4.拡散 (1)迫り来る悪夢

20XX年6月3日(月)

 珠江はいつものように朝6時に目を覚ました。しかし、ひどい頭痛がする上に身体が鉛のように重く感じ起きることが出来なかった。
 昨夜、だるさを感じて用心して早めに床についたのだが、夜が明けるとさらにそれは悪化していた。
(また、インフルエンザにでも罹ったんやろか?)珠江は思ったが、あの時よりももっとタチの悪い状態にあることをうっすら感じていた。
(とりあえず、しばらくこのまま休んどこ。日が昇ったら少しは気分がよくなるやろ)
珠江はそう思うと再び目を閉じた。

 雅之が目を覚ますと、夜がうっすらと明けていた。昨夜は眠ったのかどうか判らないような夢うつつの状態だったと思っていたが、それなりに眠っていたらしい。
 ベッドから部屋を見回すと、窓の方に人影が立っていた。
「父さん?」
雅之が呼ぶと人影が振り向いた。しかし、逆光で顔がよく見えない。その人影は静かに近づいて来た。近寄ると共に顔がだんだん判ってきた。雅之は恐怖に息を呑んだ。あの殺したはずの公園の男だったからだ。彼は雅之に近づくと両の手を伸ばし、雅之の首をつかんだ。男の両親指が首に食い込んで息が止った。目と鼻の奥に圧力を感じ目が飛び出しそうな感覚が襲う。雅之は口をぱくぱくとさせ空気を取りこもうとし、さらに手足をじたばたとさせて必死で抵抗した。

「雅之! 雅之!」
雅之は自分を呼ぶ声に目を覚ました。父親が心配そうに雅之の肩をつかんで揺さぶっていた。
「父さん・・・」
「どうした、怖い夢でも見たとか? ずいぶんとうなされとったけど」
「うん・・・、怖かった・・・」
「熱のせいかも知れんねえ。測ってごらん」
そういいながら、電子体温計のスイッチをいれた。
「もうちょっと待て。よし、いいぞ」
雅之は受け取り脇の下に挟んだ。
「昨日の晩もうなされとったし、熱も高かったので解熱剤飲ませたんやけど、覚えとるか?」
信之は息子に尋ねた。
「ううん・・・。夢を見たこともよく覚えてない」
「そうか」
父は少しガッカリしたように言った。
「でも、父さんと母さんが代わり交替でオレの様子を見に来たのは知っとぉけんね」
雅之は父親を見上げながら言った。信之はテレくさそうにわらったが、そこでピピッと体温計の信号音が聞こえた。
「はい、見せてごらん」
雅之は体温計を受け取った。
「37度5分か・・・、だいぶ下がったな。薬が効いたのかもしれんね。でも、夜になるとまた高熱がでるかも知れんから、油断したらいかんぞ」
「うん」
「なあに、大丈夫。薬を飲んでゆっくり休んで栄養をつけたら、すぐに治るよ」
そういうと、信之は息子の頭を撫でた。
「お父さんは今から会社に行って、今日は大阪の方に戻らんといかんのやけど、何かあったらすぐに帰ってくるけん、心配すんな、な?」
「うん・・・」
「今日はゆっくり休めな。お母さんの言うことを良く聞くんだぞ」
「うん」
「じゃあ、もう出んといかんから」
信之は、そう言いながら雅之の頭をぽんぽんと軽く叩き、雅之を後にした。
「父さん」
雅之は、父を呼び止めた。信之は振り返った。
「良くなったら絶対に旅行行こう」
父は笑ってうなづいた。
「でも、温泉よりUSJがいい」
雅之も笑いながら言った。
「わかった、USJな」信之はそういうと親指を立てて了解のポーズをし、そのまままた雅之に背を向けた。
「いってらっしゃい」父の背中を見ながら雅之が見送りの声をかけた。父は戸口で振り返って軽く手を振って出て行った。階段を下りる音がだんだん小さくなって、それから玄関の方から「行ってくるぞ」という声がして、ドアが閉まる音がした。父の出勤を確認すると、雅之はいきなり心細くなって布団にもぐりこんで丸くなった。

 朝8時頃、祐一はK駅の改札口で雅之を待っていた。しかし、約束の時間が来ても雅之は現れなかった。メールの返事も来てなかったので、祐一は不安だったがそれでも一縷の望みを持って待っていた。そこへ、クラスメートの田村勝太が声をかけてきた。彼は例のコンコースで雅之と一緒にいた連中の一人だ。背はまだあまり高くなく、メガネをかけていたが、今日はその上にマスクまでつけていた。
「おはよう、西原君。こんなとこで何立っとぉと?」
祐一はその声に反射的に振り向いたが、田村の顔を確認してがっかりして言った。
「なんだ、田村か」
「あのな、『なんだ』って挨拶はねぇやろ」
「悪い悪い。・・・どうしたん、マスクなんかして? 花粉症にしては時期が遅いっちゃないや?」
「猫アレルギーやと思う。おととい弟が猫を拾ってきてそれからやけん。それよか、早くせんと遅刻するぜ」
「雅之を待っとったい」
祐一はうざったそうに答えた。
「雅之? そういえばあいつ、今日電車に乗ってなかったなあ」そういうと、田村は少し躊躇したように間を置きながら、祐一に言った。
「あのさ、西原君、変なこと聞くけどさ、あいつ・・・、ひょっとして、あのホームレス殺しに関わってとるんやないかって・・・」
祐一はギクリとしたが、平常を装って尋ね返した。
「どういうことや?」
「あいつ、いつもオレ等とつるんでいたけど、日ごろ大口叩くくせに、いざとなると後ろの方で見てるだけで加わろうとせんやったけん、ついみんなでからかってしまって」
「からかった?」
「臆病モンやなかったら、一人で狩ってみろって、みんなで囃し立てて・・・」
「きさん(貴様)ら、雅之にそげなこと言うたとか!!」
祐一は田村の襟首をつかんで乱暴に引き寄せながら怒鳴った。身長170センチを優に超える祐一に襟首をつかまれた田村は、宙吊り状態になってしまった。ずり落ちたメガネがカラカラと音を立てて床に落ちた。それを見た年配の駅員がびっくりして飛んできた。
「こらこらこら、あんたらこんなとこで何ばしよっとね!」
その声に我に返った祐一は、田村から手を離した。田村は祐一から解放されるとメガネを拾って一目散に逃げていった。
「けんかやらしとらんで、早う学校に行かんね」
駅員は祐一に向かって言った。
「すみません」
そういうと祐一は歩き出した。
「雅之・・・、あのバカ!」 ため息とともに祐一の口からうめくような声がした。「しょうもないことで挑発されやがって・・・」
こんなことなら、あの時ぶん殴ってでも雅之を止めるべきだった・・・。祐一は後悔したが今更どうしようもなかった。
 階段を下りながら、祐一はふと良夫の事が気になって電話をかけてみた。金曜のあの事件の後、ショックで寝込んでしまったようだが、具合はどうだろう・・・。
「はい、佐々木でございます」と電話に出たのは良夫の母親だった。
「おはようございます、西原ですけど・・・」
「あら、西原君ね、おはよう。良夫ね、まだ具合が良くなくて今日までお休みしますって、いま学校に電話したところなんやけど・・・」
「そうですか・・・」
「熱は下がったっちゃけどね、今日まで休みたいって言うから・・・。あの子ったら、いったいどうしたんやろねえ」
「すみません・・・」
「なんね、西原君が謝ることないやろ」佐々木の母は笑いながら言った。
「はは・・・、そうですよね。じゃ、佐々木君にお大事にとお伝えください」
そういうと祐一は電話を切った。祐一の足は駅からバスセンターに向かっていた。バスセンターの向こうには、交番があった。一見上等な公衆トイレと見まごうような建物だが、パトカーが止まっているので交番だとわかる。祐一は少しの間躊躇したが、意を決したように交番に向かって歩き始めた。

 雅之は母と一緒に総合病院の待合室にいた。
 朝、美千代が朝食のおかゆを持ってきた時、左腕の内出血に気がついたのだ。雅之は、点滴の漏れた跡だと説明したが、美千代は「点滴の跡って、真っ黒じゃないの! あんな町医者に診せたのがいけなかったんだわ! お母さんの知り合いにいい先生が居るから、そこでもう一度診てもらいましょう」と言って、「山田医院に行きたい」という雅之を強引に連れてきたのだった。
「秋山雅之さま~、第1診察室にお入りください~」
雅之の番を告げる声がしたので彼は立ち上がった。美千代も立ち上がって付いて来ようとしたので、雅之はひとりで大丈夫だからと断った。
「秋山・・・え~っと、雅之君だったね」
まだ若い医者は、カルテを見ながら馴れ馴れしく言った。胸の名札には「松田孝昭」と書いてあった。松田医師は、雅之に病気の経過と昨日の山田医院での診察について質問をした。
「まあ、高熱が出るのは感染症だけじゃないし、念のため血液検査しようか。熱が下がらないし、食欲もないようだから採血の後、そのまま点滴もしとこうね」 
雅之はうなづいた。
「それじゃ、用意が出来たら呼びますから、待合室で待っていてね」
雅之は立ち上がって会釈をすると、戸口に向かった。戸を開けると母がそこで待っていた。美千代は満面の笑みで松田医師に挨拶をして、戸を締めた。

 さて、こちらは由利子の会社である。
 昼休みにまた黒岩が由利子のところに来ていた。今回は弁当付である。黒岩は自前だが、由利子は駅前の弁当屋で買った出来合いである。ブログ更新で昨夜夜更かしをしてしまい、少し寝坊をしたからだ。
「黒岩さん、すごいですねえ。毎日お弁当作って来られて」
「本当は早起き苦手なんやけど、娘がおるけんねえ。それに二人分なら、やっぱ作ったほうが安上がりやし。今日は違うけど、篠原さんも良くお弁当作ってくるよね。会社から遠いのに感心やね。」
「既成のお弁当って揚げ物が多いし飽きるでしょ。だけど、作るったってほとんど昨夜の残り物とか冷凍食品とかだから、あまり感心できる内容ではないし」
「それはアタシも同じことよ。毎日の弁当にそんな凝れませんって」黒岩は豪快に笑った。
「あ、そうそう・・・」由利子は弁当箱の蓋をしながら言った。「昨夜メールした件、おじょうさんに聞いてくれました? 確か、おじょうさんK学園の中等部でしたよね」
「ああ、娘の学校に女子に人気のジョニタレ系男子生徒がいるとか知らないかってアレね」
「そうそう、そうです」
由利子は、あれだけ目立つ少年ならけっこう女子生徒に人気があるのではないかと思ったのだ。
「うん、聞いてみたら、何でそんなこと聞くと?とか言いながらも教えてくれたよ。確か、3年にナントカっていうカッコイイ先輩が居るって言ってたなあ。え~っと、なんて名前やったけ?・・・そうそう、秋山先輩とか言ってたかな」
「秋山君ですか。」
「うん、たしかホークスの元選手と同じ名前やねって思うたけん。・・・で、なんでそんなこと聞くと?」
心の中で親子だなあと思いつつ、金曜のことを簡単に説明した。
「やだ、そげんと? もしその子がほんとに犯人だっても、娘から名前聞いたやら言わんどってよ」
「もちろんですよ。それに警察からなんか言ってこない限り、もうこちらからは連絡しませんから」
由利子はしっかりと約束した。
「頼むよ。ウチ、母子家庭やけんあまり変な事件に巻き込まれたくなかけんね」
「え?」初めて聞いたその事実に由利子は少し驚いた。
「は~い、もう1時過ぎてるよ~~~、持ち場に就こうね」
いつの間にか古賀が部屋に帰ってきていた。
「は~~~い、すんませ~~~ん!」黒岩はあわてて出て行った。妙な既視感を感じながら、由利子は黒岩の後を追って廊下に走った。
「変なこと聞いてすみません。ありがとう」
「いいよ、気にせんどき」といった後に「そうそう」と黒岩が思い出したように言った。「言いたいことがあったんだ」
何故か小声だった。
「総務のコから聞いたんだけど、近いうちに社員になにか大事な話があるそうやって」
黒岩は由利子に耳打ちをして言った。
「なんか嫌な感じがするけん、取り合えず伝えとくよ」
「わかりました」由利子は答えた。黒岩は、どたどた走って自分の持ち場に帰って行った。2課はまたいきなり静かになった。

 珠江は、猛烈な腹痛を感じて目を覚ました。部屋の中が妙に赤い。これは夕暮れまで寝てしまったと、あせって身体を起こした。しかし、熱が下がっておらず激しいめまいがして、またすぐにベッドに倒れこんだ。のどが腫れて、唾を飲みこむのも辛くなっていた。また、全身の関節が疼き眼の奥もガンガンしていた。しかし、激しい腹痛を我慢できずにまたよろよろと起き上がって、トイレに向かった。節々が痛い上に高熱でフラフラして足元がおぼつかない。壁や近い将来要るだろうと介護用に取り付けた手すりを伝ってようやくトイレにたどり着いて用を足した。その後立ち上がって便器を見た珠江は息をのんだ。血便で便器がどす黒く染まっていたのだ。
「な・・・なんこれ?」
珠江は驚いてとにかく医者に行かねばとトイレから転がり出た。するとこんどは激しい吐き気が襲ってきた。珠江は洗面台にしがみついて嘔吐した。吐物は不吉な黒い色をしていた。
「なんが起こっとおと?」珠江は混乱して洗面台をつかむ自分の両手を見てぎょっとした。両手のあちこちにどす黒い染みが出来ている。おそるおそる顔を上げて洗面台の鏡を見て悲鳴を上げた。頬はげっそりとこけ、土色になった顔や首のあちこちにも黒い染みが広がっていた。そして、目は白目が真っ赤に充血し、血の涙を流していた。
「き、救急車・・・」
珠江はよろよろ電話を取りに行った。彼女は習慣として、家に居る時は携帯電話をキッチンのテーブルに置いていた。下手にポケットなどに入れて持ち歩くと、トイレや風呂場などの水場に落としてしまうからだ。実際一度トイレに落として大変なことになったのだ。珠江はよろけながらキッチンまでたどり着いて、テーブルに寄りかかった。手を伸ばし携帯電話を手に取ろうとしたが、目測を誤って手で携帯電話を弾き飛ばしてしまった。電話は無情にも転がり、床に落ちた。
「あっ!」
珠江は予想外のことに驚いて、テーブルに寄りかかったまま一瞬呆然となった。しかし、とにかく電話をかけて救急車を呼ばなければ、この先どうなるかわからない。珠江は椅子を伝って移動し、そのまま床にうつぶせて、這うように電話に近づいていった。手を伸ばしきって、ようやく電話を手にすることが出来た珠江は、電話を開き119を押そうとした。その時珠江を激しい痙攣が襲った。声にならない声を上げながら珠江の身体は痙攣を続けた。珠江の身体の触れているテーブルと椅子が連動してガタガタと揺れ、テーブル上のものがいくつか落下した。落ちたしょうゆ差しが割れ、中身がこぼれてしょうゆの臭いがあたりに立ち込めた。
 数分後、痙攣が止まった。
 珠江は2度と動くことはなかった。大きく見開いた赤い目は、生きた光を失いながら虚空をにらんでおり、両手は空をつかむように突き出し、指が気味悪くわしづかみの状態で曲がっていた。口からは黒い液体が流れ、顔の下に黒い溜まりを作り、寝巻きの襟や肩のあたりまでどす黒く染めていた。珠江の死は発症から1日とかからなかった。これは、後に劇症化と恐れられる症状であった。
 時計は午後1時半を指していた。

 

