2.急転 (1)そして彼はため息をつく

 その後の調査で、葛西たちが重症者優先で屋根裏部屋に飛び込んだためスルーした二階の部屋からも、半ば腐敗した数体の遺体が発見された。葛西が遠くから感知していた臭いはそこから発生したものだった。その屋敷が『ルビー』の『魔窟』になっていたことは間違いなさそうだった。
 間の悪いことにその遺体を発見したのは青木だった。彼は凹む気持ちを奮い立たせ完全防備に着替え屋内捜索に当たったのだが、その時最初に開けたのが件の死体の部屋だったのだ。
 予期しなかった酷い遺体に遭遇した彼は、悲鳴を上げてドアを背に座り込んでしまった。その拍子にドアが閉まり、青木は完全にパニックに陥ってしまった。葛西が駆けつけすぐに青木を引っ張り出したが、葛西がその時一瞬目にした遺体は残暑の高温で既に膨張をし始めており、彼ですら目をそむけたくなるシロモノだった。
 完全に出鼻をくじかれた上に酷い遺体を目の当たりにした青木のパニックは収まらず、葛西と共に早瀬から撤収を命じられてしまった。屋敷中に悪臭が充満していたために、葛西にも他に遺体があることを予測できなかった。よろける足取りで己が不甲斐なさを謝り続ける青木を支えながら、葛西は自分の思慮の足らなさを悔いた。

 だが、そこまで時間のたった遺体にもかかわらず、例の蟲たちが寄ってきた気配がないのは不思議だった。屋根裏にはそろそろ集まり始めていたのに。その謎はすぐに解けた。屋敷から例の虫よけのボトルが大量に見つかったからだ。その場にいた何者かが撒いたのだろう。おそらく感染リスクのない、恐ろしく冷静で冷酷な誰かが……。末端バイヤーの紀ではなく、テロリスト側の人間の可能性が高いと思われた。葛西は自分たちが現着する前にまんまと逃げおおせた、『マキさん』と呼ばれた女性が該当するのではないかと調書に記した。さらに、虫よけを撒いた理由は、おそらく集団発生からアジトが発覚するのを避けたためと思われると付け加えた。
 達人少年の証言から、ウイルスはV-シード(ルビー)に元から仕込まれていたわけではなく、マキという女性が後から混入した、あるいは混入済みのV-シードを入れたと考えられた。ということは、結城以外にもウイルスを持ち歩いている者がいるということになる。いずれにしろそんなものが市場に出回った場合大変なことになる。SV捜査班はV-シード拡散の捜査に尽力することとなった。
 しかし、どんなに捜査しても紀から末端まではたどりつくが、やはりその上層には杳としてたどりつけなかった。しかも、タスクフォース縮小に伴い捜査員も減っており、現場からは不満の声が上がり始めていた。

20XX年9月30日(月)

「僕たち、しばらく部屋のベッドで寝ていないですよね」
 青木が首をコキコキと左右に傾けながら言った。葛西は苦笑いをしながら答えた。
「そうだね」
 それを耳にした富田林が檄を飛ばした。
「何を軟弱なことを言っとるッ! 青木、葛西までなんだ!? 警察官なら家に帰れない日が続いたことは今までもあっただろうが!!」
「でも、いつもと違ってこんな、なんだかわからない雲をつかむような捜査は初めてで、なんていうか五里霧中どころか百里先まで霧の中みたいな……」
 青木が少し不服そうに言った。
「霧はいつか晴れる。泣き言をいうな」
 富田林はそう言い捨てると足音を鳴らして去って行った。葛西はため息をつきながら言った。
「ああいうところはいつもの富田林さんなんだけどなあ」
「あ、そういえばあの人、H駅爆破事件で相棒を……」
「そうなんだ。二人とも真っ先に被害者救出に向かったのに、増岡さんだけが感染して亡くなってしまったんだ。富田林さんもしばらく隔離されてて、発症することなく退院できたんだけど、あれ以来、なんか近寄り難くなっちゃって。周りが気を使いすぎているのかもしれないけど」
「まあ、気を使いますよね」
「ところで、青木君は大丈夫なのかい? 少し痩せたみたいだけど」
 葛西は、元気そうに振舞う青木を心配して聞いた。
「大丈夫です。直後は食欲が全くなくて病院にも行きましたが、今はほぼ本調子です」
「ほぼ?」
「実は、まだ焼肉の類や一部の発酵食品が食べれなくて。でも、睡眠導入剤を飲んだら夜は眠れますし」
「って、それまだ……」
「大丈夫です。だって、葛西さんもそれを乗り越えたんでしょう。なら僕だって。なので、落ち着いたら今度焼肉に行きましょう」
 と、青木が笑顔で言ったが、
「そんな死亡フラグみたいなこと言わないでくれよ」
 と、葛西の心配は募るばかりだった。

「はあ……」
 由利子を送る車の中で、葛西がため息をついた。それを見て由利子が怪訝そうに尋ねた。
「どうしたん? 盛大な溜息をついて」
「僕の不注意で、青木が精神的に参っているようで……」
 そう言うと、葛西は由利子に事情を話した。由利子は少し表情を曇らせて言った。
「そっか、アレ見ちゃったか」
「しかも、けっこう強烈なやつだったんです」
「そりゃぁ、キッツイな。でも……」
 由利子は笑顔を浮かべながら、真剣な目をして言った。
「葛西君、後輩君が可愛いんだね。だったら信じてあげなよ」
「そうは思うんですが」
「意外と過保護なんだねえ、君」
「僕、過保護ですか?」
「うん。でもさ、ほんの数か月前はさ、葛西君って虫にビビったり遺体見て卒倒しかかったり食欲無くして十秒飯で過ごしたりしてたろ?」
 黒歴史を言われて葛西は焦り気味で言った。
「ちょ、蒸し返さないでくださいよっ。って、なんで知ってるんですか」
「内緒♡」
 と言いながらギルフォードを真似てウインクをした。
「だからさ、それから考えても葛西君だって短期間で随分と成長したじゃない。今はとても頼もしいよ。青木君だって覚悟して警察官になったんだよ。きっと乗り越えるって」
「そうは思うのですが……」
「青木君、もう葛西君の有能な部下だと思うよ。もっと頼ってあげなって」  
「そ、そうですよね」
 そう答えながら、葛西は少し嬉しそうだった。部下を有能と褒められたからか自分を頼もしいと言われたからか、おそらく両方だろう。それで勇気が出たのか、葛西はこの後なりゆきで思い切った行動に出る。

