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5.出現 (7)間~はざま~

「そうですわね。でも、教授の英語での会話は普段からあんなものですわよ。さっきのは際立って粗暴でしたけど」
紗弥は、特に驚くほどもないという風に言った。
「それより私、教授のあんな怖い顔、初めて見ましたわ」
「で、紗弥さん、アレクは一体なんて言ったの?」
英語のまったく苦手な由利子は気になって仕方がないようだ。
「"ド腐れ外道が、必ず捕まえて地獄に叩き落してやる、ケツを洗って待っていやがれ、クソッ"ってところでしょうか」
「確かにすごいけど、紗弥さんの口からそんな言葉が出たことのほうが、破壊的だわ」
由利子は少し引き気味に言った。葛西に至っては、顔が完全に引きつっていた。
「そうだ!」葛西の顔を見て紗弥が思い出したように言った。「葛西さん、良い事をお教えしましょう。魔除けの言葉ですわ」
「なんでしょう?」
葛西はまだ引き気味に言った。
「こんど、教授が『ロシア式挨拶』をせまって来たら、教授に向かって毅然として彼のフルネームを言ってご覧なさいな」
「フルネーム? 『アレクサンダー・ライアン・ギルフォード』でしたっけ?」
「これが効果覿面ですのよ。もう、面白いったら」
そういうと紗弥はくすくすと笑った。
「魔除けというより、孫悟空にとっての緊箍経(きんこきょう)みたいですね」
由利子が言うと、紗弥はそれがツボにハマッたのか、あははと本気で笑い出した。
「紗弥さん、こんなカンジでちゃんと笑うんだ」
「っていうか、一種のツンデレ? かわいい」
紗弥の意外な面に、今まで彼女に少し距離感を感じていた二人は少し親近感を覚えたが、少しすると紗弥はぴたりと笑うのを止めて言った。
「帰ってきましたわよ、孫悟空が」
すると、すたすたと足音がしてギルフォードが帰って来た。
「お待たせしました。サヤさん笑ってましたね、珍しいです」
しかし、彼を見た3人は驚いた。
「きゃあっ、アレク、手っ、手っ!」
「わーーーーっ!!」
「教授、右手から血が滴ってますわ!」
言われて右手を見たギルフォードは「あ・・・」と言った。中指の第三関節辺りからだらだらと血が流れている。血は彼が歩いた道筋を、点々と示していた。ギルフォードはその『点々』を目で追いながら、再度自分の右手をじっと見て、「あ~あ」と言いながら口元に手を持ってくると、ペロッと傷を舐めた。
「いやぁあ、傷口を舐めないでくださいな! もうっ! ケダモノなんだから!」
珍しく紗弥が声を荒げ、急いで救急箱を取りに行った。
「ケダモノだって・・・」
「ケダモノでしょうね、やっぱり・・・」
由利子と葛西が目を点々にして言った。紗弥はギルフォードの手を消毒しながら、
「過激なことをなさるのは構いませんが、後先を考えてくださいませ」
と言うと、傷口に特大の絆創膏を貼り、その上をパシッと叩いた。
「はい、終わりましたわ」
「おうっ、何するんですか、サヤさん」
「自業自得ですわよ」
紗弥は冷たく言うと、モップを取って来てギルフォードに渡した。
「とっとと床に垂れた血をふき取ってきてくださいな」
「は~い」
ギルフォードは素直にモップを持って、床を拭きながら部屋を出て行った。それを見た学生達が声をかけた。
「先生、また怒られたとぉ?」
「はい」
「懲りへんなあ、先生も」
「手伝いま~す」
「アタシも~」
「ああ、素手は駄目ですよ、人の血を触る時は、ちゃんと感染防止の手袋をして・・・」

「さっきとは別人ですね」
葛西が言うと由利子も頷いた。
「ほんとに。さっきはめちゃ怖かったのに、今はまるででっかい子どもみたい」
「というより、やっぱり孫悟空と三蔵法師の構図ですよ」
「でも、学生達には慕われているみたいやね」
「そうですね」
 由利子は、すでにここのバイトのことを本気で考えていた。秘書の紗弥も学生も感じが良いし、研究室の雰囲気も和気藹々としている。何よりもギルフォードの人柄が気に入った。日ごろの物柔らかい言動と、さっきの怒りで見せた熱血さ。面白い。彼にならなんかついて行けそうな気がした。彼がゲイであることなど瑣末なことに思えた。現に学生達はそれを知りながらも偏見なく彼を慕っている。バイトのことを尋ねられたらOKと言おう。由利子は思った。
 だが、由利子の選ぼうとしている道は、実は何よりも険しく辛いものになろうとしていた。もちろん、彼女にはそんなことは知る由もない。 

