2.胎動 (序)黒い河面

20XX年5月27日(月)

 夜のC川は、暗い河面に周囲の街灯や建物の明かりを映しながら、満々と水を湛えてゆっくりと流れていた。日付が変わったこの時間になると、流石に建物の明かりもだいぶ消え、水面には街灯の明かりが規則正しく並び、堤防上の道路を時折通る自動車のヘッドライトが流れるように移動している。人通りはほとんどなく、橋の下に住み着いたホームレスも、すでに白川夜船であった。

 そんな静かな川のほとりをフラフラと歩く人影があった。その人影は不気味にうなりながら、時折転び、這いずりながらようやく立ち上がってヨロヨロ歩くことを繰り返していた。その動きは緩慢で、ただ壊れた機械が無目的にようやく動いているようにすら見えた。さらに、時折自動車のヘッドライトに照らされた、その男の姿には異様なものがあった。
 男の衣服は汚れて身体も垢にまみれていたが、ボロボロに敗れかけた服から覗く肌にはあちこちに血が滲んでいた。一見ひどい事故に遭ったような男の風体で、ライトに照らされたその顔も数箇所にわたって血が滲み鼻からも血が流れていた。しかし、そんな悲惨な状態よりさらに凄まじかったのはその両目であった。真っ赤に充血してあふれた血が流れ出している。
 最初はなんとか歩いていた男だが、だんだん転ぶ回数が増え、しまいには半ば這うような状態でひたすら前に進んでいた。一体そんな状態でどこに行こうとしているのか。
 彼の頭の中は、今、ひとつの考えのみが支配していた。

 ――タシカ、コノサキニ、ダレカ、スンデイルハズダ。ソイツニ、アワナケレバ。

 とにかく誰かに会わねばならない。この体が終わる前に。会って・・・。

       会って?

 会ってどうする? おそらく彼にもそれはよくわかっていなかった。ただ彼はゆっくりと、しかし、ひたすら進んでいた。

 ――ソウダ、アノハシ、アノハシダ。アソコニヤツガイル。イソゲ。イソガナケレバ・・・

 目標を確認して、彼はやや焦った。這うような状態からなんとか立ち上がって数メートルよろけながら走った、いや、走ったつもりだった。しかし誰か見ているとしたら、それは緩慢な歩みに見えたかもしれない。
 ところが、彼の焦りが今までなんとか保っていたバランスを失わせてしまった。彼の身体はよろけた。目の前には取水用の水路があった。まずい。彼は方向転換をしようとしたが、そのために思い切り足を滑らせた。

 道路橋の下を『住居』と決め込んでいる男は、夜中、川に何か大きなものが落ちたような音を聞いて目を覚ました。彼は不審そうにもそもそ起き出すと、身体をあちこち掻きながら、粗末な『自宅』から出て川の様子を見た。しかし、川は、何も無かったように静かにゆっくりと流れていた。彼は首をかしげながら『住居』に戻っていった。

 しばらくすると、川になにか大きいものが浮かびゆっくり流れていった。それはいずれ、葦原の中に静かに消えていった。

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2.胎動 (1)ニュース

20XX年5月29日(水)

 由利子は久々にスポーツクラブに来ていた。2週間ぶりくらいだろうか。彼女の姿を見つけた担当インストラクターのお兄さんが、走って寄ってきた。背はあまり高くないがボディビルダーで、筋骨隆々だ。無駄に爽やかな笑顔を振りまいている。
「篠原さん、こんばんは~。」
 と満面の笑顔で言った後、彼は真顔になって言った。
「ずいぶんお見えになりませんでしたが、どうかされていたのですか?」
「実は季節外れのインフルエンザにかかっちゃって・・・」
 と、テレ笑いをしながら由利子。
「そうだったんですか、大変でしたねえ。だけど、どうしてまた?」
「会社がK市にあるんですよ、それで・・・」
「あー、会社で感染されたんですかぁ。確か流行ってるのK市のほうでしたもんね。いえ、だいたい3日間隔で来られているので心配してましたよ」
「あら、ありがとうございます。でももう大丈夫ですから」
 由利子はガッツポーズをして見せた。
「でも、今日はあまり無理をしないようにして、早めに切り上げて下さいね」
 と言いながら、インストラクターは去っていった。

 由利子はとりあえずエアロバイクに乗ってみることにした。ちょっと軽めに漕いでみる。大丈夫だ。その後いつもの負荷にして20分ほどやってみることにした。
 本当に久々に来たような気がした。一月くらい休んだような感じがする。スポーツクラブの独特の臭いと機械と人の声・BGM・・・。後方では、エアロビクスをやっていて、レオタードの女性達に混じって、数人おじさん達がバツの悪そうに踊っていた。ああ、いつもの風景だ、と由利子は思った。そして、「やっぱり平穏が一番よね」とつぶやいた。エアロバイクを漕ぐ間、ヒマなので前に設置してあるテレビを見ることにした。今日は本もiポッドも持ってきてなかったからだ。テレビはすでに7時のニュースが始まっており、今日は珍しく目ぼしい事件がなかったようで、どこぞの寺の話だの動物園で動物の赤ちゃんラッシュだの総理大臣がまたキレただのという、のどかな話題が中心だった。
「続いてF岡からです」
 ニュースはローカル版に移行し、クソ真面目な顔をした、目の妙にきれいな若い男性アナウンサーが映った。そして画面は見たことがある風景に切り替わった。川の土手に立ち入り禁止のテープが張られており、数人の警官が何かを捜査していた。
「昨日C川流域で発見された男性の遺体ですが、死亡推定時刻より損傷が激しく、警察は事故と自殺の可能性に加え、この男性がなんらかの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査することにしたということです」
 見たことがあると思ったら、C川だったのか、と由利子は納得した。
 その川は会社からも近く、時々お昼に弁当を持って川土手まで遠征することがあった。大きくてゆったりとした川だ。食べ終わった後、よく寝転がって小鳥の声を聞きながらまったりと雲を見る。K市はあまり好きではないが、C川は好きだった。そんな川に遺体が流れてたのか、そういえば、今朝そんなニュースを言っていたな。由利子は少し鬱になった。しばらくは川土手に行くのはやめよう、そう思った時、隣でエアロバイクをこいでいた女性が由利子に向かって言った。
「やだ、それって殺して川に投げ込んだってことやろ?それでなくても水死体っちゃぁえずかとにねえ」
「そうですねえ。監察医の人も大変ですね」
「オヤジ狩りやないと?最近の子どもって怖いけんねえ。ウチにも中学生の男の子が二人おるんやけど、最近なんを考えとるんかいっちょんわからんっちゃけん」
「そうですか。大変ですね」
 答えながらも、二人も中坊の子どもが居るのにここでエアロバイク漕いどったらイカンやろーもん、と思ったら先方は見越したように言った。
「今、子ども達は塾の時間でね、おとうさんはシンガポールに単身赴任やし、ここでジムやって終わった頃迎えに行ったらちょうどよかとですよ」
「そうですか、息子さん達もお母さんのお迎えがあるなら安心ですね」
 由利子は答えたが、そろそろ会話がうっとおしくなってきた。知らない人と話すのはどうも疲れる。そう思っていたら、ちょうどバイクの終了ブザーが鳴った。
「じゃ、お先に~」
 由利子はさっさとバイクを降りてウオーミングアップのストレッチをするためマットのある方向に走っていった。

