1.攪乱 【幕間】声

20XX年6月30日(日)

 山下公尚(きみひさ)は、疲れ切っているのに眠れないと言う辛い状況にあった。

 時刻は深夜1時をとっくに回り、丑三つ時に近づいていた。
 今日・・・いや、昨日は土曜出勤を余儀なくされ、しかも、夕方には終わるだろうと高を括っていたら、思わぬトラブルが起きたために仕事は22時を過ぎても終わらず、解放されたのは23時を過ぎていた。PC画面の見過ぎで目は痛く頭もフラフラしており、猛スピードでキーボードを叩き続けていた両手は腱鞘炎を起こしたようだった。
 疲れ果てた体で気力を振り絞って走り、ようやく滑り込んだ急行電車は、最終とはいえ下り線故に座る余地もどころか、満員と言ってよいくらいの混みようだった。どうやらプロ野球の試合が長引いたようで、地元球団のユニフォームやグッズを持った輩が大勢いる。試合終了後繁華街に流れ込んだ連中が、最終電車にこぞって乗り込んできたのだ。そのせいで車内はかなり酒臭く、山下はさらにゲンナリしていた。多分、自分のように仕事で遅くなった者は少ないだろう。しかし、彼らの話す内容から、今日の試合は延長の挙句負けてしまったらしいことが判った。それを耳にした時、山下はつい(ざまあみろ)と思った。ほんの少し気が晴れたような気がした。しかし、すぐに自分の度量の狭さに気付いて彼の気持ちはさらに落ち込んだ。これはきっと心底疲れているせいだ。明日は昼過ぎまで寝ていよう・・・。
 

 山下は深夜0時を過ぎてようやく家にたどり着いた。
 コンビニで買って来た冷凍鍋焼きうどんと発泡酒で何とか人心地をつけ、シャワーを浴びてようやく倒れこむようにヘッドに入った時には、すでに深夜1時を回っていた。
 ベッドサイドの明かりを消して体を丸め、リモコンでテレビも消した。しかし、テレビの音が消え、静かになった途端に聞こえ始めたのは、あろうことか隣の部屋の「あの」声だった。山下は思い出した。そういえば、昨夜もそのような声が微かに聞こえていた。しかし、今日のはひどい。少なくとも隣には2組以上の馬鹿どもがいるようだった。110番しても問題ない程の精神的苦痛だったが、山下はそれをためらった。
 実は、半年ほど前に同じ部屋で夜中に乱痴気騒ぎがあり、山下はその時110番通報したのだが、その後しばらくの間、何者かの嫌がらせを受けたことがあったからである。
(くそっ、何が防音壁だよ!)
 山下は耳を抑えながら寝返りを打った。山下は周囲に気を遣う性格で、仕事で遅くなることが多いために、前のアパートでは深夜の生活音が隣人に迷惑をかけないよう注意していた。もちろん、このタワーマンション自体も気に入ってはいたが、予算よりも家賃が高めだったここに決めたのは、防音壁完備と言う触れ込みだったからである。確かに壁は防音だった。しかし、窓まではその配慮がなされていなかったのだ。隣のケダモノどもは、おそらく窓を全開で励んでいるのだろう。山下は起き上がるとテレビをつけて声をかく乱し、さらに○-podをジャケットのポケットから引っ張り出してイヤフォンを耳にあてた。せめて好きな曲で紛らわそう。
 しかし、神経の高ぶった状態の山下はそれでもなかなか寝付けなかった。むしろイヤフォンや音楽自体が鬱陶しい。テレビのちらちらした光もさらに彼の神経を逆なでした。
 彼は何度も寝返りを打った。エアコンのタイマーも切れ、暑苦しさも相まって余計寝苦しい。ついに彼は再度エアコンをつけた。これで、周囲の空気だけは快適さを取り戻した。

 そして、ようやく彼が寝息を立て始めた頃には、すでに4時を回っていた。

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1.攪乱 (1)希望の命名

20XX年7月1日(月)

 竜洞蘭子は、朝から部屋で本を読んでいた。
 彼女は、この前の金曜日に隔離期間が終わり感対センターから解放されたが、その後大学から呼び出しを受けた。そして、身分詐称未遂の処罰として反省文を書かされた上、一週間の自宅謹慎処分をくらってしまったのだった。

 蘭子が偽造パスポートで海外脱出を企てたという警察への情報は、ガセだった。彼女が企てたのはF県脱出で、それにあたって職質等に備え、自分に似た友人からパスポートなどの身分証を借り、飛行機のチケットもその友人名義で買ったが、行き先は国内でもF県から離れた北海道の旭川だった。
 そういう訳で、蘭子は未成年でもあることで警察からは厳重注意で放免、感対センターに隔離後、無事に自宅に帰りつくことが出来た。
 彼女が県外逃亡を企てたのは、もちろん健二の件で感染を疑われたためだった。しかし、実際、自分が感染するはずがないことは、蘭子本人が一番知っていた。

 実は、蘭子は森田健二とはほとんど顔を合わせたことがなかった。そもそも通う大学のレベルから違っていた。とある理由から、蘭子は健二の存在は知っていたが、気が強く気位の高い蘭子にとって、BFランク大学の健二など、いくら見てくれが良くても空気以下の存在だった。そんな2人が何故接点を持ったのか。それは、彼女の親友が健二に騙され、さんざん利用されたと知ったからだった。蘭子が健二を知っていたとある理由とは、親友の彼氏だということであった。
 蘭子は知人から間接的にそれを聞いた後、親友本人に確認して詳細を聞いてから腹を立て、その勢いで健二のマンションに乗り込んで抗議したが、蘭子の罵詈雑言に切れた健二が彼女に襲いかかってきた。そのまま床に抑え込められた形になった蘭子だが、さすが竜洞組組長の娘、負けじと健二の急所に蹴りを入れ、呻く健二をそのままに足音も荒く部屋を出て行ったのだ。しかし、その腹いせか、何故か蘭子が健二の部屋までおしかけて交際を迫ったという噂を広められてしまったのだった。
 蘭子が健二に会ったのはその時一回限りで、噂の否定すら馬鹿馬鹿しくなった蘭子はそれを無視していた。そんな根も葉もないうわさなど、放っとけば消えるだろうと思ったからだ。ところがその矢先、あのサイキウイルスについての特別番組が放送されたのだ。その時はまさかそれが自分に関わろうとは夢にも思っていなかったが、人づてにそれが健二の遺体で、蘭子が何故か健二の女の一人とされ、保護隔離の対象とされたと聞いた。蘭子が健二の部屋にねじ込んで行ったのはウイルス騒ぎの起きる少し前の事で、当然蘭子が感染するはずがない。しかし、違うと証明するにも証拠は何もない。おそらく見つかれば隔離は間違いないだろう。あんなクソ野郎のために、なんで自分がそんな目に遭わねばならないのか。再び面倒くさくなった蘭子は、とりあえず県外に出てしまおうと考え、幼少時から蘭子と似ていると言われていた親友の身分証を借りて空港に向かい、御用となったのである。

 蘭子の部屋のドアをノックする音がした。
「お嬢様、葛城でございます。御所望されたコーヒーを持ってまいりました」
 ノックの主は、家政婦の葛城(かつらぎ)喜代子だった。
「入っていいわよ」
「失礼します」
 蘭子の許可を得、葛城が室内に入って来た。蘭子は読書を中断して椅子を回転させ葛城の方に向いた。
「何かわかったの?」
「はい」
 葛城は蘭子の机にコーヒーを置きながら言った。
「藤原茅野と今西柚奈ですが・・・」
「死んだの?」
「はい。藤原さんのほうは土曜の夜、今西さんは今朝早くに亡くなられたそうです」
「そっ。馬鹿な男のために命を落としたものよね。下らない」
「娘の雅美も、お嬢様が目を覚まさせてくれなかったら、森田健二への未練を捨てられずにひょっとしたら彼女らと同じ道を辿ったかもしれません」
「でも、身分詐称補助で厳重注意を受けたでしょ。状況が状況だけに下手すれば前科がつくところだったのよ。葛城には悪いことをしたと思っている」
「めっそうもない。言いだしたのは雅美の方でございましょ。雅美は、子供のころからお嬢様によく似ておりましたから」
「乗った私も悪かったんだ。まさか、国内線であんなに警官(マッポ)が張っているなんて思わなかったもの。いったい誰が密告ったんだろ」
「わかりませんが、旦那様を陥れようとする勢力もございますから・・・」
「ああ、鬱陶しい。なんでこんな家に生まれたんだろう」
「お嬢様は子供の頃、『やくざはきらい。おうじさまとけっこんする』と言っておられましたものね」
 黒歴史を穿り返されて、蘭子は本気で嫌そうな表情をした。
「あ~、もう。子供の頃の戯言を蒸し返さないでよ」
「お嬢様は気のお強い方なので誤解されがちですが、ほんとはお優しい方です。娘がお嬢様と間違われないように、あんな派手なメークをなさっていたのでございましょ?」
「ちがうってば。あれは私の趣味!」
「行く先を旭川になさったのも、以前から旭山・・・」
「も、もういいわ」
 蘭子は焦って葛城を制止した。
「続きを読みたいから下がって」
「承知いたしました。失礼いたします」
 葛城が出て行った後蘭子は再び本と向かい合ったが、ぼそっとつぶやいた。
「居たのよね、あの病院に。王子様」
 しかし、蘭子はすぐにぷっと吹き出すと、すぐに真顔に戻ってコーヒーを一口飲み、一息つくと再び続きを読み始めた。

 場所は変わってこちらはギルフォード研究室。教授室では、経過報告に来た葛西を交えて話し合いが行われており、時を同じくして話題は竜洞蘭子のことになっていた。
「じゃあ、竜洞蘭子は結局シロだったのね」
「金曜に無事退院しましたよ」
 と、ギルフォードがその問いに答えた。
「僕もセンターで彼女から少し話を聞きましたが、その時はすでに落ち着いていて、君たちが彼女に会った時のような印象はありませんでしたよ」
「彼女の話では、森田とは付き合った事実はないようでした。パスポートも偽造ではなく友人のものでした」
 と、葛西が補足して言った。由利子は呆れて言った。
「そんなもので誤魔化そうとしてたんだ」
「それがですね、良く似てたんです。さすがに出国審査には通らないでしょうけど、普通の人は一瞥したくらいではわからないかもしれません。行く先も海外ではなく北海道でしたし」
「何よ、それ」
「彼女曰く、自分は森田健二とは付き合ってなどいないから感染していないんだから北海道くらい行かせやがれ、ばかやろー、と」
「あの時、かなりわめいてたのは知ってるけど、そんなことを言ってたのかい」
 由利子がさらに呆れて言うと、葛西も当時を思い出しながら言った。
「かなり怒ってましたからねえ。あの時」
「まあ、モリタ・ケンジ関係で唯一発症しなかったのは確かですから。それにしても、バカヤローなんて言うんだ、彼女。僕には知的な女性ってイメージしかないですが」
「猫被ってたんだ。私には凶悪なイメージしかないわ」
 ギルフォードと自分との印象との違いに由利子がまたまた呆れ顔で言ったので、ギルフォードが笑って言った。
「ニシザワ・モモカ(西澤桃華)並みの二重人格デスネ」
「そういうことばっか詳しいんだから。でも待って。ってことは、蘭子が国外逃亡を企てたってのは・・・」
「はい。残念ながらガセネタだったようです」
 と、葛西がバツの悪そうな表情で答えた。
「なんで、そんなタレコミがあったの?」
「判りません。蘭子か蘭子の親を快く思ってない者の仕業か、あるいは・・・テロリストの攪乱か」
「それはどうでしょう」
 と言ったのは紗弥だった。
「結果的に蘭子さんは捕獲、いえ、保護されたのでしょう? 攪乱の意味がないと思いますわ」
「確かに、言われてみるとそうだわね」
 と、由利子が納得して言った。
「その結果、感染者が逃亡したかもしれないと言う、無駄な不安が一つ消えたわけだし。そう言えば、隔離されたっていう、森田健二のカノジョたちは?」
「それなのですが・・・」
 ギルフォードがやや眉を寄せて言った。
「そのおふたりは土曜の深夜と今朝、相次いで亡くなられました」
「そっか。結局二人とも亡くなったのか・・・。容赦ないなあ・・・」
 由利子がため息交じりに言った。何人亡くなっても慣れるものではない。
 
「それで、河部さんの奥さんの容体はどんな具合?」
「一時的に危機的な状態に陥りましたが、今は持ち直しています。今までの経験から、まだまだ油断できませんが」
 と、ギルフォードが答えると、今度は紗弥が質問した。
「じゃあ、今、治療中なのは、千夏さんだけですの?」
「いえ、残念ながら、まだ一人おられます。不法投棄現場で遺体を見つけられたご家族のえっと・・・」
 つっかえたギルフォードをすかさず葛西がフォローした。
「お父さんの山中久雄さんが、先週発症されました。彼と一緒におられたおじいさんの秀雄さんも隔離中ですが、今のところ兆候は無いと言うこと・・・でしたね、アレク」
「はい。ただ、ヒサオさんが発症されましたので、ヒデオさんの隔離期間はもう少し長引くでしょう」
「じゃあ、他の家族の人たちは?」
「高校生と中学生の息子さんも同行してましたが、悪臭がひどかったのでかなり離れていたと言うことで、隔離は免れました」
「そう。不幸中の幸いだったね。そういえば、あの時の遺体って結局ひったくり犯だったの?」
「ええ、歯科医から得たカルテから、その渡部太夫也だったと判明したそうです」
 葛西はそう説明したが、あの時の遺体を思い出して顔をしかめ口を押えた。それを見て由利子が訊いた。
「あの遺体、そんなにすごかったの?」
「凄いなんてもんじゃありませんでした。凄まじいものでしたよ。出来ることならあの記憶を全てデリートしたいくらいです」
 すでに葛西は涙目になっていた。
「すっかりトラウマだね。見せられなくて良かったよ」
 うっかり見て、それが脳裏に焼き付いたままになってしまったらたまらない。由利子は心底ほっとしていた。

 蘭子より一足先に隔離から解放された河部巽だが、妻の容体悪化のため、週末まで休みを取り、月曜の今日が隔離後初の出勤だった。しかし、巽は午後になって感対センターに訪れた。彼の足取りは重く、表情はかなり暗かった。
 スタッフは、いつものように巽に明るく挨拶するが、巽の周囲に見えないどんよりとした空気を感じて、一様にそそくさと去って行った。その姿を巽は辛そうな表情で見送った。
 病室の前に行くと、妻の千夏が驚いて言った。
「あなた、今日から会社じゃなかったの?」
「あ? ああ、午後から休暇を取った・・・」
 彼は答えたが、やはり精彩がない。
「まあ、有給だいぶ余ってるからさ、いいじゃない。で、具合はどう?」
「ええ、今日はだいぶ調子がいいけど・・・」
 千夏は答えたが、何となく腑に落ちない表情だった。 

 実は巽は出社早々解雇通知を食らったのだ。理由は巽がサイキウイルス感染疑惑で隔離されたため、決まりかかっていた商談がお釈迦になってしまったことと、社内で感染者が出たという噂が広まったことで、著しく会社に不利益を与えたと言うものだった。巽は必死で釈明したが、まったく取り合ってもらえなかった。中堅どころの会社故に、イメージダウンの影響は計り知れない。しかも、ネットで個人名どころか会社名まで貼られてしまったのである。それに対しての会社側の対応は早く、早期に削除さえたものの、いったんネットに出回ったものを全て消し去るなど無理な話だった。
 しかし、解雇通知より巽にダメージを与えたのは、同僚の態度だった。それは危険物に接するようなものだった。1m以上は近づかず、それどころか挨拶にすら応えてくれなかった。巽がトイレに入ると中にいる者たちはこそこそと出て行き、巽が出るとマスクと手袋の完全防備した男が駆け入り、消毒する音が聞こえた。苦楽を共にし、飲み会ではよく話しよく飲んだ。そんな同僚たちの掌返しは、巽にとってどんな仕打ちよりも辛かった。もうこの会社ではやっていけない・・・。巽は絶望し、解雇に了承するしかなかった。 
 巽は午前中に身辺整理を終え、会社を出た。誰も送ってくれない寂しい退職だった。会社の門の前でふと振り返った巽は、窓から数人の同僚が様子を伺っていたのに気付いたが、彼らは巽は振り返るとともに、オフイスの奥に引っ込んでしまった。しかし、人影が一つだけ消えずにいた。それは、巽に対して深々と礼をしたように見えた。誰かよくわからなかったが、背格好から巽の直属の上司だと判断した。それだけがわずかな気休めだった。

 そういう事情で、妻の千夏の病室の前に座った巽の様子は奇妙だった。快活に話すと思ったら、千夏が話しかけても上の空だったりした。それで、千夏はついに痺れを切らして言った。
「あなた、なにかあったんでしょ。正直に言って」
 ガラス越しで、しかも若干の距離がある状態ながら、妻にまっすぐな眼で問われ、巽はもう誤魔化すことが出来なくなってしまった。彼はうなだれて言った。
「千夏、すまん。おれな、会社を辞めてきた」
「え?」
「解雇だって」
「え? どうして?」
 巽はその理由を手短に話した。話を聞いた千夏の両目から、みるみる涙がこぼれた。
「そんな、ひどい。たっちゃんのせいじゃないのに・・・」
 しかし、その涙は悲しみよりも憤りの涙だった。
「ひどい、ひどい! 病気を疑われて無理やり隔離されたのに、解雇だなんてあんまりじゃない!!」
 巽は千夏が悲しむより自分のために憤っている姿を見て、我が身に起こっていることの実感と不安、そして自分に対する情けなさが一度に押し寄せ、堰を切ったように周囲を憚らず泣きだした。千夏は驚いて巽の方に手を伸ばしたが、窓までの隔たりに気が付いて力なくその手を下ろした。しかし、千夏は考え直した。これは、むしろ思い切り泣かせてあげた方がいい。近くにいるスタッフも気を遣って巽の方を気にしながらも、敢えて近寄らないようにしているように思えた。
 数分後、落ち着いた巽はハンカチを出して眼鏡を外し涙をぬぐいながら、情けない笑顔を見せて言った。
「ごめん、千夏。おまえに辛い思いばかりさせるバカ夫でごめん」
「たっちゃん。あのね」
 千夏は敢えて話を変えることにした。
「昨日あなたが帰った後ね、ギルフォード先生がお見舞いに来てくれたの」
「あの、イギリス人の教授が?」
「ええ。それでね、いろいろお話をしてくれたの。研究室にいる人たちの面白いエピソードとか巨大金魚の話とか、あとね、先生が援助で行ったいろいろな国の話とか。笑ったり、はらはらドキドキしたりしたわ」
「へえ、どんな話だったの?」
「うふふ。退院したら家でゆっくり話してあげる。それよりもね・・・」
 千夏はそういうとクスクスと笑った。
「なんだよ、千夏。思い出し笑いは気味悪いぞ」
「ギルフォード先生がね、ひとしきり話した後、もじもじしながら色紙を出して見せてくれたの。そしたらそこに甲骨文字みたいな字が書いてあって・・・。私、なんだかわからなくてきょとんとしてたの」

 ギルフォードは色紙を見せたものの、千夏の表情から彼女の困惑を察し、顔を赤らめながら言った。
「スミマセン。秘書か助手に書いてもらうべきだったのでしょうけど、なんだか照れくさくて・・・」
「なんですの? それ」
「えっとですね、えっと、チナツさん、亡くなった赤ちゃんの名前、どうされました?」
「いえ、まだ『赤ちゃん』としか・・・」
「センエツとは思いましたが・・・」
 千夏は、イギリス人が『僭越』という単語を口にしたのを聞いてなんとなく可笑しくなった。ギルフォードは照れくさそうにしながら言った。
「僕、名前を考えてみたんです。コレ、循環の『環』と言う字です。バランスがヘンですケド・・・」
 言われてみれば、その亀甲獣骨文字(甲骨文字)は確かに『環』と言う字に見えた。
 
「『たまき』ですか?」
「いえ・・・、あ、名前の場合普通はそう読むのでしょうけど・・・、僕は「めぐる」って読むのがいいなって思ったんです。またあなた方の元に還って来るようにって」
「先生・・・」
 千夏はギルフォードの思いがけない気遣いに、涙を禁じえなかった。それ見て、ギルフォードが戸惑いながら言った。
「ああ、ゴメンナサイ。辛いことを蒸し返してしまったでしょうか」
「いいえ。嬉しいんです。こんなに気遣っていただいて・・・。環ちゃん。めぐちゃんね」
「女の子だったんですか?」
「ええ。かわいそうなことをしました。でも、これで戻ってくれるような気がしてきました。その為にも私、早く元気にならなくちゃいけませんね」
 千夏は笑顔を取り戻して言った。
 実は、千夏は危機を脱した後もしばらくは容態が優れず、依然予断を許されない状態が続いていた。人工呼吸器は外されたものの酸素マスクはとれず、千夏は、再びまたあの想像を絶する苦しみが襲ってくるかもしれない恐怖を戦っていた。そんな時に、ギルフォードはやってきた。
 千夏は色紙の甲骨文字を見ながら、ギルフォードが大きな体を丸めて、一所懸命漢字を書き写している姿を思い浮かべた。彼の横には預かっていると言う犬が座って、首をかしげながらそれを見ていたかもしれない。きっと、文字も辞書と首っ引きで調べたのだろう。それを思うと、自然と笑顔がこぼれた。千夏が落ち着いたのを見届けたギルフォードは、安心したように去って行った。

「そんなことがあったんだ」
 巽は妻の話を聞いて言った。
「ギルフォード先生はどうしてそんなに僕たちのことを気にかけてくれるんだろう」
「それはきっと、先生が同じような病気で苦しんだ経験があるからだと思うわ。あの後ね、看護師さんが教えてくれたの。ギル先生ね、ここに来たら、先生が関わった患者さんや感染の疑いで隔離されている人たちのところにお見舞いに行って、必ず励まして帰るんですって」
「へえ、マメな人なんだなあ」
「ええ。きっと日本人以上に律儀よ。あなたのこともすごく心配してたわ。あまり泣くと目も一緒に流れちゃうよって」
「うわ。困ったな。泣き虫と思われたなあ」
「仕方ないよ。本当に信じられないことの連続だもん。だからね、たっちゃん。私はもう大丈夫だから、あなたはこれから就活に専念して。帰って来ためぐちゃんを安心して迎えられるように」
「わかった。でも、一番大事なことは、君が回復することだよ」
「ええ、石にかじりついても死なないわ。絶対に」
「そう、その意気よ、千夏さん」
 後で声がしたので、巽が驚いて振り返ると、山口医師が立っていた。
「山口先生!」
 二人が異口同音に言った。
「あら、驚かしちゃったかしら? 旦那さんが来られたので、例の色紙を持って来たの」
「預かって下さってたんですか?」
 千夏が言うと、山口は笑顔で答えた。
「正確には、奪ったと言うべきかしら? ギル先生は恥ずかしがって持って帰ろうとしてたけどね」
 山口はそう言うと、ぷぷっと吹きだした。
「安物だけど、曲がらないように一応額縁に入れてあげたから、巽さん持って帰っていですよ。ほら、これよ」
 山口は持っていたペーパーバッグから、細い縁のプラスティックの額に入った色紙を巽に渡した。
「おや、これは・・・、確かに・・・」
 
