彼らはすでに水を得た魚だった。相変わらず貧乏ではあったが精力的にギグを行った。ジェット提供の車でライヴの出来るところなら何処でも行った。そのアイスクリームバン(アイスクリーム販売用のバン。ジェットはこのようなバンを数台所有していたが、バンドに投資する為に酒屋のビジネスをたたんだ時に新車一台を残した)はあっという間にポンコツになった。宿泊場所が得られずに路上で寝たことすらあった。結果彼らの知名度は徐々に上がり、フィンチュリーボーイズという、彼らのところなら何処へでもついて行く熱狂的なグループも出来た。1982年に大ヒットすることとなった「ストレンジ・リトル・ガール」や「マイ・ヤングドリーム」といったメロディアス路線の曲も、実はこの頃出来たものだ。
そして、ついに1976年12月、彼らはユナイテッドアーティスツとの契約を勝ち取った。彼らにとってはこの2年間の苦労の賜物だったわけだが、彼らの契約を快く思わない既存のバンドもいた。どこの馬の骨かもわからないちんぴらバンド風情が!と。
しかし、彼らの活躍はめざましかった。折しもパンク/ニューウェーブシーン真っ只中、過激な演奏と言動の彼らはパンクにカテゴライズされた。彼らもその状態に答えるように暴れ回った。実のところ、彼らの曲や歌詞はそれと一線を画するものであったのだが。JJの暴力とヒューのアジテーションは、このころが頂点だったかもしれない。
ストラングラーズは「夜獣の館」"Rattus Norvegicus"・「ノーモアヒーローズ」"No More Heroes"・「ブラックアンドホワイト」"Black & White"と次々とアルバムを発表していった。ファーストアルバムは一気に4位までチャートを駆け上がった(77年11月のラウンドハウスのギグではフー、ストーンズという大御所バンドが持つ観客動員記録を塗りかえた。)。パンク・ブルース・プログレ・ラップ・レゲエといろいろな要素を持ったバラエティ豊かなファースト"Rattus Norvegicus"は、すでに彼らの持ち味と才能を充分発揮していた。セカンドアルバムの"No More Heroes"は、意識してかパンク色の強いアルバムになっている。表題曲は彼らの代表曲となった。またサードアルバム"Black & White"の重戦車を思わせるウルトラヘヴィ級の音は、日本でも多くのファンを魅了した。因みにこのアルバムの中には、"Outside Tokyo"と三島に捧げた"Death&Night&Blood"という、日本をテーマにした曲が2曲収録されている(B&Wは全英アルバムチャート初登場で2位にランクイン)。
しかし、'79年にリリースされた4枚目のアルバム"The Raven"あたりから微妙に方向が変わり始めていた。また、この年はヒューが"Nosferatu"、JJが"Euroman Cometh"と各々ファーストソロアルバムを出した年でもある。"Euroman Cometh"はヨーロッパの統一がテーマのアルバムで、それは約20年後現実のものとなる。ストラングラーズがコンサートのため2度にわたり来日したのもこの頃だ。ここは日本ファンには重要なことなので、少し詳しく記述しよう。
この来日で"Something Better Change"3回連続演奏(初来日東京公演の最終日2月19日)やヒューの"English Flash"事件、そしてJJがステージに上ってきたファンに囲まれ演奏不能に陥って"ワタシはベイシティ・ローラーズじゃナイ!!"と叫んだ等、数々のエピソードが生まれた。
"Something Better Change"3回連続演奏は、特に重要なエピソードだ。初来日時、彼らは熱狂的に迎えられたが、彼らは何故か"Something Better Change"を連続で演奏したのだ。しかし観客は怒る様子もなく嬉しそうにノッている。3回目でヒューはキレて怒鳴り始めた。日本のファンは何がなんだかわからなかった。彼らのメッセージが理解できなかったのだ。その時言ったJJの言葉はしばしファンの語り草となった。"Don't smile so much,it can make you blind.(あまりヘラヘラするなよ。メクラになっちまうぜ。)"
また、この年にはJJがリザード(70年代に出現した東京アンダーグラウンド・シーンのカリスマバンド)のファーストアルバム"LIZARD"をプロデュースしている。
アルバム「レイブン」"The Raven"に話を戻そう。今まで言わば猪突猛進で突き進んでいた彼らだが、このアルバムから徐々に内側に向かい始めたのだ。ヒューが麻薬所持で逮捕され、実刑をくらったことも関連しているかもしれない。JJはこのアルバムの中の"Don't Bring Harry”という曲で麻薬の空しさを歌っている(Harryは麻薬の隠語)。
彼らはラットに続きシンボルに新しくワタリガラス(Raven)を加えた。バイキングの旗に記されているワタリガラス(北欧のバイキングたちはワタリガラスの帰巣本能を利用し、船上から1羽ずつ放って出発地の方角を知った。)を堂々とアルバムジャケットに配し、また、ワタリガラスを意匠したシンボルをかざしながら、ヨーロッパ人として自らをバイキングの子孫と誇った。また、このアルバムでは核実験や今で言う遺伝子工学に対して大皮肉をかましている。そして次なるアルバムに繋がる曲"Meninblack"の存在は暗示的であった。