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2.胎動 (2)コンコース

20XX年5月31(金)

 二日後の夕方、由利子は友人の美葉に会うため6時過ぎにK駅にいた。
 バスが遅れた場合を考えて、歩くつもりで早めに会社を出たら、何故かバスがすぐに来てその上さして渋滞もなく、普段より早く着いてしまった。普段でも念のため約束より早めに着くように心がける由利子なので、だいぶ時間が余ってしまった。それで時間つぶしに駅のコンコースをうろうろしていたが、約束の7時には程遠い。暇を持て余した由利子は本屋に行くことにした。本屋なら1時間2時間だってタダで時間つぶしが出来る(もっとも本を衝動買いしていしまい、却って金がかかる場合が多いのが難点だが)。それで、彼女は本屋に向かうエスカレーターに向かって歩き出した。その時、彼女の前を男子中学生が数人わやわや話しながら通って行った。
 彼らは人が歩いているその前を何もはばからずだらだらした歩きで横切っていく。その傍若無人さに由利子は少なからずムカッとした。しかし、最近の中学生は恐ろしい。由利子は立ち止まって彼らの行過ぎるのを待った。その間暇なので彼らを観察することにした。みんなだらしなく学生服のズボンをずり下げて履いており、足が極端に短く見える。制服からK市にある有名な私立進学校の中等部の生徒だということがわかる。わざわざ遠くから通わせる親もいるほどの有名校だった。しかし、どんなところにもこういう連中がいるものだ。
 由利子が中高生の時もボンタンとかいうズンダレたズボンが流行ったが、こういう連中の好みは世代によらず似たようなもんだと思った。反面女子生徒のスカートは短くなってしまっているが。
 由利子は彼らの中で一際目立つ少年に気がついた。ジョミーズの人気グループ「V-lynX(ファイヴ・リンクス)」のタツゾーにとても似ていたからだ。背はちょいと低いが、渋谷あたりを歩いているとスカウトされそうな感じだった。彼もそれを意識してるんだろう。さかんに「じゃね?」とか「ヤバくね?」とか言っている。はっきり言ってうっとうしいタイプだ。由利子はジョミオタではない。ここで彼女を擁護すると、彼女は萌えで少年アイドルを覚えていたのではなく、これは彼女の特技によるものだった。
 彼らが通り過ぎる様に由利子は不穏な会話を耳にはさんだ。
「あ~~~つまんね、今日は塾サボったし」
「ガッコも塾もつまらねーし」
「今日当たりまたやっか?」
「やめろよ、昨日のニュース見たやろ?」
「あれは俺らじゃねーし」
「シーッ!」
(うわ・・・)
 由利子は思った。昨日ジムで隣の女性が言った言葉はあるいは間違いじゃなかったかもしれない。しかし、あの件に関しては、彼らがやったのではないらしい。嫌な会話を聞いてしまった・・・。由利子はものすごく気分が悪くなってしまった。しかし、妙なことには関わらないほうがいい。(聞いてない、聞いてない)彼女は極力平常心を保って振り返らないように歩いた。しかし、由利子はなんらかの手を打つべきだったとあとで後悔することになる。とはいえ、彼女にはこの時点ではどうしようもなかったと思われるが・・・。

 7時が近づいてきたので、メールで打ち合わせた店の前に向かった。手には本屋の手提げ袋を持っており、その中には分厚い本が2冊。やはり衝動買いをしたらしい。少し走ることになったが5分前にはそこに着いた。すると、遅刻常習犯の美葉が珍しく先に着いて待っていた。
「由利ちゃ~ん、こっち!」
 美葉が盛んに手を振っている。
(F市内の繁華街じゃあるまいし、そんなしなくてもわかるわよ)
 と、由利子は思ったが、とりあえず彼女の方に小走りで駆け寄りながら言った。
「早かったね、待った?」
 これは通常なら美葉の台詞だった。立場が逆転したような妙な気持ちだった。
「私もさっき来たっちゃん」美葉は答えた。「とりあえずお店に入らん? おなか空いちゃった!」

