1.禍神(マガカミ) 【幕間】ウイルス・ジャーニー

【サイキウイルス発生地域】

 中央アフリカの風土病と思われたが、実は、中国奥地に生息していた未発見のウイルスである。

1.中国でのウイルス発生

 もともと中国奥地でひっそりと暮らす、固有種のサルを宿主とするウイルスだったが、急速に発展する中国の環境破壊のため宿主が絶滅寸前となり、生き残りをかけたウイルスが無差別に感染、偶然ヒトに感染することが出来た。しかし宿主でないヒトには強毒性を発揮し、少数民族が住む一部地域で感染爆発が起こった。

  中国政府は殺人ウイルスの発生を知っていたが、風評被害や経済への影響を恐れ、へき地をいいことにWHOへの報告を怠り、対策もろくに取らなかった。感染者の出た村落の住民を地域内の大型建物に全員隔離、放置した上で全滅を待ち、建物を爆破した後地中に埋めてしまった。

 感染者殲滅の村の近くを通りかかった季節労働者が、森の入り口でうずくまる子ザルを発見。経緯を知らない男は愛らしい子ザルを保護したが、子ザル連れでは仕事がもらえないためにペットショップに売ってしまう。子ザルはペットショップで元気を取り戻し、愛らしい姿で客の人気者に。そこを訪れた富裕層らしい紳士が高額で子ザルを買っていった。 

2.アフリカでの発生 

 2-1 アフリカへの上陸

 中央アフリカの某独裁国の貧しい村落で感染者発生。マラリアと診断されキニーネを処方されるも病状悪化のため死亡。慢性的な栄養失調で抵抗力の弱まっていた住民の間でたちまち流行した。政府はラッサ熱やエボラ等の殺人ウイルスと断定、クーデターに怯える独裁者はウイルスの拡散を恐れ、村を秘密裏に殲滅し、火を放つ。その暴挙で感染爆発は免れたがウイルス自体はアフリカの奥地で生き延びた。そこで変異を繰り返し、何度か小さい(主に集落での)流行を繰り返していた。 

  2-2 アフリカ大陸上陸の経緯について

  子ザルを買った紳士は、アフリカを拠点とする会社のCEOだった。彼は子ザルをたいそう可愛がりアフリカの自宅まで連れて行ったが、成長したサルは野生の本能に目覚め、使用人の隙を見て逃走してしまう。
 そのサルはウイルスを保有していたが、正当な宿主の中でウイルスは平和に暮らしていた。しかし、逃走中のサルがジャングルの中でチンパンジーに捕らえられ殺され食われたことから、宿主を失ったウイルスが狂暴化しチンパンジーの群れは全滅。その死体を近隣村人が食肉として持ち帰ったために、感染が広がった。 

 199X年、ついにアフリカの小国で感染爆発が起きてしまい、救援に向かったギルフォードたちや碧珠善心教会教祖親子も感染し倒れる。             

 救助に来た米軍にギルフォードと教祖の息子は米国に搬送され九死に一生を得る。しかし、ウイルスについてはその脅威的な性質に悪用を恐れた米軍により軍事機密とされ、新型のラッサウイルスと虚偽の発表をされた。

 その後秘密裏に研究されていたウイルスは、ワクチンの研究中に研究員が針刺し事故で感染したことから運命が急変する。件の研究員の妹、リョーコ・レーヴェンスクロフト(現・遥音涼子)が姉、ハルネを救いたいがためにウイルスを持ち出し同じウイルス学者である父のもとに身を隠したのだ。父のレーヴェンスクロフトは当時大学の関係でカナダに住んでいたからだ。リョーコはそこで密かに研究を続けていた。しかし、新種ウイルスについて公表したい誘惑にかられた父は、リョーコとの約束を破ってこっそり論文を発表してしまう。それによりリョーコは危険を感じてウイルス検体とともに姿を消し、父は論文の捏造を疑われて失脚した。
 その後、碧珠善心教会に援けを求めたリョーコ・レーヴェンスクロフトにより、 米軍によりコードネーム「タナトス」とつけられた、最悪のウイルスが教団に渡った。  
 そして、涼子の手によってさらに強力なウイルスに進化し、彼女の夫・結城俊により市中にばら撒かれることとなったのである。

 

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1.禍神(1)秋まつり(インターミッション)

 あれから2か月が過ぎた。

 H駅感染者自爆事件は、捜査の結果、古河勇(ふるかわいさみ)の単独犯とされた。
 このことはF県警SV対策班、ことに深くかかわっている葛西や相方をこの事件で失った富田林にとっては受け入れがたい結果となった。しかし、古河は園山看護師と同じ典型的宗教ジプシーであり、事件当時信仰していたと思われる大地母神正教やその前に傾倒していた碧珠善心教会、さらに捜査はそれ以前信仰していた宗教にまで及んだが爆破事件に関わる証拠が見つかることはなかった。さらに、彼が借りていた貸倉庫、スモールオフィスとしても使えるという窓のない小部屋タイプだが、そこから自爆に使われた爆弾のプロトタイプや材料さらに小型3Dプリンターなどが見つかり、もともと爆弾マニアだった古河が感染しヤケになったためにしでかした犯行と言うことに落ち着いた。ことに過去にSV感染者が2人出た大地母神正教に関しては徹底的に調べられたが、何分教祖の突然死によって教団は混乱を極めており、とても組織的テロ事件を画策できる状況ではないのは明白であった。その絶望感も古河の犯行の引き金とされたのだ。
 そうして、葛西たちの不満を他所に日本中を震撼とさせた感染者による自爆テロ事件はあっさりと幕を下ろした。SV感染者に対する、潜在的恐怖を遺しながら。

 しかし、不思議なことに、あのH駅自爆事件による感染者発生のあと、ぱったりと感染が途絶えた。
 今、感対センターにいるのは、発症後唯一生き延びた療養中の河部千夏のみで、SV感染症対策業務は縮小され通常診療の再開を検討されていた。SV合同対策室も縮小に向かい、警視庁から出向していた九木は8月の旧盆明けには東京に戻っていった。

 森の内はH駅爆破事件を阻止できなかった責任を問われ、8月初旬に知事を辞任、その後8月下旬に行われた知事選には森の内などが押した候補が敗れ、与党推薦の古賀耕太郎知事が誕生した。それにより、さらなるSV対策縮小が検討されていた。

20XX年9月14日(土)

 開催が危ぶまれていたH宮の9月の祭りは、SV感染が下火になったことから念のため感染対策を怠らないことを前提に開催されていた。由利子はギル研のメンバーと一緒にお参りするために夕方からH宮に来ていた。
 待ち合わせ場所の地下鉄H宮駅前で由利子が待っていると、階段からギルフォードと紗弥が、そしてその後を如月と女性研究生ふたりが上ってきた。由利子は彼等の姿を見つけると手を振って小走りに駆け寄った。
「わあ、みんなも浴衣着てきたんだね。如月クン以外は」
「僕、浴衣持ってませんよって。それに窮屈やし開(はだ)けるし」
「如月クンらしいね。わあ、紗弥さん、黒緋に曼殊沙華カッコイイ! 髪も珍しくアップにしちゃって似合ってるよ」
「由利子さんも濃藍に百合の花、とてもお似合いですわ」
「百合の花とかベタだと思ったけどね。春梅(チュンメイ)ちゃんの蘭の花も颯希(さつき)ちゃんのウサギ柄も可愛いねえ」
「浴衣、初めて着たから嬉しいです」
 春梅が少しはにかんだ笑顔で言った。
「紗弥さんが着付けしてくれたんだよ」
 と颯希が軽くターンしながら言った。
「へえ、紗弥さんすごい。私は髪切るついでに行きつけの美容院で着せてもらったんだ。アレクは秋山さんにもらった着物だね」
「はい」
 ギルフォードが笑顔で答えた。
「この前、補正してもらったんで、だいぶ良くなりました」
「もとの持ち主が大柄な方で良かったね。アレクも紗弥さんに着せてもらったの?」
「そりゃあ、僕が自分で着られるわけないじゃん」
「もともと教授には恥じらいがないので、見慣れてますから」
「確かに」
 百合子は今泉で緊急避難した時のことを思い出して納得した。

 その後、一行は参拝の列に合流し神社に向かって歩いた。
「けっこうな人混みだねえ」
 由利子が団扇で仰ぎながら言った。
「ウイルス騒ぎの影響で例年ほどではありませんが。普通に歩けますからネ。でも、みんなはぐれないように気を付けてくださいよ」
 と、ギルフォードがみんなに注意を促した。しばらく歩くと、由利子は反対側を歩く浴衣女子集団の先頭を歩く見覚えのある顔に気が付いた。黒地に牡丹柄の浴衣でなんとなくドスが効いている。
「早瀬隊長!」
 その声を聞くや否や、早瀬は電光石火で走り寄って由利子の肩をガッと掴んで言った。
「篠原さぁん、隊長って何のことかしらぁ?」
「わっ、すみません。早瀬さん、お久しぶりです」由利子はそう言うと、それから今度は小声で言った。「パトロールですか?」
「そうよ」
 早瀬も小声で答える。
「だから、邪魔しないでちょうだい」
「この浴衣軍団全員?」
「そうよ。これがF県警が誇る『乙姫隊』よ」
「はあ。ひょっとして中に火星人刑事(デカ)とかは」
「は? 何それ? いないわよ、そんなの」
「一人走って逃げましたが」
「トイレにでも行ったんでしょ。そうそう、葛西君もいるわよ」
「乙姫隊になんで葛西君が?」
「さっき、偶然会ったんで合流してもらったの。なんせみんな浴衣でしょ」
 よく見ると後ろの方で大柄な男性に隠れるようにして葛西が立っていた。浴衣ではなくラフなTシャツGパンにジャケットを着ている。
「葛西君、そんなところに隠れてないでいらっしゃいな。ついでに青山君も」
 早瀬は葛西とその連れを呼んだ。
「この子は葛西君のペアッ子の青木君よ。青木君、こちらはギルフォード研究室の皆さんよ。あの大きい人がギルフォード教授。まあ、わかると思うけど」
「はじめまして! 青木っす!」
 青木は大柄だが控えめそうな青年だ。ギルフォードを始め、ギル研の面々も会釈をしながら各々口々に挨拶を返した。由利子は感心して言った。
「へえ、葛西君も部下を持つようになったんだね」
「そりゃあ、もう、部長さんだからね」
 と、早瀬が腕組をしながら自慢そうに言うと、葛西が慌てて言った。
「ウチの’会社’では部長と言ってもそんな偉くない方(ほう)が多いですから。それに僕は……」
「馬鹿ね、認められての特進よ。もっと自信持ちなさい。そうそう、青木君。この人は篠原さんと言って葛西部長が……」
「余計なことを言わないでください!」
 葛西は赤くなりながら早瀬を止めた。
「あはは、まあ、いいわ。私たちはもう行くから、楽しんでね。葛西君たちはもう少しお話してていいわ。後から詰め所で会いましょう」
 そう言い残すと早瀬は後ろに控えていた女性警察官たちを従えて去っていった。
「却って目立ってますねぇ」
 それを見ながらギルフォードが言った。由利子をはじめ他の面子が心の中で(おまえもなー)と思ったのは言うまでもない。その時横の方で彼を呼ぶ声がした。
「あの、ギルフォード先生」
 声の方を見ると、青木が右手を差し出し笑顔でギルフォードの横に立っていた。
「お噂はかねてから伺っています。お会いできて光栄です。よろしくお願いいたします!」
「えっと、アオキさん、こちらこそよろしくです。とは言っても、近々顧問じゃなくなるからどこまで協力できるか……」
 ギルフォードは握手をしながら自嘲的に言った。
「え? そうなんですか?」
「そうなんだ、青木君」
 と、青木の横で葛西が言った。
「知事が変わったんで、まあ、色々と」
「正式発表はまだなんですけどね」
 と、ギルフォードが肩をすくめた。
「それって変だよね」由利子が憤慨気味に言った。「そりゃあ、最近ウイルス感染は収まっているけど、H駅自爆事件からたったの2か月だよ。テロの可能性を否定するのは早すぎだろ?」
「僕が必要でなくなったならそれでいいです。引き受けたのも、元々モリノウチ元知事から頼まれたからなので」
「悔しくないの? だって……」
「いいんですよ、ユリコ」
 ギルフォードは寂しそうな笑みを浮かべて言った。
「さあ、いつまでもこんなところに立ってちゃジャマです。そろそろお参りに行きましょうか」
 とギルフォードはさっさと歩き始めた。その後ろを紗弥とギル研の三人がついて行った。由利子はその後に続く前に葛西たちに向かって言った。
「だって。君たちはどうする?」
「僕たちも途中にある詰め所までご一緒します。行こう、青木君」 
「はい!」
 葛西ペアが由利子の後に続いた。

 少し歩くと葛西が由利子の横に並んで言った。
「アレクは本当にこれでいいと思っているのでしょうか?」
「タスクフォースから外されるってこと?」
「そうです。僕には信じられません。だって、ジュリーまで殺されてしまったんですよ。多美さんだってその犠牲になったんです。他にも増ぉ……」
 葛西がヒートアップしてきたので由利子が慌てて葛西の前に手を差し出して言った。
「ストップ! 声が大きくなってるよ」
「あ、すみません」葛西は右手で口を押えた。「でも、僕は、僕は…犯人たちを許せません」
 由利子は前を歩くギルフォードの様子を見ると、少し歩調を落として若干の間を取ると言った。
「君の憤りは判るよ。だけどね、アレクだってああ見えてかなり腹に据えかねているんだよ。せっかくジュリーのことを心の中に封印して新たにテロリストと対峙しようとしていた矢先に、森の内知事が失墜するなんて」
 由利子は落選した数日後に研究室に訪れた森の内の憔悴した様子を思い出して言った。

 その日はギル研で、森の内落選からこの先どうなるか誰とはなしに話していた時だった。研究室のドアをノックする音がして、紗弥が応対に出ると森の内が菓子折りを持って立っていた。
「こんにちは。知事の時にお世話になった方々のところへお礼に回っています。この度は私の……」
「森の内先生、そんなことはいいですから、どうぞ中にお入りになって」
 紗弥は森の内の言葉を遮って言うと、教授室に通し応接セットのソファに座らせると言った。
「すぐにとっておきのコーヒーを淹れてきますわね。由利子さんも教授室にいらして」
 紗弥が去ると、ギルフォードが自席から立ち上がり、森の内の向かいのソファに座った。森の内は立ち上がって礼をしようとしたが、ギルフォードはそれを止めて言った。
「堅苦しいことは言いっこなしにしましょう。正直、完敗です。正体不明のテロリストに」
「私も知事を継続して戦いを続行したいと思っていました。しかし、世論は逆風の嵐でした。本当に悔しいです」
 森の内は下を向き、両こぶしを膝の上で握って肩を震わせて言った。由利子は教授室に入ってよいものか迷っていたが、紗弥に呼ばれて急いで中に入ったところで森の内を見て、初めて見る彼の打ちひしがれた様子に胸がいっぱいになった。
 ドアの前に立っている由利子を見て森の内が言った。
「ああ、篠原さん。あなたにも多大な迷惑をかけてしまいました。今までのご協力には心から感謝しています」
「いえ、そんなことは。一番悔しいのは知事じゃありませんか」
「ああ、もう知事じゃないですよ。今は無職のただのおじさんです」
「あ、すみません、つい今までの癖で……」
 由利子は焦って三度ほど頭を下げてしまった。
「そんなところで一人水飲み鳥をしていないで、こっちに座って」
 ギルフォードは自分の横に座るように指図した。
「それで、これからのことですが」
 と、森の内が言いにくそうに切り出した。
「ご存知のように、新知事はウイルステロに懐疑的です。それで、タスクフォース縮小さらには解体を目指しウイルス対策のみに集中すると思われます。それに伴って、教授も顧問から外そうという動きが出ています」
「え? そんなッ!?」
 由利子は驚いて言ったが、ギルフォードは意外なほど冷静に答えた。
「まあ、そんなことだろうと予想していました。なので、ご心配なさらずに」
「そ、そうなんですか? パートナーさんの仇を打ちたいとかそういう……」
「パートナー? 誰のことですか?」
「えっ!?」
 森の内は驚いてまじまじとギルフォードの顔を見た。由利子はギルフォードの横でこっそり口元で両人差し指で罰点(×)を作って見せた。森の内は察したようで、すぐに続けて言った。
「私としても、民間人を守るために犠牲になった多美山刑事や増岡刑事、そして感染して亡くなった無辜の人々の無念に報いたいと思っていたのですが」
「モリノウチ元知事」
 ギルフォードはかつてないほどの真摯な表情で言った。
「憤りで無理をしてはダメです。いつか必ずあなたが正しかったことが証明されます。その時必ず知事に返り咲くことが、いえ、国政に打って出ることも出来るでしょう。今はじっと耐えてください。抜けないトンネルはありません」
「トンネル過ぎたらまたトンネルってこともありますけどね」
 森の内が返すとギルフォードは苦笑した。その後はもうその件には触れずに世間話に花が咲いた。
 その後、森の内は少し元気と自信を取り戻した様子で「ま、しばらくは庭の手入れや自伝の執筆に励むようにしますよ。妻に粗大ごみ扱いされないように」と冗談とも本気ともいえない言葉を残して帰って行った。
「よかった。いつものモリッチーだ」
 由利子は紗弥と一緒に森の内をエレベーター前まで見送りつぶやいた。その後、教授室に戻った由利子は、ソファに座ったままのギルフォードに気が付いた。うつむいた彼は繰り返しつぶやいていた。
Why did I try to forget him deeply, for what?...what...what...」
 由利子と紗弥はかける言葉もなく見守っていた。