 巽はそこまで言うと笑いをこらえて口ごもった。色紙には、見るからに一所懸命に書いたと思われる金釘文字で『命名 環』と記されていた。

「へっしょ」
 研究室でギルフォードがくしゃみをした。
「Bless you! この暑いのに風邪ですの?」
「夏風邪はナントカがひくっていうけど・・・」
 紗弥と由利子に言われ、ギルフォードが否定した。
「違います。これは、きっと誰かが噂してるんです」
「そう? じゃあ、ジュリーかな?」
「彼のことは言わないでください」
 ギルフォードは少し口を尖らせ気味に言うと、仏頂面のまま調べものを続けた。由利子は首をかしげて紗弥に耳打ちした。
「何かあったの?」
「なんでも、ジュリアスの来日が一週間ほど遅れそうなんですって」
「2週間って言ってたけど、じゃあ、3週間?」
「ひょっとしたら、もう少し遅れるかもと言うことでしたわ。何かトラブルがあったようですの」
「それで、お冠なわけか。3週間くらい待ってやれよ。ったく、ウチの男どもときたら面倒くさいのばかりだな」
「それって葛西さんのことですの?」
「そ~ね。他にも長沼間さんとか、ああ、知事も面倒くさそうだねえ」
「まあ、知事も頭数に入ってるんですの?」
「ちょっと思い出しただけだよ。そういえば、山笠今日からだっけ」
「テレビをつけてみましょうか。夕方のローカル番組でやっているかもしれませんわ」
 紗弥はそう言いながらリモコンを手にした。
「まあ、ちょうど『街角だより』のコーナーでその話題があってますわ」
「ほんとだ。注連(しめ)下し、ご神入れ、当番町お汐井(しおい)とり、今日の行事は無事終わったみたいね」
「飾り山は今日公開ですの?」
「うん。ご神入れが終わったら公開されるんだよ」
「まあ、見に行きたいですわ。去年はなにかと忙しくて見に行けなかったんですの」
「そうなの? じゃ、近々二人で見に行こうか」
「いいんですの?」
「うん、うん。デートしよっ」
「まあ、嬉しい」
 二人が盛り上がっているのを見て、ギルフォードがそっと顔を上げて言った。
「あの、僕は?」
「ああ、忘れてた」
「ユリコ、それはないでしょう。ハブらないでクダサイ」
 と、ギルフォードが恨めしそうな顔で言ったので、由利子は笑って言った。
 
「冗談よ。一緒に行こう。ボディガードは多いほどいいもんね。それにしても・・・」
 由利子はテレビの画面に目をやって言った。
「ウイルス騒ぎのせいで、これから15日の追い山まで大変なの、わかってんのかね、この人」
 画面には、法被(はっぴ)に締め込み姿の男たちに混じって満面の笑みでインタビューに答えている森の内がズームアップされていた。

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1.攪乱 (2)レッド・ダムネイション

 時計の音と、地の底から湧くようなうめき声だけが、暗い室内に響いていた。

 動けなくなってどれだけ経つだろう・・・。友朗は思った。
 あの男が来て彼がハーブと呼ぶ赤い結晶を置いて行った夜、『スゴイものが手に入った。秘密厳守』というメールで友人たちを部屋に呼んだ。男の態度に何となく不信感があり、興味はあったが自分等だけで試すのは不安だったからだ。しかし、男の言うように効き目は抜群だった。これは、ハーブなんかじゃない、もっとヤバイ代物だ、と友朗は確信した。『ヴァンピレラ・シード』の効き目は悪魔的で、彼らはそれに溺れた。それ故に自分等の体調悪化に気付かず、ようやく気付いたのは病が悪化して麻薬の鎮痛作用が薄れてからだった。
 まず、最初に体調悪化に気付いたのは、最初に発症していた友朗だった。翌日一寝入りして目が覚めた時は、高熱と体中の痛みでほとんど動けない状態だった。しかも、自分は一寝入りだと思っていたが、美優が言うには、10時間ほど眠ったまま起きなかったという。それでも友朗は風邪か最悪でもインフルエンザに罹ったのだと考えた。そして、美優もそれを信じ、甲斐甲斐しく看病していた。友人たちは、友朗が苦しんでいるのも意に介さず、ヴァンピレラ・シードに耽溺し続けた。
「みゅうちゃん、そんなやつほっといて、おれ等と一緒にやろーよー。気持ちいーよー」
「あんたたち、トモローがこんなに苦しそうなのに、友達甲斐なさすぎだろ。そっちの部屋から出てくんな、バカ野郎!」
 美優はそう言うと、バタンと乱暴にドアを閉めた。しかし、その時美優はすでに発症していた。友朗のベッドの横に座って時折額のタオルを替えたりスポーツ飲料を飲ませたりしているうちに、だんだん熱が上がって行くのがわかった。
(やっばい。アタシも風邪引いちゃったかも)
 美優は、ベッドに突っ伏して様子を見たが、病状は悪化するばかりに思えた。自分まで倒れたら友朗に迷惑がかかると思い、とにかく家に帰ろうと立ち上がろうとした。その時、突然に得も言われぬ息苦しさに襲われた。ウッという短い呻き声を上げ、美優はそのまま床に倒れてしばらく痙攣していたが、次第に動かなくなっていった。
 そんなことなど知らずに眠っていた友朗は、目を覚ましてから美優に言った。
「みゅう、夕日が・・・。カーテン閉めてくれよ」
 しかし、返事がない。
「みゅう・・・いないのか?」
 友朗は右手で美優のいた位置を探った。しかし、彼女の姿はない。
「くっそお、みゅうめ。あのクソアマ、俺を置いて帰りやがったのかよお・・・」
 友朗は美優を罵った。
「くっそお、喉が渇いた・・・、体中が痛い・・・。誰か救急車呼んでくれよお・・・、死んじまうよう・・・」
 友朗の情けないかすれ声が空しく部屋に響いた。しかし、友朗はしばらくて恐ろしい事実に気付いた。部屋のあちこちからうめき声がしている。どうやら瀕死の状態にあるのは自分だけではないようだ。その時初めてサイキウイルスのことが友朗の頭をよぎった。では、部屋の中が赤いのは・・・! それは、言いようのない恐怖だった。
 それから何時間たったか、うめき声は、もはや、自分のものなのか、人のものなのかわからなくなっていた。眼や鼻から血が流れ、更に鼻の血は喉の奥にも流れていった。しかし、のどの痛みが激しくてそれを飲み込むのも困難な状況にあり、もはやたまった血で呼吸困難に陥りそうだった。布団の中も血と汚物にまみれていた。このままだと俺たちは全滅する。友朗は意を決して部屋のどこかにある携帯電話を探して119番しようと必死で起き上がろうとした。ようようの思いで体を少し起こした友朗は、床に倒れている美優を見つけた。
「みゅう・・・」
 友朗は全てを察した。さらに追い打ちをかけるようにして、無理に起き上がった友朗の喉の更に向こうから、何かの塊が突き上げてきた。口と鼻から血を噴き出しながら、友朗はベッドに仰向けに倒れた。口から黒い血を溢れさせ、友朗はのたうった。

20XX年7月2日(火)
 

 山下公尚は、週明け早々0時近くまで残業したというのに、またも隣人に安眠の妨害をされていた。
 日曜の夜から明け方にかけては、時折獣じみた奇声を発しながら励む声や喘ぎ声、そして時に哄笑という、さながら魔宴(サバト)の如くだったが、昨日の夜からそれがうめき声のようなものに変わっていった。山下は、それをドラッグでもキメながらやっているからだろうと、嫌悪感を持ちながらも関わり合いになることを怖れ、無関心を通そうと考えた。しかし、今日はそのうめき声が地の底から湧きあがってくるように聞こえていた。
(くそっ、なんだってオレがこんな思いをしなけりゃならんのだ!)
 山下は、心の中で毒付きながらベッドの中で寝返りを繰り返していたが、いつの間にか眠りに落ちていった。
 しかし、数時間後、異様な空気を感じて目を覚ました。テレビはタイマーが働いていつの間にか消え、イヤフォンは寝返りを繰り返すうちに外れてしまったようだった。当然エアコンのタイマーも切れ、部屋は蒸し暑さを取り戻しつつあった。目を覚ましてから真っ先に聞こえたのは、例のうめき声だった。しかも、それは山下の部屋の前で聞こえるような気がした。
「くっそお! どこが防音壁だよ! いっちょん役にたっとらんやないか!!」
 と、山下は今度は声を出して毒付き体を起こした。しかし、今まで通路の方からは、よほど大声でない限り騒音に悩まされた記憶がないことに気付いた。しかし、夜でも夜明けの方が近い時間だ。静寂故に、日頃聞こえない音が聞こえるのかもしれない、と、山下は自分を納得させようとした。しかし、声と共に這いずるような音や衣擦れの音が聞こえてきた。そして・・・。
 山下は背中がぞわぞわするような恐怖心を覚えた。サーッと両手から肌に粟なしていくのがわかる。ソレは明らかに自分の部屋の前に居る。山下の耳に聞こえたのはドン・・・ドン・・・とドアを力なく叩く音。そしてか細い消え入りそうな声がした。
「助けて…たすけて・・・ください・・・」
 山下は、ベッドの上に座ったまま毛布を頭からかぶって震えていた。しかし、何者かが自分を頼って必死で戸を叩いているんだと、勇気を振り絞って立ち上がった。リモコンで部屋の明かりをつけ、そっとドアに近づくと、声の出処が判った。玄関ドアの郵便受けから何者かが必死に呼びかけている。山下は外にいる何者かに尋ねた。
「誰? なにがあったの? 救急車呼ぼうか」
 山下はドア越しに尋ねたが、返事がない。ドアスコープから外を見ても人影は見当たらないが、うめき声は相変わらず聞こえている。これは、やはり床に倒れているのだろうと思い、山下は意を決して恐る恐るドアを開け、足元を見た。すると、血だらけの男が床にうつぶせに転がっているのがわかった。彼の這いずった後には血の軌跡が隣のドアから続いている。男はドアが開いたのを察して顔を上げた。
 その顔を見て、山下は腰を抜かさんばかりに驚いた。それは内出血の染みだらけで、腫れあがった両目は真っ赤になった眼球から血の涙を流している。信じられないが、それは現実にそこに居る。幽霊の方がはるかにマシだった。山下は、目の前で何が起こっているのか理解出来ずに突っ立っていた。男は山下にすがるかのように手を伸ばし、息も絶え絶えに言った。
「あ、あかい・・・た・・・す・・・けて・・・きゅうきゅ・・・s・・・」
 男は言い終える前に、ごぼっと黒い血の塊を吐いた。その光景と、えも言われぬ悪臭で、山下はようやく我に返った。
 
 
「サイキ病?! うわっ! く、来るなぁ!!」
 山下はかすれた声で言うと男の手が触れる直前にドアを閉め、ひぃ~っという悲鳴を上げながら部屋に駆け込み枕元の携帯電話を手にすると、震える手で119を押した。しかし、感染者の凄まじい姿を見て恐怖におののく山下は、119という簡単な番号をなかなか押せなかった。それでも何とか消防につなぐとすぐにオペレーターが出たが、先方が一言言うか言わずかのうちに、山下は恐怖にガタガタ震えながらも必死で言った。
「サ、サ、ササササ・・・」
「落ち着いてください。火事ですか事故ですか、傷病ですか?」
「あかっ、あかいっ、赤いって・・・」
「火事ですか?」
「ち、ちがっ・・・ササササイキウイルスッ、かかかかかんっ、かんっ、感染ッ」
「落ち着いて! サイキウイルスというのは確かですね?」
 オペレーターの声は慎重だった。サイキウイルス公表の放送以来、1日に数件、多い時では何十件もサイキウイルス関連の通報があるからだ。
「まっ、まっ、間違いありません」
「あなたが感染しているのですか?」
「ち、違いますっ。今戸口に感染した男が倒れているんです!」
「あなたではないのですね」
「違います。ノックの音がしたのでドアを開けたら、サイキ病の男が倒れていて、助けてくれと言ったんです」
 もともと冷静な性格の山下は、オペレーターと話しながら徐々に本来の落ち着きを取り戻しながら言った。
「感染者が助けを求めてあなたの部屋のドアをノックした、ということですか?」
 オペレーターは慎重に聞き返した。山下はオペレーターの声から彼が胡散臭そうな表情をしている様子が頭に浮かんだ。無理もない、と山下は思った。自分だって信じられないのだから。
「自分でも今見たことが信じられませんが、寝ぼけているんじゃありません。そいつの顔を見たんです。黒い染みだらけで眼が、眼が腫れて・・・眼球が真っ赤になってて眼から血が流れて・・・、ああ、思い出したくない、アレが生きた人の顔だなんて・・・・」
「わかりました、今、専門の装備をした隊を送る指示をしています。住所をお願いします」
「K市**n丁目**-** シャトル・グラストゥール13階13**号です。隣は13**号」
「あなたはその男に触れましたか?
「いえ、咄嗟にドアを閉めましたから・・・」
「わかりました。あなたは部屋から出ないようにしてください。玄関のドアにも近づかないで。くれぐれも感染者にはさわらないで。警察へはこちらから連絡します。感染者はあなたの部屋のドアの前で倒れているのですね?」
「はい。多分、隣の部屋から出てきたんだと思います。早く来てやってください。それからその部屋には複数のカップルがいると思います。おそらく・・・」
 山下はそこで一旦言葉を切ってから息を呑んで言った。
「全員感染してます」

 知らせを受け、数台の救急車両と消防車両が問題のタワーマンションに乗り付けてきた。それらの車両から防護服に身を包んだ救急隊員たちが駆け出し、現場である13階に向かった。エレベーターを降りて、指示を受けた部屋の方を見ると、廊下になにか黒いものが横たわっていた。傍に駆け寄ると、血だらけの若い男が息も絶え絶えに倒れている。隊員の内二人が彼の救護にあたり、他は問題の部屋の方に向かった。血だらけの男の這ってきた血の跡がその部屋から続いており、ドアは少し隙間が空いている。何かがあったのは一目瞭然だった。隊員たちは迷わず部屋に入っていった。しかし、中の惨状を見た隊員たちは凍りついた。
 それは、今まで数多の悲惨な現場を見てきた屈強な男たちをも戦慄させるに十分な光景だった。
 先ず、入ってすぐのリビングに全裸の男女二人が折り重なるようにして倒れていた。二人とも息はなく、既に硬直が始まっていた。
「まだ生存者がいるかもしれない」
 と言うと、隊長は大声で呼びかけた。
「救急隊です! 救護に来ました!」
 すると、それに答えるかのように、バスルームから半裸の女性がよろよろと出てきて床に倒れた。
「た・・・すけて」
 彼女はそれだけ言うと、意識を失った。開いたままのドアから血だらけの床と便器が見え、隊員たちは顔をしかめた。
「町田と金村はそのままこの女性を搬送、他は、残りの感染者を探せ」
 隊長が言うと、彼女を介抱している二人の男を残し、隊員たちは室内の捜索にあたった。奥のベッドルームのドアを開けると、二人の人物が確認された。
「隊長、ここに居ました!」
 隊長たちが駆けつけたが、その様子を見て愕然とした。
 ベッドに男が苦悶の表情のまま事切れていた。絶命の瞬間に吐いたであろう血が、周囲に飛び散っていた。ベッドの横には、看病していたであろう女性がうつぶせに倒れていた。既に硬直しており少なくとも死後半日以上は経過しているようだった。うつぶせに倒れていた彼女は背面に男の血液が大量に付着しているものの、前面は特に異常はなく、出血している様子はないようだった。男より先に、心臓発作か何かで死亡したものと思われた。
 隊長は、彼らを感対センターに送る指示をした後、他に感染者はいないかと室内を確認して回った。しかし、もう誰の姿もなかった。6人に間違いなさそうだ。
「4人死亡、2人重体か・・・。しかし、こいつらいったい何をやってたんだか。見る限り学生のようだが、こんないいところに住んどって・・・」
 と、隊長は何かを踏んだことに気が付いて、床にしゃがんだ。見ると、ジッパー付のビニールの小袋に赤い結晶が入ったものが落ちており、周囲に漏れこぼれたらしいものが赤く散らばっていた。
「なんだ、これは」
 隊長は立ち上がると、青年たちが倒れていたあたりを確認した。やはり、彼らの周囲にも赤い結晶が散らばっていた。さらに、注射器とそれを溶いたらしい容器も見つかった。
「麻薬か? こいつで感染が広がったのか? 馬鹿なことを・・・」
 
 隊長は苦々しい様子で言った。
「俺がこいつらの親だったら、死体でもひっぱたいてやる!」
 その時、防護服の警官たちが室内に入って来た。先頭を歩いていた若い男が言った。
「サイキウイルス対策部の葛西です。遅くなりました」
「ご苦労様です。感染者は6人、うち4人心肺停止、2人重体です。重体の方はすでに感対センターに搬送中で、今からのこりの4人を搬送しますが・・・」
 隊長はそう言いながら手に持った小袋を葛西に渡して説明した。
「こんなものが落ちていました。麻薬の類だと思われ、室内のあちこちに落ちています」
「? なんだかきれいな結晶ですね。鑑識に調べてもらいましょう。で、感染者の倒れていた場所や状況をお聴きしたいのですが」
「こちらです。まず通路に・・・」
 隊長は説明するために友朗の部屋の外に向かった。
 
 
 

 めんたい放送のミナミサこと美波美咲は、サイキウイルス集団感染死発生の一報をうけて、現場のマンションに来ていた。当然他局の連中も押しかけてきている。
 マンションの入り口にはすでに黄色のテープが張り巡らされ、周囲を警察車両と消防車両が取り囲み、報道陣も一般人も近づけないようになっていた。県警本部から駆け付けてきた早瀬の大声が聞こえる。
「報道陣を入れるなぁッ! この前のようなことになったら許さん!!」
「あのオバサン、また怒鳴ってるし」
 美波は不満そうに口を尖らせて言った。『この前のようなこと』とは、もちろん美波が現場に入り込んでいて、あわや感染の事態になりかけたことである。小倉と赤間が呆れたように言った。
「おまえな、当の本人が何言ってんだよ。あの後ウチ(我社)に警察から厳重注意があったんだぞ」
「そーだよ。それにオバサンって、あの人、この前防護服なしやったけど、確かにちょっとばかし歳は食っとおけど、萬田久子みたいでカッコよかったやん」
「何よ、赤間ちゃん、今流行りの熟女好き?」
「何言ってんだよ、おまえなあ」
「待て待て、オマエら、仕事だ」
 小倉が言った。
「出て来たぞ、救急車! 行くぞっ」
 それを聴いた美波は、急いでマイクを構えた。
「出てきました。2度目の搬送です。先ほどは重体患者の搬送と言うことでしたが、まだ感染者がいると言う情報が入ってまして、既に心肺停止と言うことでしたが、これはその搬送ではないかと思われます」
 救急車は警官や消防の特殊車両に守られてゆっくりと出てきた。その周囲を各社のクルーが追いかける。美波もそれを追っていたが、他社と同じ横並びの画しか録れなかった。
「あ~あ、つまんねーの」
 美波はつぶやいて周囲を見回した。他社の様子を確認したのだが、その時ふと野次馬に混じって見知った顔があることに気が付いた。
「あっ、あの時助けてくれた人だ!」
 美波はその男の方に駆け寄ろうとしたが、男はそれに気づいたのかたまたま偶然か、横にいる女性を連れて野次馬の中に姿を消した。その女性の顔を見て、美波は驚いた。いきなり美波が駆けだしたので、小倉・赤間をはじめとするクルーたちは、訳も分からずに後を追った。
「ミナちゃん、何かあったの」
「もおっ、彼、逃げちゃったじゃない。あんたたちがついてきてたせいよ。せっかくお礼を言おうと思ったのに・・・」
 美波はため息をついて言った。野次馬の方から「あ、ミナミサじゃん」という声があちこちからして、ケータイを構えたので、美波は慌てて持ち場に戻った。
「ねえねえ、何があったのよ」
 赤間が興味津々で訊ねた。
「この前、電車で男に襲われたじゃない? その時に助けてくれた人が居たのよ」
「えー? 見間違いじゃないの?」
 と、これは小倉。
「あのね、私は職業柄もあって、人を覚えるのは得意な方なの。しかも、恩人だし、忘れるわけない・・・けど・・・」
 と、美波はそこで言葉を濁した。何か腑に落ちない表情だ。
「けど?」
 と、小倉と赤間がほぼ同時に尋ねた。
「彼と一緒に居た女性、どう見ても・・・」
「彼女だろ。 そりゃあしゃーないわー」
 赤間が言うと、美波はそれを打ち消した。
「違うっ! 極美よ、あの感対センターに自衛隊ヘリが河部さんを搬送してきた時、鉢合わせたじゃない」
「え? どういうこと」
「私が訊きたいわよっ!」
 美波は混乱して言った。 

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1.攪乱 (3)プロジェクト・プレイグ

 早瀬がマンションのエントランス前に停めた指揮車の前に陣取って指示をしていると、13階の現場から葛西たちが降りてきた。
「隊長、おはようございます」
「早朝からご苦労さん。で、状況は?」
「ひどいもんです。僕が着いた時には既に重体患者は搬送され、遺体の方も搬送の準備が進んでいましたので、感染者の状態は見られなかったのですが、部屋のあちこちが血だらけで、特に寝室には殺人現場さながらに 血が四散していました」
 葛西は多美山の病室を思い出したのか、そう言った後、一瞬辛そうに顔をゆがめた。対照的に早瀬は淡々として訊ねた。
「そう。で、感染者の身元は?」
「部屋の持ち主で既に死亡していた嶽下友朗以外はまだ不明です。隣の通報者もそれ以外の情報は持っていないようでした。ただ、時々友人たち数人とパーティーをしていたということで・・・」
「パーティー?」
「はい。そのまあ、色々と・・・。で、部屋にこんなものが落ちていたと、消防の方が」
 と言うと、葛西は赤い結晶の入ったビニールの小袋を早瀬に見せた。早瀬はそれを受け取ると空にかざしてみた。
「ふん、そーゆーパーティーね。なんか禍々しい色ね。科捜研の方へ回して急いで分析させよう。他には」
「死者4名重体2名。今のところそれ以上の情報はありません」
「死者は5名よ。さっきセンターから報せがあったわ。着いた時には既に心肺停止状態で、蘇生を試みたけどダメだったそうよ」
「死者5名・・・。一気に増えましたね」
「近いうちに6名になるわ。それより、この事件、なんか意図的なものを感じない?」
「意図的?」
「そうね、悪意みたいなものというか・・・。葛西君、また九木さんと一緒に捜査することになりそうね」
「わかりました」
 葛西はまたあの人とかよと思いながら了解した。

 由利子は朝起きてテレビをつけたら、のっけからサイキウイルス感染死者多数のニュースが目に飛び込んで来て一遍に目が覚めた。
「うっそ~。このタイミングで何よ!」
 感対センターの入院患者が2人になり、そのうち一人の河部千夏の容体安定について昨日話したばかりだった。ひょっとしたらウイルス感染も落ち着くかもしれないと言う希望を持っていた由利子は、自分の認識の甘さに愕然とした。これではせっかく中止から免れた祭りが、こんどこそ中止に追い込まれるかもしれないと、森の内知事のしょんぼりした顔が浮かんだ。
「あの知事、なんか憎めないのよね」
 由利子はつぶやいた。しかしこの事件は、F市ではなくK市だ。K市と言えば、最初にホームレスの感染者が集団で死んでいた事件があった場所で、この事件の発端でもあった。そしてこの事件である。と、いうことは、やっぱりK市がウイルス発生地なのだろうか・・・?
 

