『前へ!』~東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録
彼らは、ただその言葉を胸に突き進んだ。一人でも多くの命を救うために――。
曇ったゴーグルとマスクを投げ捨て、原発への放水に挑んだ自衛隊員がいた。ある隊員は「死ぬなら自分のような独身者が」と原発行きを志願した。国交省特殊部隊は、被災地を目指す救助隊のために、瓦礫と遺体で埋まる基幹道路と格闘し続けた。警視庁機動隊、ハイパーレスキュー隊……未曾有の危機に命を賭け対峙した者たちの記録。
(書籍紹介より)
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今年も普通に明けた。そして、普通なことが色々あって普通に終わると思っていた。
ところが、3.11である。
あの日以来、日本が変わった。被災地はもちろん、そうでないところもそれなりに変わった。世界の日本人に対する評価も、原発に対する意識も変わった。
人の偉大さ、愚かさ、強さ、弱さ、文明の儚さ脆さ、絶望の中、それでも生きようとする復興しようとする底力を目の当たりにした年になった。
この本は、被災直後に命を張って被災地の救援や原発事故の収拾にあたった公務員たちの、不眠不休の戦いの記録である。この年の最後にふさわしいエントリーだと思う。
【追記】
私が注文した時は、まだアマゾンには在庫していたが、現在中古品のみになっている。
発行元の新潮社には、まだ在庫しているようだ。→ 「前へ!」
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この本は、8月に発行されたものだが、私はその存在を知らなかった。
最近、会社でこの本の一部をA4の小冊子にしたものが机に置いてあった。回覧で読めと言うことらしい。私は、(ま~た国交省のプロパガンダ記事か)と思ったものの手に取って数行読んでから、すぐにその冊子を閉じた。
(これは泣く。ここで読んではいけない)
それで、持って帰って読むことにした。ところが、うっかりと電車の中で読んでしまい、案の定うるうるになってしまった。
テーマがテーマなだけに面白かった、と書くことが憚られるが、読んでよかったと思った。それで、引用元の本を買って読むことにしたのである。
【注意】
以下、レビューに入りますが、かなりネタバレ的になっております。 それでも、原本はもっと沢山のエピソードがありますので、是非一度、お読みになることをお勧めします。
前へ!~東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録
麻生 幾:著
この本は、3章で成り立っている。
第一章は、第一原発事故での自衛隊・警察・消防の決死の戦い、第2章では国交省やその傘下による「啓開チーム」の奮闘、第3章は、普段表に出てこない官僚たちの縁の下での活躍を描いている。
これを読むと、ああ、あの時はこういう状態だったんだ、とか、道路の復旧が早かったのはこういうことだったんだとかいうことが判るし、文字通り名もない人たちの命を懸けた活動が何より胸を打つ。是非、多くの人に読んでほしい本だと思う。
難を言えば、時系列がやたらと前後して、あれと思っては読み返さねばならないことが多かったのと、最初読んだときは夢中だったのであまり気にしなかったが、2度目は少し冷静になっていて、文体や若干の美化が鼻に突いたということだ。
これを読みながら、私は幾度となく「信じられない」連発、また時に「お前が行け」とつぶやいた。その半数以上が震災そのものの被害にではなく、原発事故に対する政府や東電・保安院・原子力安全委員会の対応に対するものだった。従ってそれらは当然ながら第1章の福島原発事故編に集中した。
とにかくひどい。
まず、福島県警が放射線飛び交う中ヘリで原発上空を旋回し続け、最初の1号機水素爆発を告げたにも関わらず、東電はそれを否定、保安院もそれに順じ爆発はないと決めつけ、政府もそれを信じ、結果、公表が爆発から2時間以上遅れた(ここは第3章)。
