4.翻弄 【幕間】その朝

 祐一はテレビを食い入るように見ていた。
 早朝、良夫と彩夏双方の時間差電話攻撃で叩き起こされ、中止になったはずの祭りの行事が始まっていると知らされた。急いで居間に駆け下りてテレビをつけると、画面に異様な光景が映し出された。霧雨のそぼ降る中、沿道に蝋燭やペンライトを持つ人の光の帯が並ぶ中を水法被を着た男たちが黙々と歩いている。彼らの担ぐ山も、いつもの勇壮さはなく菊の花に縁どられている。祐一はそれを見ながら怒りと悲しみと虚しさの入り混じった感情があふれて来るのを感じた。
「祐一、せっかくの休日なのにこんな朝早くから何見よおと?」
 物音に気付いて起きてきた母親の真理子が、居間で食い入るようにテレビを見ている息子に不審そうに聞いた。
「母さん、追い山があってる…。いや、全然追ってないけど、歩いているけど…」
「え?」
 真理子は祐一の要領を得ない回答に戸惑ったが、テレビの映像を見て意味を理解した。
「まあ、なんてこと。まるで…」
 真理子はその後の「葬列ね」という言葉を飲み込んだ。彼女はそのあと無言のまま祐一の傍にならんで座った。
「昨日、みんなで会った時、学校が休みだから早起きして見に行こうかって話もしてたんだ…」
「そっか」
「なんやろう。この気持。悲しくって辛くってムカついて、なんか支離滅裂なんだ。本当は今にも叫びそうなんだ」
「祐一…」
 真理子はかなり混乱しているらしい息子にどう接していいかわからなかった。真理子は、自分の両膝をわしづかみにして感情を押えている息子の手にそっと手を伸ばして上に重ねた。そして妙に冷静に言った。
「あんたが取り乱す理由はよおくわかるよ。でも、子供のあんたにはどうしようもないことやろ。無茶は絶対にしたらいかんよ」
「うん、わかっとお。もう母さんたちには心配かけんって誓ったけん」
 祐一はきっぱりとした口調でそう言ったが、目は画面から逸らそうとはしなかった。その目から涙が一筋すぅーっと流れていった。

 

 川中幸子はテレビのニュースを食い入るように見ていた。
 彼女はC市からF市内の女子高に通う17歳の少女だ。テレビの前から動かない娘に、母親がしびれを切らして言った。
「幸子、いいかげんごはん食べなさい。遅刻するわよ」
「ちょっと待って。もうじき昨日の爆破事件の犯人って映像が流れるんだよ」
「昨日の事件は気になることだけど、そんなの見てたら本当に遅れちゃうでしょ」
「だって、こいつのせいで追い山無くなっちゃったんだよ。ほんとなら希美ちゃんたちと見に行く予定だったのに」
「お母さんはむしろほっとしてるわよ。もし追い山の最中にやられてあんたらが巻き込まれてたらって思ったらぞっとするわ」
「嫌なこと言わないでよ、もう」
 幸子は母親の言葉からその光景を想像して少し怖くなってしまった。
「きっと今夜のニュースで特集が組まれて嫌という程そいつの顔が見られるから、取り敢えずさっさと食べてちょうだい。片付かないでしょ。澄(トオル)はもうすぐ食べ終わるっていうのに」
「はーい」
 幸子はしぶしぶ食卓に向かい自分の席に腰かけた。
「やーい、怒られてやんの」
「うるさい。暇な小学生は寝てな!」
 小学校6年の弟にからかわれて、幸子は腰かけざまに弟の頭をはたいた。
そもそもあんた、祝日なのに何早起きしてんのよ」
「姉ちゃんのせいで起こされたんだよ! 一緒に朝ごはん食べろって。そもそも姉ちゃん、なんで祝日にガッコ行ってんだよ!」
 澄が姉の口調を真似て言った。
「受験生には祝日などないのだ」
 幸子が少し不満そうな表情で言った。
 

 

 美波美咲は中止された追い山の代わりに行われた行進の取材が終わって取材車の中でコンビニのコーヒーを飲みながら一息ついていた。
「ぅま~。頭がスッキリするわ~」
 美波はそう言いながら窓の外を何の気なしに見た。すると、道路向かいの歩道の人ごみの中に見たことのあるような女性がいたような気がした。あれっと思ってその方向をよく見直した。美波にはそれが誰かすぐにわかった。
「極美だっ! あの女いったい何しに!」
「そりゃあ、取材しに来てるんでしょうが」
 すかさず小倉が言ったが美波はコーヒーを彼に渡すとドアを開けて飛び出そうとした。
「もうほっとけって。あんなの追っかけるより、そろそろニュースの時間だぜ。見んといかんやろ」
「あ、そうだった。でも気になるなあ…」
 赤間に言われて思いとどまったが、美波は悔しそうな表情で極美の方を見ていた。極美もニュースのチェックをするのか、植樹帯のブロックに腰かけてスマートフォンを見始めた。
「あー、なんか腹立つ~。やっぱり一言言ってくる!」
 美波はそういうとさっさと車から降りて行った。小倉がため息をつきながら言った。
「あ~あ、ニュース始まったのに行っちゃったよ」
「あーなったら仕方ないさ。とりあえず俺たちだけで見ておこう。昨日の爆破事件の捜査に進展があったって話だ」
「なんだって!?」
「とにかく見ようや」
 二人は車載テレビを覗き込んだ。昨日のH駅爆破事件はやはりトップニュースだった。
 美波は人を避けながら足早に極美の方に向かっていた。思ったより距離がある。しかも道路を渡らねばならなかった。すでにけっこうな交通量があるので横断歩道を渡らねばならない。美波は信号に足止めされてイラついていた。その間美波は極美の様子をずっと伺っていたが、スマホの画面を見る極美の取り澄ましたような表情が驚愕に変わったことに気が付いた。極美は立ち上がって少しよろけながらも何かから逃げるように走り去って行った。
「あ、ばか、こら、行くな!」
 美波は信号が変わるのを待たずに道路を渡ろうとしたが、その美波の手を掴む者がいた。
「何すんのよ!」
「まだ信号は赤だぞ」
「オグちゃん邪魔しないでよ」
「いいからこっちにこい。とにかこくれを見ろ!」
「え? だって…」
「もうあいつ逃げちまっただろーが。とにかくこれを見ろって」
 小倉は美波の手を掴んでひっぱり人の波から外れ近くにあったコンビニの前に連れて行くと、手にしたタブレットを見せた。美波は目の前に出されたニュース映像を見た。それには黒岩が撮っていたらしい犯人の映像が繰り返し流されていた。遠景を切り取って拡大したもののようでよくわかりにくいが、美波にはそれが誰かすぐに判った。
「こ、これは…!」
「間違いないんだね」 
 タブレットの画面には、電車で美波を暴漢から救ってくれた男の映像が映っていた。
「何よ、これ…、うそやろ、悪い冗談…」
「信じられないけど、これが警察の発表した自爆犯の映像なんだ。名前は古河勇(ふるかわいさみ)と報道されている」
「…なんか平凡な名前ね」
「感想はそれかよ。とにかく車に戻ろうぜ。多分デスクから連絡があるって」
「そうか、極美もこれを見たんだ。だからあんなにうろたえて…」
「やっぱ、ヤバいよ、あの女も」
「くっそー、せっかく捕まえるチャンスだったのに」
「だーかーらーやめとけって。とにかく戻ろうぜ」
 小倉は逃げた極美にこだわる美波を引っ張って車に戻った。すると、赤間が運転席で怒鳴った。
「おい、デスクが取材の続きは後回しにしてすぐに帰って来いってよ」
「は、早っ!」
 美波と小倉は同時に言うと、焦って車に乗り込んだ。

 

 幸子は駅に着くと女性専用車両の止まる位置の上りホームに急いだ。母の言うとおり、やはり時間がなくなりかなり走る羽目になってしまったのだ。途中、クラスメートの藤田希美と会ったが、いつも一緒に女性専用車両に乗っていたのに、反対方向に向かっている。
「あれ、希美ってばどこ行くの」
「ありゃぁ、さっちゃん、おはよ」
「あ、おはよう」
「実はねえ、今日から上田君と一緒に通うことになったんだー」
「へ?」
「あー急がんと急行電車出ちゃう。後で説明するねー、じゃあ~」
 そう言うと、希美は駈け出した。その先では上田少年が手を振っていた。
「いったい何事?」
 幸子は何が何だかわからずに一瞬ぼやっとしたが、発車メロディの音で気付いて目当ての車両に走った。ギリギリ飛び乗って気づいた。
(今日は女性専用車両はないんだった!)
 女性専用車両は平日の朝だけだったのを忘れていた。
(どの車両でも良かったやん! こんなことなら希美と一緒に乗ってお邪魔虫してやれば良かった!)
 幸子が不毛なことを考えている間に、電車はゆっくりと走り出した。

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4.翻弄 (1)分岐点

 由利子は、なんとか起きていつものジョギングに出かけた。実際とてもそんな気にはならなかったのだが、いつも通りの生活をすることが日常を取り戻すための一歩だと由利子は思ったのだ。それに、何かしら体を動かしていないと心が奈落に落ちてしまいそうだった。自分に負けてチームから外されること、それだけは避けねばならない。
 昨日ずいぶん泣いたのとほとんど眠れなかったことで頭の芯がしびれたようだった。起きるのもかなり辛かったが、体と心に鞭打って起き上がった。
 外は雨の余韻が残っていて時折霧雨が降っていた。それでも景色はいつもの通りのどかで、時折出会う犬を散歩させる人や同じくジョギングやウォーキングをする人もいつも通りで、昨日大惨事があったことがまるで夢のように感じられた。いや、むしろ今が夢のような気がした。昨日のショックと睡眠不足で離人症のような状態になっているのかもしれない。
 そんな状態で走っていると、後ろから声がした。
「篠原さん、おはようございます!」
 声の方を見ると、武邑が駆け寄ってきた。
「あ、おはようございます」
 由利子は挨拶を返したが、足を止めずジョギングを続けた。それは、煩わしいと思ったと共に、昨日と同じようなシチュエーションでの気持ちの落差に戸惑ったせいもあった。
「今日はそっと護衛するつもりでしたが…、すみません。昨日は大変でしたね。なんかふらふらしてますが大丈夫ですか?」
「はあ、どうも。なんとか大丈夫です。ありがとうございます」
 と、由利子は苦笑いして言った。いつも通り走っていたつもりだったが、武邑が心配して声をかけてくるほどふらついていたらしい。
「僕も本当なら事故現場近くにいたはずなのですが、長沼間と共に別件で呼び出されたんで難を逃れました。富田林さんたちは気の毒でした」
「え? ふっけ、いや、富田林さんと増田さんが巻き込まれたんですか!? まさか…?」
 由利子は驚いて立ち止まり、振り返りながら言ったが、まさかの後の言葉につまった。
「い、いえ」武邑は由利子の不安を払拭するようにすぐに答えた。「直接被害には遭わなかったのですけどね、近くにいたために真っ先に現場に駆けつけて救助に当たったのですが、そのせいで防護服を着ていなかったから…」
「では、感対センターに隔離されているのですね」
 由利子は少し安堵した表情で言った。しかし、ウイルスに曝露された可能性がある限りは安心できないことを由利子は知っており、その表情はすぐにまた曇った。
「大丈夫ですよ。彼らはそう簡単に負けません。きっと無事に退院出来ますって」
 と、武邑は由利子を力づけるように言った。
「そうですね。きっと大丈夫ですよね」
 由利子はそういうと再び走り始めた。武邑は少し間をおいてその後に続いた。由利子は後ろの様子を見たが、ありがたいというより煩わしさが勝っているのを実感した。いつまでこんなことが続くのだろう。由利子は無意識にため息をついていた。すると、武邑がまた追いついてきて斜め後ろまで来て言った。
「ところで、朝のニュースは見られました?」
「各流れの山が行進しているのは見たけど、寝落ちしてしまって起きたら猫がリモコン踏んだみたいでテレビが消えてたんで…」
「おや、猫ちゃんが?」
「時々踏んで消していくので困ります」
「エコで良いじゃありませんか」
「逆に点けていくときもあります。会社から帰ったら消したはずのテレビの音がしてたことが何度か」
「それは困りますね。エコじゃないです」
「そうですよね…。では、そろそろ時間なので」 
 由利子はそういうと笑顔で会釈して、ジョギングの速度を上げた。なんとなく会話がちぐはぐなような気がした。正直、今、エコ何てどうでもいい。少ししてちらりと振り向くと、武邑の姿がかなり遠のいて見えた。由利子はほっとしている自分に気が付いていた。葛西や長沼間と違って安心できない何かを感じ取っていた。

 部屋に帰ってテレビをつけると、引き続き昨日のH駅自爆事件のことでもちきりだった。チャンネルを替えたが、どの局も特番を組んで、芸能人や有識者の意見と似たような映像を垂れ流していた。由利子は無性に腹が立ってきて、テレビを消してしまった。それで、由利子が犯人の動画を確認するのはもう少し後のこととなる。

「ははっ、やってるな」
 長兄こと碧珠善心教会教主白王翔悟は、朝の礼拝を終え執務室に帰ってすぐにテレビをつけ、愉快そうにそう言うと、椅子に腰かけた。そのまま足を組んで椅子の背にもたれかかった状態で組んだ手を膝の上に乗せ、視聴を続けた。若い女性を連れ、教主と共に入室した月辺洋三が机の斜め前に立ちともにニュースを見ながら言った。
「降屋は見事にお役目を果たしましたな」
「そうですね。彼は今までも碧珠のためにいろいろ働いてくださいました」
「特に保育園の空調の件は鮮やかでしたからな」
「今思えばあれがプレリュードとなりました。そして今回の降屋の行為はいずれ衆生を目覚めさせる布石になるのです。解脱した彼はもう一次元上に転生できましょう」
「降屋も一時迷いがあったようですが、振り切ることが出来たようで、安心いたしました。しかも長兄さまが暗示で指名した2人のうちの一人、黒岩るい子を狙うことにも成功したのですから、あっぱれな最後でした」
「そうですね。このどちらかを見つけた場合、優先的にターゲットにするよう暗示を与えておりましたから…」
 そう言いながら教主は机の抽斗から写真を2枚取り出すと机に並べ、笑みを浮かべながら眺めた。1枚はネットから入手したらしい美波美咲のプロフィール写真で、もう一枚は居酒屋の前らしき場所で笑っている黒岩るい子の写真だった。遠くから撮った写真を彼女だけ拡大したと思われる写真で隣に背の高い男性らしき姿が一部確認できた。教主は黒岩の写真のみを手に取ると、ドアの近くに控えていた連れの女性を手招きして言った。
「これをそこのシュレッダーにかけてください」
「承知いたしました」
 女性は教主から写真を受け取ると、躊躇なくシュレッダーに入れた。写真はゆっくりとシュレッダーに消えていった。女性は表情も変えずにそれを見ていた。その美しくも冷徹な眼は、そこはかとなく月辺に似ていた。
 写真がすっかり見えなくなると、教主は満足そうに言った。
「これでまた一人、彼の元からいなくなりました」
「しかし、長兄さま。黒岩のような彼との接点が1度だけの者よりあの忌々しい篠原由利子を消した方が今後のためにもなったのでは?」
「たった一度親しく話しただけで消されたと知った時彼はどう思うでしょう。また、黒岩の死は篠原にとって計り知れないダメージとなり彼女の強靭な精神を蝕んでいくでしょう。心の弱った人間は取り込みやすい。彼女がこちらに堕ちればいろいろ使い道があります。消すのは惜しい存在です」
「しかし、彼女は危険です。早々に消した方が…」
「月辺、私の言っていることが理解できませんか?」
「失礼いたしました。私ごときが口出しすることではありませんでした」
 月辺は一歩下がると恭しく頭を下げて言った。
「すべては碧珠の御為に」
 教主はそれを見て満足げに頷いた。
「さあ、月辺、それからお嬢さんも。立ったままでいないで、どうぞそこのソファにお座りください。しばし共に我らが降屋…いえ、古河勇君が打ち上げた新章の幕開けたる花火の成果を見ようではありませんか」
「はい。ありがたくそうさせていただきます」
 月辺はそういうともう一度深く礼をし、女性もそれに倣って優雅に一礼した。そして二人はソファに並んで座ると80インチの画面に次々と映し出される特集映像に目を遣った。

 真樹村極美はシェルターに帰ってから、カーテンも開けず電気もつけず暗い部屋の隅で、毛布にくるまりうずくまってテレビを見ていた。
 早朝、自爆現場の駅近くに様子を見に行った時、たまたまスマートフォンで見たニュースで犯人と思しき男の映像を見て、危うく落としそうになるほど驚いた。それは降屋にとても似ていたからだ。しかし、極美は認めたくなかった。その犯人と称されていた『古河』なる男が確かに降屋なのか、テレビ画面で確認しようと思った。似ているだけの他人だと。
 しかし、幾度となく再生される犯人と称される人物の映像は、やや不鮮明ながら極美には降屋だと認めざるを得なかった。極美は混乱してベッドに倒れ込んだ。何が何だかわからなかった。完成させた覚えがないのに編集部に送られていた自分名義の記事。信頼していた降屋に対する疑惑とそれを確認する前に起きた降屋本人の自爆事件。さらに公表された名前や経歴がまったく違っていたこと。何から何まで混乱することだらけだった。しかし、それらの事からひも解くと、極美には一つの結論にたどり着くことが出来る筈だった。だが、極美はそのように考えようとはしなかった。自分がテロリストの片棒を担いでいたなどということは認めることは出来なかった。
 思い余った極美は震える手でスマートフォンを手に取り、以前教わった教主へのホットラインへ電話した。しかし、それはつながらず留守録になってしまった。仕方なく極美は至急お電話くださいというメッセージを入れて電話を切った。その途端、スマートフォンが激しく震え、極美は驚いて電話を取り落しそうになった。相手を確認すると、教主ではなくデスクの生嶋からだった。極美は急いで電話に出た。
「もしもーし」
 電話からは聞き慣れただみ声が聞こえてきた。極美は何故かほっとした自分に気が付いて少し驚いた。いい意味でも悪い意味でも判りやすい男だった。
「はいっ、極美です。おはようございます!」
「おはようさん。昨日今日で何か特ダネはあったのか?」
「い、いえ、今のところ、現場にも近づけないし…」
「なんだって!? バッキャロー!!!! おまえ、せっかく現場の近くに居ながら何をやっとった! 観光気分なら帰ってこいッ! 取材費は打ち切りだッ!」
「ま、待ってください」 
 極美は驚いて言った。軍資金を切られてはたまったものではない。極美は数週間前の窮状を思い出してぞっとした。 
「特ダネになりそうなネタならあるんです。ただ、確信が持てないのでもう少し待っていただかないと」
「あるんだな」
「もちろんです」
 生嶋の念押しに極美は咄嗟に答えてしまった。ついさっき生嶋の声を聞いた時なんでほっとしたんだろうと思い情けなくなった。
「そーかそーか。すまんな、つい新聞社に居た時の気持ちになって焦っちまった。自爆事件で情勢が変わったんで次号掲載予定の記事は、申し訳ないが没になったんだ。それで、来週掲載に間に合うよう急遽、今の状況に沿った記事に書き直してくれ」
「承知しました! 近いうちに必ず!」
「頼んだぞ!」
 生嶋は、言いたいことを言うとさっさと電話を切った。
「ああ言ったけど、どうしよう…。降屋さんの写真なら何枚かあるけど、まさか出すわけにはいかないし…。頼れる人はもういないし、もう、本当に何が何だかわからない。怖い、怖いよ…」
 極美は自分の置かれた状況が今どんなに危ういかということが、漠然とではあるがわかってきた。極美は毛布を引きずって這うようにベッドに上がった。そのまま毛布をかぶり、震えながら丸くなった。不安と恐怖でそうせずにはいられなかった。

 由利子たちは朝の合同会議を終え、感対センターに向かっていた。安置されている黒岩の遺体に面会にくる娘に会うためだった。ウイルスに汚染されたかもしれない遺体は検死が終わって火葬が終わるまで返すことが出来ないため、黒岩の遺体は感対センター保管という状況にならざるを得ないからだ。
 昨日の今日で、何となく空気が重く雑談もし辛い雰囲気だったが、それに我慢が出来なくなったのか運転中のギルフォードが言った。
「しかし、ひどい会議でしたね。縦割り社会の悪い面が浮き彫りにされたようでした」
「そうですわね」
 と紗弥が答えた。
「各々が勝手な言い分を通したがって譲らないし、知事はつるし上げ同然で責められても謝るばかりで打ちひしがれているし、その分あの厚労省のイヤミ男が幅を利かせていましたわ」
 紗弥が珍しく多弁になっていた。ギルフォードは森の内の姿を思い出したのかため息交じりで言った。
「知事のあんな姿は見たくないです。早く浮上して欲しいですが無理でしょうかねえ」
「大丈夫だよ」
 そう言ったのは、今まで黙ってうつむいた由利子だった。
「きっと立ち直るよ。だって、モリッチーの眼は死んでなかったから。私、知事と目があったんだ。その時力強く頷いてくれた。頑張ろうって」
「そうですか。でも、ユリコ。本当にあなたはルイコさんのお嬢さんに会うのですか? 大丈夫ですか?」
「だって、黒岩さんと最後に…最後に話したのは私だから、だから…ちゃんと伝えなくちゃ…」
「時を置いて手紙に書いてもいいと思いますよ」
「だめだよ。時が経ったらどうなるかわからないよ。急に住所が変わるかも知れないし、私たちだっていつ何が起きるかわからない」
「ユリコ」
「黒岩さんだって、こんなことになるなんて誰が想像できた?」
「確かにそうですが…」
「心配しないで。それに、肩の荷を背負ったままなのはもっと辛いんだ」
 由利子はそういうとギュッと下唇を噛んだ。