「由利子さん、どうしたの?」
 葛西の声に由利子が我に返った。
「あ、ごめん、ちょっとね」
「ジュリーのこと封印して
いるってアレクが? どうして
「ああ、えっとつまり……」
 由利子は『生きるために』と言いかけて口ごもった。理解してもらうのは難しいと思ったからだ。
「これだけはわかってほしい、弔い合戦は忘れてないって。アレクももちろん私もね。ただ、今はどうしようもないってこと。悔しいけど」
 由利子は説明すると長くなりそうだし、理解してもらえる自信もないと思い、はぐらかして答えた。それに、事情が分かっていたとはいえ、森の内がジュリアスのことに触れた時、ギルフォードが「誰のことですか」と言ったことにいささかショックを受けてしまったせいもあるだろう。青木はまだ事情をよくわかっていないせいか、由利子たちの後を腑に落ちない表情で歩いていた。

 ギルフォード一行が拝殿に向かっているころ、もう一組SVテロ事件に縁のある者たちが拝殿にいた。めんたいテレビの美波といつもの凸凹コンビである。彼らは参拝を終えると、展示を見学しながら拝殿内を一周していた。
「ここの神様は厄除けと勝運の神様だからね。モリッチーは負けちゃったけど、私たちは負けないで頑張るよ!」
 美波は同僚二人にというより自分に対して言った。
 帰りの参道で美波は遠くからも目立つ集団を見つけた。ギルフォードたちである。
「み、みんな、おなかすいたろ? たこ焼きでも食べない?」
 美波は焦って言うと急いで近くの屋台に設置されたイートインに走った。二人はその後を追った。小倉が不思議に思いながらものんきに言った。
「僕は広島風お好み焼きが……」
「バカオグ!」
 赤間は小倉の頭をはたくと言った。
「どうしたの、ミナちゃん。さっきラーメン食べたばっかじゃない」
「いいんだ。たこ焼きが食べたいんだ」
「太るよ?」
「う……」
 そう言っている間にギルフォード御一行は美波たちのいる横を通り過ぎて行った。赤間はニヤリと笑うと言った。
「ははあ~ん、原因はあれか」
「うはぁ、相変わらず目立ってるなあ。ロー〇ンドとどっちが目立つか対決してほしい……」
「ちがうもん。たこ焼き食べたいだけだもん」
 美波は否定したが、団扇で顔を隠しながらチラ見して言ったので信憑性がない。赤間は少しあきれながら言った。
「何幼児化してんだよ。そういやこの前取材を試みて、けんもほろろに断られたもんなあ」
「ああそうだ。機嫌が悪かったのか、すごい目をして断られたっけ」
「うるさい。攻略法考えてもう一度挑戦するんだもん」 
「あの多美山リーグの中学生たちはギル教授と仲いいんだろ? 彼らに仲買を頼んだら?」
「あのな、オグ、それ言って怒られたの忘れたのかよ? 子供たちを巻き込むなってさ」
「もうそれはいいから。おじさん、たこ焼き3パックくださーい」
 美波は二人をいなすと、胡散臭そうな顔をしてこちらを見ていたたこ焼き屋台の主人に声をかけた。遠くで「アツいですね。ポニーテールにしていいですか?」「これ以上目立つのは止めてくださいまし」という会話が聞こえていた。

 そのころ、件の中学生たちは各自宅の部屋でSNSを使い明日祭りに行く相談で盛り上がっていた。

 碧珠善心教会のF支部は、いつものように信者たちがおだやかに過ごしていた。教主は天界の間で瞑想していたが、白スーツの女「黒岩伊都江」が静かに室内に入ってきた。彼女の入室に気付いて教主はゆっくりと振り返った。

 

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※乙姫隊・火星人刑事:重ねて書きますが、この話はフィクションです。

 

 

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1.禍神(2)パニック

 黒岩伊都江が言った。
「長兄さま、古賀知事がお見えになりました」
「そうですか」
 教主はゆるりと立ち上がり、伊都江に向かうとにっこりと笑って言った。
「時間通りですね。私の部屋にお通ししましたか?」
「はい。仰せのとおりに。月辺の方が対応していると思います」
「では行きましょうか」
 教主はゆっくりと歩きだし、伊都江がその後に続いた。

 教団支部の広い廊下を歩きながら教主が伊都江に聞いた。
「新たなお名前はいかがでしょうか」
「まるで生まれ変わったような気持ちですの。天雪 眞輝慧、この素敵な名前この2か月の間にすっかり慣れましたわ」
「お名前と白いスーツがお似合いですよ。いつもお美しい」
「身に余る光栄でございますっ」
 黒岩改め天雪はほおを紅潮させて言った。

「これはこれは、古賀新知事、よくいらっしゃいました。遅くなりましたがご就任おめでとうございます」
「畏れいります。こちらこそご挨拶が遅れまして……」
 教主に祝福され、古賀はやや恐縮して言った。
 ひとしきりの挨拶を終え、教主が微笑みながら言った。
「県下のウイルス騒ぎも沈静化して、とりあえずひと安心ですね」
「いや、私はあのウイルスの存在には懐疑的な立場ですので」
「そうでしたね。前知事の妄想からF県を取り返すというのが公約の一つでしたね」
「そうです」古賀は答えると息巻いてつづけた。
「そのせいでわが県の経済はかつてなく落ち込んでしまいました。あのタレント上がりの男が怪しい教授の口車に乗ったせいですよ」
「時に、知事。あなたはその騒ぎの間、こちらにはいらっしゃいませんでしたよね?」
「ええ、まあ」
 と、古賀は少しばつが悪そうに答えた。
「私は出身はこちらで政治基盤もこちらではありますが、ほとんど東京で暮らしていましたから」
「では、ウイルス騒ぎで大変な時のこちらの空気を肌で感じてはおられない」
「ええ、まあ」
「この機に、無所属の森の内氏から県政を現政権下に取り戻そうというのが本音だったのではありませんか?」
 教主はまっすぐに古賀の目を見ながら言った。腹を探られたような気がしたのか古賀は歯切れ悪く否定した。
「いえ、けっしてそういうわけでは……」
「もともとこの県は現政権が主流でしたから、そう考えることは悪いことではありませんよ」
「いえいえ、ですからそうではなく、本当に私はウイルス騒ぎでガタガタになった地元を立て直したくて……」
「あなたの地元愛を信じましょう。しかし、当事者でないならウイルスの存在を否定されるのは仕方ありませんし、実際F県下にもそういう意見があります。実際にウイルスも見つかっていません。しかし、私はその間縁があってこちらで多くの日々を過ごしましたが、そのひしひしとした恐怖感は私にも十分肌で感じました」
「はあ、そんなものでしょうか?」
「ですので、ウイルス対策班は無くすべきだとは思いませんし、ウイルスが存在しないと決めつけるのも得策ではないと思います」
「では、教主さまはこのウイルスは存在すると思っていらっしゃる」
「私は私のルートを使って色々調べましたが、一連の死亡事件はウイルスXを代入すると一番すっきりとした回答が得られるのは確かです」
「しかし、その存在についての確固たる証拠が……」
「ない証明はできませんよ」
「悪魔の証明ですか」
「ましてや見えない・臭いもしないものです。病原体の発見を待ってからでは遅すぎます」
「はあ」
「端的に言うと私は憂いております。あなたはギルフォード教授を顧問から外そうと画策していますね」
「それはそうでしょう! 彼が余計なことを言わなければ、ウイルス騒ぎになることもなかったのです。しかも、自分自身は表に出ず、責任も取らず、のうのうと教授を続けているではないですか」
「まあ、縁も所縁(ゆかり)もない私が弁護するのも変ですが、ウイルスの存在を最初に疑ったのは彼の恩師である勝山教授とお聞きしていますし、表に出てこれなくなったのは週刊誌による誹謗中傷記事のせいだったそうではないですか?」
「よくご存じで」
「我が教団の情報網を甘く見ないでいただきたいと思います」
「しかし、ウイルスの広がりとテロと結びつけるのはやりすぎではなかったですか? 証拠はいたずらメールのみだとお聞きしていますが」
「わかりました。あなたの言うことも一理あります。しかし、ウイルス対策班とギルフォード顧問は存続させてください。それでなければ危機管理能力なしと見なし、今後、わが教団はあなたやあなたの党の支持を考えなければなりますまい」
 それを聞いて、古賀はいきなり落ち着きを失って言った。
「それは困ります。今、わが党は残念ながら支持率が著しく落ちております。そんな折に御教団の支持を失うわけにはいきません」
「私共も、教祖の悲願である碧珠の救済を叶えるのは、与党のお力が不可欠です。あなた方ももう二度と下野はしたくないのではありませんか?」
「わかりました。ウイルス対策チームを続行し、ギルフォード…さんにも今までどおり顧問でいていただきましょう」
「ありがとうございます。あなたが賢明な方で良かった」
 教主はにっこりと笑って言った。

 古賀の去った後、教主を守るように背後に立っていた月辺が怪訝そうに言った。
「あの森の内と共に失脚すべきであった、目障りなギルフォードの首を繋げられるというのですか?」
「目障り? とんでもありません。ギルフォード先生は私の好敵手、彼なしではこのゲームは成り立ちません。碧珠は彼と私とに運命をゆだねられたのですから」
「ですが、今のままで彼の敗北は決まったも同然ではないのですか?」
「彼は、継がなかったとはいえ英国王室の懐刀ギルフォード家の御曹司です。そう簡単にギブアップはしませんよ。いずれまた私たちの前に立ちはだかってきましょう」
「しかし……」
「異存がおありですか?」
 微笑みながら言うその眼の冷やかさに、月辺はややうろたえた。
「失礼いたしました。碧珠の思し召しなれば仕方ありますまい」
「私はこれから遥音先生と少しお話をしなければなりません」
「承知いたしました。それではわたくしは席を外しましょう」
 月辺はそう言うと、恭しく礼をして部屋を出た。月辺と入れ違いに部屋に入ってきた遥音に教主はふっと笑って言った。
「それにギルフォード先生が同じステージにいないと面白くないじゃないですか。ねえ、遥音先生?」
 遥音は彼の屈託のない笑みをから何を言っているのか察し、不吉な予兆を感じとった。
「そうそう、遥音先生、そろそろ旦那様に預けていたものを返していただこうと思うのですが?」
「彼のことはもう夫とは思っておりません。なのでどうなさろうとかまいません。でも、彼に攫われた美葉さんは……」
「彼女のことはご心配なさらないで。丁重に扱わせていただきましょう。逃がすわけにはいきませんけどね」
 教主はそう言うと、そっと手を伸ばし遥音のほおに触れた。遥音は遥音は逃げ出したい気持ちを抑えるのが精いっぱいだった。遥音の心に変成(へんじょう)が起き始めていた。

20XX年9月17日(火)

 川中幸子は、いつものように駅に向かって歩いていた。祝日の3連休明けで、テンションダダ下がりの幸子だったが、クラスメートの藤田希美が彼氏と仲睦まじく前を歩いているのを見てますますテンションが下がるのを感じた。
(あいつら、まだ続いてるんだ)
 彼氏と共に仲良く時折じゃれあいながら歩く友人を見ながら思った。幸子にしては、親友と思っていた希美が相談もなく彼氏を作ったことが面白くなかった。彼氏の上田については幸子の好みではなかったが、他人の物はよく見えるというか、なんとなくカッコよくみえてきたのも面白くない。おのずと幸子は希美と距離を置くようになった。
 そういうわけで、幸子は無視を決め込んで足早に歩いて彼女らを追い越そうとした。しかし、当然のことながら二人に気付かれてしまった。
「あ、さっちゃんおはよう」
「おー、さっちん、おっはー」
(だれがさっちんじゃい! おっはーとかもう古いし!)
 幸子は上田少年から「さっちん」と呼ばれて心の中で突っ込んだが、思いのほか悪い気はしなかった。仕方なく幸子は歩調を落とし、希美の横やや後方を歩くことにした。
「あー、おはよう。今日もいい天気だねえ」
「うん。秋晴れになりそうだね。今朝は昨日より涼しいし」
 青空を見上げる希美の横顔はなんかキラキラしてて、ずいぶんきれいになったなあと幸子は思った。好きな人が出来たらこんなきれいになれるのかな?
 幸子はプラットホームで二人と別れ、女性専用車両に向かった。
 女性専用車両には一部の人たちから逆差別などの批判や反発もあるが、女性の悲願でもあった。通勤ラッシュ時の乗り物で程度の差こそあれ痴漢被害に遭わなかった女性は殆どいないのではないだろうか? 筆者ですら数回ある。幸子も2回ほど怖い思いをしたことがあった。いずれも同一人物からで触られたような被害はなかったが、荒い息でずっと真後ろに立っている。気持ち悪いが直接被害がない分対処のしようがない。どうしようもないので最後部車両で色々不便だが、女性専用車両を使うようにしたのである。
 幸い座ることが出来たので、スマホで漫画でも見ながらまったりしていようと思った。しかし前夜ゲームで夜更かしをしてしまったせいか、ついうつらうつらとしていた。そのまどろみを、前方車両の騒ぎが邪魔をした。驚いて騒ぎ声のする方を見た。悲鳴やざわめきに混じって「感染者が出たぞ」という声が聞こえた。幸子はとっさに立ち上がった。希美ちゃんたちは大丈夫だろうか?