 そこはF市内でチェーン店を展開している有名居酒屋グループの店舗のK店で、新鮮な海鮮料理を安く提供するというのが売りの店だった。由利子は海鮮料理が大好物だったので、大喜びで刺し盛りやら鯛のあら炊きやらアサリのバター焼きやら注文した。ビールは好きではないのでのっけから日本酒を冷酒で頼んだ。豪快な女である。美葉は、生ビールを頼んでいる。二人は乾杯し、料理が来るまで突き出しの小エビのから揚げをつまみでやっていたが、まもなく料理が並んだ。刺し盛りはカンパチと甘エビとイカとマグロ。イカは透き通っていて、その新鮮さを物語っていた。
「おいしーねー!」
 由利子は上機嫌だった。しかし、美葉はこころなしか浮かない顔をしており、おなかが空いたといっていた割りに食も進んでいない。由利子はそもそも今日彼女と会ったのは、相談を持ちかけられたからということを思い出した。しかし、思うところがあり、美葉から切り出すのを待つことにして、まったく違う話題を振ることにした。
「そうそう、さっきね、『V-lynX』のタツゾーに良く似た中学生を見たんだ。クソガキだったけど」
「タツゾーに? へぇ~、私ファンなんだ~。今度見つけたら教えて! 由利ちゃんは顔と名前を覚えるの得意だから、きっと1年後でも覚えとるやろね」
「まあね、それも良し悪しの特技なんだよね。だって特徴があれば一発で、そうじゃなくも2・3度見ただけで、覚えたくない顔でも覚えちゃうんだから」
「うふふ、みんな言っとおよ。由利子にだけはデスノートを持たせたくないって。きっと10年20年も前のことでも名前書かれて殺されそうやって」
「そんなしつこいイメージかぁ、私は!」
「それだけ記憶力がいいってことよ」
「でも、人の顔だけだからなー」
 由利子は言った。その分他の記憶力もあればいいのに・・・、そう思っていたら、唐突に美葉がたずねた。
「由利ちゃんは・・・、―――今付き合ってる人、いる?」
 突然の質問に由利子は焦った。おまけにその微妙な間(ま)はなんだよ。
「なんね~、藪から棒に! いないよ、少なくともここ10年くらいは・・・」
 と、少しむっとして答えた。
「そうやろーね。得意先の対応に怒ってその場は押さえたけど、怒りの持って行き場がなくて、湯沸し室で空き缶を素手で潰してへし折っていたら、若い男性社員に目撃されて怖がられたなんて調子では、無理ないか」
「ちょい待ち! 何でそんなこと知ってんのよ!」
「アンタ、ブログに書いてたやん」
「へ?」
「会社の友達に、面白いからって勧められたんよ。そしたらどっかで見たような猫の写真が載っとーし、内容見たらどう考えても由利子やし。偶然とはいえ驚いたけん」
「あ、だから私が病気だったのも知ってたんだー」
 謎が解けてスッキリする反面、ものすごくテレ臭くなってしまった。
「アンタのブログけっこう有名みたい」
「はあああ、誰が見ているかわからんねえ。・・・で、」
 由利子はテレ隠しで話題を振ろうと、つい聞いてしまった。
「相談っていったい何なの?」

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2.胎動 (3)少年A

「おい、マジかよ!」
 西原祐一は友人の秋山雅之に言い、その後仲間達の顔を見回して言った。
「お前ら止めねぇのか?」
 仲間達は顔を見合わせて言った。
「でもよ~・・・」
「お前らが行かんのやったら、俺だけで行く!」
 雅之は息巻いた。
「俺ら、やっぱ帰るわ。雅之キレたらタチ悪ぃし」
「なんかあって捕まりとうなかけん」
「じゃ、な! 雅之のお迎えに来たついでに後を頼むわ、西原」
 仲間たちはそそくさと去って行った。
「きさん(貴様)らぁ~、明日覚えとけよ!!」
 雅之は荒々しく怒鳴った。コンコースに繋がるバスセンターに、雅之の声が響き渡たり、そこのベンチにたむろしていたホームレスたちが、驚いて彼らを見た。雅之は彼らを威嚇した。
「何見とるんや! こんクズ共がぁ~!!」
「待てや、こんなとこで暴れたら一発で補導されろーが」
 と、祐一がなだめる。
「そんなこた判っとぉ! むこうの祭木公園に行く。あっちにも住み着いとぉ奴等が居ろうもん」
 雅之はさっさと歩き出した。祐一はあせって後を追った。
「おい、待てよ! 最近部活サボって何してるかと思ったら・・・帰ろうぜ。オレが上手く言い訳してやっから」「オレらもう3年やろ、オレらの学校は中等部から高等部に上がるにしても、審査が厳しいんだぜ。こんなことやっとったら・・・」
 祐一はなんとか雅之を止めようとなだめすかしてみたが、雅之は一向に耳を傾ける様子がなかった。祐一は日頃から雅之の素行を心配しており、今日、偶然K駅のコンコース内に仲間とたむろしていた雅之を見つけて、思い切って声をかけてみたのである。・・・しかし、雅之は無言で彼の干渉を拒否し、どんどん歩いていく。仕方なく祐一は後を追った。
 その後を祐一と一緒にいた少年、佐々木良夫がついていく。それに気づいて祐一が言った。
「ヨシオ・・・何や、おまえもついて来よっとか、」
「うん。ボク、秋山君より西原君が心配やけんね。大丈夫、ボクんちがこの近所なの知っとうやろ」

 雅之は先ほど由利子の前を、傍若無人に通っていった少年達の1人であった。彼が由利子の注意を引いたタツゾー似の少年で、他の仲間は帰ってしまったらしい。後を追う祐一も、やや細身だが背が高く目立つ少年だ。祐一の連れである良夫は小柄でメガネをかけており、祐一とは対照的に目立たないおとなしそうな少年だった。祐一も良夫も服装は乱れておらず、真面目そうで、去って行った少年達のだらしない格好とは対照的だった。雅之も少しズボンを下げ詰襟のボタンを外しているくらいで、多分学校や家ではちゃんとしていると思われた。
 祐一と良夫は雅之の後を黙ってついて行った。雅之はイライラを隠せないようで、ポケットに手を入れたままどんどん歩いていく。このような状態の雅之を止められないことは、祐一は良く知っていた。(こいつはどうしてこげんなったんやろ・・・)祐一は雅之の背中を見ながら思った。彼も手をポケットに突っ込み、万一の時に備えて携帯電話を握り締めた。祐一たちの学校は私立で遠くから通う生徒が多いので、学校の許可を得れば、携帯電話を持つことが出来たのである。もちろん授業中や不正なことに使えば、その場で没収となる。

