実録 「お葬式」
このような記録を書き記すことは、身内の恥を晒すことになるだろう。しかし、あまりにも三文ドラマのような葬儀であった故、趣味でものを書く人間として誘惑に逆らえず、ここにその一部始終を記すこととする。
なお、怒涛の時代を生き抜き晩年寂しく逝った祖母の冥福を祈っていただければ幸いである。
1.祖母危篤
アルツハイマーを理由に約7年間特別養護老人ホーム(たまに病院で入院生活)に入れられていた、祖母が危険な状態に陥って入院したと連絡が入ったのは、2008年が明けて3日のことだった。
連絡を受けて、母と妹と共に急遽入院先のS病院に行くことにする。年末年始は必要以上に道路が混雑する太宰府だから、車で行くことは出来ない。それで私鉄と新幹線を乗り継いで行く事にした。
新下関駅からタクシーで病院まで向かい、ようやくたどり着き病室へ入る。 父が傍についていると思っていたが、病室には誰も居ず、酸素吸入器の規則正しい音がする以外静かな病室に痩せこけて酸素マスクをつけた祖母がひとり寝ていた。見るなりもう長くないことがわかる。
3ヶ月くらい前から顎(あご)が外れて、口が開けっ放しになっており、タンもしょっちゅう絡んでいて、腕は真っ黒に内出血、膝は曲がったままで目には目やにがたまっている。しかし、母が声をかけるとつぶっていた目を開けた。母の声は良く通るせいか、あるいは実は実の息子より頼っていたためなのかわからないが、今までも母の声にだけは反応していた。
担当の看護士さんにお話を聞く。
彼女は、あんな顎が外れている状態の患者を始めて見たと言っていた。口の中も非常に不潔になっていて、床ずれも出来ていた。さらに、栄養失調と脱水症状もおこしていた。栄養失調って・・・。ホームは病院ではないので、点滴のような医療行為は出来ない。それはわかる。しかし、せめて、もう数日早く入院させてくれていたら・・・。
万一(状況的に「万一」というのは相当楽観的な言い方だが)のことはと聞くと、
「ご高齢ですから、絶対とはいえませんが、今は安定していますから今日明日ということはないとは思いますが・・・」
そして、
「これ以上良くなることは無いけれど、老人ホームに戻れるくらいに回復することを目標にがんばりますから」と言ってくれた。さらに、
「会話は出来ませんが、手とか握ってあげると喜ばれると思います」
とも。私たちは免疫が落ちているから触らないように気をつけていたのだが、杞憂だったようだ。それで、私たちはしばらく病室に留まり、声をかけ、手を握ったり頭を撫でてみたりした。ひょっとしたら生きた祖母にはもう会えないかも知れないからだ。祖母は時折目を開け何か言いたそうだった。こういうときは、下関-太宰府間の距離が恨めしく思える。その後、私たちは後ろ髪を引かれながら病院を後にした。
さて、これからの話をわかりやすくするために、家の事情を少し説明しよう。
もともと私たち家族は、祖母と同居していた。私が子どもの頃の話だ。祖母と両親と妹と弟の6人家族だった。家から5分もかからないところに叔父夫婦が二人の子ども(姉と弟)と住んでいた。
私が小6のとき、父の仕事の関係で祖母を残し、私たちは福岡は太宰府に引っ越した。それまで祖母にかなりいじめを受けていた母のためということだったらしいが、どうやらその頃から父には福岡に愛人が居たらしい(母は後に「遅い反抗期やったね」と言っていた)。母は祖母にかなり暴力的ないじめを受けていたが、頭に血が上っていない時の祖母は優しくて細やかな気遣いをする人だった。ストレスの影響でたまにかんしゃくを起こした結果ああなっていたようだった。だから、まったく上手くいってなかったわけではなく、むしろその頃にはかなり関係が良くなっていたのだ。
祖母は戦争で夫を亡くしてからは、まさに「ヨイトマケの歌」のような生き方をしていたのだ。もっとも息子を大事にしすぎて育て方を間違ったみたいだが。
私たちが引っ越してからは、叔父夫婦が祖母の面倒をなにかと見ていてくれた。同居ではないのでそれなりに良い関係だったようだ。
その後、色々あって、大手企業に居た父は居辛くなってそこをやめ、愛人の娘と小料理屋等をやったが上手く行かず(アタリマエだ)、母の紹介でマンションの管理人をやりながら(もちろん愛人と)65歳定年を迎えた。それを機に下関の実家に帰るという。それを聞いて祖母は大喜びをしたが、内縁の妻と一緒と聞いてショックを受ける。それがまずアルツハイマーの原因であったと思う。もともと年齢ゆえに80過ぎてからボケ始めてはいたが、生活に支障が来るほどではなかったのだ。充分1人暮らし出来る状態だった。事実、それまで何事もなく家を守ってきた。さらに言うと、アルツハイマーが悪化したのは入院してからのお決まりコースだった。2年前から歩けなくなり、家族すら見分けがつかなくなってしまった。これはホームの責任というより身内の責任である。
祖母の意に沿うことなく同居が始まった。もちろん愛人とは折り合いが良いはずもなく、「前の嫁は放って逃げたが、自分はちゃんと面倒を見ることが出来る」と豪語して家に入り込んだ彼女は、1年を待たず福岡に帰ってしまった。祖母がいる限りもう戻らないと言い残して。因みに母は12年間がんばったし、第一逃げたのではなく父の転勤のせいで離れたのだ。離婚したのも祖母のせいではなく、父が愛人を切れなかったためだ。祖母とはそれなりに上手く行っていて、実は離婚後に「息子を勘当するから家に戻って来て欲しい」とすら言われた(これが母の妄想でないことは、当時祖母の家に遊びに行っていた私が電話の内容を2階で聞いていたのだから間違いない)。しかし、心情的に息子を完全に切ることは出来ないだろうと判断した母は、断ったそうだ。母はそれを今も後悔している。
その後、しばらくして転んで腰の骨を折り、それを機に入院、その後、父曰く「上手い具合に」養護老人ホームの空きが見つかり、家に帰ることなくそこに入れられた。その後、祖母は2度と家の敷居を跨ぐことはなかった。
父を弁護すれば、ボケた親を見るのは大変だし、医者から次に骨折したらどうなるかわからないといわれたら、仕方がないかもしれない。しかし、仮にそうだったとしても、盆正月くらいは家に連れて帰ってやっても良かったじゃないか。そうしたら私らも喜んで帰省しただろう。祖母が帰らなくなって、私たちも祖母のお見舞いついでに実家に帰っても、決して泊まることはなかった。代わりに愛人の家族が盆正月に来て、我が物顔で泊まっている。因みに私と妹が実家に寄るわけは、交通費をもらうため。それは祖母を入園させると聞いて、私等にはどうしようもないので、月一でお見舞いに行くから交通費をよこせと交換条件をだしたから、それを守らせるためだ。ささやかな抵抗であった。
少し説明するつもりが長くなった。まあ、このブログでも祖母や父の話をたまに書いていたが、実はこういったドロドロした話が根底にあったのである。
さて、本題に戻ろう。
2.祖母の死(1月6日深夜)
その後、家に帰っても電話が鳴るたびにびくびくものだった。あの状態では生きていること自体が辛かろう。しかし、身内の心情としてはそう割り切れるものではない。次の連休にはまた病院に行って、祖母にわからなくてもいい、「いままでありがとう」とちゃんと言おう。そう思っていた。ところが、6日日曜日夜11時過ぎ、父から「もう駄目みたいだ」という電話があった。とうとう恐れていたことが来てしまった。