 美波美咲はめんたい放送に帰ってからも考え込んでした。自分を助けてくれた男が、自分と同じサイキウイルス事件を追うジャーナリストもどきのキワミとかいう女を連れて、ウイルス患者発生の現場に来ていた。美波にはそれが単なる偶然じゃないように思われた。なにかふっきれない様子の美波を見て、小倉が言った。
「ミナちゃん、まだあの男のこと考えてんのかよ?」
「そうよ。いけない?」
「朝のニュース、デスクが褒めてたよ。どこの社より早く現場に急行したってことで」
「たまたま現場が車で家から10分くらいの場所だったからよ。結局映像も情報も横並びだったじゃん。それならオグちゃんたちのほうがすごいよ。私が着いてから10分くらいで来たでしょ」
「ま、僕たちは編集やらなんやらで会社に泊まっとったからね。連絡が入ったと共に飛び出したんだ。それより、朝の事件、被害者の名が割れたぜ。部屋の持ち主と、そのカノジョについてだけだけどな」
「ホント? で、誰?」
「嶽下友朗。22歳。D大経済学部3年だってよ」
「あのD大でダブりかよ。で、カノジョってのは?」
「杉村美優。みゅうと呼ばれてたらしいが、ピッチピチの女子高生だった。く~っ、もったいない」
「だった・・・ね。ピッチピチが男で身を滅ぼしたか」
「ミナちゃん、さっきからなんかやさぐれてない?」
「別に。で、ガン首とかとれたの?」
「男の方は顔本に登録しているらしいんで、今赤間が検索している。カノジョのほうもそれで割れたらしい。不用意に自分や身内の顔写真晒すんだから、こっちにとっても便利だよな」
 小倉が説明していると、赤間が言った。
「顔本は本名登録が基本だしな。・・・あったあった。へえ~、こいつかあ・・・」
「さっさと見せろよ」
「へいへい」
 赤間は小倉にタブレットの画面を見せた。
「よ~し、プロフィールもバッチリ合ってるぜ。ふてぶてしい顔のクソガキだ。一緒に写っているかわいい子が件のみゅうちゃんかな」
「ちょっと、アタシにも見せてよ」
 と、美波が立ち上がって小倉の持っているタブレットを奪った。しかし、そのプロフィール写真を確認したとたん、美波は手からそれを取り落した。
「わ~~~~ッ!」
 赤間が焦って手を伸ばし、タブレットをギリギリでレスキューすると、美波に抗議した。
「ミナちゃん、なんばすっとぉ?」
 しかし、美波はそれが耳に入っていないようだった。ふたたび赤間からタブレットをもぎ取り写真を確認するとこんどはゆっくりと机に置き、すとんと椅子に座って頭を抱えた。小倉と赤間が心配して言った。
「どうした、ミナちゃん」
 美波は顔を上げると、困惑した表情で言った。
「・・・これ、この男・・・。私を襲ったやつだ」
「え?」
「あの、この前ミナちゃんが電車で襲われた時の?」
「間違いないわ。忘れもしない顔よ。未だ時々夢に見るもん。あ~、いやだ。こいつのくっせぇ口臭までおもいだしちまったわ! ・・・でも、どうして・・・? なんでこいつが感染して死んだの?」
「そ、それは・・・」
 小倉がそう言いつつ、じわりと一歩美波から離れた。
「オグ、今更何やってんだよ。それに考えてみろよ」
「なにを? だって、ミナちゃんがあの立てこもり事件の時現場にいて、飛沫を浴びた可能性からいったん感対センターに保護されたのは事実だし・・・」
「いいか、俺たちはミナちゃんが解放された後、比較的早くから会った。直後と言って良い。しかも、結構長い間近くにいた。だけど、今現在まったく異常がない。ミナちゃんはあの時警官に庇ってもらったというし、その後感対センターで徹底的に消毒されたと言うとったやろ」
「うん。シャワー室で消毒液浴びせられたし、身に着けたものも全部廃棄されたし」
「だから俺はミナちゃんがあの時ウイルスに汚染されとったとは思えないんだ。それからミナちゃんのSDカード、あれが一番汚染の恐れがあったはずやけど、デスクはあれを素手で持っとったのに未だにピンピンしとおやろ。あの後、手も洗わずに夜食のサンドイッチ食ったり眼をこすったり鼻毛抜いたりしてたんだぜ」
 それを聞いた美波は露骨に嫌な顔をして言った。
「げっ。そんなことしてたんだ、あのオヤジ」
「それを考えると、あれも汚染されていた可能性はほぼないと考えて良いと思う。ってことは、ミナちゃんにウイルスが付着していて襲った男に感染させたという可能性はほとんどゼロに近いと思うんだ」
「じ、じゃあ、何でこの男が感染して死んだっていうんだよ」
 と、小倉がもっともな反論をした。赤間はそんなこともわからんのかと言う表情で言った。
「だからさ、この男が別ルートで感染したってことだろ。ミナちゃん、今日現場にいたって男、偶然じゃないかもしれない。調べてみる価値はありそうだよ」
「赤間ちゃん、すごい、ホームズみたい・・・。見直しちゃった」
 美波が珍しく赤間褒めた。小倉は一瞬でも美波を怖れて引いてしまったことを悔やんだが仕方がない。彼は名誉挽回するように言った。
「とりあえず藤森デスクには報告した方がいいと思う。警察がこの男の感染経路を調べてミナちゃんにたどり着くのは時間の問題だと思うぞ」
「よし、急ごう。ミナちゃん!」
「わかった。とにかく行動あるのみね!」
 3人は急いで藤森の元に向かった。

「話は大体判った」
 藤森が言った。
「美波、おまえ、相変わらずのクライム・ホイホイやな。入社以来何件目だ?」
「そんなに沢山じゃありません。入社したての頃に街頭突撃インタビューやった時、たまたまマイク向けたのが連続殺人犯で、その後尾行していた刑事たちとそいつで大捕り物になったことと、火災現場に行ってインタビューしたら、たまたま現場に戻って来た放火犯だったことが後でわかった事と、え~とえ~と」
「数えんでええ」
 藤森はむきになった美波を制して言った。
「俺が思い出しただけで、あと2件はある。おまえ、却ってホイホイを証明する様なもんだぞ。とにかく、お前経由であの事件が起きたなんてことになったら我社も大痛手を蒙ることになる。おまえらの手に余るかもしれんし事は急を要する。俺の知り合いに『すっぽんの次郎吉(じろきち)』という二つ名をもつ情報屋と言うか探偵がいるんだが、そいつにもその友朗とかいう男の身辺を洗ってもらおう。大船に乗ったつもりでいなさい」
「あまり優秀そうな名前じゃないけどなー。死んだふりは上手そうだけど。で、次郎吉って本名ですか」
 と、美波が胡散臭そうに言った。自分の進退に関わることなので、あまり妙な人物に関わってほしくない。
「ああ、正確には亀田次郎吉と言う。因みに兄は太郎左衛門だ」
「江戸時代の盗人兄弟ですか」
「兄の方は堅気の商人だ。亀田左衛門商会の社長でウチのスポンサーにもなっているから、滅多なことは言わんようにな」
「美波美咲って自分の名が普通に思えてきましたよ。とにかく、よろしくお願いします」
 美波は半ばげっそりしながら言った。
「わかったらお前たちもこの事件の取材を続けろ。上手くいけばまた特ダネゲットだ」
「ええ~~~っ!?」
 3人が同時に言った。
「いいから、さっさと行けぇっ!」
「は、はいっ!!」
 藤森に怒鳴られて、3人は慌てて駈け出した。3人の後ろ姿を見ながら藤森が言った。
「あいつめ、なかなか良いネタを運んできてくれるぜ。さすが、俺が見込んだだけのことはある。美波美咲、やるな」
 藤森はそう言った後両手を腰に当て、かんらからからと豪快に笑った。
「デスク、また高笑いしてるぜ」
「あれがなきゃ、渋いロマンスグレーなんだけどなあ」
「しかし、知らん人があれ見たら、ただの変態だぞ」
 藤森の笑い声に見送られ、3人はぶつくさ言いながら報道部を後にした。

 タワーマンションでの感染者大量死を巡って、午後からサイキウイルス対策本部の緊急合同会議が儲けられた。感染経路もさることながら、最大の議題は祭りの開催をどうするかであった。
「だけどですよ」
 森の内が立ち上がって言った。
「今回の感染はK市です。K市はご存じのようにF市から遠く離れてます。しかも、感染爆発ではなく、たまたま密室になったマンションの一室で起きた濃密な接触感染です」
 森の内が『濃密』なる言い回しをしたので、場内のあちこちで意味深な含み笑いが沸き起こったが、森の内は構わずに続けた。
「F市の方は、6月21日に不法投棄現場で発見された遺体から感染した男性を最後に発症者は出ていませんし、メガローチ発見の通報も出ていません。ですから、祭りに関しては予定通り行事を執り行う予定です」
 すると今度はあちこちから不安の声やヤジや怒号が飛び交った。森の内はなお構わずに言った。
「もちろん、感染が深刻な状態になった場合、祭りを打ち切ることも視野に入れております。もっともそういうことになった時は、祭りどころか人の往来も制限することになるでしょう」
「いいのか、そんなことで」
 会場から一際大きな声がした。
「そのせいで感染が広まった場合、責任をとるレベルではすみませんぞ」
 それを皮切りに会議場のあちこちで再度声が湧きあがった。
「そうだそうだ。下手をするとF県どころか日本が世界中から非難されことになるぞ」
「既に人の往来を禁じるレベルではないのか?」
「いや、それはやりすぎだ。疫病は未だ突発的な発生をしているだけだ。また忽然と姿を消すかもしれない」
「そもそも、サイキウイルスの存在自体が未だ不明なんだぞ。ひょっとしたら、我々は居もしないウイルスに振り回されているんじゃないのか」
「じゃあ、同じ様な症状で死んでいった犠牲者たちは何が原因で死んだっていうんだ? 説明してほしいね」
「静粛に! 意見のある方は挙手してから発言してください」
 議長の和田は女性ながら凛としてきっぱりと言った。それを受けて若い男がやおら手を挙げた。
 それは厚生労働省から派遣された速馬だった。
「どうぞ」
 発言を許され、速馬は一瞬微かに笑ったが、すぐにいつもの能面面に戻って言った。
 
「それについて、私たちの見解を述べます。今日の事件に関してはまだ調査中と言うことを考慮して推察を避けますが、事件の発端となったホームレスたちの死因は仲間割れによる共倒れで、最初に公園で発見されたホームレスはそれを知らせようとしたところを少年に襲われて死亡・・・」
 彼は悠々と続けた。
「川で死んだホームレスは酔っぱらって川に落ちて溺死、その後河川敷にて遺体で見つかったホームレスはインフルエンザの悪化により死亡した・・・と、私は考えてますけどね」
「それじゃあ、秋山美千代の自殺を止めようとした警官は、何故その後に発症して亡くなったのかね」
「おそらく、傷口から土壌に住む嫌気性の細菌・・・おそらく、破傷風菌等に感染したのでしょう。医師たちがウイルス感染と思い込んでいたために、適切な治療が行われなかった可能性もある。感対センターで亡くなった他の方たちも似たような状況ないじゃないですか? また、ウイルス公表の翌日に車に飛び込んで亡くなられた窪田さんの自殺は妻と愛人との板挟みが原因でしょう。さらに言うと、駅で死んだ男は仲間から暴行されたための外傷性ショック死で違法投棄場で見つかったのは、同じく暴行されて逃げ出した男が追っ手から逃れるために隠れた冷蔵庫から脱出出来ずに窒息死・・・。暴力団連中のリンチはえげつないそうですからね。・・・とまあ、ウイルス感染を持ち出さなくても、説明が出来るわけです。メガローチだって、好事家が海外から輸入した大形ゴキブリのハイブリッドの新種が逃げ出してひそかに繁殖したものの可能性は捨てきれない。逃がした飼い主も法を犯しているものだから、おおっぴらに捜索も遺失物届も出来ずにいるから誰も名乗り出ないと言う訳です」
 速馬の立て板に水を流すような理路整然とした説明に、もともと懐疑的だった者や半信半疑たちの多くが納得した。
「と言う訳で知事、ウイルス発生が誤りだったということを素直に認めれば、祭りは滞りなく行うことが出来ますよ」
 速馬は最後にこう付け加えると、悠々と着席した。森の内はその発言を受けて挙手した。
「お答えしましょう」
「知事、どうぞ」
「速馬さんの意見は尤もそうに思えますが、色々矛盾点があります。それよりも一連の事件の方程式に病原体Xを代入した方がすっきりとした答えが出ると、私は納得しています。祭りを行う為に可能性を否定したことにより、市民を危険に晒すわけにはいきません。万全な対策をもって祭りを執り行なっていきます」
 森の内は迷うそぶり無く答え、負けじと悠々着席した。
(負けてないな、モリッチー)
 由利子は珍しく彼を頼もしく思った。いつものどこまでが本気かわからない感がまったくない。紗弥は彼がウイルス発生があやまりではないかと指摘した時、少しだけ速馬を一瞥したものの、すぐに手元の書類に目を戻した。二人の間には何故かギルフォードの姿がない。
 速馬は森の内に悠々と返され「ふん」と微かに鼻で笑ったが、すぐに真顔になり挙手した。
「はい、速馬さん」
 
「では知事。万全な対策と言われますが、ウイルスの存在があったとして、目に見えない脅威にどうやって対策をとるつもりですか?」
「お答えします」
 森の内はすぐに立ち上がって言った。
「その件については、後日書類にて配布いたします。一番のリスクは最終日のクライマックスにありますので、特に対策が必要と理解しております」
「祭り自体は始まってますよね」
「祭事の儀式のいくつかはすでに終わっていますし、その後も各流れの男衆のみで行われる儀式ですので、彼らの体調管理を徹底させます。発症する前に感染力がないことが判っていますので朝昼晩の検温を義務化し、少しでも熱のあるものは、参加させません。もし、それを守らない流れはその場で参加を禁止します。また、消毒に関しても徹底させます。今は、飾り山の公開が主ですので、一般市民についてのリスクは日常と変わらないものと判断しております。よろしいでしょうか」
「わかりました。対策マニュアルをお待ちしますので、早急にお渡しください」
 そういうと、速馬は着席した。森の内はそれを見計らって静かに着席した。
(モリッチー、GJ!)
 由利子は心の中でサムアップした。
 議題はその後医療対策についてに移行した。壇上に今日はセンター長の高柳が上がった。
 

 碧珠善心教会の教主は、午後の講演を終えて教団のF支部に戻ると、珍しく深刻な表情をした降屋が待っていた。
「長兄さま、内密にお話が・・・」
「おや、何でしょうか? まあ、入ってください」
 教主は降屋を部屋に招き入れ、応接セットに座るよう言うと、自分も座った。降屋は教主が座るのを見計らってから着席した。教主は微笑みを浮かべて言った。
「それで、お話しとは何でしょうか?」
「はい、実は・・・」
 降屋は今朝の出来事について話した。
「おや、それは困りましたね。でも、少し考えれば報道陣が集まる現場に例のテレビ報道記者が来る可能性は導き出せたと思いますが・・・」
「申し訳ありません。しかし、真樹村がどうしても取材に行きたいということで、無下に断わるのも不自然だったもので」
「なるほど、それもそうですね」
「それで、もし私が火の粉をかぶりそうになった時ですが・・・」
「大丈夫ですよ。今やこの国のあらゆる組織の中に、私のヴィジョンを受け共鳴してくださる方々が居ます。あなたへの追及をかわさせることなど造作もないことです」
「心強いお言葉、ありがたく存じます」
「降屋裕己。数々の功績を考慮し、あなたを碧珠(地球)のガーディアンとして選ばれた者のひとりと認めましょう」
 降屋はそれを聞いて喜びに打ち震えた。
「私が・・・、私がとうとうガーディアンに・・・! 有難き幸せにございます」
「改めてガーディアンの役目を説明いたしましょう。現在進行中の作戦は『プロジェクト・プレイグ』。このところ10年に約10億人換算で増え続けていく人類の天敵として極小の『獣』を放ち、医療を中世まで後退させようという試みです。それにより、人口は格段に減っていくことでしょう。
 我らはヒトの一部であるからこそ、この星の病原体たる人類を淘汰し疲弊した大地や綿津見を蘇らせる役目を賜りました。その崇高な目的のためには多少の犠牲は止むをえません。病原体を駆逐するには同じ病原体がふさわしい。それで、我々は、遥音医師が発見しさらに改良したウイルスを利用することを考えました。実験的に撒かれたウイルスはこの地に広がり、今や定着をしつつあります。これも神のご意志でしょう。この国で培ったウイルスは、いずれ海を渡り、恥知らずにも増え続ける愚か者たちを駆逐していくことでしょう。この国ではかろうじて抑えられていたウイルスは、大陸に渡るや否や、凄まじい感染爆発を起こし、ユーラシア大陸のほぼ東域を席捲し結果アジアの一部はほぼ壊滅するでしょう。世界人口が現在の70億から20世紀初頭の15億まで減った時、碧珠はようやく息を吹き返すことが出来ましょう」
「ああ、楽しみです。その時こそ、ユートピアが実現するのですね」
「そうです。そして、その時こそこの国が世界のトップに立つ時なのです。この国の有力政治家たち数人も、私のヴィジョンに共鳴してくださいました」
「すばらしい!」
「時に、降屋さん」
 教主は微笑みを浮かべながらも降屋を見据えるように言った。
「あなたはガーディアンになった者の万一の時の身の降り方と言うものをご存じのはずですね」
 降屋は教主の笑顔の裏に冷徹な意思を感じて一瞬背筋に冷たいものが走った。しかし、教主はいつもの柔らかい笑顔に戻って言った。
「ですから、私はあなたに関して憂えることは何もありません。あなたの計画はきっと我等が碧珠に大いなる恩恵をもたらしましょう」
 教主は降屋の両手を取り、真剣な表情で言った。
「長兄さま・・・」
 降屋は教主の言葉に感動して打ち震えた。この方になら命を捧げても惜しくない。彼は改めて心に誓った。
(僕はこの方と共にこの星を守るためにこの星に生を受けたのだ!)
「問題なのは・・・」
 と、教主はふっと不安げな表情を浮かべて言った。
「あの、中目黒大吉という男です。もちろん、これは偽名です。彼は、本名を仲川庄吉といい、彼には教団のラボが作った薬の管理の責任者を任せていました。しれには認可の下りたものや健康食品として認可されたものの販売も含んでおります。しかし、彼は中目黒の偽名を使って、まだ認可されていないもの、特に、麻薬に近いものをハーブとしてこっそりと売っていたのです。彼は、嶽下某のところにも『ハーブ』を売りつけたようです。しかも、あの赤い結晶、通称『ヴァンピレラ・シード』をです」
「なんですって? あの厄介なドラッグが世に放たれたのですか!? それで、感染後の勝負が早かったのか、くそっ」
「そうです。本来ならもう少し緩慢な進行で、彼らの仲間にもっと感染者を増やせるはずでしたが、中目黒の介入により、それが絶たれました。あれには人の五感を活性化するだけでなく、ウイルスの劇症化も促す作用が確認されています」
「なんてことだ!」
「もともと中目黒こと仲川は、教団への忠誠ではなく損得で動く男でした。それ故に、少しでも不利な立場に陥った時、彼はいとも簡単に教団を裏切ることでしょう。彼は教団にとっても私にとっても危険な人物です。中目黒のドラッグ横流しの発覚後、急いで彼を追いましたが、行方をくらませてしまいました。このまま彼を放っておくと、いずれは我々の計画に災いをもたらしましょう」
「わかりました。私が必ずや彼を探しだし、始末をいたします。ご安心ください」
 降屋から確約を得、教主はほっとした表情をして言った。
「ありがとう。あなただけが頼りですよ」
 教主は降屋の手をしっかりと取り、さらに続けた。
「今、碧珠の命運はあなたに任されました。必ずや中目黒を破滅させてくださると信じております」
「有難きお言葉。しっかりとお役目をはたして御覧に入れます」
 降屋はそう言いながら、体の奥で何かが滾るのを感じていた。

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1.攪乱 (4)レッド・へリング

 会議が終わって由利子たちが、会場から出ようと出口に向かっていた時、何者かから呼び止められた。二人がふり返ると、声の主はあの速馬だった。
「何の御用でしょう?」
 と、由利子が警戒しながら訊いた。速馬はいかにもな営業用スマイルを浮かべて答えた。
「今日はギルフォード先生は来られなかったのですか?」
「ええ、気になることがあると言って、SRI(科学捜査研究所)の方に行きましたけど?」
「おや、顧問の教授がこんな時にこういう場所に居ないとはどういうことでしょうか」
 速馬がここぞとばかりに言ったので、由利子が少し苛ついて答えようとした横で、紗弥が言った。
「教授は今朝の事件での感染死の異常さを、現場で発見された赤い結晶と関連付け、そちらの確認を優先したのです。教授はこの会議の欠席を届けておりますし、了解も得ていますわ」
 紗弥は美しい顔に微塵の笑みも浮かべず、まっすぐに速馬を見て言った。速馬はその彼女の眼の奥に敵意を感じとったのか、「そうですか」と肩をすくめながら言うと、そのままあっさりと立ち去った。
「じゃ、私たちも行きましょうか、由利子さん」
 紗弥はそういうとスタスタと歩き出した。由利子は紗弥の横に並ぶと痛快そうに言った。
「紗弥さん、すごい。あのイヤミ男に言い勝ったよ」
「敵意には敵意で返しますわ」
 と、紗弥は表情を変えずに言った。そのいつもとは違った不穏な雰囲気に由利子は少し戸惑ったが、紗弥独特のジョークだと考えた。
「じゃ私、絶対に紗弥さんは敵に回さないことにするわ」
「そうしてください。私はそんな風に教育されて育ったのです」
「え?」
 軽い気持ちで言ったことに意外な返事が返ってきたので、由利子は驚いて紗弥を見た。しかし、紗弥はいつもと変わらない様子で歩いていた。
(やっぱり謎の多い人だな)
 由利子は思った。紗弥とギルフォードが単なる秘書と教授の関係ではないことは、由利子にも薄々感じていた。

 ギルフォードがF県警所属の科学捜査研究所の応接室で待っていると、所長の的矢信吉が手に写真を持ってやってきた。
「ギルフォード先生、お待たせしました。これが、今朝、嶽下友朗の部屋で発見されたものです。実物は現在解析中です」
「ありがとうございます」
 ギルフォードは写真を受け取り見ながら言った。
 
「ずいぶんとキレイな結晶ですね。まるでルビーを砕いたみたいです」
「光に透かすともっと綺麗でしたよ。感対センターに搬送された後亡くなられた男性は、これを『ヴァンピレラ・シード』と言っていたそうです」
「ヴァンピレラというと、アメリカンコミックスのヒロインの名前ですね」
「そうらしいですな。うちの所員にアメコミマニアがいましてね、説明してもらいましたが所謂吸血鬼なんですが、ドラキュラの眷属ではなく宇宙人らしいですな」
「まあ、アメコミですからね。アメコミの中でもかなり占有率の少ないコスチュームのヒロインですケド」
「そうなんですか」
「まあ、僕にはあまり魅力は感じませんケドね。どちらかというと太もも丸出しのロビンの方が・・・
「え?」
「いえ、ケホケホ。なんにせよ、このドラッグの名前は色から連想されたものなのでしょうケド」
「それで、先生が急いで来られたご用件とは?」
「はい。今回、感染してから死亡までの期間が短すぎるのです。しかも、6人が6人とも劇症化を起こした可能性があります。しかし、センターに確認したところ、亡くなったタケシタさんとスギムラさんには例のインフルエンザに罹った記録がないと言うことでした。おそらく他の4人もそうでしょう。それで、劇症化の誘因となったものがこの結晶ではないかと思ったのです。しかし、何らかの抗体が入っていたとしても、1日2日で影響が出るとは思えません。他の可能性は、この結晶に免疫力を暴走させる何かがあるのではないかと言うことです」
「なるほど、この結晶が現場から見つかったのなら、可能性はありますね」
「はい。ですから・・・」
「わかりました。科捜研の威信にかけて、徹底的にこれを分析しましょう」
「良かった。荒唐無稽と一蹴されるかと心配していました」
「確かに平時であればそうしたかもしれませんが、現在既に、県下は荒唐無稽ともいうべき状況になっています。常識にこだわっていては肝心なことを見逃しかねませんからな。それに、ひょっとしたらサイキウイルスに対抗しうる発見があるかもしれません」
「よろしくお願いします」
 ギルフォードは、的矢所長が思いの外理解してくれたことにほっとしながら言った。
「ところで、これを売った売人の手掛かりはあるのでしょうか?」
「私共が知る限りの情報なのですが、マンションの防犯カメラにそれらしき人物は記録されていましたが、顔は用心深く帽子とマスクで隠しているようでした。多分、あなたの懐刀でも確認は無理でしょう」
「フトコロガタナとは、ユリコのことですか」
「名前までは存じ上げませんでしたが、あなたのところに顔探知機がいると言うことは、もはや警察内では有名ですから」
「ははは、今頃ユリコはくしゃみをしているかもしれません」
「よろしくお伝えください。しかし、顔はわかりませんが、その風体には独特の雰囲気がありましたから、国内に潜伏していれば、重要参考人として引っ張ることも可能でしょう。おそらく早晩の内に全国の警察に映像と共に手配書が配信されると思います」
「そいつが捕まれば、捜査が一気に進展するかもしれませんね」
「まあ、生きていれば、ですがね」
「口封じですか?」
「私がテロリストの幹部なら、そうしますね」
 的矢は軽く肩をすくめて言った。