福島県警はその間1号機の異常を訴え続け、県警ヘリ「あづま」の乗務員はもっとも危険な建屋上空で決死の覚悟で原子炉の状態を目視するということまでやった。おかげで原子炉が無事だと言うこと、言いかえれば、原子炉が目視できるほど建屋が破壊されたということがわかり、内閣危機管理センターは戦慄した。彼らは何度も官邸に爆発のことを告げたが、総理も枝野長官も東電や保安院の方を信じてしまった。それどころか、福島県警はいい加減な情報を流していると非難する空気すらあったいう。
福島県警は本部の入った県庁ビルが倒壊の恐れのあるため使えず、仕方なくわずかな機材と共に所轄に本部を移していた。そのために映像を送ることが出来なかったのだ。
それで業を煮やした災害警備本部は、遂に個人のケータイからの「写メール」で映像を送らせることに踏み切った。
それにしても、何故東電は1号機が爆発したことが判らなかったのか。原発敷地内にある免震重要棟は揺れなかったのか。まさか、余震と勘違いしたのか? そして、福島県警から爆発の報告があった時、確認しようとはしなかったのか。よもや、現実に目を向けたくなかったのではあるまい。おそらく、それどころではない状態にまで混乱していたのだろう。まさにそこは修羅場と言うべき状態だったのだと。だが、それこそあってはならないことだったのは言うまでもない。
自衛隊がヘリコプターを使って海水をくみ上げ、空から放水したことは、多くの方が覚えておられるだろうが、あの時、放水に赴いたのは第一ヘリコプター団の一般の自衛隊員だった。NBC対策でヘリでの放水など考えられなかったからだ。しかもこの場合、下手をすると、高レベルの放射線を浴びることになりかねない。それなのに効果はほとんど期待できないのだ。
そもそもヘリから放水するのは、森林火災の消火場合で、何トンもの水をかけて、冷やすというより水の圧力で木々をなぎ倒し無酸素状態にして鎮火する方法なのだ。今回のケースは、一歩間違うと水の圧力で原子炉破壊を助長してしまう恐れすらあった。
それなのに政府がヘリでの放水をゴリ押ししたのは、多分にパフォーマンス的な要素があった。
効果そのものよりも原発事故対策をしていることを国民や世界にアピールすることを目的としていた。総理がオバマ大統領との電話会談を控えているためと言うこともあったという。
その甲斐あって、アメリカが我慢できずに動き出した。あまりにもずさんな対処に戦慄したからだ。
自衛隊のヘリ放水の後に管内閣が白羽の矢をたてたのは、警視庁の機動隊の持つ高圧放水車だった。それを使って海水をぶち込み原子炉を冷やすためだ。しかし、これも効果の望めないパフォーマンス的な要素の濃い作戦だった。
高圧放水器というのは、警察機動隊が○○や××等のデモ隊などを鎮圧するためのものだ。高圧と言うだけあってかなり高い場所までの放水が可能だが、果たして今回のような任務の役に立つのか疑問だった。しかも、最初は車両を貸し出すだけで操作は東電社員がするということだったのに、操作が複雑で手におえないということで、結局機動隊員が放水することになったのだった。
彼らは試行錯誤しながら放水をしたが、線量計が高レベルの放射線を感知し警報を鳴らし続け、満足な結果を出せずに撤退を余儀なくされた(後に線量計の故障と判明し、隊員たちを悔しがらせた)。
それから、自衛隊の中特防(中央特殊武器防護隊:NBC専門の科学化部隊。NBCは核-Nucliar・生物-Biological・化学-Chemical)が、水素爆発の恐れがある3号機を真水で冷やすために第一原発3号機建屋前に行き、放水作業にとりかかるためまさに車から降りようとした時にあの水素爆発が起きた。東電の吉田所長(当時)は、3号機は安定しているから大丈夫だと隊員たちに告げていた。もし、少しでも早く彼らが車から降りていればモロに爆風を受け、確実に彼らは命を落としていただろう。車ごと吹っ飛ばされた彼らの何人かは負傷(一人は足首に裂傷を負っていた)し、防護服もボロボロになった。彼らは破壊された自衛隊車両や装備を残し退避を余儀なくされた。それでも、自力で脱出できなかった東電社員を救出し、現場にあったトラックに全員を乗せ退避した。結果、各隊員は20msv(ミリシーベルト)以上被曝してしまった(幸い内部被曝は免れたようだ)。