それで、遅いけど今から車で行こうということにになった。夜だし前に車で行ってないから道がわからない。病院のHPから地図をプリントしたが、簡単すぎて心もとない。しかし、妹は行くと言って聞かない。あの慎重な妹が言い張るなんてよほどのことだろう。用意しているとT子(従姉弟の姉の方。祖母の孫)の娘Mちゃん(すなわち祖母の曾孫)から「亡くなった」いう電話が入った。
「ひーちゃん(従姉弟の弟の方)が、とにかく急いで福岡の姉ちゃんたちに知らせろって言うから」とMちゃんは言った。
それでもとにかく行こうと準備を続行、色々あって遅れたが、何とか出発できた。途中、遺体が家に戻っているという知らせが従姉弟側から入る。一気に緊張が解けた。これで道に迷うことなく行くことができる。夜も夜中に行ったことのない道を通るのはさすがに不安だったのでほっとした。
夜も3時近くなってようやく実家に帰り着くと、父が祖母の部屋あたりで何か言っている。
「お前たち、ちょっとここで写真を探してくれ!」
どうやら遺影にする写真を探しているらしい。3日の祖母のあの状態を見て、何も用意をしていないとはちゃんちゃらおかしい。長男だろう? あの時一度心肺停止したそうじゃないか。
「おばあちゃんの写真? ホームのおばあちゃんのベッドの傍に置いとった額縁に写真にいいのがあったろうもん」と妹が言ったが、知らないらしい。「そんなんわからん!」と逆ギレされた。とりあえず私たちは仏間に直行した。祖母の遺体が安置されている仏間と祖母の部屋は続きになっている。行くと祖母の部屋で父が写真を探していた。すぐに母と妹が父とバトンタッチをする。私は顔に布をかけられた祖母の寝ている姿に死を実感して立ち尽くした。叔父夫婦が静かに傍に座っていた。実は、叔父の方も軽いアルツハイマーに罹っており、何処まで親の死がわかっているか不明であった。以前の叔父は少し怖かったが、(こういうと怒られそうだけど)ちょっぴり惚けた叔父はなんか可愛い。
叔母が「お線香を上げてやりぃね」と手招きしてくれた。線香を上げて手を合わせる。
母がアルバムを持って叔母のところに来た。傍に座ると言った。
「ああ、おばあちゃん、やっと帰って来れたねえ。すっと帰りたい言いよったもんねえ」
そして線香をあげ手を合わせる。その後、叔母と一緒に写真を探しながら色々話していた。私と妹は他に写真はないか、祖母の衣裳部屋を探した。しばらくして妹が吐き捨てるように言った。
「何、ここ、あのオバハンのものしかないやん」
母と叔母は2枚ほど遺影の候補を見つけた。しかし、集合写真で小さい。それで、私に葬儀屋さんに聞いてくるように言った。二人とも、愛人がうろうろしているのであまり家の中を動きたくないらしい。父と葬儀の相談をしている最中の葬儀屋さんに見せると、やはり小さすぎてNGだった。それを告げに仏間に戻る途中父のセリフが聞こえた。
「ホームの方にいい写真があるんやけど、もうバタバタしているもんやから・・・」
なんか嫌になってきた。
「やっぱだめって」そういうと二人はがっかりした。私は自分も探そうと祖母の部屋に行きもう一度写真の山を捜索することにした。探していると、旅行のスナップ写真にいいものを見つけた。比較的大きく写っており、ややカメラ目線でしかも表情は穏やかで自然だった。これだ!と直感し二人に見せる。
「これ、いいやないね」
「葬儀屋さんに聞いてき!」
二人に言われまた葬儀屋のもとへ。
「うん! いいじゃないですか。これ、候補にしときましょう」
葬儀屋にそういわれ気を良くし、「念のためもう少し探してみます」と言ってまた遺影候補写真を探しを始めた。しかし、やはりあれ以上の写真は無かった。おそらく20年くらい前の写真だが、今より私たちの記憶にある「うちのおばあちゃん」らしい写真で、きっと祖母も病院で撮ったものよりそれを使って欲しいと思ったのだろうと勝手に納得した。それで、葬儀屋に「さっきので決定します」といいに言った。葬儀屋の方も、「そうですね。とてもいいお写真です。着ておられるお洋服も似合っておられますし。まあ何でしたらお洋服は着せ替えも出来ますが。いい遺影が出来ると思いますよ」と、太鼓判を押してくれた。遺影にする良い写真を見つけることができた、と思うと、少し肩の荷が降りたような気がした。
写真が決まってほっとして、仏間で祖母を囲んで色々お話をしていると、愛人が仏間傍の廊下にやってきて、ガタンガタンと大きい音を出して片づけを始めた。私はさっき祖母の衣裳部屋を「家捜し」した時そのままにしていたのに気がついた。しまったと思ったが、ご遺体のある傍で大きな音を立てる無神経さに私たちは顔を見合わせてあきれた。ましてや真夜中・・・というより明け方か・・・である。おそらく祖母に対して思いやりも尊厳もなにも感じていないのだろう。さすが悪名高いS学会の信者である。
妹が「顔を見ていい?」と聞いた。「どうぞ、見てやって」と叔母。布をめくると下にもう一枚和紙がかけてあった。それを除けると3日のお見舞いの時とあまり変らない顎が外れ口の開いた状態の顔が出てきた。
「病院でも口を閉めることが出来なかったんよ」叔母が悲しそうに言い、「でも亡くなった直後より閉まってるから」と付け加えた。目の周りや頬も赤くなったままだ。
「膝もずっと曲げたまんまだったから伸ばせなかったんよ」叔母はさらにそう付け加えた。膝が曲がったままの不自然な形なのは、布団の上からもわかっていたので、うんうんとうなづいた。そんな感じでぼそぼそ話をしていると、例の愛人がトイレに入ってまたガタガタとでかい音をさせた。
「一体なんが気に食わんとかね!」妹が不機嫌に言った。それから少しして、父がやってきた。
「○△子***」
父は言ったが聞き取れない。で「子」がつくので(妹の名には「子」がつかない)母は私のことと思い「燐子やない?」と言ったら叔母のM子のことであった。
「あ、私?」と叔母。
「ちょっとわからんことがあるから教えて」
葬儀(しかも喪主)を行うのが始めての父と違って、親戚の多い叔母は葬儀に多く関わっている。意地を張っていた父はどうにもならなくなって助け舟をよんだらしい。母は「あの女も葬儀には詳しいけん聞けばよかろうもん」と憮然として言った。「結局M子さんに頼るなら意地を張らんで早う聞けばいいんよ」
父が初めてなら当然私たちも始めてである。最も猫の葬儀は数え切れないほどやったが。
しばらくして叔母が帰って来た。それからまたみんなでお話を始めた。叔父はどれだけわかっているか謎だが、私たちに合わせて時たま笑っていた。そこに愛人がなにやら持ってやってきた。「遺影のお洋服の着替えはどうしますかって」と、母の背を素通りして叔母と私たちに見本を見せながら言った。「不自然になるからやっぱりそのままでいいです」と叔母が言い、私たちも同意した。彼女が去ると私たちはまた顔を見合わせた。そうしていたらまた父がやってきた。もともと滑舌の良い人ではない父だが、今度は比較的はっきりと叔母を呼んだ。
「M子ちゃん」
「ちゃん?」「ちゃん?!」「ちゃん、て!」「キモ~」私たちはひそひそと復唱し顔を見合わせた。
父はそれを知ってか知らずか叔母にまたお願いをした。