「クション」
 由利子が軽くくしゃみをした。
「うう、誰か噂しているのかな」
「Bless you. 風邪じゃありませんの?」
 と、紗弥が少し心配そうに訊ねた。
「そうそう、アホは夏風邪を・・・って、風邪じゃないと思うよ。花粉か何かが浮遊しているのかも」
「今頃なら何の花粉でしょうね? あら、もうお昼ですわ」
「もう? 会議のせいで午前中の時間が早く経った様な気がするなあ」
「教授はまだ帰って来ないようですから、お昼ご飯にしましょうか?」
「賛成! でもその前に、お昼のニュースを見ようよ。朝の事件の続報があるかもしれんし」
「そうですわね」
 紗弥は相槌を打つと、リモコンを手にしてテレビをつけると、ちょうど正午のニュースのOPが終わったところだった。
「正午になりました。ニュースをお伝えします。まず、早朝、F県K市のマンションで複数の遺体が発見された事件です」
「うわ、全国放送でいきなりかよ」
 と由利子がつぶやいた。画面には問題のマンションがかなりぼかした映像で映っている。
「F県感染症対策センターより、サイキウイルス感染の可能性が濃いという見解が発表がされました。感染者6人のうち、4人が死亡した状態で発見され、二人が重体で感染症対策センターに収容されましたがうち一人の死亡が確認され、残った一人も以前厳しい状態が続いていると言うことです」
 アナウンサーが記事を読む間、防護服を着た救急隊員や警察官があわただしく動いている映像が映し出された。
「葛西君もこの中にいるのかなあ」
 由利子が画面を追いながら言った。
「多分あれですわ。画面の中ほどにある指揮車らしき車両の傍にいる方」
「ああ、そういえば背格好が葛西君っぽいね。じゃあ、その横の女性らしき警官が早瀬隊長かな。でも防護服着てるのに良く見つけたね、紗弥さん」
「え? あら、どうしてでしょうね」
 由利子は紗弥が戸惑ったような様子で言ったので少し気になったが、すぐにニュースの方に気を取られていった。
「感対センターでは今回の集団感染死について、密室内での感染によるもので、これが感染爆発につながる可能性は低く感染者の所属する大学や高校の閉鎖はしないとしながらも、感染者の交友関係から、感染経路や新たな感染者の有無を調査する方針としています。では、次のニュースです。昨夜、N県沖で発見された国籍不明の・・・」
 サイキウイルス関連のニュースがとりあえず終わったので、由利子が紗弥の方を見て言った。
「死んだのは可哀相だけどさー、大学生と高校生が乱パで感染って、な~にやってんだろうねえ」
「ランパって何のことですの?」
「え~っと」
 由利子は紗弥の素朴な質問に面食らい、何と答えるべきか30秒間悩んだのだった。

 葛西は九木と共に嶽下友朗が在籍していた大学のキャンパスに居た。もちろん友朗の交友関係やヴァンピレラシードの購入ルートを調べるためだったが、学友たちの友朗についての評判は散々だった。「ろくに講義にも出ずに女の尻ばかり追いかけている」とほとんどの友人がそう答えた。もっとも、講義に関しては他の学生たちも多くが五十歩百歩だ思われた。九木はキャンパスのベンチにどっかと腰かけながら言った。
「なんなんだ、ここの学生は。ヤル気と言うものがまったく感じられないじゃないか」
「まあ、そういうトコなんですよね、ココは」
 呆れかえる九木に葛西が意味深な笑みを浮かべて言った。
「大卒と言う学歴を買うみたいなもんですよ。何かをしたいことや学びたいことがあって入ってるやつなんてほんの一握りでしょうね」
「嘆かわしいことだ。行きたくても行けない者だっているというのにな・・・。確固たる目的もないから目に力がない」
「そういうことですので、気を取り直して聞き込みを続けましょう。この後は杉村美優の高校へも行かないと」
「やれやれだな」
 九木は軽くため息をついて立ち上がった。

 『ふっけい君』こと富田林博史巡査部長と相方の増岡宗一郎巡査は、N鉄道のO線A駅に向かっていた。そこの駅員から今朝サイキウイルス感染で死亡したと思われる嶽下友朗に関する情報の連絡を受けたからだ。

「そうそう、やっぱりそうだ。こいつですよ、女性に乱暴しようとして車内で捕まったとは。そうですよね、駅長」
 若い駅員は、富田林から渡された写真を見て言った。同意を求められた駅長も、躊躇せずに言った。
「確かにそうだな。このふてぶてしい顔は覚えているよ」 
「車内で捕まったって、ひょっとして電車内で女性を襲おうとしたってことですか」
「そうです」
「それは、節操がないというか、実にけしからん男ですな」
 富田林が眉を顰めながら言うと、横で増岡が憤った様子で同意した。
「まったくですよ。ふざけた野郎だ。許せませんね」
「それで、こいつはどうなりました?」
 富田林は増岡があらぬことを口走りそうな気がしたので、話の軌道修正をして訊ねた。すると、駅員に代わって駅長が説明を始めた。
 
「それで、その男は車掌に捕まって警察引渡しのためにこの駅に連れてこられたのですが、車内で反撃されて失神状だったんで・・・」
 それを聞いて、富田林は驚いて言った。
「反撃って、その女性がですか?」
「いえ、その女性が言うには、乗客の中に助けてくれた人が居たそうで・・・」
「で、その方は?」
「はい、本来なら表彰ものなんですが、女性が車掌を呼びに行った間に途中の無人駅で降りたということです」
「ほう、勇気のある上に謙虚な方ですな。今時珍しい」
「私たちは、その方を『通りすがりのサラリーマン』と呼んでます」
「しかし、嶽下がその件で警察に捕まったような記録はありませんが・・・」
「はい、それがですね、そいつ、途中から目を覚ましとったらしくて、気絶のふりして逃げる隙を狙っていたようなんですよ」
「狸寝入りしとったんですね」
 と、増岡が口をはさむ。
「そのようでして、わたくしどもが警察に連絡している間にがばと起き上がって、まさに脱兎のごとく逃げていってしまったんです。その時、顔をはっきりと見たんです。一瞬だったんですが、あまりにも印象的な出来事だったんで、そいつの顔も妙に印象に残っていて、今日のニュースで写真を見て、こいつは、と」
「で、その事件はいつ?」
「6月21日、金曜の夜・・・最終に近い時刻でした」
「6月21日? 何かあったような・・・」
 駅長の答えを聞いて富田林が首をかしげ確認しようと手帳を出そうとした時、増岡がスマートフォンを見ながら言った。
「トト、トンさん、ト、トンさん」
「トンさんはやめろ! しかも、焦りながら調子よくつっかえるな!」
「すみません、富田林さん。・・・その日はあの日ですよ」
「あのな、おまえ、もう少し日本語を・・・」
「そんなことはいいから! 6月21日ですよ! 蘭子を捕獲じゃない、保護したあと、斉藤孝治の立てこもり事件があって、その後に・・・」
「ああそうだ、俺はあのひどい状態の遺体を確認させられた・・・、そうか、あの妙に忙しかった日か!」
「駅長、被害者の女性は誰かわかりますか?」
 増岡が訊くと、駅長が少し自慢そうに言った。
「それなら記録にあります。それが、ちょっとした有名人ですから驚きますよ。なんと、めんたい放送の美波美咲だったんですよ」
 それを聞いて、二人の刑事が同時に驚いた。
「ええーーーっ!」
「あの、そこまで驚かなくても・・・」
 駅長が半笑いで言ったが、二人の刑事は鼻白んで顔を見合わせた。二人が、特に富田林が驚いたのも無理はない。なにせ、あの立てこもり事件で美波をウイルスから守ろうとしたのは富田林だったのだから。
「トンさん!」
「お、おう。とにかく上の判断を仰ごう」
 二人の緊張した雰囲気に駅長は少し不安そうに訊いた。
「あの、ひょっとして、大変なことが?」
「後程、連絡いたしますが、他言無用に願います。で、駅長、この事件についての調書のデータをコピーしてください」
「はい、わかりました」
 駅長は首をかしげながら、近くにいる駅員を呼んだ。

「線はつながったが、そんなこと有り得るのか? 感対センターでは感染の可能性はかなり低いだろうと隔離は見合わせたんだよな」
 車の中で富田林が腕組みをして言った。
「そうですよね。犯人の落下地点から若干離れていたことと、防護服を着た富田林さんがかばったのと、傘で防御したおかげで、飛沫を直に浴びた可能性はかなり低いだろうということだったし、念のため消毒とシャワーでしこたま除菌された上に着るものも下着から相替えしたんですもんね」
「見えない敵だけに、始末が悪いぜ。とにかく本部に連絡しよう」
 富田林はそういうと、電話を手に取った。

 その頃、葛西たちも情報を得ていた。なんでも友朗のツイッターが一時期炎上していたというのだ。
「あいつ、ほんまもんのバカだからね、電車に美波美咲似を見つけたので今から仲良くなりに行くみたいなツィートをしてさ」
 友朗の友人が言った。
「あれ、マジ引いたよね。『美波美咲似を見つけたなう』『ソッコーでHしに行くなう』って、『なう』をつければいいってもんじゃないって」
「で、炎上して驚いたのか、1時間後にはアカウント取り消してさ」
「だって、あんまりバカなんで、おれ、拡散しちまったし」
「あ、私も」
「炎上するよね~」
 そう言いながら笑う友朗の友人連中を見て葛西は心の中で(おめーらも類友じゃねーか)と突っ込んだ。
 彼らと別れてから、九木が言った。
「おい、美波美咲と言えば・・・」
「はい。斉藤孝治の事件の時現場に忍び込んでいたテレビ局の記者です。蛇足を言えば、私とジュリー、いえ、キング先生をヘリで追いかけたのも彼女でした」
「彼女は君と富田林君が庇ってウイルスから護ったのだったな」
「はい。ですから、感染の可能性は低いとして全身の消毒後解放されたのですが・・・」
「だが、もし嶽下友朗のツィートの女性が本物の美波美咲だったとしたら・・・」
「感染元が彼女である可能性が出てきます」
「しかも、高い確率でな! これは、下手すりゃ祭りどころではなくなるぞ!」
「とりあえず、本部に連絡してから杉村美優の高校に行って聞き込みを続けましょう」
「では、車に戻るぞ!」
「はい!」
 葛西が答え、二人はすぐに駆け出した。

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1.攪乱 (5)無症候性キャリア

 ギルフォード研究室に久しぶりに長沼間が現れた。
「この近くに寄ったんでね。これ、土産だ。温かいうちにみんなで食べてくれ」
 長沼間は紙包みを紗弥に渡した。
「まあ、ありがとうございます」
 紗弥はそういうと躊躇なくそれを受け取った。由利子がその包みを見て言った。
「わあ、蜂楽(ほうらく)饅頭だ。私、白餡ね・・・って、あ、美月」
 匂いにつられてか、美月が軽やかな足取りで近づいてきたので、由利子は彼女の頭をなでながら言った。
「ごめん、これ餡子だからあんた食べちゃダメなんだよ。後であんた用のおやつをあげるから」
 美月は言葉がわかったのか、また、タッタッタと所定の位置に戻った。
「じゃ、お茶を淹れて来ますわね」
 紗弥が言うと長沼間がそれを受けて言った。
「お構いなく。あ、でも、お茶よりコーヒーがいいな。鷹峰ちゃんの淹れてくれたコーヒーが飲みたい」
 紗弥はそれを聞いて一瞬立ち止まり「たかみねちゃん・・・?」とつぶやいたが、そのままさっさとお茶コーナーに向かった。
「相変わらず冷たいな」
 長沼間が言うと、ギルフォードがにこっと笑って答えた。
「ああ見えて、ずいぶんと温和になってるんですよ。まあ、かけてください。実は僕もさっき戻ったばかりなんです」
「そんな長い間SRIに居たのか?」
 と、長沼間が腰かけながら訊ねた。
「いえ、その後感対センターに行って、今朝の事件で唯一まだ息のある男性から事情を聴こうと思ったんですが・・・」
「聴けたのか?」
「いえ、既に人事不省の状態でした。おそらく今夜までもたないでしょう」
「そうか・・・」
「でも、センター長の話では、彼は最初の頃うわごとを言っていたらしいんです」
「うわごと? 内容はわかるのか?」
「ほとんど意味をなさないものだったそうですが、何度か繰り返された言葉に『笑顔のセールスマン』『悪魔』と言うのがあったそうです」
「笑顔のセールスマンに悪魔ねえ」
「ね、気になるでしょう?」
「というより、なんかマンガみたいだな・・・」
 長沼間は答えたが、何故かいつもと少し様子が違う。なんとなく落ち着きがないのだ。ギルフォードはそれに気づいたが、訊こうと思った時に紗弥と由利子がお茶とコーヒーを運んできた。少し遅いティータイムだったが、長沼間がコーヒーを頼みながらあまり口をつけず、時折時計を見て落ち着かない様子に不安の影を察して、ギルフォードは訊ねてみることにした。
「あの、ナガヌマさん」
「なんだ。黒餡より白餡の方が良かったか」
「どっちも好きです・・・、じゃなくて、ナガヌマさん、何か心配ゴトがあるんじゃないですか?」
「そんなもんねえよ。考えすぎだ」
「強がってないですか?」
「ないね」
「ホントに?」
「しつこいな。ねえよ」
そう押し問答をしていると、後ろで声がした。
「観念して白状なさいませ。珍しく顔に書いてありますわよ」
「う、うむっ」
 紗弥にまで言われて長沼間は一瞬絶句したが、観念したように言った。
「その・・・実はな、今、部下の松川が手術中でな」
「松川さんて言うと・・・」
 と、由利子が口を挟んだ。
「美葉が誘拐される前に結城に襲撃されて重体になってた人?」
「ああ、そうだ」
 長沼間が答えた。
「あの時はすまなかったな。監視していたのにみすみす美葉さんの誘拐を赦してしまった」
「私の方こそ、長沼間さんの部下がそんな目に遭ってるとは知らないでひどいことを言っちゃった」
「いや、あれは間違いなく俺の部下たちの失態だ。だが、そんなふがいない奴らでも俺の部下でな・・・」
「あれから重体のままだったの?」
「いや、二人とも意識は戻ったんだが、松川の方に ひどい記憶障害が残ってな。鈍器で頭部をモロに殴られたんだから、死ななかったのが奇跡なんだが、その原因である脳内に出来た血腫を取り除く手術をしているんだ。どうも面倒くさい場所にあるようでな。医者はそれなりに自信はあるようだったが、万が一の場合を考えていてくれと言われてな」
「そっかあ」
「それは心配デスネ」
 と、ギルフォードは納得して言ったが、紗弥がしごくまっとうな質問をした。
「そんなにご心配なら、病院でお待ちになればよろしいのに」
「俺はそこまで暇じゃねぇぞ。それに松川はな、図体はでかいだけのぬーぼーとして頼りなさそうな奴で実際そうなんだが、ああ見えて婚約者がいてな、病院にはその彼女と松川の両親が来ているんだ。そんな中に俺が出しゃばるのも野暮ってもんだろ」
「で、挨拶だけして帰ったんですか」
「なんでわかんだよ、アレクサンダー」
「まあ、なんとなく」
「ま、俺が居たって、不安がらせるだけだからな」
「ね、ナガヌマさんって意外とイイヒトでしょ」
「俺を買いかぶるんじゃねえ。今朝の事件のことでやることがあったんだよ」
 ギルフォードが由利子と紗弥の方を見て嬉しそうに言ったので、長沼間が間髪入れず言った。
「あいつが心配なんじゃねえよ。あいつの記憶が戻ったら、襲われた時の状況がわかって少しは捜査も進展するだろうと期待しているだけだ」
「ツンデレだねえ」
「そうですわね」
 由利子と紗弥は小声で言うと、くすくす笑った。
(へえ、笑っているじゃねえか。確かに最初会った頃より柔和になっているようだ)
 長沼間は紗弥の様子を見て思った。
「そうだ、鷹峰ちゃん」
「なんでしょう?」
 2度にわたって長沼間に「ちゃん」付けで呼ばれた紗弥は、少しひきつり気味に言った。
「君が救命した男性も、無事に意識を取り戻したそうだ。そのあと順調に回復して、右半身に若干麻痺が残ったようだが、リハビリでほぼ元通りに回復出来るということだ」
「え? すごいじゃん。良かったねえ、紗弥さん」
「いえ、その場にいて出来るだけのことをしただけですから」
「あの時、おまえさんが一か八かで救命処置を取らなかったら、確実に彼は死んでいたんだ。病院で蘇生できたとしても、重い障害が残ったと思うよ」
「そうですよ、サヤさん。ユウキに出くわしたことは災難だったけど、君がいたことはその方にとって幸運でした」
「でも、わたくしは当然のことをしただけですから」
 紗弥はそういうと、研究室から出て行ってしまった。
「相当照れてマスね」
「照れてるのか、あれ。怒ったのかと思ったぞ」
「あなたと同じで感情表現が苦手なだけですヨ」
 当惑気味の長沼間にギルフォードは、少し微笑ましそうに言った。

蜂楽饅頭 http://www.houraku.co.jp/

 めんたい放送報道部藤森に受付から内線が入った。
「その声は、ななえちゃん、いつもかわいいね。・・・ん? どうした?」
「あの、受付にっ」
「なに?」
 藤森は受付嬢の緊迫した声に、嫌な予感を覚えた。もちろん心当たりがあったからだ。
「保健所の方が来られて、美波さんを隔離すると・・・」
 藤森が嫌な予感が当たったと確信した。
(想像以上に早かったな。美波を取材に出しといたが、さて、鬼が出るか蛇が出るか・・・)
「ななえちゃん、美波は取材中だ。俺が変わろう」
 藤森はめずらしく真面目な顔をして言った。

 

「九木さん、めんたい放送の記者、美波美咲の隔離が決定したそうです」
 葛西が、本部からの連絡を受けて言った。九木はやや首をかしげながら言った。
「ずいぶんと早かったな。私たちが報告してからあまり時間を置いてないが、なにか決定的事由が見つかったのかな」
「はい。私たちが報告をした頃とほぼ同時に富田林さんたちが、美波美咲を嶽下友朗が襲おうとしたという記録を入手したという報告があったそうです。ほとんど未遂だったそうですけど」
「驚いたな。ネタじゃなかったのか。あの男、真正の大うつけだったんだな」
「でも嶽下友朗の感染源が美波美咲だったとして、今更彼女を隔離する意味があるんでしょうか」
「さて、ね。今更感はあるが、彼女が感染源であれば、やはり隔離して調べる必要はあるのではないかね」
「そうですね。ギルフォード教授に知らせます」
 葛西はそういうとすぐに携帯電話を耳にあてた。しかし、なかなか出ない。
「出ません。既に感対センターの方から連絡が入っているのかもしれません」
 葛西の言った通り、ギルフォードはまさに今、高柳から連絡を受けていた。
「なんですって? ミナミ・ミサキの隔離が決まった?」
「そうだ。彼女が斉藤孝治立て籠もり事件の時、現場に入り込んでいたことは聞いているだろう?」
「はい。ジュンとゆるキャラみたいな刑事が庇ったおかげで感染を免れたとかいう記者さんですね。たしか、C川でヘリからジュンたちを追いかけたのも彼女だったとか」
「その彼女が、当日の夜に、今日感染死した嶽下と言う男と接触していたんだ。今のところ、嶽下の感染源は他にないんだ」
「接触って、いったいどうして?」
「嶽下が電車内で彼女を襲おうとしたらしい。ほとんど未遂だったらしいが、その時彼女は頬に軽い切り傷を負ったそうだ」
「襲うって、電車内で?」
「乗客の少ない車両は密室に近い状態になりやすくてね、意外と性犯罪の起きやすい場所なんだよ。まあ、逆に満員でもそうだがね」
「しかし、それにしても、彼女がウイルスに暴露された数時間後っていうのは早すぎませんか? 除染は万全だったのでしょう?」
「もちろんだ。身に着けていたものは下着から靴まで全て廃棄の上、本人も全身消毒した。あまりにも消毒に時間がかかって、最初神妙にしていた彼女もだんだんイライラしてきたほどだ。もっとも、母親が血相変えて着替えを持って来た時に目の前で泣かれて反省していたようだがね」
「それだけ慎重に除染したのなら、彼女にウイルスが付着していた可能性はほとんどないはずです。それに、万一彼女が感染していたとしても、人に感染させるには時間が短すぎます。それに、隔離するにも彼女がウイルスに曝露されてから既に10日以上経っています」
「しかし、現在嶽下友朗の感染ルートが美波美咲しか浮上していない限りは、彼女が感染源である可能性はないと言い切れないだろう。しかも、彼女が無症候性キャリアではないかという意見もでている」
「HIVのような潜伏期間の長いウイルスならともかく、サイキウイルスのような進行の早いものでそれは・・・」
「しかし、ノロウイルスの例もあるし有り得ないと言い切れないのも現実だ」
「ミナミ・ミサキの隔離は止むを得ないとしても、他の感染ルートも探るべきです。僕には彼女が感染源だとはとても思えません」
「私も同意見だ。上が決めたことは我々も従わなければならないが、別の感染ルートを探るべきだという意見は通すつもりだ。そういう訳で、夕方には君にもこちらに来てほしいのだが」
「了解しました」
「では、よろしく」
 高柳はそこまで言うと電話を切った。
「相変わらず忙しい人だ」
 ギルフォードはため息をついて電話を切った。由利子がその会話にいち早く興味を持って訊いた。
「ミナミサを隔離って、何があったの?」
「説明しますが、オフレコでお願いしますよ」
 ギルフォードは神妙な顔で言うと、高柳からの電話の内容を簡単に説明した。
「うわあ、嶽下ってヤツ、ほんっとにどうしようもない男だったんだ」
「自業自得ですわね」
 由利子と紗弥が、まず、友朗に食いついた。
「まあ、彼についてはそう思えなくもないですが、まだミナミさんの感染が決まったわけではないですので」
「さっき長沼間さんが急用が出来たと言ってすっ飛んで帰ったのは、この事だったんだ」
「多分、そうでしょうね」
「で、『ムショウコウキャリア』って何?」
「無症候性キャリアですよ。感染はしたものの症状がほとんど現れず、感染力だけ持つ患者のことです。有名な人物にメアリー・マローンと言う女性がいます。彼女は”Typoid Mary(タイフォイド・メアリー)"、『チフスのメアリー』という通称で呼ばれています」
「うわあ、嫌な二つ名だなあ」
「彼女はタイフォイド・・・腸チフスに感染したものの発症はせず、胆嚢に腸チフス菌の病巣を持ったまま料理人として働いていました。もちろん彼女にその自覚はありませんでした。しかし、胆嚢に巣食った腸チフス菌は胆汁と共に腸管に侵入し、生涯排泄物と共に排出され続けました。それが手に付着した時に自覚の欠如で手洗いを怠れば、他者に感染させてしまうことになります。料理人であればなおのことです。
 そういう訳で彼女の周囲で腸チフス患者が多く発生したことから、彼女が腸チフス菌の健康保菌者であることが判り、一旦は隔離されましたが、それまでに22人の感染者と一人の死者を出したことが判っています。その後、彼女の人権も考慮されて料理人はしないという条件で自由を得ました。しかし、彼女は最初はそれを守ったものの、姿をくらまし、再び腸チフスの感染源として見つかった時は、あろうことかニューヨークの産婦人科で料理人をしていました。そこでは25人の感染者と2人の死者を出しました。
 彼女は自分が腸チフスに感染しているということを信じていませんでした。むしろ、自分が不当な差別を受けていると考えていたようです。自分自身は全くの健康体なのですから、それは仕方ないことかもしれません。また、彼女が禁止されたにも関わらず、偽名を使ってまで料理人を続けたのは、他の使用人よりも料理人が優遇されていたという背景もあります。また、彼女は無症候性キャリアと言うこと以外は、頑固ではありましたが善良な女性で悪意は全くありませんでした。しかしその結果、彼女は累計47名の感染者と3名の死者を出すに至りました」
「悪意がないだけに、タチが悪いなあ」
「そうかもしれません。彼女が自分が保菌者であることを認め、食品関係の職に就くことなく、手洗いを怠らずにいれば、感染者を出すこともなく普通の生活が出来たのです。彼女をHIVの無症候性キャリアと置き換えて考えてみるとわかりやすいかもしれません。しかし、彼女が無症候性キャリアになってしまったことは、彼女の責任ではなく、彼女にとっても不幸なことだったのです。彼女は2度目の隔離から解放されることはありませんでした」
「そっか、時代と言うこともあるし、気の毒な女性でもあるんだ。でも、やっぱり彼女に感染(うつ)された人にとっては、たまったものではないと思うけどな」
「それで、美波美咲さんが発症していないのに嶽下友朗にサイキウイルスを感染させたということで、無症候性キャリアだと考えられたということですのね」
「そういうことだと思いますが、そうとしたところでウイルスが感染力を持つには早すぎますし、除染もしっかりなされていたので、ミナミさんに付着したウイルスに感染したとも考えにくいです。他にトモローに感染させた何かがあるはずなんです」
 ギルフォードはそういうと、イスに深くかけ直し腕を組んだ。

