1.侵蝕Ⅰ 【幕間】豊島家、ある夜の話

 豊島恵実子は現在、ごく普通の専業主婦である。以前は教師をしていたこともあるが、結婚して子どもが生まれたのを契機に教師をすっぱり辞め、母親業に専念することを選んだ。彼女は、公務員の夫、悟志(さとし)と二人の娘志帆海(しほみ)と裕海(ゆみ)、そして歳の離れた長男輝海(あきみ)の5人家族だが、今年長女の志帆海が就職のため東京で暮らし始めたので、4人暮らしになったばかりだった。

 4人での生活にようやく慣れた頃のある夜、恵実子がちょっと遅くなった夕食の片付けを終えて居間に戻ると、小学二年生の息子がテレビを夢中で見ていた。この日は夫は出張、下の娘は明日テストがあるとか言って、すでに自分の部屋に篭ってしまっていて、息子だけがぽつねんと、居間の床にクッションを敷き座っていた。彼はこうしてテレビを見ることが気に入っているらしい。
「こら、あっくん、とっくに9時過ぎとろうもん。寝る時間やろ!」
恵実子は息子の輝海(あきみ)の傍に座ると、何を見てるか番組のチェックをした。どうやらHNKの特集を見ているらしい。しかし、どう見ても7・8歳の男の子が喜んで見るような内容ではない。どこかの有名な医師が出てきて癌がどうのこうのと説明している。新聞のテレビ欄で確認すると、『癌治療最前線』と書いてある。
「あんた、何見とるん?」
恵実子は、画面を食い入るように見ている幼い息子の横顔を、まじまじと見ながら言った。
「なんね、お父さんが癌になったらいかんけん見とぉとね?」
しかし、息子は首を横に振った。
「違うと? どっちにしろ、もう寝んと、また明日起きんってぐずるやろうもん? さっ、おふとん行こ」
恵実子はリモコンでテレビのスイッチを切ると息子を抱きかかえようとした。すると、いきなり息子が半べそをかきながら抗議を始めた。
「おっ、おかあさんは、ぼくがガンで死んでもいいって思っとぉと?」
「へ????」
子どもは面白い。時折とんでもないことを言って大人を面食らわせることもよくある。恵実子の息子も例に漏れず・・・というか、上の子達と比べたらそういうことがずいぶんと多いような気がした。男の子のせいかしら?と恵実子は思った。まあ、そのおかげで退屈しない毎日を過ごせるのだが。
「何ね、あっくんは自分のために一所懸命見よっとね」
「うん」
輝海は、しかつめらしい顔をしながら答えた。
「わかったわかった。じゃ、おかあさんもあっくんが癌になったらイカンけん、いっしょに見ようかねえ」
恵実子は仕方なくテレビを点けると、輝海の横に並んで座った。しかし、昨夜寝るのが遅かったせいか、ものの十分もしないうちに、睡魔が襲ってきた。あくびを連発しながら、我が息子の様子を見ると、さっきまでの真剣さはどこへやらで、下を向いて船を漕いでいる。
(予想通りやね。でも、私の方が先に寝てしまいかねん状態やけど・・・)
恵実子の心配は当たらず、その後3分ほどで輝海は恵実子の膝を枕に夢の国で続きを見ていた。恵実子は輝海のふくふくした頬を人差し指で「ぷにっ」と押してみた。起きない。すでに爆睡状態である。
「よっしゃ、寝た!」
と、恵実子は輝海をよっこらしょと抱え上げた。「よっこらしょ」。若い頃は滅多に言うことのなかったこの言葉を、最近は1日のうちに何度も言うようになったなと、恵実子は思った。年齢と共に年々体力が衰えてくる。それは仕方がないことだと恵実子は達観していた。しかし、それでも自分の体力が衰えていることを実感してため息をつくこともある。恵実子は輝海を抱えて寝室に連れて行った。
「やっぱ、こういうときはお父さんが居らな困るねえ」
と、恵実子は独り言を言った。ようやく息子をベッドに寝かせると、幸せそうに眠るちょっぴりユニークな我が子の寝顔を見ながらしみじみと思った。
(でもさ、こういうのを『幸せ』っていうんだよね)
なんの変哲もない、日常の切片の積み重ね。悲しいことや辛い事も沢山ちりばめられているけれど、それでも平均すれば幸せのラインにいる。特別じゃないけれど平穏。
(だけど、これで充分!!)
恵実子はそう思うと、輝海の頭を撫でて電気を消し、そうっと部屋を出た。
「さて、これからたまったDVDでも見るか!」
子どもも寝たし、夫は出張だし・・・と、恵実子はつかの間の開放感に背伸びをして居間に向かった。
 紅茶をたっぷりポットにを用意して、お茶菓子も出して、さて何を見ようかとDVDを物色していたら娘の裕海が居間に入って来た。
「あ、DVD、私、『トータル・フィアーズ』がまた見たい! カップ持ってくるけん、ちょお待っとって」
「あんた、勉強は?」
「あ~、終わった終わった」
裕海はキッチンに行って自分のカップを持ってくると、母親の横にすわって勝手に紅茶を注ぎ始めた。
「『トータル・フィアーズ』やね。これ1本見たら、ちゃんと寝るとよ」
恵実子は、娘に夜更かししないように釘を刺した。
「わかった、わかった」
と、裕海が軽く返事をした。
(あまりアテにならんごたるね)
と、恵実子は思った。そして、母娘の映画鑑賞が始まった。中盤ほど見たところで、恵実子が言った。
「こわいね、核テロとか、ホントに出来るっちゃろか?」
「911テロとか現実にあったけんね。これも911の後に製作された映画やし。原作ではテロリストは中東関係のグループだったのを、洒落にならんからって極右団体に変更されたらしいよ」
と、裕海。好きなだけあって詳しい。
「そういやあ、日本でも世界に先駆けてサリンテロとかあったもんね」
「あまり、そういったもんで先駆けてほしくないなあ」
「あ、核爆発した!」
「これ、大統領もたいがいに放射線被曝しとるよなあ」
「死の灰、死の灰」
「平気で走り回っとぉやん、ジャック」
「あははは」
母娘で突っ込みを入れながら映画を見るのはそれなりに楽しい。そして、平和な豊島家の夜は更けていった。

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1.侵蝕Ⅰ (1)悪夢の明けた朝

20XX年6月11日(火)

 朝、多美山が目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。一瞬自分の置かれた状況が理解できなかったが、昨日の一連の出来事を思い出し、さらに自分が隔離状態にあることを思い出した。
 多美山は身体を起こすと、昨日怪我をした右手を見た。綺麗に包帯が巻いてあり、過度に出血しているようには思えなかったが、化膿しかかっているような軽くズキズキとした痛みがあった。そのほかは特に熱もなくいつもどおりの至って良好な体調であるように思えた。多美山は、ふと、これは現実なのだろうかと思った。実は俺はまだ自宅で眠っていて、これは夢の続きを見ているのではないか?と。しかし、それが現実逃避であることは、多美山自身がよくわかっていた。
 彼は、起き上がると病室の中を少しうろうろとしてみた。昨夜は疲労困憊して、この部屋の確認をする余裕もなく眠ってしまったからだ。
 部屋はビジネスホテルのシングルルームに似ていた。ベッドが1床置いてあり、サイドデスクもある。トイレ付きのバスルームも完備しており、この部屋を一歩も出ずに生活できるようになっている。逆を言うと、この部屋から一歩も出れないということでもある。さらに、部屋全体の白さが否応なく病室ということを感じさせた。昨日の説明では、部屋は陰圧に保たれており、中の空気が外に漏れないようになっているということだった。さらに、ベッドの横には空気清浄機までセットされていた。『窓』はあるにはあったが、それは部屋から外を見るものではなく、スタッフステーションから患者の様子を見るためのもので、多美山はまだ発症していないので、プライバシーを守るために今はきっちりと閉じられていた。窓のない代わりに、美しい湖水地方の絵の描いてある額縁が飾られている。要するに、少々消毒臭いのと、若干の閉塞感のあるものの、ビジネスホテル並みの快適さは補償されているようだった。ただし、病原体が外に漏れない構造故に、照明がすべて消えれば昼間でも暗闇になってしまうだろう。スタッフステーションの周りにはこのような第1類感染症用の隔離病棟が4部屋で、最大8人を治療することが出来、そのひとつに西原兄妹がいるという。4部屋というとかなり少ないが、旧センターでは2床しか用意されていなかったのだから、大躍進である。そのほか、2類用には最大100床の用意ができるようになっている(因みにこれらの部屋は平時は普通の病室として使われている)。しかし、新型インフルエンザのような感染力の強い疫病が発生した場合、それでも全く足らないのは明らかだ。
 秋山雅之の父、信之は1週間経った後発症しなかったということで、日曜夕方に「退院」した。もちろん、その後も経過の報告が義務付けられ、体調を崩した場合は再度感対センターに入院となる。退院にあたって、信之の姉が迎えにきた。母親と息子が死に、妻も行方不明のため誰かがしばらくついているべきだと病院側が身内に連絡したところ、すぐに姉がやってきたのだった。彼は、帰ったら息をつく暇もなく、母と息子の葬儀の準備に取り掛からねばならなかった。その翌日に妻の死を伝えられ、再び感対センターに姉と共にやってきた信之の姿は哀れなものであった。実はギルフォードの落ち込みのひとつはそれのせいでもあった。あの状態の信之を家に帰すべきではないと、ギルフォードは主張したが、信之自身が葬儀の準備ために帰りたがっており、人権上これ以上拘束することは出来ないということで、一晩様子を見ただけで帰されてしまった。もちろん、妻の遺体は感染の危険があるため連れて帰ることは出来なかった。
 多美山は検査室に向かう途中、待合室で姉と共に呆けたように座っている信之の姿を見た。
(俺がもっとさばけとったら・・・・)
多美山は、自責の念に駆られた。
 多美山は昨夜の信之の姿を思い出して、サイドデスクの前に座るとため息をついた。しばらくそこでぼうっとしていたが、続け様に昨日のことがいろいろ思い出されて辛くなった。それで、テレビはないが、ラジオは聞けるようになっているようなので、ためしに点けてみた。ちょうどニュースが流れていたが、昨日の件については全く報道されていないようだった。
 しばらくすると、コンコンとドアをノックする音が聞こえて、「多美山さん、おはようございます」という声と共に、中背で痩せ気味の看護師らしき男が入ってきた。彼はゴーグル・マスクにガウンといった出で立ちで、それは多美山に自分が危険な病原体の感染の疑いがあるという現実を認識させるに充分だった。
「あ、起きていらっしゃいましたか。このような姿で申し訳ありません。しかし、これは規則なものですから」
看護士は言った。
「私は今日からあなたの担当をいたします園山修二と申します。何かあったらお気軽におっしゃって下さい」
若いが礼儀正しそうな男だった。多美山も立ち上がって言った。
「こちらこそ、お世話になります。ひょっとしたらこれから色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「あ、お気遣いなく。どうぞお座りください」
園山は多美山を座らせると続けた。
「ご気分の方はいかがですか?」
「すこぶる良好です、と言いたい所ですが、昨日怪我をした傷がちと痛みますな」
「後で先生に傷の様子を見てもらいましょう。これから、どんな些細な体の変調でもいいですから、必ず報告してください。治療に於いての方向性もそれによって変わってきますから」
「わかりました。極力お伝えするようにします」
と、多美山が答えた。

 由利子は、朝6時半に猫達のご飯ちょうだい攻撃によって起こされた。
 昨日は結局、帰り着いてソッコーでシャワーを浴びて化粧を落として床に就いたのが3時だった。ブログの更新も止む無く休んだ。流石に実質3時間ちょっとの睡眠時間では厳しい。単に夜更かししただけならなんてことはないが、昨夜は月曜ということである程度自粛はしていたもののそれなりに酒は飲んでいる。起きるのは大層辛かったが、自業自得である。由利子はなんとか布団から身体を引っぺがすと、の~っと起き出してトイレに入り、そのままバスルームに直行し熱いシャワーを浴びた。しかし、いつものように芯からしゃきっとしない。今日は日課としているジョギングをする時間もない。しかたがないので少しだけストレッチをしてお茶を濁すことにした。その前に、窓を開けて外を見ると、空はどんよりと曇っていた。
「ああ、梅雨の季節だなあ・・・。傘、いるかな」
由利子はつぶやいた。沖縄の方はすでに入梅(つゆいり)しているから、こっちもそろそろだろう。由利子は憂鬱になった。彼女は雨の日は嫌いではない。しかし、梅雨は・・・。今年は陽性の梅雨だったらいいな、と由利子は思った。晴れた日が多くて降る時はどっかんと降る。
(あ、いかん、さっさとしないと遅刻やん)
有給消化のため、実質今日が由利子の最終出勤日となるので遅刻は出来ない。由利子は急いでストレッチを始めた。その後、由利子はメールとブログのコメントやトラバのチェックをし、スパム関連を削除すると、猫と自分の朝食の準備に取り掛かった。そして、なんとかいつもの時間に家を出、会社に向かった。
 会社では、感心にも昨日の送別会参加組の面子は全員無遅刻で来た。皆寝不足の顔をしながら仕事はしっかりこなしている。ただ、昨日何故か一番はじけていた古賀課長がひとりどんよりとしていた。机の上にはポカリスェットの500mlペットボトルが置かれており、ひどくキツそうにしていた。
「おはようございます。大丈夫ですか」
と、由利子は声をかけた。古賀は由利子の顔を見ると苦笑いしながら言った。
「うん、昨日は調子に乗りすぎたけんね。やっぱ、歳には勝てんなあ。昔はあの程度の酒じゃなんてことなかったばってん」
由利子はそれに答えずに、笑ってごまかした。古賀は続けた。
「篠原君は相変わらず強いなあ。ところで出社は今日までやったね」
「はい、お世話になりました。急なことで申し訳ありません」
由利子は答えた。
「いやいや、会社の都合やけん君のせいやないもんな。余った有給は使わんともったいないし。ちょうど仕事も暇な時期やから心配せんでいいよ。で、こんなことを聞ける立場やなかけど・・・、これからの予定は決まっとぉとか?」
「はい」由利子は答えた。「とりあえずアルバイトをしながら次を探します。バイト先はもうあたりをつけてますんで」
「そうか、さすが決めたら行動が早かね。ま、身辺整理が終わったら今日はゆっくりしていなさい。あ、後、何がどこにあるかわかるようにしとってね」
「はい、ありがとうございます」
由利子は、古賀に一礼すると自分の席に戻り、机の中の整理をすることにした。

