1.暴露 (1)儚い夢

20XX年6月17日(月)

 知事の重大発表から一夜明けた月曜、空には今にも雨の降り出しそうな鉛色の雲が広がり、本格的な梅雨の到来を誇示していた。
 人々の間には、特に何か大きな変化があったような感じはないようだった。日ごろより若干マスクを着けた人が目立つ程度で、少なくとも人々は思ったより事態を冷静に受け止めたようだった。
 ところが、そんな人々の冷静さを揺さぶる事件が起こってしまった。 

 朝のオフィス街に自動車のクラクションとブレーキ音が響き、ついで、ドン!という音がした。
「トラックに人が轢かれたぞ!」
 通行人の一人が叫ぶ。蒼白な顔をして、トラックから運転手が降りてきて言った。
「こいつがいきなり飛び出してきたんだ! 避けられなかったんだ!!」
 幾人かの男性が、様子を見に近づいていく。
「息はあるとか?」
「大丈夫か、あんた!」
「うわ、こりゃあだめばい!」
「うへぇ、頭が・・・」
 その時、女性の制止する声が響いた。
「近寄らないで! その人は、新型の感染症です! とにかく救急車を呼んでください!!」
 声の主は、笹川歌恋だった。彼女は蒼白な顔をして、立っているのがやっとの様子だった。
「昨日知事が言ってた、エボラ並みの出血熱ってヤツか?」
 誰かがそう尋ねると、あちこちで悲鳴が上がって、事故現場を囲っていた人垣がザアッと引いた。

「また、感染者が現れたんですって?」
 感対センターに駆け込んだギルフォードは、高柳の顔を見るなり言った。
「おはよう、ギルフォード君、キング先生」
 高柳はギルフォードとその後から駆け込んできたジュリアスに、まず朝の挨拶から言うと、続けた。
「そうだ。一人は道路に飛び出した挙句走行中のトラックに巻き込まれて即死した。もう一人は、その男と関係を持っていたらしい若い女性だ」
「なんか、そんなのばっかりですねえ・・・」
 と、ギルフォードが肩をすくめながらぼやいた。
「秋山美千代経由らしいからね」
 高柳はギルフォードと肩を並べて歩きながら言った。もっともその身長差は20センチ近くあるが。その後ろを歩きながら、今度はジュリアスが尋ねた。
「ってことは、死んだ男は美千代と関係を持ったということですか?」
「いや、森田健二を轢いた本人らしい。僕もこれから件の女性に直接質問しに行くところだ。そうそう、先に葛西君が来てるそうだから」
 葛西と聞いて、ギルフォードが複雑な表情をしてジュリアスを見た。ジュリアスは、ふん!という感じでそっぽを向いた。それを見て高柳は片眉を少し上げたが、さして気にする様子もない。
 病室の前に行くと、葛西がすでに二人の刑事と共に、病室の前にスタンバッていた。彼は三人の姿を確認すると、笑顔で迎えた。
「おはようございます、みなさん。まるで昨日の告知が合図になったみたいに次々と出てきますね」
「おはようゴザイマス。え~っと?」
 ギルフォードが連れの二人を見て怪訝そうに訊いた。
「あ、彼らはC野署で森田健二の事件を担当している中山刑事と宮田刑事です。こちらはここのセンター長の高柳先生と、ウイルス学者のギルフォード教授とキング先生です」
 と、葛西は双方を紹介した。6人が挨拶をしあった後、高柳が刑事たちに言った。
「この方は発症者とかなり近い関係にあったために、感染の確率がかなり高いということで隔離されています。今は若干の発熱が確認されている程度ですが、それよりも知人の酷い死を目の前にして、かなりのショックを受けておられます。それで、事情聴取は出来るだけ、要点を押さえた短いものにしてください。いいですね」
 高柳は念を押すと、病室内に問い合わせた。
「僕だ。刑事さんたちが事情聴取に来られている。僕たちもいくつか質問があるのだが、いいかね?」
「はい、少々お待ちください」
 スピーカーから聞き覚えのない女性の声がした。高柳が言った。
「昨日の知事発表に備えて、かなり増員したんだ。今後の発生状況によっては一般外来を中止して全棟を専用の病院に使用することになるだろう」
 彼が言い終わると、病室から返答が来た。
「センター長、笹川さんがご了承されました。ただし、あまり負担にならない程度にお願いします」
そして、すぐに窓が『開いた』。
 病室には、まだ若い女性がベッドにではなく、サイドテーブルの椅子にうつむいて座っていた。その後ろに、これまた若い女性看護師が立っていた。女性の前には、やや年配らしい女性医師が座っている。もちろん二人とも防護服を着用しているので、容姿はよくわからない。医師が振り向いて言った。
「担当医の高柳敏江です。看護師は甲斐いず美。患者さんは笹川歌恋さんとおっしゃいます。質問の許可はしますが、くれぐれも患者さんのご負担にならない程度でお願いします」
「まあ、名前でわかるとは思うが、担当医師は僕の妻でしてね」
 高柳が少しだけ照れ気味に言った。しかし、敏江の方はにこりともしない。
「さて、こちらから質問していいですかね?」
 中山が言った。
「どうぞ」
 敏江はそっけなく答えた。
「ただし、昨夜のようなことになった場合、即刻窓を遮断させてもらいますよ」
「昨夜?」
 中山が不審そうに高柳/夫の方を見て尋ねた。高柳は一瞬苦笑いをするとすぐに真面目な顔をして答えた。
「昨日、公安調査官が別の患者さんに高圧な態度をとったものでね」
 高柳はその後、鼻の横を掻きながら小声で続けた。
「もう、その情報が行ったらしいな」
 その様子を見て、高柳以外の5人は同じことを思って一斉に顔を見合わせたが、すぐに中山が質問に入った。
「えっと、笹川さん、まず、森田健二が事故にあった当時のことを説明願いますか?」
「自殺・・・だと思ったんです・・・」
 蚊の鳴くような細い声だった。中山が少し困った顔をして言った。
「あのぉ、もう少しはっきり答えてくださいませんか?」
「すみません」
 歌恋は謝ると少し声量を上げて話し始めた。
「森田さんは車道をフラフラと歩いていたんです。ちょうどカーブのところだったんで、彼の姿がヘッドライトに浮かんだ時には、もう間に合わなかったんです。でも、課長が咄嗟に急ブレーキをかけたので、死ぬような衝撃ではなかったはずなんです。なのに、彼は、・・・何故か目の前で痙攣して血を吐いて死んでしまいました。服にはその前から付いていたらしい血が、既に半分乾いていました。だから、自殺で、きっと毒かなんか飲んでたんだと・・・」
「それなら、すぐに救急と警察に連絡すればよかったとやないですか? 何故遺体遺棄なんかしたとです?」
「課長も私も酒気帯びで・・・それに、一緒にいたことを知られたくなかったんです」
 それを聞いて、宮田がやや激しい口調で言った。
「轢逃げと遺体遺棄ですよ! そんなことしたら、余計に罪が重くなるなんて考えなかったんですか!?」
「・・・」
 答えに詰まる歌恋を宮田がさらに言及しようとしたので、中山が急いで止めた。
「おまえはちょお黙っときやい」
 中山は、歌恋の方に向きなおして言った。
「飲酒はともかく、轢いたことについてはその時の状況が考慮されたと思いますよ。現に司法解剖で死因は感染によるショック死とし、事故の影響はほとんどなかったとされていますし」
「わ、私がいけなかったんです。課長は救急車を呼ぶつもりだったのに、私が止めたんです・・・。社則で飲酒運転で逮捕された場合、懲戒処分になることになっているんです。しかも、それで人を死なせたとなったら・・・。だから、自殺するような馬鹿な男の為に、私はともかくとして、課長の一生をふいにしたくなかったんです!! まさか、まさかこんなことになるなんて・・・」
 そういうと、歌恋はわっと泣き出した。それを見て敏江が看護師に何か合図をしようとしたので、高柳が急いで止めた。
「敏江、ちょっと待ってくれないか? もう少し、ね、頼むから」
 その姿を見て、ジュリアスが葛西にこっそり耳打ちした。
「ありゃあ、だゃ~ぶ尻にしかれとるようだね」
「うん、意外だね」
 葛西も小声で答えた。
「ササガワさん」
 見かねてギルフォードが声をかけた。
「だけど、あなたは今日、その課長さんが事故に遭われたとき、周囲に病気のことを警告しましたね。勇気ある行動だと思います。黙っていれば、少なくともモリタさんの事故とあなた方の繋がりは闇の中に葬られ、あなたは安泰だと思ったはずです。なのに、あなたは、咄嗟に感染が広がるのを防ぐ道を選んだ。それだけに、あなたがその勇気を、モリタさんの時に出せなかったのは残念です」
 歌恋はなんとか落ち着きを取り戻して言った。
「昨日の・・・放送がなければ、多分黙っていたと思います。課長は、車道に飛び出す前に言ったんです。『赤い、なんで赤いんだ?』って。私は課長の感染を確信してゾッとしました。そして、私の感染も・・・。それで、これ以上病気を広げちゃいけないと思ったんです」
 歌恋がそう言い終えた時、スタッフステーションのドアがバタンと開いて、血相を変えた中年の女性が入って来た。
「窪田栄太郎の妻です! 夫がこちらに運び込まれたそうで・・・」
 窪田の妻と聞いて、歌恋がビクリとした。刑事たちと会話をするためにマイクがオープンになっていたので、通りやすい窪田華恵の声を拾ってしまったらしい。歌恋が何か訴えるような眼をして窓の方を見た。
「大丈夫、心配しないで」
 ギルフォードが唇に人差し指を当てて言った。高柳がさっと華恵の方に向かった。
「奥さん」
 高柳は華恵の傍まで来ると言った。
「残念ながらご主人は、ここに運ばれてきた時には既に亡くなられていました。ほぼ即死だったそうです」
「そんな・・・。確かに家を出る時なんとなく様子が変でしたが、心配して声をかけても病院に寄るから大丈夫だと言って・・・」
 華恵は自分の意思とは関係なく、身体がわなわなと震え始めたことがわかった。死んだ? 夫が? そんな馬鹿な・・・。しかしその反面、冷え切っていた筈の夫婦関係なのに、なんでこんなに動揺するのかと、動揺し取り乱す自分を見つめる冷静な自分の存在を感じていた。
「奥さん、難しいでしょうが、出来るだけ落ち着いて聞いてください、いいですか?」
「は、はい」
「ご主人は致死性の感染症に罹られていました」
「感染症って、昨日知事の説明にあった・・・? そ、そんな馬鹿な・・・」
「いえ、これは事実なんです。それで、あなたにも感染の疑いが・・・、あ、奥さん、大丈夫ですか?」
 華恵は高柳の説明の途中で、腰を抜かして座り込んでしまった。
「誰か、窪田さんを頼む」
高柳の声を聞きつけて、スタッフが何人か駆け寄ってきた。
「だれか、ストレッチャーを持って来い」
「だ、大丈夫です。驚いただけですから。そんな大仰になさらいでください」
 華恵は焦って言ったが、自分でも倒れかけた事に対して驚いているようすだった。高柳は駆け寄ってきたスタッフに三原医師がいることに気がついて言った。
「三原君、窪田さんを診察室に連れて行ってさしあげて。落ち着かれたら、説明と問診を頼む」
「わかりました。さあ、奥さん、立てますか?」
 三原は華恵に手を差し伸べながら言った。
「大丈夫です。自力で立てますわ」
 華恵はそういうと気丈にも立ち上がって言った。
「説明をお聞きします。三原先生でしたわね、よろしくお願いいたします」
「では、ご案内しましょう。こちらへどうぞ」
 三原は華恵を手招きすると、先に歩き始めた。華恵はしっかりとした足取りでその後に続いたが、急に高柳の方を振り返ると言った。
「多分、私は大丈夫と思うわ。それより夫の愛人よ。そっちのほうが感染してるんじゃないかしら?」
「それについては私共は何とも・・・」
 高柳は空とぼけて言った。
「そっ」
 華恵はそっけなく言うと、再び三原の後を追って歩き出した。二人がステーションから出て行くのを見届けて、高柳は歌恋の部屋の前に戻った。

 由利子は10時にF県警察本部の受付に居た。ギルフォードによれば、受付で名前を言うだけで良いと言うことなので、早速受け付けの綺麗なお姉さんに自分の名を告げた。
「篠原由利子様・・・。えっとギルフォード様から伝言をお預かりしております」
 受付の女性はそう言いながら由利子にメモを渡した。それにはこう書いてあった。
『ユリコ、また感染者が出たらしいのでセンターまで行かなければなりません。先に、案内された部屋に行ってください』
「え~っと、私ひとりで何をしろと・・・?」
 由利子はそれを読みながら頭を掻いて周りを見回すと、受付の女性が言った。
「迎えの者が参りますので、少々お待ちくださいね。・・・あ、来ました来ました」
 女性の向いた方向を見ると、スーツ姿の背の高い女性が由利子に向かって歩いてきた。年の頃は30代後半くらい、由利子とほぼ同年代のように思えた。彼女は由利子に気がつくとにこっと笑って言った。
「篠原様ですね。バイオテロ捜査本部の早瀬です。ご案内しますのでついていらしてください」
「あ、お世話になります」
 由利子は軽く礼をすると、彼女の後をついて行った。
(バイオテロ捜査本部だって。うわ、うわ)
 由利子は内心かなり興奮していた。しかも、警察棟内部なのですれ違う人のほとんどが警官なのだから、慣れない状況にさすがの由利子も若干萎縮しつつテンパっていた。エレベーターを登って当該階(階数は非公開)で降りる。そのまま廊下を歩くと突き当たりの部屋にたどり着いた。部屋の前によく映画やテレビで見るような筆書きの看板が儲けられており、そこには「平成2X年F県下に於ける新型病原ウイルス散布事件捜査本部」と、長々と書かれていた。
「長ったらしいでしょう? いつも思うのだけれども、もっとスマートに書けないものかしらね」
 早瀬はそういいながらドアを開け部屋に入ると由利子を招きいれた。部屋は思った以上に広くて明るい。
「捜査員のほとんどは既に出かけているから、今居るのは私と部長の松樹だけなの。松樹捜査本部部長、篠原さんをお連れしました」
 そう言いながら早瀬は由利子を手招きし、窓際の一際大きい机にの前に案内された。
「松樹警視、篠原さんです!」
机に背を向け・・・すなわち窓際を向いて男はなにやらごそごそしていたが、早瀬の声で慌てて振り返った。
 年齢40代後半、右頬に傷跡が残るがなかなか渋い男性だ。しかし、左目に黒いアイパッチをして左手はなんと鉤状になっている。由利子は若干引き気味に会釈した。
「あ、ああすまん。まだ役職名に慣れてなくてね」
 松樹は照れくさそうに言ったが、由利子が胡散臭そうな顔をして自分を見ているのに気付き、説明した。
「ああ、これは婦警からもらったディ○ニーランドのお土産でね。ちょっと試着してみてたんですよ。けっこう似合ってるでしょ」
 松樹は仕上げに海賊帽子を被り、立ち上がったが、さすがに鉤手はマズイと思ったのかスポッとそれを外して言った。
「捜査本部長の松樹杏一郎です。よろしく」
「篠原由利子です。こちらこそ・・・」
「さて、篠原さん。実は、君にお願いがあってこっちに来て貰ったんですがね、本来なら一緒に来てもらう予定だったアレックス・・・いや、ギルフォード教授に説明してもらうつもりだったんで・・・」
 松樹はそう言いながら部長席を離れ、由利子を手招きした。
「ちょっとこっちにきてくれませんか?」
「はい」
 由利子ははっきりとした返事をすると、彼の後を追った。早瀬もそれに続く。松樹は由利子を若干大きめのパソコンが置いてある席に案内した。
「さ、ここに座って」
「あ、あの」
 由利子はさっき松樹が言いかけたことが気になっていたので、先に聞いてみることにした。
「さっきアレックスって言われましたが、教授とはお知り合いなんですか?」
「ああ、彼とは大学時代からの腐れ縁でね。ま、オシリアイったって、彼と同じ趣味は持ってないから安心して・・・、いや、却ってアブナイかな?」
 松樹はニッと笑いながら言った。
(アレクと気が合う筈ね。類は友を呼ぶとはよく言ったものだわ)
 由利子は松樹とギルフォードの根っこに類似点を感じて思った。そこに早瀬の松樹へのダメ出しが入った。
「洒落になってませんよ。それに、いい加減その海賊のコスプレを解いてくださいませんか? 篠原さん、あきれておられるじゃないですか」
「おっと、失礼」
 松樹は急いでアイパッチを取り帽子を脱いで言った。
「さて、そういうわけで早瀬君、説明してやってくれ」
「はい。・・・じゃ、篠原さん、遠慮なく座ってください。
 早瀬はパソコンの電源を入れながら言った。
「あ、はい」
 と、素直に席に着く由利子。窓機の立ち上がる起動音が室内に響いた。早瀬は何ヶ所かクリックした後開いた画面を指差しながら言った。
「警察の犯罪者データベースです。この中からあなたの記憶しているひったくり犯や、あなたが数人の刑事と見たCD-Rに記録されていた人物を探してください。まずはF県下の暴力団関係のデータから始めてもらえますか?」
「ええ~!? この膨大な人数から見つけ出すんですかぁ~?」
「申し訳ありません。でも、あなたしか出来ないことなんです。お願いできませんか? もちろん賃金はお支払いしますから」
「えっと、今まだ有給消化中で今週木曜までは在職しているのですけど。それに今日からギルフォード研究室に・・・」
「その辺については、後でお話があると思います。で、やってくださいますか?」
「当然やりますよ。でも彼らがデータ内に登録されているとは限らないですけど・・・。ひったくりなんてどー見てもチンピラだったし」
「今は、ちょっとした手がかりでも欲しいのです。今のところ、関係者の顔を鮮明に覚えているのはあなただけなのですから」
 早瀬が『あなただけ』と言ったところで、由利子は背筋に薄ら寒いものを感じた。
「あのっ、私だけって、それ、警察内のみなさんが周知のことなんですか?」
「ご安心ください」
 早瀬が笑顔で言った。
「関係者以外では、警視と私しか知らされていませんから」
「関係者?」
「ええ、当時あなたと一緒に居た刑事たちのことです」
「そうですか・・・」
 由利子はほっとして言った。
「わかりました。地道な作業ですけどやってみます。どの辺りから攻めて行けばいいでしょうか?」
「そうですねえ・・・。まず、有名なところでここら辺あたりから初めてみては?」
「げげ・・・、イキナリそこですか?」
 由利子はよくニュースで耳にする有名暴力団の名前を見て目を丸くした。
「じゃあ、私もお仕事に戻りますから、よろしくお願いしますね」
「あ、あのっ」
 そのまま放置されそうになった由利子が焦って言った。
「私、多分、このデータ、見た人全員覚えてしまうと思うんですけど、問題ないでしょうか?」
「え? 全員覚えるんですか?」
 早瀬があきれて言った。
「覚えたくて覚えるんじゃありませんけど」
「へえ~!」
 松樹が興味深そうに言った。
「アレックスから聞いていたけど、そこまですごいとは思ってなかったな。てことは?」
「はい。もし道で会ったりしたらわかります。あ、この人ナントカ会の何の何兵衛だって」
「そりゃあ、便利だな。いちいち調べなくてもいいぞ。早瀬君、この事件が片付いたら、彼女に組織暴力対策課の非常勤にでもなってもらおうか?」
「まあ、それはいいですね」
「いえ、けっこうです!! 謹んでご辞退いたしますっ」
 由利子は即答した。

 感対センターでは、歌恋への質問が続いていた。C野署の刑事たちの質問はほぼ終わり、その後は感染ルートの確認だった。森田→窪田→歌恋というルートは確定だが、問題はその後だった。特に窪田が発症していたらしい金曜から先のルートが問題だ。
「旅行でY温泉に?」
 高柳の表情が険しくなった。ギルフォードとジュリアスも眉をひそめている。
「温泉地か。厄介だな・・・」
 高柳が腕組みをしながら言うと、ギルフォードが相槌を打った。
「そうですね。高温の湯内ではウイルスがどれだけ生きられるかわかりませんが、そういうところばかりじゃありませんし、このウイルスの生命力自体わかってないのですから、かなり問題ですね、これは・・・」
 それを聞いて、歌恋が泣きそうになりながら言った。
「でも、そこは全室が離れになっていて露天風呂も備え付けになってたから・・・、だから、他人とは接触してませんっ」
「でも、あなた方の後にそこに泊まった方はどうなります?」
「そ、それは・・・」
「とにかく、泊まった宿の名と部屋名を教えてください。即刻電話をして封鎖してもらわないと・・・」
 高柳は事を深刻と受け止めて、厳しい表情で言った。歌恋は今更ながらに事の重大さを悟って震えながら両手で口の辺りを覆っていたが、なんとか答えようと重い口を開いた。
「と、泊まったところはY温泉の・・・『山荘月光の宿』、泊まった部屋は・・・『茅(ちがや)の間』でした」
 高柳は、すぐにそれをメモすると近くの職員を呼び止めて言った。
「すぐにここを検索してくれ。連絡を急ぐので、わかったらすぐに知らせて!」
「はい、わかりました!」
 メモを受け取った女性職員は、すぐにパソコンに向かい検索を始めた。高柳が続けて聞いた。
「他に行ったところはないのかね?」
「はい。後は会社と家との往復で、特にどこへも・・・」
 歌恋が答えると、ギルフォードがすかさず口を挟んだ。
「大事なことを忘れています。森田さんの事故の後、どうされました?」
「あの・・・」
「もともと、どこかで酔いを醒ますつもりだったんじゃないですか?」
「え? あの、・・・どうしてわかったんですか?」
「簡単な人間の心理ですよ。で、どこに?」
「あの時は二人とも気が動転していて、とにかく目に付いたところに入ったので、場所も名前も全く思い出せないんです・・・」
「重要なことです。少しの手がかりでいい、思い出してください」
「は・・・、はい。ところであの」
 歌恋はずっと気になっていたことを質問した。
「会社の方はどうなるのですか? やはり全員隔離なのでしょうか?」
 高柳がその質問に答えた。
「今保健所の者が君の会社まで説明に行っているところですよ。空気感染はしないようだし、汗や唾液などの薄い体液飛沫からの感染も今の所報告がないので、会社の人たちの感染リスクはかなり小さいだろう。だから、経過の監視はされるだろうが、隔離については心配ないと思うよ」
「そうですか、良かった」
「でもね」高柳が続けた。「問題は今日の事故なんだ。昨日の知事の報告にもあった、感染した少年が電車に飛び込んで亡くなった事件だが、そこに居合わせた人たちから少なくとも一人の感染者が出ている」
「じ、じゃあ・・・」
「呼びかけてもバカ正直に名乗り出る人もあまり居ないだろうから、君が近づくなと叫んだ、その効果を期待するしかないな」
「ああ・・・」
 歌恋は両手で顔を覆って下を向き嘆いた。
「一体どうしてこんなことに・・・。私、ただ、課長と一緒に居たかった、それだけだったのに・・・」
「恋愛というものは、本来身勝手なものですから・・・」
 ギルフォードが、慰めとも皮肉とも取れるような口調でぼそりと言った。

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1.暴露 (2)引き潮

「その後、彼らがレンタカーを借りて旅行していたことがわかってですね、そっちの手配がまた大変で・・・」
そういうとギルフォードは、ため息をつきながらアフターのミルクティー飲んだ。

 ここはF県警近くのファミレスの中。
 ギルフォードは、昼前にようやく由利子の元に現れた。生憎、松樹は出かけてしまったあとで、部屋には由利子と早瀬の二人だけで、ギルフォードは大層残念がったが、午後から帰ってくるというので由利子を昼食に誘ったという訳なのである。 

「それは大変でしたね。でも考えたら彼らも気の毒ですよね。本来なら楽しい不倫旅行で終わったはずなのに・・・」
由利子がコーヒーカップの取っ手に手をかけながらしみじみと言った。ギルフォードは右手の人差し指を立てて左右に振りながら言った。
「身勝手な事情で轢逃げをしてしまったのですから、あまり情状酌量は出来ないと思いますね。もっとも、モリタ・ケンジが死んでなかったら、また状況も違っていたかも知れませんがね」
「まあ、そうですけど、私がその立場であっても逃げたかも知れないなあ。やっぱ状況から考えて自殺だと思うだろうし、割があわないもん」
「こらこら、またそういうことを」
ギルフォードが苦笑しながら続けた。
「口ではそう言いますけど、君にはそんなこと出来ないと思いますよ。曲がったことキライでしょ?」
「そんなことないって。私だってほんとに好きな人と一緒だったら同じこと考えると思うよ。逃避行だって辞さないから」
「へえ、意外と情熱的なんですねぇ。何かあったら僕とも逃避行してくれますか?」
「バカね、何真面目な顔して言ってんの」
ギルフォードに何故か真正面から真面目な表情で言われ、由利子はややテレながら言った。その時ふと周囲を見回して驚いた。
「やだ。さっきからアレクと顔を近づけて小声で話していたから、なんとなく注目の的になってる」
「あのガイジンとシャイボーイの関係はなんだろうって?」
「誰がシャイボーイだ」
「濃紺のパンツスーツに白いシャツで、細いリボンタイでしょ。しかも、ナチュラルメイクで・・・」
「だって昨夜の電話で、『明日はスーツでビシッと決めてきてクダサイ』なんて言うから・・・」
「いえいえ、僕は好きですよ。ギムナジウムの生徒みたいで」
「ギムナジウムって、久々に聞きましたよ。一時期やたらそーゆー少女マンガが流行った頃があって・・・って、あれ、イギリスの場合はグラマースクールっていうんじゃなかったですか?」
「よく知ってますね」
「ギムナジウムはドイツですよね。・・・あ、すみませぇん、コーヒーのお代わり下さい」
話の途中で由利子は、コーヒーポットを持ったウェイトレスが近くに居たのに気付いて呼び止めた」
「は~い」
ウェイトレスは、にこやかに近づいて由利子のカップにコーヒーを注いだ。その後、ギルフォードがすかさず追加注文をした。
「あ、それからこのミニチョコパフェもお願いします」
「え? パフェ食べるんだ」
由利子が驚いて言うと、ギルフォードは顔をやや赤らめながら言った。
「ええ、まあ・・・。だって食後にデザートは定番じゃん」
(やだ、可愛いじゃないの)
と由利子は思いつつ言った。
「甘いもの、好きなんだ」
「ええ、下戸ですし。いわゆる、スィーツ男子ってやつですか?」
「あ、私、スィーツって言い方嫌いなんです」
「へえ、意外と保守的ですね。ま、イギリスでは、お菓子についてsweetsというと、駄菓子のようなものを指しますから、僕もあまり高級なイメージは持たないですけどね」
「そうなんですか、へえ~」
「甘い物好きの男って、変ですか?」
「そうでもないですよ。下戸で甘いもの好きの男性というと、L(エル)を思い出しますね。私、L好きですから」
「光栄です。まあ、僕はコーヒーを砂糖で埋め立てたりはしませんけどね」
「あはは・・・。あ、来ましたよ、そのスィーツが」
「ミニと言ってもけっこうヴォリュームがありますねえ」
ギルフォードが目の前に置かれたパフェを見ながら言った。ウエイトレスが、にっこり笑いながら尋ねた。
「以上でご注文されたお品は揃いましたでしょうか?」
「はい、どうもありがとう。カワイイデスネ。とても美味しそうです」
ギルフォードが例の必殺笑顔で答えた。まだ若いウエイトレスはぴょこんと礼をして「ありがとうございまーす」と言うと、心なしかスキップ気味に去って行った。
「彼女、何か勘違いしたかもしれないわよ」
由利子は去っていくウエイトレスの後姿を見ながら言った。ギルフォードは、早速パフェを突っつきながら、少しきょとんとして言った。
「やだなー、僕は人は食べませんよ」
「なんでそこでボケるかなあ」
「ところで、さっきの話に戻りますが」
ギルフォードは、また、声のトーンを落として話し始めた。
「そのカレンって女性ですけど、まだ何か隠しているみたいなんですよ」
「隠している?」
「ええ、他の人たちは考えすぎだって言うけど、な~んか様子が変なんですよね」
ギルドフォードはそういうと腕を組んでため息をついた。
「アレクがそう思うんなら、そうかも知れませんね」
「でね、お願いがあるんですけど」
「はい?」
「ユリコ、さりげなく彼女から聞き出してもらえませんか?」
「は? 私がですか?」
「ええ。彼女、警察関係や医療関係の人間をなんとなく警戒しているようなんです。だから、部外者の君なら彼女も何か話してくれるかもしれないと思ったんですけど・・・」
「う~ん・・・、出来るかなあ・・・。若い女の子でしょ? 話が合うとも思えないけど」
「やってみてくれませんか?」
「アレクってば、あなたも人使いが荒いわねえ」
「どうも、すみません」
ギルフォードが申し訳なさそうに言った。由利子は両手で頭を抱えるフリをしながら言った。
「ちょっと考えさせてください。何ぶん、今日頼まれた大量の首実検で頭がクラクラしてるんですから」
「手ごたえはありそうですか?」
ギルフォードが興味津々といった様子で聞いてきた。
「それが、どいつもコイツも見事なDQN面(ドキュンづら)で、もうゲンナリですよ」
「ドキュン?」
「あ、え~っと、説明し辛いな。え~、チンピラや不良・・・みたいな、いかにも素行の悪そうな連中のこと・・・。実際はもっと広い意味を含むのだけど」
「なるほど。まあ、暴力団の下っ端なんですから仕方ないでしょうけどね。で、それらしいのは居ましたか?」
「いーえ、全然。覚えたくもない顔が大量に増えただけですよ」
と、由利子はキッパリと言いきった。ギルフォードは頷きながら言った。
「すみませんねえ。君の事を言ったらキョウがずいぶんと興味を持っちゃって。是非やってみてもらえないかって言われたんで断りきれなくて。僕も、そんな簡単に見つかるワケないって言ったんですけど、彼、押しが強くってねえ。・・・あ、そろそろ行きましょうか」
ギルフォードは話の途中で時間に気付いて言った。時間は1時に近づこうとしていた。
「はあ、また大量のDQN面との対面かあ~。健さんや文さんレベルの渋いヤクザだったら歓迎なんだけどなー」
由利子は溜め息をついて立ち上がった。