 

 美波はデスクから重要な要件があるという電話を受け、急いで取材を終わらせてから局に戻った。報道部に駆け込むと、藤森デスクが席を立ち、笑顔で言った。
「お疲れさん。何かつかめたかね」
「いえ、今のところ特に進展は・・・。感染者の出たマンション周辺住民のインタビューと、杉村美優さんの友人と言う女子高生から話を聞けたくらいです。そんな状態で呼び戻されたので、非常に不本意なんですけど、何があったんですか?」
「あのな、美波。すまんがしばらくの間休養してくれんか?」
「え?」
 美波は藤森の真意を測りかねて不審に思い、一歩後退った。そこに待ち構えていた白い医療用防護服の男二人に両腕を掴まれた。
「な、何すんのよ!!」
「美波美咲さん、サイキウイルス感染の疑いにより、隔離勧告が出ています」
 と、右側の男が言った。続けて左側の男が言った。
「速やかに私たちとご同行ください。もし、従わねば、強制的に収容することになります」
「ちょ、ちょっとまってよ。私感染なんてしてないわよ。全然元気だよ」
 美波は男たちに言うと、次に藤森を見て言った。
「デスク、ひどいわ。だましたのね」
「すまん。美波。何とか俺たちでおまえの無実の証拠を集めるから、ここは大人しく捕まってくれ」
「無実とか捕まるとか容疑者みたいに言うなぁ~!!」
「さ、美波さん。観念して行きましょう」
 頑として動きそうもない美波に右側の男が事務的に言った。
「そう簡単に観念できるわけないでしょっ! デスクのうそつき! 守ってくれるって言ったじゃん」
 既に美波は半べそをかいていた。藤森は頭を下げて言った。
「すまん、ほんとうにすまん。こらえてくれ。急いでお前を引き渡さねば、危険人物として指名手配も辞さないと言われてな。そんなことになったら、お互い面倒になるだろ」
「指名手配って、そんな、犯罪者じゃあるまいし。むしろ私は被害者ですよ!」
「そんなこたぁ判っとる」
「だったら・・・!」
「仕方ないだろ。おまえさんだって、局に迷惑かけたくないだろ? そもそも、これはお前さんの勇み足が原因だし」
「う・・・」
 美波は返答に詰まった。
「たのむ。ここはこらえてすっぱりと覚悟を決めてくれ」
「わかりましたよ! 行きますよ、行けばいいんでしょッ!」
 美波はやけっぱちで言った。
「黄色い車でも緑の車でも乗ってやるわよ! さあ、とっとと連れて行きなさいよ!!」
「こっ、こちらです。裏口に車を待たせていますから」
 男たちは、美波の剣幕に若干気圧され気味になった。美波が大股で先頭を歩き、保健所の職員が若干低姿勢で後をついていくという、主従が逆転した形で報道部を出て行った。
「美波、力不足ですまん」
 と、藤森は美波を見送りながら悔しそうに呟いた。
 そこに、赤間と小倉の凸凹コンビが機材を置いて戻ってきた。二人は美波が男二人を従えて出ていく後姿を見て驚いて言った。
「あ、ミナちゃん!!」
「デスク! 何があったとですか!?」
「まさか、出入りでも?」
「んなワケなかろーもん。声を合わせてあほなことを言うんじゃないよ。あれ見たら大体想像はつくだろう」
「って、あんた、ミナちゃんは守るって・・・」
「言うだけ番長か、あんたわっ」
 赤間と小倉が食って掛かりそうになったので、藤森がため息をついて言った。
「二人とも、ちょっと来い」
 藤森は二人を自分の席に呼んだ。彼は自分の席につくと、二人を前に立たせて言った。
「見ての通り、美波は当分感対センターに隔離だ。俺だって最初は頑として拒否したよ。感染していないということも理路整然と説明してな。で、最初は追っ払ったんだ。ところがその後厚生労働省の速馬とかいう男から電話がかかってな、あの野郎、こともあろうに美波を指名手配させるとまで言い出しやがった。人権侵害だ官憲の横暴だとどやしつけたが、あんちくしょう相当の鉄面皮だな、カエルの面にしょんべん以上に堪えやしねえ。とうとうこっちが折れたって寸法だ」
「デスクが言い負けたとですか!」
 と、赤間が言った。小倉は既に意気消沈してうなだれている。
「仕方ないだろう。ああ見えて美波はローカルアイドルだ。指名手配されなくても感染の疑いがあるのに逃げ回っているなんて公表されてみろ。ウチだってダダじゃ済まないよ。報道部が報道対象になるなんざシャレにもならねえからな。だがな」
 と言うと、藤森が椅子から立ち上がった。
「俺たちだって泣き寝入りは出来ねえ。報道部の総力を挙げて、嶽下のクソガキにウイルスを感染させた真犯人を探し出すぜ!!」
「デスク!!」
 二人が感激して言った。
「かっこいい」
「ああ、デスクが今までで一番頼りに見える・・・」
「と、いうことで」
 言うだけ言うと、藤森はすとんと椅子に座った。
「後は任せた」
「え?」
「今、総力を挙げてって・・・」
 藤森は、怒ったり感動したりがっかりしたりする二人に言った。
「そういう心意気だってことだ。考えてみろ。実際にそれに総力をあげたら他の取材がおろそかになるじゃないか」
「そんなことだろうと思った」
 と、がっかりする小倉に赤間が言った。
「まあ、確かにデスクの言うとおりだ。とにかく、俺たちだけで出来る限りやってみよう」
「さすが赤間君だな。話が判る。じゃ、手始めに感対センター取材してくれ。さっかくウチの記者が隔離されてるんだ。同僚が見舞いに行ってもおかしくはないだろう」
「身内以外入れないのでは?」
「そこはそこで何とか工夫しろ」
「はい」
 二人がそろって返事をした。
「よし。じゃ、今日の取材分、急いで編集に回さんと夕方のニュースに間に合わんぞ」
「うわ、忘れてた」
「やばっ」
 二人は口々に叫ぶと、飛ぶようにして藤森の前からいなくなった。

 

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1.攪乱 (6)シロジズム

 夕方、ギルフォードが紗弥を連れだって感対センターに行くと、既に葛西と富田林が来ていた。富田林はギルフォードに気付くと、さっと敬礼をした。
「教授、御足労ありがとうございます」
「あ、アレク、あなたも来られたんですか」
 葛西はギルフォードに歩み寄りながら言った。ギルフォードはにっこりと笑って言った。
「はい、タカヤナギ先生に呼ばれました。君は?」
「杉村美優の高校に聞き込みに行こうとしたところでしたが、美波美咲の保護隔離でこっちに呼ばれました」
「今日は違ったコンビで来たんですね」
「斉藤孝治の事件で美波美咲と直接関わったのは僕と富田林ですから。そういえば、アレクは確か富田林とはお会いになってますよね」
「はい、一度アキヤマさんの自殺未遂の時にお会いしました。あの時はユリコもいましたけど」
「今日は由利ちゃんは?」
「用があるからと言って、帰りました。送っていくと言ったのですが、帰ってしまいました」
「え? 一人で帰ったんですか?」
「ええ、まだ明るいから大丈夫だといって、さっさと帰ってしまいました」
「え~。会いたかったのに」
 と、葛西があからさまに残念そうに言ったので、ギルフォードは少しお冠で言った。
「ユリコも、たまには羽を伸ばしたいのかもしれませんね。最近は特に問題がないので、いつも護衛付で窮屈だったのかもしれません」
「え~、何かあったらどうするんですか」
「そんなこと言ったって・・・」
「こら葛西! ぶつくさ言ってないでさっさと行くぞ!」
 富田林がしびれを切らしてさっさと歩き出した。葛西が慌てて後を追い、その後をギルフォードと紗弥が続いた。 
 その頃由利子は、T神の街を歩いていた。週末にみんなで飾り山を見に行くことにしたので、下見をしようと思ったからだ。久々に一人で街中を闊歩していることで、由利子は妙な解放感を味わっていた。
「なんか、ひさしぶりの自由って感じやね」
 由利子は街のあちこちに目をやりながらつぶやいた。
「さて、飾り山いくつか見たら、本屋に寄って、それから夏物の服とか買って」
 そこまで言うと、自然に「ふふふっ♪」と笑いがこぼれた。

 ギルフォードたちが美波が隔離されている病室の前に行くと、その前で高柳センター長が待っていたが一緒に見知らぬ若い男が二人立っていた。葛西が怪訝そうな表情で訊いた。
「高柳先生、この方たちは?」
「ああ、美波さんと同じ放送局の方たちですよ。報道部のクルーの方たちです」
 葛西はそれを聞いて、(ひょっとして僕たちをヘリで追いかけた連中か?)と二人の方を見たが、彼より先に富田林が驚いて言った。
「え? マスコミ関係者ということですか? そんな連中を入れて大丈夫なんですか」
「原則、身内など特に親密な関係の方以外、特にマスコミ関係の方はお断りしているのだがね。取材ではなく、美波さんの友人として何か重要な話があるということで、まあ、美波さんも発症はしていないということなので、許可したんだ。もちろん病院内の撮影や取材は一切お断りしているがね」
「そんなことを言って、マイクとかカメラとか隠し持っとったら・・・」
「そんなものは持ってきてません!」
 と、赤間が憤慨気味に言った。
「たしかに、デスクからは取材しろと言われはしました。しかし、僕らは美波さんが感染していないだろうと言うことを説明に来たんです」
「ほお~。じゃあ、さっさと説明してもらいたいもんだね」
 高圧的な声に驚いて振り向くと、長沼間が立っていた。ギルフォードがすぐに訊ねた。
「ナガヌマさん、部下さんの手術は?」
「バカ野郎、こんな時に部下の手術やらにかまけてられるか。ヤツはまだ手術中だ」
 長沼間はギルフォードに向かってそう言うと、次に高柳の方を見て言った。
「そういうことで、さっさと美波美咲と話をさせてくれ」
 長沼間の無礼な言い様にクルーの二人はムッとした表情を隠せなかったが、高柳は慣れたのか、彼の本来の人となりを理解したのか、かるく片眉を上げる程度で以前のような不快さを示すことなく言った。
「わかった。端的に要件に入るとしよう」
 高柳は長沼間に向かって言うと、マイクを手にして言った。
「美波さんの話を聞きたいと言う方々がこられているんだが、話は出来そうかね」
 中で甲斐看護師が答えた。
「はい。美波さんは今のところ健康状態は良好ですし、ご本人も落ち着いておられますから、大丈夫だと思います」
「窓を『開ける』よ」
 美波に確認をとったのか、若干の沈黙後に返事があった。
「はい。どうぞ」
 それと同時に窓の曇りが消えた。
「お~」
 クルーの二人が同時に小さい歓声を上げ、すぐに窓にへばりつくようにして言った。
「ミナちゃん!」
「ミナちゃ~~~ん」
「二人とも、情けない声出さない! 大の男がみっともないよ」
「ああ、ミナちゃん、お変わりなく」
「心配したんだよ~」 
 その様子を見ながら葛西が妙なデジャヴを感じていると、富田林が葛西の横腹をつついて小声で言った。
「おい、あの強面のオッサンは誰だよ」
「公安の長沼間って人なんですが・・・」
と、葛西も小声で答える。
「げっ、公安かよ。道理で」
「ま、第一印象は最悪だけど、意外とそうでもないみたいですよ」
 葛西は長沼間をフォローしている自分に気づき、一瞬あれ?という表情をしたが、美波の事情聴取が始るということで、急いで窓の方を向いた。

「それではあなたは、その時助けてくれた人が怪しいというんですね」
 大方の話を聞いて葛西が言った。一番女性が安心しそうだということで、葛西が聞き手を一任されたのだ。美波はベッドサイドの椅子に腰かけ、窓越しに取り調べを受けていた。見た目は健康そのもので、隔離病室の中にいることがかなり不自然に見えた。
「はい。恩知らずと思われるかもしれませんが、それしか考えられません」
 と、美波はきっぱりと言った。
「あくまであなたは感染していないと主張されるわけですね」
「そりゃあ100%ないとは言い切れないけど、多分『ない』です」
「あなたが嶽下友朗に襲われた時のことは大体わかりました。調書とも整合しています。僕が解せないのは、何故あなたが恩人の男性を、嶽下に感染させた犯人だと思ったかです」
「実は・・・」
 美波は、感対センターに河部がヘリで搬送されて来た時にその様子を撮影していて、真樹村極美という女が同じように撮影をしていたこと、その女が逃げる時、仲間がいて彼女を車で連れ去った事を話した。葛西は以前似たようなことがあったのを思い出した。ギルフォード達もそれに気づいたのか一斉に葛西の方を見た。葛西は微かに頷いたが、まず美波の話の先を聞くことにした。
「そして今日、感染者搬送のニュースを伝えるために現場となったマンションを取材に行ったのですが、その時にその恩人の男性の姿を見かけたんです。それでお礼をしようと思って彼の方に行こうとしたら、その連れにその極美と言う女がいて、やっぱり撮影してたみたいなんです」
「それで、その男は?」
 葛西は、質問する自分の声が若干上ずっているのを感じた。
「私に気付いたせいかわかりませんが、すぐに極美を連れてその場から去っていきました。後を追ったのですが、 見失ってしまいました」
「それで君は、真樹村極美とその男が仲間なのではないかと思ったわけですね」
「はい。おそらくヘリ搬送の時、極美が乗った車を運転していたのも彼ではないかと」
「その極美といっしょだった男と君を助けてくれた男と同一人物なのは間違いないのですね」
「職業柄、会った人の顔はわすれません。しかも、恩人ですよ。間違えるはずがありません!」
「なるほど。でも、それだけで何故その男がウイルスを嶽下君に感染させたと思ったの? 君が襲われた時、偶然その男が居合わせたってだけってこともあり得るでしょ? 今の君の見解は三段論法にすぎないでしょ。それとも、君は危機を救ってくれた人を真の感染源だと言えるほどの理由はあるの? もし違ったとしたら一人の人間の一生を狂わせるかもしれないんですよ」
「そ、それは・・・」
 美波は口ごもった。確かに、あの男が感染源だと言う証拠は一つもない。あるのはあの時彼が嶽下と関わったと言う自分の証言だけだ。対して自分は、警官たちに庇われたとはいえ、ウイルスを含んだ飛沫に無防備に体を晒したという状況証拠がバッチリ残っている。赤間はここぞとばかり口を出した。
「確かに証拠はないですが、同じ男が3つの事象に絡んでいてそれがすべてサイキウイルス関係なら、調査だけでもするべきではないですか? ひょっとしたらウイルス発生に関わる重要人物かもしれないでしょう」
「おい。君たちは、どれだけこのウイルス事件について知っとるんだ」
 話に割って入ったのは、富田林だった。赤間は内心しめたと思い言った。
「国家警察が捜査本部を設置する程度の事件と言う認識はしていますよ」
「富田林さん、余計なことは言わないでください」
 葛西は富田林をたしなめ、赤間たちに向かって言った。
「判りました。その男の線は、僕たちの方で洗ってみます。正直、僕たちも美波さんの感染については疑問を持っていたのです。情報ありがとうございました」
 それを聞いて、赤間と小倉が「おー」と言って喜んだ。しかし、葛西が続けて言った。
「ところで、あなた方はC川でメガローチ調査をしていた二人組を空撮した方たちですよね」
 葛西の質問に、赤間と小倉は顔を見合わせその後美波の方を見た。美波は軽く頷いてから答えた。
「はい、そうですけど」
「僕がそのうちの一人です。その節はお世話になりました」
 それを聞いて3人一緒に「ええっ」と声を上げた。
「それはともかくとして、あなた方は危険ですので、その男の調査は僕らに任せて手を引いてください。いいですね」
「そんなの、納得できない!」
 美波が憤慨気味に言った。
「報道の自由への侵害だわ!!」
「そうですよ。何より僕ら、いや、美波さん独自のスクープですよ」
「そうだそうだ、体を張って得たネタですからね」
「小倉! 人聞きの悪いこと言わない!!」
 美波が焦って言った。葛西はそれを制止しながら言った。
「僕らは、危険区域に近寄らない限りはサイキウイルスについての取材自体は禁じてません。でも、その男については危険だと判断したんです」
「そんなこと言って、あんたあの時のことを根に持って邪魔してんでしょ!」
「ちがいます。さっきも言ったように、僕はあなたの隔離に・・・」
「お為ごかしを言ったってだめよ」
「ミ、ミナちゃん、だめだ」
「言い過ぎだよ、それえ」
 いわれなき隔離に怒りが再燃しヒートアップする美波に赤間と小倉は窓の前でオロオロしたが、美波は勢いづいて彼らに言った。
「赤間君、小倉君、聞いてたでしょ。取材妨害されたってこと、しっかり報道してよ」
「ちがいます。本当に危険なんです、そいつは・・・」
「ジュン! ミナミさんも落ち着いて」
「うるせえ!!」
 ギルフォードが見兼ねて助言しようとしたところに、長沼間が割って入った。
「ごたごた抜かさすに言うことを聞け! 俺たちは民間に危険なことをやらせるわけにはいかねぇんだ! そこの坊やが言いかかったように、そいつは危険人物の可能性が高いんだ。ウイルスの核心に迫ろうとした彼女が今ここにいるのがいい証拠だろうが。おまえらもこのウイルス事件についてうすうす何かを感づいてるんなら、その危険さも予想できるんじゃないのか?」
「あの、ナガヌマさん、そんなことまで言っていいんですか?」
 と、ギルフォードが長沼間を突っつきながら言った。
「かまわん」
 長沼間はギルフォードを一瞥すると、再び3人に向かって言った。
「いいか、おまえたちの本分は事件の解明ではないだろう。もっと他に取材することがあるんじゃないのか? 口蹄疫や原発事故のような大規模災害で、被災者がどのような思いをしたかを考えたら、このウイルス禍でも辛い思いをする人が大勢出てくるはずだ。いや、既にいるだろう。確かにそういう取材は派手ではないし、辛いだろうがな、そういう人たちの声を届けることも必要じゃないのか」
 一見暴力団風にも見える長沼間に、もっともなことを言われて3人は返す言葉もなく黙り込んでしまった。美波に至っては、完全に毒気を抜かれていた。その様子を見ながら富田林は「ほう」と感心したように言った。

 事情聴取を終えたギルフォードたちは、センター長室に集まっていた。高柳が言った。
「いや、長沼間さんがあんなに熱血とは驚いたね」
「熱血ですよ、彼はね。聞くだけ聞いて言いたいことだけ言ったら帰ってしまいましたが」
 と、ギルフォードが言った。なんとなく嬉しそうだった。
「ところでジュン、ミナミさんの話に出てきた彼ですが、以前君が言ってた男ですね」
「間違いないと思います」
 と、葛西がきっぱりと答えた。
「多美さんが亡くなる日、僕が一人で聞き込みをしていた時に、偶然極美を見つけて追いかけた時に妨害した男です」
 すると富田林が腕組みをしながら尋ねた。
「そいつの顔は見たのか?」
「いえ、僕が極美に追いついて彼女の腕を掴んだときに背後から声をかけて来たんです。それですぐに振り返ることが出来なかったのですが、ものすごい殺気を感じました。極美には隙をついて逃げられ、咄嗟に彼女を追おうとしたら、そいつが言ったんです。そんなことをする暇があるのか、今大事な人が大変なんじゃないか、って」
「多美山さんが危篤なのを知っていたということか」
「はい。その時に急いで背後を見ましたが、既に人ごみに紛れていなくなっていました」
「なんだ、忍者みたいなやつだな」
「ただ、声のほかにもう一つ手掛かりがあります。調書にも書いてますが、極美は男のことを『ヒロキ』と呼んでいました」
「だが、偽名の可能性もあるのではないかね」
 と、高柳が問うた。葛西が頷くと答えた。
「はい。十分に考えられます。ただ、偽名と言えど、そいつが名乗っている限り、そいつへの手掛かりになることには変わりありません」
「それに、美波美咲が彼の顔を見て覚えていますわ」
「彼女の記憶をもとに似顔絵を作成するよう手配します」
「ちょっと待ってくれ」
 と、富田林。
「そいつは極美とかいう女とつるんどるんだろ? その女を見張っとったらそいつが現れるんじゃないとか?」
「それが、泊まっていたホテルを出てからの彼女の足跡が途切れたんです。サンズマガジン編集部にも帰っていないということで、失踪したかと思われていました。ミナミサ・・・美波さんの証言で生存は確認されましたが」
「極美さんの保護も考えないといけませんわ。今までの例から、用済みになった時に消される可能性があります」 
 と、紗弥が言った。そこまで予想していなかった葛西は、紗弥をまじまじと見て訊いた。
「それは、駅で死んだ男のようにですか?」
「いえ、むしろ、それこそ失踪という形を取るのではないかしら。私ならそうしますわ」
 紗弥に続いてギルフォードが言った。
「もし、ヒロキという男がタケシタにウイルスを感染させたとしたら、彼がウイルスを所持している恐れがあります。ナガヌマさんの言うように、もし、ミナミさんに感染容疑をかけるつもりでタケシタに感染させたとしたら、かなりタチが悪いです。ユウキ以上の危険人物かもしれません」 
 それを聞いて、いままでうずうずしていた富田林が立ち上がった。
「うかうかしておられん。葛西、行くぞ!」
「はい!」
 富田林が言うなりセンター長室を飛び出したので、葛西は急いで後を追った。しかし彼は律儀に「失礼しますッ」と、ドアの前で一礼して駈け出した。

 赤間と小倉は、ガラス窓を隔てて美波と話し合っていた。
「たしかに、あのおっさんの言う通りなんだけどなあ、だからって、糸口はどうすんだよ」
「私はあきらめないからね」
「ミナちゃんってば」
「ほんとにもう、さっきあれだけいわれたじゃん」
「ちがうよ。あの男のことはあきらめる。ホントに感染させられちゃ敵わないもん。でも、サイキウイルス事件自体を追うことは禁じられなかったじゃない。私は私の疑問を追いかけたいの」
「あ~あ、やっぱりな」
 小倉が言い、赤間がため息をついて美波を見た。
「でも、何にしろ、ここから出られなきゃ、どうしよーもないわ」
 美波はそういうと、どさっとベッドに寝転んだ。
「だけど、あの刑事さんと再会出来てよかった」
「あの、立てこもり現場で守ってくれたとかいう?」
 赤間が怪訝そうな表情で言うと、小倉が少し不愉快そうに訊いた。
「あの、質問していたメガネの優男?」
「ちがうよ。その横にいたでしょ。ちょっとコロッとした感じの可愛い刑事さん。たしか、富田林とか言ったわね」
「ええっ、うそやろ」
 赤間と小倉が本気でこけそうになりながら驚いた。その頃、富田林は大きなくしゃみを3連発していた。