 希美は上田少年と中ほどの車両に乗り、戸口の近くに立って他愛もない会話をしていた。話をしながら、希美は斜め前に座っている20代くらいの男が気になっていた。顔色がわるく、額に脂汗を浮かべずっと口を押えている。なんか気持ち悪いなと思っていたら、急に腰を浮かし前のめりになると、床に膝をついて左手でのどを抑え右手で口を覆った。その手から赤黒い吐物があふれ出た。発酵したような嫌なにおいが車内に広がった。上田少年は希美を自分の身体でかばうようにして出来るだけ男から遠ざかろうとした。男の両側に座っていた会社員らしき男女がすごい勢いで立ち上がって座席から離れ、前方に立っていた数人も男から逃げようと後ずさりをする。事情の分からない周囲の人たちは押されてバランスを崩しとりあえずなんとか体制を整えた。「なにしとるんや!」「なんふざけよっとか!」と怒号が飛んだ。しかし、人の波は止まらない。「サイキ病や!」「誰か緊急停止ボタンを押してぇ!!」その声に触発されて、乗客は隣の車両に逃げようと双方の車両間のドアに一斉に殺到した。しかし、ドアが開かない。隣の車両の乗客たちが開かないようにドアをしっかりと抑えている。「開けてくれ! 開けろぉ!!」「感染者が出たんだよ!」感染から逃れようとする人たちがドアや壁をどんどん叩く音が激しく響く。
「緊急停止ボタンが押されましたので、電車を停止します」
 アナウンスと共に電車が鈍い音を立てて止まった。慣性でこらえきれずに数人がよろめき、つり革や手すりにつかまっていなかった乗客たちが転倒しかけ、周囲の人に支えられた。
「ただいま安全確認をいたします。指示があるまでその場に待機していてください。ドアを開けて外に出ないでください」
 車掌のアナウンスが車内に響いた。しかしパニック状態になった乗客の一人が緊急用ハンドルでドアを開けてしまった。しかし、ドアと線路にはかなりの落差があった。数人が飛び降りたがそのあおりを喰らって希美が落下しそうになった。上田はとっさに希美をかばい、彼女を抱いた形で線路に落下した。衝撃が体に走ったが、押されて落下する乗客たちが視界に入り体を転がしてそれを除けたところで意識を失った。

 気が付くと上田は病院のベッドに寝ており、傍に希美と幸子が心配そうに座っていた。
「あれ? 俺、どうして……?」
「上田君、良かったあ……」
 希美はそう言うとわんわんと泣き出した。横で幸子も涙をこぼしながら言った。
「上田君、希美ちゃんを助けてくれてありがとう」
「ああ、そうか。おれたち電車から落っこちたんだっけ」
「受け身が上手かったのか、右肩の脱臼と肋骨に少しひびが入った程度で済んだみたい。さすが柔道部のエースやね」
「そっか、藤田が無事で良かったよ」
 上田は安堵のためいきをついたが、そのせいで胸に痛みが走った。
「あいててて……」
「肋骨やってるからね、しばらくは痛いわよ」
 ちょうど病室に入ってきた女性医師が言った。
「目が覚めたね、本日のヒーロー君」
「先生ですか?」
「担当の山口よ。ここは感対センター。2か月ぶりに大量に搬送されてきて、さっきまで野戦病院みたいだったわ」
「感対センター? じゃあ、やっぱりあれは……」
「大丈夫よ。話を聞いたら、朝まで友達とワインを飲んでいたそうよ」
「はあ?」
「なによ、あれ、ワインゲロやったん?」
 希美がハンカチで目を拭きながらあきれて言った。
「熱もたいしてないし、飲み過ぎの急性アルコール中毒ね。一緒に食べてたチーズと相まってとんでもない匂いになってでしょうね」
「たしかにすごい匂いでした! こっちまで吐きそうになっちゃって」
 と希美が思い出して口元を抑えながら言った。
「本人もこんなに騒ぎが大きくなってしまって、恐縮していたわ。でも悪気があったわけじゃないし、周りが勝手にパニックになっただけで責めるわけにもいかないわね」
「人騒がせなヤツ!」
 幸子が言った。
「ほとんどが軽傷だったし、不幸中の幸いね。なので君たちも無罪放免。上田君は念のため数日ここで入院よ。多分、大人の事情で転院は難しいからね」
「でもここって感染症専門の病院なんじゃあ?」
「もともと1類感染症対応が出来る総合病院だから。じゃあ、上田君、何かあったらコールして。君たちも落ち着いたら帰りなさい。お家の方たちが心配してるよ」
 山口は幸子たちに早く帰るように促すと、病室を出て行った。幸子たちは安堵で顔を見合わすと、笑い出した。
「あはは、いてててて……」
「大丈夫?」
 あわてて希美が上田のそばによる。
(お邪魔虫は去りますか)
 幸子はそっと病室を後にして待合室で希美を待つことにした。

 死者の出る被害は免れたものの、重軽傷者を複数出してダイヤも大幅に乱れたあわや大惨事のこの事件は大問題になった。世論も終息宣言をはやく出さないからこういうことになるのだという意見が多数を占めた。
 翌17日に行われた県議会では、一週間の猶予を以って終息宣言をすることを強引に決めた。高柳ら感染対策チームの医師たちの猛反対はほとんど無視された。顧問のギルフォードもまだ早いと資料を提示して激しく抗議したが、聞き入れられなかった。ただし、タスクフォースは縮小するが廃止せず、ギルフォードも当面顧問を継続ということを厭味ったらしく告げられた。

 研究室に戻ったギルフォードは、怒りを表すこともなく淡々と仕事を進めていた。
 ここ2か月ほどのグダグダにあきれたのか、すでに達観の境地にいるかのように思えた。しかし、由利子にとっては今まで通り臨時職員を続けられるか研究室助手のアルバイトになるかという、切実な事態である。
(まっ、アルバイトでも給料は出るし、とりあえず私も達観しとくかなあ)
 そう思った時、ギルフォードが言った。
「ユリコ。大丈夫ですよ。対策チームが当面無くなることはありませんし、僕の首も繋がりましたから」
「(なんでわかったんだ)そうなの?」
「それだけでも良かったと思います。僕は、ウイルスが急に影を潜めたことが却って不安なのです。このまま消えてしまったのならそれはそれで万々歳なのですが」
「まあ、そうだけど」
「真夏に居なくなったのは意味があるように思えてならないのです」
「たしかに、あの自爆事件のあとふっつりと感染が止まったみたいに思えるけど」
「もし、僕がかつて感染したウイルスと同じものならば思い当たることがあります。やや高地に位置していたワタカ国には日本ほど顕著ではありませんが季節はありました。一年で最も気温が高い時期に感染拡大が滞った時があったのです。日本の真夏は気温湿度ともにアフリカの国々すら超えますから、一時的に姿を消した可能性があります」
「なんか嫌な感じだなあ」
「米軍からはなんと?」
 紗弥がいつの間にか横に立っていて質問をしたので、由利子はぎょっとして声の方を見た。
「もう、紗弥さん、気配消して横に立つの禁止!」
「あら、失礼いたしました」
 紗弥は口元を少し抑えて言った。ギルフォードは若干仏頂面でその問いに答えた。
「知らぬ存ぜず意に介さず、だそうですよ」
「なにその超訳」と、由利子。
「あくまでそれは新型の強毒性ラッサウイルスで、国防に関わるので公表できない。今日本で感染を広げているウイルスに関しては関知していないと」
「それで終わり?」
「日本政府は米国には強く出られませんから」
「責任取りたくないだけだろ」
 今度は後ろで声がした。
「長沼間さん」
「もう、なんで気配消してくる人ばかりなんだよ。アレクからは見えてるんだから教えてよ」
「やあ、失敬失敬」
「久々に聞いたよその昭和ゼリフ」
「アレクサンダー、首がつながったようで良かったな」
「茶化しに来たのなら帰ってクダサイ」
 長沼間は勝手知ったるなんとやらで教授室入るとソファにドカッと座った。紗弥のこめかみに#マークが見えたギルフォードが言った。
「あ、サヤさん、お茶は出さなくていいですから」
「すまん。なんか疲れてな。今日は篠原さんに残念な知らせを持ってきたんだ」
 それを聞いて、紗弥が湯沸かし室に向かった。由利子は急いで長沼間の前のソファに座り食い気味に言った。
「ひょっとして美葉のことですか?」
「そうだ。結城が親子と偽って潜伏していたアパートを突き止めたんだが、捜査員が急行したが、すでにもぬけの殻だった」
「逃げられたってこと?」
「まあ、そういうことだ」
「俺もすぐに向かったが、手荷物だけ持って逃げ出したという感じだった。まあ、もともと大したものはなかったようだが、遺留物から二人のDNAが確認されたので、そこにいたことは間違いない」
「遺留物?」
「まあ、この場合毛髪とか体液とか」
「っ……!!」
「ナガヌマさん、女性にあまり生臭い話は……」
「アレク、私は平気です! それで?」
「その後の足取りを捜査中だ。すまんな、こんな程度で」
「いえ、生きてることが判っただけでもうれしいです。長沼間さんもそれを伝えたくて来られたんでしょ?」
「職務だからだ。あんたには俺が公安だってことも教えているしな」
 そこに紗弥がコーヒーを持ってきて、テーブルに置きながら言った。
「前から気になっていたのですが、草が紛れ込んでいる可能性はありませんの?」
「ははっ、まさか。もしあったなら……大失態だ」
 長沼間は自嘲的に言うと、コーヒーに口を付け「あち」といった。

 その後、しばらく世間話をしてから、長沼間は帰っていった。ギルフォードは教授室の窓から、遠くに去っていく長沼間の背を見つめていた。残暑が残る熱い日差しに温められたアスファルトから陽炎が沸き立っているのか、その姿が不自然に揺らいでいるように見えた。

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1.禍神(3)ミッシングリング

20XX年9月19日(木)

 由利子は恒例の早朝ジョギングをしていた。
 公安の武邑は、ほとんど毎日のように由利子の護衛をしていた。最初のように話しかけてくることはめったになく、せいぜい時折挨拶を交わすくらいで、常につかず離れず後を走ってついて来る。たまに姿が見えないときは他の同業者が代わりに走っていた。それは女性のことが多かった。女性がいるなら最初からそっちの方がよかったのに。最初鬱陶しく思っていた由利子だが、だんだん慣れて来てそう思う余裕も出てきた。
 今朝も武邑が後ろを付かず離れず走っていたが、終盤由利子のマンションが見えてきたところで武邑が並走してきた。
「おはようございます!」
「あ、おはようございます」
 武邑が挨拶してきたので由利子も挨拶を返した。武邑は人好きのする笑顔で話しかけてきた。
「昼間の残暑はまだ厳しいけど、朝はだいぶ涼しくなりましたねえ」
「そうですね」
 由利子は付き合い程度の同意をした。
「それでですね」
 というと武邑は声のトーンを落として言った。
「捜査縮小に伴い、あなたの護衛も今週いっぱいとなってしまいました」
「そうですか」
「最後の日にはご挨拶しませんので、だれもついてこなくなったら、護衛が終了したということで」
「了解しました。長い間お疲れさまでした」
 由利子は少しほっとして言った。
「篠原さん、今ほっとしたでしょう?」
「え? ええ、まあ。ちょっとは……」
「そうでしょ? なんか少し嬉しそうでしたよ。実は僕もなんです。あなたのジョギング時間に合わせてここまで来るのにはけっこう早起きしないといけないので」
「ああ、そうでしたか。それは大変でしたね。早起きご苦労様でした」
「その分、朝のお勤めも繰り上がって……」
「お勤め?」
「あ、ああ、警察もいろいろすることがあって……」
「そうですか、大変ですね。葛西君に聞いてみよ」
「いや、部署によって違うから」
「なーんだ」
「篠原さんって、けっこう人を油断させますね。気を付けないと」
「あはは、ずっとジョギング友だったせいかもしれませんね」
「それでは、あなたのマンションの近くまで来たので、失礼しますね」
「はーい、お疲れ様でしたー」
 由利子はそう言うと、かるく会釈をしてマンションの方へ走って行った。武邑は立ち止まって由利子の姿がエントランスに消えるまで見ていたが、すぐに踵を返して走り出した。
「しまった、おれとしたことが余計なことを……」
 武邑は絞り出すような声でつぶやいた。

 葛西はペアの青木と共に、K市M町の保育園に居た。ギルフォードが最初に疑問に思ったインフルエンザが発生した場所である。
 当初はあまりにも突飛すぎる上に確証もなかったことからスルーされていたことである。しかし、如月がたわむれにSV発症者とこのインフルエンザ発症者の記された二つのマップを重ねたところ、SV感染者で特に急性症状を示した患者がインフル発症者と重なることが判明した。それでも偶然の一致の範疇であるとされ、捜査がずっと見送られてきた。葛西はこのまま捜査が縮小されたばあい、ますますこの件に着手しづらくなると考え、急遽そこに向かったのである。

 葛西たちは応接室に通された。自己紹介をすませ、ソファに座った葛西は外で遊ぶ園児たちを見ながら言った。
「元気に遊んでいますねえ。やっぱり子供は可愛いなあ」
「ええ、あの時はどうなるかと思いましたが、特に重症化することもなくみんな元気になって……」
 園長が言うと、隣に座った保育士二人も頷きながら言った。
「朝は元気だったのに、昼過ぎからみんな次々と発熱し始めてぐったりして……」
「最初は食中毒かと思って、救急搬送してもらったのですが、その後保育士たちもつぎつぎと発症して、もう、生きた心地がしませんでした」
「それで、県外に居た園長に連絡して」
「園長先生はその場にいなかったのですね」
「はい。私は県外に出張していたのですが、電話を受けて慌てて帰ったのです。その頃にはインフルエンザらしいということが判っていたので、備えが出来て私は感染から免れました。あと、花粉症でマスクをしていた園児や職員もです」
「園児さんたちが発症する前に何か変わったことはありませんでしたが?」
「いいえ。ただ、不思議なことにそれまでは園児や職員の家族にもその接触者にもインフルエンザ患者など一人も出ていませんでしたし」
 それを聞いて、葛西は青木と顔を見合わせた。ギルフォードが不思議がっていたのはまさにそのことだったからだ。その時、保育士の一人が言った。
「そういえば、その日朝一でエアコンを新調するために業者さん来てませんでした?」
「そうそう、古くなってたんで暑くなる前に新調したんだったわね。電気代も馬鹿にならないからねえ」
「その後、なにか問題があったとかで再来園してなかった? 園児たちが熱出す前位に」
「熱を出す前にですか?」
「そうやった。大騒動になる前で良かったねって後から話しましたもんね」
 葛西はふたたび青木と顔を見合わせて小さく頷くと、園長たちに聞いた。
「その業者さんを教えてくださいませんか?」
 エアコン設置業者の情報を得た葛西は、急いで公用車に向かった。青木が付いてこないのに気づいて振り返ると、彼はわんぱく坊主たちにたかられていた。その周りに女の子たちが集まってきている。葛西は苦笑しながら青木を呼んだ。
「おーい、青木君、行くよ!」
「はい、すみませんっ。ごめんね君たち、おじさん仕事中なんだ」
 そう言って行こうとすると、園児たちは口々に「え~? 遊ぼうよ~」と言いながら離れてくれない。見かねた保育士たちが子供らをたしなめた。
「こらこら、刑事さんのお仕事の邪魔をしない。ほら、みんなでさよならしましょう」
 先生たちに言われて園児たちはようやく青木から離れ「さよなら~」「おじちゃんたちまた来てね~」等と口々に言いながら手を振って見送った。二人は笑顔で手を振り返すと車に乗りゆっくりと車を発進させた。
「やっぱり子供は可愛いですね」
 青木が運転しながら満面の笑顔で言った。
「そうだね。でも、僕は君みたいに子供とは遊べないなあ。慣れなくて」
「そうなんですか? 優しそうで好かれそうなのに」
「いやいや。しかし、君を見ているとギルフォード先生を思い出すよ。彼も子供たらしでね」
「へえ、そうなんですか。意外です」
「あと、動物にも好かれるんだ。この前虐待で狂暴になった犬をナウシカみたいに慣らしたらしいよ」
「ナウシカですか! 妻も私も動物は好きで犬を飼ってますが、そこまで出来ないなあ」
「そういえば、君、既婚者だったっけ?」
「ええ、妻は出産でY県の実家に帰っていますが、しばらくは愛犬共々居させようと思っています。私がなかなか家に帰れませんから心配ですしね」
「そうだね。出産後は何かと大変らしいからね。実家でお母さんといた方が安心だね」
「そうなんです」
「後で写真見せてくれる?」
「ええ、嬉しいなあ。未婚の人はあまりこういう話題は好きじゃないかと思ってました」
「あー、君さ、それ言っちゃダメなヤツだからね、特に未婚女性には」
「あ、はい、気を付けますッ」
 青木は恐縮し、話題を変えた。
「それはそうと、葛西部長、ダメ元で行った先で思わぬ収穫がありましたね」
「だから部長はやめてくれって」
「あ、すみません」
「ダメ元で来たんじゃないよ。アレク……ギルフォード先生が最初に指摘した事で、僕もずっと引っかかっていたんだ」
 葛西は簡単にその経緯を説明した。
「ああ、色々話しているうちに、近くまで来たようです。ああ、あそこだ、サトー空調設備。葛西先輩、連絡してますか」
「いや、先輩もやめて…。証拠隠滅の可能性を考えてアポなしで行く」
「了解!」
 青木は車を空調設備会社の駐車場に入れた。二人は車を降りると事務所の方に向かった。中に入るなり葛西がその後ろで青木が手帳を見せた。
「F県警の葛西です。ちょっとお伺いしたいことが」
「ええ? まだなにかあるんですか?」
 受付のやや年配の女性が、少し険のある言い方で迎えた。
「あの事件からもう二か月ですよ」
「すみません。以前も捜査員が来たんですよね。えっと社長さんは」
「いますよ。ちょっとお待ちください」
 女性はなにやらぶつぶつ言いながら立ち上がって社長室に向かった。名札が佐東となっているので、社長夫人かもしれない。
「あ」
 青木が気づいて言った。
「ここって、自爆犯人の古河が以前勤めていた……」
「そうだよ。繋がったね」
 葛西が微かな笑顔を青木に向けて言った。二人は社長が電話中だからということで五分ほど待たされた後応接室に通された。その間、二人は受付で女性社員たちの好奇の目に曝されることとなった。

