5.告知 (1)碧珠善心教会

20XX年6月16日(日)

 由利子は床についたまま、まんじりとも出来ずにいた。
 今日は久しぶりに早めに寝たはずだった。ここ数日色々ありすぎて、特に二晩立て続けに起きた事件で寝不足、眠りたいのは山々だった。ギルフォードたちからも早く寝るように釘を刺されていた。にもかかわらず、床についてから一睡も出来ない。今日・・・正確には昨日だが・・・、多美山の死によって、この疫病の恐ろしさを目の当たりにし、その光景が脳裏から消えず、目を閉じるのも辛い状態に陥っていた。死に顔すら鮮明に記憶する・・・、人の顔を忘れないという彼女の能力は、時にこういう場合厄介なのである。漠然とした恐怖を感じ灯りを消すことが出来ず、目を閉じれば多美山が死んだことの悲しみと、その死に様の恐怖が交互に襲ってくる。
(いかん、このままじゃ一睡も出来ない)
由利子は、むっくりと起き上がると、ベッドサイドのティッシュケースに手を伸ばし、涙を拭いてちーんと鼻をかんだ。涙と鼻水で溺れそうになっていたが、これで少しスッキリして、改めて横になった。気分が変わったところで頭の中も切り替え、由利子はセンターから出てからのことを思い出すことにした。

 マンションの部屋の前までは、葛西が送り届けてくれた。気を利かせたジュリアスが、二人で行くように勧めたのである。
「でゃ~じょ~ぶ、おれらは車の中でおとなしく待っとるでよ。じゃあ、由利子、またな」
ジュリアスは、助手席の窓から人好きのする笑顔で手を振りながら言った。由利子も笑顔で答えた。
「ええ、今日はありがとう。お疲れ様。・・・そうそう、待ってる間、ちゃんと人目をはばかってね」
「あははは・・・」
ジュリアスが笑って誤魔化した。横でギルフォードがバツの悪そうな顔をしている。しかし、いまいち意味のわかっていない葛西は曖昧な笑顔を浮かべ、
「じゃ、由利子さん、行きましょう」
と、マンションに向かって歩き出した。
 道すがら、葛西がボソリと言った。
「僕、こんなに辛いとは正直思いませんでした・・・」
由利子はそっと彼の方を見た。
「アレクの様子から、覚悟はしていたつもりなんです。でも、いざとなったら認めたくなくて・・・。そしたら、今度は何かしていないと居られなくなって・・・、結果、みんなに迷惑をかけたんだって思うと、恥ずかしいです」
由利子は出来るだけ優しい声で言った。
「気にしなさんな。大好きな人の死を目前にして、冷静でいられるヤツなんかそうそういないよ。それにちゃんと収穫があったじゃない」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽です」
葛西は悲しい目をして笑った。
「僕、小さい時に父を亡くしましたが、小さすぎて死と言うものの悲しさは感じてなかったと思います。父不在の寂しさはありましたけどね。それに、動物も飼ったことがなかったので、実際に身近に死を経験したのは・・・、初めてで・・・。ホントに多美さん、居なくなっちゃったんですね。もう会えないですよね・・・。死に顔も見たのに、あんなに泣いたのに、今は全然ピンと来ないんですよ。明日センターに行ったら、まだあの病室に多美さんが居るような・・・・。なのに、胸のどこかにぽっかり穴が開いたようで、とても悲しくて寂しくて・・・、寒いんです」
そういうと、葛西は深いため息をついた。由利子は2・3歩早めに歩くと立ち止まって葛西の前に立ち、ちょっとだけ微笑んで言った。
「悲しくてあたりまえだよ。愛する人・・・ってヘンな意味じゃないよ、が、亡くなったんやから心に穴が空いたって当然やろ? でもね、いつかその穴にはその人とのいろんな思い出が、ギュウって詰まって埋まっていくんだよ」
「心に空いた穴を思い出が埋める・・・?」
「そう、どんどん埋まっていくよ。そりゃあ、思いだした時に悲しくて寂しいのは一緒だろうけど、身を切るような寒さは、いつかなくなると思うよ」
「そうでしょうか・・・」
「そうだよ。多美山さんは亡くなったけど、葛西君の思い出の中ではずっと一緒に生きてるんだ。葛西君が生きている限りず~~~~っと」
「ずっと・・・」
「少しの間しかお会いできなかったけど、私も多美山さんのことはずっと忘れないと思うよ。アレクだってそうだと思う。祐一君たちもセンターのスタッフの人たちも。でも、思い出の数は葛西君がダントツだよね」
「思い出・・・。沢山あります、たくさん・・・」
葛西はそうつぶやくと、また両目に涙がうっすらと浮かんできた。
「どした? また泣きそう?」
「いえ、大丈夫です。それに、今思い出した分で、すこし穴が埋まったような気がします」
葛西は涙目のまま笑いながら言った。由利子はニッと笑い、胸をドンと叩いて言った。
「泣きたくなったらいつでもこの胸を貸すよ。大胸筋でよかったら」
「頼もしい・・・っていうか、根に持つなあ・・・」
葛西は少し困ったように笑うと、ハンカチを取り出し眼鏡を外して涙を拭いた。次いで、涙で曇った眼鏡を拭きながら言った。
「不便だなあ。またコンタクトに戻そうかな」
「だめ! 葛西君はそっちの方がいい!」
「え?」
葛西が嬉しそうに聞き返した。
「いやその・・・、まあ、いいじゃん。さっ、こんなトコで沈没してないで、早く帰ろっと」
由利子は若干顔が赤くなるのを誤魔化して、さっさと歩き始めた。

「やだな。私って眼鏡萌えだったのかな? そういえば、アレクもワイルドヴァージョンより教授眼鏡ヴァージョンのほうが好きかも・・・って、うひゃあ~」
由利子は意外な自分を発見して、なんだか恥ずかしくなって布団にもぐった。今まで横で寝ていたにゃにゃ子がそれを見て身体を大儀そうに起こし、のそのそと布団の山を登ると香箱を組んで寝た。その後にはるさめが負けじと続いて乗ってきた。
「だぁぁぁあああ~、重い! さらに暑~い!!」
由利子は布団を跳ね除けて起きた。二匹の猫は足元の方に転げ落ちてひっくり返ったまま、ニャアと文句を言った。
「おまえらは、いいよなあ・・・」
由利子は二匹を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。あまりにも強く抱きしめたために、猫たちは苦しくなったのか、じたばた暴れた。それに構わず、由利子は彼女らを抱きしめたままうつむいてじっとしていた。生き物の暖かさが伝わったせいで、収まっていた涙が復活したようだった。二・三度嗚咽をもらすと、とうとう由利子は猫を抱いたまま声を上げて泣き出した。
 

 ギルフォードは連日の事件のせいで滞っていた仕事を片付けるために、早めに研究室に入っていた。ジュリアスが別件で出かけるので、一緒にマンションを出たということもある。
 しばらくすると、紗弥がやってきた。ギルフォードは少し驚いて言った。
「サヤさん、来たんですか。今日は日曜だからゆっくり休んでいればいいのに。今日は僕以外誰も来ないですし」
「いえ、そうはいきませんわ。それに、教授一人だといつ脱線するかわかりませんもの。・・・一人って、あら? そういえばジュリアスは?」
「ジュンと一緒に昆虫採集ですよ。例の川で」
「昆虫採集? 教授とではなく葛西さんとですか?」
「ウイルス・ハンターの重要な仕事の一環です。あの虫の巨大化したやつを探すんだそうですよ」
「まあ・・・。じゃあ、確かに教授は同席できませんわね」
紗弥は、納得して言った。
「まあ、そういうことです。さて、ちゃっちゃと今日中に片付けてしまいましょうかね」
ギルフォードが再び作業に戻って一時間ほど経ったころ、彼の携帯電話に着信が入り例の笑い声のワルツが研究室に響いた。
「ああ、タカヤナギ先生からです。このぶんじゃ、このやりかけの仕事がライフワークになりそうです」
ギルフォードは電話を手に取りながら、肩をすくめて言った。
 高柳の電話は、昨夜のカルト教団におこった悲劇についてだった。すっかり怖気づいた信者たちが、夜明けになってからようやく警察に連絡し、発覚したのである。
「この教団ってのが、昨日連絡したサワムラ・アンナ関係のヤツなんですね」
「そういうことだ。連中が墓に向かったのも、警察と保健所から遺体の調査依頼があり、それを阻止しようと集合したらしい。だが墓から音がしたので、爺さんが生き返ったと勘違いして喜んで掘り返したということだ」
「でも音の主はおジイさんではなかったと」
「まあ、そういうことだね」
「で、食われたのはおジイさんの方だけだったということですか?」
ギルフォードは念を押して訊いた。
「そうらしい。警察が隣の孫の墓も掘り返してみたが、まあ、死後数日経ってたんでそれなりに傷んではいたが、食害された形跡はなかったそうだ」
「偶然じゃなさそうですね。両者の遺体の処置のされ方の違いかもしれません。それが解明出来れば、遺体をあの虫たちから保護する方法がわかるでしょう。で、遺体は?」
「教祖を含めて3体、センターの方に移送中だ」
「感染してないだろうとは言え、一晩感染遺体と同衾していた教祖の遺体もというのは、当然の処置でしょうけど、信者達が抵抗したんじゃないですか?」
「同衾って、君・・・」高柳は少し笑って言った。「まあ、確かに信者からかなりの抵抗はあったらしいがね」
「自分らがほっぽっといて、何をか言わんやですよ」
「ま、そこら辺、妙な罪悪感とかあるのかもしれんな。いずれにしろ、教祖を失った新興宗教の末路は知れているだろうがね」
「で、信者たちの感染は?」
「遺体には直接触れていないらしいし、蟲に咬まれた人も居ないようなので、とりあえず自宅で様子をみてもらって、発熱等異常が現れた場合保健所に連絡するということで手を打った」
「手を打った?」
ギルフォードは苦笑して言った。
「蟲がウロウロしていたかもしれない墓土を素手で触っているんです。出来たら全員隔離して様子を見たいくらいですが」
「それが一番安全な措置なのはわかるが、物理的にも人権的にも経済的にも無理だ。それに、あそこに居た二百人近い信者を収容すれば、それだけでここのキャパシティを凌駕しかねんだろう。下手をすると、肝心な発症者が受け入れられなくなるぞ。幸い、今のところ発症者とのなんらかの接触と、蟲の咬み傷以外からの感染はないようだからね」
「それはまだ、症例が少ないからでしょう?」
「もちろんだが、これが現状での限界だよ。まあ沢村杏奈のように、潜在する感染死者が他に何人いるか考えると悩ましい話だが」
「今日、知事からの公表があれば、またこの状況が変わるかも知れないですね」
「そういえば、知事がそれに関して、また君に頼みたいことがあるらしいぞ」
「何ですか、それは」
「秋山信之さん・・・雅之君をはじめ、家族をこのウイルス感染で三人失った人だね、彼に会って今日の公表について説明して欲しいとか言ってたな。まあ、君には正式に連絡が入るだろうが」
「僕は苦情処理係ですか・・・?」
ギルフォードはゲンナリして言った。
「この場合はお客様窓口・・・いや、お客様アピーザー(appeaser)かな?」
「どっかの化粧品会社のテレアポみたいな訳のわからん名称を勝手につけないでください」
ギルフォードが読点無しで一気にまくしたてた。高柳は自分のジョークが通じたせいか、なんとなく嬉しそうに言った。
「ま、そういうことだ。君も忙しいだろうが、この件に関わってしまったからには腹を括ってな。じゃ」
「腹はかなり前から括ってますケドね。今から過労死の心配をしたほうがいいかもしれ・・・」
ギルフォードはげっそりした様子で言ったが、彼が言い終わらないうちに電話が切れた。
「くっそ~~~、相変わらず箸にも棒にも引っかからないオッサンですよ」
ギルフォードは自分の電話に向かって言うと、再び肩をすくめ、それをGパンのポケットに収めた。
「ま、さすが歴戦の医師、立ち直りが早いのは尊敬に値しますケド」
「立ち直りって、あの方が落ち込んでいらしたのですか?」
「ええ。さすが昨日はショックだったらしくて、全くオヤジギャグの類が出なかったですからね」
「まあ、そうだったんですの」
「程度の差はあっても、昨日はあの場所にいた誰もがショックを受けたんじゃないかな・・・。サヤさん、君だってそうでしょ? ま、それはともかく、知事から野暮用が入るまでに、出来るだけ作業を先に進めておきましょう」
ギルフォードは、そういうとすぐにパソコンに向かいキーボードをせわしく打ち始め、紗弥はお茶を入れるために席を立った。
 

 さて、こちらはC川河川敷の葛西・ジュリアスの昆虫採集組である。彼らはNBC対策車で問題の河川敷に乗り込んだ。
 二人は荷物を一式抱えると、河川敷から堤防に駆け上がり、死んだホームレス、仮称Eの住居跡に立った。住居はすでに綺麗に取り払われ、強い消毒薬のにおいが漂っている。もっともNBC防護服を着ている彼らには、関係ない話ではあるが。
「う~ん、綺麗に草も刈り取られていますね」
葛西が周囲を見回しながら言った。
「そうだなも、これじゃ罠を仕掛けるには向かにゃあがね。場所を変えたほうが良さそうだわ」
「とりあえず、橋脚の隅に1個だけ仕掛けておきましょう」
葛西はそういいながら、荷物の中から元ネズミ駆除用だったメガローチ・ホイホイ(ジュリアス命名)を取り出した。組み立てながら葛西は言った。
「こんなものでアレが掛かるんでしょうか?」
「これはもともとゴキブリ駆除用に作られたものの応用だろ? それにたっぷりと誘因剤をつけとるから、近くにおればおびき寄せられてくるはずだて」
「誘引剤ってなんですか?」
葛西は何となく嫌な答えを予想しながら訊いた。
「そりゃ、おみゃあ、アレは感染者の遺体の匂いに引き寄せられるんだろ、ほたら、答えは決まっとるがね」
「うへえ、気持ち悪い・・・!」
葛西はつい、捕獲器を取り落としそうになった。
「匂いの元は、ちゃんとガンマ線照射で無毒化してあるから安全だがね」
「そりゃそうですよね」
葛西は納得しながら、捕獲器を所定の場所に置いた。その時、警察無線に呼ばれ、葛西は急いで応答した。
「え? ゴキブリの集団死現場? それは、F市内の河川敷で見られたのと同じものですか? ・・・わかりました、すぐに行きます」
葛西は無線を切ると、ジュリアスに伝えた。
「僕らと一緒に来た消毒班が、蟲が集団死しているのを見つけたそうです」
「よっしゃ、早く行こまい。ついでにその付近にも捕獲器を仕掛けるでよ」
二人は急いで荷物を抱えると、車の方に走った。

 昨日、葛西が署に帰ると、土曜の夜にも関わらず捜査一課の全員が出てきていて彼を待っていた。葛西が部屋に入ると、みんなが声をかけてきた。
「お疲れさん」
「葛西、大丈夫か? 気を落とすなよ」
「元気だせよ」
皆一様に何となく赤い目をしていた。多美山の机には、すでに花が飾ってあった。それを見て、またうるっとなりながら葛西は答えた。
「みんな、ありがとうございます。あの、多美さん、頑張ったけど・・・。短いけど凄まじい闘病でした。すみません、僕、まだこれ以上・・・」
葛西は、ぺこりと礼をして自分の席に着こうとした時、鈴木が戻ってきて葛西を姿を見つけるや言った。
「あ、葛西君、大変だったところ申し訳ないけど、ちょっと署長室に来てくれないか?」
 葛西が訝しく思いながら、鈴木と共に署長室に入ると、署長が立ち上がって葛西を迎えた。葛西はその前に立つと敬礼して言った。
「ただいま帰りました。色々勝手に動いてしまって申し訳ありません」
「まあ、本来なら減俸ものだが、事態が事態だけに特例として大目に見よう。それより、重篤な感染症と言うことで、多美山巡査部長のことを君だけに任せる結果となってしまった。負担をかけてすまなかったな」
「いえ・・・。多美山さんと僕はコンビを組んでましたから、当然のことです」
葛西は目を伏せながら言った。
「多美山君が亡くなったなんて、私もまだ信じられないんだよ。それもこんなに早く・・・。結局見舞いにも行けず、その上遺体にも対面できないということを知って、私も少なからずショックを受けているんだよ・・・。ところで、申し訳ないが・・・」
署長は、一旦そこで言葉を切ると、続けた。
「明日の日曜なんだが、君に対策室の仕事の一環として、媒介昆虫であるゴキブリの捕獲作業をして欲しいという辞令が来ているんだ。アメリカの専門家の先生が請け負って下さったんでその護衛も兼ねてだが」
「アメリカからの専門家・・・? ああ、ジュリアス・キング先生のことですね」
葛西はすぐに理解して答えた。
「もうお会いしたのかね」
「はい。今日、感対センターの方でお会いしました」
「心身共に疲れているだろう所を、申し訳ないのだけれど、ことが重要なだけに、少しでも早く少しでも多く犯人や病原体の正体についての手がかりを得なければならないんだ」
「了解しました。明日から媒介昆虫捕獲作業に取り掛かります。多美山巡査部長の仇を打つためにも!!」

(そう、これは多美さんの無念をかけた戦いだ) 
葛西は現場に向かいながら思った。
 連絡のあった場所付近に着くと、葛西とジュリアスはすぐに車を降り、現場に向かった。そこには防護服の警官が三人、その場所を囲うように立っていた。二人は走ってその場所に向かったが、問題の屍骸の山を見て無意識に手でマスク越しに口の辺りを覆おい、立ち止まった。
「これが・・・、調書に書いてあった・・・、うぷ」
「こんなよ~け虫が死んどるのは、初めて見てまったよ。でらおでれぇ~た、さすがにキモイわ」
二人は予想をはるかに超えた凄まじさに、言葉を失って一瞬唖然として立ち止まった。それらは、河川敷の草むらの中にあり、ぱっと見は誰かが草むらでゴミを燃やした跡のように見えた。
「葛西、とにかくこの中からサンプルとして数匹採取しよまい」
ジュリアスが言いながら、荷物から採集用のビンを取り出し始めた。
「え? ・・・あ、はいっ」
葛西は一瞬怯んだが、すぐにジュリアスに従った。
「CDCにいる、おれの兄貴にも送りたいから、多めに採取してちょうよ」
「うひゃあ、これはキッツイなあ・・・」
葛西は、目の前の黒光りする小山を見ながら早くも戦意喪失しそうになった。
 