 二人がファミレスの外に出ると、いつの間にか雨模様になっていた。ギルフォードが肩をすくめて言った。
「あ~、降って来ちゃいましたね」
「色々あって気がつかなかったけど、入梅(つゆいり)しちゃったんだよね」
「日本は好きですけど、この梅雨と夏の蒸し暑さだけは慣れませんねえ・・・」
ギルフォードが憂鬱そうに言った。由利子はバッグから折り畳み傘を出しながら聞いた。
「アレク、傘は・・・持ってそうにないわね」
「イギリス人はこれくらいの雨じゃ傘はさしませんから」
「とはいっても、私だけ差すのも気が引けますから、相合傘しましょ」
「じゃ、僕が持ちますよ」
ギルフォードが由利子から傘を受け取り、二人は雨の中を歩き出した。
「ジュリー君は今日も葛西君と昆虫採集に?」
「ええ・・・」
ギルフォードは、何故かため息混じりに答えた。由利子は若干不審に思いながら続けた。
「大変だなあ、雨も降ってるし。防護服も蒸れそうで嫌だなあ」
「そうですね・・・」
ギルフォードはそう言うと、またため息をついた。
「あれ? どしたん」
由利子はギルフォードのため息連発に驚いて尋ねた。
「実は、ジュリーを怒らせてちゃったんです」
「え? どして?」
「それがですね・・・」
ギルフォードがぼそぼそと事情を説明した。
「え? マジでそんなこと聞いちゃったの?」
「ハイ」
「バッカじゃないのぉ~。そんなこと聞いたら怒るに決まっとろーもん」
「だって気になったんだもん、仕方ないじゃん」
「なんぼ気になったって、聞いて良いことと悪いことがあるやろ?」
「だって、ジュンと一緒にシャワー浴びたって言うから・・・」
「だからって、葛西君の裸のことなんて聞くか、フツー?」
「いえ、控えめに『どうだった? 見た目よりずいぶん逞しかったでしょ』って聞いたんです」
「いっしょだ、いっしょ。どーせ、うれしそーに聞いたんでしょ」
「スミマセン」
「図星かい。・・・ったく、彼氏にそんなこと聞かれたら、私ならその場でベッドから蹴落としてるところだよ」
「ジュリーはあれ以来口をきいてくれません」
「たりめーでしょ。バカね」
「どうしたらいいんでしょう」
「そりゃあ、ひたすら謝って謝って謝り倒すしかないでしょ」
「やはりそれしかないですか」
「ま、ないでしょうね」
由利子が冷たく答えたので、ギルフォードはすっかり意気消沈してしまった。
「はー、やっぱり僕はバカですね」
「ま、がんばって彼が帰国するまでに仲直りしてください」
さすがに気の毒になったのか、由利子はそう言うと、パン!とギルフォードの背中を軽く叩いた。

 由利子としょぼくれたギルフォードは、その後しばらく無言で歩いていた。それで、彼らの後ろを歩いている女性二人の会話がそれとなく耳に入ってきた。
「ね、前の二人、何かゲイカップルっぽくない?」
「まさか・・・。でも言われてみれば・・・」
「そうでしょ。二人ともカッコ良さげだし、正面から見てみたいね」
「相変わらすの腐女子ぶりやね、あんた」
「見てこようか」
「やめとけ。不細工だったらあんたまた泣くやろ」
由利子は、ギルフォードが小刻みに震えているのに気がついて彼の方を見上げた。ギルフォードは空いた左手で口をふさいで必死で笑いをこらえていた。由利子は渋い顔をしてつぶやいた。
「これからアレクといる時に、この格好はやめとくわ」
「ええ? そんな、もったいない・・・」
ギルフォードは残念そうに嘆いたが、彼女らの話の流れが変わったのに気がついて口をつぐんだ。
「それよりねえ、昨日の緊急放送見た?」
「うん。カーステだったから『聞いた』だけどね」
「信じられる?」
「う~~~ん、信じるも何も、ほんとに危険だからあんな放送があったっちゃろ? 新型の出血熱だなんて全然ピンとこないけどさ」
「私もそうやったんやけどさ、今朝ね、通勤途中で事故があって・・・」
由利子はギルフォードの横腹を突っついて彼の顔を見た。ギルフォードは無言で頷いた。彼女らの話は続いた。
「私は傍にはいなかったんだけど、凄いブレーキ音がして、ドンって音が聞こえてさ、何、何?って思ったらさ、誰かが事故だって叫んだのよ。それで、私も現場の方に行ってみようと思って駆け出しかかったらさ、女の人が新型の感染症だから、寄るなって叫んでたんが聞こえてさ、もう、びっくりしたよ」
「で、どうだった?」
「冗談でしょ。怖いからすぐにそこから離れたよ。で、心配だから、出来るだけ遠回りして会社に来たのさ。だから遅刻しちゃったってワケ」
「結局遅刻の言い訳なわけね」
「そうじゃないけど・・・」
「冗談よ。でも、怖いねえ。近くにいた人たち感染っていないやろうね」
「わからんねえ」
「だいたいあんた、大丈夫やろうね?」
「ええっ? やめてよ、全然遠くにいたんだからぁ。昨日の放送でも言ってたやん。接触しない限り大丈夫だって」
「わかんないよぉ。あんたがウソをついているんかもしれんやん」
「ひっどぉい」
「いやあぁん、えんがちょ~」
そう言うと、彼女は笑いながらバタバタと駆けだした。残された方は、驚いて後を追い、ふたりはギルフォードと由利子を追い越して、十数メートル先のビルに入っていった。その際ふたりはしっかりとギルフォードたちの姿を確認するのを忘れなかった。追う方の女性は、振り向き様に小さくガッツポーズをして走り去った。ギルフォードはややぽかんとして言った。
「日本の女の子は元気ですねえ・・・」
しかし、由利子からは返事がなかった。不審に思ってギルフォードは由利子の方を見た。
「ユリコ、どうしたんですか?」
すると、由利子はやや眉間に皺を寄せた真剣な表情をし、てギルフォードに言った。
「アレク、やっぱりさっきの話、引き受けるね」
「え? ああ、カレンさんのことですか?」
「ええ。今の女性達は冗談めかしてたけど、災禍が身近になってくると、いずれ洒落じゃ済まなくなるでしょ。だから、悪い芽があるなら早めに摘んでおいた方がいいと思ったの」
「オー、ユリコ! サスガです、ありがとう!!」
ギルフォードは、傘を持ったまま由利子の方に右向け右をすると、いきなり彼女を抱きしめた。
「きゃ~」
由利子の悲鳴と共に、パチーンという乾いた音が雨の街中に響いた。

 捜査本部に戻ると、松樹が帰って来ていた。
「キョウ!」
ギルフォードが彼の顔を見て喜んで駆け寄った。松樹は両手を前に構えて言った。
「おっと、ハグは遠慮してくれよ」
「ちぇっ、釘を刺されちゃいましたか」
「久しぶりだね、アレックス。相変わらずのようだね」
松樹はギルフォードの頬の手形に気がついて言った。
「キョウも全然変わらないですね」
二人はお互いの肩を、バンバン叩きながら言った。
「ところで」ギルフォードが話題をふった。「どこに行ってたんですか?」
「ああ、今朝方例の新たな感染者が発覚したことについて、タスクフォース全体としての会議があってね。今日はまだ本格的な稼動はしていないが、正式に動き出したら、君たちにも参加してもらうから」
松樹が「君たち」と言いながら、明らかに自分の方も見たので、由利子は目を丸くして自分を指差した。
「そうですよ、ユリコ。君にはバイオテロ対策室顧問である僕の助手として来てもらう事になったんです。ほんとは今朝、その話をしようと思ってたんです。対策室のある間だけの臨時職員なので申し訳ないのですが、いちおう保険関係もつきますし、相応の日給も出ますんで・・・」
「え? その話マジですか?」
「実はお預かりした履歴書を県に提出していたんですが、バッチリでしたよ」
「ええ~っ!」
由利子は目をぱちくりとさせて言った。ギルフォードはそれを見て心配そうに尋ねた。
「大学のアルバイトより条件が良いと思ったんですが、ダメでしたか?」
「いっ、いいえっ、むしろ嬉しいです。でも、そういうこと全然聞いていなかったから驚いちゃって」
「下手に言って期待させてダメだったら悪いと思ったんですよ」
「ありがとう、アレク」
由利子は驚いたのと嬉しいので目を若干潤ませながら言った。それを見ながら松樹が言った。
「感動的場面に水を差すようで悪いが、新型感染症の件を全国公表することに決まったよ」
「決まった? そりゃあまた急ですね」
「新型感染症については、安田さんから多美山さんまでの感染ルートで存在が証明されているし、病原体がウイルスだけに、地域封じ込めに頼るのは難しいと判断されたようだ。」
「遅すぎたキライもありますが、これで全国的に網が張れるようになりますね」
「ああ。だが、良いことばかりじゃないぞ」
松樹は眉を寄せ腕組みをしながら言った。
「これからは中央が大っぴらに干渉して来るだろうからな」
「そうですね。ややこしいことにならなければいいのですが・・・」
ギルフォードも表情を曇らせる。
「君を追い出したあの男が関わって来なければいいんだが」
「いやなヤツを思い出させないでください」
ギルフォードはさらに憂鬱そうに言った。由利子はその二人を交互に見ていたが、敢えて質問することを控えた。それを見越したのか、松樹が由利子の方を向いて言った。
「さあて、そう言うことで、篠原さん、色々思うこともあるだろうが、そろそろ犯人探しを再開してくれないかな?」
「ヤクザに飽きたら、カルト関係のリストもありますから」
早瀬が生真面目そうに続けた。
「ああ、すっかり忘れてた・・・」
由利子は、げっそりとしてパソコンの方を見た。

 その頃、葛西とジュリアスは例の河川敷に来ていた。その周辺は大規模な範囲で立ち入り禁止になっていた。葛西が周囲を見回しながら言った。
「昨日の告知のおかげでおおっぴらに出来るのはいいんだけど、やっぱりなんか妙だねえ」
「それよりも、問題はこの雨だわ。仕掛けとったメガローチホイホイ(罠)がほとんどびしょぬれになって使えにゃーようになっとっただろ」
「さっきまで、かなりの量が降ってたからね。今日は収穫なしかなあ。仕掛ける場所、考えないといけないかな」
「少なくとも今までは全部あかんかったからね」
「これじゃあ、河川敷が僕らの仕事場になってしまいそうだよ」
「そりゃあ、でらあかんわ」
二人はブツブツ言いながら、最後の仕掛け場所に向かっていた。
「あ、あそこら辺だったね。例の橋の下!」
「急ごう。雨が直撃しない場所だで、掛かっとればええのだが」
二人は足早に向かった。その時、バタバタとヘリコプターの音がしているのに気がついた。二人は同時に音のする方の空を見上げた。
「今日、この事件でヘリを飛ばす予定とかあったかね?」
ジュリアスがヘリコプターを確認すると、言った。葛西は首を横に振りながら答えた。
「いや、そんな予定はないはずだよ。多分、民間の飛行機じゃないかな」
「民間? ドクターヘリでもなさそうだで、マスコミ関係じゃにゃあか?」
「そうかも・・・、いや、多分そうだ」
「俺たちを狙っとるのかね」
「可能性は高そうだね。ここの様子を見に来て僕らの存在に気付いた、そんなとこだろ。防護服に捕虫網だもん、目立つよ。とりあえず橋の下に急ごう」
「無駄かもしれにゃーけど、ためしに走ってみよまい」
「おっけー」
二人は同時に駆けだした。ヘリはすでに旋回して葛西たちの方に向いている。
「やっぱりそうだ、目当ては僕たちだ! 嫌な予感がする・・・」
葛西がジュリアスのやや先を走りながら、振り返ってそれを確認して言った。その時、ジュリアスが叫んだ。
「葛西! 前を見ろ! おみゃーさんの行く先に・・」
しかし、既に遅しで葛西はメガローチの罠を足で蹴り上げてしまった。
「うそっ、何でこんなとこにあんだよ!!」
葛西の驚きと疑問を余所に、蹴飛ばされた罠は地面スレスレをかすって飛んで行ったが、着地すると生き物のように震え、罠から異様な音が響いた。
「うわ、ひょっとして!!」
「ひょっとしてじゃにゃーよ。確実にかかっとるだろ!」
「そんなこたわかってるっ! 罠に掛かったまま逃げようとして移動してたってことだよ! やっぱりバケモノだ・・・」
「よっしゃ! 念のため網で罠ごと捕獲するから、どいてくれーせんか」
「あ、悪い! やってくれ!」
葛西はさっと右に避けてジュリアスを前に通した。罠はビリビリと音をさせて少しずつ移動をしている。罠の中で何かが高速で動いているのが見えた。
「わあ、翅だわ。成虫じゃにゃーか。罠ごと飛んで逃げようとしとるらしいぞ」
「うわあ~、気持ち悪っ!!」
「なんかおれも、捕獲するのが嫌になってきたわ。だが、そういうわけにもいかにゃーて、行くぞ、葛西」
ジュリアスは、そう言うと捕虫網を振り上げた。が、罠はブンと羽音をさせて一瞬浮き上がってすぐの地面に落ち、また中で騒々しい音がし始めた。
「なんだぁ、こりゃあ~。このあんばいで飛ぶかね、フツー?」
驚きつつ、網を振り下ろした瞬間、罠の中から黒いモノが走り出た。それは、すぐに飛び立つと、再度捕虫網を持ったジュリアスに向かってきた。
「ジュリー!」
「こいつ、攻撃するつもりか!?」
ジュリアスはそう言いつつも冷静に網を構え、蟲の動きを目で追った。だが、敵の動きは彼の予想を裏切った。ソレはすぐに方向転換をして、すんでのところでジュリアスの網をかわし、草叢の中に逃げ込んだ。
「くっそお~~~! またか!」
ジュリアスは網を地面に叩きつけて悔しがったが、後の祭りだった。葛西が気の毒そうに言った。
「ね、手ごわいでしょ」
「手ごわいどころか、あいつの知能はハンパじゃにゃーぞ。最初威嚇で向かってきたくせに、ソレが効かにゃーと判断するや、逃げの一手に出た。昆虫の癖に、しゃれにならにゃーぞ、まったく」
「とりあえず、残った罠を確認しようよ」
葛西は気を取り直して、今は抜け殻と化した罠に向かった。ジュリアスもそれに続いた。葛西は罠の前にしゃがみ込むと、罠を手に取り中を覗いた。しかし、すぐさまそれを元の場所に戻し、顔を背けた。
「どうしたんだ、葛西?」
「中に置き土産がある・・・」
「置き土産?」
ジュリアスは葛西の言分を確かめるために、罠を拾って解体した。そこにはゴキブリにあるまじきサイズの脚が2本取り残されていた。フンらしきものも残っている。さすがのジュリアスも露骨に嫌な顔をして言った。
「収穫は脚2本プラス土産物か。まあ、にゃあよりマシってところだね。ちゃっと採集して、次の罠を仕掛けてちゃっと帰ろまい」
ジュリアスは、さっさと荷物から採取セットを取り出しはじめた。葛西が地面にへたり込んで言った。
「もういやだ、こんなの」
「なあ、葛西。おれたちが相手をしとるのは、生き物だわ。どんなものも必死で生きようとしとるんだで、特に野生生物はいつもガチで命を懸けとる分、人間より手ごわいのはあたりみゃあだろ。さ、これも明日までの予定だ。もうひとふんばりだわ。がんばれ」
「ごめん。ちょっと心が折れかかったよ」
葛西はそういうと、景気づけに「よっ!」と気合を入れて立ち上がった。件のヘリは既に彼らの頭上を旋回していた。ジュリアスが胡散臭げに見上げて言った。
「しかし、小煩いカトンボだ」
葛西もそれに続いて見上げながら言った。
「いったいどこのヘリだろう」
「ま、今夜のニュースを見たらわかるんじゃにゃあか?」
「くそ、これからもこんなことが続くんだろうな」
(こっちの苦労も知らないで)
葛西は、苦々しい思いでヘリコプターの姿を目で追っていた。

 夕方5時過ぎ、そろそろ帰宅する会社員や買い物客で込み始めた頃、駅前の道路に1台の乗用車が止まり、男が一人降りた。おそらく彼は電車に乗るつもりなんだろう、それだけなら特に珍しくもない光景だった。しかし、なんだか様子が違った。車を降りた男性は、よろけながら路上に降り、フラフラと歩道まで歩くとよろけて膝をついた。そんな男を放って、彼を乗せていた車は無情にもすぐに走り去ってしまった。
「大丈夫ですか!?」
そういいながら親切そうな年配の女性三人組が男に近寄って行ったが、ヨロヨロと立ち上がった男の顔を見て、息を呑んで後退りをした。男の両目は赤く充血をしており、高熱があるのか顔は赤く汗をだらだら流している。男は立ち上がると、彼女らにはに目もくれず、ゆっくりと歩きはじめた。その様子を数人の通行人が不審そうに見たが、ほとんどの人間は気に留めることなく彼の横をすり抜けて行った。男はフラフラと、しかし迷うことなく駅の方に向かって歩いて行った。
 

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1.暴露 (3)タイド・ウェイ

 その頃由利子は、歌恋の病室の前にいた。もちろんギルフォードに頼まれ、歌恋から話を聞くためだが、F県警のテロ対策室で、大量の暴力団員リストを閲覧したため、由利子がオーバーヒートしかかったと言うこともあった。

 「ユリコがバカ正直に一人ひとり確認しながらやるから」
センターに行く途中、車を運転しながらギルフォードが言った。
「見たことのある顔を識別するだけなら、君なら一瞥しただけでわかるはずですから、ちゃっちゃとスクロールして見ればいいんですよ」
「でも頼まれたからにはいい加減に出来ないなとおもって・・・」
「要は、君の見た関係者リストに乗っていた者たちや、そのデータCDを奪おうとした男たちを、データベースの中から発見できれば良いんですから」
「まあ、そうですが」
「頭から湯気出してまで頑張らなくても」
「え? 湯気出てました?」
「ま、それは冗談ですけどね。とにかくこれから先は長いんです。のっけから頑張りすぎると後でバテますよ」
「はい」
「ま、君の頑張りは僕も嬉しいですけどね」
そういうと、ギルフォードはニコッと笑った。

 由利子は歌恋と話す許可を得、病室の前に座った。
 由利子は、歌恋と話をする条件として、二人だけで話したいと言った。しかし、隔離された歌恋の病室には、医療関係者ではない由利子が入るわけには行かない。それで、昨日の北山紅美の時と同じ方法でやることになった。由利子がマイクを使って話すという方法である。ただし、今回は歌恋の話声が筒抜けにならないように、由利子に聞こえるレベルくらいに病室からの音量も落とすという配慮がなされた。念のため、歌恋の病室には看護師の甲斐が待機していた。
 窓が開き、由利子が対面した笹川歌恋はベッドに伏せっていた。朝方の状態から考えて、かなり病状が悪化している。
「笹川歌恋さんですね」
由利子は出来るだけ優しい声で言った。歌恋は大儀そうに由利子の方を見ると、怪訝そうに「はい」と答え,、起き上がろうとした。
「あ、気を遣わないで。横になったままでいいですから」
由利子は焦って歌恋を止めると続けた。
「具合の良くないところを申し訳ないのですが・・・」
由利子は訪問目的をなんと説明しようかと少し考えたが、直球勝負に出ることにした。
「ギルフォード先生に頼まれて、あなたの話を聞きに来ました。篠原由利子と申します」
「ギルフォード先生?」
歌恋は一層訝しげな目をして言った。
「朝、会ったでしょ? 金髪で背の高い男の人!」
「ああ、あの優しい外人さんのことですね。でも、今朝お話したことで全部なんですけど・・・」
「ギルフォード先生は、あなたがまだ全てを話していないんじゃないかと言ってるわ。それで、私がもう一度確認に来たの」
「あなた、あの外人の先生の部下かなんかですか?」
「部下・・・多分違うなあ。友人・・・、そう、友だち・・・かな?」
「友だち? 彼女じゃないんですか?」
「カノジョ・・・」
そう鸚鵡返すと、由利子はクスクス笑って言った。
「残念ながら、彼とは永遠にそれはないなあ。それに、彼には既に綺麗な恋人がいるし」
(カレシだけどね)と心の中で付け加え、続けた。
「もし、まだ言ってないことがあるのなら、教えて欲しいの。ウイルス感染症だけに、少しの対応の遅れが大事を呼ぶ可能性もあるのよ」
「いえ、もうありません。本当です」
歌恋は由利子から顔をそらし、半ベソをかきながら言った。
(これは、間違いなく何かある)
そう直感した由利子は、絡め手で行くことにした。
 警戒する歌恋に対して、最初、由利子は他愛ない話から入り、そして自分の失恋経験を話した。いつしか歌恋は由利子の話を真剣に聞いていた。
「それじゃ、由利子さんは・・・」
「そうね、あなたとは逆の立場だったみたいね。でも私は、あまり相手の女性を恨む気にはなれなかったな。ま、結婚してなかったせいもあるだろうけど、彼のいい加減な態度の方に頭に来ちゃった。なーんか勘違いしてるしさ。それに、相手が妊娠しちゃったんなら、こっちが身を引くしかないでしょ」
「そうでしょうか。私がこう言うのはまずいと思いますけど、本当に好きなら絶対に譲れないと思うし、浮気相手を恨むと思うんです」
「そうやねぇ。実のところ、彼にはすでに愛想を尽かしていたのかもしれないなあ」
由利子はそういうと、自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい、生意気なこと言っちゃって」
「いや、気にしなくてもいいから。でも、真逆の立場だった私たちがここにいるのも何かの縁かも知れないね」
「でも、どうして私にそんな話を?」
「なんでだろ。掴みにしては最悪な話題よね」
と、由利子は苦笑しながら言った。
「でもね、今言える事は、その時はもう最悪だったけど、年月が経つと心の傷も癒えてきて、けっこう思い返すと楽しい思い出のほうが多かったりするんだよね。だから、歌恋さん、今のあなたの状況からは簡単に元気出してとは言えないけど、窪田さんも、歌恋さんが自分との楽しかった思い出を大事にして欲しいと思ってるって思うの。だから、自暴自棄にだけはならないで。亡くなられた窪田さんも、きっと今、それを心配していると思うよ」
 由利子の真摯な態度や心配りにようやく心を開いた歌恋は、ぼつぼつと自分のことを話し始めた。ずっと心に留めていた思いを、誰かに吐露したかったのだろう。第三者的な立場にあり、年上で落ち着いた感じの由利子は、その相手にうってつけだったのかもしれない。さらに初対面であることは、歌恋を取り巻く友人知人とは一線を画している。それが、却って話しやすかったのだろう、歌恋は自分の身の上から窪田との出会い、そして今に至るまでを、とつとつと話した。それはまるで、自分の生きた証を託しているようであった。
「そっかあ・・・」
由利子は歌恋の話を聞き終えると、ため息混じりに言った。
「辛かったね。それなのに、ひどいことに巻き込まれてしまったよね」
「いえ、私が悪いんです・・・。私が・・・課長を誘ったりしたから・・・。だから、罰が当たっちゃったんです」
歌恋は、力ない笑みを浮かべて言った。高熱が出始めているらしく、顔が赤く息も少し荒くなっている。由利子は首を振って言った。
「それは違うよ。窪田さんとのことについては二人とも悪い。倫理的にはね。でも、今のあなたの病気や窪田さんの死に関してはあなたのせいじゃないの。それに、罪を犯した人もそうでない人も、同じようにこの病気で亡くなられているんだよ。罰だ何て、軽々しく言っちゃだめだ」
「あ・・・、ごめんなさい・・・」
由利子の静かだが厳しい口調に、歌恋は恥じ入るように言った。由利子は諭すように続けた。
「昨日の放送を聴いていたのなら、この病気がどんなものかわかっているよね。もし、他にも感染したかもしれない人がいるなら、教えて。お願い。手遅れにならないうちに」
由利子の説得に、歌恋は顔をゆがめながら目をつぶった。もう一押しだと思い、由利子は続けた。
「もしこの病気が広がったら、小さい子供たちまで犠牲になるかもしれないのよ。わかるでしょ?」
「ごめんさい・・・!」
とうとう歌恋は耐えきれず、泣きながら言った。
「あんなヤツ、死んだって構わないって思ったんです。病気で死んじゃえって・・・」
「どういう事?」
由利子は、嫌な予感を感じながら聞き返した。