 長沼間は、武邑と共に公安第二課課長の大野に呼ばれて古巣に戻っていた。
「長沼間君。昨日N浦崎に上がったエビスさんだが、検視結果が上がってきた。それによって身元も判明したよ。兼ねてより我々がマークしていた仲川庄吉に間違いないことがわかった」
「昨日我々を呼びつけて確認させたアレですか。海産物にはごちそうだったようですが」
 と、長沼間が思い出してゲンナリしながら言った。「明らかに沈められた体(てい)のエビスでしたが、夏場でしかもかなり太った男だったので思いの外早く浮いてきたんでしょうな。それにしても身元判明が早かったですね」
「君の確認があったし、歯科のカルテも入手済みだったからな。それにヤツには詐欺の前科もあった」
「タワーマンションの馬鹿共に例の赤いドラッグ…っと、なんて名だっけ?」
 長沼間に聞かれて武邑が答えた。
「ヴァンピレラ・シード、通称Vシードです」
「そいつを売りつけた中目黒大吉と仲川が同一人物なのは我々の聞き込みで判明しています。仲川が今回のテロを行っている組織の一員であったとして、何の目的でばら撒いていたのでしょう」
「Vシードの成分分析から、旧ソ連軍が開発していたアッパー系の強力な麻薬クラースヌイヴァムピラに酷似しているらしい。赤い吸血鬼という意味らしいが、量にもよるようだが、使用するとソフトに言えば色情狂のようになるらしい」
「ソフトでそれですか」
「副作用も強く、常習者は無気力になり思考力を奪われる。さらに麻薬供給者や性交相手の意のままに行動するようになる。そもそもは冷戦時、抵抗勢力の無力化の目的で作られ、実際に使用された事実もあるようだが、その特性を利用して女性をスパイにするためなどにも使用されたようだ。ソ連版『くノ一(※)の術』だな」
「まさにヴァンパイアに血を吸われた状態じゃあないですか。そんなものを売りつけるなんて何てやつだ!」
 と、武邑が憤慨して言った。長沼間はそれを制して言った。
「そんな冷戦時の遺物を、なんでリニューアルしてばら撒く意味があるのでしょう…」
「Vシードは覚醒剤の数倍精神に及ぼす効果があり常習性も強く、使い方によっては数回の使用で廃人になる可能性があるそうだ。そんなものが危険ドラッグ、いわゆる脱法ハーブなどと称して水面下で若者の間などに流通していくと、とんでもないことになる。この国は亡びるぞ。しかも、例の馬鹿者共のケースからサイキウイルスの劇症化を促進する可能性もでてきた」
「くそっ、連中はウイルスと薬物の両方を使って本気でこの国を滅ぼすつもりか…」
「しかし、それを担っていたらしい仲川は消された…。何故だと思うかね」
「タワーマンションの件でVシードが表沙汰になったから…ですか」
「おそらくな。もっと水面下で流通させるつもりだったのかもしれん」
「人を操れるなら、昨日の自爆犯もVシードの常習者だったのでしょうか。感染もかなり進んでいたようですが」
「それは何とも言えん。検死では薬物の反応はなかったようだが。…ところで武邑」
 突然大野に呼ばれた武邑は驚いて返事をした。
「はいっ」
「ずいぶんと大人しいが、なにか気にかかる事でもあるのか?」
「すみません。敵のやり方に怒りがこみあげて言葉がありませんでした」
 武邑はいかにも憤慨を隠せないという表情をして答えた。大野はそんな武邑を見据え厳しい表情で言った。
「それならその気持ちを忘れるな。我々はいち早く情報を得ていたにも関わらず、後手続きだ。とうとう自爆と言う暴挙まで許してしまった。我々が背水の陣に居ることを肝に銘じておけ」
「はっ!」
 武邑は姿勢を正して返事をした。長沼間はそれをちらりと横目で見ると、
「Vシードの出自からしてやはりロシアとの関係が濃厚になりましたな」
「あの国はソ連崩壊のあと武器や大量破壊兵器さらには薬物と流出が続いているからな。そっちは別働隊が調査中だ。君たちは引き続き結城の行方と古河の身辺を洗ってくれ。特に古河の方はなにか引っかかるかもしれん」
「わかりました。私もこれ以上後手後手でいることは我慢できませんから。多少強引な手を使ってでも手掛かりをつかんでやります」
 長沼間はそういうと一礼して踵を返した。
「行くぞ、武邑」
「はい! では、失礼します」
 武邑も一礼し足早でさっさと出て行った長沼間の後を追った。

「長沼間さん、待ってくださいよ」
 武邑は駆け足で長沼間に追いつくと少し恨めしげに言った。
「まったくもう、何で歩いているだけなのにそんなに早いんですか」
 しかし、長沼間はまったく意に介さず足を緩めなかった。彼は忌々しそうな表情でぶつぶつ言っていた。
「くそっ、こっちだって好きで後手に回っているんじゃねえっ。やはりなにか見えない手が妨害している…」
「え?」
「すまん、戯言だ。忘れてくれ」
 その後、二人は特に会話もなく駐車場に降り、車に乗った。長沼間は運転席にドカッと座ると背もたれに寄り掛かって目をつむりながら武邑に訊いた。
「ところで、今朝は篠原の護衛には行ったのか?」
「はい。昨日の事件の後だったんでどうかと思いましたが、行ってみました。彼女はいつもの時間にジョギングしていました。少し辛そうではありましたが大丈夫そうでしたよ」
「そうか。そう見えたか」
 長沼間はそういうと、体を起しシートベルトをしめた。
「さてと、先ずは新たな手掛かりの古河の方からだ」
「はい。彼に関する資料はタブレットからアクセスできます」
「じゃあ、取り敢えず奴の棲家に行くぞ」
 長沼間は勢いよくエンジンをかけると車を発進させた。

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4.翻弄 (2)緋色の不安

 由利子たちは感対センターに着くと、急いで霊安室に向かった。
 感対センターの中はいつにもまして騒がしくなっていた。3人はそれが黒岩の家族が来ているからだと思っていた。
 皆無言だったが、部屋の近くまで来た頃ギルフォードが言った。
「東京駅からの新幹線の便が終わっていたので、特急と夜行列車を乗り継いで来られたそうで、9時過ぎに到着されたということです」
「やはり長野からは遠いですわね…」
 紗弥が答えたが由利子は黙って足早に先頭を歩いている。しかし、部屋の近くまで行くと、紗弥が足を止めて言った。
「わたくし、部外者だと思うので、ここで遠慮させていただきたいのですが……」
 紗弥には珍しく及び腰な申し出だった。
「ユリコが心細いと思いますよ。出来たら一緒にいて欲しいです」
 ギルフォードがとりなすように言った。紗弥は一瞬辛そうな表情をしたが、数秒目を閉じたあと「…はい」と答えた。
 由利子もまたドアを前にして戸惑っていた。中から泣き声が聞こえてきたからだ。
「どうしますか? 落ち着いてからでもいいのですよ」
「いえ、行きます」
 由利子は意を決してドアをノックした。ドアが開き、山口朋恵の姿が現れた。
「ああ、由利子さん、皆さん……、ちょっと待ってください」
 山口はそういうと部屋の方に向かって問うた。
「先ほどお話しした黒岩さんのお友達がいらしてますが…」
 すると、中でぼそぼそ話す声がした後、男性の声で「どうぞ」というのが聞こえた。山口がそれに応えるように言った。
「どうぞ、お入りください」
 由利子は背後に立つ二人を振り返った。ギルフォードは静かに首を縦に振った。由利子は前を向くと、「失礼します」と言って中に入った。後の二人もそれに続いた。
 ギルフォードが中に入ろうとすると、山口が遮った。
「いろいろ説明しようと来たのですが、今はみなさんそんな状態じゃなくて…。でもそれは想定内でしたがスタッフ内で想定外のことが起きたらしくて……」
「え?」
「なので、ちょっと持ち場に帰ります。それでアレク先生、説明は後程私がしますけど、私のいない間のフォローをお願いしたいのですが…」
「いったい何があったのですか?」
「実はこちらも情報が交錯していて…。もう少し状況がはっきりしてからお伝えしますので…」
「わかりました」
「では、すみませんが…」
 山口はそういうと、ばたばたと走って行った。
(”あの人があんなに余裕ないなんて、いったい何が起きたんだ?”)
 ギルフォードは不安になったが、それを抑えて少し遅れて室内に入った。
 そこには隔離された遺体安置室のガラス窓の前に老夫婦と少女が寄り添うようにして立つ姿があった。祖母が遺体に向かって何かを言っていたが泣き声交じりでほとんど何を言っているかわからなかった。祖父のほうはそんな妻の肩を抱いて無言でいた。
 それとは対照的に、少女はぼんやりとガラス窓の中を見ていたが、由利子たちが入ってくると彼女らの方を見てぼそりと言った。
「あれ、本当にお母さんなのかな…」 
 孫からの思いがけない言葉を聞いて祖父母は耳を疑った。
「明香里(あかり)!?」
「明香里ちゃん、何を言ってるの? しっかりして!」
 明香里はそれが聞こえないかのようにして祖父母から離れると、まっすぐに由利子たちのほうに向かってきた。
「おばちゃん、お母さんの会社のお友達だった篠原さん? ですよね」
 由利子は明香里にまっすぐ見つめられて戸惑いながら言った。
「え? ええ、そうです。篠原由利子です」
「あれ、お母さんじゃないですよね。死ぬ前のお母さんと電話してたってウソ情報ですよね。お母さん、今頃おみやげいっぱい持って長野の家に帰って、誰もいないからきっと困ってる…」
「明香里ちゃん、それは…」
 由利子には何と言っていいかわからなかった。明香里は今度は祖父母の方を向いて言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんが死んだって間違いだよ。ねえ、もう長野に帰ろうよ。お母さん、きっと待ってるから」
「明香里ちゃん…」
 口籠る祖母に代わって祖父が口を開いた。
「残念だけど間違いじゃないんだよ。本当はわかっているだろう?」 
「おじいちゃん、なんでそんなこと言うと? お母さんが明香里を置いて死ぬわけないもん。お父さんが明香里とお母さんを守ってくれてるって言ってたもん」
 そういうと、明香里はうわああと堰を切ったように泣き出した。
「明香里ちゃん…!」
 祖母は慌てて孫娘に駆け寄り抱きしめてすすり泣いた。祖父はそんな二人の肩を抱いてつぶやいた。 
「ずっとお母さんと二人だけだったんだもんなあ、辛いよなあ、悲しいよなあ…」
「ごめんねえ、こんなことならもっと早く……。おばあちゃんが悪かったよねえ…」
 明香里は首を横に振ると言った。
「明香里も悪いと。友だちと離れたくなかったから」
「あの……」
 由利子はようやく意を決して言った。
「明香里ちゃん。黒岩さ…いえ、お母さんから伝言があります」
 明香里は泣きじゃくりながらも由利子の方を見た。由利子は黒岩の言葉をしっかりと伝えるために、感情を極力抑えねばならなかった。
「『ごめんね、愛してるよ。ずっと見守ってる…』.…それから先は、もう……」
 由利子はようやくそこまで言うと、下を向いた。
 明香里は祖父母から離れてガラス窓に縋りついた。
「お母さん、お母さん、おかあさん…!! 目を覚ましてよ、明香里を置いていかないでよぉ」
 明香里は窓に縋りついたまま幼い子供のようにわあわあ泣き始めた。祖母が再び駆け寄ってしゃがむと、慰めの言葉をかけながら孫娘の背中をさすっている。由利子たちは成す術もなくそのまま立ち尽くしていた。
 祖父が、妻と孫娘から離れて由利子たちに近づいてきた。
「すみませんがお引き取りください。もう私たち家族だけにしてください」
「え?」
 由利子は一瞬戸惑った。由利子も黒岩に最後の別れをしたいと思っていたからだ。
「で、でも…」
「わかりました」
 ギルフォードが由利子を制して言った。
「お暇いたしましょう。この度は本当にご愁傷様でした」
 そう言いながらギルフォードが深く一礼すると、由利子と紗弥がそれに倣って頭を下げた。
「さあ、二人とも行きましょう」
 ギルフォードに促され、由利子と紗弥は彼の後に続いて霊安室を出て行った。出て行きさまに聞こえた祖父の言葉が由利子の胸に突き刺さった。
「あれは今知らせることか? しかも、涙も流さず冷淡に! もう一人は泣いていたのに」
 由利子は愕然とした。心は張り裂けそうに悲しいのに、涙が全く出ないのだ。改めて紗弥の方を見ると、黒岩老人が言ったとおり涙を流しており自分でも戸惑っているようだった。
「ごめんなさい、わたくし、どうしてこんな……」
「サヤさん、それはね、君が普通に生きているってことですよ。気にしなくていいんです」
 ギルフォードは紗弥に優しく言い、その後由利子に向かって言った。
「サヤさんはね、子供の頃すごく辛いことがあって、ずっと普通に泣くことができなかったんです。ユリコ、人はあまりに辛すぎると泣くことが出来ないことがあるんです」
「辛すぎると泣けな…い…?」
「そういうこともあるんです。でもユリコ、涙は必ず戻ってきます。大丈夫」
 そう言いながらギルフォードは由利子の頭を優しくぽんぽんとたたいた。
「でも今は落ち込んでいる暇はありません。トモさんが言ったことが気になります。行きましょう」
「はい」
 由利子と紗弥が同時に答え、ギルフォードの後に続いた。

 碧珠善心教会F支部の団欒室である円環の間では、信者たちが壁面に設置された大型のテレビを食い入るように見ていた。誰もが昨日起きたH駅爆破事件のニュースに釘付けになっていた。
 ここにいる信者の殆どはこの事件の真の首謀者が誰であるか知らぬまま、恐怖や怒りを口にしたり思い思いの憶測や推理 を述べたりしていた。
 その中で、白いスーツの中年女性が黙って食い入るように画面を見ていた。その女性は教主室にいた教主のお世話係の女性だった。彼女は無表情だったが、ニュースが死傷者のことになり、死者の写真が出ると口元や目元に微かな笑みが浮かんだように思えた。

 ギルフォードたちがスタッフステーションの中に入ると、なんだか異様にざわついていた。それは、今までの患者の容体悪化の時の緊張とはまったく違った空気だった。山口医師が何か必死に電話で話しおり、その周囲をスタッフが心配そうに囲んでいる。何か近寄りがたい空気を感じたギルフォードは一瞬躊躇して連れの二人を見ると、二人も困惑した目で彼の方を見た。
 ギルフォードは近くを通りかかった三原医師を捕まえて尋ねた。
「何が起こっているのですか?」 
「甲斐看護師と連絡が取れなくなっているらしいのです。今朝、春野看護師にメールが入ったそうで、詳しくは山口のほうに聞いてください。すみません、急ぎますので」
 三原は早口で言うと走り去って行った。ギルフォードはその後姿を見送りながら眉を寄せてつぶやいた。
「あちらはあちらで何かあったようですねえ…」
「ねえアレク、山口先生の電話が終わったみたいよ」
山口医師の様子を見ていた由利子が言った。
「ほんとだ。行きましょう」
 ギルフォードは足早に山口の方に向かい、由利子たちも後に従った。
 山口は受話器を置くと頭を抱えてため息をついた。
「トモさん、何かあったのですか?」
「アレク先生…」
 山口医師は少し躊躇したが、意を決して答えた。
「甲斐さんが昨日から休んでいて…。電話では体調不良ということで感染を心配したのですが、熱もないのでただの過労だろうから自宅待機して様子を見て、もし発熱したらすぐに電話するからと言って…」
「それで、発熱したのですか?」
「いえ、それが、今朝方当直の春野さんから電話があって、甲斐さんから変なメールが来た、と。それで、嫌な予感がしてメールを転送してもらったのですが、にわかに信じられないような内容で…」
「それはどんな?」
「それが、自爆犯の古河勇が甲斐さんの幼馴染で、今まで古河に仕事について悩みとか相談をしていたので、テロリストにウチ(感対センター)の情報が漏れていたかもしれない、というような……」 
それを聞いて由利子と紗弥が先に反応した。
「ええ? それじゃあ甲斐さんは自分でも気づかずに情報漏洩していたってこと?」
「そんな…、では、甲斐さんは今すごく後悔して苦しんでいるはずですわ」
 二人とも甲斐看護師とは何度か話して親しくなっていたので、驚きと心配で少し青ざめていた。
「そうなんです。その後すぐに私はここに駆けつけて、春野さんと一緒に甲斐さんに連絡をとろうと携帯電話(ケータイ)や自宅電話に何度も電話したんですが通じないんです。
春野さんは私にメールを転送した後、すぐに甲斐さんに電話したらしいのですが、すごく取り乱していて、瀬高亜由美の人工呼吸器を切ったのも、迷って古河に相談したらそうするべきだ、それが患者さんのためだよと強く言われたからだと言って、何度もごめんなさいと謝り続けていたと……」
「え? じゃあ、あれは甲斐さん一人の判断じゃなかったって…」
驚いた由利子が言い終わらないうちに、ギルフォードの声が遮った。その声は怒りを抑えた低い声だった
「自爆犯フルカワは、カイさんから情報を得ていただけではなく、患者の苦しみを目の当たりにして迷うカイさんを誘導して殺人をさせていたということですか」
「信じられませんが、そうとしか……。その後ふいに電話が切れて、何度かけても不在通知になったそうです」
「山口さん、それってヤバイんじゃない? 様子見に行ったほうがいいよ」
 由利子が言うと、山口は少しもどかし気に答えた。
「何度電話しても通じないので、春野さんが様子を見に行ってるの。私はここから何度も電話をして留守録を入れているのよ」
「タカヤナギ先生には伝えてますか?」
「ええ。ただ、昨日の爆破事件で念のため隔離されている人の中から発熱者が出たらしく、甲斐さんのことは私に一任すると言われて…。もう、私、どうしていいか……」
「トモさん、しっかりしてください。自爆犯がらみなら警察の対策本部にも連絡した方がいいでしょう。僕がジュン…カサイ刑事に電話しておきます。トモさんは連絡を続けて!」
「はい!」
 ギルフォードに言われて山口医師ははじかれるように受話器を取った。

 春野看護師は、甲斐の住むマンションの部屋の前まで駆けつけたものの、中に入れないでいた。通いの管理人がまだ来ておらず、電話しても留守録になっていた。
「もうっ、管理人なら常駐してなさいよっ! こんな時困るじゃない!」
 春野は仕方なくチャイムを鳴らしたりドアをノックしたり甲斐の名前を呼んだりを繰り返した。そのうちに両隣の住人が順繰りに玄関から顔をのぞかせた。
「どうしたの? 何があったの」
「祝日なのにうるせえょ、…って、看護師さんじゃん。デリヘルじゃないよね」
 右隣からは、中年の小太りの女性が、左隣りからは20歳代の若い男性が出てきた。春野は急いだために制服のまま来ていたことに気づいた。
「私の同僚がこの部屋に住んでいるのですが、音信不通になって……。部屋にはいるはずなんですが、鍵がないから…」
「へえ、お隣さん看護師さんだったんだ。で、管理人の親爺は?」
「いないんです。電話も出なくて…」
「あのくそ爺、また家で酒かっ食らって寝てんな」
 と、青年があきれ顔で言った。そういうことがよくあるらしい。年配の女性が続けて言った。
「数年前までここも管理人が常駐しとったんやけどねえ。よく気が付く働き者のおばあちゃんやったけど歳で辞めちゃって、後釜が経費節減で通いのパートになっちゃったのよね。で、来たのがあのぐーたらでマンションも荒れ気味になってさあ」
 春野には住人の愚痴はどうでもよかったが、前管理人がいてくれたら良かったのにと心底思った。仕方なく、チャイムを鳴らして声をかけ続けた。見かねた右隣に住む女性が言った。
「待っとき、おばちゃんが管理会社に電話してやるから」
 そういうと女性は部屋に戻った。
 
 ギルフォードたちは山口に代わって甲斐への電話を続けていた。甲斐に続いて春野も不在の状態で山口まで電話にかかりきりとなると業務に支障をきたすだろうと考えたからだ。しかし、何度かけても繋がらない電話に3人が焦りを感じ始めた頃、高柳から内線が入った。
「ギルフォード君、すまんが防護服に着替えて臨時隔離病棟まで来てくれたまえ」
「わかりました、今行きます」
 ギルフォードはモニターに向かって答えると、由利子たちに言った。
「何かあったみたいです。ここはお願いしますね」
「わかった。まかせて」
「いっていらっしゃいませ」
「すみません、行ってきます」 
 ギルフォードは二人に後を任せると、高柳のもとへ向かった。
 
