後半、虫の嫌いな方はご注意ください。
由利子は、朝からギルフォードの様子がおかしいのに気付いて、紗弥にこっそりと尋ねた。
「ねえねえ、アレクってば、なに?あれ。動物園の熊? 何で落ち着かないの? 何故か美月まで一緒にうろうろしてるし」
「それが…」
紗弥が知っている限りのことを由利子に説明した。
「ええっ、ジュリーが?」
驚いた由利子が少し高めの声で言ったので、ギルフォードがじろりと彼女らを見た。
「しっ、声が大きいですわ」
「ごめん。それにしても、アレクにじろりと見られたのは初めてで、ちょっとびびったわ~。で、もちろん無事なんだよね」
「まあ、感染をしているはずはないし、殺されるはずもないですから、大丈夫と思いますわ。多分、美波さんの無症候性キャリアの件が誤解とわかれば、すぐに無罪放免になると思いますよ」
「で、どうやったらミナミサがシロだって証明できるの?」
「嶽下友朗の本当の感染源を究明することです。それに関して葛西さんたちが動いているはずですわ」
「そっか。でも急がないと、ジュリーの来日が遅れるだけだよね。アレクがまたいじけちゃうじゃん」
「すでに、そうとういじけてますわよ」
と、紗弥が言ったが、どことなくゲンナリしているように思えた。彼女らの会話が聞こえたのか、ギルフォードは仏頂面のままリモコンでテレビをつけると、どっかりと自分の椅子に座った。ギルフォードが所定の位置に収まったので、美月も自分の場所に戻って寝そべった。それを見た紗弥が言った。
「教授、お仕事…」
「気分転換です。トンネル事故、気になるでしょ」
「あ、そうだった」
と、由利子が思い出したように言った。テレビは朝のワイドショーの真っ最中で、画面に昨日のトンネル事故の映像が映り、由利子たちはそちらの方を見た。トンネルからはまだ煙が出ており、その中からレスキュー隊が遺体らしきものを運び出していた。
「うわあ、現在死者重傷者合わせて20人くらいって、すごいことになってる・・・」
「まだまだ増えそうですわね」
二人はつい、画面の事故現場の映像に釘付けになっていた。
その頃感対センターでは、美波美咲を嶽下友朗から救ったという男の似顔絵を描く作業が行われていた。県警の似顔絵担当の警察官は30代半ばの男で刑事部鑑識課に所属する波平(なみひら)という男だった。
しかし、その似顔絵制作の現場は一風変わった様子だった。感染の疑いが濃いとされる美波は病室に隔離された状態なので、やむを得ず窓越しでのやり取りとなったのである。その様子に興味津々で近寄った高柳センター長は、九木から波平がこれまで描いたという似顔絵集を見せられて驚愕した。
「九木さん、こんな絵で大丈夫なんですか」
「彼の絵による逮捕率は7割を超えているそうです」
「しかし、これは悪意があるとしか…」
「こういう似顔絵は、ただ上手いだけではだめなんですよ。たとえば写真のようにスーパーリアリズムで描いたとします。すると、そのイメージで固定されてしまう。しかし、これは本人の写真ではなく、あくまで目撃者の証言による絵ですから、これが本当に犯人の顔と一致するとは限らない。ですから、彼の絵のように幅を持たせた方がいいんです」
「その理屈は理解出来るんだが、これは…」
「まあ、これを見て警察に抗議の電話を入れてお縄となった犯人が3人ほどいると聞きましたがね」
「これでは怒るでしょうね。で、彼は今まで何人の似顔絵を描いたんですか」
「5人です。彼は比較的最近抜擢されたそうで、今回で6人目となるそうです」
「5人の70%って3.5…約4人ですよね」
「そういうことになりますな」
と、九木が肩をすくめて言った。
「そのうち3人が自爆で逮捕されたということは…」
「おっと、終わったようですよ。ガラス越しに美波さんが確認をしていますね。見せてもらいましょうか」
九木が言い終わったその時、病室から笑い声が聞こえた。
「きゃ~ははは。似てる~。似てるけど、イケメンが台無し~」
その様子を見て高柳が片眉をあげながら言った。
「笑われてますが」
「お墨付きをもらったようですな」
九木が再び肩をすくめて言った。
長沼間が病院の階段を駆け上がっていた。彼は鍛錬のため極力エレベーターを使わないというポリシーを持っているのだが、今日はいつにも増して猛スピードで駆け上がっていた。そのわけは、昨日大手術をした松川の意識が戻ったという報せを受けたからだ。途中、昼食の空き食器を積んだカートにぶつかりかかって「失敬」と誤って駆け去った時、カートを押していた看護師に「通路を走らないで下さい」と注意されたが、そのほかには特に問題なく松川の病室前にたどりついた。