 葛西は、ドキドキしながら病室のドアを叩いた。鈴木係長に言われて多美山の様子を見に来たのだ。2・3秒躊躇した後ドアを開けると、サイドデスクの前に座って本を読んでいた多美山が、顔を上げて葛西の方を見た。

「よお、ジュンペイ」多美山は葛西を見ると笑顔で言った。「なかなか素敵な格好やね」
多美山に言われて、葛西は自分の対感染症の厳重な井出達を確認しながら苦笑いをして言った。
「もう、昨日からこういうカッコばっかりですよ。でもよかった。多美さん、元気そうで」
「おお、傷がちょっと痛むくらいで、あとはまったくいつもどおりで異常なかとたい」
「そうですね。こんなの着てるのがばからしく思えますよね。脱いじゃおっかな」
葛西が言うと、多美山が真顔で言った。
「馬鹿なことを言うちゃいかん。それに刑事たるもの・・・」
「目先で判断しちゃイカン・・・でしたね」
葛西は多美山の言おうとしたことを先に言った。
「それに、決まりは守らないといけませんよね」
「そういうこったい。でもなあ、正直相手の顔、特に表情がようわからんとは辛かばってんが・・・」
「そうですか・・・。でも、僕ってよくすぐにわかりましたね」
「そりゃあ、わかるばい。相棒やろうもん。あと、何でかギルフォード先生もわかっとたい」
「でかい上に足が長いですからね」
二人はそういうと笑った。とりわけ葛西は多美山に「相棒」と言われ、嬉しかった。
「ばってん、元気なおかげで退屈でな。とりあえず看護士に頼んで適当に本を持ってきてもろうたったい」
「へえ、アガサ・クリスティですか。定番ですが、僕も高校生の頃一時期凝ったなあ」
「何十年かぶりばい、ゆっくり推理小説やら読むとは。やはりポアロのシリーズは面白かね」
「テレビドラマでやってましたよね、ポアロ。あれ、イメージにピッタリですね。声優さんの声がもうあの風貌にこれまたピッタリで・・・」
「あの声優がヒッチコックの声をあてるとまた絶妙でなあ・・・。ところでおまえ仕事は?」
「はい、朝からここで、祐一君たちから事情を聞いてました。で、鈴木係長から多美さんの様子も見てきてくれと言われまして・・・」
「そうや。あん人も気を遣うけんなあ。そういえばコンビニ強盗事件の調書が途中やったけど、どうした?」
「あれから署に帰って書き上げました。書き直しナシで無事に受け取ってもらえましたよ」
「そりゃよかった。」
「それより、多美さん。聞いたらテレビを置いてもいいっていうんで持ってきたんですよ。激安店で特売品の小型テレビですが・・・」
「おいおい、激安ってもテレビやけんそれなりの値段のするやろ。ここは隔離病棟やけん持って出れるかどうかもわからんとに、もったいなかけん気を使わんでっちゃよかたい」
「いいからいいから。一課のみんなでお金出し合って買ったんですよ。ちょっと待ってくださいね、持ってきますから」
葛西はそういうと、テレビの一式を抱えて持ってきて、さっさとセットしはじめた。手袋をはめての作業なので、多少てこずっていたが、なんとかセットを終えた。
「小さいですが持ち運び出来るし、お風呂でも見れますよ。じゃ、点けてみます」
葛西は電源を入れた。
「ほおお、小さいけど見やすかね。最近のデジタルもんの躍進はハンパやないなあ」
テレビは午後のワイドショーを映していた。多美山はそれを見ながらしきりに感心していたが、急に眉間にしわを寄せて言った。
「おい、ジュンペイ、昨日の事件ばってん、なんか報道されとったか?」
「いえ、それが全然です。報道が規制されてるんかなあ。まあ、ローカルな事件だし、報道されるにしても地方のニュースだったでしょうけど、結局自殺で終わったというのも、報道されない理由かもしれません。」
「う~~~ん、そんなもんかなあ。まあ、事件に関わった人たちのことを考えたら、報道されんで良かったとは思うばってんが・・・」
そういうと多美山は考え込んだ。
「そういや、病気をばら撒いた犯人からの犯行声明もまだなんやろ?」
「アメリカの炭疽菌テロ事件の時も結局正式な犯行声明は出されなかったようですから、なんとも言えませんね。犯人の目的もまださっぱりわからないですし・・・。それに、もし、もしですよ、病気を広めることだけが目的だった場合、犯人達がまったく表に出てこない可能性だってあります。でも僕は、彼、あるいは彼らが挑戦状メールを送ってきた事から考えて、いずれはなにかコンタクトを取ってくるとは思っていますが・・・」
「本当に気持ちの悪か事件やな」
多美山は憮然として言った。多美山はしばらく腕を組んで黙っていたが、不意に葛西の方を見てにやりと笑いながら言った。
「ときにジュンペイ、おまえ先生のとこで、偶然篠原由利子さんに会ったって嬉しそうに言うとったな」
「ええ、お互いに指を指して驚きましたよ、・・・って、嬉しそうにって、そんなでしたか、僕?」
「おおよ。俺の言うたとおり、おまえのストライクゾーンやったろ、彼女」
「やだな~、多美さん。・・・じゃ、僕、仕事があるんで、そろそろ帰りますね。祐一君たちから聞いた話の調書を作らないといけないんで。夕方からは佐々木君たちの事情聴取です」
雲行きが怪しくなってきたし、あまり長居も出来ないので葛西は退散することにした。
「そうやな。今日はありがとうな。こいつのおかげで退屈せんで過ごせそうや」
多美山は少し寂しそうに言った。葛西はなんとなく後ろ髪を引かれたような気がして言った。
「明日も時間見て来ますね。それから、僕、あさっての木曜日にこの前の代休を取ることにしたんで、ここに来ようって思ってるんです。奥さん亡くなってらっしゃるし、多美さんの息子さん、東京だからすぐには来れないでしょ?だから・・・」
「ジュンペイ、俺なんかのために貴重な代休を使わんでよかけん、ゆっくり休め」
「いいからいいから。では、失礼します!」
葛西は急に多美山に向かってびしっと敬礼すると、一礼して部屋から出て行った。残された多美山は、椅子に座ったままドアの方を見ながら、軽いため息をついた。病室が妙に広く感じた。白い室内に、ワイドショーの司会の大袈裟な声が空しく響いていた。
「こういうのも久々に見るが、そういや俺、こいつ嫌いやったったい」
多美山はそう言いながらもう一度ため息をつくと、チャンネルを変えることにした。

 日ごろから整理整頓を心がけている由利子にとって、身辺整理はたいして時間もかからず、午前中には終えてしまった。昼休みには、また黒岩が弁当を持って遊びに来た。食べながら黒岩がしみじみと言った。 
「いっしょにおべんと食べるのは、今日が最後やね」
「そうですね。お互い入社して長いけど、こうしてお昼を一緒に食べだしたのって最近ですよね」
「あ、ほんとやね。なんか篠原さんって近寄りがたいイメージがあってさ~。こんな人ってわかっとったら、もっと早う親しくしとったのにって思うよ。残念!」
「あ、それ、私も黒岩さんのこと、そう思ってました」
「なんだ、お互い敬遠しあってたのか~」
お互い様ということがわかって、二人は笑った。
「で、バイトはいつから?」
と、黒岩が聞いた。
「先方次第ですが、来いといわれたら明日からでも行ってみようかなと」
由利子が答えると、黒岩が言った。
「それ、確認しとったほうがいいっちゃないと?」
「そうですね。もう少ししたら電話してみます」
由利子は、それもそうよねと思いながら答えた。

 ギルフォードは何となく落ち着かなかった。知事が直接電話をかけてきて、夕方頃ギルフォードの研究室に来るというのだ。何の用件か気になって、昼食のほか弁を食べながら紗弥に言った。
「いったい、何の用なんでしょうかねえ、サヤさん?」
紗弥は、カップのもやしみそラーメンを食べる手を止めて答えた。
「流れから考えても、昨日の事件を受けての訪問じゃないでしょうか?」
「やっぱりそう思いますか」
紗弥の答えに、ギルフォードはうんうんと頷きながら言った。
「しかし、サヤさん、お昼にカップラーメンなんて不健康じゃないですか? それも1.5倍って・・・」
「いえ、ちゃんとバランスを考えてますわ。この後に100%野菜ジュースと特保のピチピチ乳酸菌入りヨーグルトもいただきますもの」
「健康なんだか不健康なんだかよくわからないメニューですねえ・・・」
その時ギルフォードの携帯電話が鳴った。例の笑い声が入ったワルツの着メロだ。
「あ、ユリコからです。バイトの件かな。・・・はい、ギルフォードです。・・・こんにちは、ユリコ」
ギルフォードはニコニコしながら言った。
「え? バイトはいつから来たら良いかですか?」ギルフォードは紗弥に向かって、やっぱりそうだったよというようにウインクした。
「ユリコはいつから? ・・・・。明日から有給取って休む? そうですか、ユリコがいいなら、明日、ウォーミングアップのつもりで出てきませんか? ・・・・・。そうですか、来てみますか」
ギルフォードは嬉しそうに続けた。
「じゃ、明日は9時くらいに出てきてください。いいですか? OK? わかりました、じゃあ、明日、お待ちしていますね」
ギルフォードは満足そうに電話を切って紗弥に言った。
「明日から来れるそうですよ。嬉しいですね」
「そうですか。じゃあ、由利子さん用の机を用意しておかないといけませんね」
と、紗弥がいつものポーカーフェイスで答えた。

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1.侵蝕Ⅰ (2)新たなる旅立ち

「え? 県警本部に? どういうことですか?」
葛西は署長の前で緊張して立っていたが、署長の言葉がよく理解出来ずに聞き返した。
「まだ本決まりではないがね」
村上K警察署長は葛西に言った。
「今回の感染症発生に関して、対策本部を県警に設置することになったんだ。秋山美千代の事件を重く受けてのことらしい」
村上は慎重にテロという言葉を避けながら言った。
「それで、この事件に早くから関わっているうちの署員を迎えたいという、向こうからの打診があった。しかし多美山巡査部長はあのような状態だ。そこで、君に白羽の矢が立ったというわけだ」
「そ、そんな・・・。僕にはそんなところでやっていける自信はありません!」
「いや、君は適任だと思うよ。確か君は、大学では微生物専攻だったな」
「はい、最初、獣医を目指していたんですが、どうも合わない事がわかって・・・」
「そういうこともあって、私は君を推薦することにした。おそらく近いうちに辞令が出るだろう。普通は事前に報せるようなことはしないんだが、今回は特殊な事件だからな。心の準備をしておいて欲しい。おそらく例を見ない事件の最前線に立つことになるだろう、危険な任務だからな」
「は、はい!」
葛西は若干引きつった顔をして返事をした。
「よろしい。では、仕事にもどりなさい」
村上から退室の許可を得て、葛西は敬礼をすると、「失礼します」と言って署長室から出て行った。若干足元がふらついていた。
「大丈夫なんだろうな、あいつ・・・」
村上は一抹の不安を感じながら言った。葛西は、署長室を出て1課に向かう廊下を歩きながら、一抹どころか不安で一杯になっていた。しかし、くよくよしても仕方がない。それに、その方が、この事件の核心に迫ることが出来、多美山や祐一をあんな目にあわせた犯人達を追い詰めることができるじゃないか。葛西はそう思いなおし不安を振り切ろうとしたが、あることを思い出してつぶやいた。
「ひょっとして、あの防護服が日常になるんじゃ・・・」
葛西はこれからの季節を想像してげっそりとしてしまった。

