3.侵蝕Ⅲ (9)刈り取る者
「それで、帰る前に二人の引ったくりに遭ったんですね」
富田林(とんだばやし)は由利子と葛西から状況を聞きながら念を押した。由利子は自分の机にもどり、富田林から調書を取られていた。
「ええ。それで何が狙われていたのかが判ったんです。で、急いでうちに帰ったら部屋の中がこんなことになっていて・・・」
「その引ったくり犯の一人と、この部屋の侵入者は同一人物と思いますか?」
「判りません。それに引ったくりの顔は二人とも覚えていますが、私は結城の方の顔を知りませんので」
「それは、こちらで入手しています」
富田林はポケットから写真を出して由利子に見せた。由利子は初めて見る結城という男の顔をまじまじと見た。それは会社のオフィスで何人か一緒に撮られたスナップ写真を拡大したもののようで、結城は穏やかな笑顔で写っていた。若干髭が目立つが端正な顔をしており、少しクセのある髪をきちんとセットしていた。その写真からは粗暴さなど微塵も感じられない、かなりインテリな男のように思えた。今彼が起こしている数々の事件と写真のイメージがどうも一致しない。
「どうかされましたか」
写真を見た瞬間黙り込んだ由利子を見て、富田林が声をかけた。
「いえ、親友の元カレの顔を今始めて見るなんてのも変だなって思って・・・。引ったくり犯とこの男が別人なのは間違いないです。でも、仲間かどうかは・・・」
「間違いないときましたか」
富田林はふっと笑って言った。
「よくいるんですよね。絶対に顔は覚えたと自信満々だったのに、いざと言う時全くあてにならないことが。本当に大丈夫なんですか?」
「ええ。私は人の顔は名前も含めて忘れません」
由利子もふっと笑って言い返した。
「もし、こいつや引ったくり犯達がいたら、たとえ人ごみの中でも見つけてやります。あなただって、これから何十年か経って多少容貌が変わったとしても、道ですれ違うことがあったら、声をかけてさしあげますよ」
葛西もフォローする。
「篠原さんの特技なんです。最初署で会った時、僕も不審に思って試してみたんですが、僕の引っ掛けにまったくかかりませんでした」
(あれに引っかかるやつなんであまり居ないと思うけどな~)
由利子は思ったが、せっかくのフォローなので黙っていた。
「で、それが狙われたというCDなんですね」
富田林は、由利子が机の上においているCD-Rに目をやって訊いた。
「そうです。これを見てみようと思ってパソコンを立ち上げていたところでした。今から見ようと思いますが、いいですか?」
「いいでしょう。確認せずにもって帰って、裏ビデオとかだったら洒落になりませんからな」
富田林はわははと笑いながら言った。もちろん彼は冗談で言ったのだが、由利子と葛西は微妙な顔をして笑わなかった。
「富田林さん」
由利子は複雑な表情で言い、ケースからCD-Rを取り出して見せた。
「これは中身がこーんなプリントなんですが、裏DVDじゃないですから」
「おおっ!」
富田林が驚きの声を上げたが、若干表情が嬉しそうだったのを由利子は見逃さなかった。
(ったく、刑事とはいえ、やっぱ男やね)
そう思いつつ、由利子はさっさとCD-Rをパソコンのディスクトレイに入れた。
(とかいって、ほんとにエロ動画が出てきたらどうしよう)
一抹の不安を感じながら、由利子はパソコン画面に向かった。ディスクが高速で回転する音が聞こえ、まもなくEドライブのウインドウが開き、中にフォルダが二つ示された。その時、葛西の携帯電話に着信が入ったらしい。葛西は急いでポケットから電話を取り出した。
「あ、アレクからです」
葛西は由利子にそう伝えながら電話に出た。
「はい、葛西です」
「ジュン、どうしたのですか? 9時過ぎたのに連絡が無いので心配してるんですけど、無事にお送りしましたか?」
「いや、それが、無事と言えば無事だったんですが・・・」
葛西は、帰り道から今までの出来事を簡単に説明した。
「では、君はまだユリコのところに居るんですね。そうですか・・・。まあ、非常事態ですから仕方ないでしょう」
「アレクはまだ病院に?」
「いえ、今研究室に戻ったところです。何故か、サヤさんと彼氏が居るのが釈然としないんですが・・・」
ギルフォードは足早で教授室に入り、そこで仲良くお茶を飲んでいる二人を見つけて言った。
