5.告知 (2)間引き
講演会が終わって、華恵は友人たちと一緒に同施設のティー・ルームに入った。
しかし、そこで華恵はさきほどのことを思い出してぼうっとしている。友人たちはそんな華恵に声をかけた。
「いいわねぇ華恵ちゃん、長兄さまから直接お話をされて、その上手まで握られちゃってさ」
「そうよ、私なんか半年も前に入心したとに、今日やっと、華恵ちゃんの近くに来られた長兄さまを始めて間近で見れたとやけんね」
しかし、講演会会場から離れて冷静さを取り戻した華恵は、彼女らとは違う視点で考えていたらしい。
「どうして私のことがわかったんやろか・・・」
華恵はぼそりとつぶやいた。それを聞いて友人たちは驚いた顔をして言った。
「何ば言いよっとね。それが長兄さまのお力なんやから」
「長兄さまのお力を自分で体験しているのに、信じられんと?」
二人から言われて、華恵は驚いて慌ててそれを打ち消した。
「疑っとぉ訳やないとよ。やけど、あまりにも的を射ているから驚いちゃって」
「超能力ちゃあそういうもんやないと? じゃ、もし入心する気になったらいつでも私らに言うてね。教会の決まりで無理に誘ったらイカンことになっとるけんね」
「うん、わかった。でも、もう少し考えさせてね」
華恵は、そう言って文字通りお茶を濁すと、ほうっとため息をついた。
(まったく、あのバカ夫ったら、今頃何をやっているんだか)
華恵はそう思った後、冷え切った関係にありながら、まだこうやって夫のことを気にかけている自分に気がついた。
さてその夫である窪田だが、異常に気がついたハーブ園の係員が駆けつけて、園内の救護室に連れて行かれた。窪田はそこでしばらく休むとなんとか身体を回復させた。起き上がった窪田に歌恋が言った。
「栄太郎さん、今回はもう予定を切り上げて帰りましょうよ」
「ええ? もう帰るの? まだお昼にもなっていないじゃない。大丈夫だよ。」
窪田はそう言いながら元気を装って立ち上がった。
葛西がジュリアスと共に、屍骸の山からサンプルを採取していると、背広に長靴と感染防止用コートにマスクのみという軽装の男がやってきた。
「こんにちは、お疲れ様です。害虫の屍骸の処理に参りました」
男は葛西たちの近くまで来ると言った。ジュリアスと葛西は、すぐさま立ち上がって男の方を見た。
「市の保健所、衛生対策課の中山です」
男は汗を拭き拭き自己紹介をした。
「私はK署の葛西です。この方は、アメリカはH大のウイルス学者、ジュリアス・キング先生です」
と、葛西が自分たちの紹介をした。
「ほお、H大からわざわざ・・・」
と言いながら、中山は防護服から覗くジュリアスの顔を見て少し驚いた表情をしたが、ジュリアスはそれを意に介さず作業に戻った。一方、葛西はそのまま中山に尋ねた。
「えっと、お一人ですか?」
「いえ、車の方に数名待機させていますが・・・」
「そうですか。って、そりゃそうですよねえ。で、ですね、今はサンプルを採取中なので、ちょっとお持ちください」
「わかりました。・・・しかしなんとまあ、こりゃあ、ばさらか死んでますなあ・・・」
中山は黒光りする山を覗き込もうとしながら言った。作業続行中のジュリアスが驚いて制止した。