 その頃、ギルフォードは高柳に呼ばれてセンター長室の応接セットに座っていた。すぐに高柳が来ると言われていたのだが、なかなか姿を現わさず、暇をもてあまして、雑誌用ラックの週刊誌でも読もうかと立ち上がろうとした時、ドアが開いた。まず高柳が入ってきたが、彼はもう一人誰かを招き入れ、大柄で小太りの年配男性が入ってきた。彼はギルフォードを見ると懐かしそうに言った。
「わしを覚えているかね、アレク君?」
ギルフォードは一瞬きょとんとして少しの間老人の顔を見つめていたが、急に表情がぱっと明るくなった。
「ヤマダ先生? ・・・ヤマダ・ショウゾウ先生ですね!!」
ギルフォードは立ち上がると山田医師のところに駆け寄った。
「ヤマダ先生、あの時はホントウにありがとうございました!!」
「あの時死線を彷徨っていた青年が、こんなに立派になって・・・。わしも感無量だよ」
「こんなところで再会するなんて・・・!」
ギルフォードも感極まって言った。
「日本語、ずいぶん上達したね。あの頃はコンニチハとアリガトしか言えなかったものな」
「ヤマダ先生は頭の方がずいぶんとスッキリされて・・・、ご自慢の髭もすっかり白くなられて・・・」
「ははは、20年は長かけん。それに髪の毛は当時からだいぶ後退しとったからね」
高柳が再会を喜ぶ二人に飄々と言った。
「さて、話も沢山あることでしょうから、とりあえず二人ともお座りください」
高柳に言われて二人はソファに向かい合って座った。高柳は山田の横に座ると言った。
「山田先生は、緊急時には僕らに協力したいという申し出をしてくださったんだよ。K大の勝山先生が話を持ちかけられたそうだ」
「ヤマダ先生の協力は心強いですね」
ギルフォードが山田の方を見ながら嬉しそうに言った。高柳が付け加えた。
「山田先生は最初に秋山雅之君を診察された方だよ」
「そういえば、調書にヤマダ医院ってありました。まさかあれが先生の病院だったとは」
それを聞いて、山田は少し曇った表情で言った。
「日曜の夜に急患でやって来てね。インフルエンザを疑ったが、まさか出血熱とは思わなかったんだ。今まで散々出血熱患者を見てきたのに、全くもって不覚だったよ。二次感染が出なくて幸いだった。まあ、うちはその対策はちゃんとしているつもりだがね」
ギルフォードはそんな山田を気遣って言った。
「日本に住んでいて渡航暦もない少年が、そんな病気に罹っているなんて、誰だって思いませんよ。しかも、最初は発熱くらいで特に症状はないんですから、僕だって同じ判断をしたと思います」
山田はわっはっはと笑うと満足そうに言った。
「君に弁護されるなんて、ますます感無量だね。しかし、君が生き延びたという噂は聞いていたが、良くあの状態から生還したものだ」
「アメリカに緊急送還されてから、僕は半年近く病院にいましたが、しばらくはひどい状態でした。それでも生き延びられたのは、先生が血清療法に踏み切って下さったおかげです。それについて先生はかなり批判を浴びましたが、僕が生きたのはそのおかげだったと確信しています」
「しかし、新一君をはじめ、救うことの出来なかった人もいたんだ。生存者が7人の内の4人では、自然治癒の可能性も否定できんからな」
「シンイチ・・・」
ギルフォードは、一瞬声を詰まらせたがすぐに続けた。
「彼の病状は進みすぎていました。他に日本人親子がいましたが、彼らも先に感染していた父親の方が亡くなったと聞いています」
「彼らは気の毒だったな。アフリカの医療事情の視察に来て、ウイルス禍に巻き込まれ足止めを食った挙句に感染してしまったのだからね」
「父親はあの混乱の中、率先して患者の世話をしておられました。身内すら病気を怖れて近づかなくなっていたというのに。彼のおかげで精神的に救われた患者も多かったと聞きました。本当に立派な方でした。残念なことです。ただ・・・」
そう言うと、ギルフォードは少し首をかしげた。
「わずか14・5歳の子どもを何故つれて来たのでしょうか。リスクが高すぎると思うのですが」
「実は、わしもそれが気になって、一度その父親に聞いてみたんだよ。何でも自分の後を継がせるために、世界の窮状を実際に見せていたらしい。それはその子のたっての希望でもあったらしいがね」
「それにしても・・・。まあ、あの国はそれまでアフリカでは比較的安定した国だったってこともあるのでしょうけど。ところで、後を継がせるって、何の仕事だったんでしょうか」
「それが、何でも・・・」
山田がそう言いかけた時、ドアをせわしくノックする音がした。
「篠原です。ちょっといいでしょうか?」
「ずいぶんと慌てているねえ。何かあったのかな? どうぞ、入りたまえ」
高柳が許可すると、バタンと戸が開いて由利子が入ってきた。
「高柳先生、アレク、笹川さんが言ってくれました。感染の可能性のある人が、もう一人います。至急手配をお願いします」
そう一気に言った後、由利子は山田に気がついて会釈をし、戸惑ったように高柳を見た。
「あ、あの・・・」
山田は由利子を促していった。
「わしに構わず用件を済ませなさい」
「はい、申し訳ありません」
由利子はもういちど山田に会釈をすると、高柳の近くに小走りで近寄り、小声で言った。
「笹川さんが勤めている会社、ハナマル・クリエイティブ営業部の斉藤孝治です。窪田さんとの関係に気がついていて、笹川さんを脅して無理矢理関係を持ったそうです」
「それはいつ頃のことだって?」
「先週の金曜だそうです」
「旅行前ですか」
話を聞いて、ギルフォードが肩をすくめながら言った。
「それまでにササガワ・カレンが感染していなかったら良いのですが、おそらくサイトウ・コウジ君はクロでしょうね」
高柳は立ち上がってディスクの電話を取った。
「田中君、いるか? 至急隔離の手配を頼む。ハナマル・クリエイティブ営業部の斉藤孝治だ。笹川歌恋からの感染が濃厚なんだ。よろしく。お疲れさん」
高柳は電話を切るとため息をついた。
「これで昨日から発覚した感染者は3人内ひとり死亡、感染可能性者が5人か。しかもこの5人はまだ所在が知れていないと来た。もし、未だ発表を躊躇していたらと考えると、薄ら寒くなるよ」
「今でも充分に背筋に薄ら寒いモノを感じますよ」
ギルフォードは真剣な表情で言った。
「やはり何か隠していたでしょう?」
「しかし、なんで彼女はそんな大事なことを言ってくれなかったのかね」
高柳が腕組みをしながら渋い表情で言った。ギルフォードは、少しだけ右肩をすくめると言った。
「今朝方質問した時は、質問者が男性ばかりで内3人が刑事でした。事情が事情だけに、女性としてはかなり辛くて言いにくいことなんですよ」
ギルフォードはそう弁護したが、由利子の頭には歌恋の言った言葉が離れなかった。
『あんなヤツ死んだって構わない。病気で死んじゃえ』
由利子は違う意味での薄ら寒さを味わっていた。
「さて、ユリコ。紹介します。ヤマダ医院のヤマダ・ショウゾウ先生です。僕の命の恩人ですよ。ヤマダ先生、彼女はシノハラ・ユリコさんです。僕の助手を務めてもらうことになっています」
ギルフォードに紹介され、我に返った由利子は山田に一礼して言った。
「篠原です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
山田も笑みを浮かべて言った。由利子はギルフォードの恩人と聞いて気になったので、迷わず尋ねた。
「ところで、命の恩人というのはどういうことですか?」
「昔、僕がアフリカで風土病に罹った時に、治療して下さったんです。彼が居なかったら、僕はココにこうしていることはなかったでしょう」
「ええ? そうだったんですか」
と言いながら、先週高柳から聞いたことを思い出していた。
(ラッサ熱に罹った事があるってこのことだったんだ。じゃあこの方が居なかったら、私もまたこうしてここにいなかったわけよね)
由利子は運命の不思議さを思って、改めて山田の顔を見た。

 男は心もとない足取りで、しかし、機械的に駅を目指して歩いた。コンコース内に入るとエスカレーターに乗り、喘ぎながら横のベルトに捕まった。彼の前後に乗った人たちが、彼を気にしてちらちらと様子を伺った。女の子が男を指差しながら心配そうに言った。
「ママ、あのおじちゃん、ぐあいがわるそうだよ」
「シッ! 要らないこと言わないの!」
と、母親は急いでたしなめた。
 エスカレーターから降りると、男はまたゆっくりとした歩調で歩き出した。彼は、徐々に息を荒げながらひたすら前に進んだ。
 夕方のラッシュは朝ほどではないが、それでも駅の中は人であふれていた。会社員・公務員、学生や生徒、買い物帰りの主婦、駅員や店員・・・。家路を急ぐ者、これから仕事に向かう者、友人たちと談笑する者、人を待つ者、etc...。誰もが日常の中にいた。誰も、そこに人の形をした災厄が近づいているとは思ってもいなかった。そんな人々の中を、男はゆっくりと歩いていた。
 ふと男は立ち止まり、いきなり咳き込んだ。傍を歩く人が嫌そうな顔をして彼を見た。しかし、特に声をかけようとするものはいない。彼の容姿がいかにもチンピラと言った風情だったからかもしれない。誰だってヤバそうなヤツとは関わりあいたくないものだ。人々は彼から顔を背けて横をすり抜けて行った。その中の一人、会社員らしき青年の眼鏡になにか付着したらしく、彼はそれを手で拭って確認した。手には赤いものがうっすらと付着した。青年は嫌な顔をして、歩きながら眼鏡をハンカチで拭きそのままそれをかけると、足早にその場を離れた。
 男は咳が治まると、軽く口を覆っていた手を外した。その手には赤黒い血がべったりとついていた。男は半笑いを浮かべて黒い背広の裾でそれを拭った。彼の口の周りも血で濡れ、鼻からは夥しい血が流れていた。男は右手で口と鼻を覆い隠し、再び歩き出した。だが彼の向かったのは駅の公衆トイレだった。男は個室に入ると、トイレットペーパーを大量に巻き取り、口の周りと鼻を拭い軽く鼻をかんだ。あっという間に紙は血だらけになった。それを便器に放り込むと水を流した。個室から出ると洗面所で顔を洗いハンカチで濡れた顔を拭った。だが鼻からの出血が止まらず、男はハンカチで鼻と口を押さえながら公衆トイレから出て、再び駅のホームに向かって歩き出した。しかし鼻からの出血が激しすぎたため、血は彼の顔を伝い床に落ち、彼の歩いた後に点々と血の跡を残すことになった。さすがに周囲の人たちが異変に気付き始めた。会社員らしい年配の男が、彼に声をかけた。
「あんた、大丈夫か?」
男は顔を上げ、ゆっくりと彼の方を見た。男と目の合ったその年配の会社員は、ぎょっとした。男は顔色が悪く、しかもあちこち内出血をして青黒い染みになっていた。鼻と口を覆ったハンカチも血まみれで、それだけでも恐ろしい形相なのに、その目は真っ赤に充血し、血の涙が何本もの筋を描いていた。男は立ちすくむ会社員の方に身体ごと向くとゆっくりと言った。
「ダイ、ジョウブ、ですよ。これも、ケイカクドオリ、なんで。おれ、ばくだ、ん、なんで」
男は立ちすくむ会社員を尻目に、またゆっくりと歩き出した。会社員は恐怖に駆られながら、去っていく男の後姿から目が離せなくなっていた。彼は蒼白な顔で、目を見開いて震えながら突っ立っていた。彼の脳裏には昨日の緊急放送で聞いた病気のことが浮かんでいた。男の行く手では、既にあちこちから短い悲鳴が上がり、男の周囲には空間が出来始めていたが、まだ誰も男の症状が何であるか気付いてないのか、平和に慣れて危機管理になれていないのか、動作に緩慢さが見られた。会社員はその様子に違和感を感じながらも叫んだ。
「新型の出血熱だ! みんな、その男から離れろ!!」
彼の警告が発端となって、人々はようやく一斉に男の周囲から離れた。しかし、あろうことか幼児が一人、逃げ遅れて男の前で転んだ。その距離3m弱。男はそれに気付いてか否か、機械的な歩みを続けている。その遥か後方で、数人の女性と談笑しながら歩いていた女性が、それに気付いて悲鳴を上げた。友人との話に夢中になり自分の子どもが彼女の傍から離れたことに気がつかなかったのだ。
「きゃあ、星斗くん! いやっ、逃げてぇ!」
彼女はそう叫びながら子供の方に駆け出したが、ヒールを履いた女性の足では到底間に合いそうになかった。しかし、周囲の人々の中で誰もその子を助けようとする者はいない。星斗はその場に座り込んで火がついたように泣き出したが、男は歩みの方向を変えることはなかった。その時、人垣をかき分けて壮年男性が入ってきた。彼はすばやく星斗を抱きかかえると猛ダッシュして人垣に飛び込んだ。それと男がつんのめって倒れたのがほぼ同時だった。男は床に崩れ落ちると、血を吐きながら苦しんでのたうち回った。件の壮年男性が星斗を抱いたまま叫んだ。
「みんな、もっと後ろに下がれ! 危険だ!」
「星斗君!」
と、幼児の母親が駆け寄ってきた。
「来るな! おれが連れて行く。あんたは近寄るな」
男性はそういうと、母親のほうに足早に歩いて行き、星斗を渡して言った。
「自分の子どもくらい、ちゃんと見とけ」
「すみません、すみません! ありがとうございました。本当にありがとうございました・・・」
母親は子どもを抱きかかえると、泣きながら何度も礼をした。彼女の友人たちも心配して近寄ってきた。
「しばらく抱きしめてやりなさい」
男性はそういうと、再び惨劇の場に走って行った。
 男はしばらく苦しんでいたが、口や鼻から大量の血液を流しながら痙攣し、こと切れた。一瞬の静寂の後、混沌が訪れた。その場から逃げようとするもの、悲鳴を上げて泣き出すもの、携帯電話で警察や救急車を呼ぼうとしている者、逆に不埒にも遺体写真を撮ろうとデジカメや携帯電話を取り出す者・・・。異変を察してやってきた駅員達がなんとか整理しようと頑張っているが、もはや手に負えない状態になっている。
 さっきの壮年男性は、その騒ぎの中で電話をかけていたが、電話を切ると手帳を掲げ、よく通る声で叫んだ。
「警察のものです。みなさん、落ち着いて聞いてください。この場所はしばらく封鎖されます。電車もしばらくは動きません。この男性の傍を通った人や今この周辺にいる人たちは、感染している可能性がありますからここから去らないでください。特にこの男性に触れたり体液がかかったりしてウイルスに曝露された可能性のある方は、申告してください」
警官の言葉が合図になったかのように、自動改札口のマークが一斉に通過不可の×印に変わった。改札前広場は、蜂の巣を突いたように騒然となった。

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1.暴露 (4)血染めの紙~The bloody will

 NBC防護服を着た警官や消防隊が、慌しく駅のエスカレーターを駆け上がっていく。駅は封鎖され、出入り口付近には立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、その前を防護服なしの警官たちが警備している・・・。その周囲に集まって、人々は状況説明を求めたり、時にはくってかかる者もいる。駅の立ち入り禁止区域内外で、駅員達がある者は乗客の対応に追われ、ある者は拡声器で駅にいる人々に呼びかける。

 夜7時のニュースで、さっそくF駅でのただならぬ状況が報じられていた。由利子とジュリアスは、センターのテレビでそれを見ていた。高柳とギルフォードは出来立ての感染者の遺体と、大勢の感染リスク者が運ばれてきたため、それの対処に追われていた。葛西は鑑識と共に遺体の調査に当たった。 

「ジュリー、あなた、こんなとこに居ていいの?」
由利子は、横に座って食い入るようにニュース映像を見ているジュリーに言った。二人はスタッフの邪魔にならないように、待合室でテレビを見ていた。
「ああ、あいつの代わりにおみゃあと会見の様子を見とってくれということだて、ほんであいつや葛西がどうなるかわからんので、いざと言うときはおみゃあを送れっていわれとるんだわ」
「え? 大丈夫だって。一人で帰れるよ」
「おみゃあは狙われとるらしいし、第一、おみゃあの利用している私鉄はあのザマだて、今日中は混乱すると思うわ。それに乗じておみゃあに何かあったらどうする」
「そうかなあ・・・」
「あのな、おみゃあは気付いとらんようだが、おみゃあの存在は、今後切り札になるかも知れんのだて、くれぐれも軽率な行動はとらんようにな」
「脅かさないでよ。もう、困ったことになったなあ」
由利子はテレビ画面を見ながら憮然として言った。
 N鉄道O線は、F駅からの列車の運行を見合わせ、とりあえず発着を次のY駅から行うことにした。N鉄では、そのためF駅からY駅まで無料の臨時バスを出すことになった。しかし、F駅付近とY駅付近には、帰るに帰られない人があふれ、混乱は避けられなかった。しかも、ダイヤの乱れは終日続き、程なく混乱は全路線に広がった。
「今夜の全国発表の先を越されてまったな。今朝の件といい、この惨事といい、日本中の注目を浴びるのは必至だぞ」
ジュリアスはテレビ画面を見ながら、深刻な表情で言った。由利子がそれに続けて言った。
「注目だけならまだいいけど、非難すら浴びかねない状況だよ、これは」
「そうだな。よりによって人混みの中で炸裂したんだでな」
ジュリアスは大きく頷いた。
 ニュース映像は、足止めをされて駅近辺でたむろしている人たちのインタビューに移行していた。
「伝染病患者が駅の中で死んだらしいですね。驚きました」
「昨日、テレビで注意するように呼びかけがあったんですが、まさか、こんなことになるなんて。・・・ええ、もう迷惑ですよ、まったく」
「あ、家はO市です。こっちの二人はY市ですよ。混乱しとるけん、みんなでどこか飲みに行こうかと話しよったところですよ」
「もう泊まる! 今日はネカフェに泊まりますっ!」
「そりゃあ、怖かですよ。致死率100%らしいやないですか。でも、今はどうやって家に帰るかです」
幾人かの町の声を放映した後、画面はスタジオに戻った。
「繰り返します。今日夕方、F市内のN鉄道F駅で感染症患者が死亡したため、駅が封鎖されました。その影響によりN鉄道O線のダイヤが大幅に乱れ、駅周辺に混乱が起きています。この感染症がエボラや天然痘などの一類感染症に匹敵する危険度のため、封鎖に至ったということです。警察では、亡くなられた方の身元確認を急ぐと共に、この男性の行動範囲を調べています。
 なお、この件に関して後ほどF県知事の会見が行われますので、時間を延長してお伝えする予定です。では、次のニュースです。今日午後4時ごろ、K県Y市で歩行中の70歳の男性が歩道を走ってきた自転車に・・・」

「由利子」
ジュリアスが、事件関係のニュースが終わったのを確認して言った。
「森の内さんの会見が終わったら帰ろうかね」
「ええ。でも、ジュリーは日本で運転できるの?」
「国際運転免許を持っとるからね。車はアレックスのを使っていいそうだよ」」
「ありがとう。でも、申し訳ないなあ・・・」
「気にするな。おれはむしろおみゃあと話す機会が出来て嬉しいよ」
「あのさ、ジュリー、送ってくれるのは嬉しいんだけどさ、ちょっと確認したいんだけど、あなたホントに男性しか興味ないのよね?」
「なんと」
「直球で聞くと、ゲイであってバイじゃないのよね」
「ああ、おれはそうだよ。・・・ああ、さっきのあれを気にしとるのかね」
「あのね、『さっきのあれ』で済まさないでくれる?」
由利子は眉間に皺を寄せながら言った。
「二人きりの時にあんなことされたんじゃたまらないわ」
 実は、ジュンとジュリアスのJJチームが帰ってから、ひと悶着あったのである。

 山田医師が去った後、ギルフォードたちはセンター長室に残って、これからの対策について話し合っていた。由利子はしばらくそれに付きあっていたが、話が専門的になるにつれ訳がわからなくなったので、退席を申し出た。許可されたので、自販機でコーヒーでも飲もうとセンター長室から出ると、そこに昆虫採取から帰って来た葛西とジュリアスが現れた。高柳に報告に来たらしい。
「オー、由利子! そこに居たのかね♪」
ジュリアスは由利子の姿を認めると、嬉しそうに走って近寄り、がっつりと抱き寄せいきなりキスをしようとした。
「何すんだっ!!」
由利子の怒号と共に、ジュリアスの身体が宙に舞った。ジュリアスは予想外のことに驚いた表情をしていたが、床に叩き付けられるまえに、ひらりと着地して言った。
「ほぉ~、由利子、強かったんだね」
「ジュジュジュジュリー!」
葛西が由利子以上に狼狽してジュリアスに詰め寄った。
「な、な、なんてことすんだよ」
「西洋式挨拶だなも」
「いっ、いくら西洋式っても、恋人でもないのに、いきっ、いきなり口にキスはないだろうがっ!」
「え~じゃにゃあか。フレンチキスみたいなディープなのはやらにゃあて」
「そんなもんされてたまるか~! こんどやったら、強制わいせつの現行犯でしょっぴくからなっ!」
「無茶言わんでちょーよ」
「無理矢理キスってだけで、充分強制わいせつだっ。てめっ、刑事の前で良い度胸だな!!」
珍しくすごい剣幕の葛西に由利子の方が驚いて、葛西をなだめる方にまわった。
「葛西君、落ち着いて。大丈夫、未遂だったし」
「遂行されちゃたまりませんよっ」
よく見ると、涙目であった。その時、センター長室のドアが開いて、ギルフォードと高柳の二人が様子を見に出てきた。
「騒々しいな。なにをやっとるんだ、君たちは」
高柳が由利子たちの様子を見て呆れ気味に言った。ギルフォードは何が起こったかすぐに判断したらしい。ジュリアスの方を見て、ため息混じりに言った。
「ジュリー、またやりましたね。ここは日本だから気をつけろと言ってるでしょ」
「あんたが言うな~!」
人ごとのように言うギルフォードに、由利子が速攻でツッコんだ。高柳は、片眉を上げた後収拾をつけるように言った。
「これからセンター内での『西洋式挨拶』は禁止だ。いいね。さて、葛西君、キング先生、どうぞ。今日の報告を聞こう」
「高柳先生、気を遣わないでおれも『君』付けで読んでください」
ジュリアスは高柳にそういうと、肩をすくめた。
「どうも、居心地悪くって」
「わかったよ、キング君。まあ、とにかくみんな入りたまえ。篠原さんも今ので気分転換になっただろう」
そういうと、高柳は右手の親指で室内を指したあと、部屋に入っていった。
 部屋に入ると、四人を応接セットに座らせた。由利子葛西ジュリアスと長椅子に座り、高柳とギルフォードが前に座った。
「結局、今日の収穫は置き土産と足二本だけということだね」
葛西の報告を受けて高柳が言った。葛西は少し悔しそうな顔をして答えた。
「ええ、申し訳ありませんが」
「それにしても、罠ごと飛んで逃げようとするとは豪快だな」
「ゴーカイで済まさないでクダサイ。僕はゾッとしましたよ」
ギルフォードが両手を組んで二の腕を掴み、「寒っ」というポーズをしながら言った。高柳が苦笑した。
「まあ、君はね。しかし、足だけでも病原体の所在やDNAの検査は充分に出来るからね」
その時、高柳の携帯電話がけたたましく鳴った。
「ホットラインだ。 何かあったらしい」
そう言いながら、高柳が急いで電話に出た。
「高柳です。・・・なんですって、駅で!?」
珍しく高柳が驚愕した声を出した。緊張して高柳を見る四人。
「・・・はい。・・・はい。わかりました。すぐに対処します」
高柳はそう言いつつ電話を切ると、厳しい表情で皆の顔を見て言った。
「諸君、大変な事が起こった。N鉄道のF駅で、発症者が人ごみの中『炸裂』して死んだらしい」
「ええっ!?」
四人は驚いて顔を見合わせた。
 その後、センター内は勢い嵐のように慌ただしくなり、高柳とギルフォードは感染者の対処に、葛西は遺体の確認と検分に向かったのである。

「今度やったら殴るからね」
由利子は椅子から立ち上がると、両手を腰に当てやや前かがみになってジュリアスに向かうと言った。ジュリアスは肩をすくめながら言った。
「殴るも何も、さっきは投げ飛ばしたじゃにゃあかね。意外と強いんでびっくりしてまったよ」
「痴漢対策に美葉から教わった護身術で、馬鹿の一つ覚えよ。不意打ちにしか使えないから実戦向きではないわね。美葉曰く、投げ飛ばしたら後も見ないでスタコラさっさと走って逃げるべしってね」
「なるほど。 なかなか賢明な指導だがね」
「それにしても」
由利子が失笑気味に言った。
「あなた達ってまさに割れ鍋に綴じ蓋だわね。抱きつき魔とキス魔のゲイカップルだなんて!」
「身も蓋もにゃあ言い方しにゃーでちょーよ」
ジュリアスが、苦笑しながら言った。
「でもよお、おみゃあとならなんとかなりそうな気もするんだわ」
「って、ぺったんこだからかい!」
同時にぼかっという音がした。
「殴るよ!」
「た~けっ、殴ってからゆ~な! しかも、グーで殴っただろ」
ジュリアスが頭を押さえながら言った。その仕草が妙に可愛かったので、由利子はつい吹き出して言った。
「ぷはっ、あはは、普段なら手が届きにくいけど、あなたが座ってたからつい手が出ちゃった。ごめんね」
「ったくもお、けっこう痛かったがね。まあ、それだけおみゃあがおれとうち解けてくれたってことだから、嬉しいけどよ」
「それは喜ばしいお話ですけれど、そろそろ始まりますわよ」
いきなり後ろで声がしたので、二人は驚いて飛び上がった。振り返ると紗弥が立っていた。
「紗弥!」
「なんだ、紗弥さんか~。脅かさないでよ」
「相変わらず忍者みたいなヤツだて」
「お二人がここにいるとお伺いして来ましたの」
紗弥は由利子の隣に座りながら言った。

 ニュースは延長され、会見の場に移っていた。会見の場では、知事をはじめ県の保健担当や警察関連の責任者が並び、一同が深々とお詫びの礼をした。公式発表の遅れを詫びてのことだった。由利子が感心するように行った。
「さすがに全国向けだけあって昨日より会見の人が多いね」
「そうですわね」
「おれたちはラジオで聞いたんでそこらへんはピンと来にゃあけどな。今もほとんど知事がしゃべくっとるし」
「各セクションの説明が必要ですから、あの人数は当然ですわ」
「あ、高柳先生の代理で三原先生が出てる。あの人主任医師だって。知っている人が出ているとなんかワクワクするねえ」
「始まりましたわよ。どうやら夕方の事件の説明からあるようですわね」
「おっと、見なくっちゃ」
三人は画面に向かった。
「まず、今日の夕方起きた駅での感染症発症者死亡について、F県警察本部長から説明があります」
森の内F県知事に指名された石川は、立ち上がるとゆっくりとした口調で説明を始めた。
「F県警本部長の石川です。
 今日夕方6時頃、N鉄道F駅の改札前で男性が倒れ、数分後に死亡しました。通報を受けた警察は、男性が危険な感染症に罹っていた可能性があるため、市民の安全を図るために現地に警官を多数投入し、特に遺体の検分や処理を担当する警官には防護服を着用させました。駅は封鎖され、電車は現在のところ次のY駅から発着しています。男性の遺体は、同じく防護服着用の救急隊員に専用の病院に搬送され、男性の近くにいた方々や、男性と接触した可能性のある方々を感染リスク群として同病院に収容いたしました。亡くなった男性については、身元の確認を急いでおります。なお、収容された方々のご家族には追ってご連絡いたしますが、個人情報を守るために、ここでの発表は控えさせていただきます」
石川は、説明を終えると一礼して席に着いた。その後、森の内が立ち上がり、詳しい経緯を話し始めた。
「最初に簡単に説明いたしましたが、現在F県下で新型の感染症が発生していることが判明いたしました。検討した結果、看過することの出来ない危険な感染症と言うことが判明し、昨日F県及び周辺地域に警告いたしました。本日、このような全国発表を予定しておりましたが、そのまえにこのような深刻な事件が発生してしまいました。後手に回ってしまったことを、改めてお詫び申し上げます」
森の内はそういうと、一同と共に深々と頭を下げた。
「それでは、今から詳しい経緯を説明に入ります。まず、昨日の緊急放送をまとめたものをご覧ください」
森の内が言うと、画面がVTRに切り替わった。

 ギルフォードは、感染リスク者への対応を高柳たちに任せ、解剖室に向かった。解剖室内はスペース上の問題から入る人数に制限があり、また防護服無しでは入られないので、隔離病室と同じように室外から窓を通して観察出来るようになっていた。それで、ギルフォードも防護服は着けずに、外で見学することにした。いつ高柳に呼び出されるかわからないので、フットワークの軽さをキープするためである。解剖室の前まで行くと、葛西と何故か長沼間が窓の前にスタンバッていた。
「長沼間さん、いつの間にここに?」
ギルフォードが驚いて尋ねると、長沼間は何となくバツの悪そうな表情を一瞬浮かべた。しかし、すぐにそれは消え、いつもの強面に戻って答えた。
「ちょっとここに来る用事があってな。だがまあ、ちょうど良かったよ」
「ホント、驚きましたよ。だって長沼間さん、僕より先にここに立ってるんだから」
葛西も、すこし不審そうな目をしながら長沼間を見て言った。ギルフォードは葛西の隣に立つと、遺体の方に眼をやった。
「まだ、外見の検査をしているみたいですね」
「ええ」葛西が答えた。「隣の部屋では、鑑識が衣類や持ち物などの検分をしています」
「しかし、病気でやつれてしまってますが、元来はわりと逞しくて良い身体をしていたようですね」
ギルフォードが遺体の感想を述べると、長沼間が苦笑いをしながら言った。
「おいおい、趣味に走らないでくれよ。みんながドン引きするだろ?」
「すみません、って、いや、その、そんなエッチな気持ちで言ったんじゃありませんよ。体格から職業を推理しようとしただけです」
「確かに、いかにも労働者って言う感じですね」
と、葛西が相槌を打った。長沼間が腕を組みながら唸って言った。
「しかし、俺は新型感染症患者の遺体を写真以外では初めて見るが、ひでえもんだな」
「ええ・・・」
ギルフォードが表情を曇らせながら言った。その時、解剖室に続く隣の部屋のドアが開き、鑑識の警官が何か血に染まった紙を持って入って来た。
「葛西刑事、遺体の着ていたズボンのポケットからこんなものが出てきました」
警官は、窓の前に駆け込むと、手にした紙を広げて窓に近づけ葛西たちに見せた。それはA4くらいの用紙で四つに折りたたんだ跡があった。
「何でしょうか? 何か、図形と文字が書いてあるようですけど」
葛西はそれを見て首をかしげながら、ギルフォードの方を見た。ギルフォードもその紙を怪訝そうにじっと見ながら言った。
「かなり血で汚れていますからねえ。文字の方は判読が難しそうですね。詩の様ですが。図の方は何でしょう。上にかなり足の長い十字と、その先に、二つの三角形が縦に重ねて書いてあるみたいですけれど・・・」
「なんかのシンボルじゃねえか?」
長沼間が言うと、葛西がはっとした。
「って、まさかテロ組織の・・・!?」
それを受けて、ギルフォードがもう一度その紙を凝視して言った。
「テロ組織のシンボル? それだったら、これはメッセージと言うことになりますね。というか、テロリスト本人が、ウイルス爆弾として自爆したということになります!」
それを聞いて、葛西が言った。
「そういえば、この男が倒れる直前に話した男性の証言で、この男が自分を爆弾と言ったとか・・・」
「これは・・・」
「そうですね。由利ちゃんを呼んだ方が良いかもしれない」
「今から行ってつれて来ます」
ギルフォードはそう言うや否や、その場を駆け出していた。