その前で松川の担当医師が長沼間を待っていた。医師は長沼間の姿を確認すると、一礼して言った。
「長沼間さんですね。松川さんの担当医の占部です」
「松川の容体は? 意識は取り戻したということだが」
「ええ、午前中に目を覚まされました。手術自体は予想以上にうまく行ったのですが、なかなか目覚めないので心配しましたよ。容態が安定したようなので、ICUから個室に移しました。今後の経過についてはまだ油断は出来ませんが、短時間ならお話しすることを許可しましょう。普通なら、ご家族以外の面会は許可しないところですが、重要な捜査のためと言うことで許可しました。ただし、5分以内に済ませてください」
(また5分かよ)
長沼間は思ったが、大手術後なのだから仕方がないと、素直に従うことにした。
「わかった。今からいいんだな」
長沼間はそういうとさっさと病室内に入ろうとしたが、医師が止めた。
「あっ、そのまま入らないで! マスクと帽子とガウンを着用してください。入り口に用意してありますので」
「ああ、そうだったな」
長沼間は、言われた通りの装備をまとうと、部屋に入った。
部屋に入ると、機材に繋がれ酸素マスクをつけた松川の姿があった。松川は、長沼間が来たのを察して言った。
「すみません、頭をあまり動かせないので…。長沼間さんご心配を…」
「謝ることはない。要らんことに体力を使うな」
長沼間は松川が続けて謝罪をしようとするのを止め、ベッドに近づくと、生体モニターの方を見た。
(医者の言うとおり安定しているようだな)
長沼間の表情に一瞬安堵の色が浮かんだが、またすぐに強面に戻って言った。
「何か思い出したか?」
「いえ、まだ…。先生は無理せず自然に思い出すまで待つように言われたんですが、そんな悠長には出来ませんから…」
「いや、ムリはするな。2・3日はゆっくり寝ていろ」
「でも、記憶力はだいぶ回復したんです。午前中、両親と婚約者の詠美が来たことをちゃんと覚えているんです。まだぼんやりとですけど」
「そうか。良かったな」
長沼間がこころなしか安心したような表情で言った。
「じゃ、おれは帰るが、何か思い出したらいつでもいい、俺に知らせろ。些細なことでもいい、深夜でもかまわん」
「知らせるって、この有様で、どうやって?」
と、松川は自分の情けない状態を目で追いながら言った。
「ナースステーションの連中に俺のケータイ番号を教えておく」
「わかりました」
松川が答えた時、すでに長沼間はドアに向かっていたが、彼はドアを開けながら後ろ向きのまま言った。
「くれぐれも無理をするなよ。病状が悪化されちゃ元も子もないからな」
長沼間はそう言うとそのまま出て行った。
「長沼間さん…」
松川はドアの閉まる音を聞いてから、感慨深げにつぶやいた。そして、天井をじっと見つめたあと、目を閉じた。
祐一は困っていた。あの月辺城生がやたらと自分に絡んでくる上に、タミヤマリーグにもちょっかいを出してくるからだ。
「いつもごめんよ。なんか君の優等生面を見てたらイライラしちゃってさー。悪気はないんだ」
帰り道、城生が祐一たちの後を追ってきて言った。それに苛ついた彩夏が不機嫌そうにつんとして言った。
「あんた、いつもそう言って帰りに付きまとうわよね」
「いやだなあ。付きまとうなんて人聞きの悪いこと言わないでよ。僕は君たちの仲間になりたいだけだよ」
そううそぶきながら後ろをついてくる城生に、彩夏が立ち止まって振り返ると、真顔で言った。
「あんた、何をたくらんでいるの?」
城生の顔から一瞬笑顔が消えたが、すぐにそれを取り戻し、くすくす笑いながら言った。
「たくらむって何をさ? 僕は純粋に君たちに興味があるだけだよ。ねえ、田村君」
いきなり城生が自分に振って来たので、勝太は驚いた表情で自分を指さした。
「え? ぼく?」
「そう、君、相変わらず遠慮がちにしてるね。君らのそういうグループ構成の特殊さに興味があるんだ。優等生と学年一かわいいって評判の女子と、地味で目立たないメガネ君と落ちこぼれ男子の4人で何の共通性もメリットもなさそうな君らを繋ぐものは何かって」
「へえ、あんた知らないっていうの?」
彩夏がシニカルな口調で言った。