「アレクの帰りを待ってたんですか?」
「そのようです。程よく酔っておられますから、放っておいても良さそうです。で、今、ユリコがそのCD-Rを見ようとしてるんですね。じゃあ、今からちょっとかけ直します」
ギルフォードはそういうなり電話を切った。
「由利子さん、アレクが折り返し電話するそうです。研究室に帰っているそうですよ。で、紗弥さんと彼氏も居るらしいですが」
「へえ? 変なの! あ、かかって来た。・・・はい、由利子です」
「オツカレサマです。しかし、次から次へと大変ですね」
「好きでトラブってんじゃないんですけどね」
由利子は少しむっとして言った。
「いや、失礼。で、CD-Rの中身はわかりましたか?」
「今から開くところです」
由利子の電話での受け答えを聞きながら、富田林が尋ねた。
「どなたからの電話なんです?」
「ギルフォード教授です。Q大の」
「へえ、大学教授のお知り合いがいるんですかぁ」
富田林は感心して由利子と葛西を見た。由利子は電話を片耳に当て、右手でマウスをせわしなく動かしながらギルフォードに説明した。
「フォルダは二つです。ひとつはエクセル、もうひとつは・・・え~っと画像データが入ってるみたいです。まあ、予測どおりですね。でも各フォルダにはデータがひとつづつですね。わざわざフォルダ分けすることもなさそうですが」
「他にもデータを入れるつもりだったのかもしれませんね。それが何らかの理由で出来なかったとか」
「なるほど。ありえますね」
由利子はなるほどと同意して言った。
「とりあえず、何が入っているか楽しみですね。早く開いてください」
ギルフォードは自分の席に着き、足を組みながら言った。紗弥が立ち上がって紅茶を入れる準備を始めた。どうやら新しいポットを買ってもらえたらしい。紗弥の彼氏も立ち上がったが、彼はまっすぐにギルフォードの方に向かった。彼はアフリカ系アメリカ人で、年の頃は30代半ば、ギルフォードより若干背が低く、かなりスレンダーな体格で少年のようにも見えた。彼の姿を正面から見た瞬間、ギルフォードの表情が一瞬明るくなったが、それはすぐに消えていつものアルカイックスマイルに戻った。男は親しげに笑って言った。
”ハイ! アレックス.久々に会ったのにずいぶんとつれないじゃないか? それって緊急な用件なのかい?”
「すみませんね、ジュリー。説明は後でしますから、今のところ僕の会話から推理してください。それから、電話向こうの人たちは英語が不得手なので、日本語でお願いします」
「わかっただなも。そうしよまい」
「・・・なんで名古屋弁なんでしょうねえ、この人は・・・」
「名古屋で育ったんだで、仕方あーせんよ」
由利子は電話口から妙な声が聞こえるので、不審そうに訊いた。
「アレクぅ? なんとなくみゃあみゃあって声が聞こえるんですけど」
「ああ、招かれざる客です」
「招かれざる客はにゃーがね。ジュリアス・キングだなも。ジュリーって呼んでちょーよ」
ジュリアスはギルフォードの顔に自分の顔を近づけ、彼の携帯電話に向かって言った。
(こんどは名古屋弁の外人? また変なのが現れたよ)
由利子は思ったが、とりあえず無視してCD-Rのデータを開くことにした。
「じゃあ、まず、フォルダ『w-h-o-’(アポストロフィ)-s』・・・『who's(フーズ)』に入っているエクセルの方を開きます。ファイル名は『名簿』です」
「めいぼ?」
「はい。えっと、・・・そうそう、名前のリストです」
「あ、わかりました。名簿ですね」
「では開きます。・・・う~ん、なんだかけっこう勇気が要りますねえ」
由利子は緊張した顔で言いながら、フォルダ名をクリックした。エクセルが開きファイル名どおり名簿らしきものが現れた。
「開きました。写真と・・・あっ、文字が化けていて判読できません!!」
「暗号化されているのかもしれませんね。そこらへんは警察の方で解読してもらえるでしょう」
「暗号化・・・ですか。富田林さん、警察の方で解読できるだろうって言ってますが・・・」
「いや、僕の管轄外だからなんともいえませんが、なんとかなるんではないですかね。多少時間はかかるかもしれませんが。しかし、見事な文字化けですねえ」