「VTRだって。手抜きっぽいなあ」
由利子がぼそりとつぶやいた。それを聞いた紗弥が言った。
「また同じことを繰り返すより、昨日のVTRを流す方が時間短縮にもなりますし合理的ですわ。わかりやすく編集してありますし」
「まあ、たしかにそうだけどね」
「それにしても」
ジュリアスが厳しい表情で画面を見つめながら言った。
「まるで森の内さんの判断で発表が遅れたようになっとるのが気に食わにゃあな。アレックスの話じゃあ国が早い時期の告知を止めたらしいで、森の内さんが孤軍奮闘してようやくきんのう(昨日)の緊急放送ににこぎつけたということじゃにゃあか」
「え? どういうこと」
由利子が驚いて聞き返した。県議会での反発は知っていたが、国自体が渋ったとは・・・。
「そりゃあ、僻地とは言うても・・・」
「僻地で悪かったわね」
「おっと、すまにゃあな。・・・首都圏からかなり離れとるとはいえ、それなりの大きい都市でウイルス騒ぎがありゃあ、その影響による経済の損失はどえりゃあものになるだろ。それと、ついこの間までの人的被害を天秤にかけりゃあ、告知をためらうのは仕方にゃーだろうて」
「そうですわね。それで、もしアウトブレイクした場合は九州を閉鎖すると・・・」
紗弥が言いかけると、ジュリアスが遮るように言った。
「いや、政治屋連中がどう考えとるかは知らにゃーが、アウトブレイクした時はもう日本どころか世界中に火の粉が散らばってしまっとるよ。江戸時代じゃにゃーからな。約百年前の交通網でさえ、スペイン風邪がパンデミックを起こしとるのだで」
「じゃあじゃあひょっとして」
由利子が言った。
「敵の目的が要求を通すためではなくて、単にウイルスを広げるためだとしたら、そういうシナリオで意図的にウイルス散布にこんな僻地を選んだ可能性があるんじゃない」
「僻地を根に持たんでちょーよ」
ジュリアスが苦笑いをしながら続けた。
「おれは、アレックスの推測どおり、数箇所ウイルスを撒いて、たまたまここで成功したのだと思うがね。そもそもウイルスを広げることが目的だとしたら、テロリストの狙いは一体何だって言うのかね?」
「そりゃあ、わからないけどさあ。今のところアレクに送って来た、スパムを装った挑戦状だけで、公には要求もなんらかの意思表示もしてこないんでしょ。だったら単なるばら撒きの可能性だって考慮すべきだよ」
「意思表示なら、ありましたよ」
後ろで今度は聞き覚えのある男の声がした。由利子とジュリアスが驚いて振り返ると、ギルフォードが立っていた。その横には、先にギルフォードに気がついた紗弥が控えていた。
「今度はアレクかい!」
「教授と秘書が、似たような登場をしないでちょおよ」
由利子とジュリアスが口々に言った。
「驚かせてスミマセン」
「仕事は終わったのかね、アレックス?」
「いえ、まだ途中ですが、ユリコを迎えに来ました」
「私を迎えに来た?」由利子が怪訝そうに尋ねた。「それに、意思表示があったってどういうこと?」
「はい。夕方死んだ男のズボンのポケットから出てきた紙に、何か文字とシンボルらしい絵柄が書いてあったんです。紙は血まみれで、シンボルや文字も書きなぐったようなものだったので、判別は難しそうですが」
「どんなものだったか、私にも見ることが出来ますか?」
由利子が興味津々といった風情で聞いた。
「そのことで、君を迎えにきたんですよ」
ギルフォードは、なんとなく気の毒そうな表情で由利子を見ながら言った。由利子は嫌な予感を覚えながら聞いた。
「え? それで、私はどこへ行くの?」
「もちろん、解剖室ですよ」
「やっぱり・・・」
由利子はそう言いながら血の気が引くのがわかった。
「大丈夫、遺体の解剖はまだです。君には遺体の顔を確認して欲しいのです」
「ということは・・・!」
「ええ、死んだ男が敵の仲間である可能性が高いのです」
「わかりました。行きます!」
由利子は即決して言った。 

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1.暴露 (5)シンボル

 放送はこれまでの経緯を説明するVTRが終わり、その後の経過、すなわち、今日1日の経緯の報告に移っていた。由利子はギルフォードが連れていってしまったので、紗弥とジュリアスが待合室に残っていた。
「なんとなく、とんびに油揚げをさらわれた気分でかんわ」
ジュリアスが少し不機嫌そうに言った。紗弥がテレビ画面を見ながら答えた。
「由利子さんの証言で、夕方の死者が、もしテロリスト側の人間だとわかったら、極めて重要なカギになりますわ。死人とはいえ、初めて表に現れた実行犯になりますから」
「だがね、テロと言うことがはっきりしたら、また対応が変わってくるだろ。無用の混乱を招かなければええけどよ」
「おそらく、もう少し決定的な証拠が挙がらなければ、そうはならないと思いますわ。死人からは、なにも聞き出すことが出来ませんもの」
「それはそれで、もどかしいことだて」
ジュリアスは、そういうと足を組みなおして、再びニュースを見るのに専念した。

「・・・放送後、身元不明遺体の知り合いと言う女性から連絡があり、遺体の身元は判明しました。連絡をされた女性は既に感染発症しており、現在感対センターで治療を受けております。遺体はD市在住の森田健二さんという大学生です。6月6日から6月12日までの間に彼と接触した覚えのある方は、最寄の保健所か、感染症対策センターまでご連絡ください。現在3名の濃厚接触者が判明しており、保護を急いでいます。それからもう一件。今朝のことですが、感染者らしい男性が、自動車事故で亡くなりました。男性の知人から、彼が森田さんと接触したことがわかっています。今朝9時前にF市H区G町の国道で起きた対人自動車事故に間近で遭遇された方は、最寄の保健所か感染対策センターまでご連絡ください。感染症対策センターの電話番号は・・・.」
森の内は、淡々と説明を続けた。

 一方由利子は、ギルフォードに連れられて解剖室の窓の前まで来ていた。そこには葛西と長沼間の他にもう一人見知らぬ男性が立っていた。年の頃50代半ば、身長170cmくらいで体型はやや中年太りのがっしり型である。彼はギルフォードを鋭い眼で一瞥した。ギルフォードは、なんとなく嫌な感じがして怪訝そうにつぶやいた。
”誰だ、ありゃあ? さっきまで居なかったヤツだが”
「アレク、いえ、ギルフォード先生、篠原さん」
ギルフォードたちが近づくと、葛西がにこっと笑って二人を呼んだ。ギルフォードと由利子は、見知らぬ男に向かって軽く会釈をし、ギルフォードが葛西に向かって言った。
「えっと、この方は?」
「警視庁から対策本部に出向して来た、九木(ここのぎ)警部補です」
葛西が紹介した。
「警視庁から? 警察庁じゃなく?」
ギルフォードが尚も怪訝そうに聞いた。それに対して、九木が答えた。
「万一首都圏にまでウイルスが侵入してきた場合に、しかるべく対処出来る様にと、私が派遣されました。警視庁刑事部、捜査共助課から派遣されました、九木章一です」
「アレクサンダー・ギルフォードです。Q大で教授をしていますが、今回バイオテロ対策本部全般の顧問を申し付かりました」
ギルフォードはにこやかな笑顔で自己紹介をした。
「はじめまして、教授。いろいろお世話になると思いますが、よろしく」
「こちらこそです、ココノギさん。お会いできて光栄です」
ギルフォードが笑顔でそう言いつつ、右手を差し出した。しかし、九木はその手を取らずに言った。
「失礼。握手の習慣がないもので」
ギルフォードは肩をすくめて手を引っ込めつつ、由利子を紹介した。
「それから彼女は、私の助手のシノハラ・ユリコです」
「ほお、あなたが」
九木は由利子を見ると感心したように頷いて言った。
「犯人の顔を見たという女性ですか」
(なんでこの人まで知っとぉと~。松樹さんのうそつき) 
由利子は心の中で叫びながらも
「え? ええ、まあ、そんな感じです。」
と、ややぎこちない笑顔で答え、初対面の挨拶をした。
「はじめまして。篠原です」
「警察としては、民間の方に危険な役目を負わせることは避けたいのですが、非常事態ということで、ご協力いただき感謝いたします」
九木が丁寧な口調で言ったので、由利子は恐縮して言った。
「いえ、これも何かの因果だと思うので」
「縁じゃなくて因果ですか」
九木はそういうと苦笑いをした。葛西がその合間に口を挟んだ。
「警部補は、たまたまF駅での事件に遭遇して、その場で指揮をしたんですよ。それで、そのままこちらに来たのだそうです」
「F駅に?」
ギルフォードが訝しげに言った。
「東京からは、いつ来られたんです?」
「今日です」
「なのに、何故わざわざF駅に居たんです?」
「今日は移動日だったんだが早めに着いたのでね、まず、現場を見ようと思って、発端になったK市の公園や河川敷を見てきたんですよ。それで、N鉄道を利用したんです。その帰り道、F駅に着いたら改札前が騒がしいので、何かがあったのだと思い急いで行ってみたんです」
「そしたら、そこで感染者が死に掛かっていたと?」
「そうです」
「なるほど」
ギルフォードは肩をすくめて言った。
「何か問題が?」
「いえいえ、的確な対応、感謝します」
ギルフォードは一際にっこりと笑いながら言った。そこで今まで黙っていた長沼間が、とうとうしびれを切らせて言った。
「おい、いい加減、篠原さんに遺体の確認をしてもらえんかな」
「あ、申し訳アリマセン」
「すまんね、長沼間警部補、葛西刑事。急いで面通しさせてくれ」
「じゃあ、篠原さん」
葛西はようやく話が落ち着いたので、ほっとして由利子を呼んだ。
「そのまま窓に近づいてください。男性が解剖台の上に寝かされてますね。彼の顔は見たことがありますか?」
由利子は言われるままに窓に近づいて、遺体を見た。血の気がなく青白い男の身体には、あちこち赤黒い、あるいは青黒い染みが出来ていた。由利子は無意識のうちに、両手で口のあたりを覆っていた。
 由利子は、ゆっくりと男の顔に目をやり顔を確認すると、「あっ」と小さい声を上げ、よろけて一歩後退った。
「由利・・いえ、篠原さん、どうしたんですか?」
葛西が驚いて駆け寄った。由利子は倒れる寸前で踏みとどまったが、真っ青な顔をして葛西を見た。目の奥に恐怖がありありと感じられた。
「葛西君、この人、あなたも知ってる人よ。私からバッグをひったくろうとした男だよ。ひどい。きっと失敗したから・・・」
「では、CD-Rの奪取に失敗したコトの制裁で、彼はウイルス爆弾にされて殺されたということですか?」
ギルフォードが念を押して聞いた。
「おそらくそうです。偶然にしては出来すぎています」
「こいつがあの時のチンピラ・・・?」
葛西は驚いて遺体の顔を見た。
「言われてみれば見たような顔ですが、ずいぶん痩せて人相も変わっています。よくこれでわかりましたね。僕も職業柄、顔は覚える方ですが、これじゃ無理ですよ」
葛西は感心して言った。
「でも、間違いないわ。この男よ、私は間近で見たもの」
「この遺体がテロ実行犯である可能性が高まりましたな」
横で話を聞いていた九木が言った。由利子は自分に関わった引ったくり犯人の酷い末路に少なからずショックを受けたらしく、ようやく立っている状態だった。
「ユリコ、とりあえずこれに座ってください。すごい顔色をしていますよ」
ギルフォードが、折りたたみ椅子を持ってきて由利子に勧めた。由利子は「ありがとう」と言うと、倒れこむように椅子に座った。しかし座るや否や、あっと叫んでまた立ち上がりながら言った。
「ひったくり犯は二人いました! ひょっとしたらもう一人もどこかで・・・!」
「可能性はありますね」ギルフォードが腕組みをしながら言った。「かといって、どう対処したものか・・・」
「パトロールや検問、職質を強化するしかないだろうね」
九木が横から言った。葛西はうなりながら答えた。
「ん~、そうですね。まさか戒厳令を布(し)く訳には行きませんし・・・」
「とにかくユリコ座ってください。・・・ところで、ジュン」
ギルフォードがもうひとつの気がかりについて尋ねた。
遺体の衣類のポケットから出てきた例の紙は、どうなってます?」
「今、調べてる最中ですが」
「ちょっと持って来てもらうわけにはいきませんか?」
「聞いてみましょう」
葛西は、インターフォンで隣室に呼びかけた。
「あの、さっきの紙、ちょっと見せてもらえませんか?」
「了解。少々お待ちください」
数分後、隣室から若い警官が赤い紙をもって出てきた。外部の人間によく見えるように、ガラス窓にギリギリ近づけて見せた。5人は、良く見ようと張り付くようにガラス窓に向かった。一瞥してギルフォードが言った。
「だいぶ文が読めるようになりましたね」
「汚れと文字や図形が同じ系統の色なので、苦労しました。まだ読みにくい箇所もありますけど」
「これだけ読めれば上等ですよ。さすが日本の鑑識は優秀ですね」
ギルフォードはしっかりと褒めるのを忘れなかった。青年は照れくさそうにして笑った。そこでギルフォードは、さらに質問をした。
「これはこの遺体の人が書いたものに間違いないですか?」
「指紋は彼のもの以外検出されませんでした。自分の意思で書いたものか、書かされたものかはわかりませんが、かなり高い確率で彼の書いたものと思われます」
「なるほど、そうですか。ありがとう。参考になりました」
ギルフォードは、もう一度最強の笑顔でお礼を言った。

Seimei_s  5人は、血に染まった紙を囲んで一様に悩んでいた。
「これは、すごいことになっていますな。出血の凄まじさがよくわかりますよ」
と、九木が言った。流石に若干眉をひそめている。
「しかし、ひどい絵ですね」ギルフォードが言った。「子どもでももう少しマシな絵を描きますよ」
「病状が進んでいたせいかもしれませんが、字も汚いですね」
葛西が言うと、次に由利子が絵について指摘した。 
「長い十字架が何かオブジェに刺さっているような・・・。それにしても、妙に足の長い十字架よね。これ、わざとかな?」
「十字架にも見えますが、剣にも見えませんか?」
「なるほど、ジュン、良い指摘です。意味深ですね」
「アレク、何かわかったの?」
ギルフォードは、自身も意味深な笑みを浮かべて言った。
「まあ、とりあえず急いで文章の方を判読しましょう」
紙の汚染がひどく、数箇所字の判読が不可能或いは困難になっていた。
「僕が読んでみます。と言っても、最初の文字がほとんど見えてないなあ。『・・・ハ夜ノ子二三テ・・・』、あれ? 変だな」
「馬鹿ね。『にじゅうさんて』って何よ」
「四十八手なら知ってますケド」
「うるさい」
「どうもスミマセン」
よせばいいのについ口を挟んで由利子に一喝され、ギルフォードはすごすごと引っ込んだ。由利子は葛西に向かって言った。
「そこは『夜の子にして』でしょ?」
「あ、そっか。え~と、何とかハ夜ノ子ニシテ、・・・ああ、また漢字のところが読めないっ」
「構わずちゃっちゃと読む」
「はいっ。・・・っと、・・・リノ兄弟。リノ?」
「『夜の子にしてリノ兄弟』って、新人演歌デュオじゃないんだから」
「演歌デュオ・・・」
葛西は繰り返すと、何かがツボにはまったらしい。くくっと笑ってしまい、慌てて口を押さえた。
「ユリコ、あまりジュンをからかわないでクダサイ」
「冗談言ったつもりはないわよっ。ああっ、もうっ! ホントにうるさいっ」
由利子が頭を抱えて言った。

 さて、こちらは紗弥とジュリアスのいる待合室。
 放送は、保健所と病院からの注意事項を終えて、終盤に向かっていた。ことさら感染の恐怖を煽らないためにも、感染リスクについては特に説明が重視された。空気感染はせず、患者の体液に触れない限り感染しないこと。特に咳やくしゃみなどの飛沫からの感染はほとんどゼロだということが繰り返し説明された。当然、いまだ証拠らしい証拠の出てこないテロ関係については、公表を伏せられていた。
 ジュリアスが腕組みをしたまま脚を組み替えながら言った。
「う~~~ん。あまりくどく言うと、逆に怪しいと疑われてしまうがね」
「政府が常に嘘をつくと思っている人もいますものね」
「特にネットの世界ではな。まあ、今までもそういう怪しいことが全くなかったかというと、そうでもにゃーことが余計話をややこしくするんだわ.。・・・しかし、何をしとるのかね、由利子は」
「ええ、遅いですわね。何かもめているのでしょうか」
「もうすぐ、放送が終わってしまうぞ」
ジュリアスは、腕時計を見ながら言った。
「あ、ジュリー、見て。ウイルスの名称が決まったみたいですわよ」
「何だって? そんなことは聞いていにゃあがね」
二人は再度テレビに向かった。そこでは県の保健衛生課の職員が説明を始めていた。
「・・・名称についてですが、ウイルスがまだ発見されていないこともあって、今までは新型感染症と呼称しておりましたが、インフルエンザと混乱する可能性を考慮して、当面仮称で呼ぶこととなりました。一般的に、ウイルス名は発生地に因んで命名されますが、その地区に後々悪いイメージを残すことを考慮し、それは回避しました。それで、最初に患者が発見されたK市の祭木公園に因んで、『サイキ・ウイルス』と仮称することに決定いたしました」
「へえ、サイキ・ウイルスねぇ」
ジュリアスが言った。
「psyche・・・とでも書くのかね。なかなかスピリチュアルな名称だなも」
「いっそサイコ(psycho)・ウイルスにすればよろしかったのですわ」
紗弥が、そこはかとなく不機嫌に言った。

 頭を寄せて、あーだこうだと言う3人に判読を任せて、九木と長沼間は、途中から少し離れて彼らを見ていた。九木が小声で言った。
「彼ら、傍から見ていると実に面白いですな」
「下手なお笑いより面白いのは確かですよ」
長沼間が同意した。
「まあ、ボケが二人だとツッコミも大変でしょうがね」
「しかし、あのギルフォードという男、とぼけたように見えて、なかなか食わせ者のようですな」
九木の評価に内心驚きながら、長沼間はそれをおくびにも出さずに言った。
「確かに一筋縄ではいかないところもありますがね」
「長沼間さんは、彼とはかなり親しいのですか」
「どういう意味で親しいと?」
「ごく普通の意味ですよ」
「ごく普通には親しいですがね。九木さん、あんた彼のことは、どれくらいご存知で?」
「調書くらいは読みましたよ。少々変わった趣味をお持ちのようですが」
「それは、彼の実績には関係ないことだ。そうでしょう?」
「ま、そうですがね」
そう言いながら、九木は3人の方を見た。

「普通考えたら、この『リ』の字は漢字の送りがなでしょーが」
由利子がもどかしげに言った。
「・・・あ、そうですよね」
ギルフォードも付け加えて言った。
「ついでに言うと、声明文であるならば、最初の文字は一人称の『私』ですよ」
「少し違うな」我慢できなかったのか、九木が参戦した。「おそらく字形からして『我(われ)』だろう。意味は同じだが」
「なるほど、そうですね」
ギルフォードが納得して言った。
「ではジュン、続けて読んでください」
「はい。読みます。『我は夜の子にして、・・・りの兄弟』」
「予想通りですね。ジュン、『り』の前に来る漢字は睡眠の眠ですよ。『眠り』です」
「へえ、よくわかったわね」
「ギリシャ神話をかじっていれば、常識とも言えることなんですが」
「よくわからないけど、通して読んでみます。『我ハ夜ノ子ニシテ、眠リノ兄弟』」
九木が感心したように言った。
「ほお、なるほどね。ニュクスの子か」
「サスガですココノギさん、即答でした」
「まあ、あとは君の種明かしまで黙っておきましょう。葛西刑事、続きをどうぞ」
「はい、続けます。母ナル大地ニ代ワリ、人類をEXする・・・? ??? なんでしょう、EXって」
「これは、Sの字を書きわすれた・・・」
「オヤジギャグはいいから、話を進めろ」
由利子が怖い顔をしてギルフォードに言った。さっきから黙って紙を持ったまま立っている警官も言った。
「私からもお願いします。いい加減持ち場に戻らないと、上官から怒られます」
「ハイ、スミマセン・・・」
ギルフォードは素直に謝ると、説明を続けた。
「このEXは、おそらく extermination あるいは extinction の略字で絶滅と言う意味です。例えばレッドデータブックでは、絶滅動物にEXと記されています」
「絶滅たぁ、こりゃまた穏やかじゃないな」
長沼間が若干皮肉っぽい口調で言った。ギルフォードが頷いて答えた。
「ええ、敵の意図がわかってきました」
「判読をし終えたようなので、続けて読んでみます」
葛西はそう言うと、軽く咳払いをして続けた。
「『我は夜の子にして眠りの兄弟 母なる大地に代わり人類を絶滅する』」
「ジュン、良く出来ました。この文面からして、敵の目的は、病原体を撒くことで脅して要求を通すことではなくて、病原体をばら撒くことそのもののようですね」
「ああ、そのようだが」長沼間は眉間に深い皺を寄せつつ言った。「俺はこのタイミングでこれが出てきたことが気に食わねえ」
「そうですね。まるで昨日の知事の挑発にわざと乗ってきたみたいで・・・」
「面白がっているということか」
「そういうことですよ、ココノギさん」
そこで由利子が思い出して言った。
「そういえば、最初アレクに送って来た挑戦状、あれも縦読みのトリックが使われていましたよね」
「ええ。タチがワルイです」
「私は国家への挑戦と受け取りました。心してかからねばなりませんな」
と、九木が厳しい表情で言った。
「それでアレク、そろそろ説明してくれてもいいんじゃない?」
「OK、ユリコ。実は、ユリコが預かったCD-Rの中に仕込まれていたシステム・クラッシャーのフォルダ名から、ある程度予想していたのですが・・・」
ギルフォードが滅多に拝めない真剣な表情で説明を始めた。
「覚えていますか、ユリコ」
「はい。忘れもしません。”thanatos(タナトス)”です」
「さて、タナトスですが、ギリシャ神話では死の神であり、夜の女神ニュクスの子で眠りの神ヒュプノスの兄弟です」
「あ、この声明文と同じ!」
由利子と葛西が声をそろえて言い、二人は一瞬照れくさそうな顔をした。ギルフォードは、それを見てクスリと笑うと続けた。
「そうです。それから後半の『母なる大地』ですが、タナトスの母は今言ったようにニュクスです。しかし、大地の神ガイアは神々の多くと、それから人間もその血を引いていると考えられました。いわゆる地母神です。
 僕は、このタナトスと言う名前が、システム・クラッシャーに付けられた単なる名称なのか、テロ組織の名称に関わるものなのか判断がつきませんでした。多分警察の方でもそうだと思います。しかし、これで、少なくともテロ組織にタナトスという名称が関わっていることがわかりました」
「あなた、葛西君があの絵を剣みたいと言った時、意味深って言ったけど、それはどうして?」
「タナトスの象徴は、剣と砂時計なんですよ」
「じゃあ、このへんちくりんな三角形の図形は、砂時計ってこと?」
「おそらくそうでしょうね。こういう形をした砂時計もありますし。まあ、ジュンが剣に見えると言わなければ、わかりませんでしたけどね」
「けっ、やっぱり気に食わねえ!」
長沼間が言った。
「実行している連中はともかく、これの首謀者は、ゲーム感覚でやっているようにしか思えん!」
「間違いなくそうでしょうね。何故なのかはわかりませんけど」
「俺はそんな連中の気持ちなんかわかりたくもねえよ!」
長沼間は吐き捨てるように言った。
「だいたいの情報は得たし、これ以上あの胸糞悪い死体の近くに居たくないのでね、俺は帰らせてもらうぜ。じゃあな」
長沼間はそういうと、すぐにきびすを返し、一度も振り返らずにさっさと帰って行った。九木がそれを見て言った。
「冷めているように見えて、けっこう熱血なんだな」
「そこが彼の良い所ですよ」
ギルフォードはそこでニッと笑うと続けた。
「それに、何故か小さくてお洒落な黒いペーパーバッグを持ってましたね。中身は何でしょうねぇ」
「あのぉ・・・」と、鑑識の青年が言いにくそうに言った。「この紙はもういいですよね。私も持ち場に戻っていいでしょうか」
ギルフォードは、にっこりと笑いながら言った。
「ありがとうございます。オツカレサマでした」
「私も判読する手間が省けました。感謝します」
「あなたの処置が良かったからですよ」
「ありがとうございます!! では、失礼いたします!」
ギルフォードに褒められて、警官は嬉しそうに敬礼をして持ち場に戻って行った。

「サイキ・ウイルスか」
翔悟がクスクス笑って言った。
「なかなかセンスの良い命名だね、兄さん」
「今日はずいぶんと機嫌が良いが、何かあったのか?」
「いや、そんなことはないけどさ。僕のメッセージが僕の愛する人たちにちゃんと届いただろうなって思ったら、楽しくてさ」
「おまえ、デパ地下の有名中華料理店からのテイクアウトを持って来て、夕食を一緒に食べようとか言って、またひょっこり来たくせに、食事よりテレビの方に夢中なのは、どういうことだ? 行儀の悪い」
「ああ、ごめんごめん。久しぶりに兄さんとの交流が戻ったからさ、一緒に食事したいじゃない? でもさ、このニュースも見たかったんだよ」
「しかし、妙だな」
都築は自分もテレビ画面をみながら言った。テレビは三原医師がウイルスの説明をしているところを映していた。
「昨日の特別放送が引き金になったように、というか、それが堰を切ったというか、いきなり大変なことになったもんだ」
「そうだね。まあ、きっとそういう時期だったんだよ」
「おまえ・・・」
「何?」
「本当におまえはこれに関わっていないんだな?」
「やだなあ、兄さん。たった一人の弟の言うことが信じられないの? それにどうやったら僕にこんな大それたことが出来るというんだい? 僕は政党も持ってない、マイナーな宗教団体の教主だよ」
「それはそうだな。悪いな、なんとなく疑ってしまった。以前あった地下鉄テロのことを、ふと思い出してな」
「あんな似非宗教と一緒にしないでよ、兄さん」
翔悟は笑いながら言った。
「さ、食べてよ。このフカヒレの姿煮、大きいだろ。僕の大好物なんだ。それから、この海鮮炒めもお勧めだよ。中華に合うワインも持って来たからさ、今夜は大いに飲もうよ」
「そんなこと言っておまえ、車の運転は大丈夫なのか?」
「大丈夫さ。ちゃんと運転手を待機させているよ」
「流石、教主さまだな」
「やだな、からかわないでよ。じゃ、乾杯しよう」
「よし、コルク抜きとワイングラスを持って来よう。ちょっと待っていなさい」
都築はそういうと席を立って厨房に入っていった。翔悟が画面を見ながら微笑を浮かべて言った。
「疫病の発生は公表されたしウイルスにも名前がついた。さて、テロ組織に関する情報の断片を得た彼はどう出てくるかな。きっと君は僕を楽しませてくれるよね、アレックス」
翔悟はクスクス笑いながら、ベランダの方を見た。外は既に日が落ちて真っ暗になっており、ベランダを隔てる大窓は、鏡のように翔悟の姿を映していた。翔悟は魅せられたように自分の姿に見入っていた。

