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1.暴露 (3)タイド・ウェイ

 その頃由利子は、歌恋の病室の前にいた。もちろんギルフォードに頼まれ、歌恋から話を聞くためだが、F県警のテロ対策室で、大量の暴力団員リストを閲覧したため、由利子がオーバーヒートしかかったと言うこともあった。

 「ユリコがバカ正直に一人ひとり確認しながらやるから」
センターに行く途中、車を運転しながらギルフォードが言った。
「見たことのある顔を識別するだけなら、君なら一瞥しただけでわかるはずですから、ちゃっちゃとスクロールして見ればいいんですよ」
「でも頼まれたからにはいい加減に出来ないなとおもって・・・」
「要は、君の見た関係者リストに乗っていた者たちや、そのデータCDを奪おうとした男たちを、データベースの中から発見できれば良いんですから」
「まあ、そうですが」
「頭から湯気出してまで頑張らなくても」
「え? 湯気出てました?」
「ま、それは冗談ですけどね。とにかくこれから先は長いんです。のっけから頑張りすぎると後でバテますよ」
「はい」
「ま、君の頑張りは僕も嬉しいですけどね」
そういうと、ギルフォードはニコッと笑った。

 由利子は歌恋と話す許可を得、病室の前に座った。
 由利子は、歌恋と話をする条件として、二人だけで話したいと言った。しかし、隔離された歌恋の病室には、医療関係者ではない由利子が入るわけには行かない。それで、昨日の北山紅美の時と同じ方法でやることになった。由利子がマイクを使って話すという方法である。ただし、今回は歌恋の話声が筒抜けにならないように、由利子に聞こえるレベルくらいに病室からの音量も落とすという配慮がなされた。念のため、歌恋の病室には看護師の甲斐が待機していた。
 窓が開き、由利子が対面した笹川歌恋はベッドに伏せっていた。朝方の状態から考えて、かなり病状が悪化している。
「笹川歌恋さんですね」
由利子は出来るだけ優しい声で言った。歌恋は大儀そうに由利子の方を見ると、怪訝そうに「はい」と答え,、起き上がろうとした。
「あ、気を遣わないで。横になったままでいいですから」
由利子は焦って歌恋を止めると続けた。
「具合の良くないところを申し訳ないのですが・・・」
由利子は訪問目的をなんと説明しようかと少し考えたが、直球勝負に出ることにした。
「ギルフォード先生に頼まれて、あなたの話を聞きに来ました。篠原由利子と申します」
「ギルフォード先生?」
歌恋は一層訝しげな目をして言った。
「朝、会ったでしょ? 金髪で背の高い男の人!」
「ああ、あの優しい外人さんのことですね。でも、今朝お話したことで全部なんですけど・・・」
「ギルフォード先生は、あなたがまだ全てを話していないんじゃないかと言ってるわ。それで、私がもう一度確認に来たの」
「あなた、あの外人の先生の部下かなんかですか?」
「部下・・・多分違うなあ。友人・・・、そう、友だち・・・かな?」
「友だち? 彼女じゃないんですか?」
「カノジョ・・・」
そう鸚鵡返すと、由利子はクスクス笑って言った。
「残念ながら、彼とは永遠にそれはないなあ。それに、彼には既に綺麗な恋人がいるし」
(カレシだけどね)と心の中で付け加え、続けた。
「もし、まだ言ってないことがあるのなら、教えて欲しいの。ウイルス感染症だけに、少しの対応の遅れが大事を呼ぶ可能性もあるのよ」
「いえ、もうありません。本当です」
歌恋は由利子から顔をそらし、半ベソをかきながら言った。
(これは、間違いなく何かある)
そう直感した由利子は、絡め手で行くことにした。
 警戒する歌恋に対して、最初、由利子は他愛ない話から入り、そして自分の失恋経験を話した。いつしか歌恋は由利子の話を真剣に聞いていた。
「それじゃ、由利子さんは・・・」
「そうね、あなたとは逆の立場だったみたいね。でも私は、あまり相手の女性を恨む気にはなれなかったな。ま、結婚してなかったせいもあるだろうけど、彼のいい加減な態度の方に頭に来ちゃった。なーんか勘違いしてるしさ。それに、相手が妊娠しちゃったんなら、こっちが身を引くしかないでしょ」
「そうでしょうか。私がこう言うのはまずいと思いますけど、本当に好きなら絶対に譲れないと思うし、浮気相手を恨むと思うんです」
「そうやねぇ。実のところ、彼にはすでに愛想を尽かしていたのかもしれないなあ」