「おい、ジュンペイ。あの少年の言っとおことについてどげん思う?」
「あの、西原って子ですか? 多美さん」ジュンペイと呼ばれた30歳くらいの若い男は答えた。「僕には誰か庇ってるように思えます」
ここはK警察署内、今朝自首してきたホームレス殺しの犯人について二人の刑事が話していた。多美と呼ばれた50がらみの男がうんうんとうなづきながら言った。
「お前もそう思うか?」そういいながら、手帳を取り出して続けた。「昨日、善意ある市民から犯人かもしれない少年を見たってタレコミ、いや、情報提供があったとばってんが、それがあの西原少年の言った時刻に近かったい」
「はあ」
「でな、おまえ、その彼女に連絡ばしてみんね?」

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4.拡散 (2)法医学教室

※これを書いたころは、エボラがまさかあんなにアウトブレイクするとは考えていませんでした。(2015年4月18日)

「僕がですか?」
「篠原由利子37歳、これが住所と電話番号な」『多美さん』こと多美山穣(のぼる)巡査部長は手帳にさらさらと書き込むと、ビッっとページを裂いて渡しながら言った。
「俺のカンではかなりの美人だぞ」
「美人って電話で声聞いただけでしょう? 第一37歳って完全にオバサンじゃないですか」
「君だってもうすぐ三十路やろ、立派なオジサンやろうもん、葛西純平刑事!」
多美山は改まって葛西の名を呼んだわりに、ニヤニヤしながら彼の肩をぽんぽんと叩き言った。葛西は『オジサン』呼ばわりされて若干へこんだらしい。もらったメモ書きを見ながら口の中でなにやらブツブツ言ったあとヤケ気味に言った。
「了解しました、多美山巡査部長殿! 自分がこの女性に電話してみるであります!」
「まるでケロ■軍曹やね」
多美山がぼそりと言った。
「まあ、おまえさんは刑事になって間がないから夢も希望もあるだろうが、実際刑事の仕事なんてなぁ、ひたすら地道なもんだ」
「最近僕もそれがわかってきました」
「そうかそうか」
多美山は少し嬉しそうに言った。
「君は警官になるのも少し遅かったんだっけ?」
「そうです。1年ほど会社員をやってて、その前は大学の研究室にいました」
「変った経歴やなあ。なんで警官になろうと思ったとや?」
「まあ、人生色々、警官も色々なんですよ」
葛西は説明するのも面倒くさいので適当に誤魔化した。
「オレ、それ言ったヤツ嫌いなんだよね」と多美山はぼそっと言った。
「じゃ、僕、この人に電話してきます」
「おい、ちょっと待たんね」
「はい~?」
「彼女は会社員だ。5時過ぎないとケイタイには出ないそうだ」
「5時過ぎ・・・ですか。わかりました、その頃電話します」
「じゃ、もういちどあの少年の話を聞きに行くばい」
そう言うと多美山はすたすたと歩き出した。
「彼、何か話してくれるでしょうか・・・?」
多美山のあとを追いながら、葛西は午前中のことを思い出していた。

 警察から連絡を受けた担任と校長は、すっ飛んでやってきたがすっかりパニックを起こしていた。担任は若い女性で小柄だがスタイルも良くなかなか美人だった。祐一は取調室の椅子に座ったまま、下を向いてじっとしている。
「西原君は優秀で優しくてクラスでも信頼されている子です。そんなことをしたなんて信じられません!」
「いったい何の証拠があって、我が校の生徒をしょっぴいたんですか!」
二人は口々に言った。
「本人がやったと自首して来たんですよ。そうなってはこちらとしては取調べをしないとなりませんから」
鈴木係長が二人に説明をした。鈴木は年のころ40歳くらい、メガネで白髪交じりの髪の、すらりとしたなかなかダンディな男だ。
「それに彼の家と学校にはとりあえず連絡をせねばなりませんでしたので。もうすぐ彼のお母さんも来られると思いますから」
『彼のお母さん』と聞いて祐一の顔がすこし曇った。
「私もこの子がそんなことをしでかすようには思えません。しかし、状況や死亡時刻等が彼の言うことと鑑識の結果と一致してましてね・・・」
「そんな・・・」
担任がオロオロとして祐一に近づいていった。
「西原君、どうしてそんな・・・? あなた、人に暴力を振るうような子じゃないでしょう・・・?!」
彼女はそういうとボロボロと涙をこぼし、泣き出してしまった。祐一は相変わらず下を向いて黙り込んでいる。唇を噛みながら必死で何かに耐えていた。彼は自分が捕まったら必ず雅之が自首してくれると信じていた。校長は担任に輪をかけてオロオロしていた。彼の経歴上初めての不祥事だったからだ。小太りの身体をゆすぶって、髪の薄くなった額の汗を盛んにぬぐいながら、
「私はどうすればいいのでしょう・・・」
と、学校長にあるまじきことを口走っていた。鈴木は校長に落ち着くように言い、続けて言った。
「自首してきたのが少年ですし、慎重にならねばなりません。事件の概要がはっきりするまでこのことは伏せておいたほうがいいでしょう」
「はあ・・・」校長は情けない声で言った。葛西は傍でその状況を見ながら思った。担任の先生がオロオロするのはわかる。まだ若い女性だもんな。しかし、いい歳したおっさんがパニクってるんじゃあねえ・・・。校長の威厳もクソも無くなってるし、担任もどう対処していいかわからないよな。
 そんな中、祐一の母親がやってきた。あわてて出てきたのだろう、Tシャツとジーパンの軽装で、化粧もしていないが、思いのほかしっかりとしている。
「お世話をおかけしています」
母親は深々と頭を下げて言った。その後、つかつかと息子の前に歩いて行き、机に両手をつきながら息子の顔をじっと見ながら言った。
「祐一。あんた本当にそんな大それたことをやったとね?」
祐一は相変わらず黙っていた。母親は軽くため息をついて言った。
「やったならやったで、刑事さんたちに全部お話してちゃんと償いなさい。だけど・・・」
母は少し間をおいて続けた。
「後で後悔しないようによおく考えなさい。あんたは何が正しいか良くわかっているはずやろ。どういう結果になっても、かあさんたちは祐一を支えて行くけん」
そう言って母親は彼の頭を軽く叩くと、担任の方を向き深々と頭を下げて言った。
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。」
そういうと、また一礼して戸口に向かい、部屋を出る際に三度目の深い礼をしながら
「息子をよろしくお願いいたします」と丁寧に言うと部屋を後にした。
「お母さん!」葛西は驚いて彼女の後を追いかけて声をかけた。
「あれで終わりなんですか? 冷たくないですか?」
その声に母親は振り向くと、少し困ったような顔で、しかしきっぱりと言った。
「祐一に会う前に、刑事さんからだいたいのお話を伺って覚悟は出来ておりました。祐一は強情なところがあって、ああなるとテコでも動きません。こうなったらあの子の思うようにやらせるしかありません。それに・・・」と、かすかな笑顔で続けた。「あそこで私までパニックになったら収集がつかなくなるでしょう?」
確かにそんな状態だった。
「あの子は正義感の強い子です。多分祐一には何か考えがあるのだと思います」
冷たい親かと思ったら、実はとんでもない親馬鹿だった。葛西は面食らいながら言った。
「えっと、だからといって・・・」
「刑事さん」
母親は葛西の言葉を遮って言った。
「祐一のこと、よろしくお願いいたします」
彼女は葛西にまで深々と頭を下げるのだった。

「なあ、ジュンペイ」多美山の声で葛西は我に返った。
「この事件、最初から未成年がらみな気がして嫌な感じがしとったっちゃけど、まさか犯人に中学生が名乗り出るとはなあ。嘘であって欲しいよ、まったく」
「そうですね。何かの間違いであってほしいと僕も思います」
本当にそうであって欲しい・・・。葛西は祐一の母の顔を思い出しながら心からそう思った。

 

「日本の解剖はダイタンですね」
ギルフォードは執刀医である勝山教授のメス裁きを見ながら言った。ところはK大の法医学教室。彼は勝山教授に頼まれて司法解剖に立ち会っていた。
 アメリカの場合はまず首のところをV字に切開しそこからY字になるように胴体の中央をまっすぐに切開するが、日本の場合のどからI字で一気に切開する。どちらもへその部分を迂回するのであるが。アメリカ様式は、埋葬時に出来るだけ衣服から傷が見えないようにという配慮の為だ。火葬と土葬の違いからかも知れない。
 執刀医の勝山に補佐の医師が二人、そして写真係と記録係、そして警察の立会いが4人。それにガタイの大きいギルフォードまで立会っているのだから、室内は満杯である。全員が手術衣に帽子、マスク・ゴーグルそしてラテックスの手袋をつけた重装備であった。
 解剖記録を撮影するシャッター音が響く中、勝山は手を休めずに言った。
「ギルフォード君、よく見ていてくれたまえ。君を呼んだ理由が分かるはずだ」
「それ以前に、皮膚に点々としている発疹というか斑点に嫌な予感がするのですケド。死斑や腐敗網とは違いマスよね・・・」
ギルフォードは眉間にやや皺を寄せながら言った。
「まあ、見ていなさい」と勝山。
「はい、よく見てますよ。解剖は苦手なんですケド」
「君がか?」勝山はちらとギルフォードを見て言った。マスクで表情は読み取れないが目でにやりと笑っているのはわかる。
「押しつけられた場合は特に」と、肩をすくめてギルフォードが答えた。勝山はそれを受け流して説明をはじめた。
「アメリカ式のY字切開よりも、この正中切開の方が見やすいからね、日本ではこっちが主流さ。ところで、この遺体には右横腹と右ほおに挫創があるが、とてもこれが致命傷には思えないだろ」
勝山は着々と手を進めながら、淡々と言った。
「そうですね。これはそんなに力のある人間の仕業ではないカンジです」
ギルフォードは同意した。見る限りこの外傷では死因たりえない。とすると真の死因は何か。
 作業は着々と進み、腹膜が切り開かれ内臓が露出した。「なんですか、これは!」写真担当の医師が、カメラから顔を上げてさけんだ。
「本当にこれが3日前に保存された遺体なんですか!?」
そこにあるのは見慣れた臓器ではなかった。血液の袋のようになった肝臓が破裂して、腹腔がどす黒い血だまりになっていた。腐敗した血液の臭いが鼻を突く。すい臓も胆のうも溶けかかったようになっており、胃や腸にもうっ血が見られた。おそらく胃腸内部も黒い血で満たされているだろう。
「これでは臓器が取り出せません!」助手の一人がひっくり返った声で言った。
「これだよ」勝山はギルフォードの方を向いて言い、その後全員に向かって説明した。
「これではこの肝臓はほとんど機能していなかっただろう。そこに衝撃が加わって破裂し、大出血をおこした。そのせいでショック死した可能性がある」
「では、この男に傷害を加えた者が殺したというより、それが誘引となって死に至らしめたと?」
警察立会人の一人が言った。鈴木係長だった。
「おそらく、この男が死ぬのは時間の問題だっただろう。残りの3体も体内はおそらくこういう状態ではないかと思われるね。それから、挫創は被害者の右側に集中しているから、犯人は左利きである可能性も考えたほうがいい」
「いったい、これはどういうことなんですか?」
と、もうひとりの警官が言った。こちらは葛西に後を任せて出てきた多美山だ。遺体を見慣れているはずの捜査第一課の刑事の顔が引きつっている。
「だから、今言ったように犯人が左利きだから・・・」
「それはわかってます。じゃなくて、なぜこの仏さんの腹の中がこんなことになってるのかと聞いとるとです」
「だからギルフォード君に来てもらったんだ。彼はこういう遺体になじみが深いんでね」
勝山はギルフォードに話を振った。ギルフォードはやや血の気の引いた顔で突っ立っていた。実は手のひらに大量の汗をかいており、出来るならここから逃げ出したいと思っていた。
「断定は出来ませんが、私の所見では、これは・・・・・」
声がかすれ、ギルフォードはかるく咳払いをして言葉を続けた。
「Hemorrhagic feverの患者の遺体を解剖した時によく似ています」
「へまあじっくふいーばあ?」
「ヘムリジック・フィーバー。出血熱だよ」
それを聞いたとたん、勝山とギルフォード以外の人間が全員遺体からザッと遠ざかってしまった。
「すみませんカツヤマ先生、ビックリして日本語の病名がトンでしまいました。みなさん、大丈夫です。これがもし出血熱でも、我々のこの装備ならまず感染るコトはありませんし、この部屋も病原体の漏れないようなつくりになっているハズです」
ギルフォードが皆を落ち着かせようとして言った。勝山も続ける。
「まあ、わしがこの血のついたメスを振り回して踊り出せば別だけどね、おそらく空気感染はしないと思うよ。これがもし空気感染するなら、犠牲者はすでにとんでもない数になっている筈だ」
("それじゃフォローになってねぇよ,ドクター・・・.")ギルフォードは心の中で突っ込んだ。
「出血熱って・・・エボラですか?」鈴木は思い直したように一歩前に出て尋ねた。
「一口に出血熱と言っても沢山ある。例えば黄熱病・デング出血熱・ラッサ熱。エボラは君でも知っているくらい有名だが実は珍しい病気だ。なにせまだ宿主が見つかっていないのだからな。アフリカで時折アウトブレイクを繰り返しているようだが、あれは医療設備の貧困によるものだ。日本で同じことは起こらないはずだ。この仏さんの死因がなにかはもっと詳しく調べないとわからんよ。ひょっとしたらなんかの毒物かも知れんし。とりあえずこれ(解剖)を終わらせないと埒があかん。より慎重に進めよう。刃物で負傷しないように気をつけてな。ひょっとして病原体はまだ生きているかも知れん」
肋骨を慎重に取り外し、肺と心臓も露出した。こちらはそこまで冒されていないようだった。特に心臓は綺麗だった。しかし、凶悪なウイルスの可能性があるのだ。他の遺体とともに詳しく調べるまで安易な判断は出来ない。取り出せる臓器は取り出し重さを量り、サンプルをとる。
「あまり便の臭いはしませんね」と撮影係。
「ああ、多分みんな出てしまったんだろう」
教授の答えの意味が分かり、警官達は眉をひそめた。恐ろしい感染症に罹っているかもしれない男の排泄物が市内の下水に流されたかもしれない。いや、下水ならまだ良いが、もっと最悪な場合も考えられる。
 頭皮が切り開かれ、頭蓋骨の上半分が外され脳が露出した。さすがの勝山も頭蓋骨を切る作業は慎重に慎重を重ねた。
「鋸で指を切るなんてセオリーは嫌だからね」勝山は真面目な顔で言った。この男、何処までが本気かわからないのはギルフォードと似たもの同士のようだ。しかし、脳の状態を見てその二人は顔をしかめた。脳の中も赤黒い血で満たされ脳本体も腫れていたのだ。勝山は言った。
「この状態では、脳もマトモではなかったようだな。なんらかの神経症状を起こしていたんじゃないかと思うが」
「そうですね。私の見た出血熱の患者も症状が進むと精神障害を起こしていました」
ギルフォードが続けた。心なしかギルフォードにいつもの余裕が感じられなかった。むしろ、何かを抑えるために必死で自制しているようにすら見えた。

