美さん、どうしたの? 一人じゃ危ないでしょう」
「ごめんなさい。でも、シェルターに何日も籠っているのに耐えられなくなったの。電話しても裕己さん捕まらないし、思い切って来てみたの」
「と、とにかく上がって。君、目立つし」
 降屋は極美を居間に入れた。
「あの、裕己さん、この前はごめんなさいね。わたし、あなたの事、ホントに誰にも言わなかったのよ」
 と、極美はまず、この前のお詫びを言った。降屋は大丈夫、気にしてないよと笑顔で言った。しかし、どうも降屋の様子がおかしい。妙にそわそわして落ち着かないのだ。
「裕己さん、どうしたの? なんか裕己さんらしくない」
「そんなことないよ。ただ、ちょっと大きな仕事を任せられたから、少しハイにはなってるかもしれないけど」
「大きな仕事?」
「うん。企業秘密なんで言えないけど、かなり大きなプロジェクトなんだ」
「そうなんだ。じゃあがんばらなきゃ」
「もちろんさ。だから、僕はしばらく君の取材につきあえないかもしれない」
「え?」極美は驚いて目を丸くして降屋を見た。
「すまない。その間、一人で取材してほしい。ネタは提供するし、長兄さまにお願いして、ボディガード兼助手もつけてもらうから」
「う、ううん、一人で大丈夫よ。裕己さんに会うまでは一人でやってたんだし、きっと大丈夫」
「いや、そうはいかないよ。君は命を狙われるかもしれないんだから。だから、助手が来るまでもう少し待機してて」
「ええ? でもいい加減仕上げなきゃあ、デスクからもう鬼の催促で…」 
「大丈夫、あと、1・2日程度のことだから」
「……」
 極美が当惑して黙り込んでしまったので、降屋は強めの口調で念を押した。
「わかってくれるね?」
「わ、わかったわ」
「よし、いい子だ。じゃあ、僕はそろそろ行かなくちゃ。やり残した仕事があるんだ。ついでに送るから。取材、がんばれよ」
 降屋は極美の肩をポンとたたいて立ち上がった。ところが、極美は「待って!」と叫んで降屋にしがみつくようにして言った。
「ごめんなさい、本当は不安なの。だって、知り合いもいない初めて来た街に、たった一人で何日もいるのよ、しかも、ウイルステロの秘密に迫ろうとしている。ほんとは恐いの。判って。お願い、もう少し一緒にいて…!」
 もとより精神的に不安定になっている降屋は、不意を突かれていつもの冷静さを失った。なんと言っても極美はもとグラビアアイドルで、その魅力はまったく衰えていなかった。
「極美さん…」
 降屋は誘惑に抗えず、そのまま極美を抱きしめた。

 極美が目を覚ますと、いつの間にかシェルターの自分のベッドにもどっており、降屋の姿はすでに無かった。極美はけだるそうに半身を起すと、頭を振った。何故か記憶がほとんど飛んでいた。
 あの時降屋は極美を激しく抱きしめた後、彼女をベッドに運び、キッチンからグラスに入った赤い液体を二つ運んできた。ワインとも違った、透明な、赤と言うより紅と言った方がピッタリな色で、もしルビーを溶かしたらこんな色だろうといった感じの美しい飲み物だった。
「これはね、レディ・ヴァンパネラという、ノンアルコールのカクテルだよ。飲酒運転できないから、これで乾杯しよう。二人の初めての夜に」
 極美は言われるがままに、降屋と乾杯して紅いカクテルを飲んだ。それは甘酸っぱい中に脳髄に染み入る様な、不思議な刺激のある危険な香りのするカクテルだった。
 ところが、その後の記憶がはっきりとしないのだ。ただ、獣のように理性のかけらもなく降屋を求め、あられもない姿を晒したような自己嫌悪に陥りそうな記憶がおぼろげにあった。しかし、それ以上に何故か妙にすっきりした、なにかの殻から抜け出して生まれ変わったような快感が脳髄に残っていた。
 極美から解放された降屋は、次の行動に移るためにシェルター地下の駐車場に来ていた。車の前にはロキと呼ばれたあの男がいた。彼の姿を確認した時、目の奥に一瞬痛みが走った。しかし、ワクチンを接種した筈の降屋は感染のことは微塵も考えず、あんなことの後だからと、気にも留めずに仲間に声をかけた。
「来てくれたんだね。待たせたかい?」
「よお、存外早かったな」
「まあ、部屋に連れて行っただけだからな」
「それで、今からゴミ捨てに行くのか?」
「ああ、粗大ゴミだから慎重にやらないとな」
「しかし、アレを飲んだのなら、運転マズイだろ?」
「あんなヤバイもん、俺は飲んでねえよ。コンタミ君からの押収物を試してみただけさ」
「どうだった?」
 ”ロキ”が興味深そうに訊いた。
「まあ、ご想像通りさ。役得ってやつだな」
「くくっ、そうか。羨ましいな」
「まだ残ってるが、誰かに試してみないか? けっこうすごいぞ」
「いや、遠慮しよう。アレはラボに返すべきだ。あんなものが闇ルートで広まったらこの国は滅びてしまう」
「どうせ、いったん滅ぼす予定だろ?」
「何を言っている! 長兄さまの御宣託通りにならねば人類も碧珠も救えないんだ!!」
「じょ、冗談だよ。そんなことわかってるって」
 降屋は”ロキ”が思いの外語気を荒げて言ったので、驚いて取り繕った。
「それより、早く行こう。こんなものはさっさと捨てないと験が悪い。君、途中まで付き合ってくれるんだろ?」
「ああ、同業者対策でな。途中までですまないが、時間までには署に帰らねば怪しまれるからな」
「じゃあ、急ごう」
 二人は急いで車に乗り込んだ。車はゆっくりと発進し地下駐車場を出ると、まだ明るさの残る夜の街の道路に連なる赤いテールランプの中に紛れていった。

