ストラングラーズMKⅣ

 2006年6月、夏のライブ時期直前にリードヴォーカル担当のポール・ロバーツが脱退を決意した。理由は、以前からストラングラーズ以外の活動として持っている自分のバンド「ソウルセック」に専念するため。バンドはポールの意思を尊重して快諾、その後は特にヴォーカルを立てないことにし、バンドは元の4人編成にもどった。ヴォーカルはベースのJJとリードギターのバズが分担して担当した。ポールのストラングラーズ在籍年数は16年。奇しくもヒューの在籍年数と同じであった。


 ポールが脱退したため、ライブ用セットの組みなおしはもとより準備していたニューアルバムもヴォーカルを変えて録り直さねばならなくなった。そして、若干完成が滞ったものの、9月18日、ニューアルバム「Suite XVI(スゥィートシックスティーン)」がリリースされた。「16」という数字は16枚目のスタジオアルバムという意味もあるが、皮肉にも、二人のヴォーカルの在籍年数も表すことになってしまった。そういえば、10枚目に「10」というタイトルをつけリリースしたときに、リードヴォーカル兼ギターのヒューが脱退した。偶然なのかそういう過渡期を無意識に予感してつけられるのかはわからないが、これで妙なジンクスが出来なければよいのだが。

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 それはさておき、新作「Suite VXI」は出だしも好調で、やはり好評を博した前作の「Norfolk Coast」に勝るとも劣らない高評価を受けているようだ。パンク的な荒々しい曲からバラードまで、ストラングラーズの美しいメロディラインとコーラスも充分堪能させてくれる。新しいストラングラーズと懐かしいストラングラーズが程よく調和されていて、独特の世界が広がっており、まさに「組曲(Suite)」の名にふさわしいアルバムだ。さらに、2007年3月にサイドアウトレコーズから待望の日本盤が発売された。そして、同年8月11日12日に東京と大阪で開催された「サマーソニック07」に出演、実に14年ぶりの日本での演奏であった。また、12月2日よりHITACHI超薄型ハイビジョンテレビWoooのCMにキンクスの「All Day and All of the Night」を彼らが演奏したものが起用された。彼らは着々と日本での名声も取り戻しつつある。 

 ハンド発足から約30年、この間色々な難局やメンバー交代もあった。しかし自らの音楽に対して彼らは頑固なまでに誠実であり続け、妥協せず、独自の世界を構成している。彼らはこれからも良質の音楽をつむぎ続けていくに違いない。

 文:R.I.B (監修:Yuka Takahashi)
 
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ストラングラーズMKII,III

 残されたメンバーは悩んだ。事実上ヒューの存在と独特の歌声はバンドの要であり、作詞・作曲家としての才能とセンスも代えがたいものであった。JJと共にバンドの広告塔でもあり、バンドとしては片羽を失ったも同然である(実のところ"10"の頃にはヒューの熱意は失せており、バンドとしての活動の中心はJJにあったらしいが)。もうすっぱり解散すべきなのか。しかし、ファンの熱意はバンド存続を望み、3人もまたストラングラーズであり続けることを決心した。
 バンドはギタリストに急遽元ヴァイブレーターズのジョン・エリスを正式に加入した。彼はJJの初ソロアルバム"Euroman Cometh"に、そしてヒューが麻薬所持で「お勤め」していた間にあった"Rainbow"でのライブにもギタリストで参加していた。また、'98~'99年に活動したオールディーズカバーバンド"Purple Helmets"でもJJとディヴと共演していた。何よりそれまでもストラングラーズのライブに参加していた。しかしながらそれ故にジョンの立場は微妙なものとなる。ファンの中には彼がヒュー脱退の一因だと考えるものもいたからだ。ジョンは囲碁と平和を愛する優しい男だったのだが。
 
 
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 バンドはしばらくはこのメンバーで活動した。ヴォーカルはJJが担当していたが、やはり全曲歌うには無理があったし、JJはベースに専念したかった。それでバンドはヴォーカルを探すことにした。因みにヴォーカル候補には、ダムドのディヴ・ヴァニアンとアイシクル・ワークスのイアン・マクナブ、そして、あのクラッシュのジョー・ストラマー('90年にJJが来日した時にジョーのことを聞いたら、思い切り否定していたが;)など、そうそうたるメンバーも上がっていたようだ。
 新ヴォーカル募集のためオーディションを行ったが、その時に「僕が新しいリードシンガーだ!!」と堂々と宣言した男がいた。しかし、一見大うつけにも思えたその男の歌唱力は群を抜いており、彼は即座に新ヴォーカリストに抜擢された。細い身体でステージを走り回り、のたうち、暑苦しいまでに体中で歌を表現する男、ヒューの対極に立つ男。彼の名はポール・ロバーツという。
 そして、Stranglers MK IIは誕生した。
 