「危険です。致死性のウイルスを持っている可能性がありますから、その装備ではあまり近くに寄らないほうが無難です」
「おっと、失礼失礼。しかし、警察の方も大変ですなあ」
彼は、任務に戻り消毒に精を出す警官たちを見ながら言った。
「あたしらのするような仕事までせなならんとですなあ」
「あれはカムフラージュを兼ねてのことですよ。昨日は数名が制服で立っていたのですが」
葛西が言った。
「こういう場所を警備する場合、制服よりあの方がしっくり目立たないですからね」
「そういえば、市内で妙な噂が流れておるようですな」
「しかも、全くの出鱈目じゃないことが悩ましいところです」
葛西は足元の黒い小山を見ながら言った。
「くぉ~ら、葛西、ちゃっと採取を終わらせにゃーと、保健所の人たちの仕事が進まにゃーでおーじょうこくだろうが」
足元でジュリアスが葛西をちらりと見ながら言った。
「あ、すみません。中山さん、もう少し待ってくださいね」
葛西は焦って座り作業を再開した。
数分後、ジュリアスが言った。
「そろそろ併せて50サンプルくらいは集まったんじゃにゃあか?」
「おっと、調子に乗って採りすぎましたね。そろそろ打ち止めにしますか」
葛西がそう言って立ち上がろうとした時、屍骸の山が突然ガワガワと動いて中から何か飛び出してきた。ジュリアスがとっさに立ち上がって、軽装備の中山を庇いながら叫んだ。
「葛西、メガローチだ! 捕虫網でちゃっと捕獲してちょお!」
「了解っ!」
葛西は急いで網を手にして蟲を追った。しかし、敵はすばやく方向転換して近くの草むらに姿をくらましてしまった。
「くっそお~!!」
葛西は、悔しそうに草むらの表面を網で数回叩きながら言った。それを見てジュリアスが大声で聞いてきた。
「逃げられたのかね~」
「はい! すみませんっ」
葛西も大声で答えると、駆け足で持ち場に戻り、続けて言った。
「でかいのにまだ幼虫のようだったけど、すっごくすばしっこくて・・・」
ジュリアスが腕を組みながら言った。
「今までこの中で、じっと逃げるチャンスをうかがっとったんだな。頭のええヤツだて」
すると、中山が不思議そうに尋ねた。
「頭が良いって、先生、通常より多少でかいとは言え、たかが虫ケラじゃないですか」
「昆虫を舐めちゃいけませんよ、中山さん。例えはしご状神経系で脳と呼べるような上等なものがなくたって、連中は思いがけない利口さをみせたりするもんです。それより気になるのは・・・」
ジュリアスはそう言いながら、火ハサミで屍骸の山を丁寧にかき分けた。戻ってきた葛西がそれを覗き込む。
「ほれ、見てみ」
ジュリアスは、ピンセットに持ち替えで指し示しながら葛西に言った。
「蟲の残骸だがね」
「ひょっとして・・・」葛西がしかめっ面をしながら言った。「共食いをしていたとか・・・?」
「おそらくそうだろうて。しかも、ヤツはここで孵ったようだて」
ジュリアスが葛西に示したその場所には、数体がバラバラになった残骸と卵殻があった。すかさず葛西は写真を撮るために、カメラを構えた。
「写真を撮ったら、この卵殻と食い残しの残骸も採取しよまい」
ジュリアスが葛西の横で言った。
(うひゃあ、もうカンベンしてくれぇ~!)