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2.疾走 (6)フェアウェル

 西原祐一が家に帰ると、母親が玄関まで迎えにきて言った。
「おかえり、祐一。勉強会楽しかった?」
「まあね。そのせいで、ちょっと帰りが遅くなっちゃったけど」
「連絡してくれれば多少遅くなるのは構わないけど、危ないことにだけは首を突っ込まんでね」
「うん、大丈夫だよ。あの時で懲りとおし、仲間たちにも迷惑をかけたくないし」
 祐一は答えながら靴を脱いで家に上ると、2階の自室に向かった。
「もうすぐご飯食べれるから、はやく着替えて降りてきてちょうだい」
 と、母の真理子は階段を上ろうとする祐一の背に向かって言うと、キッチンに向かった。しかし、数歩歩いてハタと足を止めると部屋に入ろうとしていた祐一に向かって言った。
「そうそう、夕方めんたい放送の美波美咲さんからあんた宛に電話があったよ」
 それを聞いて祐一は驚いて振り返った。
「ミナミサから? 何て?」
「なんか、あんたと話をしたいって言うからさ、まだ帰ってないけど何の件かって訊いたら、サイキウイルスについて訊きたいって言われたとよ。で、どこで聞いたかしらないけど、もう関わりたくないからって、断っとったけん。良かろ?」
「うん。ありがとう、助かったよ」
 祐一は笑顔で母親に礼を言うと、部屋に入った。着替えてからSNSを見ると、リーグの3人からそれぞれ同じ内容の書き込みが入っていた。一様に興奮した文面でミナミサからコンタクトがあったことを伝えていた。
「マスコミ、恐るべしだな」
 祐一はため息をつきながら言ったが、書き込みを読んでいるうちに苦笑してしまった。良夫と彩夏がSNS上でまで仲良く言い合いをしていたからだ。
「こいつら、つきあっちゃえばいいのに」
 祐一はぼそりと言った。


 その頃由利子はギルフォード達と黒岩の送別会で馴染みの居酒屋にいた。黒岩は、噂の教授と会えて大はしゃぎしている。帰りがけに一緒に写メ撮って娘に送るんだと喜色満面だ。しかし、黒岩もギルフォード同様下戸だったので、せいぜいノンアルコールビールが精一杯だった。由利子はそれでよくあのテンションを保てるなと感心していた。今日は葛西たちが来れなかったかわりに何故か研究生の如月がいた。ギルフォード曰く、女子ばかり連れていると周囲の男性からひがまれるらしい。真偽のほどはともかく、如月もまんざらではないようで張り切って幹事宜しく注文を仕切っている。
「あのキサラギって大阪弁の研究生、ひょうきんで面白いねえ。役に立つし、いい舎弟になりそうやね」
「こらこら、堅気の大学生になんてこというの」
「あはは、悪い悪い」
「で、こっちに帰った用件は終わったの?」
「うん、だいたいね。夫の骨もあちらのお墓に移すことになったんで、こっちで建てとったお墓も取り壊すことにしたんよ」
「え? じゃあ、お骨はどうやって運ぶの?」
「それがね」
 と、黒岩がにやりと笑って言った、
「お骨ってゆうパックで送れるのよ~」
「ええっ? ゆうパックって、マジ? なんてお手軽!」
「私も聞いて驚いたけど、ちゃんとホームページにも書いてあったよ。水分があった場合も水気が漏れないようにしっかり防水すれば大丈夫だって。で、送り状に『遺骨』って明記して大丈夫なんて」
「ひゃあー、なんて合理的。で、チルドゆうパック?」
「いや、普通の。そう腐るもんじゃないし」
「あ、骨だもんね」
「そういうこと。先に夫の実家に送っておいて、帰ってからみんなでお墓に納めに行くんだ。」
「そっか、旦那さんも久しぶりにご両親と会えるんだね。それにしても、よく決心したね。以前、旦那さんのご両親とはウマが合わないって言ってたでしょ?」
「そうなんやけど、夫の両親から真剣に説得されて実際暮らしてみたら、思ったよりうまくいきそうでさ、娘のことも可愛がってくれるし。まあ、夫が一人息子だったんで、老後が不安ってのもあったんだろうけどさ」
「ジンカン到るところにセイザンあり、ですよ」
 と、ギルフォードが話に割って入った。
「わあ、教授、聞いていらしたんですか」
「そりゃあ聞こえますよ。ルイコウさん」
「るい子です。黒岩涙香では作家になってしまいますよ」
「ははは、そうでした。ルイコさん、どこへ行ってもなんとかなるものですよ。僕なんか異国でもなんとかやってます」
「アレクは馴染みすぎでしょ」
 と由利子が言うと、ギルフォードは少し不満げに言った。
「こう見えてもけっこう戸惑うことあるんですケド。たとえばこの、勝手に出されてお金を取られるつき出しとか」
「なんかせこい」
「いや、そういうレベルじゃなくて、たとえば、スペインのバルではワインを飲むときタパスというつき出しみたいなものが出されますが、基本無料ですし」
「日本じゃメニューに載ってるし、有料だけど」
「ケチとかじゃなくて、勝手に料理を押し付けられてお金を取られるのが納得できないんです」
「そっかあ。そんなの考えたこともなかったなあ。私はこんなあん肝とか出てきたら嬉しいけどな」
「まあアンキモは美味しいですケド」
「あら、お骨から肝臓の話になっちゃいましたわね」
 紗弥に突っ込まれて由利子と黒岩が笑いながら言った。
「そういやぁ、そうだわ」
「たしかに」
「ところで、いつあっちに帰るの?」
「日曜の夕方かな」
「祭りのフィナーレまで見て帰ればいいのに」
「私はお祭りのある地元の人間じゃないし、そもそも女性が不浄とか言われるようなお祭りには興味ないし」
「たしかに、そういうところはあるよね。もともとは危険だから女性を寄せ付けないようにしようということだったのかも知れないけど」
「好意的に考えればね。それでも女性が邪魔だってことには変わりないよ」
「まっ、そんなこと文句言っても伝統化してしまったからには仕方ないしね。観光客でも潤う訳だし、いいんじゃない?」
「まあね。でも、今年はあまり客足の期待は出来そうもないみたいじゃない」
「うん、特に外国からの観光客が激減しているらしいね。在F外国人の県外脱出も増えているらしいし」
「それ、長野のニュースでもやってたよ」
「げっ、てことは、全国版でもやってたのか」
「まあ、祭りのニュースに関連してちょっとだけだったけどね。でも、これからは日本人にもそう言うのが出て来るかもね。福島の時みたいに。まあ、あたしゃ人のことは言えんけどさ」
「黒岩さんはそれで引っ越したんじゃないから、気にしなくてもいいでしょ?」
「でも、やっぱりちょっと心苦しいよ」
 そう言うと、黒岩はウーロン茶をぐいと飲み干し、タン!とテーブルに置いた。それを見て由利子が感心したように言った。
「酒呑みが濃い水割り飲み干したようにしか見えないねえ」
「え~? 単なる下戸の肴荒らしなんですけどォ」
「ユリコは質実共に大酒のみですよね!」
 と、ギルフォードがまた話に割って入った。何故か如月がうんうんと頷いていた。
「うるさいわね。どうせ一升飲んでも平気だよ」
「マジ?」
 と、黒岩が驚いて言った。
「篠原さん、飲めてもそれは飲みすぎ。肝臓壊すよ」
「ああ、大丈夫。呑みっ比(べ)する時しかそんなに飲まないから」
「おいおい、呑み比べって」
 黒岩が信じられないと言う表情で言うと、ギルフォードが右手の人差し指を立てウインクをしながら言った。
「じゃあ、こんど、紗弥さんと対決させてみましょう」
「お断りします!」
「お断りしますわ!」
 ギルフォードの冗談に、二人が同時に言った。

