1.序章 (1)インフルエンザA
最初にここに来ちゃった方、まず、プロローグからお読みください。
本編の前に少し注釈を。
便宜上、日にちと曜日は設定していますが、特に何年に起こった事件とかの設定はありません。まあ、1年か2年先くらいの超近未来と思ってください。
2009年の新型インフルエンザ発生後それなりに落ち着いた世界です。物語の発端であるM町のインフルエンザ流行は、新型インフルではなくて季節性インフルの地域的な突発的流行です。
では、本編をお楽しみください
第1部 第1章流感 (1)インフルエンザA
「ああ、一週間も休んでしまった」
篠原由利子は電車の中でつぶやいた。彼女は30代後半、際だって美人ではないが整った知的な顔をしている。背が高めでスレンダーな体型にショートカットがよく似合っているが、そのせいか時々妙に若く見られる時があった。いつもなら、パンツスーツを決めて颯爽と出勤する彼女だが、今朝は病み上がりの為いまいち冴えない様子であった。
(ああ、行きたくないなあ・・・)
本当はもう一日休みたかったのだが、このままだと出社拒否症になりそうだと思い、自分に鞭打ってようやく体を布団から引っぺがしたのだった。
一週間も寝ていたので流石になんとなくフラフラする。家を出て3分もしないうちに、気持ち悪くなって立ち止まった。少し休むと吐き気は治まったが、由利子は念のためいつもよりゆっくり歩くことにした。それが良かったのか、続けて吐き気が起きることはなかった。
おかげで電車を一本逃してしまったが、次の電車でもギリギリ始業時間に間に合うはずだ。
病み上がりで立ったまま電車に乗るのは辛かったが、まだ若いのに席を譲ってもらえるはずがない。仕方なく、出入り口横の手摺りにしがみついていた。
F県K市の一部でインフルエンザが流行していた。
気温が上がってからの遅い流行であるため、沈静化していたA型H1N1、いわゆる新型インフルエンザの再燃が疑われたが、PCR検査の結果、季節性のインフルエンザでいわゆるロシア風邪といわれるものと言うことがわかった。この時期からはあまり大流行しないタイプのインフルエンザなのだが、春なのに乾燥した気候が続いたせいかもしれない。
インフルエンザウイルスは、湿気に弱いが乾燥にすこぶる強い。さらに、乾燥しているとウイルスが空気中に舞いやすく、その分感染も広がりやすくなるのである。
由利子も不本意ながら感染、自宅でぶっ倒れてから高熱で動けなくなってしまい、そのまま会社を休んだ。幸い寝込む前に病院に行き、簡易検査でインフルエンザと診断されて、抗インフル薬はもらっていたので助かった。
大学を出てから家族と離れて一人暮らしをしていたが、身動き出来ないとなると、医者に行くため家族を呼んでしまうだろう。だが、旧型とはいえインフルエンザは感染力の強い病気なのだから親に感染(うつ)してしまいかねない。
それで、かなり苦しい思いはしたが、親には連絡しないことにした。言うと心配して来てしまうだろう。飼っている猫の世話等の最低限のことは、なんとかすることが出来た。
たまに勇気ある友人が尋ねてきて、食事や簡単な身の回りの世話をしてくれた。由利子は感染(うつ)るからと断ったのではあるが。
幸い、由利子からは誰にも感染しなかったようだ。季節外れの局地的インフルエンザ禍は早くも終息に向かっていた。
(大体、アイツが無理して出社してくるから。)
由利子は思い出してため息をついた。それは8日前・・・。
その日の朝のことだ。
由利子と同じ2課の辻村という若い社員が、自分の席で顔を真っ赤にしながらふうふう言っていた。由利子はお茶を配りながら「大丈夫?」と聞いてみたが、彼はか細い声で「う~~~ん」と答え、机に突っ伏した。
「大丈夫じゃないじゃん。」
と、由利子。その様子を見て古賀課長が言った。
「おい、オマエの家、M町やろ?あそこは今インフルエンザで大変らしいやないか。オマエも子どもあたりに感染されたっちゃろ! きつかろうし、もう帰ってんよかぞ」
辻村は顔を少し上げてエヘヘと力なく笑った。
「でも、今日中に仕上げんといかん書類があっとです」
そういいながら、彼はくしゃみを3連発し、古賀が露骨にいやな顔をした。その時、2課のドアがバーンと開いて、年のころ40半ばの小柄な女性が飛び込んできた。1課の黒岩るい子だ。
サージカルマスクで武装した彼女は、2課に入るなり大声で怒鳴った。
「辻村~! 休まんか~~~!!」
彼女は事務服の代わりに私服の上に自前の白衣を着ていた。
以前、由利子が何故そんな格好をしているのか聞いたら、
『あ、これ? 大学の時使ってたヤツやん。写真現像する時に汚れるけん着とったと。ホラ、事務服だと、他所からきた人たちからなんか見下されるやろ。白衣を着てると何故か神妙に挨拶されるっちゃんね~~~。面白いよ、あっはっは。あ、後、着替えがめんどくさいやろ。この歳になると、夏場は着替えるだけで汗だくになるしさ』
と、こう答えた。少し変わり者のようだ。
黒岩は続けて言った。
「あのね、インフルエンザは風邪じゃない。風邪と比べて厄介で重症化しやすいし死亡率も高い。熱のある間は休んで感染を防がんといかん。