 葛西はいつものように由利子を部屋まで送ると、自然な流れで玄関まで迎えに出た猫たちをしゃがんで撫でた。猫たちもすっかり懐いてしまい、若い方のはるさめは、はっちゃけて葛西の頭にまで登ってしまった。
「こら、はるさめ、葛西君の髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃうよ」
 と、由利子が焦ってはるさめを抱き上げた。
 離しても離しても葛西にまとわりつく二匹に業を煮やした由利子は、二匹を抱えてケージに一時撤収させた。
「あーあ、今日の歓迎はいつも以上だったね。葛西君毛だらけやん」
 由利子は葛西の服の毛をコロコロで取りながら、ふふっと笑って言った。
「二匹とも、すっかり葛西君になついちゃったね。最初の頃からは考えられないよ」
「まあ、送迎を始めてから何か月か経つし、最近はアレクが忙しいので、ほとんど僕が由利子さんを送ってますからね」
「葛西君の猫の扱いもだいぶ板についてきたみたいだし」
「はるさめちゃん、僕を見たらぷーぷー言ってましたからね」
「この子の威嚇って、『シャーッ』じゃなくて『ぷー』だからね。迫力ないったら」
「その後は『やんのかステップ』でお迎えに昇格しましたし」
「あれ、昇格だったのかい。まあ、いまではすっかり慣れちゃったわけだし。あ、今日はちょっと早いし、上がってお茶でも飲んで行く?」
 由利子が珍しく部屋に上がるように誘った。愛猫たちの歓迎に気を良くしたからかもしれない。
「え? でも」
「どうしたん? 滅多にこんなこと言わないよ」
「そうですね。初めて言われたような気がします」
「そうだよ、アレクにも言ったことないんだから。この前お茶出したのは、そうだね、富田林さんと増岡さんが聞き込みに来た時以来かなあ」
 そう言った後、少し遠い目をして言った。
「ほんの四か月ほど前なのに……。増岡さん、もういないんだよね……って、ごめん、こんなこと言ったら余計上がりにくくなるよね」
「そんなことがあったんですね」
「うん」由利子はくすくす笑いながら言った。「ひとしきり話を聞いたら、ふたりとも嬉しそうに猫を愛でて帰って行ったんだよ。増岡さんなんて嬉々として写真も撮ってた。おまえら猫見に来たのかと」
「……」
 葛西が無言になったので、彼の方をよく見ると目いっぱいに涙を浮かべていた。由利子は靴箱の上に置いてあるティッシュケースを差し出しながら言った。
「もう、涙もろいところは相変わらずなんだから」
「ゆ、由利子さんだって」
 ティッシュで涙を拭いながら、葛西が言った。気が付くと自分も左目から涙がこぼれていた。由利子は自分も涙を拭きながら言った。
「K署で初めて会った時もこんなことあったよね」 
「デジャブ感ありますね」
 自然と二人の口から笑いが漏れた。泣笑いだった。
 ひとしきり泣笑いをして、落ち着いたころ由利子言った。
「なんか、いつまでも玄関にいると変だよ。緑茶と紅茶、どっちがいい?」
「すみません、今日は帰ります。上がったら本格的に泣いて帰れなくなってしまいそうで……」
「そっか。ごめんよ、水を差すようなこと言っちゃって」
「いえ、むしろ増岡さんの意外なところを知れてよかったです」
「だったらいいけど……」
「ではまた明日!」
 葛西はそう言って背を向けドアノブに手をかけようとしたが、その手をぐっと握って由利子の方に向き直り、まっすぐに見て言った。
「唐突ですが、ずっと言いたかったことがあります」

 葛西が帰ったあと、由利子はさっさとキッチンに入り電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。そのあとやや手荒に椅子を引いてどさっと座ると、テーブルにつっぶした。
「あのバカ、いきなり何を言い出すんだよ……」
 いつもと少し様子が違う飼い主に、にゃにゃ子は足元に座って不思議そうに首を傾げ、はるさめはおかまいなく盛んに足にじゃれつき膝に上がろうとした。

 その頃、美葉はF市郊外にある場末の宿に居た。結城の逃亡資金も底をついてきたのだろうか、そこは昔の所謂連れ込み宿だったが、今は外国人のバックパッカーや訳ありの労働者などが宿泊するような場所だった。
 ここで二・三日潜伏してから市内のアジトに向かう、と結城は言い、夜には帰ると出かけて行った。くれぐれも逃げるなと釘を刺して。もちろん、美葉には逃げる選択肢はなかった。結城が怖かったからではない。逃げる時はあの、おぞましいロケットペンダントを奪ってからだと決めていたからだ。それが結城への一番の復讐になるだろう。さらに、美葉は逃げる希望を持ち始めていた。
 それは、以前アパートの2階に住んでいた時のことだった。
 美葉は毎日のように窓を開けて外を眺めていた。結城がいる時はレースのカーテン越しに、いない時はカーテンを開けて空と雲を眺めていた。
 ある日、ふと下の方を見ると、狭い道路のアパートから遠い方の歩道に男が立っていた。男は美葉のいる窓の方を見上げていた。その顔に美葉は見覚えがあった。確認しようとそっとカーテンを開けた。やはり知った顔だった。
 それは、美葉が結城に誘拐される前まで彼女を見張っていた警察官の一人だった。美葉の脳裏に当時のことが蘇った。数か月前のことなのに、ずいぶんと前だったような、ついこの間のことだったような不思議な感覚に襲われた。美葉が自分を確認したことが判ったのか、男は美葉に手振りで頭の上に大きく丸とバツを描いてみせた。結城の不在の確認だと認識した美葉は首を小さく横に振り、両人差し指でバ

ツを作って男にわかるように見せた。男は頷くと素知らぬ顔で歩き始め、すぐに角を曲がって姿を消した。それを見て美葉はため息をついた。
「何をしている?」
 結城は美葉の様子に気づき、足早に近づくとシャッと遮光カーテンごとカーテンをしめてしまった。一瞬部屋が真っ暗になったが、すぐに結城が照明を付けた。古い蛍光灯なので部屋の中は陰気な明るさに変わった。
「なんでもないわ。すこし、疲れただけ……」
「そうか、すまないな」
 結城が珍しく優しい言葉をかけた。
「まだ暑いのにエアコンがないんだからな。だが、待ってろ。もうじきこんなところから抜け出してやるからな」
「うん、ありがとう」
 美葉は力ない笑顔で言った。ひどい目に遭わないためには逆らわず従順にすること。美葉はすでにそれが身についてしまっていた。だが、それが出来たのは、きっと警察が見つけてくれるという希望を失わないでいたからだった。そして、とうとう警察がかぎつけて来てくれた。美葉は微かな希望に灯がともったような気がした。
 そして、その数日後、家宅捜索が入った。彼が密かにスマートフォンで撮った美葉の写真が決め手になったからだ。しかし、すんでのところでガサ入れの報告を受けた結城は、美葉を連れて逃げた後だった。指揮をとった富田林は地団太を踏んで悔しがったが、急いで逃げたためにさすがの結城も存在の証拠を消す暇がなく、いくつかの遺留品を遺してしまっていた。ふたりの生存が確実となり、結城捜査網はわずかに活気づいた。