 臨時隔離病棟は、平時に一般病棟として使われていたところを、前回のF駅で起きた大規模ウイルス曝露事件から感染の恐れのある人々を一時隔離する施設にしたところだ。施設の大きい病室に何人かのグループに分けて収容していたのだが、その一つから発熱者がでたということだった。
 看護師に案内されて、問題の部屋の前までくると、子供の泣き声がした。
(”子供?”)
 ギルフォードがそう思った時、看護師が言った。
「そうなんです。ここは小学生以下のお子様連れの方々のグループなのですが、まだお小さいお子さんが発熱されてて……」
「お母さんは?」
「ずっと抱っこされていますが、とにかく早く中へ」
 せかされてギルフォードが室内に入ると、部屋の隅の発熱者用パーテーション内に子供と母親がいるらしく、そのそばに高柳たちがいて子供をなだめていた。その反対側のかべ際に他の収容者が集まって様子を伺っているようだった。全員マスクを着け、子供たちをかばうように壁側に向けていた。
「ギルフォード君、よく来てくれた」
 高柳のほっとしたような声が病室に響いた。 
「まずインフルエンザの検査をしようとして近寄ったら、この姿におびえて火のついたように泣き出してな。すまんが何とかしてくれんか?」
「え?」
 深刻な場面を想定して緊張していたギルフォードは、思わず拍子抜けした声を出した。
「ベビーシッター代わりに僕を呼んだのですか?」
「こっちは真剣なんだ。泣きたいのはこっちだよ」
「さすがの先生も泣く子と地頭には勝てないと」
「諺はいいから早く来てくれたまえ」
 わあわあを通り越してぎゃあぎゃあ泣く幼児に、高柳はほとほと困り果てているようだった。隅に集まった収容者たちの中から「早くして」「その親子をここから出すか、僕たちを他に移すかしてくれよ」「私たちは大丈夫なの?」という声が出始め、高柳はその説明をするために彼らの方に向かい、入れ替わりにギルフォードがパーテーションに向かった。ギルフォードが中に入ると、泣き声が止まった。

「A型インフルエンザだったよ。今の季節からして、多分以前世間を騒がせた2009年型だ」
 由利子たちのところに戻って結果を待っていたギルフォードに高柳から内線が入った。
「そうですか。よかった」
「インフルもかなり辛い感染症だがね、アレ(サイキウイルス)よりかなりましだからな」
「ほかに感染は?」
「一応、皆の感染を調べたら、小学生の男の子が一人陽性だったよ」
「え? そうなんですか?」
「親に聞いたら、もう治ったと思っていたというんだ。しかし、発熱から4日しかたっていない。しかも若干熱があった。その親子も別の病室に隔離だ。なぜ、病室が余っているのに割り当てないんだという意見もあったが、こういうことさ。これからは問診だけでなく、隔離前にインフルの検査はした方がいいかもしれんな」
「大変ですね」
「まったくだ。しかも、その親は抗インフル薬を与えていないというんだ。副作用が怖いと」
「それでまだ熱が……。それにしても、いまだにそんなことをいう人がいるんですね」
「感染症は自分らだけのことじゃないという意識をもっと持ってもらいたいね。ひところよりはだいぶましにはなったようだが、まだまだワクチンや抗ウイルス薬に不信感を持つ人がいる。反ワクチン団体は未だに強力だ」
「我々の永遠の課題ですね」
「そうだな。さっきはありがとう。ほんとに助かったよ。私たちには子供がいないんで、扱い方がよくわからなくてなあ」
「新人のお父さんの表情(かお)をしていましたよ」
「からかわないでくれたまえ。ところでそっちの状況は?」
「まだです。ハルノさんの連絡では、カギ待ちとか」
「そうか」
「ミハラ先生は?」
「昨日の自爆で重傷を負ってここに運ばれてきた子が発症したらしいので急遽そちらに向かったよ。重症だったのに生き埋めになった同僚を必死で助けようとしていたらしい」
「あの、一番被害の大きかった売店ですね。一人病院で亡くなった」
「そうだ。一番爆心に近かったからな。以上報告だ。私も三原先生の方に向かう。ではまた」
 高柳は言うことだけ済ませると、すぐに電話を切った。ギルフォードが傍らに目を寄せると、由利子たちが必死に呼びかけを続けていた。
 

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4.翻弄 (3)潔癖の棲家

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 春野の不安とイライラが募った頃、葛西が管理会社の人と共に走ってきた。春野が思わず叫んだ。
「あっ、葛西さん! 早く、はやく!!」
「遅くなりました! 金子さん、急いでカギを!」
 葛西がせかすまでもなく、管理会社の金子智也(ともや)はカギを手にしていた。
「開けました!」
 金子の声と共に葛西と春野が室内に駆けこんだ。玄関口で少し遅れて駆けつけた九木(ここのぎ)の野次馬を制する声がした。先ほど春野が甲斐を呼ぶ声で出てきていた両隣の住人まで部屋に入ろうとしていたからだ。
「お隣さんが気になるのは判るが、ここからは私たちの仕事だ。管理会社への連絡等のご協力を感謝する」
 九木に言われて、右隣の住人の女性が少し誇らしげな、左隣の青年は少し不満げな表情をした。次に九木は金子の方を見て言った。
「金子さんも我々が呼ぶまで待機していてください」
「はい」
 金子は素直に答えた。こちらは心なしかほっとしたような表情をしていた。嫌なものを見る可能性を考えたからだろう。九木が甲斐の部屋のドアに姿を消した後、3人は一様に心配そうな表情で戸口の前に立っていた。

 甲斐の部屋は1Kで、玄関を開けるとすぐに少し広めのキッチンがあり、その先の部屋はしっかりとドアが閉まっていた。キッチン側には窓がないため薄暗く、棚の上に置いてある固定電話の留守録アリの赤いランプの点滅が目を引いた。
 春野はすぐに玄関わきのスイッチを押して灯りをつけ、キッチンを駆け抜け甲斐の部屋に駆けこんだ。
「いず美ちゃん!」
 部屋には窓際にベッドがあり、窓のカーテンもきっちりと引いてありこちらもかなり暗かった。
「いず美ちゃん、起きて!」
 春野がベッドに走った。葛西が部屋の灯りをつけ中に入る。淡いピンクと水色が基調の、若い女性らしく可愛い部屋だ。しかしベッドは綺麗に整えられたままで、甲斐の姿はなかった。
「いないわ! まさか……」
「看護師さん、こっちだ、風呂場だ!」
 九木の声だ。春野が血相を変えて葛西の横をすり抜けバスルームに駆けこんだ。バスタブから赤色の混じった湯が溢れて流れており、九木が甲斐を抱え立ち上がった。甲斐の左手首をしっかりと握っている。葛西がベッドから毛布を抱えてきてバスルーム近くに敷くと、九木が甲斐を寝かせた。半袖ショートパンツのルームウェアが濡れてペパーミントグリーンの生地がほぼ体半分薄赤く染まっていた。肌や下着が透けて見えて葛西は目のやり場に困った。
「代わります」
 春野が甲斐のそばに座った。
「よかった、息してる。いず美ちゃん、しっかりして! 今応急処置をするからね。刑事さん、救急車をお願いします」
 すでに九木が電話を耳にしていた。
「傷がかなり深いわ。おそらく出血性ショックを起こしています。一刻を争います!」
「わかった。急ぐよう伝える」
 九木が救急に電話をしていると、固定電話のベルが鳴った。葛西がすぐに受話器を取った。電話口からおずおずとした声がした。
「か、甲斐さん?」
「由利子さん、僕です、葛西です。似た名前ですが」
「葛西君! 着いたのね! 甲斐さんは?」
「バスルームで手首を切っていました。出血性ショックを起こしているみたいで、今春野さんが応急処置をしています」
 と言いながら葛西は甲斐の様子を見た。春野は甲委が冷えないよう毛布を掛けているところだった。葛西は二重にほっとした。
「救急車は?」
「九木さんが電話しています」
 葛西はそう言いながら九木を見ると、九木が左手でサムアップして見せた。
「あ、すぐ来るみたいです」
「よかった!」
「でも、まだ予断は許されません。出血性ショックは多臓器不全を起し命にかかわります。ああ、救急車のサイレンが聞こえてきました。甲斐さんが搬送されたら、僕たちはいったん着替えに戻ってから捜査を開始します」
「着替え?」
「はい。九木さんが甲斐さんを抱き上げた時に服が汚れてしまって……。僕もズボンの裾とか少し……」
「うわぁ(ひょっとして血まみれ?)、大変だったんだね」
「まあ、仕事ですから。ではまた!」
「わかった。くれぐれも気を付けてね」
「はい!」
 葛西は電話を切ると、再び甲斐の許へ向かった。

 由利子は受話器を置くと、机に突っ伏して「はああ」とため息をついた。
「ユリコ、どうなりました?」
 ギルフォードがすぐに尋ねた。紗弥も心配そうな表情で見ている。由利子は電話の内容を一気に説明した。
「そうですか。間に合いましたか。でも、一刻も早く病院に連れて行って輸血をしなければ」
「大丈夫ですわ。春野さんも一緒ですもの」
「そうよね。大丈夫だよね」
 由利子は自分に言い聞かせるように言った。
「しかし、これでかなり確信が持てました」
「何の?」
「この病院は以前から敵にマークされていたんです。しかも、巧妙に」
「そんな……」
 ギルフォードは唇に人差し指を当てると、声のトーンを落として言った。
「ここまでやれるとなると、上層部で敵に通じている者がいる可能性があります」
「最悪じゃん」
「じゃあ、まだ何か仕掛けられているということですの?」
 と、由利子も紗弥も併せて声を潜める。
「そうでないことを祈ります」
「冗談じゃないよ。それでなくても病院内に微妙な空気が流れているのに、これ以上何かあったら……」
「ええ、スタッフの信頼関係に深刻な亀裂が入りかねません。ここは感染を抑えるための砦です。それだけは避けなければなりません」
「じゃあ、甲斐さんは……」
「今の状態での復帰は無理でしょう。何より彼女の精神的ダメージは計り知れません。彼女には静養が必要です」
「優秀な看護師さんだったのに、あんまりだ」
 由利子はそういうと唇をかんだ。
「幸いというのも何ですが、入院でここから距離を置くことになるでしょうから静養になるのではないでしょうか」
 ギルフォードは気休めともとれる展望を言ったが、すぐにそれが楽観であることを思い知った。甲斐が感対センターの方に搬送されてきたからだ。
 驚いたギルフォードはストレッチャーについて走っている春野に駆け寄った。
「どうしたのです? ここより近くにもっと大きい病院があったでしょう?」
「ええ。最初は受け入れOKだったんです。それが、ここの看護師だと告げたとたんに受け入れられないと……」
 春野は悔しさで涙目になっていた。
「受け入れ拒否ということですか?」
「急患で空き部屋がなくなったということですが、明らかに不自然です。感染を恐れたとしか……」
「そんなバカな!」
「すみません、一刻を争いますので!」
 甲斐を乗せたストレッチャーと共に、春野はERのほうに行ってしまった。ギルフォードはその後姿を呆然として見つめていた。

 甲斐が自殺未遂をしたということ、しかも甲斐が一般の病院から受け入れ拒否をされたらしいことは、スタッフたちを動揺させるに十分だった。自分らが急病や大けがをした時も同様の仕打ちを受ける可能性があるからだ。高柳はスタッフの動揺や不安を和らげるために皆を集めて説明をする必要に迫られた。 
 すでに一部の看護師たちが、あからざまに不平を口にし始めていた。
「そんなじゃあたしたち、怪我や病気もできないじゃない、ねえ」
 甲斐と同年代の女性看護師が言った。
「まったくだぜ」
 と、少し年上の男性看護師が同調する。彼らは甲斐と同じ日に配属され、甲斐の「末期患者安楽死」事件までは仲が良かった連中だ。河部千夏の件で少し関係が回復したものの、なにかしっくりとしないものを感じていた。それが、今回のことでまた甲斐への不信感が頭をもたげていた。休憩中についつい愚痴が出る。 そこに、新人の女性看護師が便乗して言った。 
「それにしても、ほんっとうに迷惑なことする人ですよね、甲斐さんって」
「まったくやね。きれいごと並べてたけど、結局、そそのかされて人工呼吸器切ったんじゃん」
「しかも、そそのかしたのは自爆犯だって? ほんとは甲斐さんも自爆犯の仲間だったんじゃねぇの?」
 看護師長の小林澄子がそれを聞きつけ注意しようと彼らの許に向かおうとしたが、その前に、丁度通りかかった高柳敏江医師が彼らをたしなめた。
「あなたたち、疑ったり非難したりするまえに、甲斐さんが意識を回復することを祈るべきでしょう。同僚が危険な状態にいるのよ」
「だって、それって自分が勝手に……」
「あなたが甲斐さんの立場だったらどんな気持ちになるか考えたことある? だれだって瀕死の患者を目の当たりにしたら気持ちが迷うこともあるでしょう? 私にだってあれは辛かったもの、患者さんに付きっ切りになる看護師ならなおさらだと思う。そんな気持ちを利用されたのよ。覚悟を決めてやったことが実は陥れられていたってわかったら、誰だって耐えられないと思わない?」
「で、でもっ!」
「だって……」
 まだ何か言いたげな彼らに向かって敏江はさらに言った。
「河部千夏さんが一時危なかった時の甲斐さんの行動には迷いがなかった。甲斐さんは立派な看護師よ。断じて爆弾犯の仲間なんかじゃないわ」
「敏江先生のおっしゃるとおりよ」
 看護師長が出番とばかりにやってきて言った。
「さあ、みんな。疑念にこだわると迷路から出られなくなるよ。そういうのは警察や上の人に任せて、あなたたちは今すべきことをしなさい。今はここがあなたたちの戦場です」
「はい」
 彼らは返事をしたが、心から納得していない様子だったのが敏江には気になった。

 九木と葛西は家宅捜索が入る前の古河勇(振屋裕己という別名は割れていない)の部屋に居た。
 流行りのタワーマンション最上階にある部屋は、独身男性のものとしてはかなり綺麗に片づけてあった。というより、まったく生活感というものが感じられなかった。室内はすべて壁と天井はオフホワイトに床は明るい木目のフローリングで、絨毯・カーペットなどの敷物はない。寝室にはベッドと机と本棚のみ。家具はすべて黒で寝具は明るいグレーだった。飾り気も色味もない室内で、机の上にはパソコン、そして場違いに大きな地球儀のみが鮮やかな青色を誇っていた。
「ガイアか」
 九木がのどの奥でつぶやいた。それに気づかず葛西が訪ねた。
「古河は本当にここに住んでいたんでしょうか?」
 九木は答えずにキッチンの方に向かってさっさと歩いて行った。葛西はその後を追った。
「ふん、リビングダイニングにカウンター付きキッチンか。若造のくせに良いマンションに住んでいるな」
 九木はだだ広いDKのシンプルで機能重視のインテリアを一瞥して言った。同じくオフホワイトを基調とした室内にはシンプルで黒いサイドボードと応接セット、そして大型の最新薄型テレビが1台のみとという簡素なものだった。
「しかし、高級マンションに住んでいる割に、ずいぶんシンプルな調度だな」
「そうですね。なんか冷淡な感じがして落ち着かないです」
「君はそうだろうな」
 九木は背を向けたまま言った。
「じゃあ、九木さんは落ち着くんですか?」
 葛西の問いに答えず九木は無造作に冷蔵庫を開けた。最新型の冷蔵庫に天然水のガラス製のボトルが数本と牛乳や乳製品がいくつか、野菜室にはオーガニックらしい野菜が数種類あるだけで、肉類や既成の冷凍食品の類は全くなかったが、冷凍庫には食材らしきものが入ったフリーザーバッグが数個几帳面に並んでいた。
「ふむ、基本ベジタリアンだったらしいな。乳製品はOKだったようだ。宗教上の理由なのかアレルギーなどの問題があったのか」
「野菜も新鮮そうだし、乳製品の日付も新しいですね」
「うむ。まぎれもなくここで暮らしていたらしいな」
「なのに、この生活感のなさは何なのでしょう。生活の垢みたいなものが全くない」
「そうだな。垢といえばさっき風呂場も見てきたが、きれいなものだったよ。石鹸派だったようだが、あれは湯桶や湯舟に石鹸滓が付きやすいんだがな」 
「奇妙ですね」
「自分の存在を残さないよう訓練されていたのか、よほど神経質だったかだろう」
「訓練?」
「スパイなんかがそうだろう」
「訓練されたスパイ……ですか」
 葛西が怪訝そうな表情で返した。
「だとしたら、冷蔵庫に生鮮食品が残っていたというのは妙ですね」
「今回の事態は古河にとっても予定外のことだったのかもしれん」
「少なくとも昨日自爆するつもりはなかった、と?」
「その可能性はある。奴の寝室(へや)に戻ってみよう」
 二人は足早に寝室に戻った。
「彼は読書家だったようだな」
 殺風景な部屋の壁面に並んだ本棚には専門書からコミックスまで、あらゆるジャンルの本が並んでいた。
「ラテン語の本まであるぞ。この棚はほぼ宗教関係の本だな。仏教・キリスト教・イスラム教のみならずミトラ・ゾロアスター・北欧神話の類から最近の新興宗教まで各種取り揃えてある。すごいなO教団関連まであるな。こいつは相当な宗教マニアだ」
「あ、海神真教や大地母神正教、それに碧珠善心教会関連の本もあります。この前篠原さんがチェックしていた新興宗教の教団です」
「ほう、それは興味深いな。だが調べる価値はあるが、意味はない可能性もある」
「え? どうしてですか?」
「ひょっとすると宗教ジプシーだったのかもしれんな」
「宗教ジプシー?」
「納得できずに宗教を変え続ける者のことさ。だから現在そこにいたとは限らない」
「そう言えば園山看護師もそうでした。どの宗教に入信しても納得できなかったと。そして彼の懺悔、いえ告白からこのこれらの新興宗教がリストアップされたんです」
「そうだったな。さて、パソコンの中身は専門家に任せるとして、あと調べていないのは……」
 九木はドアの対面にある引き戸に向かった。葛西も後に続く。
「ウォーキングクローゼットでしょうか?」
「まあ、この部屋のデザインで押し入れってのは考えにくいな」
 そう言いながら九木は引き戸を開けた。そのとたんにクローゼットの中が青く輝いて見えた。
「わっ! なんですか、これは!?」
「やはりな」
 2畳ほどのクローゼットの中には衣類も何もなく、正面の壁には巨大な地球の衛星写真とその周囲にはA4サイズほどの様々な地上の写真が隙間なく貼られていた。両壁にはキャンドルライトが青く光っていた。センサーが反応して点灯したライトと地球の写真で一瞬クローゼットの中全体が青く光ったと錯覚したのだろう。二人は躊躇なくその中に足を踏み入れた。
「壁の写真の他はブルーのLEDキャンドルライトにお香があるだけか。特に特定宗教やテロ組織に関連するものはないようだな。さしずめ瞑想かあるいは礼拝に使われていたのだろう」
 九木はそういうと写真を前にしていきなり床に座った。
「君も隣に座ってみたまえ。犯人の気持ちがわかるかもしれんぞ」
「はい」
 葛西は九木の横に座った。少し見上げると巨大な地球が視野に入ってきた。そして周囲にランダムに貼られた、美しい自然や動物の写真とそれに相反する戦争や開発で破壊された風景や死んだ動物・人、核実験やチェルノブイリでの原発事故の悲惨な記録写真や福島原発事故で残され餓死した動物たちの死体などが否応なく目に入ってくる。
(僕らはこんなきれいな星を穢(けが)しているんだ……)
 葛西は悲しくなってしまったが、同時に自分の心の中になにかが沸き上がるのを感じた。
(だめだ、引きずられちゃあ……。古河は、ここで瞑想するごとにこういう思いを募らせていったのだろうか。彼は誰からそのような考えを刷り込まれていたのか)
 葛西が古河の気持ちに思いをはせようとしていると、横で九木がつぶやくのが聞こえた。
「地球を救うためか何か知らんが、馬鹿な奴だ。こいつがやったのは瓦礫と死体を増やしただけだ」
 葛西は、常に冷静な九木が実は怒りを内に秘めていたことを知った。

 葛西たちは写真を撮ると、家宅捜索の警官たちと入れ替わりに古河の部屋を出た。
「荒らしておらんでしょうな?」
 責任者らしい年配の男に聞かれて九木が答えた。
「大丈夫ですよ、天木警部。なーに、綺麗なものです」
「そうですかね。余計なことはせんでくださいよ」
「当然です。後をよろしく頼みます」
 九木はそういうと葛西を促し古河の部屋を後にしたが、振り返って言った。
「そうそう、ウォーキングクローゼットでちょっと休憩しましてな」
「なんだって?!」
「なかなか面白いところでしたよ」
「どういう意味だ?」
 天木は真意を測りかねて尋ねたが、九木はそのまま行ってしまった。
「くそっ、SVテロ対策の連中に優先権があるんだ。仕方がないが、忌々しいこった」
 天木は吐き捨てるように言うと、古河の部屋に姿を消した。