「あんたが私たちのことをみんなに聞いて回っているの、私が知らないとでも思ってるの? 噂はもう知ってるんでしょ」
彩夏にいきなり核心に触れられて、城生は明らかな動揺を見せて答えた。
「あ、ああ、あくまで噂ということでだけど」
「それが私たちを結びつけてる共通点よ。噂は正確ではないけれど、あながち間違ってるわけでもないから」
「錦織さん、そんなこと言って・・・」
と、勝太がオロオロしながら言ったが、他の2人は黙ったまま彩夏を見守っていた。
「いいわよ。私、この人が西原君に付きまとうのが許せないの。じゃ、月辺君、理由がわかったからもう私たちに付きまとわなくてもいいわよね。それから私を『かわいい』でくくらないで。これでも学力は西原君と同等のレベルなんだから。じゃ、ごきげんよう♡」
彩夏は笑顔で言うと、すぐにつんとした表情に戻ってさっさと城生に背を向けて歩き出した。良夫は既に彩夏より先を歩いていた。勝太が慌てて後を追った。残った祐一は、城生に向かって少し気の毒そうに言った。
「ごめん。錦織さん言い過ぎだって僕も思うよ。だけど、そういう訳だから、君は僕らのリーグには入れないんだ。ごめんよ」
「ふん、君のそういう甘いところが僕を苛つかせるんだ。行けよ」
城生はそういうと、祐一に背を向けた。祐一が戸惑っていると、良夫の呼ぶ声が聞こえた。
「西原くーん、早く来ないとバスがくるよ!」
「わかった」
と応えると、祐一は城生に「じゃあな」と言って駈け出した。城生は悔しそうに下唇を噛んでいたが、しばらくしてゆっくりと歩き出した。
「小賢しい。・・・あいつ邪魔だな」
城生はそういうと、祐一たちを乗せ走り去って行くバスを一瞥した。
「あー、イライラするっ!」
バスの中でいきなり彩夏が言ったので、他の3人が驚いて彼女を見た。良夫が不機嫌そうに眉間に皺を寄せて言った。
「どうしたんだよ、とーとつに。バスの中で恥ずかしいじゃないか」
「あの、さっきの馬鹿よ」
「バカ? って、月辺君のこと?」
と、今度は勝太がおずおずと訊ねた。
「その馬鹿よ。西原君と友だちになりたいなら素直に言えばいいのよ。ストーカーみたくまとわりついて、うっとおしいったらありゃしない」
祐一は思ってもいない指摘をされて驚いて言った。
「あいつが僕と?」
「あんた、そんなことに気付かないの? はあ~、鈍いお人好しなんて最悪!」
と、彩夏が言ったので、良夫がムッとして言った。
「それが西原君のいいところなんだよ。性格の悪い君にはわからないだろうけどさ」
「性格ならあんたの方が悪いわよ」
「ああ?」
「また始まった」
二人の言い合いが始まったので、祐一が肩をすくめて勝太に耳打ちした。
「二人とも自分たちこそツンデレだと気付くべきだよな、田村」
祐一に言われ、勝太は大きく首を縦にふった。
松川は、寝付けないでいた。
そろそろ消灯時間も近づき、身動き出来ないので特にすることもなく、さっさと寝てしまえばよさそうなものだが、妙に眼が冴えて眠ることが出来ない。実は、意識が戻って記憶がだんだんはっきりしていくにつれ、徐々に言い様のない不安が襲って来たのだった。漠然とした恐ろしい予感。思い出すのは危険・・・。しかし、長沼間が言うようにこれは重大なことで、思い出さねばならない。彼は、そう自分に言い聞かせると、不安を振り払うため深呼吸をして、今度こそあの夜のことを思い出そうと天井をじっと見た。頭の中はだいぶクリアになっていた。松川は、自分の記憶力が負傷前の状態近くまで戻っていることを確信した。
あの時…。
長沼間から状況確認の電話が入ったのは、武邑が最寄りのコンビニまで夜食とコーヒーを買いに行くと車を出て行ってから15分も経っただろうか。武邑不在のことを知られ、松川は長沼間からしこたま怒鳴られた後、誰かが車の窓を叩いたのに気付き、そちらの方を見た。すぐに結城と気づき、ダレきった気持ちが一瞬で緊張し、結城を捕まえようと車から出てドアを後ろ手ではたくように閉め、駈け出そうとした。その時、後頭部に衝撃を受け、そのまま昏倒した。その後どうした? 殴られた時、結城は何処にいた? 自分を殴ったのは結城か、それとも? …いや、思い出したぞ。自分は車から降りながら結城に声をかけた。結城はその時振り向いたんだ。結城は前に居た。その後自分が身分を告げ理由を言いかけたその時に、背後から殴られたのだ。殴ったのは結城ではない。では、いったい誰が? 殴られて気絶した自分を起こしたのは、武邑だった。意識を取り戻してすぐに腕時計を確認した。結城を確認する前にあくびをした時に何の気なしに時計を見たが、それから2分足らず。ということは、自分が結城を追いかけようとして公用車から飛び出し殴られてから武邑が来るまでほとんど時間が経っていないのではないか? 松川はぞっとした。まさか・・・。