 
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 1992年新生ストラングラーズ初のアルバム「イン・ザ・ナイト」"Stranglers in the Night"をリリース。しかし、今までの聞きなれた音と、まったく違ったヴォーカルのこのアルバムは、やはり日本では受け入れられなかったらしく、それから2004年にリリースされた"Norfolk Coast"まで邦盤が出ることはなかった(ライブアルバムは除く)。とはいえ、映画「ブレードランナー」でのルドガー・ハウアー扮するレプリカント、ロイ・バティの名台詞をモチーフにしたオープニングの"Time to die"、これからの決意を示すかのような"Heaven or Hell"ソ連崩壊後の状況を皮肉った"Sugar Bullets"等、ストラングラーズ節は顕在であった。この年の12月、彼らは13年ぶりの来日を果たす。
 その3年後の1995年、"About Time"をリリース。このアルバムは個人的にジョン・エリス在籍時では最高傑作であり、彼らの全スタジオアルバムの中でも水準の高い作品だと思っている。アップテンポの"Golden Boy"、電子ヴァイオリンをフューチャーした"Face"、ゴシック的な"Sinister"、美しい情景が浮かぶラストの"And the Boat Sails By"、そしてジェット作詞の"Lies and Deception"も秀逸だ。 
 1997年"Written in Red"をリリース。これはポップな曲が多いわりに聴いた後妙な虚脱感に陥るアルバムだった。後で知るが、この時期JJとジョンの仲は家庭内別居夫婦よりも最悪だったらしい。しかしながら"Valley of the Birds""In Heaven She Walks""Miss You""Daddy's Riding the Range"など良い曲も多い。
  その翌年の1998年、アルバム"Coup de Grace". をリリース。思いがけなく2年連続で新譜がリリースされたので驚いた。なんとこのアルバムではJJが4曲も歌っている。彼の歌う反戦歌"Known Only unto God"は是非聴いて欲しい曲だ。ポールの歌う"Jump Over My Shadow""The Light"もお勧めだ。なお、このアルバムは戦争(や宗教的な紛争)による破壊の跡をテーマとし、それを考えるとタイトルの"Coup de Grace"の意味が「とどめの一撃」というのも意味深である。1曲目の"God is good"が原始宗教の祭典を思わせ、実は宗教に対して大皮肉をかましているのもうなづける。
 
 このアルバム発売後、実に6年もの間新譜のリリースがなかった。その間の2000年3月、10年目にしてついにジョン・エリスがバンドから去っていった。入れ替わりに入ったのが"Small Town Heroes" のバズ・ワーンである。"Small Town Heroes"は1995年の"About Time"ツアーにサポートバンドとして参加しており、ファンには馴染みもあった。
 
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 そして、装いも新たに2004年、6年ぶりに15枚目のスタジオアルバム「ノーフォークコースト」"Norfolk Coast"をリリースする。ヒューの呪縛から解き放たれたようなこのアルバムは、各所から絶賛された。JJはこの年の10月から翌年3月までテレビ朝日で放映されたジャパニメーション「巌窟王」のサントラも手がけ好評を得る。このアニメは、東京国際アニメフェア2005 東京アニメアワードテレビ部門優秀作品賞を受賞した。
 文:R.I.B (監修:Yuka Takahashi)