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1.暴露 (6)ふたつの薔薇

 北山紅美は、ベッドから半身を起こして、ポータブルテレビでニュースを見ていた。そのテレビは、葛西が多美山のために持って来たものだが、次に入る人のためにと、廃棄されずに遺されていた。
(昨日より騒ぎが大きくなっている・・・)
紅美は、不安にさいなまれていた。今日の昼頃、南九州のK県のY市から両親が駆けつけてきた。娘の病状の説明を受け、母はガラスにすがりつくようにして娘の名を呼び、号泣した。父は母の肩を抱き、終始無言でいた。途中仕事を残して来たからと言って、父は帰っていった。父は去るまで娘を直視することが出来なかった。母は途中で落ち着きを取り戻し、夕方まで娘の話し相手をしていたが、長旅の疲れもあり、病院の近くにホテルを取っているということで、とりあえず今日のところは帰って行った。
 テレビはサイドテーブルにおいてあったが、持ち主が亡くなっていると言うことで、最初、すこし気味が悪くて使う気がしなかった。しかし、母親が帰って急に寂しくなり、とうとうテレビに手をのばしたのだった。
(このまま、騒ぎが拡大して行ったら、感染者の娘を持つ両親にどれだけ迷惑をかけるだろうか・・・)
紅美は想像してゾッとした。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう・・・)
紅美は顔を両手で覆った。手の隙間からにじんだ涙がこぼれた。
 ニュースが終わり、次の番組が始まった頃ドアがノックされ、紅美は急いで涙を拭った。
「入りますよ」
と言いながら春野看護師が入ってきた。
「こんばんは。ご気分はどうですか? あら。 ・・・テレビ見とったと? 起きて大丈夫?」
「あ、春野さんこんばんは。お薬が効いたのか、だいぶ気分がいいです。視界の方も特に異常ないみたいです」
「そう! よかった・・・。でも、あまり無理したらいかんよ」
「はい。ありがとうございます」
「お食事は、ちゃんと食べれた?」
「ええ。少し残しちゃいましたけど、美味しかったです」
「美味しいと思えるなら上等やね。テレビ、ひょっとしてあのニュース見たと?」
「ええ・・・。だんだん大変なことになっているみたいで、私、どうしたら・・・」
「あなたのせいやなかろ? あなただって被害者なんやから。あなたが今することは、病気と闘うことでしょ。早く良くなってご両親を早く安心させてあげて」
「はい・・・」
紅美は頷いたが、表情は晴れない。それはそうだろう。治癒するかどうかすらわからない病気なのだから。そこで、春野は話題を変えることにした。
「そうそう、あなたにお見舞いだって預かってきたんやけど」
「私に?」
「ええ、ちょっと目をつぶって両手をだして」
「?」
紅美は一瞬戸惑ったような顔をしたが、素直に春野に従った。手の上に何かひんやりするものが乗ったことがわかった。
「はい、いいわよ。目を開けて」
春野に言われて紅美は目を開けて掌の上を見た。そこには四角い透明樹脂に封入された、一輪の紅バラが乗せられていた。
「すてき! アクリルキューブに入ったプリザーブドローズですね・・・。 いったいどなたからですか?」
春野は意味深に笑いながら言った。
「うふふ。言わないでくれって。でもそうはいかんよね。・・・ヒントは怖いおじさん」
「え? あの人が?」
「きっと、病人に怒鳴りつけたから良心に呵責を感じたんやろうね」
春野はそう言いながら笑うと、続けた。
「生花のお見舞いが贈られないからって、やるわね、あのオジサマ」
「きれい・・・」
そうつぶやくと紅美はじっとそれを見つめた。春野看護師がそれを見ながら済まなさそうに言った。
「それね、可愛いラッピングがされてたんやけど、消毒しないと持ち込めないから外させてもらたの。ごめんなさいね」
「可愛いラッピング?」
紅美は、昨日の長沼間の顔を思い出しながら、あの無骨な男がどういう顔でこれを買ってラッピングを頼んだか、想像してクスッと笑った。
「写メ撮っておいたから、こんどプリントアウトしたの持ってくるね」
「ありがとうございます。それから、その怖いおじさんに、綺麗なお花をありがとうって、お伝えくださいね。それから、きっと元気になってここを出ますって」
「ええ。必ず伝えるから。・・・じゃ、がんばって治さないとね。まずお熱を測りましょうか」
「はい」
紅美は春野の差し出した体温計を受け取ろうと手を伸ばした。袖がひじ近くまでめくれ、点滴跡から広がる内出血の染みがあらわになった。

「なるほど由利子、おみゃあさんの言うことが正しかったわけだな」
由利子を送る道すがら、運転をしながら彼女から解剖室前での出来事の説明を聞いていたジュリアスが言った。
「連中の第一目的は、日本にウイルスを広げることか。死の神を騙る連中は、一体何の目的で、そんな『死ね死ね団』みたいなことを・・・」
「何で『死ね死ね団』を知ってるのよ」
由利子が驚いて言った。
「そりゃおみゃあ、日本に住んどったならトーゼンだろー?」
「ヒーローよりも有名ですものね」
紗弥までがそう答えたので、由利子は腕組みをしてう~むと唸りながら言った。
「有名? そうか? 有名なのか?」
「もちろんだて。それに、おれは子どもの頃日本にいる時、再放送で見たんだわ。ええかね」と、ジュリアスは内容の説明を始めた。「ヒーローのヤマトタケシはインドの山奥で財布を落とし、仕方がにゃーてデーヴァ・ダッダにお金を借りて家にコレクトコールで電話をかけた(※)のが、確か話の発端だがね」
「それじゃあ、ドビンボーマンだよ。因みにデーヴァ・ダッダじゃなくてダイバダッタね」
「まあ、細きゃあところはどーでもええて。ほんだら閑話休題」
「もう、アレクと言いコイツといい、何で妙に日本に詳しいのよ」
「まったくですわ。話を戻すのに閑話休題なんて、日本人でもあまり使いませんわよね」
紗弥が軽く頷いて言ったが、ジュリアスは彼女らを無視して続けた。
「ウイルスを広めるのが目的だったから、今まで特に声明や要求の動きがなかったんだな」
「じゃあ、ここに来て動いたのは、やはり昨日知事が揺さぶりをかけたからってこと?」
「多分そうだな。しかも、そういうふざけたやり方だで、わざと挑発に乗って来たという感じがするぞ」
「長沼間さんもそう言って去って行ったけど」
「長沼間かあ。渋くてイイ男だなも」
「え?」
由利子と紗弥が驚いて同時に言ったので、ジュリアスはにっと笑いながら言った。
「今のはアレックスには内緒だがや。ところで由利子、ウイルスに名前がついたって話は聞いとるかね?」
「ウイルスの名前?」
由利子は聞き返した。
「やっぱり知らにゃーか。今日の全国会見で発表があったんだ」
「アレクは何も言わなかったよ」
「ありゃー、あいつも知らされていないのかね」
「まさか。で、何て名がついたの?」
「サイキウイルスだと」
「そっか、公園の名前からとったんだ。じゃ、感染症自体の呼び名は?」
「たぶんサイキウイルス感染症、或いはサイキ出血熱あたりだな」
「まんまやねえ。だけど、う~ん、世の中の斉木さんにはいい迷惑だなあ」
「名前をつける限りは仕方あーせん。なんもかんもに『誰も知らない』とか『名無し』とかつけるわけにもいかにゃーだろ」
「あっという間に名前インフレになりますわね」
「ところでな、紗弥。今更言うのもなんだけどな、なんでおみゃーさんがついてきとるんだよ」
「もちろん教授に頼まれたからですわ。キス魔と一緒だとまずいだろうって」
「ちぇっ、信用にゃーなあ」
「自業自得ですわよ」
紗弥は澄ました顔をして言った。

 佐々木良夫の母親は、ちょっと浮ついていた。良夫に女の子から電話がかかってきたからだ。
「おとうさん、良夫に女の子から電話よ。可愛い声だったし、きっと実物も可愛いよね。ああ良かった~。もう、西原君にしか興味がないのかと心配しとったっちゃんね」
「おいおい、自分の息子に妙な疑惑を持つなよ」
父親はテレビから目を離すと、あきれ気味に言った。
「それより、さっきのニュースの心配をせんか。良夫も関わっているんだぞ」
「大丈夫だって。ウチの長男はちょっとひ弱な分用心深いから、感染るようなヘマはしませんって」
「その自信はどこから来るんだか・・・」
父親はさらにあきれて言った。二人は、あの時良夫が身を呈して祐一を庇おうとしたことは知らない。
 良夫は自室から急いで玄関の固定電話に向かい、焦って受話器を取って小声で言った。
「なんで家の電話にかけてくるんだよ!」
案の定、電話の向こうから、彩夏のつんとした声が聞こえた。
「だって、佐々木ってばケータイに出ないんだもん」
(くそ、1対1だとロコツに呼び捨てかよ)
良夫は忌々しく思いながら言った。
「たりめーだよ。誰からかわからんとに。わかってたって、だれが君みたいなヤな女の電話に出るもんか。・・・って、誰からボクのケータイ番号聞いたんだよ」
「田村クンからに決まっとろーもん」
「下手な九州弁使うなよ。ムカつくなあ。勝太もいらんことしやがって」
ぶつぶつ言う良夫をムシして、彩夏は話を切り出した。
「明日、西原君退院の予定でしょ」
「だから何なの? 退院おめでとうパーティーでも開こうってのかい」
「あら、それもいいわね」
「・・・。だから用件を早く言えよ。あんただってケータイの電話代かかったら、あとで怒られるやろ」
「こっちだって固定電話からかけてるでしょ。番号見てわからない」
「ほんっとに嫌な女だな、アンタは」
「どうも、ありがとう。でね、佐々木。昨日とさっきのニュース見たでしょ。西原君、復帰してから嫌な思いをするかもしれないわ。でも、田村君はクラスが違うし、私は女だから、彼のフォローは完全に出来ないから・・・。だから、不本意だけどあんたにお願いしたいの」
「へ?」
意外なお願いに良夫は驚いて気の抜けた声をだした。
「君が僕にお願い? 明日は雪やなかろうか」
「下から雨が降るかもね。あんたにお願いするなんて自分でも驚いてるわよ。でも、あんたも性格悪いし嫌なヤツだけど、信頼だけは出来ると思うの。西原君、来るのはあさってからでしょうけど、さっきのニュースを見たら、不安でいても立ってもいられなくて」
 良夫には彩夏の不安が手に取るようにわかった。良夫もさっきまでそれを見ていて、言いようのない不安を感じたからだ。昨日の会見時より明らかに状況が悪化している。急いで部屋に帰ったのは、インターネットでの反響を見ようと思ったからだった。ネットはそのまま社会を映している訳ではないが、かなり参考になるのは確かだからだ。良夫は彩夏に言った。
「わかるよ。ボクも、ほんというと不安に押し潰されそうなんだ」
「それから言っとくけど、これはクラス委員としてのお願いだから、勘違いしないでよね」
「わかっとお。でも、君に言われなくてもそうするつもりでいたから。これはボクの意思でやることだから、君も勘違いせんでね」
「そっ、わかったわ。これで商談成立ね。佐々木、しばらくは休戦よ。私たちリーグ(同盟)は、西原君を加えて、私たちなりにこのウイルス事件と向き合わなきゃね」
「うん。わかった。大変なのはこれからだからね。がんばろう」
「ありがと、佐々木」
「へ?」
良夫は前にも増して気の抜けた声で言った。調子がガタ狂いである。しかし、彩夏は良夫の戸惑いを他所に「じゃ、また明日ね」と言って電話を切ってしまった。彩夏本人も照れくさかったのかもしれない。
「何だ、あいつ・・・」
良夫は電話を切りながら、首をかしげて言った。 

 一方感対センターを一人後にした長沼間は、部下の入院している病院の廊下を歩いていた。時刻は夜8時過ぎ。まだ消灯時間までけっこう間がありそうだった。長沼間は、武邑の病室のドアをノックした。
「長沼間だ。ムラ、まだ起きているか」
「長沼間さん、来てくださったんですか! どうぞ、お入りください」
中から比較的元気な声がしたので、長沼間は安心したのか少し笑みを浮かべたようにみえた。
「昨日までICUにいたわりには、ずいぶんと元気そうだな」
長沼間は、そういいながら武邑の病室に入っていった。武邑は身体を起こして本を読んでいたが、すぐに本を閉じて笑顔で長沼間を迎えた
「おかげさまでだいぶ調子が良いです。近いうちに大部屋に移れそうです」
「そうか、良かったな。ほれ、見舞い定番だ。これでも食べて、体力をつけろ」
長沼間はそう言いながら、フルーツバスケットをサイドテーブルの上に置いた。
「ありがとうございます」
「リンゴでも剥いてやろうか?」
「いいえっ、めっそうもない・・・」
武邑は焦って断った。
「遠慮するな」
「いえ、就寝前なんで」
「そうか。残念だな」
と、長沼間は本気で残念そうに言った。
「長沼間さん、あの、ありがとうございます」
「なんだ、改まって」
「あの時長沼間さんたちがすぐに来てくれなかったら、松川も僕もこの世にいなかったかもしれません。何て感謝していいか・・・」
「仕事なんだから当たり前だ。それより、さっさと治してさっさと復帰しろ。二人も欠員して俺の仕事が増える一方だ」
「すみません。ところで、松川の方へは行かれました?」
「ああ。だが、まだ意識不明の重体だ。一緒に運ばれた民間の男性は、一時心肺停止状態だったがなんとか意識は取り戻しているらしいが」
「そうですか・・・。くそ、僕が持ち場を離れさえしなければ・・・!」
武邑はまた悔しそうに言った。長沼間が武邑の肩に手を置いて言った。
「買出しに行ってたんだろう。もう、気に病むな。おまえの今の任務は、早く怪我を治して復帰することだ」
「はい。・・・すみません」
「しかし、ああ見えて松川も一応訓練された男だ。ターゲットに容易に後ろから殴られたってのは腑に落ちんな。仲間でもいたんだろうか・・・」
「僕が見た時は、結城一人でした。ただ、ヤツは成人女性を片手で軽々と僕に投げつけられるくらい強力でした」
「うむ、何かやばいクスリでもやっていそうだな」
「そんな感じでした。見た目が痩せていてインテリ風なんで、油断したのかも・・・」
「松川が意識を取り戻せたら、詳しいことがわかるんだろうが・・・」
「そうですね。意識を取り戻さんことには・・・」
武邑が、ため息をついて言った。
「大丈夫。あいつはまだ若いし体力もある。必ず元気になって帰ってくるさ」
長沼間に励まされて、武邑は少し元気付いたように言った。
「ええ、そうですよね。大丈夫ですよね」
「俺が保証するよ。医者もそう言ってたしな。・・・じゃあ、ムラ。あまり長居をするのも何だから、そろそろ帰るからな」
長沼間は、武邑の元気な顔を見て安心したらしい。来た時より若干表情が柔らかくなっていた。彼は、武邑に背を向けると、ドアに向かって行った。その背中に武邑が声をかけた。
「長沼間さん、ありがとう。本当は優しいんですね」
「茶化すんじゃねえ! 復帰したらこき使ってやるからな。今のうちにゆっくり休んでおけよ」
長沼間は振り返って乱暴にそういうと、さっさと病室から出て行った。武邑は、しばらく長沼間の足音が遠ざかっていくのを聞いていたが、読書を再開しようと読みかけの本を手に取り開きながらつぶやいた。
「松川・・・、目覚める・・・か・・・」
武邑はそう言った後、うっという声を漏らし口をゆがめて両手で顔を覆った。本がばさりと音を立てて床に落ちたが、武邑はそれを意に介さず顔を覆ったまま肩を震わせていた。

 由利子たちはその後、ファミレスに寄って夕食をすませ、由利子が家に帰り着いたのは9時を過ぎていた。家では猫たちがご飯を待ちわびていたらしい。由利子が玄関に入るや否や、2匹が駆け寄ってきてにゃあにゃあ鳴いた。
「ごめんごめん。すぐに作ってあげるから」
由利子はそういうと、まず猫の食事からはじめた。その後着替えてインスタントコーヒーを入れて部屋でくつろぐ頃には10時近くなっていた。テレビを点けると、月九ドラマのエンディングテーマが流れていた。最も由利子はそれを見ていなかったので、特に悔しがる様子は無かった。それより、報道番組の方が気になったので、すぐさまチャンネルを変えた。最近この手の番組は、50分台から始まることがデフォルトになっている。きっちりした節目でないと何となく居心地良くない性分の由利子には、いまいち釈然としない時間である。案の定、番組はオープニングを終え、今日の出来事のダイジェストを経て、メーンキャスターの挨拶になった。挨拶後に彼女は鹿爪らしい表情で言った。
「F県でとんでもないことが起きているようです。後ほど、森の内知事から詳しいお話をお聞きする予定です」
彼女が言い終わると、キャッチの音楽が流れ、CMが始まった。
「あ~、やっぱり想像したとおりになったなあ」
由利子はそう言いながら、ゴロンとベッドの上に横になった。

 その頃極美は、小洒落たバーのカウンターで降屋(ふるや)と過ごしていた。そこでいきなり極美の携帯電話が鳴った。
「きゃあ、マナーモードにしていなかった! ちょっと出ていいかしら?」
「いいよ。でも、手短にね」
「ええ、もちろんよ・・・。・・・あら? デスクからだわ。こんな時間に一体何の用かしら」
そう言いながら、極美は電話に出た。
「もしもし、真樹村・・・」
「でかしたぞ、キワミ!」
極美が言い終わらないうちに、電話の向こうでデスクの高揚した声が聞こえた。
「グッドタイミングだっ! あさって発売の今週号はおまえが取材した記事がトップだ」
「え? 本当ですか?」
「こんなこと、わざわざ冗談で言わんよ。この事件は、多分ウチしかまだ扱っていないはずだからな。大スクープだ。楽しみにしておけ」
デスクは言いたいことだけ言うと、電話を切った。極美はほうっとため息をついて電話をバッグに戻した。降屋が心配して聞いてきた。
「なにかあったの? 極美さん」
「私の記事がトップだって・・・。信じらんない」
「ええっ! すごいじゃない、極美さん!! やったね!!!!」
「あなたのおかげだわ。ありがとう」
「いやいや、君の努力の成果さ。・・・しかし、極美さん、その割りに落ち着いているね」
「抑えてるのよ。ホントはそこら辺を大声で駆け回りたい気分よ」
「そっか。じゃ、お祝いしよう。貧乏だからドン・ペリとは行かないけど・・・、マスター、なんか手頃なシャンパンがあったら一本出してくんない?」
「タルランのロゼでよろしいでしょうか?」
「あ、それいいね」
「ちょっと、裕己さん、そんな高そうなワインいいわよ」
「大丈夫だよ。さっき言ったように手頃な値段だからね。気持ちはドン・ペリなんだけどこれでカンベンして。いい子だから、お祝いさせてよ」
「もう、裕己さんってば、強引ね」
極美は、口調とは裏腹に嬉しそうな笑顔で言った。
「ところで、いつ発売なの?」
「水曜だから、あさって発売だわ」
「じゃ、こっちは金曜の発売だな」
「ええっ? そんな遅れるの?」
「なんでも流通の関係らしいよ」
それを聞いて極美は仏頂面をして言った。
「ひどい、すぐに読めないじゃない。やっぱり辺境だわ」
「まあまあ、ほら、シャンパン来たよ。機嫌直して飲も。ほら、マスターが注いでくれたから」
降屋は極美にシャンパンの入ったグラスを差し出した。極美はそれを受け取った。ライトにすかした薔薇色が美しい。極美は思わず言った。
「綺麗ね」
「じゃ、極美さんの記事トップ記載を祝って。乾杯!」
二人はシャンパングラスを合わせた。
「おめでとう、極美さん」
「ありがとう。ほんと、夢みたい」
極美はふっとため息をつき、笑みを浮かべて言った。

 ベッドに一旦寝転がった由利子だが、すぐに身体を起こしてベッドサイドに腰掛けた。知事室が中継され、森の内がキャスターの質問攻めに合っていた。時に核心に迫った質問をする名物キャスターだが、流石にテロと結びつけるに至らなかった。
「う~ん、鋭いようで詰めが甘いよ、新谷ちゃん」
由利子が画面のキャスターに茶々を入れていたら、携帯電話が鳴った。
「あれ、アレクかな?」
そうつぶやいて、電話を手に取り着信を見ると、前の会社での同僚である黒岩からだった。
「黒岩さん? いきなりどうしたんだろ。・・・もしもし、篠原です」
「ご無沙汰してます。黒岩です」
電話の向こうから、聞きなれた声がした。しかし、声のトーンが妙に低い。
「黒岩さん、どうしたんです? 何かあったんですか?」
「あのね、これ、会社辞めたあなたに言うべきかどうか迷ったんやけど・・・」
「何です?」
黒岩は、数秒の沈黙の後に言った。
「古賀課長がね、亡くなられたと」
「えっ、うそっ、なんで!?」
想像もしていなかった答えに、由利子は驚いて言った。

続きを読む "1.暴露 (6)ふたつの薔薇"

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1.暴露 (7)報道番組 NS10

「なんで? 確かに私が会社を辞める日に具合が悪そうやったけど、それって二日酔いやったけんでしょ?」
「そう思っとったんやけど、翌日も熱が上がったからって休んで、金曜日に急に容態が変わって亡くなった・・・って連絡が入って・・・」
黒岩の声は途中から涙声になっていた。
「そんな・・・、どうして・・・」
「わからんけど、風邪で肺炎をこじらせたんやろうって」
「葬儀は?」
「うん、今日やったっちゃんね」
「水臭いなあ。辞めたとはいえ有給消化で書類上はまだ社員やから、行けるかどうかはともかく連絡くらいしてくれても」
「うん。でも、なんとなく連絡しづらかったんやろうね。」
「ありがとう。教えてくれて。でも、やっぱり信じらんなあ・・・」
「そりゃあ、葬儀に出席した私だって未だ信じられんのやけんね・・・。それでね、気になることがあって・・・」
「何?」
「ひょっとしたら、課長、例の病気に罹ってたっちゃないかって」
「何で?」
「根拠はなかばってん、何となくね。いきなりやったし・・・」
「病状とかは?」
「詳しく聞いてないけんわからんけど、お別れでご遺体を見せてもらった時、なんか、あちこち痣みたいなのが見えたっちゃんね」
「アザ?」
「うん、内出血の。死斑やなかって、あれ・・・」
黒岩は少し間を置いて続けた。
「私さ、ちょっとばかりそういうのに詳しいやろ。だから、昨日の放送を見てひょっとしたらと思ってさ」
「じゃ、誰から感染ったのかしら」
「それもねえ、課長の交友関係なんてよう知らんし、でも、例の女性と関係するようなナンパな人でもなかけんねえ」
「そうやね・・・。あのお堅い古賀課長が・・・って、古賀? あ・・・」
「どうしたん?」
「あのね、公園で亡くなったホームレスの救命処置をして感染した救急救命士の名前が古賀やった。K市では売るほどある名字だから考えもせんかったけど、その人と関わりがあるとしたら・・・」
「そうか! 感染経路が繋がるね」
「さっそく、連絡してみるから」
「連絡?」
「うん。私が今度行くとこの教授が専門家やけんね」
「えー、そうやったと? すごいやん」
「あ、人には言わんでね。黒岩さんが情報をくれたけん教えただけやから」 
「わかった。どうもありがとうね」
「こちらこそ、連絡くれてありがとう、黒岩さん」
「いやいや、じゃ、新しいお仕事、がんばってね」
「ん、ありがとう。また何かあったら電話ください」
「わかった。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
由利子は電話を終えると、すぐにギルフォードに電話を入れた。しかし、電話は繋がらず留守録になってしまった。
(ああ、やっぱり今日は色々ごたごたしてて、まだセンターにいるんだ)
由利子はふっと軽くため息をつくと、黒岩からの情報を留守録に残し、電話を切った。
 電話を切ると、由利子はこんどは深くため息をつき、独り言を言った。
「信じられない・・・。ホントに古賀課長が・・・?」
由利子は最後に古賀に会った時のことを思い出した。それは、由利子が会社を辞める日のことだ。気分が悪くて早退する古賀は、最後に由利子言った。
『最後なのに見送ってやれんですまんね。がんばれよ。これは、終わりやなか、新しか門出なんやからな!』
まさかあれが本当に最後になろうとは。
「古賀課長・・・」
視界がぼやけた。しかし、その視界に飛び込んできたテレビ画面の光景に驚いて涙を拭った。
「なにこれ・・・!?」
由利子は目を見張ってつぶやいた。

 その頃、ギルフォードのいる感対センターはごったがえしていた。大量の感染リスク者が運ばれて、高柳はその振り分けに頭を痛めていた。そんな時、緊急連絡が入った。
「はい、高柳です・・・。なんだって? 森田君との濃厚接触者三人のうち二人が見つかった? で?・・・・はあ? なんだって、居酒屋で合コン中?」
混乱で若干苛立っていた高柳は、後半声を荒げた。それを聞いたギルフォードとスタッフたちは、はっと高柳の方を見て、その後お互い顔を見合わせた。
「で、二人の状態は? 二人とも微熱があって一人は頭痛を訴えている? そうか、わかった。至急こちらに連れて来て・・・。合コンしていた他の連中? 全員こちらに連れてきたまえ。二人とは別にして、ただし念のため、全員と防護服で接するように。居酒屋の方の対策も充分にな」
高柳はそういうと電話を切った。
「タカヤナギ先生」
ギルフォードがすかさず声をかけた。
「ああ、聞いての通りだ。森田健二との接触者二人の所在がわかったが、案の定発症したらしい。・・・まったく、合コンなんて冗談じゃないよ。熱があるんなら家で大人しくしておればいいものを・・・」
高柳は、珍しく忌々しげに言った。そこに山口医師が尋ねた。
「出先で発熱したのかもしれませんが、あの放送は見てないんでしょうか?」
「どうだかね。見てりゃあ自分らが高感染予備群だってことくらいわかりそうなものだが」
高柳は不機嫌に言った。彼は滅多に怒らないので仏の高柳と言われているが、まさに仏頂面である。
「とにかく」
高柳が続けた。
「さっさとこっちの整理を進めよう。また新たに10人ほど来るからね」
「10人!」
「また増えるんですか?」
スタッフが誰とも無く言った。ギルフォードは両手で自分の頬を叩いて気合を入れながら言った。
「さぁ、がんばりましょう。今音を上げていたらこれから先保(も)ちませんよ」
「ま、そういうことだ」
高柳がいつもの調子に戻って言った。
 

20XX年 6月18日(火)

 ギルフォードがマンションに帰り着いたのは、すでに二時を回っていた。途中、由利子からの留守録に気がついてそれを聞き、高柳へ伝えた。しかし、由利子からもうひとつ留守録が入っているのを聞いて、首をかしげた。
「アレク、『ニューズスペシャル10(テン)』見た?」
『ニューズスペシャル10』通称『NS10(エヌエスイチマル』。それは、人気女性キャスター新谷統子(とうこ)がメーンキャスターを務めるガイアTVの人気報道番組だ。
("どういうことだ? また問題報道でもあったんだろうか・・・”)
ギルフォードは帰路を急ぎ、アクセルを踏んだ。

 ギルフォードが部屋に入ると、ギルフォードの帰りを待ち疲れたジュリアスが、リビングのソファに横になって眠っていた。彼は由利子を送った後一旦感対センターに戻ったが、ギルフォードに先に帰っておくように言われ、一人タクシーに乗って帰ったのだった。ギルフォードは、ジュリーの姿を見るなりつぶやいた。
”ジュリー,疲れていただろうに待ってたのか・・・”
ギルフォードはジュリアスに近づくと、彼の背を軽く叩きながら優しく言った。
”ジュリー,起きろ.ベッドで寝ないと風邪を引くぞ.”
ギルフォードに起こされ、ジュリアスは眠そうに目を開けて言った。
”お帰り、アレックス”
ついであくびをしながら体を起こして言った。
”ごめん、僕、起きていたかったけど、眠くて・・・.だめ・・・眠くて目が開かないよ・・・.寝かせて,ちゃんと風呂には入ったから・・・”
そう言い終えるとジュリアスは、そのままソファの背に寄りかかってくーっと眠ってしまった。
”仕方ねえな”ギルフォードはそういいながら、細身だが長身のジュリアスを軽々と抱きあげ、横抱きにして寝室に向かった。
 寝室に入ると、灯りをつけベッドにジュリアスを寝かせようとした。その時、ジュリアスが目を開けて言った。
”テレビ・・・ニュース録画・・・見て・・・。でも、気をつけ・・・て”
”ニュースを録画しているから見ろってことか? 気をつけてってどういうことだ?”
ギルフォードが尋ねたが、すでにジュリアスは寝息をたてて寝てしまった。
”ユリコの留守録との関連だろうか”
ギルフォードは少し考えると、ジュリアスに毛布を被せ、唇に軽くキスをすると寝室を後にした。