さらに驚くべきことは、改めて放水作業に従事する彼らに、3号機に放水する燃料プールの正確な場所を知らせなかったということだ。彼らが東電から与えられたのは、建屋の平面図ではなく爆発前の荒い航空写真のみだった(その程度なら自前で用意出来るわ!)。何度、正確な場所を教えろと言っても暖簾に腕立て糠に釘。腹に据えかねた自衛隊幹部が「放射線の高いところでの放水作業はまさに決死隊だから、燃料プールの場所を教えて欲しい」と詰め寄ると、「じゃあ、○○工業にやらせますかあ?」としゃあしゃあと言う始末である。
幹部はこの言葉を一生忘れないだろう(読者も忘れないだろう)。しかし、東電にとっては「危険な作業は下請けにやらせる」が「当然」のことだったにちがいない。
結局この後放水に向かう者たちは、自衛隊も消防も、「最初自衛隊が放水して蒸気の上がった場所」を目標にすることになった。
自分等の尻拭いに命を懸けてくれている人たちに情報を与えないとは、いったい東電とはどういう組織なのか。あまつさえ、民間である下請けに回すと脅しにかかるとは、盗人猛々しいとはこのことを言うのだろう。
しかも、初めの頃は給水作業の拠点としていたオフサイトセンター(東電の広大な娯楽施設)を開放せず、隊員たちは敷地内に営巣し、センター内の交差点で夜間は懐中電灯をくわえて作戦会議を行った。センター内施設を解放してからも、会議室や宿泊施設等ほとんどの施設を施錠していた。たいした歓迎ではないか。意地が悪いというか、せこいぞ、東電。
センターの開放についてはともかく、情報については前の件と同じく、東電技術者たちが混乱していたせいだろう。まさか知らなかったわけではあるまい。しかし、今までどれだけぬるま湯につかっていたかしらないが、危機管理能力がなさすぎる。あさりよしとおの『ラジヲマン』の「制御室には原発のエキスパートが・・・」「バイトです」「バイトです」「バイトです」「下請けです」「座っておけばいいって言われたんで・・・」「会社の人間なんてほとんど顔を見せないしねえ」というネタ(真実の含まれる)を否が応でも思い出してしまう。
3号機の近くに「3号西」と名付けられた高レベルの放射線を発するガレキがあった。それは数百msv、時に1000msv(1sv。半数致死量は3.5sv、致死量は7svである)を超えるほどの放射線を出していた。それは丸1日傍に居た場合優に致死量を超えるし、短時間であっても急性症状の出るほどの線量だ。
そんなモノが近くにある中、放水を余儀なくされたのは東京消防庁のハイパーレスキュー隊である。
彼らの場合、放水作業は車外が基本である。防護服を着ているとはいえ、そういう環境の中で作業をするとなれば、下手をするとかなりの量を被曝してしまう。
最初放水ポイントを決めようとしたが、最初計ったポイントで毎時300msv以上を記録、3号機の周りは何処も数百msvという高線量であった。結局放水ポイントを決められず、ハイパーレスキュー隊は引き上げを余儀なくされた。
それに激怒したのが海江田経産大臣(当時)である。
彼は、そんな臆病な指揮官は変えろと怒鳴り散らし、ハイパーレスキュー隊を下げさせ代わりに自衛隊を出せとまで言い放った。完全に越権行為である。しかし、彼は「これは内閣総理大臣の命令だ」と言い切った。すべてにおいての指揮官は総理大臣なのだから、抗議のしようがない。トラの威を借るというのはこのことだろう(この場合のトラは総理大臣と言う肩書であって中の人ではない)。ハイパーレスキュー隊隊長の顔色が変わった。任務を下ろされると言う屈辱的なことになれば、隊員の今後の士気にも関わるからだ。隊長は作業は自分等が行うと言い、統制指揮官であるCRF(中央即応集団:陸上自衛隊における、防衛大臣直轄の機動運用専門部隊)副司令官の田浦氏は、現地の指揮官は自分であると言い、ハイパーレスキュー隊に行かせるときっぱりと言った。