ストラングラーズMKⅠ

 
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 彼らはすでに水を得た魚だった。相変わらず貧乏ではあったが精力的にギグを行った。ジェット提供の車でライヴの出来るところなら何処でも行った。そのアイスクリームバン(アイスクリーム販売用のバン。ジェットはこのようなバンを数台所有していたが、バンドに投資する為に酒屋のビジネスをたたんだ時に新車一台を残した)はあっという間にポンコツになった。宿泊場所が得られずに路上で寝たことすらあった。結果彼らの知名度は徐々に上がり、フィンチュリーボーイズという、彼らのところなら何処へでもついて行く熱狂的なグループも出来た。1982年に大ヒットすることとなった「ストレンジ・リトル・ガール」や「マイ・ヤングドリーム」といったメロディアス路線の曲も、実はこの頃出来たものだ。
 そして、ついに1976年12月、彼らはユナイテッドアーティスツとの契約を勝ち取った。彼らにとってはこの2年間の苦労の賜物だったわけだが、彼らの契約を快く思わない既存のバンドもいた。どこの馬の骨かもわからないちんぴらバンド風情が!と。
 しかし、彼らの活躍はめざましかった。折しもパンク/ニューウェーブシーン真っ只中、過激な演奏と言動の彼らはパンクにカテゴライズされた。彼らもその状態に答えるように暴れ回った。実のところ、彼らの曲や歌詞はそれと一線を画するものであったのだが。JJの暴力とヒューのアジテーションは、このころが頂点だったかもしれない。
 ストラングラーズは「夜獣の館」"Rattus Norvegicus"・「ノーモアヒーローズ」"No More Heroes"・「ブラックアンドホワイト」"Black & White"と次々とアルバムを発表していった。ファーストアルバムは一気に4位までチャートを駆け上がった(77年11月のラウンドハウスのギグではフー、ストーンズという大御所バンドが持つ観客動員記録を塗りかえた。)。パンク・ブルース・プログレ・ラップ・レゲエといろいろな要素を持ったバラエティ豊かなファースト"Rattus Norvegicus"は、すでに彼らの持ち味と才能を充分発揮していた。セカンドアルバムの"No More Heroes"は、意識してかパンク色の強いアルバムになっている。表題曲は彼らの代表曲となった。またサードアルバム"Black & White"の重戦車を思わせるウルトラヘヴィ級の音は、日本でも多くのファンを魅了した。因みにこのアルバムの中には、"Outside Tokyo"と三島に捧げた"Death&Night&Blood"という、日本をテーマにした曲が2曲収録されている(B&Wは全英アルバムチャート初登場で2位にランクイン)。
 しかし、'79年にリリースされた4枚目のアルバム"The Raven"あたりから微妙に方向が変わり始めていた。また、この年はヒューが"Nosferatu"、JJが"Euroman Cometh"と各々ファーストソロアルバムを出した年でもある。"Euroman Cometh"はヨーロッパの統一がテーマのアルバムで、それは約20年後現実のものとなる。ストラングラーズがコンサートのため2度にわたり来日したのもこの頃だ。ここは日本ファンには重要なことなので、少し詳しく記述しよう。
 この来日で"Something Better Change"3回連続演奏(初来日東京公演の最終日2月19日)やヒューの"English Flash"事件、そしてJJがステージに上ってきたファンに囲まれ演奏不能に陥って"ワタシはベイシティ・ローラーズじゃナイ!!"と叫んだ等、数々のエピソードが生まれた。
 "Something Better Change"3回連続演奏は、特に重要なエピソードだ。初来日時、彼らは熱狂的に迎えられたが、彼らは何故か"Something Better Change"を連続で演奏したのだ。しかし観客は怒る様子もなく嬉しそうにノッている。3回目でヒューはキレて怒鳴り始めた。日本のファンは何がなんだかわからなかった。彼らのメッセージが理解できなかったのだ。その時言ったJJの言葉はしばしファンの語り草となった。"Don't smile so much,it can make you blind.(あまりヘラヘラするなよ。メクラになっちまうぜ。)"
 また、この年にはJJがリザード(70年代に出現した東京アンダーグラウンド・シーンのカリスマバンド)のファーストアルバム"LIZARD"をプロデュースしている。