「古河には本当に迷惑しとるんですッ!」
 社長の斎藤一雄は吐き捨てるように言うと、続けてため息交じりに話し始めた。
「彼は工学畑でITにも強く、有能な社員でした。大卒でウチに来てから勤続8年、浮いた噂もなく真面目な男だと思っていたら、この五月に急にやめてしまいましてね。それから音沙汰なしで、不義理な奴だと思ってたらあの事件ですよ。テレビのニュースを見て仰天しましたよ。その後警察が来て根掘り葉掘り聞かれてもう大変でした。爆破事件よりひと月以上前に縁が切れているのに、とんだとばっちりですよ」
「それは大変でしたね」
 葛西は気の毒そうに言った。
「でも、私たちもそれが仕事ですので」
「もとはと言えば、あなた方警察が自爆を防げなかったからじゃありませんか」
 社長は語気を強めて言った。青木はやや顔をしかめたが、葛西は真摯な表情で頭を下げると言った。
「申し訳ないと思っています」
「だけど、あの時真っ先に救助に駆け付けた警察官も殉職しているんです!」
「青木君、いいから」
 葛西は憤慨する青木を抑えて言った。
「ところで、その時警察に話していないことはありませんか?」
「え?」
「辞める前に古河はM保育園のエアコン設置に行ったでしょう?」
「そ、それは関係ないと思ったんです!」
「行っていたのですね」
「……はい。しかし、それとH駅自爆とどういう関係があるのです?」
「それはまだはっきりはしていません。ですが、それを調べるために古河がM保育園に行ったという確実な情報が欲しかったのです」
「そんな。ますます気になるじゃありませんか」
 社長の怒りは既に収まり、むしろ興味が湧いたようだった。
「状況がはっきりしたら、またお伺いしますよ」
「それは、是非!」
「状況により御社にも家宅捜索が入るかもしれませんので」
「えっ、脅かさないでくださいよ。優しそうに見えて刑事さんも人が悪い」
「とりあえず、古河の当時の活動記録をコピーしていただきたいのですが」
「わ、わかりました」
 家宅捜索というワードが効いたのか、社長はしぶしぶ事務の女性を呼んだ。
 帰りに青木が感心して言った。
「葛西さん、すごいですね。その冷静さには毎度驚きですよ」
「買い被らないでくれよ。僕は君が思うような優秀な男じゃないんだ」
「そんなことないですよ。僕、葛西さんとペアになってからまだ日は浅いですが、もう、めっちゃリスペクトしていますから」
「褒めても何もでないよ」
 葛西はそう言うと少し寂しそうに笑った。親友となったばかりのジュリアスと先輩刑事多美山そして増岡を短期間に失ったこの一連のテロ事件は、葛西の心にも確実に影を落としていた。

 葛西たちはすぐに捜査本部にそれを知らせた。松樹捜査本部長は葛西たちの話を聞いて言った。
「なるほど、M町で流行したインフルエンザは古河が発端の可能性が出てきたわけだね」
「はい」
「彼がM保育園でウイルス拡散実験をしたということだね」
「そうです」
「しかし、そのエアコンにウイルスが仕込まれたという確証はないだろう。たまたま園児が感染したインフルエンザが流行したと考える方が妥当だろう。それに四か月も前だ。調べても証拠が出てくるかどうかもわからないぞ」
「ですが、最初にインフルエンザが流行した保育園に古河が行ったこととその流行時期の一致は看過出来ないと思います」
「ふむ」
「だとしたら、古河一人での犯行は難しいです。ウイルス培養にはそれなりの知識や設備が必要で、工学部出身で畑違いの彼にそれは難しいでしょう。つまり、古河はテロの実行犯なのであって、H駅自爆も彼の単独犯行ではないという可能性が出てきます」
「わかった。見つかる確率はかなり低いかもしれないが、エアコン内にウイルス遺伝子が残っていないか調べさせよう。エアコンが発生源ならそれなりのウイルス痕跡が残っているかもしれない。確実な証拠が出れば、捜査縮小は避けられるかもしれん」
「松樹捜査本部長、ありがとうございます」
 と言うと葛西はザッと頭を下げた。慌てて青木もそれに倣う。
「まあ、悪友アレックスが指摘していたこともあるし、私も気になっていたからね」
 松樹は少し照れ臭そうに答えた。

 夕方、ギルフォードの元に葛西から電話が入った。ギルフォードは嬉しそうに受け答えし、電話が終わると言った。
「もうすぐジュンが来るそうです。フルカワとM町のインフルエンザとの関係が判ったそうですよ。ずっと気になってたらしくて、ようやく調べる事が出来たそうです。覚えていてくれたんです。嬉しいですねえ」
「そうなん? 良かったじゃん。でも、そんなの電話で十分でしょ」
 由利子がキーボードを打つ手を止めずにモニターを向いたまま言った。
「ついでにユリコを家まで送るつもりじゃないですか?」
「えー、今日は久々にスポーツクラブに行こうと思ってたのに」
「今日はジュンにスポーツクラブまで送ってもらって、帰りは僕がお送りしますよ」
「うーん、そろそろその辺が面倒くさくなったなあ。朝のジョギングの護衛も終わるようだし」
「ユリコ、そういう油断が一番ダメなんですよ」
「じゃあ、アレクがスポーツクラブまで送ってくれてついでにジムやって行けば?」
「ジムなら自宅にありますから」
「それだよ! しれっとセレブめ」
 と、由利子が言った。その横で紗弥が席を立ちながら言った。
「では、さっさとお茶の用意をしてきますわ」
「ありゃ、さすが紗弥さん素早い」 
 そうこうするうちに葛西が青木を連れてやってきた。
「こんにちは。これ、お土産です。今日はひよこまんじゅうの秋限定栗あんを持ってきました」
「まあ、ありがとうございます」
 紗弥が菓子折りを受け取りながら言った。
「コーヒーの用意をしてしまいましたわ。緑茶の方が良かったですわね」
「大丈夫です。和菓子にもコーヒーはあいますよ」
 と、青木がフォローする。由利子がからかうような口調で言った。
「葛西君、最近手土産持ってくるようになったね。感心感心」
「青木がうるさいんですよ」
「いい部下を持ったじゃん」
「はい、そう思います」
 葛西は笑顔で答えた。

 葛西たちは、今日古河のもと職場だった空調設備店に行った時のことを報告した。
「なるほど、状況証拠はありますが物的証拠が出るかどうかわからないという状況なのですね」
「はい、でも、必ず見つけます。古河とテロ組織とをつなぐ証拠になるかもしれないのですから。きっと僕が多美さんや増岡さんを殺したやつらを刑務所に叩き込んでやります」
 葛西は内容に比べ、妙に冷静に言った。それがギルフォードに妙な違和感を与えた。彼は不安になって言った。
「だけどジュン、あまり躍起になっちゃダメですよ」
「はい。でも、実は今、自分でも不思議なくらいに冷静なんです。多美さんがいつも言ってたんです。頭に血が上りそうになった時こそ冷静になれって」
「そうですか、ならばいいのですが」
「だからアレク、心配しないで」
「わかりました。捜査の進展を期待しましょう」
「ところで」
 と葛西が話題を変えた。
「青木君ですが、最近赤ちゃんが生まれたんですよ。写真を見せてもらいましたが、とても可愛いんですよ」
「えー、そうなの? 見せて見せて!」
 由利子がそれに真っ先に食いついた。
「ユリコ、赤ちゃん好きなんですか?」
「好きだけど悪い?」
 由利子が若干眉間にしわを寄せたのでギルフォードが急いで否定した。
「いえ、ぜんぜん。僕も好きですし」
「まあ、身近にいないからこわくて砲っことかできないけどね」
「僕は得意ですよ」
「あー、またそこでマウントとるし」
「ね! 青木君」葛西は青木に向かってにっと笑うと促した。「ほらほら青木君、見せてあげなよ」
「あ、はい」
 青木は答えると赤ん坊が映っている写真を見せた。
「わーかわいい、お嬢さんだよね! お名前は?」
「はい、平凡ですが、初夏に生まれたので若葉です」
「若葉ちゃんね! 紗弥さん、アレクも見てよ」
「ほんと、お可愛らしいですわ! 素敵なお写真ですこと」
「赤ちゃんはどの子も天使です。でもこの子は天使中の天使ですね!」
 皆から我が子を称賛されて、若干緊張気味だった青木の表情が和らぎ笑みが浮かんだ。
「アレクは赤ちゃんの抱っこ上手そうだよね」
「えーえ、もしそこに居たら絶対にだっこしますよ」
 さっきまで張り詰めた空気だった教授室から楽しそうな会話がもれてきたので、研究生たちがドアの前に殺到して言った。
「先生、私にも天使ちゃん見せて~」
「私も見た~い♡」
「僕にも見せてください」
「赤ちゃん赤ちゃん♡」
「君たちはほんとにもう、青木さんに迷惑でしょ。のびのびさせ過ぎましたでしょうか」
「いいですよ。こんなもので良かったらこちらに見に来てください」
 青木の許可が出たので、研究生たちが一気になだれ込んできた。
「妻とウチの犬が一緒の写真もありますよ。待ち受けにしているんです」
 青木は嬉しくなったのか、家族写真まで披露し始めた。

「そっか、青木さん、いま単身赴任状態なんだ」
 スポーツクラブまで送ってもらっている間に、会話は自ずと青木一家の話になった。
「そうなんですよ。まあ、しばらく実家に居てもらっった方が安心ですけどね」
「でも、若葉ちゃん、お父さんの顔忘れちゃわないかな?」
「先月お盆に奥さんの実家に帰省したら、だっこしたとたんに泣き出したそうです」
「あはは、やっぱり? 新米パパはだっこが下手だったのかもね」
「由利子さん、やっぱり子供好きなんですね」
「ええ、まあね。動物好きってたまに子供嫌いな人もいるけど、基本子供好きだよ。だって人間も動物だし」
「まあ、それはそうですが」
「自分には望めないけどね」
「え?」
「あ、そろそろ着いたね。入口の前に止められる?」
「ええ、でも大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。入口にガードマンもいるでしょ」
「ええ、いますけど……」
「ああ、この辺でいいよ。じゃ、またね!」
「雨降りそうですけど大丈夫ですか?」
「うん、折り畳み持ってるから!」
 そう言うと、由利子は軽やかに車から降りて、葛西に軽く手を振ると、スポーツクラブのエントランスまで駆けて行った。葛西は由利子が無事中に入ったのを見届けると、車を発進させた。
(なんで葛西君にあんなこと言っちゃったんだろう……)
 由利子は走りながら困惑していた。小さな雨粒が数滴、由利子の顔に当たった。

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1.禍神(4)リアルかくれんぼ

 由利子はスポーツスポーツクラブのフロントで受付を済ませ、ジムの方に向かおうとしていたが、エントランスに入った頃から付かず離れず、一定の距離を保っている女性がいることに気付いていた。由利子にはその女性に見覚えがあったので、思い切って声をかけることにした。
「あの、すみません。ひょっとして長沼間さんとこの?」
「え? わかっちゃいました?」
「はい、朝のジョギングの時、何回かいらっしゃいましたよね?」
「気づかれてたんですか!?」
「そりゃあ、まあ」
「変装してたのに」
「そうですね。今と全然雰囲気が違いました」
「やっぱ篠原さんには通用しないか」
 女性はため息を付きながら言った。
「私、三之丸香子(さんのまる/かおるこ)。コウって呼んでね。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくです。それじゃあ、ウォーミングアップにエアロバイクしましょう」
 由利子はそう言うと、先を歩いた。歩きながら、以前から疑問に思っていたことが確信に変わったことを実感した。
 そのころ、ギルフォードは古賀知事から急に呼び出しを受けたため、由利子の送迎を葛西に行ってもらえないかと電話をしていた。

 更衣室で私服に着替えながら由利子が言った。
「ほんとはプールで泳ぎたかったのだけど、まだ不安だったのでしばらくはジムだけです」
「そうね。それがいいと思います。プールはリスクが高すぎますものね」
「コウさん、ヘアスタイルはそのベリーショートが普通なんですね」
「ええ。ジョギングの時のボブはウイッグでした。職業柄髪は短い方が楽なんです」
「私が知ってるアメリカ人の女性も、いつもは殆ど角刈りなんで、プライベートでは赤毛のロン毛ウイッグつけてますよ。トイレで男と間違えられて悲鳴を上げられるからだそうです」
「あはは、それ、わかります!」
 三之丸は明るく笑いながら言ったが、その後少し探るような目で確認した。
「その方ってブルーム少尉ですよね」
「よくご存じで」
(屈託がなさそうでも、この人は公安なんだよな)
 由利子はそう思うと複雑な気分になった。
「一緒に写った写真見ます?」
「いえ、お気遣いなく。ところで篠原さん、帰りはどうされるのですか?」
「ああ、今日はアレク……ギルフォード教授が来てくれる予定ですが、もう来てくれてるのかな」
 由利子は答えながら携帯電話を取り出したが、三之丸が意外そうな表情をしたので笑いながら言った。
「ああ、これ? 未だガラケーなんですよ。あれ、メール来てる。ありゃあ、教授が急用でこれないから葛西君が来てくれるらしいけど、ちょっと遅れるそうです」
「あらら」
「連絡があるまでロビーで待ちますので、帰られていいですよ」
「いえ、任務ですから、あなたを葛西部長の車に乗せるまでガードします」
「そうですか? じゃあ、あのあたりでも座りましょうか」
「あそこは窓際ですから、あっちの壁際の方に行きましょう」
「ええ? そこまで慎重に?」
「はい。職業柄」
 三之丸はそういうと、ニコッと笑った。