 祐一と雅之は家が近所にあり幼馴染なのだが小学校では同じクラスになることはなかった。しかし、同じ私立中学に入学し、2年の時晴れてクラスメートになれたのだった。だが、一緒のクラスになって祐一は驚いた。幼い頃素直でやさしかった雅之が、粗野でキレやすい少年になっていたからだ。それも頭のよい分性質(たち)が悪かった。祐一は雅之が心配で、出来るだけ注意して彼を見守ることに決めた。良夫は、中一から祐一と同じクラスになったのだが、何故か祐一と気が合った。だから良夫は祐一が雅之に構うのが不満だった。いつかトラブルに巻き込まれるのではないかと心配だった。それで、今回も祐一について来たのだ。
「雅之、もうやめようや」
 公園についた時、祐一はもう一度言ってみた。
「おまえ、身体がでかいわけでもないのに、一人でやったって逆にボコられるだけやぞ。」
 雅之は何も答えない。祐一はさらにやさしく言ってみた。
「な、マック寄ってなんか食って帰ろうや。腹へってきたやろ?」
 しかし、雅之はそれを無視して無言で公園を見回した。だが、幸いにも人のいる気配はない。いつも物陰で寝ている筈のホームレスの影がまったくなかった。祐一はほっとした。これで雅之もあきらめるだろう。コーヒーでも飲みながら、雅之に何故こんなに自暴自棄になっているのか思い切って聞いてみよう・・・。

 

「え~~~!?」
 由利子は驚いて素っ頓狂な声を出した。美葉があせって身を乗り出し由利子の手を押さえ、「しーッ!」というしぐさをした。由利子は少し赤くなって声のトーンを落として小さく続けた。
「今付き合ってる人に奥さんがいた?」
 うん、と美葉は首を縦にふった。
「で、子どもは? 居たの?」
「恐ろしくて聞けんかった・・・」
「はあ・・・」由利子は椅子からややずり落ち背もたれに寄りかかった。「何でそんなことに・・・」
 そう言いながら、由利子は美葉の様子を見た。彼女はバツが悪そうに下を向いていた。
「あの・・・さあ、なんでそんなこと今頃私に相談すると?」
 由利子は尋ねてみた。こいつ、何で今まで私と疎遠になっていたのか忘れてる?
「由利ちゃん・・・強いから、こういうときどうしたらいいかわかるかなあって・・・」
「強い? 私が?」
「だって、10年前由利ちゃんの彼氏が浮気して、結局その浮気相手と結婚してしまった時、由利ちゃんすっぱりと相手に譲ったじゃない。あれ、すごくカッコ良かったもん。だから私・・・」
「ちょっと待って」
 由利子は遮って言った。
「あのね、私があの時どれだけ悲しくて辛くて、そして悩んだと思っとぉと? 部屋の家具を半分くらい破壊したし、あいつに関するものは全部捨てたし、いろんな意味で高くついたよ。おかげで私は未だに男性不信なんだから」
 由利子は一気にまくし立てた。美葉は黙っている。
「それにね、あんた・・・。その彼と付き合うために、散々私を利用したやろ・・・? ―――ま、いいか、で、美葉はどうしたいの?」
 由利子は嫌味のひとつでも言ってやりたかったが、あまりに美葉が意気消沈しているのでそれ以上言うのをやめた。美葉は下を向いて何も言わなかった。それで出来るだけやさしい声で聞いてみた。
「美葉? どうしたの? いいから言いたいこと言ってごらん」
「由利ちゃんごめんなさい、ありがとう・・・」
 美葉はうつむいたまま言った。後半声が裏返って両目の辺りから光るものがぽろぽろ落ちてきた。
(あちゃ~、困ったな~。こんなところで泣かないでよ~)
 由利子は焦ってきょろきょろ周りを見回した。しかし、由利子の焦りを余所に、美葉は肩をふるわせて本格的に泣き始めてしまった。

 

 祐一が雅之をなんとかなだめすかして、やっと帰ろうと公園の出口に向かった時、ガサガサと音がした。ぎょっとして振り向くと、つつじの植え込みから男が這うようにして出てきた。この公園に住むホームレスのひとりらしい。そのただならない様子に祐一と良夫は一歩下がって警戒した。
「君達、お願いだ、誰か助けを・・・いや、救急車を呼んでくれ! 頼む!!」