「葛西君、あの青い小部屋で何か思うことがあったか?」
 運転席に座るや否や葛西は九木に聞かれ、少し考えた後に口を開いた。
「地球上に起きている現実を突きつけられたようで、辛かったです。でも、人類を滅ぼすとか、あまつさえ自爆して人を殺めようとは微塵も思いません」
「まあそうだろう。だが、それを毎日のように擦りつけられたら君だって信じてしまうかもしれんぞ」
「洗脳……ですか。部屋を見た限りではかなり異様な印象がありました。あれも洗脳の結果なのでしょうか?」
「とにかく、例の新興教団3団体を早急に調べることだ」
「そうですね」
 葛西は答えたが、なぜかあの小部屋で見た光景が、何故か頭から離れなかった。それを見越したのか、九木が話し始めた。
「私が子供の頃、SF小説や漫画やアニメにはそういうテーマがあふれていた。人類が地球を滅ぼす、みたいなね。そのころは核実験が全盛だったりベトナム戦争などが泥沼化していったり公害問題が深刻だったりしてたせいもあるだろうがね。大予言というものもあったな」
「当たりませんでしたけどね」
 葛西が笑って言った。
「まあ、当たるとは思わなかったけどね。しかし、今の若者にはああいう話は目新しいものなのかな?」
「僕は叔父のおかげでそういう話には詳しい方なので、特に目新しいとは思いませんが」
「おじさんの?」
「はい。えっと、実は、叔父はSF好きの怪獣フリークでその手のドラマもよく見せられました。ノンマルトの話とか子供心にショックでしたよ」
「そうか。いいおじさんを持ったな」
「え? そうですか?」
 葛西はてっきり馬鹿にされると思っていたので思わぬ答えに驚いたが、九木は構わず話をつづけた。
「まあ、陰謀論が定期的に流行するようなものだろう。しかし、人類淘汰を目的としたカルトが殺人ウイルスを保有しているとしたら厄介極まりない話だ。早く正体を突き止めなければ取り返しのつかないことになるぞ」
「はい」
「富田林・増岡の2名が当面離脱したことで体制も立て直さなきゃならんだろう。とりあえず本部の方に戻ろう」
「はい、では県警本部に向かいます」
 葛西は復唱すると、車のエンジンをかけた。 
 

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4.翻弄 (4)ジュリアス

アメリカ合衆国東部時間:7月14日午後3時頃(日本時間:7月15日 午前6時頃)

 

 由利子に電話した約1時間後、ジュリアスはとある田舎駅に到着した。
 駅を出たところで携帯していた26インチタイヤの折り畳み自転車を開くとそれに跨り、行き先設定をしたスマートフォンをセットすると勢いよく自転車を発進させた。
 明日はギルフォードの待つ日本に向かうのだが、その前にどうしても確認したいことがあった。大阪の友人が経営する独自のネットワークを通じてようやく連絡先を突き止めたジュリアスは、かつての恩師に恐る恐る電話をした。あることから世捨て人のようになったと聞いていたからだが、電話の声は思いのほか力強く、ジュリアスの知っていた頃の恩師を思わせた。それで、思い切って質問をしたいことがあるというと、わかったという快い返事がきた。そして、久々に会ってその質問を含め、昔話をしようということになったのだ。

 

 しかし、さすがは世捨て人と噂されるだけあって、道はどんどん山の中へ続いていく。それでも好天に恵まれ爽やかな風を切って走るジュリアスは、それをあまり気にしている様子はなかった。
 木々から無数に木漏れ日が零れ、小鳥たちのさえずりがあちこちから聞こえ、至極平和な道のりだった。夏とはいえ蒸し暑い日本とは違って格段に過ごしやすい。ジュリアスは鼻歌まじりで軽快に自転車を漕いでいた。もうすぐギルフォードや日本の仲間に会えると、心は既に日本に飛んでいる。打ちのめされているであろう由利子の支えにも早くなりたいと思っていた。

 

 30分を優に過ぎた頃少し森が開け、古い屋敷が見えてきた。門扉は施錠していないと聞いていたので、躊躇なく開けて中に入り50mほど先にある玄関に向かった。広い敷地は殆ど木々に覆われまるで森の中の遊歩道を思わせた。自転車を降りヘルメットを取るとドアの前に立ちノッカーを鳴らした。しかし、応答はない。数分待ったがふと横を見ると旧式のインターフォン%があった。ジュリアスは苦笑しながらインターフォンの呼び出しボタンを押した。
 数秒後に家主のぶっきら棒な声がした。
”キング君かね?”
”そうです。お言葉に甘えて参りました”
”入り給(たま)え。玄関のカギも開けておいた”
”はい”
 許しを得たジュリアスは重い扉を開けた。ギイイと蝶番の錆びた鈍い音がする。家からあまり外に出ることがないのだろう。
 エントランスは大きな窓がいくつもあり、暗い屋敷内を想像していたジュリアスは少し拍子抜けしてしまった。中央の階段から老人がゆっくり降りてきた。少し足が悪いのか杖を突いているが姿勢もよく足取りはしっかりしている。老人はジュリアスの近くまで来ると、笑顔で右手を差し出して言った。
”よく来たね、キング先生。また会えてとても嬉しいよ”
”以前のようにジュリアスでいいですよ”ジュリアスもそう言いながら右手を出しそれに答える。”僕も嬉しいです。ラヴェンクラフ先生も、お元気そうで……”
”レーヴェンスクロフト(Ravenscroft)だよ。君の人名の独特な発音も相変わらずみたいだね”
”すみません。僕は人名がどうも苦手で……”
”君のような天才が、不思議なものだね”
”アレックスにも以前よく注意されたものですが、最近はあきらめたようで訂正するだけになりました”
”まあ、その彼も確か人の顔をなかなか覚えなかっただろう。天才にはありがちな障害だよ。気にすることはないさ。それより久しぶりの再会を祝うことにしようか。テラスに案内しよう。細(ささ)やかだが歓迎の準備をしておいた”
”ありがとうございます”
 ジュリアスは恩師に言われるままに彼の後に続いた。

 

 そのテラスは明るく美しかった。ジュリアスは眩し気に周囲を見回すと言った。
”こんなに美しいテラスは見たことありません。それにすごく明るい”
”儂(わし)も年のせいで目が悪くなって暗いところは不便でね。この屋敷での儂の生活圏で暗いのは寝室くらいだよ”
”生活圏?”
”部屋数が多いのでね、儂ひとりでは使いきれんので未使用の部屋は放置しておるのだ。多分埃だらけになっておるよ”
”そうなりますよね。このテラスや庭のお手入れは?”
”年に数回業者に頼んどる。儂だって最低限の人付き合いはしとるよ”
”あはは、失礼しました。そういう意味でお聞きしたのではなかったのですが”
”とにかく用意した席に座ってれないかね”
”ああ、すみません” 
 ジュリアスはテラス中央に用意されている席についた。木製の大き目な丸テーブルで、同素材の椅子が2却向かいに並んでいる。中央には花瓶が置かれ庭で咲いていたであろうバラの花が彩りよく活けられていた。
”ちょっとレコードをかけさせてもらうよ”
 レーヴェンクロフトはテラスから室内に姿を消した。間もなくテラス内にピアノ曲が流れてきた。
”ブラームスのピアノ曲集だよ”
 レーヴェンクロフトがテラスに戻って来ながら言った。
”クラシックは好きかね?”
”ええ、もちろん。ブラームスはハンガリー舞曲とか好きですね。そうそう、アレックスもよくピアノ曲をかけていますよ。主にショパンですが”
”そうかね….…”
 ジュリアスはレーヴェンクロフトの機嫌が少し悪くなったのを見て、彼とギルフォードがよく口論をしていたことを思い出し話題を変えた。
”さっきレコードとおっしゃいましたが、先生は未だCDがお嫌いなんですね”
”年寄りの好みさ。どうもあの軽い音が許せなくてね”
”お変わりなくて安心しました”
 そう言うと、ジュリアスはもう一度テラスから見える景色を眺めた。
”いいところですね。きれいな庭園を眺めながらのティータイムは最高でしょう”
”ちょうど庭がきれいに見える場所を選んで設置したからね”
 レーヴェンスクロフトは紅茶を淹れながら誇らしげに答えた。
”隠居した老人の細やかな趣味だよ。さあ、ダージリンのセカンドフラッシュだ。王室にも献上されるレベルのハイクラスだ”
 ジュリアスは、華奢な陶器のティーカップに注がれた紅茶をふるまわれ、恐縮して言った。
”ありがとうございます。僕なんてティーバッグかインスタントのコーヒーでよかったのに”
 ジュリアスがあまりにも恐縮したのでレーヴェンスクロフトは笑いながら言った。
”そう、卑下せんでもよかろう。素直に飲み給え”
”はい”
 ジュリアスは、カップを手に取り一口飲んでみた。ふわりと独特の良い香りがした。
”ああ、いい香りです。それに、渋みも少なくてストレートでも飲みやすいですね”
”そうだろう、そうだろう。分けてあげるから日本のギルフォード君への土産にするといい”
”ありがとうございます。きっと喜びますよ!”
 ジュリアスは素直に喜んで言った。レーヴェンスクロフトは満足げに笑ったがすぐに真顔になって言った。
”前々から思っていたが、君はギルフォード君を憎いと思ったことはないのかね?”
”先生は僕と彼との因縁をご存知だったのですか”
”愛弟子については、いろいろと聞きたくない情報も知らされるのでね”
”何も知らなかった最初の頃は確かに憎いと思っていたこともありました。あいつさえいなければ父は死なずに済んだのに、って。それで、少年の頃、僕は彼にひどい言葉を浴びせてしまったこともありました。でも、アレックスがいたからこそ父の尊厳は守られたのだということを知りました。しかも、ギルフォード家は、逃げるようにアメリカに帰った僕ら一家を探し出してくれ、ずっと援助をしてくれていたのです。それで、僕も兄も最高の教育を受けさせてもらえました。憎しみはいつか尊敬に、尊敬は思慕に変わっていきました。彼と再会した時、彼は心身ともにボロボロでした。僕は彼の支えになろうと決めたのです”
”そうだったのかね。彼は昔はかなり不安定な部分もあったようだが、今は落ち着いているのかね?”
”はい。日本で居場所を見つけていました。彼は一生トラウマからは逃れられないでしょうけど、あの極東の国で生きる希望と自信を見出したように思います。なので、僕は彼を支えるために、彼の元へ行こうと決めたのです”
”そうか……。儂は君らがうらやましいよ。……では、確信に入ろうか。質問を聞こう。遠慮せずに率直に訊き給え”
”はい。今日本のF県に出現した新感染症の件でお聞きしたいことがあります”
”隠居の儂に何を聞きたい?”
”先生が研究職を退いた原因になった論文についてです”
”あれは、世間の言う通りの駄作だったんだ。儂もそういうことにしておきたい”
”先生ご自身はそうは思っていないということですね”
”もう、終わったことだ”
”終わっていません。先生の論文は、アレックス達がアフリカで感染した出血熱が変異した新型のラッサウイルスではなく、まったく未知のウイルスであったということを証明するものでした。そして、あなたは米軍がラッサ熱と発表したのは、その悪の枢軸国家やカルトやテロリストたちが兵器として使用するのを恐れてのことだと結論付けました。さらに、米国自身の生物兵器研究に使うために隠蔽したとまで言及されました。表向きは、米国は防御の研究しかできないことになっていますからね”
”君はあれを読んだのかね”
”当然です。申し訳ないことに、僕も、先生のあの論文については賛同しかねると思っていました”
”呆け老人が妄想を論文にしたと……”
”いえ、そこまでは……。ただ、やや荒唐無稽だとは思いました”
”素直な感想だな”
 レーヴェンスクロフトは自嘲気味に笑って言った。ジュリアスはそれには答えず続けて言った。
”残念なことに、あの論文は巷にあふれる陰謀論を唱える論文と一緒くたにされてしまいました。でも、明らかにそれらとは違う完成度の高い論文でした。しかし、先生は反論もせず、ついに論文は撤回されてしまいました。そして先生は大学を追われるように辞め、世間から忘れ去られていった”
”もう済んだことだ”
”先生!”
 ジュリアスはレーヴェンスクロフトをまっすぐに見て言った。
”僕は兄のクリスの命(めい)で、日本のアレックスのもとに向かい、ウイルス感染した患者を見て、何故かあなたの論文が頭に浮かびました。それで、アレックスの大学にある図書館であなたの論文が掲載された学術誌を探し出して読み直し、ある仮説をたてました。そしてそれは、僕が無理やりユーサムリッドに隔離されたことで確信に変わりました”
 ジュリアスの推理をレーヴェンスクロフトは腕組をしたまま黙って聞いている。ジュリアスはつづけた。
”考えたら辻褄が合うことがたくさんあります。ワタカ国には各国やWHOなどのチームより先駆けて米軍が入り、ワタカ政府に戒厳令を出させました。そのせいで米軍の医療チームや治安維持部隊以外入ることが出来なくなり、先に入国していたアレックス達は孤立させられました。せっかく山田先生が各研究所に送ろうとした検体はすべて米軍が保持してしまいました。
 チサ村に入った米軍の行動は早かったそうです。感染者とそれ以外の村人を分け、感染者の出た家は有無を言わさず焼却し遺体も半ば強制的に火葬して埋葬させました。敬虔なキリスト教徒だった村人には耐え難いことだったでしょう。そして、瀕死のアレックスと日本の少年を治療ということでさっさと連れて帰ってしまった……。おかげでアレックスの命が助かったのですから、それは感謝すべきなのですが”
”それは、ギルフォード君から聞いたのだね”
”そうです。あまりにも手際が良すぎます。最も感染拡大と言ってもワタカ国内だけの小規模感染でした。一瞬新種の病原体ではないかということで注目を浴びましたが、よくある風土病の変異型強毒種でウイルスは封じ込めたという米軍発表で、世間の注目は当時起きていたエボラ騒ぎの方に向き、ワタカ国は忘れられてしまいました。CDCなどの一部組織はしつこく検体の提供を訴えていたそうですが”
”まあ、フォートデトリックとは犬猿の仲だからな。先を越されてさぞかし悔しかっただろう”
”ええ、ここだけの話ですが、兄のクリスでさえその話になると、あいつら何か知っていて隠蔽したに違いない。先に情報を得てやがったんだ、などと言ってました”
”彼はCDCの職員だからな”
”僕もそう思って聞き流していました。でも、ラッサ熱でもカテゴリーAの大変な感染症ですから、それの変種となればもっと大騒ぎされてもいいと思いますが、まるで潮が引くように世界の関心が薄れていった……。そしてそれを蒸し返そうとした先生は世間から抹殺された。ラッサ熱とワタカで発生したウイルスとの違いの証拠とされた論文の研究資料は捏造と一蹴されてしまった”
”だから、もう終わったんだ。辛い話を蒸し返すのはもうやめにしてくれないか?”
”すみません。でも、これは重要な事なんです。もし、F県に出現したウイルスが、ワタカ国と同じものなら、ユーサムリッドがワクチンなり抗ウイルス薬なりを作っていると思うんです”
 レーヴェンスクロフトは無言で腕組をしたまましばらく目を閉じていた。重苦しい時間が流れたが、とうとうレーヴェンスクロフトは重い口を開いた。
”ジュリアス君”
”はい!”
”儂に娘がいたことは知っているね”
 急に質問と関係ないことを聞かれ、ジュリアスは戸惑いながら答えた。
”はい。確かお二人いらっしゃいましたよね”
”そうだ。妻は日本人で儂と同じウイルス学者だったが、癌に罹って早くに亡くなった。それで早々に父子家庭となってしまったが、まあ、それなりに仲良く平穏に暮らし、二人ともウイルス学者として立派に巣立っていったんだよ。しかし、長女のハルネは、軍傘下の製薬会社でワクチンや抗ウイルス薬の研究をしていたが、針刺し事故で、扱っていたウイルスに感染し、なんとか一命はとりとめたものの植物状態になってしまった。だが、会社はどんなウイルスを使っていたかは企業秘密として頑として教えてもらえなかった。次女のリョーコは軍の熱帯研究所に勤めていた。ところが、ある日数年ぶりに突然リョーコが帰ってきて、ある検体を儂に見せ、ここでそれの研究をさせてほしいと言った”
 ジュリアスは話が急に核心に近づいてきたのでさらに戸惑っていた。嫌な予感がした。
”儂は驚いた。検体のウイルスは不活性化してあったが、それは儂が見たこともない新種だった。リョーコは、それが姉を植物状態にしたウイルスで、ワタカ国で猛威を振るったものの正体だと言った”
”えっ? では、やはり論文の資料は本物だったのですか!”
”リョーコは危険を冒して無断で検体を持ち出したのだよ。リョーコは儂にこのことは公表しないでほしいと言ったが、儂は誘惑に耐え切れず、彼女に無断で論文を発表してしまった。
 彼女はしばらく儂の屋敷に身を隠し儂のラボで密かに姉を助けるための研究を続けていた。しかし、儂の論文が炎上したのを知ると、リョーコは検体と共に姿を消した。父に情報提供をしたことで身の危険を感じたのだろう。論文の決定的証拠となる検体を失った儂は論文の正当性を証明することが出来ず、あとは君の知っての通りだ”
”やはり、サイキウイルスはアレックスが感染したウイルスと同じもの……?!”
”厳密には少し違う”
”どういうことですか?”
”それから数年後、ここにリョーコの代理人という男が訪ねてきた。日本で新興宗教の教主をしているという青年だった。彼はリョーコが教団のラボで働いていると言った。それで、姉のハルネをリョーコが病院から引き取りたいと言っているので許可が欲しいと申し出た。研究の傍ら姉の治療をしたいと言っているらしいと。儂は、リョーコの望み通りにしてくれと言った”
”それとウイルスがどう関係するというのですか”
 ジュリアスは、嫌な予感が確信に変わっていくのを感じた。自分は来てはいけないところに来てしまったのではないのかと。そんなジュリアスの不安をよそに、レーヴェンスクロフトは淡々と話をつづけた。
”彼は、リョーコからすべてを聞いたと言って、儂の’最後の論文’を素晴らしいと言ってくれた。しかも、驚くべきことに、彼がギルフォード君と一緒に米軍に保護され治療を受け一命をとりとめた少年だったということが判ったのだよ”
”ええっ!?”
 ジュリアスは驚いた。その男とならすでに、ジュリアスはギルフォードと共に感対センターで出会っている。しかし、彼は兄の会社で専務をしていると自己紹介をしたのではなかったか? 
”彼とは僕とアレックスも会いました。アレックスも彼も再会をとても喜んでいました。でも教主なんてことは一言も……!”
”そうかね?”
”お兄さんの会社で取締役をしていると言っていました。ほんとに同一人物なのでしょうか”
”年のころ30歳台の中背の少し華奢な優男だったよ。教主らしいカリスマ性のある魅力的な青年だった”
”同一人物のようですね。何故教主であることを隠したんだろう……”
”うさん臭く思われたくなかったんじゃないかね。新興宗教に拒否反応を示す者も多いからね。ギルフォード君もその類だろう?”
”それだけでしょうか”
 何か腑に落ちない様子のジュリアスと対照的に、レーヴェンスクロフトは少し高揚した表情で話をつづけた。
”彼は儂に世界を変えてみないかと言った。最初は眉に唾して聞いていたが、徐々に話に引き込まれていった。彼は儂が世の中に絶望していることを知っていた。彼は儂の説や警告を認めず責め立て世捨て人にまで追い込んだ世界を変えるためにこの大地を我々と共にきれいにしましょうと言った”
”大地をきれいにする?”
 ジュリアスは嫌な予感がよぎるのを感じた。
”そうだ。有害物質や最悪な原子力で大地を穢し、温暖化を招いて地球環境を壊しているその原因を極限にまで減らすのだ”
”その原因って、まさか……”
”そうだよ。ここ半世紀で数が倍以上の70億代に膨れ上がり、さらに増加し続けている類人猿ヒト科、すなわち我々だ。 
 ただし、絶滅させることは出来ない。本当はそれが一番いいのだが、少なくとも2万年はだめだ。原発の後処理がそれくらいかかるからだ。生き残った人類は自ら生み出した負の遺産を処理するためだけに、その周囲のみで細々と生きていくことになろう”
 聞きながらジュリアスは額に冷や汗が浮かぶのが判った。
”どうやって……それを実行するというのですか?”
 ジュリアスは恐る恐る尋ねた。
”核兵器や毒ガスなどの大量破壊兵器はだめだ。環境をさらに壊し罪のない他の生物も巻き込むからだ。かといって自爆テロなどでちまちまと減らしていくのも効率が悪い。一番有効な方法は、致死率が高く人間だけを殺す天然痘のような病原体を使うことだ。現に感染症で人が死ななくなってからの人口増加には目を見張るものがある。だが、天然痘は自然界では絶滅してしまっている。いや、させられてしまったが正しいか”
”僕は人類史上類を見ない偉業だと思います”
”人類にとってはね。しかし、人類が安泰になったぶん、他の生き物の絶滅は加速する一方だ。果たしてそれは正しかったことだろうか?”
”それは……”
 ジュリアスは言葉に詰まった。彼自身、時折そういう疑問を持つことがあったからだ。
”彼は言った。’それならば、さらに強力な病原体を作ればいいのです。我々がリョーコさんからもたらされたウイルスならそれが出来ます。彼女の手によってそのウイルスは最強のウイルスへと進化しました。ヒトだけに感染し発症させ、致死率は90%。理論上では人類を今の十分の一、18世紀以前の数にできます’と”
”本気ですか?”
 ジュリアスはあまりに荒唐無稽な話に半ば唖然としていた。SF小説やマンガではそういう話は珍しくもなかったが、現実にはB兵器の成功率は低い。それは過去カルトが試みて失敗した例からもわかることだった。
”彼は本気だったよ。それは彼自身の呪いでもあるからだ。リョーコが教団にもたらしたのは、ワタカウイルスS株。彼から検出されたものだ。彼の’こども’だよ”
”まさか、今日本でアレックス達が戦っているウイルスが?”
”そういうことだ”
”!!”
 ジュリアスは弾かれた様に立ち上がった。
”なんてことを!!”
”まあ、すわりたまえ。今更じたばたしても仕方がないだろう”
 ジュリアスはしかたなく椅子に座り直した。なんとか平常心を保とうとしたが掌は汗でびっしょりになっていた。半面口の中が乾いていくのがわかった。
”僕は、とんでもないところに来てしまったと……”
 ジュリアスはかろうじて言った。
”そういうことだ。日本では何と言ったかな。そうそう、’like a moth flying into the flame’”
 ジュリアスは下を向いたまま無言でいたが、膝の上で握りしめた両手が微かに震えていた。数分の沈黙の後、ジュリアスは口を開いた。妙に冷静な声だった。
”先生の論文を改めて読んだとき、僕は心のどこかで先生が今回の事件に関わっているのではないかと疑惑が浮かびました。でも、もしそうであってもお会いした時になんとか説得をしようと決めていました。先生、今からでも間に合います。自首して教団の計画を話してください。僕の第二の祖国をこれ以上苦しめないでください”
”もう遅いのだよ。ばらまかれたウイルスはいずれ加速して広がっていく。大陸に渡ってしまえばもう手が付けられなくなる。そしてその日は近いだろう”
”僕はこれまでもウイルスで苦しむ人たちを見てきました。しかし、あのウイルスはけた違いです。徹底的に発症者を苦しめながら殺していきます。日本のような衛生的で医学の進んだ国でさえ手に負えず、次々に患者が死んでいきました。それが貧しい国に渡ったら成す術もないでしょう。お願いです。もう罪のない人たちを苦しめないでください”
 ジュリアスは説得しながら体中に嫌な汗が流れていくのが判った。
”残念だが、人に生まれたことが罪なのだ。儂も君も、な”
”先生….…。あんなに慈悲深かった先生がどうして……”
”儂は慈悲深くなぞない。欲望まみれのタダの爺だ”
”先生……”
”儂は教主に言い遣っていたのだ。君が来たら、我らに加わるよう説得せよと”
”僕にアレックスや日本の友人たちを裏切れと……?”
”そうだ。そしてギルフォード君も仲間にしたいと”
”そんなことが出来るわけ……、…ッ!!”
 ジュリアスは激高して叫ぼうとしたが、不意に体の力が抜けていくのがわかった。ジュリアスはテーブルにしがみつく形になって恩師の方を見た。レーヴェンスクロフトはジュリアスの前に座ったまま無表情で彼の方を見つめていた。
”先生、何を……?”
”ソクラテスの処刑に使った毒のことは知っているね?”
”まさか……”
”儂はウイルスと共に生物毒についても研究していた。件のヘムロック(ドクニンジン)にいくつかの生物毒を調合して作った。儂は君が儂の誘いに激しい拒否を示すことはわかっておったのだ”
”紅茶……ですか”
”そうだ。すまなかったが儂にはこうするしかなかったのだ。せめて眠るようにして逝けるようにと。……許してくれ”
”せん…せ…い……”
 ジュリアスは急激な眠気に襲われて椅子からずり落ち床に倒れた。
(アレックス、すまない。僕は君にまた重荷を増やしてしまうみたいだ。由利子、ごめんよ。どうやら君を慰めてあげられそうにない。サヤ、ありがとう、そして、ごめん。クリス…)
 後悔が溢れ、涙がこぼれた。ブラームスのピアノの音色が遠くなり、ジュリアスはそのまま深い眠りに落ちて行った。
”ジュリアス君”
 レーヴェンスクロフトは椅子から立ち上がると、ゆっくりとジュリアスに歩み寄った。
”儂も、君を憎からず思っていた。儂はもう、すべてに疲れてしまったのだ。本当は世界などどうでもよかった。儂は道連れが欲しかったのだ”
 彼は、床に跪くとジュリアスの上半身を起こし、膝に抱いた。夕方の雲間から光りが漏れ、薄明光線が彼らの周囲に影をおとしていた。
”おお、なんと神々しい! この褐色の肌のキリストは、マリア(母)ではなく、年老いたユダに抱かれるのだ……” 
 それは、禍々しくも美しい狂気のピエタだった。ブラームスの「主題と変調 ニ短調」の音色がひときわ重々しく響き、やがて静かに終わった。動かないままの二人の周囲を天の梯子が静かに照らし、小鳥たちのさえずりが何事もなかったように聞こえ始めた。
 