 由利子は、飾り山を数か所見学したあと、予定通りいくつか店をまわって帰路についていた。両手には戦利品を下げている。彼女は駅に向かうため地下街を歩いていた。
「あ~、遅くなっちゃった。アレクに知れたら大目玉くらっちゃいそうだよ」
 由利子は時計を見ながらつぶやいた。本屋で長居をしすぎたのだ。
「店内にいると、外の暗さがわからないからなあ。ましてや地下街だし。駅からタクシー使った方がいいかな」
 と言いながら由利子は立ち止まって時計を見た。今なら急行電車に間に合いそうだ。由利子は足早に歩こうとした。その時、背中になにか金属のような硬いものが当たるのを感じた。
(銃?)
 由利子はギクッとしてふり返ろうとしたが、間髪入れずに背後で声がした。
「おっと、動くんじゃない。そのまま前を向いてゆっくり歩いて」
「だ、誰?」
「聞こえた? 歩いてよ」
 由利子は仕方なく歩きはじめた。
「いいかい、こっちを見るなよ」
 男はそういうと、由利子の横に並んだ。横とはいえ、正面を向いたままの由利子には見えない絶妙な位置で、傍からは由利子をエスコートしているようにも見えた。
「歩いたから質問に答えて。誰?」
「おまえの親友を奪った男さ」
「ゆう・・・き? まさか」
「こんなところに居るはずがないってか? ちょっとこっちの方に用があってね」
「美葉は?」
「とあるところで留守番してるよ。念のため逃げないように素っ裸でベッドに縛り付けといたけどね」
「ひどい・・・」
「くっくっ、縛り方もちょっと工夫させてもらったよ」
「美葉は、美葉は無事なの?」
「あ~あ、無事だ。毎晩僕に抱かれてよがっているよ」
 それを聞いた由利子は頭に血が上り体が震えるのがわかった。
「きっ、きさま・・・!」
「おっと」
 結城はそういうと、由利子の背中に当てた金属の得物をさらにぐいと押し付けた。
「女性がそんな言葉づかいをしてはいけないなあ」
「指名手配犯が何の用よ」
「いやね、君の姿を見つけたんで、美葉が僕のモノになったって教えてあげようと思ってね。でもまあ、指名手配さてれるんなら長居は無用か。これで失礼するけどね、警察なんかに知らせちゃだめだよ。僕がウイルスを持っているってことぐらい知ってるだろ? もし、こんな地下街でそんなものを撒いたらどうなるか、予想できるよね。それに、僕が帰らなかったら、美葉が死んじゃうよ。だって動くたびに縄がさ、食い込んでいくんだから」
「この卑怯者! 腐れ外道・・・!!」
「また下品な言葉づかいをしたね。お仕置きだ。立ち止まったり声を出したりしたら・・・わかってるね」
 と言うと、結城は由利子のわき腹から肋骨の隙間に獲物を押し付けてひねった。由利子は声を出すまいとしたが、激痛につい声が漏れた。
「・・・ッ・・・ぁく・・・」 
「くくっ、いいねえ。じゃ、ご褒美だよ。1時間だ。1時間経ったら通報していいよ。フライングして僕が捕まるようなことになったらその場でウイルス撒くからね。じゃ、僕が去ってもしばらくは振り向くんじゃないよ」
 結城が言い終わると由利子の背中に突き付けられた金属の感触と人の気配が消えた。由利子は悔しさと恐ろしさとわき腹の痛みで全身が小刻みに震え、額から脂汗が流れているのがわかった。彼女は気力だけで立っていたが、結城の気配が消えるとともに、そのまますとんと膝から崩れ落ちた。
「ちくしょぉお~~~ッ!!」
 由利子は人前もはばからず叫んだが、その声はかすれていた。由利子はそのまま目の前が真っ暗になって気を失った。通行人たちが驚き、数人が由利子の方に駆け寄った。

 

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1.攪乱 (7)バイ=ブロウ(By-blow)

 由利子が目を覚ますと、横にギルフォードが座って心配そうに見ていた。その後ろでは紗弥がまた心配そうな表情で立っていた。
 由利子は記憶が混乱しており、戸惑った表情をして順繰りに二人を見た。ギルフォードは心配と安堵の入り混じった表情を浮かべて言った。
「大丈夫ですか?」
「アレク、私・・・」
「ここは市内の救急病院です。君が地下街で倒れたので救急車で搬送されたんですよ」
「倒れた? 私が?」
「君は、意識を失う前に、ジュンと僕に知らせてくれと、駆け寄ってくれた通行人の人に伝えたんだそうです。それで、その人が救急の人に伝えてくれたので、僕が駆けつけることができました。ジュンももうすぐ来ると思いますよ」
 ギルフォードの説明を聞いているうちに、由利子の記憶がだんだんと戻ってきた。由利子はガバッと半身を起して言った。
「今何時!?」
「もうすぐ8時半ですが」
「1時間過ぎてる・・・」
 由利子はぶるっと身震いすると、続けて言った。
「あいつ! あいつがいたのよ、結城が!」
 思いもかけない男の名前を聞き、ギルフォードは驚いて訊ねた。
「ユウキ? あの男に会ったのですか? 一体どこで?」
「アレク、私悔しい・・・!!」
 由利子が怒りに身をわななかせながら言った。ギルフォードは由利子にただならぬことが起こった事を察知して、そっと彼女を抱擁しながら言った。
「大丈夫です、もう大丈夫ですよ、ユリコ」
 由利子はよほど動揺していたのだろう。ギルフォードの腕の中で、むしろ安心したように心中を吐露した。
「恐かった。恐くて何も出来なかった。悔しくてたまらなかったのに、それ以上に怖かった・・・」
「ユリコ、先ず落ち着きましょう。説明してくれないと、僕たちには何が何だかわかりませんよ」
 ギルフォードが困って言った時、葛西が息せき切って駆け込んで来た。
「由利ちゃん大丈夫?! 何が・・・」
 そこまで言ったところで、由利子がギルフォードと抱き合っているのを見て、一歩引いてから固まった。
「ゆ、由利ちゃん、いつの間にアレクとそんなことに」
 由利子が我に返ってギルフォードからパッと離れ言った。
「違ーーーう!」
「違います!」
 と、ギルフォードもほぼ同時に言った。
「大丈夫、いつものハグですわ。いい加減慣れてくださいませ」
 葛西はいきなり背後か声がしたので飛び上がって驚いた。
「さ、紗弥さん、何時の間にここに?!」
「失礼ですわね。最初からいましたわよ」
 と、紗弥が珍しく少しむっとした表情で言った。
 30秒ほど遅れて入って来た九木は、病室内の妙な空気に気付いて軽く肩をすくめた。

 頼れる者たちの顔を見て、何とか落ち着きを取り戻した由利子は地下街での出来事を話した。
「結城が地下街に・・・」
 と、葛西が言った。
「お尋ね者のくせにいったい何をしに来たんだ。まさか、また何か仕掛けるために・・・?」 
 すると、九木がうむと頷きながら言った。
「祭りもあることだから、可能性はあるね。警備をさらに厳重にしたほうがいいだろう」
「ミハを置いて、捕まる危険を冒してまで来たのですから、よろしくない用事があったんでしょうケド。それでユリコ、ユウキはウイルスを持っているとはっきりと言ったんですね?」
「ええ。真偽のほどはわからなかったけど・・・」
「それで、騒げばウイルスを撒くなどと言われれば、言うことを聞かざるを得ないでしょう。しかも、ミハを人質にとられているならなおさらです。ユリコ、そんなに自分を責めちゃいけませんよ」
「でも、やっぱり悔しい。ひょっとしたらあの時結城を捕らえることが出来たのではと思うと・・・。あいつの言うなりにしか出来なかった自分がふがいなくて、ふがいなくて・・・」
 と、由利子は膝の上で握りしめた両拳を震わせながら言うと、唇を噛んだ。それを見て九木が諭すように言った。
「篠原さん、君は警官じゃないんだ。素人が下手なことはするべきじゃない。君の判断は間違っていなかったと思うよ」
「九木さんの言うとおりだよ、由利子さん」
 と、葛西が相槌を打って言った。
「それにしても、1時間過ぎたら通報していいとか、ふざけたヤローだ。捕まらない気満々で、なんかむかつくな」
「なにがしかの自信があるんだろうな」
 と、九木が言った。
「移動も捕まるリスクの高い飛行機は避けるだろうが、新幹線を使えば、かなり遠くまで逃げ切れるだろう。その後でローカルバスなどに乗られれば、行先を特定するには難しくなる。指名手配されていても、もし容貌が変わっているとしたらなおのこと、発見されにくくなっているだろうからね。篠原さん、ヤツの顔は見ることが出来たかな?」
「あいつが横に立った時になんとか横目使って確認しようとしたんです。それで、よくは見えなかったし、眼鏡とマスクで顔を隠していたけど、結城に間違いないと思います。でも、ずいぶんと年をとっているような感じだったなあ」
 由利子がそう言うと、今まで黙っていた紗弥が口を開いた。
「ひょっとしたらですが、誰も自分に気付かないと言うことを試しに来たのではないでしょうか?」
「え? そんなことで?」
「ええ。他にも用件があったのかもしれませんが、指名手配中の人間は、普通用心して街中を歩きまわることは避けるのではないでしょうか。それなのに、地下街でわざわざ由利子さんに近づくような大胆な行為に出た」
「なるほど」
 紗弥の意見に九木が納得して言った。
「何年も逃亡していた指名手配犯が逮捕後の調べで、街中に出没していたり、ともすれば潜伏していたなんてこともありますからな。犯罪者特有の心理なんだろうが」
「では、ひょっとしたら、遠くに逃げたと思わせて、意外と近くにいるという可能性もあると言うことですか」
「まあ、それはわからんがね、由利子さんに地下街の防犯カメラを見て、現在の結城の姿を探してもらいたい」
「また、モニターとにらめっこするんですね」
 と、由利子がげんなりして言った。
「それにしても、由利ちゃん、大丈夫なの?」
「誰が由利ちゃんだっ!」
「ああ、いつもの反応だ。良かった」
「なんか、お約束が成立してますね」
 と、ギルフォードがやや笑いながら言った。
「気を失ったのは、極度の緊張が解けたからだろうと言うことでした。わき腹にちょっと打撲痕があるそうですが、特に問題ないそうで、目が覚めたら帰っても大丈夫だろうということでした」
「わき腹に? 由利ちゃん、あいつになにかされたの?」
 ギルフォードの説明を聞いて葛西が再び心配そうに言ったので、由利子は安心させようと答えた。
「何か金属の棒みたいなもので小突かれたんだ。最初、銃かと思ってビビっちゃったよ。めちゃくちゃ痛かったけど、今は大丈夫だよ」
「ナガヌマさんの部下やミツキもユウキの持っていた武器に瀕死の重傷を負わされました。ユリコ、ホントに無事でよかったです」
「そ、そうだった・・・」
 ギルフォードに言われて改めて由利子はぞっとした。葛西はそれを聞いてさらに心配そうに言った。
「あの、アレク、あいつが由利子さんにウイルスを感染させたなんてことはないですよね」
 由利子はぎょっとしてギルフォードの方を見た。ギルフォードは葛西の質問に答えた。
「そのつもりなら、こっそりと近寄ってウイルスに曝露させるでしょう。わざわざ近寄って正体を明かし、その上ウイルスをばら撒くという脅しをかけたということを考えたら、ユリコにウイルス感染させるつもりはなかったと思いますが・・・」
 それを聞いて葛西は少し安堵したが、ギルフォードはさらに続けた。 
「ただ、ウイルス所持をしている男と接触したのですからまったく可能性がないとは言い切れませんので、しばらくは様子を見ることになるでしょう」
「じゃあ、私も隔離されちゃうの?」
「その必要はないでしょう。もっとも、近日中に高熱を出すようなことがあれば、念のため隔離されることになるでしょうけど」
「冗談じゃないわ。絶対熱なんか出さないから!」
 (あんの疫病神!)と、由利子は心の中で結城を罵った。
 未だ心配を払拭され切ってない葛西に、事と次第を把握した九木が言った。
「葛西君、くよくよしても仕方がないだろう。それよりやつの望み通りにしてやろう。本部に連絡して急いで広域緊急配備をかけるよう要請してくれ」
「はい!」
 九木に言われてすぐに電話をかけ始めた葛西を見ながら、由利子は言いようのない不安を感じて無意識に両手を握りしめた。

 由利子は結局ギルフォードに送られて帰宅した。
 葛西が送りたがったが、今朝からの集団感染死事件や美波美咲の証言、そして結城出現と問題事項の目白押しで、ギルフォードに一任せざるを得なかった。二人がことを急いでいるのは、結城の変貌故であった。
 由利子はあの後、対策本部のデータベースに転送された地下街の防犯カメラの映像を確認した。
「あ、居たっ! こいつが結城よ」
 由利子が結城と遭遇した時刻前後の地下街の映像を見ながら由利子が言った。葛西が驚いて言った。
「早っ。もう見つけたんですか? まだ5分と経っていませんよ」
「しかも、この人ごみの中で? 聞きしに勝るだな」
 と、九木も感心して言った。しかし、それ以上に由利子が結城と確認した男を見て誰もが驚いた。
「ええっ? これが結城? 九木さん、これは・・・」
「うむ、マスクとメガネのせいもあるかもしれんが、とても手配書と同一人物とは思えんな」
「20歳くらい老けて見えます。ユリコ、よくこれが結城だとわかりましたね」
「これは急いで手配書をつくりかえないと!」
「うむ。篠原さん、お疲れのところ、ご協力感謝します。君を脅したことを、結城に後悔させてやりますよ」 
 九木が由利子に向かって言った。

 帰りの車中、由利子は予想通り、ギルフォードから懇々と諭される羽目になった。
「君のことだから、きっと僕たちのためにお祭りの下見に行ったんだと思いますが・・・」
 ギルフォードは前置きしてから続けて言った。
「無事だから良かったものの、最悪のケースも考えられました。実は・・・」
 ギルフォードは、由利子に今日美波美咲から聞いた話をした。
「え? 今日の集団感染死事件が誰かが意図的にやったかもしれないてこと?」
「そうです。犯人が結城だとは思えませんが、奴が市内に姿を現せたというのは、偶然ではないかもしれません」
「・・・」
 由利子は言葉を失った。ギルフォードは、これ以上ないくらいに真剣な表情で由利子に言った。
「いいですか。これからは絶対に単独行動はしないこと。必ず僕かジュンかサヤさんか、あるいはそれに相応する信頼できる人に同行してもらって、帰りも玄関ドア前まで送ってもらうんですよ」
 道中、由利子はギルフォードから延々と口を酸っぱくして言われ続け、しまいには辟易してしまった。
 ギルフォードは、言った通りにドアの前まで送ると、由利子に荷物を渡して言った。
「これで全部ですか」
「ええ。荷物まで持ってくれてありがとう」
「しかし、ずいぶんと買い込んだものですね」
「いや、まあ」
「無くなったものとかは?」
「いえ、大丈夫です」
「ホントにこの国の人たちは立派ですね。街中で人が倒れても、誰も荷物を持って逃げる不届き者が居ないなんて」
「運が良かっただけだよ。不届き者は何処の国にでもいるって」
 と、由利子は言ったが、ギルフォードに言われて少し誇らしく思った。
「あ、そうだ」
 と、ギルフォードは去り際に振り向いて言った。
「こんど、ショッピングに行くときは、サヤさんも誘ってあげてください。彼女、なかなか自分からそういう時間を持とうとしないので」
「え? そうなの? いつもおしゃれな服着とおやん?」
「ほとんどネット通販みたいです」
「そっか。うん、わかった。今度声かけてみるよ」
 由利子が快く答えると、ギルフォードは安心したように笑って「ありがとう」と言い、もう一度手を振って去って行った。

 由利子は部屋に入ると荷物をその辺に置き、そのままベッドに倒れるようにして仰向けに横になった。
 地下街で結城に襲われたことと、その後モニターとにらめっこをしたせいで、疲労度は日頃の数倍になっていたのだ。猫たちが心配そうにやってきて、由利子の両肩あたりにそれぞれが座った。
「ああ、遅くなってごめんね。すぐにご飯をあげるからね」
 と、由利子は2匹に言ったが、ひょっとしたらこの子らに会えなくなったかもしれないと思うとぞっとして身を起こした。それから2匹をぎゅっと抱きしめた。2匹は訳が分からずジタバタしていたが、由利子は不意に彼女らを解放し、再びバタンと仰向に倒れた。
 数分後、由利子は大儀そうに起き上がった。
「シャワー浴びないと気持ち悪い・・・」
 それを見て、猫たちが甲高い声で鳴きだした。
「ああ、ごめんごめん、すぐにご飯あげるって言ったっけね」
 由利子はそういうと立ち上がった。時計を見ると時間は既に夜11時を過ぎていた。由利子はえさをやる前にテレビをつけ、チャンネルをニュース番組に合わせた。考えたら、今日の昼にニュースを見て以来、ネットニュースすらチェックしていなかった。NS10は終板に近い時間なので、11時ごろから始まるニュース番組にした。つけるとすぐにサイキウイルス関連のニュースが眼に飛び込んできた。
「今朝、F県K市で6人がサイキウイルスに感染した事件ですが、6人目の男性の死亡が確認されました。これで、サイキウイルス関連の死者の総数は31人となりました」
「ああ、やっぱり死んじゃったなあ・・・」
 と由利子はつぶやいた。ニュースは朝の患者搬送の映像や、感対センターの静止画等を絡めながら進んだ。
「死亡したのは最後に死亡されたFさん21歳男性を含め、Aさん22歳男性、Bさん21歳女性、Cさん21歳男性、Dさん20歳女性、Eさん16歳女性の6名です。なお、感対センターでは今回の集団感染死について、密室内での感染によるもので、これが感染爆発につながる可能性は低いという見方は変えておらず、感染者の所属する大学や高校の閉鎖はしないとしながらも、感染者の交友関係から、感染経路や新たな感染者の有無を調査する方針としています。次のニュースです。先ほど国道○○号線トンネル内で起きたトレーラー事故による火災ですが、まだトンネル内に十数台の車が取り残されていると見られています。現場の島浦記者からのレポートです」
 画面はトンネル事故現場に変わり、記者のレポートが始まった。深夜故に、火災の状況が赤々と映し出された。
「うわ、大事故じゃん。都心に近いし、サイキウイルス事件は完全に霞んじゃったな」
 由利子は事故の様子を見ながら複雑な気持ちで言った。

 その頃、海の向こうでは、美波美咲隔離の波紋がとんでもない方向に向かい、ある男にそのとばっちりがかかろうとしていた。サイキウイルスでの集団感染死事件があり、感染源が無症候性キャリアの女性らしいという情報が米政府にも伝えられたが、それが無症候性キャリアからの感染が確実であるような内容になっており、さらに無症候性キャリアの可能性がある人物リストとして、ジュリアスと葛西の名が記された文書が添付されていた。何故かメガローチ捕獲チームの資料が紛れ込んでいたのだ。

 ジュリアスは、兄から火急の用ということで呼ばれ、大学での仕事を早めに切り上げ、空港に向かっていた。タクシーを降り、空港に入ろうとしたところでわらわらと防護服の男たちに囲まれた。
”なんだ、君たちは!?”
 ジュリアスは身の危険を感じて一歩後退りながら言った。
”ジュリアス・アーサー・キングさんですね”
 と、リーダーらしき男性が言った。
”フルネームで呼ぶんじゃないよ。・・・だったら、何だい?”
”日本でサイキウイルスの研究に関わっていらっしゃいましたね”
”ああ、確かにそうだが、ウイルス感染防止対策は十分にやっていた。僕が感染している可能性はほぼ0だ。体調に関しても、何の問題もないよ”
”ドクターは、日本でサイキウイルスに感染した学生が6人死んだ事件を御存知ですか?”
”もちろん。朝のニュースでも見たし、日本の友人からメールももらったけど?”
”無症候性キャリアからの感染と言うことも?”
”ああ、聞いてるさ。僕らはそんなことありえないと思っているけどね”
”残念ながら、あなたを無症候性キャリアの恐れがあるとして、隔離をするよう要請がありました”
”なんだって? そんな馬鹿なことがあるもんか。僕はウイルスに曝露された覚えなんか一切ないぞ!”
”それは、これから行った先で説明してください。私たちはあなたの身柄を確保し移送するよう命令されているだけです。抵抗すれば、強制的に身柄を確保することになりますよ”
 男は言葉こそ紳士的だったが、態度や言い方にかなり威圧感があった。ここで抵抗すれば、間違いなく拘束されてしまうだろう。万が一逃げ切れたにしても、疑いの晴れない限り日本に行くことは不可能である。ジュリアスは出来るだけ穏便に厄介ごとから逃れようと、ポケットのスマートフォンを指さして言った。
”情報に食い違いがあるようだ。ちょっと兄に連絡をとらせてくれよ。CDCの職員なんだ”
”その必要はありません”
 そういうと、男はジュリアスに銃口を向けて言った。
”今のあなたは危険人物と言うことになっています。抵抗すると容赦なく撃ちます”
”くそ! あんたたち、保健所の職員じゃないな”
 ジュリアスが鼻白んで言ったその横に、搬送用の小型救急車が止まった。ジュリアスは有無を言わされず車に押し込まれ、そのまま連れ去られていった。

20XX年7月3日(水)
 ギルフォードは朝早くから電話で起こされ、半分寝た頭で枕元の携帯電話を取った。
「はい、ギルフォードです・・・」
”アレックス!"
”クリスか? あのな、こっちは今何時だと・・・”
”すまん。まだ寝ているとは思ったが、大変なことがおこった”
”大変なこと?”
”ジュリーがサイキウイルス感染の疑いで捕まった”
”なんだって!?”
 ギルフォードは一発で目が覚めた。
”そんな馬鹿な!!”
”目が覚めたか?”
”覚めるわ! なんでジュリーが"
”そっちで症状の出ていない女性からの感染者がでただろう?”
”無症候性キャリアの件なら、あくまで可能性の話で、まだそうと決まった訳じゃない。現に俺たちは懐疑的だ”
”私もそう思うが、これでは、確定事項になっているぞ”
”はあ? 何で”
”日本政府からの公文書だ。しかも、ご丁寧に、ジュリアスとミスター葛西の名前が、無症候性キャリアの疑いがある人物として記載されている”
”畜生! 誰がそんなことを書きやがった! あいつらはメガローチ捜索に関わっただけだぞ”
”だが、厚生労働大臣のお墨付きだ”
”めくら判押しやがったな!”
”私はその文書を見て、すぐにジュリアスにこちらに来るように言った。取り敢えずウチで保護しようと思ってな。その途中で白昼堂々、半ば誘拐するように連れ去ったらしい。驚いた通行人からの複数の通報があったようだ”
”なんで、迎えに行かなかったんだ”
”まさか、こんな早く動くとは思わなかったんだ”
”で、ジュリーは何処に連れて行かれたんだ”
”問い合わせているんだが、極秘事項とやらでなかなか教えてくれないんだ”
”なんでだよ”
”誘拐されてテロに利用される可能性アリだそうだ。こっちは天下のCDCなんだぞ”
”炭疽菌テロのことがまだ尾を引いているのか”
”そんなことはないと思うんだが・・・、って、あれは結局軍の内部漏洩だっただろーが!”
”とにかく、生きてはいるんだろうな”
”当たり前だろう。殺す理由なんかない。だが、行動の早さから、多分軍がからんでいる”
”何?”
”多分誰かさんの嫌がらせだろうな”
”なんだって?”
”カワベサンの時に失敗したからな”
”じゃあ・・・”
”たぶん、あそこにいる”
”あんのクソヤロー!! ”
”おいおい、早朝に大声はよせ。ご近所から苦情がくるぞ。それに、これは私の想像にすぎないからな。怒るのは確定してからにしてくれ。とにかく、ジュリーの居場所がわかったら教えるから、やきもきして待ってろ。じゃな”
 と、クリス・キングは一方的に電話を切った。
”待ってろだとーーー!?”
 ギルフォードは電話に怒鳴ったが、すぐに思いなおして言った。
”たしかに、待つしかないか・・・”
 一方、電話を切ったキング兄は、ため息をついていた。
”おまえが行方をくらました時、私たち兄弟は探し回ったんだ。たまにはおまえもやきもきしていろ。・・・しかし、今回も私はやきもきするほうなのか。損な役回りだよ、まったく”
 朝5時に叩き起こされたギルフォードだが、当然もう一度寝る気にはなれなかった。彼は落ち着きを失って室内をウロウロした。ギルフォードの声で目覚めた美月も、訳の判らないままギルフォードの後をついてウロウロしていた。

修正:感染死した人の名まえは出さないよなあと気がついて、仮名にしました。(9月23日)
   (死亡者名簿には名前を掲載しています)