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2.胎動 (4)公園の男

「みんな死にかかっとるんや! はよう・・・早ゥせんと死んでしまう!」
 オレンジ色の街灯の照らす公園で、男は必死の形相で言った。
「最初、杉やんが熱を出して倒れて・・・それから熱に浮かされて暴れ・・・て・・・みんなで止めた・・・んやけど・・・・・杉やんは熱に浮かされたまま・・・どっかに行って・・・た。―――何日かして、その時止めた奴らが次々倒れて・・・な・・・とか動けるの・俺だけ・・・杉やん、変な病気にかかっと・・・や。一人もうは生きとrか・・・わk・・・早う医者に診tもらわんと・・・あいつら、イマは俺のカゾク・・・今度こそ助けナイと・・・。―――あんたら、ケイタイもっt・・・る・・・やろ?」
 男は一気にしゃべろうとしていたが、息が切れてろれつもよく回らない状態だった。相手を楽勝と見てヤル気満々の雅之を抑えながらそれを聞いていた祐一は、気味悪く思いながら言った。
「あの、おじさん、救急車なら公衆電話でタダで呼べますよ」
「ここらは・・・え…駅まで行かんと・・・で・でんわ・・・ない・・・」
 携帯電話の普及でめっきり公衆電話の数が減っていた。
「早く・・・はやクして・・・みんナ・シンで・・・シマ・・・」
 最初、ある程度の知的レベルを感じさせていた男の言葉が、急速に劣化していった。祐一は何か不吉なものを感じ取っていた。
「何、ワケのわからないコト言ってんだよ!」
 雅之は怒鳴った。祐一は驚いた。こいつはこの異常な状況に何も危機感を感じていない。こんな病人を威嚇してどうするんだ? と、その時の一瞬の気の緩みから祐一は雅之から突き飛ばされてしまった。そのまま体勢を崩し地面に激しくしりもちをついた。突き飛ばされた時に雅之の手が顔に激しく当たり、鼻血がふきだした。
「西原くん!」
 良夫が驚いて駆け寄り、すぐに祐一の鼻にハンカチを宛がった。
「やめろ、雅之! そんな病人をいたぶってなんが楽しいとか!?」
 祐一は怒鳴ったが、すでにその時雅之は地べたにへたり込んでゼイゼイ言っている男を、容赦なく蹴り上げていた。男はもんどりうって倒れ、そのまま動かなくなった。(まさか、死んだのか?)祐一はぎょっとして男を良く見ると、ピクピク痙攣しているように見えた。生きてはいるようだが、かなり危険な状態みたいだ。救急車を呼ぶか?しかし、この状態をどう説明する・・・?
「なん寝とうとか!」
 雅之は男の襟首をつかみ上げた。男は鼻と口から血を流していたがそれも気にならない様子で、襟首を捕まれたまま周囲を見回すと震えながら言った。
「あ・・・赤い!アカイ!ミンナアカイ・・・! チクショウ、オレまで・・・!」
「何わからん事言うとるんか!そりゃ、街灯の色が赤っぽいけんやろうが!」
 もう一度殴ろうとする雅之を、今度は男が病人とは思えない力で突き飛ばした。雅之はなんとかバランスを取り倒れるのを免れた。
「ヤメロ!オレに近づくな!!」
 男は怒鳴った。それが雅之を刺激してしまい、男は再度蹴り上げられた。男は再びもんどりうって倒れたが、今度はすぐに起き上がった。その後の行動に祐一と良夫は凍りついた。男が「があッ!」と叫び、すごい勢いで雅之に襲い掛かったのだ。
「うわ!」
 雅之は叫び、そのまましばらく男ともみ合いになった。祐一はとっさに雅之を助けに行こうとしたが、良夫が全身でしがみついている。
「西原くん、危ないからやめて! 秋山君は自業自得だもん、少しは痛い目にあったほうがいいんだ!」
 確かに良夫の言うことは一理あるが、これはいわゆる「窮鼠猫を噛む」とは違うような気がした。その間に雅之はなんとか男から逃れていた。というより、男の方が雅之を放しそのまま力なく地面に座り込んだのだった。
「こいつ噛み付きやがった! それに手も!」
 雅之の右手の甲には引っかかれたらしい二本の傷跡があり、かすかに血が流れている。
「どこを噛まれたんか?」
 相変わらず良夫にしがみつかれた状態で祐一は聞いた。
「腕やけど、制服の上やったけんたいしたことない」
 雅之はつっけんどんに言ったが、楽勝と思った相手に反撃され、驚きと怒りでかすかに震えていた。
「こんクズがぁ!!」
 雅之は怒鳴ると、地面にへたり込んでいる男につかみかかった。
「おまえみたいなんは・・・。」
 と、言いかけて雅之は言葉を飲んだ。男が「ゴボォッ!」と嫌な音を立ててどす黒い液体を吐いたからだ。それは普通の吐物とは違ったすさまじい悪臭がした。それは、ある臭いを嗅いだことのある人には思い当たる臭いだった。男の内臓は生きながら腐り始めていたのである。
「うわぁ~っ!」
 雅之は驚いて飛びのいたが、すでに遅く制服のシャツにそれが飛び散った。
「な・なんやこれは!? 気色悪ッ!!」 
 それは雅之の手にもかかってしまったらしい。盛んに右手を腰の辺りで振っていた。男はそのまま倒れ、ゴボゴボと大量の黒い吐物を吐きながら激しく痙攣した。祐一は呆然としながらそれから目を離せなかった。気がつくと、彼にしがみついている良夫はすでにガタガタ震えており、恐怖でひきつける寸前のようだった。
「見たらイカン!」
 祐一は良夫を引き寄せると彼の目を覆い、自分もぎゅっと目を閉じる。大人でも正視に耐えない光景である。中学生の彼らに耐えられる筈がなかった。
 さすがの雅之もその場にヘタヘタと座り込んでしまった。いったい目の前で何が起きているかさっぱりわからなかった。男は痙攣しながら、両手で空をつかみ口をパクパクさせていた。それは何か言っているように・・・いや、誰かの名を呼んでいるように見えた。その後激しく弓なりにひきつけると、急に力が抜け手がぱたりと下に降りた。みるみる男の目から生きた光が失われていき、男はピクリとも動かなくなった。
 祐一はおそるおそる目を開けて男の方を見た。彼は今静かに横たわり、うつろになった目に街灯のオレンジ色の光が反射している。

 ――――死んだ・・・?

祐一は愕然とした。男のすぐ傍で、雅之が地面に座り込んで呆然と男の方を見つめていた。

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2.胎動 (5)友情・・・

 美葉は、まだ泣き続けていた。ハンカチを握りしめ、声を出さずに肩をふるわせて泣いている。取り合えず気が済むまで泣かせて落ち着くのを待とう、そう思っていたのだが、なかなか泣き止みそうになかった。周りの客達がチラチラと様子を伺っているのがわかる。
(私が泣かしたように見えるかもしれないな~)
 そう由利子は思うとかなり憂鬱になった。しかし、よく考えたら自分が泣かせたような気もしてきた。損な役回りである。美葉のように儚げで保護欲をそそるような女性に生まれたかったな、と、いつも思っていた。なんでこんなに強そうな外見に生まれたんだろう。昔二股をかけられて結局フラれた時もそうだった。「お前は強いから一人で生きていける。アイツは俺がいないとダメなんだ」という、数多の三文小説やドラマやマンガで使い古されて発酵しつくした陳腐な言葉を残して彼は去って行った。怒りや悲しみよりも、その恥ずかしいセリフに呆然として彼を見送ったことをふと思い出し、さらに憂鬱になった。
 話の進展のなさに業を煮やした由利子はひとまず居酒屋を出ることにした。それで、半分ほどグラスに残った冷酒をグイッと飲み干してから言った。
「美葉、とりあえずここから出よ。ね、そうしよ!」
 美葉は小さく頷いて、さっきまで握りしめていたハンカチで涙を拭きながらぼそりと言った。
「トイレでお化粧直してくる・・・」
 そう言われて美葉の顔をよく見ると、確かに化粧が部分的に取れてすごいことになっていた。いつも薄化粧の由利子には有り得ない顔だったので、不思議やらおかしいやらで、多少引きつりながら由利子はなんとか答えた。
「行っておいで。お会計払っとくから・・・出口の方で待ってるよ」