「ちょっとまた教えて」
叔母はすぐに立ち上がって再度葬儀屋の居る部屋に向かった。しばらくすると私が呼ばれた。一応傍で聞いておけという。まあ、私は長女であるが、一番下に長男が居る。次に喪主をするなら弟だろうが、今ここに居ないから仕方あるまい。
で、葬儀の手順やら出す料理の数や金額やらお花をどうするやらの話を聞いた。大体お話が決まり、金額を合計すると140数万円であった。しかし、これはまだ数がはっきりしない料理の分は入っていないので、総計は200万円前後になるだろう。葬式代が200万円が相場というのは本当だった。
だいたい話が決まったので、とりあえず私たちは帰ることにした。まず、叔父の身体を考えて叔父夫婦が帰って行った。父は私らが泊まると思っていたらしく、「明日お前たちに(ATMから)お金を出してもらおうと思ってたのに」と言った。しかし、私らも喪服とかそろえないといけない。特に妹は「不幸のある前に喪服は買う物ではない」という教えを守って買わないでいたので、その用意もある。祖母の遺体に「また来るけんね」と言って家を出た。家に帰ると朝の6時を軽く回っていた。
3.通夜(1月7日)
帰ってからなかなか眠れず、ようやく寝たと思ったら起床時間になった。会社に連絡をせねばならないので、朝8時30分には起きねばならなかった。頭が痛いが仕方がない。起きて電話する。電話する時声が意に反して震えるのがわかった。
夜7時からの通夜に備えて2時半ごろ家を出る。買い物もせねばならないからだ。途中サテ○に寄って妹の喪服と私の上着、その他の小物、それに弟に頼まれたワイシャツと靴下を買った。途中お通夜が7時から6時になったと知り青くなる。間に合わんやん。高速を飛ばしてなんとか6時前に斎場に着くことが出来た。駐車場には心配して弟が出てきてくれた。建物に入るといきなり目の前に通夜会場が出来ていて面食らった。人もだいぶ集まっている。従姉弟のT子から2階の親族控え室で着替えれると教えられる。しわになるからと着ていかなかったのが仇になった。祭壇とは別に、入り口のほうにも遺影が飾ってあった。すごく良い遺影に仕上がっていた。あんな小さいスナップ写真でもいいんだなと感心した。
控え室に行くと誰か貧相な普段着のオバサンがいる。よく見たら件の愛人であった。「あ、こんにちは」着ているものからさすがに式には控えて出ないのだなと判断した私は、儀礼的に声をかけた。彼女は挨拶に答えると、ブツブツ言いながら出て行った。私たちは無視して着替え始める。すると、髪が半分白髪の知らないオヤジが入ってきた。着替え途中なので驚いてパニック状態になったが、よく見ると弟と談笑しながら着替えている。なんとそれは、彼が東京に就職して以来機会がなくて、ン十年ぶりに会った従姉弟(弟の方)のひーちゃんことHroであった。
「なんだ、Hro君やん」
「お前か~、何処のオヤジかと思ったやん」
「あんたってわかってたらこんなに焦らんかったのに」
「老けすぎやん」
何十年ぶりに会った従姉妹二人にメチャクチャ言われるH君。
「オレだってあまり見たくないわい」
と、笑いながら言った。いきなり和気あいあいで着替えていると、T子が「もうお坊さんが来ちょうけん、早くしぃって」言いに来た。焦って着替えて下に行く。
下に降りるともう読経が始まっていた。焦って最前の親族席に行くと、驚いたことに親父の横にあの貧相な普段着のままの愛人が、妻然として座っているではないか。それを見た私は一瞬でカッとした。妻の席にいることも腹立たしいが、それ以上に粗末な普段着で通夜に出ていることに腹が立った。黒いセーターみたいなのに黒いオバサンズボン、その上にグレーのチョッキを着ておりそれらが全部古着のようにみすぼらしい。特にグレーのチョッキが薄汚れて見えた。例え服が無かったとしても、それなりの服装ってものがあるだろう(それに、我々はある理由から彼女がけっして貧乏ではないことを知っている)。父がまるで粗末な扱いをしているみたいじゃないか。いくら通夜とはいえちったぁ身奇麗にして来い! 第一祖母の葬儀に対する冒涜である。馬鹿にしているとしか思えなかった。読経の間中、気丈な妹が珍しく泣いていた。読経が終わり、喪主が焼香する。その後続いての親族焼香に愛人は真っ先に出て行った。その後を弟が行く。「そこはアンタの場所ではない」私は叫びたかったが、祖母を静かに見送ると誓っていた私は、ことを荒立てたくなくて必死にこらえた。斎場の人が、続いてお焼香をお願いしますと言ったが、私と妹は絶対に彼女と並んで焼香はしたくなかったので「後で行きます」と席を立たなかった。それで、先に叔父夫婦と従姉弟たちが焼香に向かった。その後に私たちは続いた。いざ焼香台の前に立ち、祭壇にある祖母の遺影を目の前にすると、悲しさと怒りがこみ上げてきた。焼香を済ませ祭壇に手を合わせるといきなり両足がガクガクと震え、持って行き場の無い怒りから両拳を握りしめた。暴れそうになるのをようやくこらえ、席に戻り椅子に座るとそのまま伏せて声を上げ号泣した。泣いても泣いても涙が止まらなかった。「くそっ、くそ~~~」と心の中で何度も叫ぶ。「誰のせいでおばあちゃんが何年も入院させられ、その挙句にやせ衰えて惨めに死ぬことになったと思ってるんだ!!」その横で妹も号泣する。阿鼻叫喚であった。親族、弔問客の焼香が終わるまで私たちは泣き続けた。弟が「オレまでもらい泣きしたやん」とボソリと言った。
通夜の儀式が終わり、遺体に対面する場面になった。私たちもお棺の前に行き祖母の顔を見る。見ると開いていた口がちゃんと閉まっており、薄化粧に紅もきっちり引いてあった。髪も綺麗に切ってくれていた。さすが餅は餅屋である。私たちはほっとした。気がつくと従姉弟のHroが傍に立っていた。数十年ぶりに顔を見るであろう祖母の顔のあまりの変貌に驚いているようだった。「全然違うやろ?」私はH君に言った。「7年間の入院の結果がこれやん」私はまた涙声で言った。久々に会った親族一同がしばらく会場でわいわい話始めた。とうとう斎場の人が「ご遺体を控え室の運びますから、みなさんも退席してお2階にお上がりください」、と催促のアナウンスを始めた。ようやく皆が動き出した。
私たちが控え室に行くと、もう遺体が運ばれてきちんと祭壇が出来ていた。お膳も運ばれており料理も並んでいた。改めて祖母の遺体を見る。やせて桂歌丸が女装した時みたいな顔になり、元気な時の面影は全く無かったが、綺麗な顔になっていた。普段から化粧っ気のなかった人だから、こんなに綺麗にお化粧したのは結婚式以来やろうねえと、母が言った。
私たちは本家の席に座り、母は離婚して縁が切れているので、別の席に座った。すると愛人はわざわざ本家の席でも母のいる傍に行き、背を向けて座った。しばらくして、私たちは叔父や従姉弟達のいる分家の方の席が開いたのでそっちに移った。そこでみんなといろいろお話をした。
「お通夜の時、親父の隣にあの人ちゃっかりとすわっとったやん。びっくりしたけん」私たちは言った。
「普通来れないよねえ、ずうずうしい」
「それに何ね、あの普段着! 馬鹿にしているよ!!」
「それで私らは頭に来たっちゃんね」
「あの人のせいで、ばあちゃん病院に入れられたんやん」
「良心の呵責ってもん無いんやろうな」