 ギルフォードは、午後の講義が終わった後、研究室で県知事を待っていた。約束の時間が近づくにつれ、ギルフォードはさらに落ち着かなくなった。
「教授、何をそわそわしてらっしゃるんですの?」
と、紗弥が不思議そうに尋ねた。
「あの人の周りはなにかと騒がしいんですよ。ああ、僕が知事を尋ねて行った方がよっぽど気が楽です」
ギルフォードは頭を抱える振りをしながら言った。
「そういえば、一時期程ではないけれど、よく報道陣にたかられてますものね」
「せっかく静かな環境にいるのに、ヘンな連中が押し寄せてきたら大迷惑ですよ。それに、僕だって目立ちたくないんです」
(それは無理ですわね)
と、紗弥は心の中で密かに突っ込んだ。
 ギルフォードたちが、そのような会話をしていると、研究室の戸口で声がした。
「こんにちは~。ちょっとおじゃましますよ」
見ると、そこにはヘンなおっさんが立っていた。彼は、プリズムのイラストが描かれた色落ちした黒いTシャツにベルボトムのGパンとロンドンブーツ、そして丸いサングラスをかけて黄色と緑のチューリップ帽子をかぶっていて、ちょうど70年代の学生のような格好をしていた。しかし、中肉中背で中年太りこそしていないが、どうみても中年の男性である。
「やれやれ、学生時代の服を引っ張り出して着てみたんだけど、やっぱりずいぶんと浮いちゃったみたいだねえ」
怪しげな男は、そういいながら研究室にすたすたと入ってきた。ギルフォードは彼の顔を見て頭を抱えながら言った。
「えっと、ひょっとして・・・?」
「やあ、こんにちは、ギルフォード先生。お騒がせしたらいかんので、ひとりでこっそりタクシーで来ました。流石に誰も僕とはわからなかったみたいですよ、あっはっは」
「それじゃあ、わからないですよ。しかしまあなんて格好で・・・。相変らずですねえ」
ギルフォードはそういうと、笑いながら知事に右手を差し出した。
「知事、お久しぶりです。相変わらずお元気そうで」
「元気なだけが取り得ですからね」
森の内知事はギルフォードの手を取ると、両手でがっちり掴んで答えた。
 森の内を応接セットに座らせると、ギルフォードは自分も前の席に座った。森の内はソファに座って落ちつくと、帽子を脱ぎトンボ眼鏡を外して普通のシルバーフレームの眼鏡にかけかえた。森の内は怪しい中年男から、ロマンスグレーの紳士に変身した。
「で、知事自ら出てこられるなんて、いったい何があったんですか? 言ってくだされば僕の方から行きましたのに」
「こちらからお願い事をするんですから、そうはいきませんよ」
森の内がそう言ったところで紗弥がお茶を運んできた。森の内は「ありがとう」と言いながら座ったまま会釈をし、さらに言った。
「紗弥さん、相変わらず綺麗ですね」
「ありがとうございます。知事も相変わらずお上手ですわね」
紗弥はにっこりと笑って受け流し、部屋を出て行った。その後姿がドアの外に消えると、森の内がにやりと笑って言った。
「ところでアレックス、君、実は『元米軍の恐ろしい細菌学者』だそうですね」
「はあ~?」
ギルフォードは、驚くというよりあきれて言った。
「ははは、やっぱり思った通りの反応だ! 僕も『ハア?』ってなったんですよ。でも、本人が一番『ハア??』となりますワね」
「いったいどこからそんなことを聞いてきたんです?」
「例の秋山美千代が、西原祐一に電話をかけたときに言ったそうですよ」
「確かに、かつて僕はアメリカの大学で、ユーサムリッド(USAMRIID:アメリカ陸軍伝染病医学研究所)と関わったことはあります。しかし、僕は基本的に軍隊とは相容れません。それにしても、『米軍の細菌学者』だなんて、アナクロすぎませんか」
「うん。だけどね、そういう知識のない人に吹き込むにはわかりやすいネタでしょう?」
「ということは・・・、やはりアキヤマ・ミチヨに犯人が接触したと?」
「おそらくそうです。そして、美千代に嘘八百を吹き込んで、『ばら撒き屋』に仕立て上げた可能性があるとですよ」
「なんですって!?」
ギルフォードは椅子から立ち上がって、森の内の方に前のめりになりながら食いつかんばかりに言った。
「それはホントですか?」
「アレックス、照れるからあまり顔を近づけないで欲しいなあ」
森の内はにっと笑って言った。ギルフォードは、肩をすくめると椅子に座りなおして言った。
「もう、そんな情報を得てるんですか」
「うん、現場にいた刑事が、今日西原祐一君から事情聴取したことと、自分らの見聞きしたことをまとめた報告書をね、緊急にメールしてもらったとですよ」
「現場にいた刑事・・・、ジュン、いや、カサイ刑事のことですね」
「あ、知り合いだったの? そういえば、君も現場に急行したんでしたね」
「ハイ。でも、私が着いた時はすでにミチヨは意識不明になってましたし、当事者たちに状況を聞けるような状態でもなかったので・・・」
「ちょうど良かった。ここにプリントしたものを持ってきたから、読んでみて。漢字は大丈夫です?」
「ハイ、ある程度は読めます。マンガで鍛えましたから」
ギルフォードは笑いながら言うと、レポートを受け取って読み始めた。ギルフォードの顔から笑顔が消えた。ざっと目を通したあと、森の内の方を見て顔をしかめながら言った。
「何ですか、これは?」
「どうです、気持ちの悪かでしょう。僕は、対テロ特設チームを作ることを考えていましたが、今回の事件で刑事が感染の危機に陥るという事態を招いたことで、その時期を早めることにしました。その相談をしたくてここに来たんですよ。そのために、その事件のレポートを急いで入手したんですが、実際読んでみて、かなり驚きました。これは急がないと拙いと思いました」
「確かにマズイですね。まずは、ミチヨと接触した人間を探し出して、隔離しなければ」
と、ギルフォードが言うと、ここぞとばかりに森の内は言った。
「それで、これが本題です。アレックス、君に特設チームの顧問をお願いしたい、そのためにここに来たんです」
「僕に?」
ギルフォードは少し間を置いてから答えた。
「光栄ですが、お断りいたします。わざわざ外国人の僕に顧問をさせなくても、適した方が外に沢山いらっしゃるでしょう?」
「いや、この事件に比較的初期から関わっている人と言うことを考慮すれば、君しか適任者はいないと僕は思います。引き受けてくれんですか? お願いします!」
「ごめんなさい」
ギルフォードは立ち上がって頭を下げた。
「そんな・・・、なんかの番組でおつきあいをお断りしてるんじゃないんだから・・・」
森の内は苦笑いをしながら言った。ギルフォードは座りなおすと続けた。
「それに、大学にだって迷惑がかかりますし」
「あ、大学? それなら、先に学長に打診したところ、どうぞ持っていってくださいとおっしゃってましたよ」
「持っていけ、ですか・・・?」
ギルフォードは、やや引きつった笑いを浮かべながら言ったものの、心の中で悪態をついた。
(”あンのぉ~、狸オヤジ、人をモノみたいに! いったい何考えてんだよ、ったく・・・”)
そしてギルフォードはゲンナリとしながら言った。
「わかりました・・・。1日程考えさせてください」
「期待していますよ。葛西刑事からの続きの報告は、届き次第メールで転送しますから、それも読んだ上で決めて下さい」
森の内はそこまで言うと、チラと時計を見て少し焦ったような表情をした。
「では、私はスケジュールが押してますのでそろそろ帰ります」
森の内はいきなり立ち上がりながら言った。ギルフォードはそれを聞いて若干口の端を上げ気味に言った。
「そうですか、残念ですねえ、ホントニ」
「そこはかとなく嬉しそうだけど・・・ま、いっか。じゃ、お邪魔しました。良いご返事をお待ちしておりますから」
森の内は帽子を被ってから戸口の方に向かおうと横を向いて、いつの間にかそばに紗弥が立っているのに気がつき非常に驚いて「うわぁっ!」と悲鳴を上げた。紗弥はにっこり笑って言った。
「まあ、もうお帰りですの?」
「用件が済んだのでお帰りだそうですよ」
ギルフォードは既に自分の席について仕事を始めながら言った。
「戸口までお見送りしてあげて下さい」
「かしこまりました」
紗弥が答えると、森の内は「いいです、いいです、じゃっ!」と言いながら、脱兎の如く走って研究室を出て行った。出様に、研究室に来た如月とぶつかりそうになった。
「あ、失敬!」
森の内は如月に向かって軽く謝ると、そのまま走って廊下を曲がっていった。如月は首をかしげながら研究室に入ってきた。
「何でっか、ありゃあ。 そう言や、どっかで見た顔のような気もするんやけど・・・」
如月はブツブツ言いながら席につくと、パソコンの電源を入れ、カバンから資料を出し始めた。
 紗弥は紅茶を飲みながら、窓の外を見ていた。しばらくすると、走って建物から出てくる、森の内の悪目立ちする姿が見えた。時計を見ながら紗弥が言った。
「想定外の早さで出て来られましたわ。本当に急いでいらっしゃるのね」
さらに観察していると、棟を出てそ知らぬ顔で学生達に混じろうとしたところ、学生のひとりに知事ということがばれたらしい。彼はわらわらと学生達に囲まれ、握手と写真攻めに遭いはじめた。そこに通りかかった男たちが森の内を見つけて、学生達を追い散らしながら近づいていった。
「まあ、知事ってば、こんどはとうとうお付きの人に見つかったみたいですわね。あらら、ついでにマスコミの人にも見つかってもみくちゃにされてますわ」
ギルフォードは左手にカップを持ち、右手のマウスでPC画面をスクロールしながら涼しい顔をして言った。
「いいですよ、僕に累が及びさえしなけりゃ」
「それにしても、教授、彼、ずいぶん馴れ馴れしいですがどういった経緯でお知り合いに?」
「別にお尻をあわせた訳では・・・」
ギルフォードはそこでパソコン画面から顔をそらし紗弥の方をそっと見た。その時紗弥の眉間にかすかにしわが寄っているのをみて、ちょっとの間舌を出した後某CMの兄風に言った。
「スミマセン、ふざけてマシタ」
「洒落になりませんわよ、そのオヤジギャグ」
「彼とは・・・。キョウ・・・松樹警視が僕を彼に紹介してくれたんです。そう、馴れ馴れしいんですよ。キョウのマネをしてすぐに僕をアレックスと呼び始めるし」
「まあ」
「でもね、政治家としては未知数ですが、期待できる人です。形式に囚われずに考えられる人です。でも、その分敵も多いです。だから、僕も出来るだけサポートはしたいんですが・・・」
「では、お願いを聞いて差し上げればいいのに・・・?」
「僕が関わらないほうがいいことだってあるんですよ」
ギルフォードは、パソコンに向かったまま言った。なんとなく寂しそうな後姿だった。

 由利子は、花束をもらってみんなに見送られながら退社した。綺麗な深紅のバラの花束だった。気が抜けたようにとぼとぼと歩いていると、悲しさと惨めさと不安が襲ってきて目の前の景色がぼやけた。由利子は道端で涙ぐんだ照れくささから、立ち止まって花束を見た。赤いバラもぼやけてカスミソウの白と混じり、不思議な模様に見えた。古賀課長は気分が悪いのが納まらず、早退した。帰り際に古賀は由利子に言った。
「最後なのに見送ってやれんですまんね。がんばれよ。これは、終わりやなか、新しか門出なんやからな!」
由利子は、課長の言葉を思い出していた。
(新しい門出かあ・・・。これは新しい道に続いているんかなあ・・・)
由利子は不安になりながらも、古賀の言葉に力づけられたような気がした。
(いえ、その通りよ。第一マイナス思考なんて私のガラじゃないよね)
由利子はそう思いなおすと、軽快に歩き始めた。

 ギルフォードは夕方、多美山の病室を尋ねた。多美山はテレビをつけたまま、本を読んでいたが、ギルフォードの姿を見ると、椅子から立ち上がって彼を迎えた。
「ギルフォード先生、こんにちは。昨日はどうも」
「こんにちは、タミヤマさん。こんなカッコしてるのに、よく僕ってすぐにわかりましたね」
「そりゃあもう、その背丈と長い足でわかりますよ」
多美山は葛西と会話した時のことを思い出しながら言った。
「これは?」
ギルフォードはテレビの方を見て言うと多美山は嬉しそうに答えた。
「ジュンペイが持ってきてくれたとです。なんか音がなくて寂しかもんで、つい点けっぱなしにしとおとですよ」
「小さいし軽そうですね」
「風呂ん中でも見られるそうですよ。ばってん、裸でおる時に画面上とはいえ人の顔があるってのも恥ずかしかですから、遠慮しときますけどね」
多美山は笑って言った。そんな多美山を見ながら、ギルフォードはふと、彼の体の中で凶悪なウイルスが増殖しているのは悪い冗談じゃないかと錯覚した。今朝の血液検査の数値も、怪我のせいで白血球数が増えている以外は特に異常はない様に思われた。このまま発症せずにいてくれたら・・・。だが、ギルフォードは今までもそんな気持ちを何度も裏切られてきたのだった。
「お元気そうで、良かったです」
ギルフォードは率直に言った。多美山は、笑いながら答えた。
「ええ、このまま一週間後には何もなかったように退院できるごと気になってきとります」
しかし、多美山は急に真面目な顔をして言った。
「先生、ばってんお願いがあっとです。もし、私が発病した場合、どうか遠慮なく私の身体で試して、有効な治療法ば見つけてくれんですか。そのために私が命を落としたってかまわんですから」
「タミヤマさん、もちろんそうなった場合、僕たちは出来うる限りの治療を行います。だけど、それはあなたを救うためです。今までの経験から有効そうな薬を使って経過を見るのです。けっして突拍子のない薬を使って無茶な人体実験をするようなことはありません」
ギルフォードも真剣な顔で答えた。
「お願いします」
と、多美山は頭を下げた。ギルフォードは一瞬辛そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔にもどった。頭を下げていた多美山は、もちろんギルフォードのその表情には気がつかなかったが、頭を下げていなくても、マスクとゴーグルで微妙な表情には気がつかなかったかもしれない。ふいに、多美山が思い出したように手を打ちながら言った。
「あ、そうだ、もうひとつお願いがあっとですが・・・」
「何ですか?」
「こういうことを、先生にお願いしていいかどうかわからんとですが、今私がお願いできるんは先生しか思いつかんとですよ」
「かなえられるかどうかはわかりませんが、遠慮なくおっしゃってください」
「そう言って下さると嬉かですが・・・」
多美山はそれでも少し躊躇しながら言った。
「先生がもし、木曜に休みが取れるとでしたら、ジュンペイをドライブかなんかに誘ってくれんでしょうか」
「はあ、カサイさんをですか? それはまたどうして?」
ギルフォードは、不審そうな顔をして尋ねた。
「あいつは、大学からずっと東京におって、警官になってからこっちに帰ってきたようなもんなんですが、あれがクソ真面目で、ろくに有給も取らんでですね。それでなくてもこの仕事はなんかあればすぐに駆り出されて土日もあったもんじゃない事が多かとですよ。まあ、それで、念願の刑事にはなれたんですが、なんか余裕ってもんがないとですよ。そのジュンペイが久々に代休を取ったとかいうのに、私の世話に来るとかいいましてね・・・」
「いい子じゃないですか。多分そのために代休を取られたんでしょう、きっと」
「いや、いい若いもんがこんな年寄りの世話にたまの休日をつかっちゃイカンですよ。で、どうやらあいつ、先生のところにアルバイトが決まったという篠原由利子さんに好意を持っとうごたるとです」
ギルフォードはそれを聞いて少し驚いた。
「へえ、ジ・・・いえ、カサイさんがユリコのことをですか?」
「ええ、それで、一緒に篠原さんも誘ってドライブにでも行って下さればいいと思ったんですが・・・」
「う~~~ん」
ギルフォードは考えを巡らせた。木曜は特に講義のない曜日だし、多美山の容態が変わるとか、新たな感染者が運び込まれるとかなければ可能だろうと、彼は判断した。
「わかりました。誘ってみましょう。ただし、これからこの感染症の広がり次第では実行できないかもしれませんよ」
「ありがとうございます、先生」
多美山は再び頭を下げて言った。