由利子はそういうと、自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい、生意気なこと言っちゃって」
「いや、気にしなくてもいいから。でも、真逆の立場だった私たちがここにいるのも何かの縁かも知れないね」
「でも、どうして私にそんな話を?」
「なんでだろ。掴みにしては最悪な話題よね」
と、由利子は苦笑しながら言った。
「でもね、今言える事は、その時はもう最悪だったけど、年月が経つと心の傷も癒えてきて、けっこう思い返すと楽しい思い出のほうが多かったりするんだよね。だから、歌恋さん、今のあなたの状況からは簡単に元気出してとは言えないけど、窪田さんも、歌恋さんが自分との楽しかった思い出を大事にして欲しいと思ってるって思うの。だから、自暴自棄にだけはならないで。亡くなられた窪田さんも、きっと今、それを心配していると思うよ」
 由利子の真摯な態度や心配りにようやく心を開いた歌恋は、ぼつぼつと自分のことを話し始めた。ずっと心に留めていた思いを、誰かに吐露したかったのだろう。第三者的な立場にあり、年上で落ち着いた感じの由利子は、その相手にうってつけだったのかもしれない。さらに初対面であることは、歌恋を取り巻く友人知人とは一線を画している。それが、却って話しやすかったのだろう、歌恋は自分の身の上から窪田との出会い、そして今に至るまでを、とつとつと話した。それはまるで、自分の生きた証を託しているようであった。
「そっかあ・・・」
由利子は歌恋の話を聞き終えると、ため息混じりに言った。
「辛かったね。それなのに、ひどいことに巻き込まれてしまったよね」
「いえ、私が悪いんです・・・。私が・・・課長を誘ったりしたから・・・。だから、罰が当たっちゃったんです」
歌恋は、力ない笑みを浮かべて言った。高熱が出始めているらしく、顔が赤く息も少し荒くなっている。由利子は首を振って言った。
「それは違うよ。窪田さんとのことについては二人とも悪い。倫理的にはね。でも、今のあなたの病気や窪田さんの死に関してはあなたのせいじゃないの。それに、罪を犯した人もそうでない人も、同じようにこの病気で亡くなられているんだよ。罰だ何て、軽々しく言っちゃだめだ」
「あ・・・、ごめんなさい・・・」
由利子の静かだが厳しい口調に、歌恋は恥じ入るように言った。由利子は諭すように続けた。
「昨日の放送を聴いていたのなら、この病気がどんなものかわかっているよね。もし、他にも感染したかもしれない人がいるなら、教えて。お願い。手遅れにならないうちに」
由利子の説得に、歌恋は顔をゆがめながら目をつぶった。もう一押しだと思い、由利子は続けた。
「もしこの病気が広がったら、小さい子供たちまで犠牲になるかもしれないのよ。わかるでしょ?」
「ごめんさい・・・!」
とうとう歌恋は耐えきれず、泣きながら言った。
「あんなヤツ、死んだって構わないって思ったんです。病気で死んじゃえって・・・」
「どういう事?」
由利子は、嫌な予感を感じながら聞き返した。

 その頃、ギルフォードは高柳に呼ばれてセンター長室の応接セットに座っていた。すぐに高柳が来ると言われていたのだが、なかなか姿を現わさず、暇をもてあまして、雑誌用ラックの週刊誌でも読もうかと立ち上がろうとした時、ドアが開いた。まず高柳が入ってきたが、彼はもう一人誰かを招き入れ、大柄で小太りの年配男性が入ってきた。彼はギルフォードを見ると懐かしそうに言った。
「わしを覚えているかね、アレク君?」
ギルフォードは一瞬きょとんとして少しの間老人の顔を見つめていたが、急に表情がぱっと明るくなった。
「ヤマダ先生? ・・・ヤマダ・ショウゾウ先生ですね!!」
ギルフォードは立ち上がると山田医師のところに駆け寄った。
「ヤマダ先生、あの時はホントウにありがとうございました!!」
「あの時死線を彷徨っていた青年が、こんなに立派になって・・・。わしも感無量だよ」
「こんなところで再会するなんて・・・!」
ギルフォードも感極まって言った。
「日本語、ずいぶん上達したね。あの頃はコンニチハとアリガトしか言えなかったものな」
「ヤマダ先生は頭の方がずいぶんとスッキリされて・・・、ご自慢の髭もすっかり白くなられて・・・」
「ははは、20年は長かけん。それに髪の毛は当時からだいぶ後退しとったからね」
高柳が再会を喜ぶ二人に飄々と言った。