 窪田華恵は、とある講演会の会場にいた。友人が、良い話が聞けるから、是非にと何度か誘いがあったのだが、なんとなく胡散臭そうだったので断っていたが、昨日、いそいそと家を出て行く夫を見、日ごろの鬱憤が爆発しそうになった。それで、半ば自暴自棄気味になっていたせいか、今回はあっさりと誘いに乗ってしまったのである。
 講演会は、県営の複合施設のイベントホールで開催されていた。実際、会場に入ってみると明るくて講演を聴きに来ている大勢の人たちも至って普通で、胡散臭さなど微塵も感じなかった。ただ、圧倒的に女性が多いのが気になった。横に座った友人が言った。
「あのね、この講演会の先生はね、『碧珠善心教会』というところの教主様なんだ」
「え? やっぱり宗教やったと?」
「ええ、まあそうなんやけど、そこら辺の妙なカルトとは全っ然違うとよ。お話がすごく良いし、何より教主様がね、若くてイケメンでかっこよくて、それにすっごくお優しい方でね」
「教主が若くてイケメンだから、そこら辺の宗教と違うって言っとぉみたいやね」
華恵はここに来たことを、早くも後悔していた。しかし、宗教関係なら変に席を立つのも拙いかもしれない。それで華恵は、とりあえず講演を聴くことにした。イケメンの教主とやらを見てみたいという興味もあった。
 しばらくすると、司会の女性が簡単な挨拶をし、教主の名を呼んだ。その瞬間割れるような拍手が起こり、教主が姿を現した。華恵の座っている位置からは、長身の背格好はわかったが遠くて生ではよく顔が見えなかった。しかし、スクリーンに映し出された顔を見ると、確かに目立って美男なのがわかった。表情も豊かで何より色気があり、しかも、その話し方は的確でわかりやすかった。彼は言った。
「私は『碧珠善心教会』という宗教法人を主催しています。『碧珠』とは青い球体である地球を意味します。善い心を持って地球と共存するということが教義の要です。ああ、ご安心下さい。宗教関係の勧誘等は一切いたしませんから」
そう言うと、教主は笑った。
「今日は、私があなた方に訴えたい事を聞いていただくため、ここにまいりました」
内容は、教主の説明にあったとおり、最近流行のエコに関係するものが主だった。それから転じて、人生に関する機微や色々な因縁話、特に、自分の業は結局自分に帰ってくるので、日ごろから精進に勤めようという、いかにも宗教家らしい話もあった。
 その話の途中で、教主は思い出したように会場に向かって言った。
「ああ、この中に重い悩みを抱えられた方がおられますね」
教主はいきなり席を立つと客席の方に降りてきた。会場からきゃあ~という歓声が上がった。教主はまっすぐ華恵のほうに向かって来て、彼女の前で立ち止まった。華恵は驚いて椅子から半立ちになった。
「ああ、あなたですね。とても悲しい波動を感じました。何かお悩みがあるのではないですか?」
華恵は驚いて言った。
「え? いえ、そんな恐れ多い・・・」
華恵は否定したが語尾が震えた。
「お名前は?」
教主に聞かれ、華恵は機械的に答えようとしたが、教主がそれを止めた。
「ああ、ちょっと待って・・・、言わないでください。・・・わかりました。はなえさん・・・窪田・・・華恵さんですね」
華恵は、初対面にも関わらず名前を完璧に当てられて仰天した。会場もざわめいたがそれらを全く気にせずに、教主は彼女の手を取って目を瞑った。
「ああ、ご主人ですね。あなたを悩ませ悲しませているのは」
華恵はさらに驚いて教主の顔を見た。会場は一瞬どよめいたが、すぐに水を打ったように静かになった。驚愕も度を越せば静寂を呼ぶものらしい。華恵は教主の顔を真正面から見てドキッとした。スクリーンで見たよりはるかに美しい男でしかも若い。どう見ても30から30代半ばである。
「ああ、ご主人は昨日から出かけられていて、そのせいでまたあなたは悲しい思いをしているんですね」
華恵は驚きを通り越して、無思考状態に陥っていた。
「お可愛そうに。ご主人はあなたにも心があることをお忘れでいらっしゃるようだ。よく今まで耐えてこられましたね」
教主は両手でそっと華恵の両手を包むように持って言った。華恵の頬に一筋の涙が伝った。
「華恵さん、人の行いは、それが良いことでも悪いことでも結局自分に還って来ます。良いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが。あなたのご主人もいつか身をもってそれを知るでしょう。華恵さん、あなたは良い道を歩んでください。そうすれば、きっと幸せになれます」
「教主さま・・・」
「教主と呼ぶのはお止めください。全ての我が信徒の父である教祖の教えを広める、全ての信徒の方々の兄として、長兄とお呼びください」
教主はそういうと、華恵に優しく微笑みかけると立ち上がり、静かに演台に戻って行った。その背に会場から惜しみない拍手と歓声が送られた。信徒も一般参加者も関係なく感動した証であった。教主は演台に戻ると、再び慈愛に満ちた微笑を湛えながら会場を見渡した。拍手と歓声は途切れることなく続いていた。
 

 その頃、華恵の夫は身をもってそれを体験中であった。
 昨夜飲んだアスピリンが効いたのか、朝起きた時は、昨日の頭痛も消え、比較的すっきり目覚めることが出来た。今日の観光は万全だ、午後から予定していた歌恋と二人水入らずのゴルフも予定通り行えそうだ、そう思っていたのだが、それが楽観的希望的観測だったことがわかってきた。昼に近づくと、頭痛がまた襲ってきたのである。急いでアスピリンを飲んだがこんどは全く効かず、ついに全身の関節までが疼き始めたのだ。歌恋がそれに気付いて心配そうに言った。
「栄太郎さん、やっぱり体調が良くないんでしょ? 病院を探して診てもらいましょうよ」
「いや、大丈夫だよ、これくらいのこと」
窪田は、平気そうに笑って言ったが、その時うっかり雲間からの日差しを見てしまい、眼の奥に激しい痛みが走った。
「・・・~!!」
窪田は声にならない声を上げ両目を覆い、観光中のハーブ園の通路に座り込みうずくまった。
「栄太郎さんっ、ど、どうしたの?!」
歌恋が驚いてそばに座り窪田の身体を支えた。窪田の発症は確実なものとなっていたが、彼らのそばを心配そうに、或いは好奇の目で見ながら通る沢山の観光客たちは、当然の事ながら、そこにうずくまっている男が致死性のウイルスに冒されているとは夢にも思っていなかった。にも関わらず、どうしてよいかわからず半泣きの歌恋に、助けの手を差し伸べようとする者は無情にも現れそうになかった。

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5.告知 (2)間引き

 講演会が終わって、華恵は友人たちと一緒に同施設のティー・ルームに入った。
 しかし、そこで華恵はさきほどのことを思い出してぼうっとしている。友人たちはそんな華恵に声をかけた。
「いいわねぇ華恵ちゃん、長兄さまから直接お話をされて、その上手まで握られちゃってさ」
「そうよ、私なんか半年も前に入心したとに、今日やっと、華恵ちゃんの近くに来られた長兄さまを始めて間近で見れたとやけんね」
しかし、講演会会場から離れて冷静さを取り戻した華恵は、彼女らとは違う視点で考えていたらしい。
「どうして私のことがわかったんやろか・・・」
華恵はぼそりとつぶやいた。それを聞いて友人たちは驚いた顔をして言った。
「何ば言いよっとね。それが長兄さまのお力なんやから」
「長兄さまのお力を自分で体験しているのに、信じられんと?」
二人から言われて、華恵は驚いて慌ててそれを打ち消した。
「疑っとぉ訳やないとよ。やけど、あまりにも的を射ているから驚いちゃって」
「超能力ちゃあそういうもんやないと? じゃ、もし入心する気になったらいつでも私らに言うてね。教会の決まりで無理に誘ったらイカンことになっとるけんね」
「うん、わかった。でも、もう少し考えさせてね」
華恵は、そう言って文字通りお茶を濁すと、ほうっとため息をついた。
(まったく、あのバカ夫ったら、今頃何をやっているんだか)
華恵はそう思った後、冷え切った関係にありながら、まだこうやって夫のことを気にかけている自分に気がついた。

 さてその夫である窪田だが、異常に気がついたハーブ園の係員が駆けつけて、園内の救護室に連れて行かれた。窪田はそこでしばらく休むとなんとか身体を回復させた。起き上がった窪田に歌恋が言った。
「栄太郎さん、今回はもう予定を切り上げて帰りましょうよ」
「ええ? もう帰るの? まだお昼にもなっていないじゃない。大丈夫だよ。」
窪田はそう言いながら元気を装って立ち上がった。

 葛西がジュリアスと共に、屍骸の山からサンプルを採取していると、背広に長靴と感染防止用コートにマスクのみという軽装の男がやってきた。
「こんにちは、お疲れ様です。害虫の屍骸の処理に参りました」
男は葛西たちの近くまで来ると言った。ジュリアスと葛西は、すぐさま立ち上がって男の方を見た。
「市の保健所、衛生対策課の中山です」
男は汗を拭き拭き自己紹介をした。
「私はK署の葛西です。この方は、アメリカはH大のウイルス学者、ジュリアス・キング先生です」
と、葛西が自分たちの紹介をした。
「ほお、H大からわざわざ・・・」
と言いながら、中山は防護服から覗くジュリアスの顔を見て少し驚いた表情をしたが、ジュリアスはそれを意に介さず作業に戻った。一方、葛西はそのまま中山に尋ねた。
「えっと、お一人ですか?」
「いえ、車の方に数名待機させていますが・・・」
「そうですか。って、そりゃそうですよねえ。で、ですね、今はサンプルを採取中なので、ちょっとお持ちください」
「わかりました。・・・しかしなんとまあ、こりゃあ、ばさらか死んでますなあ・・・」
中山は黒光りする山を覗き込もうとしながら言った。作業続行中のジュリアスが驚いて制止した。
「危険です。致死性のウイルスを持っている可能性がありますから、その装備ではあまり近くに寄らないほうが無難です」
「おっと、失礼失礼。しかし、警察の方も大変ですなあ」
彼は、任務に戻り消毒に精を出す警官たちを見ながら言った。
「あたしらのするような仕事までせなならんとですなあ」
「あれはカムフラージュを兼ねてのことですよ。昨日は数名が制服で立っていたのですが」
葛西が言った。
「こういう場所を警備する場合、制服よりあの方がしっくり目立たないですからね」
「そういえば、市内で妙な噂が流れておるようですな」
「しかも、全くの出鱈目じゃないことが悩ましいところです」
葛西は足元の黒い小山を見ながら言った。
「くぉ~ら、葛西、ちゃっと採取を終わらせにゃーと、保健所の人たちの仕事が進まにゃーでおーじょうこくだろうが」
足元でジュリアスが葛西をちらりと見ながら言った。
「あ、すみません。中山さん、もう少し待ってくださいね」
葛西は焦って座り作業を再開した。
 数分後、ジュリアスが言った。
「そろそろ併せて50サンプルくらいは集まったんじゃにゃあか?」
「おっと、調子に乗って採りすぎましたね。そろそろ打ち止めにしますか」
葛西がそう言って立ち上がろうとした時、屍骸の山が突然ガワガワと動いて中から何か飛び出してきた。ジュリアスがとっさに立ち上がって、軽装備の中山を庇いながら叫んだ。
「葛西、メガローチだ! 捕虫網でちゃっと捕獲してちょお!」
「了解っ!」
葛西は急いで網を手にして蟲を追った。しかし、敵はすばやく方向転換して近くの草むらに姿をくらましてしまった。
「くっそお~!!」
葛西は、悔しそうに草むらの表面を網で数回叩きながら言った。それを見てジュリアスが大声で聞いてきた。
「逃げられたのかね~」
「はい! すみませんっ」
葛西も大声で答えると、駆け足で持ち場に戻り、続けて言った。
「でかいのにまだ幼虫のようだったけど、すっごくすばしっこくて・・・」
ジュリアスが腕を組みながら言った。
「今までこの中で、じっと逃げるチャンスをうかがっとったんだな。頭のええヤツだて」
すると、中山が不思議そうに尋ねた。
「頭が良いって、先生、通常より多少でかいとは言え、たかが虫ケラじゃないですか」
「昆虫を舐めちゃいけませんよ、中山さん。例えはしご状神経系で脳と呼べるような上等なものがなくたって、連中は思いがけない利口さをみせたりするもんです。それより気になるのは・・・」
ジュリアスはそう言いながら、火ハサミで屍骸の山を丁寧にかき分けた。戻ってきた葛西がそれを覗き込む。
「ほれ、見てみ」
ジュリアスは、ピンセットに持ち替えで指し示しながら葛西に言った。
「蟲の残骸だがね」
「ひょっとして・・・」葛西がしかめっ面をしながら言った。「共食いをしていたとか・・・?」
「おそらくそうだろうて。しかも、ヤツはここで孵ったようだて」
ジュリアスが葛西に示したその場所には、数体がバラバラになった残骸と卵殻があった。すかさず葛西は写真を撮るために、カメラを構えた。
「写真を撮ったら、この卵殻と食い残しの残骸も採取しよまい」
ジュリアスが葛西の横で言った。
(うひゃあ、もうカンベンしてくれぇ~!)
葛西は心の中で叫んでいた。
 

 ギルフォードが順調に仕事を進めていると、また電話が鳴った。
「今日は日曜なのにやたら電話がかかりますねえ」
ギルフォードがため息をつきながら電話を取った。しかし、電話の主は由利子だったので、彼は少し安心したように電話に出た。
「ハイ、ユリコ! おはようです。早いですねえ」
「早いって・・・」由利子は笑いながら言った。「もう11時ですよ」
「君は疲れているんだから、それくらいまで寝ていてもいいくらいですよ」
「あまり遅くまで寝ると、却って体調が悪くなりますから」
「ちゃんと眠れましたか?」
「ええ。なんとか・・・」
由利子は答えた。実は、思い切り泣いたら泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったのである。
「それは良かったです。睡眠は何よりの滋養ですからね・・・。ところでどうしたんですか?」
「あの、美月のことで・・・」
「はいはい」
「あの、ここ2日ほどあんな状態で、美月のことにまで気が回らなくて・・・。あれからずっと病院に預けっぱなしなんで気になって・・・」
「この前言ったように、あの病院はミツキちゃんの罹りつけでしたし、ハル先生もすごく良い方なんで大丈夫、問題ないですよ。経過も順調みたいですし・・・」
「それでですね、もしも・・・、もしもですが、彼女が完治しても美葉が帰って来ない場合は・・・」
「そうですねえ。そうそう預けたままにも出来ないですよね」
「ウチには猫が居るから、ちょっと無理そうなんで、困ったなあと・・・」
「ま、退院まではまだかかりそうですから、そうなったらそうなったでその時に考えましょう」
「はあ。でも・・・」
「今、悪いケースを考えたって意味ないでしょ」
「まあ、そういえばそうですけど・・・。ところで、電話して大丈夫でした? 日曜日だからひょっとして、まだお休みになってたんじゃあ・・・」
「大丈夫、起きてましたよ。まあ、休日の電話は基本シカトするのですが、ユリコやジュンからでしたらお取り込み中でもお取り組み中でも出ますよ」
「お取り組み中は出なくてけっこうです・・・って、まさか今・・・」
「残念ながらというか、今日は朝から研究室に居ますよ」
「ええっ? 日曜なのに?」
「日曜しかゆっくり仕事が出来ないと思って・・・」
「ジュリー君もご一緒ですか?」
「ああ、彼は今日、ジュンと一緒に昆虫採集ですよ」
「昆虫採集・・・? ああ、例の蟲ですか」
「・・・そうです。なんで二人して僕の大嫌いなものを・・・」
ギルフォードは、若干声のトーンを落として言った。なんとなくマズイと思った由利子は、話題を変えた。
「しかしまあ、なんかいろいろ忙しいですね、アレクは」
「そうなんですよ。それなのに、また今日頼まれ事をされました」
「で、知事からですか、高柳先生からですか?」
「よくわかりましたね。さっき、知事から直々電話が入って・・・」
「やっぱり」
「今日の夕方に例の病気について公表することに決まったと告げられまして、その前に、アキヤマさんに会ってうまく説明して欲しいと」
「秋山さん?」
「あ、例のマサユキ君のお父さんです」
「ああ、そうでしたね。で、なんでまた、アレクに?」
「僕は一度お会いしてますからね。マサユキくんとお祖母さんが亡くなられた時に感対センターでお会いして、色々説明させていただきました。それで、面識がある分初対面の人が説明するよりいいだろうと言ってました」
「いったい、何を説明するんですか?」
「この病気について公表したばあい、一番影響があるかも知れない人物が、アキヤマ・ノブユキさんなんです。何よりその病気でご家族を三人亡くされてますし、それはすでにご近所で噂になっているようです」
「まあ、家族が次々と亡くなって家が消毒されたりすれば、ご近所は当然伝染病の疑いを持ちますよね」
「そうなんです。しかも、妻のミチヨは、それをばら撒く行為に及び、ついには公園での事件を引き起こしました。もし、これが世間に知れた時のことを考えたら・・・。もちろん警察や関係者から漏れることはないでしょうけど、キワミのような連中がうろついている限り安心はできません。そういう特殊なケースなので、知事が公表後の悪影響を心配されているんです。で、僕にそこら辺を説明しろと」
「うわぁ、また難しいことを頼まれましたね」
「まったくです。顧問の仕事ってこういうことでしたっけ?」
ギルフォードが釈然としない声で言ったので、由利子は苦笑しながら答えた。
「多分違うと思います」
「それで電話をしてみましたら」
「結局引き受けたんですね」
「はい」
「で?」
「マサユキ君とお祖母さんの遺骨が帰って来たので、昨日、ようやく葬儀を終えたとおっしゃいました。自宅で身内だけの密葬だったようですが」
「遺体じゃなくて遺骨で帰って来た?」
「はい。仕方ないんです。感染力が強いですから、ご遺体でお返しすることは危険ということで」
「そういえば昨日、葛西君に言ってましたね。思い出しました」
「それで、『大事なお話がありますので、ご霊前にお参り方々お伺いしたい』と言いましたら、快く受け付けてくださいました」
「あの、差し支えなかったら、お参りに私もご一緒していいですか?」
「え?」
ギルフォードは、思わぬ由利子の申し出に驚いた。
「私がこの事件に関わる発端になったのが雅之君なんで、なんとなく無縁じゃないような気がして・・・」
「なるほど、日本人らしい発想ですね。じゃあ、会う時間と場所を決めましょう。そこまでお迎えにあがります」
「いいんですか?」
由利子は喜んで言った。結局、大学から秋山家に向かう途中に由利子のマンション近くを通るらしいことがわかり、また、ギルフォードが由利子のマンション前まで迎えに行くこととなった。
 

