2.焔心 (1)初音の災難

20XX年6月19日(水)

 梅雨の中休みなのか、今日は朝から雨が上がり、時折薄日が差していた。午後からは束の間の晴れになるらしい。ラジオの天気予報では予報士が「お洗濯するなら今日です。明日からまた、梅雨空に戻りますからね」などと呼びかけていた。由利子はギルフォードの車の中でそれを聞いていた。実は由利子は、朝からギルフォードと川崎家に向かっていた。

 川崎家では三郎が死亡、妻の五十鈴も同じウイルスに倒れ、愛犬が一匹とり残された状態になった。それを気に病んでいた五十鈴に変わって、彼女と同室だった窪田華恵がセンターにその件を伝えた。本来ならば、それは病院の与る事例ではないが、何故か気になった高柳がギルフォードに様子を見て来てくれないかと依頼、ギルフォードもそれを快く受けたのだった。

 助手席で由利子が言った。
「アレクってば、ますます便利要員になってるんじゃない?」
「まあ、でも、用件を聞いたら何か断れなくなったのです。動物のことです。彼等は口を利けませんでしょ。特に犬はご飯を上げるだけじゃなく、散歩にも行かなければストレスがたまってしまいますから。近所の方がちゃんと面倒を見てくださっていればいいのですが・・・」
 と、ギルフォードは表情を曇らせながら言った。
「そうか。飼い主からしたら心配よね。何の用意も出来ずに連れて行かれたんだから」
 由利子は自分がそういうことになった時のことを考えると、他人事とは思えなくなった。
「ほ~ら、君だって心配になったでしょ。これからは、そういうことも範疇に入れて考えていかねばならないと思うのですが・・・」
 ギルフォードはそう言ったが、何故か浮かない顔をした。
「どうしたの?」
「はい。どこまで行政がこの問題に向き合ってくれるか心配で・・・」
「そっか・・・。今は人間のことで手一杯って感じだもんね」
「ところで」ギルフォードは話題を変えると言った。「申し訳ないけど、今日の午後、ジュリーに付き合ってくれませんか?」
「私が? ジュリーと?」
「はい。彼は、ジュンとの仕事が昨日までで、今日は僕が講義を終えた午後から、彼と半日デートの予定だったのですが、こういう状態の上に、午後からも感対センターに呼ばれてしまいまして・・・」
「あらま。じゃあ、ジュリー君、またへそを曲げちゃったんじゃあ・・・」
「そうです。やっととれた時間だったのにって、もうご機嫌ナナメどころか急降下です。多分、今頃はまだ、ふて寝してますよ」
「来日してもゆっくり出来なくて、しかも、この3日間ずっと葛西君と、蟲相手に奮闘してくれてたんだもん。そりゃあ怒るわな」
 由利子は腕を組みながらウンウンと頷いた。
「でも、全部自分から言い出したことなんですけどねえ・・・。で、サヤに頼もうかと聞いたら、ユリコがいいって言うんですよ」
 ギルフォードの判断ではなく、ジュリアスに指名されたということを聞いた由利子は、驚いて言った。
「え? 私をご指名って何で?」
「はい。理由はわかりませんが、ずいぶんと気に入られたようですね」
「いや、んなことはないと思うけど・・・」
 そう言いながら、由利子は多美山が死んだ日にジュリアスから聞いたことを思い出した。彼はあの時こう言った。
『由利子、おみゃあにはあいつについて話しておきたいことがよ~けあるんだがや』
(ひょっとしたら、何か話したいことがあるのかもしれない)
 そう思った由利子は、ギルフォードの頼みを聞くことにした。
「わかった、引き受けましょ。午後からでいいのね」
「はい」
「なんとなく、私も便利要員になってるような気がしてきたけど・・・」
「スミマセン」
「で、どこに行くの?」
「主にうちの大学内の図書館ですが・・・」
「図書館?」
 由利子が少し戸惑って聞き返した。
「まじでぇ? 受験生のデートじゃあるまいし・・・」
「何か調べたいことがあるらしいんです。あと、大学周辺をまったりと散歩したいらしいです」
「観光地とかは・・・?」
「それは、彼が再来日してから、それもこのウイルス渦が治まるまでお預けにしておくと言ってました」
「そうか。ケーキのイチゴは最後に食べるクチだ」
「あはは、そうですね。当たってますよ」
 ギルフォードが笑いながら言ったが、少し間を置いて今度はくすくすと笑った。
「何よ、気持ち悪いわね」
「あのね、ユリコさん」
「なんですか、アレクさん」
「いつも思うんですが、イチゴって、なんかエッチですね」
「いつも何を考えておるのだ、君は」
 由利子が、ここ1週間分の疲れがどっと出たような顔で言った。ギルフォードは、くっくっと笑っていたが、急に真面目な表情に戻って言った。
「あ、そろそろ川崎さんの家がある住宅地に着きますよ」

 車はS区のとある住宅街に入っていった。
「ナビによると、確かこの辺りなんですけど・・・」
 ギルフォードが車をゆっくり運転しながら言った。
「これ、買ったんだ。そういえば今までなかったよね」
「はい。あれば、これからは色々と便利だと思いますからね」
「たしかに便利よね。・・・あっ」
 由利子が会話の途中でいきなり前方を指差して言った。
「あれじゃない?」
「え? 何なんですか、あれは・・・?!」
 二人は川崎家のある方を見て目を見張った。

 その頃、感染症対策センターの方で高柳がまた、忙しく動いていた。金曜に、河川敷でのゴキブリ騒動から感染死したホームレスの遺体発見に関わって、ウイルスに曝露された若者達の一人で、結果的に一番遺体に近づいてしまった女性が発症してしまったからだ。
「これで、現在発症治療中の患者はこの瀬高亜由美を含めて6人になったわけだ。奇しくも女性だけになってしまったな」
 一段落ついた高柳が、亜由美の病室の前に立って中の様子を見ながら言った。隣に立っている三原医師が高柳を見て言った。
「川崎五十鈴さんは、笹川さんと同室になっていただきましたが、この方は北山さんと同室じゃないんですか?」
「今後の患者数増加の可能性を考えると、同姓の方の同室が望ましいのだけれどね。彼女と北山さんは歳も近いし。だが、瀬高さんの病状が他の方と違うように思えるんだ。だから別室にしたんだよ」
「確かに他の方と違って、咳がかなり目立つようですが・・・」
 三原が、時折激しく咳き込んでいる亜由美の様子を見ながら、眉をひそめて続けた。
「発症初期なのにずいぶんと苦しそうで・・・。可愛そうです」
「うむ」高柳が腕を組みながら言った。「ウイルスを含んだチリを大量に吸ったからかもしれん。彼女に関しては、特に呼吸器に注意をしていてくれたまえ」
「はい」
「それから、彼女の傍に寄る時は、今も看護師たちがしているように、フェイスシールドは忘れずにつけることを皆に徹底してくれたまえ。君は良く外しているだろう?」
「は、はあ。すみません」
「邪魔だろうが、君等の身を守るためだ。私達の防護服は、気密型じゃないんだからね」
「はい」
「で、彼女は・・・」高柳は亜由美の方を見ながら言った。「金曜日にウイルスに暴露されてから、5日目に発症しているが、その前になにか症状はなかったのかね」
「はい。ここに来てすぐくらいから空咳が目立ってましたが、彼女曰く、もともと気管支が弱いので、普段から空咳がよく出ていたということでしたので」
「なるほど。空咳が感染のせいなのか体質によるものだったのかは判らないのか」
「はい。そういうことでした」
「しかし、このまま患者が増え続けるとなると、1類用病室が足らなくなるのは目に見えているな」
「はい。1類のエボラやラッサレベルの患者が大量発生することは考慮されてませんでしたし・・・」
「元来空気感染や飛沫感染のしにくい感染症だからな。それに、ここはもともとそういった感染症流行に於いての初期段階の封じ込めを目標とした施設だ」
「しかし、感染の可能性を考えて隔離されている人たちも、そろそろ飽和状態です」
「うむ。それに関しては、廃校の体育館等が使えないかという打診中だ。それらのことも含めて色々と再考せねばならないな」
「他にも問題が・・・」
「なんだね?」
「スタッフに疲労が出始めています。特に川崎三郎さんが亡くなられてから・・・」
「確かに、治療しても助かる確率が非常に低いということは、喪失感も大きいだろうし、みなの士気も下がっていくだろうが・・・」
「というか、助かる可能性はあるんですか、センター長?」
「可能性はある。致死率100%の感染症なんて、そうあるもんじゃない。それに発症者数も死者数も、まだ結果を出せるだけのデータがないだろう。ひょっとしたら、発症したものの、症状が経度で風邪と診断された人や感染しても無症状の人だっているかもしれないんだ。君まで冷静さを欠いてもらっちゃあ困るよ」
「私は冷静です。だけど、医師や看護師の中には恐れる者が出始めていることも事実です。感染発症=死だと。それに、スタッフも増員しないと、このままではオーバーワークが問題になりますよ。これで針刺し事故でも起こったら・・・」
「スタッフの増員についても申請中なのだが・・・」
「申請は通るんですか? 今だって、引退していたセンター長の奥さんまで駆出している状態なのに?」
「それは、君が気を病むことではないだろう。君は君の本分をまっとうしたまえ」
 高柳が珍しく厳しい口調で言ったので、三原は続けて言おうとした言葉を飲み込んだ。高柳は数秒の沈黙の後、フォローするように言った。
「君の気持ちは良くわかっているつもりだ」
「もうひとつ、心配が・・・」
 三原は遠慮がちに言った。
「ひょっとしたら、封じ込め失敗と言うことも・・・」
「まだわからんだろう。あくまで接触感染が主である限りは、爆発的に感染者が増えることはないだろう。問題は、他所に飛び火してしまった場合だ」
「事実、すでに一人広島の方まで行ってましたからね」
「幸い二次感染もないようだし、幸か不幸か本人の遺体もウイルスが生き残れるような状態じゃなかったからな。むしろ幸運だったと言ってもいいだろう。だが、こういう幸運は今後期待出来ないだろう」
「そうですね・・・」
 二人はその後、心の中でこれからどうなっていくのだろうと不安を覚えたが、口には出さなかった。一瞬顔を見合わせるとお互いの表情を見て同時にため息をついた。
「早くウイルスが見つかって欲しいです。国内でレベル4ウイルスを扱う研究室が使えなくて、海外に頼ることしか出来ないなんて、悔しいです」
「だが、今はCDCやパスツール研究所のBSL-4実験室の結果を待つしかないんだ」
(おれだって悔しいさ)
 高柳は心の中でまた言うと軽くため息をついたが、亜由美の激しく咳き込む声が聞こえ、いつものしっかりした表情に戻って彼女の方を見た。

 由利子と共に川崎家に向かったギルフォードは、その異様さに驚いた。彼は、すぐに家の前に駐車すると、門の前に立った。由利子もその後に続く。
 川崎家の門は、門扉共にバリケードのようなものが作られ、周囲には強いクレゾール臭が漂っていた。ギルフォードが顔をしかめて言った。
「これはひどいです。周囲にこんな臭いがしたら、犬にはたまったもんじゃありませんよ」
「やり方が雑で、どうも素人臭いですね。まさか、近所の人たちの仕業・・・。どうして・・・」
「とにかく入ってみましょう」
「どうやって?」
「塀を乗り越えるんですよ」
「不法侵入じゃない」
「僕等はここの家の人から頼まれています。不法じゃないです」
「・・・了解」
 由利子は肩をすくめながら言った。
 ギルフォードは長身を使って、いとも間単に塀を乗り越えた。由利子もギルフォードの手を借りながらも、比較的身軽に塀を越えた。
 中庭に入ると、二人はもっと悲惨な状況を目の当たりにした。三郎が今まで丹精を込めて手入れしていた庭が、無残に荒らされていたのである。何箇所かは土が掘り返され、植わっていたはずの植物がごっそり盗まれていた。ベランダの鉢植えは見事に壊されている。
「どうやら、空き巣も入ったようですね」
 ギルフォードがベランダのアルミサッシのガラスが割られているのを指して言った。
「ひょっとしたら、玄関のバリケードは泥棒避けで作られたのかもしれません」
「塀を乗り越えたら一緒なのに」
「流石に鉄条網を張り巡らすまでは出来なかったんでしょう。ああ、外壁に小火(ぼや)を起こしたような跡もあります。誰かが放火しようとしたのかもしれません」
「散々たるものね・・・。それで、ワンちゃんはどこかしら?」
「吼えもしないなんて、変ですね・・・」
「名前は?」
「ハツネちゃん、女の子です」
「あ」
 由利子が裏口の方を指差して言った。
「あそこに犬小屋があるわ。行きましょう」
 二人は犬小屋へ足早に向かった。近づくに連れて、悪臭が漂ってきた。
「これは・・・」
 由利子が顔をしかめながら、ハンカチで鼻の周囲を覆った。
「ひどいですね。しばらく散歩に連れて行ってもらってないのでしょう。我慢できなかったんでしょうね。可哀想に」
 犬小屋の周囲には排泄物が散乱し、すえた臭いの餌がいくつか放置してあった。
「ワンちゃんは?」
「小屋に鎖が入ってます。多分、怯えて隠れているんでしょう」
そう言いながら、ギルフォードは小屋の近くに寄ると、犬の名を呼んだ。
「ハツネちゃん?」
 小屋の中で何かが動く音がして、続いて低いうなり声が響いた。
「ハツネちゃん。可哀想に、ずっとひとりぼっちだったんですね。もう大丈夫です」
 しかし、低いうなり声をさせながら、初音は一向に姿を現わそうとはしなかった。
「あなたたち、何をしてるの! 警察を呼ぶわよ!」
 いきなり上の方で女性の怒鳴り声が聞こえたので、二人は驚いてその方向を見た。50代後半くらいの女性が、ギルフォードの顔を見て、怯えたように言った。
「誰? ガイジンじゃないの。何をしようとしているの?」
「私は日本人です」
 由利子が焦って立ち上がると言った。
「私達はここの奥さんに頼まれて、初音ちゃんの様子を見に来たんです」
「五十鈴さんに?」
「はい。すごく心配されているということで・・・。それで、えっと・・・」
 由利子はこの先どう説明すべきか判らず、ギルフォードを見た。由利子にばかり説明させるわけにはいかないと、初音への呼びかけを中断してギルフォードも立ち上がった。意外と大男だったので、女性は驚いて一歩後退った。ギルフォードは塀越しに名刺を渡しながら言った。
「驚かせてすみません。僕はこういう者です」
「はあ、Q大の・・・」
 女性はギルフォードを上から下まで見ながら言った。長めの金髪を後ろに束ね、紺色に金魚鉢のイラスト入り和風Tシャツによれよれのジーパンとごついワークブーツで、手にはフィンガーレスの皮手袋といった出で立ちで、教授と言うより、日本びいきなロックスターのような外見だ。
「感染症対策センターの方でもいろいろとお手伝いをさせていただいてます」
「ああ、あそこね」
 女性は少し顔をこわばらせて言った。
「私も一度連れて行かれましたよ」
「連れて行かれた?」
 ギルフォードと由利子が同時に言った。

 彼女は珠江の遺体第一発見者の一人、下山道子だった。道子は簡単にその時の説明をした。
「そうだったんですか・・・。大変でしたね。僕はその時、外せない用事でセンターには行けなかったのですが、お会いできなくて残念でした」
 例によって、ギルフォードのリップサービスが飛び出した。由利子はやれやれという顔で彼の方を見た。次いで道子の方を見ると、困ったような嬉しいような少し怒ったような複雑な表情をしていた。特に返事がないようなので、ギルフォードが続けて尋ねた。
「あの、ミチコさん。それであなたはどうしてここに?」
「初音ちゃんが気になって・・・」
 そう言うと、道子は何故ここに来たかを話し始めた。

 川崎五十鈴は、夫の搬送について行く際に、隣家の住人に犬の世話を頼んで行ったのだが、まさか自分まで隔離されるとは思っておらず、改めて電話で留守が長引くことを伝え、その間の世話をお願いしたらしい。それで道子は、余所の飼い犬のことなので特に気にとめていなかった。
 最初の2・3日は隣人もそれなりに世話をしていたようだが、いつしかそれがおざなりとなった。それでも初音は彼女なりに留守を守っていた。長期の留守を聞きつけた不審人物が家の周囲をうろついているのを、何度も吠えて威嚇していたらしい。そんなことなど頭にない隣人から何度も怒鳴られ、時に蹴られながら、初音は頑張ったのだろう。しかし、不審人物から腹いせに小屋の近くに放火され、火は早期に消し止められたものの、初音のダメージは大きかった。すっかり負け犬になってしまった彼女は、ついに空き巣の進入を許してしまった。幸い、川崎の息子達が金目のものを持ち去っていたので被害は大きくなかったが、それ以来、侵入者が後を絶たず、庭も廃墟のように荒らされた。警察も頻繁に巡回していたのだが、どこで情報を仕入れるのか、賊はその隙をついて侵入した。町内でバリケードを築いたのだが、ギルフォードが言ったように、そんなものは糞の役にも立たなかった訳だ。
 道子は、なんとなく気になって川崎家を覗いて見た。その時、犬小屋の中から悲しい声が聞こえた。ご近所に確認し、餌以外ほとんど面倒を見てもらってないことを知った。それ以来気になって様子を見ていたが、どうも隣人は、あの日曜の緊急放送から一歩も近づいてないようだ。しかし、犬が苦手な道子にはどうしようもない。夫に頼んでも生返事しか帰って来ない。仕方がないのでドライフードを持ってやって来たところで、ギルフォード達に出くわしたのである。

「ありがとう、ミチコさん。おかげで経緯がわかりました。とにかくこの子を至急保護しましょう。知り合いの獣医師に電話して、動物保護団体の方を呼んでもらいます。一時的にそこで保護します」
 そういうとギルフォードは電話を掛け始めた。
「あ、ハルさん? 僕です。あの、朝方お話した犬ですが、想像以上に厳しい状態です。はい。あ、来ていただけますか? よろしくお願いしますね」
 手短に電話を切ると言った。
「さて、この子をお篭りから出さなければいけませんね。太陽の女神さまなら裸で踊れば出てくるでしょうけど・・・」
「古事記まで知ってるんだ」
 由利子が感心して言った。ギルフォードはまた犬小屋の前に座ると初音を呼んだ。やはり出てくる様子はない。ギルフォードは少し困った顔をして由利子を見ると言った。
「困りましたね。ユリコ、試しに踊ってみますか?」
「なんで犬のために裸踊りせにゃならんのだ。シリアスな顔で何を言い出すかと思ったら・・・」
 由利子があきれ顔で言ったので、ギルフォードは肩をすくめると初音の「説得」を続けた。
「ハツネちゃん、恐くないですよ。出てきませんか?」
 そう優しく言いながら、ギルフォードがそっと小屋に手を入れようとした。その時、唸り声を上げて、中から犬が飛び出した。由利子と道子はてっきりギルフォードが咬まれたと思って、一瞬目を瞑った。しかし、彼は間一髪で避けていた。初音は小屋から飛び出すと、ギルフォードたちに激しく威嚇をした。彼女は長めの白い毛の雑種で、大きさは中型犬より若干小さいくらいだったが、毛を逆立てて威嚇するその姿は、さながら銀狐のようだった。
「大丈夫ですよ、ハツネ。もう恐くないです。ここにいるのはみんな君の味方ですよ」
 そう言いながら、再びそっと手を差し伸べた。道子が心配そうに言った。
「大丈夫やろか?」
「彼は、『子供と動物に好かれる天才』らしいですから、多分・・・」
 だが初音は激しく吼えると、ギルフォードの差し出した手に咬み付いた。
「アレク?!」
「大丈夫です。手袋の上からです」
 ギルフォードは由利子に安心するように言うと、すぐに初音に向かって微笑みながら言った。
「ほら、恐くないでしょう? 誰も、君に危害を与えたりしませんよ。僕らは君のお母さんに頼まれてお迎えに来たんですよ」
 初音の顔から険しさが消え、ギルフォードの手に咬み付いていた口を外した。彼女はクウンと鳴くと、上目遣いで済まなさそうにギルフォードの方を見ると、伏せて服従のポーズを取った。
「ハツネは良い子ですね。手加減して咬み付いたんですよね。じゃないと、手袋なんか食い破ってしまいますよね。ありがとう。君は優しい子です」
 そう言いながら、ギルフォードは初音の頭を優しく撫でた。由利子はその様子を見ながらつぶやいた。
「リアル・ナウ■カだ」
「ああ、良かったあ・・・」
 道子がほっとしたように言った。そこに、近所の住人らしい人影が数人現れた。彼等は様子を見ながら何かヒソヒソと話していた。
「何よ、あれ。感じ悪っ!」
 由利子が露骨に嫌な顔をして言ったが、道子は暗い表情でため息をついていた。
 

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2.焔心 (2)禍つ兆し

 由利子はジュリアスと大学内の道をそぞろ歩いていた。

 彼女は、午後からギルフォードに頼まれたとおりジュリアスに付き合って、学内の図書館で色々本を物色していたが、ジュリアス曰く、少し頭と目が疲れてきたので、学内を散歩することにしたのだった。最も、この学内散歩も本日のデートメニューであるのはご存知のとおりである。
 長身でブラックビューティーなジュリアスと歩いていると、否が応でも目立ってしまう。したがって、由利子は道行く学生達の注目を浴びながら歩く羽目になり、照れくささと若干の優越感が混じったような心持である。

「へえ、そうだったのかねー。アレックスのリアル・ナウ■カ、おれも見たかったな」
 ジュリアスが由利子の話を聞きながら、愉快そうに言った。
「ほんで、その犬は?」
「ええ」
 由利子が答えた。
「春先生が言うには、かなり弱っているしメンタル面でも少し心配があるけど、命には別状ないだろうって。後は、当面愛護団体の方で保護してくれるそうだよ」
「そうか、よかったな。住み慣れたところを出て行くのは不安だろうがね、そのままでおるよりは、ずいぶんえーだろうからね」
「でも、もし川崎さんの奥さんまで亡くなられたりして、その後の飼い主が決まらないと、最悪・・・」
「う~ん、厳しいねー」
「そうなのよ。出来るだけのことはしてくださるということだけど」
 由利子はそういうと、ため息をついた。
「しかも、他にも大問題があってね」
 と、由利子はまた続きを話し始めた。

 あの後、しばらくして春風動物病院の春先生こと小石川獣医師と、動物愛護団体の人が駆けつけてくれた。それで、後は彼等にお願いして、ギルフォードは少し道子から話を聞くことにした。様子を見に来た近所の人たちの様子に尋常でないものを感じたからだ。
「みんな、怖いんですよ」
 と、道子が言った。
「最初、秋山さんのとこで連続して死人がでたでしょ・・・」
 その後道子はしばらく沈黙したが、ぼつぼつ話し始めた。

 珠江の遺体を発見した五人はそれ以来、皆その病気が感染るかもしれないということが頭から離れなかった。しかも、道子を含め遺体の惨状を目の当たりにした三人のうち、30代女性でまだ若かった典子は、精神的にかなりダメージを受けて、今も通院中であるという。
 それでも、典子以外は年の功もあるのか比較的立ち直りも早く、まもなく日常生活に戻ることが出来た。しかし、秋山美千代が不可解な死を遂げ、川崎三郎が発症し、妻と共にどこかに連れ去られたという噂が広がると共に、彼女らに再び不安が広がった。うち一人は、この住宅地にいることに耐えられなくて、とうとう実家に帰ってしまったらしい。
 さらに、日曜の緊急放送が彼女らにダメ押しを食らわせた。この地区が疫病発生地のひとつと発表されたために、周囲から妙な噂が立ち始めており、ひょっとしたらこの住宅街が孤立するのではないかという不安が住民達に広がった。当然のことながら、道子たちへの風当たりも強くなった。幸い、道子の夫は流言飛語の類に惑わされるような人ではなかったために、彼女は家で孤立するようなことはなかった。さらに夫は町内の緊急集会でも冷静に対処すべきだ、この疫病の感染力はまだ弱い、それよりパニックのほうが深刻な事態を招くと、丁寧に住民を説得して回ったという。しかし道子は、今はなんとか町の均衡は保たれているようだが、いつバランスが崩れるかと思うと不安だと言った。
「中には過激なことを言う人たちもおっとですよ。病気の出た家は燃やしてしまえとか・・・」
 そう言うと、道子はぶるっと身を震わせた。ギルフォードは済まなさそうに道子を見ると言った。
「あなた達には申し訳ないと思っています。しかし、ウイルスを広めないようにするには皆に知らせ注意を喚起することが最良の手段であり・・・」
「知らせりゃあいいってもんじゃなかでしょうがっ!」
 ギルフォードの言葉を遮って、道子はやや語気を荒げて言った。
「私だってあの緊急放送は、必要だったとは思ぉとるとです。でも、そのせいで、私等の生活が脅かされとぉとは事実なんです。この家を見たら判るでしょう!?」
 ギルフォードは改めて周囲を見回すと、辛そうに言った。
「僕も、実際にこの光景を目の当たりにしてショックを受けています。力足らずでホント、申し訳ありません。この件については、知事に直接お知らせして早急に対策を練るよう要望しますから・・・」
「ああ先生、すみません」
 道子は、ギルフォードに突っかかったことを詫びた。
「この疫病はあなたのせいやなかとですもんね。むしろなんとかしようとしてくださっとぉとでしょう? しかも、外国の方なのに・・・。責めるようなことを言ってすみません」
「いえ、おっしゃることはごもっともですよ」
 ギルフォードは悲しげな笑顔で言った。
「あの、ところで・・・」
 道子は、遠慮がちに話題を変えた。
「川崎さん夫妻のご容態はどげんかご存知でしょうか?」
 ギルフォードは道子の質問にドキッとした。三郎は死に、妻の五十鈴も発症してしまった。だが、ここで道子にそれを知らせるべきなのか。ギルフォードは一瞬目を瞑った。道子はそのギルフォードの表情で、だいたいのことがわかったようだった。道子は目を見開いた。
「そんな・・・、先生、まさか・・・?」
 そう言うや、道子はガタガタと震え始めた。
「残念ですが・・・」
 ギルフォードは意を決して言った。
「ご主人の方は昨日亡くなられました。奥さんは、今、一所懸命病気と闘っておられます」
「ああ・・・」
 道子は両手で頭を抱えるようにしてうずくまった。ギルフォードは驚いてブロック塀を跳び越え、道子を支えた。
「先生・・・」
 道子は悲しみより恐怖に震えて言った。
「五十鈴さんまで感染っとったなんて・・・! 恐ろしか・・・。ひょっとして私も・・・」
「ミチコさん、聞いてください。カワサキ・サブローさんは、あの時蟲に咬まれたところに発疹が出来、それが膿(うみ)を持っていました。妻のイスズさんは、おそらく、サブローさんの衣類などについたその膿から感染したと考えられています。ミチコさん、あなたはあれから熱が出たり体のどこかに発疹が出来たりしましたか?」
「いいえ、いいえ。そういうことはありませんでした」
「ならば、多分ダイジョウブです。気をしっかり持って。ご主人サンがあなたを必死で守ってくださってるんでしょ? あなたもしっかりしなきゃあ」
「そうですね。私がしっかりしないと」 
道子はそう言うと、フラフラとしながらも立ち上がった。