 40分ほど三之丸と世間話をしていると、葛西から電話が入った。
「遅くなってすみません、なんか混んでて」
「いいよ。雨降ったからね。こっちも無理言ってごめん」
「無理じゃないですよ。もう少しで着くと思うのですが、どこに行ったらいですか?」
「そうだね、来た時のエントランス前は混みそうで車止めにくいし、警察官に駐禁違反させるわけにもいかないし……」
 それを聞いて三之丸が提案した。
「地下駐車場はどうでしょう? 私が責任をもってお連れします」
「葛西君、このスポーツクラブに地下駐車場があるからそこで待ってて」
「え? 危険ですよ、そんなところ」
「あのね、長沼間さんの部下の方が護衛してくれるっていうから」
「それって公安の? ダメダメ、却ってあぶない」
「葛西君聞こえてる!」
 由利子が慌てて注意するが、三之丸は苦笑して答えた。
「いいですよ。慣れてますから。では、近くまで来たら電話してください。それからエントランスで一緒に葛西部長の車を待ちますから」
「じゃあ、葛西君……」
「聞こえました。このまま行ったら反対車線になるので入口の前に着きませんから、少し回りますのでもうちょっと待ってください」
「出来たら急いでね。閉館が迫ってるんだ。夕食まだだからおなかすいたし」
「了解。じゃあいっしょにご飯食べましょう。何なら公安の方も誘って」
「おっけ。じゃまたね」
 由利子はそう言うと電話を切った。
「ぐるっと廻って来るんでもう少し待ってだそうです」
「夕立でけっこう降ったみたいだから、道路も相当混んでいるでしょうね」
「せっかく金曜日をさけたのに意味なかったです」
「花金は混みますからね。あ、これ死語ですね」
「あはは、コウさんまだ若いのに」
「よく言われます。言動がオヤジだって」
「私もよく言われますよ。なんせオヤジ連中より酒豪らしいので」
「そうそう、飲ませようと寄ってきたオッサンを返り討ちにしたりとか」
「あはは、同じ同じ」
 由利子たちが会話で盛り上がり始めた頃、葛西は困惑していた。途中の道路が工事中で迂回するようになっていたのだ。葛西は嫌な予感がしてギルフォードに電話をした。
「おや、ジュン、どうしました? 僕はちょうど会議が終わったところですよ」
「あ、お疲れ様でした。会議はどうでした?」
「うーん、それが緊急性があったのかな、あれ」
「え?」
「ウイルス終息宣言をいつ頃にしたら良いかって。そりゃ経済的には急ぐかもしれませんが、僕にはまだ早いとしか……。結局決まらず解散するし」
「たしかに変ですね」
「そうなんです。なので、急に代わってもらってごめんなさいね。ユリコは無事に帰りましたか?」
「それが、道路がすごく混んでて、まだたどり着いていないんです。しかも水道工事中で迂回しなきゃならないところがあって……」
「おや、それは大変ですね」
「それが、今この付近でそういう工事は行われていないはずなんです」
「え? そんなこともわかるんですか?」
「ええ、職業柄。あれ、まただ。ちょっと降りて様子を見てきます」
「気を付けてください」
「はい」
 葛西は車を降りると工事用看板とパイロンの内側を覗いてみた。どう見ても工事している様子はない。
「まさか……」
 葛西は嫌な予感が頭をよぎるのを感じた。
 その頃由利子は、葛西が遅いので時計を見ながら少し苛ついていた。
「遅いなあ。もうここ閉まっちゃうよ」
「そうですね……」
「何かあったのかなあ」
「とりあえず、エントランスの方で待ちましょうか?」
「そうしましょうか」
 二人は立ち上がると、出口の方に向かった。エントランスの自動ドアを出ると、雨上がりの肌寒い風が肌をかすめた。
「うわっ、寒くなりましたね。ジャケット持ってくればよかった」
「ほんと、ちょっと前まで暑かったのに」
「しかし、葛西君何かあったのかな? 遅すぎるよ」
「困りましたね。これじゃ風邪をひいて……」
 三之丸はそう言いかけると、急に厳しい表情になって叫んだ。
「篠原さん、私の後ろに!」
「え?」
 由利子は一瞬何が何だかわからなかったが、いきなりサラリーマン風の通行人が二人襲ってきたのに気が付いた。三之丸はその二人を蹴り飛ばし歩道に沈めた。
「コウさん、すごい」
「気を緩めないで! また来ます!」
 前の道路にワゴン車が止まると中から男たちが数人飛び出すと由利子たちの方に向かって来た。
「うわっ、また来たッ! マジか!」
「篠原さん、この人数では私ひとりではあなたを守れません。あいつらは引き受けますから急いで館内に……」
「もう閉まっちゃったよ」
「しまった、不覚……。とにかくバッグだけ持ってここから逃げてください」
「って、どこへ?」
「前の道路を渡って、適当な店に逃げ込んだら知らせて! 110番でもいい!」
「わかった」
「今、信号が青になりました。走って」
「ありがとう!」
 由利子は、横断歩道に向かって歩道を突っ切った。途中由利子の目の前に男が立ちはだかったが、由利子はそれを投げ飛ばして人混みをよけながら一目散で横断歩道を駆け抜けた。
「逃がすな!」「待て!」
 と口々に怒鳴る男たちの行く手を三之丸が阻み、とびかかってきた若い男を組み伏せ、残りの男たちに言った。
「警察です! 応援を呼びました。誘拐の現行犯で逮捕します」
 それと共にけたたましいサイレンの音が近づいてきた。
「くそ、引けッ!」
 リーダーらしき男が叫び、男たちはワゴン車に乗り込み逃げ出した。
「ふう」
 三之丸はため息を付くと、組み伏せた男に手錠をかけた。その頃、ようやく駆けつけた葛西がさけんだ。
「由利子さんは!?」
「逃がしました。そこの横断歩道を走ってあちらの道に……」
「そこは任せます!」
 葛西はそう言い残すと脱兎のごとく駆け出して点滅する青信号の横断歩道を通り抜けた。
「ここまでも走ってきたみたいなのに、さすが、中距離の記録保持者ね。タフだわ」
 半ば呆れたように言うと、三之丸は立ち上がりながら捕まえた若い男にも立つように促した。
「たっぷりお話を聞かせてもらうからね」
「ちょ、ちょっと待ってください。これ、映画のロケじゃないんですか?」
「へ?」
 男に情けない声で意外なことを聞かれた三之丸は、さっきとはうって変わった、その泣きべそをかいた表情をまじまじと見た。既に応援のパトカーが到着して、警察官たちが先に三之丸が倒した男たちを起こしていたが、二人とも狐につままれたような表情をして座り込んでした。

 由利子は横断歩道を渡り切ったが、走りを止めることなくそのまま飲食店の並んだ路地に入った。横断歩道を渡ったあたりから、どうもまた誰かが後をつけているような気がしたのだ。ひょっとして、これは用意周到に計画されていたのだろうか? 由利子はそう思ってぞっとした。これはどこかの店に入った方がいいのだろうか? しかし、入った店に迷惑がかかるのではないかと思うと、どうしても躊躇してしまう。由利子が路地の片隅で戸惑っていた時、いきなり腕を掴まれて飲食店の間の通路に引っ張り込まれてしまった。助けを呼ぼうとしたが、すぐに口を塞がれてしまった。

 ギルフォードは葛西の「しまった!」という声で電話が切れ、それから連絡がないことに不安を募らせていた。急いで駐車場に走りバイクにまたがると紗弥に電話をかけた。その後、バイクを発進させあっという間に駐車場を出て行った。
 三之丸は、駆けつけた警察官たちと戸惑ったような表情で事件の内容について話していた。件の実行犯三人はパニック状態になってしまい別々にパトカーの後部座席に乗せられている。そこに長沼間が駆けつけてきた。
「コウ、篠原由利子は?」
「すみません、思った以上に大掛かりで守り切れず、ここから逃すのが精いっぱいで……。今葛西部長が保護のために後を追っています」
「はぁ、またラブホ避難するか?」
「え?」
「セクハラジョークだったな。すまん」
「大丈夫です! この辺にラブホはありません!」
「真面目か? それで捕まえた連中は?」
「それが、映画のエキストラのバイトだと思っていたようです。SNSで募集されていたそうです」
「状況は?」
「はい。スポーツクラブ利用中は私が張り付いていたので、特に問題ありませんでした。後はお迎えの葛西部長にお任せすべく、一緒にフロントで待っていたのですが、閉店時間が来てしまい……」
「今日はアレクサンダー、いや、ギルフォード先生が送る予定じゃなかったのか?」
「それが急に会議が入ったそうで、葛西部長が来ることになったのです。でも、渋滞で遅れたらしく……」
「たしかに工事中道路が数か所あったが……。それで?」
「それでとりあえず様子を見ようと思いスポーツクラブから出たのですがそのとたんに通行人の中から男二人が襲ってきたのでそれを蹴散らして……」
「息継ぎしていいぞ」
「すみません。そしたら目の前の道路に白いバンが止まって中から人が出てきたので、それを阻止しながら篠原さんに対面の歩道へ逃げて適当な店に入って助けを呼ぶようにと」
「応援は?」
「現着を待つ余裕はありませんでした。その直後に葛西部長が走ってきて、そのまま篠原さんの後を追って走り去っていきました。応援が来たのはその直後です」
「車の種類と番号は?」
「ナンバープレートが汚されていて番号の確認はできませんでした。車種と色は無線で連絡済みです」
「車の連中が誘拐の真の実行犯で、襲ってきた方はカムフラージュか。いや、実行犯も雇われただけかもしれん」
「ようやくルアーにかかったのが雑魚……」
 と、三之丸が悔しそうに言った。
「まあ、敵の誰かが焦っていることは判ったさ」
 長沼間が肩をすくめながら言った。
「さて。ジュンペー坊やは無事に姫を保護できたかな」

 由利子はいきなり路地裏に引っ張り込まれ驚いたが、相手の足を思い切り踵で踏みつけ右腕を取り投げ飛ばそうとした。男はそれを予測していたのか、すぐにその手を掴みあせった小声で言った。
ちょ、ちょっと待って、由利子さん、僕です僕
「葛西君!」
シーッ、声が大きいです! 遅くなりましたが葛西、ただいまお迎えにあがりました
ほんと、遅いよ
妨害されてしまったようです。さらに今、二名ほどが由利子さんをつけています
なんかそんな気がしてた
あ、来ました! 失礼します!
 葛西は由利子の身体を壁に押し付け隠すように体を張ってガードした。由利子は戸惑って言った。
ちょっと、これって両手壁ドン
敵は由利子さんが単独で逃げていると思っていますから、こういうバカップルは見逃すはずです。連中が去るまで我慢してください
え? だって? わー近い顔近い」
静かに! 我慢してください
そんなこと言ったって
とにかく静かにして!
 と、葛西が珍しく由利子に対して命令口調で言った。葛西の顔は至って真面目である。無頓着なギルフォードが平気で顔を近づけてくるのにはだいぶ慣れたが、葛西の顔をこんなに間近で見るのは初めてだった。
(いかん、これは目の毒だー)
 由利子は諦めて目をつぶった。
 繁華街の人通りのざわめきの中に、複数のせわしく歩く気配がした。それは近づいたり離れたり、飲食店のドアを荒々しく開けたりと、明らかに誰かを探しているのが判った。しかし、由利子と葛西のシルエットを見ると軽い舌打ちをしたが、そこに入って確かめるようなことはしなかった。気配が近づくたび由利子は生きた心地がしなかった。葛西が来たために気が緩んだのか、体がガタガタと震えてきた。
由利子さん、頑張って!
ごめん。なんか急に足が震えて……
うわあ由利子さん、腰を抜かさないで
 葛西が焦って由利子の腰を支えたので、ほぼ抱きしめたような状態になってしまった。由利子は思わぬ形で葛西の胸に顔をうずめる形になったが、いつものように怒ることなく、赤い顔をして顔で葛西を見上げて言った。
葛西君、汗臭いよ
すみません。訳あってマラソンしちゃったので
え?
なので、ちょっとの間臭いのは我慢してください。もうすぐ迎えが来ますから
わかった……」
 それからの数分間は、由利子にはかなり長く感じた。呼吸が荒くなり心臓がドキドキするのは恐怖なのか恥ずかしいのか判断しかねたが、それが葛西に気づかれないかが心配だった。
 そこに、ようやく応援の警察官を二人連れた三之丸が駆けつけてきた。
「部長、応援に来ました」
「こっちだ、早く」
 葛西が由利子の頭越しに叫んだ。
「篠原さん、失礼します!」
 と、三の丸が言い、由利子は頭から何かを被されてしまった。そしてそのまま連行され三之丸と葛西に挟まれ警察車両に乗せられた。
「おいおい、なんなんだぁ?」
「なんかやったとか?」
「何の犯人?」
 車に乗るまでに通行人たちの会話が耳に入り、由利子の紅潮した顔がさらに赤くなった。

 由利子は事件のあったスポーツクラブ前でいったん車から降ろされた。車から降りると、由利子はバッと被せられた布をマントのように翻して脱ぎ葛西に渡すと、自分に気づいて振り向く長沼間にツカツカと歩いて行った。そこにギルフォードがバイクで現れ、「やあ、良かった。無事に救出できたようで……」と笑顔で言いかけたが、途中で言葉を失った。ギルフォードだけではなく、葛西をはじめ関係者の動きが一瞬固まった。由利子は長沼間のそばまで来ると、勢いよく右手を振り上げ長沼間の頬を引っ叩いたのだ。
「ゆ、由利子さんッ!」
 葛西が驚いて駆け寄り由利子を止めようとした。しかし、由利子は止まらない。
「前から思ってたんだ。あんたたち、私を囮にしていたんだね!」
 長沼間は一瞬躊躇したが、すぐに頭を下げて言った。
「すまん」
「ええっ!」
 葛西が驚いて長沼間の方を見た。
「護衛とか体の良い理由をつけて、奴ら(テロ組織)が私に接触するのを待っていたんだよ」
「相変わらず汚いな、あんたらは!」
 葛西が長沼間を非難すると、長沼間は彼を一瞥し平然として言った。
「それが俺たちの仕事だからな」
「あのね、言ってくれりゃぁ喜んでデコイでも疑似餌にでも、何だったらケヤリムシにだってなってやったよ。それが美葉を取り戻すことや奴らを捕まえることになるならなんだってやってやる。囮にされたのを怒ってるんじゃないよ!」
「わるかった。では、非公式になるがこれからも君の護衛を続けさせてほしい」
「わかった。で、今回何が起きたのかさっぱりわからないんで、説明して」
「実行犯の供述や逃げた車の行方など詳しいことが判り次第説明しよう。今日は簡単な実況見分だけ済ませたら帰っていいから」
「どうするの?」
「では、スポーツクラブから出たところからお願いしようか」
「わかった」
 そう言うと、由利子はすたすたと言われた方に歩いて行った。
 残された葛西は、ギルフォードに呼ばれて彼の方に向かった。ギルフォードはバイクにまたがったまま、葛西に言った。
「気になったので、来てしまいました。無事にユリコを保護出来て良かったです」
「アレク、由利子さんの位置情報を教えてくれてありがとう。誘拐されかけたと聞いて、もう、血の気が引きました」
「僕もです。でもギルフォード家特製GPSがお役に立てて良かったです。ユリコは『猫の鈴』みたいだからと携帯を嫌がってましたけどね」
「もう大丈夫です。あとは僕が責任をもって家までお送りしますから」
 葛西が言うと、ギルフォードは頷いて笑った。
「では、お任せしますね、ジュン。ユリコによろしく」
 ギルフォードは、そう言った後に手を振ると、爆音と共に車のテールランプの中に消えて行った。
「ふう……」
 葛西はギルフォードが去って行ったのを見届けると、ため息を付いてから由利子が長沼間達に身振り手振りで説明している方を見た。

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1.禍神(5)ルビーの悪夢

 実況見分の後、葛西は由利子を自宅まで無事に送り届けた。
 由利子が玄関ドアのかぎを開けると、葛西はいつものように部屋の前に由利子を待たせ、安全を確かめてから由利子を中に入れた。由利子の猫たちもすっかり葛西に慣れて、寄ってくるようになっていた。葛西はしゃがんで二匹の頭を軽くなでると立ち上がって由利子に言った。
「今日は大変でしたね。無事に家まで送ることが出来てほっとしています」
「結局夕食食べる余裕なかったね」
「そうですね。僕はコンビニ弁当でも買って帰りますが、何ならついでに買ってきましょうか?」
「大丈夫だよ。冷蔵庫の中のものを適当に食べるから。でさ、やっぱり、水面下で何か起きとぉと?」
「いえ、それが判らないんです。古河のこととかこれまで起きた事件のいくつかは捜査が進んでいますが、ある程度まで行くと手がかりが消えてしまうんです」
 この事件に関わり始めの由利子なら、ここで文句の一つも言うところだが、内情が判って来ると捜査の難しさなどを理解してなかなかきついことも言いづらくなっていた。
「そっか……」
「悔しいですが。でも、これだけは言えます。今回のことではっきりしました。なにも終わっていません。終息宣言はするべきじゃない」
「うん。私も同感だよ。それに……」
 由利子はそこまで言うと口をつぐんだ。
「それに?」
 葛西が促すと、由利子は右手で額を抑え眉間にしわを寄せ悩んだ様子を見せたが、意を決して続きを言った。
「暗かったので自信がなかったからさっきは言えなかったけど……、うーん、あの路地で私を探していた連中の一人に……結城に似た奴がいたような気がしたんだ」
「それで急に震えだしたの? 言ってくれればよかったのに」
「ごめん、でもほんとに一瞬顔が見えただけなので確信が持てなくて。なのに、……確信がもてないのに、わからないけど、急に怖気(おぞけ)が走って……」
「そうか! 前に地下街で襲われた時の記憶がよみがえったんだ」
「すっかり忘れたつもりになっていたのに……」
 そう言うと、由利子はまた体が震えだすのが判った。
「どうしよう。あいつが帰って来た? 美葉は? 私はどうしたらいい?」
「すみません、失礼します!」
 そう言うと葛西は由利子をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫です。僕が、僕らが守ります。美葉さんもきっと救出します。必ず。だから、大丈夫ですから……」
「うん、うん……ありがと」
 由利子はそう言うと、そっと葛西の腕からすり抜けた。
「もう大丈夫、落ち着いたから」
「そうですか、良かった。由利子さんの身辺については、改めて安全を確保できるようにします」
「ありがとうね。今日は本当に葛西君が頼もしいと思ったよ」
 葛西は由利子に初めて褒められて、照れ臭そうに笑った。
「明日は、アレクが迎えにくるでOKですね」
「うん」
「さっきは危機的状況で緊張していたのですが、このままだとなんか送りオオカミになりそうなので、早々に退散します」
 葛西はそう言うとさっと敬礼をしてそそくさと部屋を出て行った。
「もう、ばかちんが」
 由利子は施錠しながら言ったが、柄にもなくドキドキしている自分に苦笑いをしていた。路地裏で葛西に匿ってもらった時の動揺の延長でか、どうもいつもの調子が出ない。
「さぁて、嫌なことは忘れて冷凍なべ焼きうどんでも食べてお風呂入って寝よっと」
 由利子は気を取り直すように言った。しかし、足元で猫たちが「何か忘れてはいませんか?」という風情で足元にじゃれついてきた。
「あー、わかったわかった。ご飯ね。もう、1日2回が習慣になっちゃってなかなかもとの1回に戻せないなあ」
 由利子はまず猫たちの食事を作るため、キッチンに向かった。