富田林は妙に感心して言った。画面をスクロールして見ると、四人の男の情報が載っている。富田林と葛西も横から画面を覗き込んだ。
「知らない顔ばかりだなあ」
富田林が言った。
「有名政治家あたりが出てくるかと期待したのに」
と、ちょっと不満そうだ。由利子はう~んとうなりながら言った。
「そうですね。それに、四人分ってのも少ないですし」
「それより問題は、それが何の名簿かということですよ」
と、横から葛西が言った。
「やはり、お仲間関係かな?」
と、由利子。
「そうですね。ユウキは仲間からも追われているらしいですから、いざと言う時の保険としてミハに預けていたのかもしれません」
「それを、どうして今取り返そうとしてるんでしょうね」
「のっぴきならない状況に追い込まれているんでしょう。孤立無援と言うのは辛いものですから、ミハを誘拐したのも案外そういう単純な理由かもしれません。逃げるなら一人の方が身軽でしょうに」
「でも、いざと言うときに人質に使えるじゃない」
由利子は不安げに言った。彼女はそれがずっと気になっていたのだ。
「そうですね。その可能性もあるでしょう。ところで、電話では画面が見えないので説明してくれませんか?」
「わかりました」
由利子はそう言いつつ、ふと周りを見回した。富田林はもう興味を無くしたのか、増岡が鑑識の一人と話しているのを見ていた。葛西は画面より由利子とギルフォードの会話の方が気になるようだった。
「男性四人のデータがあります。年齢は30代くらいから60代までまちまちですね」
「なるほど。男性という以外共通性はあまりないようですね」
「アレックス、すまにゃーけど、向こうがゆーたことを教えてくれーせんか」
横でジュリアスがもどかしそうに言った。
「事件についてはちょびっとだけど聞いておるのだもんで、おれにもなにかわかるかも知れにゃーだろう」
”ああ,うるせぇ.わかったから耳元でみゃあみゃあ言うんじゃねえ”
ギルフォードは、電話の通話口を塞いでぞんざいに言った。
”そっちのほうが君らしいよ”
ジュリアスはクスッと笑いながら言った。
「アレク、聞いてる?」
受話口から由利子の少しイラついた声が聞こえた。ギルフォードは焦って通話口から手を外した。
「すみません。外野がちょっとうるさいもんで。続けてください」
「はい。どれも特に特徴のない顔ぶれですね・・・。っていうか、みんななんか共通した雰囲気がありますね」
「同じような思想をしているからかもしれませんね」
「テロリストの幹部だったりして」
「なるほど、それなら双方が奪取したがるでしょうね」
「じゃあ、引ったくりの方は結城を追う側かもしれないと・・・」
由利子はゾッとして言った。
「葛西君が一緒でよかったわ」
「え? あいつらがテロリストの一味の可能性が? それにしてもしょぼかったというか、ただのチンピラでしたよね」
「葛西君がチンピラだったと言ってます。私もそう思います」
「世の中には金さえもらえれば何でもするヤツはいますからねえ」
と、横から富田林が言った。どうやらこちらに興味が戻ったらしい。
「そうですね。そういう類の輩でしょう」
ギルフォードが同意して言った。富田林の声がでかいので聞こえたらしい。
「とりあえず顔は覚えましたから、次にいきましょう。えっとこっちのフォルダ名は『t-h-a-n-a-t-o-s』・・・? え? 何? ざんあとす・・・?」
「thanatos(タナトス)ですね。ギリシャ神話の死の神の名前です。フロイト派心理学では、攻撃や自己破壊に傾向する死の欲動を意味する用語として使われていたようですが」
「なるほど。意味深なフォルダ名ですね。・・・あれ、これGIFイメージのくせに、ちょっとしたアプリケーション並みにデータがでかいわね・・・。ファイル名は『t-h-e r-e-a-p-e-r』」
「The Reaper(ザ・リーパー)・・・収穫者・・・刈り取る者・・・死神ですか・・・。タナトスに対してこれまた意味深ですね。それに、GIFでデータがアプリケーション並ですか」
「クリックします」
由利子はそういいながら、ファイル名をクリックした。ビューアが開いて若い男の姿が現れた。
「開きました。若い・・・と言っても30代くらい・・・かなりイケメンですね・・・。え? 何? この人? 20代にも、ううん、ずいぶんと歳をとった人のようにも見えるわ!」