 由利子は家に帰ると、もらったバラの花束を玄関に飾った。にゃにゃ子がトンと棚の上に乗って嬉しそうに花瓶に近づくと、ぱくりとバラの葉っぱに噛み付いた。
「こら!」
由利子はにゃにゃ子を持ち上げ、ぽんと軽く頭をはたいて言った。
「ばかもの! 君にはちゃんと猫の草を置いてあるだろう?」
由利子はそのまま彼女を抱えて玄関から離れ、そのまま部屋に入り、しばらくぼおっとしていたが、立ち上がると夕食の用意を始めた。新しい旅立ちを祝うため、少し豪華な料理をメインディッシュとしてデパートで買ってきて、ちょっぴり上等なワインも買った。あとは、サラダとスープを作るだけだ。しかし、その少し豪華な食事を取りながら、由利子はとても空しくなった。ワインを半分開けると、由利子はベッドにゴロンと大の字になりながら言った。
「いやだ、私ってば昨日もしこたま飲んだばっかりやん」
おなか一杯になった上にワインが効いたらしく、由利子はそのままうとうとしてしまった。しばらくして、ブーンブーンというでっかい虫の羽音のような音で目を覚ました。寝ぼけた頭で時計を見ると、夜10時を過ぎている。羽音の正体は携帯電話のバイブ音であった。発信先を見ると、美葉からだった。由利子は急いで電話に出た。
「こんばんは~。確かお仕事今日までだって聞いてたから、どうしてるかなって思って電話したっちゃん」
美葉は由利子が落ち込んでいるのではないかと心配して電話してきたらしい。由利子は会社での様子と、帰ってから1人で門出を祝ったことを伝えた。美葉は笑いながら言った。
「いやだ、由利ちゃんってば。言ってくれたら私が行って何か作ってあげたのに」
「だめだよ、あんた、寄り道するなって言われとぉやろ、いくら私の家でもだめだよ。第一帰りが心配やろうもん」
「そうだったね~。ああ、つまんないなあ」
「あれからどうなの?」
「うん、見張りの人が変わったみたいなの。なんか若くて頼りなさそうな人」
「で、例の困ったちゃんの彼氏は?」
「CD送ってきたやろ、あれから音沙汰なしよ」
「そっか~。それはそれで気味悪いね。いい? 変わったことがあったら、すぐに110番するとよ」
「うん、わかっとぉ」
「ほんとに大丈夫かなあ・・・」
由利子はそういいつつ、ふと窓を見た。しまった、カーテンを閉め忘れている。そう思って電話をしながらカーテンを閉めようと窓に近づき、ふと外を見てぎょっとした。窓から見える電信柱の影にこちらの様子を伺う人影のようなものを確認したからだ。しかし、部屋は4階なのでそいつの様子がよくわからない。それで、目を凝らしてそいつをよく見た由利子はつい声を上げた。
「いやだぁ~もう~」
「由利ちゃん、どうしたの?」
「ヘンなヤツが外にいるって思ったら、立ちションしてるオッサンやった~。げげ、やなもの見ちゃったよお~」
由利子はそう嘆きながら、カーテンをシャッと閉めた。
「やだ、ホント?」
「うん、幸い暗かったんで、よくわからなかったけど」
「時々いるっちゃんね、夜、道端で、女性が通るとわざと立ちションして見せるやつ。こっちもシカトして通るけど、本心は撃ち殺してやりたいと思うもん」
「そうそう、射殺許可が欲しいよね」
由利子たちは何も知らず物騒な会話をしていたが、件の男は由利子の部屋のカーテンが閉まり、彼女の影が窓際から去ると、立ちションをするポーズを止め、もう一度部屋を確認した。男は微かにニヤリと笑って、立ち去っていった。 

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1.侵蝕Ⅰ (3)広がる染み

20XX年6月12日(水)

 川崎三郎は、朝食を食べながら浮かない顔をしていた。

 定年退職してから半年が経とうとしていたが、未だに庭いじりくらいしか趣味が持てないでいた。専業主婦の妻は、子どもが育ち上がって独立したあと、すなわち夫の在職中から旅行だの絵手紙だのフラダンスだのと充実した老後を満喫しているが、仕事一辺倒だった三郎は、唯一の趣味であったDIYと彼の職種であった造園の知識を生かして、せっせと庭の手入れにいそしむくらいしか時間の潰しようがなかった。その甲斐あって、川崎家の庭はそこらの庭園より立派になっていった。妻から「いずれ兼六園を越えるかもしれんねえ」と、しょっちゅうからかわれるくらいだった。最近では、近所の庭の手入れも頼まれるようになり、彼のセカンドライフも充実し始めていた。

 三郎が浮かない顔をしているのは、今日、朝からの雨模様のせいで唯一の趣味である庭の手入れが出来そうにないからではなかった。実は、八日(ようか)前に虫にかまれたらしいところの炎症がひどくなっているのに気がついたからだった。八日前、そう、珠江の家で彼女の遺体にたかった大量の「虫」たちが三郎たちの足下を抜けた際に咬まれたあの傷である。
 三郎は、あの時長い作業ズボンをはいていたが、暑いので靴下を履いていなかった。その右足首前方に逃げる虫が一匹正面衝突し、行きがけの駄賃で食いついていったらしい。
 家に帰ってから、気になって咬まれたあたりを確認すると、ちょっと赤くなっているだけで特に咬み口もよくわからない状態だった。しかし1日経った頃、ちょうど蟻に刺された時のように腫れ上がったので、虫さされの薬を塗ってその場をしのいだ。薬が効いたのか、腫れは収まったのでそのまま気しないようにして放置していたのだが、昨日、また腫れているのに気がついた。それどころか、周りに小さいブツブツがいくつか出来はじめていた。三郎は医者に行くべきかと考えたが、当時のことを思い出して躊躇していた。あの時・・・。

 三郎たちが通報した後、すぐに警官二人がやってきた。彼らは三郎たち5人から簡単に事情を聞くと、さっさと家の中に入っていった。三郎たちが戸口で様子を見ていると、「なんだ、これは!?」「うわっ」という声がした後、彼らはすぐに血相を変えて戻って来て、「何があったとですか、ありゃあ」と三郎たちに改めて質問をした。三郎たちは口々に状況を説明した。
「じゃあ、この家の住人は、つい最近までまったく異常なく元気だったんですね」
「てことは、大量のゴキブリに食われて仏さんがああなったっていうとですか? そんな馬鹿な」
警官の言葉に典子は見たものを思い出し、耳をふさいで身を震わせた。女性たちは典子を気遣って警官と三郎が話しているところから彼女を遠ざけた。三郎は警官たちに詰め寄って言った。
「珠江さんの死因は何かわからんですが、遺体があの虫で覆われとってその後いっせいに逃げ出したとは、あたしら全員が見とります! 今思い出したって身の毛もよだとうごとある光景やったとですよ!」
三郎の剣幕に、警官達は顔を見合わせた。信じられない話だが、確かにあの遺体の様子はそう考えたほうが辻褄が合いそうな気がした。
「これは、保健所にも報せたほうがよかな」
そういうと警官は無線で署の方に連絡をとり始めた。
 三郎たちは、名前と電話番号を聞かれた後まもなく解放され、各々が家に戻って行った。しかし、皆一様に暗く辛そうな表情をしていた。
 それから数時間後、三郎がなんとか空元気を取り戻し、妻とお茶を飲みながらテレビを見ていると、警察がやってきた。亡くなった秋山珠江が危険な感染症に罹っていた恐れがあるので、とにかく感染症対策センターまで来て欲しいということだった。三郎たち5人は、センターの車に乗せられて、ほとんど強制的に連れて行かれた。そこで、マスク・ゴーグル等をつけた怪しい格好をした連中から遺体発見時のことを根ほり葉ほり聞かれた挙句、遺体に接触していないということで、高熱が出る等身体の異変があった時はすぐに保健所に届ける事を条件に、まもなく解放された。だが、遺体を食んでいたらしい虫が足元をすり抜けていったということは、はたして接触していないと言い切れるだろうか。少なくとも、間接的には接触したことになりはしないか。ましてや、食いつかれたとあっては・・・。三郎は怖くなったので咬まれた事は一切口に出さなかった。もし、そのことを伝えていたならば、三郎への対応は違っていたかもしれない。
(アレが咬むっちゃあ・・・)
三郎は腫れた患部の周囲をさすりながら思った。三郎はあの時起こった事が未だに信じられなかった。ヤツらが飛ぶことは知っていたがまさか食いつくとは。その上傷がこんなことになってしまうなんて。
(熱はないごたるが、こりゃあ体の異変にあたるんやろか・・・)
三郎は、考えた。
(やとしたら、保健所に連絡せんといかん。ばってん・・・)
そんなことをしたら、あの何とかいうセンターに連れて行かれ、こんどこそ隔離されてしまうのではないか・・・。そう思うと、三郎は怖くてとても保健所に電話することなど出来なかった。しかし、普通の病院に行って、万一そこで病気が広がったら・・・。そう思うと、三郎はさらにゾッとした。

「お父さん、なんボンヤリしとうとですか?」
妻の言葉に三郎は我に返った。
「あ、すまんすまん。ちょっと考え事ばしとった」
「はやく、お食事済ませてくださいよ。私、今日の午前中は尚子さんたちとお買い物に行く予定なんですから、早く片付けたいとですよ」
「ああ、そんなこと言うとったな。悪い悪い、すぐに食べてしまうけん」
そういうと、三郎はご飯にお茶をかけて急いで掻き込んだ。

 由利子はギルフォード研究室の応接セットで、借りてきた猫のようになっていた。
 今日は、いつもの時間に目が覚め、日課のジョギングもこなし万全の体調で家を出た。今日はお試しとはいえ初出勤である。由利子は遅刻しないようにネットできっちりと電車の時刻を調べ、早めの電車に乗ったはずだった。ところが、間の悪いことに信号のの故障とやらで足止めを食い、結局30分ほど遅れて研究室に着いた。もちろん、遅れる旨を電話し、ギルフォードたちも「大変だったね」と、ねぎらいながら迎えてくれたが、あまり幸先の良いスタートではない。特に完璧主義の由利子には、不可抗力とはいえ初日からの遅刻は許せないものがあった。
「まあ、そんな気にしないで」
由利子の前に座ったギルフォードが言った。紗弥は紅茶をサーブした後、自分の席について仕事を始めた。
「あ、そうだ、言い忘れてたけど、今度、履歴書を持ってきてください。提出しないといけないので」
「あ、持ってきてます。・・・っていうか、退職が決まってから、次の就活用に何通か書いていたのを常備しているものですが・・・」
由利子は、バッグから履歴書を出すと、今日の日付を書き込んでギルフォードに渡した。
「へえ、準備がいいですねえ」
ギルフォードは、感心しながら履歴書を受け取ると内容を読み始めた。
「大学は東京でそのままあっちで就職されたんですね。Uターンして前職に?」
「はい」
由利子は答えた。
「やっぱり、こっちの方が良かったんですか?」
「まあ、いろいろありまして・・・。でもまあ、確かにこっちの方が暮らしやすいですね。親元も近いし食べ物も美味しいし。ただ、今再就職するとなると、こっちではかなり難しそうですが・・・」
由利子は、出来るだけ率直に答えた。
「運転免許をお持ちですが、まさか、ペーパーじゃないですよね」
ギルフォードの問いに、由利子は笑って言った。
「車は持ってませんが、運転は大丈夫です。前の会社でもけっこう使ってましたから」
「車、持ってないんですか」
「ええ、東京でもこっちでも通勤には使わなかったし、持つメリットが無かったんです。最初持ってたんですが、維持費がかかるので売っ払ってしまいました。でも、仕事では使うことが多かったんで、運転に関しては問題ないと思います」
「わかりました。まあ、車の運転をお願いすることはあまりないと思いますけど、いざというときはお願いしますね」
と、ギルフォードは笑って言った。
「で、前の会社ではどういう仕事をしておられたんですか?」
「はい、データの打ち込みや文書作成、そのほかに3D-CADを使ってパースとかも描いてました」
「パースが描けるんですか」
「はい、手描きも出来ますよ」
「すごいですね。で、データや文字を打つのは早いですか」
「普通だと思うのですが・・・」
「ちょっと僕のパソコンで打ってみてください」
「え? 今からですか」
「はい」
ギルフォードは、またにっこり笑うと言った。しかたなく由利子は立ち上がってギルフォードの席についた。ギルフォードは、その横に立つと、ワープロソフトを立ち上げ、手近な本を手に取り中をランダムに開いてそのページを指差すと言った。
「このページの最初から5行くらいを打ってみてください」
「はい」
由利子は返事をするや否や打ち始め、あっという間に作業を終えた。
「オー、さすが! 早いですね。ミスもなさそうです。OK、これなら大丈夫でしょう。ためしに僕が今から言うことを、そのまま打ってみてもらえますか?」
「はい」
「じゃ、行きますよ。『隣の竹垣に 竹立てかけたのは、竹、立てたかったから 竹立てかけた』」
「って、これ、早口言葉・・・。どんだけ日本語が上手いんですか、アレク?」
由利子は言われたとおりをほぼ同時に打ち終えてから言ったが、口調はややあきれ気味だった。
「おお、バッチリですね。・・・あ、ゆっくり慌てずに言えば、早口言葉は誰でも言えますよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです。じゃ、また元の席にもどりましょうか」
二人はまた応接セットに座った。ギルフォードはすぐに口を開いた。
「で、ですね。出来たら来週から本格的に来て欲しいんですけど、来られますか?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、月曜の9時から、よろしくお願いしますね。バイト料等に関しては、その時に説明します」
「ありがとうございます」
由利子は、なんとか当座はしのげることがわかって、ほっとしつつ言った。
「ところでですね、明日なんですがね、ユリコ」ギルフォードが、ちょっと言い難そうに言った。「ちょっと僕たちにお付き合いしてくださいませんか」
「え?」
由利子はちょっと驚いて言った。しかし、「僕たち」と言ったからにはギルフォード1人にたいして付き合うわけではないらしい。それで由利子は聞いてみることにした。
「はあ、どういったことで?」
「たいしたことじゃないです。僕はここに来て1年以上経ちますが、あまりこの街をゆっくり見て回ったことがないんです。で、もう1人の友人と一緒に、穴場を案内して欲しいんです」
「え~っと、それは、観光案内して欲しいということですか?」
「そうです」
ギルフォードはニコニコしながら言った。由利子はひとつ気になったことを尋ねた。
「で、もう1人の友人っていうのは?」
「それは、来てからのお楽しみです」
「で、なんでそれが木曜日に?」
「え~~~っと、もう1人の都合・・・でしょうか? いいじゃないですか、ユリコもいちおう有給休暇中だし、たまには故郷観光をしてみるのもいいでしょう?」
由利子は、この人、何をたくらんでいるんだろう、と、思いながら面白そうなので受けることにした。
「わかりました。あしたですね」
「ありがとう、ユリコ。詳しいことが決まったら連絡しますね。じゃ、僕は仕事に戻りますので、ユリコはこの研究室を自由に見てください。今は、学生達はまだ来ていませんが、そろったらまた紹介しますから」
ギルフォードはそう言って立ち上がると、自分の席に戻っていった。由利子は、応接セットに座ったまま、どうしようかと考えながら、室内を見回した。