「もし、これが出血熱のような感染症で、すでに拡散しつつあるのなら、恐ろしい事態を招くことになるカモしれません」
司法解剖を終え、その説明中ににギルフォードが言った。
「ちょっと待ってください!」鈴木が言った。
「実際にこれが伝染する病気かどうかはまだわからないのでしょう? まだわからない段階では手の打ち様がありません。下手なことを発表して起こるパニックのほうが恐ろしいです」
「確かにパニックは怖いですケド・・・」
ギルフォードが言いかかると、勝山が遮るように言った。
「今わかっていることは、浮浪者が集団異常死をしたということだけで、それが果たして感染症で飛び火しているかどうかもわかっていないんだ。今出来ることは遺体に接触した者達の健康状態の追跡調査と、F県K市やその周辺の病院に急な高熱で運び込まれた患者を報告させることだ」
その言葉に警察側が騒然とした。
「警官や救急隊員の追跡調査なら何とかなるだろうが、一般市民となると不可能だぞ」警察側の1人が言った。助手の医師も口を挟む。
「急な発熱と言っても色々あるし、特に大きい病院の場合1日何人そういう患者が来るかわかりませんが・・・」
「警官と救急隊員の追跡調査と、病院の定点観測だけでもナントカするべきだと思います」ギルフォードは強く言った。勝山も続ける。
「集団死の原因が感染症かどうかの追及と医師への伝達は、こちらで全力をつくそう。そちらも色々忙しいのは承知の上だが、追跡調査だけでもやって欲しい。」
「わかりました。こちらも出来るだけ全力を尽くします」
鈴木は言った。
「ところで・・・」鈴木がギルフォードの方を見て言った。「こちらの方はどなたでしょうか?」
「ああ、すまんね。彼は少し遅れて来たので紹介し損ねていたよ。彼はアレクサンダー・ライアン・ギルフォード。Q大学の客員教授で専門は公衆衛生とウイルス学。専門上バイオテロにも詳しいので、米国の炭素菌テロを受けて日本政府にバイオテロの顧問として招かれてね」
それを聞いてギルフォードが少し嫌な顔をした。
「おお、バイオテロの・・・。」
再び周囲がざわめく。
「で、日本政府に招かれた方が何で九州で客員教授を?」多美山が素直に疑問を述べると、ギルフォードはさらに顔をしかめて言った。
「双方の意見の不一致です」
多美山は自分が地雷を踏んだのがわかったのと、外国人から『双方の意見の不一致』という流暢な日本語を聞いたのとで苦笑いをした。勝山はその状況を見ながらニヤニヤしていた。気まずい雰囲気を挽回すべく、ギルフォードと警官達はお互いを紹介しあった後、しばし談笑してお茶を濁した。

 解剖が一段落し、ギルフォードは勝山の部屋で遅いティータイムをしていた。
「カツヤマ先生、何でこの事態を察して僕を呼んだのですか?」
ギルフォードが怪訝そうに勝山の顔を見ながら言った。
「5日前だったかな、C川から上がった遺体を解剖していたんだが、それが内臓だけ異様に腐敗していてね。」
「ああ、あの損傷が激しくて他殺が疑われたあれですね」
「そうだ。ただ、遺体の見つかったのが川の中でだいぶ食い荒らされていた上に、急な気温の上昇で腐敗も進んでいたし、暴行の証拠も発見出来なかった。それで、酩酊した浮浪者のドザエモンということで終わってしまったんだが、どうも内臓の様子が気になって仕方がなかった。それで、今回似たような事件だったので、君を呼んでみたのさ」
「そうだったんですか」
「で、君はどう思う?」勝山は質問した。ギルフォードは肩をすくめて言った。
「病原体が見つからないかぎり何ともいえません。しかし、それが存在するなら、いずれ大変なことになるでしょうね。そうでない事を祈るだけです」


「係長、今日出頭してきた少年のことは言わなくても良かったとですか?」
司法解剖を終えた帰り道、運転をしながら多美山が尋ねた。
「まだ存在するかどうかわからない伝染病のために、ことを荒立てたくなかったんだ。彼は中学生だし学校が対象となるとややこしい展開になる」
「まあ、あの調子だと学内の追跡調査までしろと言い兼ねない感じでしたからね」多美山の隣に座っている警官も続けて言った。
「まあ、そうですよね」多美山は答えた。「それに、彼は健康そのものでしたし」
「とりあえず、今現在この事件の糸口は彼しかいないんだ。出来るだけ彼から話を聞けるようにがんばってくれ」鈴木は多美山に言った。
「もちろんです。あと、葛西君が今日夕方に昨日『犯人を見たかもしれない』と電話してきた女性に連絡をとる予定です。
「あてになるのか?」
「わかりませんが、彼女は人の顔を覚えるのには自信があると言ってました。人の顔は絶対に忘れないそうです」
「ほう。それが本当なら刑事向きの人材だな」
「あいにく37歳なので、年齢制限にひっかかりますな。」
「そうかぁ、う~~~ん、それは残念だ」
「本気で残念そうな顔をしないでください。ミラーに映ってますよ」
多美山が言うと、車内に笑い声が広がった。

 「クシュン!」

由利子がくしゃみをした。
「篠原さん、だれか噂しとぉとやないですか?」
辻村がからかった。
「古臭いこと言わないでよ。3回続けたら『ル○』3錠飲まないといけないじゃない」
由利子が言うと古賀がそれを受けて言った。
「篠原君、『くしゃみ3回ル○3錠』もずいぶん古かぞ。それより・・・。」古賀はみんなに向かって言った。「今日5時から会社の方で社員全員に話があるそうだ。帰らずに会議室に集合してくれだと」
「えええ~?」
課内にブーイングが巻き起こった。
(テキは早めに仕掛けてきたな)由利子は思った。(あ~~~あ、憂鬱。嫌な予感がする)
 5時になり、由利子が会議室に行こうとすると彼女の携帯電話が鳴った。
「もしもし?」由利子はしぶしぶ出た。
「もしもし、え~と、篠原由利子さんでしょうか?」
「はい、そうですが・・・?」
知らない男の声に由利子は怪訝そうに答えた。
「こちらK署の葛西と申しますが、ホームレス殺害事件について情報を頂いたそうで・・・」
(K署から? あ~、またこんな時にややこしい電話が)由利子は昨日電話したことを後悔した。
「すみません、今から会社の話があるそうなんで・・・。後でこちらからお電話しましょうか?」
「ああ、申し訳ありません。かけていただいてよろしいですか?」
「番号は表示されたものでいいですか?」
「はい、何でしたら、こちらからすぐにかけ直しますから、よろしくお願いいたします」
電話はすぐに切れた。由利子は電話を切りながらため息をついていたが、両手で頬をパァンと叩き、気合を入れて会議室に向かった。

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4.拡散 (3)誰そ彼~たそがれ~

 雅之は、夕方目を覚ました。彼は病院でまた高熱を出し、午後から寝込んでいたのである。
 目を覚ますと熱のせいで喉がカラカラに渇いていた。枕元を見ると、保冷バッグに入ったペットボトルのスポーツ飲料とネズミーのマグカップが置いてあった。母の心遣いだった。ネズミーの絵柄に雅之はちょっと眉を寄せたが、のそのそと起き上がるとスポーツ飲料をカップに注いで半分ほど飲んだ。熱はだいぶ下がったようで気分もよくなっていた。半身を起こしたままカップを両手に、ぼうっと座っていると今日の昼間、病院でのことが思い返されてきた。

 採血の時、看護士が雅之の右手の甲に貼っている大きな絆創膏に気が付いた。絆創膏の通気の孔からは少し傷口からの汁が漏れていた。
「あらら、どうしたの、これ? 絆創膏、お替えしましょうか?」
雅之はあせって右手を引っ込め首を振った。
「オレ、替えを持ってるんで後で自分で貼り替えますから」
「そう? 大丈夫? 左手が内出血してますから右手から採血しますけど、その右手、ギュって握れる?」
そう言われて雅之はしぶしぶ右手を出し、拳を握って見せた。「あ、大丈夫やね」看護士はそう言いながら浮き出た雅之の右手の血管を見て、首をかしげた。
「変やね。こっちの方が立派な血管をしてるのに、何でわざわざ左手に点滴をされたんやろうね?」
雅之は黙っていた。
 結局採血の後に点滴までされて、終わったのは12時近かった。インフルエンザも調べたがマーカーに若干の色変化はあったものの結果はシロだった。
 母親が清算をしている間、雅之はひとりで待合室の椅子に腰掛けていたのだが、その横に女性が座ってきた。まだ空いた席はいくつかあるのに、その女性がわざわざ雅之の隣に座ったので彼は少し気味悪さを覚えた。ベージュのスーツを着た彼女は長身でスタイルも良く、肩までのストレートな髪を髪留めで後ろにまとめており、薄いグレーのサングラスをかけマスクで顔を半分覆っていた。しかし、場所が病院だけに違和感はあまりない。サングラスからのぞく眼等からかなり知的な美しい顔立ちが想像出来た。
 彼女は前を向いたまま小声で雅之に言った。
「山田医院に行きなさい」
雅之は(え?)と思い彼女の方を見た。しかし、彼女にこちらの方を見る様子はない。
「山田医院の大先生にすべて話すの。彼なら適切な処置をしてくれるはずよ」
そういうと彼女は立ち上がり、規則正しいハイヒールの音とともに病院を出て行った。
(あの人、あの事を知っている!?)
雅之は一瞬で血の気が引くのを覚えた。
(ど・・・どうしよう・・・)
膝が震え、冷や汗がどっと出てきた。雅之は椅子に座ったまま身体をくの字に曲げ両手で顔を覆った。
「まーちゃん、どうしたの!?」
精算から戻ってきた母が雅之の状態を見て驚いて駆け寄った。
「ごめん、また熱が出たみたい。早く家に帰りたい・・・」
実際熱よりも関節痛がひどく、長期間座っていることはかなり苦痛だった。
「わかったわ、早く帰りましょう。無理させてゴメンね」
雅之は母に支えられながら病院を出た。外は良い天気だったが、雅之はまともに目を開けていられなかった。相変わらず明るい方を見ると眼の奥が痛むからだ。やっとの思いで家に帰った雅之は、そのまま食事も摂らずに床に就いたのだった。

「あの人はいったい何者なんやろう」
雅之は、あの謎の女性のことが気になった。あの人は明らかに何かを知っている、と雅之は確信した。だからこそ自分に接触してきたのだ。だが、あの口ぶりから警察に通報するようなことはなさそうだった。彼女は山田医院に行けといった。しかし、山田医院の大先生に言ったところで、あのはげ頭のおじいちゃん先生に一体何が出来るというのだろう。反面、彼女に言われるまでもなく、もう一度大先生に診てもらいたいとも思っていた。そんなことを考えていると、母親の美千代が2階の雅之の部屋に様子を見に上がってきた。ドアをノックすると、雅之の返事もまたず部屋に入ってきた。
「あら、まーちゃん起きてたの? 気分はどう?」
美千代は雅之の具合が良さそうなのを見て嬉しそうに言った。
「うん、だいぶ良いみたいだよ」
「良かったわねえ。無理して松田先生に診てもらったおかげだわ」
ニコニコしてそう言う母に、雅之はもう一度山田医院に行きたいとは言えなくなってしまった。
「晩ご飯、食べれそう?」
「うん、おなかも空いてきたし、きっと明日は学校に行けるよ」
そういう雅之に美千代は釘を刺した。
「無理しないでちょうだい。40度も熱があったのよ。調子がよくなっても明日まで休んだ方がいいわ」
「でも、いい加減行かないと授業についていけなくなってしまうよ」
「1日ふつかでおちこぼれるようなことはないわよ。明日の様子を見て考えましょ。今夜はまーちゃんのために美味しい夕食を作るわね。さあさ、もうお布団に入って」
美千代は雅之を寝かせて布団をかけ直すと、鼻歌交じりで部屋を出て行った。
 母親が行ってしまうとまた部屋が静かになった。夕暮れ独特の近所のざわめきが聞こえる。遠くで小学校の下校時間を告げる『家路』のメロディとアナウンスも聞こえてきた。平和な日常の一コマである。
 雅之は布団から左腕を出すと、袖をまくってみた。左手は肘の方まで青黒くなっていたが、徐々に色が薄くなっているように思われた。ほっとして、今度は右手の袖をそっとめくってみた。その採血/点滴跡を確認した雅之は、再び愕然とした。右手の注射跡まで内出血していたのだ。雅之はさっと右手の袖を下ろした。
「あの看護婦さんも採血が下手やったっちゃん・・・、きっとそうやろ」
雅之はつぶやいた。気が付くと部屋の中が赤く色づいている。

     『アカイ・・・』

雅之は男の言った言葉を思い出し、飛び起きて窓を開け外を見た。空には夕焼け雲が広がり、夕日が街を美しく朱に染めていた。
「夕焼けか・・・」
雅之は安堵し、その美しい景色をしばらく眺めていた。

 

 会社側からの話が終わり、会議室からぞろぞろと社員が出てきた。みな興奮した状態で口々になにかしゃべっていた。早く帰ろうとすたすた廊下を歩く由利子の後を、黒岩るい子が追ってきた。黒岩は由利子に追いつくと彼女の肩を叩いて言った。
「やっぱり、リストラの話やったね」
「そうですね。だけど、それでなくても不景気な今、ここを辞めて今更仕事が見つかると思いますか? 腹ん立つ! さっさと帰りましょ!」
「そうやね。特に私なんか50前のおばさんやし・・・」
黒岩は心底困った様子だった。
「まだ肩を叩かれたわけじゃないでしょ。今のところ退職希望者を募っただけだし。退職金に釣られて自分から辞めるといった方が負けです」
由利子は黒岩へというより自分を励ますように言った。

 会社を出た後、帰り道の違う黒岩と別れた。バス停に向かってしばらく歩くと、由利子ははたと思い出し携帯電話を取り出した。少し躊躇したが、さっきかかってきた番号に電話した。数回呼び出し音が鳴り、すぐにさっきの刑事が出た。
「はい、K署の葛西です」
「もしもし? あの、私さっきお電話をいただいた・・・」
「あ~、篠原・・・えっと由利子さん、ですね」
「はい。さっき忙しかったのでかけ直すって言って切っちゃったんで・・・」
「ご多忙のところ、本当に申し訳ありません。実は、篠原さんが情報を下さったホームレス殺害事件で自首してきた少年がおりまして、出来ましたら篠原さんが見た少年かどうかご確認して頂ければと・・・」
「自首して来たんならそれでいいじゃありませんか」
リストラの件であまり機嫌の良くない由利子の口調は、ついつっけんどんになってしまう。
「あのぉ・・・、それが、どうも様子がおかしいのです。未成年と言うこともありますし、念のために篠原さんに確認していただこうと思いまして」
電話の向こうの彼の声が、少し及び腰になっている。
「私は実際に犯行現場を見たわけじゃないので、顔が確認出来たとしてもその人が犯人という証拠にはならないでしょう?」
「もちろんそうです。でも、捜査の手がかりになるかもしれません」
「メールで写真を送って下されば、確認しますよ」
「いや、それは出来ません。特に最近は簡単に掲示板に容疑者の写真がアップされたりしますから・・・。あ、いえ、篠原さんがそういうことをするかもしれないと言っているのではありませんけど」
「わかりましたけど、じゃ、どうすればいいですか?」
「え~っと、では、今からお会いできますか?」
「いえ、今日は不愉快なことがありましたので、もう帰ってフテ寝します」
「え?え?・・・・・」電話の向こうで訳がわからず焦っている声がした。
「すみません、お会いできないかなんてぶしつけなことを・・・。変な意味じゃなかったんですが・・・」
「あ、いえいえ、そうじゃないですよ。うちの会社のことです」
「そうですか、よかった。う~ん、では明日の朝、K署まで来ていただけますか?」
「明日の朝ですかぁ? ・・・わかりました。8時半から9時くらいでいいですか?」
「わかりました。K署に来られたら受付であなたと私の名前、それから用件をお伝えください。すぐにお迎えにあがります」
「えっと、お名前はカサイ・・・さん、でしたね」
「はい、刑事一課の葛西純平と申します」
「わかりました。では明日お伺いいたします。失礼します」
「お忙しいところを本当に申し訳ありません。では明日、よろしくお願いいたします」
電話は終わった。携帯電話を閉じ由利子はまたバス停に向かって歩き出した。(なかなか腰の低い警官やねえ)と由利子は思った。(昔営業マンでもやってたのかな)想像したらちょっと可笑しくて、少し和んだ。(カサイジュンペイだって。少年漫画のキャラみたいな名前。きっと子どもの頃はジュンちゃんって呼ばれてたよね) 由利子は名前から彼の姿を想像してみた。中肉中背・・・いや、中背よりちょっと小さめで、童顔、髪型は・・・ちょっと長めのパサ髪だったりして。
 そんなことを思って歩いていると、いつの間にかバス停にたどりついていた。幸運にもバスはすぐに来た。