”まずいぞ、アレックス!!”ギルフォードの説明を聞いていたジュリアスが急に真剣な顔で言い、電話に向かって大声で叫んだ。
「それ、開くのちょこっと待ってちょーよ」
「もう開いているようですよ」
ギルフォードは、ジュリアスが居るほうの耳を塞ぎながら言った。
「なんと、遅かったかねー」
「ユリコ、ジュリーがそのファイルを開くなって騒いでますが、異常はないですか」
しかし、電話の向こうからは、由利子のパニックに陥った声が聞こえてきた。
「うそっ、何? これ?」
「ユリコ、ユリコ! 何が起こっているんですか? ジュン! ユリコをサポートしてください! 聞こえますか、ジュン!!」
珍しく焦りながら大声で電話をかけるギルフォードに驚いて、ミルクに紅茶を注いでいた紗弥がゆっくり振り返った。
由利子は電話を握りしめたまま、パソコン画面を前に硬直していた。葛西と富田林も声もなく画面に見入っていた。富田林に至っては、口をぽかんと開けてすらいた。ビューアに出現した謎の男の画像が、いきなり映画「リング」に出てきた写真のように不気味に歪みはじめたのだ。
「ユリコ! どうしました? 返事をしてください!!」
ギルフォードは、声のしなくなった電話の向こうに呼びかけた。ジュリアスは応接セットのテーブルに置いたままにしていたコーヒーを持って来ながら言った。
「アレックス、彼女にネットとの接続を切るようにゆーてちょーよ」
「ユリコ! ネットから接続を切ってください。ジュン! そこにいますか? ジュン!!」
「何があったんですの?」
紗弥がジュリアスに尋ねた。
「由利子さんが開いたCD-Rに、不正プログラムが入っとるみてゃーだわ」
「あらまあ・・・」
紗弥は言ったが、どうしようもないのでそのままミルクティーを作る作業を再開した。
葛西は、由利子の電話から自分を呼ぶ声がしたので、急いで由利子の電話に手を伸ばした。
「由利ちゃんごめん、ちょっとケイタイ貸して」
そういうと、葛西は由利子の手から携帯電話を取り電話に出た。
「葛西です!!」
「ジュン! 急いでネットとの接続を切ってください」
葛西はそれを聞いてすぐ、はっとその意味に気付いて由利子に言った。
「由利ちゃん、急いでネットの接続を切って」
「え? え?」
しかし、すっかりテンパってしまった由利子は、葛西の言っている意味がピンときていないようだった。
「ごめん!!」
葛西は意を決して手を伸ばしモジュラージャックをつまむと、パソコン本体からケーブルを引き抜いた。
「とりあえず、切りました!」
「様子はどうですか?」
ギルフォードに言われて葛西は慌ててモニター画面を見た。
「どうかしたんですか?」
と、増岡が異変に気がついて走ってきた。既に謎の男の画像は完全に歪み、次いでパソコン画面の中央に吸い込まれるように消ていった。と、同時にモニター画面が不吉なブルースクリーンになって左上端から白い文字で「Thanatos」という文字がズラズラと高速で流れ始めた。
「男の画像が消えて、ブルースクリーンに”Thanatos”という文字が次々と出て来て画面を埋めています」
「画像が消えて、青い画面に文字がどんどん出ているらしいですよ」
ギルフォードはジュリアスに説明した。ジュリアスは額に手を当てていった。
「そりゃあまずいがね。電源を落とした方がええて」
「ジュン! 強制終了して下さい」
ギルフォードはすぐにジュリアスのアドバイスを伝えた。ジュリアスはその様子を見ながら手に持ったコーヒーを一口すすって言った。
「まあ、もうおせーかもしれにゃーもんだで、いっそどうなるかあんばいを見るって言うのはどうかねー」
「馬鹿言わないでください」
ギルフォードは言った。
「後でユリコから殺されますよ」
パソコンの画面は相変わらずブルーでそれを白い「Thanatos」という文字が埋め続けていた。それは画面いっぱいに広がると、ざあっと中央付近に集まって、白いシルエットとなった。少年の全身像のように見えるそれは、にやりと笑うと、さあっと砂の柱のように崩れた。ジャ~ンと荘厳な音楽が流れ、画面が真っ黒になった。その黒い画面にこんどは赤い文字が現れた。
The Reaper is here.