「それがあったら恥ずかしくてこんな席に出られるもんか」
「明日も出るんやろうねえ」
「出る気マンマンやろ」
「斎場の人と明日の打ち合わせをしてる時聞いたけど、明日は喪服に着替えるらしいよ」
「うへえ、すげえ面の皮やねえ」
従姉弟達も相当腹が立っていたらしい。大悪口大会になってしまった。最も本当のことだから仕方がない。特にT子は昨夜、仏間で祖母の遺体の傍に座っていたら、やはり愛人からクイックルワ○パーで周囲を掃かれたため、かなり腹を立てていた。しかし、長老が亡くなったので親族が集まって悲しんでいる時に、ああいう無礼な仕打ちをするとは、いったいどういう育ちをしていたのだろう。何が歯がゆいのだろう。もう文化が違うとしか思えない。さすがソウカがっ(略)は違うねえ。因みにウチの宗派は浄土真宗である(フツーやね)。
その後、お互いの仕事の話やパソコンの話になった。久々に会った従姉弟のHroは、昔の記憶と違って気さくで面白い人だった。
「Mからオレにばあちゃんが死んだって電話が入った時、すぐに燐ねえに知らせろってMに言うたんや」
Hroは言った。Mちゃんも、「それで探したらすぐに電話番号が見つかったけん、電話したほ」という。それで、あの時Mちゃんからすぐに電話があったんやね、と納得した。気がつけば従姉弟と再従姉妹(はとこ)が久々に全員そろい一致団結していたのである。途中、トイレから戻った妹が顔をしかめて帰って来た。
「あの女、トイレで煙草吸っとぉ!」
「え~~~? 高校生じゃあるまいし、馬鹿じゃないの?」
「全館禁煙だけど、一階に吸うとこあるじゃん」
「それがね、もう禁煙したことになってて父はきっぱりやめたけど、あっちはやめられんで陰で吸ってるんよ。父の鼻が悪いのをいいことに。だから煙草吸ってる姿を見せれんの」
「ニコ中か!」
「非常識にも程があるよ」
「俺等ちゃんと喫煙所で吸いよるもんね」
まったく、誰かさんのおかげで私たちの文化まで疑われそうである。
夜10時を回ったので、人がだんだん減ってきた。母と妹もいったん帰ることにした。犬猫がいることと、ゴミ出し日であること、足の悪い母1人を帰す訳には行かないということで、私が1人斎場に残ることにした。叔父と叔母も叔父の容態を考えて家に帰っていった。従姉妹親子とHroは、T子の長男Hsa君(通称ひっちゃん。T子のの弟のHroに名前が似ている)が名古屋から帰ってくるのを待つため、もうしばらくいるということだった。その時T子が病院での不思議な出来事を話してくれた。
「ウチらが行ったときね、もうばあちゃんは亡くなっちょったけん廊下で(死後の)処置が終わるんを待っとったほ。廊下は暗くてね、そしたら、パツン・・・パツン・・・って音が聞こえてね、足元を赤い光が通っていったほよ」
そういうとT子とMちゃんはうんうんとゆっくりうなづいた。私も一緒にうんうんと相槌を打った。そういうこともあるだろう。太宰府の方には来なかったけど、バタバタしていて気がつかなかったのかもしれない。おばあちゃんだったら怖くないから、いつでも来てちょうだい。
名古屋からの長旅を終えてHsa君がやってきた。彼は、長めの赤いバサ髪でヒゲを生やした今風の青年だった。しかし、見かけはDQNだが素直な青年で、子どもの頃は祖母のお気に入りだった。彼は祭壇の前に行くと、静かに手を合わせていた。
その後、彼らは11時過ぎに帰って行った。帰りに
「姉ちゃん、隣の寝室にベッドがひとつ余っちょるけん、ちゃんとそこで寝りぃよ。疲れちょるんやけ」とT子が言った。Hroも
「まあ、そうガチガチに考えないで、早く寝なさいって。昨日も寝てないんやろ?」と言う。気を遣ってくれるのは非常にありがたかったが、祖母の遺体を置いて寝るのは忍びない。ましてや・・・。
そう思いながら控え室に帰ると、布団が二つ部屋の両端に離して敷かれており、父が片方のふとんの横で布団に入らず転寝をしていた(要するに転寝をしている横に布団を敷かれていた。フツウ起こすよな)。あれ?と思っていると、「うったちがここで寝るけん、あっち(隣の寝室)のベッドで寝てくださいね」と愛人が言った。お通夜なのにもう寝るつもりかい。まだ12時も過ぎていないのに。っていうか、何で身内でもないアンタがお通夜に泊まるんだ。寝るなら家に帰って寝れ。家には犬だっているのに何放ったらかしているんだよ。24時間以上放置する気か? 私は腹が立ったが、「いえ、私はここにずっといますから」と、きっぱりと断り、祭壇の前に陣取った。父はすでに高いびきである。愛人の方も父とは離れたほうの布団に入って祭壇に背を向けて寝てしまった(さすがに一緒の布団に寝るのは控えたらしい)。もっとも寝ていたかどうかわからないが。それで、むかついた私は友達のしなさんに電話をかけた。誰かに言いたいことが山ほどあった。さらに、父は寝ているがあっちは寝ていない可能性が高い。そういうときに電話でひそひそ話されると気になって眠れないものだ。耳が悪いそうだが、聞こえている筈だと私は思った。1時間20分ほどしなさんに電話を付き合ってもらい、線香を足し続けた。線香を絶やさないように最近は渦巻きのお線香があるので、そこまでする必要はないらしいが、こうなったら意地である。話している最初の方は彼女もうるさそうに時々起き上がってこっちを見ていたが、夜も更けるにしたがっていびきが聞こえてきた。あまりしなさんをつき合わせるのはまずいので1時過ぎに電話を終えた。その後、半分寝ながら線香を足す。しかし、部屋の両サイドから聞こえるイビキがとても不愉快だった。双方とも祭壇、すなわち遺体に背を向けて眠っている。割れ鍋に綴じ蓋とはよく言ったものだ。似たもの同士、上手くいって当然である。お通夜ってもともとは最後の別れの夜を惜しんで、夜通し起きているというものではなかったのか。最近では寝ずの番はしないようだが(普通に寝てもいいらしい)、それでも自分の親との最後の別れなんだよ。それも女手ひとつで油まみれになりながら育ててくれた人だよ。昼は石油会社で働き、夕方からは近所の農家の手伝いをし、お米や野菜を分けてもらいながら自分はろくに食べないで、白米は遠足や運動会の為に大事に取っておいた。戦後の物のない時代に私たちが想像もできない苦労をして息子二人を育て上げたのだ。ちったあ感謝してしみじみ別れを偲んでもいいじゃないか。叔父夫婦だって、叔父があんな調子じゃなかったら、ここで一緒に出来るだけ起きて夜を過ごしてくれたに違いない。叔父は父なんかより何倍もしっかりした人だったのだ。腹が立ったので、とにかく限界まで起きておこうと思い、カバンからイヤホンを取り出してCDを聞く。これが私の好きなバンドの曲だよ、と心の中で祖母に説明したが、きっと聞こえても単に五月蝿いだけだろうなと苦笑する。何とか4時過ぎまで起きていたが、頭がくらくらし始めたので、4時半頃、祭壇の前に番犬の如く横になった。左右からステレオ状態で聞こえるいびきが五月蝿いのでまたイヤホンをつけて眠る。私は祖母の遺体は怖くもなんともないが、きっとあっちは怖いだろう。だから布団も出来るだけ遺体から遠いところに離して敷いたのだ。
明け方(と言っても私が寝たのも充分明け方だけど)、一旦起きた父が寝ている私に布団をかけてくれた。その後父は線香をあげるとまた寝てしまった。
4.本葬(1月8日):静かなるバトル