「さて、話も沢山あることでしょうから、とりあえず二人ともお座りください」
高柳に言われて二人はソファに向かい合って座った。高柳は山田の横に座ると言った。
「山田先生は、緊急時には僕らに協力したいという申し出をしてくださったんだよ。K大の勝山先生が話を持ちかけられたそうだ」
「ヤマダ先生の協力は心強いですね」
ギルフォードが山田の方を見ながら嬉しそうに言った。高柳が付け加えた。
「山田先生は最初に秋山雅之君を診察された方だよ」
「そういえば、調書にヤマダ医院ってありました。まさかあれが先生の病院だったとは」
それを聞いて、山田は少し曇った表情で言った。
「日曜の夜に急患でやって来てね。インフルエンザを疑ったが、まさか出血熱とは思わなかったんだ。今まで散々出血熱患者を見てきたのに、全くもって不覚だったよ。二次感染が出なくて幸いだった。まあ、うちはその対策はちゃんとしているつもりだがね」
ギルフォードはそんな山田を気遣って言った。
「日本に住んでいて渡航暦もない少年が、そんな病気に罹っているなんて、誰だって思いませんよ。しかも、最初は発熱くらいで特に症状はないんですから、僕だって同じ判断をしたと思います」
山田はわっはっはと笑うと満足そうに言った。
「君に弁護されるなんて、ますます感無量だね。しかし、君が生き延びたという噂は聞いていたが、良くあの状態から生還したものだ」
「アメリカに緊急送還されてから、僕は半年近く病院にいましたが、しばらくはひどい状態でした。それでも生き延びられたのは、先生が血清療法に踏み切って下さったおかげです。それについて先生はかなり批判を浴びましたが、僕が生きたのはそのおかげだったと確信しています」
「しかし、新一君をはじめ、救うことの出来なかった人もいたんだ。生存者が7人の内の4人では、自然治癒の可能性も否定できんからな」
「シンイチ・・・」
ギルフォードは、一瞬声を詰まらせたがすぐに続けた。
「彼の病状は進みすぎていました。他に日本人親子がいましたが、彼らも先に感染していた父親の方が亡くなったと聞いています」
「彼らは気の毒だったな。アフリカの医療事情の視察に来て、ウイルス禍に巻き込まれ足止めを食った挙句に感染してしまったのだからね」
「父親はあの混乱の中、率先して患者の世話をしておられました。身内すら病気を怖れて近づかなくなっていたというのに。彼のおかげで精神的に救われた患者も多かったと聞きました。本当に立派な方でした。残念なことです。ただ・・・」
そう言うと、ギルフォードは少し首をかしげた。
「わずか14・5歳の子どもを何故つれて来たのでしょうか。リスクが高すぎると思うのですが」
「実は、わしもそれが気になって、一度その父親に聞いてみたんだよ。何でも自分の後を継がせるために、世界の窮状を実際に見せていたらしい。それはその子のたっての希望でもあったらしいがね」
「それにしても・・・。まあ、あの国はそれまでアフリカでは比較的安定した国だったってこともあるのでしょうけど。ところで、後を継がせるって、何の仕事だったんでしょうか」
「それが、何でも・・・」
山田がそう言いかけた時、ドアをせわしくノックする音がした。
「篠原です。ちょっといいでしょうか?」
「ずいぶんと慌てているねえ。何かあったのかな? どうぞ、入りたまえ」
高柳が許可すると、バタンと戸が開いて由利子が入ってきた。
「高柳先生、アレク、笹川さんが言ってくれました。感染の可能性のある人が、もう一人います。至急手配をお願いします」
そう一気に言った後、由利子は山田に気がついて会釈をし、戸惑ったように高柳を見た。
「あ、あの・・・」
山田は由利子を促していった。
「わしに構わず用件を済ませなさい」
「はい、申し訳ありません」
由利子はもういちど山田に会釈をすると、高柳の近くに小走りで近寄り、小声で言った。
「笹川さんが勤めている会社、ハナマル・クリエイティブ営業部の斉藤孝治です。窪田さんとの関係に気がついていて、笹川さんを脅して無理矢理関係を持ったそうです」
「それはいつ頃のことだって?」
「先週の金曜だそうです」
「旅行前ですか」
話を聞いて、ギルフォードが肩をすくめながら言った。
「それまでにササガワ・カレンが感染していなかったら良いのですが、おそらくサイトウ・コウジ君はクロでしょうね」
高柳は立ち上がってディスクの電話を取った。
