3.侵蝕Ⅲ (3)シンフル・ラヴ~Sinful love
由利子が感染症対策センターに着いたのは、2時近かった。というのも、ギルフォードがセンターに着くのがそれくらいになりそうだからなのだが、病院の前に立った由利子は、少し緊張した面持ちで病院を眺めた。なんだか場違いな気がしたからだ。建物は、白いモダンな近代建築で大きい門にはレリーフ風に「県立病院IMC」と書かれたいぶし銀のようなプレートがはめ込んである。由利子はそれを確認すると、意を決したように病院内に入って行った。平時は主に総合病院として機能しているらしい。通院患者らしき人たちと何人もすれ違った。しかし、由利子の目指すのは隔離病棟のある、この病院本来の機能を持つ特別棟だった。総合病院の病棟を通り抜けると広い中庭があり、その中を通るパスをさらに通り抜けると高い塀が現れた。門には警備員ではなく、警官が二人立っていた。しっかりと腰に拳銃を携帯している。由利子は彼らに用件を告げた。警官は無線で用件を内部に伝えた。しばらく待つように言われた由利子は、仕方なく門の前でぶらぶらしながら待っていると、門が開いてギルフォードが現れた。
「ユリコ、お待たせしました」
ギルフォードは両手を広げて由利子を迎えた。
「すみませんね。少し前までは、こんなに厳しくはなかったんですが、アキヤマ・ミチヨの事件以来こんな感じになってしまいました。気を悪くしないでくださいね」
由利子はギルフォードの前に駆け寄ると言った。
「そんな、気にするほどのことじゃないですよ。むしろ当然の配慮でしょ?」
「ありがとう、ユリコ。では、早速案内しましょう」
ギルフォードは、由利子をエスコートするようにして院内に連れて行った。
由利子は、スタッフステーションに案内された。
「ここは、この病棟の中枢でもあるんですよ」
ギルフォードは説明した。中に入ると、高柳と数人のスタッフが何か真剣に話していたが、由利子に気がつくといっせいに彼女の方を見た。由利子は軽く会釈をした。ギルフォードが由利子を紹介した。
「ミナサン、今度から僕の助手として来てくれるシノハラ・ユリコさんです」
「はじめまして、篠原です。よろしくお願いいたします」
由利子は改めてお辞儀をしながら言った。高柳が親しげな笑みを浮かべて言った。
「はじめまして、篠原さん。ギルフォード先生からお話は聞いています。僕はここの責任者の高柳です」
高柳の紹介が終わると、他のスタッフも自己紹介を始めた。
「スタッフの山口です」
「三原です」
「看護師の春野です。よろしく」
「あとは、看護師の園山君が来ているかな。このメンバーが主に多美山さんの治療にあたっているんだよ」
高柳が説明した。
「もし、感染者が増えてもっと状況が深刻化したら、一般病棟を含めてこの病院全体が感染者を受け付ける体制になるんです。そんなことにならないように願いたいですけれども」
と、ギルフォードが追加で説明した。
「今、入院されているのは多美山さんだけなんですか?」
「あと、ニシハラ兄妹が念のため入院していますが、今のところ感染した様子は見られないようです。このままなら、火曜には退院出来ると思います」
「そうですか。良かった。小さい子があんな病気に罹るなんて、考えただけでもゾッとしますよね」
由利子はほっとした表情で言った。
「そうですね・・・。僕はアフリカでそういう幼い患者を沢山見てきました。とても辛いことです」
ギルフォードは思い出したのか、少し表情を歪めた。この人は、そういう修羅場を沢山見てきたんだ・・・と由利子は改めて思った。
「だから、僕はこんな病気をばら撒いた連中を絶対に許せません」
と、ギルフォードは別人のような厳しい表情をして続けた。由利子は頷いて言った。
「私も同じ気持ちです」