「ありがとう!」
電話を終えた田浦さんの両手をとって、隊長はあふれる涙を憚ることなく言った。
私はこの件を読んで、つい、「お前が行け、海江田!」と口に出して言った。
隊長が隊を引き揚げさせたことは正しいのだ。毎時300msvの線量は、先に書いた通り尋常ではない放射線量であり、死地に赴くと言ってもいいレベルなのだ。
作戦終了後に、ハイパーレスキュー隊の会見があったが、隊長の涙の訳はそこにあった。なんとか無事に終えたとはいえ、一歩間違うと隊員たちの未来を奪うことになり兼ねなかったからなのだ。
海江田大臣は、その後も干渉を続け、「遅い、早くしろ!」「○○までに20トンだ」「いや、50トン入れろ!」等とひたすら怒鳴り続けていたという。
これは、思うに権威を振りかざしているというよりも、多分、本心は逃げ出したいほど怖かったんだと思う。しかし、さすがに立場上それは出来ない。政治生命を絶たれることになりかねないからだ。それ故に過剰に放水にこだわったのだろう。せめて冷やし続ければ最悪の状態は避けられると。
もちろん、「原発事故の対処ができす、日本を壊滅寸前に追い込んだ政権の大臣」とになることを恐れたこともあるだろう。
他にも、東電関係者の信じられない話がある。ハイパーレスキュー隊がほとんど休息を取らず次の出撃に備えて準備をし、さあ出動と言う時になって工事が入るから出動を送らせてほしいと言って来たり、自衛隊航空基地消防隊が出撃するのに、現地調整所にベントの情報を伝えていなかったり(作業中の隊員たちを殺す気か)、電源車を日本中から集めたのに、型が合わずに使えなかったり・・・。
また、Jヴィレッジに居る東電社員は、技術者でも専門家でもなく、単に下請けの采配をする一般社員(ここですでに自衛隊・消防・警察を下請け扱いしている)で、何の役にも立たなかったり。
「東電はめちゃくちゃだ」
誰もがそう思ったという。
原発を単に金の生る木にしてしまい、安全神話を隠れ蓑にして危機管理をないがしろにした結果がこれである。今までは単に幸運だっただけなのだ。また、いくら頑丈に作っても耐久しうる以上のエネルギーを食らった場合、破壊されるのは自明のことである。東電をはじめとする三羽ガラスには、そう言った異常時に対応する能力が全くなかったのだ。もとより、彼らに原発の管理など出来るはずがなかったわけだ。
そして、おそらく九電のやらせ事件で証明されたように、日本国内の原発は何処も似たり寄ったりなのだろう。
さて、私の職業は土木設計だ。もっとも技術者ではないのであまり詳しいことはわからないけれども。
それで、第2章を語ることは欠かせないのである。
国土交通省東北整備局長の徳山さんが今回の被害に対して選んだのは「啓開」。
道路整備は2の次で、とにかく道路を開け救援車の通れる道を作ることが第一の目的だ。がれきを取り除き、段差の出来たところは土嚢とアスファルト合材で埋める。目標は生存リミットの72時間。3日。
海沿いにある45号線は危険な上すでに津波で使えなくなっている可能性が高いので全線通行止めとし、内陸を通る4号線を通し、それに交差して海側に伸びる16本の国道を通すという『櫛の歯作戦』を行うことになった。これで、主な被災地に救援を送ることが可能になる。
普通の地震の場合は、のっけから復旧を手掛けることが出来るが、今回のように広大な範囲に及ぶものはまず、道を通すことから始めねばならないのだ。