翌朝、周りがなんとなく騒がしいので目が覚めたら、父と愛人は起き出して準備をしていた。そりゃあ、12時前から寝ていたのだから目も覚めるだろうよ。私はさすがに頭が重くて起きる根性が萎えた。それで、掛け布団の中(敷布団なしで下は畳のまま)でうだうだしていたら、隣の寝室で寝ていた祖母の親戚である3人のおばさんが起きてきた。うざったいのでそのまま寝たふりをする。
「あら、燐子ちゃん、まだ寝てるの?」とおばさんの1人が聞くと父が言った。
「あ、きのう遅くまで電話していたみたいやから」
ババアめ、チクッたな。やはり起きていたか。しかし、まるで自分らは寝ずの番をしていたような口ぶりではないか。日が替わる前から寝ていたくせに。こちとら4時過ぎまでがんばったんだぜ! 朝からムカついていると、父があろうことか祖母の遺体の前でとんでもないことを言い出した。(以下声のみで、光景はわからないのでご了承を)
「昨日はバタバタして紹介出来なかったけど、k子といって、いま一緒に暮らしているんよ」
なんと、いきなり愛人を紹介し始めたのだ。
「ばあちゃんが世話になってな、つねられたり引っかかれたりしながら面倒みてくれたんよ」
おばさんたちは、へえ、そうなの、と言いながらお互い挨拶をした様子だった。確かにつねられたり引っかかれたりしたことは事実だが、私の母がされたこととは雲泥の差である。何故なら祖母の体力が弱っていたから、それしか出来なかったからだ。面倒を見たっていっても1年も経たず嫌になってさっさと実の娘のところに帰っただろうが。さらに彼女が祖母がいる限り戻らないと言ったが為に、祖母は入院させられたのだ。祖父の遺族年金がなければ、放置されて殺されていたかもしれないと思うとゾッとする。それだけ当時の父は祖母を邪魔者にしていた。
言ってしまえば、祖母じゃなくったってあの状況にあれば、同じようなことをしたと思う。祖母がどれだけ歯がゆい思いをしたか、あの愛人がどれだけ根性が曲がった人か、祖母が亡くなってから葬儀を終えるまでの数日間に、彼女と接した親族は痛感したと思う。因みに3人のおばさんたちの1人は父の言葉を鵜呑みにしたようだが、他の二人はだまされなかったようだ。目は覚ましていたのだから否定しようと思えば出来たが、どっと疲れてもうどうでも良くなった。後から母と妹に怒られたが。
頃合を見計らって、私は布団から身を起こした。線香を上げに祭壇に近づいてきたおばさんとちょうど目が合った。
「起きたん? よく眠れた?」
「ん~~~・・・、4時までがんばったけど、力尽きました」
私は起きていたことをアピールした。
今日担当の斎場の女性3人がやってきて、挨拶をし、遺体にも丁寧に挨拶をして合掌した。今日の予定を簡単に説明し、その後、お食事の用意が出来てますので、どうぞあちらの部屋にお入りくださいと言った。5人は立ち上がってぞろぞろと指定された部屋に向かった。私は同席したくなかったので、母や従姉妹を待つよと言って控え室に残った。1人になったのでまた祭壇の前に座って、コーヒーを飲まない私の為に、昨日T子の末娘のKちゃんが持ってきてくれた紅茶を飲んでしみじみとしていたら、斎場のお姉さんがコーヒーを持ってきてくれた。普段コーヒーは飲まないが、せっかく持ってきてくれたので頂くことにした。疲れていたせいか、思ったより美味しく飲めた。
しばらくして、食事が終わったようで、愛人が斎場の人と着替えにやってきた。係りの人は
「こちらでお着替えしましょう」と言って控え室に来ようとしたが、私がいるのを見て「あ、じゃ、ベッドルームの方へ・・・」と言いなおした。期せずして、祖母の遺体の前での愛人生着替えは阻止することが出来た。私は小さくガッツポーズをした。
9時半ごろ弟が来て、10時ごろ母と妹、そして叔父夫婦がやってきた。みんなで食事をしに部屋へ行く。これは、お斎(おとき)という、故人との最後の食事である。しかし、父が朝ご飯などと言ったためにみな訳がわからなくなってしまった。葬儀の手順は聞いていた筈だが。しばらくすると、従姉弟と子ども達(と言っても全員成人しているが)たちもやってきた。
11時から葬儀なので、現世での故人との最後の食事が終わるとまもなく本葬が始まる。その間に、親戚のスナップ写真を撮った。多分もうこれだけ親戚が集まることはないだろう。
時間が来たので、下の会場に向かう。遺族席にいくと、予想通り紋付きの着物を着た愛人が父の隣に妻然として座っていた。私たちはひと席空けて座った。父は何にも言わなかった。お坊さんが現れて、読経が始まった。昨日は長髪ヒゲの今風の若い坊さんさったが、さすがに本葬らしく、御住職が来られた。ただし、長髪ではないがやはり有髪である。浄土真宗は比較的柔軟な宗派のようだ。
お経を聞きながら、色々思い出が甦ったが、昨日かなり発散したので今日は落ち着いていた。焼香の時も、きゃつは相変わらず喪主のあと真っ先に焼香に立ったが、もう冷ややかな目で見るくらいの余裕が出来た。もちろん並んで焼香はしなかった。例え葬儀の儀礼を欠いたとしても、それだけは譲れなかった。間を置いて従姉弟たちの後ろに並んだ。
滞りなく葬儀が終わり、いよいよ遺体と最後のお別れをする時が来た。斎場のお姉さんたちがテキパキとお花の用意をする。父が最初にお花を手向けた。その後皆がわらわらと近づいてきた。私たちはお姉さんからお花を受け取ってお棺に向かった。その場でまたムカツク光景に出くわした。さっさとお棺の頭元に陣取った愛人が、みんなが入れたお花をせっせと並べ替えている。そこをどけ、ゴルア! あんたに見送られたら祖母が死に切れないで迷ってしまうだろうが! と、思いながら(言いたくても口には出せない辛さよ)私たちが傍に行くと、誰かが割り込んで愛人を祖母の傍から引き離した。そこに私たちが行き、母も近寄ってきた。
お棺に花を入れると、いきなり母は祖母にしがみついて泣き出した。「おばあちゃん、ごめんね。私が出て行ったばっかりにこんな目に遭ってから。つまらん嫁やったね。ごめんね。私がこれからおばあちゃんの分まであの人を恨んであげるからね」
予想はしていたし、気持ちは痛いほどわかるけど、今はそういうことを言ってはいけないのだ。本来は花を手向けると静かに手を合わせ冥福を祈る儀式なのだ。「みんな知っとおけん、そんなこと言ったらいかんやろう」「ばあちゃんが心配して逝けんごとなるよ」私らは母をなだめた。T子も「おばちゃん、ここの人はみんなそれはようわかっちょるけぇ、今それ言うたらいけんよ」と言いながら背中を撫でていた。ようやく祖母から母を離した。祖母から離されながらも母は「惚けてなんかいなかった。入院するほど惚けてなんていなかったんよ」と搾り出すような声で言っていた。控え室に連れて行こうと妹と二人で母を支えて2階に行く。
「お骨は絶対にあいつに触らせたくない」母は言った。私たちも同じ意見だった。T子も昨日同じことを言っていた。悔しいが、今家に入っている人はあの人だからどうしようもない。しかし、去年のお盆に実家の仏壇を拝みに言ったら、仏間は半ば物置と化し、その上カビ臭く、あげてある花も貧相でしかも枯れていた。マッチが湿気ていて蝋燭になかなか火がつかない。お盆にしてその状態である。あの人はソウカだから、他宗の仏壇は触らないだろうが、親父は何をしているんだろう。お墓の維持も叔父夫婦が、したがって今は叔母がしていたらしい。これからは祖母が入るから私たちも親父になど任せないでしっかり守って行かないとね。