 森田健二の彼女、北山紅美は、また連絡の取れなくなった健二のことが心配になって、昼頃彼のマンションを訪ねていた。
 健二が浴室で倒れているのを発見して、救急車で病院に運んだあの日、結局、彼の症状は高熱ではあったが過度に飲酒した上に高温の風呂に入ったため眠ってしまい、長時間湯船に使っていたために起こした熱中症とそれによる脱水症状のせいだろうということになった。1泊したものの、翌日には熱も引いたため健二は自宅に帰された。一晩心配して彼の傍にいた紅美は、帰りのタクシーの中で、元気を取り戻した健二に言った。
「もう、どんだけ飲んでたのよ! バカ健二!!」
「そう耳元できいきい言うなよ。二日酔いでまだ頭がガンガンしてんだから」
「そりゃあ、昼間っから倒れるほど飲んでりゃあ二日酔いにもなるでしょうよ」
「違うよぉ、クミ、飲んだのは朝まで。友人達が来てさ、オレ、体調が悪かったけど、飲んだら良くなると思って飲み始めたら、勢いづいてさ、結局8時くらいまで飲んだかなあ・・・。連中が帰ったんで、それからちょっと寝たけど、汗で気持ち悪いし頭もガンガンするんで熱い風呂に入ろうと思ってさ、お湯出しながら湯船に浸かったまでは覚えとるんやけど」
「あんたさ~、そんな長い間お湯出しっぱなしのままお風呂に入ってたら、そりゃあ、熱中症にもなるよ。下手したら死んでたんだからね! 人騒がせにも程があるよ、もう」
「ありがと、クミ。君は命の恩人だよ。しかし、よく溺れんかったなあ、オレ」
「私が行った時は湯船から出てたから、無意識に湯船からは脱出したんやね。ま、大事に至らなくて良かった。せいぜい今月の光熱費の請求見て目を回してなさい」
「げげ、代わりに財布が大事に至りそうだ~~~」
健二は、両手で頭をのけぞらせて悩むポーズをした。その時、紅美は健二の首辺りにかすかな紅い点々があるのを見つけた。
「あら? 健ちゃん、首に薄紅いブツブツみたいのがあるけど・・・」
「ああ、オレ、薬飲んだ後にたまに軽い蕁麻疹が出ることがあるけん、多分それやろ。心配すんな」
「そっか、じゃ、大丈夫やね。これに懲りて、今度からお酒はほどほどにしてね」
紅美は、安心したせいか軽口をたたくくらいで、いつものように誰と飲んでたの等としつこく聞くことは無かった。それが、健二を油断させたらしい。
 夕方、紅美が病み上がりの健二のために、また夕食の用意をしてやろうと彼の部屋に行くと、お見舞いと称して数人の女性が彼のベッドの傍にたむろしていた。それを目撃し頭に血の上った紅美は、そこらに買ってきたものを投げつけるとそのまま家に帰り、その後かかって来た彼からの電話にもメールにも頑として応答しなかった。しかし、火曜の深夜辺りから電話もメールもぷっつりと絶えてしまった。それでも怒りさめやらない紅美は、気に留めまいと無視を決め込むことにした。しかし、水曜になってもまったく連絡が無い。心配になった紅美は、とうとうメールを確認した。すると、最初は、ひたすら謝罪だったメールが途中から、体調を崩したことを報せる内容へと変わっていた。「なんか目が疼くし頭も痛い」から「急に高熱が出てしまった」「体中の関節が痛い」「体中に蕁麻疹が出たようだ」そしてとうとう「うごけん」という4文字のメールで連絡が途絶えた。一件入っていた留守録を聞くと
「クミ、助けて、部屋の中が、赤い・・・」
という息も絶え絶えな気味の悪いメッセージが入っていた。留守録の時間は日付の変わった水曜日の1時であった。紅美は急に心配になった。しかし、これは自分を心配させるための健二のウソかもしれない。アイツならやりかねない、とも思った。だが、それにしては切羽詰っている。紅美は悩んだ挙句、やはり彼のマンションに行くことにしたのだった。
 彼女が部屋に行くと、玄関の鍵がかかっていないのに気がついた。ドアが少し開いていたのだ。彼女はドア越しに声をかけてみた。
「健ちゃん・・・?」
返事は無かった。思い切って中に入ってみた紅美は、室内に嫌な臭いが漂っているのに気がついて顔をしかめた。今回は電気も消えテレビなどの音もなく、部屋は静まり返っていた。
「健ちゃん、いないの?」
紅美は彼の部屋まで行って様子を見たが、やはり誰も居ない。ひょっとしたらと思ってバスルームも見てみた。だが、今回はそこも健二の姿は無かった。
「もう、健ちゃんってば、カギ開けっ放しでどこ行っちゃったんだろ。やっぱウソ電話やったのかな。もう、このまま帰っちゃおうか・・・」
紅美はブツブツと独り言を言いながら、また健二の部屋に入ってこんどは照明をつけた。外が雨模様のため、かなり暗かった部屋の中がぱあっと明るくなった。紅美は健二のベッドに近づいてみた。何となく枕あたりになんかどす黒いものが見えた。なんだろうと思って、紅美は掛け布団をめくったが、その瞬間彼女は悲鳴を上げていた。
「キャッ! 何これ! 血・・・?」
布団の枕元と下半身辺りに、どす黒い染みの様なものが出来ていた。よく見ると、部屋のところどころに同じような染みがあった。これは健二の身に何かあったにちがいない! そう確信した紅美は、悩んだ挙句にとうとう警察に通報した。

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1.侵蝕Ⅰ (4)カサイ・レポート

 尋常でない室内の様子から、健二の異変にやっと気がついた紅美が警察を呼んだことから、健二の住むマンション付近がいきなり只ならぬ雰囲気に包まれた。今までも、夜中に学生達が乱痴気騒ぎをして警察が出動したことが何回となくあったが、昼間から、しかも本格的な捜査が入ったのは初めてのことである。近隣の住人達も、興味半分心配半分で、家から出てきて様子を探っている。
 警官達が室内をくまなく探したが健二の姿はどこにも無かった。しばらくすると鑑識が到着し、早速室内を調べはじめた。彼らはやはり、ベッドや床の赤黒い染みに着目した。状況からすると血液と考えるのが妥当であり、調べた結果も間違いなく血液の反応があった。しかし、この色はあまりにも奇妙だ。
「吐物でしょうか? なんか腐った血に似ていますね」
鑑識の1人が言った。まだ若い青年だ。
「おいおい、ここの住人は少なくとも昨日まではここに住んでいたんだ。ゾンビじゃあるまいに、生きた人間の血が腐ったりするかい」
と、彼より年上の男がたしなめた。だが、ある意味若い方の鑑識の言葉は正しかった。健二の体内は急激なウイルスの増殖により崩壊し始めていたのだ。
 紅美は、後悔と心配ですっかり沈み込んでいた。
(私があんな意地を張らないで、早く様子を見に来ていたらこんなことにはならなかったのに・・・)
しかし、後悔しても時間は戻らない。
(健ちゃん、いったいあんたの身に何があったの?)
紅美は、警官達が忙しく動き回る中、1人健二の机の前に座りぼんやり警官達を眺めていた。すると、1人の私服警官が紅美に声をかけてきた。
「あなたが通報された方ですね」
「あ・・・、は、はい」
紅美は、あせって答えた。
「失踪された方の奥さんですか?」
「いえっ、いいえっ、違います。まだ結婚はしてませんっ」
妻かと聞かれた紅美はさらに焦り、思っても無かったことを口走って驚いた。
(やだ、『まだ結婚はしてない』だなんて、私ってばこんな浮気男との結婚を考えてたんやろか?)
だが、刑事はそんな紅美の心境など知る由も無く事務的に話を進めた。
「あ、失礼いたしました。詳しいお話をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
と、紅美は素直に答えた。それにしても、健二はどこに行ってしまったのか。話を前夜に戻そう。

 夜中の県道を、一台の車が走っていた。時間は午前2時近く、道路は県道とはいえ山の中を通っており、昼間はけっこうな交通量があるのだが、この時間ともなれば交通量は激減、時たま対向車とすれ違う程度だった。注意して見ると、その車はたまにふらつくような不審な走り方をしていた。乗っているのは会社員の窪田栄太郎と部下の笹川歌恋(かれん)、窪田は40半ばの中間管理職だったが歌恋の方はまだ20代前半の若い女性だった。この日は大事なプロジェクトが成功したため市内の飲食店で盛大な打ち上げがあり、その後に行った二次会の帰りだった。そういうわけで窪田は酒気の抜けきらない状態で運転していた。もちろん、重大な交通違反である。彼は、二次会では用心してアルコールを控えてはいたが、一次会ではそれなりに飲んでいる。だが、それくらいで運転に支障をきたすことはないと自負していたし、実際、彼の運転はしっかりしていた。実はたまに運転がふらつくのは、助手席に座っている歌恋に原因があった。
「歌恋ちゃん、頼むよ、もうすぐ着くからさ、ちょっとの間我慢してくれないかなあ・・・」
窪田はしつこくちょっかいを出してくる歌恋に若干手を焼いていた。窪田が酒気帯びでありながら車で帰っているのは、途中、とある場所で酔いを醒ますつもりだったからだ。しかし、歌恋はくすくす笑いながらまた手を伸ばしてきた。
「あ・・・、もうっ、いい加減にしなさいよ」
窪田は叱り口調で言ったが、息を荒げながらでは威厳もへったくれも無い。歌恋は窪田の様子を見てきゃらきゃらと笑った。その時、窪田は男性らしき人影が道路でフラフラしていることに気がついた。窪田はとっさにブレーキを踏んだ。その甲斐あって、彼はその人影を跳ね飛ばすようなことにはならなかったが、ギリギリでぶつかってしまったらしく、軽い衝撃が伝わった。男は数歩後退りをすると、道路に倒れこんだ。
「な、何よお!?」
歌恋は急ブレーキのせいで乱れた髪をかきあげながら文句を言った。
「人を轢いたようだ」
窪田はそう言うとヘッドライトを消しすぐに車を降りて、車の前に倒れた男に近づいた。歌恋も心配になって後を追う。とりあえず窪田は男に声をかけてみた。
「君、大丈夫か?」
しかし、男は路上に仰向けになったまま激しく痙攣をしていた。空は曇り、街灯の光がようやく届く程度の明るさだったが、男の凄まじい表情に、可憐はかすれた悲鳴を上げ窪田にしがみついた。男はうなり声をあげて弓なりに痙攣し、ふっと力が抜けてまた路上に大の字になるとそのまま動かなくなった。死んだ? 馬鹿な! 車はかなり減速しており、致命的な衝突はしていないはずだ。祈るような気持ちで窪田は男の上半身を抱え上げ、心臓に耳を当てた。男の心臓は動いていなかった。
「そ、そんな・・・」
窪田は呆然として言った。たが、雲間から顔を出した月光を浴び浮き上がった男の容貌に驚いて、歌恋が悲鳴を上げた。それを聞いて反射的に男の顔を間近で見た窪田は、さらに驚愕し男を放り出して飛びのいた。男は再び道路に転がり、頭がゴッと嫌な音をたてた。男は苦悶の表情で目をむき、口から血のようなものを吐いていた。口元に黒いものがこびりついており、Tシャツの柄だと思っていたものは、吐物で赤黒く染まったものだった。しかし、それは若干乾きかけており、今の事故のせいではないのは明らかだった。よく見ると、彼の短パンの方も同じように汚れていた。顔には無数の発疹が浮き、鼻や目からも血を流していた。明らかに交通事故とはちがう異常死体である。呆然と立つ窪田に歌恋がしがみつきながら言った。
「課長、逃げましょう。今なら誰も見ていないわ、ね?」
「しかし、このままにしておくわけには・・・」
「このまま警察を呼んでもあたし達が疑われるだけだし、その上飲酒運転で捕まっちゃったら、罰金どころか課長、会社を首になっちゃうかも。第一、あたし達の・・・」
歌恋はそこで口ごもった。窪田の頭の中で一瞬の葛藤があったが、状況を考えると逃げることが妥当なように思えた。それからの窪田の行動は早かった。窪田は遺体の足を持って引きずり道路わきの草むらに隠した。遺体は生え放題になっている草に上手く隠された。それを確認すると窪田は車に飛び乗って歌恋を呼んだ。
「早く乗って!」
歌恋は反射的に車に乗り込んだ。車は一目散にその場から立ち去った。
「ふう」
しばらくして緊張の解けた窪田は、やっとため息をついた。ハンドルを持つ手はまだ震えている。窪田は自分が汗だくになっているのにようやく気がついた。額の汗が流れて目に入りそうになり、慌てて手でそれを拭いた。しかし窪田はその掌を見て驚いた。男を触った時に血が付いていたらしい。はっとして耳を触った。すると、耳たぶにも少し付着しているようだった。窪田は驚いてポケットからハンカチを出して顔と手と耳を拭いた。白いハンカチに赤黒い染みが出来た。窪田はそれを見て気持ち悪くなったが、そのままそのハンカチをポケットにしまい込んだ。
 草むらに隠された遺体、それは、変わり果てた健二であった。病気で動けなかったはずの健二は、熱に浮かされたためか、夢遊病者のように自分の部屋から抜け出していたのだ。夜中だったこともあって、彼は誰にも会うことなく、従って誰にも不審に思われることもなく、道路を歩き事故に遭ったのである。