「僕、そろそろ帰らないと・・・。長居をしすぎてしまいました」
葛西が時計を見ながら言った。
「おや、残念です。でも、ジュンが居てくれて良かったです。メールの件、どうもありがとうございました」
「ウチの者がそのメールについて、事情聴取に来ると思います。テロについてはまだ警察では確定されてはいませんが、それとも関わりが深いということで」
「わかりました」
「あ、私もそろそろお暇(いとま)しようかと・・・」
由利子も言った。
「おや、ユリコもですか? すみません。バイトのことをいろいろ説明しようと思ったのに、ヘンなメール事件で予定がメチャクチャになりましたね」
ギルフォードは残念そうに言った。
「いえ、却ってこの研究室の雰囲気がわかって良かったですよ」
「そうですか・・・」
ギルフォードは元気なく言った。
「では、僕のオファーについては・・・」
「OKです」
「え?」
「バイトに雇ってください」
「いいんですか?」ギルフォードの顔がぱっと明るくなった。
「はい。まあ、次の仕事が決まるまでですが・・・」
「僕はてっきり断られるかと・・・」
それで元気がなかったのか、と由利子は思った。
「月曜に辞表を出します。有給休暇が余ってますから、来週半ばあたりから休むつもりですので、よかったらその辺りからお手伝いにこれますから」
「ありがとう、ユリコ!」
ギルフォードはガバッと立ち上がると、いきなり由利子を抱きしめた。
「ひゃぁあああ!」
由利子はいきなりの攻撃に、驚いて悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford!!」
紗弥と葛西が同時に怒鳴った。

 

 美千代はフラフラしながら、一人でラブホテルの廊下を歩いていた。指定した部屋に入り、途中薬局で買ってきた頭痛薬を飲むと、そのままベッドに突っ伏した。昨夜からどうも気分が悪かったが、午後から発熱したようで節々も痛い。しかし、病院に行く訳にはいかなかった。身元がばれて、またあの恐ろしい病院に連れ戻される可能性があったからだ。そうなったらもうお仕舞いだ。まだ明るいうちから、それも、一人でそういうところに入るのは気が引けたが、とにかくどこかで横になりたかった。背に腹は替えられない。
 ベッドに突っ伏して数分すると、確認の電話がかかってきた。ようやく身体を起こし、電話に出る。電話の向こうで無愛想な女の声がした。
「ご休憩ですね」
「はい・・・」
「失礼ですが、お1人?」
「後で連れが参ります」
「そうですか。ではごゆっくりどうぞ」
電話を切ると、美千代の意識はそのまま遠のいていった。

  
 森田健二は、今朝から気分が優れなかった。彼は臨時収入が入ったので、昨夜友人達を引き連れて繁華街でどんちゃん騒ぎをしたのだが、きっとそのせいで飲みすぎたのがまずかったのかな、と思った。昨日お持ち帰りをした女の子と、昼近くまで正体なく眠っていたら、彼女がやってきてひと悶着あったのち、二人とも出て行ってしまったので、彼は1人だった。部屋はひどい状態だったが片付ける気も起こらず、スポーツ飲料を一杯飲んだだけで午後からまた布団に倒れこんで死んだように眠ってしまった。
 夕方になると、機嫌を直した彼女が色々食材を買ってやってきた。健二は仕方なく起き出したが、気分はだいぶ回復していた。
「もう、だらしないなあ」
そう言いながら彼女は部屋を片付け始めた。やっぱり私がいないと駄目じゃない。健二はその後姿をぼうっと見ていた。気分は改善したが、少し頭痛が残っている。寝すぎのせいだろう、健二は考えた。その時、かかっていたテレビ画面がピカピカと激しく点滅をした。いつの間にかアニメが始まっていたらしい。それを見た健二の眼の奥がズキンと痛んだ。彼は反射的に目を押さえた。
「何よ、子どもみたいに」
彼女が健二の様子を見てからかうように言ったが、健二は両目を押さえたままうずくまって動かない。
「健? 健二!! どうしたん!?」
彼女は驚いて健二に駆け寄った。
「ううう・・・」と苦しそうに言いながら健二は彼女にしがみついて来た。
「きゃあ、どうしたの? しっかりしてよォ!!」
彼女は、おろおろしながら言ったが、しがみついてきた健二に押し倒された形になった。健二はそのまま動かなくなった。
「健! しっかりしてぇ~!!」
彼女が涙声で叫んだとき、健二の上半身が起きあがった。
「なんちゃって」
「ちょっとぉ! お芝居やったん? 本気で心配したやん、モォッ、いい加減にし~よ!!」
「ごめんごめん、クミ、面白かったんでつい」
「許すから、どいてよ。そろそろ夕飯の支度をしなくっちゃ・・・って、ちょっとぉ、何すんの」
「いいじゃん、ちょっとだけ」
「もお、少しは辛抱しなさいよ」
口ではそういいながら、クミはクスクス笑っている。健二は彼女がOKしたと考え、彼女のサマーセーターを捲り上げ、胸元に顔をうずめた。