Unfortunately, your computer has just passed away now.
My deepest condolences.
「何なに?」増岡が画面の覗き込んで言った。「『死神参上。残念ながら、たった今あなたのコンピュータはお亡くなりになりました。ご愁傷様』……だそうですよ」
「システム・クラッシャーですか・・・。これはもう、強制終了しても意味ないかも・・・」
と、同じく画面を覗き込みながら葛西が言った。
「悪い冗談やね・・・」
由利子は机に両肘をつき両手で顔を覆いながら力なく言った。その直後文字がはらはらと下に落ち、「キュゥ~ン」と嫌な音をさせて電源が切れた。
「アレク、その必要はなくなりました」
葛西は、ギルフォードに告げた。
「え?」
「勝手に電源が落ちました」
「勝手に電源が落ちた?」
ギルフォードは鸚鵡返しに聞いた。
「お悔やみ申し上げますだなも」
ジュリアスはそういうとまたコーヒーをすすった。
由利子たちは、パソコンから取り出したCD-Rを囲んでいた。
「このCD-R自体にウイルスらしきものが仕掛けられていたんですね」
葛西が言った。
「ジュリーさんの機転ですぐにネットとの接続を切ったので、もしウイルスだったとしても拡散は防げたと思いますが、このパソコンはリカバリしないとだめでしょうね」
「どうして? 私のウイルス対策は万全だったはずよ。常に最新の状態にしていたもの。それなのに・・・」
「人間のウイルスでも新種に対しては、免疫もワクチンもありませんから簡単に感染します。それと同じですよ」
「じゃあ、このコンピューターウイルスも新種ってこと?」
「多分そうです。ウイルス対策ソフトの会社にデータがなければブロックの仕様がないでしょ?」
「連中はコンピューターウイルスまで作ってるっていうの?」
「葛西さん」
増岡が横から口を出した。
「これは、ウイルスというより、データ流出を阻止するためのプログラムじゃないでしょうか。迂闊に開くとシステムが破壊され、CD-R自体のデータも破壊されるという。エクセルデータの文字化けもそのせいでは・・・」
「え? CD-Rまでが壊れてしまったと?」
葛西が驚いて言った。
「いずれにしても、リカバリ後にもう一度見て確認しようって気にはならないな。心臓に悪いもん」
由利子がため息をついて言った。
「こんなもの見なきゃ良かった。リカバリなんて1日仕事だわ」
「OSも古いし、買い替えたほうが早いんじゃないですか?」
増岡が言った。由利子は、ジロリと彼の方を見て言った。
「公務員さんはお金持ちね。今、失業者にPC買い替えはキツイわ」
「最近は中古でもいいのが売ってますよ」
「どうせ買うなら新品を買うわよ!」
「まあ、落ち着いて」
脳天気な増岡に由利子が切れ掛かったのを見て、富田林が急いで口を挟む。
「このCDは、うちのサイバー犯罪対策本部の専門家に解析してもらうしかないでしょう」
「そうですね」
葛西が同意すると、由利子が含み笑いをしながら言った。
「結城ってヤツも、こんな不正プログラム付きのディスクを掴まされるなんて間抜けよね」
「結城本人が仕掛けたのではないと?」
葛西は意外という顔をして聞き返した。
「多分ね。簡単に開けないようでは切り札の意味がないし、第一、それを知っていたらわざわざ人のパソコンを開いてデータの確認なんかしないでしょ。お互いに信用してなかったって感じね」
「そうか、そうですよね」
「ところで葛西君」
由利子は改めて葛西の方を向いて言った。
「あなた、さっきどさくさに紛れて二回も『由利ちゃん』って言ったわよね」
「え? そ、そうでしたっけ」
葛西は(しまった、気がついてたんだ)と思いながら、なんとか誤魔化してこの場を凌ごうとしたその時、葛西の携帯電話にまた着信が入った。
「あ、また電話だ。アレクからかな?」
渡りに船と、葛西は急いでポケットから電話を出した。
「あ、やっぱりそうですよ。・・・はい、葛西です」
「ジュン、どうなりました?」
「はい。結局警察の方で専門家が調べる以外ないと」