 由利子は美葉と店を出て、駅に向かって歩いていた。出口でたっぷり15分待たされた由利子は、若干むすっとしており、美葉はその後を下を向いてとぼとぼと歩いていた。しばらくその状態で歩いていたが、だんだん美葉が可哀想になってきた由利子は、足を止めて振り返り美葉に手をさしのべた。
「美葉・・・」
 由利子は再び優しく話しかけた。
「人ってさー、相談する時には大体自分ではどうするか決めてることが多いよね? だから、美葉も心の中では結果を出しているんじゃないかって思うんだけど・・・」
 美葉は無言だった。由利子はさしのべた手で美葉の手を取り、並んで歩きながら続けて言った。
「美葉はさ、きっと誰かにこのことを聞いて欲しかったんだよね。ひょっとして、今までずっと誰にも言えなかったんじゃない?」
 すると、由利子が握った美葉の手が小刻みに震え始めた。横を見ると、また大粒の涙を流しながら泣いている。
(げげ・・・しまった!)
 と、由利子は思ったがすでに遅し、美葉は由利子にしがみついて号泣を始めた。
「そだよね。悲しいよね・・・よく我慢してたね、辛かったやろ・・・」
 由利子は美葉の背中を軽く叩きながら、慰めた。こうなったら仕方がない。気の済むまで泣かせてやろう。由利子は腹を決めた。
(でもねえ、名前は由利子だけど、レズっ毛はないんだよね、私・・・)
 行き交う人たちの視線を浴びつつ、由利子は困惑しながら美葉の肩を抱き、繁華街の片隅で立ったまま困っていた。

 

 由利子達の悲喜劇を余所に、こちらでは深刻な展開が続いていた。
 倒れた男とその周りに少年が3人、公園のオレンジ色の街灯に照らされていた。少し向こうのとおりから車の音が聞こえたが、公園内は異様に静かだった。しかしその静寂はすぐに破られた。
「人殺し! 人殺し! この人は助けを求めてただけやろ、何でこんな非道い事せんといかんと!?」
 最初に我に返った良夫が泣きながらヒステリックに叫び始めたのだ。雅之はその場に座り込んだまま、無言だった。まだショックから立ち直っていないのだ。相変わらず呆然と男の顔を見つめている。
「やめろ、ヨシオ!」
 祐一は良夫を制止した。
「だ、だって、こんなのひどい!!」
「雅之だって、まさかこんな事になるなんて思わなかったんだ。とにかくこれからどうするか考えんと・・・」
 祐一の切り替えは早かった。この状態では自分がしっかりしないと・・・。祐一は自分の冷静さに驚きながら考えを巡らした。
(どうする?警察に連絡するか?)
 祐一はポケットの中の携帯電話を握りしめた。しかし、直ぐに考えなおした。
(いや、ダメだ。それじゃ無関係の良夫にまで迷惑がかかる。あいつはオレが心配でついてきただけだ。巻き込む訳にはいかん。ここは逃げるしか・・・)
 そこまで考えた時、「ひ・・・ひいっ・・・!」っという雅之のかすれた悲鳴が聞こえた。
 見ると雅之は腰を抜かした状態のまま、這うようにそこから逃げようとしていた。ようやく我に返り、事の次第が理解できたらしい。
「待て、雅之! 落ち着け!」
 祐一は叫んだが、雅之は何度か転びかけながら立ち上がり、かすれた悲鳴を上げながら逃げ出した。
「おい、そんな血まみれで何処に行くとや!」
 祐一は雅之を追って走り出した。
「そんな・・・・! 西原君! あのおじさんはどうすると!?」
「あとで考えよう! 今は雅之を追うほうが先やろ!」
 祐一は雅之の後を追って走り出した。
「おじさん、ごめんね! 後で誰か呼んでくるけんね・・・」
 良夫はそう言いながら男の遺体に向かって手を合わせると、祐一の後に続いた。
 雅之はすぐに見つかった。公園を出たところの電柱に咳き込みながらもたれかかっていたのだ。祐一は雅之に近づくと言った。
「バカやな。そんな血まみれのシャツなんか着たままで人前に出たりしたら、一発であやしまれるやろ。」
 言いながら祐一は自分のシャツもあちこちに染みが付いているのに気がついた。手も血まみれになっている。雅之のせいで鼻血を出したことをすっかり忘れていた。冷静に見えても相当動揺しているようだ。無理もないことだが。祐一はこの分じゃ顔も相当汚れてるだろうと思いポケットに手を入れ、ハンカチを出そうとしたら、良夫が貸してくれたハンカチの血まみれになったのが出てきた。もう一度それをポケットにしまい、カバンから自分のハンカチをだして顔を拭いた。その後祐一は自分の制服のボタンを掛けながら雅之に言った。
「とりあえずおまえも上着のボタンを止めとけよ」
 雅之は機械的に祐一の言うことを聞いて上着の前を合わせ始めた。
「西原君、顔、よく見たらまだ汚れとぉよ」と、良夫が指摘した。
「うん、どこかで顔を洗わんと帰れそうにないね。雅之のほうもなんとかせんと・・・」
 祐一はため息をついた。

 