それに、美葉を誘拐したのもその関係の可能性があるから、もう私も完全に関わってしまったのかも・・・。と由利子は思った。ギルフォードは由利子の両肩をがっしりと掴み、彼女を真直ぐに見て確認するように言った。
「ユリコ、辛い戦いになるかもしれませんよ」
「もう、とっくにその覚悟はしていますよ」
由利子は、ギルフォードの眼を真直ぐに見返して言った。
「Good!」
ギルフォードは満足そうに言った。
「そうだ、ユリコ、タミヤマさんとは会ったことありますか?」
「ひょっとしたら、K署で会った事があるかもしれません」
「タミヤマさんの調子が良いようならば、会ってあげてください。タミヤマさん、会いたがっておられましたから」
「ええ、是非、お会いしたいです」
「多分ガラス越しになるでしょうけど、面会出来たら、あとで僕も病室に行くからってお伝えください。では、僕は、今からニシハラ・ユウイチ君のところに行かねばなりません。何か話したいことがあるそうですから。君はしばらくここにいてください。タカヤナギ先生、ユリコをよろしくお願いしますね」
ギルフォードはそう言うとスタッフステーションから去って行った。由利子はその後姿を見ながら、なんか寂しそうだな、と思った。彼女は、ギルフォードが親しげに接しながらも、何となく人と距離を置いている様なところがあることに気がついていた。
窪田栄太郎は、体調不良と精神的なストレスで元気がなく、その上午後からは集中力にも欠け、仕事が全くはかどらなかった。精神的なストレス・・・。そう、火曜の深夜・・・実質水曜の午前1時ごろ、過失で自動車でぶつけてしまった男のことをずっと気に病んでいるからだ。相手が車道を歩いていたとしても、もちろん非は窪田にあった。彼は愛人である部下の笹川歌恋の挑発からいわゆる無謀運転になっており、男に気がつくのが遅れた。しかも酒気帯びである。それ故に窪田は被害者を道路脇に隠して逃げてしまったのだ。
彼は運が悪かった。普通ならあの程度の事故ならば、まず死ぬようなことはない。何故なら、気付くのが遅れたとはいえ、酒気帯びのためスピードを出さないように気をつけて運転していたのが幸いして、重傷を負わせるような衝撃ではぶつからなかったからだ。しかし、男は何故か激しく痙攣して目の前で死んだ。窪田は歌恋に押し切られ、遺体を放置して逃げてしまった。しかし、あれ以来、毎晩のようにその時の夢を見て汗だくで飛び起きる。妻は、そんな彼を不思議に思ったが、敢えて理由を聞くようなことはしなかった。夫婦仲は冷え切っていたのである。
あの夜の事故の後、窪田は闇雲に車を走らせ、目に付いた山奥のホテルに飛び込んだ。チェックインの電話を済ませると、窪田はそのまま倒れこむようにベッドに横たわった。まだ、心臓がドキドキしていたが、そのくせさっき起こったことが事実だったのかどうか、記憶はあるが実感が全然湧かない。まるで悪夢のようだった。一度眼をぎゅっとつぶって開け、そっと掌を見た。やはりうっすらと血のあとが残っている。あれは紛れもない事実だった。窪田はガバッと起き上がってポケットから血を拭いたハンカチを取り出し、ベッド脇のゴミ箱に投げ捨てた。
「課長・・・」
歌恋の声に、窪田は我に返った。彼女はベッドの傍に心配そうに立っていた。窪田は立ち上がって彼女に向き合うと言った。
「取り乱してすまない、笹川君」
「私こそ、ごめんなさい」歌恋は窪田に抱きつきながら言った。窪田も彼女を抱きしめた。
「でも、あんな自殺者の為に課長の一生が台無しになるなんて、我慢できなかったの・・・」
「自殺・・・?」
「だってそうでしょ? 車道の真ん中をフラフラ歩いていたのよ。第一あれくらいのことで死ぬわけないもの。きっと毒を飲んでたとか、リスカとかしてたんだわ」