 ギルフォードはミルクティーを淹れると、居間のソファに座りテレビのスイッチを入れた。録画内容を見ると、やはり「NS10」というのがあった。すぐにそれを再生する。
 帰ってから急いで録画したのだろう、番組の途中からの録画となっていた。
 内容は、新谷キャスターと森の内の質疑応答だったが、特に目新しい展開は無い。はじめて知る視聴者にはちょうど良い内容ではあったが。
”いったい、あいつらは何を見ろと言ってるんだ?”
ギルフォードはつぶやきながら、紅茶を口に運んだ。
 紅茶を飲み終えた頃、新谷が虎の子を出してきた。
「そうだ、森の内知事、ウチの系列のクルーが面白い映像を撮って来たんですよ。今VTRを流しますから、見てください」
と、すぐに画面が切り替わった。ヘリコプターに乗った女性が、ローターの音に負けないように大声で言った。
「FMB、めんたい放送の美波です。今、新型感染症の発生現場のひとつである、C川のとある河川敷に向かっています。あ、C川が迫ってきました」
上空からカメラが写す風景に、蛇行する大型の河川が見えてきた。中流らしく広い河川敷が確認できる。
「え~っと、この辺りだと思うんですけど・・・」
取材ヘリは、川がやや直線状に流れているあたりの上空に差し掛かった。
「あ、河川敷の消毒をされている方が数人おられますね。みなさん重装備です。やっぱり危険な病原体なんでしょうか・・・。堤防に沿って、ずっと立ち入り禁止のテープが貼ってあり、数箇所に警官の姿も見えますが、彼らは普通の制服ですね・・・。あ、また雨足が強くなってきたようです。まだ小雨とはいえけっこう降ってます・・・。あ、赤間君、あれ撮って! あそこ、あそこの二人組み、いるでしょ? 吉塚さん、もっと高度下げられるかしら?」
ヘリに気がついたからか、雨が強くなってきたせいか、二人は急に駆け出した。橋梁の下に向かうようだ。
「吉塚さん、彼らを追って! 赤間君、出来るだけズームでお願い」
美波は操縦士とカメラマンにそう指示すると、また大声で言った。
「ご覧になれますか? 感染防止用の防護服を着た人が二人、ひとりが荷物、もうひとりが捕虫網らしきものを持って走ってます。ウイルスを媒介する昆虫を捕獲しているのでしょうか」
ギルフォードはその映像を見て驚いてソファから腰を浮かせ半立ちになった。
”あれはひょっとしてジュリーとジュンじゃないか?! 何だって報道のヘリに追われてるんだ?”
ギルフォードの驚きを他所に、美波の中継が続いた。上空からの映像で、防護服の二人は橋梁の近くまで走っていたが、一人が何かを蹴飛ばしてしまい、立ち止まった。もうひとりも一緒に立ち止まる。蹴られたものはヘリの上からはよく確認出来なかったが、なんとなく動いているように思われた。捕虫網を持った方が網を構えそれを捕獲しようとしていた。しかし、それは一瞬浮き上がりすぐに地面に落ちたように見えた。
「遠目でわかりませんが、動いているような感じです!! いったい、あれは何なんでしょう? あ、網を振り上げようとして、止まりました。ここからではよくわかりません。吉塚さん、もう高度下げれない?」
「ダメだ、ミナちゃん。あまり下げると危険だし彼らの邪魔になる!」
「くそっ、残念! あ、失敗したのでしょうか、網を放り投げてしまいました。・・・、あ、二人ともしゃがみこみましたね。何か確認しているようです。・・・ん~、しばらく動きませんね」
ヘリは旋回しながら彼らを撮り続けた。
「あ、立ち上がったようです。 どうも、こちらが気になるようですねえ。何故でしょう・・・」
”てめーらが頭上をブンブン飛び回ってるんだ、気にして当然だろうが!”
ギルフォードが画面に突っこんだ。
 映像は、二人が立ち上がってヘリを見上げるところで終わった。

「森の内知事、この映像をどう思われます?」
新谷が森の内に対して挑戦的に言った。しかし森の内は動じずに飄々としてこたえた。 
「どう思うも何も、VTRの中でレポーターの方がおっしゃってたとおりです。媒介動物の採取ですよ」
「採取をなさっている方たちは?」
「地元の警官と、アメリカから来ている専門家の方です」
「日本にもそういう専門家の方が多くおられると思いますが、何故国外の方と?」
「彼はアフリカで同様の仕事を多くこなした経験があります。採取に関しては緊急を要しましたし、ちょうど来Fされていた彼が手を上げて下さったので依頼しました」
「専門家にしては、あっさり逃げられてましたが」
「メガローチ・・・あの昆虫のすばやさと頭の良さには信じられないものがありますし、そもそもこういうものの捕獲は、主に罠を使って採取するものです。それに、変異体ゆえに生態や能力がほとんど未知数です。ですから、今回の失敗だけで、彼の能力を疑うのは失礼ではありませんか?」
「確かにそうですね。で、彼・・・えっと、その方のお名前は?」
「米国H大のジュリアス・キング先生です」
「キング先生たちが追っているメガローチについてもう一度確認しますが、それは先ほど説明されたようにゴキブリの変異体と言うことですね」
「そうです」
「サイキウイルス感染症で亡くなられた方の遺体を食べるそうですが、本当に・・・」
「事実です。しかし食べるのは通常のゴキブリもです。食べた個体から変異体のメガローチが生まれると考えられています」
「にわかには信じられませんが・・・」
「私もです。しかし、それを証明する証拠はいくつも残されています。ですから、捕獲が必要なんです」
森の内は力説した。新谷は少し間をおいてから微笑みながら言った。
「実はですね、撮ってきたあの映像の一部をデジタル処理したものがあるんですが」
「デジタル処理?」
「はい。彼らがVTRの後半で捕獲しようとしたものを拡大してぼやけた輪郭をシャープに処理したものです。今からまたVTRを流しますのでご覧になってください。その前に、これ
新谷がにっこり笑って右手を差し出した。画面が変わり反転した放送予定の映像が番組テーマ曲と共に流れ、CMに突入した。
”なるほどね”
ギルフォードはふっと笑って言った。
”取材ヘリについては、ジュリーがへそを曲げてたから報告が無かったんだな。まあ、そのあとのゴタゴタでジュリーの不機嫌は治ったみたいだが”
 CMが終わり、再び放送が始まった。テーマ曲と共にスタジオが映り、番組レギュラーたちとゲストがにこやかに笑っている。ついで新谷がバストアップで映り、にっこり笑って言った。
「引き続き、F県内で発生している新型感染症・・・サイキウイルス感染症・・・でよろしいでしょうか?」
新谷が中継先の森の内にふったので、森の内はすぐに答えた。
「はい。いいと思います」
「サイキウイルス感染症についての情報をお送りします。C川で媒介生物の採取をしているところを、偶然ガイアTVの系列会社、FMBめんたい放送のスタッフが撮影しました」
”偶然なんだかどうだか”
ギルフォードはまたつぶやいた。
「その媒介生物の映像をデジタル処理したものを、放映します。・・・え? なんですか、知事?」
「あのぉ、視聴されている方には虫が苦手な方もおられると思いますので・・・」
「あ、わかりました。虫の苦手な方は、注意してご覧下さい。では、VTRをお願いします」
新谷のゴーサインで、映像が流れはじめた。
 最初、川の上空から撮影された風景をタイトルバックに、赤で『殺人ウイルス媒介か? 謎の巨大昆虫!!』と煽りが書かれたものが映り、すぐに採取組の二人の足下にズームアップした。画面は少し荒くなったが、状況を把握するには充分な画像だ。二人の先数メートルのところに何か箱のようなものがあり、小刻みに震えている。
「あ、ここでちょっと映像止めてください」
新谷は映像を止めさせて聞いた。
「知事、これは・・・?」
「はい、メガローチ専用の罠です。まあ、ローチホイホイのでっかいヤツですよ」
「なるほど。・・・って、そんなに大きいんですか?」
「おそらく小型のハムスターよりは」
「え?」
「・・・あの、新谷さん、まだご覧になってないのですか?」
「ええ、さっき処理を終えたばかりで、なんとか番組に間に合ったものですから」
「ああ、そうですか」
そう言うと、森の内は意味深に笑った。それに気がついた新谷は、一瞬むっとした表情をしたが、すぐに営業用スマイルを取り戻して言った。
「知事はご覧になりましたか?」
「ええ。写真ですけどね。メガローチのアップと人との大きさ比較の2種類ですが。今回は放映しませんでしたが、昨日のローカルでは比較写真の映像を流しましたよ。そりゃあもう、すごい反響でして。一部薬局ではゴキブリ駆除製品が棚からなくなったくらいでして」
「そう、そんなに・・・」
新谷の表情に少し蔭りが出てきた。
「では、次の映像です」
新谷が続けて言った。しかし、それは何となく空元気を出しているように思えた。画面はふたたびメガローチホイホイを映していたが、それから翅の様なものが飛び出した。それが激しく震えると、ふわりと浮いた。しかし、それは一瞬のこと、すぐに地面に落ちた。しかし、その衝撃で粘着剤から自由になったらしい。一気に黒いモノが罠から飛び出し、速攻で翅を広げてカメラに向けて飛び上がったように見えた。実際は何十メートルも離れているのだが、それを見て新谷がキャアっと悲鳴を上げた。同時にギルフォードも声にならない悲鳴を上げてソファに張り付いた。その途端画面がぷっつりと途切れ、次に映ったのはCMだった。ジュリアスがまずいと思って反射的に録画をオフにしたのだ。それでも、ギルフォードは一瞬のうちに冷や汗でびっしょりになった気がした。その後、吐き気に襲われ、口を押さえてよろけながら洗面台に向かった。ギルフォードはそこで、さっき飲んだばかりのミルクティーを全部戻してしまった。
 ギルフォードが再び居間に戻りソファに力なく腰を下ろすと、画面は新谷と番組アシスタントやゲストが森の内と中継で話しているシーンになっていた。
「新谷さん、ひょっとして虫、嫌い?」
森の内が意外だな、という表情で聞いた。新谷は一瞬黙ったが、すぐに笑顔に戻って言った。
「ええ、まあ・・・。全部じゃないですけれど・・・」
新谷は、自他共にクールと認めている自分が、そこら辺の女こどものような悲鳴を上げてしまったことについて、少し恥ずかしがっている様子だった。しかし、インターネット某所のガイアTV実況スレッドでは、メガローチキモイの書き込みと共に、トウコちゃん可愛い、新谷萌え~等の書き込みが埋まった。しかし、それは心ならずも多くの人に、新谷とメガローチがセットでインプットされてしまうこととなった。
”くそっ、大丈夫と思って油断した”
ギルフォードはソファにくたっともたれかかると言った。
”まさかあの小さい映像からあれだけの画像を抽出することが出来るとは・・・”
まだ、必要以上に騒ぎ立てる必要は無い。ギルフォードはそう思っていたが、話がだんだん一人歩きをしているように思われた。だがそれは、公表する時に予想されたことでもあった。
”しかし、いったいこれからどうなっていくのか、俺にもさっぱり予想がつかねえ・・・”
ギルフォードは複雑な思いで画面を眺めた。 

続きを読む "1.暴露 (7)報道番組 NS10"

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1.暴露 (8)コンスピラシー

 感染症対策センターの待合室で、中年夫婦がソファに座っていた。祐一と香菜の両親、西原夫妻だった。父親の方はそわそわとしていたが、母親は落ち着いた様子でテレビを見ていた。朝のニュースでは昨日の続報としてサイキウイルス関連のニュースが伝えられたが、特に進展はないようだった。昨日あまりにもいろいろありすぎたからかもしれない。
 今はニュースは終わり、生活情報のコーナーになっている。それは、母の真理子が日常的に見ているお気に入りのjコーナーだった。
「おい、きたぞ」
父親の慎也が病棟に通じるドアの方を指して言った。
 ドアが開き香菜と祐一が出てきた。香菜は祐一とギルフォードに手を引かれて嬉しそうにしていた。その後から高柳と春野看護師が並んで入ってきた。香菜は、すぐに両親を見つけるとつながれていた手を離して、二人の下に駆け寄った。
「おかあさん、おとうさん!!」
「香菜!!」
二人は幼い娘を抱きしめて無事を喜んだ。
「ごめんなさ・・・」
香菜はそこまで言うと、え~んと泣きだした。
「いいとよ、香菜。あんたが悪いっちゃないとやけんね」
そう言いながら真理子は改めて娘を抱きしめた。父親は娘を母親に任せ、立ち上がって祐一のほうを見て言った。
「元気そうでよかった」
「お父さん、お母さん。ご心配かけて申し訳ありませんでした」
祐一は深々と頭を下げながら言った。真理子は香菜を抱き上げながら立ち上がり、そのまま娘を父親に抱かせると、祐一のほうに近づいた。
「母さん・・・」
困ったような情けないような、なんともいえない表情で祐一は母を見た。母は、かすかに震えながら「祐一・・・」というと、わっと泣きながら息子に抱きついた。落ち着いているように見えたが、その実、じっと気持ちを抑えてきたのだが、無事な子供たちの姿を見て今、その感情が堰を切ったようにあふれ出したのだ。
 祐一は自分を抱きしめて泣く母親の背をさすりながら、いつの間にか自分よりずいぶんと小さくなったなと思った。真理子は程なく落ち着いて祐一から離れると、ハンカチで涙をぬぐいながら少し照れくさそうに言った。
「ごめん、取り乱しちゃったね。母さん、ここでちゃんと説明は聞いとったけど、そこまで恐ろしか病気やって思わんかったけん・・・。テレビで改めて聞いてぞっとしたよ。二人とも感染らなくて本当によかった・・・」
「うん・・・」
「あの刑事さんに感謝せんといかんねえ」
「うん・・・」
祐一は両親に続けさまに心配をかけたことで申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになり、うん、としか答えられないでいた。
「さて、そろそろいいですかな?」
高柳が頃合を見計らって言った。
「あ、すみません」
真理子が少し顔を赤らめて言った。
「みっともないところをお見せしてしまって・・・」
「いえ、事件に巻き込まれた上に一週間も隔離されていたのですから、当然です。さて、簡単に説明しましょう。香奈さんは、発症者と長時間過ごしましたが、お話によると接触はあまりしなかったようでした。しかし、万一を考え兄の祐一君と共に隔離させていただきましたが、この一週間特に異常はありませんでしたので、退院していいだろうということになりました。ただし、一ヶ月間追跡調査は行われますので、熱が出たり体調を壊されたりしたばあいは、すぐに連絡してください。いいですね」
「はい」
家族四人が、それぞれにうなづいて言った。
「では、祐一君、香菜ちゃん、退院おめでとう」
高柳は二人に向かって笑顔で言うと、すぐにまじめな表情になって祐一の方を見た。
「祐一君、もうご両親に心配をかけるようなことは二度としちゃいけないよ。いいね」
「はい・・・」
祐一は素直に言った。心からそう思っていた。そこに、ギルフォードがピンクのマーガレットの花束を持ってきて、香菜に渡した。
「カナちゃん。退院のお祝いですよ」
「わあ、かわいくてきれい」
香菜は花束を受け取ると、目を輝かせて
「アレク先生、ありがとう。お兄ちゃんの次に大好き!」
というと、ギルフォードの頬にキスをした。これには父親が驚いた。
「おいおい、いつのまにそげんことを覚えたとね。それにお父さんたちはランクに入っとらんと?」
「だって、お父さんとお母さんはベッカクだもん」
香菜は、父親の方を見て笑顔で言った。
(”この子は意外としっかりしてるようだ。兄の方も礼儀正しいし、良い環境で育ったんだろう”)
ギルフォードは、西原親子を見守りながら思った。
 西原兄妹は両親と共に深々と礼をして、感対センターを後にした。
 彼らがエントランスから出ようとした時、ギルフォードが祐一を呼び止めた。祐一は振り返ってギルフォードの元に引き返してきた。
「ユウイチ君」
ギルフォードは真剣な顔で言った。
「昨日からずいぶんと状況が変わりました。このウイルスについては、皆が知ることとなったし、君たちがその感染の疑いで隔離されていたことも周囲に知られているかもしれません。これからが本当に大変だと思います」
「はい」祐一が答えた。
「でも、ユウイチ君、君は強い子です。君の友人たちもきっと力になってくれます。だから、君はご両親を助け、カナちゃんを守ってあげてください。ダイジョウブ、君たちならきっとそれを乗り越えていけます」
「はい。多美山さんに対して恥ずかしくないようにがんばります」
「でも、ガンバリすぎちゃだめですよ。それから、もう二度と危ないことに関わらないようにしてください。いいですね?」
「はい」
「君の友人たち、小さいけれど勇敢なヨシオ君と、あの利発なおじょうさんにもよろしくお伝えください」
「はい。ギルフォード先生、いろいろとありがとうございました」
祐一はそう言うと、もう一度深く頭を下げた。

「あ、あの子たちだわ」
極美がセンターから出てくる西原親子を見つけて言った。
「うん? 出てきたかい? ね、ここで張っていて正解だったろ」
運転席でシートに寄りかかり半分眠っていた降屋が言った。彼らは感対センターの一般病棟出入り口近くに路上駐車していた。こちらの方は人通りも多いが、その分見張りも立っていない。物々しさを避けるためもあるのだろう。しかも、駐車場に入らずにここで家人を待つ無精者の車が何台か止まっており、カムフラージュにもなった。
「ええ、相変わらずな情報網ね」
「で、間違いないんだね」
「間違えるはずが無いわ。私が目撃した公園での事件現場にいた少年達よ。やっぱり二人は兄妹だったんだ。感染のおそれがあったので隔離されてたんだわ」
「あ、極美ちゃん、ほらこれ」
降屋が極美に一昨日使っていた望遠レンズ付一眼レフカメラを差し出した。しかし、極美は首を横に振って言った。
「今日は撮らないわ。あの子らは被害者だもの。もし大衆の目に晒されるようなことになったら、何を言われるかわかったもんじゃないわ。かわいそうよ」
「へえ、優しいんだねえ。もったいない。せっかくの情報なのに・・・」
そう言いながら降屋がカメラを構えた。
「やめて! 撮らないで!!」
極美が焦って降屋の撮影を阻止するためカメラに手を伸ばしたのと共にシャッター音がした。
「撮らないと言ったのに、どうして撮るの!」
極美は降屋の右手を掴むと非難するようなj目で彼を見た。そうこうする間に西原親子はタクシーを拾って去って行った。
「あ~あ、何するのよ。おかげでピンボケの後姿しか写らなかったじゃないの」
降屋がブツブツ言いながら極美に映像を見せた。モニターには西原一家のぼやけた姿が映っていた。
「ピンボケのせいで、妙な雰囲気が出ちゃったよ。こりゃモノクロ向きの絵だな」
「ごめんなさい。せっかく情報をくれた上に会社を休んでまで付き合ってもらったのに。でも、どうしても嫌だったの」
「まあ、いいさ。ここが間違いなく連中が感染者を収容する施設だということがはっきりしたし」
「はっきりって、一昨日の放送でしっかり言ってたじゃない」
「そりゃ覚えてるよ。僕が言いたいのは、口封じのために感染を理由にここに閉じ込めることだって出来るってこと」
「そんなこと、どうして?」
「君は、このウイルステロが陰謀臭いと思わないかい?」
「なぁに、テロの次は陰謀なの?」
極美が含み笑い気味に言った。
「そうだよ、陰謀だ。僕はこの事件に米軍の細菌学者が関わっている事から疑問に思って独自に調べてみたんだ。君は不思議に思わないかい。F県には全国的にもかなり大きな都市があるけど、あくまで地方都市だ。どうして九州なんて中央からずいぶん外れたところでウイルステロなんかおこしたんだい? それから、どうして政府は殺人ウイルスのことしか発表を許さなかったのかい? 後者においての理由は二つ考えられる。テロとしての決定的証拠がないか、隠さねばならない理由があるかだ。公安の友人の話では、テロに付き物の犯行声明が未だになされていないから、テロと決めかねているということだった。だけど、それじゃ、日本の端っこで起こったことの説明にはならない。だけど、実験だったらどうだろう」
「実験?」
「君は帝銀事件を知っているかい?」
「ええ、これでもジャーナリストの端くれだもの。そんな有名な事件を知らないなんて恥でしょ。昭和23年1月に帝国銀行で起きた有名な毒殺事件よね。」
「そう。犯人は、近所で赤痢が発生したのでその予防薬と偽って、銀行員たちに青酸化合物を飲ませ、現金を奪って逃げたんだ。結果、16人のうち12人が亡くなった」
「犯人のHは冤罪で、真犯人は元731部隊の人間じゃないかっていうのが有力よね。結局死刑は執行されなくて、Hさんは95歳で獄中死された」
「そう。強盗はカムフラージュで、犯人の真の目的は毒薬の効果が知りたくて、人体実験をやったという。731の連中、中国で散々人体実験をやってたからね。人を使って実験することに対する抵抗はあまり無かったと思うよ」
最初は小馬鹿にしていた極美だが、徐々に降屋の話に惹き込まれていった。降屋は話を続けた。
「当時アメリカ陸軍は、来たるべく生物兵器戦に備えて、元731部隊の隊長Iと裏取引をしていた。大陸に於ける膨大な人体実験の資料と引き換えに、彼を含む731部隊の隊員に対するお目こぼしを約束したんだ。中国であれほど残虐な行為をしておきながら戦犯として裁かれず、彼らはのうのうと生き延びた。そりゃあ米軍にとって魅力的な資料だったろう。老若男女、人種、それらのありとあらゆるかつて人では試されたことの無い貴重な実験のデータが存在したんだからね。まあ、そういった事情からGHQは731の連中を庇った。警察はその後捜査上に浮かんだというHを逮捕して自白を強い、Hは裁判で死刑を言い渡された。結局この事件に米軍がどれだけ絡んでいるかもわからない。だって、真犯人が捕まってないんだから」
「で、その事件と今回のテロ事件がどう関係するの?」
そう聞かれて降屋は的を射たといわんばかりの表情で言った。
「似ていないかい? 犯人は人体実験をしようとウイルスを撒いた。その犯人は米軍がらみの人間らしいってこと」
「あっ・・・」
「最初ホームレスだけで完結させるつもりだったけど、ウイルスは思わぬ形で広がってしまった。まさか、中学生たちが彼らと接触するなんて思わなかったから。そして、それが米軍の知るところとなった。米軍が開発した新型ウイルスを元関係者が持ち出してばら撒いてしまった、それを知った米軍はどう出ると思う?」
「まず保身にかかると思うわ。それから、持ち出した男を消して証拠隠滅を図るんじゃあ・・・。で、その後帝銀事件みたいに第3者を犯人に仕立て上げて・・・」
「そう、普通はそう考えるよね。自殺したアメリカの炭疽菌事件の犯人も、それじゃないかって言う人もいるしね。だけど、そうはいかなかった」
「どういうこと?」
「ウイルスはすでに拡散しきってて収集がつかなくなった。ワクチンがあったとしても、まさか、未知のウイルスなのに、持ってますから使ってくださいたあ口が裂けてもいえないだろ?」
その時、窓を叩く音がした。二人はびくっとしてそっちを見た。すると、50代くらいの男性警備員が窓を覗き込みながら言った。
「ずいぶん前からここに止まっとるでしょ。路駐は違反ですよ。どなたかをお待ちなら、中の駐車場に入ってくれんですか?」
「あ、すみません。そろそろ行かなくちゃって思ってたんです。ごめんなさい。すぐ出ます」
降屋はそういうと、エンジンをかけ、車を発進させた。
 車を走らせながら、降屋が極美に苦笑して言った。
「警備員でよかったね」
「ええ。ちょっとヒヤッとしたわね」
二人は笑った。その後、降屋は話を続けた。
「で、連中は決めたのさ。いっそ、この後どういう風に広がるか実験を続けてみようってね。どうせ、アメリカから離れた極東の国のさらに端の島にある都市だ。大陸に比べて封鎖もしやすいだろう。いや、それより上手く行くとF県に近い半島から大陸の方に広まって無駄に人口の多い邪魔な中国が壊滅してくれればもっと良い。その間、アメリカはウイルスを発見した、超特急でワクチンも出来たといって、自国民に摂取すれば良い。ついでにそのワクチンを接種できる人間を選別すれば、自国の掃除も出来るとすら考えているかもしれない」
「いくらなんでも、それは無いんじゃない? 中国より先にアメリカ大陸でアウトブレイクするかもしれないし、世界経済だって無茶苦茶になるわ」
「それだけ中国が脅威ってことだよ。このままでは近いうちに中国からナンバーワンの地位を奪われる。かつての大英帝国がそうなったように。今まで・・・特に、ソ連崩壊後1人勝ちしていたアメリカにとって、ナンバーワンの座から引きずりおろされるということは、屈辱以外の何物でもないだろう。特に歴史の無い国だからね。オンリーワンよりナンバーワンなのさ」
「でも、その間自分達だって危険なはずでしょ」
「だから、ワクチンは持ってるんだよ。既に、主要人物には接種されているんじゃないかな。そもそも歴代大統領が世界制服をたくらんでいるというフリーメーソン会員だって国だよ。これを機に自分らの野望を叶えようとしたって不思議じゃないくらいだよ。そういうわけで、あの病院にアメリカの息がかかっているとしたら、口封じのために使われたって不思議じゃないって思ったのさ」
「そんな・・・。信じられない話だわ。結局アメリカにとって日本はその程度の国なのね・・・」
「世界地図を見てご覧よ。アメリカにとって日本は、ユーラシア大陸に対する最前線基地なんだ。チェスでも重要なコマだと思う。日本国民なんてどうでもいいのさ。わざわざ日本が戦争を仕掛けるように工作して敗戦に追い込み占領したくらいだもの」
「それは聞いたことがあるわ。真珠湾攻撃については、知ってたのにわざと攻撃させたって。日本を攻撃する口実にするために」
「それについては、9.11テロと似ているよね」
「そうか、そういうことなのね。・・・でも、何であなたがそんなことを調べることが出来たの? 一介の会社員なんでしょ?」
「そうだよ。僕はただの会社員さ。だけどね、ある組織に入ってるんだ。表の顔は宗教団体だけどね。実は、世界平和を実現するために、国内外のあらゆる組織に入り込んで情報を集めている非営利団体でもあるんだ。僕は彼らにコンタクトを取って情報を集め分析したんだ」
「組織?」
「うん。秘密結社とも言って良いと思うけど、それじゃちょっと外聞が悪いからね」
「そういわなくても充分胡散臭いわよ。今までのことがなかったらね。でも、私が今まで色々調べてきた事と照らし合わせると、確かにそういう可能性も出てくるわ・・・」
「わかってくれたんだね、極美さん」
「このままでは、この地がスケープゴードになってしまうかもしれないのよね」
「そうだよ。だから君がどんどんこれについての記事を書いて、少しでも多くの人に危機を知らせないと」
「それを考えると、ウチの雑誌にタブロイド色が強いことが悔やまれるわ」
「大丈夫。近いうちに、ある権威のある先生がこのことを発表する。そうなれば、このことが正しかったということに気付く人が大勢出てくるはずさ。そうしたら、君のひとり勝ちだね」
「ひとり勝ち・・・。ステキな言葉ね。でも、私はそれより使命的なほうに魅力を感じるわ。これは、私しか出来ない」
「そうだよ。このことを知ったジャーナリストは君だけだ。だけど、それだけ君は危険な立場にいることになるよ」
「覚悟の上だわ。何とかして奴らの鼻を明かしてやるんだから」
「やつら?」
「そうよ。ウイルスを撒いてそ知らぬ顔をして警察内部にいる教授やその秘書とか言う女、私の写真をデリった公安の男、あいつらよ」
「でも、関わった者として君をむざむざ危険に晒すことは出来ないよ。君だって、あの病院に入ることになりたくないだろう? だから今のホテルを早く引き払うんだ。僕の所属する教団経営のホテルに移るといいよ」
極美は焦った。彼女にとって宗教関係なんてとんでもない話だった。
「え? だって、いちおう宗教団体なんでしょ。私、無神論者で、そーゆーのは苦手だし・・・」
「大丈夫、宗教の勧誘なんて一切しないから。基本的に勧誘はしてはいけないことになっているんだ。そのホテルはね、DVや闇金の被害等にあって逃げ場のない人を多くかくまっているんだ。弱いものを助けることが使命であって、それと交換に入心をさせることは教義に対する重大な違反なんだよ。そんな訳でセキュリティもしっかりしているし、必要なら外出時も護衛がついてくれる。君の身を守るにはちょうど良いと思うんだ」
「う~ん・・・」
極美はしばらく考えていたが、意を決したように言った。
「わかった。そこにお世話になる。まず、このことを知らしめることが第一だよね」
「よ~し、決まった! じゃ、善は急げだ。極美さん今からホテルに向かうから、急いでチェックアウトして」
降屋はそういうと次の交差点で向きを変え、アクセルを踏んだ。