 

 ギルフォードは、勝山と今後の対応について話し合った後、大学まで急いで戻った。自分の研究室まで戻ると秘書の鷹峰紗弥がロイヤルミルクティーを入れて待っていた。学生達も数人が残ってまだ部屋で雑談に興じている。
「おや、みんな残ってたのですか? 遅くなるから帰って良いと言っていたのに」
部屋の時計は夜7時を過ぎていた。紗弥はギルフォードを見ると紅茶の入ったお盆を差し出し、にっこり笑って言った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
のっけからのとんでもない応対に、ギルフォードは若干困った顔をして言った。
「何ですかサヤさん、そのゴシュジンサマっていうのは?」
「殿方はこういう風に出迎えられると喜ぶとお聞きしましたので」
周囲から学生達のクスクス笑いが聞こえる。
「あのね、私はそういう女性蔑視みたいのは嫌いですよ。ところで、私が帰ったのがよくわかりましたね」
「教授のバイクの音を覚えてますので」
「犬みたいですね、まったく」教授は肩をすくめて言ったが、紗弥はそれを無視して尋ねた。
「ところでかなり急いでお帰りになってましたが、何か大変な事でもありましたか?」
「う~~~ん・・・、コトによると・・・ですが。とりあえずちょっとコッチ来て!」
ギルフォードは、紅茶を乗せたお盆を持ったままの紗弥を教授室に引っ張り込んだ。学生達はその様子を見てざわついた。
「なん? なん? 教授が秘書の紗弥さんを部屋に連れ込んだ?」
「その事実だけだとかなりいかがわしいけど、ギル教授に関してはそれはないって」
「それにしては、珍しく緊張した表情をしていたけど、7年に一度の発情期が来たとか」
「バルカン人のポンファーか!」
「貴様ら、トレッキーだったのかよ!」
「まあ、紗弥さんにもニューハーフ疑惑があるから」
「ええ~、あたしそれ初耳ぃ! でも細くて背高いし、ありえないこともないよねえ」

 学生達が勝手に想像を膨らませているのを知ってか知らずか、ギルフォードは、部屋に入ると自分の席に着き、紗弥からミルクティーを受け取ると二口ほど飲んだ。それでとりあえず人心地がついたようだが、一息入れるといきなり英語で話し始めた。
”今日の司法解剖の遺体だが,ひょっとしたら死因は出血熱だったのかもしれねぇんだ”
「まさか・・・」
紗弥は信じられないというように、半分笑い顔で言った。しかし、ギルフォードは真面目な顔で続けた。
"だから俺が呼ばれたらしい.今,カツヤマ先生が遺体からサンプルを採って国立感染症研究所に送る準備をしている ”
”そんな物騒な病気が何故この日本に? ”
ギルフォードにあわせて、紗弥も英語に切り替える。
”昔ならともかく,今の交通事情なら危険なウイルスも24時間で世界中にデリバリーOKさ.何年か前に,サーズに罹った台湾人の医者が日本国内をあちこち観光でうろついていたことは覚えているだろう?”
”ええ,幸いにも日本で彼から感染した人はいなかったと思います”
”まったく、ラッキーだったよ.おかげで中国人しか発症しないなんてデマ流すヤツも出てきたけどね.イタリア人の医師だって死んでるっつーの.それ以前には,アフリカ帰りのビジネスマンがラッサ熱に罹っていたこともある.この時も幸い他に感染者は出なかったが”
”では,今回も旅行者が持ち帰った可能性が?”
”それが良くわからねぇのさ.何せ,感染者と思われるのは今のところホームレスだけなんだからな”
”確かに海外旅行とは縁がなさそうですね”
”可能性としては,タイガー・モスキートのような外来害虫が考えられる.だが,F市の国際空港近辺ならともかく,現場はK市のA公園なんだよな”
ギルフォードはもうひとくちミルクティーを飲んで続けた。
”困ったことにこれがもし,レヴェル4の病原体だった場合この国では手に負えなくなる”
”まあ,どうしてです? まさか,BL-4の研究室がない・・・とか?”
”あるさ,国立感染症研究所と筑波の理研科学研究所にね.近隣住人の猛反対にあって現在はレベル3でしか運用出来ていねぇんだよ”
”反対する気持ちはわかりますけどね”
”原発は平気で何基も稼動させているくせにな.漏れ出した時の脅威としては,放射能も病原体もあまり変らないだろうと俺は思うけどね.旧ソ連に於いてのスヴェルドロフクス(炭疽菌漏れ)事故と、チェルノブイリ(原発)事故を比べてみればいい.むしろ爆発しないだけまだマシさ”
”でも,まだ出血熱かどうかわからないのですよね”
”そう.だから正体どころか,あるかどうかわからない病原体の為に,大騒ぎするわけにはいかねえだろ.で,こっちも動きようが無いわけだ.だが,もしレヴェル4のウイルスが市内に潜在してるのが事実なら,大変なことになる”
そういうと、残りのミルクティーを飲み干し、こんどは日本語で言った。
「と言うわけです。人に言っちゃダメですよ。あ~、バイクをすっ飛ばして帰ってきたんで疲れました。ミルクティー美味しかったです、ありがとう」
そう言うと、ギルフォードは椅子にもたれかかった。飲んだ後のカップを片付けながら紗弥が言った。
「教授は英語と日本語では話し方のギャップがすごいですわね」
紗弥が、カップを下げるためにギルフォードの部屋を出ようとすると、「やば!」という声がしてドアの傍にいた学生たちが、わらわらと逃げていった。紗弥は右手にお盆を持ち左手を腰に当て、彼らを見ながら微笑みを浮かべながら言った。
「ところで、わたしがニューハーフって、いったいどなたが噂しているのかしら?」
「私もまだ42歳にはなってませんけどね」
紗弥の後ろから、教授も一声かける。
(地獄耳)
(地獄耳)
(地獄耳)
学生たちは冷や汗をかきながらお互い顔を見合わせた。

 紗弥が給湯室に去り、教授が部屋に篭ったのを確認すると、学生達はまたひそひそ話し始めた。
「みんな、先生たちなんて話してたかわかった?」
「英語だったやん、わかんねぇよ、オレ。お前英語しゃべれんじゃん、聞き取れたやろうもん」
「早口すぎて、ドア越しじゃあ聞き取れないわよ、あんなの。スラングだらけだし」
「俺らが聞き耳立ててるのを知ってて、英語で話したのかな」
「どうかな、単に英語の方がしゃべりやすいってこともあるかもよ」
と、突然、ギルフォードが部屋から出てきて言った。
「君たち、用がないならいい加減に帰りなさい。8時になってしまいますよ」
「はぁい」
学生達は、しぶしぶ帰る準備を始めた。

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4.拡散 (4)エンジェルス・トランペット

 雅之は夕食後、久しぶりに自分の机の前に座った。夕食も、元気な時ほどは食べられなかったが、完食して母親を喜ばせた。
(明日は学校に行けそうだ)
若干フラフラするものの、だいぶ気分がよくなったので、すでに明日は登校するつもりだった。入浴してさっぱりとし、明日の準備をしようとカバンに手をかけた雅之は、ハッとして中から携帯電話を取り出した。具合が悪くなってから、ずっとカバンの中に入れっぱなしだったことに気がついたからだ。開いて見るとメールがだいぶ入っている。ほとんどがダイレクトメールやspamだったが、友人からもいくつか入っていた。雅之は友人からのメールを開いて読み始めたが、祐一からのメールは怖くて開くことが出来なかった。

  20XX年6月4日(火)

 翌朝、雅之が学校に行く準備をしていると、母親の美千代が心配して2階に上がってきた。
「まあちゃん、本当に大丈夫なの? お熱はもうないの?」
「うん、大丈夫だよ」
雅之は答えた。実はまだ熱は37度を超えていたのだが、登校を止められそうなのでウソをついたのだ。
「そういえば、これはウワサなんだけど、西原さんちの祐一君? 警察にいるらしいわよ」
雅之はそれを聞いて、頭から冷水を浴びせられたような気がした。
「え? どうして・・・?」
「詳しくは知らないわ。それで校長と担任の森川先生が警察に呼ばれたそうよ。・・・あら? まあちゃん、どうしたの?」
美千代は、今にも倒れそうな息子の様子に驚いて言った。
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけだよ。二日も寝込んでたからだよきっと」
雅之は動揺を誤魔化そうとして言った。
「ホントに学校に行って大丈夫なの? 無理しないほうがいいわ」
「大丈夫だって。僕は授業に遅れたくないんだよ! 着替えるから部屋から出てって」
雅之は追い立てるように美千代を部屋の外に出し、急いで携帯電話の中の祐一からのメールを開いた。

明日朝、K駅前の交番に行く。雅之も来てくれ。待っとるから。

祐一らしい、実直なメールだった。
(祐ちゃん、オレが来ないからひとりで自首しに行ったんだ)
雅之は愕然とした。早く自分が行って祐一の無実を証明しなければ。雅之はすぐに祐一にメールを送った。

祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。

雅之はメールの送信をした後、放置していたために電話の電池の残量が少なくなっていることに気が付いた。充電しておこうと充電器につないで机の上に置く。その後、レポート用紙を一枚剥ぎ取ると、それに走り書きをした。

父さん、母さん、ごめんなさい。
ぼく、とんでもないことをやっちゃったんです。祐一君はぼくのかわりに警察に行ったんです。祐一君を助けるために今から自首をしに行きます。親不孝を許してください。
父さん、旅行に行く約束したのに行けなくなってごめんなさい。ぼくが帰ってきたら母さんと3人でいこうね。 まさゆき

何故か雅之は自分の名前が漢字で書けなかったが、気にとめる様子もなく紙を半分に折り机の上に置いた。置手紙を書くのに少々時間を費やしたので、始業時間に間に合わなくなってしまったが、雅之はもう気にならなかった。すぐに着替えて家を出る準備をする。両腕が内出血で黒くなっているので、制服のシャツは長袖を選んだ。玄関まで行くと、母親が心配そうに立っていた。
「気分が悪くなったら、すぐに帰ってくるのよ、いいわね」
「大丈夫だよ、じゃ、行ってきます」
雅之は出来るだけ元気に振舞って家を出た。

 由利子は、いつもより30分早い電車に乗った。警察に行く約束をしていたからだ。早めに家を出ようとすると、猫たちが玄関までついてきて、ふしぎそうな顔で彼女を見送った。

 雅之が急いでいると、後ろから彼を呼ぶ声がした。
「雅之? 雅之やろ? おはよう。病気は大丈夫なんか? ひでぇ人相だぞ」
振り向くと同じクラスの田村勝太だった。昨日の朝K駅で祐一に吊るし上げられた少年である。
「なんだ、勝太か」
「『なんだ勝太か』って、昨日の西原といい失礼なやっちゃな」
「ごめん。おはよう。マスクしとるけん、一瞬誰かと思ったったいね」
「ああ~、そういや西原もマスクがどうの言うとったな。実はアレルギーらしくてさ」
「この時間に会うとは思わんかったし」
「あはは、お互い遅刻やね。おれは常習やけど、雅之は病気やったけん遅刻しても大目に見てもらえるやろう。そういえば、西原、ホームレス殺しの件で自首したらしいな。ゴメンな、雅之、俺らお前を疑っとったんや」
「違うんだ、勝太。あれはオレがやったんだ。今から自首して祐ちゃんを助けに行く」
雅之は素直に言った。
「やっぱそうやったんか。でも大丈夫や? まだ気分悪いんやろ? 今日は暑いのに長袖シャツだし顔色悪いし、白目もなんか黄色っぽいぜ」
「だけど、祐ちゃんを放ってはおけないよ」
「わかった。おれがついて行っちゃるけん」
「ありがとう」
雅之と勝太は並んで歩き始めた。雅之はまた熱が上がっていると感じていた。しかし、祐一の為になんとしてもK署に行って自首しなければいけない・・・。すでに雅之には、最寄の警察に行くという、合理的な判断が出来なくなっていた。
 勝太は、歩きながら雅之に事件の経過を詳しく聞こうと思ったのだが、どうも雅之の話が要領を得ず困っていた。
(なんか小学生と話しているみたいやね。こいつはもう少し理路整然と話すヤツやなかったっけ?)勝太は思った。まだ熱が高いのだろうか? しかし、雅之はそんなそぶりも見せず機械的に歩いていた。

 美千代は雅之が出た後、心配になって彼の部屋をのぞいてみた。すると、机の上に携帯電話が充電されたままになって置いてある。
「あの子ったら、何かあったとき困るじゃない」
そういいながら部屋に入った。雅之を追いかけて渡してこようか。今ならひょっとしたら電車に乗る前に間に合うかもしれない。そう思いつつ、電話の履歴を見た。いつもは触らせてもらえないので、中身が気になったのだ。もちろん学校から親に電話の管理をするように言われているのだが。メールを見ると、西原祐一からのメールがあった。心配になってそのメールを開いた美千代は驚いた。一瞬内容が把握できなかったが、机においてある置手紙を読んで、後頭部を打たれた様なショックを受けた。
「止めなきゃ」美千代はつぶやいた。「まあちゃんを止めて説得しなきゃ。きっと祐一君をかばうつもりなのよ!」
美千代はそういうと、戸締りもそこそこに家を飛び出すと雅之の後を追った。追いかけながら大阪にいる夫に電話する。
「もしもし美千代? どうした?」
信之は、朝早い時間の妻からの電話に驚いて電話に出た。夫は駅にいるらしい。周りがざわついており、構内アナウンスの声が聞こえる。
「あなた?あなた?・・・、雅之が、まあちゃんが・・・!」
美千代は電話をかけたものの、なんと説明していいか混乱していた。
「雅之がどうした? 具合が良くないのか?」
「違うの、違うの・・・。いえ、今はとにかくまあちゃんを止めないと! 後でかけ直すわ」
電話は唐突に切れた。妻からの尋常ならぬ電話に信之は不安を隠せなかった。しばらく携帯電話を持ったまま考え込んでいたが、会社に連絡をとるため乗車客の列を離れた。