「そ・・・そうかな?」
言われて見れば歌恋の言うことはもっともであるように思われた。
「そうですよ」
「でも、遺体が見つかったら・・・」
「大丈夫ですって。だって課長との接点がないもの。課長は捕まったりしないわ。あれくらいだと車体には大して傷はついてないでしょうし、轢いてないからタイヤに血もついてないと思う。だから現場に課長がやったっていう証拠は残ってないはずよ。目撃者もいなかったでしょ」
歌恋は理路整然と言ってのけた。
「そう、そうだよね」
窪田が安堵の表情を浮かべて言うと、歌恋は無言で窪田をぎゅっと抱きしめた。
「笹川君・・・」
「ダメよ、歌恋って呼んでくれなきゃ」
「歌恋・・・」
「うふふ、栄太郎サン・・・」
歌恋は、背伸びをしながら窪田の方に顔を近づけてきた。
「さ、先にお風呂に入ろうよ、ね・・・」
窪田はそう提案したが、若い歌恋はすでに歯止めが効かなくなっていた。
「いや・・・。このまま続けて・・・お願い」
歌恋は濡れた眼をして息を荒げながら言った。あまつさえ歌恋に胸を押し付けられ、股間を彼女が擦り付ける腹にくすぐられていた窪田の理性は遂に吹き飛んだ。そのまま二人は床に崩れ墜ちた。
窪田は、仕事中にとんでもないことを思い出して、あせって咳払いをした。顔が少し赤くなっていた。
「課長、風邪でもひかれたんですか?」
窪田の元に出来上がった書類を持ってきた、部下の加藤が心配をして声をかけてきた。
「最近元気がないようですし、顔色も悪いですよ」
「あ?・・・ああ、大丈夫だよ。このところなんだか眠れなくてね」
「そりゃあ、よくないじゃないですか」
「ははは、ひょっとして男の更年期かな?」
窪田は自嘲気味に笑いながら言った。それを聞いて加藤は少し安心したように言った。
「何言ってんスか。まだそんな歳じゃないでしょ。そーゆー冗談が言えるようなら大丈夫ですね。はい、これ、来週の会議用の書類です」
「ああ、いつもありがとう。ご苦労さん」
部下へのねぎらいの言葉を忘れない、律儀な性格の窪田は部下達から慕われていた。もちろん歌恋とのことは誰にも知られていない。加藤は書類を渡すと、一礼して自分の席に戻った。窪田はちらりと歌恋の方を見た。彼女はパソコンの前で、黙々とキーボードを打っていた。歌恋は小洒落た名前や派手な見かけによらず、仕事熱心な女性だった。そのため、他の人の分の仕事まで回って来てよく夜遅くまで残って仕事をしていた。ある日、たまたま二人きりで残業になり、夕食を食べに行った。その時、なんとなく意気投合し、その後はお決まりのコースをたどってしまったのである。実は、窪田は今度の土日、つまり明日と明後日で歌恋とこっそり温泉旅行をする企画を立てていた。このまま体調が悪いままだと、行けない可能性が出てくる。
(帰りに栄養ドリンクでも買って帰るかな・・・)
そう思った時、メールが入った。こっそり確認すると歌恋からだった。ふと見ると歌恋は席を立っていた。トイレかどこかでメールを送ったのだろう。内容は、窪田の体調と旅行を心配したものだった。急いで窪田は『大丈夫だよ』という短いメールを返した。
多美山がうつらうつらしていると、傍に人の気配を感じて目を開けた。気配の方を見ると園山看護師だった。
「多美山さん、起きてらっしゃいましたか?」
「やあ・・・、園山さん・・・。もう定期検査の時間・・・ですか?」
「いえ」
園山は答えた。
「面会の方が来られていますが、お会いになりますか? 窓越しですけれども」
「どなたです?」
「篠原由利子さんとおっしゃる方ですが・・・」
「ああ・・・」
多美山の顔に生気が戻った。
「篠原・・・由利子さんですか。もちろん喜んでお会いします」
「そうですか。ただ、あまり無理してお話はなさらないでくださいね」