「まあ、それはそうでしょうねぇ」
「そちらはどうですか?」
「ええ、僕は今からサヤさんを送っていきます」
「え? ジュリーさんは?」
「ジュリーは僕のところに泊めますから」
「ああ、そうなんですか」
葛西は、紗弥さんの彼氏なのに変だなと思ったが、まあ、紗弥さんのお家の事情かなと勝手に納得した。
「で、写真を見たのはユリコと君とあと誰がいるんですか?」
「あ、あと、C署の刑事の富田林という者と・・・増岡・・・、あ、増岡さん、画像は見ました?」
葛西は念のため増岡に確認した。
「いえ。僕が来た時はもう画像はほぼ判別できない状態でしたから・・・」
「アレク、見たのは由利子さんと富田林刑事と僕の3人ですね。でも、最後の問題の画像をちゃんと見たのは由利子さんだけみたいです」
「ジュンは写真の顔を覚えていますか?」
「覚えてはいますが、自信がありません。富田林さん、覚えていますか?」
「へ? 何を?」
「CD-Rに記録されていた写真の人物ですよ」
「あ、ああ、それね。実はその後起こったことの衝撃がすごくて、よく覚えとらんっちゃんね」
富田林は、あはははと空しく笑いながら言った。
”あははじゃねーだろ”
ギルフォードはついボソリと自国語でつぶやいた。
「あ、すみません、聞こえました? そういうことで・・・」
葛西は少し困り気味に言った。
「僕はうろ覚えだし、完璧に覚えているのは由利子さんだけみたいですね」
「マズイですね。あの写真の男たちがテロ組織の人間だったとしたら、顔を覚えている人物は彼らにとって脅威となるはずです。しかも、そのうちの一人は人間の顔の判別と記憶に優れたユリコですから」
「確かにかなりまずいです・・・よね」
「しかも、その中にラスボスクラスの最重要人物がいたとしたら・・・」
「あ、問題の画像の人物・・・!」
「もっと悪いことに、それはユリコしか見ていないんですよね」
「うわ、どうしよう・・・」
葛西は由利子の方を見て戸惑ったように言った。由利子はパソコンの前で机にひじを突きながら、いじけモードで葛西の電話をかける姿を見ていたが、葛西の様子に気がついて言った。
「どうしたの、葛西君?」
葛西は、今ギルフォードの言ったことを説明した。
「え? 見ちゃった・・・ってこと?」
「そうなりますね」
葛西は腕組みをしながら眉を寄せて言った。
「とにかく、君らがここでデータを見たということは伏せておいたほうがいい」
ギルフォードは言った。
「でないと危険ですよ。特にユリコは」
葛西からそれを聞いた由利子は、頭を抱えて言った。
「うそっ、どうしよう。ちょっと待って・・・」
由利子はしばらく目を瞑って沈黙した。数分後、ため息をついて言った。
「ああっ・・・、だめ! やっぱり忘れることなんて出来ない!!」
セリフだけ聞くと三文恋愛小説のようだが、彼女にとっては深刻な事態である。しかし、その後、由利子は少し戸惑ったような表情をした。
「あれ?」
そう言った後、また1分ほど目を閉じて考えていたが、目を開けるといっそう戸惑ったような眼をして言った。
「なんか変なの・・・! あの画像だけ添付されていた男、そいつの顔のイメージがはっきりしないのよ」
「ええ!?」
と、ギルフォードと葛西が電話の向こうとこっちで同時に驚いて言った。声が半分裏返っていたので、ギルフォードにも聞こえたらしい。
「おかしいな、こんなこと初めて・・・。どういうこと?」
「覚えられなかったってことですか?」
葛西が心配そうに尋ねた。
「いえ、覚えていないわけじゃないの。多分本人を見れば判ると思う。でも、イメージが全く固定されなくて説明が上手く出来ないのよ。顔は浮かぶんだけど、特徴を掴もうとするとイメージが急にぼやけるの。例えるなら・・・そうね、夢に出てきた現実にはいない人物の顔を良く思い出せないみたいな・・・。写真を見た時のとりとめの無い印象のせいだわ」
戸惑いを深くする一方の由利子を気にしながら、葛西はギルフォードにその様子を伝えた。
「一癖も二癖もありそうな人物ですね。とにかくユリコがそいつを直接見ない限り、特定出来ないという事ですから、ますますマズイじゃないですか」