 黒岩のささやかな送別会は、和気あいあいとして終わった。黒岩とギルフォードは感染症話で大いに盛り上がっていた。
 居酒屋前で恒例の集合写真と、黒岩たっての願いだったギルフォードとのツーショット写真を撮った。カメラマンは黒岩のカメラを預かった如月だ。二人ともノリノリで写真に納まっていた。
「下戸の宴会テンションって案外すごいな」
 由利子が半分呆れながら感心していると、ギルフォードと黒岩が突撃してきた。由利子は二人にサンドウィッチされ、両方から頬にキスされてしまい、「きゃ~」と驚いて悲鳴を上げたところを、如月にバッチリと撮影された。ギルフォードと黒岩はハイタッチをしたあと両手で握手をして言った。
「いい記念になりマスね!」
「うんうん。教授、ありがとう。今日の写真、お宝にしま~す」
「もう、勝手にして!」
 由利子が両手を軽く上げた降参のポーズで言った。

「今日は面白かったよ。今までの飲み会で一番楽しかった。帰郷したらまた宴会してね~」
 ホテル前まで送ってもらった黒岩はそう言いながら、それぞれみんなと握手して去って行った。その後ろ姿に向かって由利子が言った。
「日曜日、見送りに行くよ! 出発時間教えて!」
「うん、ありがと」
 黒岩はそう言って振り返ると笑って手を振った。途中何度も振り返って手を振った。黒岩の姿が無事ホテルに入ったのを見届けると由利子がつぶやいた。
「ああ見えて、いろいろ不安なんだろうなあ」
「大丈夫ですよ。あっちでもお嬢さんと一緒なのですから。親子で暮らせるのが一番の幸せです」
 ギルフォードが少しさみしそうに言ったので、由利子は思い出した。
(ああ、アレクって小さい時にお母様亡くなられたのよね)
「アレクは私たちがいるから寂しくない?」
「ええ。君たちは僕のファミリーです。とても大事なファミリーです」
「そっか、家族か。嬉しいねえ」
「ユリコ、大好きです」
 ギルフォードはそう言いながら由利子を抱きしめ再びキスしようとした。
「調子にのんな!」
 雑踏の中にパーンという乾いた音が響いた。

 由利子を家まで送り届け、ギルフォードと紗弥が帰路についていた。
「サヤさん、楽しかったですか?」
「ええ。それにお料理もお酒も美味しゅうございましたわ。どうして?」
「はい、さっきからなんだか浮かない表情をしてますので」
 紗弥はギルフォードに言われて少し躊躇したが答えた。
「言うべきかどうか迷ったのですが…、実は、居酒屋を出てすぐに、すごい視線を感じたのです。殺気に近いような…」
「え?」
「それで、すぐに周囲を確認したのですが、それらしき姿も気配もわからなくて、ちょっと不安だったのです」
「殺気はすぐに消えたんですね」
「ええ。すぐに」
「妙ですねえ。サヤさんがカン違いするわけないし」
「ええ。でも、それ以来まったくそんな気配はなかったので、大丈夫かと思いますが」
「念のため、後で長沼間さんにお知らせしておきましょう。ユリコの周囲の警備を強化した方がいいかもです」 
 ギルフォードは先ほどとはうって変わった厳しい表情をして言った。

 由利子は部屋に帰って一息つくと、パソコンを開いた。メールチェックをすると、黒岩からメールと先ほどの写真が送られてきていた。

今日は本当にありがとう。すごく楽しかった! ジュンペーきゅんに会えなかったのは残念だけど、アレク様とお会い出来てサイコー! 紗弥さんも噂通り綺麗で凛々しくてステキだったねー。如月君もお世話係ありがとう。
ふふふ、あのね、アレク様をモデルにしたキャラ考えちゃった。

「え?」
 由利子は読みながら思わず驚いて声を上げた。
「黒岩さん、ひょっとして同人やってたのか。あ、だから毎年夏コミ前くらいにはいつも眠そうにしてたんだー」

ファンタジー物でね、国を追われた皇子の冒険もので、よくあるシチュなんだけど、ボディガードの女騎士は紗弥さんがモデルね。

「確かに内容はマンネリかもしれないけど、読みたい気もする」

大筋が決まったらまた教えるね。今からでもがんばったら夏コミイケるかもしれん。ラフ出来たら送るね。

「うわ、それめっちゃ見たい」

話それた。
今日は本当に面白かったよ。またやろうね! 次回は教授のパートナーのジュリーきゅんにも会いたいなあ。

「うん、うん。またやろうね」
 由利子は頷きながらつぶやいた。添付写真を見ると、みんなの楽しそうなひと時が写っていた。
「やだ、こんな写真まで送ってくれたんだ」
 それは、ギルフォードと黒岩と自分とのあの3ショット写真だった。
「ま、いっか。記念は記念だし。でも、残念だけど、これはブログにはアップ出来そうもないな。教授もあのタブロイド記事以来、写真のネット掲載は嫌がっているみたいだし」 
 それで、由利子はそれをプリントアウトしてみんなに配ることにした。