国土交通省傘下と有志の民間業者からなる啓開チームは不眠不休で道を通す作業に専念した。強い余震の続く中、とてつもない量のガレキに阻まれ現場はもちろん、指揮をとる側もほとんど休む暇もない。まさに突貫だ。国土交通大臣は、すべてを現場の徳山さんに一任した。予算は考えなくていい。国土交通省の枠にもとらわれるな、と。
しかし、現場は想像以上に過酷だった。
宮古出張所の警戒チームから、悲痛な声で報告が入った。
「膨大な量のガレキに阻まれて、進めません・・・!」
「そんなもの、バック・ホウ(パワーショベル)でこじ開けろ!」
「それが・・・普通のガレキじゃないんです」
「普通のガレキじゃない?」
「ガレキの中には・・・人が沢山・・・」
絶句した。
ニュースでも特集でも検証番組でも遺体は全く映らない。だから1万人以上の死者と言っても数字ばかりでまったくピンとこない。しかし、現実はそうなのだ。それだけの遺体が間違いなくどこかにあると言うことなのだ。
遺体がガレキに埋まっているのに、どこかの国みたいに勝手に埋めたり、ましてやバックホウで蹴散らしたりするわけにはいかない。自衛隊の助けを借りて手作業でガレキを撤去する地道な作業でやるしかなかった。
啓開チームは寒さとガレキだけではなく、そういう逃げ出したいような状況とも闘わねばならなかった。
諸外国が驚嘆した、短期間での道路の復旧は、こういった地道な作業の賜物なのだった。
実は、徳山さんは震災の起きる6日前に、国道45号線開通式典のために釜石市の鵜住居地区に行き、住民たちと交流があったばかりだった。だが鵜住居地区は壊滅し、そこで歓迎してくれた人たちの多くが犠牲になっていた。彼らを守ることが出来なかった自分を責めた。地震時の避難経路として万全の設計で山沿いに作ったはずの道路が、あっという間に津波に呑まれてしまったのだ。しかも、住民の多くが駆け込んだ避難所の防災センターも例外なく津波に呑まれ、多くの人々が命を落とすこととなった。しかも、6日前には自分もそこに居たのだ。
人のすることに完全はない。想定外の災害には、人の力は脆くも崩れ去ってしまう。「津波の時は、構造物に頼らずとにかく遠くに逃げろ」。この震災で技術者たちの得た答えは結局これしかなかった。
津波に耐え切れず脆くも崩れ去る巨大堤防や、ゆっくりと這うようにどんどん内陸を侵食する津波・・・。そういうとんでもない被害を目の当たりにして、日本中の技術者たちは、未だ打ちのめされている。
それから、特筆すべきは東北地方整備局の防災課長、熊谷順子さんである。
彼女がとっさに機転を利かせて、専用ヘリコプター「みちのく号」を職員を待たず乗務員だけで飛ばすと判断したため、地震発生からわずか37分という素早さでヘリを離陸させることが出来た。仙台空港が津波で使用不能となったのは、そのすぐ後だった。
彼女の冷静な判断のおかげで事態の把握が迅速に行え、いち早く対策の方針を立てることができたのだ。しかも、その結果、ヘリを被災から守ることになったのだ。もしその判断が遅かったなら・・・決まりにこだわって職員を待っていたならば、災害対策室は目と耳をふさがれた状態となり、対策も後手後手にまわってしまっただろう。
第3章では、まず冒頭の部分が圧巻である。
未曽有の災害に即対応すべく、各省庁の最高幹部(局長)とそのスタッフ達が、内閣安全保障危機管理室から内閣危機管理センター(以下、センターと表記)に結集するべく、昼日中のビジネス街を駆け抜けるシーンだ。
都心ですら半端なく揺れているのに、震源地は宮城県北部(最初の地震速報はこう発表されたらしい)で、震度は7。尋常なことではなかった。
内閣官次官は、DIS(全国指針被害推定結果)を得るために、即ファクス台に駆け寄ったが、いつもなら2・3分で届くはずが、倍以上の7分後にようやく届いた。スパコンですら、計算に手間取るほどの大震災だ。しかも、それには津波被害のデータは考慮されていなかった。