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4.翻弄 (5)冷たい雨

 日本時間 7月15日午後
 朝方に小康状態になりパラつく程度だった雨が、午後から再び本格的に降り始め、夕方3時を過ぎた頃にはかなりの大降りになっていた。
 甲斐看護師の容体は安定していたが依然意識のないままで、事情聴取のためにやってきた長沼間と武邑は今日は無理と判断したのかすぐに帰っていった。その後入れ替わりに振屋こと古河のマンションの検分に行った帰りの九木と葛西が甲斐の見舞いと事情聴取を兼ねてやって来たが、彼女の意識が早晩では戻らないと告げられ、病室に様子を見に行くだけに止めることにした。
「一般患者の受入れ体制を残していてよかった」
 甲斐の病室から帰り際に高柳が言った。
「うちの看護師が本当にお世話になりました。心から感謝します」
「仕事ですから、お構いなく」
 九木がこともなげに答えた。
「これから県警の方に?」
「古河のことについて報告せねばなりませんからね」
「なにか掴めましたか?」
「いえ、組織につながる目立った情報はありませんでした。生活感のない殺風景な部屋でしたよ」
「そうですか……」
 高柳はそう言いながら無意識に両手を握りしめた。甲斐の件は高柳にも想定外中の想定外だったのだろう。
「私は、看護師がここの病室に入る時は感染した時だと思っていました。なので、そうならないよう万全の処置をしていたつもりでした。しかし、結果はこの様(ザマ)です。一人は感染ですがもう一人は自殺未遂です。しかも2件とも敵の関与があった」
「心中お察ししますよ」
 九木が珍しく声に同情を表して言った。
「私は悔しい。だが、私はここで戦うしかない。だから、お願いします。必ずテロ組織を突き止めてください」
「全力を尽くします。そして首謀者を逮捕します。必ず」
 九木は端的に答え、頷いた。
 高柳と別れたところで、葛西たちは由利子に出会った。葛西が何か言いたげだったのを察知した九木が言った。
「先に車に乗っているから、話をしてくるといい。ただし、10分経って戻らなかったら置いていくぞ」
「すみません、九木さん」
 葛西が言い終わらないうちに九木はさっさと歩いて行った。
「相変わらず不愛想な人やね」
 由利子が笑いながら言った。最初にくらべてだいぶ印象が良くなってきたなと思った。
「葛西君、ご苦労様。甲斐さんのこと、ありがとうね」
 由利子に言われて葛西は頭を掻きながら言った。
「仕事ですから」
 九木と同じ返事をしてしまい、葛西は少しだけ可笑しくなった。由利子がすかさず言った。
「何笑ってんのよ」
「あ、いえ、大したことじゃあ……。それより明日はジュリーが帰ってくるんですよね?」
「そうだけど、どうしたの?」
「飛行機に乗る前に連絡とっておこうと思ったけど、電話に出ないしメールも既読にならないんです」
「そりゃあ、また電源入れ忘れているんじゃないの? 私には早朝かかってきたよ」
「そんなに早く?」
「心配してかけてきてくれたみたい」
「それでも、それから10時間以上経っています」
「大丈夫だよ。だってあちらは今頃夜中なんじゃない? 朝早いから寝てるんだと思うけど」
「まだ起きてる時間くらいにかけたんだけどなあ」
「それより、自爆犯の家に行ってたんでしょ? なんか手掛かりあった?」
「それが、妙に生活感のない奴で……」
「やっぱり」
「捜査途中なのであまり詳しくは言えませんが、奴の本棚にこの前由利子さんが見たカルト教団リストのうちの3教団に関連した本がありました。調査する必要が出てきました」
「名前は?」
「海神(わたつみ)真教・大地母神(だいじぼしん)正教、それに碧珠(へきじゅ)善心教会です」
「そっか。やはり碧珠善心教会が出てきたか」
「やはり?」
「うん。教主が出しゃばってないところや、葛西君が指摘したように、あまりにキレイすぎるところとか、ね」
「なるほど! ところで」葛西がキョロキョロして言った。「アレクと紗弥さんは?」
「ああ、紗弥さんは用があるので大学に一足先に戻って、アレクは高柳先生に呼ばれて河部千夏さんのところに行ったよ。私もそろそろ帰ろうと思って迎えに行くところだったんだ」
「そうですか。おっと、僕もそろそろ行かなきゃ。ではまた」
 時計を見て10分が経ちそうなことに気付いた葛西は、駆け足で去って行った。
 由利子が病室の前に近づくと、ギルフォードが右手を上げ待てのポーズをし、病室に向かって何か言うと、窓を’閉めた’。そして嬉しそうな笑顔で由利子の方へ歩いてきた。
「すみませんね。チナツさんがまだ姿を見せたくないそうで」
「そんなにひどい状態なの?」
「いえ。以前よりだいぶ改善されました。ただ、まだまだ姿を見られたくないとおっしゃって」
「と、言うことは!」
「はい。病状は回復に向かっているそうです。食欲も戻ってきているし、高柳先生が生還第1号患者になるんじゃないかと」
「そうなんだ、アレク! 希望が見えてきたね!」
「ハイ。嬉しいです。ここの皆さんにも力強い希望になると思います」
 2人が喜びを分かち合っているところに、ギルフォードがスタッフステーションの看護師から呼ばれた。
「アレク先生。お電話ですよ」
「あ、ありがとうございます。誰だろう? わざわざここに電話してくるなんて……」
 ギルフォードはぶつぶつ言いながら電話に向かった。
(あー、みんなケータイの電源を切っているからか。何かあったのかな)
 由利子が少し不安そうにギルフォードを見守った。
「もしもし、ギルフォードです」
 ギルフォードが電話に出ると、先方から深呼吸のようなため息のような音が聞こえた。
「もしもし?」
”アレックスか? クリスだ”
”どうしたんだ? そっちはまだ深夜じゃないのか?”
”アレックス、落ち着いて聞いてくれ”
 クリスの今まで聞いたことのない力のない沈んだ声に、ギルフォードは嫌な予感がよぎった。
”何かあったのか?”
”夜10時頃にジュリアスからメールが来た。予約メールだった”
 ギルフォードの心臓が大きくドキンと打ち、足の裏にズンという衝撃が走った。
”内容は’このメールが届いた時は僕に何かあった時だ。この住所に僕はいるだろう。迎えに来てほしい’というものだった。私は一瞬何かの冗談かと思ったが、あいつにそんな悪質な冗談が出来る筈がない。それで急遽通報して警察に現場に向かってもらった”
 ギルフォードは無言だった。ただ、目を見開き、額から冷や汗を流している。その様子に気付いた看護師が心配そうにギルフォードに「大丈夫ですか」と声をかけた。
”場所はレーヴェンスクロフトの屋敷だった。駆けつけた警察が、玄関先にジュリアスの自転車を、テラスでレーヴェンスクロフトと、……ジュリアスの……遺体を発見した”
”嘘だ。悪い冗談はやめてくれ……”
”私は知らせを受けて現場まで車を飛ばした。遺体は間違いなくジュリアスだった。地元の警察に運ばれて、今、私もそこにいる”
”そんな筈はねえ。ジュリーは今飛行機の中で、明日には会えるはずなんだ……”
”私だって信じられない。だけど、これは現実だ”
”嘘だッ! 俺は信じない!”
 ギルフォードが叫び、由利子が驚いて駆け寄った。由利子を見たギルフォードの顔は真っ青で、体が見てわかるほど震えている。
「ユリコ、ジュリーが……」
「ジュリーが、どうしたの!」
 由利子は葛西の言葉を思い出していた。
「ジュリーが……。嘘です。信じません、僕は、ジュリー……」
 ギルフォードは弱弱しく言うと受話器を取り落とし、力なく床に崩れ落ちた。由利子はそれを支えようとしたが、力が足りずに一緒に床に倒れてしまった。しかしすぐに起きてギルフォードに取りすがった。
「しっかりしてアレク! 誰か、誰かお願い!」
「私たちが診ます! 由利子さんはアレク先生の代わりに電話を!」
 看護師たちが駆け寄り、ステーション内では医師を呼び出している。机からぶら下がった受話器からは必死にギルフォードを呼ぶ声がしている。由利子は意を決して受話器をとった。
「Alex! Alex! Say something, Alex!!」
 英語だったので一瞬躊躇したが、由利子はままよと日本語で答えた。
「助手の篠原です。アレクは、ギルフォード先生は、気を失われてしまって……」
「アナタがユリコさんですか?」 かえって来た言語は思いのほか日本語だった。「ワタシはジュリアスの兄でクリスいいマス。アレックスはどうしマシタか」 
「アレクは倒れてしまいました。今看護師さんたちが介抱しています」
「サヤは近くにイマスか?」
「いえ、紗弥さんは一足先に大学の方に帰られて……」
「では、アナタに説明します」
 クリスは由利子に何があったかを説明した。
 説明を聞いている間に三原医師が駆けつけてきて様子を見た後、ストレッチャーにギルフォードを乗せると、連れて行くからというジェスチャーをして数人の看護師と共に去って行った。由利子はそれを心配そうに見守るしかなかった。 
「ジュリー……なんで……?」
 クリスの説明を聞き終え、由利子はつぶやいた。他に言葉がなかった。今朝電話で話して励まされたばかりなのにと信じられなかった。
「わかりません。レーヴェンスクロフトはジュリアスの恩師デシタから、何かアドヴァイスを求めて行ったのだと思います。でも、あのようなメールを残していたというコトハ、何らかのリスクも感じ取っていたのデショウけれど……」
「信じられません。だって、だって私、今朝電話で話したばかりなんです。もうすぐ行くから待ってろって」
 言いながら涙が一筋零(こぼ)れた。しかし、それに反してまったく悲しさがわいてこない。だが、周囲の音は全く聞こえず、周囲がどうなっているかもわからなくなっていた。まるで白い空間に自分と受話器だけが取り残されたようだった。
「ワタシにも何が何だかワカリマセン。何かわかったら、またご連絡シマス。サヤには私から伝えマスので、アレックスをよろしくオネガイシマス」
 クリスはそういうと電話を切った。由利子は受話器を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。一人の看護師がそれに気づいて由利子の肩を軽く叩いた。春野だった。
「篠原さん、しっかりして! 何があったの?」
「ジュリーが、ジュリーが……」
「え? キング先生が?」
「死んだ……って……」
「うそっ。篠原さんってば、悪い冗だ……」
「私だって嘘だって信じたいよ!」
 自分でも思いがけなく怒鳴ってしまい、由利子は戸惑ってあやまった。
「ごめん。春野さんの反応が普通だよね」
「ごめんなさい、あの、私何も聞いてなくて、ただ、篠原さんをアレク先生のところにお連れするように言われて」
「わかった。連れて行って」
 由利子はこんなときこそ自分がしっかりしなければと思い、気丈を装った。しかし、この時すでに二人の心はボロボロになっていた。
 ギルフォードは仮眠室に寝かされていた。由利子は案内され、ギルフォードのベッド横に置かれた椅子に座った。三原が説明した。
「失神は激しい精神的ショックを受けたせいだと思われます。発熱などの異常は見当たりませんでした」
「無理もありません」由利子が小声で言った。「かけがえのないパートナーの突然の死を知らされたのですから」
「キング先生が? どうして? だってもうすぐ日本に来られるって……」
「まだ詳しいことは判らないのです。ただ、恩師に殺されたと……」
「殺された!?」
「しっ。声が大きいです」
「すみません、つい」
「私にも何がなんだか……」
「それで……。ここに寝かせてから、何度もキング先生の名前を呼んで起き上がろうとするので、やむなく鎮静剤を打って休ませたのです」
「そうですか」
「落ち着くまで、しばらくここにいてあげてください」
「はい。ありがとうございます」
 三原が去ると、由利子はギルフォードと二人きりになった。由利子は辛そうな表情のまま眠るギルフォードの涙の痕の残る顔を見てつぶやいた。
「なんで、この人ばかりがこんな辛い目に遭わなくちゃいけないんだろう……」
 由利子はうつむいて両手で膝を掴んだ。体が小刻みに震えたが、もう涙は出なかった。ふと、これは悪い夢なのではないかと思い、目が覚めないかと願ったが、それは儚い願いであり、自分が紛れもない現実にいると思い知らされた。
 しばらくして、由利子は高柳に呼ばれ、スタッフステーションにギルフォードのことを頼むと、センター長室に向かった。高柳は由利子のためにコーヒーを用意して待っていた。高柳は由利子をソファにかけさせると言った。
「三原君に大まかなことは聞いたよ。昨日から大変だったね。君に大きな負担ばかりかけることになってすまない」
 由利子は力なく首を振って言った。
「先生のせいじゃありません」
「負担を増やすようで申し訳ないが、ギルフォード君の件で君がわかっていることだけでも教えてほしいのだが」
「はい」
 由利子はクリスから聞いたことを伝えた。高柳は驚きながらも最後まで聞き終わると言った。
「しかし、キング君が殺されたなんて、私も信じられない。ギルフォード君には自分が死ぬより辛いことだろうな」
「ええ、そう思います」
「しかし、キング君があのレーヴェンスクロフト博士の教え子だったとはな」
「え? ご存知なのですか?」
「ああ。彼は……」
 と、高柳が言いかけたところで内線が入った。
「どうした?」
「センター長、大変です! ギルフォード先生がいなくなりました!」
「なんだって!」 
 それを聞いて由利子が反射的に立ち上がった。
 二人が仮眠室に駆け込むと、ベッドはもぬけの殻になっていた。
「しまった。彼のことを全職員に知らせていなかったのが仇になったか」
「すみません。よく眠っていらっしゃったので、油断しました」
 看護師がおろおろしながら言った。
「駐車場にも車が見当たらないそうです。どうしよう」
「いや、私が篠原さんを呼んだのがまずかったんだ。あんな精神状態で、一体どこに行ったんだ」
 さすがの高柳も心配が隠せないようで、うろたえているのが判った。由利子がハッとして言った。
「私に心当たりがあります。タクシーを呼んでください」
(たぶん、あの場所に行ったんだ)
 由利子は、ジュリアスから紹介された場所のことを思い出していた。
 雨で道は混んでいたが、タクシーの運転手は由利子の顔を見てなにかあったのだと察したのか、抜け道の限りをつくして目的地まで急いでくれた。由利子は運転手に丁寧にお礼を言うと、Q大の裏門でタクシーを降り、傘をさすのももどかしく駆け出した。
 
 ジュリアスに連れられて一度しか行っていないが、道順はしっかり覚えている。由利子は必死で走った。大降りの雨で傘は殆ど役に立たず、由利子はあっという間にずぶぬれになってしまった。裏庭を通り雑木林を駆け抜けた。この前通った時は天気も良く、池には水鳥が遊んでいたが、今は雨を避けてどこかに潜んでいるのだろう。舗装されていない道はぬかるみ、レインブーツはすぐに泥だらけになった。林を抜けると目標の小高い丘が見えてきた。由利子は一瞬立ち止まったが、意を決して丘を駆け上がった。
(居た。やっぱりここやった)
 そこには欅の横にぼんやりと座るギルフォードの後姿があった。由利子はそっと近づくとしゃがんで傘をさしかけて言った。
「風邪を引くよ」
 ギルフォードはゆっくりと振り向くと、寂しさと苦しさの入り混じった泣きそうな表情で言った。
「僕に関わると死にますよ」
「アレク!」
 由利子は叱るような口調で強く言った。するとギルフォードは辛そうに笑った。
「ごめん。冗談ですよ」
「言ったはずよ」由利子が今度は声を和らげて言った。
「私は死なないって。何があろうとも! だから、そんな悲しいこと言わないで」
「ユリコ、僕は、僕は……」
 ギルフォードは濡れそぼった子犬のような顔で言った。
「苦しいんです。今にも砕けそうなんです。どうしたらいいかわからないんです」
 気が付くと、由利子はギルフォードを抱きしめていた。
「アレク、私もだよ。悲しいね。辛いよね」
「ユリコ……」
 ギルフォードは由利子にしがみつくと、堰を切ったように泣き出した。由利子の手から傘が滑り落ち、2・3メートルほど転がって止まった。
 幸せな思い出の場所は不幸が起きると悲しい場所に変わる。由利子がジュリアスとここに来た時は、穏やかな天気で景色がキラキラと輝き、小鳥がさえずっていた。もうジュリアスはいない。今は冷たい雨が降り、景色はまるで墨絵のように感じる。由利子は黙ったまま、ギルフォードを抱き優しくその背を撫でた。
 雨が由利子の顔を伝って落ちていく。その水に涙が混じっているのか、ただの雨水なのか、由利子にはわからなかった。