 真樹村極美は、シェルターに戻ってからもしばらく何もする気が起こらず、ベッドに寝転がったままぼうっとしていた。降屋のところからここに帰って来た記憶がほとんどないのだ。頭の中はまだ降屋の部屋にいるような感じで、完全に混乱していた。しかも、頭の芯にあのカクテルの影響が残っているのか、なんとなく体が熱っぽい。極美は時折ふっと頭の中をよぎる降屋との情事の記憶に自己嫌悪に陥っていた。
(まるで獣じゃないの)
 極美は「ビジネス」でもプライベートでも、こんなに獣じみた行為をしたことは未だかつてなかったのだ。見かけに寄らす、そっちの方では淡白なんだなとよく言われた。いったいあの飲み物は何だったのだろう。裕己さんは一体どこからあんなものを手に入れたのだろう? 
「まさか、ヤバい系の麻薬?」
 そうつぶやいた極美は、恐怖で心拍数が異常に上がるのを感じた。極美はこの期に及んで初めて降屋裕己という男について疑問を持った。その時、いきなり極美のケータイが鳴った。驚いて飛び起き電話に出ると、デスクだった。極美はベッドサイドに立ち焦って応えた。
「はい、真樹村です」
「どうした? 息が荒いぞ?」
「すっ、すみません、トイレに行ってたんで電話に出ようと急に走ったので…」
 極美はそう言って誤魔化したが、デスクは少し鼻で笑ったようにして言った。
「まあ、何でもいいやね。ところで、原稿受け取ったよ。メールじゃなくて郵送でプリントとCDRのデータを送ってきたんで驚いたよ」
「え? 届いた? 何が?」
「何がって、サイキウイルス特集第2弾だよ」
「え? 届いた!?」
 極美には何のことかさっぱりわからず混乱して鸚鵡のように同じ返事をした。何と答えていいかわからなくなったのだ。しかし、デスクは気にすることなく上機嫌で話を続けた。
「読んで検討するのに時間がかかったんで連絡が今の時間になったんだ。すまんね。いやあ、今回もいい出来だねえ。君にこんな才能があったとはねえ」
「いえ、その…」
「第1弾の時は売り上げが2倍になったし、今回も期待できそうだよ。今度臨時ボーナスを出そうかと思っているからな。そっちも期待しといてよ」
「は、はあ、はい…」
「どうしたの。気のない返事だね。嬉しくないの?」
「いえ、何か、現実かどうか信じられなくて…」
「ははは、そうか、そうか。これは来週の水曜日の号にねじ込むからね。じゃ、そういうことで」
 デスクはほぼ一方的に話すと電話を切った。
「サイキウイルス特集第2弾? なんで? そんなもの、まだ送った覚えないのに」
 極美はケータイを握りしめたまま、へたへたとベッドに腰を下ろした。極美は何が何だかさっぱりわからず、ただただ混乱するばかりであった。

 
***** 作者より *****

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2.疾走 (7)夏祭り勇壮に

20XX年7月13日(土)

 こちらはまだ前日金曜日の夕方、米国東部メリーランド州フレデリック。ようやくフォート・デトリックでの隔離から解放されたジュリアスが、フレデリック空港に向かうべく歩いていた。
「は~あ、ようやっとお天道様が拝めたわ。やっぱ娑婆の空気はえーて」
 ジュリアスは傾いた太陽をの方を眩しげに見てつぶやいた。
「ったく、おかげさんで予定が狂いまくりだがね。本当なら今頃は日本におるはずなのによ。あー、ほんに祭り見たかったでよ」
 そこまでつぶやいたところで横に黒いムスタングが止まって窓が開いた。そこから覗いた顔を見てジュリアスは驚いた。デズモンド・ストーク、一番会いたくない男だった。ストークは意外にもにこやかに言った。
”退院おめでとう,Dr.キング”
 ジュリアスは露骨に嫌な顔をして言った。
”5時でご帰宅かい? 良い御身分だな”
”今夜は女房とディナーなんでね”
”そんじゃあもう僕に用はないだろ,ストークさん”
”そう邪険にするもんじゃない.君の隔離はこっちも上からの命令でね,すまなかったと思っている”
”どんなもんだか”
”空港までだろう,乗せてやってもいいが”
”遠慮しとくわ”
”そうか.まあそうだろうな.まあ,せいぜい日本で頑張ってくれ.ギルフォード君には私が会いたがってたと伝えるがいいよ.じゃ,寄り道せずに帰るんだぞ” 
 ストークはそれだけ言うと窓を閉め、さっさと車を発進させ去って行った。その後ろ姿にジュリアスはべーっと舌を出してから言った。
「けっ、余計なお世話だがね。たーけらしい((ばからしい)デスストーカー野郎が負け惜しみゆーとるわ。って、あーこんなことしとられんわ、タクシー拾うてから空港へ行って、ほんでこれからの予定を決めよーかね」
 ジュリアスは景気づけで駆け足で公道まで行き、道路に向かってしばらく左右を見ていたががっくりした様子でつぶやいた。
「こりゃータクシーは呼んだがえーかね~。さっきのムスタングに乗った方が良かったかねー。まーそりゃーにゃーけどよ」
 隔離生活で独り言がくせになったのか、ジュリアスはぶつぶつ言いながらタクシーを拾うために再び左右を確認した。 
 

 夜が明けるのももどかしく、極美は東の空に太陽が覗くのを待って降屋に電話をした。昨夜も電話を入れたのだが、電波の届かないところにいるのか、何度しても通じなかったのだ。しかし、朝早いためだろうか、電話はつながっているものの、出る気配はない。それで、仕方なく留守録を入れた。
(何度同じような要件の留守録をしたかしら…)
 極美はそう思いながらため息をついた。しかし、雑誌記事の件について、何としても聞かねばならない。
 しかし、果たして記事を編集部に送ったのは降屋だろうか? 極美はかなり不吉な不安が湧きあがってくるのを感じていた。それは、考えまいとするたびに大きくなっていった。なぜなら、教主の甘言に乗って、つい未完成のサイキウイルスレポートのデータを送ってしまったからだ。極美は降屋に第2弾の草稿を送ったがまだまだ未完成でしかも電子文書の形で送っていた。もし、データを送るとしたら降屋より教主の可能性が高いことは自明のことであった。しかし、今の極美は、昨夜の「カクテル」の後遺症か冷静で筋道の立った思考が出来なくなっていた。ベッドに横になって沈黙したままの携帯電話を枕元に置き、昨夜の寝不足も相まって、うとうととし始めた。