 
 美千代が目を覚ますと、7時を過ぎていた。頭痛薬が効いたのか、気分はだいぶ良い。清算を済ませて外に出ると、美千代はまた夜の街に消えていった。

 

 由利子は、風呂から上がると紅茶を用意し、飲みながら恒例のブログ記事を書き始めた。今日はギルフォードの研究室を見学しに行って、色々面白い経験をしたが、内密な話が多すぎてうっかりしたことは書けないと判断し、もったいないが書くことを控えた。その代わり、「欧米人における、フルネームの魔力」というテーマで書くことにした。今日の体験もあり、なかなか面白いエントリーになった。読み直して文字のチェックを終え、ふんふんと鼻歌交じりで書き込みボタンを押す。アップされた記事をもう一度読み直すと、一箇所訂正漏れがあった。それを訂正し再々度読み直す。今度は完璧であった。
「よっし、おっけー!」
由利子はそういうと、背伸びをした。そのまま横を向くと、猫たちがベッドの上で正体なく眠っているのが見えた。二匹とも動物園のラッコが眠った時のような格好で並んで寝ていたので、ぷっと吹き出しそうなのをこらえて、携帯電話をこっそり取り出し写真を撮ろうとした。その時、ブーンと電話が震えた。
「うわっ!」
びっくりして電話を取り落としそうになり、焦って電話を持ち直したが、由利子の声で猫たちが目を覚まし、せっかくのシャッターチャンスを逃してしまった。
「ちぇっ! せっかく明日の記事のネタが出来たと思ったのに」
由利子はブツブツ言いながら、電話の相手を確認した。美葉からのメールだった。

「由利ちゃん、元気?アレクの研究室はどうだった?様子を教えてね。そうそう、実家から野菜とお菓子送ってきたから、おすそ分けします。今日送ったよ。市内だから明日には届くと思うよ。お楽しみにね。美葉」

「野菜とお菓子! 助かるなあ」
由利子は喜んでお礼のメールを出した。ついでに今日の様子も知らせる。とはいえ、機密事項が多すぎるので、研究室の雰囲気とバイトを受けたことだけを伝えることにした。ギルフォードがゲイということも、とりあえず伏せておいた。それは今度会った時に伝えよう。そう思ったところで、何となく眠くなってきたので時計を見ると、まだ0時にもなっていなかった。休みの日は夜更かしで、ともすると2時くらいまで起きていたりするのだが、なんとなく気疲れしたらしく、今日は早く寝ることにした。
 ベッドに入ると仰向けになり、両腕を組んで後頭部を支え、背伸びをする。そのまま両手を枕にして天井を見た。電気を消さなくちゃ、と思いつつ目を閉じると今日、葛西と一緒だった帰り道のことが思い出された。 