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1.攪乱 (8)はばたく悪夢

後半、虫の嫌いな方はご注意ください。

 由利子は、朝からギルフォードの様子がおかしいのに気付いて、紗弥にこっそりと尋ねた。
「ねえねえ、アレクってば、なに?あれ。動物園の熊? 何で落ち着かないの? 何故か美月まで一緒にうろうろしてるし」
「それが…」
 紗弥が知っている限りのことを由利子に説明した。
「ええっ、ジュリーが?」
 驚いた由利子が少し高めの声で言ったので、ギルフォードがじろりと彼女らを見た。
「しっ、声が大きいですわ」
「ごめん。それにしても、アレクにじろりと見られたのは初めてで、ちょっとびびったわ~。で、もちろん無事なんだよね」
「まあ、感染をしているはずはないし、殺されるはずもないですから、大丈夫と思いますわ。多分、美波さんの無症候性キャリアの件が誤解とわかれば、すぐに無罪放免になると思いますよ」
「で、どうやったらミナミサがシロだって証明できるの?」
「嶽下友朗の本当の感染源を究明することです。それに関して葛西さんたちが動いているはずですわ」
「そっか。でも急がないと、ジュリーの来日が遅れるだけだよね。アレクがまたいじけちゃうじゃん」
「すでに、そうとういじけてますわよ」
 と、紗弥が言ったが、どことなくゲンナリしているように思えた。彼女らの会話が聞こえたのか、ギルフォードは仏頂面のままリモコンでテレビをつけると、どっかりと自分の椅子に座った。ギルフォードが所定の位置に収まったので、美月も自分の場所に戻って寝そべった。それを見た紗弥が言った。
「教授、お仕事…」
「気分転換です。トンネル事故、気になるでしょ」
「あ、そうだった」
 と、由利子が思い出したように言った。テレビは朝のワイドショーの真っ最中で、画面に昨日のトンネル事故の映像が映り、由利子たちはそちらの方を見た。トンネルからはまだ煙が出ており、その中からレスキュー隊が遺体らしきものを運び出していた。
「うわあ、現在死者重傷者合わせて20人くらいって、すごいことになってる・・・」
「まだまだ増えそうですわね」
 二人はつい、画面の事故現場の映像に釘付けになっていた。

 その頃感対センターでは、美波美咲を嶽下友朗から救ったという男の似顔絵を描く作業が行われていた。県警の似顔絵担当の警察官は30代半ばの男で刑事部鑑識課に所属する波平(なみひら)という男だった。
 しかし、その似顔絵制作の現場は一風変わった様子だった。感染の疑いが濃いとされる美波は病室に隔離された状態なので、やむを得ず窓越しでのやり取りとなったのである。その様子に興味津々で近寄った高柳センター長は、九木から波平がこれまで描いたという似顔絵集を見せられて驚愕した。
「九木さん、こんな絵で大丈夫なんですか」
「彼の絵による逮捕率は7割を超えているそうです」
「しかし、これは悪意があるとしか…」
「こういう似顔絵は、ただ上手いだけではだめなんですよ。たとえば写真のようにスーパーリアリズムで描いたとします。すると、そのイメージで固定されてしまう。しかし、これは本人の写真ではなく、あくまで目撃者の証言による絵ですから、これが本当に犯人の顔と一致するとは限らない。ですから、彼の絵のように幅を持たせた方がいいんです」
「その理屈は理解出来るんだが、これは…」
「まあ、これを見て警察に抗議の電話を入れてお縄となった犯人が3人ほどいると聞きましたがね」
「これでは怒るでしょうね。で、彼は今まで何人の似顔絵を描いたんですか」
「5人です。彼は比較的最近抜擢されたそうで、今回で6人目となるそうです」
「5人の70%って3.5…約4人ですよね」
「そういうことになりますな」
 と、九木が肩をすくめて言った。
「そのうち3人が自爆で逮捕されたということは…」
「おっと、終わったようですよ。ガラス越しに美波さんが確認をしていますね。見せてもらいましょうか」
 九木が言い終わったその時、病室から笑い声が聞こえた。
「きゃ~ははは。似てる~。似てるけど、イケメンが台無し~」
 その様子を見て高柳が片眉をあげながら言った。
「笑われてますが」
「お墨付きをもらったようですな」
 九木が再び肩をすくめて言った。 

 長沼間が病院の階段を駆け上がっていた。彼は鍛錬のため極力エレベーターを使わないというポリシーを持っているのだが、今日はいつにも増して猛スピードで駆け上がっていた。そのわけは、昨日大手術をした松川の意識が戻ったという報せを受けたからだ。途中、昼食の空き食器を積んだカートにぶつかりかかって「失敬」と誤って駆け去った時、カートを押していた看護師に「通路を走らないで下さい」と注意されたが、そのほかには特に問題なく松川の病室前にたどりついた。
 その前で松川の担当医師が長沼間を待っていた。医師は長沼間の姿を確認すると、一礼して言った。
「長沼間さんですね。松川さんの担当医の占部です」
「松川の容体は? 意識は取り戻したということだが」
「ええ、午前中に目を覚まされました。手術自体は予想以上にうまく行ったのですが、なかなか目覚めないので心配しましたよ。容態が安定したようなので、ICUから個室に移しました。今後の経過についてはまだ油断は出来ませんが、短時間ならお話しすることを許可しましょう。普通なら、ご家族以外の面会は許可しないところですが、重要な捜査のためと言うことで許可しました。ただし、5分以内に済ませてください」
(また5分かよ)
 長沼間は思ったが、大手術後なのだから仕方がないと、素直に従うことにした。
「わかった。今からいいんだな」
 長沼間はそういうとさっさと病室内に入ろうとしたが、医師が止めた。
「あっ、そのまま入らないで! マスクと帽子とガウンを着用してください。入り口に用意してありますので」
「ああ、そうだったな」
 長沼間は、言われた通りの装備をまとうと、部屋に入った。
 部屋に入ると、機材に繋がれ酸素マスクをつけた松川の姿があった。松川は、長沼間が来たのを察して言った。
「すみません、頭をあまり動かせないので…。長沼間さんご心配を…」
「謝ることはない。要らんことに体力を使うな」
 長沼間は松川が続けて謝罪をしようとするのを止め、ベッドに近づくと、生体モニターの方を見た。
(医者の言うとおり安定しているようだな)
 長沼間の表情に一瞬安堵の色が浮かんだが、またすぐに強面に戻って言った。
「何か思い出したか?」
「いえ、まだ…。先生は無理せず自然に思い出すまで待つように言われたんですが、そんな悠長には出来ませんから…」
「いや、ムリはするな。2・3日はゆっくり寝ていろ」
「でも、記憶力はだいぶ回復したんです。午前中、両親と婚約者の詠美が来たことをちゃんと覚えているんです。まだぼんやりとですけど」
「そうか。良かったな」
 長沼間がこころなしか安心したような表情で言った。
「じゃ、おれは帰るが、何か思い出したらいつでもいい、俺に知らせろ。些細なことでもいい、深夜でもかまわん」
「知らせるって、この有様で、どうやって?」
 と、松川は自分の情けない状態を目で追いながら言った。
「ナースステーションの連中に俺のケータイ番号を教えておく」
「わかりました」
 松川が答えた時、すでに長沼間はドアに向かっていたが、彼はドアを開けながら後ろ向きのまま言った。
「くれぐれも無理をするなよ。病状が悪化されちゃ元も子もないからな」
 長沼間はそう言うとそのまま出て行った。
「長沼間さん…」
 松川はドアの閉まる音を聞いてから、感慨深げにつぶやいた。そして、天井をじっと見つめたあと、目を閉じた。

 祐一は困っていた。あの月辺城生がやたらと自分に絡んでくる上に、タミヤマリーグにもちょっかいを出してくるからだ。
「いつもごめんよ。なんか君の優等生面を見てたらイライラしちゃってさー。悪気はないんだ」
 帰り道、城生が祐一たちの後を追ってきて言った。それに苛ついた彩夏が不機嫌そうにつんとして言った。
「あんた、いつもそう言って帰りに付きまとうわよね」
「いやだなあ。付きまとうなんて人聞きの悪いこと言わないでよ。僕は君たちの仲間になりたいだけだよ」
 そううそぶきながら後ろをついてくる城生に、彩夏が立ち止まって振り返ると、真顔で言った。
「あんた、何をたくらんでいるの?」
 城生の顔から一瞬笑顔が消えたが、すぐにそれを取り戻し、くすくす笑いながら言った。
「たくらむって何をさ? 僕は純粋に君たちに興味があるだけだよ。ねえ、田村君」
 いきなり城生が自分に振って来たので、勝太は驚いた表情で自分を指さした。
「え? ぼく?」
「そう、君、相変わらず遠慮がちにしてるね。君らのそういうグループ構成の特殊さに興味があるんだ。優等生と学年一かわいいって評判の女子と、地味で目立たないメガネ君と落ちこぼれ男子の4人で何の共通性もメリットもなさそうな君らを繋ぐものは何かって」
「へえ、あんた知らないっていうの?」
 彩夏がシニカルな口調で言った。
「あんたが私たちのことをみんなに聞いて回っているの、私が知らないとでも思ってるの? 噂はもう知ってるんでしょ」
 彩夏にいきなり核心に触れられて、城生は明らかな動揺を見せて答えた。
「あ、ああ、あくまで噂ということでだけど」
「それが私たちを結びつけてる共通点よ。噂は正確ではないけれど、あながち間違ってるわけでもないから」
「錦織さん、そんなこと言って・・・」
 と、勝太がオロオロしながら言ったが、他の2人は黙ったまま彩夏を見守っていた。
「いいわよ。私、この人が西原君に付きまとうのが許せないの。じゃ、月辺君、理由がわかったからもう私たちに付きまとわなくてもいいわよね。それから私を『かわいい』でくくらないで。これでも学力は西原君と同等のレベルなんだから。じゃ、ごきげんよう♡」 
 彩夏は笑顔で言うと、すぐにつんとした表情に戻ってさっさと城生に背を向けて歩き出した。良夫は既に彩夏より先を歩いていた。勝太が慌てて後を追った。残った祐一は、城生に向かって少し気の毒そうに言った。
「ごめん。錦織さん言い過ぎだって僕も思うよ。だけど、そういう訳だから、君は僕らのリーグには入れないんだ。ごめんよ」
「ふん、君のそういう甘いところが僕を苛つかせるんだ。行けよ」
 城生はそういうと、祐一に背を向けた。祐一が戸惑っていると、良夫の呼ぶ声が聞こえた。
「西原くーん、早く来ないとバスがくるよ!」
「わかった」
 と応えると、祐一は城生に「じゃあな」と言って駈け出した。城生は悔しそうに下唇を噛んでいたが、しばらくしてゆっくりと歩き出した。
「小賢しい。・・・あいつ邪魔だな」
 城生はそういうと、祐一たちを乗せ走り去って行くバスを一瞥した。

「あー、イライラするっ!」
 バスの中でいきなり彩夏が言ったので、他の3人が驚いて彼女を見た。良夫が不機嫌そうに眉間に皺を寄せて言った。
「どうしたんだよ、とーとつに。バスの中で恥ずかしいじゃないか」
「あの、さっきの馬鹿よ」
「バカ? って、月辺君のこと?」
 と、今度は勝太がおずおずと訊ねた。
「その馬鹿よ。西原君と友だちになりたいなら素直に言えばいいのよ。ストーカーみたくまとわりついて、うっとおしいったらありゃしない」
 祐一は思ってもいない指摘をされて驚いて言った。 
「あいつが僕と?」
「あんた、そんなことに気付かないの? はあ~、鈍いお人好しなんて最悪!」
 と、彩夏が言ったので、良夫がムッとして言った。
「それが西原君のいいところなんだよ。性格の悪い君にはわからないだろうけどさ」
「性格ならあんたの方が悪いわよ」
「ああ?」
「また始まった」
 二人の言い合いが始まったので、祐一が肩をすくめて勝太に耳打ちした。
「二人とも自分たちこそツンデレだと気付くべきだよな、田村」
 祐一に言われ、勝太は大きく首を縦にふった。

 松川は、寝付けないでいた。
 そろそろ消灯時間も近づき、身動き出来ないので特にすることもなく、さっさと寝てしまえばよさそうなものだが、妙に眼が冴えて眠ることが出来ない。実は、意識が戻って記憶がだんだんはっきりしていくにつれ、徐々に言い様のない不安が襲って来たのだった。漠然とした恐ろしい予感。思い出すのは危険・・・。しかし、長沼間が言うようにこれは重大なことで、思い出さねばならない。彼は、そう自分に言い聞かせると、不安を振り払うため深呼吸をして、今度こそあの夜のことを思い出そうと天井をじっと見た。頭の中はだいぶクリアになっていた。松川は、自分の記憶力が負傷前の状態近くまで戻っていることを確信した。
 あの時…。

 長沼間から状況確認の電話が入ったのは、武邑が最寄りのコンビニまで夜食とコーヒーを買いに行くと車を出て行ってから15分も経っただろうか。武邑不在のことを知られ、松川は長沼間からしこたま怒鳴られた後、誰かが車の窓を叩いたのに気付き、そちらの方を見た。すぐに結城と気づき、ダレきった気持ちが一瞬で緊張し、結城を捕まえようと車から出てドアを後ろ手ではたくように閉め、駈け出そうとした。その時、後頭部に衝撃を受け、そのまま昏倒した。その後どうした? 殴られた時、結城は何処にいた? 自分を殴ったのは結城か、それとも? …いや、思い出したぞ。自分は車から降りながら結城に声をかけた。結城はその時振り向いたんだ。結城は前に居た。その後自分が身分を告げ理由を言いかけたその時に、背後から殴られたのだ。殴ったのは結城ではない。では、いったい誰が? 殴られて気絶した自分を起こしたのは、武邑だった。意識を取り戻してすぐに腕時計を確認した。結城を確認する前にあくびをした時に何の気なしに時計を見たが、それから2分足らず。ということは、自分が結城を追いかけようとして公用車から飛び出し殴られてから武邑が来るまでほとんど時間が経っていないのではないか? 松川はぞっとした。まさか・・・。
 松川は、手もとのナースコールを押した。もしそうなら、とんでもないことだ。
「どうされました? どこか苦しいですか?」
 松川の呼び出しに、すぐさま看護師が駆けつけてきて、額に手を当てた。松川は緊張した表情で言った。
「いえ、お願いがあります。長沼間が言って帰ったとおもうのですが…」
「はい、携帯電話の番号はお伺いしておりますが」
「至急、来てほしいと電話していただきたいのです」
「わかりました」
 看護師は松川の伝言を受けると、すぐに病室を出て行った。その途中、非常階段の入り口の壁に立つ人影とすれ違った。
 松川は、長沼間が来るのを待つ間不安で仕方がなかった。おのずから鼓動が高鳴ってくる。しかし、その様子がセントラルモニターの心電図に伝わっているはずが、だれも様子を見に来る気配がない。松川は却って不安になった。
 本当に自分を殴ったのは彼なのか、もし、自分たちの部署に”草”が入り込んでいたのなら、果たして長沼間は信用できるのか。松川は数日前武邑が見舞いに来た時の奥歯に物がはさまったような言い方を思い出した。
『じゃあ、長沼間さんは、そんなに長居できないんだ』『それなら安心』
 安心って、いったい何がだろう。 ひょっとして僕はとんでもない思い違いをしているのではなかろうか。そもそも、長沼間さんもケータイで電話してきたんだ。近くにいた可能性だってある。あの時僕は殴られて意識がかなり朦朧としていた。はたしてあの時駆けつけてきた人物は武邑だったのか。ひょっとして、武邑は既に結城を追いかけて行っていたのではないだろうか?…
 その時、ドアが少し開いて何者かが黒い箱を病室内に入れ、蓋を取るとすぐにドアを閉め去って行った。しかし、眼の端でその顔を見た松川は戦慄した。あの時自分を介抱していた筈のそいつが言ったこととしたことを、瞬間に思い出したのだ。
『結城を抹殺するのに邪魔だ。すべては御碧珠(みたま)の御為に』 
 彼はそう言って松川の上半身を抱え上げ再び路面に落としたのだ。その時に再び後頭部を打ち付け、松川は完全に意識を失ったのだった。
「ひっ・・・、ひいっ」
 松川は恐怖におののいてナースコールボタンを押そうとした。しかし、手元にあったはずのボタンが何故か無くなっていた。松川は、血の気が引くのを感じた。その時、ガサガサという音とともに羽音がして、何かが飛び立ち、松川の周囲に黒い影が舞った。

 連絡を受けた長沼間は、再び病院の階段を駆け上がった。目的のフロアに出ると、病院のスタッフが慌ただしく駆け回っているのがわかった。松川に何かあったのかと思ったが、どうも松川の病室とは違う方向のように思われた。長沼間は、近くを通った看護師を捕まえて訊いた。
「何があったんです?」
「あら、早かったですね」
「帰りにもう一度寄ろうと思って、近くまで来ていたんでね。で、出入りでもあるのか?」
「昨日トンネル事故があったでしょ? その重篤な状態の被害者さんがもうすぐ担ぎ込まれるんです」
「って、あんな遠くからか?」
「ウチは、脳外科では定評がありますから、ご家族の方が一縷の望みをかけて遠くから来られることも多いんです」
「松川はほったらかしじゃないだろうな」
「常に誰かが様子を見るようになってますから大丈夫ですよ」
 看護師はそこまで言うと、急いで持ち場に戻っていった。
 その頃、呼び出された医師が、セントラルモニターを見て自分の眼を疑った。画面の一つがオールゼロになっていたのだ。医師は驚愕してその病室に向かって駈け出した。彼は走りながら叫んだ。
「何故、詰所に看護師がひとりも居ないんだ!」

 長沼間が早足で松川の病室に向かっていると、医師が猛ダッシュで彼を追い抜いて行った。松川に何かあった事を察した長沼間はすぐに駆け出したが、松川の部屋を目の前にした時「うわあぁああ!!」という悲鳴が上がった。すぐにそこに駆け込んだ長沼間は、たじろぐ医師の陰で戦慄の光景を目の当たりにした。
 松川は何かから逃れるようにベッドから身体を半分乗り出しており、彼に取り付けられていたコードやチューブ類はことごとく体から外れていた。その半分ずり落ち、さかさまに仰向けになった顔には、大形の蛾が翅を震わせながら張り付いていた。その病室にあるまじき光景に、二人は一瞬呆然としたが、すぐに松川の方に駈け寄った。
「こいつめ、離れろッ!」
 と、長沼間は叫びながら虫を払い、松岡の肩を叩きながら怒鳴った。
「松川!! おい、しっかりしろ、やい、松川ッ!!」
「邪魔です。どいてください。あなたは看護師を呼んで!」
 長沼間の迫力に気圧(けお)され一瞬出遅れた医師が、長沼間に言った。
「すまん!」
 長沼間は、即座にナースコールを手に取るとほぼ怒鳴り声で言った。
「401号室の松川だ。重篤な状態に陥った。すぐ来てくれ」
 その間、医師は松川を診るとすぐに心臓マッサージに取り掛かった。
「くそっ、手術は上手くいったんだ! なんで、なんでこんなことに・・・」
「それ以前に、なんであんなものが病室に入り込んでいたんだ!!」
 長沼間は、部屋の隅を見ながら鼻白んで言った。そこには、長沼間が払った勢いで壁に激突した蛾が、弱弱しく翅をばたつかせていた。

「どうです? 美しいでしょう? 目模様がまるで白いオパールのようです。羽化して間もないイボタガですよ。遠慮しないでこっちに来て見てごらん」
 教主は、やや後ろに控えて立っていた月辺城生に言った。
「はい」
 城生は、少し蒼白な緊張した表情で教主の横に立った。

 ここは、碧珠善心教会F支部にある温室で、そこには様々な植物が植えられ、今盛りの花々が美しさを競っていた。そしてそこには様々な蝶や蛾も放たれており、夜である今は、青白いオオミズアオがひらひらと儚げに舞っていた。
「あなたが危惧している彩夏と言う少女ですが、そういう女性は小細工をするほどに懐疑的になるものです。妙な画策はすべきではありません。ただし、私は祐一と言う少年よりも彼女の方が気になります。もし、入心すれば、誰よりも優秀な信徒となりましょう」
「はい。心しておきましょう」
 と、城生は答えたが、どことなくそわそわしている。教主はフッと微かに笑うと訊ねた。
「蝶や蛾はきらいですか?」
「蝶は美しいと思いますが、蛾はどうも…」
「どうして?」
「それは・・・」
「蝶が美しくて蛾は汚いなどと思っていませんか?」
「え、ええ。僕は汚いものは苦手なので…」
「それは、間違いです。たとえばツバメガの仲間は蝶と見まごうばかりか、蝶より美しいですよ」
「え? そうなんですか?」
「ええ。美しい蛾はけっこういますよ。逆もね。それに、昼間飛ぶとか胴が細いとか翅を閉じて止まるとかいう違いも、必ずしも当てはまりません。ほら、向こうに飛んでいるのはシャクガモドキと言ってチョウの仲間ですよ。また先ほど言ったツバメガの仲間は、昼間飛びますので、見た目は全くの蝶です。蝶は蛾の特殊な形態をしたものであって、蝶と蛾の明確な境目はありません。むしろ、蛾の中に蝶が含まれるのです。現に、蝶と蛾を区別しない言語も多くあります。例えばメジャーな言語でいうとフランス語では、蝶も蛾もパピヨンです」
「そうだったのですか」
「日本でも昔はあまり区別しなかったようです。その頃は『かわひらこ』や『ひむし』などと呼ばれ、死者の魂だと考えられていました。蝶が死と再生の象徴とされたのには、幼虫から蛹になり羽化することから、洋の東西を問わず、魂や再生と結びつけられてきました」
「死者の魂…。わかる気がします」
 と、城生はオオミズアオを目で追いながら言った。内心、自分に飛んでこないかと冷や冷やしているようだった。
「オオミズアオは、まるで妖精のようだと思いませんか?」
 そういうと、教主は左手を上にあげた。すると、一頭のオオミズアオがその手に止まった。教主はそれを城生に向けた。城生はギョッとして飛び退いた。
「…おや、やっぱり怖いですか?」
「申し訳ありません。慣れていないもので」
 城生は不意を突かれ、恐縮して言った。必死に平静を保とうとしているようだった。教主は、薄笑いを浮かべながら言った。
「昨夜は、シンジュサンが羽化しました。『ロキ』に渡しましたが、今頃は役目を終えているかもしれません・・・」
 そう言った教主を不安げに見た城生は驚いた。教主は薄笑いをしたまま涙を流していた。

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1.攪乱 (9)フライデー・ナイト・フィーバー

 長い間お休みしていて申し訳ありませんでした。更新を待ってくださった方々、応援コメントをくださった方々、感謝いたします。これからも教授以下愛すべきキャラクターたちの応援をよろしくおねがいします。

20XX年7月5日(金)