 降屋は昨夜の強行軍がたたって、目覚めたのは朝8時をとっくに過ぎていた。
「しまった、朝の礼拝の時間が過ぎてしまった」
 降屋は慌てて飛び起きた。その時、目の奥に激痛が走った。降屋はうっと声を上げると両目を押え、ベッドサイドにうずくまった。
(な、何だ、これは!?)
 降屋の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。まさか…? その考えを降屋は声を出して打ち消した。
「いや、俺はちゃんとワクチンを接種していただいたんだ。ありえない!!」
 しかし、降屋は遥音医師の不吉な言葉を思い出していた。それはワクチンを接種する前に降屋が彼女にワクチンを打てば感染しても発症しないか確認した時の答えだった。
『はい、もちろんです。すでに発症していない限りは』
(まさか…) 
 降屋は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

 祭事会場の警察官詰所では朝礼が行われ、知事が警護の警官たちを前にして語っていた。タスクフォースチームとして警備に参加している葛西は、最前列でそれを聞いていた。富田林たちもいたが、警備部との合同チームであるため、怪我からすっかり回復した武邑もその中にいた。
「みなさん、連日の警備ご苦労様です。おかげで今のところ何事もなく各行事を終えることができております。今日は午後から知名士たちが台上がりする集団山見せがあります。すなわち、今日は最終日、いやそれ以上にテロの起きる可能性が高まります。あと3日、いや、最終日は早朝なのであと丸2日間、大変でしょうが、一瞬の気も緩ませず、警備を続けてください。よろしくおねがいします!」
 森の内はそう言うと、深く頭を下げた。

「おい、葛西よお」
 持ち場に向かいながら富田林が言った。
「ここ数日、やったら忙かったけど、懸念されている件に関してはまったく動きがなさそうだし、ホントにこの祭りが狙われたりするんかな」
「敵の目的がわからない以上、油断できませんし、特にこういった祭りなどの大規模な行事はテロの標的になりますから」
「うむ、そういえばボストンマラソン爆弾事件とかあったな」
「厳重な警備が行われていても、こういう時は必ずどこか手薄な箇所が出来てしまうものです」
「ボストンマラソン爆弾事件といえば、知っとったか、葛西。ヤラセだったって与太話があるらしいな」
「自作自演っていう、よくある陰謀論ですね。好きですよね、陰謀論者」
「今回の事件も陰謀とか言われてんのかねえ?」
「すでにあったじゃないですか。サンズマガジンのやつ」
「あ~~~あ!」
 富田林はそういうと手をポンと叩いて言った。
「あの、アメリカの陰謀とかギルフォード先生が怪しいとか書いとったやつか!」
「名指しはやめてください。教授が聞いたら怒りますよ。ああいう憶測だけの記事が一番厄介なんですよね」
 と、葛西はため息をついて言った。

 ギルフォードが教授室でサイキウイルス対策用で民間に配る新しいチラシとパンフレットの仮刷りをチェックしていると電話が鳴った。
「教授。知事からです」
 電話を取った紗弥が言った。
「おや、何の用でしょうかねえ」
 と言いながら、ギルフォードは受話器を取った。それを見ながら由利子が小声で紗弥に言った。
「今日は嫌な顔も文句もなしで電話とったね。何かいいことでもあったの?」
「ええ、ジュリーがようやく解放されたそうなんです。それで、もう数日かかりそうですが、帰ってこれそうだとか」
「ええ? 良かったじゃない。あ、でも、お祭りの期間には帰れなさそうだね」
「本人も残念がってたそうですわ」 
 と紗弥が答えたところで、ギルフォードの電話が終わった。
「ふたりとも、なんかうれしそうですね」
 ギルフォードが受話器を置きながら言った。由利子は笑顔のまま答えた。
「内緒。で、知事は何て?」
「15日のフィナーレまで開催出来そうだって、嬉しそうでしたよ」
「わあ、よかったね」
「本当によかったですわ」
「今日の集団山見せにも乗るから、中継があったら見てねだって」
「じゃあ、いっそ見に行こうよ。遠くからでもいいじゃん」
 と、由利子が提案すると、紗弥も相槌を打った。
「そうですわね。私たちと一緒なら由利子さんも外出OKでしょう?」
「そうですねえ…」とギルフォードは少し考え聞いた。「時間は?」
「夕方3時過ぎだったと思うけど」
「その時間なら行けそうですね。じゃあ、3人でいきましょうか。ジュンの働きぶりも見てみたいし」
「やった!」
 と、由利子がサムアップして言うと、紗弥が笑顔で応えた。
「じゃあ、このリーフレット(チラシ)とパンフレットのチェックをさっさと終わらせましょう。問題の根本はまだ未解決なのですから」
 ギルフォードは自らを戒めるように言った。