葛西は心の中で叫んでいた。
ギルフォードが順調に仕事を進めていると、また電話が鳴った。
「今日は日曜なのにやたら電話がかかりますねえ」
ギルフォードがため息をつきながら電話を取った。しかし、電話の主は由利子だったので、彼は少し安心したように電話に出た。
「ハイ、ユリコ! おはようです。早いですねえ」
「早いって・・・」由利子は笑いながら言った。「もう11時ですよ」
「君は疲れているんだから、それくらいまで寝ていてもいいくらいですよ」
「あまり遅くまで寝ると、却って体調が悪くなりますから」
「ちゃんと眠れましたか?」
「ええ。なんとか・・・」
由利子は答えた。実は、思い切り泣いたら泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったのである。
「それは良かったです。睡眠は何よりの滋養ですからね・・・。ところでどうしたんですか?」
「あの、美月のことで・・・」
「はいはい」
「あの、ここ2日ほどあんな状態で、美月のことにまで気が回らなくて・・・。あれからずっと病院に預けっぱなしなんで気になって・・・」
「この前言ったように、あの病院はミツキちゃんの罹りつけでしたし、ハル先生もすごく良い方なんで大丈夫、問題ないですよ。経過も順調みたいですし・・・」
「それでですね、もしも・・・、もしもですが、彼女が完治しても美葉が帰って来ない場合は・・・」
「そうですねえ。そうそう預けたままにも出来ないですよね」
「ウチには猫が居るから、ちょっと無理そうなんで、困ったなあと・・・」
「ま、退院まではまだかかりそうですから、そうなったらそうなったでその時に考えましょう」
「はあ。でも・・・」
「今、悪いケースを考えたって意味ないでしょ」
「まあ、そういえばそうですけど・・・。ところで、電話して大丈夫でした? 日曜日だからひょっとして、まだお休みになってたんじゃあ・・・」
「大丈夫、起きてましたよ。まあ、休日の電話は基本シカトするのですが、ユリコやジュンからでしたらお取り込み中でもお取り組み中でも出ますよ」
「お取り組み中は出なくてけっこうです・・・って、まさか今・・・」
「残念ながらというか、今日は朝から研究室に居ますよ」
「ええっ? 日曜なのに?」
「日曜しかゆっくり仕事が出来ないと思って・・・」
「ジュリー君もご一緒ですか?」
「ああ、彼は今日、ジュンと一緒に昆虫採集ですよ」
「昆虫採集・・・? ああ、例の蟲ですか」
「・・・そうです。なんで二人して僕の大嫌いなものを・・・」
ギルフォードは、若干声のトーンを落として言った。なんとなくマズイと思った由利子は、話題を変えた。
「しかしまあ、なんかいろいろ忙しいですね、アレクは」
「そうなんですよ。それなのに、また今日頼まれ事をされました」
「で、知事からですか、高柳先生からですか?」
「よくわかりましたね。さっき、知事から直々電話が入って・・・」
「やっぱり」
「今日の夕方に例の病気について公表することに決まったと告げられまして、その前に、アキヤマさんに会ってうまく説明して欲しいと」
「秋山さん?」
「あ、例のマサユキ君のお父さんです」
「ああ、そうでしたね。で、なんでまた、アレクに?」
「僕は一度お会いしてますからね。マサユキくんとお祖母さんが亡くなられた時に感対センターでお会いして、色々説明させていただきました。それで、面識がある分初対面の人が説明するよりいいだろうと言ってました」
「いったい、何を説明するんですか?」
「この病気について公表したばあい、一番影響があるかも知れない人物が、アキヤマ・ノブユキさんなんです。何よりその病気でご家族を三人亡くされてますし、それはすでにご近所で噂になっているようです」
「まあ、家族が次々と亡くなって家が消毒されたりすれば、ご近所は当然伝染病の疑いを持ちますよね」
「そうなんです。しかも、妻のミチヨは、それをばら撒く行為に及び、ついには公園での事件を引き起こしました。もし、これが世間に知れた時のことを考えたら・・・。もちろん警察や関係者から漏れることはないでしょうけど、キワミのような連中がうろついている限り安心はできません。そういう特殊なケースなので、知事が公表後の悪影響を心配されているんです。で、僕にそこら辺を説明しろと」