 由利子があの時見たのは、見間違いではなく紛れもない結城本人だった。

 公安のガサ入れから逃れたものの、結城は美葉を連れ、再び宿無しになってしまった。資金もすでに残り少なくなっている。仕方がないので、当面まだ足のついていないであろう車で生活することを余儀なくされた。
 しかし、暦の上では秋だが残暑はまだまだ厳しかった。幸い夜の熱帯夜はなくなったものの、ミニバンタイプとはいえ車内に長く留まることはかなり苦痛を伴った。それに潜伏していたアパートが公安に知られてしまったということは、その車もどうなるかわからない。結城は当面県外に出る決心をした。日本警察が横の連携に弱いことに賭けたのである。
 その後、なんとか隣県に逃れてお決まりのホテルや車内で暮らしていたが、閉塞感は免れない。そんな結城のもとに一本の電話が入った。結城はしばらく悩んでいたが、大きくため息をつくと言った。
「美葉、F市内に戻るぞ」
 結城は警察の盲点をかいくぐり、再びF市内に潜伏していたのである。
 

 20XX年9月20日(金)

 翌朝、いつものジョギングをしていると、ウイッグで変装した三之丸が後ろからついてきた。
(今日の護衛はコウさんなのか。昨日は遅かっただろうに大変だな)
 由利子がそう思っていると、三之丸が走るピッチを上げて由利子に並んできた。
「おはようございま~す」
 三之丸が明るく挨拶をしてきたので由利子も「おはようございます」と返した。はてさて会話していいものかと考えていると、三之丸が声量を落として言った。
「今日から私がメインで護衛することになりました。今まで通り顔見知りではないようふるまってください」
 三之丸はそれだけ言うと、今度はピッチを落として由利子の数メートルあとに下がった。
(了解です、コウさん)
 由利子は心なしかほっとするのがわかった。なんとなく武邑が信用できなくなっていたからだ。まあ、公安警察である限り、三之丸もどこまで信用してよいかわからない。なにせ民間人を平気で囮にしようとする連中だ。最も今の自分が果たして『民間人』を名乗って良いものか由利子には自信がなかった。

 その頃、葛西・青木ペアは早朝から変死現場に呼び出されていた。
「また、Vシードの犠牲者ですか」
 葛西が遺体を検分しながら言った。横で青木が口にハンカチをあてて青い顔をしている。先に臨場した中山が赤い結晶の入った子袋を見せて言った。
「そのようだな。遺体の周囲にこいつが散らばっていたよ」
「これで僕らだけでも3件目ですよ」と宮田が少し憤慨した口調で言った。「なんでこんなヤバいものに手を出すかな」
「彼らはこの辺りの大学生ですか?」
 葛西の問いに中山が即答した。
「ああ、学生証からすぐわかったよ。A大工学部一年の内藤克己と厚木翔也だ」
「A大ですか。結構難関大ですよね。受かるのは大変だっただろうになんでこんなことで……」
「受験から解放された気のゆるみからかもしれんが、親御さんの気持ちを思うとやりきれんな」
「SV感染の可能性は?」
「見た目からはその可能性はなさそうだが」
「そうですか。K市のタワマンの事件はたまたまだったのでしょうか」
「あの大学生ら6人が死んだ事件だな。とにかく、このドラッグは『ルビー』という隠語でF県下だけでなく日本中の大学高校に広がっているらしい。だが、その出所もまだはっきりしないからな。ただわかっているのは闇フリマサイトで隠語をつかって売買されているという程度だ」
「スマホからの追跡も海外のサーバを経由しているために足取りが途絶えると聞きました」
「ああ、まったく最近の犯罪はどんどん複雑になってくるな。正直俺みたいなIT音痴にはついて行けんよ」
 中山がため息交じりに言った。

 しかし、葛西たちの知らないところで、事態は悪化しつつあった。
 川島達人(たつと)は高校をサボって原チャリ(50cc原付バイク)に乗り、たまり場にしている空き家に向かっていた。ここ数日妙に怠く、学校に行く気にはなれなかった。最も調子が良くてもサボることは多かったが。
 最近、高齢化が進む影響で空き家が増えつつあった。彼らのたまり場は郊外の山の中腹にある高級住宅地にあり、昨今の高齢化による空き家増加の『恩恵』により多少騒いでも通報される恐れは殆どなかった。
(ほんと、良い場所提供してくれたよな。紀(きの)さんの死んだばあちゃん家(ち)だそうやけど)
「しっかし、だりぃなあ」
 最後の方はいつの間にか声に出していた。空き家に入ると既に先客がいた。居間のソファに背の高い男がもたれかかるようにして座っている。よく見ると男の膝を枕に小柄な女性も寝ている。
「紀さん、それに美冠も。もう来てたんですか。ひょっとして、泊まった?」
 美冠は怠そうに起き上がりながらうざったそうに言った。
「ふん、そんなことどうでもいいじゃん。ひょっとして焼きもち?」
「ばーか、てめーみたいな脳タピオカ興味ねーよ」
「はあ?」
「おまえたち、会って早々なんだよ。それにタツジン、おまえ単位大丈夫なのか?」
「ストレートでA大受かった紀さんとちがって、俺は落ちこぼれの底辺高校なんで、そこそこ行ってりゃあ大丈夫なんですよ」
 達人はやや投げやりに言うと、周囲に目を泳がせた。
「紀さん、アレ……ある?」
「ルビーか? あるけど、朝っぱらからキメるつもりかよ」
「昨日くらいからなんかダルくってさ、景気づけにやりてぇんですよ」
「飲みすぎだろ、未成年(ガキ)のくせに。まあ、そこそこにしとかんと30代で良くて肝硬変悪くて認知症だぞ」
「紀さんに言われたくないっす。とにかくルビー下さい」
「アレは効きすぎるから昼間はヤバイって。俺は単位ヤバいんで今から大学(ガッコ)行ってくっから、帰るまで待ってろ。ほら、可愛いオレンジちゃんと遊んでな」
 紀はそう言うと笑いながら達人の背中を強く押した。油断していた達人はバランスを崩して美冠の上に倒れた。達人は急いで上半身を起こしながら抗議した。
「何するんスか、紀さんッ!」
 その達人の首に細い手が絡みついてきた。紀はそれを横目で見るとさっさと用意して居間から出て行きかかったが、思い出したように振り向いて言った。
「あー、飯はあるもの適当に食っていいからな。それと、夕方にはマキさんやユーゾーたちが来るからほどほどにな」
 そう言い残すとハハハと笑いながら出て行ってしまった。美冠がクスクス笑いながら達人に絡みつきながら言った。
「不本意だけど、遊んであげる♡」
「やめろ、ミカ。俺、今日はダルいって言っただろ。ルビーないなら俺は家に帰って寝とくワ」
「だめよ、離したげない」
 美冠は達人の下からぬるりと抜け出すと彼の身体の上にぴったりと乗り両手を彼の顔の横に置いて上半身を起こした。
「か・え・さ・な・い♡」
 美冠はく怪しい声で言うとすくす笑い舌なめずりをした。彼女の目はV-シードの影響が残っているのか、瞳孔が異様に開き白目がうっすら赤みががっていた。その異様さに達人は蛇ににらまれた蛙そのままに身動きできなくなってしまった。


 由利子たちが3時のティータイムをしていると、葛西たちがやってきた。
「こんにちは、みなさん。ブレイク中すみません。お茶菓子持ってきました」紗弥に案内され入って来るなり青木が陽気に言った。「今日は『テツおじさんのマドレーヌ』でーす」
「あらあらすみません。そんなにしょっちゅう手土産なくてもよろしいのに」
 と、紗弥が受け取りながら言うと、後ろから由利子が「ありがとー」といいながらあっけらかんとして迎えた。
「あ、昨日はどうも」
 葛西が少々照れ臭そうに言った。
「うん、ありがとう。おかげで今日もいつもの毎日だよ」
 そう言いながらも由利子が少々顔をあからめた。二人の様子に気づいたギルフォードだが、軽く肩をすくめただけでいつもの経口はひかえた。
 紗弥はふたりを案内して応接セットに座らせて、コーヒーを淹れに行った。
「ところで、ジュン」
 ギルフォードがあらたまって質問した。
「公務員である警察官がお土産持ってきて大丈夫なんですか?」
「これは捜査協力費というものから出ているので大丈夫です。贈収賄にはなりませんから安心して召し上がってください」
「そうですか、では、あり難くいただきましょう」
「ひょっとしてずっと気になってたの?」由利子がクスッと笑って言った。「長沼間さんもたまにお土産くれてたじゃん」
「まあそうですけど、長沼間さんは特殊な知り合いですし。ああ、サヤさんがジュンたちのコーヒーを持ってきました。さっそくマドレーヌを頂きましょう」
「わーい♡」
 と言うと、由利子はもらったマドレーヌの箱を開けた。

 食べ終わってしばらく他愛ない世間話をしていたが、葛西がソファに座ったまま姿勢を正して言った。
「アレク、例によってドアに聞き耳を立てている学生さんたちをなんとかしてください」
「はあ、好奇心が強いのは悪いことじゃないんですけどねえ」
 ギルフォードはため息を付くと、立ち上がってドアを開け、言った。
「君たち、ちゃんと自分の席に戻って。単位あげませんよ」
「わー先生脅迫~」
「アカハラ、アカハラ!」
「イモリですか。如月クン、お願いしますよ」
「また僕でっか」
「頼りにしています」
「しょうがないでんなあ」
 如月はメガネを軽く持ち上げると、手を叩いて言った。
「みんな、定位置に戻って」
 学生たちはぶつぶつ言いながらそれぞれの定位置に戻って行った。
「もう、写真室みたいに二重扉にしますよ」
 ギルフォードはそう言いながらドアを閉めた。

「そういうわけで、例の合成麻薬V-シードが大学生を中心に出回っています。今のところ大量摂取が原因で死亡したものがほとんどで、依然SV感染者は出ていないようですが……」
「でも、ジュン、まだ見つかっていないだけかもしれませんよ」
「しかし、最近は例の蟲の集団発生もありませんし」
 例の蟲と聞いてギルフォードはあからざまに嫌な顔をした。
「あ、すみません、嫌な事思い出させましたね」
「ギルフォード教授はゴ……」
 青木が言いかけたので葛西が慌てて止めた。
「青木君、物言いには気を付けて」
「あっ、申し訳ありません!」
 青木が恐縮して言った。
「まあ、いいです。それよりアオキさん、食欲がないようですが」
「ほんとだ。マドレーヌ半分も食べていないじゃない!」
 ギルフォードに言われて由利子が言った。
「どうしたん?」
「ああ、今日、V-シードがらみの変死体の現場に行ったからでしょう」
 葛西が言うと、青木は申し訳なさそうに言った。
「情けないです、ほんっとに。ご遺体は交番時代にも数回見ましたが、今回のような状況は初めてでして」
「僕も最初の方そうだった。でも、感染死されたご遺体はもっとむごいからね、覚悟しておいた方がいい」
「えっ、そうなんですか?」
 青木が素っ頓狂な声を出して言ったが、誰も笑わなかった。皆、葛西の言うことに異論がなかったからである。
「ジュンも、まだ感染者が出てくると思っているのですね」
 と、ギルフォードが膝を正して言った。
「ええ。あれだけ周到に準備している組織が諦める筈がないと。むしろ、僕はここ二か月あまり何もなかったことにも意味があると考えています」
「僕もそれを考えていました。ウイルスの特性もあるかもしれませんが、それも考慮した上でモリノウチ知事の失脚を狙ったのではないかと」
「そうです。僕もその可能性を考えていました。邪魔な森の内元知事を退けて、扱いやすい知事に挿げ替えたかったのでしょう」
「事実、モリノウチさんは失脚しましたから」
「なので、僕たちSV対策班は誰もこのシーバーン災害が終わったとは考えていません」
 葛西はきっぱりと言った。由利子はこの2か月に於いての葛西の成長ぶりに驚きと頼もしさを感じたが、もとの葛西がどこかに行ってしまったような寂しさを感じていた。

 

※Vシード:ヴァンピレラシード。強い副作用を伴う合成麻薬。赤く美しい結晶。そのためルビーという隠語で流通しつつある。(なろう版以降はSシード(シャンブロウシード)に名前を変更。ヴァンピレラはダークではあるがヒーローであることと、作用からシャンブロウの方がふさわしいと考えたからである。)

※シーバーン(CBRNE)
 Chemical(化学) Bioligifal(生物) Radiolojikal(放射性物質) Nuclear(核物質) Expiosive(爆発物) 

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1.禍神 (6)悪魔ふたたび

 再開します。
 長い間更新しなくてすみませんでした。待ってくれてる人いるかな?

 ラストに向かって書いていきます。最後のシーンはずいぶん前から決まってるのですが、そこにたどり着くのが大変です。でもがんばります。よかったら応援コメントをよろしくお願いします。お待ちしております。


 20XX年9月25日(水)

 最初にサイキウイルスの犠牲者が発見されてから4か月近く過ぎたが、CDCやその他解析を頼んでいる機関からウイルス発見の報告はなかった。ギルフォードはジュリアスの兄クリス・キングに何度もせかしたが、申し訳ないの言葉しか返ってこない状況に若干苛ついていた。
「それにしても、腹が立つのはフォートデトリックですよ。未だあれは新型ラッサ熱だったと言い張ってるんです」
 ギルフォードは不機嫌そうに由利子と紗弥に言った。
(あちゃ~、聞くんじゃなかったかな)
 由利子は相変わらずギルフォードの研究室に通う毎日だったが、あの自爆事件以来特にサイキウイルス関連の事件らしきものはなく、比較的平和な日々が過ぎていた。すわ、事件が動いたかという事件も直接ウイルスとは関係ないものばかりだった。