 深夜の逃走で検問も間に合わず、結城は堂々と逃げ切ることができた。その頃には夜が明け始めていた。結城は山中に車を捨て、美葉と共に歩いて山を下りJRのローカル線に無人駅から乗り込んだ。そのまま、また結城の足取りは消えたのだった。

 そういうことがあり、美葉はきっとまた警察が動いて探し出してくれる。きっと助けが来てくれると希望の灯を絶やしていなかったのである。

20XX年10月1日(火)

 翌日、由利子は時折キーボードを打つ手が止まったり、ぼうっと窓の外を見ていたりと仕事に身が入らない様子だった。ギルフォードは久しぶりに朝から研究室にいたが、それに気が付いて声をかけた。
「ユリコ、どうしました? 珍しく集中力が欠けてますよ」
「あ、いや、その、昨夜ちょっと寝られなくて……」
 そう言うと、誤魔化すようにコーヒーカップを手に取った。
「ジュンにプロポーズでもされましたか」
 由利子は危うくコーヒーを吹きそうになった。その横で、紗弥が書類の束を落としそうになり、慌てて書類をしっかりと持ち直した。動揺を隠せず、由利子が訊いた。
「な、なんでそれを……」
「おや、カマかけただけですけど、図星くんでしたか」
 ギルフォードは腕組をしながらしてやったりという表情をした。
「だって、君たち最近ちょっといい雰囲気になってたじゃん」
「いい雰囲気って、いやいやいや……」
 由利子はそう言いながら右手を左右にぶんぶんと降った。ギルフォードはニヤリと笑うと興味深そうに聞いてきた。
「で、どう答えたんですか?」
「断ったに決まってるよ。だって私、葛西君より八歳近く上なんだよ。うまく行くわけないじゃん」
「彼は年上がちょうどいいと思いますよ。それに恋愛に年齢も性別も身分も血縁も関係ないです」
「教授、血縁はさすがにダメですわ」
 紗弥がようやく落ち着きを取り戻して突っ込んだ。

 その頃、葛西の方も公用車の中でため息をついていた。運転しながら青木が訊いた。
「葛西さん、さっきからため息ばかりついてますが、篠原さんと喧嘩でもしたんですか?」
 青木はからかうようすもなく至って真面目である。葛西はさらにため息をつき頭を抱えた。
「喧嘩はしてないよ。だけど、僕は馬鹿だ。お調子者の大馬鹿野郎だよ」
「ひょっとしてですけど、……篠原さんに告白とかしました?」
 それを聞いて、葛西は頭から手を放し、顔をそっと青木に向けると言った。
「どうしてそれを……?」
「バレバレです。で、断られたんですね?」
 葛西は無言でうなづいた。
「葛西さんのことだから、直球で言ったんでしょう?」
「……そうみたい」
「そうみたいって……」青木は苦笑しながら言った。「よかったら、僕に相談してくださいよ。その件については僕の方が先輩ですから」
「……うん」
「で、篠原さんはなんて?」
「『急に妙なことを言い出すな馬鹿。年上をからかうんじゃない馬鹿。帰れ馬鹿』って……」
「(三回も馬鹿っていわれてる)……で?」
「言い訳する間もなく追い出された」
「でしょうね」
「で、玄関ドアを叩きながら『由利子さん、もう一度話を』って言ったら、『うるさい馬鹿、夜に騒ぐな馬鹿。近所迷惑だ馬鹿。さっさと帰れ馬鹿』って……」
「(馬鹿追加四回)……でしょうね」
「馬鹿って七回もいわれた」
「(数えてたんだ)なんか、篠原さんらしくて微笑ましいですね」
「はあ? どこが?」
「(めっちゃ照れてるのわからないかなあ)玉砕覚悟でもう一度言ってみたらどうですか?」
「すでに玉砕してるし、そんな勇気残ってない。はあ、こんなことなら素直にお茶飲んで帰ればよかった」
「お茶?」
「うん、上がってお茶でも飲んで行かないかっていわれて……」
「めちゃめちゃ信用されてるじゃないですか」
「うん、それだけに、馬鹿なことを言っちゃった感がすごくて」
 そう言うと、葛西はまた大きなため息をついた。青木は葛西を慰めるように言った。
「まだ望みはあると思いますよ」
「そう……かなあ」
 その時、無線が入った。
「S区のドーソン××町店前で、薬物中毒と思われる男が暴れているという通報在り……」
 それを聞きながら葛西の顔が警察官のそれになった。
「この話は後だ。現場に急ぐぞ」
「了解!」
 青木も笑みが消え、真剣な表情でハンドルを握りかえした。
「A大とは逆方向なので、Uターンします」
 そう言うと、青木は近くに見えたファミレスの駐車場に入り、向きを変えるとそのまま駐車場を後にした。通行人が数人胡散臭そうな表情でそれを見送った。

 

|

2.急転 (2)フォーチュネイトエラー

 葛西たちが現場に急行すると、警察からはまだ誰も来ていなかった。コンビニを遠巻きにして野次馬の群れが出来始めている。
 件の男はコンビニのドアやFIX窓を何かわめきながら叩いて回り、時折野次馬に威嚇のようなしぐさを繰り返している。
「やった! 一番乗りですよ」
「あのね、こういうの一番ヤバイ事件(やつ)だろ。さて、駐車場内は入れそうにないなあ」
 そう言いながら、葛西は近くの路肩に車を止めた。青木は無線で受けた情報を改めて葛西に言った。
「同居人がいきなり暴れ出して、身の危険を感じた女性が近くのコンビニに逃げ込んできて、男が追って来るのを確認した店員が、慌ててドアをロックしたということですが……」
「薬物中毒(やくちゅう)なのは間違いなさそうだけど、『ルビー』の中毒とは違う気がする……」
 その時、ドアを乱暴に叩く音がした。店内を伺おうと目を凝らすと、ドアを店員や客の男性たちが必死で抑えている。
「ヤバい!」
  葛西はそう言うと、急いで車から飛び出しコンビニに向かって駆け出した。その後を追いながら青木が言った。
「あっ、葛西さん! 僕たち丸腰だし、防刃チョッキも着てません!」
「だからって、このままだとドアが破られて、中の人たちが危険に曝されてしまうよ」
 葛西はその足を緩めずに犯人の方にまっすぐ向かって行った。
「警察です! 少し落ち着きましょう」
 葛西は五メートルほど男に近づくと立ち止まってから言った。男は興奮のあまり葛西の接近に気が付かなかったらしく驚いて振り向き固まった。葛西は青木を野次馬整理に行かせ、男を落ち着かせようと出来るだけ穏やかに声をかけた。
「どうされたんですか? 話なら僕がお聞きしますよ」 
 男は葛西が厳つい警察官ではなく中肉中背のリーマン風な優男だったので、少し拍子抜けした様子だった。警察と名乗るものの、屈強さは感じられない。少し安心したのか、息を荒げたまま男が大声で言った。
「この中にいる女と話をさせてくれ。あいつ、いつの間にか間男を作ってやがったんだ」
「お店の中に女性がいるんですね。奥さんですか?」
「結婚はしていない。けど、俺の女なんだ。頼む、刑事さん、あいつを連れて来てくれたら大人しく話をするから……」
 すると、コンビニ内から女の金切り声がした。
「ふざけんな! あんた、あんたこそ……」
 女は言いかけたが、店員らしき女性に口を押さえられて店の奥に連れていかれてしまった。
「てめえ、やっぱりここに居やがったな。さっさと出てこい!」
 その後、男は再び興奮してドアを激しく叩きだした。
「落ち着いてください。そんな状態だと、彼女さんだって怖がってでてきませんよ。さあ、落ち着いて、僕に任せて……」
 その時、少し遅れてパトカーが数台到着した。そのサイレンの音がトリガーになったのか、男の表情が変わり目が座った。突如、男は奇声を上げて野次馬の方に向かって行こうとした。パトカー内から状況を把握した警察官たちが一斉に飛び出してきたが、パニックを起こした野次馬に阻まれてしまい、群衆を抑えるために手を取られて葛西たちの加勢に向かうのが遅れた。男は奇声をあげ続けていたが、その中で「化物共が」ということが聞き取れ、葛西は血の気が引くのがわかった。禁断症状で群衆が化物に見えているのだろう。このままでは大惨事になりかねかねない。葛西はとっさに男の足にタックルをした。
「は、離せぇ! お、お前も化物だったのか!」
「葛西さん、刃物ッ、こいつ刃物持ってます」
 青木が悲鳴に近い声で叫んでいた。葛西がそれに反応して顔を上げると、刃物らしき光るものを振り上げようとする男と、走って来る青木の姿が見えた。