「うわぁ、また難しいことを頼まれましたね」
「まったくです。顧問の仕事ってこういうことでしたっけ?」
ギルフォードが釈然としない声で言ったので、由利子は苦笑しながら答えた。
「多分違うと思います」
「それで電話をしてみましたら」
「結局引き受けたんですね」
「はい」
「で?」
「マサユキ君とお祖母さんの遺骨が帰って来たので、昨日、ようやく葬儀を終えたとおっしゃいました。自宅で身内だけの密葬だったようですが」
「遺体じゃなくて遺骨で帰って来た?」
「はい。仕方ないんです。感染力が強いですから、ご遺体でお返しすることは危険ということで」
「そういえば昨日、葛西君に言ってましたね。思い出しました」
「それで、『大事なお話がありますので、ご霊前にお参り方々お伺いしたい』と言いましたら、快く受け付けてくださいました」
「あの、差し支えなかったら、お参りに私もご一緒していいですか?」
「え?」
ギルフォードは、思わぬ由利子の申し出に驚いた。
「私がこの事件に関わる発端になったのが雅之君なんで、なんとなく無縁じゃないような気がして・・・」
「なるほど、日本人らしい発想ですね。じゃあ、会う時間と場所を決めましょう。そこまでお迎えにあがります」
「いいんですか?」
由利子は喜んで言った。結局、大学から秋山家に向かう途中に由利子のマンション近くを通るらしいことがわかり、また、ギルフォードが由利子のマンション前まで迎えに行くこととなった。
講演会を大成功のうちに終えた碧珠善心教会教主は、F支部の自室に戻り日本茶で一服した後、先ほどの講演のVTRを見て細部を検証していた。そばにはお気に入りの遥音涼子が立っているが、そのほかには人の気配はない。ここは完全なプライベートルームなのである。とはいえ、過度な装飾も奇をてらった細工もなく、白と黒を基調としたシンプル且つモダンで機能的な居間といった感じだった。彼は応接セットのソファに座り、足を組みさらに腕組みをして大型の薄型テレビの画面を見ていた。
場面は窪田華恵との対面シーンに差し掛かっていた。教主は愉快そうに言った。
「どうです? なかなか劇的な場面でしょう? あなたにはまやかしは効かないだろうから聞きますが、タネはわかりますね?」
「ホット・リーディング・・・でしょうか」
「正解。簡単な事前調査です」
「でも、長兄さまのカリスマ性があったればこそ、あの演出が生きたのですわ。それよりあの広い会場いっぱいの群集の中から、よく彼女を一瞬でみつけられました。私にはそのほうが驚きでしたわ」
「ま、人の顔を瞬時に識別する能力は、誰かさんの専売特許じゃないってことですよ。さて、これでまた多くの新たな信徒を得ることができるでしょう。そろそろ教団宛に問い合わせが来始めているのではないでしょうか」
「講演で教団のパンフレットなどを配れば簡単ですのに、いえ、それよりも講演会で入心希望者を募ればいいのに、なぜ、いつもまったくそういうものを表に出そうとしないのですか?」
涼子の問いに、教主はふっと笑っていった。
「心から入心を願うものは、わずかな手がかりからでもコンタクトを取ってくるものだし、こちらもそのレベル以下の希望者は必要ないからです。それにもうひとつ重要なことは、行く先々で布教活動をしているとして、不要にマークされる可能性が出てくるということです。そういう面倒くさい状況になるのは避けねばなりません。あくまで入心は自由意志でなければね。でないと結城と我々の関わりを完全に切り離している意味がないでしょう?」
「結城と・・・」
涼子は夫の名を聞いて表情を曇らせた。
「遥音先生、あなたは、まだあの不実で愚かな男のことが忘れられないのですか・・・」
教主に指摘され、涼子は目を伏せた。教主はヴィデオの映像を切ると言った。
「あなたまであの男と同じレベルに墜ちてはいけない。さあ、こちらに来なさい。私の横に座ることを許しましょう」
「でも・・・」
涼子は躊躇した。教主は右手を差し出すと涼子を見つめ、優しい笑顔を浮かべて言った。