 
 感染症対策センター隔離病棟B。ここは危険度のやや低い感染症患者の収容病棟だが、現在はサイキウイルス感染の恐れのある人たちが隔離されていた。その1号室に、川崎三郎の妻、五十鈴(いすず)と、昨日から同室になった窪田華恵が居た。
 20ほど歳の離れた彼女らは、最初馴染めなかった。しかも、華恵が夫をこの病気で亡くしたばかりと言うので、尚更五十鈴は彼女になんと語りかけて良いか悩んだ。しかし、お互い話さないのも間が持たないので、ぎこちなくぼつりぼつりと会話をしているうちに、その日の夜までにはお互い身の上を話せるくらいになっていった。二人は消灯後寝付けないので、どちらとも無く自分のことを話しだしたのだ。
 五十鈴が華恵の話を聞いて、すこし戸惑ったように言った。
「ご主人が浮気を・・・、そうやったとですか」
「ほんっと、馬鹿ですよね。挙句の果てに、変な病気を感染されて頭がおかしくなって自分から車に轢かれたっていうんだから、もう、馬鹿馬鹿しくって涙も出んかったですよ」
「何と言っていいか・・・」
「でもね、自分が勝手に死ぬのは構いませんよ。なんで私までこんな目に遭わんといかんとでしょう。最近ほとんどあの人とは触れとらんとですよ。感染るわけないでしょう。なのにここの連中と来たら、一緒に暮らしている限りは感染リスクが上がるとか感染症法で決まっているからとか言って、強制的にここに入れたんです」
「私らも、もうそれなりの歳ですからね、なんていうか、あまり身体に触れるとかいうことも無くなってましたからね・・・。でも、お風呂とかトイレとかどうしても共有部分が出てきますし、洗濯物にも触れたりしてますから、ある程度は仕方ないんじゃないでしょうかね」
五十鈴は華恵より達観しており、医者の説明も理解していた。だが、華恵にはどうしても納得出来なかった。
「私が朝掃除をしていたら、ここの車が来て夫が事故に遭ってここに運ばれたと言うことで、慌てて取るものも取らずそれに乗って来たとです。家の中も放りっ放しですよ。そんな中に保健所の人が消毒に入るって言うんです。もう、ほんとに嫌ですよ」
「うちもね、主人が急に高熱を出して倒れたんです。驚いて、私、無免許ですから急いで救急車を呼ぼうとしたら、主人が、救急車はイカン、保健所に電話せれって言うからそうしたら、間もなくここの車が来て、二人とも連れてこられましてね。まあ、夫がそんな状態だったので来るなと言っても来たと思いますけど・・・。で、私もそのままここに居るわけですよ」
「それからご主人の様子は? お会いになれたとですか?」
「いえ、私も隔離されている身ですから、容態しか聞いてませんけど・・・、・・・」
五十鈴はそこで言葉に詰まった。華恵は、五十鈴の夫の容態があまり良くないことを悟った。
「あ、あの、でも、川崎さんのご主人ってお優しそうな方ですね。ずっと一緒に居られる秘訣はなんですか」
「そりゃあ、我慢することですよ」
五十鈴が笑って言った。
「我慢・・・ですか?」
華恵が少し戸惑って言った。
「我慢です。ウチの主人もああ見えて・・・、って、窪田さん、会ったことないのにわかりませんよね。たいして良い男でもないのにけっこう浮気性でしてね、年とった今は落ち着いていますが、若い頃はもう・・・。流石に愛人とかはこさえませんでしたが、たまに帰って来ないこともあって・・・、とうとうたまりかねて、一度家を出たんです。へそくりを全部持って当ても無くフラフラしてたら、一週間経ったかな、主人が私の宿泊先に迎えに来たとですよ。誰にも言ってないのにですよ。もう、犬かと」
五十鈴はそこでくすりと笑った。
「後で聞いたら、会社をずっと休んで私の足取りを追ったそうですよ。主人は私の顔を見るなり土下座して、もう浮気をしないと平謝りしたんで仕方なく帰ったとですよ」
「じゃあ、それからはもう浮気は・・・」
「とんでもない。しまいには私もあれは病気だと諦めるくらいに達観しました。また会社を休ませることになっても会社に迷惑をかけるだけですからね」
「羨ましいですよ、川崎さん」
「どこが。私もあれから何度も離婚を考えたんです。でも、そのたびに迎えに来た時の、迷った駄犬が飼い主を見つけたようなしょぼくれた姿を思い出してですね。もう、情けないやら可笑しいやら・・・」
「そうですか」
「今回だって、ご近所の奥さん達に担ぎ上げられて、彼女らと様子を見に行ったら、そこの未亡人がこの病気で亡くなってたそうで、そこで感染されたっていうじゃないですか。しかも、感染ったのは主人だけですよ。もうあのお調子もんがって・・・。何度私を困らせればいいんでしょうかね。しかも、容態は悪くなる一方らしくて・・・」
そういうと、五十鈴はすすり泣いた。
「川崎さん・・・」
「ごめんなさい。ここの方たちはよくしてくれるけど、こんな話をすることも無くて・・・。窪田さんが来てくれて良かった。なんか胸の閊えが取れたような気がします・・・」
「私もですよ、川崎さん」
華恵はベッドから起き上がると、五十鈴の方を見て言った。五十鈴は布団を被って泣いていた。
「夫の浮気のことは知ってたけど、誰にも言えなかった。私にだってプライドがあるって意地になってた。でも、ひょっとして私が夫を問い詰めたら、プライドを捨てて別れてくれって言えていたら、夫は死ななかったかもしれない。本当は昨日からずっと後悔してたんです・・・」
華恵の声はかすれ、期せずして涙がこぼれた。
「窪田さん?」
五十鈴も起き上がって華恵の方を見た。お互いが頬を濡らしているのを見て、二人はクスクスと笑ったが、それは再び泣き顔になった。その後どちらともなく近づいていき、似たような身の上の女性二人は向かい合って泣き続けた。

 そんなわけで、今朝起きた時は少し照れくさかったが、お互いの心情を吐露しあった二人は、なんとなく長年の友であったような気持ちになっていた。それに、二人とも感染の恐怖に怯えていた。五十鈴の言ったように、睦みあうことが無くとも同じ家に住んでいた限りは、感染の可能性は考えねばならない。共有部分が多いからだ。さらに洗濯を任されることの多い主婦の場合、汚れ物についた体液から感染する可能性があった。珠江がそうだったように。
 それで二人は、出来るだけ関係ない話をすることにした。
 華恵には子供が居なかったが、五十鈴には二人の子供が居た。一姫二太郎と理想的な順番で生まれてくれたと笑った。しかし、二人はそれぞれ県外に就職し、そちらで配偶者を見つけ、今では盆と正月くらいしか顔を見せないとぼやいた。
「今回だって父親が大変なのに一度も見舞いに来んとですよ・・・。子供なんて、居ても結局夫婦二人に戻ってしまうとやけん、寂しかもんですよ」
五十鈴は笑いながら言った。それで、今、犬を飼っているという。柴犬の雑種で、保健所から貰い受けてきたということだが、夫婦がこういう状態になったので、知人に世話を頼んでいるが、ちゃんとしてもらっているか心配だという。
「私ら二人ともどうかなったら、あの子がどうなるかと考えたら心配でねえ。また保健所に逆戻りされたりしたら、どうしようかと・・・」
「ここの人に頼んでみたらどうかしら? だって、無理やりここに押し込めたんだもの。そこら辺を何とかする義務がありますよ」
「ここん人たちは動物愛護の人たちやなかけん、そこまでしてくれんでしょう」
「そうですかね。困りましたね」
華恵がそう言った時、病室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
二人は声を会わせて答え、お互いを見て笑った。
「失礼します」
そういって入って来たのは、防護服に身を包んだ高柳だった。傍にはギルフォードと背後には看護師が二人、同じ装備で控えていた。
「今日は診察で来たのではありません」
高柳が神妙な顔で言った。五十鈴と華恵は嫌な予感に身構えた。
 高柳は五十鈴の方を向いて静かに言った。
「川崎さん、先ほど・・・ご主人の三郎さんが亡くなられました。昼過ぎ頃から容態が急変して、私たちも手を尽くしましたが、力が及びませんでした。本当に急でしたので、奥さんにご主人の危篤をお知らせすることも出来ずに申し訳ありません。ご主人は最後までうわごとであなたのことと、はつねさんのことを心配されておられました。はつねさん、お子さんでしょうか・・・?」
「初音は飼っている犬です・・・。あん人ったら、子供のことより犬のことを・・・」
五十鈴はへたへたと座り込んだ。下を向いた顔からハタハタと涙がこぼれた。ううっと嗚咽を漏らすと、五十鈴は両手で顔を覆った。
「うそ、うそです・・・」
五十鈴がか細い声で言った。
「あん人が私を置いていく訳がなかとです。あん人は私がおらんとだめな人なんです。そぎゃん人が私を置き去りにしていくことなんかありまっせん。死ぬわけがなかです」
「川崎さん、しっかりして」
華恵が慌ててしゃがみこみ、五十鈴の肩を抱いて言った。しかし、五十鈴はそれに気付かずにつぶやいた。
「あん人は必ず私を迎えに来てくれます。死んでなんかいません」
「川崎さん、そんな不吉なこと言わんと。しっかりせんね。あなたまで死んだら残された初音ちゃんがかわいそうやろ?」
「窪田さん・・・、私、私・・・どうしたら・・・」
五十鈴はそう言うと華恵にしがみついた。うわあ~っと五十鈴の号泣する声が病室に響いた。
「三郎さん、三郎さん・・・」
華恵にしがみつきながら、五十鈴は夫の名を呼び泣き続けた。高柳たちは黙って静かにそれを見ていたが、彼らの目も一様に潤んでいた。しかし、高柳にはこの後辛い説明をする義務があった。これから先、一体どれだけこういうことが起きるのだろう・・・。四人はやるせない気持ちでその場に立っていた。
 

続きを読む "1.暴露 (8)コンスピラシー"

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1.暴露 (9)メガローチ・エフェクト

「葛西! 右だ! 右に回れッ!!」
「ちょっと待て! そっちに行ったら・・・」
「い~から回れ! 橋壁に追い詰めるんだ」
「追い詰めるって、こいつ、飛ぶんだぞ!!」
「でゃ~じょ~ぶ、おそらくだが、こいつらはいきなり飛べにゃあって。くそ、そう言っている間にまた形勢が変わったじゃにゃあかっ! いいか、葛西、こいつはなんとしても捕獲するぞっ」
「りょぉぉかぁいっ!!」
 葛西がヤケ気味に答えた。

 二人は例の川でのメガローチ捕獲作戦の遂行中だった。
 今日が作戦の最終日ということもあって、ジュリアスはかなり意気込んでいた。対して葛西はいまいち引き気味だった。昨日の「足二本」がかなりショックだったらしい。それでも与えられた職務をこなすために、黙々と罠のチェックをしていた。しかし、かかっているのはほとんどゴキブリ以外の昆虫や小動物だった。昆虫はともかく小型哺乳類が罠にかかって死んでいたり虫の息だったりするのを見ると、可哀想なのと申し訳なさで、なんともいえない嫌な気分になる。葛西に元気がないのはそのためでもあった。ジュリアスは慣れているだけあって、顔色も変えずに淡々とそれらをサンプルとして採取していた。しかし、肝心のメガローチがまったく掛かっている様子が無い。3日目も昼を過ぎたのに、一向に成果の上がらないことに、ジュリアスは若干あせりの色をみせていた。
 しかし、二人が昨日罠にかかっていたメガローチを取り逃がした橋まで来ると、状況が変わった。橋台の近くに何か黒いものが見えた。ジュリアスは無言で葛西をとめた。
「なんだよ、ジュリー」
「シッ」
 ジュリアスが口の辺りに人差し指を当て、葛西にしゃべらないよう指示した。ジュリアスは続けて小さめの声で言った。防護服を着ているため、声の大小の判断が難しい。
「あれを見ろ、葛西。メガローチだわ。罠にかかってはいにゃぁが、なんか弱っとるようだなも。きんのう(昨日)逃がしたやつかもしれにゃぁぞ」
「昨日逃がしたやつなら、足が2本欠落しているはずだよ。再生能力があるならべつだけど」
「昆虫に再生能力はにゃあぞ。いくら変異体といっても昆虫である限りそれはにゃーと思うて。捕獲器の粘着剤には殺虫成分も含まれとるからな。かなり弱っとるようだわ、ありゃあ」
「だとしたら、捕獲のチャンスだね」
「ああ。じゃあ葛西、こそっと近寄ってみよまい」
 二人は足音を忍ばせて近づいた。それでもやはり敵は気配に感づいたらしい。ゆっくりと二人の方に身体をむけ、臨戦態勢に入ったようだった。ジュリアスは葛西に小声で言った。
「やはり気付かれたな。これから一気にカタをつけよう。走るぞ、それっ!」
 二人は目標に向けて駆け出した。

「案の定、きんのうまでの俊敏さはあーせんな。こりゃー追い詰める必要はなさそうだわ。このまま網で捕獲しよまい。葛西はフォローを頼む」
 ジュリアスはそう言うや、すぐに網を構えターゲットに対峙した。葛西はソレを中心にしてジュリアスと反対側に立った。
(フォローってどうすんだよ・・・)
 葛西は、背筋がざわざわするような嫌悪感を感じながら思った。その時、そいつが翅を広げぶぅんという羽音を響かせた。
「気をつけろ! 飛ぶぞっ!!」
 ジュリアスが言うか言わないかのうちに、そいつはふわっと飛立った。そして、ぶんという羽音を響かせながら、こともあろうに葛西の方に向かってきた。
「葛西ッ!!」
「うわぁああ~っ!」
 ジュリアスが葛西を呼ぶ声と、葛西の悲鳴が同時に響いた。

 ジュリアスは、とんでもないものを見た。あのメガローチが葛西の顔にべったりと張り付いたのだ。
「きゃーーーーー!」
 葛西が情けない悲鳴を上げた。
「嫌~~~っ! ジュリー、早く捕獲してくれぇ!!」
「葛西、うろたえるな、男だろ? そのままじっとしてろ、ええな!」
「蟲の腹が目の前にっ!! 気門が、気門がぁ~~~」
「うるさいやつだな。おれたちはサラトガ(NBC防護服)を着込んどるんだわ。感染りゃあせんがね」
「視覚的にキモいんだよ、腹の気門がっ! いいからさっさとしてくれぇ!!」
 葛西の声は裏返っていた。ジュリアスが肩をすくめて言った。
「おみゃーさんが自分で取ってもええんだが」
「無理ッ!」
 葛西は全力で否定した。ジュリアスはため息をついて葛西の方にそっと近づき捕虫網を上段に構えた。そしてそのまま葛西の頭目がけて振り下ろした。だが、僅差で彼奴は葛西の顔面に見切りをつけ飛立った。ジュリアスはあきれ返ってつぶやいた。
「ちくしょう、弱っとるくせに何てやつだ」
「ジュリー、もういいから網を取ってくんない?」
 葛西が網を被ったまま、仏頂面で言った。
 件の蟲は、ジュリアスの網は逃れたものの、すぐにフラフラと地面に着地した。ジュリアスの言うように相当弱っているのは確からしい。すかさずジュリアスは網を持って突撃した。蟲は逃げ出したが、さっきの飛翔が最後の力だったらしい。大きな身体でヨロヨロとしながらそれでも必死で逃げていた。その姿は、葛西にはなんとなく憐れに思えたが、ジュリアスは構わず網を振り下ろした。
「メガローチ、ゲットだぜ!」
 ジュリアスが右手の親指を立て、ニッと笑って言った。それを見て葛西は深いため息をついてしゃがみこんだ。
「葛西、気を緩めるのはまんだ早いぞ。これからコイツをきんのうのヤツかどうか確認した後、ケースに入れてから専用ボックスに入れるんだ」
 と、ジュリアスが捕虫網の中身を確認しながら言った。
「はいはい。もうひと頑張りしましょうかねえ」
 そう言いながら渋々葛西が立ち上がると、ジュリアスが尋ねた。
「さっき、顔に張り付いた時に足を確認できたか?」
「そんな余裕ねえよっ! ってか、思い出させんなっ!!」
 葛西は泣きそうな顔で言った。

 捕まえたメガローチはやはり足が2本欠落しており、予想通り昨日逃がした個体だった。いったん逃げたものの殺虫成分が回り、住処に帰ろうとした途中に動けなくなったのかもしれない。ようやく捕らえたメガローチをバイオハザードマークのついたボックスに収容し、葛西とジュリアスの任務は終わった。
「1528(ヒトゴォニィハチ)任務完了。葛西、頑張ったな」
「ふわぁ~。くそ暑いわ気持ち悪いわで、もぉ・・・」
 葛西はもう一度ため息をつきぼやきをいれると、河川敷にどかっと座り込んだ。
「疲れたっ!!」
「おい、葛西。衛生面からは感心出来にゃあぞ」
「防護服着てるんだから、大丈夫なんだろ?」
「それもそうだな。おれも疲れたからそうしよまい」
 ジュリアスは葛西の横に座ると改めて言った。
「葛西、ひょっとしておみゃあさん、昆虫がきりゃあ(嫌い)なのか?」
「うん、実はゴッキーに限らず、節足類は全般的に苦手なんだ。妙に機械的だし、そのくせ気持ち悪いし」
「そうか。何かそんな感じだったからな」
「いいな、ジュリーは。平気なんだもんな」
「ところがさ、実は、おれもおみゃあさんと同じなんだわ。仕事なんで仕方なく慣れたけどな」
「マジかよ?」
「マジだて」
「よく自分から捕獲を言い出したな」
「アレックスにやらせる訳にはいかにゃあだろう?」
「まあ、そうだけど」
「ほだから、仕事以外では関わりたくにゃあんだ」
「そっか。それで、あんなに作業が事務的だったんだ。好きならもっと楽しそうにやるよね・・・」
 そう言うと、葛西はくくくっと笑った。
「何が可笑しいのかね、葛西」
「だって、虫嫌いが二人、よりによって最大級のゴッキーと三日間悪戦苦闘してたんだよ」
 葛西はそう言うと、今度は盛大にあははははと笑い出した。
「しかも、テレビカメラにまで追われてさあ」
「そう言やあそうだな。ははは・・・」
 ジュリアスも釣られて笑い出した。二人はしばらくの間、梅雨空の下、仲良く笑っていた。
 

 由利子は、ギルフォードの研究室の方に来ていた。警察のデータベースを利用しての容疑者探しはいったん中断された。
 昨日駅で死んだ男の写真をマル暴、すなわち、松樹の古巣である組織犯罪対策部の捜査四課に見せ、確認を急いだ。その結果、広域指定暴力団D会の構成員であることがわかったからだ。
「事実上は、『だった』らしいですけどね。組の方では面子が立たないのか認めたがらないようですが」
 ようやく感対センターでのぎうぎうから解放されて、自分の研究室に戻ったギルフォードは、紗弥の淹れたミルクティーで一服しながら言った。
「どういうこと?」
 由利子が真っ先に尋ねた。彼女は自分が深く関わった事件だけに、誰よりも真相が知りたいと思っていた。
「半年ほど前に四課の刑事さんにね、こっそり言ってきたらしいんですよ。自分らは素晴らしい人に出会ったから、堅気になってやり直したいって」
「まあ、でも、そう簡単に足は洗えないんじゃありませんの?」
 紗弥が、パソコンのキーボードを打つ手を止めて聞いた。
「もちろんそうです。とても簡単に抜けられる組織ではないでしょう。ところが3ヶ月ほど前に、二人とも忽然と姿を消したらしいんです。まるで、神隠しに遭ったみたいに」
「二人ともって、ひょっとして?」
「そうです、ユリコ。おそらくもう一人も、ユリコのバッグを狙った片割れですよ。名前は・・・えっと、自爆したのがタムラ・コスモ(多村越百)、もう一人が・・・そうそうキョウからそいつの写真を預かってきました。ユリコに確認して欲しいということです」
 と言いながら、ギルフォードはジーパンのポケットから手帳を出し、中から一枚の写真を取り出すと由利子に渡した。
「これが、もう一人の男、ワタナベ・タユヤ(渡部太夫也)の写真です」
 由利子は写真を受け取ると、一瞥するなり言った。
「間違いないわ。この男よ」
「やはりそうでしたか」
 と、ギルフォード頷きながら言った。
「二人とも見事なドキュンネームで・・・。いえ、それはともかく、ということは・・・」
 由利子が言った。
「あの引ったくり事件の時は、二人とも『神隠し』の最中だったってことよね」
「そうなりますね」
「それで、彼らが出会った『素晴らしい人』っていうのは?」
「それが、断固として言わなかったらしいです。その刑事さんが言うには、多分宗教がらみじゃないかと」
「宗教? チンピラヤクザが宗教にねえ・・・」
 由利子が腕を組みながら、小首をかしげて言った。
「何かとアコギな商売です。宗教に逃避する人が居ても不思議じゃないでしょう。まあ、僕にも暴力団にあこがれる人の気持ちは理解できませんけど」
 そう言いつつ、ギルフォードは肩をすくめた。
「それにしても・・・」由利子が眉間にやや皺を寄せながら言った。「なんで、そんな素晴らしい人とやらに感化されたヤツがひったくり事件を起こし、さらには駅で『自爆』テロを起こすわけ?」
「たしかに、ロクでもなさそうですね」
 と、ギルフォードが相槌を打った。二人を見ながら紗弥が口を挟んだ。
「どっちにしても、想像の域を越えていませんわね」
「じゃあ、せっかく進展したって思ったのに、またどん詰まったってこと?」
 由利子が不満げに言うと、ギルフォードがフォローした。
「いえ、少しだけど前進しましたよ。こうやって少しずつでもピースを集めていけば、いずれ必ずなにかの形が見えてくるはずです」
「気の長い話・・・ですねえ」
「捜査と言うのは、地道に根気良くが基本ですよ。急(せ)いては事を仕損じます」
「まあ、そうですが」
「ところで、ユリコ、昨日の今日ですが、世間ではなにか変化はありませんか?」
「そうですねえ・・・」
 ギルフォードに急に聞かれて由利子は少し考え込んだが、すぐに答えた。
「ここに来るまでの道のりで思ったんですけど、なんか、梅雨空の下で、妙に掃除をしている家が多かったですね」
「そうですか。やはり、あの昨日の放送はショッキングだったんですね」
「あ、ガイアテレビのメガローチ写真ですか」
 由利子がぽんと手を叩いて言った。ギルフォードが嫌そうに苦笑いをすると言った。
「ひょっとしたら今週末は、大晦日のすす払いみたいになるかもしれませんね」
「九州各地で大掃除ですか。とんだメガローチ効果ですね」
「なんかバタフライ・エフェクト(効果)みたいですね。ワシントンで竜巻でもおきそうです」
「カオスですよねえ・・。」
 由利子が憂鬱そうに言った。ギルフォードは、そんな由利子を見てにやりと笑って言った。
「あのねユリコ、途中で気がついて敬語に直さなくてもいいんですよ。ジュンに話すように普通にお話ししてもらっていいですから」
「あは、あははは・・・」
(気付いていたか・・・)
 そう思いながら、由利子は笑って誤魔化した。
 

 華恵は五十鈴のベッドの横で心配そうに座っていた。五十鈴は高柳から夫の死後の措置についての詳細を聞き、ショックに次ぐショックでついに倒れてしまったのだ。
 五十鈴が身じろぎし、ふっと目を開けて華恵を見た。
「窪田さん・・・・」
「あ、川崎さん、起きた?」
 華恵が喜んで五十鈴の手を握ろうとしたが、五十鈴はそれを止めた。
「待って、窪田さん。先生が言われたでしょ。発症してないからリスクは低いけど、万一を考えてあまりお互いに触れないほうがいいって・・・」
「川崎さん?」
「心配かけてごめんなさいね」
 五十鈴は華恵の方を向いて言った。
「ううん、気にせんでください。辛いのはお互い様だし」
「窪田さんは知っていたんですよね・・・。この病気で亡くなった人がどうなるか」
「ええまあ・・・。それを聞いたときは流石にショックで雷に打たれたような気持ちになりましたが、でも、今は全然実感がわかないんですよ。昨日のことなのに」
「相当お辛いんですね。きっと」
「そうでしょうか・・・」
「そうですよ・・・」
「黙っていてごめんなさいね。でも、こういうことを口にするのも不安が募るばかりでよくないと思って」
「いいえ、私こそ、そんなお気持ちを汲みもせずに、やたら話しかけてから・・・」
「いえ、おかげで気が紛れました。昨日の状態でこんな部屋にたった一人でいたら、きっと神経がまいっていましたよ」
「そう言ってくださると嬉しいです・・・」
「川崎さん、なんかまだキツそうですよ。もう少し眠られた方がいいですよ」
「ええ、そうですね。でも、昼間寝すぎると、夜寝られなくなるんじゃないかって」
「大丈夫ですよ。私、よくお昼寝しますが、けっこう夜も眠いですよ」
 華恵は笑いながら言って、五十鈴を安心させようとした。
「そうですか。じゃあ、もう少し眠らせてもらいますね」
 五十鈴はそう言った後、静かに目を瞑った。相当疲れていたのか、五十鈴はすぐに眠りに入った。同居人が静かに寝息を立て始めたのを見ると、華恵は自分も眠気を感じてふわあっとあくびをした。
「じゃ、私もお付き合いして少し眠ることにしましょうか」
 華恵はそう言いながらベッドに横になった。

 
 GFこと緑原蔵人は、身動き出来ずにいた。

 彼も日曜に緊急放送を聞いたのだが、持ち前の脳天気さから特に焦って対策をするようなことはしなかった。しかし、周りがゴキブリ対策をどんどんはじめ、さらに、昨日のNS10で放映された映像を見て流石に不安になった彼は、重い腰を上げて薬局に向かった。しかし、時は遅く、どこの薬局もゴキブリ対策の目ぼしいものはほとんど売り切れており、コンビニや量販店も同じことだった。仕方なく、適当に肌用の虫除けスプレーを買って帰った。蚊避けだが無いよりはマシかも知れない。あとは、押入の中に古い『ローチがっつりとれとれポイポイ』が残っていたはずだ。
 家に帰ってすぐに押入に入り込み、化石堀のようにいろんな『お宝』を掘り起こした末にようやく捜し物を見つけた。
「よしよし、期限は去年で切れているけど、まあ、大丈夫だろ」
 彼はそうつぶやくと、箱を開けようとしたが、なにかが箱からぱさりと落ちて、彼はぎょっとした。見ると、それは干からびたゴキブリのミイラだった。誘引剤の臭いに引き寄せられて来たのかも知れない。
「一体いつの死体だよ・・・」
 幸い、ミイラ化の様子から今回の騒動とは関係なさそうだった。緑原は、それをティッシュで掴んで手近なコンビニ袋に入れ、口をしっかりと結ぶとゴミ箱に捨てた。その後気を取り直して『ポイポイ』を箱から出し、組み立ててキッチンの隅に置いた。
「まあ、気休めにはなるだろ。ついでにこれも試してみようっと」
 緑原はさっき買ってきた防虫スプレーの包装フィルムを外すと、自分の腕に向けて軽くスプレーした。腕を中心に、独特の匂いが漂った。
「うわっ、く、臭ぇっ!」
 緑原はスプレーを放り出すと、右手で鼻の辺りを扇ぎながら言った。
「なんじゃあ、こりゃあ・・・」
 薄荷と唐辛子とシナモンを混ぜて煮込んだものに、レモンピールをぶちまけ、隠し味に正露丸を入れたような、自己主張の塊のような匂いだった。悪臭とは違うがかなり臭いがキツイ。これじゃあ、売れ残っているはずである。涙目になりながら、緑原は防虫スプレーの説明を読んだ。
「えっと、何々? 『12種類の天然ハーブを使った、人にも環境にも優しい虫除けスプレー。ナチュラル派もこれで満足』ぅ? なんじゃこら?」
 緑原はもう一度、今度は空中に軽く散布してみた。と、いきなり咳が出た。
「ぶはごほげほっ、ごほごほ。これじゃ、虫どころか人も近づかんぞ、と」
 緑原はそう突っ込むと、スプレーを本棚の適当な棚にぽんと置いた。それからすぐに窓を全開にした。すると、だいぶ臭いが緩和されてきた。
「ああ、ひどい目にあった」
 緑原はため息をついて言った。でもまあ、万全ではないがこれで気休めくらいにはなるだろう。そう思ったら、いきなり腹がぐうと鳴った。ふと時計を見ると1時を過ぎていた。腹のすくはずである。緑原は、流しの上の吊棚の扉を開けて、そこにずらりと並ぶカップ麺の中から1.5倍のカップ坦々麺を取ると、食べる準備をはじめた。
 食事が終わると睡魔が襲ってきたので、緑原は眠ることにした。受けなければならない講義は4時からである。今昼寝しても充分間に合うだろう。そう思うと、緑原は躊躇なくごろんとベッドに横になった。
 ところが次に目が覚めた時、時計を見ると既に4時を回っていた。
「わちゃっ!」
 彼は時計を見て飛び起きた。
「いけね、遅刻だ。この講義、代返効かないんだった」
 緑原はそう言いながら寝覚めに顔を洗おうと、椅子にひっかけていた汗拭き用のタオルをひっつかみキッチンの流し台に急いだ。しかし、キッチンに足を踏み入れた途端に彼の動きが止った。キッチンの隅に、何やら黒い塊があった。昼に例の『とれとれポイポイ』を置いた辺りである。昨日と一昨日のウイルス報道を思い出して、恐怖で彼は身動きが出来なくなった。彼はそのまましばらく銅像のように突っ立っていた。