 雅之たちは、駅の近くの踏み切りまで来ていた。ここはまだ高架になっておらず、平日朝はいつも通勤客と自動車でごった返していた。雅之が不思議そうな顔をして言った。
「勝太、さっきからすごい朝焼けやけど、雨になるんかねえ」
「朝焼け? 何言ってんだよ、青空だし、全然普通に晴れとるやん」
「だって、周り中全部真っ赤だよ?」
勝太は雅之の言葉にゾッとするものを感じていた。これは、きっと熱のせいに違いない。
「雅之、帰ったほうがいいよ。一度病院に行ってから出直そう? おれも付き合うけんさ、な?な?」
勝太は雅之に言ったが、彼は言うことを聞かずどんどん先へ歩いて行った。その時警報が鳴り始め、数メートル先に見える遮断機がゆっくり下りるのが見えた。その警報の音に触発されたように雅之の様子がおかしくなった。
「赤い・・・。あっ!!」
雅之は急に何かに怯え始め、何者かに追いかけられるように人ごみをかき分け先に進んだ。驚いて勝太が後を追う。
「雅之、待てって! 急にどうしたとや!!」
強引に先に進もうとする二人の少年に押され、通勤の大人たちはいやな顔をしていたが、特に咎める様子はない。雅之は遮断機に遮られ、先に進めなくなった。カンカンと警報の音がヒステリックに鳴り響く中、逃げ場を探して雅之はキョロキョロしていた。
「雅之、どうしたと? 危ないからこっちに来いよ!」
勝太の言葉に雅之は答えた。
「いやだ、あのおじさんが来る! オレを捕まえようとしているんだ」
まったく意味不明な雅之の言葉を聞いて、勝太の脳裏にインフルエンザの特効薬で子どもが異常行動を起こしたという事件のことが浮かんだ。これがそうなんだろうか・・・。勝太は恐ろしくなった。なんとかしないと。
「赤い! 赤い! ・・・怖いよ、助けて!!」
雅之はいきなり遮断機をかいくぐり、線路に飛び出した。
「雅之ィ!! 危ない、特急電車が来よる!!」
勝太は雅之を止めようと後を追って遮断機をくぐろうとしたが、誰かに手をぐいと引っ張られ阻止された。ぎょっとして、勝太は手を引っ張った人の方を見た。女性だったが、サングラスとマスクで顔はよくわからなかった。
「放してください! 雅之が死んでしまう!!」
「やめなさい。もう遅いわ」女は妙に冷静に言った。
「放してください! 放せってば! 放せぇ~~~~!!」
勝太は女の手を振りほどこうともがいた。
「誰か、この子を抑えて! このままじゃこの子まで飛び出してしまうわ!」
女の言葉に傍にいた男性会社員が二人がかりで勝太を押さえ込んだ。身動きできなくなって、勝太は空しく線路の方を見た。踏切内、ひとり雅之は立っていた。あちこちからから悲鳴と「危ないから、戻れ!!」という叫び声が聞こえた。誰かが電車を止めるべく緊急ボタンを押しに走った。しかし、あまりにも電車との距離が近すぎた。電車の運転士はとうに雅之に気づき警笛を鳴らしている。
「放せえっ! 雅之!雅之ぃぃぃぃ――――!!!」
勝太の悲鳴に近い叫び声が警笛にかき消された。雅之は、ゆっくりと電車の方を見た。車体はどんどん近づいて来る。しかし、雅之には何が起こっているかわからない様子だった。電車はすでに運転士の顔がわかるほどの距離になった。運転士は何かを叫びながら必死で電車を止めようとしていた。ブレーキの甲高い音が響き、レールと車輪の激しい摩擦による独特のにおいが当たりに経ちこめた。雅之は電車が迫って来るのをぼんやり見ていた。電車は真正面からぐんぐん近づいてくる。ほんの数秒間のことなのにそれは、まるで映画のスローモーションシーンのようだった。目前に巨大な電車の影が覆いかぶさろうとしたとき、初めて雅之は我に返った。自分の置かれた状況が飲み込めないまま、電車から逃れようとした次の瞬間、雅之は全身に凄まじい衝撃を感じ、自分の体が宙に浮いたのがわかったが、そのまま頭の中が真っ白になり何もわからなくなった。
 凄まじいブレーキ音と警笛を響かせながら、電車は止まった。止まった後も警笛が鳴り響いていた。その音は、まるで巨大な管楽器が鳴り響いているようだった。
 

 電車の中で、由利子はドアの傍に立ち、本を読みながら通勤時間をやり過ごしていた。ふと、窓の外に違和感を感じてそっちをみた。対向の上り電車が駅でもない場所で止まっていた。あれっと思ってそのまま外を見ていると、後続の電車も何台か止まっている。
(事故かしら?)
由利子は思った。他の乗客もざわざわし始め、由利子の乗った電車も徐々にスピードを落としているのがわかった。車内アナウンスが響いた。
「先ほど、B駅で人身事故が発生いたしました。そのため、列車の運行に支障が出始めております。この電車もこれより徐行運転をいたしております。お急ぎのところ真に申し訳ありません。なお、電車の乗り継ぎ等、車内アナウンスや各駅の案内でご確認をお願いいたします」
(えええ~~~?)由利子は思った。(もう少しで着くのに・・・。でも、B駅って私の乗る駅の隣じゃない。いつもの時間に電車に乗っていたら、巻き込まれたかも知れないわね)
電車は5分遅れで到着した。駅から出た由利子は、インターネットでゲットした地図を開いて言った。
「さあて、K署にはどう行ったらいいのかな?」

 祐一は、朝早くから取調室に呼ばれた。促されるままに席に着くと、前に若い刑事が座った。葛西刑事だ。彼は独身寮にいるため、早々に呼び出されたのだ。
「おはよう、西原君」
「おはようございます」
「昨日は眠れたかい?」
「いいえ・・・」
祐一は素直に答えた。
「朝早くからすまないね。実は、急に確認したいことが出来たんだよ。実は今朝早く、君の友だちから電話があったんだ」
「友だちから?」祐一は、雅之からだろうかと期待した。
「佐々木良夫という君の同級生からだよ。彼が全部話してくれた。やったのは君じゃないんだね」
祐一は黙っていた。
「どうして友だちを庇ったりしたの?」
祐一は無言で下を向いた。
「代わりに君が罪を償ったって、友だちのためにはならないと思うよ」
「来ると・・・思ったんです」祐一はやっと口を開き、力のない声で言った。
「雅之・・・。僕が自首したらあいつも自首してくれると思ったんです・・・」
「そっか・・・。佐々木君が言ってたけど、秋山雅之君だっけ? 彼、熱を出して昨日から休んでいるそうだよ。だから、君が警察に来たことを知らないんじゃないか?」葛西は祐一を慰めた。「佐々木君も今朝、君の事を聞いて、びっくりして警察に電話したんだって。佐々木君、詳しいことをちゃんと説明するって、今、こっちに向かってるそうだよ」
「そうですか・・・」
祐一は、雅之がとうとう自首しなかったことに対して失望を隠せなかったが、熱を出しているということを聞いて、あの男の死に様を思い出し不吉な予感が頭をもたげた。
 

 勝太は雅之が電車と衝突する寸前、顔をそむけ目をぎゅっと瞑り耳を覆った。それでもブレーキ音と何かがぶつかる嫌な音が聞こえた。雅之の身体は電車がぶつかった衝撃でとばされ数メートル先の対抗路線の上に落ちた。電車はそのまま数十メートル走ってやっと止まった。線路の上の雅之はうつ伏せに倒れ全く動かなかった。 「救急車を呼べ」「いや、もう死んどるばい」「駅員はまだや?」
踏切り付近は騒然とした。勝太は止める手を振り切って雅之の傍に走っていった。すでにその周りには野次馬が集まりつつあり、車掌が人払いに躍起になっていた。雅之の傍にはもうさっきの女が座って、彼の身体を調べていた。手にはラテックスの手袋をしている。車掌が咎めようとすると女が言った。
「安心して。私は医者よ」
車掌はそれを聞くと、それ以上彼女に質問しようとはしなかった。遅れて運転士が走ってきたが、その状況を見て呆然と立ち尽くしてしまった。しかし、すぐに先輩の車掌に叱咤され野次馬の整理に回った。車掌は場所を離れて無線で会社に状況を説明し始めた。
「だめね。即死だわ」
女は立ち上がると頭を振って言った。勝太は呆然とした。うつぶせた雅之の周囲にはどす黒い血が広がっていた。普通の血となんか違う・・・。勝太は遠くの方でそう思った。頭が呆けたようになっていて思考が回らない。これは現実なのだろうか・・・。その時、勝太は野次馬のなかで携帯電話を出し、雅之の写真を撮ろうとしている者を見つけた。
「やめろ! おれの友だちだぞ! 撮るなぁ!!!」
勝太は叫んで雅之の体に覆いかぶさろうとしたが、女にまた止められた。
「困った風潮ね」
女は首に巻いたスカーフを取ると、ふゎっと広げて雅之の上半身にかけた。青い薔薇の花柄がデザインされた美しいスカーフだったが、雅之の身体にかけたとたんに、彼の流した血がじわじわと染みて薔薇をどす黒く染めた。しばらくして救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。女は勝太を呼んで言った。
「ごらんなさい」
女は再び雅之の傍に中腰になると彼の袖をめくって勝太にその腕を見せた。
「点々と内出血しているでしょう? これは事故のせいじゃないわ・・・。救急隊員が来たら、感染症の恐れがあるから必ず保健所に届けるように伝えなさい」
そういうと、女はさっさと立ち去ってしまった。勝太は周りを見回した。近くの駅から派遣された応援の駅員たちが、野次馬を追い払っていた。勝太も追い払われそうになったので、あせって言った。
「僕は、彼の友人です。傍にいさせてください」
「友だち? では、この少年が飛び出した時の状況を説明できるかい」
勝太はうなづき、雅之の方を見た。さっきまで話していた友の身体が物のように転がっていた。もう二度とこいつとは話すことが出来ないのだ。そう思い初めて今が現実だと実感した勝太は、顔を覆ってその場に座り込んだ。
「雅之~~~、なんでこんなことに・・・」
そういうと、号泣を始めた。駅員は成す術なく傍に座って彼の肩に手を置いていた。
「すみません、すみません、傍に行かせてください!!」
女性の声が一際高く響いた。
「息子かも知れないんです」
それは、雅之を追ってきた美千代だった。駅の傍まで来たが、事故現場の人ごみを見て嫌な予感がして必死でやってきたのだ。それに気がついた駅員が美千代を人垣から誘導した。美千代は線路に横たわる少年の身体におそるおそる近づいた。スカーフに上半身を覆われていたが、その姿を見て美千代は直感した。力が抜けへたり込む美千代を駅員が支えた。もうひとりの駅員がスカーフをめくって美千代に顔を確認させる。美千代は両手で顔を覆いながら声を絞り出すように言った。
「息子の・・・雅之・・・です」
その後、母親の悲鳴のような泣き声が事故現場に響いた。

 踏み切りの警報は機械的に絶え間なくなり続けていた。救急と警察が到着し、あちこちで光が点滅を始め、事故現場はさらに慌しくなっていった。
 

 由利子はK署に到着し、応接室のようなところに通された。少し待つと、葛西が姿を現した。
「おはようございます」葛西は軽く頭を下げ挨拶した。
「あ、おはようございます」由利子も立ち上がり追って挨拶をする。葛西は前の席に座ると言った。
「葛西です。はじめまして。篠原さん・・・ですよね、朝早くからご足労願いまして申し訳ありません」と、葛西はまた頭を下げる。「実はですね、今朝から状況が変りまして・・・」
「え? と、言われますと?」
「一緒に事件現場の公園にいたという子から電話が入りまして、真犯人について新たな情報が入ったんですよ」
「はあ、ということは、私はもう用済みということですか?」
「とりあえず、この写真ですが見覚えありますか?」
葛西は由利子に写真を見せた。見覚えの無い若い男が写っていた。
「違います。もっといい男でしたもの」
うっかり由利子は言って、あせって口を押さえた。
「すみません、ちょっと試させていただきました。これはウチの署の新人警官の写真です。本物はこれです」
「ふざけないでください」由利子は少しムッとして言った。
「すみません、相手が未成年なもので慎重にと思って・・・」
葛西は頭を掻きながら言った。由利子は新たに出された写真を見て言った。
「この子は、後から駅のホームで例の少年といた子です。間違いありません」
「そうですか。今日の電話と辻褄が合いますねえ・・・」
葛西はしばらく考えて言った。
「ところで篠原さん、今、断言されましたが、本当に顔を覚えたら絶対に忘れないのですか?」
「まず、忘れません」
「では、さっき見せた写真の警官の顔も? 会ったらわかります?」
「写真なので実際に見たほどじゃないですけど、会えばわかると思います」
「へえ、すごいですねえ。僕にもそんな記憶力があればよかったのに」
「人の顔限定ですけどね。まあ、それはそれで困ったものなのですが」
「どうして? そんな能力があったらすごく役に立つと思うのだけど。これは僕が刑事だからそう思うのかもしれないけど・・・」
「困るのは、忘れたくても忘れられないことです。文字通り顔も見たくない人の顔まではっきり覚えてるんですから・・・」
「はあ、なるほど。そうですねえ。確かに小学校の頃僕をいじめた先生の顔とか思い出したくないもんなあ」
「刑事さん、いじめられてたんですか?」
由利子は、屈託の無い葛西の言葉に驚いて言った。
「はあ、なんか僕が気に入らなかったみたいで」葛西は笑いながら言った。その時、多美山がばたばたと部屋に入って来た。
「おい、ジュンペイ! 大変なことになったぞ。今鉄道事故の連絡が入ったんだが、その被害者が例の秋山雅之らしい」
「なんですって?」
葛西は立ち上がって言った。
「僕はさっきの写真の少年のところに行かねばなりません。ここで待っていていただけますか?」
「わかりました」
由利子も予想外の展開にびっくりして、やや呆然としていた。あの事故はあの子が・・・?。由利子は驚くとともに何か妙な宿命のようなものを感じていた。

 葛西は急いで祐一のところに走った。祐一はもう事故の知らせを聞いており、蒼白な顔をして葛西を見ると言った。
「刑事さん、雅之が電車に轢かれたって本当ですか?」
「今、事実確認を急いでいるところだよ」
「預けてある僕の携帯電話を見せてください」
葛西は近くの警官の方を向き、持って来るようにたのんだ。警官は了解し、すぐに祐一の電話をカバンごと持ってきた。祐一は電話を出すと、着信とメールをチェックした。やはり雅之からメールが来ていた。今朝だ。すぐに開いて内容を確認する。

祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。

「雅之・・・ここに来ようとしていたんだ・・・なのに、なんで・・・」
祐一は掠れた声で言い、よろよろと椅子に座ると電話を持ったまま机につっぷした。肩が小刻みに震えていた。
葛西はその姿を見ながら、事故の情報が間違いであることを願った。
 

 女は事故現場から離れると、電話をかけはじめた。
「私です。例の少年が、今『炸裂』しました。おそらく・・・」
「そうか、やはり予定外に話が進んでしまったな」
「阻止できず、申し訳ありません。まさかあの人があんな・・・」
「気にするな。単に計画が早めに進むだけだ。『賽は投げられた』というわけだな。まあ、こんな地方で始まったのは想定外だが」
「申し訳ありません・・・」
「君が謝ることはない。すべては神の思し召しさ。さあ、早く帰ってきて状況を説明しておくれ」
「承知いたしました」
女は携帯電話を閉じ、軽くため息をついた。
「本当に、どうしてこんなことに・・・」
女はそういうと、遠くに見える事故現場の喧騒を思いながら顔を覆ったが、すぐに姿勢を正すと何かつぶやいた。女はその後しばらく歩き、ようやく見つけたタクシーに乗り込むと、JRL駅まで行った。N鉄道の事故で電車に乗れなくなった人々が流れてきてごった返した駅に向かい、人ごみの中に消えていった。 