「ひっどい話よね」
 由利子は話し終えると言った。
「しかも、意図的に撒かれたものでそんな目にあっちゃあ、たまらないわ」
 憤慨する由利子に、ジュリアスが言った。
「それが、感染症のおそぎゃー(恐い)ところなんだがや。見えにゃーものに感染する恐怖で人間関係がずたずたになるんだわ。おれに言わせれば、ウイルスより人間の方がでーらおそぎゃーて」
「そうだね。こんな恐ろしいウイルスを撒いたのも人間なんだよね・・・」
「ウイルスにとって、宿主の死は自分等の死も意味するんだがね。それだもんで、あいつらだって本当は人間と穏やかに付き合いてゃーんだがや」
「そうだよね。ウイルスが悪いわけじゃないんだ」
 由利子は納得して言った。
「おっと由利子、まあひゃあ(もうすぐ)目的地につくぞ」
 話に夢中になっていたので由利子はいつの間にか大学の裏庭に来ていることに気がつかなかった。雑木の林の中を未舗装の小道が木を避けるようにくねくねと通っている。やや中央に自然石の石積みと葦原に囲われた大き目の池が横たわり、水には数種類の水鳥が優雅に泳いでいる。
「へえ、こんなところがあったんだ。庭と言うより立派なビオトープだねえ」
「なかなかえーだろ? でも、ここを通り抜けたところの景色はもっと綺麗なんだ」
「そこが目的地?」
「そうだがね。えぇところだもんで、きっと由利子も気に入ると思うて」
「へえ、楽しみやねえ」
 二人は木漏れ日の中を歩いていった。あちこちで小鳥がさえずり、時折雲雀(ヒバリ)のせわしない鳴き声が空高くから聞こえてくる。
(なんて平和なんだろう・・・)
 由利子には、午前中の出来事がまるで別世界のように思われた。
(でも、現実は今のこの時間が別世界なんだ・・・)
 由利子は思った。

 ジュリアスの言うとおり、林を抜けると下生えのイネ科の雑草がそのまま拡がった広場があり、そこはそのまま小高い丘になっていた。ジュリアスは右手を広げ、景色を示しながらうやうやしく言った。
「由利子、おれとアレックスのお気に入りの場所にようこそ」
「うわあ・・・」
 由利子は丘の上に立つと、感嘆の声をあげた。
「すご~い、きれ~い! 大学の裏がこんな綺麗な景色だなんて・・・」
「アレックスと夜に1回だけしか来たことがなかったけんど、昼間もえ~もんだな」
「夜に1回だけしかって、おい・・・」
「ここら辺に立って夜空を見上げて少し話をして、合間に2・3回キスしたくらいだがね」
「それですんだとですかぁ?」
「あたりみゃーだろー? 由利子、おみゃ~さんは青カンが好きかね?」
「ぜぇーったい、イヤ!! って、いやその、え~っと・・・」
 相変わらずあっけらかんとして言うジュリアスに、流石の由利子もタジタジとなった。
「まあそーゆーことだなも」
「はあ、そーですかい」
「まあアレックスは不満そうだったがねー」
「え~、アレクがぁ? 意外~」
「あいつ、あー見えてけっこーケダモノなんだわー」
「ケダモノって、アンタ」
 あきれて苦笑する由利子に、ジュリアスはまたニッと笑って言った。
「月が青くて綺麗で、月光が木や草の夜露にキラキラ反射しとってよ、蛍がふわふわ飛んで来るんだわー。ほーんとロマンティックだったね~」
「そーかいそーかい」
「ほんだで、アレックスがおれを抱きしめてよー、もう離さない、何ちって、いや~、で~ら恥ずかし~なも」
「・・・」
 なんでこんな風光明媚な場所で、こいつの臆面もないお惚気(のろけ)を聞かにゃならんのだと、由利子が空しくなったところで、ジュリアスがそれに気がついて、慌てて話題を変えた。
「・・・いやまあ、・・・えっと、ここはけっこう田舎にあるからねー。裏はざっとこんな田園風景なわけだなも」
「うん。あんなところに小川があるんだね。太陽の光でキラキラしてるねえ。向こうの里山も綺麗。きっと秋は紅葉が綺麗やろうねえ」
「そうだなも。その頃ここでみんな一緒に酒盛りしながら紅葉を見よみゃーよ」
「ジュリー、日本にはずっといるの?」
「ああ」
 ジュリアスはニッと笑って言った。
「今週末にいったんアメリカにきゃーる(帰る)けど、半月のうちにまた来るがね。今度は長期滞在になる予定なんだわー」
「そっかぁ。良かった」
「ウザイとか思わにゃーのかねー?」
「何で? せっかく友だちになれたんじゃない。葛西君だってすっかり懐いているし」
「懐いたって、あいつは子供かねー」
「あはは、お子ちゃまデカ。だっていつの間にか、あなたにタメ口になってるんだもん」
「そりゃー、二人してメガローチと格闘したんだがや。言ってみりゃー戦友みてゃーなもんだろ。半日もありゃーうちとけるってもんだわ」
「そりゃあそうだわね。まあ、それはともかく、秋頃にはこの騒ぎが収まっているといいね」
「そうだねー。そう願いてゃーねー」
 そう言いながら、彼は丘に生えたいくつかの木のなかで、目立って大きな木の傍に向かった。
「ケヤキだなも。この木陰が涼しげでえぇかね」
 ジュリアスはぽんぽんと木の幹を軽く叩きながら言うと、丘の斜面側を向いて木の根元あたりに座った。
「由利子もそこら辺に座りなせゃー。犬のうんこがにゃーか気をつけてちょーよ」
「もう、変なこと言わないでよ」
 由利子は笑いながら言ったが、言われると気になってしゃがんで草むらを注意深く見た。
「冗談だて。多分この辺りは大丈夫だがや。それに今日は朝からわりと天気がえーて、地面もだいぶ乾いとるし、草の上だったら心配しのーてもえーよ」
「あ、そう」
 由利子はジュリアスに言われて、安心して彼の傍に腰を下ろした。
「ねー、由利子。こうしとると端から見たらおれたち恋人同士に見えるかねー」
「そうね。見えるカモね。しかも男同士の」
「そう来たかね」
 ジュリアスはそう言うとカラカラと笑ったが、すぐに真面目な顔をして言った。
「気にするな、由利子。確かに乳はにゃーけどおみゃーさんは充分えぇ女だもんでよ」
「なんか、素直に喜べないけど、ありがとう」
 由利子が肩をすくめながら言うと、ジュリアスはその後さらに神妙な顔をして尋ねた。
「ところで、アレックスのヤツ、何かあったのきゃー? せっかく昼飯を一緒に食おうと思っとったのに、『ごめん急ぐから、事情は後で説明する』とか言って、ずいぶんと焦って出て行ったみてゃーだが」
「ああ、あれ」
 由利子が答えた。
「私たち、あの後すぐに大学まで行ったんだけど、あなたと会うまでに時間があったんで、せっかくだからアレクの講義を聴講させてもらってたんだ。そしたら、緊急の電話が入ったみたいで・・・」
「授業中に電話?」
「うん。こういう時だから、何かあった時のために電源を切らないようにしているらしいんだ。で、みんなに事情を説明して電話に出るために講義室を出て行ったんだけど・・・」
「だけど?」
「何やら当惑したような顔で帰ってきたんだよね。授業は最後までやったけどさ、なんとなくいつもの余裕みたいなんがなくなってたなあ。2・3回とちってたし・・・」
「そりゃあ妙だがや。何があったのかねー」
「気になるよね。だから講義の後、アレクにどうしたのか聞いてみたんだけど、返事が『わからないけどとんでもないことが起こったらしい』って、なんかアレクも状況が把握できていないようだったんだ」
「そりゃー、ますます気になるじゃにゃーか」
「うん、そうなのよ。でも、状況がわかってから聞くしかないものねえ」
「仕方にゃーか。まあそーだろーねー」
「で、ジュリー」
 今度は由利子が神妙な顔をして言った。
「そろそろ本題に入ろうよ。以前言った私に何か話したいってことを言うためにここに誘ったんでしょ?」
「ああ、そうだがや。ここならあまり人が来にゃーから、ゆっくり話が出来るからね。それに、昼間はけっこう見晴らしがえーから、おみゃーさんも妙な心配もしのーて済むしな」
「妙な心配って・・・」
 由利子が苦笑しながら言った。しかし、ジュリアスは今まで見た事が無いような真摯な表情をして、由利子を見据えながら言った。
「その前に聞きてゃーんだが、今から話すことはとても重い話なんだわ。おみゃーさんにそれを受け止めることが出来るかね? そして、それを知らにゃー振りをしながらアレックスをフォローすることが出来るかね?」
「なんだか恐いな。そんなにヘヴィーな話なの?」
「重いし、聞いた後後悔するかもしれにゃーて」
「え~っと、困ったなあ」
「それに、これは多分紗弥も知らにゃー話なんだ」
「紗弥さんも? 何で?」
「あー見えて、あいつにもトラウマがあってなー。まあ、そういうわけで教えておれせんらしいんだわ」
「えー、そうなの? 意外だなあ。でも、私は知っていた方がいいっていうことね?」
「おれは、そう判断した。だもんで話そうと思ったんだわ」
 ジュリアスは、真剣な顔で由利子をまっすぐに見ながら言った。
「わかった。腹を決めたわ。この際ドンちゃんドンと来い何でも来い、よ。さ、話して」
「なんか、懐かしいフレーズを聞いたよーな気がするけどよ・・・」
 ジュリアスはそう言って笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「これは、アレックスが子供の頃彼の身に起こった事件だて」
 ジュリアスはそう前置きすると話し始めた。

 その頃、感対センターのセンター長室では大の男が5人、厳しい顔をして座っていた。
「みなさんお忙しいところをご足労いただき、申し訳ない。私が今、ここから身動き出来ない状態なものでね」
 と、高柳が口火を切って言った。
「しかし、困ったことになってしまいましたな」
 高柳が組んだ腕を組み変えながら続けた。さっき来たばかりの松樹が手にした雑誌に目を通してから言った。
「これについては、昼頃、関連記事部分だけ『どういうことか』とう質問付で、本庁からPDFデータで送付されて来ていましたが、雑誌本体はまだこっちでは発売されていないはずです。いったいどういう経緯でここに?」
「今、知事がこの事件の関係で上京していてね。たまたま空港の本屋でそれを見つけたらしいんだ。それで、今日帰す予定の付き人の予定を早めて急いで帰らせてこれを届けさせたということだ」
「気の毒に、とんぼ返りですか」
 九木(ここのぎ)はそう言うと、両眉を上げ口を軽くへの字に曲げた。本気で同情しているらしい。その様子を見て高柳が言った。
「まったくですな。彼はそのせいで耳鳴りが悪化したと言って耳鼻科に行ったそうですが」
「まあ、それが一番早く届ける手でしょうけどね。しかし、私も松樹さんから送られてきた記事を見せられた時は  驚きました。この記事について、あなた方は何かご存知ですか?」
「九木さん」
 と、九木の隣に遠慮がちに座っている葛西が言った。彼は、新たに九木と組むことになったのだ。
「調書を読まれたならご存知と思いますが、祭木公園で美千代が自殺した事件を隠れて見ていた、真樹村極美という女性がいました。おそらく、彼女はこの雑誌記者だったんでしょう。しかし、あの時長沼間さんが写真データを全て削除したはずですが・・・」
「しかし、実際に雑誌にはその写真が掲載されているんですよね」
「はい。おそらく見つかる前にメールでどこかに写真を送付していたのでしょう」
「まあ、そういうところでしょうね。しかし、私が聞きたかったのはそういうことじゃない。この記事の内容についてなんだ。この写真の”ブラッディ・プロフェッサー(血まみれの教授)”、顔は目線で隠れているが、これは紛れもなくあなたですな、ギルフォード教授?」
「はい」
 今まで黙って雑誌の表紙をじっと見ていたギルフォードが、ようやく口を開いた。
「しかし、ブラッディというのは、とても不愉快です。たしかに僕は、アフリカで疫病で死にかけたときは血まみれになりましたがね、洒落になりませんよ」
 ギルフォードが眉を寄せながら言った。残りの4人はそれを聞いてまじまじと彼の顔を見た。一様に鼻白んでいる。ギルフォードは、いらんことを言ってしまったという顔をしたが、すぐに話を続けた。
「これは、知事に頼まれてアキヤマ家に説明をしに行った時のものです。その時アキヤマ・ノブユキさんの首吊り自殺現場に遭遇して、僕等も救出に協力しました。これはその時ついたノブユキさんの血です。この写真はノブユキさんが救急車で搬送される時に撮られたもののようですが、一体どこで撮られたのかは、さっぱり・・・」
「まあ、望遠レンズを使えば可能でしょう」
 と、松樹がフォローした。
「ええ、おそらくそうでしょうね」
 ギルフォードが続けた。
「その後、僕の秘書のタカミネが、アキヤマ家の様子を伺う不審な車に気がついて追跡しようとしましたが、その車はすぐに逃走してしまいました。おそらくそれにそのキワミとかいう女性が乗っていたんでしょう。ジュン、いえ、カサイ刑事の調書にあったように、彼女には協力者がいるようですから」
 葛西がその補足のためにギルフォードの後に続いて言った。
「しかも、その協力者は多美山さんが危篤であることを知っていました。そいつは、僕が極美という女性を発見して任意同行しようと試みた時、妨害をし彼女を逃がしたのです。かなり怪しい男です」
葛西の説明に、九木が尋ねた。
「おそらくテロリスト側だと?」
「はい。その可能性は高いですね」
 葛西は言った。
「では、この記事は、テロリスト側が記者に干渉して、世論のミスリードを図った記事を書かせた、ということなのか?」
「はい。その可能性は高いと思います。ただ、この雑誌はかなりタブロイド色が強いので、どこまで影響があるかは・・・」
「しかし葛西君」
 松樹が話に割って入った。
「そういう類の雑誌とは言え・・・、いや、だからこそ、まだ我々が公表を控えているテロという可能性をスッパ抜かれたのは非常にまずいことだよ」
「正式発表した時、この記事がどんな作用をするかわかりませんからな。すくなくとも良い状況ではありませんな。とりあえず、当分の間ギルフォード教授が表面に出ることは控えた方が良さそうだ」
九木がギルフォードの方を見ながら、冷ややかに言った。それに対してギルフォードは、不機嫌そうに答えた。
「僕は、もともと表に立つつもりは毛頭ないですケドね」
「まあ、それはともかく、まずこの記事の内容を検証すべきですな」
 高柳が二人が険悪になりそうな雰囲気を察して、話をすすめた。

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2.焔心 (3)アレックス~前編~

 以下の話は、ジュリアスが由利子に話したギルフォードの過去に、いくつかの事実を補充したものである。話の進行上、特に中編後半以降に一部残酷な表現が入ることを前もっておことわりしておく。

*****

「ぼっちゃま、どこでございますかー?」
 森の中を年老いた教育係が、虫を追い掛けて遠くへ行ってしまった跳ねっ返りの小さな御曹子を探していた。
「じいは隠れんぼが嫌いでございますよ。もし、ぼっちゃまに何かあったら、じいは御館様に八つ裂きにされてしまいます~。後生ですから出て来てくださいまし」

「シーッ、静かにおし!」
 少年ギルフォード・・・ここではジュリアスに準じてアレックスと呼ぼう。彼は、崖の近くに生えた大木の陰に身を潜め、虫取り籠の中で騒ぐ虫たちに言った。
「出てなんか行かないよ。今日こそは母様に青いチョウを採ってさしあげるんだから。ポールなんかに付き合ってたら、また日が暮れちゃうじゃないか」
 アレックスは口を尖らせながらつぶやいた。

 さっきまですぐ傍で探していたらしいポールの声も今は遠く響き、アレックスはクスリと笑った。
「ようやく行ったね。でも、もう少し遠くに行ってからここを出るとしよう」
 そういうと彼は捕虫網を持ち替えた。
「ぼっちゃまぁぁぁ・・・・」
 ポールの声が風に紛れる程になったので、アレックスは立ち上がった。
「やった~! これで自由だぞ!」
 しかし、あまりにも勢いよく立ち上がったので、アレックスは半ば森の腐葉土になりかかった落ち葉の層に滑ってバランスを崩した。
「あっ!」
 アレックスは短い悲鳴を上げると、そのまま崖を転げ落ちて行った。
「ポール、ポール、助けて!!」
 しかし、ポールを撒いてしまったのは他ならぬアレックスである。彼は空しく助けを呼びながら崖下まで落ちていき、途中、気を失ってしまった。

 数分経っただろうか。アレックスは目を覚ました。崖が比較的緩やかだったのと、枯葉の山がクッションになって、奇跡的にかすり傷程度で済んだアレックスだったが、服はよれよれになり、全身泥まみれになってしまった。これでは彼がギルフォード家の御曹子とはだれも思わないだろう。
 アレックスは身体を起こしたが、地べたに座り込んだまま周囲を見回した。
(ここはどこだろう?)
 彼は最初混乱し、何があったか判らない状態であったが、徐々に自分の置かれた状況がわかってきた。アレックスは自分の落ちた崖の上を見た。かなり高く滑りやすそうで、とてもそこを逆につたって帰ることは不可能に思えた。彼の居る場所はまだギルフォード家の敷地ではあったが、がけ下の山道は、ギルフォード家が厚意で民間に解放しており、誰でも通ることが出来るようになっている。
 まだ幼いアレックスは、自分の家の敷地をまだ十分に把握していなかった。まあ、大の大人でも広すぎて迷うくらいのシロモノではあったが。30年以上前のことだから、今ほど通信機器も発達しておらず、当然携帯電話もGPSも存在しない。
 家人に連絡を取る術のないアレックスは、山道を通る車を止めて事情を話して屋敷まで連れて行ってもらおうと考えた。父親はかなり厳しかったが、それ以外の者は皆彼に優しく、従って、彼は今まで大切に育てられており、人の悪意に触れたことが無かった。それで、今回も心配することなく家に帰れると考えた。青い蝶は、また次回にしよう。彼はそう切り替えて、立ち上がった。
 そして彼の後を追うように落ちてきた捕虫網を拾って持ち、改めて虫かごの昆虫たちを見た。彼等はアレックスの落下によって激しく揺さぶられ、混乱していた。死んだようになっているものもいた。
「ああ、ごめんよ。ぼくのせいで・・・。すぐに逃がしてあげるからね」
 彼は再びしゃがみ込むと、虫かごの蓋を開け昆虫達を解放した。翅のあるものは飛立ち、そうでないものも一目散に逃げ出した。死んだようになっていた虫も、すぐにもぞもぞと動き出した。ショックで仮死状態になっていたらしい。昆虫には良くあることだった。
「ああ、良かった。みんな生きてた!」
 アレックスは、ほっとしながら虫かごの蓋を閉めると立ち上がった。午後からの夏の日差しが照りつけて来たので、アレックスは日陰に入って車を待とうとトボトボと歩き出した。

 アレックスは、じりじりと日に照らされて、その暑さに目を覚ました。道路わきに出来た木陰に座って車の通るのを待っていたが、いつの間にか眠っていたらしい。その間に日が動いて木陰が移動したのだ。アレックスはヨロヨロと歩いて移動した木陰に座りなおした。
 森の方では、ポールの知らせを受けアレックスの捜索が始まっていた。しかし、だれも彼が崖下に落下してしまったなどとは考えもしなかった。森の中で人が迷うことは珍しくなかったからである。
「のどがかわいた・・・」
 アレックスは軽い脱水症状をおこしていた。普段ならメイドやポールが至れり尽くせりで守ってくれた。喉が渇いたといえば、すぐに飲み物が用意された。しかし、こんな道端ではそんなことは当然不可能である。頼みの車もなかなか通らなかった。既に夕方の時間帯に入ろうとしており、影が長く伸びてきた。日が落ちてしまうと、いくら夏とはいえ、アレックスの軽装ではとても辛い夜になるだろうことは彼にも想像出来た。不安におののきながらも気丈な彼は泣こうとはしなかった。普通の子供なら泣き喚いてそれだけで体力を消耗してしまっただろう。彼は辛抱強く希望を失わずに待ち続けた。
 日も落ち周囲が黄昏て来た頃、1台の車がやってきた。アレックスはすかさず道路に立って、両手を振りながら車を止めた。件の車はアレックスのすぐ前で止まった。
「なんだ?」
 車の中から助手席の男が窓を開けて、アレックスを上から下まで見ながら言った。アレックスは礼儀正しく言った。
「あの、道に迷ったんです。よかったら家まで乗せてもらえないでしょうか」
「迷子のヒッチャー(ヒッチハイカー)か? しっかし小汚いガキだな」
「だが、奇麗な顔をしているぜ」
 男達はアレックスを見ながらヒソヒソ話していたが、ニヤニヤ笑いながらアレックスを舐めるように見て言った。
「おう、乗せてやるよ。後ろに乗りな」
 しかし男達の様子から、アレックスは不吉な悪意を察し数歩後退りをした。
「どうした? 乗れよ?」
「ごめんなさい。やっぱりいいです」
 アレックスはそう言うや否や、車の進行と反対方向に駆け出した。
「くそっ、追え、ジャコボ!」
「承知!」
 助手席から若い方の男が飛び出して、アレックスの後を追った。その後車はタイヤの音を軋ませながら、向きを変えた。
 アレックスは捕虫網を投げ出して必死で逃げた。彼の足は同年代の子の中では早い方だったが、所詮子供の足、若い男の脚力とは比べるべくも無い。アレックスは追っ手の距離がだんだん短くなっていることを察した。心臓が破裂するかと思った時、何かが目の前を遮った。さっきの車が先回りをして通せんぼをしたのだ。行く手を遮られたアレックスは、力尽きてその場にうずくまった。
「このガキ、手を掛けさせやがって」
 追いついてきたジャコボと呼ばれた男が、そんなアレックスを片手で抱えあげながら言った。アレックスはハアハアという荒い呼吸の中で、男をにらみつけて言った。
「無礼者! 何を・・・!」
「はあ?」
「愚かな・・・ぼくを誰だと・・・」
 アレックスはようやくそこまで言うと、激しく咳き込んだ。
「はあ、参ったな。頭のおかしいガキかよ。綺麗な顔をしてもったいない」
「いいから、早く車に乗せろ。誰か来る前にズラかるぞ!」
「判ってるって、ステュー」
「ついでに網も拾っておけよ。何で足がつくかわからないからな」
「へいへい」
 ジャコボはもがくアレックスを車の後部座席に放り込んだ。
「何するの、離しなさい! おまえたち、このままではすまされませんよ!!」
「あ~、五月蝿いガキだな。ジャコボ、黙らせとけよ」
「へえへえ、おいガキ、こっちむけよ」
 ジャコボはアレックスの顔を無理やり自分に向けると、自分のジーパンのポケットからハンカチを出してアレックスの口に押し込んだ。その上から頭に巻いていたバンダナで猿轡をした。アレックスは言葉を奪われたが、怒りの表情でキッとジャコボを見据えた。
「おお、恐。気の強いガキだね、こりゃあ。普通なら泣き出すところなんだが。・・・おっと、逃がしゃしねぇぜ」
 アレックスは、ジャコボの脇をすり抜けて逃げようとしたが、首根っこを引っつかまれ敢え無く阻止されてしまった。アレックスはじたばたしながら何か言ったが、当然唸り声にしかならなかった。
「生きの良いガキだな。妙に話し方がお上品だったが」
「面倒だから縛っとけよ」
「可愛そうだけど仕方ないなあ」
「心にも無いことを言うなよ、ドSの癖に」
「へっへ~」
 ジャコボは笑いながらアレックスの両腕を後ろ手に掴むとガムテープで縛った。ついで、両足も拘束する。アレックスはついに諦めて目を瞑った。悔しさで涙が滲む。彼は愚かな行動をしてしまった自分を呪った。
「これ、どうするよ?」
「そこにジャガイモを運んだ麻袋があるだろ? それを被せて後部座席の床にでも転がしとけ」
「OK。悪く思うなよ、ガキ。恨むなら俺達に出会った運命を恨みな」
 アレックスは頭から麻袋に入れられ、乱暴に床に投げ捨てられた。
「おっと、いけねえ」
 ジャコボは走って捕虫網を拾って来ると、それも後部座席に投げ入れ、助手席に滑り込んだ。と、同時に車が発進し、あっという間に姿を消した。

 数十分後、アレックスは車から出され、袋のまま担ぎ出された。後部座席の床で、車の揺れるがまま成す術もなく体のあちこちをぶつけ、しかも車酔いまでしてしまったアレックスはぐったりしていた。昼から飲まず食わずだったので、なんとか吐くことは免れたが、具合は最悪だった。
 彼はしばらく担がれたまま、どこかに移動させられていたが、いきなり床に投げ出され、麻袋から出された。アレックスは、床に座り込んだ状態で周囲を見回した。どこかの住宅の居間の様なところだったが、周りには一癖も二癖もありそうな40~20歳代の男達が4人ほどと、60歳くらいの太った女が居た。
「どうしたんだ、この汚ねぇガキは?」
 一番年長でリーダーらしい男が訝しげな顔で二人に尋ねた。
「ああ、オヤジ、こいつは・・・」
 年長のステューが説明した。
「昆虫採集で山に入って迷子になったらしくてね。山道にうずくまっていたんだ。自分ちも判らないようだし、少し頭もおかしいみたいだけど、上玉だろ? 高く売れそうなんで連れて来たのさ」
「どれどれ」
 太った女がアレックスに近づくと、彼のあごを掴み顔を自分に向けさせてジロジロと見ながら言った。
「ふん。ほんとに上玉だね。綺麗な子だよ。本当に男の子かい」
 女はそう言いながらアレックスの股間に手を伸ばした。アレックスはビクッとして、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
「あっははは。確かに男の子だ。さぁて、アル、おまえの出番だよ。その前にこいつを風呂にいれておやり。こんなに汚きゃ上玉が台無しだよ。ジャコボ、手伝っておやり」
 怒りに震えながら涙ぐむアレックスを尻目に、女は若い男二人に命令した。
「了解」
 女に呼ばれ、アルはツカツカとアレックスの傍に来ると、彼を抱きかかえて言った。
「さあ、ぼうや、おいで。小奇麗にしてやろうな」
 彼は、黒人で背が高く細身な30歳くらいの青年だった。ジャコボのほうは中背で労働者っぽくからだのがっしりとした、20代半ばくらいの白人だったが、少しイタリアなまりがあるような感じがした。アルという男の方も、少し言語体系が違うように思われた。アレックスは二人の男に連れて行かれながら『オヤジ』と『グラン・マ』の会話を聞いていた。
「おい、グラン・マ。大丈夫なのか、ジャコボなんかに手伝わせて」
「アルは優しい子だからね。飴と鞭でちょうどいいだろ?」
「なるほど、ちげぇねぇや」
 『オヤジ』はそういうとげらげらと笑った。

 アレックスはバスルームの中に放り込まれた。狭く汚いバスルームに驚いて、アレックスは一瞬キョロキョロした。
「何をビックリしているんだい?」
 アルは笑いながらアレックスの猿轡を解いた。ついで口に詰め込まれたハンカチを取る。
「こんな子供にひどいことをするなあ」
 アルは、唾液まみれになったハンカチを見て顔をしかめ、ジャコボの方を向いて言った。
「しかも汚ねぇハンカチをツッコミやがって・・・。キサマがやったのか?」
「仕方がなかったんだよ。コイツ五月蝿くてな」
「はやくぼくを解放しなさい」
 言葉を解放されたアレックスが二人に言った。ジャコボはそれを見て肩をすぼめながらアルに言った。
「こんな風だよ」
「急ぎなさい。でないとあなたたち・・・」
「うるせぇ!!」
 ジャコボがいきなりアレックスの左頬を殴った。
「てめえ、自分の置かれている状況を考えやがれ!! 今ここで絞める事だって出来るんだぞ!!」
 ジャコボはそう言いながら片手でアレックスの首を掴んだ。アルが驚いてジャコボの手を掴んでいった。
「やめろ!! 商品に傷をつけるなっ。オヤジから半殺しの目に遭うぞっ。いいから手を離せ。ぼうや、おまえもだ。ジャコボの言うとおり、今置かれている状況を理解しろよ。いいから大人しくするんだ」
 アレックスは頬を押さえ大きく目を見開いていたが、こっくりと頷いた。
「よし、いい子だ。今ガムテを外してやるからな。食い込んでいるからちょっと痛いかもしれないが、我慢しろよ」
 アルはそう言いながら、まず手のガムテープを取る作業にかかった。
「へっ、さすが子持ちだな。ガキの扱いに慣れてらぁ」
「暴力のせいで妻子に逃げられたキサマとは違うんだよ。ここはもう俺だけで大丈夫だ。もういいから出て行け!!」
「何ぃ?」
「俺に逆らうのか?」
「てめえ!! ちょっとオヤジに気に入られているからって、いい気になりやがって」
「おまえに写真技術を教えてやっているのは誰だ?」
「わーったよ、センセイ。けっ、ニグロがっ!! f*** *** *** ****!!」
 ジャコボは捨てゼリフを吐いてバスルームから出て行った。アルはあきれながらため息をついた。
「子供に汚い言葉を聞かせるんじゃねえよ」
「あの、あの人今何て・・・?」
「おまえは知らなくていい。さあ、ガムテープを外したぞ。きつく縛られてたんで痣になってる。痛くないか?」
「はい」
「強いな、おまえ。じゃ、服を脱がせてやろうな」
「ぼく、それくらいなら一人で出来ます」
「そうか?」
 そういうと、アルはいきなりアレックスの身体を引き寄せた。
「あ、何を?」
(シッ!)
 彼は黙れという仕草をすると、耳元に口を近づけて囁いた。
「今は無理だが、隙を見て逃がしてやる。それまで何があってもがんばるんだぞ」
「アルさん・・・?」
 アルはすぐにアレックスから離れると、立ち上がって言った。
「じゃあ、着ている物はこの籠にいれてドアから外に出しな。俺は戸口で見張っているからよ」
 アルはそのままバスルームから出て行った。アレックスは服を脱いで籠に入れると、そっとドアから外に出した。
「OK、ぼうや。じゃあ鍵を閉めるからな。風呂から上がったら言ってくれ。バスタブの使い方はわかるか」
「はい」
「そうか。ガキのころ俺んちなんてシャワーしかなかったがな」
 アルはそう言いながらドアを閉めて、ぴしゃりと鍵をかけた。アレックスは、風呂に湯を貯める前に、水道から直接水を飲んだ。午後からずっと水分補給をしていない上に、猿轡のせいで唾液が流れ続けたため、かなり脱水が進んでおり、もう限界に近かった。水道の水はサビと若干黴臭い臭いがしたが、贅沢は言っていられなかった。