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4.翻弄 (6)サクリファイス

 由利子はギルフォードをなんとか説得して立ち上らせると、傘を拾いさしかけた。そして、帰ろうと促し来た道の方を見ると、何者かがすごい勢いで走ってきた。紗弥だった。
 彼女は二人の方に駆けよると言った。
「よかった……。由利子さんありがとう。教授になにかあったらわたくし……」
 由利子は紗弥が今まで見たこともないほど狼狽しているように見えた。
 紗弥は、クリスから電話でジュリアスの訃報を聞き、取るものもとりあえずバイクで感対センターに向かい、そこでギルフォードの姿が消えたことを知った。驚いて、確認しようと携帯電話を見ると、高柳や春野から何回も着信が入っていた。急いでGPSを見ると、ギルフォードが大学の裏庭の方にいるではないか。大降りの雨の中、引き返してきたのだと言った。何故早くGPSの確認をしなかったのかと紗弥は悔やんだ。
(あの紗弥さんが、こんなにうろたえるなんて……)
 由利子は、ジュリアスの死が皆に重くのしかかっていることを思い知った。
「とにかく研究室に帰ろう。このままじゃ3人とも風邪をひいてしまうよ」
 由利子は二人に言った。紗弥は無言で頷いたが、ギルフォードはうつろな表情で立ち尽くしていた。それはまるで木偶人形のようだった。
「行こう。それでも前に進まなきゃ」
 由利子はそっとギルフォードの背を押した。

 取りあえず3人はギルフォードの研究室に戻った。
 ずぶ濡れの3人を見て、その場にいた研究生がおどろいて一斉に立ち上がったが、皆声を出せないでいた。紗弥の様子から何が起きたか薄々感づいており、気にはなっているのだが、聞くに聞けないのだろう。みな一様に不安げに見つめている。 犬の美月だけが心配そうにギルフォードに駆け寄った。そんな中、如月がすぐさま行動を起こした。急いでエアコンの設定温度を上げ、貰い物などでストックしていたタオルや宿泊用の毛布などを出しはじめた。他の研究生たちも彼に続き、3人をソファに座らせバスタオルを羽織らせたり自前のカーボンヒーターを引っ張り出したり暖かいコーヒーを淹れたりした。
「申し訳ありません、わたくしが……」
 と言いながら紗弥が立ち上がろうとしたのを如月が止めた。
「座っとってください。紗弥さんのお顔も蒼白でっせ」
 そんな中、研究生の春梅(チュンメイ)が驚いた声を上げた。
「大変! ギル先生すごい熱よ!」
「え? まさか……」
「ちゃいまっせ!」
 誰かが口走りそうになったのを如月が止めた。
「あんなに雨に濡れてはったんや。熱ぐらい出しますわ! とにかく急いで病院に行かないと!」
「でも……」 由利子が言った。「感対センターの看護師さんが、今日救急車での搬送を断られて結局センターに……」
「そんなことがあったんでっか。ほんなら僕が感対センターまで連れて行きましょか? 紗弥さんと篠原さんは、熱とか大丈夫でっか?」
「わたくしはこれくらい平気ですから」
「私も大丈夫だから私が先生を連れて行くよ。如月クンは後を頼む。入院とかになった場合、美月の預かり場所とか探さなきゃ」
「そんなら僕にアテがありますから、心配せえへんでください」
「わかったよ。だいぶ服も乾いてきたし、取り合えずこの下まで車持ってくるから」
 由利子はそういうと立ち上がった。
「わたくしも行きますわ!」
 と言って紗弥は立ち上がろうとしたが、電話がかかったらしくすぐにポケットのスマートフォンを取り出した。相手先を見た紗弥の表情が一瞬にしてこわばり、すぐに電話を耳に当て英語で答えた。
”Hello, it is Saya. ………Eh?  Now? Well… but, but now I have to …”
 紗弥は何か言いかけたがすぐに沈黙し、通話先の人物の声だけが微かに聞こえた。洩れ聞こえた声だけで、由利子はただならぬ威圧感を覚えた。
”Yes, my lord.”
 紗弥は答えると電話を切った。
「由利子さん、申し訳ありません」紗弥は微かに唇を振るわせて言った。「わたくしは今から緊急にクリスに会いに行かねばなりません」
「え? そんな、今からアメリカとか無茶やろ!」
「教授のお父様より、状況を探ってくるようにとの命を受けました。わたくしは彼の指示には逆らえません」
「なんで? 無茶振りじゃない」
「仕方がありません。そういう契約ですから」
「契約って、そんなブラックな……」
「申し訳ありません、数日ですが、教授のことをよろしくお願いいたします」
 紗弥は、由利子たちに向かって頭を下げると、自分の机の上に置いていたバッグを掴んで研究室から駆け出して行った。
「ちょ、ちょっと、紗弥さん!」
 由利子は後を追ったが、すでに紗弥はすごい勢いで階段を駆け下りていた。由利子はすぐに研究室に戻り、窓から下を確認した。ほどなくして紗弥が姿を現し、どこからともなく現れた黒塗りの車に乗った。車はすぐさま出発した。由利子は何が何だかわからず右手で額を押さえながら、ギルフォードの元に行こうと振り返った。そこに如月が立っていた。
「何が起きたんでっか?」
「私にもさっぱりわからん。とにかくアレクを病院に連れて行かなきゃ。車取ってくるから教授を頼む。電話するからなんとか教授を下まで連れて来て」
 由利子は自分もリュックをひっつかんで背負うと、研究室から駆け出した。

 研究のためにラボに数日籠っていた遥音涼子は、いきなり入ってきた教主が告げたことに驚いて椅子から立ち上がった。
「長兄様、今なんとおっしゃいました?」
 涼子の狼狽を見て、教主は如何にも辛そうな表情で言った。
「君の最愛のお父様が亡くなられたという情報が入ったのです。私も信じられなくて、現地で保安官をしている信徒に確認しました。現地時間の夜、元教え子と心中していたのを発見されたとか」
「も…元教え子? 誰です、それは」
「ええ、驚かないでください。ジュリアス・キングというギルフォード教授のパートナーだった青年です」
「なんですって?」
「私も驚きました。まさかそういうつながりがあるとは」
 教主はさらに声のトーンを落として言った。
「いずれここにお迎えするということでしたのに、残念です。お悔やみ申し上げるとしか-……」
 涼子は力なく椅子に座り込むと、顔を覆って言った。
「しばらく一人にしてください」
「わかりました。あまり力を落とされないよう」
 教主はそう言い残すと、部屋を出て行った。涼子は椅子に座ったまま、腕を組んで両肩を掴みガタガタと震えながらつぶやいた。
「本当に…? 本当にご存じなかったの? 本当に偶然起きた事件なの? 長兄様?」
 父を失った悲しみより、言いようのない恐怖が涼子を襲っていた。
 教主はドアの横の壁に寄りかかって、腕を組み、室内の涼子の様子を想像しながら微笑んでいた。
「喜び給え。君の父親はジュリアスと共に、我らが計画の尊い贄(にえ)となったのだ」
 彼は上機嫌でそういうと、悠々と歩きだしラボを後にした。

 涼子は教主が去ったのを確認すると、そっと部屋を出て姉・ハルネの病室に向かった。
 姉は様々なコードやチューブで多様な機械に繋がれ、なんとか息をしていた。美しかった顔は痩せこけ、薬の副作用で一度抜け落ちた自慢のブルネットの巻き毛は、ようやく生えそろったものの短く刈られており、昔の面影は見る影もなくなっていた。教団に拾われずあのままアメリカの病院にいれば、いずれ父は莫大な医療費を払えなくなり姉はとっくに死んでいただろう。
”ハルネ、父が亡くなったそうよ”
 涼子が姉に語りかけた。
”あなたを植物状態から戻すために、私は長兄様にすがった。そしてあなたを元に戻す研究の傍ら、長兄様に命じられ、あなたをこんな風にしたウイルス、米軍がコードネーム『タナトス』、通称T-Vと命名したウイルスをさらに研究して、出来るだけ副反応の出ないワクチンや抗ウイルス薬の研究をしたの。だけど、それは却ってさらに強力なウイルスを作ることとなってしまったの。そして、長兄様はそれを利用して世界浄化計画の構想を練り上げた。冷戦後平和になるどころか、緊張感は増す一方であり核戦争の脅威は去っておらず、また、そうでなくとも不完全な原子力発電所がいつかまたシビアアクシデントを起こすのは時間の問題だと。そんなことで地球が汚染される前に、他の生物に影響のないウイルスで人類を間引いてしまおう、と。世の中に絶望していた私はそれに賛同した。でも、今は……”
 涼子はそこでいったん言葉を切って、深いため息をついた。
”自分が恐ろしい……。
 理由はわからないけど、父は多分この計画の一環として殺されてしまったんだと思う。でも、長兄様を裏切るということは、あなたを見捨てることになる。私はどうしたらいいかわからない”  
 涼子はそこまで言うと、しばらく黙って姉のそばに座っていた。十数分後、涼子は立ち上がって言った。
”ハルネ、ごめんね。こんなことあなたに言うつもりなんてなかったのに……。でも、誰かに懺悔したくてたまらなくなって……。でも大丈夫、あなたを見捨てるようなことはしないからね。また来るね”
 涼子はハルネの額に軽くキスをすると、病室を出てた。すると、突き当りにある特別室から女の叫び声がして、それに交じって何人かのなだめすかす声がした。 
(また、教母さまが長兄様を呼んでおられるのね)
 涼子は、哀れみと侮蔑の入り混じった目で声のする方を一瞥すると、その場を後にした。涼子は気づかなかった。植物状態のはずである姉が涙を流していることを。

 F空港に着いた紗弥は、空港警察の職員に小型旅客機まで案内された。ギルフォード家の経営するGSEが手配した特別機だった。席に案内され座ったが、どうも落ち着かないし、倒れたギルフォードのことが気になって仕方がない。そもそも、自分が事件の調査に行ったところでどうなるとも思えない。紗弥は自分も心痛で倒れそうな気分であった。そんな彼女のそばで聞き覚えのある声がした。
「大丈夫か? 今にも死にそうな顔色をしているぜ?」
 驚いて声の方を見ると、そこには長沼間が立っていた。
「長沼間さん! どうしてここへ?」
「キング先生には県警(ウチ)もかなり世話になったからな、代表して弔問に行って来いってお偉いさんに言われたのでね。ついでにサイキウイルス事件との関りを調べてこいってさ。そっちが目的なのは見え見えだがね。まあそれで、ギルフォード家のご厚意とやらでこの特別機に文字通り便乗させていただくことになったわけだ」
「そうですか」
 紗弥は長沼間の説明にそっけなく答えた。
「なんだ、心在らずだな。横に座っていいか?」
「ええ」
「ありがとう。助かったよ」長沼間は、紗弥の横に座ると言った。「どうも、一人で行くのは気が進まなくてね。英語の方はどうにかなるが、あの国はどうも好きになれなくてな。出来たら一生行きたくなかったんだが」
「好きになれない?」
「非戦闘員に対して2度も核実験しやがった上にそいつを正当化してやがるような国だからさ」
「そうですわね」
 紗弥は同意はしたものの、また黙りこくってしまった。仕方がないので長沼間は話しかけるのを止めて、買ってきた夕刊を読むことにした。
 機は間もなく動き出し、離陸した。ふわっと体が浮く感覚。そして、上昇するに従って襲ってくる耳の変調。
「うーーー、どうもこれには慣れねぇな」
 長沼間はそう言いながら紗弥の方を見た。しかし、紗弥は思いつめたような表情でじっと座っている。彼女の視線の先にある膝の上で組んだ手は、微かに震え指の関節が白く見えるほど握りしめている。
「アレクサンダーのことが心配なんだろ。大丈夫さ。発熱したらしいがそうなれば、決まりで最低一週間は感対センターに隔離されることになるだろう。その間はあいつの身辺もセンター警備の警官により守られる。篠原のほうも、葛西や俺の部下が守るから心配ない」
 紗弥は無言のまま苦しそうな表情をした。長沼間は紗弥の肩に軽く手を置いて言った。
「アレクサンダー……あいつは今までも乗り越えてきたんだ。今度だってきっと立ち直ってくれる」
「いい加減なことを言わないでくださいませ!」
 紗弥は長沼間の手を振り払いながら声を荒げて言った。長沼間は驚いた。紗弥がこんなに感情を表せて見せたのが初めてだったからだ。
「申し訳ありません」紗弥はすぐに自分を取り戻して謝った。
「でも、今度ばかりはダメージが大きすぎます。ああ、わたくし……わたくしがジュリアスと会わせたりさえしなければ……」
「おまえさん、そんなことをずっと気に病んでいたのか?」
「そんなことじゃありません!」
「君のせいじゃない!」
 長沼間は真剣な目をして言った。
「いいえ、わたくしが……」
「いいから聞け」長沼間が遮って言った。
「俺もな、妹がサリンテロに巻き込まれた挙句、自殺しちまった時には自分を呪ったさ。なにせ、俺はテロを防ぐ立場にいたんだからな。それで自暴自棄になりかけた。仕事も辞めようかと考えた。サリンテロのことなんてもう考えたくなかった。だが、そんなことで本当に妹は喜ぶのか。『自分のせい』で終わらせて現実から逃げるのは簡単だ。俺がやることは、二度と同じことを繰り返さないことじゃないのか。だから俺は職場に戻った」
 紗弥は相変わらず黙って下を向いていた。
「ところが、派遣された先でこのザマだよ。止めるどころか相変わらずに後手後手だ」
 長沼間は軽くため息をつくと言った。
「だが、俺は諦めちゃいない。なんとか踏ん張ってこれ以上災禍を広げないようにしなければならん。だから、鷹峰ちゃん、今は落ち込むのはよそうや」
 紗弥はやはり下を向いて自分の手を見つめている。長沼間は肩をすくめて言った。
「とりあえず、横になって休めよ。着いてからが大変だからな。あちらで倒れるようなことになったらカッコ悪いだろ」
「はい」
 紗弥は素直に言うと、備え付けの毛布を被って椅子の背を倒し横になった。
「不安なら手を握ってやるぞ」
「けっこうです」
 即答が帰ってきて、長沼間は苦笑いをした。

 長沼間が言ったように、ギルフォードは念のために隔離されることになった。ただし、熱が引き、感染の恐れがないことが判れば4・5日で隔離室からは出られるということだった。
 由利子はギルフォードの病室の窓の前に座って、彼の様子を見守っていると、高柳が来て椅子を持ってくると横に座った。
「高柳先生」
「すまない。ギルフォード君を見失ってしまった、うちの手落ちだ。ちゃんと彼を見張っていれば、こんなことにはならなかった」
「いえ、あの状態なら結局こうなったと思います」
「それでも、やはりうちの大失態には違いないよ。面目ない」
 高柳は改めて頭を下げた。
「もう、気にしないでください。それより……」由利子はずっと気になっていたことを聞くことにした。「さっき聞きそびれた、レーヴェンスクロフトとかいう人のことなのですが……」
「そうだった、話そうとした時にギルフォード君がいなくなったのだったな」
「そうです」
 高柳は、レーヴェンスクロフトについて知り得る限りのことを由利子に教えた。
「その人が論文で、『新型ラッサ熱』が実は新種のウイルスであり、それを米軍が隠蔽しているということを指摘したんですね」
「そうだ。しかし、陰謀論者として彼は表舞台から姿を消してしまった。だが隠遁生活をしながらウイルスの研究は続けていたのだろう。娘が二人いたらしいが、いすれも行方不明らしい。私が知っているのはそれくらいだ。あとは現場からの報告を待つしかない」
「ジュリーが死んでしまったなんて、まだ信じられません。明日には帰って来るって言ったのに」
「私だって信じがたいよ。レーヴェンスクロフトなんかに会いに行かなければ、こんなことには……」
「ジュリーはサイキウイルスと『新型ラッサ熱ウイルス』が同じものではないかと疑っていたのでしょうか?」
「いずれにしろ、『新型ラッサ熱ウイルス』の検体がでてこない限り仮説の範疇を超えないからなあ」
 そう言いながら、高柳は両手で頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。由利子は実際に金田一耕助のような仕草をする男性を初めて見たので、目を丸くした。高柳はそれに気づいて、手櫛で髪を整えながらばつの悪そうに言った。
「すまんね。妻から人前でやるなと再三言われているんだがね、苛々したりするとついね」
「イライラ?」
「ギルフォード君にでもお兄さんにでも相談してくれればこんなことには……」
 感情が高まったのか、高柳の言葉が途絶えた。
「私にもラヴェンクロフという人からアドバイスをもらってくるとしか言いませんでした」
「ラヴェンクロフか。彼独特の発音だな」
「きっと、恩師を信じていたのだと思います。疑いはあったかもしれないけど、きっと力になってくれるって思っていたんです。でも、確証がないからはっきりするまで詳しいことを言わなかったのだと思います」
「そんなところだろうね」
「そうです。そんなヤツなんです、ジュリーは!」
 由利子は悲しさで胸が潰れそうになったが、やはり涙は出てこなかった。

 ジュリアスの訃報は葛西にも届いていた。
 葛西は引き続き九木と聞き込みをしていたが、一段落して署に戻ろうかという時に、葛西の電話にジュリアスが死亡したらしいという連絡が入った。葛西は呆然として電話を切ったが、何と応対したかすら覚えていなかった。
「嘘だろ、ジュリー……」
「何があった、葛西君」
「嘘だ……。何かの間違いだ……。僕は信じない!」
 葛西は2・3歩よろけると、街中に関わらず顔を覆って座り込んだ。九木は驚いて片膝をつき葛西の左肩を掴むと問うた。
「葛西君、何があった?」
 しかし、葛西は首を左右に振りながら震えて何も言えない状態だった。九木は葛西の両肩を掴んで大声ではないが厳しい声で言った。
「しっかりしろ、葛西! 立場をわきまえろ! とにかく立て!」
 葛西はふらつきながらも反射的に立ち上がった。
「君の職業は何だ?」
 葛西はハッとして姿勢を整えた。
「何があった!?」
「ジュリーが、いえ、キング先生がアメリカで遺体で発見されたと……」
「なんだって?」
 想像もしていなかった答えに九木すらも驚愕を隠せなかった。葛西はうろたえたまま、どうしてよいかわからない状態だった。
「葛西君、とにかく車に戻ろう。署に戻ってから情報を収集しよう」
 九木は葛西の背を押すと、先に歩き出した。葛西はその後に続いた。

 テレビは昨日のH駅自爆事件で持ち切りだった。爆発の瞬間を捉えた視聴者提供の動画が、あらゆる角度からの爆発をテレビ画面に映し出した。それは、ニュースやワイドショーで繰り返し流れた。黒岩の撮った犯人の映像も繰り返し流された。被害者が死の直前にそれを撮ったということで、遺族である娘や義父母がマスコミに追いかけられマイクを向けられた。防護服を着た自衛隊員が駅を消毒するために駆けつけた姿や、走り回る防護服の警官の姿が放映され、この爆破事件が通常のものと違うことを示した。ワイドショーなどのコメンテーターには、サリンテロ事件を思い出すとコメントする者が少なくなかった。
 隔離病棟で同室に入った富田林と増岡は、テレビの前にいすを並べてみていた。感染の疑いのみで発症していない二人は、レベル2の病室でそこには16インチ程度のテレビが設置してあった。
「まさか、隔離患者の立場でこんな映像を見ることになるとは思わなかったぞ」
 富田林が自前の団扇で激しく自分を仰ぎながら言った。
「しかし、もどかしいもんだな。俺たちも早く復帰して最前線でがんばりたいもんだ。……あ、おい、あれは俺たちじゃないか? 見ろよ、増岡」
 富田林は画面を指さして興奮気味に言ったが、増岡からは返事がなかった。違和感を感じて増岡の方を見た富田林は驚いた。
「増岡、おい増岡!!」
 増岡は痙攣をおこして傍のベッドに倒れ込んでいた。富田林は驚いて駆け寄った。
「トンさん、僕に触らないで、離れてください」
「お、おい!」
「来るな!!」
 増岡は苦しい息のなかで出来るだけ大声を出して制した。
「お願いです、近寄らないでください。考えたくなかったけど、発症したみたいです。先生を、呼んでください」
「わかった、待ってろよ!」
 富田林は一瞬固まったが、急いでナースコールを手に取った。