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4.拡散 (5)少年たちとギルフォード

 由利子は案内された部屋でひとりぼうっと椅子に座って待っていた。予定では少年の顔を確認してすぐに会社に行けば充分始業時間に間に合うはずだったが、すでに完全に遅刻である。昨日の今日なので遅刻はしたくなかったのだが、仕方がないので届け出をしようと会社に電話した。すると、電話に出た総務部長が電車事故で遅れていると勘違いをしてくれたので、説明がめんどくさくなった由利子は理由をそれで通すことにした。たしかに、いつもだったら巻き込まれている時間なのだから。
 K署内は騒然としていた。情報が入るにつれ、事故にあったのが秋山雅之である可能性が高まった。昨日、由利子が黒岩の娘からゲットした情報も「秋山」で、苗字も一致する。やはり、あの少年とホームレス殺害事件とは関連があったのか。未だ半信半疑で考えを巡らせていると、葛西が写真を持って入ってきた。
「学校から送ってもらった秋山雅之の写真です。念のため確認してください」
葛西は由利子の前に写真を置いて言った。修学旅行らしきスナップ写真で、楽しそうにピースをしている雅之が写っていた
「はい、この少年でした」
少し声が震えた。傍で犯行を目撃していた少年が証言したのなら、今更自分に首実検させなくてもと思ったが、おそらく葛西の言ったとおり念のためなのだろう。
「それで、電車に轢かれたというのはやはりこの子だったのですか?」
由利子は質問した。葛西は一瞬の沈黙の後に答えた。
「彼の母親が・・・確認したそうです」
母親が、のところで声が少し裏返った。由利子も母親の気持ちを思うと胸が痛んだ。
「それで・・・」
由利子が問うと、葛西は首を横に振った。秋山雅之は何故電車事故に遭ってしまったのか。事故なのか、ひょっとして罪の重さに耐えかねて自殺したのか。いずれにしても、馬鹿なことを・・・。由利子は雅之の写真を思い出しながら、持って行き場のない悲しさと怒りを覚えた。気がつくと左目から一筋の涙が流れている。しまったと思って急いで右手で涙をぬぐった。こんなことは滅多にない。気がつくと目の前にハンカチが差し伸べられていた。葛西である。
「あ、大丈夫です」
由利子は照れ笑いをしながら言ったが、よく見ると葛西の目も潤んでいる。
「僕、人が泣くとダメなんです」と、葛西も照れ笑いをしながら言った。「実は、刑事になったばかりでして。甘いって、よく怒られるんですよ」
そういうとまた笑った。人好きのする笑顔だった。良い意味で警官らしくない人だな、と由利子は思った。背が高いほかは、由利子の想像通りの人だった。
「すみません、調書を作らねばなりませんので、もう少し具体的に説明していただけないでしょうか」
と葛西はノートパソコンを開きながら言った。
(まだ帰れんとですかぁ?)由利子はげっそりとした。とはいえ、拒否する程のものではないので由利子は金曜日のいきさつを簡単に話した。
「あと、住所と電話番号をお願い出来ますか?」
「それは、日曜に電話した時に言いましたし、電話はお教えした携帯電話の番号を書いてください」由利子は少しばかり苛ついて言った。
「で、それは悪用されたりネットで漏洩したりしないんですよね」
「もちろんです」
「以前、どっかの県警だか府警だかが個人情報を漏らしてますけど、大丈夫ですよね!」
「はい・・・、大丈夫だと思います」
「思います、では困るんですが」
「あ、はい、大丈夫です」
由利子が問い詰めるので葛西はだんだん押され気味になった。これではどちらが刑事かわからない。ついでに由利子は気になっていたことを聞いてみた。
「あの、この事件はどうなるんですか?」
「おそらくですが、加害者が未成年の上に、亡くなってしまいましたから、書類送検後に起訴されても取り下げになるのではないかと思います。被害者に身内はいないようですので、民事で争うこともないと・・・」
「そうですか・・・」
由利子は彼の両親のことを考えると安堵のような、それでいて、殺されたホームレスに対しての憐憫のような、訳のわからない感情に襲われた。
「あ、篠原さん、念のため僕の名刺渡しておきますね」と、葛西は由利子に名刺を差し出した。由利子も会社の名刺を交換しようと定期入れから出したが、ふとリストラのことを思い出して一瞬ブルーになった。

 葛西は玄関先まで由利子を送ってくれた。迎える人がいるからついでだと言う。
「せっかくご協力いただいたのに、ショッキングなことになってしまって申し訳ありません。お気をつけてご出勤なさってください」
葛西は丁寧に言った。
「ありがとうございます。お仕事がんばってくださいね」
そう言うと、由利子は軽く会釈して葛西に背を向けた。2・3歩歩いた辺りでまた後ろから声がした。
「あの・・・、篠原さん」
振り返ると葛西がもじもじして立っている。
「すみません、何でもありません」
葛西がそう言ったので由利子は「??? そうですか? じゃ」と言ってまた背を向けようとするとまた声がする。
「あの、またお会いできたらいいですね」
冗談ではない。由利子は思った。こんなことは二度とごめんだわ。
「出来るだけ警察とは関わりたくないものですが」
「そ・そうですよね。あの、でも、もし今日の件とかで何か困ったことがあったら電話して下さい」
「ええ、そうでないことを願ってますが」
由利子がそう言うと、葛西は何故かしょんぼりしてしまった。その葛西の様子に由利子はとうとう吹き出してしまった。
「そうですね。ご縁がありましたら、また」
そういうと、今度は笑顔で会釈し、由利子は再び歩き出した。葛西は会釈に敬礼で返し、そのまま直立不動で見送っていた。
 由利子が門の近くまで歩いた時、激しい爆音と共に大型のバイクがK署内に入ってきた。由利子にはハーレー・ダヴィッドソンだというくらいしかわからないが、白バイ顔負けの大型バイクだ。排気音を轟かせながらバイクは駐車場に止まり、乗っている大柄な男性がフルフェイスのヘルメットを取ると、ワイルドな白人の顔が現れた。ギルフォードだった。大学にいる時とはイメージが全然違う。もちろん由利子はこのガイジンが、自分がアクセス拒否を食らわせた、あの変なブログ読者であることは知らないが、あまりにも場所にそぐわない男の出現に驚いてあっけに取られて見ていた。ギルフォードのほうも、その女性が自分のお気に入りブログの管理人とは知らないまま、彼女のそばを駆け抜けながら軽くウィンクをした。さすがにドキッとして、ついつい由利子はそのまま彼を目で追った。彼はものすごい速度で玄関まで走った。葛西が彼を迎えるため近づいた。彼は葛西に何か聞くといきなり抱きしめた。意外なことの連続に由利子の目も点になったが、遠くからでも大男の背越しにじたばたする手が確認出来、葛西がとんでもなくあせっていることを物語っていた。その後彼は葛西と二言三言話すと、そのまま葛西の肩に手を置き、嬉しそうに建物内に消えていった。
「変な外人ねえ」
由利子は肩をすくめてから歩き出し、K署を後にした。
 

 葛西は、由利子を見送りながら、来客を待っていた。すると、署内に大型バイクが入ってきて爆音をと轟かせながら署内の駐車場に止まった。バイクの男はヘルメットを取って小脇に抱えた。肩より少し長い金髪がバサリと広がった。男は由利子の傍を走り抜けると署の玄関に猛スピードで走ってくる。
(ひょっとして、あのヘヴィメタが来客かなあ? 確かに外国人とは聞いていたけど・・・)
葛西は少し首を傾げたが、とりあえず彼を迎えに出ていった。男は葛西を見るなり親しげに笑いかけながら言った。
「Hi! Mr. Junpei Kasai?」
「Yes, I am. Welco...」
葛西が言いかけると、いきなり大男は日本語でしゃべり始めた。
「アレクサンダー・ギルフォードです。お会いできてウレシイです、カサイさん」
そういうと、いきなり葛西を抱きしめた。「うわぁっ!」っと、訳がわからずじたばたする葛西。
「何するんですか!?」
葛西はギルフォードの腕からようようすり抜けて言った。すると、ギルフォードはにっこり笑って答えた。
「ロシア式挨拶ですが」
「イギリスの方とお伺いしていますが・・・」
葛西は引きつりながらも笑顔で言った。
「まあ、細かいことは置いといて・・・」というと、ギルフォードは急に真顔になって言った。「早速ですが、例の男の死に際に近くにいたと言う少年達に会わせてクダサイ。その時の状況を聞きたいのです」
そういうと、葛西の肩をがしっとつかみ、せかすように署内に入っていった。
「カツヤマ先生のところに行く途中に連絡が入ったんです。近くまで来てましたから、ドクターの代わりに僕が寄ることになりました。警察は嫌いなんですケド」
ギルフォードは聞いてもないのに説明を始めた。
「でも来て良かったです。カサイさんとは仲良くなれそうな気がします」と、ポンポンと葛西の肩を叩いて言った。
「そうですか、それはよかったです」
あまりの馴れ馴れしさに葛西は引きつりながら言った。イギリス人ってこんなに人懐こかったっけ?と葛西が疑問に思ったところで、祐一が待機している取調室の前に着いた。ギルフォードを出迎えに出て来た鈴木係長を見ると、ギルフォードは急に険しい顔をして言った。
「どうして、あの男と接触をしていた少年がいるコトを言ってくれなかったのですか?」
鈴木はヤクザの脅しにもひるむことなく飄々と対応出来る程肝の据わった男なのだが、今回はガタイの大きいギルフォードの迫力に若干押され気味で答えた。
「昨日の段階では、まだ、はっきりとしたことがわかっていなかったのです。今朝、もうひとりの少年が電話をしてきて、始めて秋山雅之の存在がわかったのです」
「それでも、ひとりは出頭して来てたのでしょう? 少なくともインデックス・ケースかも知れない男と出会った少年の情報はあったハズです。あなた方はそれを教える義務がありました」
「インデックス・ケース?」
鈴木は首をかしげて葛西を見た。葛西は小声で鈴木に言った。
「指針症例。感染症に罹った最初の患者のことですが、この事件と何かの感染症が関連しているのですか?」
ギルフォードは葛西の方を見て「ほう!」と感心した様子だった。
「後で詳しいことを話そう」鈴木はそう葛西に言うと、ギルフォードに向かって言った。
「あの時は私の判断で、そのことを伏せたのです。出頭してきたのはまだ14歳の中学生でした。しかも、誰かを庇っているのではないかという様子が伺われ、慎重に対応していました。未成年者の扱いは慎重にせねばならないし、学校に未確定情報を知らせてパニックを招くことは避けねばなりません」
「だけどその結果、容疑者が・・・?」
「・・・事故で亡くなりました」鈴木が苦い顔をして答える。
「それも、電車事故でです!」ギルフォードはその後小さく「Shit!」と言って続けた。「もし、彼が感染していて、事故の際、彼の血液がエアロゾル化して撒き散らされていたら、どうなると思います!?」
鈴木は心の中で、何故政府からテロ対策の顧問として直々呼ばれたはずの彼が、地方に飛ばされている訳がなんとなくわかったような気がするな、と思った。しかし、今ここで問答をしても時間の無駄だ。
「それについては後でゆっくりと。それより我々は出来るだけ早く西原祐一を解放してやりたいと思っています。尋ねることがあるのなら、早くお願いします」
そういうと、鈴木はギルフォードを部屋に通した。その際小声で彼に念を押した。
「彼らは友人の死にショックを受けています。今はだいぶ落ち着いていますが、あまり無理をさせないでください。お願いします」
ギルフォードは「そう努めます」と一言だけ言うと中に入っていった。その後に葛西が続く。彼らが部屋に入ったところで、鈴木の傍に黙って立っていた多美山が言った。
「係長! よかとですか? あげなとに勝手にさせとって」
「彼は司法解剖をお願いしている勝山先生の代理だ。特にこの事件は彼らの方が専門かもしれないんだ。餅は餅屋に任せよう。それに・・・」
と言いかけて、鈴木は言葉を濁した。
「それに、何ですか?」
多美山はすかさず尋ねた。鈴木は多美山より地位は上だが、年齢は多美山の方がかなり上である。警官としての経験は多美山の方がベテランで、鈴木も一目置いていた。
「上の方から彼に協力しろという達しが来ているんだ」
「ということは・・・」
「公安の方も動き出しているらしい」
「どうも胡散臭かですね」多美山は言った。