「さあ、涼子、いらっしゃい」
教主の言い方は柔らかいが、その底には有無を言わせず彼女を従わせる何かがあった。涼子はゆっくりと歩き、教主の右横に座った。そのまま、魂を抜かれたように動かない。教主は涼子のほうを向き、右手で彼女の頬に優しく触れながら口調を変えて言った。
「君の夫は君を裏切った。聡明で美しい君を・・・。彼の末期は悲惨なものであるべきだ。そうだろう?」
涼子は何も答えなかった。
「涼子、君は私とひとつの想いを共有している」
教主は涼子の答えを待たずに続けた。
「君も私もアフリカやアジア、南米、そしてロシアで悲惨な状況を目の当たりにした。君は海外協力で、私は父について行った先々で。そこで思い知らされた。死に行くものを救う術のないもどかしさ、そして、己の無力さ。そこに蔓延する無知と貧困・・・。その前には道徳観も宗教心も愛すらも否定され、私の心に残されたものは希望ではなく絶望だった。そして得た結論は、増え続けるヒトという種の数をを減らすこと。それ以外人類も地球も救う術はない。君と私の結論は一致した。父・・・教祖の入滅後、私はその遺志を継ぎながらもその傍らで君と人類を間引きする方法を思案し、その結果、たどり着いたのは人類に決定的な天敵を作ること。その結論として、その天敵には猛獣ではなくナノワールドの住民を選んだ。そして今、私たちの計画はようやくスタートラインに立つことが出来た。何れこのウイルスは世界に広がり、人口過密地に壊滅的な被害を出すことになるだろう。それが私たちの計画の最終段階だ。そして、この計画が動き始めた事の功労者は、ほかでもない、君の夫だね」
教主が話続ける間、涼子は黙って微動だにせずに座っていた。教主はまたふっと笑って言った。
「この期に及んで妨害はいけないよ、涼子。最初に日本各地で撒いたウイルスは、君が無毒なものにすり替えていたことはわかっているんだよ」
涼子が一瞬身じろぎした。教主は笑顔のまま涼子に問うた。
「ひょっとして恐ろしくなったのかい?」
「・・・。私たちのやっていることは、結局、貧困に喘ぎ衛生状態の劣悪さに苦しむ善良な人たちを、もっと苦しめるだけではないかと・・・」
「善良? 自分の欲望のままに生き、繁殖し、その無知さからさらに最悪な状態に自らを追い込んでいる連中が、かね」
「でも、そうなったのは、彼らのせいではありません」
「そうかもしれない。でも、結果的に彼らが地球の害虫と化していることには変わらない。そうだろう?」
「それは・・・」
涼子は、それを否定できずに口ごもった。
「君は本来優しい女だ。決心が揺らぐこともあるだろう。でもね、下手な小細工をすると、君の夫がまた罪を重ねることになるよ。覚えておきなさい。それに君の妹の病気についての研究も続けたいだろう?」
涼子は、もはや平静を保つことが困難になっていた。うつむいたまま両手を膝の上で握り、傍からもわかるほど震えていた。額には汗が浮かんでいる。教主はそんな涼子の顔を両手で掴み、無理やり自分の方に向けた。教主の両目に見据えられ、涼子は身体の自由を失った。
「君は、もう私から逃れることは出来ないんだよ」
言葉とは正反対に、教主は慈愛に満ちた笑顔を浮かべて言った。
秋山家には、信之を心配して彼の姉と妹が来ていた。ある程度子どもに手のかからなくなった姉の村田聡子(さとこ)は、弟が退院してからずっと傍についており、未婚である妹の多佳子は、葬儀のため仕事を休んで一昨日から帰って来ていた。
信之は母親と息子をほぼ同時に亡くし、妻は行方不明、自分は危険な感染症の疑いで1週間の隔離生活を余儀なくされた。その後、なんとか退院したものの、相次ぐ妻の事件とその死で決定的なダメージを受けた彼の精神は、かなり参っていた。無事に葬式を終えることだけが、彼の目標と支えになっていたが、問題の遺体がなかなか帰ってこない。そして、ようやく帰って来た遺体はすでに遺骨になっていた。最も、その説明は受けていたのだが、それが現実となって突きつけられた今、想像以上の悲しさと辛さが信之を押しつぶさんばかりに迫ってきた。