 由利子が息抜きにコーヒーを淹れていると、紗弥の携帯(スマートフォン)に電話が入った。紗弥は要件を聴きながらなにやら焦った様子で応対している。由利子が(何かあったのかな?)と思ったところで、紗弥が珍しく慌てた様子でやってきた
「葛西さんと青木さんが、職務中に刺されたそうです」
「えっ?」
 由利子は驚いてカップを落としそうになって、あわてて態勢を整えた。
「たった今、県警にいる教授から電話が入りました。急いで病院に行きましょう。教授も直接向かうそうです」
「え? なんで? そんなこと……。容体は?」
「教授も焦っておられて、搬送先を告げると直ぐに電話を切ってしまって……」
「わかった。早く行こう!」
 由利子はすぐに立ち上がってロッカーに走った。

 病院に向かう車の助手席で、由利子は黙ったまま両手を膝の上で固く組んだままじっとしていた。目は組んだ手をじっと見つめている。紗弥は車を運転運転しながら時々由利子の様子に目をやっていたが、我慢出来ずに声をかけた。
「大丈夫ですわ。葛西さん、きっと……。大丈夫に決まってますわ」
 そう言う紗弥の顔もいつもより白く緊張しているようだった。
 搬送先の病院に駆けつけた二人は、受付で入院患者の名を告げ病室に向かった。幸い彼女らには見舞いの許可が出ていたらしく、待たされることはなかった。それが逆に容体が良くないのではないかという不安を掻き立て、エレベーターのボタンを押すのももどかしく指定の病棟のフロアについた。そこでは、看護師たちが気忙しく駆け回っていた。由利子が紗弥を見ると、紗弥が不安そうな表情で見返してきた。自分も同じ表情をしているのだろう。表記に従って葛西たちのいる病室に向かい、前に着くとややためらっていると、すれ違った看護師が目を伏せて会釈した。ふたりはまた不安そうに顔を見合わせると、意を決して病室のドアをノックして言った。
「篠原です。紗弥さんも一緒です」
 すると中から『どうぞ』という青木のくぐもった声がした。由利子はそっとドアを開けた。そこは二人部屋らしくベッドが二台あり、ベッドに横たわる葛西と、その横で病衣を着て椅子に座りうなだれたような青木の姿があった。葛西の頭には包帯が撒かれていた。

 その頃、富田林はドラッグ男、目代(めしろ)圭一と同居しているという被害者の女性西山妃都美(ひとみ)から事情を聴いていた。男の所有物から『ルビー』らしきものが少量見つかったからだ。ジッパー付きビニールの子袋にはわずか二グラムほどの赤い結晶がはいっていた。二グラムとはいえ、使用したら大変な事態を引き起こしかねない。
 妃都美はそれを使っていないときっぱりと言い切った。
 そもそも体質的にドラッグ類を受け付けず、同居し始めてからもそのような気配はなかったと言った。普段の圭一は爽やか系の好男子で、職業も営業職で真面目だと評判の男だったという。ところがある時期から営業成績が落ち始めた。苦悩と焦燥の中、大学時代の仲間から何の気なしにももらったハーブ(危険ドラッグ)がきっかけでどんどんエスカレートして行った。妃都美が気づいた時には常習化しており、会社も休みがちになってある日相談もなく辞めてしまった。それでも彼女は元の彼に戻って欲しい一心で何とかドラッグをやめさせようとしたが、圭一の方は彼女にもドラッグ使用を勧め始めた。妃都美は圭一に否定的な彼女に対して、間男がいると妄想し始めたのがこのころからだと言った。
 ある日、騙し打ちで『ハーブ』入りの紅茶の飲まされ、二日間ねこんだという。身の危険を感じた妃都美は別れることを決め、圭一に今日それを告げた。すると圭一は赤い結晶を持ち出して来て妃都美に使えと強要してきた。知り合いからお試しでもらったから、一緒にキメよう。君を俺からは逃げられなくしてやるよと。
 恐ろしくなった妃都美は隙を見て逃げ、近所のコンビニに助けを求めた。

 その後はみなさんご存知の通りである。

「その知り合いって、誰か心当たりはありませんか?」
 富田林が訊くと、妃都美は少し考えてから言った。
「赤いドラッグと関係あるかはわかりませんが、最近目代の電話での会話に『マキさん』という名前が頻繁にでていたように思えます」
「マキ? 男友達ですか?」
「おそらく女性です。その名前を聞くようになってから、あの……たまに朝帰りしてくることもありましたし」
「マキという女性ですか」
 そう言うと、富田林はしばらく黙り込んだ。
(葛西の報告書にそういう名前があったな。マキ……、マキ……、真樹村? まさか、あのKIWAMIとかいう……)
「刑事さん?」
 富田林は妃都美の声で我に返った。
「ああ、申し訳ない。つい考え事をしてしまいまして」
「マキとかいう人、やっぱり危ない人だったんですか?」
「いえ、まだなんとも言えません。でも、西山さんが目代から赤いドラッグを試される前に逃げきれて良かったです、本当に。万一これからそういうことがあっても、絶対に拒否してください。ドラッグはダメです! 絶対!!」
 そう言うと、富田林はいきなり立ち上がり「ご協力ありがとうございました」と言いながら一礼し、その場を去った。残された妃都美は、豆鉄砲喰らった鳩のような顔をして座っていた。 

