与市さんの話
与市さんは、おわんのような或いは深皿のような、自作のボートを漕いで川下りをするのが趣味だった。
与市さんは、暇さえあればそのボートで川を下った。身近で行ける川は全部行った。流れのある場所では、与市さんはボートに座っていたけど、流れのないところでは、一寸法師みたいな感じで立ち上がって櫂でボートを漕いでいた。
川を下る与市さんはとても楽しそうだと私は思った。わたしが手を振ると、オレンジのライフジャケットを着た与市さんも。嬉しそうに手を振ってくれた。わたしは大声で「こんどぼくも乗せてねー」と叫んだ。与市さんは、「おおっ!」と答えてくれた。わたしはにこにことして、与市さんが去っていく姿に手を振った。
ある日、わたしは親父に連れられて小さいヨットで海に出ていた。わたしはまだ小さかったから、3人乗りだったけど、わたしを入れて4人で乗っていた。初めてのヨットで、わたしは大はしゃぎだった。
そこへ、何故か与市さんが、例のボートに乗って現れた。一度このボートで海に出てみたかったから、近くまで小船で渡ると、ボートに乗り換えて、海上散歩を楽しんでいたら、ヨットを見つけた。わたしが乗っていたから偶然に驚いたけど、挨拶をしようとここまで来たということだった。わたし達は与市さんとしばらくお話した。わたしは与市さんに会えて嬉しかったけど、お父さん達はちょっと困っていた。
しばらくすると、だんだん雲行きが怪しくなってきた。時間も夕方になっていた。そろそろ帰らないといけないな、と親父達が言い始めた。しかし、雲はすごい勢いで空を覆い始め、夕日がその一部を赤く染め始めた。暗い雲と赤と金色の雲、そして赤い空が不気味だけどきれいだった。こりゃあ、ひと荒れ来るぞ、と、父が言った。早く帆をたたんで、キャビンに避難したほうがいい。与市さんも危ないから、それを捨ててこっちに乗りなさい。
だけど、与市さんは、断った。その船は3人乗りで、今の人数が限界だと。凪いだ海ならいいけど、荒れたときには命取りだ。なに、近くに乗ってきた小船があるから、今すぐに向かえばなんとか間に合うだろう。そう言って、与市さんは櫂でボートを漕ぎながらわたし達と別れた。別れ際に、わたしの叔父が与市さんの姿を写真に撮った。夕焼けの金と朱色の雲を背にした与市さんの姿は黒いシルエットとなってきれいだった。与市さんはちょっとわたしの方を見ると、ぼうず、こんど川でこれに乗せてやるからな、と言って手を振った。わたしは、うん、ありがとう、と言いながら、与市さんが無事に船に着くことを祈って手を振りかえした。ふと、叔父の方を見ると、叔父は少し泣いていた。
わたしたちがキャビンに入ると、しばらくしてすごい嵐がやってきた。船はすごく揺れた。わたしは船酔いをする余裕がないほど揺れた。死ぬのかなと思った。
しばらくすると、揺れが収まった。恐る恐る外に出ると、すっかり空は晴れて、夕焼け空が覆っていた。あちこちで水滴がキラキラしていた。
助かった・・・。とわたしはほっとした。そしたら、与市さんは無事だろうかと心配になった。
与市さんの借りた小船が無人で見つかったのは、それから一週間経ってからだった。でも、与市さんとボートは見つからないままだ。
叔父が、撮った写真をプリントしたのを持ってうちにやってきた。あの時の、楽しかったことが、いっぱい撮れた写真だった。その中にあの写真があった。きれいな金と朱色の雲と、同じく金と朱に染まってキラキラした海に、与市さんとボートがシルエットになって写った写真だ。それは、今まで見た写真の中で、一番きれいだと思った。
与市さんは横を向いて写っていた。よく見ると、与市さんの口元はかすかに笑っていた。どういう思いで彼が笑っていたのか、誰も知らない。
与市さんは、とうとう帰って来なかった。
******
終戦記念日の朝、何故か、こんな物悲しい夢を見た。
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コメント
与市さん、三途の川の船頭さんじゃないんでしょうか。
お盆ですしね。
でも、確かに物悲しいですね、夢だとしても。
投稿: MM21 | 2008年8月18日 (月) 20:55
MM21さん
え? ええーーーーー???
そんな怖い夢だったんだあ~
指摘されて、今、鳥肌が立ちました。
私、お迎えに来られていたとか?
そういえば、顔、よく見えなかったです。
顔が見えなかったって、そういうこと~~~?
目が覚めた時は、物悲しいとしか感じず、怖さは全然なかったんですが、たしかに、お盆だけに洒落にならんわ・・・。
って、まあ、結局夢なんだけどね(笑)。
与市さんってのは、夢の中で名前が無かったんで、私が勝手につけたんです。名前つけちゃったなあ・・。
ひょっとしたら、今度はあなたのところに与市さんが・・・。
なぁんて、都市伝説化しそうな話ですね。
投稿: 黒木 燐 | 2008年8月18日 (月) 23:28
燐さん
えっ、えーっっ!って私は実話だと思ってたんです。
夢にしては、あまりにリアルすぎます!!!
三回読み直して、「もしかして夢の話?」と
もう一回読み直した次第です。
本当にいそうですもの、こういう人。
投稿: MM21 | 2008年8月19日 (火) 21:28
MM21さん
これは、見た夢をベースにして再構築し、わかりやすいストーリーにしたものです。実際見た夢は、もっと夢然とした支離滅裂なもので、かなり文章にするには無理があったもので。
でも、リアルな中の不条理さ、荒唐無稽さが、やっぱり夢っぽいでしょ?
投稿: 黒木 燐 | 2008年8月21日 (木) 02:23