 講演会を大成功のうちに終えた碧珠善心教会教主は、F支部の自室に戻り日本茶で一服した後、先ほどの講演のVTRを見て細部を検証していた。そばにはお気に入りの遥音涼子が立っているが、そのほかには人の気配はない。ここは完全なプライベートルームなのである。とはいえ、過度な装飾も奇をてらった細工もなく、白と黒を基調としたシンプル且つモダンで機能的な居間といった感じだった。彼は応接セットのソファに座り、足を組みさらに腕組みをして大型の薄型テレビの画面を見ていた。
 場面は窪田華恵との対面シーンに差し掛かっていた。教主は愉快そうに言った。
「どうです? なかなか劇的な場面でしょう? あなたにはまやかしは効かないだろうから聞きますが、タネはわかりますね?」
「ホット・リーディング・・・でしょうか」
「正解。簡単な事前調査です」
「でも、長兄さまのカリスマ性があったればこそ、あの演出が生きたのですわ。それよりあの広い会場いっぱいの群集の中から、よく彼女を一瞬でみつけられました。私にはそのほうが驚きでしたわ」
「ま、人の顔を瞬時に識別する能力は、誰かさんの専売特許じゃないってことですよ。さて、これでまた多くの新たな信徒を得ることができるでしょう。そろそろ教団宛に問い合わせが来始めているのではないでしょうか」
「講演で教団のパンフレットなどを配れば簡単ですのに、いえ、それよりも講演会で入心希望者を募ればいいのに、なぜ、いつもまったくそういうものを表に出そうとしないのですか?」
涼子の問いに、教主はふっと笑っていった。
「心から入心を願うものは、わずかな手がかりからでもコンタクトを取ってくるものだし、こちらもそのレベル以下の希望者は必要ないからです。それにもうひとつ重要なことは、行く先々で布教活動をしているとして、不要にマークされる可能性が出てくるということです。そういう面倒くさい状況になるのは避けねばなりません。あくまで入心は自由意志でなければね。でないと結城と我々の関わりを完全に切り離している意味がないでしょう?」
「結城と・・・」
涼子は夫の名を聞いて表情を曇らせた。
「遥音先生、あなたは、まだあの不実で愚かな男のことが忘れられないのですか・・・」
教主に指摘され、涼子は目を伏せた。教主はヴィデオの映像を切ると言った。
「あなたまであの男と同じレベルに墜ちてはいけない。さあ、こちらに来なさい。私の横に座ることを許しましょう」
「でも・・・」
涼子は躊躇した。教主は右手を差し出すと涼子を見つめ、優しい笑顔を浮かべて言った。
「さあ、涼子、いらっしゃい」
教主の言い方は柔らかいが、その底には有無を言わせず彼女を従わせる何かがあった。涼子はゆっくりと歩き、教主の右横に座った。そのまま、魂を抜かれたように動かない。教主は涼子のほうを向き、右手で彼女の頬に優しく触れながら口調を変えて言った。
「君の夫は君を裏切った。聡明で美しい君を・・・。彼の末期は悲惨なものであるべきだ。そうだろう?」
涼子は何も答えなかった。
「涼子、君は私とひとつの想いを共有している」
教主は涼子の答えを待たずに続けた。
「君も私もアフリカやアジア、南米、そしてロシアで悲惨な状況を目の当たりにした。君は海外協力で、私は父について行った先々で。そこで思い知らされた。死に行くものを救う術のないもどかしさ、そして、己の無力さ。そこに蔓延する無知と貧困・・・。その前には道徳観も宗教心も愛すらも否定され、私の心に残されたものは希望ではなく絶望だった。そして得た結論は、増え続けるヒトという種の数をを減らすこと。それ以外人類も地球も救う術はない。君と私の結論は一致した。父・・・教祖の入滅後、私はその遺志を継ぎながらもその傍らで君と人類を間引きする方法を思案し、その結果、たどり着いたのは人類に決定的な天敵を作ること。その結論として、その天敵には猛獣ではなくナノワールドの住民を選んだ。そして今、私たちの計画はようやくスタートラインに立つことが出来た。何れこのウイルスは世界に広がり、人口過密地に壊滅的な被害を出すことになるだろう。それが私たちの計画の最終段階だ。そして、この計画が動き始めた事の功労者は、ほかでもない、君の夫だね」
教主が話続ける間、涼子は黙って微動だにせずに座っていた。教主はまたふっと笑って言った。
「この期に及んで妨害はいけないよ、涼子。最初に日本各地で撒いたウイルスは、君が無毒なものにすり替えていたことはわかっているんだよ」
涼子が一瞬身じろぎした。教主は笑顔のまま涼子に問うた。
「ひょっとして恐ろしくなったのかい?」
「・・・。私たちのやっていることは、結局、貧困に喘ぎ衛生状態の劣悪さに苦しむ善良な人たちを、もっと苦しめるだけではないかと・・・」
「善良? 自分の欲望のままに生き、繁殖し、その無知さからさらに最悪な状態に自らを追い込んでいる連中が、かね」
「でも、そうなったのは、彼らのせいではありません」
「そうかもしれない。でも、結果的に彼らが地球の害虫と化していることには変わらない。そうだろう?」
「それは・・・」
涼子は、それを否定できずに口ごもった。
「君は本来優しい女だ。決心が揺らぐこともあるだろう。でもね、下手な小細工をすると、君の夫がまた罪を重ねることになるよ。覚えておきなさい。それに君の妹の病気についての研究も続けたいだろう?」
涼子は、もはや平静を保つことが困難になっていた。うつむいたまま両手を膝の上で握り、傍からもわかるほど震えていた。額には汗が浮かんでいる。教主はそんな涼子の顔を両手で掴み、無理やり自分の方に向けた。教主の両目に見据えられ、涼子は身体の自由を失った。
「君は、もう私から逃れることは出来ないんだよ」
言葉とは正反対に、教主は慈愛に満ちた笑顔を浮かべて言った。
 

 秋山家には、信之を心配して彼の姉と妹が来ていた。ある程度子どもに手のかからなくなった姉の村田聡子(さとこ)は、弟が退院してからずっと傍についており、未婚である妹の多佳子は、葬儀のため仕事を休んで一昨日から帰って来ていた。
 信之は母親と息子をほぼ同時に亡くし、妻は行方不明、自分は危険な感染症の疑いで1週間の隔離生活を余儀なくされた。その後、なんとか退院したものの、相次ぐ妻の事件とその死で決定的なダメージを受けた彼の精神は、かなり参っていた。無事に葬式を終えることだけが、彼の目標と支えになっていたが、問題の遺体がなかなか帰ってこない。そして、ようやく帰って来た遺体はすでに遺骨になっていた。最も、その説明は受けていたのだが、それが現実となって突きつけられた今、想像以上の悲しさと辛さが信之を押しつぶさんばかりに迫ってきた。
 それでも昨日行われた葬儀では、信之は気丈にもそれを采配していた。しかし、噂が広がっているのか、密葬とはいえ親しい人には連絡しており、二人一緒の葬儀であるのに、弔問客の少ない寂しい葬儀となった。経文を上げに来た坊主も、読経を早々に切り上げてそそくさと帰ったような気がした。それでも母の珠江の方は遠くからの友人が数人訪れた。だが、雅之の方は担任と校長、そして、同じクラスと遊び仲間という生徒三人が夕方訪れただけだった。校長は、挨拶と焼香を終えると早々に引き上げた。担任も早く帰りたそうだったが、生徒3人がなかなか祭壇の前に手を合わせたまま動かないので困っていた。しかし、同級生の死を悼む彼らの思いをむげには出来ない。彼女は生徒達の後ろに座ったまま、間が持たないで心持そわそわしていた。
 生徒三人は良夫・彩夏・勝太だった。彼らは雅之の霊前に今までの経過と自分らの決心を伝えに来ていた。彼らは彼らなりに、自分らに関わってきた事件と対峙する決心をしていたのだ。もちろん、彼らは自分らの関わった事件が、いずれ世界を揺るがすテロリズムであるとは夢にも思っていなかった。しかし、ただ病気が流行りつつあるだけではないことは、わかっていた。
 信之は二人の葬儀を無事に終えて、ほっとしていた。後は妻の葬儀だけだ。妻の美千代は3年前両親を事故で亡くしており、彼女には兄弟がいないので、なんとしても自分がやり遂げねばならない。信之は折れそうな心をなんとか奮い立たせていた。 

 葬儀から一夜明け、ギルフォードと名乗る男から電話が入った。最初誰か思い出せず胡散臭く思ったが、話を聞いているうちに、あの時、感染症対策センターで話を聞いた英国人の教授であることがわかった。彼が言うには、今日、信之の家族を奪った感染症について、知事が告知するという。そのことについて説明したいので、会えないかという用件だった。信之は、ギルフォードの礼儀正しい電話の応対や会った時の印象から、何の疑いも持たず快くそれを承知した。
 しかし、それからまたかかってきた電話に出た後、信之の様子がおかしくなってしまった。何かに怯えているような風情で妙にそわそわしている。その変化に聡子と多佳子は気がついたが、あの事件以来不安定な信之には今までもそのようなことが何度かあったので、そこまで不審に思っていなかった。だが、約束の三時が近づくと、信之の様子がさらにおかしくなってしまった。しかし、外国人の客と聞いて、来客の用意に余念がない聡子と多佳子は、うっかりそのことに気付かなかった。三時少し前からワクワクして門辺りの様子を見ていた二人は、黒のスーツを着て白いユリの花束を持った白人男性が、やはり黒のスーツとワンピースの女性二人を従えてやってきたのを確認した。彼は門の前で立ち止まると、モニターのボタンを押した。すかさず聡子が「は~い」と応答した。男はモニターに向かい、にっこり笑って言った。
「Q大のギルフォードです。知事の代行で来ました」
「は~い、どうぞいらっしゃいませ。門扉も玄関のカギも開いてますから~」
モニターから、すぐに女性の明るい声がしたが、次いでモニターから聞こえたのは、うって変わって切羽詰った声だった。
「多佳子、どうしたの? え?信之が??? そんな、うそっ!!」
その声はすぐに悲鳴に変わった。三人はそれを聞いて一瞬顔を見合わせた。
「何かあったようです。急ぎましょう」
ギルフォードが急いで門扉を開けて玄関に駆け込んだ。二人もあとに続く。玄関内に入ると、すぐに祭壇を飾った部屋が見えた。その部屋の方から、信之の名を呼ぶ悲痛な女性の声がした。ギルフォードは横の靴箱の上に花束を置き、土足のまま家の中に駆け込んだ。祭壇のある部屋と続きの間の襖が開け放され、腰を抜かした和服の女性と、立ったままオロオロする女性の姿、それに見え隠れして宙ぶらりんの足が確認できた。
「これはマズイ!! サヤさん来て! ユリコは玄関にあった電話で救急車を呼んでください!」
紗弥と由利子は、ギルフォードに呼ばれる前から彼の後に続いていたが、紗弥はそのまま走って部屋に向かい、由利子は電話をすべく玄関に戻った。

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5.告知 (3)秋山家にて

 ギルフォードは問題の部屋に駆け込むと、多佳子が「兄さん、しっかりしてぇ」と叫びながら、必死で信之の身体を抱いて支えていた。姉の聡子の方は腰を抜かしたまま震えており、今にも倒れんばかりの状況だった。紗弥が彼女を介抱する為に駆け寄った。ギルフォードは多佳子の方に駆け寄り交代した。
「もう大丈夫ですよ」
 ギルフォードは宙吊りになった男性の胴体を抱きかかえ、首を支えて体重が頸部にかからないようにした。大役から解放されて、多佳子はへなへなとその場に座り込んだ。
「まだ暖かい! サヤさん、頼みます!」
 ギルフォードが言ったとほとんど同時に、紗弥は聡子を支えたまま、首にかけたネックレスの十字架部分から何かを引き抜き、首くくりの紐に向けて投げた。それは見事に紐を切断し、若干向きを変えながら飛び、そのまま壁に突き刺さって止まった。ネックナイフだ。がくんと男の体重が一気にギルフォードにのしかかった。彼は信之の首に負担がかからないように抱きとめ、そっと畳の上に寝かせると、信之の肩を叩きながら声をかけた。
「アキヤマさん、アキヤマさん、わかりますか?」
 意識がない。ギルフォードはすぐに気道確保に入った。頚骨の損傷を考えて頭部後屈ではなく下顎拳上、すなわち手であごを持ち上げて気道を確保する方法をで気道を確保する。鼻から出血はしているものの、幸い口腔内には異物はないようだ。しかし、呼吸は完全に停止していた。
「心肺停止! サヤさん、CPR(心肺蘇生法)です」
「了解。教授、マスクですわ!」
 紗弥が人工呼吸用マスクをギルフォードに投げ渡した。ギルフォードはすぐにそれを信之の顔に被せると、彼の鼻をつまんでから彼の口を自分の口でしっかりと覆い、2回息を吹き込んだ。それに合わせて信之の胸が膨らみ口から息が漏れた。
”よし、いいぞ”
 彼はつぶやき、脈を確認した。やはりすでに止まっている。ギルフォードは心臓マッサージをするため、信之のシャツをはだけると肋骨を探って胸骨の中央に右手を置きその上から左手を載せて組み、ひじを伸ばしたまま腕を垂直にし、信之の上に覆いかぶさるような形で上半身の体重をかけて押した。4センチほど胸が下がると力を抜いてまたすぐに押す。1秒弱の間隔でそれを30回繰り返すと、また2回人工呼吸をして心臓マッサージを30回と繰り返す。脈を確認したが、まだ脈は戻らない。ギルフォードは、人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した。
「発見したのは、どれくらい経ってからですか?」
 ギルフォードは心臓マッサージをしながら姉妹に聞いた。聡子は紗弥が傍で介抱している状態で、とても答えられないが、ようやく我を取り戻した様子の多佳子が答えた。
「変な音がしたので気になって様子を見に来たら、兄が・・・。それで、とっさに抱きかかえて・・・。なので、ほんの今しがたではないかと・・・」
「じゃあ、あまり時間が経ってないですね。頚骨も折れてはいないようですし」
 ギルフォードは、まだ蘇生の望みは充分にあると判断した。その間に救急車が到着、救急と消防隊員が駆け込んできた。その後から由利子がおっかなびっくりで入って来る。電話してから約5分。消防隊員が二人すぐさまギルフォードの傍に来て言った。
「代わります!」
「よろしくです」
 ギルフォードはすぐに彼と交代すると、状況を説明した。
「縊首(いしゅ)でCPA(心肺停止)、発見後すぐに救出、その後CPR(心肺蘇生法)を続けていました。おそらく吊ってから間もないそうです」
「了解しました。警察へは?」
「電話しました。念のため警察にも通報するように言われたので」
 部屋の隅にいる由利子が答えた。
 消防隊員がCPRを続けながら、他の隊員が頸部を固定する。AEDを準備していた救急隊員が言った。
「パッドを貼ります」
 すぐさま隊員たちは、AED担当の隊員が作業しやすいように避けた。
「秋山さん、AEDのパッドを貼りますからね、すみませんがシャツをまくりあげますよ」
意識不明の信之に、救急隊長が声をかけた。
「大丈夫です。きっと助かりますよ」
 ギルフォードは、蘇生処置を受ける信之を心配そうに見ている姉妹に言った。多佳子が深く礼をしながら言った。
「ありがとうございました。あなた方が来られなかったらどうなっていたやら・・・」
「いえ、あなたがとっさにお兄さんを支えたからですよ。それより気になるのは・・・」
 ギルフォードは何かを言おうとしたが、その時救急隊員が姉妹に尋ねた。
「蘇生のため、電気ショックを行います。いいですか」
「はい、お願いしますっ」
 二人が同時に答えた。AEDの音声が、除細動実施を告げる。救急隊長が言った。
「除細動を実施する。みんな、患者から離れて」
 バン!という音がして信之の身体が撥ねた。姉妹は抱き合って小さい悲鳴を上げた。
「ダメです!」
「2回目を実施!」
「了解」
「除細動、2回目を実施する。離れて!」
 再びバンッ!と言う音がして、信之の身体が跳ね上がる。AEDのモニターから、ピッ・・・、ピッ・・・、ピッ・・・という規則正しい音が聞こえた。
「脈拍が戻りました!」
 隊員が、力強い声で言った。
「よ、良かったぁ・・・」
 姉妹は再びへなへなとその場に座り込むと、抱き合ってうれし泣きをした。その彼女らに救急隊長が言った。
「呼吸はまだ戻りませんし依然意識不明の重体です。予断は許されません。今から急いで救急病院に搬送します。付き添いの方はおられませんか?」
「私が行きます。妹です」
 多佳子が名乗りを上げた。
「では、すぐに出れるように準備してください」
 隊長は多佳子に言い、その後隊員たちに向かって命令した。
「よし、搬送準備! ロードアンドゴーだ! 急ぐぞ!!」

 医師の指示の下で呼吸器がつけられた信之を、サブストレッチャーに載せ搬送する。門を出たところでメインストレッチャーに乗せかえられ、救急車内に搬入された。近所の人たちが様子を見に出てきて、あちこちでヒソヒソ話していた。一緒に救急車に乗り込んだ多佳子が言った。
「姉さん行って来るけんね。容態の変わったら電話するけん。家んことは頼んどくよ」
「うん。信之のこと、頼むね」
 聡子が答える。
「出発します。ドアを閉めますから離れて」
 言われて聡子は急いで門のほうに避けた。門扉の前ではギルフォードたちが、心配そうに立っていた。
後ろのドアが閉まり、サイレンが鳴った。信之の乗せられた救急車は搬送先の病院へ急ぐべく走り出した。消防隊の車も後に続いた。救急車が去り、サイレンの音が遠くなっても聡子はその場に立ち尽くしていた。ギルフォードが、そっと彼女の肩に手を置いて言った。
「きっと大丈夫です。風が出てきました。家に入りましょう」
 聡子は頷いた。ギルフォードが聡子の肩を抱いて家の中へ誘導しようとしたとき、車が止まって二人組の男が降りてきた。それは由利子にはおなじみの顔だった。
「え、またぁ、ふっ○い君なの?」
 由利子はうんざりして小声でつぶやいた。しかし、隣の紗弥には聞こえたらしい。かすかに「くふっ」と笑ったのを由利子は聞き逃さなかった。
「いやあ、篠原さん、またあなたにお会いしましたな」
 ふっけ○君もとい、富田林が由利子に気がついて言った。由利子は焦った。なんて外聞の悪い。
「またあなたって、人聞きの悪いことを言わないでくださいな、富田林刑事」
「ああ、失敬失敬。例の事件がらみということで、僕らが派遣されましてね」
「えっと、じさ・・・」
 増岡が言おうとすると、富田林が彼の横腹に軽く肘鉄を当てて言った。
「バカ! 声が大きい」
「すんません」
 増岡の粗忽は相変わらずのようだ。二人の刑事は足早に近寄ってきた。声のトーンを落として富田林が言った。
「自殺未遂らしいということですが、すでに搬送されたようですな」
「はい」
 聡子に変わってギルフォードが答えた。
「脈拍は戻りましたが、呼吸停止状態で搬送されました」
「おや、あなたが篠原さんの言っておられた大学の先生ですか」
 富田林はギルフォードに上から下まで目を通して言った。
「はじめまして。県警の富田林です。多田美葉の事件からこっちも担当させられましてね」
「Q大のギルフォードです。こちらこそはじめまして」
「しかし、大変だったようですな、先生。自殺と聞かねば、あなたを容疑者と疑うところでしたよ」
「え?」
 ギルフォードは下を向いてまじまじと自分の姿を見た。白いシャツに血がべっとりとついていた。さらに良く見ると、黒いスーツにもあちこち何かが染みになっていた。信之を正面から抱き留め支えていたので、大量の鼻血やら何やらが付着したらしい。
「サヤさ~ん。一張羅がナンカだらけになってマシタ」
 いきなり情けない表情になって、ギルフォードは紗弥の方を見た。紗弥が若干すまなそうに答えた。
「申し訳ありません。気付いていたのですが、それどころではなくて・・・」
「首吊りはねえ・・・」
 富田林が同情するように言った。