 風呂から上がってからが、アレックスにとって本当の悪夢だった。
 彼は、裸のままバスタオルを被せられ、『オヤジ』と『グラン・マ』の前に引っ張り出された。その後素っ裸でベッドに寝かされ体中を調べられた。死にたいほどの屈辱だったが、アルの言葉を信じて彼はそれに耐えた。
「ふん。健康だし身体も綺麗だね。何箇所かの擦り傷と、あのジャコボの馬鹿のせいでついた頬と手足の痣はすぐに消えるだろうよ」
 グラン・マはそう言うと野卑な笑みを浮かべて続けた。
「しかし、洗ったらますます上玉に磨きがかかったねえ。着ているものも上っ面は泥だらけだったけど、後は綺麗なもんだったよ。しかも、全てが高級品だ」
「おい、ぼうず。おまえ、本当は良い家の子だろ?」
 オヤジがアレックスの顔を掴んで引き寄せながら言った。
「脅迫したら良い金になるぜ、きっと。さあ、言いな。どこの子だ?」
 しかし、アレックスは言わない意思表示に、口をぎゅっと結んで反抗的な表情でオヤジを見た。
「何だ? このガキ、ずいぶん気が強そうだな。お仕置きされたいのか、あ~ん?」
「オヤジ、やめてくれよ。それにこの子は自分の家もわからないそうじゃないか」
 アルが止めると、グラン・マも同じく言った。
「アルのいうとおりだ、止めときな。もしそれで足がついて逮捕されたら、全員終身刑だよ。いつもどおり写真を撮って、闇ルートで斡旋してどっかのスキモノに売り払っておしまいさ」
「ちぇっ」
「ちぇっ、じゃないよ。さ、アルや、さっさとコイツを撮影してやりな」
 グラン・マは、オヤジに解放さされた後、裸で不安そうにベッドに腰掛けたままのアレックスを指して言った。
「了解です。じゃ、ぼうや、はじめようか。そのままじゃ何だから、俺のシャツを着な」
 アレックスは、言われるままにアルが差し出した白いシャツに袖を通した。アルはそこでアレックスに言った。
「あ、ボタンは留めないで。前ははだけたままがいいや。袖口も折らないで、指先をちょっとだけ出して」
 それを見て、オヤジが口笛を吹いて言った。
「ヒュウ~、こりゃあ、素っ裸よりヤバくねぇか?」
「芸術と言ってくださいよ」
「気取るんじゃねぇよ。今のおまえは単なるポルノ写真家だろーが」
「とにかく、この子にはそういう行為は無しですからね。この子は綺麗なままの方が高く売れますよ」
「まあ、ここにはそういう趣味のヤツもいないしな。まあいい、好きにやんな」
「はい。じゃあ、左頬にはジャコボの馬鹿に殴られた痣があるから、右側から撮ろうね。擦り傷が目立たないようにソフトフォーカスをかけて・・・。ライトは、そうだな。変に色がついたのより自然光に近いのがいいか」
 アルはブツブツいいながらもテキパキと準備をすると、カメラを抱えて再びアレックスの傍にやってきた。
「じゃ、ぼうや。撮るからそのままベッドに横になって。大丈夫、誰も変なコトしないから」
 アレックスは言われるままに、横になった。今はアルを信じて言うとおりにするしか、彼には選択肢はなかったのである。

 男達が酒を飲んで乱痴気騒ぎをしている。その食堂のテーブルの片隅にアレックスは座っていた。彼の目の前には、彼が今まで見たことも無いような粗末な料理が置かれていた。アルはアレックスが隣で縮こまっているのに気がついた。
「どうした? 連中の大騒ぎにあきれているのかい?」
「・・・ええ、それは、まあ・・・」
「メシ、ちゃんと食えよ。口に合わないかもしれないけど、食わないとこれからもたないぞ」
「あの、ごめんなさい。さっきからなんだかお腹の具合が・・・」
「腹を壊したのか? すまん。ずっと裸同然だったから・・・」
「違うと思います。のどが渇いてて、我慢出来なくて、お風呂で水道の水を飲んだんです。多分それで・・・」
「水道水で腹を壊したのか? これだから、おぼっちゃんは・・・」
「あの、トイレ・・・。もう限界。。。」
「わ~~~~っ、ちょっと待て」
 アルは焦ってアレックスを抱えると、トイレに走った。オヤジが驚いて声をかけた。
「どうしたい、アル?」
「おぼっちゃんが、御腹痛で~~~す」
 アルは、声だけ残して食堂から姿を消した。
「へえ、えーとこボンでもやっぱ腹下しするんだな。・・・おい、ジャコボ。アルが妙な動きをしないか見張っとけ」
「承知」
 ジャコボは嬉しそうにアルの後を追った。

「あれ? ここは?」
 アレックスは、粗末なベッドで目を覚ました。そこは、何となく酸っぱいような薬品臭いような独特の匂いが漂っていた。後ろを向いて、なにか作業をしていたアルが、気付いて振り返った。
「おっ、気がついたか」
 アルは、銀色の容器を手にしてやって来ると、その容器をサイドテーブルに置いて、ベッドサイドに座った。
「あの、ぼく、どうしてここに?」
「おまえ、出すモン出してほっとしたんだろ。俺が抱きかかえたらそのまま眠っちまったんだよ。ここは俺の部屋だ。ちったぁ安心して眠れるぜ。俺はソファにでも寝るから」
「そんな。ぼくが居候なんですから、ぼくがソファで・・・」
 アレックスは言いながら起き上がろうとした。アルは驚いてそれを止め、無理やり寝かせると言った。
「馬鹿野郎。病気の子をそんなとこに寝かせられるか。それに、おまえだって好きでここに来たわけじゃないだろ?」
「すみません」
「だから、気を使うなって、えっと、あれ、名前を聞いていなかったな。何て名だ?」
「・・・」
「ま、言いたくなかったらいいけどさ」
「アレクサンダー・・・です」
「アレクサンダー? あの大王様と同じ名前か。あっはは、こりゃあいいや」
「変ですか?」
「まあ、彼も金髪の美青年だったようだから、ガキの頃はおまえに似てたかもな。目はオッドアイだったって話だが」
「オッドアイ?」
「左右で目の色が違うんだ、ボウイみたいに。彼はブラックとブルーだったかな」
「詳しいんですね」
「本が好きでね。特に歴史がさ。金がなくてハイスクールには行けなかったけど」
「・・・・」
「そんな気の毒そうな目で見るなよ。却って惨めになるんだせ?」
「ごめんなさい」
「まあいいさ。じゃあ、愛称は俺と同じアルだな。アル・ジュニアだ。俺は、アルバート。改めてよろしくな、ジュニア」
 アルはそう言いながら右手を差し出した。アレックスも毛布から右手を出して彼の方に伸ばし、それを掴んで言った。
「はい。こちらこそ、よろしくです」
「じゃあ、俺はちょっと作業の続きがあるからな。寝ててイイぞ」
 彼はそういうと、ベッドサイドにおいていた銀色の容器を持って、流し台に向かった。
「お部屋に流し台があるんですね。その容器は何ですか?」
「ああ、これは1本用のフィルム現像器だよ。この中で、現像・定着・水洗が、しかも、明るいところでできるんだ。ま、フィルムを入れる時だけは光はご法度だけどね。」
「へえ、何か判らないけど、すごそうですね」
「この部屋、変なにおいがしてるだろ? 現像液の臭いさ。そろそろ定着が終わるから、後は洗浄して乾燥させれば出来上がりだ。地下にちゃんとした写真室を作っているんだが、今日は1本だけだったし、おまえが心配だったんで、これですることにしたんだよ」
「それ、ぼくを撮ったフィルムですよね。一体あんな写真を何に使うんですか?」
 アルは答えなかった。
「それから、ぼく、これからどうなるんですか」
「・・・・・・」
 やはり、返事が無い。
「あの・・・」
「・・・あのな、おまえは知らない方がいいよ」
 アルは振り返って、手を拭きながらまたアレックスの方に歩いてきた。そして、彼の傍に手を付くと、顔を近づけて再び小声で言った。
「ジュニア、おまえは俺が絶対に逃がす。だから、先のことは心配するな」
「・・・はい」
 アレックスは小さく頷いた。

(中編に続く)

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2.焔心 (4)アレックス~中編~

R18(後半、子供に対する過度な暴力表現があります。ご注意ください)

「あの、アルさん」
アレックスは作業中のアルに声をかけた。
「『さん』は要らない。アルでいいよ」
「じゃあえっと・・・アル、今何をしているの?」
「水洗が終わったんで、水切り液に浸けているところさ。フィルムを乾燥する時、フィルムについた水滴が乾いて出来る、まだらな汚れが残らないようにするんだ。さて、後はこれを乾燥させるだけだよ」
「へえ、面白いですねえ」
「じゃ、俺、ちょっとこいつを下の乾燥機で乾かしてくるからな」
アルはそう言いながら、濡れたままクリップに挟みぶら下げたフィルムを持ち上げアレックスに示すと、ドアに向かった。彼はドアに手を伸ばし開けながら、アレックスの方を振り向いて言った。
「ジュニア、鍵をかけておくからね。俺が帰って来るまで、絶対に開けるんじゃないよ。いいね?」
「はい」
アレックスは、ベッドの中から返事をした。
「じゃ、すぐに帰ってくるから。俺とオヤジ以外、この部屋の鍵は持ってないはずだからね。いいかい、絶対に開けちゃあだめだよ」
アルは念を押して言うと、部屋から出て行った。しかし、アレックスは閉まったドアの向こうで話し声がし始めたのが気になって、ベッドから起き出してドアの扉越しにそっと聞き耳を立てた。
「・・・だろう? だいたいジャコボ、キサマ、何でそんなとこに立ってるんだよ」
「何、オヤジからおめぇを監視するように言われてな」
「オヤジが?」
「ああ、おめぇが妙な行動をしねえように見張っておけってな。おめぇは気に入られているようだが、信用はされてねえみてぇだな」
「はっ、こんな商売をやってりゃあ、誰も信用出来なくなるさ。俺もキサマもな」
「あのガキを見つけたのは俺だぞ。返せよ」
「俺は、オヤジから許可をもらったんだ。キサマに預けるよりもはるかに安全だってな。同じ信用されていなくてもな、キサマとはレベルが違うんだよ。悪いな」
「てめえッ!!」
「猛獣の檻に兎を入れるようなもんだろ。違うか?」
 アレックスは、それを聴いて一瞬体が縮み上がった。
「てめえ・・・、許さねぇ・・・」
「おっと、やるか? 俺がボクシングで何回か地域優勝をしているのは知っているな?」
「くそ、ふざけやがって・・・」
「うるせえ。ほざいてねえで、さっさと行け。オヤジに伝えろ。あいつの面倒は最後までちゃんと俺がみるから心配すんなってな」
「手を出したら承知しねぇからな」
「俺にはそーゆー趣味はねえ!! クソッタレが、さっさと失せやがれ!!」
アルの怒鳴り声の後に「くそ、覚えていろ!」という捨てゼリフが聞こえ、ばたばたと足音が遠ざかっていった。
「ふん。下衆野郎が・・・。ま、俺も五十歩百歩か」
アルは、自嘲気味に言うと歩き出したようだった。
 ドアの向こうが静かになったのを確認すると、アレックスは体中の力が抜けたような感じがした。彼は、ドアにもたれながら、その場にへたへたと座り込んだ。

 
「・・・アレックスは、アルのおかげで危険を免れたって、その時初めて実感したわけだがや。ほんだで、あいつはなんとか自分を落ち着けて、ベッドに戻って横になっとった。そうしておったら・・・」
「ちょっと待って」
由利子が話に割って入った。
「なんか、映画みたいな話がずっと続いてて半ば信じがたいんだけど・・・。それに、あのアレクがそんなえーとこのボンボンだなんて、ますますピンと来ないわよ」
「まあ、事実は小説より奇なりってゆーじゃにゃーか」
「そうだけどさー。それに・・・」
口ごもった由利子にジュリアスが先を促がした。
「何かね」
「まさか、この先ちびアレクが・・・」
「あはは、ちびアレックスかね。えーことゆーにゃー。おみゃーさんが心配しとるのは、アレックスの貞操のことだろ?」
「貞操って・・・、まあ、そうやね。だったら聞くのがかなり辛いなって・・・」
「う~ん、レイプのほうがよっぽどましだったかも知れんて」
と、ジュリアスが、すこし表情を曇らせて言った。
「なんか嫌なことを言うなあ。余計恐くなったじゃない」
「ほんだから、最初にゆーただろ。聞いたら後悔するかもしれにゃーて」
「そうやった。腹を決めたんだったね。話をぶった切って悪かったよ。続けて」
「おっけー。・・・で、そうこうしておったらアルが急いで部屋に帰ってきた・・・」

 アルは息を切らして帰って来た。彼は部屋の鍵を開けるのももどかしく、部屋に入ると開口一番に言った。
「ジュニア、大丈夫だったか?」
「はい。誰も来られなかったです」
「そうか・・・」
アルはほっとした様子でベッドに近づき、傍に椅子を持って来て座った。アレックスは、そんな彼に質問をしてみようと思った。
「あの・・・」
「なんだ?」
「アルは良い人そうなのに、何であんな恐い人たちと居るの?」
「俺がいい人だって? 買いかぶりすぎだよ。俺はね、なんとなく言葉で判ると思うけど、もともとアメリカ人なんだ」 
「アメリカ人?」
「そうだよ。子供の頃、母が再婚してこっちに来たんだ。それで、こっちの話し方にはすぐに慣れたけどね。で、新しい父さんはすごく良いヤツでさ、俺にもすごくやさしくてね。趣味で写真をやってたんだ。で、俺も古いカメラをもらってね。撮影が面白くてはまったんだ。賞を取ったこともあったんだぜ。よく父さんと色んなところに撮影しに行ったなあ。でも良いヤツって早死にするのかね、再婚してから4・5年であっけなく病死してしまった。それで、俺が働かなきゃならなくなってね。学校を出てからわりと有名な写真スタジオで働いてたんだ。問題は」
アルはそこでいったん言葉を切って、一息ついて続けた。
「そこのセンセイがトンだレイシストでね」
「レイシスト?」
「人種差別する連中さ」
「人種?」
「俺とおまえは肌の色が違うだろ? 人種ってのはそういうことさ。おまえ、何にも知らないんだなあ。ま、まだ小さいから仕方ないか」
「だって、ぼくの父様は、そんなことでは差別しません。優秀な人なら肌の色が違ったって、採用してます」
「へえ、で、何の仕事をしてるんだ?」
「まだ早いって教えてくれません。でも、みんなが銃を撃つ練習やナイフで戦う訓練をしているのを見せてもらったことがありますけど」
「おまえんち、なんかヤバそうだなあ。まあいいや。で、ヤツは俺のことは弟子ではなく、召し使い程度にしか思ってくれなかった。それでも何とか技術を覚えた俺は、独立しようとしたんだ。そしたら、徹底的に妨害されてね。で、俺は職を失ったってわけ。その頃は結婚して子供もいたから、妻のパートの収入もたかが知れてるんで、無職でいるわけにも行かず、また、拾い仕事をしながら片手間で写真を撮って暮らしてたんだ。そんな時、女性を撮る腕のいいカメラマンを探しているって聞いて、応募したんだ。そしたら社長に気に入られて合格。俺は喜んだね」
「良かったですね」
「それが良くなかった。蓋を開ければそのカメラスタジオってのが裏でポルノ写真、それもかなりヤバイのを撮っているってのが判ってさ。そのうえ、人身売買にも・・・、あ、いや、これは忘れてくれ。・・・で、抗議したけど、俺は既に共犯だって言われて。しかも、女房子供に累が及びそうになった。俺の奥さん美人だから、なおさらな。でも俺が協力したら、何もしないし、むしろ充分な金をやるって言われて・・・」
「お金が欲しかったの?」
「ああ、子供たちには充分な教育を受けさせたかったしな・・・。それで、多少のことは目を瞑ることにしたんだ」
「『ぽるのしゃしん』って何?」
「あのな・・・。えっと、・・・とにかく良くない写真のことだ」
アルは説明に窮して誤魔化した。
「じゃあ、あなたはいけないことをしているのを知っててやってるってこと?」
アレックスは、邪気の無い顔でまっすぐにアルを見て言った。アルは、何かを見透かされたような気持ちになっていたたまれなくなった。気がついたら幼い少年に向かって怒鳴っていた。
「金持ちの家に生まれたおまえに何がわかる!?」
今まで優しかったアルに怒鳴られてアレックスは怯え、泣きそうな顔をして彼を見た。
「すまん」
彼は急に恥ずかしくなり、うなだれて言った。
「おまえの言うとおりだ。俺は卑怯者だ・・・」
アレックスはそんな彼を見ると今度は悲しくなって、ポロポロ涙をこぼして泣き始めた。アルはますますオロオロして言った。
「お、おい。おまえ、どうしたよ? 今までどんな目に遭ってもそんなに泣かなかったじゃないか」
「ごっごめんなさい・・・・」
「それでなくてもおまえは脱水気味なんだぞ。ほら、せっかくサクランボみたいな可愛い唇がシワシワになってきてるじゃないか」
アルは、アレックスの唇に触れながら言った。
「ちょっと待ってろ。おまえが腹を壊したんで、要るかと思って作ってたんだ。すぐに戻ってくる」
アルは部屋を走り出て行った。アレックスは、さっきアルに触れられた唇に自分でも触れてみた。すると、何故か頬がぽっと熱くなった。彼は、それに驚いてきょとんとした。

「持って来たぞ、ジュニア。・・・あれ、何で赤い顔をしているんだ?」
アルは言ったとおりすぐに部屋に戻ってきたが、アレックスが顔を赤くしているのを見て驚いた。
「ひょっとして、熱が出たのか?」
アルは持って来たピッチャーとマグカップをサイドデスクにおくと、急いでアレックスに駆け寄り、自分の額をアレックスの額に当てて、熱を診た。
「たいして熱は無いようだけど・・・」
アルは不思議そうに言ったが、アレックスの顔がさらに赤くなっているのに気がついた。
「そうか。おまえ、こういう感じのスキンシップになれていないんだね。ごめんごめん」
ますます赤くなるアレックスを見ながら、アルは笑い出した。笑いながら、ピッチャーの水をマグカップに注ぐ。
「これ、あまり旨くないけど飲んでごらんよ」
アレックスは、ベッドから上半身を起こすと、言われるままにそれを一口飲んだ。甘いようなしょっぱいような、妙な味がした。アレックスは、不思議そうな顔でアルを見た。
「水に砂糖と塩を混ぜたものだよ。脱水の時、水分の吸収を良くするんだ。あと、失ったナトリウムや糖分などの補給にもなる。不味くても全部飲めよ」
「はい」
アレックスは言われたとおりに、それを飲み干した。
「よ~し、いい飲みっぷりだ! 俺な、おまえの腹痛の原因を考えてたんだけど、多分、下手人は水道水じゃなくてジャコボの馬鹿の汚ねえハンカチだよ。あれのせいであの程度で済んだんなら、おまえ、ずいぶんと丈夫だってことになるぞ」
アルがそう言いながら笑ったので、アレックスも釣られてクスッと笑った。
「よし、ようやく笑ったな。じゃ、口直しだ、食えよ。俺も食うから」
そういうと、アレックスに丸のままのリンゴを渡した。アレックスはそれを手に持ってまたきょとんとした。
「あの、これ・・・?」
「リンゴだよ」
アルは、自分の分のリンゴをシャツの裾で拭きながら答えた。しかし、アレックスはやや首をかしげて言った。
「はい。それは判りますけど、あの、切ってないし・・・」
「かーーーーーっ、これだからおぼっちゃんは・・・。こうやって食うんだよ」
アルは、手に持ったリンゴに豪快にかぶりついた。アレックスは、それを見て一瞬躊躇したが、すぐの彼のやったようにかぶりついた。勢い余って口いっぱいほおばってしまい、目を白黒させていたアレックスだが、なんとかシャリシャリと咀嚼して飲み込んだ。そして、何か再発見したような表情で言った。
「あ、美味しい。まわりもしょっぱくないや」
「切ったら酸化防止のために塩水に漬けるからな。食塩がリンゴの周りに膜を張るから、酸化が防げるんだ」
「酸化?」
「錆びだよ。皮をむくと、リンゴの成分(ポリフェノール)が空気中の酸素に触れて、表面が錆びるんだよ」
「鉄じゃないのに錆びるの?」
「ああ、錆びるのは金属だけじゃないんだよ。人体だって錆びるんだぜ。ま、リンゴには整腸作用があるから、しっかり食っておけよ」
「物知りなんですね。本で読んだの?」
「そうだよ。本で得た知識だ。でもな、知識は本からだけじゃない。人からも自分の経験からも得ることが出来るからね。勉強は学校でだけするものじゃない。その気があれば、どこでも勉強が出来るんだ」
「でも僕、お勉強嫌いだし。今日だって、午後からのお勉強がしたくなくて・・・」
「贅沢言うんじゃない。世の中には勉強したくても出来ない子がいっぱいいるんだぞ。家に帰ったら、勉強はちゃんとしなさい」
「はい」
「でもな、ジュニア。ただ勉強して知っているだけじゃ、だめだ。それをちゃんと自分のものに出来て活用してこそ、知識を得る意味があるんだよ」
「このリンゴやさっきのお水みたいに?」
「そうだよ。じゃ、さっさと食って寝るんだ。子供はとっくに寝ている時間だぞ」
「だって、さっきまで寝てたんだもん。きっと、眠れないです」
「目を瞑ってりゃあ、いつの間にか眠れるって。おまえはひどく疲れてるんだから、とにかく眠るんだ」
「はい」
アレックスはそう答えると、リンゴを口に運んだ。

 ほぼ食べ終えた頃、アレックスがまたアルに声をかけた。
「あの・・・」
「何だ? 食ったらベッドの傍にゴミ籠があるからそこに捨てな」
「はい。・・・で、あの、どうして僕の腹痛が、水道水ではなくハンカチのせいだって思ったんですか?」
「ハンカチの方に病原体が沢山いただろうって思っただけさ。水道水はそれなりに消毒してあるからね」
「病原体?」
「病原性微生物・・・ばい菌のことだよ。顕微鏡じゃないと目に見えないくらい小さい微生物が、生き物を病気にするんだよ」
「そんなに小さいもののせいで、病気になるんですか?」
「ま、病気の全てじゃないけどね、一部の病気はそうだよ。微生物には、原虫とか細菌とかウイルスとかいう大きなカテゴリーがあって大きさも全然違うんだよ。中でもウイルスは特に小さくて、顕微鏡でも見えないんだよ。電子顕微鏡って特殊なものを使ってやっと見られるくらいなんだ」
「そんなに小さくても生き物なの?」
「俺は専門家じゃないからわからないけど、ウイルスを生物とは考えていないやつもいるようだよ。微生物は時々生き物を殺すことすらあるんだ。猛獣すらね」
「すごい! そんな目に見えないくらい小さい生き物が、トラやライオンを殺しちゃうんだ」
「多分、T-レックスだって殺したと思うよ」
「恐竜も!?」
「そうだよ。微生物が身体に入ってしまったのを感染っていうんだ。でも、普通は感染しても体の防衛機構が働いて、微生物をやっつけるから、死ぬまでにはならないんだ。おまえがお腹を壊したのも、体が病原体や毒素を早く体外に出そうとしたからだよ。だから、下痢は出来るだけ薬で止めないほうがいいんだ。水分は補給しないといけないけどね」
「だから、あのお水を作ってくれたんですね」
「そうだ。わかったなら早く寝な。病気は寝るのが一番なんだからね」
「はい」
アレックスは、素直に横になって目を瞑った。アルの言ったように、すぐに睡魔が襲ってきた。

 アレックスは、深夜、恐ろしい夢を見て目を覚ました。昼間、車の男達に襲われ誘拐された時の夢だった。だが、夢の中では巨大な捕虫網に捕獲されて、沢山の虫の入った虫かごに入れられた。捕虫網が大きいのではなく、アレックスが小さくなっていたのだ。虫かごの中で、昆虫達と一緒に虫かごにしがみついたところでアレックスは目を覚ました。
 そこは、いつも見慣れた自分の寝室ではなかった。アレックスは、昨日のことが夢ではなかったことを実感し、心細くなった。アレックスは起き上がると、父と母を呼びしくしくと泣き出してしまった。アルがそれに気がついて目を覚ました。彼は、彼の言ったとおり部屋のソファで横になっていた。
「ジュニア、どうした?」
アルがアレックスの傍に来て心配そうに言った。
「アル・・・。ぼく、おうちに帰りたい・・・」
「無理言うな。今はだめだ。オヤジは俺を疑っているからね。でも、必ず帰してやるから、安心して寝な。寝不足は体力を失う。体力が無くなると、気力も無くなるぞ。わかるか?」
アレックスは、こっくりと頷いて、袖で涙を拭いた。
「よしジュニア、おまえは強い子だ」
彼は笑顔でそういうと、またソファに向かおうとした。その背中にアレックスが声をかけた。
「あのね、アル・・・。恐いから、一緒に寝て・・・」
「おいおい、赤ちゃんみたいなことを言うなあ」
「だって・・・」
アルは、アレックスの頬を、ぷにっと押すと、「仕方ねえな」と言い、彼の隣に横になった。
「さあ、おまえも寝ろ」
アルは、アレックスを寝かせると、安心させるように彼の背中を優しくポンポンと叩いた。それは、父親が幼い子供を寝かしつける仕草だった。アレックスは、アルの下になった方の手におずおずと手を伸ばした。アルの黒い大きな手にアレックスの白い小さな手が重なった。信頼できる人の手のぬくもりが伝わり、アレックスは安心したように目を閉じた。そのままアレックスは、深い眠りについた。
 眠りに落ちる前だったか夢の中だったか、アルがこうつぶやくのが聞こえた気がした。
「おまえ、ひょっとしたら、俺を救うために降りてきた天使かもな・・・」