 ギルフォードと葛西が部屋に入ると、西原祐一と佐々木良夫が静かに座っていた。良夫は下を向いて泣いていた。先ほど署に着いて雅之の死を知らされたばかりだった。横には女性警官が座って慰めている。彼女は二人が入ってくると、席を立って迎えた。背はあまり高くなく、眼鏡をかけたすこしぽっちゃり型の若い婦警で髪型はボブというよりオカッパという感じだ。お人形のような可愛い顔をしている。
「少年課の堤みどりです。Mr.ギルフォード、お会いできて光栄です」
そういうと彼女は右手を差し出した。
「こちらこそ、お会いできてウレシイです、ミドリさん」
ギルフォードはそういうと、にっこり笑って彼女の右手をとり握手をした。
(あれ、堤さんにはロシア式挨拶はないのか)
葛西は少し不思議に思ったが、まあ署内だからだな、と勝手に納得した。
「ところでギルフォードさん、あの子たちにご質問なさりたいということですが、彼らはかなり精神的にダメージを受けています。慎重にお願いします。もし、彼らに負担がかかっていると判断した場合、即刻中止させてもらいます」
堤は可愛い顔とは裏腹に厳しい口調で強面の大男に釘を刺した。ギルフォードは少し口を尖らせて「わかっていますよ」と言ったが、少年達の方を向くと表情を和らげた。
 部屋に入って来たギルフォードを見て、少年たちは一瞬固まってしまった。こんなところで予想も出来ないヘヴィメタロッカーのような外国人の大男が近づいてきたからだ。
「こんにちは。僕はアレクサンダー・ギルフォード。K大のカツヤマ先生の代理で来ました。君たちに少し質問したいのだケド、いいですか?」
少年達は、目の前のガイジンの完璧な日本語に一瞬あっけにとられていたが、すぐにうなづいた。「ありがとう」と言いながら、ギルフォードは彼らの前に座った。葛西もその隣に座る。
「えっと君たち、名前は・・・」
ギルフォードが言いかけると、祐一はいきなり立ち上がった。
「失礼しました。僕は西原祐一といいます。始めまして。それから彼は、友人の佐々木良夫です」
良夫は祐一に紹介されるとぴょこんと立ち上がって礼をした。
「ユウイチ君にヨシオ君ですね。僕のことはエンリョなくアレクと呼んでください。早速ですが、嫌なことをお聞きしなければなりません。あの時のことを思い出すのはまだ生々しくて辛いと思いますが、ご協力お願い出来ますか?」
ギルフォードの問いに数秒間沈黙が流れたが、すぐに祐一が口を開いた。
「わかりました、ギルフォードさん。僕がお話します」
ギルフォードは彼が『アレク』と呼んでくれなかったことに若干落胆したらしく、軽くため息をついて言った。
「お聞きしたいのは、彼の死に際の様子ですが・・・」
それを聞いて祐一と良夫は顔を見合わせた。二人とも顔色が青ざめている。それを見て堤が何か言おうとしたが、葛西が静止した。
「嫌なシーンなのはわかります。しかし、君たちの友人の死にも繋がる大事なことなのです」
祐一はそれを聞いて言った。
「実は僕もそれがずっと引っかかってました。あの人の様子は確かにすごく変でした。お話しますから、ヨシオを別室に連れて行ってください。思い出させたくないので」
「大丈夫だよ、西原君。ギルフォードさん、僕はここにいます。もう逃げません」
良夫の言葉にギルフォードはにっこり笑って言った。
「ヨシオ君、いい決心です。エライと思います。では、ユウイチ君、話してください」
ギルフォードに促され祐一は話はじめた。公園で男が助けを求めてきたこと、それを雅之が蹴り上げたこと、それを止めようとした自分は一瞬の油断から雅之に振り切られ、倒れたところをヨシオがしがみついてきたため彼らに近づけなかったこと。男の言葉が急に劣化してきたこと。その後彼がいきなり雅之に襲い掛かったこと。男が黒い吐物を吐いたこと。男はその後に倒れ痙攣して死んでしまったこと・・・。時に辛そうに、時に声を詰まらせながらも、彼なりに一所懸命に説明した。ギルフォードは真剣にそれを聞いていた。聞きながら時折メモをしていたが、話を聞くにつれ、表情は深刻になっていった。
「あ、そういえば、思い出しました。彼はさかんに『赤い』と言ってました。雅之は街灯のせいだと言いましたし僕もそう思ってましたが・・・」
「あかい? Red?」
「そうです、色の赤です。でも、街灯の光はオレンジ色だったし、彼等はいつもそこに住んでいるはずだから、敢えてそんなこと言うはずがないんです。だから、後で考えたら彼には何かが赤く見えたのだろうと・・・」
その時良夫が言った。
「僕、あの人が言ったの覚えています。『赤い、みんな赤い、ちくしょう、おれまで』。この声が僕には忘れられません・・・」
ギルフォードは腕組みをしながら言った。
「『おれまで』ということは、他の犠牲者も同じ状態だったということですか」
ギルフォードは続けた。
「そして『みんな赤い』ということは、何かではなく全てが赤く見えたということでしょうか」
彼はそう言った後、腕組みをしたまましばらく考えた。
("彼の脳はかなりダメージを受けていた.視神経の方になにか障害が現れていたのか?")
少年たちは不安そうにその様子を見ている。ギルフォードはそれに気がついて言った。
「ああ、黙り込んでしまってゴメンナサイ。それで、男に一番近くにいたのがマサユキ君で、君たちは少し離れて見ていたのですね」
「はい、そうです。正直言って恐ろしくて身動きも出来なかったです」
祐一は答えたがその時の恐怖を思い出してしまったらしい。緊張した顔がさらに青白くなっていた。良夫も泣きそうな顔で下を向き、膝のあたりで両手の指をぎゅっと組んでいた。ギルフォードはさらに質問を続けた。
「最後の質問です。ガンバッて。これが一番大事なコトです。男が黒い吐物を吐いたとき、マサユキ君はそれに触れたりしましたか?」
祐一はドキッとした。これは自分が一番引っかかっていたことだったからだ。
「雅之はおじさんから反撃を受けた時、手に引っかき傷を負いました。そこに吐いたものがかかったといって、それを落とそうと盛んに手を振っていました。制服のシャツも汚れていました」
傷口に直接吐物が触れた?! ギルフォードは背筋が寒くなるのを感じた。
「君たちはその手に触りましたか?」
「いいえ、気持ち悪くてとても・・・。ただ、雅之が怪我をした手にハンカチを巻いた時、端を結んでやりました」
と、祐一は素直に答えた。
「君たちの体調は悪くないですか?」
「僕は全然なんともないです」祐一は答えた。良夫も続けて言った。
「僕は寝込みました・・・。あの、体調が悪いとなにか?」
「39度から40度の高熱が出たりしましたか?」ギルフォードは質問に答えず、続けて聞いた。良夫は仕方なく答えた。
「僕はちょっとしたことですぐに熱をだすから・・・。でもそんなに高熱ではなかったし、熱はすぐ引きました。それよりただ怖くて、学校に行きたくなかったんです」
「そういえば佐々木君、秋山雅之君も寝込んでいたって言ってなかったかい」
葛西が横から言った。ギルフォードはいきなり立ち上がった。
「寝込んでいた! 本当ですか!?」
「あ、はい。僕も休んでいたからよくわからないのですが、僕にプリントとか持ってきてくれた友人がそう言ってました。僕と違って秋山君が休むのは珍しいって」
「雅之が朝送ってきたメールにも寝込んでいたと書いてありました」と、祐一も告げる。
「熱は? 高熱は出ていたのでしょうか?」
「そこまでは書いてませんでしたが、あいつが学校を休むくらいだから熱も高かったんじゃ・・・。今考えると、土曜日に一緒に帰った時も気分が良くなさそうでした。食欲もなかったし・・・。でも、前の夜の事件があったせいだと思っていました」
秋山雅之はすでに発症していた!? ギルフォードは立ったまましばし呆然としていた。気がつくと心配そうな顔でみんなが見ている。ギルフォードは座り直した。
「あの、もう一つあの人が言ったことを思い出したんですけど・・・」
良夫が言った。
「思い出したことは何でも言ってください。彼の死に目に会った人間はあなたたちだけなのですから」
「最初に、あの人の仲間のひとりが熱を出して、熱に浮かされて暴れたのでみんなで止めたそうです。でも、その人は行ってしまい、そのまま行方不明になった。その後にみんなが高熱でバタバタと倒れた・・・。言葉がはっきりしてなかったんですが、たしかそんなことを言ってました」
ギルフォードは再び勢いよく立ち上がった。
("最初死んだホームレスと今の話の男が同一人物なら、秋山雅之までが一本の線で繋がる!!")
糸口を見つけたギルフォードは、そのまま少年たちに近寄り、二人の肩に優しく手を置いて言った。
「ありがとう、二人とも。よくがんばって話してくれましたね。おかげで重要なことがわかりました」
少年達は、再び戸惑った顔をしたが、ギルフォードは二人の手を取ると彼らと同じ目の高さになるようにかがんでから言った。
「君たちのとった行動は、正しくなかったかもしれない。でも、結果的に現実から逃げないで真っ向から向き合いました。君たちは強い子です。これからいろいろあるでしょうけど、何があっても君たちなら乗越えていけるでしょう」
ギルフォードの言葉に少年達はうなずいた。
「それから、ユウイチ君」ギルフォードは祐一の方を見て言った。「ひょっとしたら、ヨシオ君がしがみついて止めていてくれたおかげで、危険から逃れたのかもしれません」
祐一はギルフォードの方を見、その後、良夫の方を見て言った。
「はい」
彼らにはもうギルフォードが何を心配し調べているかがわかっていた。それは、あの日以来、自分らが否定しながらも何度も沸きあがってくる不安と同じだった。
「それから、杞憂だとは思いますが、もしこれから2週間・・・いえ、ひと月以内に高熱が出た場合、すぐに保健所に連絡してください。直接病院には行かないようにして。約束してくださいね。出来たら私にも連絡してください。あと、君たちが見た男と同じ症状の人を見た場合にも、私に知らせてください。名刺を渡しておきます」
「はい、わかりました」
と、少年たちは、おのおの名刺を手にとってうなづきながら言った。二人とも、多分名刺をもらうのは生まれて初めてだろう。その上外国人からの名刺である。彼らは珍しそうに見入っていた。堤がやっと口を開いた。
「終わりましたか?」
「はい。最後まで中止をしないで下さってありがとう。貴重な情報が得られました。これから急いでカツヤマ先生のところに報告に行きます」
堤はお別れの握手をしようと立ち上がって言った。
「質問は想像以上にストレートでしたが、それ以上に真摯な応対でしたので、口を挟む余地はありませんでした。後のケアは私たちに任せてください」
「よろしくお願いします、ミドリさん、いろいろありがとう」
そういうとギルフォードは握手の後堤の両頬に軽くキスをすると、堤の後で握手をしようと立ち上がった葛西に向かい、
「カサイさん、またお会いしましょう」
というと、いきなりまたぎゅっと抱きしめた。葛西はまた驚いて「うわぁっ!」と言った。
「それでは、みなさんありがとうございました。僕はこれにて失礼いたします」
ギルフォードはそう言いながら西洋式のおじぎをして、取調室を去って行った。
「何で僕だけいつもロシア式の挨拶なんだ!?」
葛西は、訳がわからずぶつぶつ言っている。少年たちはとんでもないものを見て、またまたあっけに取られていたが、堤は机に突っ伏して「くくく」と笑っている。
「何、笑ってんですか、堤さん」
葛西が仏頂面をして言った。
「お・おかしい。笑っちゃいかんと思うけど可笑しい。葛西君の顔ったらもう。鳩が豆鉄砲食らったような顔ってこのことをいうんやね。それに死に目とか杞憂とか、くっくっくっ、これにて失礼いたしますとか、くふふふ、ホントは日本人っちゃないと?金髪のヅラかぶった阿部ちゃんとか」
「全っ然、似てねえよ!」
葛西は堤があまりにも笑うので、むっとしながら言ったが、気を取り直すと少年達と話すために椅子に座った。

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4.拡散 (6)蠢く~うごめく~

 ギルフォードは、そのまま受付に向かい刑事課の鈴木を呼んでもらうように言った。しばらくすると鈴木が現れた。
「ギルフォードさん、収穫はありましたか?」
「ええ。ところでスズキさん、さっきの話は水掛け論になりますからやめることにします」
「ははは、水掛論ですか。確かに立場の違いがありますし、そこらへんはお互い考えておかねばなりませんね」
 鈴木は内心ほっとして言った。
「でも、モンダイは思ったよりも深いみたいです」
 と、ギルフォードはそれを見透かしたように言った。鈴木はそのことをこの場所で話すのは不適切だと判断し、応接用の部屋にギルフォードを通した。
「あまりユックリはしてられないのですが・・・」
 ギルフォードはブツブツいいながら部屋に入った。

「いったいどういうことです?」
 と、ソファに座るや否や、鈴木が訊いた。ギルフォードは珍しく真剣な表情をして言った。
「少年達から色々聞いたことから考えて、アキヤマ・マサユキが感染し、しかも発症していた可能性が高まりました」
「なんですって?」
 鈴木はにわかに信じられないという顔をしていった。
「そんなことが・・・」
「いいですかスズキさん、ある男に接触した人たちが、皆同じような症状で死んだのです。
 確かに病原体は見つかっていませんし、症例もまだ出血熱の可能性を証明するには少なすぎます。しかし、僕はあの司法解剖でその中の1人の内臓の状態を見ました。そして、さっき彼の吐物がマサユキのキズついた手に直接触れたということを少年たちから聞きました。ですから、僕はマサユキが感染していた可能性が高いと考えます」
「事故現場にいた人たちの何人かが感染する可能性がある、と、あなたはおっしゃっているのか」
「もちろん可能性です。マサユキが感染してなければ何のモンダイはない。もし感染していても伝染力が弱ければ何も無いかもしれない。しかし、運が悪ければ・・・」
 ギルフォードはいったん言葉を切ると、眉間に皺を寄せて言った。
「アバドンがイナゴの群れを放ったかのようになるかもしれません」
「黙示録ですか」
 鈴木は言った。
「あいにく私はキリスト教徒ではないのでピンときませんが・・・」
「単なる例えです。私も信じているわけではありません。ところで、集団死したホームレスたちと接触した警官や救急隊員たちの追跡調査は出来てますか?」
 鈴木はなんとなく尊大なギルフォードの態度に少しむっとしながら答えた。
「もちろんです。今のところ異常の報告はありません」
「そうですか。しかし潜伏期間は、例えばですが、イェロー・フィーヴァー(黄熱)で3日から一週間、ラッサ熱で6日から18日、・・・そしてエボラで2日から3週間です。しかし、念のためひと月は様子を見たほうがいいでしょう」
「わかりました。引き続き調査は続けさせます」
「お願いします」
 ギルフォードはそういうと立ち上がった。
「僕はこれから急いでカツヤマ先生のところに行って、相談をせねばなりません」
 それを受けて鈴木も立ち上がる。
「それでは失礼します」
 ギルフォードは一礼すると、鈴木に背を向けドアに向かった。鈴木は複雑な顔をしてギルフォードの後姿をを見ていた。ドアノブに手をかけようとして、ギルフォードは思いついたように振り返って言った。
「スズキさん、あなたには僕がイサミアシをしているように思えるかもしれません。しかし、僕はサイアクの可能性を考えます。あなたが言うように怖いのはパニックです。しかし、ホントウに怖いのは現実に病気が広がってからのパニックです。2001年にアメリカでおこった炭疽菌テロ、覚えてますね?」
「議員を狙って手紙に入れられた炭疽菌が漏れて、郵便局員らが犠牲になった・・・」
「先にターゲットになったのはテレビ局です。あの時感染したのは結果的に22人、そのうち死者は5人でした。決して多い数ではありません。むしろ、炭疽菌を使った生物テロとしてはササヤカでした。しかし、その恐怖がアメリカ国内に与えた影響は深刻で、対策が後手後手になった政府やCDCの信用は、がた落ちになりました。治療可能の炭疽菌でさえこうです。僕が何をあせっているかわかってくださいますか?」
「ええ、わかっているつもりです」
 鈴木は言った。ギルフォードはにこっと笑うと「では、ヨロシクお願いします」と言ってドアを開けた。その時
「ギルフォード先生」と鈴木がギルフォードの背に声をかけた。「ひょっとしてあなたは、これがテロである可能性も考えているのですか?」
 その問いにギルフォードは、振り向いて言った。
「もし、これが本当にウイルス性の出血熱ならば、あまりにも、突発的すぎるんです。出血熱なんて、そうそう出るものではありません。たしか、K市にはO教団の流れをくむ宗教団体の支部がありますね」
「連中はもう何もできませんよ。それこそ杞憂です」
「だから、日本人は甘いと言われるんです」
 ギルフォードは、シニカルな笑みを浮かべて言い残すと部屋を出て行った。ギルフォードの足音が遠ざかると、鈴木はそのままソファに座り、腕組みをしながら上を向いて天井を見据え、しばらく何かを考えていたが、「さあ行くか」
 と言いながら大儀そうに立ち上がりぼそりと言った。
「たかが所轄の係長には荷が重すぎるだろ・・・」

 ギルフォードはK署の駐車場でバイクにまたがり空を見た。朝はいい天気だったのに、もう雲行きが怪しくなっていた。
("嫌な雲の色だ")
 彼はそう思うと、あたかも景気をつけるように勢いよくバイクのエンジン音を響かせた。

 