 由利子と美葉は、再び駅に向かって歩いていた。美葉は泣くだけ泣いてだいぶ気が晴れたようだ。美葉は、由利子に寄りかかるようにして歩いていた。
「思い出したよ」
 由利子が言った。
「10年前、あの馬鹿男にフラれた時、美葉が旅行やら映画やらに誘ってくれたんだよね。あれでだいぶ気が紛れたっけ」
「ほんとはね・・・」
 美葉は言った。
「あの時、由利ちゃんが帰って来たみたいで嬉しかった。だからいっぱい誘ったの。・・・今日は由利ちゃんに会えてよかった。私、自分がホントは何をするべきかは判っとぉとやけど、ふんぎりがつかんやった。でも、やっとアイツに三行半突きつけてやる勇気が出た・・・」
「そっか、がんばれ美葉! そうだ、これからウチの近所にあるカラオケ屋に行かない?今日は朝まで歌いまくろう!」
 由利子は提案した。
「うん、いいよ! 明日は休みだし」と、美葉。数年ぶりの友情復活であった。

 二人は程なくして駅にたどり着いた。美葉は、
「由利ちゃんごめん、またお化粧なおしてきていいかな?」
 と聞いてきた。実はさっきの惨状を見た由利子が、そうなる前に見栄え良く涙をぬぐってやったので、さっきよりずいぶんマシなのだが、それでもやはり気になるらしい。
「いいよ、行っておいで。私はここのベンチで待ってるから」由利子は快く答えた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
 美葉は駅のトイレに走って行った。
(ああいうところがいつまでも女の子なのよね)
 由利子は美葉の後ろ姿を見ていたが、すぐにベンチに座ると、さっき居酒屋で美葉を待っている間に読んでいた本の続きを読み始めた。
(さて、何分かかることやら。買っててよかったよ、これ)

 美葉がトイレのそばまで行くと、隣の男子トイレに向かう中学か高校くらいの少年3人に遭遇した。
(こんな時間にここらをうろうろしてるなんて。。。塾の帰りかしら? 中学生も大変よね)
 美葉はそう思いながら彼らの顔をそれとなくうかがった。そのうちの一人は見たことがあるような顔だった。しかし、美葉はあまりジロジロ見るのもマズイと思ってそそくさと女子トイレに入った。

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2.胎動 (6)平穏の終わり

 美葉が出会ったのはもちろん祐一・雅之・良夫の3人だった。彼らは美葉を見て一瞬躊躇したが、ぞろぞろとトイレに入っていった。
「雅之、やっぱそのシャツ脱いだ方がいいぞ」
 祐一は言った。雅之は言われるままにシャツを脱いだが、そのままトイレのゴミ箱に捨てようとした。祐一は焦った。
「バカ! こんなとこに捨てとったらヤバイやろ! 捨てるなら持って帰って捨てろ、な?」
 すると雅之はシャツをくるくると丸めてカバンに突っ込んだ。祐一は自分の手と顔を洗い、とりあえずさっぱりとした。
「ヨシオ、ハンカチありがとう。洗って返すから、貸しとって」 
と、祐一が良夫に言うと、良夫はなにか釈然としない顔つきで言った。
「あのおじさん、あのままでいいの?」
「仕方がないやろ。それに、多分あの人はオレたちが行かなくても死んでいたと思うし」
「だからって・・・!」
 良夫が言いかけたその時、トイレに酔っ払った50代の男性が入ってきた。
「よぉ、兄ちゃんたちこんなところでストリップな?」
 彼はご機嫌で鼻歌交じりで用を足しながら言った。
「子供がこんな時間に便所でたむろしとっちゃイカンばい。早う帰らんと母ちゃんが心配しとろうもん」
 男は用を足し終わったが話は続いた。
「塾ね? 部活ね? がんばっとるやないね」
 この男のせいで、雅之がまたイライラし始めて言った。
「さっきオレ、浮浪者のオッサンを〆て来たんですよ」
 祐一はぎょっとして、焦って否定した。
「バ・・・、バカ! すみません、こいつタチの悪い冗談ばっか言うんです」
「うわぁ、怖かねぇ、ほんなこつ。おじさんも絞められないうちに帰るけん、君らも早う帰らんね」
 男はそばにいた良夫の頭をぽんぽんと叩くと、ふらふらしながら手も洗わずに出て行った。良夫が露骨に嫌な顔をした。
「ボク、外で待っとぉけん。公衆トイレの中って気持ち悪いし・・・」
 良夫は不愉快そうに言うと出て行った。祐一は後を追ってトイレから出て、良夫の肩をつかんでこっそり言った。
「雅之は俺がなんとか説得して自首させるから・・・。おまえは心配せんでいいからな」
 良夫は首を横に振りながら、トイレの入り口の壁にもたれ座り込んだ。胃がぎゅっとして本当は吐きそうだった。しかし、中で雅之と居ると余計に気分が悪くなりそうで嫌だったのだ。

 祐一がトイレに戻ると、雅之が必死で手を洗っていた。
「どうした?」
「引っ掻かれたところが何か痛くなってきた・・・」
 雅之は言った。傷口に水を大量にかけている。
「うわ、腫れたなあ。あのままにしてたから・・・。すぐに洗えば良かったかなあ。・・・あ、右手やないか、それ。大丈夫か?」
「オレは左利きやけん、一時的なら多少右手が使えんでもいいけど・・・」
 と、雅之は言葉を濁した。祐一は雅之の言わんとしていることが判った。しかし、敢えて口に出さなかった。そんなことがあるはずがないじゃないか・・・。
 雅之は手を洗い終わると、傷口を覆うようにハンカチを巻きつけた。祐一はその端を結んでやった。そのあと雅之は上着を着て、ボタンをかけた。
「ギリギリ冬服でよかったなあ。アンダーシャツで帰るのは変だもんな」
 祐一はそういいながら自分も上着のボタンを確認した。お互い身だしなみを確認しあってから、二人はようやくトイレから脱出した。外に出ると、外にしゃがみこんでいた良夫が少しギクッとした感じで振り返り立ち上がった。顔色は青ざめたままで、まだショックから立ち直っていなかった。多分俺も同じような顔をしているんやろうな、と祐一は思った。祐一は大丈夫だと言い張る良夫を無理やりタクシーに押し込むと、「すみません、こいつ、気分が悪いみたいなんで、近いけどよろしくお願いします」と運転手に頼んで家に帰らせた。その後、残った二人は駅のホームに向かった。