ようやく母が落ち着いたので、火葬場に行くため下に降りた。念のため、着替えなどの要らない荷物は車に持っていく。走って戻るとみんなもう集まっていた。霊柩車に棺桶が運び込まれ、位牌を持った喪主である父を先頭に、遺影を持った弟と遺骨箱をもった従姉弟のHroが並んで厳かに霊柩車に乗る。本来なら遺影は叔父が遺骨箱を弟が持つべきだが、叔父が不安定な状態なのでそれが出来なかった。祖母も可哀想だが叔父も気の毒だ。でも、息子のHroはしっかりと父親の代わりを務めたと思う。
プヮァン!とクラクションが鳴らされ、霊柩車は出発した。
その後、バスに遺族がどやどやと乗った。愛人は前の方に1人座っていた。だれも挨拶もせず、傍にも寄り付かなかった。バスの中で、母の様子がおかしかった。自分が今何処にいるか把握出来ない状態に陥っていたんだ。さっき頭に血が上ったのがまずかったのかもしれない。叔父に続いて母まで惚けられてはかなわない。妹はずいぶんあせったらしいが、火葬場につく頃にはだいぶ戻っていた。
火葬場に着き炉前に並ぶ。焼香をすませ、喪主である父と叔母と弟がお棺の傍に並ぶ。残りの遺族・親族は焼香をした手すりのある少し高いスペースにそのまま残り、最後のお別れをした。すべるようにお棺が炉に入り、無情にも炉のドアが閉まった。ゴーッという音がする。これで本当にお別れだった。ところどころですすり泣く声がしたが、静かな別れであった。
火葬を待つため待合室にいく。部屋の前にものすごい金釘文字で「黒木」様と大きく書いてあった。「様」は印刷されているのでゴシック文字だったが、そのせいで余計に手書きの下手なのが目立っている。誰が書いたんじゃ~と思ったが、隣の部屋も同じ字だったので、火葬場の職員さんが書いたのだろう。まあ、葬儀場ではないのでわかり易ければいいのだが。因みに私も字はド下手クソだから、あまり人のことは言えない。またもしばらく久々にあった親族が和気藹々と話していた。叔父も大人しく座っている。父がやってきて「売店でウチの名前を言って好きなものを頼んで。あとでまとめて支払うから」と言った。従姉弟のT子の娘たちが皆のコーヒーを頼みに行く。よく働く子たちだ。しばらくして見たらT子の末娘のKちゃんがアイスクリームをおいしそうに食べていた。「もう、あの子は~」T子はあきれて言った。みんなが大笑いした。その後、息子のHsa君もアイスを食べていた。甘い物好きな姉弟だ。まあ、部屋が日当たりが良くてクソ暑かったせいもあると思う。10月の陽気らしい。それなのに、父は葬儀の時の挨拶に「本日はお寒い中・・・」などと言っていた。まあ、15秒くらいの短い挨拶で済ませてくれたのでそれ以上ボロが出ずに助かったが。愛人は最初一緒に部屋に居たが、途中から外に出て行った。誰も相手にしなかったせいもあるだろうが、単にニコチンが切れただけかもしれない。廊下をすたすた歩いてトイレに行く姿を見た人もいた。最近足が悪く以前のように歩けなくて私たちに支えられている母に対抗してか、皆がいる前ではヨタヨタ歩いていたが。
しばらくすると、火葬が終わったと言うアナウンスがあったので、一同お骨あげの部屋に向かった。ガラガラと炉から遺骨が運ばれてきた。とうとう骨になってしまった。若い頃から働いて鍛えられていたので、身体は老いて、その上長い寝たきりの生活でやせ衰え小さくなってしまったとはいえ立派な骨だった。火葬場の人の収骨に関しての説明があり、その後「喉仏」の説明があり(喉仏は軟骨であるため火葬時に燃えてしまう。火葬の際「喉仏」として納められるのは、実は第二頚椎である。これは猫を火葬する時ペット霊園の方が教えてくれたので知っていた。犬や猫にも喉仏があるのだ)、まずそれを喪主の父が拾って小さい骨壷に入れる。喉仏が綺麗な形に残っていると、死後に良いところに行けるという。高齢でその上死ぬ前はひどい栄養失調状態だった割りに、綺麗な喉仏だった。火葬場の方も、少し崩れてしまったけど、お年の割りに立派な喉仏ですと言われた(実際は喉仏ではないので火葬場の方は違う呼び方をされていたが失念)。
「この後お足の方から拾っていきますが、お箸は各自で取られて決して使用した箸を他の人に渡してはいけません。充分お箸はございますから、使用されたお箸は必ずいったん置き場に戻してください」
その説明の後、本格的にお骨上げが始まった。まず、遺族である私たちが箸を手に取る。その時愛人がずうずうしくも父の後に続こうとしたので、わたしはニッコリ笑いながら(っていうか笑ったつもりだが・・・)「お骨あげはご遠慮ください」と言いそれを阻止した。弟も「ん、そうだな」と言う。あっちは私たちを手懐けていたと思っていただろうが、祖母が死んでしまった今、気を遣う必要はすでにない。父が骨を拾い骨壷に入れ終わると懲りない愛人は父から箸をもらおうと考えたらしい。いそいそと父に近づいた。しかし、驚いたことに父が彼女を怒り飛ばした。「だめ! 人から箸をもらうなって説明があったろうが!」これには母も驚いたと後で言っていた。私は「へぇ!」と思ったが、箸を持って遺骨の傍に行った。先に弟が脛の骨を拾った。その後私は膝の骨を拾った。何十年も前から痛めて辛い思いをしていた膝の骨だ。骨と皮のようになっても膝の骨だけはごつごつと大きく目立っていた。他の骨に比べて赤いように思えた。その後箸を戻して済んだ人の中に戻ると、愛人はしっかり骨を拾う列の中に入り込んでいた。あまり言って葬儀を荒立てたくなかったのでこらえたが、ヤツに骨を拾われてしまったことが今思っても悔しくてたまらない。
最後に近親者が頭の骨を拾う。父が行き続けて弟と私が行った。頭の骨は白くて綺麗だった。最後に会った時頭を撫でたなあ、と感慨深く思う。「これ、でかいけど大丈夫ですか?」と頭頂骨を指して言うと、大丈夫だと言われたのでそれを取って入れた。お骨上げが終わるとみんなで合掌する。骨は骨壷に入りきれないので、残りは納骨堂できちんとお祭りいたしますのでご了承ください、と火葬場の方がいい、台を引き上げた。火葬場のお姉さんが骨壷に被せ物をし、白い布で包み始めた。最初普通の結び方だったのに、見る見るうちにお花のように変化していく。これはひとつの職人芸だと思った。骨壷を包み終わると、火葬場を後にする。喉仏の入った小さい骨壷は父が持った。大きい遺骨の入ったほうの骨壷は誰がお持ちになりますか、と聞かれたので、私は変なのがでしゃばる前にすかさず弟を指した。
斎場に戻ると残るは最後の換骨勤行と初七日の法要である。最近は葬式の時初七日まで終えてしまうようだ。私たちは用心のため持って行ったコートとその他の使わない物をしまうため車に向かった。そこに従姉弟のT子が走ってやってきて言った。
「ちょっと挨拶状見せてくれん?」
母が離婚して縁が切れているため、式には元嫁として出席させてもらったが、香典を包んだので香典返しをもらっていたからだ。
「どうしたん?」
「いや、ちょっとね」
と言いながら、挨拶状の内容を確認して安心したように「ありがとう」と言って戻した。
「あ~、名前確認したっちゃろ?」
と私たち。