 由利子たちは、T神の街中にいた。
 今日は、ギルフォードや紗弥が楽しみにしていた、祭りの山車めぐりなのだ。由利子は目立つ二人を引き連れて、若干得意に思っているのかいつもにまして軽快に歩いている。対して、ギルフォードは若干物足りなさそうに言った。
「ジュンが来れないのは残念でした」
「まあ、平日だし、仕事が仕事なんだし、仕方ないよ。でも、夜の飲み会には来れるようだし」
「あれはジュンの昇進祝いですから、主賓が来なきゃ意味ないです」
「ブツブツ言わない。今日は近場で3カ所ほど見る予定だからね。ほら、1カ所目が見えてきたよ」
 由利子は商店街の広場を指差して言った。その方向を見ると、10mほどの「飾り山」と言われる大きな山車が姿を現した。
「オー、アレがそうですか」
 ギルフォードはそういうと駆け足で近寄った。紗弥も後に続く。
「Fantastic! 素晴らしいです!!」
「きらびやかで勇壮ですわ」
「昔はこれよりでかい10mを超える山を担いでいたそうなんだけど、明治以降、電線が普及したために、飾り山と舁き山に分化したんだって。ここの飾り山は唯一の動く飾り山で追い山の時奉納されるんだよ」
「そうですか。当時の雄姿を見たかったですね」
「神社(※)側を向いたこっちの面を『表』反対側を『見送り』といいます。表には武者物、見送りにはアニメや童話がテーマになることが多いです。Yドームの飾り山のように表に地元球団を持ってくることもあります」
「これは『本能寺の変』がテーマなんですね」
 と、ギルフォードが飾りを見上げながら言った。
「そうです。この裏の見送りの方は、今年話題のアニメ『素戔嗚(スサノオ)』です」
「オー、有名なヤマタノオロチ退治ですね。古事記の中でも僕も好きなお話です。・・・あの美しい若武者は、モリ・ランマルですよね」
「正解。さすが、良く知ってるなあ」
「下の方で勇ましく構えている長身の武者は黒人のようですが、この時代の日本に外国人の家来がいたんですの?」
「織田信長は新しもの好きで、外国のものを積極的に取り入れていたのよ。
 キリシタン弾圧が始まったのは秀吉以降からで、信長の代はむしろ重宝されていたみたいだよ。で、この黒人の家臣は、宣教師が連れていた奴隷で、彼を気に入った信長が宣教師から譲り受けたそうだよ。信長は彼を弥助と名付けて、たいそうお気に入りで行く行くは城を与えるつもりだったみたい」
「へえ、そうなんですの」
「本能寺の変の時も弥助は居合わせて、戦ったものの降伏して、明智光秀に南蛮寺に送られて、その後の記録はほとんど残ってないらしい。一説には故郷のモザンビークに帰ったというのがあるけど」
 由利子の解説に、ギルフォードが感心して言った。
「そうなんですか。意外な歴史ってのがあるんですね」
「弥助にはもっと屈強なイメージがあったけど、この弥助は細身の長身で、なんとなくジュリーに似ているよね」
「まあ、由利子さんもそう思います?」
「そういえば、ジュリーはあれから?」
「特に進展はアリマセン。腹が立つんで僕はそれに関しては考えたくないです。あっち見てきます」
 そういうと、ギルフォードは反対側に行ってしまった。
「ありゃ、地雷だったかな?」
「気にしなくてよろしいですわ。わたくしたちもあちらを見に行きましょう」
 紗弥もそういうとさっさと歩き始めた。由利子は小走りで紗弥の横に並ぶと歩きながら訊いた。
「紗弥さんは、心配じゃないの?」
 すると、紗弥は足を止め、声を落として言った
「ジュリーのことですか?」
「うん」
「詳しくは話せませんが…」
 紗弥は前置きして言った。
「実は、ジュリーの隔離には教授の天敵が関わっているので、もちろん心配はあります」
「天敵?」
「ですから」紗弥はさらに小声で言った。「その説明は勘弁してください」
「う~ん、わかった。ごめん」
「でも、ジュリーが感染している可能性は少ないですし、サイキウイルスについては彼も私たちが知っている以上の情報は知らないでしょう。むしろ、今はCDCなどのサイキウイルス解析チームのほうが詳しいかもしれません。ジュリーの隔離は嫌がらせの範疇でしかないでしょうから、彼自身に危害が及ぶとは考えられません。まあ、監禁先でやきもきしているとは思いますけどね」
「うわあ、紗弥さんアレクみたいな解説」
「ええ、教授もこの程度の判断は当然しているのでしょうが・・・」
「さすがにパートナーのことになると、ってことね」
「そういうことですわね。では、参りましょう」
 そういうと、紗弥は再び「見送り」の方に向かって歩き始めた。

 降屋裕己は教主に呼ばれて控室に向かっていた。
 教主は都内で行われる講演のため2日ほど教団の総本山に戻っていたが、今日はF市内での講演のためF市入りをしたのだった。
 控室を数メートル前にした時。二人の「ナイト」と呼ばれる教団警備員に支えられるようにして、若い男が部屋から出てきた。すれ違いざまに見た男の顔は、焦点が定まっておらず、なにやらブツブツと言っている。
(長兄さまに珠映しをされたんだな。何をやらかしたんだ、あのアンちゃんは?)
 そう思いながらドアをノックすると、ドアがすっと開き白いスーツ姿の女性が彼を招き入れた。部屋では教主が鏡を背にして座り、くつろいでいた。
「長兄さまにはご機嫌麗しく…」
「御足労様です。さあ、こちらに」
 教主は例の人をひきつけずにはおれないような微笑みを浮かべて降屋を招いた。しかし心なしかいつもより楽しそうな様子だったので、降屋はいぶかりながら、教主の前にくると跪いた。
「降屋さん、堅苦しい挨拶は良いですよ。お立ち下さい」
 降屋は促されて立ち上がるなり、訊いた。
「あの、ぶしつけとは思いますが、今連れて行かれた男は何者です?」
「ああ、彼は、撮影禁止としている私の姿をスマートフォンで撮影しようとしたところを、ナイトたちに退去させられたのですが、私は彼からその訳を知りたくてお呼びしたのです」
「携帯電話やスマートフォンの普及により、無断撮影が横行するのは困ったことです。それで、彼の目的は?」
「彼の病気の母親が、私に会いたがっているのに病院から出られないということで、せめて写真ででもいいから会わせたいと…」
「泣き落としですね」
「私はもしそうであれば、お母様に会いに行くこともいとわないと提案したのですが、いろいろ言い訳をして会わせられないと言いますので…」
「どうも怪しいですね」
「はい。それで彼女が問い詰めたところ、」と、教主は隣に立つ白スーツの女性を一瞥して言った。「話題の教主の写真を掲載してSNSのアクセス数を伸ばしたかったという本音を言ってくれました」
「そうですか。警察の犬でなくてよかったですね」
 降屋はそう言ったものの、内心、男の本音を聞き出したのは教主の力だという確信はゆるぎなかった。教主に会った後呆けたようになった者たちを見たことが少なからずあったからだった。この事にはあまりふれない方がよさそうだと思った降屋は、話題を変えた。
「ところで長兄さま、今日は心なしか楽しげなご様子ですが、何か良い知らせでもあったのでしょうか?」
「楽しいことも困ったこともありますよ。楽しみなのは、以前仕掛けたことが動き出しそうだということです」
「それは、どのような…?」
 降屋が訊くと、教主は笑顔で答えた。
「降屋さんは知らなくて良いことです」
「申し訳ありません」
 教主の笑顔とは裏腹な険のある物言いに、降屋は嫌な予感を覚えそのまま黙って教主の言葉を待った。
「さて、降屋さん。要件に入りましょう。これを見てください」
 そういうと、教主はA4用紙に印刷した絵を見せた。
「え? 何ですか、これは? 信者の子供が描いた落書きでしょうか?」
「いえ、よくごらんなさい。誰かに良く似ていませんか?」
「だれって、え?」
 降屋は控室の鏡に映った自分の顔を見て驚いた。
「私?」
「これは、ある筋から得た現在警察内で配られている重要参考人の手配書の似顔絵です。これを描いた者は天才ですね。見る者を失笑させた後、否が応でもその顔を印象付けます」
「こんなもの、否定くらいいくらでも出来ます!」
「しかし、これが公開され、気付いた誰かに写真を撮られてそれが美波美咲に確認されたらどうなります?」
「それは…」
「困ったことになりましたね」
「申し訳ありません」
「いえ、あなたが良かれと思ってやったことです。そして、実際に効果がありました。しかし、美波美咲に2度顔を見られたのは失敗でした。2度目の状況から彼女に疑いをもたせてしまった。彼女が報道関係の人間でなければ何の問題もなかったんですが、このままではせっかくうまくかみ合っていた歯車が狂ってしまうかもしれません。あなたから我が教団に疑いがかかることは必至でしょうから」
「私はどうすれば…」
「しばらくは行動を自粛してください」
「そ、それは…」
「いいですね? その間、嶽下の件はなんとかいたしましょう」
「はい…」
 一見穏やかな教主の顔の下にある、ただならぬ威圧感を悟った降屋は、成す術もなく了承するかなかった。

 葛西は予定時刻より20分ほど遅れて宴席にやってきた。
「すみません、遅くなりました!」と、葛西は入り口で靴を脱ぎながら言った。「わざわざ個室とってくれたんですね」
「葛西君、おっそ~い。主賓が遅れちゃダメじゃん」
「すみません。会議が長引いちゃって」
 葛西は謝りながら席につき、すぐさま注文を聞きに来た店員に生ビールを注文した。
「会議でもめたんですか?」
 と、ギルフォードが訊ねた。葛西はお手拭の袋を開けながら、抑えめの声で答えた。
「ええ。例のミナミサを嶽下から救ったと言う男の似顔絵が完成したのですが、ミナミサの証言の信憑性について疑う者も少なからずいて、捜査に人員を割くべきか否かで意見が分かれまして…」
「たしかに、信じがたい話ではあるけど、さ」
 と、由利子が言った。
「もし、それが本当なら、結城のほかにもウイルスを持ち歩いているヤツがいるってことでしょ?」
「そうなんです。だから、僕たちは捜査すべきだということを主張したんですが、なかなか・・・」
「それで、どうなったんですか?」
「結局、富田林さんのチームが捜査に当たることになりました。ところで、ミナミサの証言から男の似顔絵を作っているのですが、顔探知機の由利子さんにも覚えていてほしいのですが、いいですか?」
「そりゃ、私で良ければ構わないけど、いいの?」
「はい。これなんですが・・・」
 というと、葛西はスマートフォンを出し画像を由利子に見せた。
「あ、葛西君スマホにしたん?」
「支給品ですが」
「私もいい加減ガラケーから…」
 そう言いながら似顔絵を見た由利子が噴き出した。
「葛西君、こ、これ……」
「笑わないでください。モンタージュ写真なんかより、こういう絵の方が意外と逮捕につながったりするんです」
「僕にも見せてください」
 というと、ギルフォードが葛西の手を掴んでスマートフォンの画面を自分に向けたが、すぐに口を押えて「ぷぷぷ」と笑った。その横でチラ見した紗弥が下を向いた。葛西は困った顔をして言った。
「もう、勝手に見ないでください」
「ジ、ジュンが描いたのですか?」
「断じて違います!!」
 葛西は全力で否定した。

 そうこうしているうちに、葛西のビールが来た。
「お~、来た来た」
早速由利子が受け取って葛西に渡した。葛西は受け取りながら聞いた。
「そういえば、皆さんは何をお飲みで?」
「紗弥さんは生(ビール)で、アレクは濃いめの水割りに見えるけどウーロン茶ね」
「ユリコは突端から冷酒頼んでマシタ。1杯目一気飲みして今2杯目です」
「さっすが、酒豪~!」
「うるさいわね。あんた遅れてきたから続けて3杯飲まそうかい?」
「オー! かけつけ3杯!」
「アレクってば、ほんと、なんでそんな言葉ばっかり知ってるの?」
 由利子が呆れていると、葛西がすまなさそうに言った
「僕は仕事が残っているんで、職場に戻らないとならないので、お酒はビール1杯で勘弁してください」
「え~? 葛西君のお祝いなのに飲めないのォ~?」
「だって、祭りのせいでいろいろ大変なんですよお」
「まあまあ、ユリコ、仕事なら仕方ないじゃないですか」
「そうですわ。葛西さん、飲めない分沢山食べてくださいね」
「はい、それはもう」
 しかし由利子はひとり不満そうに言った。 
「え~、つまんなーい、つまんなーい」
「あ、珍しいシチュエーション。酔っぱらってるんですか、由利子さん?」
「私がこれくらいで酔うかい」
 と、由利子が若干仏頂面で言った。
「そもそも僕は、レストランでやろうと思ってたんですが、ユリコが堅苦しいのが嫌だ言うんで居酒屋にしたんですよ」
 ギルフォードが店の選択理由をこっそり葛西に説明すると、葛西は頷きながら言った。
「きっと、レストランじゃ冷酒とか呑めないからですよ」
「なるほど、納得です」
「あんたたち、聞こえてるよ」
 由利子は二人を横目で見ながら言った。なんとなくごちゃごちゃしてきたので紗弥が収拾に回って言った。
「そろそろ、乾杯しましょう。ボウフラが湧いてしまいますわよ」
「ボウフラは湧きませんよ。成虫が卵を産まないと・・・」
「たんなる日本語の言い回しですわ。それよりさっさと乾杯の音頭をとってくださいまし」
「え? 僕が?」
 ギルフォードが自分の鼻先を指しながら驚いて訊くと、紗弥が涼しい顔で答えた。
「はい。勿論ですわ」
「こうことは年長者がやるもんでしょ」
 由利子からも言われ、ギルフォードは肩をすくめると姿勢を正して言った。
「コホン、それでは…。不肖アレクサンダー・ギルフォードめが、乾杯の音頭をとらせていただきます。カサイジュンペイ君の昇進とこれからのご活躍に、Cheers! カンパイ!」
「かんぱーい!」
「みなさん、ありがとうございます。経緯を考えるとあまり素直には喜べないけど、多美さんの分もがんばります!」
 葛西の言葉に、3人は惜しみない拍手を贈った。葛西は、皆からのエールに戸惑いと嬉しさの入り混じった笑顔で恐縮していた。
「それにしても、ナガヌマさんが来れなくなったのは残念でした」
「仕方ないです。部下の人があんなことになってしまったんですから、宴会の気分じゃないでしょう」
 そういうと葛西が表情を曇らせた。由利子が聞いた。
「松川さんね。手術は成功したのに、病院内の事故でまた昏睡状態に戻ったっていう」
「今回は植物状態と言うことで、回復の見込みは絶望的だと…」
「いったい何があったの?」
「ユリコは聞かない方がイイと思います」
「そうですよ。僕もぞっとしましたから」
 二人に言われて由利子の好奇心はますます煽られた。
「そんなこと聞いたら余計に訊きたいじゃないのさ」
「じゃ、後悔しないで下さいよ」
 ギルフォードが妙に真面目な表情で言った。由利子が少し息を呑んで答えた。
「うん」
「病室にね、大形の蛾が入り込んでたんです。というより、何者かが置いていったらしいのです」
「大形の蛾? ヤママユガみたいな?」
 すると、葛西がすまなさそうに言った。
「由利子さんがトラウマになったシンジュサンだったようです」
「うわ」
「麻酔の切れた蛾は照明の光で目を覚まして、最初病室を飛び回ったようですが、悲鳴を聞いた長沼間さんが病室に駆け込んだ時、松川さんの顔に止まっていたそうです」
「げっ。私ならそれだけで発狂しそうだわ」
 やっぱり聞かなきゃ良かった。由利子は思ったが、聞いてしまったものは仕方がない。
「松川さんも苦手だったそうで、そいつから逃れようとして暴れたために、生命維持装置が体から外れて、それが致命的なダメージになったようです。心臓マッサージでなんとか息は吹き返したみたいですが」
「よりによってなんで顔に…」
「どうも、雌のフェロモンらしき物質が額から検出されたみたいです」
「うひゃあ、勘弁してほしいわ」
 由利子は肌が粟立つのを感じ、身震いした。その横で紗弥が訊ねた。
「それで、犯人は?」
「わからないんです。ちょうどトンネル事故の負傷者が担ぎ込まれた時で、病院内が騒然としていた時らしくて、しかも、病室付近には防犯カメラの設置はなかったということで、蛾を置いた犯人も、フェロモンを付けた犯人も、それが同一人物だったかどうかすらわからないそうです」
「なんで監視カメラつけてなかったのさ。テレビドラマだったら絶対にツッコミいれるとこだよ」
「長沼間さんもそれを悔やんでましたが、病院の意向で仕方なかったらしいです。患者さんやご家族から苦情が出るらしいのです」
「それにしても」と、由利子が訝しげに言った。「どうして松川さんが狙われたのかな」
「それは、自明のことですわ。よほど松川さんの記憶が戻って欲しくなかった方がいらっしゃるのでしょう」
 紗弥の言葉に、他の3人が顔を見合わせた。

 ささやかな祝賀会が終わると、葛西は県警の方に戻って行った。彼は名残惜しそうに3度ほど振り返って手を振っていた。
「ホントにイイヒトですよね、ジュンって」
 と、ギルフォードがしみじみと言った。
「さて、ミナサン、これからどうしましょう? 2次会に行きますか、帰りましょうか?」
 気持ちよく酔っぱらった由利子が陽気に言った。
「そりゃあ、2次会だよ~。 さ~、カラオケ行こかぁ?」
「ユリコはカラオケ好きですね」
「そりゃあ、フラストレーション発散にはもってこいじゃん。結城のせいで、ここんとこもやもやしちゃってるからさー」
「そうでしたわね。では、参りましょう。でも、金曜の夜のこの時間は、どこも満室かもしれませんわね」
「ま~、適当に当たってみようよ。どっか空いてるって。西通りの方に出たらけっこうカラオケ屋があるからそっち行こ!」
 由利子はそういうと歩き出した。あとの二人もそれに続いた。歩きながら由利子は、周囲の浮かれた様子を見てつくづくと言った。
「しかし、平和だねえ。祭りの最中とあって、みんな、いつもより余計に浮かれてるし。ウイルス騒ぎなんて、他所の話みたい」
「そうですね」
「あ~、浴衣着てるコけっこういるな。私も着て来ればよかったなあ。紗弥さんの浴衣姿も見たいよ」
「あらまあ、由利子さんが一番浮かれていましてよ」
 紗弥が珍しくクスッと笑って言った。祭りで紗弥の気持ちも少し高揚しているのかもしれない。しかし、3人が少し人通りの少ない路地に差し掛かった時、紗弥の表情がいきなり変わった。美しい眼にナイフのきらめきが宿り、身構えた。その直後、3人は人相の悪いいかにもな男たち数人に囲まれてしまった。
「しまった。不覚でしたわ」
 と、紗弥がポーカーフェイスのまま言った。ギルフォードも相槌を打って言った。
「そうですねえ。やっぱりサヤさんも浮かれてましたね」
「そのようですわ」
 この状況にそぐわない二人の会話に、由利子が呆れて言った。
「何二人とも落ち着いてるのよ。何よこのヒトたち?」
「ほんなこつ、きさんら、何ば落ち着いとぉとか」
「何よ、あんたたち」
「しのはらゆりこって奴ぁ誰だ?」
「僕は違いますよ」
「だぁほっ! 見たらわかるわ」
「私ですけど、何の用ですか?」と、由利子が自ら名乗った。「キャッチや 宗教の勧誘ならお断りしてますけど」
「あんたのせいで、ウチのお嬢がえらい目にあったんや。ちょっと落とし前をつけてもらおうか」
「お嬢って蘭子さんのことかしら? オトシマエって、そもそも逃げようとした、その『お嬢』が悪いんじゃないですか」
「つべこべ言わずにちょっと顔を貸してもらおか?」
「いやです!」
 由利子が言うとともに、紗弥とギルフォードがガードするように彼女の前後に立った。
「これは本当にお嬢さんが命令したことですか? 彼女がこんな短絡なことをするとは思えないのですが」
 ギルフォードが問うと、兄貴分らしき男が答えた。
「ウチのオヤジがかなりご立腹らしくてね」
「親父?」
 と、ギルフォードが訝しげに言ったので、由利子が説明した。
「組長のことよ。ヤクザのボスよ」
「オー、God Father」
「そんなこたぁどうでもいいんだよ! お前たちは大人しくその女を差し出しゃあいいんだ!!」
 男たちの一人が、無理やり由利子を連れて行こうと手を出してきたが、そのまま紗弥に取り押さえられて「ぎゃっ」悲鳴を上げて倒れた。
「ひぃ~~っ、手が手がぁあ~」
 半べそをかいて転げまわる大男を冷ややかな目で見ながら、紗弥が言った。
「まあ、親指一本へし折ったくらいで情けない。それじゃエンコも飛ばせませんわね」
「紗弥さん、そんな言葉どこで」
 由利子が驚いて聞くと、ギルフォードがそれに答えた。
「そういえば、学生が持って来た『白竜』読んでマシタ、って、今それを突っ込みますか」
 
「きっ、貴様らぁ~」 
 一見お嬢様風で華奢そうな紗弥に面子をつぶされたと思ったのか、兄貴分らしき男が拳銃を出し構えた。舎弟の一人が驚いて言った。
「兄貴、チャカはヤバイっす」
 既に遠巻きに野次馬が増え始めていたが、拳銃に気付いた女性が悲鳴を上げた。ギルフォードがうんざりして言った。
「あ~あ、そんなモノこんなところでぶっ放したら、却ってオヤジさんに迷惑がかかると思いますよ」
 彼は言いながら一歩踏み出し、長い脚で蹴り上げた。拳銃は放物線を描いて跳び、紗弥がすかさず受け取った。
「危ないことはなさらないでくださいまし!」
 紗弥はさすがに鼻白んで言いながらもそれを構えた。
「動かないでくださいな。私の銃の腕を知ることになりますわよ。さっ、教授、由利子さんを!」
「サヤさん、スミマセン」
 ギルフォードは由利子を抱え肩に背負うと、スタコラとその場を後にした。
「あ、こらてめ」
 と、男が追おうとしたが、すかさず紗弥が、彼に照準を当てて言った。
「動くなと申し上げましたわよ」
 一方、ギルフォードに担がれた由利子はジタバタしながら言った。
「ちょ、待っ、アレク、紗弥さんがっ」
「そこで暴れないでクダサイ。彼女なら大丈夫です。あんなド素人軍団は、彼女の相手じゃありませんから」 
 二人の姿はそのまま人ごみに消えた。野次馬たちは、逃げた二人より紗弥と暴力団との攻防に夢中で息を呑んで見守っていたが、中には110番する者もいた。例によって撮影しようとする質(たち)の悪い連中もいたが、さすがの紗弥も銃を構えてはどうすることも出来なかった。
「さあ、どうなさいます? このまま引き下がってくだされば、見逃して差し上げますわよ」
「こ、このアマ、可愛い顔してとんでもねえ」
「こんなところでぶっ放して困るのはお前もだろうッ」
「あら、そうですわね。では、素手でお相手しますわ」
 紗弥はそういうと、拳銃をジーンズの背に差し込んで構えた。
「このアマ~~~、舐めやがって!」
 コケにされまくった男たちが逆上して紗弥に襲いかかろうとした時、野次馬の中から男が飛び込んできた。男は紗弥と背中合わせになると言った。
「おいおい、あんたさ、もうちょっと穏便に済ませられないのかよ」
「まあ、長沼間さん!?」
 思いもよらない男の出現に驚く紗弥に、長沼間が苦笑して言った。
「もし、今ので銃撃戦になってみろ。たちまち全国区のニュースだぜ」
 男たちは新手の出現に一瞬たじろいだが、
「邪魔すんなよ、おっさん。怪我するぜッ!」
 と、叫びながら殴りかかった一番若そうな男を片手で殴り倒して、長沼間が手帳を見せて言った。
「警察だ! おまえら銃刀法違反と誘拐未遂で全員逮捕だ」
「うるせぇッ!! おまえみたいな青ビョウタンにパクられっかよ」
 半ばやけになった男たちが、飛びかかってきたが、すぐに長沼間と紗弥に制圧され、通報を受け駆けつけた警官たちに連行されていった。

 警官たちが人払いする中、紗弥と長沼間が立ち話をしていた。長沼間が吐き捨てるように言った。
「バカどもが、踊らされたとも知らないで」
「踊らされた?」
「ああ、あの組内で不穏な動きがあるとかいうタレコミがあって、気になってここら辺を流してたんだ。通報を受けたんで、駆けつけたらあんたが暴れてた」
「いやですわ、暴れてただなんて…」
 と、紗弥が少し赤くなりながら言った。
「変だろ?」
「変? わたくしが?」
「なわけねーだろ、リークさ。わざとらしすぎる」
「そう言われれば…」
「まあ、それはともかくだな、さて、鷹峰ちゃん。あんたも事情聴取に付き合ってもらわんとならんのだが、その拳銃…まずいんだが」
「まあ、すっかり忘れていましたわ」
 紗弥はそういうと、拳銃を抜き出し長沼間に渡した。
「はい、証拠物件」
「経緯はわかるが、あんた公衆の面前でそれを構えていただろ。しかも馬鹿野郎共がスマホで撮ろうとしていた。まあ、そいつらは俺がドサマギで蹴り倒してやったがね」
「あら、ありがとうございます」
「こんなもの、持っただけでも下手すりゃ逮捕だぞ」
「大丈夫、わたくし、所持の許可を持っていますのよ」
「アンタ、本当は何者だ?」
 長沼間が驚いて尋ねると紗弥は意味深に微笑んで言った。
「あくまで秘書ですから」
「をいッ!」
「うふふ」
「笑って誤魔化したな。ま、いっか。 ところで、アレクサンダーたちは大丈夫なのかね」
「そうでしたわ」
 紗弥はそういうと、自分のスマートフォンを取出し何やら操作していたが、すこし目を丸くして「あらら」と言った後、長沼間に向かって笑顔で言った。
「逃げおおせたようですわ。ま、あそこなら安全だし…、あの二人なら大丈夫ですわね」
「なんだよそれ」
「じゃ、事情聴取にいきましょうか」
 紗弥はそういうと、スタスタと歩き出した。
「これじゃ、どっちか警官かわからんな」
 長沼間は、紗弥の後を追いながら呟いたが、何となく嬉しそうに見えた。

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