園山は、そう言うと窓のカーテンを開け、マイクでスタッフセンターに連絡した。
「お会いされるそうです」
しばらくすると、曇りガラスがさっと透明になり、窓の向こうに女性の姿が現れた。
「多美山さん、篠原です。・・・初めまして・・・じゃあないですよね」
女性は親しそうな笑顔を向けて言った。
「そうですな・・・。K署で一瞬だけお会いしましたが・・・。確か、秋山雅之の事故のことをジュンペイに報せに行った時でしたな」
「そうです。葛西さんからお話は良くお聞きしていましたが、あの時の方とは思っていませんでした」
「それより、あの一瞬で覚えておられることが驚きですよ」
「私が最初にK署にお電話した時に、応答されたのも多美山さんですよね」
「おや、そんなことまで覚えとられますか」
由利子は、クスッと笑って言った。
「だってお名前をおっしゃったじゃありませんか」
「そう言えばそうですな」
「珍しいお名前だから覚えてたんですよ」
由利子は、またにっこり笑って言った。多美山は、由利子の笑顔を見て、なんとなくほっとするのを感じた。
「多美山さん、ご気分のほうはいかがですか? あまり長くお話するとお疲れではないですか?」
「大丈夫ですよ。今は熱もだいぶ下がっとりますし・・・、食欲もあっとですよ。午前中は本も少し読めたし昼食は完食しました。入浴やシャワーは禁止されてしもうたとですが、トイレもちゃんと自力で行けっとですよ」
多美山は笑顔で答えた。
「すごいですね。私なんか、具合が悪いと食欲がほとんど無くなりますのに」
「体力勝負の仕事ですけん、出来るだけ食事はとるように訓練しとぉとです。ところで、今日はギルフォード先生はご一緒じゃなかとですか」
「来られてますよ。今、西原君が話したいとかいうので、そっちの方に行っておられます。後で多美山さんの病室の方に行くって言ってましたから、多分近いうちに来られますよ」
「そうですか。篠原さんは、先生のところでアルバイトされるそうですね」
「ええ、当面ですが」
「どういう経緯でお知り合いになられたとですか? やはり、秋山雅之つながりで?」
「まあ、それもありますが・・・、これが傑作なんですよ」
由利子は、ギルフォードと知り合った経緯簡単に話した。
「ほお、先生が人の顔を覚えるのが苦手というのは初耳ですな。まあ、まだそんな長い付き合いでもなかですが」
多美山は愉快そうに続けた。
「ばってん、教授のごたぁ偉か人の悩みが『顔を覚えられない』ってのも面白かですな」
「そうでしょ、そうでしょ」
由利子は言った。
「でも、それを言ったらいじけるんですよ。変な人ですよね」
「ところで、昨日は大変でしたな。お友だちのこと、ご心配でしょう」
多美山は急に神妙な顔をして言った。
「もう、ご存知でしたか」
「今朝ジュンペイが来て教えてくれたとです。昨夜は結局本部の方に泊り込んだと言うとりました」
「あらら、そうでしたか。申し訳なかったですね、せっかくの休暇だったのに」
「いえ、それが警官の仕事ですから、気にせんでください。しかし、先生の秘書の女性はたいしたもんですな。息の止まっていた男性を見事蘇生させたそうですよ」
「そうですか。良かった・・・」由利子はほっとして言った。「私、そんなことに全然気がつかなくて・・・。とにかく美葉のことで頭がいっぱいで、他にも被害者がいるなんて考えもしませんでした。亡くなっていたら、きっとすごく後悔しました」
「普通の人は気付かんですよ。そういう取り込んでいる時は、特に」
「そうでしょうか・・・。それで、他の人たちは?」
「奥さんと、公安の武邑とか言う男は、意識を取り戻したそうで、重傷ですが命に別状はなかということです。しかし、蘇生した夫の方と公安の若い方は、依然意識不明の重体だということでしたが」