「珠江ちゃん、珠江ちゃん!」
「珠ちゃん、大変よ! あんたのお孫さんが・・・!」
 秋山珠江の家の玄関先で、年配の集団が集まってなにやら騒いでいる。
「どうしたっちゃろか?」
「出かけとっちゃないやろか。昨日から姿を見かけんし夜も電気がついとらんかったし・・・」
「珠江ちゃんは1人暮らしやけん、出かくるときには必ずウチんとこへ一言ゆうてくるっちゃけん、それはなかよ」
 珠江の隣家に住む下山道子が言った。
「中で倒れとっちゃないやろうね」
「まさか強盗に入られて・・・・」
「ちょっと、誰か男衆呼んで来んね?」
「さっき、川崎さんのダンナが庭木の剪定ばしよったけど」
「三郎さんが?」
「ちょうどよか、早う呼んでき!」
 言われて1人がとたとたと走っていった。残った女性達は心配そうに、窓から家の中の様子を見ていたが、1人が玄関のドアノブを回してみた。
「あ、鍵のかかっとらん!」
「ええ?」
「ばってん、チェーンのかかっとぉばい」
 その時、開いたドアの隙間から、何か黒いものが数匹飛び出してきた。
「ぎゃあ!」
「なんね? ネズミ? ゴキブリ?」
「ゴキブリちがう?」
「ゴキブリにしちゃあえらい大きかけん、ネズミやろ?」
「いやぁ、私、どっちも苦手!」
「そういや、昨日から妙にゴキブリが増えたごたるけど」
 と道子。
「もう夏なんやねえ」
「あら、家ではあまり見かけんけど?」
「なんね、家が汚いとでも言いたかとね」
「あんたたちゃあ、そんなこと言うとるだんじゃなかろうが」
「あ、ノリちゃんが三郎さん呼んできた!」
「三郎さん、こっち、こっち」
 川崎三郎は、作業着姿で走ってきた。年齢は60代後半くらいか。その後ろを典子がとたとたと走っている。
「どげんしたとな?」
 三郎はタオルで汗を拭き拭き言った。
「珠江ちゃんのお孫さんが事故にあったらしいけん知らせに来たっちゃけど、呼んでも出てこんとよ」
「珠江さんの? そりゃあ大変ばい」
「玄関のカギは開いとっちゃけど、チェーンがかかっとるけん入れんと」
「無理矢理ドアを引っ張ったら外れると思うけん、三郎さんやってみちゃらん?」
「よっしゃ、まかしときない」
 おばさまたちに囲まれて、まんざらでもない三郎は、二つ返事で了解した。が、その後心配そうに言った。
「ばってん何でもなかった時、ちゃんと経緯を証明してくれるんやろうね?」
「わかっとうけん、早ようせんね」
 せかされて、三郎はドアノブを両手で持ち、全体重をかけて引っ張った。チェーンはあっけなく外れドアがばんと音を立てて開いた。三郎はその勢いでしりもちをつき、そのまま玄関にひっくりかえった。
「あいたたた」
 しかし、おばさん達はそれを後目に戸口から珠江を呼んだ。
「珠江~?」
「珠江ちゃん? いないの?」
「珠江さ~ん」
 三郎もいつの間にか腰をさすりながら呼んでいる。
「返事のなかね」
「上がってみようか」
「よかとね? 不法侵入と違う?」
「チェーン壊した段階で不法侵入やろうもん」
「非常事態やけん、しょんなかばい」
「三郎さん、男やけん先に行ってよ」
 おばさんたちは三郎を有無を言わせず前に押しやった。三郎は仕方なく靴を脱ぎながら声をかけた。
「珠江さん、お邪魔しますよ」
 三郎を先頭に、ムカデ競争のような状態で総勢5人はおずおずと家のなかに入っていった。
「珠江ちゃ~ん、おらんのぉ?」
「珠ちゃ~ん」
「ねえ、なんか臭わん?」
 女性陣の1人が言った。
「うん、実はドアが開いた時から気がついとった」
「・・・」
 5人は顔を見合わせた。みな同じようなことを考えたようだが口には出さなかった。
「あれ、台所あたりから何か音がしよらん?」
「そう言えば・・・」
「行ってみよう」
 彼らはバタバタとキッチンへ向かった。
「何か昼間なのに暗かねえ」
「天気予報じゃ午後から雨になるって」
「なんでこういう時に限って当たるんかね」
 三郎がキッチンのドアを開け、のれんをくぐって中に入った。道子があとに続いた。残りの3人はのれん越しにおそるおそる覗いていた。キッチンの中に入るとさらに臭いがきつくなった。みなそれぞれ顔を見合わせる。三郎は無意識にタオルで鼻と口を押さえながら、用心深く声をかけた。
「珠江さん?」
 天気が良ければかなり明るい構造のキッチンだが、曇り空のせいで陰気な雰囲気になっている。その薄暗いキッチンのテーブルの影に何か大きな黒い塊が見えた。
「なん、あれ???」
「暗くてようわからんばってが」
「ねえ・・・、何かあれ、動いとぉごたる」
「ノリちゃん、そこに電気のスイッチがあるけん、つけちゃらん?」
 典子が横を見ると言われたようにすぐそこにスイッチが目に入った。彼女は言われるままにスイッチをいれた。急に明るくなり、5人は目をしばしばとさせた。しかし、明かりに驚いたのは彼らだけではなかった。明かりがついた途端、テーブルの影にある黒いモノがいっせいに動き出した。 

 ザワザワと音を立て黒いモノが四方に散った。その後、危険を感知したのか、それらは出口を求めて主に5人のいるキッチンのドアの方に向かってきた。黒い波が彼らの足をすり抜けていった。
「ぎゃあっ!」
「ひゃあああ~!」
「キャーーーッ!!」
「あいたた、噛まれた!」
「ひぃ~~~~!」
 5人は各々悲鳴を上げた。何が起こったか見当がつかなかったが、その黒いモノたちが何かは見当がついた。黒光りする小さい生き物。信じられない数の良く肥えた・・・。思いがけないモノの襲来に驚いた彼らは、転がるようにして外に出て行った。真っ先に逃げたのは三郎だった。彼らは靴を履くのもそこそこに、ほうほうの体で外に出て庭に座り込んだ。
「なに、アレ? び、びっくりした」
「何ね、三郎さん! 真っ先に逃げ出してから!!」
「俺、アレだけはダメやけん」
「もう、珠江ちゃんっちゃあ、あげんゴミばためとるけん、ゴキブリの増えっとたい!」
 その時、家の中で悲鳴がした。
「あ、ノリちゃん置いてきた!」
4人は慌てて家の中へ引き返すと、典子が這いずりながら玄関まで出て来て、ガタガタ震えてキッチンを指差し口をパクパクさせている。顔は真っ青でその上涙でぐしゃぐしゃだ。
「どうしたん?」
「た・・・・、た、珠江さんが・・・」
「珠ちゃんがどげんしたと?!」
「い、いた・・・」
「え? どこにおったと?」
 典子は震えが止まらないまま両手で顔を覆い頭を左右に振りながら言った。
「いた・・・の、あそこに・・・珠江さ・・・いやぁあああああ・・・!」
「こりゃいかん、ノリちゃんをとりあえず外に出しちゃって。俺、もう一度様子を見てくるけん」
 三郎は異常を察知して、決死の覚悟でキッチンに向かった。典子を残りの二人に任せてその後を道子が続いた。再びキッチンに入った二人は勇気を出してテーブルの影にあるモノを確認した。そして彼らは瞬時にそれがゴミではないことを理解した。
「う、うぷ」
 それを見るなり道子は口を押さえて家から飛び出し思い切り庭に吐いた。道子が泣きながらげえげえ言っていると、三郎が青というよりむしろ白い顔をしてフラフラと出てきた。状況が掴めない残りの二人は、訳を知ろうと家の中に入ろうとしたが、三郎が止めた。
「やめときない」
「? なんで・・・?」
 三郎はそのまま庭にへなへなと座り込んで言った。
「それより、急いで警察ば呼んでくれんね」
「珠代ちゃんになんかあったんやね?」
「まさか・・・?」
 三郎は、下を向いたまま答えた。
「台所に倒れたまま・・・死んどった」
「う、うそっ!」
「こげな嘘誰がつくか・・・!」
「やったら遺体を何とかしちゃらんと」
「いかん! もう、あそこには行くんやない」
「なっし? ほっといたら珠江ちゃんが可哀想やなかね!」
「現場は保存しとかんといかん。それに・・・」
「それに?」
「それに・・・な、もう・・・・誰かわからんごとなってしもうとる・・・」

 

 ギルフォードが嵐のように去って行ったあと、葛西は堤と一緒に少年達と向き合い、改めて二人から話を聞いていた。ただし、男の死んだ件(くだり)は、さっきギルフォードが聞いたのでほとんど触れないようにした。調書を取り終わって葛西が彼らに言った。
「嫌なことをまた思い出させてすまなかったね。ところで、被害に遭った男性についてどう思ってる?」
「・・・」
「調べたら彼の母親から10年ほど前に捜索願が出ていたことがわかったんだ。その母親は唯一の身内だったらしいけど、5年前に亡くなっている」
「どんな人だったんですか?」
 良夫が訊いた。
「ボクは、ボクらが最後を看取ったことになったおじさんのことが知りたいです」
「僕もそう思います」
 祐一も同意した。葛西はうなづいて続けた。
「名前は安田圭介。W大を出た後大手のゲーム会社に就職、その後独立して会社を設立した。このころは順風満帆前途洋々だったんだろうね。だけど、90年代の不景気の煽りで事業に失敗して負債をかかえてしまった。それでも生真面目な彼は自己破産もせずに、単身ほとんど出稼ぎ状態で働いて借金を返していたらしい。でも、夫不在と借金の取立てなどの生活の変化やその不安からノイローゼになった奥さんが、娘を道連れに自殺してしまったんだ。二人の葬儀後、そのショックで妻と子は家出をしたのだと思い込み、探すからと家を出たきり行方不明になってしまったそうだ。母親の死後も彼の親友がずっと探していて、彼の郷里がK市だったのでもしやと思って問い合わせてくれたんでわかったんだよ」
「そうか、それで・・・、おじさん、今の仲間は家族だからって・・・、今度は助けたいって言ってた・・・。おじさん必死だったんだ」
 良夫はそう言いながら下を向いた。両目から大粒の涙がこぼれた。葛西はまたポケットからハンカチを出して良夫に渡した。横で堤が葛西の横腹を小突き、小さい声で言った。
「葛西君、あんたも」
 気がつくと視界がぼやけている。慌てて手の甲で両目をぬぐう。堤は苦笑いをした。
「僕らに何か出来たでしょうか」
 と、祐一が質問した。
「たらればを言っても仕方がないけど、今の話を聞く限りではおそらく彼を救うことは出来なかったと思うよ。ギルフォードさんの口ぶりから、彼は何かの病気だったみたいだし。って、こんなことを言っても君らへの慰めにはならないね」
 葛西は情けない笑いを浮かべて言った。
「だけど、どんな人にも歴史はあるんだよね」葛西は続けた。「死んでいい人間なんていないと僕は思ってる」
「僕たち、きっとあのおじさんのことは忘れません。というか、忘れてはいけないと思うんです」
 祐一は言った。良夫も下を向いたままうなづいていた。葛西は言った。
「そうだね。きっと安田さんも喜ぶと思うよ。でも、あまり思い込まないようにするんだよ」
「はい」
 二人は同時に言った。ギルフォードが言ったように、彼らはこれからが大変だろう。事件に関わった限りこれからも取調べが行われるだろうし、彼らがシロという決定的証拠も無い。心にも大きな傷を負ってしまった。でも、彼らならきっと乗り越えていくだろうと葛西も確信した。

 昼食時、葛西が多美山と署の食堂でごぼう天うどんをすすっていると、堤がやってきて隣にすわった。堤は二人のうどんとかしわ飯(鶏の炊き込みご飯)のおにぎりを見ながら「おいしそう。私もそれにすればよかったな」といいながら、ドンと定食を置いて食べ始めた。食べながら、ついつい例の事件の話になる。
「まさか、容疑者が本当に未成年でおまけに中学生で、そん上に自殺すっとはな」
 と多美山が言った。
「まだ、自殺と断定したわけではありませんよ、多美さん。彼は自首するってメールを祐一君に送ってるんですから」
 葛西は、祐一たちの話を聞いていて、雅之が自殺するとは思えなかった。しかし、多美山は言った。
「そんつもりはあってん、いざとなっと怖くなったとたい。そって発作的に電車に飛び込んだっちゃろう」
 確かにその可能性も考えられる。葛西はそれ以上否定出来なかった。
「でも」堤が言った。「祐一君、とりあえず無事に家に帰れて良かったですね」
 葛西は母親に連れられて署から出る祐一の姿を思い出していた。良夫はあの後学校に向かったが、祐一は家に帰ったほうがいいだろうということになったからだ。葛西は玄関まで二人を送っていった。二人は最後に葛西に向かって同時に深い礼をした。その後祐一は言った。
「葛西さん、いろいろお世話になりました。あなたのおかげで心強かったです」
「何かあったら遠慮なく電話していいからね」
 葛西は言った。祐一はもう一度軽く頭を下げると母子で並んで署を出て行った。正門のところで父親と妹らしき人たちが待っていた。祐一の姿を見つけ、妹は子犬のように駆け寄ると抱きついて泣き出した。
「お兄ちゃん、もうこんなことはせんでね。香菜、心配で眠れんかったとよ」
「こん子がどうしても迎えに行くいうてなあ。しょんなかけん学校ば休まして連れてきたったい」
 父親が言った。そういう父親も会社を休んで来ている。いい家族だと葛西は思った。きっと彼らは祐一の力になってくれるだろう。
「帰ったら、たんとお説教が待っとおけんね」
 母親が真面目な顔をして祐一に言った。祐一は「はい」と小さな声で答えた。それを見た香菜がそっと祐一の手を掴む。二人は仲良く手をつないで帰って行った。 

「ジュンペイ、どげんかしたとや?」
 多美山の声に葛西は我に返った。
「葛西君は時々ぼうってしてるもんね」
 と、堤が言った。
「でも、今日のあの子たちへの接し方は良かったですよ。少年課に来ればいいのに」
「いや、僕はダメだ、堤さん。僕、本当は子供って苦手で。どう接していいかわからないし」
「へえ、葛西君ってそうなんだ。そんな風に思えんかったけどね。話上手かったし。『どんな人にも歴史はあるんだよね』とか『死んでいい人間なんていないと僕は思ってる』とか、ちょっと前流行ったスピリチュアル系みたいで・・・」
 そう言いながら、堤はまた笑い出した。
「おいおい、変な宗教に入らんどってくれよ」
 と、多美山。
「宗教といえば・・・」
 堤が笑うのを止めて言った。
「今、話題になってる新興宗教があるみたい」
「カルトや?」
「う~~~ん、よくわからないんです。ただ、ここ十数年の間に急激に力をつけてきた宗教みたいで、ここK市にも支部があるみたいですよ。教祖は二代目ですがまだ若い男で、世間に顔は一切出してないらしいのですが、かなりイケメンみたいですよ。それ目当てで最近は女性信者が増えているとか」
「堤さん、イケメンってのが気になるんだろ?」
 葛西はからかった。堤はとんでもないと言う顔をして言った。
「何言いよっとね。いくらいい男でも、カルトはご免ばいね」
「そん宗教団体は何ち名前や?」
「う~~~ん、実はよく覚えていないんですが、えっと、宇宙のなんたら・・・全然違う、大地の・・・? いや、地球のへき何とか・・・って、意味わかんないし。え~と、何だっけ? とにかく、大地を守ろうって趣旨の宗教団体だったような・・・」
 はっきりしない堤に葛西が呆れて言った。
「そんなの、ニューエイジ系に掃いて捨てるほどあるだろ。イケメンにばかり気を取られているからだよ」
「情けなかなあ。一度得た情報はしっかり覚えとかにゃ。どんな情報がいつ役に立つかわからんとぞ」
「すみません」
 多美山に言われて堤は少し意気消沈してしまった。多美山はそれを見て笑いながら言った。
「まあ、おまえさんは少年課やし、人それぞれのやり方があるっちゃけん、それに従えばよか」
「そう、そうですよね!」堤はそういうと、湯飲みを手にしてお茶をぐいと飲んだ。
「ばってん、なんか気持ちの悪かなあ、そん宗教団体は」
 多美山は腕を組んで言った。葛西は宗教団体にもイケメンにも全く興味が無かったので、さほど気にすることも無く、一皿に3個のかしわ飯おにぎりの最後の一個を旨そうにぱくついていた。

 葛西がおにぎりを食べている頃、ギルフォードは、勝山の研究室から自分の研究室へバイクを飛ばして向かっていた。由利子はというと、無事に会社にたどり着き昼食を食べ終え、会社のパソコンでお気に入りのサイトを見ながらまったりした昼休みを過ごしていた。彼ら3人は、まだそれぞれの日常の中にいた。しかし、見えない敵はもう、すぐそこまで来ていた。

(「第四章 拡散」 終わり)

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