松川は、手もとのナースコールを押した。もしそうなら、とんでもないことだ。
「どうされました? どこか苦しいですか?」
松川の呼び出しに、すぐさま看護師が駆けつけてきて、額に手を当てた。松川は緊張した表情で言った。
「いえ、お願いがあります。長沼間が言って帰ったとおもうのですが…」
「はい、携帯電話の番号はお伺いしておりますが」
「至急、来てほしいと電話していただきたいのです」
「わかりました」
看護師は松川の伝言を受けると、すぐに病室を出て行った。その途中、非常階段の入り口の壁に立つ人影とすれ違った。
松川は、長沼間が来るのを待つ間不安で仕方がなかった。おのずから鼓動が高鳴ってくる。しかし、その様子がセントラルモニターの心電図に伝わっているはずが、だれも様子を見に来る気配がない。松川は却って不安になった。
本当に自分を殴ったのは彼なのか、もし、自分たちの部署に”草”が入り込んでいたのなら、果たして長沼間は信用できるのか。松川は数日前武邑が見舞いに来た時の奥歯に物がはさまったような言い方を思い出した。
『じゃあ、長沼間さんは、そんなに長居できないんだ』『それなら安心』
安心って、いったい何がだろう。 ひょっとして僕はとんでもない思い違いをしているのではなかろうか。そもそも、長沼間さんもケータイで電話してきたんだ。近くにいた可能性だってある。あの時僕は殴られて意識がかなり朦朧としていた。はたしてあの時駆けつけてきた人物は武邑だったのか。ひょっとして、武邑は既に結城を追いかけて行っていたのではないだろうか?…
その時、ドアが少し開いて何者かが黒い箱を病室内に入れ、蓋を取るとすぐにドアを閉め去って行った。しかし、眼の端でその顔を見た松川は戦慄した。あの時自分を介抱していた筈のそいつが言ったこととしたことを、瞬間に思い出したのだ。
『結城を抹殺するのに邪魔だ。すべては御碧珠(みたま)の御為に』
彼はそう言って松川の上半身を抱え上げ再び路面に落としたのだ。その時に再び後頭部を打ち付け、松川は完全に意識を失ったのだった。
「ひっ・・・、ひいっ」
松川は恐怖におののいてナースコールボタンを押そうとした。しかし、手元にあったはずのボタンが何故か無くなっていた。松川は、血の気が引くのを感じた。その時、ガサガサという音とともに羽音がして、何かが飛び立ち、松川の周囲に黒い影が舞った。
連絡を受けた長沼間は、再び病院の階段を駆け上がった。目的のフロアに出ると、病院のスタッフが慌ただしく駆け回っているのがわかった。松川に何かあったのかと思ったが、どうも松川の病室とは違う方向のように思われた。長沼間は、近くを通った看護師を捕まえて訊いた。
「何があったんです?」
「あら、早かったですね」
「帰りにもう一度寄ろうと思って、近くまで来ていたんでね。で、出入りでもあるのか?」
「昨日トンネル事故があったでしょ? その重篤な状態の被害者さんがもうすぐ担ぎ込まれるんです」
「って、あんな遠くからか?」
「ウチは、脳外科では定評がありますから、ご家族の方が一縷の望みをかけて遠くから来られることも多いんです」
「松川はほったらかしじゃないだろうな」
「常に誰かが様子を見るようになってますから大丈夫ですよ」
看護師はそこまで言うと、急いで持ち場に戻っていった。
その頃、呼び出された医師が、セントラルモニターを見て自分の眼を疑った。画面の一つがオールゼロになっていたのだ。医師は驚愕してその病室に向かって駈け出した。彼は走りながら叫んだ。
「何故、詰所に看護師がひとりも居ないんだ!」
長沼間が早足で松川の病室に向かっていると、医師が猛ダッシュで彼を追い抜いて行った。松川に何かあった事を察した長沼間はすぐに駆け出したが、松川の部屋を目の前にした時「うわあぁああ!!」という悲鳴が上がった。すぐにそこに駆け込んだ長沼間は、たじろぐ医師の陰で戦慄の光景を目の当たりにした。