「ああ、おどろいた」
由利子は葛西と大学内を歩きながら言った。
「女性でも驚きますか?」と、葛西。
「そりゃあ、あんなでかい外人のオッサンにいきなり抱きつかれた日には、誰だって驚くわよ」
「しかし、あの『緊箍経』は、効きますねえ」
「あのアレクが、いきなりしょぼ~んってなったもんねえ」
由利子は思い出してクスクス笑った。
「欧米じゃ、本気で怒られる時はフルネームで呼ばれますから」
「子どもの頃、悪さばっかりしていて、しょっちゅうご両親に怒られてたって、いったいどんな子だったんだろ」
「今からは想像もつかんですねえ。・・・あ、篠原さん、僕、車なので最寄の駅まで送りましょう」
「え? いいんですか?」
「ホントはご自宅までお送りすべきなんでしょうが、なにぶん県警にまた寄らないとならなくなったんで・・・」
「いえ、そんな、駅までで充分だって。で、県警に寄るって、あのメールの件?」
「そうです。実際、このテロ事件、どう動いて良いのか警察の方も判断がつかないんです。アレクの資料は緻密で信憑性は高いのですが、いまいち決め手がない。相手が新種のウイルスらしいとまではわかっても、ウイルスが見つかったわけではない。犠牲になったという8人のうち、二人は事故で1人は暴行が直接の死因です。今回の挑戦状メールにしても、使用された雅之君の携帯電話を探すためにH埠頭の海中を捜索すべきか意見が分かれるでしょう」
「でも、テロ事件の重要な手がかりになるかもしれないんでしょ?」
「そうです。僕が怖いのは、こうやってもたもたしている間に感染が広がって、ある日いきなり病気が表面化する可能性があることなんです。厄介です。相手がナノワールドだと」
葛西はため息をついた。
「それと、もうひとつ気になることがあるんです。雅之君のおばあさんの・・・」
葛西はここで言葉を濁した。
「何?」
「いえ、これは聞かないほうがいいと思います」
「え~? いいじゃない、聞かせてよ」
「僕は、話したくないんです」
「どして?」
「悪夢です。事実、それを聞いた夜、夢に見てうなされました。興味があるなら今度アレクに聞いてください。それより・・・」
由利子は、是非悪夢を見るような話の方を聞きたかったが、葛西が本気で嫌がるのであきらめた。
「それより、何?」
「えっとですね・・・、あのですね・・・」
「だから、何?」
「はいっ! あのぉ、よかったら僕のことを『ジュンちゃん』って呼んで下さい」
「ぶはっ」それを聞いて由利子は吹き出した。「あ、ごめんなさい。ぷっ・・・ぷはははは・・・」
謝った先からまた笑いが込み上げてきた。
「すみません、下品な笑い方しちゃった・・・あははは・・・ジュ、ジュンちゃんて・・・」
「篠原さぁん」
「何、それ、いきなりアレクのマネして笑わせないでよ~~~。腹筋イタ~~~」
「僕は本気です!」
葛西が赤い顔をしてそういうのを聞いて、由利子は苦労して笑うのを止めた。
「本気って、何?」
「いえ、その、僕も篠原さんをユリちゃんって呼びたいなあと・・・」
「却下」
由利子は速攻で答えた。
「だいたい、何で歳下のあなたからちゃん付けで呼ばれなきゃなんないのよ。いいとこ『由利子さん』でしょ?」
「はい、すみません・・・」
葛西はまたしょんぼりとなった。K署での時と同じである。あまりにしょげ返ったので、由利子はまた噴出しそうになった。こいつ、ほんとに刑事っぽくないな、いい意味でも悪い意味でも。由利子は思った。
「まあ、焦らなくても、ひょっとしたらいつか、そういう風に呼び合うようになるかも知れないじゃない。確率はかなり低いけど」
かわいそうなので、由利子がフォローする。
「そ、そうですよね!」
葛西はそういうと、元気を取り戻した。
「それで、何と言って呼んでくれますか?」
「葛西君」
「せめて純平君で・・・」
「葛西君」
「いいです。それで」
葛西はガッカリしながら譲歩した。

「ヘンなヤツよね」
由利子はつぶやいた。背が高く、細身の優男に見えるが彼は一応警官である。しかし、由利子にはまるで子犬のようなイメージがあった。可愛いけど、果たして男としてはどうだろう。その時腹の上に、にゃにゃ子がずしんと乗ってきた。最近太り気味の彼女が乗ると、けっこうなダメージがある。そのせいで由利子は回想から現実に戻った。
「やーね、何を考えてるんやろ。寝よ寝よ!」
由利子は身体を起こすと電気を消した。腹の上に乗っていたにゃにゃ子が転げ落ちて、また「ニャアっ!」と文句を言った。
「あ~、ごめんごめん」
由利子はにゃにゃ子を抱きかかえると、布団の中に入れ、にゃにゃ子を抱きしめたまま、ことんと眠りに入った。寝つきの良いのが取柄であった。抱きしめられたままのにゃにゃ子は、必死で由利子の腕をすり抜け、枕元に座り、「にゃっ!」と鳴きながらしっぽバンをした。その時、尻尾の先が由利子の頬に触れたが、「う~~~ん?」と言っただけで彼女が目を覚ます様子はなかった。由利子が起きそうにないので、仕方なく、にゃにゃ子ははるさめの傍に行って丸くなった。

 

 由利子が平和な眠りについている頃、繁華街の路地の片隅に、女が倒れていた。皆酔っぱらいだと思ったのか、あるいは暗くて気がつかないのか、誰も助けようとする気配がない。女は美千代だった。彼女は今夜の獲物を得るためにここまでやって来たのだが、ついに力尽きて倒れてしまったのだ。カッカッとハイヒールの音を響かせて、女が歩いてきた。彼女は美千代の傍で足を止め、美千代を見下ろした。タクシーがすぐ傍を通り、ヘッドライトが彼女の顔を照らした。花粉対策用のサングラスにマスクをつけた、この場所にそぐわない奇妙な姿が浮かび上がった。遙音涼子だった。涼子は無表情で美千代を見下ろしていた。



(「第五章 出現」 終わり)

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