「うん。親族の名前とかが書いちゃってあの人の名前があったら嫌やけん」
従姉弟も気になっていたらしいが、挨拶状には父の名と叔父の名が書いてあり、あとは親族一同となっていた。従姉弟も私らも一安心した。
その後、2階に行くと祭壇が出来ており、みんなが席に着いた。そこに斎場の人が来て、お坊さんへのお布施は今渡すといいですよ、と父に言った。父はあわてて熨斗袋を手に出て行った。父はなかなか帰ってこなかった。なれないことで戸惑っているのだろうか。やっと父が帰ってきてお坊さん入場となる。今度は本葬の時より若いが、通夜より年上のお坊さんだった。声はモンゴルの独特な歌声ホーミーに近かったが、時折タンがからむのが気になった。ようやく換骨勤行が始まり、続いて初七日へと続く。二つ一緒なのでけっこう長い時間がかかった。父と弟と従姉弟のHroが右前列の席に座り、私は左前列の叔父夫婦の傍に座った。件の愛人はさすがに気まずいとわかったのか、メインが終わったと安心したのか、ひとつ後ろの席に座っていた。隣にT子が座っており、憮然とした表情をしている。おそらくT子と子どもたちは防波堤になってくれたのだろう。しかし、お経の途中、香具師は居なくなっていた。他宗派のお経をこれ以上聞きたくなかったのか、ニコチンが切れたか。おそらく両方だろう。父が途中で帰すとか言ってたので帰ったのかもと思ったが甘かった。
式が終わると、最後の精進落としの用意のためしばし待合室で待った。その間葬儀前に撮りきれなかった分の撮影をする。私がカメラを忘れたので使い捨てカメラだ。その時、父は大事に香典やら芳名帳やらの入った紙袋を大事そうに持っていた。それで、誰が葬儀に来られたか知りたかったので芳名帳を見せて欲しいと言ったが、何故かゴマかされてしまった。父は決して袋を開けようとはしなかった。あと、犬についても聞いてみたが、やはり昨日から1匹で置いてきたという。母と妹に「ひどいねほったらかしだって」と言ったら「きっとあっちの家族が来とるとよ」と言った。
精進上げの用意が出来たので、部屋に行く。葬儀の祭壇の写真が撮れなかったので、妹に携帯電話のカメラで撮ってもらう。壊れかけているとはいえ、カメラを忘れたのは失敗だった。さて、料理の席に着いて食べ始める。後ろの席に父が居たが、横にはしっかりと喪服からこ汚い例の服に着替えたカノジョがいた。結局ほとんど最後まで居るんかい! カノジョの前の席にやはり従姉弟親子が座っており、やはりT子は憮然としていた。
精進落としの料理は美味しかったが、油物がほとんど食べられず、出されたものは全部食べる(ネギ除く)をモットーとする私が残してしまった。けっこう朝の精進料理も全部食べれなかったのだから、少し胃にきているかもしれない。食べ終わると、親戚たちはどんどん帰っていった。私は途中斎場の方が「食べ終わられたら言って下さい。別室を用意しますから」と言ったのを確かに聞いたのだが、なんかこれで終わりらしい。それに従姉弟たちはなにか言いたげだった。私たちはお花をたくさんもらい、叔父一家はお花を一束と父が置いていくと言った余った香典返しをもらっていた。
父はお骨や諸々といっしょに弟の車で帰ることにした。私らも皆に挨拶をして車に向かう。帰りがけ、父に「気をつけてね、あとでがっくりこないようにね」と言った。本当に、今まで祖母という鬼瓦があったが、これから相手がどう出るかわからない。父は自業自得だが、やはり食い物にされるのは腹が立つ。しかし、どんなに相手の正体を言っても、私たちが昔香具師からどんなに電話で嫌がらせをされたか言っても信じてくれないのだからどうしようもない。まあ、下関で70代の男性に何かあったというニュースがあったらこのブログを(以下略)。まあ、杞憂である可能性も高いが。
名残惜しいが、斎場を後にする。寝たきりになってから長かったが、死から葬儀が終わるまであっという間の出来事だった。人とは儚いものである。祖母はこの世から居なくなったが世界は変わりなく動いている。私たちも明日からは日常に戻る。人の世は夢であり現(うつつ)である。だからこそ、後悔しない様に精一杯生きなければならない。死神が魂の尾を切るその日まで。
偉人でもない、有名でもない、何かすごいことをやったわけでもない。ほとんどがそういう人間だが、歴史は偉人だけで成り立つものではない。歴史は名もない人間達が刻んでいくものだ。小さい人間が小さい世界で助け合い傷つけ合いながら生きていく。その1人がひっそりとこの世を去った。平凡で取り立てて何をしたというわけではない。
嫌な思い出も多い。しかし、亡くなってみると、思い出すのは良かったこと楽しかったことばかり。頭のいい人で、暗算がすごく速かった。声がでかく、さらにくしゃみをしたら20m先バス停まで響いた。決して上品とはいえない人だった。
クリスマスにサンタクロースのプレゼントを孫に買うのが楽しみで、毎年こっそり大荷物を持って帰って来たこと。寝るのを待って枕元に置いてくれたこと。誕生会やクリスマス会をいつも盛大にやってくれたこと。いつもケーキをホールで買ってくれた。運動会の徒競走で、いつもドベかドベから2番目だった私が、何故か2位でゴールした時「燐子、2等やが!」とゴール近くまでやってきて喜んでくれたこと。定年後は趣味で畑を始めて、私たちが転勤した後は、家に来るたびに行商人のような大荷物を背負って持ってきてくれたこと。成人式の振袖を嫌がったら、悲しい顔をしながらも、スーツを買ってくれたこと。盆正月に帰省したら、必ず好きなものを覚えていて、大量に買って待っていてくれたこと。お正月にはいつもお餅をたくさんついて帰りに持たせてくれたこと。多くが自分が苦労した分、子や孫が衣食に困らないようにと配慮してくれたことだった。
しかし、とうとう92歳で鬼籍に入った。世界でも長生きの部類だ。しかし、晩年は決して幸せではなかった。だけど、今はあの世で約70年前に亡くなった祖父と茶でも飲みながら、積もる話をしているだろう。何せ70年分だ。しばらくネタに事欠かないだろう。体の痛みや苦しさから解放されて、下界の子や孫達のドタバタを笑って見ているかもしれない。いや、そうあって欲しいと思う。
家に帰ると、会社に電話をして翌日まで休みをもらった。その後、パソコンに向かいメールやサイトチェックをしていたが、さすがに疲れて這うようにベッドに入り早々と眠ってしまっていた。
5.その後
私は遺族側としての葬儀は初めてだと先にも書いた。母も幼い頃には葬式を多く経験したが、成人してから葬儀を行う側になったことがない。それなのに、普通なら7日にいったん帰った時、ネットで葬儀について調べるところを、気が動転していたせいかまったく下調べもしなかった。
葬儀の翌日、母は叔母に電話し、私が話した葬儀の朝の出来事を憤慨して話していた。その時、母は叔母から香典は遺族がが集まっているところでみんなで確認するものだと言うことを知らされた。斎場の人が別室を用意すると言ってたのはそういうことだったのだ。父は何と言って誤魔化したか知らないが、それであの時従姉弟たちが何か言いたそうにしていたのだ。もちろん遺産とは違い香典は喪主が受け取る権利がある。それを葬儀代や余ればその後の法要の足しにするためだ。しかし、それはお金が欲しいとか言う低レベルの問題ではない。誰が来て香典をいくら出してくれたかを知ることは、今後のお付き合いの為に知る権利がある。葬儀に参加してもらったからには、相手側に不幸があった時も出席せねばならないからだ。気持ちの問題である。特に思いのほか出席してくれた一般弔問客は、叔父や叔母の今までの地域貢献によるところも大きかったのだ。余談だが弟の会社もすごかった。通夜には社員の皆さんが駆けつけてくれ、献花も左右に2スタンド、さらに電報を下さった上に、葬儀にはイケメンの社長まで来てくださった。