 そういうこととは夢にも思わない紅美は、健二の行方を心配しながら、刑事に向かって一所懸命に今までの経緯を説明していた。

 

 由利子は午前中を、研究室内にある書籍や雑誌類に目を通すことで過ごした。
 今日の昼食は、由利子が始めて来たということで、紗弥と三人でギルフォードたち行きつけの喫茶店で昼食を取った。BGMにジャズが流れていて、なかなか居心地も良い。由利子はギルフォードに薦められて、そこのお勧めメニューである『Q大のそば』という焼きそばのセットを注文した。豚肉と野菜がたっぷりの焼きそばが、鉄板の皿の上でジュウジュウという景気の良い音をさせながら運ばれてきた。その上には目玉焼きと紅しょうが、そして青海苔がたっぷりとかけられており、その三色が更に彩りを添えていた。特製ソースの美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。一口食べると由利子は言った。
「美味しい! ほんと、美味しいです。頼んでよかった!」
「気に入ってもらえて嬉しいです」ギルフォードは、にこにこ笑って言った。「ここは夕方6時からパブタイムになりますが、夜11時くらいまで開いてますから、気に入ったら今後もご利用くださいね」
「ええ、これから寄らせていただきます」
由利子は笑って言うと、カウンターでこのやり取りを聞いていたこの店のマスターがうやうやしく礼をしながら言った。
「よろしくお願いいたします」
「あ、マスター、この人はシノハラ・ユリコさんです。今度ウチの研究室に・・・」
ギルフォードは、マスターに由利子の紹介をはじめた。

 研究室に戻ると、ギルフォードは紗弥からプリントアウトした数ページ程の書類を受け取り、自分の席に直行して真剣な顔で読みはじめた。彼は一度ざっと目を通すと、今度はもう一度ゆっくりと読み始めた。読みながら時折眉間にしわを寄せたり右手でこめかみあたりを押さえたりしていたが、だんだん顔つきが厳しいものに変化していった。それは、由利子に先週の縦読みメール事件の時を思い出させた。だが、今回はあの時のように怒りを爆発させるようなことはなかった。しかし、それはギルフォードの心の奥に刻まれ、彼にある決心をさせるに充分だった。森の内知事の思惑は成功したのである。
 ギルフォードは由利子を呼んだ。
「ユリコ、ちょっと、また応接セットまで来てくれませんか?」
「はい」
由利子が座ると、ギルフォードも例の書類を持ったまま向かいに座って言った。
「ユリコ、この前ここに来たときお話ししたテロのことは覚えてますか?」
「はい。縦読みの挑戦状、忘れるわけないです」
やはりそのことだったか、と由利子は思いながら答えた。
「それは、誰にも口外していませんね」
「はい、もちろんです」
「OK、ユリコ、いいですか? おそらく、これから僕たちはそれと深くかかわることになると思います。したがって、ユリコ、君にも手伝ってもらうことになると思いますが、良いですか?」
「もちろんです。いえ、やらせてください」
由利子ははっきりと言った。由利子は雅之とも祐一とも直接話したことはない。遠くから顔を見ただけだ。また、この事件についてはさわりを聞いただけで、全体像はある程度把握しているものの、個々についての詳しい情報を聞いているわけではない。しかし、それでも由利子は犯人がテロを「演出」しようとしているような気がして漠然とした怒りを感じていた。それで、ギルフォードの申し出に即決して答えたのだ。 
「そう言ってくれると思っていました。ありがとう、ユリコ。では、これからこのレポートに書いてあることも含めて詳しい経緯をお話します。長くなりますが、聞いてください」
由利子は無言で頷いた。ギルフォードは語った。
「まず、発端はホームレスの異常死体の司法解剖からでした。その後、似たような遺体の司法解剖が行われる際、執刀医である法医学者が前もって僕を呼び寄せ、解剖に立ち合わせました。その時僕はその遺体の真の死因に出血熱を疑いました。その遺体が、アキヤマ・マサユキに暴行死させられたホームレスのヤスダさんでした。ウイルスはヤスダさんからマサユキ君へ、そして彼のお祖母さんのタマエさんに感染し、ご存知のようにマサユキ君は私鉄の電車に飛び込み轢死しました。彼のお祖母さんも前日に亡くなっています。マサユキ君の両親は感染の恐れがあり、念のため感染症対策センターで様子を見ることになりました」
「ちょっと待ってください」
由利子が言った。
「今まで亡くなった方がその未知のウイルスに感染していたという証明は出来たのですか? だって、その正体すらわかっていないのでしょう」
「ウイルス自体が未知でも、ウイルス感染かどうかを調べる方法はあります。そして、彼らが共通して何らかのウイルスに冒されていたということまではわかっているのです」
「わかりました。続けてください」
「ウイルスはマサユキの遺体に触れた母親のミチヨに感染していました。そして、あの縦読み挑戦状メールへと話が繋がります。正体不明のテロリスト・・・ここでは単に『犯人』と呼ぶことにしましょう。犯人は感染症対策センター・・・感対センターからミチヨを連れ出し彼女が持っていた息子の携帯電話を奪いました。例のメールを発信するためです。僕は最初、彼女がセンターから単独で逃亡し、街中に潜む危険を考えていましたが、そのメール事件から、彼女の殺害の可能性も考えました。しかし、彼女は生きていました」
「殺されたんじゃなかったんですね」
「そうです。犯人の本当の目的は、携帯電話などではなく、ミチヨをばら撒き屋に仕立てることだったのです。これは、感染者が街中に潜んでいるよりまずいことです。感染者にウイルスを広める意志があるのですから。そして、愚かにも彼女はそれを承諾しました。しかし、彼女はユウイチ君を恨んでいました。ユウイチ君は、マサユキ君のホームレス狩りを止めようとして事件に巻き込まれました。幸い彼はウイルス感染を免れましたが、そのせいで母親のミチヨから恨まれることになったのです。それで、ミチヨはユウイチ君をおびき出して復讐しようと考え、彼の妹を利用して彼を公園・・・、マサユキ君がホームレスを殺害した公園に誘い出しました。それを知った彼の友人が僕に連絡をしてきたので、僕はジュンの電話番号を教え、僕たちも急いでバイクで現場に向かいました。それが月曜日、一昨日(おととい)のことです」
「一昨日? そんなことがあったんですか」
「ジュンは先輩であり相棒のタミヤマ刑事と少年課の女性警官との3人で急遽現場に向かいました。その時のことをジュンが調書にまとめたのがこの書類です。僕が現場に行った時はすでに全てが終わっていましたが現場が取り込んでいたので、何が起こっていたのか詳しいことを聞く余裕がありませんでした。しかし、これを読んでほぼ全貌がつかめました。敵さんはミチヨに息子の細胞で増殖したウイルスは息子の遺伝子を持っているといかにも息子の一部が生きているような錯覚をおこさせて、彼女にウイルス拡散を命じたのでしょう。それは子どもを亡くしたばかりの女性を惑わすには充分だったでしょう。少なくとも彼女の話からはそれを実行したことが伺えます」
「では、雅之君のお母さんが接触したらしい人たちを探し出さないとまずいのでは・・・」
「そうです。でも、彼女が死んだ今となっては、糸口が全くつかめないのです。まさか、今の段階で公開捜査をすることも出来ませんし・・・」
「え? 亡くなられたんですか」
「はい。ミチヨはユウイチ君殺害を目的として彼を公園に誘ったわけではなかったのです。彼女は彼を感染させて息子と同じ目に遭わせるため、彼に自らの血液を浴びせようとして、自害しました。しかし、それを見抜いていたタミヤマ刑事に阻止され、子どもたちは直接それを浴びずにすみました。しかし、タミヤマ刑事がその身代わりとなってしまい、今、センターに隔離され様子を見ているところです。これは、ジュンの書いたその事件のレポートです。僕が説明するより読んだほうが早いでしょう。ジュンのレポートは緻密でわかりやすいですから」
ギルフォードは由利子に葛西作成の調書のコピーを渡した。由利子は真剣にそれを読んでいたが、読み終えるとギルフォードに向かって言った。
「そんな大変なことが起きているなんて知りませんでした。何でこの事件がニュースにならなかったんですか? 少なくともローカルニュースになる程度のインパクトはあると思うんだけど」
「おそらく、用心のために報道を規制したのだと思います」
「それってまずいんじゃ・・・」
「まずいです。でも、今の段階では仕方がないのでしょう」
「葛西君、落ち込んでるんじゃないですか」
「ええ、かなり。今度会ったら元気付けてあげてください」
「会ったらですね。・・・ところでこれを読んで思ったんですが、美千代さんが言ったことから犯人についての手がかりがいくつかありますね」
「ほお。で、それは?」
「まず、犯人は1人ではなくある程度組織立った団体ということです。そして、美千代さんが『あの方』と呼んでいた人、その人は多分、その団体の中でも主犯あるいは主犯に近い人物ですよね。そして、その人はナントカ『イ』様と呼ばれています。なんか他所の国の人の名前みたいにも思えますが、彼らが何処かの国に属するものなのか、宗教団体か、極右あるいは極左団体なのかわかりませんが、一般女性が関わりやすいものと考えると、私は宗教団体ではないかと思います。美千代さんは多分、その団体と元々関わりがあったんです。だから犯人達も彼女を利用しやすかった。それに、いくら子どもを失ってまともな精神状態ではなかったとはいえ、初めて出会った人の言葉をいとも簡単に信じるのは不自然です。また、先の方で、美千代さんは『あそこに行かなければ』と言ってます。多分、『あそこ』というのはその宗教団体を指すのではないですか」
「良い推理です、ユリコ。宗教団体がテロを行うことは珍しくありません。その多くは爆弾テロですけど、カルト宗教団体がバイオテロを行った事例は、十数年前のO教団や、この前例にあげたラジニーシ教団の例があります」
「え? O教団はサリンテロだけじゃなくてバイオテロもやってたんですか?」
「はい。ボツリヌス毒素や炭疽菌でテロを起こそうとしました。しかし、バイオテロの方は不成功に終わったので、日本ではあまり取り上げられていませんが、アメリカではこの事実を重く受け取って、バイオテロ対策を強化しました。まあ、その頃の大統領が、テロ対策を重視していたクリントンだったってこともありますけど」
「そうだったんですか」
「はい。そう考えて、僕も該当しそうな新興宗教団体を探してみました。しかし、どれもこれといった決め手がありません。そもそも、バイオテロを行う動機が見つからないんです」
「動機ですか・・・」
「そうです。宗教団体が殺人ウイルスをばら撒いて何の得があるのか、僕にはさっぱりわかりません」
「あの、病原体を培養するためには、それなりの施設が要るんじゃないですか? それを探せば・・・」
「その点が宗教がらみだと難しいのです。宗教施設の場合は、よほど犯罪の証拠が無い限り、手をだすことが難しいんです。O教団の時もそれが捜査に当たって重大な障害になったといいます。彼らがかなり大掛かりなプラントを持っていたにも関わらず、です」
「はあ、困ったものですねえ」
「ホントに。宗教は厄介です」
ギルフォードは、肩をすくめて言うと続けた。
「他にも解決しなければいけない謎があります。先ず、指針症例であるホームレスがどのようにしてウイルスに感染させられたかという、根本的な問題があります。ウイルスはいつどこでどのようにして仕掛けられたのか。そして、それは何箇所に仕掛けられたのか。そして、犯人達の目的と要求。これを知ることが出来ないと、このテロ事件の輪郭がはっきりしません」
「そうですね。ところで・・・」
由利子は、前から気になっていたことを聞いてみることにした。葛西が雅之の祖母のことで言葉を濁し、言いたがらなかったあの件である。
「葛西君が言いかかったことなのですが、雅之君のお祖母さんのことで何か恐ろしいことがあったとか。葛西君ってば、言いかけたくせに、悪夢だからって教えてくれなかったんです」
「ああ、マサユキ君のお祖母さんの・・・。えっと、それは・・・僕の口からは説明し難いな・・・」
ギルフォードは口ごもった。
「ええ? アレクまで? どして?」
由利子は少し驚いて言った。ギルフォードは少し黙っていたが、重い口を開いた。
「それは、秋山雅之の祖母である秋山珠江の遺体の状態のことです。彼女の遺体は、夥しい蟲・・・たちに食い荒らされていたのです。そして、その約一週間後、その蟲らしきものが大量死しているのが見つかりました」
「遺体を食べた虫たちが全部死んじゃったってことですか?」
「それはわかりません」
「でも、一体どうして・・・」
「遺体がある種の昆虫を引き寄せるにおいを出していたらしいのです」
「ある種の昆虫って?」
「そ、それは、えっとですね」
「ゴキブリですわ」
横から紗弥が間髪いれずに言った。
「ゴキブリ!! これまたよりによって嫌な虫が・・・」
由利子は流石にゾッとして言った。
「そうでしょう。僕にとっては死ぬより辛いですよ。遺体をあんなモノに食われるなんて、死んでも死にきれません」
と、ギルフォードは得も言われぬ表情をしていった。
「ひょっとして・・・」由利子はギルフォードに言った。「ゴキブリ、苦手なんですか?」
由利子の質問に固まったギルフォードの代わりに紗弥が答えた。
「そのようですわ。しかも、名前を口にすることすら出来ないくらいに」
「やだ、カワイイ~!」
「でしょ?」
由利子と紗弥は二人してギルフォードの顔を見ると、ケラケラと笑った。
「だって、本当に大っキライなんだもん。そんな笑わなくてもい~じゃん」
ギルフォードはまたいじけモードで口をとがらせながら言った。