最初は皆、阪神大震災レベル(それでも相当な被害である)の想定だったが、津波を伴った場合、被害はさらに甚大なものとなる。今までに起きたことのない事態が起こってしまった。防衛省では最初「宮城県沖地震」を想定した対処計画にそって作戦を実行していたが、それを「南海地震対処計画」に変更した。それにはまだ【案】という文字がつけられていたが、3月末にそれは外される予定だった。
省の壁を越えて震災対策に追われる官僚たちが詰めたセンターに、11日深夜、異質の集団がやってきた。起こしてはならない事故を起こし、今回の震災をさらに深刻なものにした、あの原発の関係者・・・原子力安全・保安院の面々だった。しかも、その説明は、専門用語を多用しロジックを繰り返すだけのもので、まるで宇宙人と話しているようにすら覚えたという。
これも想像だが、多分、自分等にもどうするべきかわかっていなかったんだろう。技術者は専門バカでもいいだろうが、管理する連中までそれではまともな対処が出来ようはずがない。
しかも、国の最高司令官である総理大臣は、東電+原子力安全・保安院+原子力安全委員会(やたら「安全」とつけたがるな)と共にお籠りしてしまう(実際、管総理自身も彼らに振り回されていたらしいが)。
私も管総理に関しては、やたらイライラとして突然怒鳴り散らしたりする情緒不安定的な情報しか知らない。
また、事故の翌日早朝、突然現場視察にやってきたり、原発に詳しいと言ってみたり、その癖臨界を知らなかったりと、大丈夫かこの人が総理でと、テレビで顔を見るたびに不安になったものだ。それでも、その前の鳩山さんよりは何倍もマシだったのだから、幸だったのか不幸だったのか・・・。
そんな不安な政府のもとで、みんなよく頑張ったと思う。
当初、ほとんどフロントマンでありオモテに出ずっぱりだった枝野官房長官に、海外からも「Edano,Nero(枝野、寝ろ)!」という心配の声が広がったらしい(ちなみにこの反対語は「Kan, Okiro(菅、起きろ)!」だそうだ)が、表立たずに頑張った縁の下の力持ちたちは、最初の一週間はほとんどまともに寝ていないのだった。今回の未曽有と言う以外にないほどの大災害で、しかも、政府自体が障害となり兼ねなかった(実際障害になっていたが)現状でこれだけ対処できたのは、日本ならではの底力なのだろう。
このところ、特に世間からの風当たりの強かった道路や官僚制度等がしっかりと機能していたことは、やはり二元論で断ち切れるほど簡単なものではない。
もう一つ、特筆すべきは「想定外」の規模の災害で脆くも破壊された、インフラ・防災構造物と原子力発電所の事故についてだ。
両者とも、想定外の地震の破壊力で無残な姿をさらす羽目になった。被害者の数からいえば、土木構造物の被害の方が原発より遥かに大きい。今現在のところではあるが、福一原発事故で亡くなった方は東電関係の作業者ふたりだけだ。しかも、この二人は津波の被害で亡くなった。だが、原発の場合、もし被害がさらに深刻化した場合、その影響は日本のみにとどまらない。それと、もう一つ違いがあった。それは、土木構造物は何度も試行錯誤を繰り返し、壊されてはもっと強くて安全なものを作るという、歴史の積み重ねがあった。設計基準も、それに合わせてどんどん変えていった。さらに、破壊された場合もすぐさま対処出来るようにマニュアル化されている。
ところが、原発はそうではなかった。事故って放射性物質を大量にまき散らし始めた場合、対処する術がないのだ。同じ想定外でもその質は天と地ほど違うと思う。
今回は、まさに未曽有の地震と津波災害だったが、原発事故と言う人災も加わっていっそう復旧に時間がかかることになった。福島県は原発近くの復興はかなり遅れるだろうし、風評被害に関してはこれから激しくなるかもしれない。
年は明けても、状況は全く変わらず、今も苦しい思いをされている方も沢山おられるだろう。
せめて、2012年は明るい年になってほしいと願わずにはいられない。復興もままならぬ中、再び大津波が襲うことの無いよう、祈るばかりである。
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