「田中君、いるか? 至急隔離の手配を頼む。ハナマル・クリエイティブ営業部の斉藤孝治だ。笹川歌恋からの感染が濃厚なんだ。よろしく。お疲れさん」
高柳は電話を切るとため息をついた。
「これで昨日から発覚した感染者は3人内ひとり死亡、感染可能性者が5人か。しかもこの5人はまだ所在が知れていないと来た。もし、未だ発表を躊躇していたらと考えると、薄ら寒くなるよ」
「今でも充分に背筋に薄ら寒いモノを感じますよ」
ギルフォードは真剣な表情で言った。
「やはり何か隠していたでしょう?」
「しかし、なんで彼女はそんな大事なことを言ってくれなかったのかね」
高柳が腕組みをしながら渋い表情で言った。ギルフォードは、少しだけ右肩をすくめると言った。
「今朝方質問した時は、質問者が男性ばかりで内3人が刑事でした。事情が事情だけに、女性としてはかなり辛くて言いにくいことなんですよ」
ギルフォードはそう弁護したが、由利子の頭には歌恋の言った言葉が離れなかった。
『あんなヤツ死んだって構わない。病気で死んじゃえ』
由利子は違う意味での薄ら寒さを味わっていた。
「さて、ユリコ。紹介します。ヤマダ医院のヤマダ・ショウゾウ先生です。僕の命の恩人ですよ。ヤマダ先生、彼女はシノハラ・ユリコさんです。僕の助手を務めてもらうことになっています」
ギルフォードに紹介され、我に返った由利子は山田に一礼して言った。
「篠原です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
山田も笑みを浮かべて言った。由利子はギルフォードの恩人と聞いて気になったので、迷わず尋ねた。
「ところで、命の恩人というのはどういうことですか?」
「昔、僕がアフリカで風土病に罹った時に、治療して下さったんです。彼が居なかったら、僕はココにこうしていることはなかったでしょう」
「ええ? そうだったんですか」
と言いながら、先週高柳から聞いたことを思い出していた。
(ラッサ熱に罹った事があるってこのことだったんだ。じゃあこの方が居なかったら、私もまたこうしてここにいなかったわけよね)
由利子は運命の不思議さを思って、改めて山田の顔を見た。

 男は心もとない足取りで、しかし、機械的に駅を目指して歩いた。コンコース内に入るとエスカレーターに乗り、喘ぎながら横のベルトに捕まった。彼の前後に乗った人たちが、彼を気にしてちらちらと様子を伺った。女の子が男を指差しながら心配そうに言った。
「ママ、あのおじちゃん、ぐあいがわるそうだよ」
「シッ! 要らないこと言わないの!」
と、母親は急いでたしなめた。
 エスカレーターから降りると、男はまたゆっくりとした歩調で歩き出した。彼は、徐々に息を荒げながらひたすら前に進んだ。
 夕方のラッシュは朝ほどではないが、それでも駅の中は人であふれていた。会社員・公務員、学生や生徒、買い物帰りの主婦、駅員や店員・・・。家路を急ぐ者、これから仕事に向かう者、友人たちと談笑する者、人を待つ者、etc...。誰もが日常の中にいた。誰も、そこに人の形をした災厄が近づいているとは思ってもいなかった。そんな人々の中を、男はゆっくりと歩いていた。
 ふと男は立ち止まり、いきなり咳き込んだ。傍を歩く人が嫌そうな顔をして彼を見た。しかし、特に声をかけようとするものはいない。彼の容姿がいかにもチンピラと言った風情だったからかもしれない。誰だってヤバそうなヤツとは関わりあいたくないものだ。人々は彼から顔を背けて横をすり抜けて行った。その中の一人、会社員らしき青年の眼鏡になにか付着したらしく、彼はそれを手で拭って確認した。手には赤いものがうっすらと付着した。青年は嫌な顔をして、歩きながら眼鏡をハンカチで拭きそのままそれをかけると、足早にその場を離れた。
 男は咳が治まると、軽く口を覆っていた手を外した。その手には赤黒い血がべったりとついていた。男は半笑いを浮かべて黒い背広の裾でそれを拭った。彼の口の周りも血で濡れ、鼻からは夥しい血が流れていた。男は右手で口と鼻を覆い隠し、再び歩き出した。だが彼の向かったのは駅の公衆トイレだった。男は個室に入ると、トイレットペーパーを大量に巻き取り、口の周りと鼻を拭い軽く鼻をかんだ。あっという間に紙は血だらけになった。それを便器に放り込むと水を流した。個室から出ると洗面所で顔を洗いハンカチで濡れた顔を拭った。だが鼻からの出血が止まらず、男はハンカチで鼻と口を押さえながら公衆トイレから出て、再び駅のホームに向かって歩き出した。しかし鼻からの出血が激しすぎたため、血は彼の顔を伝い床に落ち、彼の歩いた後に点々と血の跡を残すことになった。さすがに周囲の人たちが異変に気付き始めた。会社員らしい年配の男が、彼に声をかけた。