 翌日、アレックスは一人でアルの部屋にいた。

 朝、アレックスが物音で目覚めると、朝食を持ってアルが部屋に入ってきたところだった。
「お、目が覚めたか? おはよう。だいぶ血色が良くなったな。腹の方は大丈夫か?」
「おはようございます。もう、大丈夫だと思います」
「そうか、良かったな。連中と食うのは嫌だろうと思って朝飯を持ってきた。俺のも持ってきたから一緒に食べよう。粗食だけどな」
彼の持ってきたメニューは、バターとオレンジジャムの塗ったトーストと、紅茶、焼いたベーコンと目玉焼き、そして丸のままのリンゴだった。
 二人は食べ終えると、アルが、ハンガーにかけ壁にぶら下げたアレックスの服を指差した。
「おまえの服だ。洗っといてやったよ。いつまでも俺のシャツとボクサーパンツで居るわけにはいかないからな。フィルム乾燥機にいれて乾かしたから早く乾いたんだ。ただなあ、ちょっと縮んじまったみたいでよ・・・」
アルは右手の人指し指で頬を掻きながら言った。
「大丈夫です。子供は成長が早いからって、いつも大きめのをもらうんです。たぶん、ちょうど良くなってますよ」
しかし、手にとってみると、たしかにかなり縮んでいる。まとめて洗濯機にかけたのが拙かったようだ。ただ、下着類はまあまあ大丈夫だったし、着てみると、他もおかしい程ではない。半ズボンが若干ピチピチ気味だが、全体的にむしろ昨日より野暮ったさがなくなっていた。
「そうしていると、やっぱりおぼっちゃんだなあ・・・」
アルが感心して言った。その時、ステューがアルを呼びに来た。
 アルは、アレックスに待つように言って出て行った。アレックスはベッドサイドに座ってぼんやり待っていたが、30分ほどしてアルが困ったような顔をして帰って来た。
「ジュニア、俺はこれからオヤジ達と出かけなきゃならなくなった。俺が居ないと商談が進まないってさ。グランマも出かけるらしいから、ここにはおまえとあの馬鹿だけになっちまう」
アルが説明すると、アレックスは不安そうに彼を見た。
「ジャコボのヤツめ、何でか妙におまえに執着しているからな。ま、あいつにはオヤジが釘を刺していたから大丈夫とは思うが、念のため、昨日みたいに鍵をかけておくんだよ。俺の鍵は置いていくから、おまえが持っとけな」
アレックスは不安な目の色のまま頷いた。アルは、部屋の隅の小型テレビを指差して言った。
「退屈だったら、あのテレビを見ているといい。だけど、部屋からは絶対に出るな。トイレも我慢しろよ。どうしても我慢できなかったら、あそこの流しでしろ」
「え? そんなこと出来ません!」
アレックスは半べそをかきながら言った。
「ジュニア、俺は本気だよ。俺の言いつけを守るんだ。いいな?」
「はい・・・」
アレックスが下唇を少し噛みながら言った。
「とりあえず、今からトイレに行っておけ。俺がついて行くから」
「はい」
アレックスは座っていたベッドから降りた。
 出掛けにアルは、部屋の戸口でアレックスの眼の高さに座って、くれぐれも言いつけを守るように諭した。そして小声で付け加えた。
「約束は覚えているな? 俺は必ずその約束は守る。俺を信じて待つんだ」
真剣な眼だった。アレックスはアルが自分を本気で心配してくれていることが嬉しくなった。
「ありがとう。でも、ぼく、アルと一緒ならここで暮らしてもいいや」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
彼は両手で軽くアレックスの両頬を同時に叩いた。そのまま彼の顔を自分に向けると言った。
「ノーブル・オブリゲ-ション(ノブレス・オブリージュ)がわかるか?」
アレックスは、こっくりとうなずいた。父親から何度も聞かされた言葉だった。
「そうか、やっぱりな。おまえはこんなところに居る人間じゃない。おまえには無限の未来があるんだ。しっかり勉強して、誰かを助けられるような立派な大人になるんだ」
「ごめんなさい・・・」
アルに諭されて、アレックスはうなだれて言った。
「わかればいい。じゃ、行ってくるからな」
アルはそう言って立ち上がろうとした。アレックスはその彼にさっと抱きつくと、唇に軽くキスをした。何故、そんな行為に出たのか自分でもわからなかった。驚くアルにアレックスは、はにかみながら言った。
「あの、いつも母様が出掛けにしてくれるから・・・」
ウソだった。母がいつもしてくれるのは、頬へのキスなのだから。
「あはは、そうか。おふくろさんがね。じゃ、行ってくるよ」
彼は笑いながら立ち上がり、今度こそ部屋を出て行った。一人残されたアレックスは、言われたとおりドアに鍵をかけると、とりあえずテレビのスイッチを入れた。
 二人は知らなかった。ジャコボがこっそりと、彼等のさっきの様子を嫌な目で見ていたことを。

 午後になってもアルは帰ってこなかった。アレックスはだんだん不安になっていた。しかも、昼前から催していた尿意が限界に達しようとしていた。アルは我慢出来なければ流し台でするように言った。しかし、そんなことが出来るはずなかった。アレックスは、ウロウロして誤魔化していたが、意を決して部屋を出ることに決めた。
 彼は鍵を開けると、そっとドアを開け外の様子を見た。誰も居ない。アレックスは部屋から出ると、そっとトイレのある方向に向かった。
 その頃ジャコボは、地下の写真室でアルの焼いたアレックスの写真を整理していた。アレックスの写真はどれも妙な色気があり、しかも、彼は今までのどんな女性より綺麗だった。ジャコボは写真をまとめて重ねると、もう一度見直した。ふと見ると、アル専用の机の上に大判のパネルが伏せてあった。アルは時に、お気に入りの写真を引き伸ばして飾っていた。ジャコボはそれを表に向けた。黒い背景に白い天使が曖昧な笑みを浮かべ、眩しそうにこっちを見ていた。だが、その視線はジャコボではなくアルに向けられたものだった。彼の頭の中にはさっきの二人の行為が再現されていた。あいつら、何か囁きながら大胆にも・・・。
(くそ、やっぱりあいつら、出来てやがったんだ)
彼が苦々しくそう思った時、かすかにトイレの水が流れる音が聞こえた。ジャコボはにやりと笑った。
 アレックスは、用心深く足音を立てないようにしながら部屋に向かっていた。その時、廊下の先の方に一瞬人影がサッと走るのが見えたような気がした。アレックスは立ち止まると、きびすを返して反対方向に逃げた。だが、そっちの方でも人影を見たような気がした。彼は、キョロキョロとして隠れる場所を探した。すると、昨日のキッチン兼食堂があるのに気がついた。アレックスは迷わずそこに駆け込んで、流し台の下の戸棚に隠れ、身を屈めた。そこには何かが数匹うごめいていた。彼はしゃがんだまま悲鳴を上げそうになったがその口を自分で押さえた。それらはアレックスに向かうと、首をかしげて彼を見た。
 しかし数分後、ジャコボはキッチンまでやってきた。
「ちび! そこにいるのはわかっているんだ。さあ、そこか? ここか? それとも・・・」
ジャコボはそういいながら、アレックスを探し回った。だんだん近づくジャコボの気配と声を聞きながら、アレックスは身を縮ませ震えていた。心臓が口から飛び出しそうなくらい激しく打っていた。ジャコボの声がすぐ近くまで来たとき、アレックスは我慢できなくなって、流し台の下から飛び出した。それに続いて数匹のネズミが飛び出してきた。
「おっと、そんなところにいたのか、ネズミちゃんたち」
ジャコボはそう言いながら逃げるアレックスを追った。アレックスは悪夢の中に居た。必死で走っているはずなのに、恐怖で足がうまく動かない。それに対してジャコボは余裕で追いかけてきた。アレックスはとうとう自ら足を絡ませて転倒した。それでも這うようにして逃げるアレックスだったが、ジャコボに襟首をつかまれて身体が浮き上がるのを感じた。
「さあ、捕まえたぞ、子猫ちゃん」
ジャコボはアレックスを吊るし上げ、自分の目線まで持ち上げて言った。
「大人しくしてりゃ、乱暴はしねぇぜ。大人の女だったらまず、逆らえないように半殺しにしてやるんだが、おまえはそれをやると壊れそうだからな」
アレックスは、目の前の男の邪悪な笑みを目の当たりにしておぞましさに総毛立ったが、それでも、キッとした眼で男を見据えながら言った。
「ぼくを降ろして。アルの部屋に帰しなさい。あなたは何をしようとしているかわかってるの?」
「よ~くわかっているさ」
ジャコボはぶら下げたアレックスを左手で抱き寄せると、襟首を離して両手で彼を抱きしめた。アレックスは、彼の顔が近づいてくるのを避ける術を失った。
「や・・・」
アレックスは叫ぼうとしたが、その前にジャコボに口をふさがれた。アレックスは、必死に口を開けまいとしたが、彼の口をこじ開けるように男の舌が侵入してくるのがわかった。アレックスは反射的にそれに噛み付いた。
「おうっ、何をしやがる!」
ジャコボはアレックスを床にたたきつけた。床に転がったアレックスの襟元をつかむと、平手で彼の頬を手加減無しに打った。アレックスの鼻血が彼のシャツを染めた。しかし、アレックスはそれでもジャコボをにらむのを止めなかった。
「気の強いガキめ」
ジャコボは口の血を拭いながら言った。
「へへ、こりゃあ、調教のしがいがあるってもんだ。観念しな、子猫ちゃん。俺ンとこに行こうな。アルのとこより居心地がいいぜ」
ジャコボは再びアレックスの襟首をつかむと、彼を引きずって自分の部屋の方に歩き始めた。
「やめろ、やめなさい。ぼくをアルのところに帰して!」
アレックスは、引きずられながらも必死で抵抗した。あまりにも激しく暴れる少年に業を煮やしたジャコボがついに怒鳴った。
「大人しくしやがれ!! どうせ誰も居ないんだ。ここでやったっていいんだぜ」
男は暴れる少年の腕を後ろ手につかみ、うつ伏せに床に押し付けた。間髪を入れず、下着ごとズボンを引きずりおろした。アレックスは反射的に保護者の名を呼んだ。それは、意外にも父母の名ではなかった。
「いやあ、アル、助けて!!」
アレックスは本能的に、遠い父母ではなく、現実に今助けてくれそうな大人の名を呼んだに過ぎなかったかもしれない。しかし、それはジャコボにはひとつの確信しか与えなかった。
「いいケツしてるじゃねえか。昨夜はこの体にアルの薄汚ねぇ手が這い回ったのかい?」
アレックスは頭にかっと血が上るのがわかった。彼は押さえつけられた姿勢のまま、ジャコボの方に振り向き様に言った。
「馬鹿にしないで! アルは何もしなかった。優しく傍で寝てくれただけです。母様みたいに。それにアルの手は黒いけど、あなたの白い手の方がよっぽど薄汚いです!!」
「てめぇ・・・。ちったあ痛い目に遭わねえとわからないみたいだな。まず、逃げられねぇようにしてやるか」
ジャコボは、アレックスの右足を持ち上げると、大腿部に足をかけ踏みつけた。ボキッという嫌な音がした。
「きゃあーーーーーっ・・・、あっ、あああ・・・」
アレックスの悲鳴が家中に響いた。アレックスは床にのたうちながら痛みに耐えようとした。ジャコボはそんなアレックスの上にまたがり髪を引っ張って彼の顔を持ち上げながら言った。
「いい加減観念しな」
その時、ばあんとドアが開く音がした。ついで、低めだがよく澄んだ声が聞こえた。
「ジュニア、どうした!? 今の悲鳴は何だ!?」
「アル! 来てくれた・・・」
アレックスは痛みの中でほっとするのを感じた。アルは息瀬切って駆け込んできたが、廊下に転がるアレックスと、彼に馬乗りになったジャコボの姿を見つけ、怒りの声を上げた。
「ジャコボ、キサマァーーーーーーッ!!」
家全体が震えたようだった。
「アル、おっ、落ち着けよ。まだやっちゃあいないからよ。ちっと逃げねえようにしてやっただけだし」
ジャコボは、アルのあまりにも激しい怒りに鼻白んで言った。しかし、アルは雄叫びを上げながら雄牛のようにジャコボに向かって突進した。

(後編に続く) 

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2.焔心 (5)アレックス~後編~

※R18(子供に対する過度な暴力描写があります)

 アルの恐ろしい勢いに驚いて、反射的にアレックスから飛びのいたジャコボだが、アルの拳を完全には避け切れず側頭部を打たれ床に倒れた。一瞬気を失ったジャコボが頭を振りながら眼を目を開けた。すると、目の前でアルがアレックスを抱き抱えて行こうとしていた。
「畜生ッ! 殺してやるッ!!」
そうわめきながら立ち上がったジャコボは、ジャケットに隠し持っていたナイフを握り締めていた。それを聞いて振り向こうとしたアルの左わき腹をジャコボのナイフが襲った。
「うおーっ」
アルは叫ぶと凄まじい形相で振り向いた。あごに見事なストレートをくらい、ジャコボはもんどりうって床に倒れた。もし、アルが負傷していなければ、致命的な打撃だっただろう。

 気がつくと、アレックスはアルに抱き抱えられていた。アルに助けられてほっとした途端、痛みで気を失ってしまったのだ。
「気がついたか?」
アレックスを抱きかかえて走っていたアルが言った。
「はい・・・あっ・・・イタ・・・ッ」
「足が痛いか? だいぶ腫れてきた。多分骨折している。一刻も早く医者に行かないと・・・」
「でも・・・」
「おまえが気になって、一足先に帰って来たんだ。間に合ってよかった」
「アル、ぼく、ぼく・・・」
「もう気にするな。・・・が来るまで待つつもりだったが、そうはいかなくなった。今、ここから出してやる」
「だめだよ。アルや家族が・・・」
「ジュニア、聞け。世の中には仕方なく悪い道に入るヤツが居る。だがな、根っこから腐ったヤツもいるんだ。ジャコボは真性の狂犬だ。このままじゃおまえは殺される。おまえは生き延びることだけを考えろ。いいな」
「は、はい・・・ゥッ」
「痛いのは生きている証拠だ。とりあえず安全なところまで逃げ切ったら、応急処置をしよう」
「はい・・・」
アルの走る振動でそのたびに激痛が右足を襲った。アレックスは、アルのシャツを握りしめて耐えていたが、アルの動きがおかしいことに気がついた。息も妙に荒い。見ると、左のわき腹あたりのシャツに血が滲んでいた。
「アル! 血が・・・!」
「致命傷じゃないから安心しろ。だが、正直・・・どれくらい逃げ切れるかわからん・・・」
アルは厳しい表情で言った。一瞬アルの腕に力が入り、アレックスは抱きしめられたような気がした。

 玄関近くまで来た時、アルが呪いの声を上げた。
「クソッ! 先回りされている」
そこには、手に鍵を持ったジャコボがドアに寄りかかり立っていた。アルはきびすを返すとまた走り出した。もつれる足で、なんとか自室に逃げ込み鍵をかけた。
「おまえの応急処置をしたら、おまえを背負って窓から逃げる」
アルはアレックスを抱いたまま、ドアにもたれかかり床に座り込みながら言った。
「その傷じゃ、無理だよ。僕はいいから、アルの手当てをしないと・・・」
アレックスは、そう言いながら床に下りた。右足に激痛が走る。歯を食いしばって耐え、何とか床に座った。悲しくも無いのに痛みで涙が流れた。
「アル・・・、傷を見せて」
アルのシャツをめくると、左のわき腹がザックリと切れて血が流れていた。良く見ると、黒いジーンズにも流れ出た血が大きな染みを作っていた。
「ひどい傷じゃない!」
「大丈夫だ。その辺には大した臓器は無いから」
「でも、血が・・・。とにかく血を止めないと・・・そうだ」
アレックスは、シャツとアンダーシャツを脱ぎ、アンダーシャツを折りたたんでアルの傷口を押さえた。アルは痛みに顔をしかめると同時に驚いて言った。
「圧迫止血法・・・どこで覚えた?」
「父さまがやってるのを見たことがあるの。でも、僕の力じゃだめだ。何かで縛らないと・・・」
アレックスは自分のシャツを手に取った。だが、どう考えても布の量が足らない。
「俺が自分のTシャツで縛る。おまえはシャツを着ろ。すっぽんぽんじゃないか」
アルは言いながらTシャツを脱ぎ、アレックスのアンダーシャツをパッド代わりにして腰に巻いた。
「よし、おまえもシャツを着たな。急いでおまえの足を・・・」
その時ドアがドン!と音を立て、だみ声が響いた。
「てめえら、そこにいるのはわかってるんだ! 出て来な。ドアをぶち破るぜ」
声の終わらないうちに、ドン!ドン!とドアを何かで叩きはじめた。
「ジュニア、負ぶされ! 急いで窓から出るぞ」
「えっ?」
「一か八かだ。ここは2階(事実上は3階※)だから、万一落ちてもなんとかなるかもしれない。早く乗れ!」 
だが、その時ドアノブが破壊され、バン!と勢い良くドアが開いた。ドアが危うくアレックスに激突しそうなのを見てとっさに彼を庇ったアルが、彼を抱きかかえたまま吹っ飛んで気を失った。
「このニグロがぁッ! 今まで散々っぱら俺の邪魔をしやがって」
ジャコボが叫びながら部屋に入ってきて、気絶したアルを蹴り始めた。
「アル!!」
アレックスがアルの下から飛び出して、彼の上に覆いかぶさり全身で庇った。
「どけッ! このクソガキがぁっ!!」
激高したジャコボは、容赦なくアレックスごとアルをけりつける。それでもアレックスは必死でアルを庇い続けた。右足の痛みは限界を超え、むしろ麻痺したように痛みを感じなくなっていた。
 ふと、ジャコボが蹴るのをやめた。アレックスは、恐る恐る振り向いた。
「そんなにアルがいいか?」
ジャコボはアレックスの左手をつかんでひねり上げ持ち上げた。左腕がミシミシというのがわかる。
「あっ、あーーーーッ!」
アレックスは激痛に悲鳴を上げた。
「いい声だ。そうやって俺を楽しませな」
ジャコボはアレックスをそのまま小脇に抱えて連れ去ろうとした。しかし、アレックスはその腕に思いきり噛み付いた。
「オウッ!!」
ジャコボは悲鳴を上げるとアレックスを床に放り出した。
「てめえ、また食いつきやがったな!? 今度と言う今度は許さねえ!!」
ジャコボは、床から起き上がろうとしていたアレックスに向かってナイフを振り下ろした。そのアレックスの上を何かが覆った。同時にアレックスの耳にブツッという鈍い音が聞こえた。
「ぐ・・・はッ・・・」
アレックスを庇って背に刃を受けたアルは、胸の辺りを押さえ2・3歩よろけて立ち止まった。口から血が糸を引いて落ちた。
「きゃあっ、アルッ!!」
アレックスはとっさにアルの方に手を伸ばしたが、その手をすり抜けてアルの身体は床に崩れ落ちた。背にはナイフが突き刺さったままで、その場所はほぼ心臓の真上だった。
 アレックスは右手と左足で這うようにしてなんとかアルの傍に行き、取りすがって叫んだ。
「アルッ、アルッ、しっかりして!!」
うつ伏せに倒れたアルは、顔を上げアレックスに手を伸ばした。彼は、血と汗と涙で汚れたアレックスの頬に触れ、微かに笑顔を浮かべて何か言おうとしたが、不意に痙攣が襲い口からは言葉の変わりに血が溢れた。アルの手から力が抜けてぱたりと床に落ちた。
「アル・・・ウソでしょ・・・。返事をして・・・お願い・・・」
アレックスは彼を何度も揺すぶりながら言った。だが、アルの反応はなく両目からは生きた光が失われていくのがわかった。
「そんな・・・。アル・・・。アルってばあ・・・アルゥ・・・。・・・うわぁーーーー」
「あ~あ、残念だったなあ、ちび」
ジャコボは、アルに取りすがって泣くアレックスを引き剥がすようにして抱きかかえた。
「はなせ! 許さない! よくも、よくもアルを・・・!!」
「おめぇに何が出来る。アル、ご苦労だったな。コイツが今からおめぇのベッドでどんな目に遭うか、そこでゆっくり見てな」
「はなせ、はなせえ!!」
アレックスは出来る限りの抵抗を試みたが、その甲斐なくベッドに放り投げられた。折れた手足にまた激痛が走る。アレックスは歯を食いしばり、右手でシーツを掴んでそれに耐えた。それを眺めながら、ジャコボが野卑な笑みを浮かべて言った。
「う~ん、ゾクゾクするねえ」
「黙れ! 僕に触るな、外道!!」
アレックスが怒りに身を震わせて叫んだ。が、次の瞬間彼の頬を容赦ない平手打ちが襲った。
「ご主人様に逆らうんじゃねえ! もっと酷い目に遭いてぇのか!」
だが、アレックスは冷ややかな眼をして言った。
「ご主人様? 誰が! 傍によるな、汚らわしい!!」
「て、てめぇッ!! もう容赦しねえぞ!」
ジャコボはアレックスのシャツの胸元を掴むと、高々と持ち上げ殴りつけた。アレックスの身体が宙に浮き、2mほど先の床に投げ出された。アレックスは壊れた人形のように床に転がりそのままピクリとも動かなくなった。
「し、しまったぁ・・・」
ジャコボは急いでアレックスを抱き上げた。まだなんとか生きているようだが、かなり危険な状態にいることは間違いなかった。
「おい、、起きろ、起きろよ!!」
焦るジャコボの背後で怒号が飛んだ。
「ジャコボォッ!! キサマァ、何勝手なことをしてやがる!!」
「お、オヤジぃ・・・、いや、これはアルのせいで・・・」
「下手な言い訳はやめろ、クソ野郎が!!」
オヤジは怒鳴りながらジャコボに近づくと、腹に思いきり膝蹴りを食らわせた。ジャコボは腹を押さえ、声も立てずにうずくまった。
「ステュー、アルの様子はどうだ?」
「あ~あ、ダメだなあ、こりゃあ・・・」
アルの様子を見るなりステューが言った。オヤジは残念そうに首を振りながら言った。
「良い腕のカメラマンだったがなあ。また探さんとならんか。ステュー、ディエゴと一緒にアルとガキを居間に運べ。善後策を考えよう。アルは毛布にくるんどけよ。俺はコイツを引きずって行く事にしようか」

 気がつくと、アレックスは無造作に部屋の隅に転がされていた。身体のあちこちがうっ血し、右足と左手が不自然に曲がっている。顔も、原形が想像出来ないほど腫れあがっていた。彼は朧げな意識の中で、男達の会話を夢現(ゆめうつつ)のように聞いていた。
「・・・キサマ、おれ達のいない間に勝手なことをしやがって! せっかくの上玉だったのにどうするんだよ! その上、仲間にまで手を掛けやがって」
「おまえの性癖にも困ったもんだな。コトに及ぶ前に相手を痛めつけないといられないなんてよ。このド変態が!」
「今回は男だからって油断してたら、これだよ。まあ、そこらへんの女よりよっぽど綺麗だったことは認めるがね。今はザマァないが」
男達は一言言うたびに、ジャコボを殴りつけているようだった。
「もう勘弁してくれよお・・・。結局犯っちゃいねえだろ」
「この大馬鹿野郎がぁあ!!」
オヤジの声がして、ジャコボを蹴り上げる音がした。ジャコボは吹っ飛んでテーブルごと壁にぶち当たった。
「痛めつけすぎて、犯る前に死にかけたからビビッただけだろうが!! 犯るよりタチが悪いわぁ!!」
「だってよ、あのガキ、最後までオレを馬鹿にした目つきで見やがって・・・」
ジャコボはオヤジの足元にはいずり半泣きで懇願した。
「許してくれよお・・・」
その時、グラン・マが慌しく帰って来た。
「大変だよ、ギルフォード家の次男坊が昨日から行方不明だって大騒ぎになってるよ」
「なんだって? マジかよ、グラン・マ」
男達はいっせいに床に転がった少年を見た。グラン・マは、アレックスより毛布にくるまれたアルを見て驚いた。
「アルッ! どうして・・・?」
「ジャコボの馬鹿がこのガキをハメようとして、それを止めようとしたらしい」
グラン・マはアルの傍に座り込んで言った。
「なんてことだい! あたしゃこの子を気に入ってたのに」
「俺もさ」と、オヤジが言った。「それよりグラン・マ、ギルフォードのってな本当だな」
「なんであたしがそんなウソをつかなきゃならないんだよ」
「ギルフォードってあの、昔ワケ有りで王室を抜けたとかいう噂の、あのギルフォード家か?」
「そのギルフォード家の御曹司が、なんで山の中でたった一人で虫取りをして遊んでたんだよ、え?」
「おい、おめえら、ひょっとしてギルフォードの敷地から攫ってきたんじゃないだろうな??」
オヤジがジャコボとステューを見て言った。ステューがジャコボを見、ジャコボはおどおどしながら答えた。
「そんなの知らねえよ。ただ、車で流していたら、綺麗なガキが目に付いて売り物になるだろうって・・・」
「そいつをこんなにしちまったのかい?」
グランマがあきれて言った。
「本当に馬鹿な男だよ、おまえは」
「どうするよ。ギルフォードの連中、絶対におれ達を探し出すぞ。この馬鹿に息子をこんな目に遭わされちまってよ、おれら八つ裂きにされっちまうぞ」
「こうなったらここをズラかるしかないね」グラン・マが無情に言った。「その前に証拠を消してしまうよ。アルはどこか山奥に捨ててくるとして、このガキは・・・。こいつのせいでアルが死んだようなもんだ。そうだ、食油をぶっ掛けて地下の元食料倉庫に転がしときな。腹をすかせた住人のネズミやゴキブリが、身元不明死体になるまで食ってくれるさ」
(いや! やめて! 殺さないで!)
アレックスは叫びたかったが声にならなかった。

 アレックスは抱えあげられ地下に連れて行かれ隅に転がされた。かろうじて身にまとわりついている、血と泥で汚れた白いシャツを引っ剥がされ、トドメに頭から古い食油をかけられ放置された。無情にも地下倉庫のドアが閉められ鍵のかかる音がした。男達が去ると、やがて周囲から黒いモノたちが、ガサガサと寄ってきた。
(助けて!! 父様,母様!!)
アレックスはもがこうとしたが、身体がピクリとも動かない。ショックでだんだん息も苦しくなってきた。と、目の前に黒いモノが近づいてきた。痛めつけられたせいで霞んだ目にも、それが何かわかった。アレックスの恐怖は頂点に達した。
 その時、上の方がいきなり騒がしくなり、悲鳴と銃声が響いた。しばらくすると、地下倉庫のドアからドン!という音がして、武装した警官が二人駆け込んで来た。
「あそこだ!」
「酷いな、虫だらけになっているじゃないか」
警官達は、アレックスに近づくと虫を追い払って一人がアレックスを抱きかかえた。
「よかった、生きているぞ! だが急いで病院に運ばないと・・・」
「発見しました!!」
もう一人が無線で連絡した。
「ただし、重体です!! 急いで病院に搬送する必要があります!」
「ぼうや、もう大丈夫だ。すぐに病院に運ぶからね」
アレックスは、力なく頷いた。
 アレックスは担架で運ばれていた。途中、例の居間を通り過ぎた。その時、さっき何が起きたかを見てしまった。男達はみな射殺されていた。薄れ行く意識の中で、アレックスはアルの遺体が検分されているのを見た。アレックスはアルの方に右手を伸ばした。当然届くわけが無い。アレックスの右手が力なく落ちた。彼の眼から大粒の涙が流れていた。

「後でわかったことだがね、アルがヤード(ロンドン警視庁)に通報しとったから、間に合ったんだ」
「なんか、すごすぎて・・・」
由利子が若干鼻声気味で言った。
「なんだ、おみゃーさん、泣いとるのかね」
「チビアレクとアルがかわいそうで・・・」
「鬼の目にも涙だなも」
「鬼はひどいなあ」
由利子は恥ずかしそうに言いながら、ハンカチで涙を拭き続けて聞いた。
「それじゃあ、立ち直るのに時間がかかったんじゃない?」
「養生に1年程費やしたらしいて。その後もずっと悪夢に悩まされ続けたそうだ。未だに時々夢に見とるようだで・・・」
「30年以上経った今でも悪夢を・・・。辛いね」
「聞いて後悔しとるんじゃにゃーか?」
「ううん」
由利子は首を横に振った。
「聞いてよかったよ。そんな事情だから、ゴッキーが苦手なわけよね。このことでからかわないようにしなくっちゃ。でも、詳しいんだねえ、ジュリー」
「まあね。これに関してだけは・・・」ジュリアスは意味深な笑みを浮かべて言った。
「だがね、アレックスがアフリカで死にかけたっていう話は、あまり詳しく教えてくれにゃーんだ」
「え? 何で?」
「よっぽど辛い話なんだろうね。それにあいつの初カレの話だもんで、おれには言いにくいのかもしれにゃーね」
「そっかあ・・・」
「でもまあ、知っとる限りのことは教えてやるわ」
そう言った後、ジュリアスは一息入れると話し始めた。
 

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2.焔心 (6)虚構の創造

 由利子たちが自分の過去話をしているとは思いもよらず、ギルフォードはセンター長室で高柳らと共に週刊誌の記事に頭を抱えていた。

 問題の雑誌は、『週間サンズマガジン』。悪名高いタブロイド系の雑誌である。もともと『太陽黒点』という硬派の右系社会派週刊誌だったが、昨今の活字離れで購買層が減り、さらにネットの普及が追い討ちをかけての凋落の一途をたどったが、やり手の編集長が思い切って方向転換を図り誌名を変え、いつの間にかソースの怪しいゴシップや怪現象などが大部分を占めるようになった。そのために発行部数はかなり増えたものの、結果、自他共に認めるタブロイド誌にまで成り下がってしまったのだ。
 雑誌の表紙には、布地占有率のかなり低そうな衣装の若い女性が胸の谷間もくっきりと、にこやかに笑った写真がバストアップで載っていた。超売れっ子ではないが、そこそこに有名なグラビアアイドルだ。
 その横に芸能や政界ゴシップの見出しが踊っていた。その中で、一際目立つように大き目の赤い文字でそれは書いてあった。

【殺人ウイルス】 F県で謎の出血熱。致死率100%?!