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 アルバム「レイブン」"The Raven"に話を戻そう。今まで言わば猪突猛進で突き進んでいた彼らだが、このアルバムから徐々に内側に向かい始めたのだ。ヒューが麻薬所持で逮捕され、実刑をくらったことも関連しているかもしれない。JJはこのアルバムの中の"Don't Bring Harry”という曲で麻薬の空しさを歌っている(Harryは麻薬の隠語)。
 彼らはラットに続きシンボルに新しくワタリガラス(Raven)を加えた。バイキングの旗に記されているワタリガラス(北欧のバイキングたちはワタリガラスの帰巣本能を利用し、船上から1羽ずつ放って出発地の方角を知った。)を堂々とアルバムジャケットに配し、また、ワタリガラスを意匠したシンボルをかざしながら、ヨーロッパ人として自らをバイキングの子孫と誇った。また、このアルバムでは核実験や今で言う遺伝子工学に対して大皮肉をかましている。そして次なるアルバムに繋がる曲"Meninblack"の存在は暗示的であった。
 '81年に発表された彼らの5枚目のスタジオアルバムにあたる「メニンブラック」"The Gospel According to The Meninblack"を聴いたファン達はとまどった。今までのアルバムが「動」ならば、これは「静」とも言えるものだったからだ。"Meninblack"とは、元々UFO目撃の隠蔽工作をすると言われている黒服を着た2人組の不気味な男達のことだ(現実社会でCIAやFBI等の黒服の男たちが一般人の知らないうちにどんな機密情報をつかんでいるかわかったもんじゃない、という意味も含まれている。また、比較的最近"Men In Black(メンインブラック)"という映画が作られたが、このアルバムとはまったく関係はない。)このアルバムで彼らは痛烈なキリスト教批判をやらかした。アルバムの曲自体は、ゴスペルらしくキーボードの音をより全面に出し相変わらずベースは激しいが、レトロとすら思われる曲調で美しい曲も多かった。しかしヒューもJJも終始抑揚のない声で歌った。彼らはこのアルバムを境に別名「メニンブラック」と呼ばれるようになり、ライブ時は黒い服で揃えるようになる。また、1曲目の"Walzinblack"は、今でもライブで彼らの登場する直前にかかる、ストラングラーズのテーマとも言える曲だ(前作で“黒か白か“と提起し、このアルバムで黒を選んだ、とも言われている。また、ライブのエンディング、メンバーがステージを去った後には必ずメニンブラックが流される)。
 全英チャート8位まで上ったこのアルバムだが、日本のほとんどのファンには理解されず、日本での彼らの人気はこのアルバムから急降下することになる。
 
 
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 「メニンブラック」と同年、彼らは矢継ぎ早に次のアルバムを出した。アルバムタイトルは"La Folie"、フランス語で「狂気」という意味だが、邦題を「狂人館」という。もちろんこのサイトの名前はここから頂いた。同時期に出たケイト・ブッシュのアルバムの邦題が「狂気の館」だったが、それに引っかけたかどうかはわからない。特筆すべきは、タイトル曲の"La Folie"が佐川一政のことを歌った曲だということだ。JJがフランス語で歌うこの曲は、猟奇殺人者をテーマにしたとは思えない美しさだ。因みにプロモーションヴィデオも耽美な短編映画のようでとても良かった。
 ヒューとJJは、このアルバムでもほとんど淡々と歌っている。しかし、"Tramp"のようにヒューが高らかに歌い上げるものもあった。このアルバムから、全英チャート2位まで上った珠玉の名作、"Golden Blown"が生まれたのである。このアルバムでUAとの契約が切れた彼らはエピックに移籍することとなる。そして、この頃からヒューのシンガーとしての力量が遺憾なく発揮され始める。
 '82年エピックにおける1枚目、通算7枚目にあたる「黒豹」"Feline"を発表。ますますヨーロッパ色を強めたこのアルバムは「ヨーロッパの憂鬱と耽美」と表現するにふさわしいアルバムだ。しかし1曲目の"Midnight Summer Dream"はロシア音楽を彷彿とさせるメロディーラインだ。それが意図的であることは、この曲がシングルカットされたときのB面の曲が"Vladimir and Olga"という、ソ連を皮肉ったものであるということからわかる。しかし、彼らのロシア風の曲がまた絶品なのである。
 同年、JJとディヴは"Fire And Water"というジョイントアルバムを出している。これはフランス映画「壁に耳を傾けろ」のサウンドトラックであるが、彼らのアルバムとしてのオリジナリティーを持たせている。シングル"Rain & Dole & Tea"のプロモーションヴィデオでは60年代風の女装も披露(?)している。
 次の作品は、いみじくも「音響彫刻」"Aural Sculpture" と名づけられた。初めてこのアルバムを聴いた時、1曲目の"Ice Queen"の途中からホーンセクションが入り驚いたと共に感動した。それもまったく自然に使いこなしていたのだ。ストラングラーズはまたも新しい境地を開いていた(ホーンセクションはアルバム"10"まで加わっている)。このアルバムは音楽評論家からも良い評価を得ている。
 しかし、これまでほぼ年一ペースで発表していたアルバムだったが、この頃からだんだんペースが落ちてくる。それは、もちろん良い作品を作ろうとした結果だったのかも知れないが。
 次のアルバムは2年後の1986年にリリースされた。「夢現」"Dreamtime"というこのアルバムは、「アボリジナル・スクリプト」に触発され、またシングル"Always The Sun"のジャケットにアステカの「太陽の石(アステカカレンダー。中央に太陽神。)」を使ったりと古代文明に傾倒する。しかし一方では、"Was It You?"や"Big In America"のように現代を皮肉っている。また、"You'll Always Reap What You Sow"ではホーンセクションに続いて新たにスチールギターを導入するという試みをしている。"Always The Sun"は、未だに必ずライブで演奏される名曲だ。
この後、1987年キンクスの有名な曲"All Day and All Of The Night"をカバーしシングルとしてリリース、また、その曲を含めた"All Live and All of the Night"というライブアルバムをリリースする。そして1988年にヒューが"Wolf"、JJがフランスで"Un Jour Parfait"と、おのおのソロアルバムを出している。共に各々の個性が生かされた佳品で評判もよかったが、今思えば、このソロアルバムが後のストラングラーズの命運を分けることとなったのかもしれない。
 "Dreamtime"から4年後の1990年、記念すべき10枚目のスタジオアルバム"10"がリリースされる。しかしながらこれは皮肉にもヒュー在籍最後のアルバムになってしまう。1990年8月11日のアレクサンドラ・パレスでのコンサートの翌日、ついにヒューはJJにバンドを脱退することを伝えた。ヒューはストラングラーズでは「音楽的・芸術的に」やり尽してこれ以上の新たなる進歩は望めないと考えていた。彼にとってストラングラーズというバンドはすでに重荷になっていたのかもしれない。
 文:R.I.B (監修:Yuka Takahashi)
 