それからマスクはちゃんとつけなさい。ウイルスは小さいからマスクの布目なんか通り抜けるけど、少なくとも咳やくしゃみの飛まつ感染は防げるから。今からさっさと帰って病院に寄ってタミフルもらって飲んで寝てな。あ、車は乗らんほうがよかけんね」
彼女は言いたいことを言った後、持ってきたマスクを無理やり辻村につけると2課から出て行った。小走りだった。そのあと下の湯沸し室から手を洗う音とうがいをする音が聞こえた。社用で寄り道をしたために、少し遅れて出社してきた横田が、たった今すれ違った彼女の後姿を一瞥して不審そうに言った。
「なんや~?黒岩のオバサン、どうかしたとや?」
「辻村さんにインフルエンザなら休めって言いに来てその後にあれよ。なんかヒドイ疫病患者みたいな扱いよねぇ。ねえ、辻村さん!」
「ふあい。疫病患者ばマスク付けて大人しく仕事しばす」
「辻村、ほんとに大丈夫なんか?」
ますます鼻声のひどくなる辻村を見て、古賀が不安そうに言った。皆が医者に行けと言ったが、辻村は大丈夫の一点張りで、仕方ないので各々仕事を開始した。
由利子がせっせとデータを打ち込んでいると、どさっと音がした。ぎょっとして音の方向を見ると、辻村が床に倒れていた。
「辻村さん!!」
「様子が変やぞ」と横田。二人は辻村に駆け寄り、横田が辻村を抱き起した。見てわかるくらいガタガタと震えている。
「辻村さん、しっかりして! 辻村さん!」「おい、辻村ぁ! どうしたんか、オレや、横田や、わかるか?」
二人の声に、電話をしていた古賀が驚いて電話を切って飛んできた。「おいこら、辻村! しっかりせんか! わあ、白目むいとる!! 篠原君、救急車、救急車!」
ピーポーピーポー・・・
辻村を乗せた救急車が、甲高い音を響かせながら去っていった。付き添いには横田が乗っていった。
会社の玄関周辺には他所からの野次馬がいっぱいたかっていたが、救急車が去ると各々持ち場に戻っていった。
「大丈夫でしょうか」
と、由利子。
「う~ん、ありゃ脳炎を起こしとるかもしれんなあ。ま、倒れたのが会社でよかったよ。すぐに119番出来たからな。さ、俺らも仕事に戻ろうか。心配やけど医者に任すよりどうしようもないもんな」
古賀は言いながら部室に戻っていった。
由利子がさて私も帰ろうかと思いながら、ふと横を見ると黒岩が立っていた。
しっかりマスクを付けたままだ。白衣を着ているのでどこかの研究者みたいだ。
(これなら挨拶されるわね)
と由利子は思った。
黒岩は由利子に言った。
「だから言わんこっちゃない。高熱で無理するからだよ。篠原さん、あんた一番辻坊の近くに居たんだし、気分が悪くなったらすぐに病院に行きなさいよ。会社で倒れていいわけないやん。他の人に感染(うつ)したら大変やろうもん」
黒岩の言うとおりだった。午後になるとなんだか寒気がし始めた。古賀もさっきからくしゃみばかりしている。
「ぶるる、感染ったかな?」
古賀は独り言のように言った。「篠原、オマエは大丈夫か?今日は早く帰れ、いいな。」
夕方5時過ぎて帰る頃になると、由利子はもうふらふらし始めていた。関節も節々に痛みを感じている。やはり感染(うつ)されてしまったらしい。
古賀から追い立てられるように会社を出て、帰り道にある内科に駆け込んだ。検査キットで調べるとテキメンでインフルエンザの反応が出た。医者が言った。
「ちょっと前なら、インフルエンザの特効薬はとっくに在庫がないところだったんだけどね、新型が出たこともあって夏季も備蓄するようになったんだ」
由利子にはインフルエンザは高校生以来罹った記憶はないが、高熱と関節痛で死ぬほど苦しんだことは覚えていた。
タミフルを処方され病院を出ると、ようようの思いで部屋まで帰り着き、着替えもそこそこにそのままベッドに倒れこんで、そのまま上記のように3日間ほどほとんど身動き出来なかった。
黒岩が同僚を連れてお見舞いに来て、ついでに大量のスポーツドリンクとビタミン剤を置いていってくれた。辻村は処置が早かったため、順調に回復しているらしい。
だが古賀課長も倒れ、他に数人が感染してしまったという。幸い、横田には感染(うつ)らなかったようだ。「横田さんったら、『馬鹿は風邪を引かないって本当だろ~。』とか言ってんのよ。笑えねぇって」
見舞いに来た同僚が笑いながら言った。
そんなことを回想していたら、駅に着いてしまった。
改札を出て、バスセンターに向かった由利子は外を見て愕然とした。電車の中から見たとき小雨だったのが、バケツをひっくり返したような大雨になっていたからだ。確か朝は晴れていたのに。
「こういうのを『姑の朝笑い』って言うんだな・・・。」
由利子はつぶやいた。やれやれ、またバスが遅れるな、と思いながら普段なら絶対に座らないバスセンターのベンチに力なく座った。歩いても20分くらいの距離ではあるが、ただでさえ病み上がりなのに、こんな大雨の中を歩けるわけがなかった。
最悪の病み上がり第1日目だった。しかし、それが彼女がこれから巻き込まれる事件の前触れであることは、今の由利子には知る由もなかった。
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