'81年に発表された彼らの5枚目のスタジオアルバムにあたる「メニンブラック」"The Gospel According to The Meninblack"を聴いたファン達はとまどった。今までのアルバムが「動」ならば、これは「静」とも言えるものだったからだ。"Meninblack"とは、元々UFO目撃の隠蔽工作をすると言われている黒服を着た2人組の不気味な男達のことだ(現実社会でCIAやFBI等の黒服の男たちが一般人の知らないうちにどんな機密情報をつかんでいるかわかったもんじゃない、という意味も含まれている。また、比較的最近"Men In Black(メンインブラック)"という映画が作られたが、このアルバムとはまったく関係はない。)このアルバムで彼らは痛烈なキリスト教批判をやらかした。アルバムの曲自体は、ゴスペルらしくキーボードの音をより全面に出し相変わらずベースは激しいが、レトロとすら思われる曲調で美しい曲も多かった。しかしヒューもJJも終始抑揚のない声で歌った。彼らはこのアルバムを境に別名「メニンブラック」と呼ばれるようになり、ライブ時は黒い服で揃えるようになる。また、1曲目の"Walzinblack"は、今でもライブで彼らの登場する直前にかかる、ストラングラーズのテーマとも言える曲だ(前作で“黒か白か“と提起し、このアルバムで黒を選んだ、とも言われている。また、ライブのエンディング、メンバーがステージを去った後には必ずメニンブラックが流される)。
全英チャート8位まで上ったこのアルバムだが、日本のほとんどのファンには理解されず、日本での彼らの人気はこのアルバムから急降下することになる。
「メニンブラック」と同年、彼らは矢継ぎ早に次のアルバムを出した。アルバムタイトルは"La Folie"、フランス語で「狂気」という意味だが、邦題を「狂人館」という。もちろんこのサイトの名前はここから頂いた。同時期に出たケイト・ブッシュのアルバムの邦題が「狂気の館」だったが、それに引っかけたかどうかはわからない。特筆すべきは、タイトル曲の"La Folie"が
佐川一政のことを歌った曲だということだ。JJがフランス語で歌うこの曲は、猟奇殺人者をテーマにしたとは思えない美しさだ。因みにプロモーションヴィデオも耽美な短編映画のようでとても良かった。
ヒューとJJは、このアルバムでもほとんど淡々と歌っている。しかし、"Tramp"のようにヒューが高らかに歌い上げるものもあった。このアルバムから、全英チャート2位まで上った珠玉の名作、"Golden Blown"が生まれたのである。このアルバムでUAとの契約が切れた彼らはエピックに移籍することとなる。そして、この頃からヒューのシンガーとしての力量が遺憾なく発揮され始める。
'82年エピックにおける1枚目、通算7枚目にあたる「黒豹」"Feline"を発表。ますますヨーロッパ色を強めたこのアルバムは「ヨーロッパの憂鬱と耽美」と表現するにふさわしいアルバムだ。しかし1曲目の"Midnight Summer Dream"はロシア音楽を彷彿とさせるメロディーラインだ。それが意図的であることは、この曲がシングルカットされたときのB面の曲が"Vladimir and Olga"という、ソ連を皮肉ったものであるということからわかる。しかし、彼らのロシア風の曲がまた絶品なのである。
同年、JJとディヴは"Fire And Water"というジョイントアルバムを出している。これはフランス映画「壁に耳を傾けろ」のサウンドトラックであるが、彼らのアルバムとしてのオリジナリティーを持たせている。シングル"Rain & Dole & Tea"のプロモーションヴィデオでは60年代風の女装も披露(?)している。
次の作品は、いみじくも「音響彫刻」"Aural Sculpture" と名づけられた。初めてこのアルバムを聴いた時、1曲目の"Ice Queen"の途中からホーンセクションが入り驚いたと共に感動した。それもまったく自然に使いこなしていたのだ。ストラングラーズはまたも新しい境地を開いていた(ホーンセクションはアルバム"10"まで加わっている)。このアルバムは音楽評論家からも良い評価を得ている。
しかし、これまでほぼ年一ペースで発表していたアルバムだったが、この頃からだんだんペースが落ちてくる。それは、もちろん良い作品を作ろうとした結果だったのかも知れないが。
次のアルバムは2年後の1986年にリリースされた。「夢現」"Dreamtime"というこのアルバムは、「アボリジナル・スクリプト」に触発され、またシングル"Always The Sun"のジャケットにアステカの「太陽の石(アステカカレンダー。中央に太陽神。)」を使ったりと古代文明に傾倒する。しかし一方では、"Was It You?"や"Big In America"のように現代を皮肉っている。また、"You'll Always Reap What You Sow"ではホーンセクションに続いて新たにスチールギターを導入するという試みをしている。"Always The Sun"は、未だに必ずライブで演奏される名曲だ。
この後、1987年キンクスの有名な曲"All Day and All Of The Night"をカバーしシングルとしてリリース、また、その曲を含めた"All Live and All of the Night"というライブアルバムをリリースする。そして1988年にヒューが"Wolf"、JJがフランスで"Un Jour Parfait"と、おのおのソロアルバムを出している。共に各々の個性が生かされた佳品で評判もよかったが、今思えば、このソロアルバムが後のストラングラーズの命運を分けることとなったのかもしれない。
"Dreamtime"から4年後の1990年、記念すべき10枚目のスタジオアルバム"10"がリリースされる。しかしながらこれは皮肉にもヒュー在籍最後のアルバムになってしまう。1990年8月11日のアレクサンドラ・パレスでのコンサートの翌日、ついにヒューはJJにバンドを脱退することを伝えた。ヒューはストラングラーズでは「音楽的・芸術的に」やり尽してこれ以上の新たなる進歩は望めないと考えていた。彼にとってストラングラーズというバンドはすでに重荷になっていたのかもしれない。
文:R.I.B (監修:Yuka Takahashi)