 由利子はふらつきながら病室に入った。心臓がバクバクしていた。紗弥は相変わらずポーカーフェイスだが、目に不安の色は隠せなかった。
 青木はさっと立ち上がると言った。
「篠原さん、紗弥さん、ご心配をおかけしました」
「青木さん、ご無事だったんですね。で、あの、葛西君は……」
「ああ」青木は笑顔で答えた。「葛西さん、昨日徹夜して調べ物をしていたらしくて、爆睡しちゃってて……」
「はあ、寝てるだけ……」
 いきなり緊張が解けて、由利子はへたへたと座り込んでしまった。紗弥がすぐに由利子を支え、青木が慌てて自分の座っていた椅子を持ってきて由利子に座らせた。そして包帯を巻いた自分の右手を見せながら言った。
「葛西さんも僕も、ちょっと切り傷を負いましたが、出血量にしては大した傷じゃなくて数針縫う程度で済みました。特に葛西さんはナイフをよけた時にナイフが頭をかすって、頭って怪我のわりに出血が多いんでビビりましたが」
「頭を数針……。てことは避けられなかったら……」
「大丈夫です。僕らは訓練してるんで、油断しなきゃそうそう刺されたりしませんから」
 青木は由利子を心配させないように明るく言った。
「なんにしろ、良かった……」
 と言いながら、由利子が安どのため息をつくと、紗弥が同意して言った。
「本当に……」
 そういう紗弥の顔は、先ほどより和らいで見えた。
「看護師さんたちが慌ただしくしてたんで、ひょっとしたらって」
 由利子が少し照れ臭そうに言うと、青木が納得して答えた。
「ああ、この階に入院してたお爺ちゃんが危なかったみたいですよ。だいぶ持ち直したみたいですが」
「そっか。なんだ勘違い」
「でも、そのおじい様、持ち直されてよかったですわ」
 周囲の話声で葛西が目を覚ましたらしく、布団がもぞもぞと動いた。包帯の頭が左右に動き葛西がむくりと起き上がった。
「なんか良く寝た……」
 葛西は呑気に言うと、欠伸をした。その後、由利子たちに気づいて言った。
「あ、由利ちゃん、紗弥さん。わざわざすみません。僕はこの通り大丈夫ですから……」
 葛西ののほほんとした様子に、由利子は今までの不安と心配の分だんだん腹が立ってきて、椅子からザッと立ち上がって言った。
「馬鹿ッ! 誰が由利ちゃんだッ! 本当に心配したんだぞ。ジュリーに続いて葛西君まで失ったらどうしようって! 気を付けてよ、本当に!」
 気が付くと、目からぽろぽろと涙がこぼれていた。由利子はそのまますとんと椅子に座ると両膝を掴みそのまま涙をこぼし続けた。思いがけず由利子が泣き出したので、葛西は焦って謝った。
「由利子さん、ごめん。心配かけて。本当にごめん」
 二人の様子に青木は少し困っていたが、紗弥がそっと立ち上がってドアに向かったので、自分も上着をはおってその後に続いた。
 病室から出ると、そこにギルフォードが立っていた。実は由利子たちより先に来ていたのだが、葛西たちの怪我が深刻ではないと聞き、対策部と感対センターに連絡していたとのことだった。戻ってきて病室に入ろうとしたら由利子が泣き出したので、入ろうか迷っていたという。そう説明した後、ギルフォードは紗弥の肩をポンと叩いて言った。
「あの二人、いつの間にかいい感じになっちゃいましたねえ」
「ええ、そうですわね」
 紗弥は相変わらずつんとした表情で答えた。ギルフォードはそんな紗弥の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「僕らは完敗ですね」
「え? 教授はともかく、わたくしはそんな……」
「ジュンはいい人ですから、みんなから好かれマス。そして、僕はジュンとユリコは良く似合ってると思いマス。ですから、僕はジュンをアキラメマス」
 それを聞いて紗弥はクスッと笑って言った。
「教授、日本語が退行してますわよ」
 ギルフォードは、紗弥の頭をもう一度ぽふっと優しく叩くと明るく言った。
「さて、お邪魔虫はお茶でもしばきにいきますか。病院内に可愛いカフェがありました。アオキさんもご一緒しませんか?」
「ええ、ええ、もちろん行きます」
 青木は彼等の会話について行けなくてぼうっと立っていたが、不意にお茶に誘われて、二つ返事で答えた。青木も病室の二人をしばらくそっとしておいてあげようと思っていたので、渡りに船のお誘いだった。

 しばらくして、由利子は涙をぬぐうとため息をついて言った。
「よく考えたら、そんな状態で身内でもない私たちが入れるわけないよね」
「はあ、なんかすみません。僕も薬物中毒を甘く見てたかもしれません。あんなにいきなり豹変するなんて。実は、青木君が駆けつけてくれなかったら危なかったかもしれません」
「ほんとに気を付けてよ」
 由利子が葛西の顔を不安そうに見ながら言った。葛西はそれを受けて申し訳なさそうに言った。
「僕は警察官です。志をもってこの職業に就きました。なので、これからも危ない目に遭うかもしれません。なのに昨日、あんなことを言って混乱てさせすみません。なんか浮かれてたみたいです」
 由利子は無言で下を向いていた。しばらく沈黙が続いたが、それを破ったのは由利子だった。
「葛西君、私ね……」
 そう言うと、大きくため息をついた。
「昨日、本当は嬉しかったんだ。葛西君みたいなまっすぐな人に言われて。若いころだったら喜んで受けたと思うよ。でもさ」
 由利子はショートカットの髪を右手で何度かかき上げながら、少し辛そうに言った。
「この歳になるまで色々経験してさ、そういうことは軽々しく受けられなくなったんだ」
「僕は決して軽い気持ち言ったわけじゃないです。ずっと考えてたんです。多美さんに乗せられたからじゃなくて……、いや、若干それはあったかもしれませんが、初めてお会いした時に、思ったんです。なんかこう……この人いいなって……あー、えっと、あの、うまく言えませんが……」
「うん、葛西君に下心とか全然ないってわかってるよ。真摯に言ってくれたんだって。だけどさ……」
「年の差ですか? たしかに僕は7歳下です。頼りないってことは判ります」
「葛西君は、もう頼りなくないよ。私から見ても、立派な警察官だよ。でもさ……」
「そうですよね。僕、幼い頃、母が父を笑顔で送り出した後、いつも一瞬だけ不安そうな顔をしていたのを見てました。父が殉職した時の母の様子は、今もはっきりと覚えています。それを由利子さんに負わせるのは……」
「考える時間をくれる?」
 葛西の話している途中でいきなり由利子が言った。
「え?」
「そしたら答えを出すから。真摯に言ってくれた葛西君には、真摯に答えんとね」
 それを聞いた葛西の表情がパッと明るくなった。
「待ちます。待ちますよ、もちろん!」
「ありがとう。取りあえず軽症といっても頭を怪我したんだから、今日は安静にしてなきゃダメだよ」
 由利子が言った先から、葛西は嬉しさに万歳しようとして右手が頭の傷に当たってしまい、痛たたたたと頭を押さえてベッドにつっぷした。
「わあ、葛西君大丈夫!?」
 と言いながら狼狽えた由利子がナースコールを押した。すぐに担当看護師が駆けつけ医師も後から駆けつけてきた。その後ろから、やはり心配で、お茶を早めに切り上げて帰って来たギルフォードたちが心配そうに顔を出した。
「大丈夫そうですね」
 ギルフォードは病室を覗くと、肩をすくめて言った。扉の向こうには、葛西と由利子が仲良く医師と看護師に謝っている姿が見えた。