 富田林と増岡のコンビは、現場を見て自殺未遂と判断、事件性は無いとして帰っていった。刑事達を見送ってから、聡子が洗面所で手を洗っているギルフォードのところにやってきた。
「おや、サトコさんでしたっけ。どうされました?」
 鏡に映った聡子の姿を見て、ギルフォードは蛇口を閉めて振り返った。
「せっかく来ていただいたのに、こんなことになって申し訳ありません」
 聡子は平身低頭謝った。
「いえ、そんな謝らないでください」
 ギルフォードが恐縮して答える。聡子は改めてギルフォードの服を見ながら言った。
「ああ、ずいぶんと汚れちゃいましたね。何となくニオイも・・・。申し訳ありません。どうかお風呂にお入りください。着替え、信之のでとりあえず合いそうなのを探しておきます」
「そんな、気を遣わないでクダサイ」
「いえ、どうかシャワーだけでも・・・。事件後消毒されて、私たちも使ってますので安全ですから」
「わかりました。では、シャワーを使わせてもらいますね
 ギルフォードはこれ以上断るのも失礼と思い、承諾した。
「スーツはクリーニングに出しますので・・・」
「いえ、お構いなく。ウォッシャブルなので家で洗います。なにかビニール袋を置いておいてください・・・、あ、そうだった」
 ギルフォードは急いで玄関に戻り、すっかり忘れていた花束を持ってやってきた。
「ご霊前にお供えください。こんな物騒な格好でお渡しして申し訳ないケド」
「あら、まあまあ・・・、なんてステキな白百合のブーケ・・・。母が大好きだった花です。ありがとうございます」
 聡子が涙ぐみながら言った。

 ギルフォードがシャワーを終え、聡子に案内されて居間にいくと、紗弥と由利子が紅茶を飲んでくつろいでいた。しかし、ギルフォードの方を見て、二人は微妙な顔をした。
「やっぱ、ヘンですか?」
「『笑点』のTシャツはともかく、ジャージのズボンが半端に短いですわね」
 紗弥が言った。相変わらずの直球ストレートだ。
「困ったわねえ・・・。信之も背の高い方だったけど、やっぱり腰の高さかしら? 弟は短パンをはかなかったし、どうしましょう・・・。あ、ちょっと待ってくださいね。あれなら・・・」
 そういうと、聡子は二階に上がって行った。しばらくして降りてくると、居間のドアから顔を出してギルフォードを呼んだ。
「ありましたわ、先生。ちょっとこちらにいらしてください」
「おや、なんですか?」
 そう言いながらギルフォードは居間から出て聡子について行った。それを見ながら由利子が少し怪訝そうな表情で言った。
「何かしら?」
「まあ、教授が人妻に襲われることはないでしょうから、放っておいても大丈夫ですわ」
 紗弥が、紅茶のカップを置きながら言った。
「いや、そんなことは心配していないから」
「そうですか? それにしてもヒマですわね。テレビをつけさせてもらいましょう」
「え? いいの?」
「ええ、先ほどお伺いしたところ了解していただきました。何か今日のことについてお知らせがあるかもしれませんでしょう?」
 紗弥はそういうと、躊躇なくテレビをつけた。二人で再放送のドラマを見ていると、家の中で悲鳴がした。
「何? このドラマの中・・・じゃないよね」
「家の中でしたわね。様子を見に行きましょう」
 由利子と紗弥は居間を出て声のした部屋を探した。すると、なにやら二階から声がする。
「サトコさん、ステキです~。僕、コレ初めてです~」
「ちょ・・・、ちょっと待ってください、私、慣れてなくて・・・。それに、裾が乱れますよ」
 二人は顔を見合わせた。
「何やってんだか・・・」
と、紗弥。
「行ってみよう」
 由利子はそういうと階段を駆け上がり、声のする部屋の戸を開けた。そこは衣装部屋だったが、和服を着た男がうやうやしく跪きながら聡子の手を取り、ナイトよろしく手の甲にキスをしていた。由利子が半ば呆れて言った。
「何やってんですか、コラ」
「オー、ユリコ! 感謝のキスですよ」
「私、西洋風は慣れてなくて、それに、せっかくお着せしたお着物の裾が乱れるから・・・」
 と、聡子が恥ずかしそうに言った。由利子と紗弥は肩をすくめて顔を見合わせた。
「見てクダサイ、ユリコ!紗弥さん! キモノです! 一度着てみたかったんです!!」
 ギルフォードは、彼女らに自分の着物姿を見せながら言った。由利子の冷たい視線に対して、ゴキゲンなハイテンションだ。ギルフォードは、さらに二人の前でくるりと回ってみせた。薄い緑色の地にグレーと茶縞柄の麻の長着で帯は茶色、長着の色はギルフォードの目の色に良く似合っていた。由利子の横で紗弥が小声で言った。
「もう、バカ・・・」
「意外と良くお似合いで・・・」
 由利子はギルフォードのテンションに若干引き気味に答えたが、確かに文句なく似合っていた。着付けが上手いのだろう。若干裾と袖が短いが、おかしいほどではない。聡子がほっとしたように言った。
「ちょっと驚いたけど、こんなに喜んでいただいて嬉しいですよ。背の高かった祖父の夏用の着物があることに気がついて良かったですわ」
「サトコさん、本当にありがとうゴザイマス!!」
 ギルフォードが感謝のハグをしようと聡子に近づいたので、聡子はまたきゃあと悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford! いい加減になさいませ!!」
 とうとう紗弥が最後の切り札、「緊箍経(きんこきょう)」を唱えた。

「まったく。事情で遅れたとはいえ、昨日お葬式を終えたばかりのお宅ですのよ。それに、今も弟さんが病院に運び込まれたばかりでしょう? 状況をわきまえてくださいませ」
 居間に戻った三人は、来客用のソファに座っていた。ギルフォードは、紗弥に叱られてすっかりしゅんとしていた。
「そもそも、私たちは何をしに来たのですか」
「亡くなった方への御参りと、今日放送されることへの説明です」
「そうでしょう? なのに、アクシデントがあったとは言え、まだどれも遂行されていませんのよ」
「どうもスミマセン・・・」
 ギルフォードは下を向いたまま、若干上目遣いで言った。
(やっぱり孫悟空と三蔵法師やね)
 由利子は改めて思った。
 しばらくすると、聡子がギルフォードの分の紅茶を運んで来た。ギルフォードがすぐに立ち上がって言った。
「先ほどはどうも、脅かしてスミマセンでした」
「いえ、お気になさらないでくださいな。おかげで私も気が紛れてよかったです。・・・イギリスの方とお聞きしていますので、ミルクティーにしてみたのですけれど、お口に合いますかしら?」
 聡子は紅茶をテーブルに置きながら、少しはにかんだ笑顔で言った。
「いえいえ、ありがたくいただきます」
 ギルフォードは座りなおすと、カップを手にして一口飲んでから、にっこり笑って言った。
「美味しいです。母が入れてくれたものと近い味で、スゴク懐かしいです」
「まあ、西洋の方はお上手ですわね」
「いえ、お世辞じゃないですよ」
 そう言うとギルフォードは旨そうに紅茶を飲んでいたが、紗弥に突(つつ)かれカップを置きながら言った。
「・・・あの、順番が後になってしまいましたけど、ご霊前にご焼香したいと思うのですが・・・」
 ギルフォードは、まずひとつ目の目的遂行を申し出た。聡子は両手で口を覆い、やや涙ぐんで言った。
「ありがとうございます。故人たちも喜ぶと思います」
 聡子の了解を得て、三人は立ち上がった。

 祭壇のある部屋に行くと、三人はそれぞれお香を焚き手を合わせた。すでに祭壇には、ギルフォードが持って来た百合の花が飾ってあった。
 由利子は、祭壇でやさしく笑う祖母の遺影と並べられた、雅之の遺影で彼の顔を改めて見た。写真の雅之は、まだ少し幼さの残る顔で屈託なく笑っている。まだ14・5歳の普通の少年が、魔が差したとしか思えない殺人を犯し、結果、自らも命を落とすことになってしまった。さらにその結果、祖母や母までもが命を落とし、その後も多美山を含め、じわじわと犠牲者を出し続けている。
(巡る因果は糸車・・・か)
 由利子は昔の人形劇のセリフを思い出しながら、つくづくと運命の不思議さを思った。雅之の遺影の隣に、若干小さめの額に入った、中年と呼ぶにはまだ若い女性の写真が置いてあった。なかなかの美人で、おそらく母の美千代のものだろう。面影が雅之によく似ていた。まだ遺骨が帰ってないので葬儀は持ち越されたが、仮の葬儀は執り行われたのかもしれない。
(一体この人は、どんな思いでばら撒き屋になり、そしてあんな事件を起こしたのだろう・・・)
 それを思うと、由利子はやりきれなかった。パーフェクトではなかったかもしれない。しかし、平凡だがそれなりに幸せな家庭だったにちがいない。それが、完膚なきまでに壊されてしまった。今生きているのは父親だけで、その彼も今は生死の境を彷徨っている。あのウイルスさえ撒かれなければ、例え雅之が事件を起こしていたとしても、この一家の状況はまったく違っていただろう。由利子は改めてウイルスを撒いた者たちに対して怒りを感じた。それは他の二人も同じだった。
「僕たちはあなた達の前で誓います。必ずウイルスとそれを撒いたテロリストを制圧します」
 ギルフォードがまっすぐに祭壇を見ながら誓った。

「それではサトコさん、ノブユキさんが入院してしまいましたので、あなたにお話したいと思いますが、いいですか?」
 居間に戻ると、ギルフォードは秋山家来訪の本題に入った。ギルフォードたちの前に座った聡子が答えた。
「はい。よろしくおねがいいたします」
「今日、夕方、テレビ・ラジオ・ネットを媒体に知事から重大なお話があります。それは、明日の新聞や、自治体の広報でも配布され、出来るだけ多くの人たちに知ってもらえるようにします」
「で、それと信之とどういう関係が・・・」
「はい。それが、ノブユキさんのご家族を奪ったウイルスについてのことだからです」
 その時、聡子の携帯電話が着信を知らせた。
「あの、失礼ですが電話に・・・」
「遠慮なく出てください。ノブユキさんの容態でしょう?」
「すみません・・・」聡子は電話を取ると急いで耳に当てた。「もしもし、多佳子? 信之はどう?」
 三人の間にも緊張が走った。
「え?え? そっそれで?」
 聡子の目に、見る見る涙が浮かんだ。
「うん、わかった。あんたも気をしっかり持って。ええ、この後もお願いね」
 聡子は電話を切ると、あふれる涙もそのままに言った。笑顔だった。
「信之が持ち直したそうです。救命処置が早かったからだそうで、脳障害の方が出たとしても、軽度だろうということでした」
「そうですか! ああ、良かった」
 ギルフォードがほっとした笑顔で言った。由利子と紗弥は、顔を見合わせると「きゃー」と言って抱き合って喜んだ。
「良かった、良かった・・・。みなさんのおかげです。ありがとうございました。これで信之まで失ったら、私たちは耐えられないところでした」
 そこまで何とか言い終えると、聡子は泣き崩れた。
「サトコさん」
 ギルフォードがフェミニストらしくすかさず立ち上がって隣に座り、聡子を落ち着かせようと肩に手を置いた。しかし、信之のこれからのことを考えるとギルフォードの胸中は複雑だった。果たして蘇生したことが、彼の為になったのだろうか・・・。由利子はギルフォードの表情が、一瞬辛そうに曇ったのを見逃さなかった。

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5.告知 (4)告知前

 ギルフォードは聡子が落ち着くまで待つと、彼女の横に座ったまま改めて説明をした。聡子は最初、話の内容の把握がよく出来なかったが、それは、信之から詳しい話を聞いていなかったからだと言うことがわかった。

 聡子からの話はこうだった。
 聡子と多佳子が、母と甥の訃報を知らされ実家に駆けつけたのが、雅之が事故死した日もすでに暮れかかった頃だった。だが、実家も信之宅も封鎖されていて入ることが出来ない。彼女らは、信之が感染症対策センターにいることを知らされすぐにそこに向かった。
 しかし、なんとか信之には会えたものの病室のガラス越しで、あまりにも異常な事態に対応できず憔悴しきった信之からは、詳しい事情を聞けるような状態ではなかった。彼女らは、信之を励ますだけでそこを去るしかなかった。
 その後、彼女らはセンター長の高柳から秋山夫妻の隔離入院についての説明をされた。しかし、その内容も彼女らにとってはあまりにも突飛で、すぐには信じられなかった。さらに、母や甥の遺体に対面したいと申し出たが、それも許可されなかった。彼女らは泣いて頼んだが、規則だと言うことで頑として聞き入れられなかった。彼女らはそれ以上どうすることも出来ず、連絡待ちということで、泣く泣く帰路につくしかなかった。
 信之が病院から帰ってきてからも、とても聞ける状態ではなく、腫れ物を扱うようにしていたという。それで、彼女らは警察から報せがあった時と感対センターで聞いた情報しか得る術がなかったのだ。
「母と甥、しかも実の母が死んだと言うのに遺体にも会えず、その上、人が亡くなった時にするべきことが全く出来ないなんて、信じられませんでした」
 聡子は静かではあるが、底の方にはいまだ消えない憤りを秘めた口調で言った。
「しかも、未知の感染症だなんて誰がすぐに信じられますか? 私たちは訳がわからず、ただ抱き合って泣いていました」
「スミマセンでした」
 ギルフォードが頭を下げながら言った。
「あの時は現場もセンターも相当混乱していましたので、ご遺族のお気持ちの方まで対処出来なかったんだと思います。でも、そんな時だからこそ、細やかな配慮をしなければならないのです。本当に申し訳ありません」
 そういうと、ギルフォードはもう一度頭を下げた。聡子は驚いて言った。
「そんな、先生、頭をお上げになって。先生に恨みを言ったわけじゃありませんわ」
「遺体との対面が出来ないのは、もちろん感染防止のためですが、お二人のご遺体はかなり損傷していましたから、僕はあなた方が見なくて良かったと思ってます。遺影でお母様のお優しい笑顔を拝見して、そう思いました。ご遺族の方にとってはどちらが良いのか僕には断言できませんが・・・」
「ああ、先生はご覧になられたのですね・・・」
 聡子が言った。
「母の遺体はそんなに・・・」
「で、あの日はですね」
 ギルフォードは急いで話題を変えた。これ以上聡子にショックを与えてはまずいと思ったからだ。
「僕も、マサユキ君の友人たちから話を聞いたり、法医学の先生に報告したりと大忙しで、午後からの講義が終わった後、センターの方にも寄りましたが夕方には帰りましたので、あなた方とはすれ違いだったみたいですね」
「そうでしたか。・・・ところで、あの・・・、雅之ですが、ホームレス襲撃なんて本当にそんな大それたことをしたんでしょうか?」
「申し上げ難いですが、YESです。彼の制服の上着からは犠牲になったホームレスのヤスダさんの血液が検出されましたし、右手にマサユキ君の友人たちが証言した傷跡もありました。その傷跡とヤスダさんの爪も整合しています。僕は、マサユキ君はその傷からヤスダさんの罹っていた病気に感染したと確信しています」
「ああ・・・」
 聡子はそういうとまた顔を覆った。
「弟嫁の美千代といい、一体どうしてあんなことを・・・」
「二人とも亡くなられてしまった今、それはもう誰にもわからないでしょう」
 ギルフォードは気の毒そうに聡子を見ながら続けた。
「サトコさん、これから僕が言うことをしっかりと聞いてください。あなたたち姉弟にとって重要なことですが、ノブユキさんがああなってしまった今、僕はあなたたち姉妹に託すしかありません。あなたには辛い内容を含みますが、どうかお聞きください。まず、これまでの流れをもう一度簡単に説明します。ご存じのこともあると思いますが、おさらいと思って聞いてください」
 と、ギルフォードは雅之の事件から現在までの流れを、わかりやすくかいつまんで話した。聡子がまたも辛そうな表情で言った。
「何て事でしょう・・・。西原さん一家には本当に申し訳ないことをしたんですねえ・・・」
「西原さんは、ミチヨさんも亡くなられてますし、その他の状況も理解されて訴訟はしないとおっしゃっておられるそうです」
「訴訟・・・」
 聡子は膝の上で、さっき涙を拭いたハンカチを握りしめながら、硬い表情で言った。
「そうですよね、美千代は訴えられるべきことをしてしまったんですよね・・・。西原さんの寛大なお計らいに感謝します。ほんとうに申し訳ないですし、感謝の言葉も見つかりません」
「西原さん一家については、あなた方が落ち着かれてからお詫びとお礼に伺ってください」
「ええ、もちろん、もちろんです」
「それよりも、これからお話しすることはもっと問題なんです。よくお聞きください」
ギルフォードは、これから行われる森の内知事の告知について説明した。
「今回の告知は、F県及び周辺に住む人々に新型感染症に関する注意を促がすことが目的ですが、公表することによって、感染者の追跡をしやすくするという目的もあります。いくつか追跡すべきルートがありますが、そのうちの二つにマサユキ君とミチヨさんからのルートがあります。マサユキ君のほうは、事故現場に遭遇した人の中から感染者がいるかどうかです。今現在では少なくとも、一人の感染が確認されています。ミチヨさんについては、失踪時に彼女がどういう行動をしたかも誰と会ったかも全くわかっていません。僕たちはマサユキ君よりも、ミチヨさんのルートのほうがより深刻だと考えています」
「あの、美千代は失踪時にいったい何をしていたのでしょう・・・?」
聡子が不安そうに尋ねた。ギルフォードはその質問に自分の推測で答えるのは避けて言った。
「ミチヨさんの、感対センターを抜け出してから公園に現れる間の空白部分の行動については、ほとんどわかっていません。ただ・・・」
「ただ?」
「彼女がセンターを抜け出したのは、外部からの手引きがあったらしいということと、彼女が公園で言ったことから、彼女が何者かから操られていた可能性が高いということです」
「いったい誰に!」
「わかりません。それを調査するためのルート解明でもあるんです」
 ギルフォードは、ウイルスが人為的なばら撒きの可能性が高いということを言うのをはばかった。今回の告知ではまだ発表を伏せられているからだ。
「なんてこと・・・!」
 聡子は再度ハンカチを握り締めながら言った。
「もちろん、あなた方を含め、これに関わった人たちの個人情報が流れることはありません。しかし、すでに色々なウワサが流れています。それが、どんな風にあなた方に降りかかるかわかりません。それは、西原さんたちすら巻き込むことになるかもしれません。状況を見て、警察のほうで対処するようにしているようですが、ことによると、ノブユキさんをどこかに保護することになるかもしれないということを、頭にいれておいて下さい」
「可愛そうな信之!」
 聡子が言った。
「家族を全て失ったというのに、この上いったいどれだけ苦しい思いをすればいいのでしょう・・・!!」
 聡子はそう嘆くとハンカチで目頭を押さえた。由利子と紗弥は、口を挟む余地もその必要もなかったので、二人の会話を黙って聞いていたが、悲しさと憤りを抑えつつ涙する聡子を見ながらチラリとお互いを見、ついでギルフォードの方を見た。彼はいつものようにフェミニストぶりを発揮していた。由利子は、罪を犯した者の家族もまた被害者なのかもしれない、と思った。
 そんな中、紗弥がいきなり立ち上がって窓の方に駆け寄ると、窓を開け外に飛び出した。と、同時に家の前から車が発進し、猛スピードで逃げ去った。
「チッ!」
 紗弥が珍しく舌打ちをして、逃げる車を見送った。残りの三人が心配そうに窓のそばに寄ってきた。
「何者かがここの様子を伺ってましたわ」
 紗弥は彼らの方を振り返ると言った。