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1.侵蝕Ⅰ (5)親子刑事(デカ)

 室内で黒い血の染みを残して学生が失踪した事件を受け、数人のC野署員が聞き込みをはじめた。事件性を考え中山・宮田両刑事もそれにかり出されていた。
「それにしても、失踪した森田健二という学生ですが、友人達にもご近所にも評判悪いですね。通報者と数名の女性以外誰も心配していないし」
後輩の宮田が言うと、中山がすこし馬鹿にしたような口調で言った。
「まあ、よくいる甘やかされたクソガキやろ。金を払えば卒業できる大学で親の金で4年間遊び放題だ。それで卒業したらいっぱしの大学出の学士様だ、ヘッ。ヤツの部屋を見たろ。学生の分際で2DKのマンションに1人暮らしって、ふざけるな、だよ」
「うらやましいですね」
「おお、オレの学生時代なんか農家の納屋の2階を月1万で借りて、夏は暑いわ臭いわでカノジョも・・・、って、そんなことはどうでもいい」
「失礼しました」と、言いながら、宮田は(自分からノッたくせに)と思いつつ話の軌道を戻した。
「で、その彼ですが、女癖が悪くてしょっちゅう北山紅美とケンカしていたらしいですが、ひょっとして・・・」
「まさか。自分で殺しとって通報するとはあまり思えんがな。女の手で死体を隠すのも大変やろ。ま、絶対にありえないとは言い切れんが、彼女と話した限りでは、不審な点はなかったと思うぞ」
「まあ、そうですけど、なんか不自然な失踪だな、と思って。そもそも動けないほどの症状だった男が、家を出ることが出来たことが不思議です」
「それは、北山紅美が最初疑ったように狂言やった可能性もあるし、何者かに拉致されたって事もある。それにしても、何となく気持ち悪いシロモノやったなあ。あのベッドの染みは・・・!」
中山は、思い出して少し身震いしながら言った。
「な~んか、俺のカンが危険信号を発しているんだよなあ」
(また、中山さんの悪いクセが始まった・・・)
宮田は、内心ゲンナリしながら言った。
「とにかく、聞き込みを続けましょう。何か手がかりを見つけないことには・・・」
早く解決しないと、またしばらく家に帰れなくなってしまう・・・と、宮田は心の中で付け加えた。しかし、中山の野生のカンは少なくとも外れてはいなかった。

 田村勝太は、下校時、電車を降り、商店街をぶらぶらしていたところで若い女性に声をかけられた。
 勝太は雅之の事故死の後、3日ほど病院に入院していた。表向きは、目の前で友人が事故死するのを見てしまった心のケアだったが、もちろん感染を疑ってのことで、心のケアもされていたが、実のところ感染症対策センターで半隔離状態にあった。しかし、雅之が彼の間近で轢かれたわけではなく、朝ちょっと出会っただけで遺体にも触れていないということで、隔離自体を疑問視され、入院は3日に短縮された。もちろん勝太は強いショックを受けていた。病院では専門の医師のカウンセリングも受けていたが、勝太の心の傷は自分が想像している以上に深かったらしい。退院してから近所のクリニックに通うこととなったが、一向にやる気が出ない。以前のように友人達と騒ぐ気にもなれない。友人達も気を遣って彼に声をかけられない。祐一とまさに同じ状態に陥っていた。そんな時、勝太は知らない人に声をかけられ、無気力に振り向いた。そこには、20代の、妙に垢抜けた、綺麗な女性が立っていた。スタイルも良く、特に胸の大きさは圧巻であった。その上胸元が大きくV字に開いた黒いTシャツを着ている。流石に勝太は目のやり場に困り、どぎまぎしながら答えた。
「あの・・・、何ですか?」
「田村勝太君ね?」
「は、はい」
答えた後、勝太はしまったと思ったが遅かった。
「あのね、聞きたいことがあるの。そこの喫茶店でちょっとお話しない?」
「あの、おれ、まだ中学生ッスから、商品とか買えないッスから。宗教も間に合ってます」
勝太はそう答えると、女に背を向けその場からそそくさと去ろうとした。そこに女がまた声をかけた。
「聞きたいのは秋山雅之君のことよ」
勝太は、ぎょっとして振り向いた。
「雅之のこと?」
「そう。あなた、彼の死について、疑問とか持たなかった?」
勝太は、胡散臭そうな目で女を見ると、言った。
「わかりました。ちょっとの間ならお付き合いします。でも、おれは、よく知らないし、思い出したくないんですけど」
「ゴメンネ。驕るからさ」
女は、勝太の背に手を添えると、すぐそこにあった小ぢんまりとした喫茶店に向かった。
 その女は真樹村極美だった。例の公園での一件に遭遇した後、長沼間らに捕まり写真を消去されたが、その前にメールに添付して送っていた写真3枚のうち1枚を編集長に見せ、見事に取材許可をもらった。取材費もたっぷり振り込まれて、極美はやる気満々だった。そして、まず、彩夏の制服から祐一たちの学校を突き止め、祐一の友人である雅之の事故について知ったのである。それから公園で問題を起こした女性が雅之の母であるらしいこと、祖母も雅之の前日になくなっていること、それを発見した近所の人たちがとんでもないものを見たらしいということ等、祐一と雅之の家の近所の人たちに取材してすぐに得ることが出来た。どの人も秋山家に連続して起こった不幸に興味を持っていたからだ。もちろん、半分以上がウワサや憶測の類ではあったが。極美はとりあえず、珠江の遺体発見者たちに話を聞こうとしたが、口をそろえて「思い出したくない」と言って、誰一人そのことを語ろうとしなかった。そんな時、雅之の死に立ち会った友人がいることを、祐一の学校の生徒から聞き出し、関係者の中で一番弱そうな勝太をまずターゲットにしてみたのだ。
「で、お話ってなんですか」
勝太は、目の前のケーキセットに手をつけず、緊張気味に言った。
「ま、先に食べてよ。せっかく頼んだんだからさあ」
極美はにっこり営業用スマイルを浮かべながら、先ず、彼にケーキを食べることを勧め、自分も食べ始めた。この前までギリギリの予算でやりくりしていたので、このように間食を取るなんて久しぶりだった。勝太は極美が美味しそうに食べ始めたので、つられてケーキに手を伸ばした。一口食べると、急におなかが空いてきて、あっという間に小さいケーキはなくなりカップのコーヒーも空になった。極美は目を丸くして言った。
「あらぁ、やっぱ若いわね。お代わりいる?」
聞かれて勝太はぶんぶんと首を横に振った。我に返って周りを見ると、勝太と極美の奇妙な組み合わせに皆から注目されている。こんなとこ、かあちゃんに見つかったらどやされてしまう・・・。勝太は早く用件を済ませたいと思って再び尋ねた。
「あの、で、お話は・・・」
「そうそう。お友だちの雅之君ね、彼について何か知ってること教えてよ。死ぬ間際、なんか変じゃあなかった?」
「確かに、あの日雅之は、急に何かに怯えだして・・・」
そこまで言うと、勝太は顔を歪めた。
「やっぱだめだ・・・」
「え?」
「ごめんなさい。そのことについては、今は、やっぱ辛いのでお話できません。わかってください。思い出すことすら苦しいんです。そのせいで、今、病院に通っているくらいなんです」
「そう、わかったわ・・・」
極美は、一瞬理解したようなそぶりを見せた。
「でも、私ね、あなたの学校の子から雅之君が人を殺したんじゃないか、そのせいで自殺したんじゃないかって話聞いちゃったの。で、祐一君だっけ? 彼、その場にいたんでしょ」
「おれ、あれ以来ずっと西原君とは会ってませんから、そこらへんは全く知らないんです。昨日からまた休んでるし。また何かあったんやろうか・・・」
(その現場をあたしは見ちゃったのよ)極美は心の中で言った。(だから、あたしはそれまでの過程を知りたいの)
極美はその時のことを回想してみた。と、その時、あることが引っかかっていたことに気がついた。何故、あそこに1人だけ外国人が居たの?
「わかったわ。とりあえず今回は諦める。でも、何か話したくなったら電話して」
そう言いながら、極美は名刺を渡した。念のため雑誌の営業用は避け、プライベートに作っている名刺にしておいた。極美は立ち上がると勝太に名刺を渡しながら、上半身をテーブル越しに勝太に近づけ、肩にそっと手を置いた。勝太の目の前に胸の谷間が迫ってきた。
(うわあ・・・)勝太は心の中で言い、真っ赤になりながら名刺を受け取った。極美はここぞとばかり、勝太の顔のすぐ傍で尋ねてみた。
「雅之君が亡くなった頃、大きい外国人の男が君に関わってこなかった?」
「が・外国人・・・?」
勝太は言葉につまりながら続けた。
「そういえば・・・、おれが病院に連れて行かれたとき、外国人の教授とか言う人から質問をされました。でも、おれ、その時全然ショックから立ち直っていなかったので、ろくに答えられなくて・・・。そしたら、彼は、また落ち着いてからお話を聞かせてください、とか言って、去って行きました」
(ビンゴ!)と極美は思いながら、椅子に座りなおすと聞いた。
「その病院はなんていうの?」
「F市内の、県立病院IMCとかいう名前でした。おれは3日間そこでケアを受けて退院しました」
「アイエムシー? カタカナ?」
「アルファベットでした」
「変な名前ね」
「ええ、なんか特別な病院のような気がしました」
「そう。ありがとう。参考になったわ」
「もう帰っていいですか?」
と、勝太は周りを気にしながら言った。極美はまた営業用スマイルを見せて言った。
「ええ、今日はどうもありがとう。約束どおりここは驕りだから、支払いは気にしなくていいわ」
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
勝太は立ち上がると、極美に一礼してそそくさとその場から去って行った。店から出ると、勝太はほうっとため息をつき、首を盛んにかしげながら歩き始めた。歩きながら勝太はふと不安になった。
(いらんことを話してないよな、おれ・・・)
しかし、過ぎてしまったことは仕方がない。勝太は手に持った名刺を一瞥し、そのまま無造作に財布にしまった。
 喫茶店に1人残された極美は、ついでにそこで夕食をとることにした。メニューをもらって注文すると、さっき、メモしたノートを見ながらつぶやいた。
「この外人の男。こいつがなんか怪しいわね」
極美は、『白人(教授)』『IMC』と走り書きした文字を赤ペンで丸く囲んだ。
(あの時の警官達の装備・・・、考えられるのは、毒ガスか細菌・・・。放射能漏れは多分ないわね。毒ガスならば、あの時あそこに防護服なしが数人いたし、それに嫌なにおいも刺激も無かったわ。では、毒ガスもなしよね。残るは、細菌・・・?)
極美は、ノートに赤ペンで細菌と書くと、二重丸で囲った。
(そうよ、伝染病なら、秋山雅之と彼の祖母、そして母が、続けて死んだことと辻褄が合う!! もし、そうなら、これはすごいスクープだわ)
極美は自分がわくわくしているのを感じた。その時、頼んだ定食が運ばれてきた。極美は、とりあえずノートをバッグにしまうと、定食に向かいペンを箸に持ち替えた。