 西原祐一をはじめとするタミヤマリーグの4人が校門から出ると、濃いめのサングラスをかけた小柄な女性から声をかけられた。
「わあっ、ミナミサ!」
 サングラスの下の顔を見て男3人が驚いて口々にi言うと、美波は人差し指で口を封じるそぶりをした。彩夏は不機嫌そうにつぶやいた。
「なによ、この女、こんなとこまで出しゃばって来たの?」
 しかし、美波は気にせず笑顔で手を振った。
「こんにちは。ちょっと時間、いい? ランチ奢るわよ」
「知らない人に付いて行っちゃダメだって、先生とお母さんから言われてまーす」
 と、良夫が言い、さっさと彼女の横を通って歩き出した。彩夏もそれに続いて「じゃ、そういうことで~♡」と手を振ってから良夫の後に続いた。残りの2人祐一と勝太もその後を追うように美波の横を通り過ぎて行った。
「ちょっと待って、4人とも! 話を聞いてよ。今日はクルーを置いて一人で来たの。私、あなたたちの力になりたいのよ!」
 美波は彼らの背中に向けて大きめの声で訴えた。すると、祐一が振り向いて静かに言った。
「美波さん、僕らはマスコミと言われる人たちが信じられないんです。この前、どこかの週刊誌がこの事件について根も葉もないことを書きたて、被害者やそれにかかわる人たちについて憶測を並べ立てました。名前は伏せられてましたが、僕らのことについても書かれていて、学校でその記事を見せられた妹はひどく傷つきました。僕はともかく、妹には何の落ち度もなかったのに…。それだけじゃない、僕らの恩人であるギルフォード教授をロクな証拠もなくまるで犯罪者のように扱っていました。どんなにきれいごとを言ったって結局あなた方はスクープが欲しいだけじゃあないですか」
「ちょっと、あんな与太記事と一緒にしないでよ!」
 思わす美波が怒鳴った。本気で怒っているようだった。
「少なくとも私たちは得た情報をなんの検証もなく記事や番組にしたりしない! 報道としての誇りがあるからね!」
 美波が憤って大声を出したので、他の下校する生徒たちが彼女に気付き始めた。
「あれ、ミナミサ違う?」
「ミナミサ?」
「どこどこ?」
 周囲からちらほらと声がして、美波は自分に注目が集まり、スマートフォンやカメラを向けられ始めたので、焦って言った。
「また電話する! 取材の件、考えていてね。私は敵じゃない。ただ、真実を知りたいだけ」
 美波はそれだけ言うと、そそくさと立ち去って行った。
「なによ、逆切れしてんじゃないわよ」
 と、美波の迫力に気圧されながらも不服そうに彩夏が言ったが、祐一は去って行く美波の後ろ姿を真面目な表情で見ていた。そんな中、勝太がおずおずと言った。
「ミナミサ、真面目に考えているみたいじゃない? 取材に応じてあげてもいいんじゃ…」
「なに甘いこと言ってんのよ!」
「なん甘いこと言いよーと!」
 彩夏と良夫にほぼ同時に言われ、勝太は首をすくめて祐一を見た。

 ギルフォードたちが、集団山見せという御披露目の催しを見るため、市役所前公園に到着すると、葛西が彼らを迎えた。
「みなさんの護衛を言付かってまいりました」
「オー嬉しいです、ジュン。ところで凄い人ですねえ」
「今年はウイルス騒ぎのせいで少ない方ですよ」
 周囲を見回して驚くギルフォードに葛西が説明した。その後、葛西は3人を市役所から少し離れた沿道に案内した。
「このあたりで見ましょう。山が来るまでもう少し時間がありますし日差しもまだ強いですから、そこらへんで待ちましょうか」
 4人は沿道の人ごみから離れて植樹帯の木陰に立った。ギルフォードがここぞとばかりに嬉しそうに葛西に警備状況を質問しているので、由利子と紗弥がそれを見てくすっと笑った。
「もう、浮気してる?」
「安心したのかもしれませんね」
「それにしても、良い天気で良かったけど、蒸し暑いねえ。また夕立でも降るかな?」
「まあ、それは困りますわね」
 そんな他愛もない会話をしていると、沿道からわあっという歓声が上がった。
「来たみたいです。前の方に行きましょう。由利子さんは僕と紗弥さんの間から離れないで」
 3人は葛西の指示に従っての人垣に加わった。
「ユリコ、見えますか?」
「うん大丈夫。アレクは楽勝だね」
「なんなら、おんぶして差し上げますが」
「ううん、遠慮しとく。私より紗弥さんの方が小さいから…」
「わたくしも遠慮しますわ」
 と、紗弥が間髪入れずに言った。
 最初に締め込み姿の小さい子たちが集団で走ってきた。
「まあ、可愛い!」
「可愛いね~」
 紗弥と由利子が口々に言った。ギルフォードがあることに気付いて言った。
「おや、女の子もいますね。女性は参加できないんじゃなかったですか?」
「えっと、初潮前の子供だったら大丈夫みたいよ。小学校以下の子が多いみたいだけどね」
「因みに」と葛西が付け加えた。「子供山笠の写真は許可なく撮影出来ません。けしからん目的の撮影を禁じるためですが。それでも撮影して検挙される人が出ますね」
「日本の暗部よねえ」
 と、由利子がつくづくと言うと、ギルフォードが言った。
「まあ、アメリカで子供に街中でこんな恰好させたら親が逮捕されそうですから、それだけまだ日本は平和なんですよ」
「そうなのかなあ」
 由利子は答えながら複雑な気分になった。
 しばらく子供や年寄りといった集団が続いた後、山が見えてきた。勢い水が乱舞し、山を担ぐ男たちに襲いかかる。
「来ました。一番山です。これに知事が台上がりしています」
「オー! すごいです」
「頑張って見なきゃ。これは撮影して大丈夫よね」
「大丈夫です。おっさんは問題ないです」
「おっさんて」
 由利子が苦笑しながら言った。
 おっしょい、おっしょいという、独特な掛け声と共に山が近づいてくる。リハーサル的なならしの時と違って、これはいかにも祭りと言った按配で、勇壮ながらどこか泰然とした様子を思わせた。山はだんだん由利子たちに近づき由利子は小型デジタルカメラを構えた。
「おや、ケータイのカメラじゃないんですね」
「せっかくだから、しっかりと撮らないとね」
 そう言いながら由利子がギルフォードを見ると、一眼レフを構えている。
「って、本格的じゃん」
「どうもこのファインダーから見ないと写真を撮った気がしないんですよね」
 と、ギルフォードが言った。
「って、来ましたよ」
「わあっ」
 由利子は急いでカメラを構えなおすと、目の前を掛け声と共に山が通過していった。ギルフォードはカメラのファインダーを通して、森の内が嬉しそうに赤い指揮棒を振っているのを見、数回シャッターを切った。
(”ほんとに嬉しそうだな.このまま何事もなく終わってくれればいいが”)
 ギルフォードは一抹の不安を感じながら思った。護衛で由利子の隣に立つ葛西も同じように祭りの無事終了を祈っていた。
(早く15日の朝が滞りなく終わって欲しい)
 その後、各流れが随時勇壮に通過して行った。四つ目の流れが通った後にギルフォードが言った。
「台上がりの方はむさいじーさまやオッサンばかりですねえ」
「仕方ないよ。だって、今日の台上がりは地元の名士とかいう人たちだし、そもそもベテランしか上がれないからそれなりのオッサンしか上がれないし。しかも女性は参加出来ないし」
「そういうところは僕としては賛同しがたい風習です」
「黒岩さんも似たようなこと言ってたな。私の解釈は、本来荒っぽい祭りで危険だから女性を寄せ付けないようにしたんだと思う。不浄の者って考えは許せないけどね」
「そうですか。そういう解釈もありますね。担いでいる若い衆には時折いい男を見かけます。あ、ほら、あの右端の舁き手…っていうんですか、彼、素敵ですね」
「うん、私もさっきから気になってた」
 そう答えてから、由利子はギルフォードと男の趣味が合致したことに少々複雑な気分になった。
「ところでユリコ、今日はあの大きな飾り山は出ないんですか?」
「今日のはエキシビジョンみたいなものなんだけど、飾り山は出ないよ。でも、最終日にはトリで走ったと思う。重いから競争には参加しないけどね」
「そうですか。楽しみですね。あれは迫力があります」
 ギルフォードが「楽しみ」と言ったので、由利子は嬉しくなった。5つ目の山が近づいてきたので、由利子は少し後ろに下がってギルフォードの後から写真を構え、彼の後ろ姿と通過する山を一緒に撮ろうとカメラを構えた。その前を勇壮な掛け声と共に、山が駆け抜けて行った。