「おお、危ない危ない。やはり気付かれたか。遠くから望遠で狙って正解だったな」
 車を運転しながら、降屋がつぶやいた。その後、普通の声で横の女性に言った。
「どうだい? いい写真が撮れただろ?」
 助手席で、極美がデジカメのモニターで映像を確認しながら言った。
「ええ、思ったよりずいぶんとはっきり写っているわね。でっかい望遠レンズをつけたカメラを見た時は、女湯でも盗撮するのかと思ったわ」
「盗撮はひどいな。そのつもりがあったら、君に隠しカメラ付きのポーチを渡して女湯においてもらうさ」
「そんなのには協力しないわよ」
「冗談さ」
「あたりまえじゃないの。犯罪じゃない。本気だったら引くわ」
「あはは、案外真面目なんだね、君」
「あんな仕事をしていたから、いい加減だと思ってた?」
 極美は少し不機嫌そうに言った。
「そんなことはないよ。不真面目な子だったら、協力しないから」
「そうなの?」
「そうさ」
「わかった、信じるわ。で、この情報は、またあなたの公安警察の友人経由?」
「まあ、そういうことにしといてよ。色々あってあまり詳しいことは言えないんだ。とにかく、今日午後から例のガイジンの教授が秋山家に来るという情報を得たんで、君に教えたまでさ。君、彼の顔を見たがってたろ?」
「ええ・・・。思ったより若いわね。それにかなりいい男だわ」
「僕とどっちが?」
「バカね」
 極美は降屋のボケを一蹴し、続けて尋ねた。
「でも、なんであんな遠くから撮る必要があったの?」
「今のでわからなかったかい? 近くに寄ると気付かれるおそれがあったんだ。あの女は教授秘書だけど、元はCIAのエージェントだったんだぜ」
「やっぱり冗談が下手ね、あなた。さすがにCIAはないわよ」
 極美が苦笑いして言った。
「じゃあ、KGB」
「却下」
「SASとかは?」
「もう、マンガの見過ぎだわよ。確かにだだの秘書じゃなさそうだけど。教授の愛人とかそのレベル?」
「あいつ、ゲイらしいぜ」
「ええ~っ、うっそお!!」
「マジ、マジだってば。けっこうそれって有名らしいよ」
「公言しているの? だとしたら勇者だわね。でも、もったいないわねえ。いい男なのに」
 極美は写真をスクロールしながら言った。
「あ、これこれ、救急車が来た時門扉のところに立ってるこれ、いいわね。特に黒いスーツに血まみれの白いシャツが危険っぽくていいわ。使うならこれね。顔には目線かボカシをいれるとして・・・。う~ん、目線の方がかっこよさが垣間見えていいわね」
「どんな記事にするか決めているの?」
「ええ、だいたいね。あとは掲載するタイミングだわ」
「今日の知事からのお話が良い発端になるといいね」
「なに、それ?」
 と、極美はきょとんとして降屋を見た。
「ああ、知らなかったのかい? 今日夕方6時のニュースの時間帯を利用して、知事から重要な話があるらしいのよ。多分、テロ関係のことだと思うよ」
「じゃあ、見なきゃあ。急いで帰りましょ」
「おっけ~。じゃあ、すっ飛ばすぞ」
 そういうと降屋は景気良くアクセルを踏んだ。極美は焦って言った。
「ちょっと、急がなくても6時前には悠々と着くわよ。交通規則は守って。って、そっちは私のホテルへの方向じゃないわ!」
 驚く極美をチラリと見て、降屋はにっこりと笑いながら言った。
「僕の部屋じゃご不満かい?」
「え、ええっ? そんな、行っていいの? ご家族は?」
「独身だもの、僕だけだよ。K市の大学に通っていた頃から同じ賃貸マンションにずっと住んでいるんだ。大家がめんどくさがって家賃を上げないし、住み慣れたらなんとなく居心地がよくってさ。で、来るだろ? 僕んちならプリンタがあるから、撮った写真をプリントアウト出来るだろ?」
「そっ、そうね。じゃあ、遠慮なくお伺いするわ」
 極美は何となく勘違いをしたと思い、少し顔を赤らめながら言った。

 ギルフォードたちは、居間のソファに戻った。しかし、話は先ほどの出来事に移行していた。
「何者だと思う?」
 由利子が聞いた。
「急いで確認しようと思ったのですが、植木が邪魔で車に乗っていた人物もナンバープレートも確認が出来ませんでした。残念ですわ」
 紗弥が答えた。相変わらずのポーカーフェイスだが、膝の上に組んだ手の関節が白く見えた。ギルフォードが肩をすくめて言った。
「告知前からこれでは、先が思いやられますねえ・・・」
「やめてください。これからのことが余計に恐ろしくなりますわ」
 聡子が恐ろしげに両腕を掴んで言った。
「おっと」
 ギルフォードが時計を見ながら言った。
「5時をだいぶ回ってしまいましたね。そろそろおいとましなければ。今からだと、僕の研究室なら6時前には着くと思いますから、放送には間に合うと思います。みんな、帰りましょうか」
「あの、お待ちになってください」
 聡子が懇願するような目をして言った。
「私、一人でその放送を見るのが怖いんです。みなさん、ここで一緒に見てくださいませんか?」
 思わぬ依頼に三人は顔を見合わせた。

「潮見、ちょっと車を止めて」
 パトカーでパトロール中の熊田が運転している部下に言った。
 ここは、F県もS県境に近い街の国道沿い。潮見は車を止め不審そうな表情で言った。
「急にどうされたとですか、巡査部長」
「あの女性、似とおと思わん?」
 熊田は、現在パトカーが正面に止まった形となったコンビニの方を指差した。そこにはたった今車から降りて店内に入ろうと入り口に向かう女性がいた。両サイドがレースアップ仕様のレザータンクトップに同じくレザーのマイクロミニで、生足に黒いハイヒールと、ずいぶんと過激な格好をしている。
「似てるって、誰にですか?」
「指名手配中の結城って男に誘拐されたって、ナントカっていう・・・」
「ちょっと待ってください。えっと、これですね」
 潮見は手配書を出して見ながら言った。
「多田美葉、37歳・・・。う~ん、今は後ろを向いてるんでよくわかりませんが、ちょっと若すぎるっちゃないですか? せいぜい20代後半くらいにしか見えませんよ」
「単に若作りってのかもしれんやろ。特に女性の歳は同性の私だってわからんもんなあ。まあ、手配書の写真は運転免許証の写真っぽいから、ちょっと難アリやけど」
「難有りって・・・」
 彼らがそう言いながら様子を見ていると、女がそれに気がついたのか振り返った。
「あ、気付かれたか。コンビニのガラス窓にパトカーが映っとおからやね」
「背格好はあってますけど、やっぱ若かですよ、彼女。しかし、すごい短いスカートやなあ。・・・って、小柄なのに胸でかっ」
「こらこら、どこば見よっとね、あんたは。やっぱ男やねえ」
 熊田は苦笑いをして言ったが、すぐに真顔になった。
「ん? 何かこっちに来そうな雰囲気やけど・・・」
 しかし、彼女は車から連れの男が下りて来ると、ぴたりと動きを止めた。
「仮に彼女が多田美葉とすると、男の方は結城の可能性があるとやけど・・・」
「結城 俊、46歳・・・。身長、179センチ。これも背格好は合ってますが、こっちは歳をとりすぎてますね。どう見ても60近いですよ、彼」
 男は何かを言いながら、急いで彼女に長いコートを着せた。
「あんまり短いスカートをはいているから、彼氏も気が気じゃぁなかごたるねえ」
「彼氏というよりも、お父さんって感じですね」
 男の方もパトカーに気がつき、人好きのする笑顔を浮かべて会釈すると、女と肩を並べてコンビニに入っていった。 
「やっぱり別人か。男の人相が違いすぎるもんねえ。警察を目の前にしても、全く不審な態度をせんし」
「じゃ、行きましょうか」
 そう言うと、潮見は車を発進させた。
「もう少ししたら、例の放送が始まりますよ」
「おっと、そうやったね。ラジオでもやってるんだったな」
「はい。放送後、何か騒ぎになるでしょうか?」
「どうやろうねえ。それよりどれくらいの人が信じるかのほうが問題かもしれんよ」
 と言いながら、熊田は微妙な表情をして笑った。

 件の男女は熊田が最初疑ったとおり、美葉と結城だった。彼らはコンビニで日用品を買い込むと、すぐに車に乗り早々にそこを立ち去って行った。美葉はもともと歳よりかなり若く見られがちで、30過ぎて補導されたという笑い話もあるくらいなので、髪型や着る物で10歳くらい若く見せることは造作もないことだった。しかし、結城の変貌は異常だった。やや伸ばした髪には白いものがかなり目立ち、遠目には殆どグレーにしか見えなかった。体重もかなり減っており、それによって顔も骨格が際立ち皺も目立ってきた。実際に彼が年齢を60だと偽っても、誰も疑わないだろう。彼の常用する薬の副作用なのだろうか、その面持ちには死相すら感じられた。しかし、当の本人は見た目の変貌とは違い、むしろエネルギッシュに活動しているようだった。
 結城は人目を避けるように、山道に車を走らせていた。一瞬とはいえ、さっき警官にに目をつけられたのでかなり用心深くなっている。二人はコンビニから出てから一言もしゃべっていない。車内には緊張した空気が張り詰めていたが、民放FM局の名物パーソナリティ、『ビーちゃん』こと蜂谷ケンタのおどけた声が、場違いに響いていた。彼は、時折イラッとする類のオヤジギャグを交えながらも、軽快に番組を進めていく。と、急に蜂谷の声が真面目なアナウンサーの声に戻った。
「さて、CMに入る前にもう一度お知らせします。今朝から各番組でお伝えしていましたとおり、6時から番組を約5分間変更して、森の内知事からの重要なお知らせを放送します。なお、これはAM・FM・テレビ放送を通じて・・・」
「うるさい!」
 結城がイラついた様子で、乱暴にラジオのスイッチ切った。それできっかけが出来たのか、結城はミラー越しに助手席の美葉を一瞥しながら言った。
「美葉、おまえさっきパトカーに走って行くつもりだっただろう?」
 美葉は無言で窓の外を見ていた。
「しばらく大人しかったので安心していたら、早速こうだ。そんなことをしたら、どうなるか充分言い含めていたつもりだったけどね、まだわかってないようだね」
「捕まりたくなかったら、明るいうちに出歩かないことね」
 美葉は右手で支えた左手で頬杖を着き、そっぽを向いたまま言った。
「それに、私にこんな趣味の悪い露出過多な服を着せたりしたら、余計目立つでしょう。それをあんたに警告したまでよ。第一この車、盗難車じゃないの。ナンバーを調べられたら一発でアウトだよ」
「邪の道は蛇ってね、そう簡単にばれないようなルートの車だってあるんだ。これはそのルートから手に入れたから、その点は大丈夫だ。生憎だな」
「そっ、蛇ね。あんたらしいよ」
 美葉はそっぽを向いたままはき捨てるように言った。結城は少し困ったような表情をして言った。
「まだ許してくれないのか、美葉。あれから僕たちは、ずっと・・・」
「身体を支配したくらいで、私を征服した気にならないでよ!」
 美葉は結城の方に向きなおすと、キッと厳しい表情で彼をにらんで激しく言ったが、すぐに言葉を和らげて続けた。
「私の心はすでにあなたにはないの。本当に私を愛しているなら、私を解放して。・・・いえ、それじゃだめだ。聞いて。あなたが本当に救われるには、罪を償うしかないの。私と一緒に警察に行きましょう。ね、お願い。このままでは私たちが向かうのは破滅しかないわ」
「破滅か・・・。おまえと一緒ならそれもいいかもしれないな」
 結城はそうつぶやくと、路肩に車を止め、美葉の方を向いて言った。
「いいか、美葉。何度も言うように、おまえが妙な気を起こせば大勢の人が死ぬことになるんだ。二度とさっきのようなマネはやめろ」
「わかったわよ!!」
 美葉はヒステリックに叫んだ。
「でもね、言っとくけど、私はあなたのテディ・ベアじゃないからね!!」
「美葉、どうしてわかってくれないんだ?」
 結城はシートベルトを外すと、美葉の上に覆いかぶさり、シートを倒した。
「やめて!! 嫌ッ! まだ明るいじゃないの、いい加減にして! それに車の中は嫌いだって・・・」
「おまえが言うことを聞かないからだ」
「まだそんなことを言っているの? バカよ、あんた。私は諦めない。きっとこの状況から脱してやるから!」
「強がるんじゃない!! おまえは僕から逃げられないんだ。籠の鳥なんだよ」
 結城は美葉の上に乗ったまま、彼女の両手を掴んでシートに押し付け抵抗できなくすると、そのまま彼女と唇を合わせた。彼はしばらく美葉の口をむさぼると、そのまま彼女の首筋に唇を這わせ、空いた左手でタンクトップをめくりあげようとした。
「嫌ッ! 嫌だってば、もうやめて!! 嫌ったら嫌ぁっ!!」
 美葉はなんとか抵抗しようと足をばたつかせた。その時、ふと時計が目に留まった。時刻は6時になろうとしていた。
(そういえばさっき・・・)
 美葉は常に結城に見張られ、自分で色々な情報を得ることが出来ない状況に置かれているが、さっきのアナウンスの内容から、結城のおこしたテロ関連についての放送だろうと考えた。美葉は結城に抵抗しながらも、なんとかしてカーステレオのスイッチを入れようと足を伸ばした。何度も失敗したが、何とかスイッチを入れることが出来た。ついでにヴォリュームも上げてやる。スピーカーから男の声が車内に響きわたった。
「・・・県内に水面下で流行しつつある、この新型感染症ですが・・・」
 美葉の思惑通りに結城の動きがピタリと止まり、弾かれたように起き上がるとラジオの声に耳を傾けた。美葉は、乱れた髪と衣服を直しながら起き上がった。その顔には冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「公表・・・しやがった・・・」
 と、結城は半ば呆然としてつぶやいた。よもや今の段階で公表するとは思ってもいなかったのだ。そう、現在の病気の広がりや死者数からして、今公表すると言うことは経済的リスクが大きすぎる、それ故に行政側が市民に対しての警告をためらい、その間に広がったウイルスがある時期爆発的に感染者を増やすということが、彼らの展開予測であったからだ。
「くくっ、くっくっ・・・、あはっ、あははは・・・」
 結城の狼狽振りを見て、いきなり美葉が哄笑した。
「黙れ! 何が可笑しい!!」
 結城は美葉をにらみつけて怒鳴った。美葉は高笑いを止めると今度はクスクス笑いながら答えた。
「ああ可笑しい。あんた、しばらくは公表できないって高を括っていたよね。相手を甘く見すぎてたようね。あっちにはアレクが・・・バイオテロ対策の専門家がついてるんだ。テロのことは触れていないけど、明らかにこれは、あんた達に対する宣戦布告だよ」
 そう言うと、美葉はまた笑い出した。
「くっくっくっ、大笑いだわ。あーっはっはっは。あははは・・・」
「笑うのをやめろ!」
 結城がまた怒鳴る。
「ははは、だって、だって可笑しい・・・ははははは」
「やめろ―――――」
 狂ったように笑い続ける美葉に耐えかねたのか、結城はとっさに美葉の首を両手で掴み、絞めた。美葉の笑いが途切れた。結城の両手を掴み両目が大きく見開かれて、苦しそうに口をぱくぱくとさせた。結城の手の甲に美葉の爪が突き刺さったが、不意にその手の力が抜けて、ぱたっとシートに落ちた。
「美葉?」
 結城は驚いて両手を離した。
「ああ、僕は何てことを・・・!!」
 結城は美葉を抱きしめながら言った。力の抜けた美葉の両手はもう抗うことなく、強く抱きしめるにつれ彼女の首が反り返った。

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5.告知 (5)ルビコン

 時は少し戻り、こちらは秋山家に訪問中のギルフォードたちである。彼らは聡子の頼みを受けて、知事の告知が終わるまで秋山家に留まることにした。
「もうそろそろだよね。ねえ、どのチャンネルがいいかな?」
 と、由利子がなんとなくワクワクしながら言った。ギルフォードが少し笑って答えた。
「多分どれを見ても同じ内容だと思いますが・・・」
「じゃ、ウザいCMがないNHKかなあ」
「それより、聡子様が見たい局にするべきですわ」
 紗弥が至極最もなことを言った。
「いえ、私はどこでもいいんですよ」
 聡子が微笑みながら言った。
「日ごろでも、夜7時までは特に決まった番組はないんですの」
「じゃ、無難にNHKに決めますか」
 と、ギルフォード。
「とりあえず、はやくテレビをつけましょ。もうすぐ6時よ」
 由利子が待ちきれないと言う様子で言った。紗弥が「失礼します」と、リモコンを手にしてテレビの電源を入れた。画面に浮き上がった映像と曲から、紗弥が少し悔しそうに言った。
「あ、笑点のエンディング・・・。しまった、すっかり忘れてましたわ」
「紗弥さん、笑点好きなんだ。意外~」
 由利子がちょっとした驚きと共に親近感を持って言ったが、紗弥はちょっぴり恥ずかしそうにして言った。
「とりあえず、NHKに変えますわね」
 チャンネルは変わったが、時間が少し早く、まだ先の番組が放映されていた。ギルフォードは画面を一瞥すると、聡子に向かって言った。
「まだちょっと時間がありそうですね。あの、ちょっと気になることがあったので、お聞きしていいですか?」
「ええ、もちろんですわ」
 と、聡子は快く答えた。
「ノブユキさんのことです。あの、彼が自殺をしようとする前に、変わったことはありませんでしたか?」
「変わったことですか?」
 聡子はそういうと、少しの間考えてから言った。
「そう言えば・・・、信之が先生からの来られると言う電話を受けた後、しばらくしてまた電話が何本か入って・・・、その頃から様子がちょっと変だったような・・・。でも、信之は最近ずっと不安定でこういうことはよくあったので、私たちも慣れっこになってしまって、特に気に留めようと思わなかったんです。私たちの不注意です」
「電話の内容は・・・」
「わからないです」
「そうですか・・・」
 ギルフォードは腕を組みながら言った。
「あまりにもタイミングが良すぎるんです。信之さんは、まるで僕らの来訪に合わせたように首を吊った・・・」
「ってことは、誰かが私たちの行動を監視している?」
 と、由利子が眉をひそめながら訊いた。
「わかりません。でも、ノブユキさんが何者かに操られた可能性はあります。彼のような精神状態の人を追い込むのは比較的容易いですから」
 それを聞いた聡子は、第三者の存在に気付き怯えた表情を浮かべて言った。
「そんな・・・。じゃあ、信之はいったい誰が何のために・・・?」
「それもわかりません。ただの余興のつもりだった可能性すらあります。誰がというのも今はハッキリとは言えません。というか、よくわかっていないのです。とにかく、その電話がどこからかかってきたのかを、警察に調べてもらわなければなりませんね」
「あ、皆さん、始まりましたわよ」
 紗弥が、話に集中していた三人に向けて言った。