 

 

 

|

2.急転 (3)星空のピチカート

20XX年10月2日(水  

 由利子がPCに向かってせっせと作業をしていると、ギルフォードが声をかけた。
「今日からジュンが仕事に復帰したそうですね。ユリコの送迎も復帰すると言って、さっそく今日迎えに来ると連絡してきました」
 しかし、由利子はそっけない口調で「そっか」と一言答えただけだった。
「それだけですか」
 ギルフォードは不思議な笑みを浮かべて言った。
「なんか、もう少し、こう」
「そーゆーところが日本人と感性がちがうんだよ。感動動画あるあるみたいな、例えば、指輪もらってきゃあ♡って抱き着くみたいな単純な話じゃないんだ」
「だって…イギリス人なんだもん、仕方ないじゃん……」
 その口調がいつもと違ってトーンダウンしていたので、由利子は彼なりに傷ついたのだろうと気が付いた。
「あ、ごめん。いつものアレクは日本人より日本人っぽいからさ」
「ポイ……」
「あー、言葉の綾だってば。いちいち傷つかないでよ」
「すみません、言葉のアヤの意味は……」
「そういうとこだよ!」
 由利子はそう言ったあと、カップをひっつかんでお茶を飲み干し、タン!と机に置くと、ギルフォードを無視して改めてパソコンに向かった。ギルフォードは肩をすくめると、紗弥に向かってこっそりと言った。
「怒られちゃいました」
「当然ですわ。唐変木は、余計な事おっしゃらないでくださいまし」
「トーヘンボク……。 僕が?」
「女心は複雑なんです」
 紗弥はそう言うと同じくギルフォードを無視してパソコンに向かった。ギルフォードは再び肩をすくめると、軽くため息をついて自分の机に戻った。

 そのころ美葉は、結城と共にK市内の、ある施設に移っていた。
 結城が言うには、そこは碧珠善心教会という宗教法人が運営するマンションで、万全なセキュリティに守られており、自分たちが居る上層階はシェルターの役目を担っているという。そこは、DV被害の女性やその連れ子のみならず、保証人になったために借金取りに追われたり無実の罪で警察に負われたりなどの訳アリの人たちを男女問わず保護・収容しているという。結城は美葉に、その宗教がどれだけ素晴らしいかを目を輝かせて説明した。美羽はもちろん結城も知らないことだが、ここは真樹村極美が一時期身を寄せていたところである。
 美葉は、結城が新興宗教というものにそこまで傾倒しているとは思ってもいなかったので、内心驚いた。というかかなり引いていた。しかも、その口調からすると、かなり中心に近い存在のようだ。しかし、美葉はそれをおくびにも出さず、静かに頷きながらそれを聴いていた。
 しばらくの間それは続いたが、最後に結城は
「もう大丈夫だよ、美葉。僕らの逃避行は終わったんだ。ここは教団に直結する施設だ。僕はようやく長兄様の御傍にもどれたんだよ。長かった……」
 と、晴れやかな表情で言った。
「じゃあ、これでもう逃げ回らなくていいのね」
 美葉はそう言うと涙ぐんで見せた。その後トイレに駆け込み本気で泣いた。何も出来なかった自分の不甲斐なさに悔しくて悔しくて……。
 おそらくこのテロを画策したのはこの教団だろう。結局、自分は結城を説得も逮捕に導くことも出来ず、おめおめとここにきてしまった。敵中に陥ってしまった今、何をすべきか目的を失ってしまった。もう逃げることが出来ないだろうと絶望していた。しかし、美葉には一筋の希望があった。公安が動いてくれている、あの、武邑という公安警察官。彼がきっと私の居場所を見つけてくれる。……美葉はそう気を取り直して顔を洗い、自分を励ますように両手で頬を二回叩いた。
 美葉は、その武邑という童顔の小柄な男が、結城より数倍危険な男だということを知らない。

 由利子が葛西のプロポーズともいえる言動に心揺れ、美葉がどん底から希望を見出していたその間にも、ルビーことVシードの汚染はじわじわと進んでいた。
 それはネット経由で進むため汚染はF県のみならず、全国規模でゆっくりと広がっていく。葛西の所属するSV対策班は、本来のウイルステロの捜査よりVシードの対応に追われていた。
 復帰初日の葛西は、デスクワークを言い付かっていたため自分の席で作業をしていた。資料のまとめに集中していると、背後で聞き覚えのある声がした。
「怪我をしたそうだが、大丈夫かね?」
 驚いて振り向くと九木が立っていた。葛西はすぐさま立ち上がると言った。
「九木警部補! こちらに来ておられたのですか?」
「ああ、ルビーとかいう厄介な『宝石』のためにな。まあ、元気そうで安心したよ」
「切られた怪我自体は命に係わるものじゃなかったですが、一応頭も打ってるので、念のため検査入院させられまして。でも、もう大丈夫です。明日からは現場でバリバリがんばります」
「そうか。だが、まだ頭の包帯は取れないんだろう?」
「そこは大丈夫です。昔親父が被ってた帽子を借りてきました」
「そうか、親父さんの帽子をな」
「昨日、久々に実家に帰りまして、その時帽子も出してもらったんです。怪我を隠すために一時的に被るので、新しく買うのはもったいないかなと」
「堅実だな」
「で、被って見せたら母から泣かれました」
「ほう」
「親父にそっくりだって」
「そうか、君の父親は……。くれぐれも親不孝はするなよ」
「はい」
 と、葛西は笑顔で答えた。