「なーんか平和すぎて不気味やねえ。Vシード関連事件やこの前のN鉄電車の騒動もサイキウイルスは出てこなかったし」
 由利子がキーボードを打つ手を止め伸びをしながら言うと、紗弥が苦笑交じりに言った。
「由利子さん、ダレ過ぎですわよ。葛西さんたちが色々手がかりを探ってらっしゃいます。きっと何かを掴んでくださいますわ」
「そうだね。でも、なんか今日は特に秋らしいほのぼの天気で、なんか眠気が……」
 そう言いながら欠伸をしたところで、電話が鳴った。
「わあ、驚いた」
 由利子が椅子からずり落ちそうになり、体勢を整えながら言った。その間に紗弥が電話を取り要件を伺っていた。紗弥はすぐに電話を保留しギルフォードに伝えた。
「早瀬隊長からです。緊急に取り次いでほしいと」
「ユリコ、また忙しくなるかもしれません」
 ギルフォードはそう言うと電話を取った。
「はい、ギルフォードです。……え? ……なんですって、サイキウイルス感染? しかもV-シードがらみの可能性が? A大の工学部の学生が講義中に放血して倒れた?」
 それを聞いて由利子は椅子から腰を浮かし、紗弥はゆっくりとギルフォードの方を見た。
「わかりました。すぐに向かいます」
 そう答えギルフォードは電話を置くと、立ち上がって言った。
「残念ながら平和は終わりそうです。感対センターに呼び出されました」
「大学で講義中に倒れたって、じゃあまた、大量の感染予備軍が感対センターに収容されるわけ?」
「そうです。それで、今、センター内の人員は最盛時の半数に減っています。ですから君たちにもまた手伝ってもらいたいのですが……」
 ギルフォードがやや申し訳なさそうに言うと、二人は迷うことなく答えた。
「もちろん行くよ」
「当然ですわ」
 それを見てギルフォードがにっこりと笑って言った。
「ありがとう、頼もしいです。では、十分後にここを出ますから、すぐに出かける用意をしてください」
「はい!」
 由利子と紗弥が同時に答え、立ち上がった。
「今日は講義のない日で良かったです」
 ギルフォードはそう言いながら教授室のドアを開けて手招きをした。
「キサラギ君、ちょっと」
「なんでっか?」
 如月は怪訝そうな表情をして入って来たが、室内の慌ただしい様子を見て言った。
「ありゃ、お出かけでっか? ひょっとして久しぶりのスクランブル?」
「そうです。いつものように後をお願いします」 
 ギルフォードが作業着に着替えながら言った。ギルフォード研究室専用作業着で、モスグリーンのジャケットとカーゴパンツ、ジャケットの背中には少し大きめの字で『ギル研』左胸ポケットの上には各自の苗字が白糸で刺繍されている。
「君だけには言っておきますが、これからまたこういうことが増えるかもしれません。また君の負担を増やすようですが、頼りにしています」
「もちろんですわ! 任せとってください」
 如月は、また頼りにされて嬉しそうに答えたが、ギルフォードが付け加えた一言にうろたえてしまった。
「助教のヴィーラがアフリカから帰って来るまで……」
「ヴェラちゃん! 忘れとったのに、教授のあほっ!」
 そう言うとまた研究室を飛び出して行った。
「あ、しまった。ヴィーラがキサラギ君の天敵だったことをまた忘れていました」
「ひとしきり走り回ったら帰ってきますわよ」
 一足先に着替えて更衣室から出てきた紗弥が、澄まして言った。
「ほんとにもう、逃げ出した犬じゃないんだから……」
 ギルフォードは肩をすくめながら言った。
(なにこのデジャブ感)
 更衣室から出ながら由利子は思ったが、以前から疑問に思っていたことを聞くことにした。
「ねえねえ、紗弥さん。ヴィーラさんって?」
「ヴィーラ・ミネルヴァ・ギルフォード。教授のお姉さまの次女で去年までここで助教をしてたのですが、今年に入ってから研究のためアフリカに渡って数年間帰ってこないと……」
「へえ、ってことはアレクの姪っ子さんかあ。どんな人なの?」
「そうですね。年齢は24歳で……」
「若っ! ひょっとして飛び級してる?」
「はい。因みに教授も飛び級されていますわよ。教授の身内としては155cmくらいで小柄ですわね。ブラウンの巻き毛をよくツインテールにしてましたが、アフリカに行くというので、今は短髪にしています。写真を送ってくださいましたが、日焼けして男の子みたいになってましたわ」
「教授の姪っ子さんだったらきっと可愛いだろうなあ。会ってみたいなあ」
「かなりのクセモノですよ。まあ、ユリコとは気が合うかもしれませんが」
 荷物をまとめながらギルフォードが口をはさんだ。

 その遺体は一緒に抗議を受けていた友人たちの証言から工学部1年の紀 雄翔(きの ゆうと)だということが判った。入学時は比較的真面目に講義を受けていたが、連休明けくらいから休みがちになっていたという。しかし、単位の関係で休み明けの後期からは真面目に出席していたという。とはいえ、後期には入ったばかりではあるが。

 遺体搬送後、放血時に紀の周囲にいた濃厚接触者たちを感対センターに送致するのを他の警察官たちに託すと、葛西たちは急いで大学を出て行った。紀の自宅を捜索するための令状を取るためだ。紀の腕から複数の注射痕が見つかり、先日死んだ学生のこともあり、Vーシードとの関係が疑われたからである。
 濃厚接触者は、放血時に体液が付着した可能性のある、紀の席の前横半径3メートル内と後部2メートル内ににすわっていた30人ほどの学生たちだった。その中には紀を介抱した学生二人がいた。みな講義室の後ろに集められて不安そうに立っていた。特に紀を介抱した学生たちは床にへたり込んで、女子学生が恐ろしさに泣きじゃくり、男子学生の方は彼女の肩を抱きながらも呆然としていた。紀は後ろの方に座っていたため、残りの学生たちは連絡先を書かされ、紀と知り合いかどうか確認された後解放された。
 残された学生たちは最初は大人しくしていたが、男性が一人逃げ出そうとして複数の警察官から阻止された。すると彼は、今度は自分の権利について抗議をはじめた、それはだんだん暴言近いものになり、ついには暴れはじめ拘束されてしまった。しかしそれに感化され、他の学生たちも抗議をし始めた。中にはその様子をスマートフォンで動画撮影する者まで出てきてしまった。
「君たち、静かにしなさい」
「撮影の類はやめてください」
 警察官たちは制止したが、一向に収まる様子はない。収拾がつかなくなるかと思われた時、怒号が飛んだ。
「いい加減にしろ!」
 その声は富田林だった。その一喝で学生たちは大人しくなった。
「感染の可能性がある君たちを解放するわけにはいかない。もし発症したら、君たちの大切な人に感染(うつ)してしまうかもしれない。それでもいいのか?」 
「そうよ。その刑事さんのいうとおりよ」
 ちょうど駆けつけた山口医師が言った。
「あなたたちの感染リスクを減らすためにやって来ました、感対センターの山口です。ここで、簡易的に消毒してから感対センターに行き、シャワーの後着かえて数日様子を見ます。顔、特に目に触れないようにしてください。それから傷のある人は申告してください」
「どんなに小さい傷でも申告しろ! いいな!」
 富田林はそう言い捨てると、講義室外に集まった野次馬整理に向かった。その背に一人の学生が聞こえよがしに言った。
「なんだよ、偉そうにあのオッサン。感染者見たことあんのかよ」
「あるわよ、あの人」山口がそれに答えた。「それももっと悲惨なケースを何度も」
「えっ?」「マジかよ」「あれよりひどいって……」
 それを聞いてあちこちから驚きの声が上がった。山口は少し険しいような悲しいような表情で言った。
「あの刑事さん、相棒が感染して亡くなっているの。H駅の爆破事件で救助活動中に負った小さい、本当に小さい傷から感染して……」
 それを聞いて急に不安になった学生たちは、急に従順になってしまった。さらに各々手や顔の傷を念入りにチェックし始めた。山口はほっとして、富田林の向かった方を見た。彼は既に他の警察官と共に野次馬の整理に加わっていた。その顔には以前の明るさや快活さが失われているように思えた。

 その頃、葛西・青木ペアは紀のマンションにいた。
 紀の部屋の前には既に立ち入り禁止のテープが張りめくらされていた。室内にはいると、男子学生の部屋にしては綺麗に片付いていた。と、いうより生活感をあまり感じないような気がした。
「なんか、違和感があるな。たまに寝に帰っていただけじゃないのかな」
 葛西が言うと青木も頷きながら答えた。
「僕もそんな感じがします」
「他にアジトがあって、ここを探してもVSは出てこないかもしれない。ここは鑑識に任せて、僕らは紀の行動範囲を洗ってみよう」
「了解です」
 二人は早くも見切りをつけ、紀の部屋を後にした。もし、予想通りに別に『パーティー会場』があるなら一刻も早く見つけなければならない。葛西にはあのタワマンでの出来事が脳裏に浮かんでいた。
 マンションの住人はまだ状況を知らせれてないらしく、何人からか何があったのか聞かれたが、二人はとにかく正式な知らせが来るまで待つように言うしかなかった。
 その後、彼らは紀の素行について調査しようと考え大学に急いだ。大学の裏門に着くと、丁度濃厚接触者たちの搬送が始まっていて、警察官たちが野次馬の整理をしていた。遠くに富田林の姿が見えたが、遠くで大声で呼ぶのは憚られ、さらに今までとちがう雰囲気を漂わせる彼にはあいさつ程度では声をかけ辛く、葛西は黙って通り過ぎる事にした。

 彼等は紀の所属する工学部棟で聞き込みを始めた。
 意外にも、紀の評判は悪くはなかった。大学での彼は真面目で面倒見の良い好青年で通っているようだった。彼が感染死したと聞いて、みな一様に驚いていた。泣き出す女性もいた。
 幾人から彼と写った写真を見せてもらったが、どれも白い歯を見せて仲間と共に明るく笑っていた。ツーショットはほとんどなく、常に数人一緒でほとんど中心に彼はいた。
 ただ、何人かは紀についてあまり良い感情を抱いていないようだった。彼らは見るからに消極的なタイプで、紀からは見下されるか無視されるかだったと証言した。
「なんか、人によって態度を変える男だったみたいですね。笑顔は爽やかな好青年でしたが」
 青木はやや眉を寄せ気味に言った。
「まあ、良くいるだろ。見下した奴には塩対応するってヤツ」
「あーゆーのがパリピっていうのかなあ」
「まあ、先入観は禁物だよ。気を取り直して聞き込みを続けよう」
 そう言うと葛西は立ち上がった。

 その後中庭の方に向かい数人を当たっていると、おずおずと声をかけてきた学生がいた。
「あのぉ、刑事さん。紀君、死んじゃったって本当ですか?」
「うん、残念だけど……」
 青木が神妙な顔をして答えた。
「そっか。あの……」
 その学生は言い難そうにもじもじしながら言った。
「ひょっとしてなんか中毒して?」
「え? どうしてそう思うの?」
 今度は葛西が言った。
「差支えなければ教えて。大丈夫、君が言ったってこと、みんなには言わないから」
 葛西が優しく言ったので、学生は少し緊張が解けたようだった。
「あのですね、紀君は……」
「あ、その前に、君の名前を教えてくれる?」
「はい。僕、経済学部一年の村岡と言います」
「えっと、村岡君。紀君とは学部が違うんだね」
「はい。紀君とは中学と高校が一緒だったんです。で、けっこうパシリなんかやらされてたけど、色々守ってくれたりもして……」
「仲良かったんだ」
「いえ、僕なんて、ちっとも。……紀君は大学では猫を被ってたみたいだけど、実は俺様キャラで、でも、意外と面倒見も良くて……」
 村岡は話していくうちに紀の死を実感してきたのか、涙声になって言葉がかすれてしまった。
「大丈夫?」
 と、葛西が心配して声をかける。
「すみません。実際に紀君の遺体を見たわけでもなくて、あまり悲しさもないのになんでかな」
「でも、君はなにか僕らに知らせたいことがあって、わざわざ違う学部まで走ってきたんだろ?」
「そうです。大学中で大騒ぎになってて、僕の学部にも話が伝わって……。警察の人が調べに来ているって聞いたら、居ても立っても居られなくなって、探してたんです。やっと見つけた……」
「そうだったんだね。それで、知らせたいことと言うのは?」
「はい、実は僕、以前紀君に誘われたことがあって……」
「誘われた? 何に?」
「それが……」
 そこまで言うと、村岡は躊躇して口籠った。
「あの、えっと……」
「大丈夫。僕たちには守秘義務がある。絶対口外しないし、君が不利になるようなことはしないからね。そうだ、立ち話も何だから、あそこの四阿(あずまや)に行こうか」
 葛西が提案し、三人は植樹帯の中に見えていた四阿に向かった。葛西は二人に先に行かせると自販機で缶コーヒーを買って彼らの後を追った。
「お待たせ」
 葛西が四阿のテーブルにコーヒーを置くと、青木の隣に座った。
「村岡君、これ飲んでちょっと落ち着こうか」
 葛西は村岡にコーヒーを勧めると、自分もパシッと軽快な音を立てプルトップを開けた。青木もそれに倣う。村岡も遠慮がちにコーヒーを手に取った。
 一息入れたおかげか、村岡は少し落ち着いたようなので、葛西は質問を再開した。
「えーっと、紀君に誘われたって話だったよね」
「そうなんです。ハーブに興味ないかって。僕、勘違いして植物のハーブかと思って、母が趣味でハーブ茶に凝ってたので、少しはあるかなと思ってちょっとならって答えたんです。それで話していくうちになんか食い違っていることに気が付いて、あれってなって」
「そっか、焦るよね、そんな時」
「ほんと、あせりました。それでも、なんか言い出せなくてそのまま話をあわせていたら、付き合いが長いお前だから特別だよって紀君の別荘に連れていかれて……。そこには紀君の後輩だっていう高校生がいて、なんか朦朧としてて……。僕、絶対に脱法ハーブとかいうヤバイものだって確信してどうしようと思ってたら、紀君がなんか赤いものが入ったビニールの子袋を持って来て……」
「葛西さん、それって」
 赤いハーブと聞いて、青木が咄嗟に反応したので葛西が制止した。
「待って。取りあえず話を聞こう」
「ルビーとかいうハーブのことは噂程度には知ってたんで、僕、もうパニックになっちゃって、おたおたしていたら、ようやく紀君が僕の勘違いだと気が付いて笑い出して……。誰かのコントみたいだねって。でも僕、生きた心地がしなかった。けど、意外とアッサリ見逃してくれたんです。誰かに話したらヤクザに殺されるからね、とか言ってたっぷり脅されたけど。僕みたいなチキンには何もできないと思ったんでしょう。実際、こわくて今まで誰にも言ってませんし」
「でも、もし僕に勇気があって、通報してたら、紀君は死ななかったのかな。僕、間違っちゃったんですよね」
「そうだね。僕たちの立場としては、知らせてほしかったよ。でも、紀君の死因はサイキウイルス感染症だったんだ」
「え? うそ……。いえ、確かにそういう情報も流れて来てたけど、まさか、そんな……」
 サイキウイルスと聞いて、村岡は動揺した。
「だって、あれはもう終息したってみんな言ってて……」
「まだ終息宣言はされていないんだよ。だから、君が黙っていてもひょっとしたら紀君は死ななかったかもしれない。まあ、そんなことは誰にもわからないけどね」
「………」
 村岡は声を上げることなく泣いていた。葛西は村岡に出来るだけ優しく声をかけた。
「村岡君、ありがとう」
「え?」
「君のおかげで、事件の糸口が見えた。君が勇気を出して言ってくれたからだよ」
「刑事さん、ごめんなさい。僕、もっとはやく勇気を出したかったです」
 そう言うと、村岡は声を上げて泣き出した。葛西たちは村岡の落ち着くのを待って、別荘の場所や村岡のケータイ番号など詳しいことを聞いた。
 別れ際に、葛西は村岡のことを改めて聞いた。
「今日はありがとう。村岡君。経済学部の一年だったね。良かったら学生証を見せてくれる?」
「あ、はい」
 村岡は、急いでリュックから学生証を出して見せた。
「村岡……正幸、まさゆき君っていうの?」
「はい、そうですけど?」
「そっか、正幸君か。今日は本当にありがとう。紀君の死は君のせいじゃないからね。あまり思いつめないで」
「はい、ありがとうございます」
「何かあったら教えた番号に電話して。絶対に抱え込まないで。必ずだよ」
 葛西は諭すように言うと、青木に向かって言った。
「急いで紀の『別荘』とやらに行ってみよう。何かわかるかもしれない」
 二人はもう一度村岡に礼をすると、駐車場に急いだ。 

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1.禍神 (7)赤い部屋

 残酷描写があります。注意してください。


 速足で駐車場にもどり車に乗り込むと、葛西は早瀬に連絡し簡単に事情を話し行く先を告げた。
「最悪の事態を想定して出来るだけ早く応援を送ってくれるそうだ。青木君、急ごう」
 葛西に言われ、青木はすぐに車を出した。