松川は何かから逃れるようにベッドから身体を半分乗り出しており、彼に取り付けられていたコードやチューブ類はことごとく体から外れていた。その半分ずり落ち、さかさまに仰向けになった顔には、大形の蛾が翅を震わせながら張り付いていた。その病室にあるまじき光景に、二人は一瞬呆然としたが、すぐに松川の方に駈け寄った。
「こいつめ、離れろッ!」
と、長沼間は叫びながら虫を払い、松岡の肩を叩きながら怒鳴った。
「松川!! おい、しっかりしろ、やい、松川ッ!!」
「邪魔です。どいてください。あなたは看護師を呼んで!」
長沼間の迫力に気圧(けお)され一瞬出遅れた医師が、長沼間に言った。
「すまん!」
長沼間は、即座にナースコールを手に取るとほぼ怒鳴り声で言った。
「401号室の松川だ。重篤な状態に陥った。すぐ来てくれ」
その間、医師は松川を診るとすぐに心臓マッサージに取り掛かった。
「くそっ、手術は上手くいったんだ! なんで、なんでこんなことに・・・」
「それ以前に、なんであんなものが病室に入り込んでいたんだ!!」
長沼間は、部屋の隅を見ながら鼻白んで言った。そこには、長沼間が払った勢いで壁に激突した蛾が、弱弱しく翅をばたつかせていた。
「どうです? 美しいでしょう? 目模様がまるで白いオパールのようです。羽化して間もないイボタガですよ。遠慮しないでこっちに来て見てごらん」
教主は、やや後ろに控えて立っていた月辺城生に言った。
「はい」
城生は、少し蒼白な緊張した表情で教主の横に立った。
ここは、碧珠善心教会F支部にある温室で、そこには様々な植物が植えられ、今盛りの花々が美しさを競っていた。そしてそこには様々な蝶や蛾も放たれており、夜である今は、青白いオオミズアオがひらひらと儚げに舞っていた。
「あなたが危惧している彩夏と言う少女ですが、そういう女性は小細工をするほどに懐疑的になるものです。妙な画策はすべきではありません。ただし、私は祐一と言う少年よりも彼女の方が気になります。もし、入心すれば、誰よりも優秀な信徒となりましょう」
「はい。心しておきましょう」
と、城生は答えたが、どことなくそわそわしている。教主はフッと微かに笑うと訊ねた。
「蝶や蛾はきらいですか?」
「蝶は美しいと思いますが、蛾はどうも…」
「どうして?」
「それは・・・」
「蝶が美しくて蛾は汚いなどと思っていませんか?」
「え、ええ。僕は汚いものは苦手なので…」
「それは、間違いです。たとえばツバメガの仲間は蝶と見まごうばかりか、蝶より美しいですよ」
「え? そうなんですか?」
「ええ。美しい蛾はけっこういますよ。逆もね。それに、昼間飛ぶとか胴が細いとか翅を閉じて止まるとかいう違いも、必ずしも当てはまりません。ほら、向こうに飛んでいるのはシャクガモドキと言ってチョウの仲間ですよ。また先ほど言ったツバメガの仲間は、昼間飛びますので、見た目は全くの蝶です。蝶は蛾の特殊な形態をしたものであって、蝶と蛾の明確な境目はありません。むしろ、蛾の中に蝶が含まれるのです。現に、蝶と蛾を区別しない言語も多くあります。例えばメジャーな言語でいうとフランス語では、蝶も蛾もパピヨンです」
「そうだったのですか」
「日本でも昔はあまり区別しなかったようです。その頃は『かわひらこ』や『ひむし』などと呼ばれ、死者の魂だと考えられていました。蝶が死と再生の象徴とされたのには、幼虫から蛹になり羽化することから、洋の東西を問わず、魂や再生と結びつけられてきました」
「死者の魂…。わかる気がします」
と、城生はオオミズアオを目で追いながら言った。内心、自分に飛んでこないかと冷や冷やしているようだった。
「オオミズアオは、まるで妖精のようだと思いませんか?」
そういうと、教主は左手を上にあげた。すると、一頭のオオミズアオがその手に止まった。教主はそれを城生に向けた。城生はギョッとして飛び退いた。
「…おや、やっぱり怖いですか?」
「申し訳ありません。慣れていないもので」
城生は不意を突かれ、恐縮して言った。必死に平静を保とうとしているようだった。教主は、薄笑いを浮かべながら言った。
「昨夜は、シンジュサンが羽化しました。『ロキ』に渡しましたが、今頃は役目を終えているかもしれません・・・」
そう言った教主を不安げに見た城生は驚いた。教主は薄笑いをしたまま涙を流していた。
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