さらに『致死率100%』の文字は、ご丁寧に黒いギザギザの吹出しに赤文字で書かれていた。 

 表紙をめくると見返しに怪しげな精力剤やダイエット商品広告が掲載されており、次にグラビアページと目次、そしてトップ記事から堂々とカラーで例の記事が始まっていた。扉にはウイルスパニック映画のワンシーンやエボラや新型インフルエンザH1N1ウイルスなどの電子顕微鏡写真、エボラ出血熱で瀕死の状態にあるアフリカ人の姿、現地での宇宙服(防護服)の者たちの反転させた写真と共に、ニュース映像から拝借したらしい森の内や高柳の会見やF駅で防護服の警官や救急隊員が出動しているシーンが効果的にコラージュされている。
 そのど真ん中に、不気味な古印体という字体を使った血の色のような赤字でタイトルが書かれていた。 

Midashi_2

 ページをめくると数枚の写真と共に、いくつかのサブタイトルで文章を区切られた記事が始まった。

【記者は見た】 
 6月10日月曜日、本誌記者のMは、S公園にいた。
 彼女はF県K市で暴力団抗争の取材をしていたのだが、ある事件のことを知ったために、その検証をしようとやってきたのだ。
 この公園では、十数日前にホームレスの複数遺体が発見されていた。事件と抗争の関連の可能性を考えた記者は、調査しようとその公園に足を運んだ。
 その公園は死人が出たためだろう、昼間でありながらまったくの無人だった。ところがそこに人影が現れたので、M記者はとっさに公衆トイレの影に隠れて様子を伺った。
 人影は中学生くらいの少年だった。彼は、少し遅れて来た30代くらいの女性と、彼女の連れている小学生の少女に近づき、何か話し始めた。それからまた数分後、彼を心配して来た友人らしい少年と少女が植込みの陰から姿を現した。女性が、隠れて様子を見ていた彼らに気付き、呼び出したようだった。彼らが女性と話していると、刑事らしい男二人と婦警の三人が駆けつけてきて、年配の刑事が女性を説得し始めた。M記者からは、会話の内容は聞き取れなかったが、状況から女性が少年の妹を盾に、何か要求を迫っていると判断した。
 老刑事の交渉術が成功し、ついに女性は少女を解放した。少女は婦警と少年の友人の少女と共に、現場から離れていった。
 その後の交渉も上手くいっているようだった。しかし、突然女性の様子がおかしくなり、いきなり自分の首を刺して自殺を図った。老刑事がそれを止めようとしたが間に合わず、女性から吹き出す血を身体を張って防いだ。一方で若い方の刑事が少年達を庇った。M記者は驚いてそれを見ていたが、真に驚くべきことはその後に起こった。
 事件を受けて駆けつけた警官たちは、皆ものものしい防護服に身を包んでいた。彼らの装備から考えられること、それは、自殺した女性から危険な物質が漏れている可能性だった。次にM記者が可能性を考えたのが、彼女が危険な病原体を保有していることだった。M記者は急いでその光景を撮った。最初はシャッターチャンスを逃さないために、手にしていた携帯電話のカメラ機能を利用して撮った。それから、急いでデジタルカメラを出して撮り続けた。
 だが、その後M記者は公安調査官を名乗る男に拘束され、写真データを全て消去された。幸い携帯電話で撮った写真データは、すぐにメールで記者個人のデータ保管庫に送っていたので消去を免れ、ここに掲載することが出来た。
 その時現場にいたのは、警察や公安調査官だけではなかった。防護服を着用しているために容貌は良くわからなかったが、明らかに白人男性と思われる人物の存在があった。その男の秘書らしき東洋人の女性は、華奢な見かけながら記者の腕をねじり上げ拘束出来るほどで、只者でない危険な雰囲気を感じた。
 M記者はその後すぐに解放されたが、不思議なことに、その事件そのものについての報道は一切なされなかった。
 それに疑問を持ったM記者は、一人この事件を追うことを決意した・・・・

 その記事の横に、例の写真が2枚掲載されていた。
 1枚目は、遠目でもわかるほど血まみれになった多美山が、美千代を抱きかかえている横で、葛西が少年たちを庇いながら多美山の方を向いてなにか叫んでいるもの。もう1枚は多美山と美千代に駆け寄る防護服の救急隊員と、その周囲に立って捜査する同じく防護服の警官たちの姿が写っているもの。 
 いずれも顔の見える部分は全てボカシを入れてあるが、その場の緊迫した状況が伝わる写真だった。そして記事は次のブロックに進む。

【ウイルスの謎】
 M記者は調査を続けたが、なかなか確信に迫る事象にぶつからなかった。何人も関係者を探し出して質問をしたが、誰も思い出したくないと言って答えてはくれない。M記者はますます事件に対する根の深さや重大さを痛感した。
 最初の時点でなんとか取材出来たことは、まず、最初に起きたS公園で複数死んでいたホームレスが危険な病原体に冒されていたこと。彼らから男子中学生A少年が感染し、A少年から祖母と母親に感染したらしいということ。祖母は自宅で、その翌日にはA少年が、電車に飛び込んで死んでしまったこと。その少年の母親こそが、S公園で自殺した女性であること。その病原体は新種のウイルスで発症した場合死亡率が高く治療法も無いらしいこと。そして、この事件には外国人の『教授』と呼ばれる男がからんでいること。この感染症に罹った者は死者であれ生者であれ、県立病院IMCという医療施設に運び込まれており、前記の教授はそこに関わっているらしいということ。
 そこまではなんとか取材した記者だが、それ以上の確信に触れることが出来なかった。そもそも、当のウイルス自体、どんなものか実態がつかめない。
 ドン詰まったM記者の前に協力者が現れた。Bさんという会社員で、知り合いに公安の警官がいるということだった。
 Bさんは、情報提供者の素性を漏らさないという条件で、いくつかの情報を提供してくれた。
 BさんはS公園の近くに住んでおり、やはり公園の事件が気になって調べていた。その彼を心配して情報を提供してくれたのが公安に勤める友人だった。
 その友人が言うには、公園でホームレスが死んだ事件は、テロリストがウイルスの効果を調べるためにやった生体実験だったという。都心からはるかに離れた場所を選び、身寄りの無いホームレスを使って実験を行ったのである。しかし、想定外に公園に現れたA少年がそれに感染してしまい、水面下でウイルスが拡散してしまった。テロリストは急いで事態を収集しようとしたが、いったん広まったウイルスの回収などできるはずが無い。
 そこでテロリスト側は、ある男を警察内部にもぐりこませた。それは、ウイルス開発に携わっていた、元米軍関係のウイルス学者だった・・・

「ひどいデタラメです!」
 ギルフォードが我慢できずに言った。
 検証のため、代表して記事を読み上げていた葛西が、驚いて読むのを中断した。高柳がギルフォードをなだめるように言った。
「内容の出鱈目さはみんな承知のことだよ。タブロイド誌だもの。どうしたんだね、君らしくないな」
「あなたもこういう書かれ方をしてみればわかりますよ」
 ギルフォードは肩をすくめて言った。
「しかし、僕が憤ったのはそれだけではありません。途中まで彼女は良く取材出来ていました。これならいずれ核心に近づくだろうと、むしろ感心できるほどでした。しかし、協力者のBという人が出てきてから、せっかく向かっていた事実からどんどん離れていってます。残念なことに、彼女は自分で調べて自分で考えて真実に近づくことを放棄してしまいました」
「彼女を核心に近づけたくなかったのだろう」と、九木(ここのぎ)が口を挟んだ。「おそらくそれで、ミスリードするために、Bという男を近づかせたんだ。これについてはご同情申し上げるよ、ギルフォード先生。さて、葛西君。君が極美という女性に職質しようとした時妨害した男と、協力者Bが同一人物だと思うかい?」
 葛西はその時のことを思い出したのか、少し眉間に皺を寄せて答えた。
「はい。おそらくそうだと思います。しかも彼は、その時多美山さんの容態も知っていたようです」
「あまり考えたくないが・・・」
 高柳が言った。
「やはりこの病院には、まだ内通者が居る可能性があるな」
「だったら、そいつを特定するべきです」
 と、葛西。
「いや、今の状態で無駄に疑心暗鬼を産むのは良くない。チームワークの乱れがどんな結果をもたらすかわからん。それに、これはあくまでも『可能性』だからね。多美山さんの容態を知っている者は警察や行政側にだっていたわけだし。記事にあるように、Bへの情報提供者が本当に公安に居る可能性もある」
 それを聞いて、松樹が苦笑いをしながら言った。
「確かにここが漏洩元とは限らないが、可能性は高いだろう。ま、炙り出さなくても放っとけばいずれ尻尾を出すだろうがね。しかし、重要事項については、公表されるまで漏れないように対策は立てるべきだな。さて、そろそろ続きをはじめていいかな」
「すみません。僕のせいで中断させてしまいました。ジュン、続けてください」
「あ、はい」
 葛西は雑誌を手に取ると、続きを読み始めた。

 その頃、由利子はジュリアスからギルフォードのもうひとつの過去話を聞いていた。
「アレックスの初カレの名前は、海棠新一(カイドウ・シンイチ)。写真を見た事があるけど、名前の通り海棠の花みてゃーにきれいな凛々しい青年だったよ」
「海棠の花を知っているジュリーもすごいけどね、そんなに美青年だったんだ」
「アレックスが一目惚れをしたのもわかるて」
「へえ、一目惚れだったんだー」
 と、由利子が興味津津で言った。
「ま、あいつは惚れっぽいからなー」
「へー。またまた意外な面が・・・っていうか、思いっきり面食いやん。あ、それで葛西君に・・・、なるほど」
「そりゃー、聞き捨てならにゃーぞ。まー、確かにちょこっと似てはおるけど。新一もメガネをかけとったしなー」
「アレクも似てるみたいなこと言ってたけど、やっぱ似てるんだ。」
「新一には、もっと頼りがいがありそうだったがね」
 それを聞いて由利子はクスッと笑いながら言った。
「まあ、葛西君っていまいち頼りなさ気ではあるけど・・・。で、馴れ初めは?」
「そんなことまで詳しくは知らにゃーわ。アレックスが行ったアメリカのでゃーがく(大学)の研究室で助教(助手)をしていたヤツだということだが」
「ふうん。ま、いいわ。先、続けて」
「ことの発端は、新一の研究室の教授がWHOからアフリカの疫病についての調査を依頼され、それに新一が抜擢されて行ったことなんだわ。その時、当時研究生だったアレックスを誘ったんだ。アレックスはそういう仕事を希望していたから、勉強になるだろうってね。この疫病は、当時エボラ出血熱の再来かと騒がれた。しかし、どこより先駆けて入った米軍の研究者が、ラッサ熱の変異体だと正式に発表したために、世間の興味は急速に失せてまった。新一たちが行った村だて、悲惨な状況にあったというのにだ」
「え? どうして? だってラッサ熱だってⅠ類感染症に入っているくらい恐い感染症なんでしょ?」
「もちろんそうだて。だがね、もともとはアフリカの風土病で、『ラッサ熱』と名前がつくずっと以前から、中央アフリカの各地で村や集落単位の小せゃー流行を繰り返しとった可能性があるんだわ。だが、世間からは注目されなかった。ところが1969年、ナイジェリアのラッサにあるキリスト教病院の白人のシスターが感染した。それで、ようやく『新種』のウイルスだってことがわかったんだ。それは、ウイルスが発見された地名からラッサ・ウイルスと名づけられた。名づけた医者は、ナイジェリア政府から相当恨まれたらしいけどね。
 それにラッサウイルスはエボラウイルスとちがって、宿主もわかっとるからな」
「へえ。で、それは何?」
「マストミスっていう、可愛いノネズミだよ。主にそいつの尿やフンから感染するんだわ。ヒト-ヒト感染もするけど、それを繰り帰す内に感染力が弱まっていくらしいて。
 そういう訳で、当時はラッサよりエボラに注目が集まったのは仕方のないことだったんだ。
 エボラ出血熱は1976年にスーダンとザイール、今のコンゴ民主共和国だが、そこでほとんど同時に発生し、大流行になった。不思議なことに、発見されたウイルスの遺伝子を調べたら、二つはまったく違う系統のエボラウイルスだったんだわ。致死率もエボラ・スーダンが50%、エボラ・ザイールが90%と違っとるんだ。つまり、ウイルスがスーダンからザイールに広がったんじゃのーて、偶然、隣同士の国でほぼ同時期に同じように流行したらしいて。
 エボラは人が未開地を切り開いたために出現したといわれとるけどね。しかも、エボラの感染爆発はほとんど人災でもあった。病院での注射針の使いまわしが感染を広げたんだ。貧困と無知が根底にあるけど、せめて針を煮沸消毒していれば、あの感染爆発は無かっただろうね。
 人災といえば、エイズも元々中央アフリカの風土病だったんだわ」
「え? エイズが?」
「あれこそ、人口集中が感染を広げた見本みたいなもんだて。あれは、もともとサルのウイルスが人間に感染出来るよう変異したものなんだわ。生物兵器とか言ってるヤツもおるけどね」
「それで、どうしてアフリカでの人口の集中がエイズの世界的流行に?」
「インフラも衛生設備もろくに整備されてにゃー名ばっかの都市に、何十万も人が集まったんだ。衛生状態も健康状態も最悪な人口密集地に感染者が一人でも出りゃー、あっという間に感染爆発が起こってもおかしくはにゃーだろ?」
「うん」
「だが、ラッサやエボラのように、比較的すぐに、しかも重篤な症状が出る場合はまんだましなんだわ。対策も封じ込めもしやすい。問題は、エイズのように潜伏期間が10年以上ある感染症の場合だわ。長くなるし、話題がそれるんで簡単にしか説明しにゃーがよ、都市に集まる連中には、一攫千金を夢見て、何の宛てもなく都市にやって来た者も多い。そういう連中は拾い仕事でなんとか食いつなぐか、悪いことに手を染めるかして何とか生計を立てとっただろう。だが、女性の場合は違った。プライドさえ捨てれば、需要があって手っ取り早く出来て稼げる商売がある」
「そっか、それで・・・」
「そんな女性の何人かが、客からエイズウイルスに感染した。そして感染した売春婦から不特定多数の客へ、その客からまた別の売春婦へ、その売春婦から・・・と、悪循環だて。そして、都市で稼いで家族の下に帰った男から妻へ、そして生まれてくる子へ・・・」
「最悪!」
「そう、最悪だがね。
 しかも、エイズは潜伏期間が長い。そうして、いつのまにかエイズは、中央アフリカとそれを縦断するハイウエイ、つっても、かなりぼこぼこの道だったらしいが、別名エイズロードに沿ってアフリカに広まっていったんだわ。そうして、エイズウイルスは誰も気付かにゃーうちにアフリカから世界に飛び火しておった。そして、1981年にアメリカでようやく患者の確認がされ、1983年にフランスのパスツール研究所がウイルスを発見した。だけど、エイズウイルスが真の恐ろしさを示すのはそれからだったんだわ。その辺りはおみゃーさんも良く知っとるだろ?」
「ええまあ。薬害エイズとか有名だし。今も感染者数が増え続けていると聞くわ。しかも男女間の性行為によって」
「最初、ゲイの業病とか言われとったからな。当時のアメリカの政権が、天罰とか言ってろくに対策をとらなかったのが不味かったな」
「何でアメリカとかでは最初、ゲイの間で広まったの?」
「ゲイはバスハウスなんかで、不特定多数を相手にすることが多かったからだて」
「へえ、そうなの?」
「言っとくけど、おれたちは違うからな。
 エイズ患者が発見されてから5ヵ月後には、それがゲイの男性だけじゃなく普通の男女や子供にも感染することがわかっていたんだ。それがしっかりと認識されていたら、その後の対応も違ったかもしれんて。あまりにもゲイの病気だってイメージが広がりすぎた。まあ、『不道徳者への天罰』にしたほうが、一部の人間にとって都合が良かったのかも知れにゃーがね。
 あと、麻薬を打つ時に使う針の使い回しとかも感染を広げる原因だ。ロシアでは男女間の性行為についで、それで感染が広がったらしいて」
「なるほど、人の暗部を上手く利用して上手い具合に勢力を広げているんだ」
「そうだね。案外人間よりウワテかもしれんて。さて閑話休題。米軍の研究者が、ラッサ・ウイルスのリバビリン耐性種だと発表したために・・・」
「りばびりん耐性・・・?」
「リバビリンは抗ウイルス薬のひとつなんだわ。ラッサ熱感染初期に唯一有効な薬だよ。さて、件の疫病が、エボラでもなく新種のウイルスでもないラッサ熱だと発表されたために、世界の目はその国の悲劇から遠ざかってまった。しかも、新一たちが行った疫病発生の地は、独立して間もないまだ地図にも載っていないような、小さな国の小さな村だったんだ。イスラム教の根強い地で、ようやくキリスト教の信者が得た国家だった。疫病発生で米軍がしゃしゃり出てきたのは、そのせいもあったかも知れにゃあ。
 で、疫病の猛威がピークを過ぎたため、米軍は医療チームと共に去って行った。だが、思いがけない形で疫病の猛威が再燃してしまった。
 アレックスも含めて新一のWHOチームは、ほぼ米国チームと入れ替わりでやってきた。その時、先に現地で村人の治療を行っていたのが、この前おみゃーさんも会った、山田先生だった。先生は、米軍の介入する前から現地入りしていたんだ。
 そんな時、隣村から・・・と言っても、数キロ離れとったらしいが、患者を何人か車に積んだ東洋人男性がやって来た。なんと、疫病は周囲の村にも広がっていたんだ。その男は、伝聞でここなら救ってくれると聞いて来たと言った。日本でナントカいう団体の代表者で・・・」
「ナントカって、どこよ?」
「アレックスは聞いてにゃーんだ。当時は日本語がほとんどわからなかったらしいからね。彼はアフリカ等で貧困に苦しむ人々の助けになりたいとか、甘っちろいことをゆーとったようだが、確かに言動一致の立派な男で、山田先生を助けて、分け隔てなく感染者の看護をしとったらしい。だが、それがたたってそいつも感染してまったんだ。同じくらいに、あまりの過酷な医療活動が続いたために疲弊しきっとった新一が、針刺し事故で感染した。結局、男の息子という10代の少年とアレックスも感染、4人は村人と共に枕を並べて寝る羽目になった」
「ああ、それが、あの時話していた・・・」
「ラッサ熱といわれたものの、リバビリンは効かにゃあ。となれば、エボラなどと同じで対症治療しか出来にゃーってことだ。ラッサ熱の致死率は25%だが、そのラッサ熱はもっと致死率が高かった。アレックスが言うには、髪の毛が全部抜け落ちて、体中の表皮が剥がれ落ちたそうだ。後からサラサラの髪とすべっすべの皮膚が生えたって冗談をゆーとったが」
「うわあ、凄まじいとしか言いようがないなあ・・・」
「聴覚と視覚にもしばらく障害が残ったそうだよ。あいつの遠視はその時の名残らしいて」
「そっか、だから、多美山さんから感染しそうになった時、尋常でないほど恐れたわけだ」
「その時の恐怖が甦ったんだな。おれもその話を聞いたとき心底ゾッとしたなも」
「で、どうなったの?」
「その時は、既にその国に入出国出来なくなっとったんで、助っ人を呼ぶのも難しくなってまった。そんな、孤立無援に近いあんばいの中、山田先生は最後の手段に出た。血清療法だわ。これは、発症して完治した人の免疫を得るために、その人の血清を輸液する方法だがね。医療設備が貧弱だと、安全な血清を得ることが難しいのと、効果も得られるかどうかわからにゃー賭けだったんだて。結果、アレックスと日本少年と村人の二人が持ち直して新一と少年の父親と村人一人はあかんかった。その後、アレックスと少年は、米軍にアメリカまで搬送され、アレックスは一命を取り留めた。だが、少年の方はどうなったかわからんということだ」
「わからない?」
「少年とは病床で励ましあったそうだが、いかんせん当時のアレックスは日本語がしゃべれんかったし、少年は簡単な英語しかしゃべれんかったらしいからね。アレックスは少年の素性を知らないままだった。アメリカに搬送されてからも二人とも容態が数回悪化して、結局二人は違う病院に搬送されてしまったんで、それっきりになってまったらしいんだわ」
「そうか。生きてたらいいね、その子」
「アレックスが、今は元気すぎるくらいぴんぴんしとるんだ。きっとその子だって生きとるよ」
「だといいね・・・。・・・え? ちょっと待って、じゃあ、新一さんの遺体は・・・?」
「そのまま、アフリカの大地に眠っている筈だわ。持ち物は、アフリカに持ってきていたものは汚染されとるんでむりだったみてゃ~だが、自国に残してあったものは遺品として彼の実家に届けられたらしいね」
「じゃあ、アレクには・・・」
「ま、付き合っとったんだから、何か記念になるものくらいは持っとるだろ?」
ジュリアスは少しぶっきらぼうに言った。
「ジュリーってば、新一さんにヤキモチを焼いてるんだー。あはは、可愛い」
「煩いにゃあ」
「ほんとにアレクのことが好きなんだねえ」
「あたりみゃあだろー」
「はいはい、ごちそうさま。ところで、その村はどうなったの?」
「疫病が去って、その国は活気を取り戻したけど、数年後、疫病発生の村を中心とする一帯が壊滅した。今は国自体が隣国に吸収されて無くなってまったよ」
「ひどい、そんなのアリ?」
 あまりのことに、由利子は声高に言ってしまった。周囲の学生が振り返って由利子たちを見た。由利子はバツの悪そうに言った。
「ごめん。つい・・・」
「まあ、当然の反応だて」
「壊滅って、まさか、燃料気化爆弾で・・・」
「それじゃー映画の『アウトブレイク』じゃにゃーか。おみゃーさん、物騒な兵器を知っとるねー。たまげたわー。生憎、壊滅の原因は、まっと現実的で深刻なものだった。
 その村は国境に近い位置にあったんだ。疫病発生時に封じ込めのため、国境沿いに軍隊が出動をした。その時その国の軍隊がまんだ脆弱だったために、米軍の協力を余儀なくされたんだが、それが不味かった。隣国の不興を買ってまったんだわ。でもその時はそれで治まった。流石に米軍を相手にするのはマズイだろうからね。だが悪いことに、その隣国に増え始めとったイスラム原理主義者が眼の仇にし始めた。で、ちょこっとした小競り合いが原因で、隣国から武装集団がなだれこんできたんだわ。それで、ほとんどの村民が殺されてまった。これは、さすがに当時ニュースになったはずだよ」
「う~ん、覚えてないなあ。申し訳ない・・・」
「まあ、ここからは遠い国のことだで、しかたにゃーことだわ」
「でもそれを知った時、アレクがどんな気持ちやったか考えたら辛いね・・・。新一さんのお墓もあったんだもんね」
「あいつな、そのせいでサバイバーズ・ギルト(Survivor's Guilt)ってやつになっちまって」
「なにそれ?」
「生き残った者が、それに負い目を持ってしまうってやつだがね。未だに知り合いの事故や死を自分のせいだって思いこむことがあってなー、厄介なんだわー」
「そんな風には見えないけどね」
「ま、この国に来たせいもあるかもしれにゃーな。あんなに生き生きとしとるあいつは初めて見たよ」
「そんな風に言ってくれると嬉しいね、やっぱ。でも、アレクってばあんな死にそうになったのに、結局新一さんや山田先生と同じ仕事についたんだよね。すごいよ」
「新一と約束したそうだから」
 ジュリアスはまたつんとした表情で言ったが、すぐにそれを和らげて続けた。
「おれもアレックスの助けになりたくてこの仕事についたんだわ」
「そっか、愛の連鎖だね」
「おみゃーもけっこうクサイことを言うんだなも。ま、こんなところだが、そろそろ図書館に着くんでこの辺にしとくけど、えーかね?」
「うん。話し辛いことを色々と話してくれてありがとう」
「いや、おれが話てゃーてゆーたことだでな」
 そう言うと、ジュリアスは立ち止まり、由利子のほうをまっすぐに見て言った。
「これからもアレックスのことをよろしく頼むわ」
 それを受けて、由利子は自分の胸をドンと叩いて言った。
「わかった。この大胸筋にまかせなさい」
「しっかり根に持っとるよなあ」
ジュリアスがくすくすと笑いながら言った。
 

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2.焔心 (7)現実の火種、妄想の火種

 記事はその後、日曜夜に北部九州一帯と、翌日月曜夜の全国向けに流された、サイキ・ウイルスについての放送についての概要に移った。それは、ほぼ正確な内容だった。むしろ、まとめとしてはかなり優れたものに仕上がっていた。
 記事は、それからこのウイルス禍についての考察に入った。

【殺人ウイルスはどこから来たか】
 だが、以上の緊急報道では充分に説明されなかったことがある。それは、何故そのように危険な未知のウイルスが、いきなり九州の地方都市に出現したかという事だ。
 このような新種の病原体が発生する可能性は、いくつかある。
 旅行者が海外から感染して持ち込む。船や航空機に運ばれて、媒介生物が入国する。国内の急な開発により、密林に潜む未知の病原体が出現してしまう。病原体を扱う機関から漏れ出した可能性。等々。
 疫病の発生地であるF県K市は、多くの芸能人を輩出したことと、ラーメンやヤキトリなどで有名な人口30万の地方都市だ。しかし、近くに国際空港や港があるわけではない。当然密林を切り開くような開発があったわけでもない。過去にこのような風土病の出た記録も無い。さらに、最初に感染したと思われる人間はホームレスで、海外渡航暦のある可能性はほぼ0だ。また、本誌が調べた限りでは、K市どころか日本国内でも、未知のウイルスを扱っているような機関はない。
 それを考えると、何故この地にサイキウイルスのような、激烈な症状をもたらす病原体が、突如現れたのか、まったく推測がつかない。
 過去に一度、日本国内で出血熱が発生し流行したことがあった。
 第二次世界大戦後の1960年、大阪のU市でハンタウイルス感染症と思われる病気が流行したのだ。その時はドブネズミが媒介動物になった。
 日本での出血熱流行は、今回の発生が二度目ということになる。しかも、大阪の場合はその後十年において119人の感染者が出たが、死亡者の総数は二人であった。それに対して、今回は発生からひと月も経たないうちに、既に十人以上の死者が出ている。それが、看過出来ない数であることは、自明であろう。なお、2009年の新型インフルエンザA(H1N1)の日本国内発生についてを例にすると、後に爆発的に増えるものの、発生から約1ヶ月までの国内での感染者は約500人だが、死者数は0である・・・ 