 しばらくして、青木が葛西に聞いた。
「葛西さん。紀は何故、村岡君を見逃してやったんでしょうか?」
「意外と寂しがりやだったのかもしれないね、紀は」
「どういうことですか?」
「村岡君は中学高校、そして大学と一貫して友人だったんだと思う。紀は何らかの理由で村岡君をドラックのグループに引き入れようとしたけど、無理強いはできなかったんだ。唯一、損得なしで向き合ってくれた友人を失いたくなかったのかもしれないね」
「じゃあ村岡君は、そんな紀をずっと気にかけてたということでしょうか」
「まあ、もはや推測でしかないけどね。でも、ドラッグに関しても無理強いしようと思えばいくらでも出来たはずなのに、おざなりの警告だけで解放するなんて、ある程度の信頼関係がないと恐ろしくて出来ないことだし」
「でも、村岡君、葛西さんが諭してあげたことで救われたんじゃないでしょうか」
「いや、無理だよ。一時的な応急処置はできたかもしれないけど。おそらく彼は、心のどこかで友人を救えなかったという自責の念から逃れられずに一生後悔を背負って生きていくだろう」
「葛西さん?」
「あ、ごめん。ネガティブだよね。でも、それを飲み込んで生きていくんだよ。誰だって」
 葛西は少し遠くを見るような目で言った。青木は聞かない方がよかったのかなと思いながら、もう一つ引っかかったことがあるので敢えて聞いてみた。
「あの、差し出がましくてすみませんが、もうひとつ。葛西さん、さっき村岡君の『まさゆき』っていう名前になんか引っかかってたみたいですが」
「ああ、やっぱり気になるよね」
 葛西は少しバツの悪そうな顔をして言った。
「まさゆきっていうのは、僕がこの事件に関わるきっかけになった少年の名前だよ。字は違うけどね。まあ彼が生きている時には会ってないけど」
「そうですか。僕もなんか聞き覚えのある名前だとは思ったのですが」
「轢死体だったんで、その時の僕は直視できなくてね。でも、生前の写真の顔はよく覚えている。詳しいことは、あとで一連のSV事件の調書読み返して」
「すみません。この事件のことをもっと頭に叩き込んでおきます」
 青木はなんとなくいけないことを聞いたような気がして、その後しばらく会話を控えたのち、目的地まで敢えて差し障りのない世間話をすることにした。

 しばらく走っていると車は郊外に出、周囲に田圃や畑が目立つようになっていった。その後少し進むと山間に入り、ポツポツと邸宅が見え始めた。和風・洋館風・モダン建築風と様々な意匠を凝らした建物だ。いずれも広い敷地に木々をはべらせ佇んでいる。住宅地に近づくと、いくつかの家は手入れが不十分でもう住人がいないであろうことが伺えた。その中に村岡の証言と合致する家があった。周囲の屋敷が取り壊され荒れ放題の空き地になった中、蔦が纏わりついた白い洋館がぽつんと建ち、かなりゴシックホラーな雰囲気を漂わせている。それを見て青木が言った。
「紀君って、すごいお金持ちだったんですね」
「お金持ちのボンボンが道楽でドラッグに手を染めて破滅したんだ。あまり同情できそうにないな」
 何度こういうことが起きただろう。なぜ、この国の若者は恵まれているのに、このような危険なモノにのめり込み破滅するのか。葛西はそう思い暗澹たる気分になった。
 葛西たちは近くの公園らしき広場の横に車を止め、降りた。らしきというのはずいぶん荒れていたからだ。急いで件の家に行こうとする青木を止め、葛西は車のバックドアを開けた。
「青木君、何があるかわからないんだ。それなりの装備をして行こう」
「え?」
「微かだけど、嫌なにおいがする」
 葛西は言いながら、さっさと白い簡易防護服の入った袋を出し青木に渡した。
「え、これ? いきなり?(なんか怖い)」
 青木は鼻白んだが、すぐに葛西に倣って準備を始めた。防護服の着用が完了すると、葛西がなにやらスプレーを出してきた。
「念のため、これを噴霧して行こう。青木君、しばらく息を止めて」
「え? え?」
 戸惑う青木に構わず葛西は彼にスプレーを噴射した。
「うわあ、ゴホゴホ。なんですか、これ!」
「だから息を止めてって言ったのに。簡易用のマスクだから臭いは通ってしまうんだよ」
「これが噂の毒ガスレベルって虫よけ……」
 青木はそこまで言うとまたせき込んだ。
「だいぶ改良されたみたいだけど、まだまだだな」
 葛西はそう言うと、自分にも吹きかけせき込んだ。

 ふたりは紀が『別荘』と呼んでいたという屋敷に向かったが、慣れない防護服に青木は歩きにくそうだった。
 青木が不安そうに言った。
「こんなの着てたら、またSNSに上げられたりしないでしょうか?」
「どうだろうね。まあ、人通りもないし、住人も少なそうだし、たぶん大丈夫だよ」
「そうでしょうか……」
「それに僕らは任務でやっているんだ。何の負い目もないだろう」
「はい、そうでした」
 ド正論を言われて青木は答えたが、まだ不安はぬぐえないらしい。数歩歩くとまた葛西に聞いた。
「葛西さん、さっき嫌なにおいがするって言ってましたけど、臭いますか?」
「ほんの少しだけど、少し強くなってきた」
「って、なんの?」だんだん弱気になって来たのか、青木の声が上ずってきた。
「俺にはまだ……」
「一度、感染死した人のひどい状態の遺体を見せられたことがあったんだけど、その時と似たようなにおいがするんだ」
 思い出したのか、葛西の眉間にしわが寄っているのがマスクとフェイスガード越しでもわかった。
(ひどい状態の遺体って、まさかこの先……)
 ひるんでしまった青木は足が前に出なくなってしまった。
「どうした、青木君。行くよ」
 葛西は立ち止まって振り返り言ったが、たすたと歩き出した。迷いなく。
「す、すみませんっ!!」と、青木も後を追った。

 立派な門の前に着くと、葛西がインターフォンを押した。返事はない。数度インターフォンを押したがやはり無反応だった。
「行くしかないな」
 葛西は躊躇なく門扉を開けて入り玄関に向かった。玄関前のインターフォンも押してみる。やはり反応がない。ドアノブを回してみた。カチャッと音がして、ドアは難なく開いた。
「不用心だな。青木君、入るよ」
 葛西は用心深く屋内に入り、素早く各部屋を確認していった。一階には人の気配はないようだった。一階に見切りをつけ、二階に上がろうとした時、ふと窓の方を見ると、門扉に人影が見えた気がした。急いで窓に駆け寄り窓を開けて確認しようとしたが、すぐにその人影は消えてしまった。野次馬かと思ったが葛西にはその人物に見覚えがあるような気がした。そんなことより、今は感染者救出が先だ。急いで階段を駆け上がり二階に上った。
「どうも屋根裏部屋の方からうめき声が聞こえてるね。急ごう」
 そう言うと葛西はまた階段を駆け上がった。二階から続く階段のどん詰まりが踊り場になっており、両サイドにドアがあり、右側の方から声がしていた。その頃になると、悪臭は青木の顔をしかめさせるほどになっていた。
 葛西はドアをノックしてみた。返事はないが人の気配とうめき声がしている。今度は少し強めにドンドンと叩いて言った。
「大丈夫かい? 返事できる?」
 少し間をおいて、荒い息とかすれた声がした。
「……だれ?」
「警察です。どうかしましたか」
「だれ……でもいい、たすけて……」
「君はここの住人かい?」
 葛西が冷静に尋ねた。
「ち…ちがう……。ここ、ともだちのいえ……」
「今、そこに何人いるか教えて」
「よにん……。ごにんいたけど……いなくなってる」
「他の人の容体は?」
「うごけるの、おれ…だけ。みんな、いき、してるかどうか……」
「わかった。救急車も呼ぶから」
 葛西はドアを開けて入ろうとしたが、カギがかかっている。
「カギ、開けてくれる?」
 すると、カチャリと鍵の開く音がした。ドアを開けて入る前に、階下で青い顔をして突っ立っている青木に指示した。
「救急車と応援の要請をたのむ。必ず防護服着用のこと。感染者は四人。うち三人は意識不明の重体。証言では五人いたということで、ひとり逃走の可能性あり、以上。要請後すぐにこっちに来て」
「りょうかぁい!」
 青木が半ばやけくそに言った。

 葛西はドアに手をかけると用心深くドアを開けた。それに驚いたのか、何か小さい黒いものが数匹ドアから走り出していった。その中のおっちょこちょいが1匹葛西の足にぶつかってうろたえて去って行った。
「まずいな。そろそろ集まり始めている」
 葛西は軽くため息を付くと、室内を確認した。
 室内は悲惨な状態だった。ドア越しに応対した男が足元に倒れていた。ひいひいという喉音をたてながらなんとか生きているという様子だった。他はベッドに一人、それに持たれるような形でもう一人。手前のソファにあおむけになって座る女性。対応した男以外は動いている気配はない。いずれも血まみれですごい形相をしており、見たところ息をしているようすはない。葛西は戸口に倒れている男の前にしゃがんで言った。
「大丈夫? もうすぐ救急車が来るからね。君、名前は?」
「たつと……」
「たつと君、何があったの? 答えられる?」
「お、おれたち、いつもここでルビーパーティーしてた。なんにちかまえ、マキさんが、もっとキクよってルビーになにかまぜてた。つぎのひ、みんなぐあいわるくなってきて……」
「マキさんって? ここにいる?」
「い、いない。さっきでていった。まどからそとみて、やばいっていって……」
「男の人?」
「いや、おんな……。きのさんがつれてきた。すごい……いい、おんなだろって」
(マキ……? さっき出て行ったってことは、僕たちをみて逃げたってことか。じゃあ、やはりさっきの人影はそいつだったか)
「おまわりさん、ほかのみんなのようすみて……たすけて」
「彼らは紀君の知り合いなの?」
「おんなのこ……みかんは、そう。でもむこうにいるふたりは……ルビーをかいにきた。なまえはしらない」
「わかった。ちょっとまってて」
 葛西は達人の願いを聞くため立ち上がった。その時、青木が来て葛西に告げた。
「葛西さん、応援はすぐに来るそうです。救急車も感対センターからすぐに来ると……」
 青木はそう伝えながら部屋に足を踏み入れたが、室内の様子を目にしたとたん数秒動きを止め「うわああああ」と叫び階段を駆け下りていった。
「まあ、これじゃあ無理ないか」
 葛西は室内を改めて見回した。
 足元には息も絶え絶えな若者。少し向こうにはソファにあおむけになったすごい形相の若い女。その向こうのベッドに不気味によじれて動かない男女二名。誰もが血まみれで周囲にも血が飛び散っている。下手な殺人現場より壮絶な光景だった。
 まず、葛西はソファの若い女性に近づいた。小柄なその女性は達人が言ったみかんという紀の知り合いなのだろう。眼球と口から血が溢れ苦悶の表情を張り付かせてこと切れていた。下血しているのだろう、ソファも血まみれだった。ベッドの二人は瞳孔が完全に開いており、すでに硬直が始まっていた。
 葛西は頭を横に振ると、達人のそばに戻った。達人は苦し気にしながらも葛西に尋ねた。
「お……おまわりさん、み…んなは?」
「大丈夫だよ。たつと君、もうすぐ救急車が来るから、がんばって」
 達人はそれを聞いて安心したのか、目を閉じた。
「たつと君? たつと君、しっかりして!」
 葛西は驚いて声をかけたが、達人は昏睡状態に陥ったのか呼吸はしているが目を開けなかった。医師でない葛西にはそれ以上どうすることも出来ない。これ以上の滞在は危険と判断した葛西は達人に「もうすぐ救急車がくるから、がんばるんだよ」と声をかけ、後ろ髪を引かれながらも部屋を後にした。青木の姿を探したが屋内に彼の姿はなかった。玄関を出ると、ドアの横で青木が座り込んでいた。
「青木君、大丈夫かい?」
 振り向いた青木の顔は蒼白だった。
「吐いたの?」
「いえ、なんとか逆流を押えました。マスクを取りたくなかったし」
「そうか。よい判断だったね」
「飯食った直後じゃなくて本当によかったです。持ち場を離れて申し訳ありません」
「最初のうちは僕もそうだったよ。いろいろひどい目にもあったし」
「今度聞かせてください」
「あまり思い出したくないけど、機会があったらね。それより、怪しい人影は見なかったかい」
「いえ、特には」
「そうか。もう逃げただろうな」
「え?」
「逃走したヤツさ。おかしいだろ」
「四人が瀕死の状態なのに、ひとりだけ元気だったわけですよね」
「そう。しかも部屋から僕たちの姿を見て逃げ出したらしい」
「鉢合わせたかもしれないと」
「そういう逃げ足の速いヤツに心当たりがあるんだ。まあ、おそらくとっくに逃げてしまっただろうね。とにかく、この家を封鎖しないと」
「感染者たちは?」
「もう僕たちにはどうしようもないし、この装備であそこでの長居は危険だ」
「あ、葛西さん」
 遠くから聞こえてきたサイレンの音に気が付いた青木が少し安堵の表情を浮かべて言った。
「うん。予想よりずいぶん早かったね。さすが早瀬隊長だ」
 葛西も少し表情を和らげて答えた。

 屋敷の前に、警察車両と救急車・消防車が列をなして止まった。先頭の乗用車から早瀬が降りて門を開け放ちツカツカと中に入って来た。
「葛西君、青木君。ご苦労だった。思いもよらず早くアジトを発見できた」
「この家の屋根裏部屋です。案内します」
 葛西はそう言うとすぐに歩き始めた。青木がすぐ後をついて来ようとしたが葛西は制止した。
「青木君は、後続の富田林さんたちといっしょに周辺の閉鎖と野次馬の整理を手伝って」
 それを聞いた青木はほっとしたような悔しいような複雑な顔をして「了解」というと、去って行った。パトカーや救急・消防車がけたたましくサイレンを鳴らしてきたので、近隣から人が集まり始めていた。
 葛西を先頭に早瀬と救急隊員が続いた。足早に階段を上ろうとする葛西に早瀬が言った。
「葛西君、問題の部屋の前に着いたら私たちが中に入る。簡易防護服の君は用心のため戸口で待機してて。いいわね」
 葛西は一瞬間を置いたがすぐに答えた。
「了解です。生存者の名前は『たつと』です」
「たつと君ね。わかった」
「これから屋根裏部屋へ向かいます。手摺はありますが、階段が急で狭いので注意してください」
 葛西が用心深く階段を上って行き、早瀬たちが後に続く。救急隊員たちから階段の状態を見てどうやって搬送するかという会話が聞こえてくる。葛西がドアの前の狭い空間にあと一歩まで来た時、室内からうめき声と荒い息が聞こえた。まるで地の底から聞こえるようで、救急隊員たちは顔を見合わせた。葛西の脳裏に嫌な記憶がよみがえる。
「たつと君! どうした!?」
「だ、だずげ……」
 葛西は達人の断末魔寸前の声を聞いて咄嗟にドアを開け中に入ろうとした。それを見て早瀬が「馬鹿よせ!!」と言いながら残りの階段をかけあがって葛西をタックルしかばいながら床に伏せた。と同時に達人が痙攣しながら口から大量の赤い吐しゃ物を噴出した。救急隊員たちも咄嗟に階段に身を伏せた。葛西は早瀬の下で、達人がのたうつ音と人とはとても思えない声を聞いた。幸いにもそれは長くは続かなかった。葛西が早瀬から解放され立ち上がって達人の方を見た時、彼は小さく痙攣をしながら床に大の字になっていた。
「あとは任せて」
 という救急隊長の声とともに葛西たちの横で隊員たちが要救護者を取り囲んだ。早瀬は身を起こすと、葛西に手を差し伸べながら言った。
「戸口で待機しろって言ったでしょ。放血のことをわすれたの? それで看護師が一人亡くなったのよね?」
「はい」葛西は早瀬の手を取り起き上がると、うなだれて答えた。「考えなしでした。申し訳ありません」
「彼らのことは、もう救急に任せるしかないわね」
 と言うと、早瀬は救急隊に尋ねた。
「その子の容体は?」
「浅いですが、まだ呼吸はしています。しかし、これではセンターまでもつかどうか……」
「出来るだけのことはしてやってください。葛西君、ここは狭いから救急の邪魔になる。取りあえず外に出るぞ」
 早瀬は葛西を促し先に階下に向かわせると、自分も階段を降り始めた。
 葛西は階下で早瀬を待っていた。早瀬は「早くここを出よう」と言い、葛西の背に手を置き歩きだした。玄関ドアの近くまで来ると、早瀬は立ち止まって葛西の方に向き、言った。
「思いつめた顔をしているわね」
「すみません。どうしようもないことは判ってたのに……」
「高校生ならまだまだ子供だ。助けたい気持ちはわかる」
「……」
「私はこれ以上、警察官の犠牲を出したくない。職務上、そうも言っていられないことも起きるだろう。だが、無茶はするな」
「早瀬隊長」
「頼む」
 早瀬はそう言うとまた前を向き、ドアを開け外に出た。葛西もその後に続く。外の明るさと庭の木々や花々が葛西の目に飛び込んできた。上を見ると爽やかな秋空が広がっている。葛西は早瀬と共に、しばらく上を見たまま立っていたが、深いため息をつくとその場に座り込んだ。早瀬もその横で、エントランスの階段を椅子代わりに座った。門扉の方から青木が駆けてくるのが見えた。

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