 ギルフォードは、夕方から多美山の病室に様子を見に現れた。多美山はすでに夕食を終え、サイドデスクで本を読んでいた。今日はテレビはつけておらず、代わりに病室備え付けのラジオをかけていた。見た目は元気そうだった。しかし、まだ事件から3日と経っていない。予断は許されない状態である。容態を聞くと、身体の方は健康そのもので検査の結果も今のところさして問題もないと告げられているようだった。
「ばってん、指のキズがなかなか塞がらんとですよ。まあ、もともと最近は傷の治りが遅くなっとりましたけどね。歳のせいでしょうな」
「そうですね。そう言えば僕も、昔に比べて傷跡がなかなか消えなくなってしまいましたよ」
ギルフォードはにっこり笑いながらそう相槌を打ったが、内心不安を感じていた。傷の治りの速さ自体は個人差や年齢の違いで当然違ってくる。しかし、ギルフォードが多美山の検査結果に目を通したところ、昨日は怪我のせいで増えていた白血球の値が、若干減っていたのだ。もちろん充分規定値内だったが、白血球の減少はウイルス感染に多く見られる。それを考えると傷の治りの遅さが気になった。それでギルフォードが少し考え込んでいると、多美山が声をかけた。
「そういえば、先生、ジュンペイの調書を読まれたそうですが・・・」
「はい」
「どうでしたか? お役に立てそうですか?」
「はい、とてもわかりやすく要点をまとめてありました。僕の学生でしたら優をあげてもいいくらいです」
「ははは、褒めすぎですよ、先生。調子に乗ったらイカンので、ジュンペイ本人に向かってはあまり褒めんでください」
口ではそう言いながら、多美山は嬉しそうだった。ギルフォードは昨日の多美山のお願いについて、疑問があったので聞いてみることにした。
「明日、ジュン・・・カサイさんをお誘いする件ですが、タミヤマさん、他になにか頼みたいんじゃないですか?」
「ああ、お見通しですな。実は、鈴木からジュンペイを、今度県警本部に設置されるテロの対策本部に移動させるという話を聞きまして・・・。私の気持ちはそんな危険なところへは行かせたくなかとですが、先生が顧問になられるということで、少し安心したとです」
「え? カサイさんがタスクフォース・・・対策本部に来られるのですか?」
ギルフォードは、内心嬉しいと思ったが、もちろん顔には出さない。
「多分そうなると思います。上の決定には逆らえんですから。」
「そうですか。実を言うと、最初僕は顧問の件を断るつもりでした。外国人の僕が出しゃばるのは良くないと思ったからです。でも、カサイさんのレポートを読んで気が変わりました。まだ正式な返事はしていませんが」
「顧問を引き受けてくださるとですね」
「はい。でも、タミヤマさんのご心配はわかりますよ」
「あいつはああ見えて時々無茶をやりよります。今回も、私が矢面に立たねば、あいつが美千代の前に飛び出しとったでしょう。先生、あいつにバイオテロや病原体のことを徹底的に教えて、無茶をせんごと釘を刺しとってください。あいつには、私のような目にあって欲しくないとです」
多美山はギルフォードに向かって真剣に言った。
「わかりました」ギルフォードは答えた。「明日、頃合を見てそこらへんをカサイさんにレクチャーしてみましょう。ユリコも来ますから、課外授業みたいでいいですね」
「よろしくお願いします」
多美山は頭を下げながら言った。その後、二人は他愛ない世間話をしていたが、しばらくするとノックの音がして葛西が現れた。
「多美さん、こんばんは~。お見舞いのお花を持って来れないのは困りますね・・・。あれえ、アレクも来てたんですか」
葛西はギルフォードの姿に気がついて言った。ギルフォードは葛西を見てニコッと笑いなから言った。もっとも、その笑顔は肝心な部分がマスクに半分隠れてしまっていたが。
「ジュン、こんばんは。なかなかその格好が板についてきましたね」
「そうですかぁ? 僕には怪しい人にしか見えないんですけど」
「ジュンペイ、これからそう言う格好をすることが増えるんやから、早う慣れんとイカンぞ」
多美山は葛西に言った。口調は厳しいが表情は心なしか心配げだ。
「了解。でも嫌だなあ、これから暑くなると思うと・・・。今でも充分に暑いのに」
「まあ、ある程度慣れますから。それよりも呼吸の方が大変かもしれませんよ」
「もう、頼むから脅かさないで下さいよお・・・」
あなりにも情けない声で葛西が言うので、多美山とギルフォードが吹き出した。
「笑わないで下さい。僕にとっては深刻な問題なんです」
「失礼しました。ところでジュン、明日休みなんですってね。じゃ、僕たちと少しおつきあいして下さいませんか?」
「え?」
それを聞いて葛西が固まった。そしてしどろもどろに答えた。
「おつきあいって・・・その・・・、それに、僕たちって・・・」
その様子にギルフォードはまた吹き出して言った。
「僕と僕の研究室の人ですよ。まあ、他にも増えるかもしれませんが」
「でも、明日は多美さんと一緒に過ごそうと思ってたんですが・・・」
葛西は多美山の方を見ながら助け船を求めた。しかし、言い出しっぺは多美山である。
「ジュンペイ、俺は大丈夫やけん、行って来んね。ついでにK神社のお守りを買うてきてくれ」
と、行かせる気満々である。葛西は、しかし、お守りという言葉に反応した。
「お守りって、多美さん、本当は不安なんじゃないですか?」
「そりゃあ、不安さ。なんせ、感染者が目の前で死んだとやからな」多美山は躊躇無く言った。「でもな、おまえからお守りをもらったら、元気になりそうな気がしてな」
「そうですかあ?」
「そうたい。ばってん、学業祈願や恋愛成就のお守りは要らんぞ」
「あはは、わかりました、多美さん。じゃ、明日はギルフォード教授にお付き合いいたしましょう」
葛西は仕方なく言ったが、相変わらず乗り気ではなさそうだ。
「ありがとう、ジュン」
ギルフォードはそう言うと、葛西の手を取って握手しながら言った。
「ではタネ明かしです。僕の研究室の人ってユリコのことですよ」
「あ、そうなんですか」葛西の顔が少し明るくなった。「良かった。知らない人と一緒は嫌だなあって思ってたんです」
「意外と人見知りなんですねえ」
「それはともかく、そろそろ手を離してくれませんか?」
「あ、失礼しました。手袋越しなので握手してる気がしなくって」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです」
ギルフォードは、またにっこり笑って答えたが、やはりいまいち笑顔が発揮出来ない。それを見て多美山が言った。
「先生、その装備じゃ、コミュニケーションをとるのが大変そうですなあ」
「はい、困ったものです」
ギルフォードはあっさりと答えた。ギルフォードの握手から解放された葛西は、多美山にようやく一番気になる質問をした。
「ところで多美さん、具合はどうですか?」
「おお、全く異常なかけん、自分でも驚いとるったい」
「そうですか、良かった~」
「やけん、明日は安心して行って来んね」
「わかりました、行ってきます」
葛西はそう答えると、ぼそりと口の中で言った。
「なんか、うまく丸め込まれたような気がするなあ・・・」
 その後、3人はしばらく雑談をしていたが、先に葛西が仕事が残っているからと、K署に帰って行った。帰り際に明日の集合場所を決めた。葛西は朝、先に多美山の見舞いをしたいというので、10時に感対センターの駐車場に集合ということになった。
「いい子ですねえ」
葛西が部屋を出て行ったあと、ギルフォードは言った。「本当にタミヤマさんが大好きで心配してるんですね、カサイさんは。まるで親子みたいですよ」
「あいつの父親も刑事で、あいつが小さい頃殉職しとるとですよ。私に父親のイメージを被らせとるのかもしれんです。良いことなのか悪いことなのか・・・」
「良いことに決まってますよ。パートナーを組む場合、信頼関係にあることが一番ですから」
「そうですな・・・」
と多美山は満足そうに言ったが、その後急に立ち上がるとギルフォードに対して頭を下げながら言った。
「ギルフォード先生、申し訳ありませんが、実は最初、あなたのことを誤解しとりました」
「胡散臭いガイジンだと思ってました?」
「ははは、正直、先生が署に出入りされるのが不満でした。何となく、その・・・、態度がでかいというか、上目線でしたし・・・」
「僕は本質的に警察が嫌いなんで・・・、まあ、過去にいろいろあったので・・・そのせいで態度が悪かったのかもしれませんね」
「あの時、救急車の中に先生が入って来られた時、内心驚いてました。状況からして、来てくれるとは思ってもいませんでしたから」
「ヨシオ君からの電話を受けて、じっとしていられなくて・・・」
ギルフォードは照れ笑いをしながら言った。
「今は、あなたが信頼をおける方だということがわかります。先生、実のところ、私はどうなるかわかりませんし、純平は私から離れて危険な任務につきます。私の代わりにジュンペイ、いえ、葛西刑事をよろしくお願いいたします」
そういうと、多美山はまた頭を下げた。ギルフォードは、焦って言った。
「タミヤマさん、そんな、気の弱いことを言わないでください。それに、カサイさんは見かけよりずっとしっかりしていますよ。心配なさらずとも大丈夫です。もちろん、僕もいろいろフォローはしますから」
「ありがとうございます。・・・それにしても、こんな状況におかれると、やっぱり気が弱くなりますなあ」
多美山は笑って言った。

 ギルフォードも去り、室内がまた寂しくなった。
「ふふ、女房が死んでから、ひとりは慣れとったつもりやったばってん、やっぱり寂しかな・・・」
多美山は、つぶやきながらラジオを切って、葛西が持ってきてくれたテレビの電源を入れた。点けた瞬間、画面がいきなりキラキラと眩しく輝いたので、多美山は眉間にしわを寄せ、目を閉じた。それを見た瞬間眼の奥が疼くのを感じたからだ。しかし、それは一瞬だった。画面を再度見ると、何処かの美術館で今行われている、某国の秘宝展を、情報バラエティ番組が特集しているらしいことがわかった。綺麗、欲しいと言いながら、かまびすしくはしゃぐレポーターの女性芸人の声が、病室に響いた。多美山は、一瞬のことだったし、急に明るい画面を見たせいだろうと考え、よくあることと、彼はその傷みを特に気に留めることはなかった。今映っている番組がお気に召さなかったのか、多美山はチャンネルをNNKに変えた。ちょうど7時のニュースの時間だった。
「浮世は相変わらずか・・・」
多美山は、次々に伝えられるニュースを見ながらつぶやいた。

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2.侵食Ⅰ 【幕間2】帰り道

 小波瑞絵(みずえ)は2人の友人と、薄暗くなった住宅街の中の道をとぼとぼと歩いていた。3人とも黒を基調とした服を着ていた。彼女らは、友人の通夜から帰るところだった。
「ねえ、明日のお葬式、どうしよう。やっぱ、行かんといかんかなあ」
友人の永久保香津美(かつみ)が残りの二人に向かって言った。瑞絵は、少し驚いて友人の顔を見ながら言った。
「何言うとぉと。そりゃあ、行かんと・・・」
「うん、そうだけど、なんか・・・う~~~ん、・・・ほんとに杏奈が死んじゃったってのを実感したくないっていうか・・・」
「うん、わかるよ。だけど、友だちだもん。ちゃんと送ってやろうよ」
と、谷川真緒が諭す様に言った。
「うん、そうだよね。・・・なんでやろう。まだ17歳なのに連れて行っちゃうなんて、神様はひどいよ」
そう言いながら香津美はまた泣き始めた。後の二人の涙腺もつられて緩んだ。3人は歩きながらポロポロ涙をこぼした。3人はクラスメートの沢村杏奈の急死に、一様にショックを受けていた。彼女らは4人で今度の土日を利用して、好きなバンドのライブのために東京に行く予定だった。
「ライブどうしよう。こんな気持ちで行っても楽しめないよね」
香津美が泣きながら言うと、瑞絵はキッと正面を向き、涙を拭きながら言った。
「私は行くよっ。だって、杏奈は楽しみにしてたんだもん。杏奈と一緒に行くよ。杏奈の写真持って会場に入るんだ!」
「そ、そうだよね」
二人は同意した。
「でも、何でやろう。杏奈、全然元気やったのに、急に高熱で倒れて、5日間も苦しんで死んじゃったなんて・・・」
瑞絵は、時折流れる涙を拭いてはいたが、仲間内ではしっかりとした口調で言った。
「検査しても原因がわからんで、薬もほとんど効かんかったって・・・。最後には血を吐いて死んだって・・・」
真緒がそれを聞いて驚いて言った。
「検査しても原因がわからないって、そんな病気ってあるの?」
「知らんけど、そりゃあ、いろんな病気があるやろ」
「えっ、そうなの? 病院に行ったらなんでも治るかと思ってた」
と、真緒は、信じられないというような顔をして言った。
「世の中には、お医者さんでも治せない病気のほうが多いんだって。風邪だってそのひとつで、病院に行ったから治るっちゃなくて、ホントは自力で自然に治っとるって」
と、瑞絵は知ったような顔をして言ったが、これは、医大に通う兄の受け売りである。
「じゃあ、お医者さん要らなくない?」
「バカやね。治る病気もあるんやし、じゃなくても熱をさましたり、点滴したりがないと困るやろ。他にも、怪我した時とか、それから、手術をしたりさあ」
「それもそうだね」真緒は納得した。「じゃあ、きっと杏奈は風邪が治らなかったから死んだんだね。怖いね・・・」
真緒が言うと、二人は黙ってしまった。これ以上説明するのが面倒くさくなってしまったからだ。だが、真緒の言ったことの半分は正解だった。一瞬の沈黙を瑞絵が破って言った。
「それにしても・・・、お棺の中のご遺体に会わせてもらえないなんて、一体、どんな状態やったっちゃろ・・・」
そういえばそうだ・・・と、少女達は顔を見合わせた。そしてまた沈黙。だが今度の沈黙は少し長かった。彼らは無言で歩いた。
「そういえば、杏奈さ」
香津美が思い出したように言った。
「先週ちょっと落ち込んどったやろ? 火曜あたりやったっけ」
「ああ、なんか、遅刻して来た時やね。中学生男子が電車に轢かれたのを間近で見たとか言って」
瑞絵も、それを思い出して言うと、香津美もそれからさらに記憶が甦った。
「そうそう、それで気分が悪くてお昼も食べれんで、結局午後から早退したっちゃんね」
「そういえば、その子の血が近くに飛んできたとか言ってたよ~。思い出した~。気持ち悪いよぉ」
真緒も記憶を呼び覚ましたらしく、両手を組んで寒そうに自分の二の腕をさすりながらさらに言った。
「やだ、その子のタタリじゃないの?」
「やめてよ、そんな非科学的なこと言うとは!!」瑞絵は真緒に本気で怒りながら言った。
「タタリなんてありえんやろ! 第一、亡くなった子に悪いやろ? 杏奈は病気で死んだの。原因は不明で病院で調査中。今わかっとるのはそれだけ」
「ごめんなさい・・・」
瑞絵の剣幕に、真緒はしょぼんとして言った。瑞絵は言いすぎたと思って、急いで真緒に言った。
「こっちこそ、怒ってごめんね」
「まあ、この話はもうやめようよ。杏奈もきっと楽しい思い出話とか聞きたいって思っとぉよ」
微妙なこの空気をなんとかしようと、香津美が話題を変えることを提案した。
「そうやね」
二人は同意し、思い出を話始めた。しかし、最初は笑っていても、その思い出が楽しいほどその杏奈がもういないと思うと、悲しさがこみ上げてくる。瑞絵が言った。
「いい子やったよねえ。ちょっとドジやったけど、優しくて友達思いで・・・」
「すっごい不器用なのに、いっしょうけんめいで、絶対にあきらめなかったもんね。でも、やっと出来たら料理もマフラーも、とんでもないことになってて」
香津美がクスクス笑いながら言った。しかし、その顔は半泣きである。真緒が続けて言った。
「そうそう、何で、マフラーがこんなことにって感じ? それで、バレンタインにあげるって編んでたのに、4本編んでお揃いだってあたし達にくれたんだよね。絶対にあれ、本命にあげるつもりで編んだ失敗作だよ。本命には結局買ったマフラーあげてたもん」
「どうするよ、これ、って思ったけど、捨てるに捨てられなくて、箪笥にしまったままやったけど、形見になっちゃったね、あれ・・・」
と瑞絵。
「杏奈のバカぁ・・・何で死んじゃったのよぉ・・・」
真緒が、我慢出来ずにうわあんと泣き出した。一人が泣くと、もう、残りの二人も耐えられなくなった。三人は住宅街の真ん中で、抱き合って友の名を呼びながら、わあわあ泣き始めた。

(「第2部 第1章 侵蝕Ⅰ」 終わり)   

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