「なるほど、ラーメンヤキトリはともかく、それなりに勉強はしているようだな」
 高柳が感心して言った。ギルフォードも相槌を打ちながら言った。
「そうですね。この女性は意外とものを書くことが天職なのかもしれません」
「うむ。道さえ間違えなかったら、真犯人までたどり着く可能性もあっただろうな」
「そういう意味では、この女性は連中にとって危険な存在だったということですな」
 と言いながら、九木は組んでいた腕を組み替えて続けた。
「で、干渉された結果の記事が次なわけだ」
「彼女には残念ですが、そういうことでしょう」
 と、松樹が左手で垂れてきた前髪をかき上げながら言った。葛西はみなの顔を見回し、様子を見て口を開いた。
「続けていいでしょうか?」
「おっとすまんね。続けてくれたまえ」
 高柳が言った。

【それはバイオ・テロか】
 以上のことを踏まえた上で残る可能性は、このウイルスが人為的にばら撒かれたか、あるいは、非公式な研究室からウイルスが漏れたか、ということだ。先にあげた大阪でのハンタウイルスの局地的流行は、当時、米国が生物兵器研究のため大陸から輸送していたハンタウイルスが、寄港中の大阪湾で漏れたからではないか、との推測もあるのだ。
 そして、緊急放送にもかかわらず、ウイルスの出現について言及しなかったのは、その公表が出来なかったからではないだろうか。
 では、出来なかった理由とは何か。
 本誌は先に書いたように、F県で現在起こっているウイルス禍について、テロの可能性があるという情報を掴んだ。都心で実行する前のシミュレーションとして、地方で実験的に行ったウイルス散布が、テロリストの想定外に広まったものだということだ。
 そして本誌記者は、この事件に大きく関わっているウイルス学者を、偶然写真に捕らえた。M記者が、ホームレス以外で始めてサイキウイルスに感染したと思われるA少年の家に取材に行こうとした時のことだ。そこには、何故か先にA家に入り込んでいた『教授』がいた。その時、M記者が急いで激写したものがこの写真である。
 家族をウイルスで失い一人残ったA家の当主は、何故か『教授』の訪問と共に、自殺を図ったということが、後の取材でわかった。
 当主は何故自殺を図ったのか、それは本当に自殺だったのか、『教授』が血まみれの服を着ているのはどういうわけか。本誌はこのウイルス騒ぎの暗部に不穏な『何か』があることを直感した・・・

 その記事ブロックの傍に、さっき問題になったギルフォードの写真が掲載されていた。秋山信之が自殺未遂をした時、救急車を見送って門の傍に立っていた時の写真だ。
 それは全体的に砂目フィルターが掛けられているため不明瞭で、さらに両サイドに居る由利子たちの顔にはボカシが入れられ、ギルフォードには目線が入っているが、わかる人が見れば、おそらく推測が可能であろう程度の写真だった。ギルフォードは腕組みをしたまま険しい表情で黙り込んでいる。葛西はその表情に見覚えがあった。スパムメール事件の時の表情(かお)だ。
(相当怒っているよなあ、ありゃあ・・・)
葛西はそう思いつつ気になったがどうしようもない。仕方なく淡々と続きを読んでいった。

 ・・・テロ関連については、まだ十分な裏づけ資料が無いために今回は詳しい内容の掲載を控えるが、順次掲載していく予定である。
 しかし、もしも、キーマンである『教授』がウイルスの開発に加担していたとしたら、恐ろしいことになるだろう。731部隊やアメリカの炭疽菌事件の犯人と同レベルの危険人物が、ウイルス対策チームに・・・

 

”畜生、俺をあんな腐れ外道共と一緒にするんじゃねえっ、このクソッタレがっ!!"
 とうとうギルフォードがキレた。一瞬センター長室がシンとなった。ついで、高柳と九木が呆気にとられてギルフォードの方を見た。日本語とのギャップに驚いたのだ。松樹は、ぷっと吹き出し笑いながら言った。
”なんだ、アレックス。おまえ、全然変わってないんだな”
 勢い余って立ち上がったギルフォードは、はっと我に返り、バツの悪そうに顔を赤くしてすわり直しながら言った。
「すみません。つい汚い言葉を使ってしまいマシタ・・・」
 ほとんど英語の聞き取れない葛西は、ギルフォードが何と言ったか理解できずにぽかんと突っ立っていた。

 由利子は大学の図書室で、ジュリアスに付き合って気に入った本を読んでいた。
 しかし彼女は時折、隣に座ったジュリアスが大量の本に埋まって調べ物を続けている様子を眺め、ため息をついていた。
 ジュリアスの周囲に積んだ本が、次々と左から右に積まれていった。
 最初、由利子は面食らってしまい、しばらくジュリアスが分厚い本のページを猛スピードで繰る様子に見とれていた。速読のことは知っていたが、実際にそういう読み方をする人を見たのは初めてだった。しかも、和文英文どころか、独文仏文までこなしていた。
(うわあ、こいつ、本当に天才だったんだ~)
 由利子は感心しながら思った。それでも由利子は、だんだんと読んでいる本に引き込まれ、いつしかそれに没頭してしまった。それで、ジュリアスが本のページをめくる手を止め、「ビンゴ!」とつぶやいたことに気が付かなかった。

 葛西は一通り読み終わって、雑誌を置いて言った。
「以上ですが、特に読み返すような箇所はありますか?」
「いや、充分だろう」
 高柳がすぐに答えた。
「内容としては玉石混淆だが、石の方が多い。しかも、タブロイド性の高い雑誌だ。今のところこれがたいして騒ぎを起こすこともないだろう」
「で、この雑誌のこっちでの発売はいつです?」
 九木が問うたので葛西が答えた。
「え~っと、あさって・・・、金曜日ですね」
 それを聞いて、松樹が頷いた。
「なるほど。事件の起こっている地より先に、都心部でこの情報が流れるわけだね」
「ええ、情報の逆転現象とでも言いましょうかね」
「ただしですね」
 葛西が言った。
「同雑誌の電脳版ってのがあるんです」
「ああ、WEBニュースね」
 と、九木。
「はい。販売促進のため、全部は掲載しないようですが、登録すると主要記事がメールマガジンで読めるようになっているようです。もちろん有料ですが」
「なるほど」
「ですから、その記事をコピーペーストして、どこかの掲示板等にアップする可能性もあります。もしアップしたほうが面白半分であっても、本気にする人たちの数は看過出来ないのでは・・・」
「う~む、やはり対策会議の議題にこれを上げる必要があるか。あまりこういう電波系のお取り扱いはしたくないものだがね」
 高柳が渋い顔で言った。
「だけどね、センター長」
 九木が言った。
「同じ陰謀論めいていても、これは9.11やアポロのような国外の事象ではない。対岸の火事ではなく実際に我々の尻に付いた火なんです。今は小さい火の粉かもしれませんがね」
「うむ、それについては私も危惧はしているんだが・・・」
「これからは、もっと面倒くさいデマが飛び交う可能性もあります。その対処法も検討しなくては」
「デマに対処か・・・。難しいな、多分」
 高柳がため息混じりに言った。
 そこで、今まで黙っていたギルフォードが口を開いた。
「ところで、現在わかっている感染可能性者でまだ見つかっていないのは何人ですか?」
「森田健二関係では、ガールフレンドの一人と『コンパでお持ち帰りをした』とかいう女性一人。それから、篠原さんのバッグを狙った二人組の男の内の一人。そして、笹川歌恋の会社の同僚の斉藤孝治。この四人だね。行きずりの女性はもともと正体不明だし、ひったくり犯は行方不明のままだが既にこの世には居ないかもしれない。それに対して残りの二人は名前も住所もわかっているんだが・・・」
「結局全員行方不明ということですか」
「そうだな」
「感染がわかっていて、隔離を避けるために身を隠していると考えていいですね」
「既に死亡しているのでなければ、そういうことだろうな」
 高柳は憂鬱そうに言った。それを聞いた葛西が不安そうに言った。
「じゃあ、やけになったりしたら恐いじゃないですか」
「うむ。あまり考えたくは無いが、赤視の時に起きる発作のこともあるからね、可能性は無いことも無いが・・・」
「緊急手配はしているんだ。駅や空港・港湾にも捜査員を張り付かせているし、北部九州の飲食店はもとより、宿泊に利用しそうなネットカフェや風俗営業のホテルにまで手配書を配ってはいるのだがね」
 松樹が腕組みをしたまま、これまた渋い表情で言った。 

「どいつもこいつも、おれを疫病患者扱いしやがって・・・! ちくしょお・・・」
 斉藤孝治は、コーヒーショップで一人コーヒーを飲みながら毒ついた。
 彼は、一昨日の月曜に会社を飛び出してから、家にも会社にも戻らなかった。二晩ほどネットカフェに泊まったが、二晩目の早朝、彼を不審に思った店員から通報され、捕まりそうになったところを間一髪で逃げ出した。
 月曜日・・・あの、窪田栄太郎が自動車に飛び込んで轢死し、笹川歌恋が感対センターに隔離された日の昼前、社内で緊急集会が行われた。その時、調査と説明に来た保健所と感対センターの職員から、窪田と歌恋が例のサイキウイルスに感染してた可能性が濃厚であることが告知された。当然のことながら、孝治は内心愕然としていた。先週の金曜、彼は歌恋を窪田との関係のことで脅し、彼女の部屋に押しかけた。その挙句に、無理やり関係を持ってしまったのだ。
 しかし、その後も孝治はそ知らぬ顔をして仕事を続けたが、不安に耐え切れず、とうとう午後3時ごろに取引先に届け物があるからという理由で会社を抜け出した。その後彼は、ゲームセンターで時間を潰し、結局帰社せず直帰するという電話だけ入れて自宅に向かった。しかし、自宅のあるマンションの周囲には、目つきの鋭い者達が数人張り込んでいるのがわかった。孝治は直感で彼らが警官であることとその目的を察し、そ知らぬ顔でマンション前を通り過ぎ、しばらく歩いた後、慌てて逃げ出した。
 翌日、会社に休暇届けの電話を入れた。昨日の今日で、会社に行く気力がなかったのだ。しかし、孝治の感染は既に会社の知ることとなっていた。総務の女性から社長へと電話がつながり、ちゃんと隔離された上で検査をするようにと訥々と説得された。だが孝治はそれを激しく拒否し、電話を切った。
(終わったな・・・)
孝治はようやく自分の立場を認識し、そのまま力が抜けて座り込んだ。
 孝治は三十路を過ぎたばかりの年頃だったが独身で、大学の頃から親元を離れ気ままなひとり暮らしをしていた。
 そこそこにイケメンで二枚目半を気取る彼は、それなりに言い寄ってくる女性も多く、今までガールフレンドには事欠かなかったが、何故かどれも長く続かなかった。
 それでも30を過ぎる頃になると、そろそろ身を固めようかと言う気になってきた。今まで数人の女性と付き合ってきたが、いまいちこれと言った感じの人とは出会えていなかった。そこに新入社員として入って来た、笹川歌恋は、孝治にとって理想の女性そのものだった。最も、彼は女性を好きになるたびにそう思う性質(タチ)ではあったが。
 それで、孝治はしばらく歌恋の様子をこっそりと伺うという、裏職場ライフを満喫していた。しかし、ある日彼は、偶然とんでもない事実を知ることになった。彼は、悪友たちと飲んでいた有名繁華街のスナックで、会社ではほとんど口も利かない状態の歌恋と窪田が、カウンターで楽しそうに語らっているのを目撃したのだ。店内があまり明るくないため、二人が孝治に気がつく様子は微塵も無かった。
 11時を過ぎた頃、窪田と歌恋は仲良くスナックを後にした。歌恋は大胆にも窪田の腕にしなだれかかっていた。
「ねえ、ママ、今の二人ってさ」
 二人が戻ってくることが無いのを確認して、孝治は尋ねた。ママは、クスクス笑いながら言った。
「うん、ホテル待ちやろうね。最近二人で良く来るのよね。栄ちゃんも隅に置けないわよネエ。あんな若くて可愛いコとさー、ねー」
「ねー」
 カウンター内に立つ、若い女性バーテンダーが意味深な笑みを浮かべて相槌を打った。
「へえ、そうなんだー。羨ましいねえ」
 孝治はそういうと、心の中でニヤリと笑った。
 本当に軽い気持ちだった。
 女性にもてると自負していた孝治は、これで歌恋が自分に夢中になるだろうと考えていた。少なくともゲームの世界ではそうだった。しかし、現実は違った。事の終わった後には、激しい拒否と非難に満ちた目が孝治に向けられていた。彼は、それでも気楽に考えていた。自分とは初めてだったからなんだ。次からはきっと・・・。
 だが、現実は歌恋からの拒否以上に過酷だった。致死率ほぼ100%の新型ウイルス感染。
 この酬いを重いと見るか軽いと見るかは意見が分かれるところだが、少なくとも歌恋は相応と思ったことだろう。
 そして、孝治の逃亡生活が始まったのである。

「ところで、亡くなられた、ユリコの元上司のコガさんに関してはどうでしたか?」
 さらに、ギルフォードが聞いた。由利子が親しかった人のことなので、ずっと気になっていたのだ。
「うむ、彼が掛かった病院に問い合わせたが、風邪をこじらせ肺炎を併発したと判断したということだった。しかも、死因は心臓発作らしい。血液検査のサンプルは既に廃棄されていたよ」
「どういうことですか?」
「そのままさ。私たちが多美山さんに見たような激烈な症状は無かったといっていた。赤視などの症状も無かったらしい。もっとも、急に容態が悪化したということなので、気付かなかった可能性もあるがね。まあ、遺族から解剖を拒否されたので、内臓の状態等内部がどうだったかわからんそうだが」
「触診や内診でもある程度異常がわかると思いますが」
「面倒ごとは避けたかったんだろう。このウイルス感染については、告知前から日本中の病院に知らせられていたんだ。知らなかったはずはないよ。ただね、実際に目の前の患者がそうだと思いたい医者はそんなに多くないだろうからね」
「二次感染は・・・」
「今のところ無いそうだ」
「心臓発作というのが気になりますね。新たな症状かもしれません。解剖されなかったことが悔やまれます」
「まあ、多美山さんだってここに入院してなければ、もっと早く亡くなられていた可能性もある。そして、それは心臓発作だったかもしれないだろう。同じように劇症化を起こしていた秋山珠江は、感染後3日足らずで死亡しているのだからね」
「何が劇症化の引き金になるかも突き止めねばなりませんね」
「とにかく、カルテなど資料関係は全て送ってもらうことにはしているから」
「まあ、他に方法はありませんねえ・・・」
 ギルフォードがため息をついて言った。その後、今度は葛西に向かって尋ねた。
「ジュン、C川沿いのアパートで亡くなられた方についての情報はありますか?」
「あ、アパートの管理人さんからの情報で、わりと詳しくわかりました」
 葛西はそう言うと手帳を開いた。
「名前は海老津利和(えびつ としかず)。年齢55歳。仕事はホテルの客室係でした。ホテルと言っても、いわゆるラブホテルだったようですが」
「おや、男性にしては珍しいんじゃないですか?」
「以前は中堅どころの企業に勤めていたようですが、平成不況の煽りで倒産したらしいのです。今は再就職は難しいですから、仕事を選んでいる場合ではなかったのでしょう。特に年配の方で手に職も特筆すべき資格もないとなると・・・」
「そうですか・・・。ユリコが聞いたら落ち込みそうですね」
「やだな。由利ちゃんはまだ若いですよ。特技もあるし」
「ああ、失礼。まだお若いでした。まあ、特技については履歴書に書けるかは微妙ですけど」
 ギルフォードが苦笑して言ったが、葛西はそれを無視して続けた。
「で、ご家族の話だと、ある日ついと家を出て行ったそうです。毎月10万円ほどの送金はしていたようですが」
「10万って、そういうところの仕事だったら、給料の大部分じゃないですか?」
「そうですね。家賃や光熱費と食費・・・必要な経費を引いたほとんどだと思います。しかも相当切り詰めてたと思います。だって、室内には寝具と照明、台所には一口コンロとやかんくらいしかありませんでしたから」
「なんか、やり切れませんね・・・」
 ギルフォードがため息をついた。
「どうしてだか、ホームレスだったヤスダさんを思い出してしまいました」
「あ、なんかわかりますよ」
 葛西が頷きながら言った。ギルフォードは次に高柳に尋ねた。
「タカヤナギ先生、それでこのエビツさんの感染経路は?」
「これは推理でしかないのだが、おそらく蟲が媒介したのではないだろう。遺体に咬み傷もPox様発疹跡も無かったからね。職場で感染の可能性が高いな」
「職場で?」
「客室係だったのなら、寝具や衣類に触れるだろう? あるいは、もっと言うに憚るようなものの処理もせねばならないかもしれない。そんなところに感染者が泊まっていたら・・・」
「たしかに、感染リスクはかなり上がるでしょうね」
「ひょっとして、そのホテルに美千代が泊まった可能性も・・・!」
 と、葛西。それに対して高柳が大きく頷いて答えた。
「大いにあるだろうね」
「で、対策は?」
「アレックス、すでにそのホテルには連絡を入れているよ」
 松樹が言った。
「それに美千代の事件以後、県内及び県周辺の風俗営業を含む各宿泊施設に問い合わせも入れている。実際、美千代が防犯ヴィデオに映っていたホテルもあった。だが、それは今回のホテルではなかったんだ」
「いずれにしても、ホテルの従業員や或いは宿泊者にも感染の危険があることが確実となったんだ。特に客室担当の方には充分な装備で作業出切る様、徹底的に指導すべきだな。室内の消毒も同様だ」
「しかし、まだ表に出ていない感染者が多く居る可能性がありますね」
「感染可能性者が行方をくらませた場合、指名手配することも検討すべきではないですか」
 と、いままで黙っていた九木が口をはさんだ。
「指名手配・・・?」
 高柳と葛西が同時に言った。
「そうです。危険な病原体を持ったまま逃走することは、もはや犯罪です。リスクは銃を持って逃走するのと同等でしょう。いや、もっと危険かもしれない。銃は伝染や増殖はしませんからね」
「しかし、それをやるとなると、色々と問題が出てきます」高柳が渋い表情で言った。「特に人権派の人たちの反発は必至ですよ。今でさえ、不当な隔離と抗議してきているんですから」
「だが、非常事態です。今のところ、表面的には世間は穏やかですが、これからはどうなるかわかりませんよ。ま、私はもともと部外者ですから、あまり口は挿みませんけどね」
(”充分嘴を突っ込んでいるじゃねーか”)
 ギルフォードがそう思った時、それを見透かすように九木が尋ねた。
「ギルフォード先生、専門家のご意見はどうですか?」
「僕としては・・・」
 ギルフォードは一瞬眉間を寄せたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「不本意ではありますが、ココノギさんの意見に賛成です。ただし、ここは日本ですから、強硬手段をとるにはかなりもめるでしょうね」
「ところでギルフォード君。キング君はどうしているんだね?」
高柳が思い出したように言った。
「ああ、彼は、ユリコと一緒に図書館で調べ物ですよ」
「何を調べているんだね?」
「僕にもわかりません。なんか、気になることがあるらしくて」
「至急、呼び出してくれないか? 緊急会議には彼の意見も聞きたい」
「わかりました」
ギルフォードはそういうと、電話を取り出した。

「ご利用者様のお呼び出しをいたします。ジュリアス・アーサー・キング様~、ジュリアス・アーサー・キング様~。おられましたら、至急ギルフォード様までご連絡をお願いいたします。繰り返します・・・」
「あんのクソた~けっ! あれだけフルネームはやめろとゆーとったのに!」
 ジュリアスはそう言って立ち上がると、携帯電話を引っつかんで廊下の方に出て行った。周囲の人たちがクスクスと笑っている。
(ジュリアス・アーサー・キング? すっごい名前やねえ。シーザーとアーサー王が合体しとぉやん)
 由利子は心の中で思うと、喉の奥でクックッと笑った。爆笑したいけど、こんなところでは出来ない。苦しくなった由利子は、気を紛らわそうとジュリアスの読んでいた本に目をやった。ふと、その中の一冊にペンが挟んであることに気がついた。
「あら、探し物はみつかったのかな?」
 由利子はつぶやくと、その本を広げた。全部英語であった。由利子は見た瞬間拒否反応で頭が真っ白になった。
「読めないじゃん」
 ふと、そこに掲載されていた写真が目に入った。それは、40~50歳くらいの白人男性で、口ひげをきっちりとそろえた紳士だった。
(いやん、ロマンスグレーで私の好みだし)
 下を見ると、Dr.なんたらと書いてある。しかし、由利子には難解なスペルで上手く読めない。そうこうする内にジュリアスが帰って来たので急いで本を閉じた。何か、見てはいけないような気がしたのだ。
「由利子、引き上げだわ。感対センターに行くがや」
 ジュリアスが近づきながら言った。
「調べ物は終わったの?」
「ああ、終わった終わった」
「じゃ、出ましょうか」
「由利子、その本借りなくていいのかねー?」
「うん。また来てから読むから。静かだし居心地がいいわあ、ここ」
「そうかね。ほたら行こまい。その前にこの本を元に戻さなかんなー。われながらどえりゃー数の本を積んだものだて」
 ジュリアスは、机の上の膨大な本の山を見てため息をついた。 

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2.焔心 (番外:ちょっとティータイム)聖ヴァレンタインズ・ディの思い出など

由利子さんの場合★
 何故か、そういうことに冷めていて、自分からは決してバレンタインデーにチョコを送ることなどなかった由利子さんだが、何故か、中学でも高校でも、大学はちょいと飛ばして職場でも、一番沢山チョコレートをもらうのだった。
 それで、決してバレンタインデーにチョコを買うことのない由利子さんだが、3月14日のホワイトデーには、何故か律儀にも御礼のクッキーを買ってしまうのであった。

ギルフォード教授の場合
 未だ若い頃。大好きなミュージシャンが日本の風習と言っていたのを思い出して、アレックス君は新一君にチョコレートをあげた。ちょっと奮発してお高い有名ショコラシエのチョコレートだ。
 ドキドキしながら勇気を出してチョコレートを差し出すアレックス君。新一君は、にっこり笑って受け取った。
「君も食べなさい。高かったんだろう?」
 二人は仲良くチョコレートを食べたが、何故か新一君は涙目だった。

「後で知ったんですが、シンイチは甘いものが苦手だったんです」
「バッカでぃ。好きな人の好みくらい知ってなさいよ~、もう」
由利子は容赦なく言ったが、その後声のトーンを変えて訊いた。
「で、ひょっとして、それが告白だったの?」
すると、ギルフォードは少し頬を赤らめて答えた。
「まあ、そんなもんです。意味をわかっているのか、と訊かれたので、『ハイ』って日本語で答えマシタ」
「そ、良かったねえ。で、お返しはあったの?」
「はい、3月14日に。そんな風習があるなんて知らなかったので、驚きました。もらったらお返しをするという、日本らしい風習ですねえ」
ギルフォードは違う方向で感心していた。
「で、何をもらったの?」
「ええ、何故か茶色いふわふわな大きいマシュマロが二つ。しっかりと袋に入ってマシタ」
「いい話だったのに、結局下ネタかよ!」

葛西君の場合
 幼稚園の時、バレンタインデーに因んでおやつがチョコレートだった。隣の女の子が自分の分をくれた。当時は何のことやらわからずにポカンとしていたら、周囲の女の子が次々と自分のチョコを葛西君にあげようとして、大騒ぎになり、とうとう先生が出てくるまでになった。葛西君は最後まで意味がわからずにポカンとしていて、先生にあきれられた。
「昼行灯のくせにもてるんだから。仕方ないわねえ、純平くんは」
 小学校の頃は、それなりにもらった。流石に意味はわかっていたので悪い気はしなかったが、帰ったら太るからと言って、姉にみんな没収された。
 中学高校と、けっこうもらう量が増えた。周囲は羨ましそうにしていたが、葛西君にはどうでも良かった。彼は、科学の若い女性教師にあこがれていたからだ。帰ったら、にきびになるからと言って毎回姉に全部没収された。彼女は手作りらしきものは全部排除した挙句、浄化だと言って火をかけて燃やしてしまう。それでも、毎回1個だけ返してくれた。けっこう有名チョコレートショップのものだった。
 最近は、姪っ子から毎回手作りらしきチョコレートをもらう程度になった。自分は全部捨てていたくせに、娘はいいのかよ、とハートよりクローバーに近い形のチョコを見て思う葛西君であった。
(由利ちゃんはくれるかなあ。手作り大歓迎なのだけど)

 多分、教授からはもらえる。 

ジュリー君の場合
 子供の頃、祖母を頼って日本に来た時、ちょうどバレンタインデー商戦の真っ只中だった。まだ日本語のわからなかったジュリー君には、英語の「St.Valentine's Day」しか読めなかったが、聖人ヴァレンタインとその大量チョコの意味が繋がらずに悩んだ。売り場の前でずっと首をかしげていたら、女子高生たちが寄ってきた。まだ女子高生のスカートが短くない頃のことだ。
「きゃー、かわいい!」
「子供の頃のマイケルみたい」
「うっそ~、マイケルより何倍もキレイだよ」
「日本語わかる~?」
ますますきょとんとするジュリー君に、女子高生達はまたかわいいとヒートアップした。
「カワイイからあげる~」
中の一人がジュリー君の手に、買ったチョコからかわいいのを選んで乗せた。
「ア・・・アリガト」
ジュリー君はたどたどしい日本語ながら、にっこりと笑って言った
「いや~ん、かわいい~ん」
彼女等は次々とジュリーの手にチョコを乗せてありがとうと言わせ、きゃあきゃあ言いながら去って行った。
”ジュリアス! ああ、こんなところにいた。ウロウロしないで。トイレにもゆっくり行けないじゃない”
祖母がそういいながら足早にやってきたが、ジュリアスの抱えた大量チョコを見て「あれまあ~」と驚いた。
 それらが買ったものであることは、売り場の人が証明してくれたので、せっかくだからいただいて帰ることにした。そこの売り場の人がペーパーバッグをくれたので、お礼に1個買って帰った。
”久々に、おじいちゃんにあげる事にするわ。かわいい孫も来て、ステキなバレンタインデーになるわね”
祖母が嬉しそうに言った。

「だもんで、ヴァレンタイン・ディはおれにとってはラッキーデーなんだわー」
ジュリー君はちょっとだけ得意げに言った。教授がその横から不機嫌そうに言った。
「僕だって最近は女子大生からスゴク沢山の・・・」
「はいはい」
由利子さんと紗弥さんがほぼ同時に言った。

紗弥さんの場合
 意外にも、日本のバレンタインデーを楽しみにしているらしい。色々なチョコレートを見ることが出来るのが楽しいし、気に入ったのは自分に買って帰るらしい。いわゆる自分チョコですね。
 T神のバレンタインデー特設コーナーで、教授と一緒に紗弥さんの姿も見ることが出来るかもしれない。

美葉さんの場合★ 
 義理にも本命にも、美葉さんはデパートで有名ブランドのチョコレートを買うことにしている。手作りは気持ち悪いといって食べずに捨てる人がいると聞いたからだ。
 しかし、一番大事な人のぶんだけは、いつも本格的に手作りをしているのだが、その人が毎年沢山もらうので、結局いつも渡せずに自分で食べる美葉さんなのでした。

多美山さんの場合
「今年も婦警達からこれをもろうたけん」
多美山は仏壇の中の妻の写真の前に、もらったチョコレートを置いた。
「先におまえが食べんね。・・・そういえば、おまえ、おれに一度だけチョコレートをくれたことがあるなあ。なんでかおまえと大喧嘩をして・・・。原因はなんやったかなあ」
多美山は少し考えると、笑って言った。
「もう忘れてしもうたなあ。とにかく、それがばれんたいんでーの前日やったことは覚えとお。で、おまえは翌日無言でおれに弁当を渡したやろ。おれはそれを開けるとが怖かったばってん、意を決して開けてみたったい。そうしたら・・・」
多美山はクスクス笑いながら言った。
「梅干の代わりにチョコボールが乗っとった。おれはなんとも言えん気持ちになったったい」
多美山はその後ため息をついた。
「やっぱ、ひとりは寂しかもんやねえ」
その時、玄関の呼び鈴を押す音がした。急いで出ると宅急便だった。東京の息子からだ。開けると中から、孫の桜子からの手紙と共に、自分で包装したらしいチョコレートが出てきた。
『おじいちゃん、げんきですか。チヨコレートの手づくりはパパとママがはんたいしたから、つつみだけさくらの手づくりです。さくらはおじいちゃんがいつも大すきです』
多美山は孫の手紙を手にしたまま、しばらくじっと座っていた。

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2.焔心 (8)ダディズ・クライ

「こ、これは・・・? こんなこととは・・・」
夕方、娘のもとの駆けつけた北山紅美の父紀夫は、そう言うと言葉を失った。妻から娘が今朝方一時危篤状態に陥ったため、人工呼吸器をつけることになったという話は聞いていた。だから、会話は出来ないと。しかし、これは・・・。
 紀夫は、今、これを目の当たりにするまでこんな状態は予想すら出来なかったのだ。いったい何故、娘はこんなことに・・・?