 ギルフォードに伝えた通り、夕方葛西がギル研まで由利子を迎えに来た。珍しく被ったグレーのキャスケットに皆の視線が集中した。葛西は少し照れた様子で教授室に入ると力強く言った。
「由利子さん、お迎えにあがりました!」
 その声に三人が立ち上がった。
「あ、葛西君、もう大丈夫?」
 真っ先に声をかけたのはもちろん由利子だった。紗弥は笑顔で会釈をすると、コーヒーを淹れに行った。ギルフォードは葛西の方に歩み寄り、軽くハグをしてから言った。
「元気そうで何よりです。帽子、似合ってますよ」
「ありがとうございます。まだ包帯が取れないので、帽子を被ることにしたんですよ」
 葛西は、帽子のつばを軽く持って少し傾けながらにこやかに答えた。ここ数ヶ月でギルフォードのハグには慣れたようだった。照れ屋の由利子は未だに「きゃあ」とパッチンセットで返しているが。
 葛西はコーヒーを飲みながら、九木がこちらに来ていることを皆に伝えた。葛西の前のソファに座ったギルフォードが、考え深げに右手を顎に宛てると言った。
警視庁まで動き出したということは、首都圏も今がマズい状態だと危惧しているのでしょうか?」
「九木警部補は、ルビーのせいだと言っておりました。本意はどうかわかりませんが」
「長沼間さんたちがどれだけ情報を持っているのか、どう報告しているか気になります」
「そうですね。残念ながらあちらの情報は僕らには入ってきませんし、そういえば、スポーツクラブの一件以来、会ってません」
「そういえば、僕も最近会ってないですね。あの時も僕はすぐに帰って話をしてませんし。だいたい週一は情報仕入れ方々茶々入れに来るのに。ねえ、ユリコ」
 ギルフォードはいきなり由利子に話を振ってきた。葛西の隣に座らされた由利子が居心地悪そうに答えた。
「そ、そうですね」
「あの時のビンタがこたえたのかもしれませんが」
「う、うるさい! 変なことを思い出させるな、馬鹿!!」
  色々思い出した由利子が、顔を赤くして言った。

 帰りの車の中は、気まずい空気が漂っていた。葛西は「スポーツクラブの一件」などと言ってしまったことを後悔していた。ほとんど会話のないまま、ラジオでDJが陽気にしゃべる声が響いた。途中、なつかしコーナーのリクエストで『恋人試験』などがかかって最高に気まずくなったところで由利子のマンションまでたどり着いた。
 車を降りると日はすっかり落ち、ブルーモーメント名残の濃紺の空には星がまたたき始めていた。街並みのシルエットにも灯がともり、その後ろを微かにビーナスベルトが照らしている。
 二人は駐車場に立ったまましばし空を見上げた。
「綺麗だねえ……」
 由利子がそっとつぶやいた。
「そうですね」
 葛西も空を仰ぎながら言った。なぜか泣きたいほど美しいと思った。そしてふと思った。
(守らなきゃ。このひとを……)

 そのまま由利子を部屋の前まで送り室内確認のルーティン終了後、じゃれる猫のはるさめをそっと撫でて帰ろうとする葛西を由利子が引き留めた。
「葛西君、せっかくだからお茶でも飲んでかない?」
「いいんですか?」
 葛西は戸惑い気味に言った。
「うん。このままじゃ気まずいだけだから、色々話そ?」
 由利子はそう言いながらドアを開けたまま、葛西を招き入れた。

 キッチンのテーブルに座って、少し緊張気味の葛西が言った。
「なんか、あの結城が空き巣に入った事件以来です。あの時は、富田林さんや増岡さんもいて……」
「そうやね。あの時は色々あり過ぎて、お茶どころじゃなかったもんね。リクエストは? 紅茶でいい?」
「は、はい」
「ミルクティー? それともストレート?」
「あ、えっと」
「私はミルクティーにするけど?」
「あ、じゃあ僕もそれで」
「砂糖はどうする?」
「あ、入れなくても大丈夫です」
「オッケー。ちょっと待ってて。あ、そこから部屋のテレビが見れるから見ててね」
 というと、由利子は部屋の戸を開けてテレビをつけ、リモコンを渡した。
「これで、好きなチャンネルに合わせていいよ」
「すみません。あ、チャンネルはこのままいいみたいです」
 見ると、ちょうど夕方7時のニュースが始まったばかりだった。

 数分後、由利子がミルクティーを運んできた。
「紗弥さんみたいにうまく淹れられないけど……。どうぞ」
「ありがとうございます」
 葛西は受け取ると、由利子が座るのを待って、紅茶を口に運んだ。ふわりとミルクの良い香りがした。
「美味しいです。ほっとします」
「ホットだけに」
 由利子が思いがけずオヤジギャグをかましたので、葛西はどう対応すべきかわからなくなって、愛想笑いで紅茶をまた一口飲んだ。
 その後、また気まずい空気が流れ、葛西はお茶請けのクッキーを立て続けに三枚食べてしまった。
「このクッキーも美味しいです」
「駅前のケーキ屋さんで買ったんだよ。昔は割と自分でも焼いてたんだけど」
「お菓子作れるんですね。僕も今度挑戦してみようかな?」
(そこは『由利子さんが焼いたクッキーも食べたい』だろうが)
 由利子は、そう思ったところで、焦って自分の考えを打ち消した。
(いかん、完全にオヤジの発想になっとる)
 由利子はひそかに落ち込んだ。
 その後、またも沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは由利子だった。
「おなかすいたよね。クッキー無くなっちゃったね。出前でも取ろうか?」
「すっ、すみません。なんか間が持たなくて、つい。出前はまだ大丈夫です。いつも晩飯は九時過ぎるんで」
「そう。じゃ、そろそろ本題に入らないとね。その前に、飲むもの無くなっちゃったんで、持ってくるよ。緑茶でいい? ティーバッグのだけど結構いけるよ」
「ありがとうございます!」
 と、葛西が妙なテンションで答えた。その間、暇なのでテレビを見ていると、今日放送される番組のCMが流れた。

 ~♪(センセーショナルなジングルとBGM)『討論バラエティ! ディスカッション0(ゼロ)』! 本日のテーマは『人を救うとは何か?』
 若い宗教指導者集合!! 熱い討論を戦わせるぞ!! 今回もタブーコンプラガン無視で放送!! お楽しみに!!!