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4.翻弄 (7)グッバイ ブルースカイ

 まだ幼い少女が父と母に手をつながれて、楽しそうにショッピングセンターを歩いていた。
 少女はショウウインドウに煌びやかにディスプレイしてある有名な着せ替え人形を指さした。クリスマス商戦に合わせたニューヴァージョンだった。両親は笑顔で答え、少女が喜んで父親に飛びついた。父親は笑いながら少女を抱き上げた。その時銃声がとどろき人々の悲鳴と共にショウウインドウが割れた。人形たちはガラスと共に無残に砕け飛び散った。父親は咄嗟に娘を母に託し母は反射的に娘をかばい床に伏せた。父はその上にさらに覆いかぶさった。母は娘を抱きしめ阿鼻叫喚の声を聴かせまいと娘の両耳をしっかり塞いだ。
 遠くに銃声や怒号そして悲鳴を聞きながら、少女は何が起きたか理解せずにいた。しかし、事態は少女に容赦しなかった。母親の手の向こうから聞いたこともないような鈍い音が聞こえそれと共に、身体に幾度か振動を感じた。ふいに母の身体から力が抜けた。母の体重が少女にかかり、その上にさらになにがしかの重さが加わった。少女の耳を塞いでいた母の手に力が抜け、ぱたりと落ちた。遠くの音がいきなり間近の音となって少女にせまった。
 聞いたことのない言語をしゃべりながら男たちが近づいてきた。彼らは少女のそばで足を止め、両親の顔を確認したらしく何か大声でわめいていた。少女のそばに手が伸びて彼女の襟首を掴み、母親の身体の下から引きずり出した。少女はかすれた悲鳴を上げたが、殺気立った男に頬をひっぱたかれ痛みと恐怖で人形のように動けなくなった。口の中に錆びた鉄の味が広がった。猫の子のようにぶら下げられた少女の視界に飛び込んできたのは、無残に血に塗れ孔だらけになった両親の遺体だった。

 紗弥は悲鳴を上げて飛び起きた。飛行機の快適な椅子に座り、緊張が続き疲れ果てていたためにいつの間にか眠っていたらしい。
「どうした! 大丈夫か?」
 横に座って新聞を読んでいた長沼間が驚いて声をかけた。
「申し訳ありません。大丈夫です」
 紗弥はすぐに取り繕ったが、汗と震えが止まらなかった。

 由利子はギルフォードの病室の窓の前にずっと座っていた。そこに「由利子さん!」と叫んで葛西が駆け込んできた。
「葛西君、病院だよ。大声や走るのはやめて」
 葛西は由利子にたしなめられて、少しばつが悪そうにしながら由利子のそばに立つと、ギルフォードの様子を見ながら言った。
「眠っているようですが、大丈夫ですか?」
 葛西の問いに由利子は彼の方を見ずに答えた。
「うん。でも時々うなされて、うわごとでジュリーの名前呼んでる」
「無理もないです。
「熱が高いんで念のためここに入ってるけど、おそらく風邪だろうと。ただ、雨にずっと濡れていたせいで体が冷え切ってて、肺炎の可能性もあるから絶対安静だって」
「由利子さんは?」
「私は大丈夫。というより、正直なんか現実味がないんだ」
「僕もです。それに、増岡さんが発症されて、もう、なにがなんだか……」
「増岡さんが?」
 由利子が驚いて葛西を見た。葛西は憔悴しきった由利子の顔を見て一瞬驚いたが、努めて平常に答えた。
「ええ、ここにきてすぐに山口先生から聞かされました。もうすぐ隣の病室に運ばれてくると思います」
「そんな、信じられない。あの飄々とした増岡さんが……」
「手に瓦礫が刺さったらしい小さな傷があったそうです。ほんとに見逃すくらい小さな」
「刺し傷……」
「でも、河部千夏さんは快方に向かていることだし、絶望するには早すぎます」
「そうだね。千夏さんはレベル2の病室に移れそうということだし、希望はある」
 由利子は自分に言い聞かせるように言った。
「でも、富田林さんは落ち込んでいるだろうね。仲良かったから」
「実は、ここに来る前に富田林さんに会って来たんです。平気そうにしていましたけど、あれはカラ元気ですね。声が少し裏返ってました」
「富田林さんは正直だからね。だから信頼できるんだよね」
「今、九木さんが残って色々話を聞いているはずです」
「そう。九木さんも最初の印象は最悪だったけど、けっこういい人みたいね」
「一緒にいるとまだ少し緊張するので、ちょっと疲れますけどね」
「まだ苦手なんだ」
「はい、実は」
 由利子が思ったより落ち着いていると判断して葛西が言った。
「由利子さん、ちょっといいですか?」
「何よ、改まって」
「こんな時にこんなところで申し訳ないですが、写真を確認していただけませんか?」
「写真?」
「はい」
「ひょっとして?」
「はい、レーヴェンスクロフトの写真です。長沼間さんから由利子さんに確認していただくようにと言われまして」
「どこからそんな写真を?」
「ネットからだそうですが」
「あ、そうなの?」
「ですから、かなり前の写真です」
「当の長沼さんは?」
「現場のアメリカに移動中ということです」
「早っ! そういえば、紗弥さんもアレクのお父様の命令でアメリカに向かったけど……」
「おそらく一緒の便だと思います」
「アレクの実家ってなにげにすごいんだな。でも、よくアメリカが許可したね」
「米国もそれだけ事態を重く見ているということでしょう。もはやアメリカと日本それそれの問題ではないと」
「そりゃあ、ウイルスがアメリカ発ということが本当なら洒落にならんどころか、国際問題だよ」
「現大統領がテロ対策に真剣な方で良かったです。下手すりゃまた隠蔽されるところだった。とはいえ、まだ極秘事項ですのでご内密にお願いします」
「わかったから、とりあえず写真を見せて」
「ああ、すみません」
 葛西は慌ててスマートフォンを出して操作し、由利子に手渡した。
「こいつがジュリーを……」
 由利子はまじまじとそれを見たが、見る見る顔色が変わった。
「この人は……!」
 由利子は危うく葛西のスマートフォンを取り落としそうになった。
「どうしました?」
「私、この人見たことある!」
「え?」
「ジュリーと大学の図書館に行った時、彼が調べ物をしてて……」
「え? 由利ちゃん、ジュリーと図書館とか行ったの?」
「そうよ。アレクに頼まれただけだからね。アレクが行けなくなってジュリーがぶすくれちゃったから代わりに行ってくれって頼まれただけだから」
 由利子はなんでこんな時にこんなことの言い訳をせねばならないのだとぼんやりと思いながら答えた。その時ギルフォードの過去話を聞いたことはもちろん言わなかった。最もそんな余裕もなかったが。
「すみません、余計なことを言いました。で、ジュリーが調べていた本でこの写真を見たということですね」
 しかし、由利子は葛西の質問に答えずにつぶやいた。
「そうか、そうだったんだ」
 思えばあの頃、ジュリアスは恩師がこの事件に関わっているのではないかと憂慮していたのだ。そしてここで調べたことで確信をもったのだろう。あのシャープペンシルを挟んでいたページにあった写真の年配の男性、彼がジュリアスの命運を決めようなどど、その時の由利子に予測など出来る筈がない。
「ジュリーが館内放送に呼び出されて、待ってる間にジュリーが読みかけのところにシャーペンを挟んでたんで、興味本位でそこを開いたら、年配の白人男性の写真があって、でも全部英語で何が書いてあるかわからなくて、すぐに本を閉じちゃった」
「由利ちゃん?」
「私、見ていたんだ。
見ていたけど、大したことないと思ってスルーしちゃったんだ」

「由利ちゃん!」
「どうしよう、私、知ってた。その本覚えてて、あとでアレクに教えてたら、いいや、その時居たのが私じゃなくてアレクだったら、ジュリーは死ななくて済んだのかな?」
「由利ちゃん、しっかりして! そんなこと、僕だってわからなかったですよ。アレクがいたってどうだかわかりません。悔やんだって仕方ありません」
「ごめん、アレク、ごめん、ジュリー」
 その時、ギルフォードがまたジュリアスの名前を呼んで顔をゆがませ、その頬を涙が伝った。由利子は震えながら両手を組んで祈るよう目をつぶった。由利子のできることはもはや見守ることしかなかった。由利子も辛そうに顔をゆがませていたが、その頬を涙が伝わることはなかった。葛西は由利子の肩に手をそっと置いた。本当は抱きしめたいと思ったが、そんなことで今の由利子の心が休まるようなことがないのを、葛西自身が一番わかっていた。葛西は自分が由利子の支えになれないことを痛切に思い知っていた。

 富田林はベッドに腰かけては立ち上がりを繰り返した後、ベッドにごろんと寝ころんだ。
 九木はしばらく富田林と話していたが、時間だと言って帰ってしまった。九木が相手では気を遣うばかりなので気疲れするだけなのだが、それでもなんとか気持ちくらいは紛れた。しかし、一人残されると増岡のことが気になって仕方がない。ベッドに寝ころんで何度かゴロゴロすると、むっくりと起き上がってまたベッドから降りて室内をウロウロした。
「あのバカ、怪我に気付かないなんてどんだけ鈍いんだよ! おかげで俺の隔離期間も伸びちまったじゃないか!」
 富田林はそういうと、ガンとベッドの脚を蹴飛ばした。思い切り蹴飛ばしたが目測を誤ってくるぶしを思い切り打ち付けた。
「うおーっ、痛て、痛ってぇーーーー!!」
 富田林は打った足を抱えてうずくまりうなった。
「増岡、死ぬな。頑張ってくれ……」
 うずくまったまま、富田林はしばらく動かなかった。肩が小刻みに震えていた。

 教主は、母をなだめてようやく眠らせると、教母の部屋をでた。その後ろを白スーツの女性が1Mほど離れて歩いていた。女性は教主に言った。
「教母さまは本当に長兄様のことを頼っておられるのですね」
 教主はそれに反応して一瞬振り返って彼女を見た。その眼には一瞬鋭い光が宿ったように見えたが、女性は気づいていない様子だった。教団の信者たちは言われない限り教主の目を見ることを禁じられているからだった。教主はすぐに前を向くと、女性に優しい声で言った。
「黒岩さん、あなたが率先して母の世話をしてくださるからですよ」
「そんな、もったいない」
「ところで、あれで満足されましたか?」
 黒岩と呼ばれた白スーツの女性は、恐縮しながら答えた。
「はい。あの女がこの世から消えてせいせいしましたわ」
 教主は立ち止まると『黒岩』の方を振り返って言った。
「旦那さんに横恋慕して略奪婚した女性だということでしたが、あなたは離婚後も姓を変えなかった。もちろん諸事情を踏まえ、旧姓に戻らなければならないという決まりはありませんが」
「私にも意地がありましたし、体裁もありました。旧姓に戻せば離婚したことが友人たちに丸わかりになりますもの。それに、あの女だって私が黒岩のままであることに、内心穏やかではなかったはずです」
「そうですか。てっきり前夫に未練があるものとばかり……。では、るい子さんが旦那さんのところに行って冥府でまた一緒に暮らすことは大丈夫なのですね」
 そういわれて『黒岩』は、声を荒げて言った。
「二人とも今頃地獄で苦しんでいるのでしょう? 長兄様はそうおっしゃった。不倫をしたものは地獄でも愛別離苦に苦しむと!」 
「そうです。その通りですとも」
 教主は穏やかに言うと、彼女に手を差し伸べながら言った。
「伊都江(いとえ)さん。名前は元来『呪(しゅ)』であり、それは人を縛ります。もうあなたは黒岩という呪から解放されるべきです。近いうちに私が新しいお名前を考えて差し上げましょう」
「ああ、あり難き幸せにございます!」
 黒岩伊都江は跪いて教主の手をとり、涙を流しながら言った。
伊都江さん、そんなことはなさらずに、さあ、お立ち下さい」
 教主は伊都江の手を取り立ち上がらせて言った。
「さあ、一緒に参りましょう。並んで歩くことを許します」
「は、はい!」
 伊都江は光栄さに再び涙ぐんで言った。教主は微笑みながら優しく言った。
「これからも教母様のお世話を頼みますよ」
「はい、お任せください」
 伊都江は誇らしげに答えたが、教主が一瞬浮かべた恐ろしい笑みに気付くことはなかった。

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 梅雨末期の雨は祭りが中止になったあの日から数日の間、日本中を暴れまわり各地に被害をもたらした。F県下でも数か所の自治体に甚大な被害を記録した。森の内知事は各対応に追われたものの、何とか時間を作ってギルフォードの様子を見に来たが、彼が目を覚まさないのでがっくりとして去っていった。森の内もH駅自爆事件に続く豪雨甚大災害に見る影なく憔悴していた。特にH駅は九州最大のターミナル駅でありただでさえ自爆事件で混乱していたところに豪雨が襲来し、その混乱は日本各地に及んだ。
 ギルフォードの熱は40度を超えるほどのものだったが、3日目には下がる兆候が見え4日目にはかなり熱は下がり皆を安堵させた。5日目には一般病棟の個室に移り、車いすでの移動を許された。しかし、増岡の病状は一進一退を繰り返し、富田林は隔離病室で不安を募らせていた。
 一般病棟に移ったギルフォードは、意識を取り戻してはいたものの、ほとんどしゃべらず窓の外をぼんやり見て過ごした。食事もろくに食べない状態で、病院のスタッフを心配させていた。
 週末には天気の方は快方に向かい、豪雨による電車の運転停止や各道路の通行止めなどで混乱していた交通網もなんとか復旧した。それによって自宅に足止めされていた由利子もようやく感対センターへ行きギルフォードを見舞うことが出来た。

20XX年7月20日(土)

 由利子は部屋のドアの前で深呼吸してからドアをノックした。返事がないので思い切ってドアを開けた。
「アレク、こんにちは。ようやくお見舞いに来れたよ」
 由利子は部屋に入ると声をかけたが、ギルフォードはこちらを見ただけで何の反応もしなかった。由利子は出来るだけ明るくふるまうよう努めた。
「いい天気になったよ。まだ梅雨は明けてないそうだけど、中休みだって。そりゃあ中休みもしたいよね。すごい雨だったもんなあ。ノアが箱舟を作り出すレベル?」
 由利子はなんとなくジョークを挟んでみたが、やはり反応はない。由利子はため息をついて、リュックを背負ったまま椅子をベッドの横に持ってきて座った。ギルフォードはまた窓の方をぼんやり見ていたが、しばらくしてぼそりとつぶやいた。
「ノアは……」
「な、なに?」
 由利子はギルフォードがしゃべったので喜んで聞き返した。
「あれだけの動物たちの世話はちゃんとできたのでしょうか?」
「へ?」
「つがいの全生物ですよ。人間に有用な生物だけでは生態系を維持できません。草食動物も肉食動物もいる。鳥だって爬虫類だって両生類だっているし、水中の魚はともかく虫だって生物だし、ハチやアリみたいに巣単位で生きる生物とかどうしたんでしょう。共食いさせるわけにもいかないからエサだって調達しないといけないでしょ? どんだけ大きな箱舟が要ると思いますか? 一週間やそこらで出来ると思いますか? それに世話人や食料だって膨大な……」
「アレク、わかった。わかったから、いきなりまくしたてないで」
 由利子はギルフォードがいきなり堰を切ったように話し始めたので驚いて腰を浮かせながら言った。
「すみません。以前から疑問に思っていたので」
「神話に突っ込んだって仕方ないやろ。ほとんどはメタファーなんだろうし」
 椅子に座りなおして由利子が言った。どう反応して良いかわからなかった。それで、話題を変えることにした。
「あのね、美月のことだけど」
「すみません。自分で預かるとか言っておきながらこんなことになってしまって。今どうしていますか」
「如月クンの大家さんのご夫婦がね、半年前に愛犬を老衰で無くしていたそうで、寂しいから次に買う犬を探していたんだって。それで、彼らに交渉してくれて、美葉が見つかるまでの間面倒見てくれることになったそうよ。幸い、そこは豪雨被害が出なかったので、元気にしているって」
「そうでしたか。良かった……」
「ごめんね、私たちで勝手に決めて。でも、その方がいいって思ったの」
「そうですね。僕といるより安心です」
「学校には如月クンが時々連れてくるそうだし。でも、アレクがうちに帰った時一人になって寂しいよね……」
「そうですね。ジュリーが帰ってこなくなった今は」
「アレク、ごめんね。本当にごめん。あのね、あのね、私……、図書館でジュリーが恩師のレーヴェンスクロフトのこと調べてたの見てたの。でも、気が付かなかった。葛西君から写真を見せてもらって初めて気が付いたの。私が気づいてたら……」
「ユリコ」
 ギルフォードは由利子の言葉を遮り、厳しい表情で由利子を見て言った。
「いちいちIF(アイエフ)を考えてはいけません。起きてしまったことは変えようがありません」
 由利子はそう言われて返す言葉がなかった。
「ごめん、ユリコ。責めたんじゃありませんよ。これは僕に対しての戒めでもあります」
「うん、わかってる……」
 由利子はそう答えたものの下を向いたまま、黙ってしまった。
 しばらく沈黙が続いたが、ギルフォードの方から口を開いた。
「外に出て空が見たいです。車いすを押して屋上まで連れて行ってくれますか?」
「うん、わかった。看護師さん呼ぶね」
 ギルフォードから頼まれて由利子は喜んで立ち上がった。

 感対センターの屋上に出ると、梅雨合間の青空が広がっていた。綿雲や巻雲などが何者かが青いキャンバスに白い絵の具で自由に描いたように流れていく。眼下には緑の木々が広がりさらに向こうには街並みが無限のように続いている。昼下がりの日差しは強いが風は若干強く、梅雨前線が南下しているせいか肌にあたる風は湿気が少なく心地よかった。
「ほんっとにいい天気! いい景色! ……高いフェンスが邪魔だけど」
「仕方がないですね。危ないですから」
 由利子はフェンスから少し離れたところで車いすを止めた。
「この辺にしよっか。アレク、暑くない?」
「大丈夫です。ユリコこそ、紫外線は大丈夫ですか?」
「日焼け止めをしっかり塗っているから平気だよ。アレクこそ大丈夫?」
「短時間なら大丈夫です。ここからの風景も綺麗ですね」
 ギルフォードは青空を見上げて眩しそうな眼をして言った。
「ジュリーはあそこへ行ったのでしょうか? あの綺麗な青い空へ……」
 それを聞いて由利子は何も答えることが出来なかった。
「僕もいつかあの空に向かうことが出来るでしょうか?」
「アレク……」由利子の顔がまた辛そうにゆがんだ。そしてまたしばらくの沈黙。 それを破ったのはギルフォードだった。
「ユリコ」
 ギルフォードは由利子の方を向かず、空を見ながら言った。
「君にだけは言っておきます」
「え? いきなりなに?」
「僕は、僕はジュリーのことを忘れるつもりです」
 ギルフォードの口から信じられない言葉が出たので、由利子は驚いてしばらく頭の中が真っ白になった。あんなに仲が良くてお似合いのパートナーを忘れようなんて、いくらショックだからって、あんまりだ。
「あんた正気? ジュリーのことを忘れるなんて! また彼から逃げるつもり?」
 ようやく由利子が絞り出した声はそのままギルフォードへの非難となってしまった。 しかし、ギルフォードは青空を仰いだまま穏やかに言った。
「そうです
。でも、これは現実から逃げるためではありません。前を向かなければならないからです」

「前を向く?」
「そうです。この事件はまだ解決していません。それどころか敵の正体もウイルスの正体もわかっていません。だから、この事件が解決するまでジュリーのことを封印するつもりです」
「アレク……」
「そうしなければ、もう僕は自分を保つことが出来ません。だから、ジュリーの雪辱を果たすためには彼のことを忘れなければならないのです。ジュリーはきっとわかってくれます」
「アレク、そんなに……」
 由利子は、ギルフォードが思った以上に追い詰められていることを知って、これ以上彼を責めるようなことは言えなくなった。片翼を失ってしまった彼の苦悩と悲しさは想像を絶するものだろう。2度も愛する人を運命に奪われた彼の苦渋の決断を誰が責められようか。
「ユリコ、わかってくれましたか?」
「わかるわけない! 第一そんなこと出来るわけ……」
「僕には出来るのです。それをやらなければ僕は生きていけなかったから……」
「アレク、もういい。わかった、わかったから……」
 由利子は答えたがそれ以上声にはならなかった。
「そろそろ顔がヒリヒリしてきました。帰りましょうか」
「うん。じゃあ、行くね」
 そういうと由利子は車椅子をゆっくりと動かした。
 屋上から塔屋に入る時、ギルフォードは青空を振り返り何か小さくつぶやいた。しかし、由利子はそれに気づくことはなく、エレベータのボタンを押した。