 画面に森の内が映った。彼は、手元に沢山の資料を置き、それをせわしく確認していたが、映っているのに気がつくと、正面を向いて礼をして言った。
「こんばんは。F県知事の森の内です。今日私は、F県とその周辺の方々に、重要なことをお伝えすることになりました。みなさん、今から私が説明することをよく聞いてください。そして、冷静に対処してください。集まられた記者の方々からの質問には後でお答えする時間をとってありますので、それまでは静かに私の説明を聞いてください。いいですか? ・・・。では、本題に入ります」 

「なかなか落ち着いてますね、いいぞ」
 心配そうに画面を見ていたギルフォードが、安心したように言った。

 豊島恵実子が夕飯の支度をしていると、居間の方からまだ幼い息子の輝海(あきみ)の呼ぶ声がした。
「おかあさん、おかあさん」
「なんね~?」
 恵実子は大声で答えた。
「おっかあさん、来て~。テレビでなんか言うとぉよ」
「何てぇ?」
「だいじな話だから、できるだけ聞いてって~」
「大事な話ィ? テレビでェ?」
 そう言ったあと、ハタと思い出した。そういや緊急回覧で、今日夕方6時に知事からの重要な話があるから見ろ、とかいうお知らせがまわって来ていたな・・・。
「わかった、すぐ行くけん、ちょっと待っとって」
 恵実子は料理の下準備にキリをつけると、手を洗って居間に急いだ。
 居間では息子が例の如くテレビの前およそ2mのところでクッションを敷き、座っていた。恵実子もその横に座った。輝海は恵実子の方を向くと、深刻そうな表情で言った。
「おかあさん、シンガタカンセンショウだって」
「新型、何?」
「うつる病気だって」
「え? 伝染病? なんで?・・・」
 恵実子は驚いてテレビ画面を見た。

「・・・経緯をご説明いたします。
 先月28日にC川で発見された遺体と、31日にK市のA公園で発見された4遺体を調べた結果、なんらかの感染症で死亡した可能性があるということがわかりました。その後、彼らから感染したらしい少年とその少年から感染したと思われる女性2名が死亡しました。その他わかっている死亡者は6名で、合計14名、うち1名に関しては、身元も感染経路も全くわかっておりません」
 すでに14名の死者が出ていると聞いて、記者達はざわついた。
「現在発症中の患者は、感染症対策センターに1名、感染発症の可能性を考慮の上、隔離されてる方が6名、以上が現在確認されている感染状況です。他にも感染者がいる可能性については、現在調査中です」
「すみません、知事、新型の感染症が発生し、そのせいで14人の死者が出ているっていうのは、間違いないんですか?」
 と、記者の一人が待ちきれずに質問をした。それを口火に記者達が次々と質問を始めた。しかし、森の内は無言のまま、両手を前に出し掌を下に向けて静まるようにジェスチャーをした。ざわつきが小さくなったところで森の内が言った。
「先に申し上げたとおり、質疑応答の時間はとってあります。そのためにも、今は静かに説明をお聞きください。それが出来ない方には、ここから出ていただきましょう」
 森の内の静かだが毅然とした態度に、記者達のざわめきが収まった。森の内は周囲が静かになったのを見計らって、話を続けた。

「それでは、まず、この感染症の病原体についてお話します。
 調査の結果、ウイルスによる感染だとまではわかっていますが、抗体反応を調べても既存のウイルスとはまったく合致いたしませんでした。未知のウイルスによる、新型感染症の可能性が高いと思われます。ウイルスの特定については、現在各機関の協力を得て、総力を挙げ調査しております。しかしながら、未知のウイルスということで、いささか特定に時間がかかると思われます。
 そういう状態ですので、私たちが今のところ得ているこの感染症の情報は、まだまだ充分とはいえませんが、現在わかっている限りのことをお伝えします。
 それでは、このウイルスの感染について。
 まず、現在の感染の広がりの緩慢さから、このウイルスが空気感染をする可能性はほぼないと思われます。ただし、体液等の飛沫からの感染は否定できていません。しかしながら、感染者との濃厚な接触による感染が殆どですので、普通に生活している限りでは感染リスクはかなり小さいと思われます。このウイルスにおける濃厚な接触というのは、まず性行為、それから注射器の使い廻し、傷口に感染者の体液が触れる、感染者の体液が付着した手で目や粘膜部分を触る等があります。体液と言うのは、血液・精液・汗・涙等ですが、特に危険なのが血液や精液です。したがって母乳にも感染の可能性があります。なお、死亡者の内2名が傷口に血液が触れる事によって感染したことが確認されています。
 媒介生物ですが、これに関しては少し厄介です。現在わかっている限りですが、それはゴキブリです。さらに、彼らはこの感染症で死んだ遺体の匂いを好むらしく、それによって食害された遺体が何体か発見されております。さらに、その周辺には大型化したゴキブリも確認されておりますが、因果関係はまだわかっていません。我々はそれを『メガローチ』と仮称いたしております・・・」

努めて冷静を装っていたが、ギルフォードはテレビから嫌な名詞が連発されるたびに、顔をしかめていた。

「次に、感染した時の症状についてです。これも、まだ情報が少ないですが、わかっていることをお伝えします。
 感染後1日から1週間の・・・或いはもっと長い可能性もありますが、潜伏期間を経て、発症します。最初の症状は倦怠感と発熱です。それには目の痛みや関節痛も伴い、39度から40度のかなり高い熱が出ます。このあたりは他のウイルス感染症と同じですが、この感染症に限った特徴として、ある程度病状が進むと周囲が赤く見えるようになるということがあります。そのため、発症者は朝焼けあるいは夕焼けと勘違いをすることもあります。これは、ウイルスが脳になんらかの疾患を起こしているからだと思われます。問題は、その症状が出た時に、発作的に自殺行為を行う、或いは自らだけでなく他人も傷つけてしまうような行動に出ることです。また、この時が、周囲の感染リスクが最も高くなる時で、最も注意が必要です。
 なお、これらの症状はいくつかの症例から得た情報からまとめたものです。
 次は、皆さんからの情報提供のお願いです。
 これらに思い当たる方は、直ちに対策本部あるいは最寄の保健所の方にご連絡願います。対策本部への連絡先については、後ほどお伝えいたします。
 ひとつは、6月4日朝8時頃、NN鉄道B駅そばの踏み切りでの人身事故が発生時に、現場に居合わされた方の中で体調を崩された方、或いは急病で死亡された方のご家族、或いはそういう方をご存知の方」
 森の内の説明に沿って、画面上部にテロップが示された。
「もうひとつは今から特徴をあげる女性と、6月6日から6月10日の昼頃までの間に、何らかの接触を持たれた方。特にその後体調を崩された方、あるいは急病で亡くなった方の家族、或いはそういう方をご存知の方。
 女性の特徴を言います。年齢33歳、身長約160センチで痩せ型。髪は少しブラウンに染めており、肩より若干短めの長さでボブにレイヤーを入れている・・・って、これじゃ僕みたいなおじさんにはさっぱりわからないな。・・・えっと、ここにイラストがありますので参考にしてください」
 森の内はそういうとパネルを出して、演台の上に提示した。それは、美千代の写真を基にして描かれたものだったが、イラストのせいか遺族への配慮からか、若干のデフォルメが施されていた。 

「美夜さん・・・?!」
 居間のソファに座って、コーヒーを飲みながら何となくテレビを見ていた都築は、提示されたイラストを見て驚いてソファから腰を浮かせた。その時、背後から声がした。
「おや、兄さん、生きていたんだ」
「翔悟(しょうご)!」
 振り返った都築は、声の主を見てもう一度驚いた。
「勝手に入って来たのか」
「僕の家だもの。入るも出るも自由のはずでしょ?」
「十年近く帰ってこなかっただろう」
「でも、僕が帰っても良いように鍵を変えずにいてくれたんですよね、守里生(もりお)兄さん」
 と、翔悟は微笑みながら言った。都築は、困惑と喜びの混じった表情で答えた。
「ああ、私たちは兄弟だもの。母親は違ってもね。お帰り、祥護」
「まあすぐに帰るけれど。とりあえず、一緒にこれを見ましょう」
 翔悟はテレビを指差しながら言うと、都築の隣に座った。

「・・・6月13日午後にC野市O町の県道の横で発見された、身元不明の遺体について心当たりのある方。損傷が激しかったので、特徴が曖昧ですが、性別は男性で身長約170~175cm、年齢18~60歳くらい・・・おそらく着ている物から20代ではないかと思われます。発見当時彼が身につけていたものの写真とイラストです」
 そういうと、森の内はまたパネルを出した。そこには彼の持ち物である時計やネックレス等のアクセサリの写真と、着ていた物のイラストが描かれていた。

「それから、今から指定する地域でゴキブリに咬まれた後体調を崩された方、或いは急病で亡くなられた方のご家族、或いはそういう方をご存知の方。地域は、K市MY町のC川付近、同じくK市の祭木公園周辺、それからF市S区紗池、同じくF市W区D墓地周辺、そして、C野市O町県道E線付近、以上です。
 この地域と周辺はもちろんのこと、それ以外の地域でも、ゴキブリ対策を怠らないようにしてください」
 森の内はそこまで説明すると、一旦、間を置いて言った。
「皆さん、この説明を聞いて必要以上に恐れたりパニックに陥ったりせず、冷静に対処してください。
 この告知は皆さんの不安を煽るものではなく、ウイルスの拡大を防ぐためのものです。普段の生活をしていれば、まず問題ありません。ただし、不特定多数を相手にするような売春・買春や、麻薬や覚せい剤を打つ注射の使いまわし等の不法行為が最も感染を広めると思ってください。それから、これはウイルスによる感染症ですので、抗生物質は全く効きません。不安に駆られて不要に服用することは止めてください。無意味どころか耐性菌の発生する要因ともなります。抗生剤は病気の予防にはならないということを忘れないでください。抗ウイルス薬もどこまで効くか全くわかっていません。インフルエンザではありませんからタミフルやリレンザ等は効きませんし当然予防にもなりません。また、これらもむやみに服用すると耐性ウイルス発生の要因となります。ネット等を通じて購入し服用するような行為は絶対にしないでください。素人判断はせずに、感染の心配がある方は必ず対策本部あるいは最寄の保健所にご相談ください」

 森の内の声が響く車内で、結城は美葉の身体を抱きしめて形振り構わず泣いていた。と、不意に美葉が身じろぎをして息を吸い込むと、激しく咳き込んだ。仰向けに反り返ったためにちょうど気道を確保したような状態になったのだ。結城がすぐに手を離したことも幸運の要因であった。
「美葉・・・!」
 結城が驚きと喜びの混ざった声で彼女の名を呼んだ。美葉はうっすらと目を開けてつぶやいた。
「私・・・生きて・・・る・・・の?」
 それだけ言うと、そのまま美葉は気を失った。
「美葉・・・、良かった・・・」
 結城は再び美葉を抱きしめて泣いた。美葉の胸からは、トクントクンという力強い心音が聞こえた。

 知事の重大発表は予定時間を大幅に過ぎ、小休憩時間が設けられた。画面には、ざわめく会場の様子がそのまま中継され、上部には重要事項がテロップで順に流れている。
その間都築は弟に尋ねた。
「ところで、おまえが継いだ教団のほうは上手くいっているのかい?」
「ええ、上々ですよ。信者もずいぶんと増えました」
 長兄、いや、翔悟はにこっと笑って言った。
「そうか、安心したよ」
「兄さんの母親が宗教を嫌って、兄さんを連れて父と別れなかったら、兄さんが継いでたかも知れないんですよね」
「私は教団には興味ないし、父も私にはそういう期待はしていなかった。おまえには私と違って、教主に必要なオーラというか、カリスマ性があるからね」
「まあ、この話は止めましょう。ところで兄さん」
 翔悟は口調を変えて言った。
「せっかく僕が兄さん好みの女性と会わせてあげたのに、ものにしなかったんだね」
「ものにするっておまえ、いつの間にそんな物言いをするようになったんだい? ・・・おまえがあの時、私を呼び出した癖に姿を見せなかったのは、美夜さんに会わせるつもりだったからか。彼女は体調が思わしくなかった。高熱に苦しむ女性に無礼を働くようなことが出来るものか」
「相変わらず高邁な人だねえ。色気ムンムン・・・って、これ、死語かな?・・・の美女だったから、5年間もやもめ暮らしの兄さんには目の毒だったでしょ?」
「翔悟!!」
 都築は厳しい声で弟の名を呼んだ。祥護は肩をすくめると言った。
「で、彼女のことを知らせるの?」
「もちろんだとも」
 都築は答えた。すると祥護は兄をじっと見据えながら言った。
「そのために弟が困っても?」
「おまえ、何を企んでいる?」
 都築は訝しげに弟を見た。
「さっき、私が生きていることにガッカリした様なことを言いながらここに来たな。美夜さんは感染していたのか? まさか、おまえ、私を病気で殺そうと・・・?」
「僕が彼女の感染を知るはずないでしょ。でも、兄さんが感染して死んでしまったならそれだけの男だってことだよ。ま、いつか試してみたかったけどね。兄さんが本当に高邁な人間かを」
「おまえ・・・!!」
 都築は鼻白んで言った。
「まさか、今、知事が言っているウイルスを・・・」
「いやだなあ。僕がそんなことをするわけないでしょう。仮にも僕の使命は衆生を救うことなんですから」
 翔悟はさっき言ったことの舌の根も乾かぬうちに、都築に向かって邪気のない笑顔でいけしゃあしゃあと言った。都築は、そんな弟を目の前にして、驚愕と恐怖の入り混じった眼をして言った。
「お前と言うヤツは・・・」
「あ、ほら、兄さん、質疑応答が始まりましたよ」
 翔悟は、再びテレビを指して言った。

「さて、記者の皆さん、これからあなた方の質問を受け付けます。これを見ている一般の方々の参考になるような、的確な質問をお願いしますよ。医学的な質問については、高柳進先生にお答えいただきます。まずは先生のご挨拶から」
 森の内に言われて、高柳が壇上に立った。
「感染症対策センター、略称IMCのセンター長、高柳です」
 彼は簡単に役職だけ告げると、一礼して一歩下がり知事と並んだ。

「IMC! ここのことだったんだわ!!」
 極美が、喉に引っかかった骨が取れたような気持ちで言った。

「では、質問のある方は挙手をお願いします」
 森の内がそういうや否や、記者達の大半が手を上げた。森の内は少し驚いて言った。
「思ったよりはるかに多いですね・・・。では、一番早かった、『めんたい放送』の方」
 森の内の指名したほうにマイクがまわった。
 記者A。
「はい。さっき14人がすでに死亡されているとおっしゃってましたが、それは、ウイルスの仕業に間違いないのでしょうか。また、これからも死者は増えるのでしょうか。だとしたらその予想人数等を教えてください」
 高柳がまた一歩前に出て答えた。
「犠牲者の方たちが同じウイルス疾患で亡くなられたことは、ほぼ間違いないと思われます。ただ、これからの死亡人数予測は出来ません。ほとんど無いかもしれないし、百人単位になるかもしれない。現在ウイルスの正体が全く不明であるため、予測でしかお答えできないことをご了承ください。ただし、トリ由来の新型インフルエンザのように何千人何万人という規模にはならないと思います。また、この告知は感染を封じ込めるためだのものだと思ってください」
 そういうと、高柳は一歩下がった。質問は各記者から次々と出、森の内と高柳は回答に追われた。
 記者B。
「そのウイルスに感染するリスクは? 年齢性別職業では?」
 高柳。
「おそらくウイルスに暴露された場合の感染リスクは、平等だと思われます」
 記者C。
「ゴキブリやメガローチについてもう少し詳しく。対策はどうすればいいのか」
 森の内。
「ゴキブリ対策については、普段と同じでいいと思います。ただ、素手で触るのは止めてください。リスクはさっき申し上げた地域が高いですが、念のため他の地域でも気をつけてください。また、駆除業者の方は防御対策を強化するようお願いします。メガローチについては目撃例といくつかの写真だけで、まだ捕獲されていません。現在捕獲を試みているところです」
 記者C。
「その写真は見ることができますか?」
 森の内。
「はい、お見せは出来ますが、人との比較対象にしかならない程度の写真です。メガローチの全体写真もありますが、単なるゴキブリの拡大写真のようなもので、ちょっと電波に乗せてお見せするには問題がありますから・・・。いいですか、出しますよ。嫌いな方はしばらく画面を見ないでくださいね1・2・3で出しますからね、はい、いいですか、出しますよ~、はいっ! いち、にっ、さんっ!」
 という長い前フリのあと、森の内は警官が蟲を捕獲しようとしているシーンを撮ったパネル写真を出した。会場からどよめきが上がった。

 写真を見て、輝海が母の方を見ながら言った。
「おかあさん、あれ、大きすぎるよね。メスのヘラクレスやないと?」
「違うよ。あんたね、見つけてもぜ~~~~~ったいに触ったり捕まえたりせんでよ。生き物になら、何でも興味を持つんだから、あんたは」
 恵実子は不安そうに息子を見ながら言った。気がつくと彼女は無意識に幼い息子の肩を抱いていた。

「あ、センター長室で見せてもらった写真だ!」
 由利子が即、言った。
「よくペットとして飼われているマダガスカル・ローチじゃないんですの?」
と、紗弥。ギルフォードは画面から眼を背けて言った。
「違いますよ。でも、僕にはあんなものをペットにしたがる神経がワカリマセン!」
「でも、知事ってば、きっとアレクのためにあんな注意をしたんだよね」
「ずいぶん長い前フリでしたものね」
「昔の仕事の癖じゃないんですか?」
 と、ギルフォードは不機嫌そうに言った。
「まあ、先生もあの虫がお嫌いなんですの?」
 聡子がくすっと小さく笑いながら言った。ギルフォードは肩をすくめながら答えた。
「ええ。男の癖にふがいないですが・・・」
「そんな、苦手なものに性別年齢はありませんわ。私もあれは生理的にダメですの。死後、そんなものにたかられてしまった母のことを思うと、恐ろしさと悔しさでいっぱいになります。せめて、誰かが同居していたら、それだけでも防げたのに・・・。私たちは親不孝者です」
 聡子はそういうとまた、目頭を押さえた。
「ご自分を責めないで。誰にでもどうしようもないことがあるんです。でも、これはご遺族にとっては辛い告知ですね。だけどこれからのことを考えるなら、見ておいた方がいいです。大丈夫、僕たちがついてますよ」
 ギルフォードは聡子の背に手を置いて優しく言った。紗弥がかすかだが困ったような顔でそれを見ていた。付き合っているうちに、なんだか由利子は紗弥の微妙な表情の移り変わりがわかってきたような気がした。