 夫の声を聞いて、病室の窓の前に座っていた母親の真澄が振り向いた。
「お父さん、仕方がないとですよ・・・」
真津美は疲れ果てた表情をして言った。紅美はベッドに拘束されていた。人工呼吸器をつけられたその顔は、やつれ果てて既にかつての面影は失われていた。春野看護師が紅美に父親の到着を告げたらしく、紅美は目を開けて窓の方を見た。その赤い目に、父は驚いて一歩後退りをした。だが、その口からは一言も声が発せられなかった。その後、紀夫はよろよろと窓に近づき、意を決したように娘を直視した。父親の目から涙がこぼれた。
「私から説明いたします」
窓の中から山口医師が言った。
「おじょうさんは、月曜の夜から周囲が赤く視えるという、この病気特有の症状が出てしまわれたのですが、それ以来自傷行為が続いて・・・。スタッフが注意して見ておりましたので、ほとんどは未然に防ぎましたが、申し訳ありませんか、お母様のご同意も得て、止む無く拘束をさせていただきました」
「そんなバカな・・・。自傷行為って、娘は自殺なんかする子じゃあなかです!」
「あなた、この子は私の前でも何度か・・・。もう、この子のあんな姿は見たくなかったから、拘束されて私は正直ほっとしとおとです」
「紅美、おまえ、なんでそんなお母さんが悲しむことを・・・!」
「いえ、お嬢さんのせいではないんです」
山口が、急いでフォローした。
「この病気の症状なのです。これは人によってはまちまちで、攻撃対象が自分になるか他人なるか・・・。でも、川崎さんという患者さんにはそういうことはなかったですから、必ず攻撃的になるとは限らないのかもしれませんが、まだ情報が少なくてなんとも言えないというのが現状です。ただ、お嬢さんに関しては、自傷行為のほうが出てしまったようなのです」
「何で・・・、何でですか?」
「わかりません。ひょっとしたら、患者さんの心象が現れるのかもしれません。お嬢さんの場合は、お子さんと恋人の双方を一度に失った絶望の深さが影響しているのかもしれませんが・・・」
「そんな・・・。紅美、おまえは・・・」
紀夫は窓によろよろと近づくと、紅美の方を見て言った。
「お父さんだってお母さんだって、おまえを愛しているんだよ。今までおまえを大事に育ててきたのに、それなのに、こんな・・・、こんな・・・酷い・・・」
紀夫はそこまで言うと、窓に突っ伏して声を上げて泣いた。
 拘束と人工呼吸器の装着で、身体も顔もほとんど自由に動かせなくなった紅美だが、目線何とか両親の方に向けることが出来た。紅美は父親のそんな姿を見て、申し訳なさと悲しさで、心が張り裂けそうになった。
 紅美は父親が泣くのを初めて見た。いつも厳格な父だった。そんな父親から距離を置きたくて、家から離れた他県の大学に行きを決めた。当然猛反対を覚悟していたが、父は「もう、自分に責任を持てる歳になるのだから、思った道に進みなさい」と、あっさりと許可してくれた。それなのに、私は下らない男に現を抜かした挙句に、こんなところで死に掛かっている・・・。両親に親孝行どころか、悲しく辛い思いをさせながら・・・。
 紅美は父母の見える窓から目をそらして、サイドテーブルに置いてある薔薇の置物のほうを見た。その横には、それが可愛くラッピングされていた時の写真がフォトスタンドに入って飾られている。春野の心遣いだった。周囲が赤く染まって見える今、元々紅かったこの薔薇だけが元の色を保っていた。
(あの恐いオジサン・・・、長沼間さん・・・。あの人ともっと早く会えていたらよかった・・・)
これは、紅美が薔薇のお見舞いをもらったあの時から、何度も想ったことだった。公安調査官と平凡な大学生では、こんな事件でも無い限り接点はないだろう。紅美はわかってはいたが、健二とは正反対の実直で不器用そうな長沼間に対して、そう思わすにはいられなかった。
(お父さん、お母さん、ごめんなさい)
紅美は、心の中で何度も繰り返した。しかし、人工呼吸器をつけられてしまった今、もはや紅美にそれを伝える術は無い。紅美は、窓の向こうで悲嘆にくれる両親のほうを見ることが出来ずに、天井をぼんやり見ていた。その両目からは涙が溢れていたが、それは彼女の横顔に赤い筋を描いて、白い枕を赤く染めていった。だが、その顔には既に表情が失われていた。
 

「何なのよ、これはっ!!」
「なんちゅーとんでもにゃー記事だなも」
図書館から、感対センターに行った由利子とジュリアスは、センター長室に入り席に着いた途端に例の記事を読まされて、一様に言った。
「これじゃあまるで、アレクがラスボスみたいじゃないの!!」
「まったくだがね。捏造にも程があるて」
ギルフォードを挟んで座った二人は、怒りが収まらない様子でしばらく口々に文句を言っていた。反面、噂の本人は、不機嫌な様子のまま一言もしゃべろうとしない。その様子を見て収集がつかないと思ったのか、高柳が口を挟んだ。
「二人とも、怒る気持ちもわかるが少し冷静になりたまえ。今のところ、よくあるタブロイド誌の誇大記事に過ぎないのだからね」
「だって高柳先生、今回のことで一番心を痛めているのは、他ならぬギルフォード先生でしょ。それなのに、何でこんな風に書かれなきゃいけないの!? 何がブラッディ・プロフェッサーよっ!」
「憤慨する気持ちも判りますがねえ、篠原さん」
今度は九木が割って出た。
「要は、ギルフォード教授が目立ちすぎるんですよ。これから良くも悪くも注目されてしまうでしょう。それを避けるためには、教授がこの事件から身を引くか、完全に裏方に回ってもらって公の場に出ないかしかないでしょう。私はそう思いますけどね」
「九木さん。そんな言い方はないでしょう! こんなクソ記事のために、今まで教授がやってきたことが否定されるなんて、あんまりだわ」
「少なくとも私は否定はしていませんよ。いや、むしろ評価していると言ってもいいでしょう。ただ、他の方に引き継いでいただいたほうがいいのでは無いかという意見を申し上げているだけです。日本のことは日本人に任せるべきだということをね」
「こっ、九木さん、あなた・・・」
「由利子さん、落ち着いて」
九木に突っかかろうとする由利子を、葛西が焦って止めた。
「九木さんも、今そんなことを言ったって仕方が無いでしょう。それにこれからは、この記事なんかよりはるかに問題のあることが起こる可能性があるのですから、もっと先を読んだ対策を立てなければ」
「その通りですよ、ジュン」
今まで沈黙していたギルフォードが言った。
「だけど、ココノギさんが言われてることも一理あると思います。僕が公の場に顔を出すことは、余計な混乱を招く可能性がありますから。ですから、前に言ったように、僕は表立つつもりはありません。でも、僕はこの事件から身を引くつもりもありません。これからも、僕は陰ながら知事やタカヤナギ先生のサポートを続けていきます。これは、僕の使命です」
「ほお、言い切ったな、アレクサンダー」
いきなり戸口で声がしたので、皆がそちらに注目した。そこには長沼間が立っていた。
「ノックしたんだが、取り込んでいたようなので勝手に入らせてもらったよ」
「ナガヌマさん、どうしてここに?」
ギルフォードの疑問に、松樹が答えた。
「私が呼んだんだ。この雑誌の実物を見たいということだったのでね」
「そういうことだ。・・・で、九木さんだったな、あんたの思惑はわからんがね、こっちではギルフォード教授も含めたチームワークが出来上がりつつあるんだ。いらんことかき回すのはやめてもらいたいね」
「かき回すつもりはありませんがね」
九木は、肩をすくめながら言った。
「ふん」
長沼間はそういうと、ツカツカと応接セットに近づき、テーブルの上の雑誌を手に取った。
「これか。実物は今日始めて見るがね」
長沼間は、パラパラと雑誌をめくり、件のページを開いた。
「おや、トップ記事だったのか。しかし、あんたも大変だな、アレクサンダー。プロフェッサー・ギルの面目躍如ってところか」
「このまま教授がハカイダーにされないように、気をつけないといけませんね」
と、得意分野に葛西が乗っかって言った。さらにジュリアスがそれに乗っかる。
「映画の『ハカイダー』はカッコ良かったなも。大型バイクもキマっとったがや」
「私それ、DVDで見た。昔美少年って騒がれていたH君が悪役で出てるって聞いてねー」
「あー出とった出とった。最初、大ケンに見えてまったがねー」
「あのね、ネタ元の僕にわからない話で盛り上がらないでください」
ギルフォードが仏頂面をして言った。
「キング君、そもそも君を呼んだのは意見を聞きたいからだったんだがね」
高柳が少し困ったような顔をして言った。松樹と九木は既にとり残されたような顔で座っている。オタク話に振った長沼間が、軽く肩をすくめ苦笑いをした。何の気なしに言った冗談に、まさか3人が食いついてくるとは思わなかったからだ。ジュリアスと由利子が頭を掻きながら申し訳なさそうに言った。
「大々的に話の腰を折って申し訳にゃ・・・ないです、高柳先生」
「すみません。私がいきなり怒り始めたものだから、脱線しちゃったんです」
「ま、素直に怒れる君たちが羨ましいよ」
高柳は片眉を上げながら言うと続けた。
「さて、キング君、感情的な面は抜きにして、この記事をどう思うかい?」
「どうもこうも、アナクロニズムと悪意に満ちた、ガセ記事以上のものじゃあーせんでしょう。ただ、民衆は理論的な小難しい説明より、こういった明確な『敵』を設定したわかりやすい話のほうが受け入れ易いでしょうから。それに、なんでもアメリカが悪いという人はけっこう多いですからね」
と、アメリカ人であるジュリアスは、少し不満そうに言った。
「これが後々問題を引き起こす可能性があるということだね?」
「ええ、問題はこの記事が世に出てしまったことで、その真偽ではあーせんでしょう。特にこちら側がいつまでも明確な情報を得られずに、具体的な説明が出来なければなおさらでしょうね」
「うむ、君の言うことは最もだが、かといって検証もせずに情報を垂れ流すわけにもいかんのでね」
「まあ、その点は難しいところですね」
「・・・ところで、この件も含めて明日対策本部の合同会議があるんだかね、メガローチ捕獲作戦を遂行した君にも参加して説明をしてもらいたいのだが・・・」
「おれ・・・いえ、部外者のぼくが? えーのですか?」
「既に君は部外者ではないだろう。それに、同じ作戦の遂行者である葛西君は、これに関しては門外漢だから、専門である君にフォローしてもらいたい。専門家でもギルフォード君にとって、この件は厳しい内容だろうからね」
高柳は、ギルフォードのゴキブリ嫌いが病的なものであることを既に見抜いていた。だが、この高柳発言に九木が耳ざとく反応した。
「何故、ギルフォード先生にとって厳しい内容なんです?」
それをいち早くフォローしたのは、なんと長沼間だった。
「あんたにだって、苦手なものはひとつくらいあるだろう? もちろん俺にもある。そういうことだ」
「生憎、私には今現在苦手なものはありませんね。子供の頃にすべて克服しましたから」
九木は涼しい顔でそう言ってのけた。
「へっ、やなヤツだね」
長沼間は、肩をすくめて言った。するとこんどは、由利子が興味津津(しんしん)といった風情で尋ねた。
「へえ、長沼間さんにも苦手があるんだ」
「そりゃあまあ、俺だって普通の人間だからな、苦手なものくらいあるさ」
長沼間は、チラリと九木の方を見て言った。
「俺は、あの翅の無いコオロギみたいなやつが大の苦手でな・・・」
「あ、カマドウマのことね」
「バ、バカッたれ! その名前を言うなッ!」
由利子の答えを聴くや否や、長沼間はそう怒鳴ると反射的に後ろに飛びのいてドアに張り付いた。その反応があまりにも劇的だったために、皆の視線が長沼間に集中した。それで、地味にソファにのけぞるように張り付くギルフォードには、ジュリアス以外誰も気がつかなかった。

 森の内は、官邸の総理執務室の応接セットで、総理と向かい合って座っていた。このウイルス・テロについて、現地の状況を詳しく聞きたいということで、内密に呼ばれたのだ。しかし、まさか執務室に呼ばれ、1対1で話すことになるとは、森の内も思っていなかった。
「そう緊張しないでください」
内閣総理大臣、谷川巌(いわお)は、人好きのする笑みを浮かべて言った。
「お気遣いありがとうございます。まさか官邸で総理とサシでお話するとは思ってもいませんでしたから・・・」
「どこからどう話が漏れるかわかりませんから、念のためですよ。さて森の内知事、まず、新事実を含めて、改めて当初から順を追って説明してくださいませんか? 私も頭の中を整理したいので」
「承知しました。・・・発端は、ウイルスの名前にもなった公園で、四人のホームレスが遺体で発見された事件からでした・・・」
森の内は、順を追ってわかりやすく説明をした
 谷川は、森の内の話を聞き終えると、現在の発生状況やメガローチのことなどいくつかの質問をして、ため息混じりに言った。
「結局、ウイルス自体も見つからず、犯人の目星もついていないということですか・・・」
「残念ながら。サイキウイルスの発見は、まだかなり時間がかかるでしょう。ただ、テロリスト或いはテロ組織からの声明も干渉もほとんど無い今、テロの可能性をいち早く察知できたことは、評価していただきたいと思います。いえ、それ以前に感染が拡大する前に、出血熱ウイルスの発生に気がついた幸運についても」
「それは、承知しているつもりですよ、知事」
「犯人についての手掛かりは、月曜に駅で『自爆』テロを行った人物から捜査をしております。地道で進展は見えなさそうに思われるかもしれませんが、塵も積もれば山となりますし、どんな些細なことがヒントに繋がるかわかりませんからね」
「森の内君、必ずこの疫病を撃退してください。テロリストの思い通りにさせることは許されることではありません」
「もちろん、私もタスクフォースチームもそのつもりで動いています。あなた方が早期の公表を許して下さっていれば、もっと早く大々的な手が打てたのですけれども」
「君の言いたいことは、良くわかっています。しかし、当初の感染規模や情報量の少なさを考慮すると、簡単にGOサインが出せなかったことは、わかってくださいますよね」
「総理、差し出がましいことをお聞きしますが・・・」森の内は、声のトーンを落として言った。「ひょっとして、総理の方で何か情報を得ているのではありませんか?」
「私が情報を? どうして?」
「ええ。先ほどのお話の中でも申し上げましたが、うちのバイオテロ対策の顧問をお願いしている教授に、スパムを装った挑戦状が送られて来たことがありました。ですから、総理のほうにもひょっとして、テロリスト側からの声明文の類が送られて来たのではないかと・・・.。それに今、『テロリストの思い通り』という言い方をされましたので・・・」
「そんなバカな・・・」
谷川は一笑に付した。しかし、森の内には谷川の表情が一瞬だけ固まったように思えた。
「穿ちすぎですよ、知事。残念ながら、そういうことは一切有りませんよ。『テロリストの思いどおり』というのも、テロの一般的見地から言ったまでのことです。明確な意思表示があれば、それこそ大々的な対策が取れますし、公表だってもっと早く許可出来たはずで、しかもその時テロと言うことを告げる事だって出来たでしょう」
「失礼なことをお聞きして申し訳ありません。ちょっと気になったものですから」
森の内は、無礼を詫びた。
「気になさらないでください。ところで知事、今日の上京の目的は?」
「はい。今日は陸上自衛隊化学学校と国立感染症情報センターに行って、いろいろお話や見学をさせていただきました」
「ウイルスについて、何か進展はあったのでしょうか」
「いえ、CDCからもパスツール研究所からも、未だ連絡はありません。国内にあるBSL-4実験室が使えないとこういう時に本当に不便です。国感センターの方も嘆いておられました。この事件で、少しは世論が変わればいいのですけれど・・・」
「皮肉な話ですけれどね。これからもう帰られるのですか?」
「明日の会議にも備えないといけませんからね。睡眠時間の減る一方ですよ」
「自衛隊の出動要請をするほど逼迫する可能性が出てきたのですか?」
谷川が不安そうに聞いた。知事から自衛隊の出動要請があった場合も、出動命令を出すのは自衛隊最高位である総理大臣の役目であるが、谷川は有事に自衛隊を出すことに難色を示していた。
「万一、物理的な封じ込めが必要になった場合は、やむを得ません。警察だけでは手に負えなくなるでしょうから。そうならないように、今、私達が頑張っているのですよ」
「わかっています。知事、必ずやF県内、最悪、九州内でこのウイルスを封じ込めて、制圧してください。私も最大限の協力をしますから」
「もちろん出来うる限りの手は尽くします」
森の内がまっすぐ谷川を見て言った。
「尽くしますが、ことは深刻です。総理のほうも腹をくくっておいてください」
「わかっています。ですが、今はあなた方にお願いするしかありません。このままでは、日本の経済悪化に加速がついてしまいます」
「まあ、日本車の評判が落ちたから、こんどはウイルスを輸出したとか言われかねないですからね。クジラやマグロのタタリだと言う連中もいそうですし」
「知事、冗談ごとじゃありませんぞ」
「失礼しました。つい、昔の癖で軽口を」
「モリッチーがご健在なのは嬉しいですけれど、ご自身のお立場もわかってください」
「申し訳ありません」
(あなたもその自覚を持ってくださいよ)
森の内は頭を下げながら思った。
「森の内知事、頼みます」
谷川は立ち上がると、森の内に右手を差し出した。森の内は恐縮しながら立ち上がりその右手を取った。二人はしっかりと握手をしたが、その実、お互いの気持ちを計りかねていた。

 森の内が帰った後、谷川はしばらく一人で机に座ってじっと考え事をしていた。数分後、大きなため息をつくと搾り出すような声でつぶやいた。
「森の内君、たのむ。悪魔の仕掛けたゲームから、この国を・・・、いや、世界を守ってくれ・・・」
その後もう一度深いため息をつきながら、両肘を机に着き組んだ指に額をあて再び考え込んだ。

 斉藤孝治は、カプセルホテルの中でうなっていた。
 ネットカフェは、今日早朝に通報されるという憂き目に遭ったため避けたのだ。後安価で泊まれるところは24時間営業の健康ランドかカプセルホテルあたりしか心当たりが無かった孝治は、迷わずカプセルホテルを選んだ。出来るだけ人とは会いたくなかったからだ。チェックインの時、彼は本名ではマズイと思い、友人の住所氏名を勝手に使って無事に今夜の宿泊場所を得ることが出来た。友人の住所はうろ覚えで番地マンション名部屋番号は適当だったが、それでも特に疑われることはなかった。場末のカプセルホテルゆえに、訳アリの宿泊者がけっこう来るのだろう。
 朝から何となく軽い頭痛と倦怠感を感じていたが、ホテルにチェックインする頃にはかなり頭痛が悪化していた。しかし、病気を疑われると不味いと思い、かなり無理をして健康を装った。しかし、ほとんど這うようにして、カプセル内に入り込むと、そのままぐったりと横になった。テレビやラジオ、雑誌などが完備されていたが、とてもそんなものを利用する気にならなかった。特にテレビのように光が点滅するものは。
(部屋が下の方で良かった・・・)
確かに今の体調だったら、上のカプセルに上ることすら苦痛だったに違いない。
 孝治はそのまま少しの間眠ることにした。休めば少しはましになるだろう。そのあとサウナに入れば、気分もきっと良くなるに違いない。そう思った孝治は目を閉じたが、悪夢にうなされすぐに目が覚めた。それでも小一時間は眠っていたらしい。孝治はベッドから起き出すと、カプセルの部屋から出てサウナに向かった。平日の夕方なので、まだ利用者は少ないようだった。孝治はロッカーで服を脱ぎながら、右肩を見てぎょっとした。今朝方の逃走劇の時ぶつけた場所が内出血し、大きなどす黒い痣(あざ)になっている。そこまでひどくぶつけた覚えは無いがと、首をかしげながら、サウナ室に入って木のベンチに座った。しかし、ものの数分もしないうちに激しい動悸が襲ってきた。変だなと思いふと身体を見ると、あちこちに小さく内出血し始めている。サウナの高温で急激に血管が拡張をしたため、ウイルスに冒された毛細血管の一部から出血を始めたからだ。孝治は驚いて立ち上がると、早々にサウナから出てざっとシャワーを浴び、サウナ室から飛び出して服を着るのもそこそこに部屋へ戻った。
(いったい俺の体で何が起こっとおとや・・・?)
孝治は狭いカプセルの中で、混乱しながら考えた。この期に及んでも、孝治は自分の症状と殺人ウイルスを結びつけて考えることはなかった。彼は既に合理的な思考能力を失いつつあった。彼は答えにたどり着くことが出来ずに、布団にもぐりこんだ。 

 由利子は、感対センターの駐車場でギルフォードの車に乗り込んでいた。運転席にはギルフォード、助手席にはジュリアスがしっかり納まっている。時間は夜9時を回っていた。予定を切り上げて東京から帰って来た森の内を加えて、話し合いが続き、こんな時間になってしまったのだ。
「じゃあ、由利子さん気をつけて帰ってください。アレク、ジュリー、よろしくお願いします」
葛西が後部座席の窓の前に立って言った。その斜め後ろには九木が黙って立っていた。
「うん、葛西君もあまり無理しないでよ。ちゃんとご飯食べて寝るんだよ」
「はい。僕の心配をしてくれるなんて嬉しいです」
「何言ってんの、バカね」
由利子は照れ笑いをしながら言った。
「で、葛西君たちは・・・?」
「これから県警本部です。明日の会議に備えないと」
「あ、そっか。大変だね」
「ジュン」
と、ギルフォードが運転席から助手席のジュリー側に身体を乗り出して、窓を開けつつ言った。
「僕だって君の心配をしてますからね」
「おれの腹の上で何をゆーとるんかね、この大たーけはっ」
ジュリアスが若干不機嫌そうに言ったが、前ほど嫌な顔はしなかった。彼も葛西がけっこう気に入ったらしい。
「はいはい。じゃあ、車を出しますよ」
ギルフォードはそう言って体勢を元に戻すとエンジンをかけ、車全体に振動が伝わった。
「葛西ー、じゃあまたな~。おやすみ~」
「葛西君、おやすみね~。九木さん、ごきげんよう」
手を振る二人の影をのせて、ギルフォードの車が遠ざかっていった。葛西は振っていた手を止めやんわりと下ろした。急に不安になった気がした。
「さて、私達は帰ってからまた仕事だな。行こうか」
車影が公道の車群に紛れると、九木が言った。
「はい」
葛西が九木の方に回れ右をしながら言った。

「九木さんってばさあ」
由利子がくすくす笑いながら言った。
「ムスッとして立っていたくせに、葛西君の後ろで一緒に手を振ってたわよ」
「意外とおれの好みだなも」
「えっ?」
由利子と同時にギルフォードが言うと、驚いてジュリアスの方を見た。
「アレク、ちゃんと前を見て! 危ないわよ」
「はい、スミマセンでした」
由利子に注意されて、ギルフォードは正面を向いた。
「ジュリーも守備範囲広すぎ! この前だって・・・」
由利子が言いかけたので、ジュリアスがあせって振り向きシイッと言う仕草をしてから言った。
「実はおれ、けっこうオッサンむさいオッサンが好みなんだわー」
「まあ、アレクもオッサンといえばオッサンだけど・・・」
「ま、考えたらおれもオッサンだったわー」
ジュリアスが、カラカラと笑いながら言った。
(それにしても・・・)
由利子は思った。
(けっこうラブリーな親父じゃん、九木さんって)
それなのに、何であんなにアレクに突っかるんだろ・・・、と、由利子は不思議に思った。
 その後、例の雑誌をネタにして話が弾んだが、ふと由利子が気がついて言った。
「ところでアレク、紗弥さんは? 大学で会ってから姿が見えないけど・・・」
「サヤさんは、今日、僕に変わって研究室の方をお願いしていました」
「へえ、すごいじゃん」
「どうも学生達は、残念ながら僕よりサヤさんがいたほうが緊張するようで、仕事がよく進むんです。」
「要するに、アレクが甘いわけね。で、何やってるの?」
「この前、K市で流行ったインフルエンザ、あの発生マップ作成が今回の事件で中断したので、その続きをしているんです。本チャンに備えてね」
「ホンチャン?」
「サイキウイルス発生マップだがや」
ジュリアスがすかさず答えた。
「未だ水面下で広がっとるなら、ある時いきなり感染者が大発生する可能性があるからねー。その時、発生地をマークしていくんだわ」
「そっか。地図にすると、発生状況が良く把握できるものね」
「そういうことです。学生たちにとっても、良い実習になってますよ。さあ、ユリコ、マンションの前に着きましたよ」
「あら。話が面白いと早いわね。じゃ、ありがとう。また明日~」
由利子はさっさと降りると、手を振ってマンションの玄関に向かった。
「待って、ユリコ! キケンです! 部屋まで送りますから。ジュリー、ちょっとここで待っててクダサイ」
ギルフォードはそう言うと、由利子のあとを追った。ジュリアスはそれを見ながらつぶやいた。
”あいつもあの調子なら大丈夫だね。日本に様子を見に来て良かった・・・”
ジュリアスは二人が仲良く並んで歩くのを、ほっとした表情でみつめていた。

20XX年6月20日(木)

 日付が変わった深夜、高柳はセンター長室のソファで仮眠中にたたき起こされた。北山紅美の容態が再び悪化したというのだ。高柳は飛び起き、スタッフステーションに駆け込んだ。紅美の部屋の窓の前には、既に両親が立って不安そうに娘を見つめていた。
 ふと、高柳が気がついた。園山看護師の姿が無い。
「あれ、園山君は?」
「仮眠室にいるはずですけれど・・・。起こしてきましょうか?」
事務スタッフの横井が言った。
「頼む。彼も疲れているだろうところを申し訳ないけど・・・」
「はい。すぐに行ってきます」
彼女はそういうと、すぐにスタッフステーションを走って出て行った。
 

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2.焔心 (9)ブルー・フレイム~沈黙の怒り

 北山紅美の容態が再び急変し、感対センター内に緊張した空気が広がった。
 高柳は仮眠からたたき起こされたにも関わらず、スタッフに的確な指示を与えている。F市内の母方の祖父母宅に来ていた紅美の妹も祖父母に連れられて駆けつけた。それは紅美の容態の深刻さを物語っていた。そんな中、園山を呼びに行った横井咲子の緊迫した声が内線から響いた。
「高柳先生、大変ですっ。すぐ来てくださいッ! 園山さんが、園山さんが・・・」
「何かあったらしい。山口君、後はお願いする」
 高柳はそういうと、近くにある内線の受話器を取った。
「横井君、どうした。どこにいる?」
「仮眠室です。なんだか寝ている園山さんの様子が変なんです」
「どういう風に?」
「なんか苦しそうに唸っていて、声をかけても反応が無いんです」
「彼の傍に近づいたのか?」
「いいえ、なんだか恐ろしくて、とても・・・」
「それでいい。絶対に近づくな。今すぐいくから君は部屋の外で待っていなさい」
 高柳は受話器を置くと駆け出しながら言った。
「辰巳君、吉井君、すぐに防護服を着て仮眠室にストレッチャーを運んでくれ。園山君が発症したらしい」
「えっ、園山さんが?」
「とうとう、スタッフに感染者が・・・」
 スタッフたちに動揺が走った。