「そうですか・・・」
「犯人の男はお友だちと付き合いがあったそうですが、篠原さんは彼とは面識はなかとですか?」
「ええ。話だけで会ったことはないんです。ただ・・・」
「ただ?」
由利子は苦笑しながら言った。
「彼女が彼と付き合い始めた頃、アリバイ作りにずいぶん利用されたみたいで」
「ほお?」
「ある日、いきなり美葉のお母さんから電話が入って、誤魔化すのに大変でした」
「あららら」
「まったくもお、それならそうと一言断ってくれてたらいいのにって、その後美葉と大喧嘩になって、それから何となく気まずくなって、2年近く音信不通ですよ」
「そげんやったとですか」
「それで、最近久々に美葉から連絡があって、会ったら、彼氏のことを相談されて・・・」
「相談を?」
「ええ、彼氏に奥さんがいたって・・・」
「あらま、それは深刻ですな」
「って、私、何を話しているんでしょうね」
由利子は、また苦笑して言った。
「いや、私もついクセで色々聞いてしまいました。職業病ですなあ・・・。それで、お友だち・・・美葉さんとはまたお付き合いが復活したとですね」
「ええ。なんだかんだと言ってもやはり幼馴染ですし、下らないことに意地を張っていたなあって・・・。会って話して、改めてお互いが信頼しあっているって気がついたんです。それなのに、こんなことになってしまって・・・」
由利子は急に悲しくなって下を向いた。
「あのね、篠原さん」多美山は優しく言った。「たぶんね、つきあいが復活したとは、美葉さんに危険がせまっとったからですよ。あなたはきっと、美葉さんというお友達と強い絆で結ばれとぉとです。大丈夫、美葉さんはきっと無事に帰って来ます。その時に彼女をしっかり支えてあげんしゃい」
多美山の言葉に、由利子はついホロリとなって涙ぐんでしまった。
「ありがとうございます」由利子は目の縁を、人差し指でそっとぬぐいながら言った。「すこし、気が楽になりました」
「話題を変えまっしょうか。昨日の市内観光はどうやったですか?」
多美山は、深刻な話題から軽い話題に変更した。
「楽しかったです。朝の10時半に集まって・・・」
由利子は昨日のことを詳しく多美山に話し始めた。
「やあ、ユウイチ君、こんにちは。久しぶりですね」
ギルフォードは、西原兄妹のいる病室に入ると声をかけた。兄妹は仲良く並んで勉強していたが、ギルフォードの姿を見ると、香菜は慌てて兄の後ろに隠れた。
「あ、こんにちは、ギルフォードさん。すみません、まだ、香菜はまだその防護服が怖いみたいで・・・」
「オー、カナちゃん、ゴメンナサイネ。規則で着用が義務付けられているので仕方がないんです」
ギルフォードは、とっておきの笑顔で香菜に話しかけたが、笑顔の大部分が隠れてしまっているので大して効果はない。
「香菜、ギルフォード先生にちゃんとご挨拶しなさい。すごくお世話になっているんだよ」
兄に言われて香菜は、おずおずと兄の陰から姿を現し、ぴょこんとお辞儀をすると言った。
「先生、こんにちは。お世話になっています」
「カナちゃん、こんにちは。ご気分はいかがですか?」
「はい、大丈夫です」
そう答えると、香菜はまた兄の後ろに隠れた。その様子を見て、ギルフォードは苦笑しながら言った。
「ユウイチ君、お話したいことがあるそうですね。一時期は僕に会いたくないって言ってたそうですが、どうしたんですか?」
「はい」祐一は答えた。「あなたに合わせる顔がないと思ったからです。僕はあなたからあんなに危険に近づくなと注意されたのに、結局自分から近づいて行って、その結果最悪な事態を招いてしまいましたから・・・。でも、それじゃあいけないって思ったんです。会ってからちゃんと謝らないと、って」