それでも昨日行われた葬儀では、信之は気丈にもそれを采配していた。しかし、噂が広がっているのか、密葬とはいえ親しい人には連絡しており、二人一緒の葬儀であるのに、弔問客の少ない寂しい葬儀となった。経文を上げに来た坊主も、読経を早々に切り上げてそそくさと帰ったような気がした。それでも母の珠江の方は遠くからの友人が数人訪れた。だが、雅之の方は担任と校長、そして、同じクラスと遊び仲間という生徒三人が夕方訪れただけだった。校長は、挨拶と焼香を終えると早々に引き上げた。担任も早く帰りたそうだったが、生徒3人がなかなか祭壇の前に手を合わせたまま動かないので困っていた。しかし、同級生の死を悼む彼らの思いをむげには出来ない。彼女は生徒達の後ろに座ったまま、間が持たないで心持そわそわしていた。
生徒三人は良夫・彩夏・勝太だった。彼らは雅之の霊前に今までの経過と自分らの決心を伝えに来ていた。彼らは彼らなりに、自分らに関わってきた事件と対峙する決心をしていたのだ。もちろん、彼らは自分らの関わった事件が、いずれ世界を揺るがすテロリズムであるとは夢にも思っていなかった。しかし、ただ病気が流行りつつあるだけではないことは、わかっていた。
信之は二人の葬儀を無事に終えて、ほっとしていた。後は妻の葬儀だけだ。妻の美千代は3年前両親を事故で亡くしており、彼女には兄弟がいないので、なんとしても自分がやり遂げねばならない。信之は折れそうな心をなんとか奮い立たせていた。
葬儀から一夜明け、ギルフォードと名乗る男から電話が入った。最初誰か思い出せず胡散臭く思ったが、話を聞いているうちに、あの時、感染症対策センターで話を聞いた英国人の教授であることがわかった。彼が言うには、今日、信之の家族を奪った感染症について、知事が告知するという。そのことについて説明したいので、会えないかという用件だった。信之は、ギルフォードの礼儀正しい電話の応対や会った時の印象から、何の疑いも持たず快くそれを承知した。
しかし、それからまたかかってきた電話に出た後、信之の様子がおかしくなってしまった。何かに怯えているような風情で妙にそわそわしている。その変化に聡子と多佳子は気がついたが、あの事件以来不安定な信之には今までもそのようなことが何度かあったので、そこまで不審に思っていなかった。だが、約束の三時が近づくと、信之の様子がさらにおかしくなってしまった。しかし、外国人の客と聞いて、来客の用意に余念がない聡子と多佳子は、うっかりそのことに気付かなかった。三時少し前からワクワクして門辺りの様子を見ていた二人は、黒のスーツを着て白いユリの花束を持った白人男性が、やはり黒のスーツとワンピースの女性二人を従えてやってきたのを確認した。彼は門の前で立ち止まると、モニターのボタンを押した。すかさず聡子が「は~い」と応答した。男はモニターに向かい、にっこり笑って言った。
「Q大のギルフォードです。知事の代行で来ました」
「は~い、どうぞいらっしゃいませ。門扉も玄関のカギも開いてますから~」
モニターから、すぐに女性の明るい声がしたが、次いでモニターから聞こえたのは、うって変わって切羽詰った声だった。
「多佳子、どうしたの? え?信之が??? そんな、うそっ!!」
その声はすぐに悲鳴に変わった。三人はそれを聞いて一瞬顔を見合わせた。
「何かあったようです。急ぎましょう」
ギルフォードが急いで門扉を開けて玄関に駆け込んだ。二人もあとに続く。玄関内に入ると、すぐに祭壇を飾った部屋が見えた。その部屋の方から、信之の名を呼ぶ悲痛な女性の声がした。ギルフォードは横の靴箱の上に花束を置き、土足のまま家の中に駆け込んだ。祭壇のある部屋と続きの間の襖が開け放され、腰を抜かした和服の女性と、立ったままオロオロする女性の姿、それに見え隠れして宙ぶらりんの足が確認できた。
「これはマズイ!! サヤさん来て! ユリコは玄関にあった電話で救急車を呼んでください!」
紗弥と由利子は、ギルフォードに呼ばれる前から彼の後に続いていたが、紗弥はそのまま走って部屋に向かい、由利子は電話をすべく玄関に戻った。
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