それで、気になって父に電話したら、昨日のうちに開封し、斎場への支払いも済ませたという。それで、ちゃんと名前や金額をメモしてるか聞くと、やっているという。昨日から家でも弔問客が絶えず、記帳していかない人もいて何がなんだかわからないという、妙な返事が返って来た。とにかくちゃんと叔父達に知らせるんだよと言い含めて電話を切った。
しかし、翌日驚愕の事実(笑)を知る。叔母からの連絡で、父は名前と金額を書き出したモノは作っていたが、肝心の芳名帳を捨ててしまったらしいということを知る。あれこそ大事に取っておくものではないか。私は念のため書き出せとは言ったが、芳名帳を捨てろとは言ってない。というか、想定外の暴挙である。しかも。名簿は全員分ではなかったらしい。よっぽど見せたくないんやろうね、と母が言った。葬儀の晩、愛人の身内とウハウハで香典を開け、何割か抜き取って愛人が池■どっこい大作に貢いだと決め付けている。まあ、それは考えすぎかも知れないが(ソウカが香典をかっさらっていくのは有名な話だが:参考(身内に熱心な信者が居た場合、勝手にもっていくことがあるようですね))、そのように邪推されないためにも、みんなで開封は必ずやるべきなのである。叔母は「もう関わりたくないし、息子にもでしゃばるなと釘を刺されたから、勝手にさせておく」とさじを投げた。
さて、これから先も楽しい展開が待っているかもしれない。まだ何かしでかした時は、ここでまた紹介しようと思う。
長々としたある意味面白く、ある意味他人から見るとしょうもない、葬儀での話を最後まで読んで下さってありがとうございます。良かったら、祖母の冥福を祈ってくださると嬉しく思います。(合掌)
※お世話になった葬祭式場:典礼会館
■おことわり■
このエントリーにおいて、ある人物に対して悪し様に書いた場所が多々あり、気分を害された方もおられるかも知れませんが、書かずにおれなかった気持ちをご了承ください。
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コメント
一気に読みました。燐さんの無念さや悔しさがひしひしと伝わってきました。僕も似たような経験をしています。もっともこちらは配偶者の父の後妻ですが、そいつのおかげで仲の良かった義父の兄弟は大変な目に会いました。したがって燐さんの気持ちのある部分は良く分かります。
最後の写真には合掌してご冥福をお祈りしておきました。燐さんもゆっくり休んで、いつもの元気なエントリーをお願いします。
投稿: drac-ob | 2008年1月13日 (日) 02:04
合掌
投稿: しなさん | 2008年1月13日 (日) 11:35
drac-obさん
早速の一気読みと祖母のための合掌、どうもありがとうございました。
早いもので、亡くなってからもう一週間経ってしまいました。まるで夢のように早く過ぎて行きました。
しかし、drac-obさんも同じような経験がおありだとは!
心の兄妹かもしれませんね(笑)。奥様もきっと私と同じよな思いをされたのでしょう。やはり「後添いには気をつけろ!」ということでしょうか。
>燐さんもゆっくり休んで、いつもの元気なエントリーをお願いします。
ネタはたくさんありますので、近いうちに復活すると思います。ありがとうです。
投稿: 黒木 燐 | 2008年1月13日 (日) 19:42
しなさん
祖母の為に合掌、どうもありがとうございます。
その節は長電話につき合ってくれてありがとう。
おかげでだいぶ眠気も飛びましたし、ストレスも発散出来、
翌日の葬儀に備えることができましたよ。
投稿: 黒木 燐 | 2008年1月13日 (日) 19:45
久しぶりに燐さんのブログにきてみたら
おばあ様が亡くなられていて驚きました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
私も去年身内を亡くしましたが、
いろいろありました。
どうか、お体に気をつけてお疲れが出ませんように。
投稿: A in Black | 2008年1月13日 (日) 21:06
不覚にも泣けてきました。
うちも主人の身内に同じような話があるので
何ともいえない思いが伝わってきます。
蛇足ですが、うちの父が亡くなったときも
昔父に愛人がいたことをお通夜の時に聞かされてびっくり
した(しかも妹がこの事実を先に知っていた)ので、
燐さんが色々書いたり言いたいことがあって当然です。
お母様、妹さんもお疲れが出ませんように。
投稿: MM21 | 2008年1月14日 (月) 00:23
A in Blackさん
お悔やみどうもありがとう。
そうですね、A in Blackさんのところもお父様が亡くなったのですよね。
祖母の場合は結果的に老衰ですが、お父様はまだお若かったですから、悲しさもひとしおでしょう。
>いろいろありました。
やはり誰か死ぬとなにかといろんなことがおこってしまうんですね。
今のところ、私には疲れはありませんので大丈夫とは思いますが、母の様子がやはりちと変ですね。
ついていかないように気をつけないと。
投稿: 黒木 燐 | 2008年1月14日 (月) 20:47
MM21さん
私も書きながら何度も涙が出ました。
ちょうど初七日の日に後半部分を書いていて、色々思い出しながら書いたので、少しは供養になったかなと思っています。
旦那様のお身内にもそのようなことがおありでしたか。
やはり、人が亡くなるとなにかと周囲の人の本性みたいなものが出るのでしょうか。
>昔父に愛人がいたことをお通夜の時に聞かされてびっくり
進行形でなくて良かったですね。
しかし、お父様のイメージがずいぶんと変わったのではないでしょうか。妹さんが先に知っておられたというのもまたショックだったのではないかと思います。
とりあえず私は元気だし、妹も2月に旅行に行くとかいって前向きに元気にしております。しかし、前のコメントに書いているように、母が一番ダメージを受けているようで心配です。
投稿: 黒木 燐 | 2008年1月14日 (月) 21:03
お悔やみ申し上げます。
8日から入院でしたもので、ドタバタして御挨拶が遅れました。
あ〜、ウチも父の時ひともんちゃくあるんやろうな〜〜〜
(ノ^_^;)ノ ~┻━┻ ☆
投稿: bergkatze | 2008年1月20日 (日) 16:58
bergkatzeさん
お悔やみありがとうございます。
先輩の入院お知らせメールが届いたときはもう、祖母はアッチに逝っておりました。
お葬式あとの親族のごちゃごちゃは、どこでもあるみたいですね。難しいですが、出来るだけ冷静に対処するのが一番なのでしょう。
投稿: 黒木 燐 | 2008年1月21日 (月) 12:31