「おっと、こりゃあでらすごいがね。テレQ(テレ東の九州局)まで、やっとるよ。地球最後の日が来てもアニメ流しとるだろうって言われとる局なんだがね」
 帰路につきながら、車のラジオでウイルスに関する告知を聞きつつ、携帯電話のワンセグでテレビ放映をチェックしていたジュリアスが言った。
「アレクも君も、ホント、妙なことに詳しいなあ」葛西が運転をしながら呆れて言った。「ということは、これをやってないのはNHKの教育テレビだけなんだね」
「まあ、昭和天皇が崩御された時、唯一通常通りの番組を流しとった局だでね」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ」
「そりゃあ、その頃おれが日本にいたからに決まっとるがね」
「あ、そーゆーことか・・・・。あ、今の捕獲を試みているってとこ、僕たちのことだよね」
「今日は、結局小物ばかりだったけどな」
「調子に乗ってサンプルを採りすぎたので、結局半分ほどにまた分別したし」
「明日、ちゃんとホイホイにかかっとるとええがねえ」
「そうだね。考えたらちょっと気持ち悪いけどね」
 葛西が若干引きつった笑顔で言った。

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5.告知 (6)ヤクタ・アーレア・エスト

 この新型感染症の発生報告に、顔色を変えたのは都築だけではなかった。

 北山紅美は、朝から気分が優れずに臥せっていて、この放送について知らなかった。なんだか下腹辺りが、重苦しく、体調がおもわしくない。しかし、紅美はそれについて病気とは考えていなかった。実は、ここしばらく生理がなく、それで、紅美は真っ先にこの状態を妊娠と考え、明日にでも病院に行こうと決心していた。健二が行方不明の状態では、色々不安もあったが、まず確認することだと彼女は思っていた。それでも夕方になるとだんだん塞ぎ勝ちになってきたので、気分を変えていつも見ているオカッパ頭のおしゃまな小学生が出てくる某アニメでも見ようと思ってテレビをつけたら、特別番組が入っていた。気分をそがれた紅美は、むっとしてチャンネルを変えたが、教育テレビ以外はどれも同じ特番を流している。仕方がないので元のチャンネルに戻して、次の『アンボイナさん』が始まるまでそのまま音を垂れ流した状態で待とうと、また横になった。しかし、なんだかその放送が尋常ではない内容であるのに気がつき、座りなおしてテレビの画面に向かった。
 その内容は、信じられないものだった。半信半疑ながらついつい本気で聞いていた紅美は、情報を募集された女性についてなにか引っかかるものがあることに気付いた。しかし、それが何だったか思い出せずに悶々としていたら、その後の身元不明遺体の情報募集の遺品を見て、飛び上がらんばかりに驚いた。遺品のネックレスは紅美が森田健二へバースディ・プレゼントとしてあげたものに酷似しているし、ブランド物の時計は、彼が大学合格のご褒美で親に買ってもらったといい、いつも身につけていた物と同じタイプだった。しかも、着ていた衣類というイラストも見覚えがあった。
「遺体? そんな・・・。いや、違う! だってその県道って健二んちからずいぶん離れてるし、病人が歩ける距離じゃないもん!」
 紅美は否定した。しかし、健二が行方不明なのは間違いないし、遺品があまりにも合致しすぎている。それに、これは直接彼から聞いたことではないが、噂では彼が年増美人と関係をもってお小遣いをもらったと自慢していたと聞いていた。ひょっとして、その女がさっき情報募集されていた人だったとしたら・・・。紅美は身震いした。
 紅美は、健二がもともと女性にだらしない男であることを承知した上で、付き合っていたつもりだった。しかし、付き合いが深くなるにつれて、だんだん独占欲が強くなり、女性関係でケンカする回数も増えていった。目下のところ彼女の頭を悩ませていたのは、今現在も続いているらしい複数の女性と、時たまコンパ等で女性をお持ち帰りすることについてだった。なので、この女性の件については、完全に遊びだろうと割り切って特に質問をしなかったが、実のところ、紅美の心の中ではずっと燻っていた問題だったのだ。
 だが、事はもっと重大だった。その女性が伝染病に罹っていたとしたら・・・。しかも、致死率が異常に高い危険な病気だ。もし、健二がその女から感染していたとしたら・・・?もしかして、もしかして・・・。
 紅美は混乱してそれ以降の内容が全く頭に入らなかった。健二が罹っていたとしたら、ひょっとして私も・・・? じゃあ、この気分の悪さは・・・! 電話しなくっちゃ・・・。 放っておいたら、私死んじゃうかも・・・! ひょっとしておなかにいるかもしれない赤ちゃんも!! 居ても立ってもいられなくなった紅美は、充電中の電話を取りに行こうと立ち上がった。

 紅美の他にも、心穏やかでない者が二人いた。O県のY温泉からの帰り道でラジオを聴いていた窪田と歌恋である。
 彼らは結局予定通りにスケジュールをこなし、帰路についていた。窪田の具合は治るどころか悪化の一途をたどっているようだった。仕方なく帰りは歌恋が全面的に運転をすることになった。歌恋も運転は嫌いなほうではないが、さすがにO県からぶっ続けの長時間運転は久々であった。それでも彼らはすでにF市内まで帰っており、自宅まであと2・30分というところにいた。そこにいきなりFM番組の流れを切って、特別放送なるものが始まった。
「何よ、これ」
 歌恋は訝しげな表情をして、FM局を変えてみたがどこも同じ内容の放送を流していた。仕方なく歌恋はそのままFM放送を聴くことにした。窪田はCDをいくつか用意していたが、どれも歌恋の趣味と合わなかった。
「新型感染症? 天然痘やペストと同じ危険レベルで1類感染症と同等の扱い? 何かしら、これ。ひょっとしてラジオドラマなんじゃないでしょうね・・・」
 歌恋はつぶやいた。その後助手席に座る窪田に向かって聞いた。
「ね、栄太郎さん。どう思う?」
 しかし、窪田はだるそうに首を横に振るだけだった。しかし、内容が進み身元不明の遺体のことになると、二人の顔色が変わった。遺体発見場所の県道XX線のD市O町付近、そこは、当然のことながら窪田が健二に車をぶつけてしまい、恐ろしくなって遺体を遺棄して逃げたあの場所ではないか・・・? 対岸の火事と思っていたのに、燃えていたのは自宅だった、そんな感じで二人は放送に聞き入った。二人の脳裏にはあの時の状況がまざまざと思い出された。間違いない。今、情報を募集されている男は、あの時遺棄したヤツだ。歌恋は横で具合の悪そうにしている恋人をミラー越しに見ながら言った。
「栄太郎さん、あなたの病気ってひょっとして・・・」
「違う!」
 栄太郎は言った。
「ただの疲労さ。今までとんでもなく忙しかったんだもの。急に暇になったんで気が緩んだんだよ」
 確かにプロジェクト責任者だった窪田は、ついこの間まで寝る間どころか休日すら惜しんで働いていた。それが成功して、今ほっとしているのは確かだ。その油断をついて起こったのがあの事故なのである。だが、今の窪田の状態は、単なる過労とはとても思えなかった。触ると身体が火にあたったように熱い。
「ね、念のため救急病院に行きましょうよ。そんなじゃあ明日病院が開くまで待つのが辛いと思うわ」
「大丈夫だよ」
「だって・・・」
「大丈夫だって! 第一、これは君が!!」
 窪田が怒鳴った。歌恋はびくっとして、その後一瞬彼の方を見た。窪田はしまったと思ったように言った。
「ごめん・・・。歌恋、これは罠だよ」
「罠?」
「そうだよ。あの男を殺した人間をおびき出すための罠なんだ」
「そんな馬鹿なこと・・・。栄太郎さんどうしちゃったの?」
歌恋は窪田の突拍子も無い発言に驚いた。若い歌恋がいくら世間知らずでも、番組を全て変更するなんてことがどれだけ大変かくらいわかる。たった一人殺した犯人を燻し出すために、そんな大掛かりなことをするはずが無い。
「罠なんだよ!」
窪田はもう一度怒鳴った。
「栄太郎さん・・・」
「早く帰って薬を飲んで横になれば大丈夫さ。歌恋、病院より家に急いでくれよ」
「わかった・・・」
 歌恋はそういった後、もう彼には逆らわずに黙って運転をした。数分後、車は窪田の家近くに止まった。当然家の玄関前に止まるわけにはいかない。久保田は車から降りながら言った。
「大丈夫、誰にも言わなければバレやしないよ。君だって色々探られたくないだろう?」
 そう窪田に釘を刺された歌恋は、黙って頷いた。
「じゃ、また明日ね。君との旅行、楽しかったよ」
 窪田は、そういうと歌恋に背を向けた。彼はそのまま家の方向にまっすぐ歩いて行った。それを見ながら歌恋は思った。
(大丈夫・・・みたいね。じゃ、私はこの車を返しにいかなくちゃ・・・)
 不安要素を残しながら、歌恋は敢えてそれから目を背けてしまった。歌恋は車を発進させ、その場から逃れるように車を走らせた。 

 様々な人のそれぞれの反応や思惑の中で、質疑応答は続く。
 記者D。
「感染力と致死率は?」
 高柳。
「感染力は知事の説明にもありましたように、強いですが、今のところ空気感染はしないと思われます。空気感染するなら、今現在の感染発症者は相当数に登っているはずです。飛沫感染に関しては、咳やくしゃみによる唾液や鼻水などの飛沫での感染は低いと思われます。ただ、血液などの濃い体液の飛沫から感染する可能性は確率が上がります。それで感染したらしい犠牲者のケースが現在1件ですが、あります。それから致死率については・・・」
 高柳はここで一息ついて続けた。
「今のところ発症者のほとんどが亡くなっていますから、ほぼ100%と言うことになりますが、今の段階で致死率を言うのは時期尚早だと思われます」
「100%!」
「狂犬病やエボラレベルじゃないですか!」
 会場がざわついた。森の内はまずいと思いすかさず言った。
「だから、まだ早いと申し上げています。まだ感染の全容がつかめていないのです。発症していても完治した人がいる可能性もあります。致死率を前面に出して世間の不安を煽るのは避けてください」
 記者E。
「ゴキブリ注意の地域というのは、それに食われた遺体が出た場所ということですか?」
 森の内。
「そうです」
 記者F。
「情報を募集されていた女性の方は、やはり感染者ですか?」
 森の内。
「そうです」
 記者F。
「それで、その方も亡くなられたと?」
 森の内。
「そうです」
 記者G。
「警官も一人亡くなられたと聞きましたが」
 森の内と高柳は一瞬顔を見合わせた。まだそれは公式に発表されていなかったからだ。しかし、森の内は意を決して答えた。
「はい。その女性の自殺を止めようとして感染しました。この病気の症状の多くは、彼の病状から得たものです」
「さっきの病状説明にありましたが、その時、その女性も『赤い』と言っていたんですか?」
「・・・そうです」
「それで、その感染症はどういった種類に当てはまりますか?」
「『どういった種類』といいますと?」
「えっと、インフルエンザとか、ペストとか」
 高柳。
「今の段階では、そういったものに当てはめることは出来ません。新種でまだ正体が不明だからです」
 記者H。
「致死率100%近いというと、私なんかはどうしてもエボラ出血熱を連想するのですけれども」
 高柳。
「エボラ出血熱の致死率は50%から90%です。少なくともエボラやその他既存の出血熱とは合致していません。が、極めて近い症状を呈するといえます」
 それを聞いて、会場がまたどよめいた。
 記者G。
「では、やはり、出血熱と?」
 高柳。
「多臓器不全と出血性ショックで死に至るのは確かですが、いわゆる出血熱と呼ばれる一連の感染症以外でも、劇症化した場合そういった症状を呈することがあります。新種ゆえに免疫を持つ人がいないために、一部の患者に於いて免疫の暴走が起き激しい症状を示している可能性もあり、感染者の中には発熱だけで数日で完治した人もいる可能性があります」
 記者H。
「可能性可能性って、確実なことはないんですか?」
 高柳。
「今の段階では、可能性としか言うことができません。確実なことは、新型の感染症が流行しつつあることと、それで死者が14名出ているということだけです」
 記者I。
「今の段階で、治療法はあるんですか?」
 高柳。
「残念ながら、今のところ確実な治療法はありません。いくつかの抗ウイルス薬を試しましたが、どれも効果がありませんでした。今のところ、発症者には対症療法しかありません。劇症化した場合、血液浄化法やステロイド剤の大量投与等を行うようにしています」
 記者J。
「ワクチンは?」
 高柳。
「まず、はっきりしておきたいのは、ワクチンは治療するものではないということです。ウイルスを殺すのではなく人為的に特定のウイルスに対しての免疫を作るためのものです。ですから、予防にはなりますが、感染してしまってからではその段階での効果はありません。で、現段階ではこのウイルスに対するワクチンは存在しません。ウイルスが見つからない限りワクチンを作ることは出来ませんし、また、ウイルスが発見されてワクチンの製造を開始しても、完成まで半年はかかります」
 記者K。
「対策本部については?」
 森の内。
「今のところウイルスの発生がF県内の一部に限定されていますから、県知事である私を長とした自治体レベルの対策室を作ります。すでにそれは稼働しています。万一これがF県を出て各地に広がった場合は、総理大臣を長とした国レベルの対策本部が出来、F県はその下につきます。そういう最悪なレベルにならないためにも、皆さんのご協力が必要です」
 記者L。
「あの、ウイルス発生があまりにも突飛だと思えるのですが、これは人の手で撒かれたという可能性はないのですか?」
 森の内。
「人の手で撒かれたと言うと?」
「はい。ベタですが、バイオハザード・・・。例えばどこかの研究所から漏れたとか、テロとか・・・」
「どこかからウイルスが漏れたということについては、どこのウイルスを扱う機関からもそういう報告は受けておりません。が、それ以前に、まったくの新種で、しかもⅠ類に相当する危険なウイルスを扱っている機関は、日本中どこにもありません。それからテロに関してですが、もしテロなら実行前かそのあと、或いは両方に何らかのメッセージが発せられるはずですが、今のところ、何のアクションもありません。ひょっとしたら、すでに気付き難い状態でメッセージを出しているのかもしれませんけどね」
 と言いつつ、森の内は一瞬笑って続けた。
「わかりにくいメッセージじゃあ、意味ないですよね」

「知事、やりますね」
 ギルフォードが小声で由利子に言った。
「記者の突拍子も無い質問に対するジョークに取れますが、これはテロリストに対する挑発ですよ」

「ただし」
 と、森の内はさらに続けた。
「テロは許される行為ではありません。もし、これがバイオテロだった場合、私たちは断固として戦い、かならずそれを封じ込めます」
 森の内の宣言を受けていっせいに記者達が挙手をした。しかし、森の内は、また両手を前に出し、掌を下に向けて収まるようにジェスチャーをしながら言った。
「みなさん、ご質問はまだお有りのようですが、10分の予定を30分に延長しましたが、そろそろ時間がなくなってしまいました。残りの質問は、場を改めて受付いたしますので、とりあえずこの質疑応答は締め切らせていただきます」
 森の内がこう言って閉めようとすると、会場がまたざわめいた。森の内はまた手で制すると言った。
「静かにしてください。今言ったように残りの質問は、また場を改めて受けます。いいですね」
 森の内は会場のざわめきが収まらない中で視聴者に呼びかけた。
「新型インフルエンザの場合、まずの課題はこの国にウイルスが侵入することを水際で防ぐことですが、今回は全く逆で、感染の広がりを阻止することが第一の目標です。すなわち発生地域から外に出さないようにすることです。みなさん、愛する郷土がパンデミックの原点になったなどという不名誉なことにならないよう、このウイルスの拡散を阻止することにご協力ください。ことによっては一部の地域の方々にご不便をおかけすることになるかもしれません。しかし、これは緊急事態です。みなさん、今はまだ牙を潜めているウイルスを封じ込めるため、私にご協力ください。お願いいたします」
 というと、森の内は深く頭を下げた。
「繰り返しますが、このウイルスは普通の生活において感染することはまずありません。みなさん、くれぐれも冷静に対処してください。なお、詳細については県のホームページに記載しております。それから、さっきからテロップに流れているとは思いますが、このウイルスについてのホットラインは、代表092-****-****です。感染情報や先ほど募集した件の情報について受け付けております。各自治体の保健所の方でも受け付けております。質問等は092-****-****で受け付けております。
 みなさん、ご清聴どうもありがとうございました。また、快く番組変更を受けてくださった各局やスポンサーの方々にも深く感謝をいたします。以上で私からの緊急報告を終わります」
 森の内は再び頭を下げた。そのままカメラが引き、会場全体を映し出した。画面左が五分の一ほど青く変わり、白い文字が今の報告の概要を流していた。

 無事に放送が終わった。四人は放送中ずっと緊張していたが、ようやく息を、ほぅと吐き出した。
「Jacta Alea Est. 僕たちはルビコン川を渡ったんです。もう後戻りは出来ません」
 と、ギルフォードが言った。
「やくた・・・何ソレ?」
「『賽は投げられた』。アーレア・ヤクタ・エストとも言いますが、シーザーがルビコン川を渡る時に言った言葉ですわ」
 由利子の疑問に紗弥が答えた。
「ルビコン川は、当時イタリア本国と属国の境になっていました。そのため軍隊を従えてルビコン川を渡りイタリアに入るということは、ローマへの反逆とみなされました。後戻りの出来ない重大な決断をした、ということですわ」
「『賽は投げられた』という言葉はよく使われるから知ってます。シーザーの言葉だったんですね。後戻り出来ないなら、立ち止まらずにどんどん先へ進むしかないです。このあとの世間の反応が心配ですが」
「そうですね。さて、聡子さん、僕たちはそろそろオイトマしますけど、大丈夫ですか?」
 ギルフォードに言われ、聡子は少し顔を赤らめて答えた。
「皆さんのおかげで落ち着いて見られましたわ。ありがとうございます。今から弟の病院へ行こうと思います。帰りは多分明日の朝で、妹と一緒ですから大丈夫だと思いますわ」
「そうですか。それから、え~っと、このキモノどうしましょう・・・」
 ギルフォードは下を向いて、自分の着物姿を見ながら言った。
「よろしければ差し上げますわ。多分もう誰も着る者はいないと思いますから。弟は着物は浴衣くらいしか着ないし、雅之も亡くなってしまいましたし・・・」
「いえ、こんな高いもの、いただけません」
 ギルフォードが恐縮して言った。
「でも、処分するのに古着屋に売っても二束三文ですし、下手すればいずれは捨てられてしまいます。それよりどなたかに着ていただいたほうが嬉しいですもの。もし、たたみ方や手入れがわからないなら、私がお教えしますけど・・・」
「その点は大丈夫ですわ。着付けを含めてそのあたりは私が出来ますから」
「えっと、サヤさん?」
「せっかくのご好意ですから、お受けなさいませ。お似合いですよ」
「本当に」
 と、聡子がウットリとした眼で言った。由利子は紗弥が困った顔をした意味がわかった。ギルフォードは、内容はともかくとして、見かけは某セレブ芸人の姉風に言えばかなりの「God looking guy」で、その上フェミニストで女性に優しいのである。女性がぽうっとならないほうがおかしいだろう。しかも、ギルフォードにはそれが普通のことで、そういう自覚が無いのだからたまらない。さらに、コイツはそういう意味では女性に興味を待たない男なのだ。そりゃあ、後でフォローする紗弥さんの苦労は絶えないよな、と由利子は思った。