 しかし、いつまでもそうやっているわけにはいかない。彼はにじにじと横にゆっくり動き、蛍光灯のスイッチに手を伸ばし、明かりを点けた。急に部屋が明るくなり、黒い塊はうろたえてワラワラと動き出した。
「うへぇっ!」
 能天気な緑原も流石に悲鳴を上げた。彼は一部自分に向かってくる虫たちに向かってスリッパを投げ牽制した。そのまま彼は部屋に逃げ込み、咄嗟に本棚の虫除けスプレーに手を伸ばした。
「食らえっ!!」
 彼はそう叫ぶと闇雲にスプレーを撒いた。近所から苦情が来そうなほど、臭いが立ちこめた。緑原は口と鼻をタオルでふさぎ、咳き込みながら涙目で様子を見た。苦し紛れの攻撃で、彼は、それが効くとは思っていなかった。しかし、思いがけず、虫たちは部屋の戸口で止まり、方向転換をはじめた。しばらくすると、あれだけいた虫はすっかりいなくなっていた。ポイポイに捕まった数匹を残してだが。
 緑原はほっとした。しかし、何で例の虫がこんなに大発生したのか。緑原は嫌な予感がして、外に様子を見に行くことにした。玄関を出て周囲を見た。緑原以外に異変を感じた者はいないようだった。もっとも、ほとんどが学生や独身の会社員の住む安アパートである。昼間は皆出勤で留守をしているのだ。居るのは数人の学生くらいだろう。
 緑原が様子を見ていると、どうやら右隣の部屋の玄関先で、チョロチョロする黒いモノが見えた。おそらく虫の出所はそこだろう。その部屋は、アパートの角部屋で、道路に面している。しかし、当然のことながら緑原は確かめる勇気がでなかった。それで取りあえず110番してみることにした。
「うう、嫌なことになってきたなあ・・・。単位大丈夫かな、オレ」
 緑原は、ブツブツ言いながら部屋に帰った。
 

 華恵は、自分の名を呼ぶ声に目が覚めた。ちょっと仮眠するつもりがすっかり眠ってしまっていた。華恵は跳ね起きると隣のベッドを見て驚いた。五十鈴が苦しそうに喘ぎならが華恵を呼んでいたからだ。
「川崎さん!!」
 華恵はベッドから飛び降りると、同居人の傍に駆け寄った。
「だめ、近づかないで・・・!」
 五十鈴が華恵を制止して言った。
「熱が出たごとあります。多分発症したとでしょう。すみませんが、先生を呼んでくれませんか?」
「川崎さん、そんな・・・」
 華恵は愕然として言った。五十鈴は悲しそうな笑顔で言った。
「せっかくお友だちになれたのに、ごめんなさいね」
五十鈴はそう言うと、華恵に背を向けてむせるように咳き込んだ。
「川崎さん!!」
 華恵は急いで緊急ボタンを押した。
「すみません、川崎さんが・・・!! 先生、先生! 早く来てください!!」
 華恵は必死でそれだけ言うと、再び五十鈴の傍に寄ろうとし、また制止された。
「窪田さん、近寄ってはだめです。あなたは生きてください。・・・そして、ここを出たら、お願いがあります・・・」
「何?」
「初音を・・・あの子がどうしているか、様子を見に行ってください。近所の方にお世話をお願いしとぉとですが、それだけがずっと気がかりなんです」
「初音ちゃん? あ、ワンちゃんね。わかった、わかったから安心して。私がなんとかしますから」
 華恵が言うと、五十鈴は苦しい息の中、嬉しそうに笑った。その時、重装備の医師と看護師が、ストレッチャーと共に部屋に入ってきた。
「窪田さん、あなたは大丈夫ですか?」
 部屋に入るすぐに、山口医師が尋ねた。
「はい、私は・・・」
「川崎さんは、これから一類感染用の病室に移します。この部屋も消毒しますから、窪田さんも別の部屋に移動していただきます。よろしいですか?」
「は、はい。・・・あの、それで、川端さんは・・・」
「はい、出来る限り手を尽くしますから、心配なさらないで」
 山口が、五十鈴の容態を診ながら言った。しかし、それが気休めであることは、華恵にもわかった。
 ストレッチャーに乗せかえられ、五十鈴は病室から出て行った。華恵は呆然としてそれを見送った。五十鈴の姿は遠のき、無情に病室のドアが閉められた。
「川崎さん・・・。そんな、そんな・・・」
 華恵はつぶやきながら、ベッドサイドに力なく座った。

 
「葛西、行き先変更だ」
 ジュリアスが、無線を切ると言った。
「A町のK荘というアパートの緑原って人から通報があったらしい。ローチが大発生しとるんだと」
 緑原と聞いて、葛西は驚いた。
「緑原・・・? GF、あいつか!」
「何だ、知り合いかね」
「うん、例の『トルーパー』の動画を教えてくれたやつだよ」
「なるほど、C川の傍のアパートかね。ローチが大量発生しても不思議じゃにゃーか」
「しかし、また会うことになるとはねえ・・・」
 葛西はしみじみと言ったが、すぐに姿勢を正した。
「じゃ、行こうか。こんな車と格好じゃ目立って仕方がなさそうだけど」
「これ以上適切な格好はにゃぁだろ」
 ジュリアスが、にやりと笑って言った。

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1.暴露 (10)香草狂詩曲(ハーバル・ラプソディ)

 葛西とジュリアスが急行すると、緑原が心配で居ても立ってもいられないといった風情で待っていた。
「ト、トルーパー?」
 緑原は、葛西たちの姿を見て怯えながら言った。
「どう見ても違うだろ。良く見て。これは生化学防護服だって。僕だよ、葛西だ。K署の刑事だよ」
「え?」
「大丈夫かい、GF?」
 緑原は声をかけてきた重装備の警官の顔をまじまじと見て、ようやく誰かわかったらしい。駆けつけた警官が会った事のある人物だとわかって、不安げな表情が安心したものに変わった。
「ああ、あの時の刑事さんなの。良かった・・・」
 そう言って、彼は葛西に駆け寄ろうとした。
「おっと待った! 消毒はしているけど、念のため防護服には近づかないで」
 葛西が牽制すると、緑原はぎょっとして止った。
「・・・ですよね」
「何があったんだい?」
「それが・・・」
 緑原は、昼寝から覚めてからの一連の出来事を話した。
「そうか。偶然防虫スプレーが効いてよかったね。連中にたかられていたら、これからの状況によっては隔離されたかも知れないよ」
「うへえ、危ないところだったなー」
「後で、そのスプレーを見せてくれるかい?」
「はいはい。もちろんですよ」
 緑原は二つ返事で答えた。
「さて、問題は隣の部屋だな。ここ、管理人さんはいるのかい?」
「常勤はいないんで、管理会社に電話するしかないけど・・・」
「すぐに連絡して合い鍵を持ってきてもらって」
「もう連絡してるんで、もうすぐ来るはずだけど・・・」
「じゃ、もう少し待ってみよう。住んでるのは男性? 女性? 表札には『海老津』ってしか出てないけど」
「男性です。たしか・・・。あまり会ったことないけど」
 緑原はそう答えると、少し間を置いてから葛西の防護服を指して言った。
「ね、刑事さん。あのようつべのトルーパー映像って、それだったんだねえ」
「実はそうなんだ。ホントのこと、教えなくてごめんよ。あの時はまだ色々と微妙な時だったんで・・・」
「オレ、日曜の放送を見てわかったんだ。刑事さんが実はウイルスについて調べてたってこと。なんかオレ、トンチンカンなネタかましちゃったみたいだね」
「いや、役に立ったよ。一段落したらお礼に来ようと思ってたんだよ。こんな形で再会するとは思わなかったけど」
「オレもそう思うよ。ところで、このサイキウイルスって、ひょっとしてアンドロメダ・ウイルスなんじゃないの?」
「まだ、調査段階だからはっきりしないけど・・・」
(多分、それはない)と、葛西は心の中で続けて言った。
 そんな話をしている間に、60歳くらいの男性が階段を上ってきた。だが彼は葛西とジュリアスの異様な姿を見て驚いて、一歩後ずさりをした。
「あ、管理人さん、こっちで大丈夫です」
 緑原が手招きした。
「うちの隣の1号室に虫が大量発生しているみたいで・・・」
「ええっ?」
 管理人が汗を拭き拭き言った。
「虫って、まさか例の?」
「そんな感じです」
「管理人さん」
 葛西が言った。
「K署の葛西です。こういう格好なんで手帳はお見せできませんが」
「あの、ここに例の感染者がいるということですか?」
「様子を見ないことにはなんともいえませんから、合鍵を」
「あ、はいはい」
 管理人は急いで合鍵を出すと問題の部屋に向かおうとした。葛西が急いでそれを止めた。
「危険です。近づかないで!」
「えっ、危険!?」
 管理人が鳩が豆鉄砲を食らったような顔で言った。葛西はいまいち状況を飲み込んでいない管理人に指示をした。
「三歩こっちに来て鍵を置いて、緑原さんの傍まで戻ってください」
「ダメですっ! 鍵は困りますっ!」
「僕は警官ですよ。心配されなくても大丈夫ですから」
「そんなこと言ったって、私が怒られるんですっ!」
 躊躇する管理人に向かって、葛西はとうとう待ちきれずに怒鳴った。
「隔離されたくなかったら、そうしてください!!」
「は、はひっ!」
 管理人は急いで鍵を置くと、弾かれたようにして緑原の傍に行った。
「GF、念のため、例のスプレーを持って来て。ついでに管理人さんにかけてあげて」
「アレを? でも、ひどい匂いだけど」
「いいからいうとおりにして」
 そういいながら、葛西は鍵を取って件の部屋のドアに向かった。ジュリアスがその後に続く。葛西が鍵を開けていると、緑原の部屋の付近で、シューッと言う音と共に咳き込む声がした。
「ジュリー、開けるぞ、いいかい?」
「殺虫剤スタンバイOK。開けてちょーよ」
 葛西はそうっとドアを開けた。数匹黒い虫が這い出してきた。すかさずジュリアスが殺虫剤を散布した。
「いるようだて。応援部隊はどうなっとるんかね」
「もうすぐ来るとはずだよ」
「とにかく、中の様子を見よまい」
「OK、じゃ、突入するぞ」
「了解!」
 葛西がもう一度ドアを開け、二人はすばやく室内に入った。すかさず葛西がドアを閉め、ジュリアスがもう一度ドアの周囲に殺虫剤を散布する。殺虫剤に巻かれた葛西は顔をしかめた。防護服のため影響はないが、あまり気持ちの良いものではない。無意識に顔の前を手で仰ぎながら声をかけた。
「誰かいますか? 居たら返事をしてください!」
 反応なし。葛西は、灯りのスィッチを探しながらもう一度大声で言った。
「誰かいませんか!!」
 やはり返事がない。スィッチを探しあてた葛西が灯りをつけた。あちこちに黒い虫がちょろちょろしていたが、半開きの部屋の戸から、何かが横たわっているのが見えた。二人は急いで部屋に向かった。
「生存者はいますか? 殺虫剤を散布しますから、いたら口と鼻を押さえて!」
 葛西が言うや否や、ジュリアスが横たわったもの目がけて殺虫剤を散布した。横たわったものから黒いモノがわらわらと逃げていく。
「葛西、部屋の中の戸を全部開けてちょーよ。流しの扉や吊棚も頼むわ! 隅々まで散布するっ!! 一匹も逃がさにゃーぞ!!」
 ジュリアスは押入れの戸を開けながら言った。

「やっぱ、亡くなってた? じゃ、じゃあ、オレ、虫だらけになった死体のある部屋の隣で寝起きしてたってことなの?」
 緑原が鼻白んで言った。
 後は鑑識に任せ、葛西は緑原に説明をしていた。部屋の中には消毒しないと入れないという指示がでたので、彼らは緑原の部屋の玄関前で話をしていた。
 葛西が気の毒そうな目で答えた。
「そうだね。まあ、それは1日くらいのはずだけど」
「うぇぇぇ~、マジ、シャレになんね~」
 そう言うと、緑原はいきなり両手を合わせて隣の部屋に向かって拝み始めた。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ。お隣さん、ちゃんと成仏してくださいよぉ」
「君、隣の人との交流はなかったの?」
「交流も何も、お隣さん、お仕事が夜勤だったみたいで、オレ等とは正反対の生活でさ。ううっ、つるかめつるかめ」
「それじゃ仕方ないね。しかし、お隣さんがどういうルートで感染したかが問題だな。もし、このアパートで感染したんなら、かなり問題だ」
「なんで?」
「虫食い遺体の発生地の感染リスクがかなり上がるだろ? それに、ひょっとしたら死んだのは君だったかもしれないし、これからだって感染の可能性がある」
「ひぇ~、勘弁してくださいよぉ」
「この周囲一体の感染リスクが一気に上がるから、対策の再考もしなきゃならないだろうし」
 今まで二人の会話を黙って聞いていた管理人が、心配そうに言った。
「あのお、じゃあ、この辺一体が立ち入り禁止地区になるんで?」
「まだ、なんとも言えませんが、状況次第では、最悪そうなるかもしれません」
「大事じゃありませんか。この辺だって住宅も多いし小さな会社やお店が沢山あるんですよ。彼等の生活はどうなるんです?」
「守られなければなりません。だからこそ、早急に感染ルートの特定が必要なんです」
 葛西はきっぱりと答えた。そこに、現場に残って鑑識と一緒に遺体の検分をしていたジュリアスが戻ってきた。
「待たせたな、葛西」
「あ、ジュリー、どうだった?」
「初めて現場での遺体を見たけどな、生々しいだけで、まあ、例によって見事な食われっぷりだったがね」
 緑原は、近くに来たジュリアスの顔を改めてまじまじと見て、小さい声で「萌え」と言った。ジュリアスは、三人を見比べながら言った。
「何、みんなで便秘したような顔をしとるのかね」
「便秘はねぇだろ」
 葛西は肩をすくめながら言うと、管理人の方に向きなおして聞いた。
「管理人さん、この人の名前とか経歴とかわかりますか」
 管理人は、玄関の表札を指差して言った。
「名前はそこに書いてあるのと同じやったです。後は、事務所に帰って調べないとわかりませんが・・・」
「勤め先とかわかりますか?」
「それも、調べてみないと・・・。多分仕事を変わってなければわかると思います」
「じゃあ、管理人さん。そこら辺の情報がわかったら、署まで連絡ください」
「わかりました。葛西さんでしたね。今から調べてきます」
 そういうと管理人は、そそくさとその場を離れようとした。その後ろ姿にジュリアスが声をかけた。
「管理人さん、今からこのアパート全体を消毒しますんで、ご了承ください」
「ご自由に」
 彼はそういうと、一目散に去って行った。それを見て、葛西がしみじみ言った。
「よっぽど恐かったんだねえ・・・」
「まあ、仕方がにゃーがね」
「さて、GF。それが例のスプレーだね。ちょっとこっちを向けてくれる?」
「あ、はいはい」
 緑原は、右手でスプレーを持ち、葛西が見えやすいようにした。
「ふうん。K製薬の『虫の嫌いなハーブで虫コネーーー』か。相変らずふざけた名前を付けるな、あの会社。GF、これ、預かってもいいかな?」
「冗談でしょ。オレはどーなるのさ」
「葛西」
 ジュリアスが言った。
「商品は覚えただろ。買って帰ればえーことだて」
「まあ、そうだけど」
「心配なら、写真を撮って帰ればえーだろ。・・・そうだ、写メしてアレックスに買っとってもらおうか?」
「写メって、携帯電話は汚染されるから持って来てないだろ」
「おれたちは、こうやって持っとるんだで」
 ジュリアスは、バッグから見たことのあるビニール袋に包まれた物体を取り出した。
「冷凍保存用バッグだがや。ジッパーがついとって真空パック出来る位気密性が高いだろ? 念のため2重にしとるんだ。若干扱い難いし精度は落ちるが、写真もちゃんと撮れるがね」
 そう言いながら、ジュリアスは袋に入ったままの電話を開いた。
「GFだったかね、悪いがそのスプレーを携帯で撮るから、こっちに向けてくれんかね」
「はいはい。こうですか?」
 緑原が嬉しそうにスプレーを差し出した。チャラ~ンと音がして、ジュリアスは画面を確認し、葛西に見せながら言った。
「ちーとソフトフォーカスがかっとるが、まあ、えーだろ?」
「これだけ写ってりゃ上等だね」
「よっしゃ、保存っと。じゃあ、これをアレックスに送ろまい」
 ジュリアスは、少し二人から離れると、メール本文を打ち始めた。
「あの~刑事さん、あのひとォ」
 緑原がジュリアスを指して言った。
「警察の方なの? 外国人みたいだけど」
「ああ、彼はアメリカのウイルス学者だよ。今回協力をしてもらっているんだ」
「へえ、女性なのに凄いねー」
「GF、あのね、ジュリーは男性だよ」
「ええっ?」
 緑原が、本気で驚いて言った。
「オトコ? だって、凄く綺麗な顔してんじゃね?」
「ああ、顔がマスクで隠れてるから・・・」
 葛西はそんなことは思っても見なかったが、確かに防護服ごしに見えるジュリアスの顔はかなり女性的に見えた。背は高いが防護服越しにもわかるくらい細い容姿もかなり女性的だった。
「防護服を脱いだら、れっきとした男だから。けっこう筋肉あるし、それに・・・」
 と、葛西は言いかけて少し頬を赤らめた。
「え~~~~、もったいない。長身で肌が浅黒くて青い目でハスキーヴォイスでちょっとなまってて、『レジェンド・オブ・イーヴル・アイ』ってゲームに出てくる女戦士『ユリウス』のイメージにピッタリだったのに~」
「そうなのかい。長身で浅黒い肌に青い目。・・・? あれ、あいつ、目ぇ青かったっけ?」
「なんだ、刑事さん、気付いて無かったの? オレ、すぐにわかったよ。凄く綺麗な青い目なのに」
「ヤローの顔なんて、仕事以外じゃあまりじっくりと見ないからなあ」
 葛西は苦笑いをしながら言った。
「あとで、確認してみよう」
「葛西ー」
 と、噂のジュリアスがメールを送り終えて戻って来た。
「も~ぉ電話はビニール越しだわ防護服を着とるわで、文字を打ちにくくておーじょうこいたがね。日頃の倍かかってまったよ」
 彼はブツブツと言った。葛西は笑いながらもジュリアスの顔をじっと見ながら言った。
「で、上手く送れたのかい?」
「多分ね。アレックスはケイタイでの文字うちは面倒くせーできりゃーらしいて、メールでの返事は期待出来にゃーがなー」
 ジュリアスはそう言ったが、すぐに着信があった。
「あれ、アレックスからメールだわ。珍しいがね。 何々、『了解。すぐに買いに行きます。代筆、紗弥』ァ? ま、そんなことだろーとは思うとったがね」
 ジュリアスはくすっと笑いながら言った。
「意外と不器用なんだ、あいつ」
「やっぱ、萌え~」
 緑原がつぶやいた。

「おみゃーさん、さっきからおれの顔たぁけり(ばかり)見とるよーだが、何か付いとるかねー?」
 帰りの車の中でも、運転しながらミラー越しにジュリアスの顔をチラチラ見る葛西に、ジュリアスがとうとう尋ねた。
「え?」
 葛西は焦ったが、正直に話すことにした。
「あのさ、僕、今まで気が付かなかったけど、君の目って青かったんだね」
「今頃何かね」
「さっきGFに言われるまで気が付かなかったからさ」
「・・・刑事のくせに注意力散漫だがや」
 ジュリアスがあきれて言った。
「黒人の目が青かったら変かね?」
「そんなことじゃないよ。改めてよく見たけど、綺麗だなあって」
「褒めても何も出にゃーぞ」
「お世辞じゃないって。宝石みたいだよ」
「褒めすぎだろ。まあ、言ってみりゃー、これがアメリカの黒人の現実ってーヤツだなも」
「え?」
「おれのおふくろは、先祖に色々混ざっとってね。アフリカやスペイン、ネイティヴ、さらにはインド、その他諸々ね。だからすごい美人なんだわ。だけど、親父の方は、どう見てもアフリカンなリアルブラックだったんだが」
「え~っと?」
「おみゃーさんも習っただろ。青い目は・・・劣性遺伝だで、両親ともに青い目の遺伝子を持たにゃーと出にゃーんだがや。親父の先祖にも、どっかで白人がちょっかいを出したんだな」
「隔世遺伝ってヤツか」
「まあ、そんなところだわ。ほんだでブルーアイズは、おれにとっては嫌な色ってことだ」
「そんなこと無いよ!」
 葛西が言った。
「ご先祖さんだって、好き合って一緒になったのかもしれないだろ。それに、凄く綺麗な色じゃないか。南の海みたいな色だもの」
 葛西は真剣になって言ったが、ジュリアスがきょとんとしているのに気付いて、顔を赤らめた。
「ま、まあ、・・・今頃気が付いてこんなこと言っても、説得力ないよね」
 そう言うと、彼はへへへ、と笑った。
「葛西。おみゃーは本当にえーヤツだなも」
 ジュリアスがそれを見てしみじみと言った。
 

 ギルフォードの研究室に向かう階段を、ボーイッシュな女性が軽快に駆け上がっていた。手には、近所のドラッグストアのレジ袋を提げている。彼女はそのまま足早に研究室に向かった。
「ただいま~。買ってきたよ~」
「ありましたか、ユリコ」
 ギルフォードが言った。由利子はレジ袋を高く差し上げながら言った。
「これだよーん。いっぱい残ってたよー。他の殺虫剤関係は全滅だったけど」
「さて、早速どんなものか確認してみましょうかねえ」
 ギルフォードがワクワクしながら言った。紗弥も仕事の手を止めてやってきた。
「楽しみですわね」
 由利子はレジ袋からそれを出して、ギルフォードに渡した。ギルフォードはそれを手にして、名前を読みながら言った。
「『虫の嫌いなハーブで虫コネーーー』? これが全部商品名なんですか?」
「あ~、よく見かけるわねえ、こういう名前。この製薬会社、特にこういうネーミングが好きみたい。もっと長いのもあったわよ、確か」
 由利子が、レジ袋をちんまりと畳みながら答えた。ギルフォードは呆れ顔で言った。
「まあ、わかりやすくていいですけどね、まんまやんけ」
 ギルフォードは口をとがらせ気味にして、商品の包装フィルムを外した。教授室の外側では、例によって興味津々の研究生達が戸口に集まってきた。
「消臭剤みたいな液体スプレーですね。では試しにちょっとだけ空中散布を・・・」
「あ、アレク、ちょっと待って、確かそれ、すごい匂いが・・・」
 由利子が気がついて焦って止めたが、すでに遅かった。シューッと音がして、えもいわれぬ匂いが広がった。

「アレックス、例のものは手に入ったかねー」
 ジュリアスが研究室に入るなり言った。その後に続いて入って来た葛西が、研究室内の妙な雰囲気に戸惑って言った。
「お邪魔しま~す・・・。って、あれ? みんなどうしたの? 何、この変なにおいは・・・?」
 二人の姿を見て、研究生たちは軽く会釈をしたが、その後ヒソヒソと話し始めた。葛西はジュリアスを見ながら言った。
「何かあったのかな?」
「実験ミスでもやってまったのかねー」
 二人は首をかしげながら教授室に入った。
「何を言ってるんですか」
 ギルフォードが二人を見るなり言った。
「君たちの言ったスプレーを撒いただけですよ。なんですか、あれは。ほとんど化学兵器ですよ」
「そんなにどえりゃー匂いだったのかね」
「ひどいなんてもんじゃなかったよ!」
 由利子が眉間に盛大な縦ジワを作って言った。
「あれじゃあ、虫どころか、人間だって落ちるわっ」 
「実際に、キサラギ君が落ちました。文字通り」
 ギルフォードが片をすくめて言った。
「匂いに驚いて研究室を飛び出して、そのままそこの階段から・・・」
「ええっ、大惨事!!」
「ま、とっさに手摺を掴んだので、若干の打撲で済みましたがね。向こう脛は痛かったでしょうね」
「良かった~。もぉ、脅かさないで下さいよ、アレク」
 葛西がほっとして言った。ギルフォードは肩をすくめたまま、首を横に振りながら言った。
「でも、匂いに耐えられないと言って、帰ってしまいました。困ってしまいます」
「いくら有効でも、この匂いじゃ使用に耐えませんわよ」
 と、一人涼しい顔をした紗弥が横から口を出した。葛西とジュリアスは顔を見合わせた。
「すさまじそうだねえ」
「聞きしに勝る、だなも」
 そんな二人を見て由利子が言った。
「何よ、あんたたち、まだこの匂い嗅いでないの?」
「あ~。防護服がC兵器にも対応してるんだで、匂いも入って来ーせんのだわ」
「ああそう。じゃあ、今喰らいなさいよ」
 そういうと、由利子は二人の鼻先に向けてシュッと軽くスプレーを撒いた。
「うわあ、臭っ!!」
「だ~~~、でらおそぎゃあにおいだっちゃ。こりゃーたまらにゃーわ!!」
「マジ、化学兵器レベルだーーー!!」
 パニックになった二人に向かって咳き込みながら由利子が言った。
「ど~だごほごほ、てめぇら参ったか! ごほごほごほっ」
「ユリコ、被害を広げるのはやめてクダサイ・・・けほけほ」
 ギルフォードはハンカチで鼻と口を押さえていたが、咳は押さえられないようだった。研究生達が口と鼻を押さえながら、急いで窓を開けに走った。ギルフォードはそれを恨めしそうに見ながら言った。
「ああ、また湿気が入ってきますねえ・・・けほっ」
「いくら有効だったとしても、これじゃ簡単には使えないですわね。下手をすれば、異臭騒ぎがおきますわよ」
 紗弥が比較的涼しい顔で言った。
「まったく、どういう鍛え方を、けほっ、してるんでしょうね、この人は・・・。ま、メーカーや専門家に分析させて、グスッ、この・・・スプレーの何が有効かが判ればな・・・んとかなるでしょう。けほっ。それまでは、これを我慢して使うしかないでしょうね。・・・クシャン」
 ギルフォードはそう言うと、ため息をついて自分の席に着いた。それからティッシュをひと掴み引っ張り出してビイムと鼻をかむと、それを屑篭に投げ入れて言った。
「とりあえず、僕はコレ、買って帰りますから」
 ギルフォードは、件のスプレーを手に取り、少し嬉しそうに言った。
  

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