「そういうことになりますね。由利子さん、アレクが心配しているのは・・・」
葛西は説明した。
「そんな・・・。だいたい、なんで私がこんなことに・・・。あの公園の事件以来、ろくなことが起こらないわ!」
由利子はそうつぶやくと、ああ、と言いながら机に寄りかかり、そのまま右ひじを突いて掌で額を押さえながら髪をぐしゃっと掴み、眉間に深い皺を寄せ黙り込んでしまった。三人の刑事たちは声をかける勇気もなく黙ってそれを見ていた。
「ジュン、どうしたんですか」
ギルフォードが様子を掴めずに心配して尋ねたが、葛西は「シッ、静かに」と言うしかなかった。数分の沈黙の後、由利子は地の底から湧くような声で言った。
「くそ~~~っ、結城のヤロー、いっそこの手で絞め殺してやりたい!!」
「お気持ちはよ~くわかりますっ!」
葛西と富田林と増岡が同時に言った。
その頃、別の場所でまた異変が起きようとしていた。
あの、珠江を発見した時蟲に咬まれた川崎三郎は、風呂に入ろうとして足の包帯を外したのだが、今朝より発疹がまた少し大きくなり、さらに膿を持っていることに気がついた。しかも、いままで見た目の割りに傷みなど全くなかったのに、少しだけ痛みを感じるようになったのだ。このできものについては、妻にも話していなかった。これが出来た原因のことを考えると、恐ろしくてとても言い出せなかったのである。三郎は毎日少しずつ大きくなっていく発疹に漠然とした不安を感じていたが、その不安が今、ひしひしとリアルに迫ってくるのがわかった。
「あなた、どうされたとですか? 早くお風呂に入ってくださいな」
「あ? ああ、すまん。もうすぐ入るけん」
三郎はそう答えると立ち上がった。その時、眼の奥に一瞬ズキンと痛みが走った。
「あれ?」
三郎は驚いたが、痛みはすぐに収まったので特に気にも留めずに入浴の準備に取りかかった。
ギルフォードは、紗弥を送ってようやく自宅にたどり着いた。
「へえ、ここがおみゃーさんの部屋だか?」
ジュリアスが部屋の中を見回しながら珍しそうに言った。
「いい部屋に住んどるじゃにゃーか。日本の家はウサギ小屋とかよ~言われとったけど、なんの、立派なものだがや」
「まあ、ここら辺は東京なんかに比べるとずいぶん部屋代が安いですからね。そこそこの金額を出せばそれなりのフラット・・・日本ではマンションですが、に住めますから」
「マンションってのも大きく出たもんだて」
「まあ、なかなかいいセンスだと思いますよ。高級感だけはありますからね。名前も凝ってますよ。因みにここの名前は『メゾン・ド・シャルム』ですよ」
「フランス語かー。『魅力の家』って意味だがね。ステキな名前じゃにゃーか」
「本気で言ってるんですか。って、何で僕達二人なのにわざわざ日本語でしゃべってるんでしょうね」
「おれはバイリンガルだて、名古屋弁でも英語でも問題にゃ~けどな」
ジュリアスはにっと笑って言った。
”君が英語の方がいいって言うんなら,こっちで話すけどね.久しぶりだね,アレックス”
”俺がこの国に来て以来だな.ずっと音沙汰なしだったから嫌われたのかと思ってたぜ”
”音沙汰無しだったのは君の方だろ.心配していたんだぞ”
二人はそういった後、一瞬黙ってお互いを見たが、すぐにぶはっと笑った。ギルフォードが言った。
”サヤが’カレシ’としか言わないから,てっきり彼女のボーイフレンドかと思ってたよ”
”ちょっとしたサプライズだっただろう? サヤの提案だよ.でも研究室で会った時,君が全く驚かなかったからちょっとガッカリしたけどね”
”驚いたに決まってるだろ? でもあの時は緊急事態だったからね”
”サヤは充分驚いているって言ってたけど,ほんとだったんだ.相変らずややこしいヤツだな、君は”
ジュリアスはクスクス笑いながら言った。ギルフォードはそんなジュリアスの肩をポンポンと軽く叩きながら言った。
”長旅で疲れただろ,早く風呂に入ってゆっくり寝ろよ”
”ああ、ありがとう.だけど,君も大変だったんだろ.先に入ったらどうだ?”