 

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2.疾走 【幕間】ある夏の夜のこと

 降屋は極美のいるシェルターの地下にある病室にいた。病状がどんどん進み、耐えられなくなった降屋は、夕方になってからついに発症したかもしれないことを組織側に伝えたのだ。
 降屋の知らせを受け、すぐに迎えの車が来た。降屋は後部座席に座った。タクシーを装ったその車は、後部座席が仕切られて運転者や助手席と隔絶されるようになっていた。
 シェルターの地下に隔離されてすぐに、教主が駆けつけてきた。彼は発症しているかもしれない降屋を抱きしめ、涙ながらに許しを乞うた。
「降屋さん、本当に申し訳ありません。今から遥音先生に検査してもらいますが、もし、発症していた場合、教団の医療技術を尽くして全力であなたを治すつもりです。必ず助けます」
 降屋は感動して言った。
「長兄さま、もったいのうございます。しかし、この体がお役に立てるなら、どうぞ、研究のためにお使いください」
 すると、教主は驚いて降屋の手を取り言った。
「降屋さん、そんなことを仰らないで。私は同志であるあなたを実験動物のように扱うつもりはありません。いっしょにウイルスを克服しましょう」
「長兄さま…」
 降屋は感動に身を震わせながら言った。
「身に余るお言葉を賜り、感謝の言葉もありません。それより、長兄さまの計画の足を引っ張ることになってしまい、ただただ、己のふがいなさを呪うばかりです」
「そんなことを仰ってはいけません。病気が治ればまたあなたのお力を貸していただくことになりましょう。今は、治すことに専念してください」
 そう言うと、教主は降屋の手をしっかりと握った。

(長兄さまは、感染発症しているかもしれない俺を、危険を顧みずに躊躇なく抱きしめてくださった。なんと深い愛をお持ちなのだろう)
 数時間前のことを思い出しながら、降屋はまた感動に胸を震わせていた。
(そうだ、長兄さまに報いるためにも、何としてでもウイルスを克服し、第一線に復帰しなくては)
 降屋はさらに信仰心を深め、長兄への盲目的な追従を募らせていった。
 

 由利子は祭り見学のあと、K署に用があるという葛西に送ってもらって、早めに帰宅できた。
 おかげで夕食も早めに終わり、入浴もさっさと済ませてしまったので、時間にかなり余裕が出来た。それで、久しぶりに気合を入れてブログ更新をすることにした。
 最近は更新も滞りがちで(なにせ、書けないオフレコ事項が多すぎる)書いても簡易更新が主だったが、今日は祭りを見に行ったのでネタも写真もバッチリだ。しかも、ギルフォードからも気に入った写真のデータを数枚もらったので、挿入画像のクオリティも数段アップしそうだ。
「アレクってば意外と写真の腕いいんだね。本人はカメラの性能だって謙遜してたけど」
 由利子はそう感心した後、少しむすっとして言った。
「これ、絶対にカメラマンやれるよね。でもさー、なんか、何でもこなすオールマイティーってどうよ。まあ、いい奴だけど性格がちょっと複雑なのが玉に傷っちゃあ玉に傷か」
 などとブツブツ言いながら、2時間ほどで更新を終えた。
「あー、動画の一つくらい撮っておくべきだったかな。けっこういい位置にいたのにな。さて、メールチェックしたら寝よっと」
 そう言いながらウェブメールを開くと、ダイレクトメールやメルマガに混じって黒岩からメールが来ていた。開くと添付資料がついていた。

「篠原さん、こんばんは。なんか興が乗ったので、アレク様たちがモデルのキャラを描いてみたよ。タブレットで描いたんでデータ添付したから気が向いたら見てちょーだい。あとで明日の新幹線の時間確信してメールする。じゃ、また~」

「わ、早っ。気が向いた。ソッコー向いた」
 由利子は傍から聴いたら意味不明なことをつぶやきながらワクワクして添付を開いた。
「わ、黒岩さん絵、上手かったんやね。なんか乙ゲー(乙女ゲーム)みたいな絵だけど、こういうのが受けるのかね」
 由利子はそう言いながら添付画像をスクロールした。添付は鉛筆で描いたイラストに薄く着色したラフイラスト3枚。アレクサンダー皇子1枚、男装の女性騎士サヤ1枚。これらは1枚に同一人物を数パターン描いたもので、キャラ設定も試行錯誤したものが走り書きされていた。3枚目は数人の主要キャラが描いてあった。皇子の恋人にジュリアスがモデルらしき王女(実は男性らしいことが見え見えに描かれている)。葛西はここでも警察官的職業で警備隊の若き隊長という設定らしい。この二人は写真で見せただけなのに、よく特徴を掴んでいると由利子は感心した。如月はなにやら情報屋のような風情で参加している。
「え? ひょっとして、これ私? 『魔法使いキリノス』? て、どう見てもガチ男キャラだしイケメン杉だし、違うのかな。注釈があるやん。何々、『キリノスはギリシャ語で百合という意味』ィ? やっぱ私やん」
 由利子はそのままひっくり返って一人でケラケラ笑ってしまったが、夜も9時をとっくに過ぎていることに気が付いて口を押えた。