 囚われの美葉は、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。横には憎むべき男が正体なく眠っている。
 最近美葉が従順にしているため、結城の束縛が少し緩くなったように思われた。あの夜から数日間、美葉は寝るときに逃亡を図らないように、両手をベッドに括られるという憂き目にあっていたが、今日は結城の機嫌も良く、拘束は免れた。しかし、それでも外の情報には一切触れさせようとはしなかった。ホテルではテレビやラジオを一切つけず、有線で曲を流すのみ、車で移動する場合でもラジオの類をつけることは、一切許されなかった。
 それで、美葉は今世間がどうなっているかさっぱりわからなかった。普段から、あまりニュースの類を真剣に見るほうではなく、ましてや行政関連のニュースなど敢えて見ることはなかったが、こうも世間から隔絶されると流石に不安になった。特に自分をこういう状況に追い込むことになったウイルス騒ぎがどうなってるのかが、心配でたまらなかった。だが、今結城を刺激することは出来るだけ控えようと考えていた。出来るだけ従順に振る舞い、とにかく結城を油断させよう。
 結城が美葉の逃亡を警戒するのには訳があり、美葉はそれに気がついていた。結城は常用する薬のせいか、夜、事の終わった後、死んだように眠るようになった。しかも眠ったら数時間は全く目を覚ますことがなかった。おそらく、美葉にウイルス散布をほのめかせて逃げられないように脅していなければ、彼女は容易く逃げることが出来ただろう。
「おまえが逃げたら容赦なく街中でウイルスを撒く」
その見えない束縛が、美葉を今の屈辱的な立場に甘んじさせていたのだ。
 しかし、美葉はただ諦めて結城に従っていたのではなかった。彼女はそれとなく結城の様子を観察していた。結城が美葉を監視するということは、逆に美葉も結城を監視出来るということになる。
 そして美葉は、ある仮説を立てるに至った。
 それは、実は結城が毎日仲間と連絡を取ってはいないということ。結城は自分に何かあって定期連絡が途切れたときは、仲間がウイルスを撒くと言った。しかしここ何日かの間、連絡を入れた様子がない日が2日ほどあったのだ。それで、結城は実は仲間の中で孤立しているのではないか、最悪、裏切り者あるいは邪魔者扱いされているのではないかと考えた。もしそうならば、『結城に何かあったら仲間がウイルスを撒く』ということ自体が単なる脅しということになる。もしそうなら、美葉が結城を倒してウイルスの『卵』入りカプセルを奪って逃げることが出来るだろう。
 しかし、それはまだ確定ではない。美葉のわからない方法で連絡を取っているかも知れないからだ。それならば、なんとかしてギルフォードや由利子に結城たちの目的を知らせねばならない。1日でも早く。ひょっとして、死んだように眠る今なら、何か連絡する方法があるかもしれない。
 美葉は、結城の様子をしばらく伺い、起きそうもないことを確認すると、そっとベッドから降りようとした。それでも結城は目を覚ます様子がない。美葉は思い切ってベッドを降り室内を見回すと、そっとその場から離れようとした。その時、美葉の左手がガッと掴まれた。
「ひっ!」
 美葉は息を呑み振り向いた。そこには横になったままカッと目を開けた結城の顔があった。結城は目を見開いて美葉を凝視し、彼女の手を鷲づかみにしていた。
「いっ、痛い! 痛いわ、結城さん! 手を離して!」
「何をしようとしている?」
「トイレよ。それくらい許してよ」
「そうか。じゃあ行け。だが、・・・わかっているな」
「わかっているわよ」
 美葉は、平静を装いトイレまでゆっくりと歩いて行った。だが個室に入りカギを閉めると、美葉はドアにもたれてへなへなと座り込んだ。そして、美葉は結城に掴まれた左腕を確認してゾッとした。白い肌に、赤い手の跡と共に食い込んだ爪痕が5箇所、くっきりと残り血が滲んでいた。

 北山紅美は、苦しい息の中で死神と必死で戦っていた。
 呼吸は人工呼吸器のおかげで何とか出来ているのに、この苦しさはなんだろう。しかも、すでに五感のほとんどが失われ、思考力もかなり落ちているのに、意識だけがはっきりしていた。いっそ、意識なんて失ってしまったほうが楽なのにと、窓の向こうの家族のおぼろげな姿を見ながら思った。
 まるで水の中にいるようだった。息をしても息をしても酸素が肺にいっぱいにならないような気がした。事実、彼女の肺は血液に満たされ、自分の血でおぼれている状態になっていた。窓の向こうで医師らしき人が家族に何か告げていた。母親らしき影が父親らしき影にすがりつき、顔を覆う仕草をした少女の影を祖父母らしき影が抱きしめた。
(ああ、もうすぐラクになれるんだな・・・)
 紅美は妙に冷静にそう思った。ここ数日間に自分に襲い掛かった悲劇と苦痛に、紅美は疲れ果てていた。一昨日の夜見た自分の顔。看護師が治るまで見ないほうがいいと言ったが、何度も頼み込んで見た己の顔。やつれ果て、何箇所も出来た内出血の染みだらけの顔は、皮膚が妙にぶよぶよしているように見えた。こんなになっても病気が治ったら元に戻るのか、と看護師に聞くと、彼女は笑顔で言った。「もちろんよ」

   治ったら・・・。

(なおれば・・・。なおらなかったら・・・)
 紅美は絶望して目を閉じた。看護師の春野が傍に来てたずねた。
「どうしたの? 大丈夫? 苦しいの?」
 (ええ、ずっと・・・)
 紅美は心の中で答えると、ふっと長沼間の薔薇の方に視線を向けた。
「あの薔薇が見たいのね」
 春野はそういうと、サイドテーブルからローズキューブを手に取り紅美に見せ、それを彼女の胸の上に乗せた。紅美はそっと手を伸ばしてそれに触れた。
(きっと この ばらは、あのときの まま きれい・・・)
 紅美はそう思いながら静かに目をつぶった。意識が暗闇に沈んでいく・・・。
 気が付くと、何故か紅美は水中のようなところをたゆたっていた。水中なのにさっきまでの苦しさは全く感じなくなっていた。周囲は薄闇だが、遠くに青くきらめく水面のようなものが見える。今まで不吉な赤い世界に居たせいか、紅美はその色に心安らぐものを感じた。
(ここはどこかしら? ゆめ? それとも私は死んじゃったの?)
 紅美は漂いながら周囲の様子を伺った。すると、さっきから付かず離れずについてくるものがあることに気が付いた。手を伸ばすと何かが触れた。長沼間の薔薇だった。
(そうか・・・。生きているように見えたけど、この子はとっくに死んでいたのよね・・・)
 紅美は愛おしそうに薔薇の花を胸に抱いた。この花が先に逝ってしまった子の魂のように思えた。
(いっしょに行こうね)
 紅美の身体は、彼女の意思と関係なくあの青く輝くものに迫っていく。
(おじさん、ごめんなさい。やくそく・・・)
 紅美の意識はそのまま青い光に包まれ、何処かへ消えていった。

 病室内に緊張が走る。なんとか正常値を保っていた紅美の心拍数が急に乱れ血圧が徐々に下がり始めた。山口が緊張した表情で言った。
「まずいわ。強心剤! 早く!」
「はいっ」
 春野の後ろに立っていた看護師の田中が急いで強心剤を打つ。病室の緊張した様子に、家族が息を呑んでそれを見守った。
 その後、一瞬それが回復したように思えたが、数分後、心拍数がみるみる下がって波形が一本の線になった。ピーーーーという空しい音。
「あっ・・・」
 病室のスタッフの顔色が変わった。同時にローズキューブに触れていた紅美の手がぱたりと下に落ちた。それとともに紅美の胸から転げ落ちた薔薇は、動かなくなった彼女の手のひらにひっかかり止まった。それは、意図的に紅美が薔薇を受け止めたように見えた。
「紅美ちゃん!」
「紅美!」
「おねえちゃん!」
 窓の外で家族が口々に彼女の名を呼ぶ。
「心臓マッサージをします! もう一度蘇生を!」
 看護師の田中が言うと、山口がそれを止めた。
「やめましょう。おそらく多美山さんと同じように、内臓からの大出血が起きたのよ。全身に広がったウイルスのために、もう臓器も骨も表皮も昨日よりずっとボロボロなの。それにもし戻っても・・・」
 山口はそこまで言うと口をつぐんだ。そして静かに紅美に近づくと瞳孔の状態を確認して言った。
「残念ですが、亡くなられました。・・・申し訳ありませんが、人工呼吸器を外しますので・・・」
「だけど、息をしているじゃないですか」
 紅美の父、紀夫が、未だ規則正しく上下している娘の胸を見て言った。
「それは、人工呼吸器で強制的に呼吸させているからです。でも、心臓が止まったんです。心肺停止状態なんです。お嬢さんは亡くなられたのです」
「それでも息をしているんです。娘は息を・・・」
「残念ですが・・・」
「呼吸器を止めたら・・・・」
「呼吸は止まります」
「そんな・・・、だって娘は息を・・・」
 そこまで言うと、紀夫は涙声で続けた。
「今だって息をしているのに・・・」
「お父さん」
 母の真澄が涙をこらえて言った。
「紅美はすごく苦しんだとですよ。もう楽にさせてやりましょう」
「だって、おまえ、あれが死んどるごと見えっとか?」
「そんでも、あの子は死んでしまったとですよ、お父さん・・・。このままやったら余計にかわいそうやないですか。・・・先生、お願いします・・・」
「はい」
 山口がうなづいて言った。
「春野さん、お願い」
「はい」
 春野はそういうと人工呼吸器のスイッチを落とした。紅美の呼吸が止まり、彼女はそのまま動かなくなった。山口がもう一度瞳孔と、さらに心臓の鼓動を確かめて言った。
「死亡時刻は、午前5時32分です。力が足らず、申し訳ありませんでした」
「いえ、危険な病気なのに、みなさん、本当に娘に良くして下さって・・・」
 真澄はそういうと深々と頭を下げた。
「うおおお・・・」
 紀夫の慟哭がステーション内に響き、それととも家族が啜り泣きを始めた。
 しかし、スタッフ内には別な緊張が走っていた。看護師の園山の発症によって受けたショックを皆隠せずにいた。園山は多美山にほとんど付きっ切りだった。それで体力を消耗した上に背後から多美山の断末魔の血を浴びてしまったのだ。おそらく感染したのはその時だろうと思われた。防護服は必ずしも安全ではない。そして、患者に尽くすほど、感染のリスクは高まっていく。最悪の場合、防護服組全員がこれから半隔離状態に置かれるかもしれない。感染と自由を奪われる恐怖。それは、今までの漠然とした不安が形を成したということであった。
 その後、田中が事務的に紅美の口から人工呼吸器のチューブを抜き取った。同時に口から血が溢れた。急いで春野がその血を拭った。清拭にとりかかった看護師等を見つめながら、山口は今から家族にする気の重くなる内容の説明を思い、ため息をついた。
  

 会議は朝から行われた。
 これは、各セクションの代表が集まったテロ対策本部の合同会議でだった。テロ対策本部は、行政や民間の各組織から選ばれたセクションから成る、森の内知事をリーダーとしたタスクフォースだ。会議には警察からは県警テロ対策本部部長の松樹と葛西、そして警視庁から共同捜査のために来た九木の3人が、医療からはセンター長代理の三原と、ギルフォードそしてジュリアスが参加していた。ジュリアスはまだ正式にチームには加わっていないが、メガローチ捕獲作戦の報告のための出席である。
 各セクションの経過報告が終わり、ジュリアスと葛西が壇上に上がった。
 ジュリアスは流暢な標準語で、わかりやすく捕獲の経過を説明した。
「何か、ご質問等はありませんか?」
 説明を終えて、ジュリアスが皆に尋ねた。すぐさま、良く肥えた黒髪の髭達磨のような老人が手を挙げた。
「はい、えっと・・・」
「F県昆虫研究センター教授の漆黒(うるしぐろ)です。遠慮なく質問をするがいいかね?」
「どうぞ、ご遠慮なく」
 漆黒は、おもむろに立ち上がって言った。
「研究者の私からして信じられないのだが。このメガローチとやらは、本当にウイルスによる突然変異で生まれたものなのかね」
「遺伝子の調査がまだなので、確定はできませんが、状況からかなり高い確率でそうだと思われます」
「外来種が在来種に混ざって発見されたと考えるほうが、常識的だと思われるが」
「もちろんおれ・・・いえ、私も、そしてQ大のギルフォード教授も、最初はありえないと考えていました。しかし、発生や捕獲状況等を考慮すると、どうしてもその可能性が高いという結果になるのです」
「ふん。キング博士・・・でしたかな、後ほどそれを見せてもらえるかね?」
「はい、もちろんです。あなたの意見をお聞きしたくてあなたにお越し願ったのですから。私はこの後感対センターにおります。標本もそこに保管しておりますので、後ほどご足労願えますか?」
ジュリアスの言葉を聞いて、漆黒は悪くない表情をして答えた。
「よろしい。午後にでもお伺いしましょう」
そういうと、漆黒は着席した。
 その後、いくつか質問が出た。だが、それらは虫に対する常識的なものばかりだったのでジュリアスは難なく説明を終えた。
「えっと、他にご質問は・・・」
 ジュリアスが締めくくろうとした時、手が上がった。九木だった。
「九木さん、どうぞ」
「重要な質問ですがね。その巨大ゴキブリに対しては・・・」
「我々は蟲あるいはメガローチと仮称していますので」
「おっと失礼。そのメガローチですが」
 巨大ゴキブリという言葉を聞いて、さっきからゴの字の出るたびに憂鬱そうな表情をしていたギルフォードが、ビクッとした。由利子が紗弥をつついて小声で言った。
「あれ、絶対にわざとよね」
「そうですわね・・・」
 紗弥も同意した。九木は質問を続けた。
「普通のゴキブリと同じ退治法が通用するのですか?」
「答えは多分、イエスです。メガローチは変異体ですが、生物であることには変わりません。ただ、サイズが大きいので、普通のものより殺虫成分は多く必要と思われます。それから、これはまだ未調査なのでなんともいえないのですが、K製薬のハーブを使った虫除けが、偶然ゴキブリに協力な回避作用があるらしいことがわかっています。ただ、この場合、防御にはなりますが、攻撃には役に立ちません。ただ」
「ただ?」
「遺体に蟲を寄せ付けないことが出来るので、メガローチの増殖を防ぐ効果は大いにあるでしょうね」
「なるほど。わかりました」
 九木が納得して席に着いた。
「他に何かありませんか?」
 ジュリアスは周囲を見回した。特に挙手は無い。
「では、これで終わります。ありがとうございました」
 ジュリアスはそういうと壇上を降りた。出番の無かった葛西が後に続いた。
「合格ですね」
 ギルフォードが嬉しそうに言った。
 だが、次のサンズマガジンの記事については、会議はかなり荒れた。当然のこと、ギルフォードに疑問が集中した。
「ですから、僕は米軍とは関わりはありません。第一、僕はイギリス人ですよ。イギリスもグリニャード島で代表されるように、かつては生物兵器の研究をしていましたが、かなり早くから核にウエイトを置き、BC兵器に関しては1956年に開発を放棄つけています。第一、アメリカが生物兵器を開発してた頃は、僕はまだ赤ん坊でしたよ」
「だが、あなたは一時フォート・デトリック、米軍のBC兵器研究の総本山にいたことがありますよね」
 一人の若い男が言った。ギルフォードが声の方を見ると、スーツ姿がバッチリ決まった、背の高い細面の男が立っていた。
「あなたは・・・?」
「失礼。厚生省から派遣された、速馬(はやま)といいます」
「ハヤマさん、そのことは・・・」
 ギルフォードが言いかけた時、助け舟を出したのは、なんと、九木だった。
「ギルフォード教授は、学生時代ボランティアで行ったアフリカでラッサ熱に罹って、その時に米軍に保護され、そのままフォート・デトリックに運ばれて治療されたんでしょう? あなただってそれくらい調べているのではないですか?」
「確かに、あなたの言うとおりです。だが、ギルフォード先生が米軍に全く関わっていないということは事実に反するわけですから、それを指摘したかったんですよ」
速馬は、そういうとふっと笑って着席した。
「何、あれ? やな感じね」
 由利子がムッとして言った。紗弥は黙っていたが、速馬の顔を鋭い目つきで見ていた。
「議長」
 九木が議長に向かって言った。
「この件に関しては、言論の自由を尊重されるこの国では発行の中止を求める訳にもいきませんから、様子を見る以外ないと思われます」
「確かに、それ以外無いでしょう。では、この件については、これで終わりますがよろしいですかな? 異論のある方は挙手をしてください」
 と、議長の犬塚が会場を見回して言った。
「無いようですね。では、今回の議題はこれで終了になります。他に何か?・・・無いようですので、これで第1回合同会議を終了いたします」

「はああ~、疲れたぁ~」
 由利子が机の上に突っ伏して言った。
「そうですわね」
「それにしても、あの速馬って厚生省のお役人、気になるねえ」
「ええ、何か含みがありそうですわね」
「ところで紗弥さん」
 由利子が以前から気になっていたことを質問した。
「アレクってイギリス人だから、メガローチって単語だって日本語の巨大ゴキブリと同じでしょ。何で日本語の方をより嫌悪してるの?」
「日本語の方は、濁点が多いでしょう? しかもゴキという語感がリアルで、生理的に受け付けないらしいんですの」
「わかったような、わからないような・・・」
「感受性の問題ですわね。教授はああ見えて意外とデリケートですから」
「ふうん」
 由利子は納得したようなしていないような表情で答えた。
「まあ、私だって文字で書くのすらやだもんなあ・・・」
「ユリコ、サヤさんも、何こんなところでいちびってるんですか。さっさと帰りますよ」
 ギルフォードが戻ってきて言った。
「いちびってなんかないわよ、って、アレク・・・そんな言葉、よく知ってるわねえ」
「僕はこんな験(げん)の悪いところから早く去りたいのです」
 ギルフォードは口を尖らせていうと、さっさと会議室から出て行った。
「由利子さん、行きましょう」
「うん」
 由利子は立ち上がりながら思った。
(こんどは『験』ときたよ)
 しかし、紗弥もギルフォードを追ってさっさと行ってしまったので、急いで後に続いた。
 

 会議が終わって長沼間が携帯電話を見ると、留守録が2件入っていた。それで急いで確認すると、1件は部下が入院している総合病院からで、今朝松川が意識を取り戻したから、少しだけなら話を許可するというものだった。そして、もうひとつは・・・、感対センターの春野看護師からだった。それを聞く長沼間の表情が見る見る恐ろしげになっていった。ギルフォードがその様子を少しばかり離れて見ながら言った。
「オー、今、ナガヌマさんの周囲にチェレンコフ光のようなものが見えたような気がしました」
「教授、そういう物騒な表現は控えてくださいませ」
 と、傍で紗弥がたしなめた。
「おっと、失礼シマシタ。おや、電話です。チョット失礼」
 ギルフォードは、皆に断りをいれ電話に出た。由利子はいまいち意味がわからなくて紗弥に尋ねた。
「何? チェレンコフ光って?」
「核分裂で臨界に至った時に発する青い光ですわ」
 紗弥が説明すると、彼女達の後ろでジュリアスと共にやってきた葛西が言った。
「因みに、ゴジラが放射能を吐く時、背びれが青く光るのは、チェレンコフ光だといわれてます」
「はいはい豆柴さん、登場早々豆知識をありがとう」由利子は肩をすくめながら言った。「それにしてもどうしたのかしら、長沼間さん。あれ、なんか足早に去っていくけど・・・」
「そういえば、彼にしては心なしか焦っているように見えますわね」
「たぶん、今僕にかかってきた電話の用件と同じ情報を受けたのだと思います」
 ギルフォードが電話を終えて言った。ジュリアスが心配そうな表情でギルフォードの傍に寄りながら聞いた。
「何かあったのかねー?」
「はい、北山紅美さんが亡くなられたそうです」
「紅美さんって、あのタラシの彼氏から感染したっていう?」
 由利子が眉をひそめながら尋ねた。
「そうです。ナガヌマさん、ああ見えて彼女のことを気にかけてマシタから。とにかく僕等も行きましょう。もっと悪いことも起きてしまったようですし」
「えっ?」
 その場に居た4人が声をそろえて言った。
「看護師の園山さんが、発症されたそうです。おそらく・・・」
 ギルフォードはそこまで言って言葉を切り、上を向いて一度深呼吸してから続けた。
「多美山さんから感染したと思われます」
「多美さんから? ・・・そんな・・・」
 葛西の顔から血の気が引いた。
「飛沫や軽い接触での感染確率が低いとはいえ、宇宙服タイプの気密性の高い防護服で無い限り、必ずしも安全とはいえません。しかし、その手の防護服を着ては、満足な医療活動は難しいですから・・・」
「そういえば・・・」由利子が思い出したように言った。「園山さん、あの時、多美山さんの血を背面から浴びてた・・・」
 それを聞いて、居てもたってもいられなくなった葛西が言った。
「急いでセンターに行きましょう」
「おい、葛西」
 ジュリアスが口を挟んだ。
「おみゃーさんは、これからまた九木さんと聞き込みに回るんだろ? そんな暇があるのかね。第一、おみゃあさんが行ったって、どーにもなりゃーせんがね」
 そこに、葛西を探していた九木が駆け足でやってきて、葛西を見つけると手を振りながら言った。
「葛西君、探したぞ。 これから本部の方で対策会議がある。行くぞ!」
「ああ、そうでした・・・」
 葛西は肩を落として言った。そんな様子の彼に、由利子が若干苛ついて言った。
「葛西君、多美さんが居たら怒鳴ってるわよ。きっとこう言って・・・」
 由利子は、すうっと息を吸ってから怒鳴った。
「葛西刑事、こげなとこで何ばしよっとか! おまえにはおまえの本分があろーが! しかっとせんか!!」
「はいっ!」
 葛西は急に直立不動の姿勢をとった。
「葛西、今から九木警部補と本部に向かいます!」
言い終わって敬礼をしながら、葛西は少し笑って言った。
「由利ちゃん」
「誰が由利ちゃんだっ!」
「あ、すみません、由利子さん。今の、ほんとに多美さんみたいでしたよ」
 それを聞いて3人がうんうんと頷いた。
「さっさと行きなさいよ、ばかね」
 由利子が赤い顔をして言った。
「ではみなさん、行ってきます」
葛西は4人に手を振ると、九木の方に走って行った。
「いってらっしゃい」
「じゃあ、また~」
 4人は口々に言うと、手を振りかえした。九木は、軽く会釈をすると、葛西と並んで去って行った。
 葛西と九木の姿が見えなくと、ギルフォードが言った。
「さあ、感対センターに急ぎましょう。色々気になることがあります」
 ギルフォードは言い終わるとすぐに出口の方に向かった。3人がその後を追った。

 長沼間は、部下の松川の病室で静かに椅子に座っていた。
 松川は、なんとか意識が戻り人工呼吸器が取れる程度は回復したが、未だ予断の許されない状態で、武邑と違ってしばらくICUから出られない状態だった。それでも、何とか短時間なら会話を許された。それで、殴られた時の状況を聞くためにやってきたのだ。しかし、生憎松川は眠っていた。仕方が無いので看護師の許可をもらって少し待ってみることにした。ぼんやりと松川の傍に座って、医療機器の規則正しい音を聴いていると、病院の臭いもあいまって、ここに来る前に寄った感対センターでのことが否応なく思い出された。

 長沼間が感対センターに着いた頃には、既に紅美の居た病室は片付けられ、今朝方病状の悪化した患者を入れる準備にとりかかっていた。長沼間は病室の前に立ち中を一瞥すると、何の躊躇もなくそのままきびすを返した。彼は普段の足取りで、すたすたとスタッフステーションのドアに向かった。看護師の春野が彼に気付いて駆け寄り声をかけた。
「あの、恐いオジサン、ちょっと待って」
 長沼間は、若干眉間にしわを寄せて振り返った。
「俺か?」
「うふふ、長沼間さん、自覚はしてるんですね」
 春野は笑って言ったが、なんとなくいつもの明るさがないように思われた。長沼間は不機嫌そうに春野を見ながら言った。
「なんだ? ひやかしか? ・・・だったら帰るぞ」
「いえ、違います。お待ちしていたんです。きっと来て下さると思って・・・」
「北山紅美のことで電話をしてきたのはおまえさんか」
「はい。アレク先生から携帯番号をお聞きしていましたので」
「あのバカヤロー、余計なことを・・・」
 長沼間は口の中でブツブツ言うと、春野に訊いた。
「話したいことってのは、何だ?」
「北川紅美さんからの伝言をお伝えしたかったので・・・」
「伝言?」
 長沼間の顔がさらに不機嫌になった。
「そんなことで俺を呼びつけるな! 第一俺は彼女に非道い事を言ったんだ。嫌われていただろうが」
「いえ、紅美さんは、あなたの『生きてくれ』という言葉を支えに、一所懸命にウイルスと戦っていました。元気になってあなたに会うんだって・・・」
「俺にか?」
 長沼間は、クッと笑いながら自嘲気味に言った。
「バカなことを・・・」
「紅美さんは、必死で生きようとしました。ご家族と、そしてあなたのために。そしてこれは、紅美さんが人工呼吸器をつける前に言ったことです・・・」
 春野は一息つくと続けた。
「バラのお礼は、元気になってから直接言いますから、待っててねって・・・。あの恐いおじさんにそう伝えてと・・・」
「薔薇が俺からだと教えたのか?」
「当然です。それに、あなたからだと聞いたら紅美さんが喜ぶと思ったので・・・」
「下らん。俺は・・・」
「その後紅美さんが、ぼそっと言ったんです。もっと早く会いたかったなあ、って」
 そう言うと、春野は声を詰まらせた。一瞬の沈黙。しかし、春野はその一瞬の間に何か冷気のようなものを感じて身震いした。
「俺なんかに希望を・・・」
「え?」
 春野は聞き返したが、長沼間はつれなく言った。
「話はそれだけか? これからセンター長に用がある。もう行くぞ」
 長沼間はくるりと背を向け、またすたすたと歩き出した。
「あ、あのっ。・・・紅美さん、あのバラ、本当にすごく喜んでました。亡くなる間際までそれを抱いて・・・。・・・だから、一緒に荼毘に付すことになって、今はキューブから出して紅美さんの手に・・・」
 春野は長沼間の後を追いながら必死で伝えた。しかし、長沼間は足を止めることなくステーションを出、彼女の鼻先でドアを閉めた。
「長沼間さん!」
 ドアの向こうから自分を呼ぶ声を耳に残し、長沼間はセンター長室に向かって歩いた。

「あれ、長沼間さん・・・?」
 長沼間は、弱弱しく自分を呼ぶ声に我に返った。声の方を見ると、松川が目を覚まして不思議そうに長沼間を見ていた。
「どうしたんですか、すごい恐い顔をしてましたが」
「なんでもない。おまえが目を覚ますのを待ってたんだ。おまえには聞きたいことがある。わかる限り質問に答えろ。いいか?」
「え? いきなりですか?」
 松川が驚いて言った。その時、看護師が入ってきて松川を見るなり、長沼間に向かって言った。
「あらら、松川さん起きてるじゃない。長沼間さん、松川さんが目を覚ましたら、質問の前にまず連絡くださいと言いましたでしょ。次からもう病室に入れませんよ」
「師長、それは困る」
 京塚昌子似の看護師長にぴしゃりと怒られ、渋い顔をする長沼間を横目に見ながら、松川は首をかしげていた。
(さっき一瞬、長沼間さんの顔がすごく辛そうに見えたけど・・・。いつもの長沼間さんだよなあ)
 その後、松川に主治医からの検査が始まったので、彼にはそれ以上考える余裕がなくなった。 

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