 煽りナレーションと共に、宗派と名前がセンセーショナルな自体で書かれたテロップと共に出場者の顔が次々と映し出される。葛西は妙な既視感をもってそれを見ていた。そこに由利子がお茶をもって戻ってきた。
「ごめん、来客用のお湯のみなんてなくて。ドーソン景品のマグカップだけど」
「お構いなくです。リラッ○マ、可愛いくて好きです」
「リ○ックマはアレクも気に入ったみたいで。特にトリさんが」
「なんかその子が一番人気だとか聞きますが、アレクのお眼鏡にかなうとは意外ですね」
「それが傑作なんだよ」由利子はクスクス笑いながら言った。「この前ラブホ避難したじゃん。そこがあろうことかリラック○部屋で……」
 そこまで言って由利子は葛西の顔が引きつっていることに気づいた。
「ああ、ごめん。デリカシーなかったよ。でも、私とアレクなんて男同士みたいなもんだし、アレクだってソファに寝たし、ほんとに何にもなくて……」
「由利子さんがあっけらかんと話すので、そういう関係にならなかったって信じます。でも、まだその時の話は聞きたくなくって……」
「だから、ニブチンでごめんって」
 その後、また沈黙。
(ほんとにもう、何口走っちゃったんだよ、私。今から話すことがことだけに、失言もいいところだ)
 由利子はうっかりしたことを言ってしまったことを後悔した。

 五分以上経っただろうか。まず沈黙を破ったのは由利子だった。
「時間ばかり経ってもしゃあないし、いきなり本題に入るね」
「はい。お願いします」
 そう言うと葛西は姿勢を正した。
「あのさ……」
 由利子は少し口籠ると言った。
「えっと……率直に言うと、あれ、ホントは嬉しかったんだ」
「え?」
「えって言うな」
「すみません」
「嬉しかったけど、どう反応していいかわからなかった。なので、馬鹿って七回も言ってしまってごめん」
「(数えてたんだ)いいんです。僕が調子に乗って余計な事を口走ったからで」
「でもさ、嬉しかったとしても、『嬉しい、ありがとう』って率直に受けることできないやろ?」
「そんなことないです」
「あるよ。だって私は三十七歳のアラフォーだよ。片や、葛西君は三十歳になったばかりじゃん。葛西君のお母さんだって反対するに決まってるし」
「そんなのわかりませんよ。それに僕たちはいい大人ですよ。周囲の反対に左右されることもないでしょう」
「それに不安なのは年齢だけじゃない……」
 そう言うと由利子は辛そうに下を向き、また口籠った。
「由利子さん?」
「あのね……、あの、さ……」
 由利子は顔を上げるとやや上を向いて目をぎゅっと閉じた。何かに葛藤しているのだと察し、葛西は由利子が話すのをじっと待った。
 数分後、由利子が意を決したように口を開いた。
「あのさ、今から少し生臭い話をするよ」
「構いません。どんなことでも受け入れる覚悟です」
 葛西はまっすぐ由利子を見て言った。
「私……さ、昔、東京に住んでいる時に、半同棲状態の彼氏がいたんだ」
「ぼ、僕だって、大人の関係になった彼女いました!」
「真面目か?」
「だから、そんなの気にしなくても……」
「そうじゃない。まあ、そういう関係だったし、それに、そいつ、その、……避妊……具……つけたがらない、アレクが激怒しそうなやつでさ。まあ、いろいろあってさ、不安になって、内緒で婦人科に行って診てもらったんだけど、結果は予想以上に残酷だった」
 由利子はそこまで言うと、お茶を一口飲んで話を中断した。葛西は黙って話の再開を待った。膝に組んだ両掌に無意識に力が入る。由利子はもう一度お茶を飲むと話をつづけた。
「妊娠の心配はない。でも、これからも妊娠は望めないかもしれないって、とっても言い難そうに言われたよ」
 由利子は淡々と、しかし、皮肉な笑みを浮かべて言った。葛西は何と言っていいかわからず、大人しく話を聞くことにした。
「で、もっと最悪なのはその後でさ、そのクソ彼氏、二股してて、そっちの方が妊娠したらしくて、お決まりのセリフで別れをきり出されてさ。もう最悪。さすがに立ち直れなくて、奴が結婚する前に会社を辞めてリターンしたんだ。全部忘れて新たな人生を歩もうって。その時、美葉が親身になって助けてくれたので、だいぶ気が紛れたけど」
「そうだったんですか。すみません、男の僕は何と言っていいか……」
「だからさ、体質的にも年齢的にも、子供を作るのは無理なんだ。だから、葛西君は、私なんか諦めてほしい。もっと若くていい娘(こ)を見つけなよ」
「いやです。僕は、由利子さんだから好きになったんです。由利子さんがいいんです」
「嬉しいこと言ってくれるねえ。でも、今はそう思ってるかもしれないけど、きっと、後悔するよ」
「後悔なんかしません。子供は、姉に三人いますから、母に孫を見せなくても大丈夫です。それに、まだ可能性だってある。でもずっと二人で猫と暮らすのも悪くないって思うし、どうしても子供が欲しいなら、養子を迎えたっていいじゃないですか」
「いや、でも……」
「ひとりじゃ寂しかったら、もっとたくさん。いっそ世界中から……」
「いや、それ、私が過労死するし」
「すみません、調子に乗りました。でも、由利子さん、僕は由利子さんが本当に好きです。今の由利子さんが好きなんです。由利子さんは僕が嫌いですか? 僕を信じられませんか?」
「嫌いじゃないよ。それに、誰よりも信じるに値する人だとも思ってる」
「じゃあ、僕が警察官だから?」
「それはあると思う。不安要素が多いかな」
「やっぱり……」
「でもそれは覚悟の問題だと思ってる。葛西君のお母様だって、多美山さんの奥様だって、覚悟をもって結婚されたんだと思うし。ただね、葛西君とは知り合って半年もたってないし、結婚とか考えるには早いと思うんだ。それに、事件は一向に解決していないんだ。落ち着かないよ」
「そうですよね。すみません。勢いで変な事せまっちゃって。恥ずかしいです……」
 そう言うと、葛西は見てわかるほど赤い顔をしてうつむいてしまった。その様子があまりにもしょぼくれていたので、可哀そうになった由利子は、またもついフォローしてしまった。
「ほら、だからさ、ちゃんと付き合ってみないとわからないってことで……」
「そう! そうですよね!」
「今のは……」
 『言葉の綾』と言いかけて、由利子は何故か昼間のギルフォードの訂正が頭をよぎって言いよどんだ。
「結婚を前提としたお付き合い、まずそれからですよね!!」
「ちょ、ま……」
 由利子は言いかけたが、葛西の顔があまりにも嬉しそうなのでつい言ってしまったのだ。
「はあ、わかった。負けました。お付き合いしましょう。そのかわり、正式な答えはこの事件が片付いてから出すからね」
「はい。嬉しいです」
「その代わり、これがフラグにならないよう、ほんっとうに気を付けてよ。この前は本当にこっちの心臓が止まるかと思ったんだからね!!!」
「はい。絶対に由利子さんを悲しませるようなことはしません。でも、由利子さんの方も、まだ狙われている可能性が高いです。ですから、みんなの言うことをちゃんと聞いて……」
「わかった、わかった。逆に説教されちゃったよ」
 由利子は肩をすくめると、テレビの方に目をやった。いつの間にか時間が経って、『ディスカッション0』が始まっていた。数秒それを目にした由利子が葛西に言った。
「葛西君、これって」
「ええ、どこかで見たラインナップです」
 二人はその後、食い入るようにテレビの画面に見入ってしまった。

 

|