”じゃあ,一緒に入るか?”
ジュリアスは一瞬考えたが、笑いながら言った。
”ごめんだね.日本のバスルームは狭そうだ”
”ビンゴ! 一人でぎゅうぎゅうだよ”
ギルフォードも笑って言った。
”じゃあちょっと待ってろ,バスローブを持ってきてやる”
と言って背を向けたギルフォードにジュリアスが言った。
”おいおい,アレックス.久しぶりに会ったのにハグもキスもなしかい? もうすっかりシャイな日本人だな,君も”
その言葉が呪文を解いたのか、ギルフォードは弾かれた様に振り返った。そして自制心をかなぐり捨てたようにジュリアスを激しく抱きしめて言った。
”馬鹿を言うな,会いたかった,本当に会いたかったんだぞ,ジュリー.話したいことも沢山あるんだ”
”僕もだよ.今夜は眠れそうにないな”
ジュリアスは優しく笑ってギルフォードの背に腕をまわした。
”馬鹿野郎・・・”
ギルフォードは囁くように言った。二人はしばらく抱き合ったままじっと佇んでいた。
由利子は、荒れた部屋の真ん中でぼうっと座っていた。警官達はすでに部屋から引き上げていた。葛西もCD-Rを持って、富田林たちと一緒に本部に向かった。玄関の鍵は壊れたままなので、チェーンだけかけているという実に心細い状態であった。それで、戸口に見張りの警官を立ててくれたのだが、防犯上は心強いとはいえ、それはそれであまり気持ちのよいものではない。それに美葉の時のことを考えたら、100%の信頼を寄せることが出来なかった。
「とにかく、ベッド周辺だけでも片付けないと寝られそうもないな」
由利子はため息交じりにつぶやくと、疲れた身体に鞭打って片付け作業に入った。
前日に引き続き、怒涛の一日が終わろうとしていた。由利子にはこの二日間が異様に長く感じられた。だが、これからこの長い日々が続くのだろうという予感が、すでに由利子にはあった。由利子は窓を開けて外を見た。梅雨間近のすこし湿った風が入って来た。それでも夜風は心地よい。外はいつもどおりの夜景が広がっていた。ふっと不安になって、下の電信柱あたりを見た。例の男が立っていた場所だ。誰もいない。由利子はほっとした。しかし、よく見ると道の何カ所かに警官が立って警備をしていた。今日のところは安心して眠っていいみたいね、と由利子はすこしほっとした。空には月がぽっかりと浮かんでいた。
(美葉もどこかでこの月を見ているんだろうか・・・)
由利子は思った。悲しくなって由利子は窓を閉め遮光カーテンを閉じ、そのままそこに体育座りで壁に寄りかかった。由利子は膝に腕を組んで顔を伏せた。彼女はそのまましばらくじっと動かなかった。しかし、その肩はかすかに震えていた。猫達のケージから由利子を呼ぶ声が、寂しく室内に響いた。
(第二部 第3章侵蝕Ⅲ 終わり)
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