 祐一が、ほのぼの一家団欒を終え自室でネットを立ち上げ調べ物をしていると、携帯電話が鳴った。知らない番号だったので無視していると、留守録にメッセージが入った。
「西原君よね。私、美波です。電話に出て〜。出てくれなきゃまいっちんぐ」
「まいっちんぐってなんだよ。酔っ払ってんのかよ」
 祐一が文句を言っているとすぐにまた着信が入った。同一電話番号なのでミナミサに間違いない。祐一は出るべきかどうか迷ったが、昼間サンズマガジンの記事に本気で怒っていた彼女を思い出し、信じてみようかと意を決して電話を受けた。
「…はい」
「祐一君?」
「そうです」
「やったー!」
「いったいどこでオレの電話番号を仕入れたんですか?」
 祐一は(やったーじゃねえよ)と思いながら怪訝そうな声で訊くと、美波は悪びれた様子もなく言った。
「仕入れたって人聞きの悪い。まあ、そりゃあ、蛇の道は蛇といってだな…」
「何自分から言ってるんですか。ひょっとして酔っ払ってませんか?」
「失礼ね。このアタシがジンロックの一杯や二杯で…」
(やっぱり飲んでたんだな。しかも強いやつだ)  祐一は呆れてしまった。さっきまでの葛藤が馬鹿みたいに思えてきた。(くそ、出なきゃよかったぜ)
 祐一は後悔した。そうしたらだんだん腹が立ってきた。
「酔っ払っていようがいまいが、酒飲んでほぼ初対面の中学生に電話する大人ってどうですか。立派ですか?」
「あー、いちいち小言くさいね、この小息子は」
「小息子って、なんですか」
「小娘の男版よ」
「あるんですか、そんな言葉?」
「知らんわよ。でも小娘があって小息子がないって不公平じゃん」
「でも男には青二才っていう言葉があるでしょう」
「あー、ああ言えばこう言う。どこかの宗教の元フロントマンみたいなこと言うなぁ」
「よりによってその人例に出しますか」
  と、祐一はムッとしながら言った。
「アタシはね、この地位になるまで散々小娘がって言われてきたんだよね。そんで、そう呼ばれなくなったら今度は女だてらに出しゃ張るなっていわれてさ〜。今日もあの後、社に帰ったらいきなりデスクに呼ばれて、危険だから手を引けですよ。つい数日前には発破かけてたのにさ。嫌って言ったらこんどは今日は帰って頭を冷やせって言われて、もうワケワカメだっちゅーの」
 頼んでもいないのに会社の愚痴を聞かされた祐一は、こんどは困惑してしまった。
「あの」
 祐一は先が長そうだったので話に割って入った。
「そろそろ本題にはいりませんか? それとも愚痴を言いに電話したんですか?」
 一瞬の沈黙の後、美波が言った。
「はーっ、あんったってば、ほんっとに可愛くない子ね!」
「愚痴は後でゆっくり聞いてあげます」
「え? あ…、ああ、そう?」
 今度は美波が困惑して言った。
「えっとぉ、話っていうのは、他でもない、君とあのウイルス事件との関わりについてだけど…」
「ミナミサ…ん、あなたは今流行っているサイキウイルスに事件性があると?」
「とぼけないでよ」
「とぼけてません。きいているんです。なぜあなたがそういう風に考えたのか」
「企業秘密。でも、あなたの出方次第では教えてあげられるかもよ」
「それはこっちも同じですよ」
「…(ー ー;)」
 数秒間2人は沈黙したが、先に美波が言った。
「もう、もうもうもう、アンタホントに中学生? 何げに大人と交渉してんじゃないよ!」
「もし、あなたが本気でサンズマガジンの記事に対抗する気持ちがあるなら、あることをお願いしたいと思っています」
 と祐一は冷静な口調のまま言った。これには美波は本気で驚いた。
「へ?」
「お願いしたいのは、ギルフォード先生のことです」
「は? それってQ大のあの? そう言えば昼間、ギルフォード先生がどうとか言ってたっけ」
「そうです。先生はあのタブロイド紙に犯人のように書かれていました」
「あ、あの目線入りのガイジン!」
「それです。今はたかがヨタ記事ということで相手にされていませんが、この先どうなるかわかりません。だからせめて公平の立場に立って報道出来る信頼出来る人にお願いしたいのです。これは他の仲間たちも同じです」
「じゃあじゃあ、私の報道能力を認めてくれてるってこと?」
「能力はわかりませんが、正義感と報道マンのプライドはあると」
 美波は祐一の言った前半部分に若干の不満を感じたものの、自然と表情が緩んでいた。毒気はとっくに抜かれてしまっていた。
「わかった! あなたの依頼受けてあげる」
  酔った勢いもあって、美波は胸をドンと打つ勢いで言った。
「私も隔離された時、教授には会ったから。その時、あれに書いてあった様な人には見えなかったもん。だから君に言われるまで気づかなかったんだ」
「って、美波さん隔離とかされてたんですか?」
  美波はつい口が滑ってしまい、祐一に余計な疑問をもたれ、しまったと思ったが仕方がない。
「まあ、色々あったのよ。いずれ話してあげてもいいけど、今は勘弁して。思い出したくもないのよ。わかって」
「わかります」
 祐一の返事は美波の予想外のことだった。
「あの事件はオレにもトラウマを残しましたから」
「そっか。そういう意味では私達、仲間ね。明日、会える?」
「大丈夫です。午後からどうでしょう」
「場所は任せて。あなたのお友達もみんな来れるかな?」
「オレが交渉してみます。一人はともかく、残りの二人は難物ですが、なんとかやってみます」
「わかった。集合場所はO線のF駅がいいわ。時間を決めたらこの番号にメールしてくれる?」
「わかりました。善処します」
 そう言うと祐一は電話を切った。
「善処って何よ。ホントに中学生なの、この子?!」
 美波は半ばあきれながらつぶやいてスマートフォンを切った。
 ここに、美波とタミヤマリーグとの奇妙な連携が始まったのである。

(「第4部 第2章 疾走」終わり)

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