 その頃由利子たちは、早くホームに上がりすぎて時間を持て余し、ベンチに座って自動販売機のコーヒーを飲みながら雑談していた。その由利子の目に、階段を上ってきた雅之の姿が映った。
「美葉美葉、見てあの子よ、階段上ってくるあの子。 『V-lynX(ファイヴ・リンクス)』のタツゾー似!」
「あら? あの子? 私トイレの前で出会っちゃった」
 と、美葉。
「ね、ね、タツゾー君によく似てるでしょ?」
「そう言えば似てる! だけどさっき見た時全然気がつかなかったよ。なんていうか、うつむいてて暗い印象で・・・」
「そう言えば、あの時よりも元気が全然ないなあ。何かあったのかしら・・・。あれ、もうひとり・・・お友だち? さっきの仲間の中にはいなかったけど」
「由利ちゃんがそう言うんだから間違いないと思うけど、私が会ったときにはもう居たよ。あともうひとり小柄なメガネ君と3人やったかな・・・」
「小柄なメガネ君もいなかったな、あの時は。それにしてもあのコ、背が高くてカッコイイわね。真面目そうだし、意外な組み合わせやね」
「一発で覚えた?」
「うん一発で」
 二人は声を上げて笑った。お酒が入っているので妙にハイ・テンションだ。
「あれ?あっちにいっちゃうよ?」
「残念! なんか見てるの気づかれたみたいね」
 二人はしかたなく両少年の後姿を見送った。
「あの子たち、ずいぶん長くトイレに籠ってたよ。私が出た時まだ中にいたみたい」
「そりゃあ長いわ!」
「ひど!・・・そうそう、何か中でひそひそ話してたわね。途中オッサンの声もしてたけど」
Image021_3「オッサンすか?・・・あ、電車、来た来た」
 電車がガーッと音をたててホームにすべり込んだ。
「あ~、1メートルオーバーラン!」
 彼女らが待っていた位置より扉が通り過ぎたのを見て美葉が言った。ここの電車がオーバーランするのは珍しい。ドアが開いて乗り込もうとした時に、由利子が気がついて言った。
「あ、救急車! なんかあったんかな?」
「由利ちゃんってば、乗らないと電車出ちゃうよ。救急車なんて珍しくないやろ?」
 美葉にせかされて由利子は急いで乗車した。

 由利子たちに観察されているのに気づいた祐一は、ホームの前の方に移動することにした。
「何であのオバサンたち、オレたちを見てたんやろ」
 と、雅之が怪訝そうに言った。
「そりゃ、オレたちがイケメンやからやろ」
 祐一が少しおどけて言ったが、雅之は笑わなかった。
「一人はさっきトイレの前で会った人に似とった」
 雅之がいうと、祐一の顔つきが少し厳しくなった。
 程なくして電車が到着し、乗り込んだ。座席に座ってほっと一息入れると、駅の下の道路を救急車やパトカーが通っていくけたたましい音が聞こえた。二人はこわばらせたままの顔を見合わせたが、すぐに扉が閉まって電車が動き出し、そのために外の音が遮断されてしまった。
「オッサンが見つかったんかな・・・」
 と、雅之がボソリと言った。
「そうかもな・・・」
 ヨシオが電話したのかも・・・。と、祐一は良夫が振り返ったときの顔を思い出し、ふと思った。
「オレ・・・」
 雅之が言った。
「最近すげぇイライラしてて、時々自分に歯止めが利かんようになって・・・。オレ、あんなことするつもりなかったっちゃん。祐ちゃん、警察に連絡せんでくれてありがとう。オレ、取り返しのつかんことをやったんやなあ・・・」
 妙にしおらしい雅之の言葉に、祐一は何と言っていいかわからなかった。しばらくして雅之が口を開いた。
「あのな、祐ちゃん、・・・オレのオヤジと母さんな・・・」
「ご両親がどうかしたと?」
 祐一は、出来るだけ優しくたずねてみた。しかし雅之は
「いや・・・、ごめん。なんでもない」
 と答えたきり、またなにもしゃべらなくなってしまった。電車を降りてから、祐一は心配だから家まで送ると言ったが、雅之はひとりで帰れる、大丈夫だ、と言ってきかなかった。それでも家の近所までついて行った。そして、雅之が家の中に入るのを確認し、自分も家路についた。夜も10時を過ぎて帰宅した祐一は、両親からこっぴどく怒られた。

 雅之が家に帰ると、母親が心配して飛んできた。
「まーちゃん、どうしたの? 何処に行ってたの? あんまり遅いから、心配してたのよ。警察に電話しようかと思ってたのよ」
 雅之は、靴を脱ぎながら母親をうるさそうに一瞥すると、無言で2階の自室に向かった。
「まーちゃんってば・・・。夕飯はどうしたの? 食べて来たの?」
「ごめん、気分が悪いけん・・・風呂入って寝る」
 振り向きざま母親にこう告げると、雅之は自室に入ってしまった。母親はしばらく下でオロオロしていたが、ため息をついて居間に戻っていった。

 3人は各々諸般の用を済ませ床に就いたが、公園でのことを思うとなかなか寝付けなかった。
 特に雅之は、男の断末魔の顔が目に焼きついていた。後悔と贖罪の念が渦巻いていた。何度か起き出してトイレに行き吐いた。夕方友だちとドーナッツ屋に入ってセットを食べただけなので、吐いてもろくなものが出てこない。ようやく眠れたと思ったら、悪夢にうなされて何度も飛び起きる。最悪な夜だった。

 3人が眠れない夜を過ごしている頃、由利子はカラオケ屋で美葉と一緒に、ジッタリンジンの「プレゼント」をシャウトしていた。

(「第2章 胎動」 終わり)(次へ

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