「祐一君、確かに君は自ら危険に近寄ってしまいました。でも、今回は仕方がないと思います。僕だって可愛い妹が盾にされたら同じことをしたかもしれません」
ギルフォードは、祐一に向かって優しく言った。祐一は安堵した顔でそれを聞いていたが、ギルフォードは続けてしっかりと釘を刺した。
「でも、今回はもっと最悪な結果も考えられました。ユウイチ君、確かに、不可抗力という言葉があります。でも、これからは本当に気をつけてください。一人で決着をつけようとしないで、必ず誰かと相談してください。それも、出来るだけ信頼のおける大人に相談するのですよ」
「すみません。これからはきっとそうします」
祐一は、素直に答えた。何となく肩の荷が下りたような気がした。
ギルフォードは、改めて彼らの座っているテーブルの上を見た。そこには、ノートや参考書が所狭しと並んでいた。そのテーブルは二人が勉強できるように特別に運び込まれたものだった。
「二人とも、ちゃんと勉強しているんですね。エライです。何かわからないコトなどありませんでしたか? せっかくですから、僕がわかるところ限定ですが、お教えしましょう」
「ええ? いいんですか?」
祐一が、嬉しそうに言った。
「ええ、でもホントに僕がわかるところだけですよ」
「はい充分です。実は科学と英語でどうしてもわからない箇所があったんです」
「さて、どこですか?」
ギルフォードは身体を乗り出して尋ねた。
ギルフォードは祐一だけではなく、香菜の質問にも答えた。香菜の質問は、葉っぱは何故緑色をしているの、とか、虹はどうして出来るのとか、そういう子どもらしい素朴な疑問だったが、ギルフォードはわかる限りのことを答えてやった。それが功を奏したのか、いつの間にか香菜はギルフォードの膝に座るくらいに打ち解けていた。
「女の子って、意外と質問が好きなんですね」
ギルフォードは、笑いながら言った。
「ほら、あの事件で君と一緒にいたあの女の子」
「錦織さんのことですか?」
「そうそう、その子です。彼女からも僕は質問攻めに遭ったでしょ?」
「すみません。錦織さんの出現は、僕にとっても本当にイレギュラーで・・・。あいつ、関係ないくせに勝手に危険に首を突っ込んで・・・。困ったやつです」
「ホントに」
ギルフォードはニヤッと笑って続けた。
「でもユウイチ君、キミ、まんざらでもないでしょ?」
「ギ...ギルフォードっさんっ、あのっっっ!!」
「いや、話のわかる子でよかったです」ギルフォードは焦る祐一を無視して言った。
「賢(さか)しい子です。僕の心配を理解して、事件について伏せることを了解してくれました。彼女は頭がいいだけじゃない、機転も利きそうです。ただ、これ以上事件に興味を持たなければいいんですが・・・」
「そうですね。ご心配は、よくわかります」
祐一も納得して頷いた。
「くしゅん」
彩夏は、軽いくしゃみをした。
(いやだ、風邪ひいちゃったかしら?)
午後のけだるい授業を受けながら、綾香は思った。ふと外を見ると、梅雨前なのに日差しが照りつけて暑そうだが、妙に景色が霞んでいる。
(や~ね、黄砂かもしれないわ。またアレルギーが出ちゃうじゃない)
彩夏はため息をついた。
「錦織さん」
彩夏は急に自分の名を呼ばれて慌てて正面を向いた。名を呼んだのは、もちろん先生だった。
「ちゃんと聞いてる? くしゃみをしたり、ぼうっとしたり、ため息をついたりと忙しいみたいだけど・・・」
「すみません」
彩夏は、恐縮して言った。前の方でクスクス笑う声がした。良夫だった。彩夏は口を尖らせて良夫を見たが、すぐに姿勢を正して授業に専念することにした。
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