「あんた、大丈夫か?」
男は顔を上げ、ゆっくりと彼の方を見た。男と目の合ったその年配の会社員は、ぎょっとした。男は顔色が悪く、しかもあちこち内出血をして青黒い染みになっていた。鼻と口を覆ったハンカチも血まみれで、それだけでも恐ろしい形相なのに、その目は真っ赤に充血し、血の涙が何本もの筋を描いていた。男は立ちすくむ会社員の方に身体ごと向くとゆっくりと言った。
「ダイ、ジョウブ、ですよ。これも、ケイカクドオリ、なんで。おれ、ばくだ、ん、なんで」
男は立ちすくむ会社員を尻目に、またゆっくりと歩き出した。会社員は恐怖に駆られながら、去っていく男の後姿から目が離せなくなっていた。彼は蒼白な顔で、目を見開いて震えながら突っ立っていた。彼の脳裏には昨日の緊急放送で聞いた病気のことが浮かんでいた。男の行く手では、既にあちこちから短い悲鳴が上がり、男の周囲には空間が出来始めていたが、まだ誰も男の症状が何であるか気付いてないのか、平和に慣れて危機管理になれていないのか、動作に緩慢さが見られた。会社員はその様子に違和感を感じながらも叫んだ。
「新型の出血熱だ! みんな、その男から離れろ!!」
彼の警告が発端となって、人々はようやく一斉に男の周囲から離れた。しかし、あろうことか幼児が一人、逃げ遅れて男の前で転んだ。その距離3m弱。男はそれに気付いてか否か、機械的な歩みを続けている。その遥か後方で、数人の女性と談笑しながら歩いていた女性が、それに気付いて悲鳴を上げた。友人との話に夢中になり自分の子どもが彼女の傍から離れたことに気がつかなかったのだ。
「きゃあ、星斗くん! いやっ、逃げてぇ!」
彼女はそう叫びながら子供の方に駆け出したが、ヒールを履いた女性の足では到底間に合いそうになかった。しかし、周囲の人々の中で誰もその子を助けようとする者はいない。星斗はその場に座り込んで火がついたように泣き出したが、男は歩みの方向を変えることはなかった。その時、人垣をかき分けて壮年男性が入ってきた。彼はすばやく星斗を抱きかかえると猛ダッシュして人垣に飛び込んだ。それと男がつんのめって倒れたのがほぼ同時だった。男は床に崩れ落ちると、血を吐きながら苦しんでのたうち回った。件の壮年男性が星斗を抱いたまま叫んだ。
「みんな、もっと後ろに下がれ! 危険だ!」
「星斗君!」
と、幼児の母親が駆け寄ってきた。
「来るな! おれが連れて行く。あんたは近寄るな」
男性はそういうと、母親のほうに足早に歩いて行き、星斗を渡して言った。
「自分の子どもくらい、ちゃんと見とけ」
「すみません、すみません! ありがとうございました。本当にありがとうございました・・・」
母親は子どもを抱きかかえると、泣きながら何度も礼をした。彼女の友人たちも心配して近寄ってきた。
「しばらく抱きしめてやりなさい」
男性はそういうと、再び惨劇の場に走って行った。
 男はしばらく苦しんでいたが、口や鼻から大量の血液を流しながら痙攣し、こと切れた。一瞬の静寂の後、混沌が訪れた。その場から逃げようとするもの、悲鳴を上げて泣き出すもの、携帯電話で警察や救急車を呼ぼうとしている者、逆に不埒にも遺体写真を撮ろうとデジカメや携帯電話を取り出す者・・・。異変を察してやってきた駅員達がなんとか整理しようと頑張っているが、もはや手に負えない状態になっている。
 さっきの壮年男性は、その騒ぎの中で電話をかけていたが、電話を切ると手帳を掲げ、よく通る声で叫んだ。
「警察のものです。みなさん、落ち着いて聞いてください。この場所はしばらく封鎖されます。電車もしばらくは動きません。この男性の傍を通った人や今この周辺にいる人たちは、感染している可能性がありますからここから去らないでください。特にこの男性に触れたり体液がかかったりしてウイルスに曝露された可能性のある方は、申告してください」
警官の言葉が合図になったかのように、自動改札口のマークが一斉に通過不可の×印に変わった。改札前広場は、蜂の巣を突いたように騒然となった。

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