 
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ストラングラーズの黎明

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1974年、スウェーデンの大学で生化学の研究をしていたヒュー・コーンウェルは、バンド活動に専念するため、ロンドンに戻ってきた。彼はスウェーデンでジョニーソックスというバンドを結成しており、メンバーとともにロンドンで活動を始めるつもりだった。しかし、彼らのバンドにはドラマーがいなかった(ドラマーはスウェーデンに残ってイギリスには渡らなかった)。
 そのころジェット・ブラックは酒屋のチェーン店の経営で大成功を収めていたが、それに満足できず、かつてセミプロのドラマーだったこともあって、音楽の道に再度挑戦することを試みた。おりしも「メロディー・メーカー」で、ジョニーソックスのドラマー募集の広告を発見、さっそくメンバーを自分の店に呼び寄せた。活動場所を提供する為だった。
 ジャン・ジャック・バーネルは、名前の通りフランス人である。彼の両親は英国でフレンチレストランを経営していた。それゆえにいじめられっ子だった彼だが、バイクと空手と三島由紀夫を愛する青年に成長していた。彼は大学で経済学を修めたものの、ろくな働き口がなく、しかたなくガテン系のドライバー(長距離トラック等ではなく、多分配達用バン)をしていた。偶然ジョニーソックスのアメリカ人ギタリストをヒッチハイクで拾い、それがきっかけでバンドに加入した。彼のもう一つの面は意外にもクラシックギターの名手だということであった。しかし、彼が新しいバンドで手にしたのはベースギターだった。(追記:加入した時点ですでにJJは自作の歌を持っていた)
 そのころ、「ジョニーソックス」は、オリジナルメンバーのうち2人が去り事実上崩壊していた。
 1974年末、ヒュー・ジェット・JJ、そしてハンス・ワームリング(スウェーデンからのヒューの友人)で新バンドが結成され、活動を再開。当時はまだ正式なバンド名が決まらなかった彼らは、いろいろな名前でギルフォード地域を演奏していたが、丁度その頃、アメリカ合州国を震撼とさせ、世界中の三面記事を飾っていたシリアルキラー、Boston Strangler(ボストン絞殺魔)に因んで、"The Stranglers"(当初、Boston Stranglerに対して "The Guildford Stranglers" と、呼ばれていた)というバンド名に決まった。
 ところがハンスワームリングが脱退、スウェーデンに帰国してしまいしばらくトリオでやろうとしたが、やはりもう一人必要、ということで1975年7月2日再度メロディーメーカーに広告を出した。最初はサックス奏者が加入したが3日でクビになり、その後キーボード奏者を応募した。その広告で現れたのがディヴ・グリーンフィールドだ。彼はすでに多数のバンドでプレイしていたが、その炎のようなキーボードプレイはバンドのメンバーに彼の加入を即決させた。そして、伝説の第1期ストラングラーズは完成した。
 文:R.I.B (監修:Yuka Takahashi)