 由利子は、葛西に送られて家に帰ったが、車の中でもため息を付きっぱなしだった。葛西が心配して理由を尋ねたが、由利子は自分自身でも完全に納得できたわけでもないので上手く説明できる筈もなく、今度ねとはぐらかして答えた。葛西は幾分か不満そうだったが、「絶対ですよ」といった後、その件には触れないでいた。本当は由利子一人で抱えるには重すぎたのだが。
 部屋に帰ると真っ先に走って迎えに来た愛猫のはるさめを抱き上げぎゅっと抱きしめた。その周りを遅れてきたにゃにゃ子がうろうろと歩き回った。あたかもどうしたの? 何かあったの? と言わんばかりに。いきなり抱きしめられたはるさめは、驚いて暴れると由利子の手から逃げ出した。その時腕を軽く引っかかれた。由利子はその腕の傷をしばらく見ていたが、そのまま玄関の壁にもたれて座り込んだ。はるさめがすまなさそうに寄ってきて、由利子にすり寄った。遅れてにゃにゃ子も来て膝の上に乗ると心配そうににゃあんと鳴いた。
 由利子にはこのところずっと精神的なダメージが続いていた。しかし今日のショックは今までと異質のものだった。悲しくて悔しくてやりきれない。ムードメーカーで屈託のないジュリアスは由利子も大好きだった。ジュリーが死んだなんてみんな夢だったらいい。
「ジュリー、会いたいよ……」
 彼の死は由利子にも暗い影を落としていた。

 気が付くと、由利子は欅の下に座っていた。Q大裏ビオトープ奥の林を抜けた場所にある小高い丘にひときわ大きく生えたあの欅で、今は悲しみのシンボルとなってしまった場所だった。
 ふと横を見ると、ジュリアスが座っていた。天気はあの時と同じく穏やかな晴天で時折爽やかな風がそよいでくる。由利子は悲しそうに笑うと言った。
「ジュリー、あんたが居るってことは、これは夢なんだよね」
「ああ。意外と冷静だな、由利子」
 ジュリアスはいたずらっぽく笑うと答えた。変わらない笑顔だった。
(会いたいって思ったから、こんな夢をみてるんだ)由利子は思った。
「帰れんくなってごめんな」
「それは、私にじゃない、アレクに言って。アレクにはあんたが必要だったのに。あんたは帰ってこなきゃダメだったのに」
 由利子に責められて、ジュリアスは悲しそうに言った。
「返す言葉もにゃーわ」
「アレクね、あんたのことは忘れるって言ったんだよ。事件が解決するまで封印するって……」
「しかたにゃーわ。だがね、翻って考えたら、それはあいつがこのテロ事件を必ず解決するという意思表示をしたってことだ」
「意思表示?」
「そう。それだで由利子、おみゃあさんにもいろいろ思うこともあるだろうが、あいつのこと許してやってちょぉよ」
「許すって、そんな、私……」
「あいつを頼む。親友としてあいつを支えてやってくれ」
「親友じゃない、戦友だよ。支えるよ、もちろんだよ。そしてあんたの仇を必ず討つから」
「そうか。頼もしいぞ、由利子。じゃあ、そろそろおれは行かにゃぁとな」
 そういうとジュリアスは立ち上がった。
「じゃあな、由利子、息災でな。おみゃあさんに会えて良かった」
 ジュリアスはそう言いながら由利子に微笑みかけると背を向け歩き始めた。
「ジュリー、待って!」
 由利子は慌てて立ち上がろうとして態勢を崩した。

 ハッとして目が覚めると、暗い自分の部屋のベッドに居た。体を起こすと枕元にはにゃにゃ子が、足元にははるさめがすやすやと眠っている。
 悲しい夢……。
「私を心配して、約束通り帰ってきてくれたんだね、ジュリー」
 そうつぶやくと、由利子は両手で顔を覆った。
 由利子は声にならない声を上げて泣いた。あふれる涙が両頬を伝い、顔を覆った手に滴り落ちた。

 
 涙が戻ってきた。

 
   

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4.翻弄 (8)仲間と相棒と

20XX年7月22日(月)

 紗弥と長沼間は無事にアメリカから戻って来たが、結局ジュリアスの葬儀に出ただけで特に地元警察の正式発表以上の成果は得ることが出来なかったようだった。もっとも長沼間の場合、日本警察の代表として葬儀に参列という名目で行ったのではあるが。
 紗弥は、帰ってギルフォードに報告するのが辛かった。重い気持ちで病室のドアを開けると、思いがけず笑顔のギルフォードがいた。ギルフォードは紗弥の報告を冷静に聞いていた。
「サヤさん、辛い役目をありがとう。御苦労様でした。今日は帰ってゆっくりと休んでください」
「教授?」
 その静かな声に、紗弥は不安になってギルフォードを見た。ギルフォードは伏目勝ちではあったが静かに微笑んで言った。
「サヤさん、心配しないで。大丈夫です、僕は前を向きます。いつかまた彼らにあった時、胸を張って報告できるように」
 それを聞いて紗弥は何も言えなくなり、一礼すると、バッグを手に静かに病室を出た。
 センターのエントランスで丁度見舞いに来た由利子と出会った。
「あら、紗弥さん、帰ってたんだね。お疲……」由利子は言いかけると紗弥の顔を見るなり驚いて言った。
「紗弥さん、どうした? 大丈夫?」
「え? なんですの?」
 由利子は自分の右頬を指さして言った。
「紗弥さん、ほっぺ」
「え?」
 紗弥は自分では泣いていることに気が付いていなかったらしく、自らの頬に触れて驚いていた。急いでバッグからハンカチを取り出して涙を拭いた。
「すみません。教授の顔を見たらなんだか胸が苦しくなってしまって」
「辛いよね、今のアレクは」
 由利子はため息を付きながら言った。
「帰るの?」
「ええ。教授が今日はゆっくり休めと」
「そうだね。強行軍だったもんね。でも、良かったらお話を聞かせてくれないかなあ? 話せる範囲でいいから」
「そうですわね。由利子さんには知る権利がありますね。では、ここのレストランでお茶にしましょうか」
「よっしゃあ、行こう!」
 由利子が小さいガッツポーズをし、二人は感対センターの『れすとらん フローラ』に向かった。

「ここも従業員さんが減りましたわね」
 待つ間に紗弥が言った。
「そうだね。でも、患者さんが感染者に限られてしまったので、お見舞い客もほとんど来なくなって利用者がほぼスタッフと関係者のみになってしまったから、丁度いいのかもね」
「怖がって辞めていったのでしょうか」
「う~ん、やっぱりね、風評被害みたいなこともあるみたいだからね。それに万一最悪な事態が起こったら、ここから出られなくなるかもしれない可能性も考えて、小さい子供を持ったお母さんとか辞めてしまったり」
「それは仕方がないですね」
「だれも責められないよね」
 二人はため息をついた。
「ところで、あっち(米国)はどうだった? ジュリーの……」
「お葬式に行ってまいりました。ずっと悪い冗談であってほしいと思っていましたが……」
 紗弥はうつむきながら答えた。
「私も思っていたよ。あいつ、本当に逝ってしまったんだ。でも、まだ全然ピンとこないよ」
「お葬式に行ったわたくしでさえ未だ信じられませんもの」
 そしてしばしの沈黙。
「で、さ……、その、どんなだった?」
「え?」
「ジュリー…さ……」
「まるで眠っているようでしたわ。検死の結果、彼の身体からヘムロックというドクニンジンからとれる毒素が検出されたそうです」
「ドクニンジンって、あの、ソクラテスの処刑に使われた?」
「そうです。おそらく眠るように逝っただろうと……」
「そうか……、苦しまなかったんだね」
「ええ……」
「そっか、苦しまなかった、それだけが救い、だね……」
「ええ……」
「……」
 突然由利子が顔を覆った。
「由利子さん?」
「ごめん、なんか急に……」
「由利子さん……」紗弥は、由利子の手の奥に見える左ほおに一筋涙が流れるのを見て言った。
「涙、戻ってきたのですね」
「うん。きっとジュリーが取り戻してくれた……」
 由利子は答えたが、依然顔を覆ったままだった。
「ごめんね。ちょっとだけ、ちょっとだけ……」
「ええ、わかっていますわ」
 紗弥が答えた。その時、二人の席の前で声がした。
「あのう、お客様、よろしいでしょうか?」
 見ると、ウエイトレスがミルクティーを二つお盆に乗せて途方にくれていた。
「ああ、ごめんなさい、置いてくださいな」
 紗弥が答えると、ウエイトレスはささっとグラスを置き、ばつの悪そうに去っていった。
「ごめん」
 由利子が涙を拭きながら言った。
「さ、飲もうか」
 ミルクティーを飲んで少し落ち着いてから、深呼吸して由利子が訊いた。
「ところで、ジュリーの事件で他に何かわかったことは?」
「残念ながら、使われた毒物が判った以上のことは何も……」
「え? レーヴェンスクロフトの所を家宅捜索したら何か出てくるんじゃあ……」
「それが、当日の明け方レーヴェンスクロフトの屋敷から出火して、外観は保っているものの、内部が全焼してしまったそうなのです」
「ええっ、そんなことが? 放火なの?」
「今のところ原因不明ということでした」
「全焼って、証拠隠滅以外にないじゃないか」
「焼け方がすごすぎて捜査が難航しているみたいなんです。まるでテルミットやナパームを使ったみたいだと。消火に手いっぱいで山火事にならなかったのが奇跡だということでした」
「兵器やん、それ。日本の古い木造家屋ならまだしも、西洋の建造物は簡単に全焼しないイメージがあるけど」
「気持ちの悪い事件です。このウイルス事件に関わっているテロ集団は海外にもシンパがいる可能性が濃厚になってきました」
「まあ、日本のカルト宗教の信者も海外にけっこうな数いるから、あり得なくもないよね。実際O教団もそうだったし」
「武器や兵器をロシアから調達していたのでしたね」
「ジュリーを運び出せていたのが、せめてもの救いか……。他になにかわかったことは?」
「それだけです」
 紗弥はそういうと、悔しそうに唇を噛んだ。由利子は紗弥がテーブルの上に置いた手にそっと自分の手を置いて言った。
「ごめんね、それだけで十分だよ。ジュリーが安らかだったことを紗弥さんが確認してくれただけで十分だよ」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうね」
 そういうと、二人はお互いの顔を見た。双方が涙を流しているのを見て苦笑した。店員たちは場所柄、客が泣くのに慣れているのだろう。彼女らに気まずい思いをさせないように思慮して客席から遠ざかっていた。

 長沼間はアメリカから帰ってきてからいつにもまして機嫌が悪かった。ジュリアスの葬儀には出たものの、テロ組織に関する情報を全く手にすることが出来なかったからだ。

 葬儀の時、長沼間はジュリアスの兄クリスに会った。ジュリアスと違って、筋肉質のスキンヘッドな偉丈夫だった。彼は、長沼間と紗弥に笑顔で近づいてきた。
”ミスター・ナガヌマ,サヤ,遠いところからわざわざありがとう”
”ミスター・キング,この度のことは日本警察にも驚愕が走りました.私たちはみな,とても優秀でありながら気さくなジュリアス先生を,とても愛していました.未だ信じられません.本当に残念です”
 長沼間は、日本なまりではあるものの、しっかりとした英語で答えた。
”ありがとう.私も未だ信じられません.両親が早く亡くなったので,たった二人の兄弟でした”
 クリスはそういうと長沼間に手を差し出した。長沼間との握手を済ませると、クリスは俯き加減の紗弥に向かって言った。
”サヤ,大丈夫かい?”
”ええ”
”大変だったね.遠いところから来てくれて本当にありがとう”
”ごめんなさい、私が……”
 紗弥が言いかけたのを遮って、クリスは紗弥を抱きしめた。
”いいんだ、サヤ.君のせいじゃない.いいかい,君のせいじゃないんだよ”
 二人はハグとキスを交わしたが、紗弥の顔色を見て、クリスが言った。
”無理しなくていいから,座っていなさい.もうじき式が始まる.ナガヌマ・サンもどうぞお座りください”
”ナガヌマでいいです”
”では、私のことはクリスとお呼びください.キングというのもおこがましいですからな”
 クリスはそういうと笑みを浮かべた。長沼間はそれに少し自虐的な影を見たような気がした。クリスは二人を座らせると、去っていった。長沼間は紗弥と並んで座っていたが、紗弥の様子に声をかけれず、二人して会話もなくどんよりとしていた。

 ジュリアスの葬式は厳かに行われた。ジュリアスらしい明るい装飾がなされ、響き渡る鐘の音と差し込む太陽光が却って悲しさを際立たせた。

 その後、長沼間は地元警察などを訪ねたが、レーヴェンスクロフトとテロ組織との関係など有力な情報を得ることが出来ず、ほとんど組織訪問で終わってしまった。クリスの在籍するCDCにも警備や国家機密等の関係上入ることが許されず、レーヴェンスクロフトの研究していたウイルスについてもクリスからの厚意で簡単な説明を受けることで済まされてしまった。
「くっそー、こんなことならわざわざ俺が行かなくても良かっただろーが! 俺の5日間を返せ」
 久しぶりに部署にもどった長沼間は、自分の席でメールチェックをしながらぶつぶつ言っていると、武邑が慰めるように言った。
「でも、あの美人の秘書さんと一緒に行動できたのでしょう? 良かったじゃないですか」
「あいつと一緒だったのは往復の飛行機とキング先生の葬儀だけだったよ。って、任務に関係ないことを言うんじゃない」
「それにしても、長沼間さんって英語出来たんですねえ。すごいです」
「まあ、両親が死んだあと面倒見てくれたのが牧師でアメリカ人だったのでね」
「長沼間さんって、実は『沼さん』だったんですか?」
「訳の分からないことを言ってないで、さっさと任務につかんか!!」
 長沼間の怒号が飛んで、武邑は反射的に「すみません!」といって部屋から飛び出した。
「ふん、相変わらず緊張感のない奴だ」
 長沼間はそう言いながら立ち上がった。それを見て、松岡の代りに配属された河井が言った。
「あら、もうお出かけですか?」
「ああ、ギルフォード先生とS対の葛西に会ってくる。丁度今葛西が感対センターに来ているらしいんでな。まあ、大した情報は得られなかったが」
「わかりました。いってらっしゃい」
「そうだ、これ、CDC土産だ。3時にでもみんなで食ってくれ」
 長沼間は手提げ袋を河井に渡すと、部署を出て行った。紙袋から土産を出した河井は少し戸惑って言った。
「って、これ、博多ぶらぶらじゃん」

 長沼間は、車で感対センターに向かいながら憂鬱になっていた。国家機密の壁は厚く大した『土産話』を得ることが出来なかったうえに、あの二人にジュリアスの葬儀の様子を話すことが重荷だったからだ。
 案の定、葛西は進展のなかったことを聞いてあからざまに落胆しているのが判った。しかし、ギルフォードには予想通りだったようで落胆の様子は見て取れなかった。紗弥からある程度の報告を受けたためだろう。ジュリアスについてもギルフォードは紗弥に聞いたからと言って長沼間が話そうとしたのを遮った。その様子を葛西は黙って見ていた。ジュリアスの死が皆に落とした影の大きさを、長沼間は改めて悟った。
 葛西と長沼間は、その後増岡の病室に行った。一時危なかったが持ち直したと聞いていたからだ。
 増岡は別人のようにやつれており、葛西は多美山を思い出して不安になっていた。増岡は二人を見ると力ない笑顔を浮かべて言った。
「わざわざありがとうございます。こんな状態になってしまって申し訳ないです」
「あ、増岡さん、無理しないで寝ていてください」
 葛西は起き上がろうとする増岡を止めると言った。
「増岡さん、そんなこと気にしないでください。それよりあなたや富田林さんが急いで駆けつけて引っ張り出してくれたおかげで、二次的に起きた天井落下に巻き込まれずに済んだ方たちがいます。迅速な行動、すごいです」
「そうですか……。よかった……」
「でも、そのために……」
「それが仕事ですから。でも、昨日まではほんとキツかったです。この前罹ったインフルエンザも辛かったけど、これはそれとは比べ物になりませんね」
 インフルエンザと聞いて、長沼間の表情が一瞬こわばったが、葛西がそれに気づくことはなかった。二人は三原医師から経過を聞いた後、増岡にまた来るからと声をかけて病室を後にし、そのまま富田林の部屋へ向かった。
 富田林は発症した増岡と長時間過ごしたことから1類の病室に移されていたが、窓越しに予想通りのカラ元気で二人を迎えた。
「増岡の病状が一時悪化していたことは聞いとります」
 富田林は葛西が長沼間を連れていることで、いつもより丁寧な物言いで言った。
「でも、今回は河部千夏で得た治療を試してみて病状が改善されたということで、自分は希望を捨ててはいません。あいつは必ず復活します」
「そうですよ。だってまだ赤視の症状も出ていなかったですから!」
 葛西はがんばれのポーズをしながら富田林に答えた。
「ねっ! 長沼間さん!」
「あ……? ああ」
 長沼間は答えたが、なにか煮え切らない様子だった。

 美波と件の子供たちは午後から美波の部屋に集まって、14日に中断した取材の続きをしていた。ほぼ話を聞き終え時計を見た美波が言った。
「あら、もうすぐ夕方の5時ね。日が長いからうっかりしてた。みんな、そろそろ帰らなきゃ、お家の方が心配されるわね」
「あ、ほんとだ。早く帰れってメールも入ってた」
 スマートフォンを見て祐一が言った。
「やばっ、私、門限6時!」
「へえ、門限なんてあるんだー」
「佐々木うるさい。あんたの門限たしか5時じゃん」
「早ッ!」
「おまえら、いちいち突っかからんと気が済まんのか? 勝太も乗っからない!」
「あらら、ヨシオ君はアウトじゃん。さあさ、みんな帰りの用意をして! 親御さんたちから私と会うのを禁止されちゃあかなわないわ」
「はーい」
 4人は仲良く口をそろえて返事をしたが、その後良夫と彩夏がフン! と言ってそっぽを向いた。
(はいはい、お約束、乙)
 美波はそう思いながら、仲良し4人組を微笑ましく眺めていた。 

 美葉は、意外にも街中の古い賃貸マンションに居た。どのようにして見つけたのかはわからないが、結城はここの2階の部屋を『山下修と娘の美香子』という名目で借りていた。灯台下暗しだよと結城はうそぶいていた。結城はしばらくの間、ここをアジトにして潜伏するつもりのようだった。
 美葉は窓を開けて夕焼けをぼんやりと眺めていた。空と雲の色は、黄色とオレンジ色から朱色、赤、紫と変化し最後は深いブルーに包まれた。ブルーモーメントだ。
 結城は午後から出かけていた。美葉は実質軟禁状態だったが、結城のウイルスを撒くという脅しに縛られて逃げ出すことが出来ない状況は変わらなかった。それでも美葉は希望を失っていなかった。夕暮れの空に金星が輝きを増し始め周囲が暗くなってきたが、美葉は灯りを付けることなく空を眺め続けていた。しかし、結城が帰って来ると、乱暴に窓を閉められ遮光カーテンを引かれてしまった。しかし、美葉は結城を無視して黙ってその場に座っていた。結城はそれに慣れてしまったのか、座卓の上に買ってきたものを置いて言った。
「夕飯に弁当を買ってきたから、お茶をいれてくれ」
 美葉は何も言わず立ち上がると、キッチンの方に向かった。

20XX年7月23日(火)

 深夜、目を覚ました富田林は病院内の様子がなんとなく騒がしいことに気付いた。嫌な予感がしてなかなか寝付けなかった。まんじりとも出来ずに夜明けを迎えた富田林は、我慢できずにナースコールをして看護師に聞いた。看護師に少し待つように言われ、ベッドに座ったまま貧乏ゆすりをしながら待っていたが、5分ほどで窓が「開いて」目の前に高柳とその後ろに立つ葛西が現れた。葛西は辛そうにうつむいていた。富田林はその様子に愕然とした。
「富田林さん、落ち着いてきいてください。昨夜から増岡さんの容体がまた悪化し、深夜から急激に深刻な容体に陥りました。何度か蘇生を試みましたが……」
「うそだ。嘘でしょう、先生」
「残念ですが」
「だって、容体は落ち着いていたっておっしゃっていたじゃないですか! なあ、葛西、嘘だろ? 嘘だと言ってくれよぉ……」
 富田林に懇願され、葛西はうつむいたまま首を横に振った。ゆっくりと。
「ますおかぁ……」
「増岡さんから伝言があります。僕のことで絶対に無茶をしないでくださいと。いままでありがとうと。富田林さんとコンビを組めて……良かった……って……」
 葛西は精一杯伝えたが、最後の方はほとんど嗚咽まじりで言葉尻がかすれた。
「すまん、葛西、先生。しばらく独りにしとってください」
 富田林はがっくりと肩を落としたまま、うつむいて静かに言った。高柳は深く礼をした。歯を食いしばって泣きそうなのこらえる葛西の姿が目の端に移ったが、一瞬にして窓が曇りブラインドが閉まった。富田林は病室にのベッドに一人ぽつんと残された。呆然とした富田林の脳裏に増岡とコンビを組んでからの様々な出来事が渦巻いた。増岡が笑顔で「トンさん」と呼ぶ声が聞こえた。あせってこんな呼び方をした時もあったなあ。「トトトンさんトトンさん」って。
 富田林は思い出して、くっくっと笑った。そして数分の沈黙の後、富田林は「なんでだ? なんでだよぉ、ますおかぁ……」と相棒の名を呼び「うおおおおおお~~~……」という哭き声を病室に響かせた。

(「第4部 第4章 翻弄」 終わり)

    第4部:終わり

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