『ただし! テロは許される行為ではありません。もし、これがバイオテロだった場合、私たちは断固として戦い、かならずそれを封じ込めます』
「チィッ!」
 結城は運転をしながら森の内の宣言を聞いて舌打ちした。美葉が言ったように、これは県やその周辺の市民に呼びかける一方で、テロリストに対する宣戦布告を行っているのに間違いない。
「ちくしょう、なめたマネをしやがって」
 結城は毒つきながら車通りの少ない山道を飛ばした。後部席には、美葉が気を失ったまま静かに眠っている。彼女の首には結城に絞められた指のあとがくっきりと残っていたが、呼吸はもう平常にもどっていた。
「とりあえず、どこかにしけこもう。僕もなんだか疲れた・・・」
 結城が珍しく弱弱しい言葉を吐いた。逃亡生活は、結城の精神を徐々に追い込んでいるようだった。

 紅美は電話を手に取ると、テレビのテロップに流れる電話番号を打ち込んだ。電話をかけるとすぐに音声が聞こえた。
「ただいま込み合っております。しばらくこのままでお待ちください」
「何よお、役に立たないじゃない・・・」
 紅美はガッカリしてつぶやいた。しかし、待つしかない。待つこと5分、ようやく電話がつながった。
「もしもし!」
 紅美は焦って言った。実は待っている間にどんどん気分が悪くなっていたのだ。
「はい、新型感染症情報室の河上です」
 電話に出た男性はそっけない声で対応した。電話の向こうは、まるでテレアポ室のようにざわめいていた。すでに、彼らの許には玉石混交の情報提供の電話があり、それに追われているのだ。しかも、ほとんどの情報が石の方だった。石ならまだいいが、ゴミ、すなわち冷やかしやお叱りの電話も多かった。まだ、みんなウイルスの脅威をリアルに感じていないのだ。
「あの、私・・・」
「どういった情報ですか? 感染者らしい人を見たとか、自分が感染しているかもしれないとか・・・?」
「あの、身元不明の・・・ひょっとしたら、私の彼かもしれないんです。遺留品に見覚えがあって・・・」
「えっと、それは確実ですか?」
「はい、実は彼が火曜の深夜から行方不明になってて・・・」
「それは証明出来ますか?」
「はい。C野署の方に届けを出しています」
「その彼の名前は?」
「森田健二です」
「もりたけんじ・・・、漢字は?」
「はい、もりたは森に田んぼの田で、けんじは健康の健と漢字の二です」
「担当の方とか、わかります?」
「えっと、その時来られた刑事さんの名だったら・・・、えっと・・・一人が確か、なか・・・やま・・・そう、中山さんでした」
「う~ん、その身元不明の遺体もC野署で扱っていたはずですが・・・。変ですね。どうして照合せんやったっちゃろうか・・・。わかりました。調べてまた電話します。その時詳しいことをお聞かせください。電話はこの電話番号におかけして大丈夫ですね」
「はい」
「あなたのお名前は?」
「北山紅美・・・えっと、漢字は方角の北に山、紅色の紅に美しいです」
「北山さんですね。わかりました。差し支えなければ住所の方もよろしいですか? 大丈夫、個人情報は厳重に守りますから」
「はい」
 紅美は、躊躇せず自分の住所を河上に教えた。
「ご協力ありがとうございます。では、電話を切ってしばらくお待ちください」
「はい。よろしくお願いします」
 紅美はそういうと電話を切った。返事が怖くて心臓がドキドキしていた。しかし、これで結果がわかる。紅美は再び電話がかかってくるまで、ベッドで横になって休むことにした。急激に体温が上がってくるのが自分でもわかった。紅美は恐怖に怯え、両肩を抱え丸くなって横になり、目を瞑った。

 10分ほどして、紅美の電話が鳴った。紅美はだるそうにしながら起き上がり、電話に出た。
「はい。北山です」
「あ、北山さん、新感情報室の河上です。確認が取れました。確かにC野署に森田健二の記録がありました。6月10日に失踪の届けが出てますね。室内に大量の血液を残して失踪したと」
「はい。間違いないです」
「担当に聞いたところ、見つかった遺体の損傷が激しく、内臓の腐敗状態からとても1・2日の内に死んだとは考えられなかったので、森田健二さんとは結びつけなかったということです」
「そんな・・・」
「健二さんと遺体の情報が合致するか、質問しますので、お答えくださいますか?」
「はい」
「血液型は?」
「A型です」
「体型は?」
「身長は172センチで、わりとがっしりしていました」
「次に少し細かい身体的特徴をお聞きします。ただ、遺体の状態が悪く、あまり情報がないのですが。仰向けになってたので背中の方はなんとか無事だったんですが、背中辺りに何か特徴的なものがありましたか?」
「えっと・・・」
 紅美は違いますようにと祈るような気持ちで言った。
「たしか右の肩甲骨あたりに、オリオン座の三ツ星みたいな目立ったホクロがありました」
「なるほど・・・」
 河上はそういうと、少し間を置いて言った。
「北山さん、残念ですが今お聞きしたこと、不明遺体と合致しました。かなりの確率で、健二さんの遺体である可能性がありますね・・・」
「そんな・・・」
 紅美は気が遠くなるような気がした。
「お気の毒ですが・・・。北山さん、あなた自身はどうですか? ご気分が悪いとかそういうことは・・・」
「ってことは、私も・・・」
 そこまで言うと、紅美は力尽きた。電話が手から落ち、そのまま倒れてベッドに突っ伏した。
「北山さん、北山さん、どうしたの? 大丈夫? しっかりして!! くそっ、C野市**町のグリーンブリーズってマンションの502号室に新型感染症の患者が出たようだ。専用救急車の手配を頼む!!」
河上はそう叫ぶと、紅美への呼びかけを続けた。新感情報室に緊張が走った。

 ギルフォードたちを見送ったあと、聡子は出かける準備をしていた。そこにいきなり電話がかかってきて、聡子は飛び上がりそうに驚いた。急いで電話に出たが、いきなり彼女の耳に届いたのは、ひどい罵倒の言葉だった。聡子は必死で詫びて、なんとか電話を切った。しかし、すぐにまた、電話がかかってきた。聡子は怖くなって、電話の呼び出し音と音声を最小にした上で留守電にし、家中の鍵を確認すると、そそくさと家を出て車に乗り、弟の待つ病院に向かった。聡子の頭の中で、さっきの電話の呼び鈴と罵倒する声がずっとついてきていた。彼女は運転をしながら声を上げて泣いていた。
 ギルフォードは、秋山家を出た後由利子を家まで送り届け、紗弥と研究室に向かっていた。途中、ギルフォードの携帯電話に着信が入った。運転中のギルフォードに代わって紗弥が電話に出る。
「わかりました。お伝えいたします」
 そう言って紗弥は電話を切り、ギルフォードに向かって言った。
「C野市で新たな患者が出たらしいですわ。身元不明遺体の情報提供者で、恋人関係にあったようです」
「う~ん、では、確実にクロですねえ・・・。公表後に早速新たな感染者ですか・・・。先が思いやられますねえ・・・」
「どうされます?」
「この格好で感対センターまで行っても、仕事にならないでしょうから、予定通り研究室に帰って、来た時の服に着がえてから行きましょう」
「それがいいですわね」
 紗弥が、いつものポーカーフェイスで答えたが、いきなり「あっ」と、らしからぬ声を上げた。
「どうしました?」
「ネックナイフ、秋山さんの家の柱に刺さったままでしたわ」
「あららら・・・」
「すっかり忘れていましたわ」
 紗弥はそういうとため息をついた。
「紗弥さんでもドジることがあるんですねえ」
 ギルフォードがニコニコしながら言った。

 長兄こと翔悟は、兄の家の前に待機させていた車に乗り込んだ。そこには例によって遥音涼子が乗っていた。彼女の運転で二人だけで来たのだ。
「知事の緊急放送、聞いたかい?」
 翔悟は涼子と二人だけなので、最初から口調がぞんざいだった。
「ええ」
 涼子は短い返事をした。翔悟はクスクス笑いながら言った。
「いっちょまえに、私たちに挑戦してきたからね。そんなにメッセージが欲しいなら、リクエストにお答えしてあげようか。ねえ、涼子?」
 涼子は無言で運転をしていた。
「相変わらず、口数が少ないな。ま、それがいいのだがね。さて、遥音先生、あのバッグを奪うのに失敗した役立たず共は『役立って』いるかな?」
 涼子は無表情で答えた。
「抗ウイルス薬の開発に使わせていただいてます。まだ、ワクチンしかありませんから・・・」
「そうか、で、連中の状態はどうだい?」
「強化ウイルスを使っていますので、一人はすでに瀕死の状態ですが、もう一人はまだ数日持ちそうですね。このまま対症療法を続けていればですけど」
「そうか。じゃあ、元気な方はまだ歩けるんだな」
「はい。まだそれくらいの体力はあるでしょう」
「では、そいつにやらせよう」
 翔悟はそう言うと、またクスクスと笑った。その無邪気な笑いを見て、涼子は全身の体毛が逆立つほどの恐怖を覚えた。

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5.告知 (7)ナガヌマ

 ギルフォードは、研究室に急ぐと教授室に飛び込んだ。和服姿だが、履物に合うものがなくて足元が靴下と革靴と言う妙ないでたちだった。
 研究室には日曜とはいえ、数人の研究生達がおり、喧々囂々と意見を交わしている。ここに集まって例の放送を見たらしい。学生の誰かの部屋に集まればいいようなものだが、よほどここの居心地がいいのだろう。しかし、教授の一風変わった姿を見て彼らの興味はそっちに移り、今度は教授に向かって口々に言い始めた。
「やん、教授、渋~い。けど、靴はヘン」
「似合ってますよ、それ。靴がミスマッチだけど」
「うんうん、靴が変!」
「それよりその着物、どないされたんですか?」
 如月の至極もっともな質問に紗弥が澄まして答えた。
「訪問先の人妻に貰ったのですわ」
「ええ~~~???」
 学生達が一斉に驚いて言った。教授室からギルフォードのダメ出しする声がした。
「誤解されるような言い方をしないでちゃんと説明してくださいよ~、サヤさ~ん」
「あまりにも教授が無自覚だからですわ」
 紗弥は少し苦情を言うと、学生達に向かって簡単に説明をした。
「な~んだ」
「ちょっと期待したのに」
「ね~!」
「とりあえず、履物、どうかした方がいいですよ」
「うんうん。せっかく似合ってるんだから、もったいないですう」
 すると、教授室のドアが開いて、苦笑気味なギルフォードが姿を現した。ハーレーのTシャツと年季の入ったGパンと、いつもの普段着に戻っていた。
「せっかくですから、今度、履物屋さんに行ってあつらえましょう。あ、サヤさん、キモノどうしときましょう?」
「はい。着物用のハンガーもいただいてますので、とりあえずかけておきましょう。明日、畳んでおきますわ」
 紗弥はそういうと、教授室に入って行った。
「紗弥さんはそのままでいいんですか?」
「ええ、緊急に備えてスラックスのスーツにしたんですの」
 紗弥が着物をかけながら言った。
「機動性重視ですか。さすがですね。じゃ、行きましょうか」
 それを聞いて、如月が素っ頓狂な声で言った。
「え~~~、先生、また出て行かれるんでっかぁ~? お帰りやなくて?」
「はい。また急用が出来たもので」
 ギルフォードの様子に如月は何か感じたのだろう、ささっと近づいて小声で聞いた。
「まさか、まだ新しい感染者でっか?」
「まあ、そんなところです」ギルフォードがぼかして言った。「ですから、また遅くなりますので、戸締りと各事項の確認、よろしくお願いしますよ」
「また僕でっかぁ?」
「君が一番頼りになりますからね。お願いしますよ」
「そ、そうでっか? それやったら仕方ないでんなあ」
 如月は、ギルフォードから頼りにされていると聞いて、内心嬉しそうに言った。しかし、ギルフォードが「ま、助教のヴィーラがアフリカから帰って来るまでの辛抱ですよ」と続けた事で、いきなり挙動不審に陥った。
「ああっ、ヴェラちゃん!! せっかく存在を忘れていたのに・・・。教授のアホたん」
 そういうと、如月は頭を押さえながら何処かへ走り去ってしまった。ギルフォードはそれを見ながら、シマッタと言う顔をして言った。
「あ、ヴィーラが彼の天敵だったのを忘れてましたよ。悪いコトしましたね」
「そこら辺を駆け回ったら戻って来ますわ」
「あのね、逃げた飼い犬じゃないんだから・・・」
「それより、急がないと」
「そうでしたね。じゃあ、ごきげんよう。みなさんも早く帰るんですよ」
 そういうや否や、二人はバタバタと研究室から出て行った。

 ギルフォードが感対センターに到着したのと、紅美が運び込まれたのはほぼ同時だった。今までとは違い、感染者発生地とは全く無縁の場所から現れた初めての患者で、センター内はちょっとした騒ぎになっていた。とりあえずセンター長室に向かっていたギルフォードは、ちょうど部屋から出てきたばかりの高柳に鉢合わせた。
「おお、ギルフォード君か。またお呼び立てしてすまないね」
 高柳は言った。ギルフォードは頭を横に振ると答えた。
「いえ、新しい感染者となれば、僕もゆっくりしているわけにもいきませんから」
「私もあれから帰ったばかりで仮眠しようと思った矢先でね」
「それはお気の毒でしたね」
「患者の名前は北山紅美で、多美山さんがいた部屋に入る予定だ。君たちは窓の前で待機しておいてくれたまえ」
 高柳はギルフォードの返事を待たずに走って行った。
「相変わらず忙しい方ですわね」
 紗弥が、感心したようなあきれたような風情で言った。ギルフォードは肩をすくめた。
「ま、実際忙しいですから。ここの人員も増やさないといけませんねえ。とりあえず、病室の前で待っていましょう」
 そう言うと、ギルフォードは病室に向かって歩きだした。

「遅いですわね」
 紗弥が、すこし退屈したように言った。二人が病室の前に待機してから、すでに30分以上経過していた。
「まず、診察と治療が先ですからね。もう少し待ってください」
 ギルフォードは組んでいた腕の左腕を解くと、その手で顔を覆いながら言い、その後曇りガラスを指でトンと叩いた。
「・・・とはいえ、確かに遅い上に何の連絡もないですね。何か問題があったんでしょうか」
 少しして、スタッフステーションに二人組みの男が入ってきた。葛西とジュリアスである。葛西がギルフォードたちを見て驚いて言った。
「あれえ、アレク、紗弥さんまで、どうしてここに?」
「また発症者が現れたんです。しかも、今日情報募集した身元不明遺体の関係者らしいんです」
 ギルフォードが答えた。
「そりゃ大変じゃないですか。でも、これで少しは感染ルートが判ってくるかも知れませんね」
「そうですね。ところで君たちの方は、何か成果はありましたか?」
「雑魚はよ~け採れたんだが、大物がなかなか採れんのだわ~」
 と、ジュリアスがギルフォードに近づきながら肩をすくめて言った。大物と聞いてギルフォードが嫌な顔をして言った。
「いくら大物だからって、くれぐれも採れたモノを僕に見せないでくださいよ」
「でゃ~じょ~ぶ、大物記念の虫拓なんか取ったりしにゃあからよぉ」
「笑えない冗談ですよ」
 ギルフォードはえもいわれぬ苦笑を浮かべて言った。ジュリアスはそれを見てしみじみと言った。
「おみゃあ、こっちに来てほんに丸くなったにゃあ。以前のおみゃあにこういう冗談をゆーたら、ソッコーでグーで殴られるか、羽交い締めされとるところだわー」
「苦労は人を丸くするんですよ」
「そんならその足もどけてくれ~せんかね」
 ジュリアスが、自分の右足を指さしながら言った。葛西が一瞬吹き出しそうになったが、場所柄を考えてなんとかそれを押さえた。紗弥はと言うと、まったく無視を決め込んでいる。いつものことなのだろう。そんな時、病室のモニターから声がした。女性医師の山口の声だった。
「アレク先生、そこにおられますか?」
「あ、はいはい、いますよ」
「お疲れ様です。あの、こちらがちょっと取り込んでまして、アレク先生に状況説明をするために、今、センター長が向かっていますので」
 山口の声の向こうで、女性の泣き声とそれをなだめる看護師の春野の声が聞こえた。
「何かあったのですか?」
「はい、患者さんがかなりショックを受けておられるので・・・」
「そうですか。それでは無理できませんね」
「ええ。もし、ご質問があるのでしたら、後日改めてになると思います」
「了解しました。では、タカヤナギ先生を待つことにします」
「すみません。とりあえず切ります」
「はい、お疲れ様でした」
 そこでモニターの音声が切られた。
「泣き声がきこえましたね。大丈夫でしょうか・・・」
 葛西が心配そうに言った。

 ギルフォードたちは、再びセンター長室にいた。
 彼らを迎えいれた高柳は、4人を座らせると言った。
「あちこち行かせてすまなかったね」
「いえ、気にしないでください」
 ギルフォードが言った。
「タカヤナギ先生の方こそ、お疲れでしょう」
「私は大丈夫だ。まだまだ若いもんには負けんよ」
「頼もしいですね。ところで、何か問題が?」
「うむ。今回の患者はさっき言ったように北山紅美という女性だ。彼女は今日の放送を見て連絡をしたらしい。ところが、電話中に倒れ、驚いた職員が救急車を手配した。そして救急隊員たちが駆けつけ、下半身を血まみれにして倒れている彼女を発見したということだ」
「すでに、放血を? ・・・いえ、ちょっと待って・・・。ひょっとして彼女・・・」
「そうだ。身ごもっていた」
「では・・・」
「まず胎児が感染に耐えられなかったんだろう。すでに流産していたらしい」
「ひどい・・・。可愛そうに・・・」
 真っ先にこう言ったのは葛西だった。紗弥も微妙に眉を寄せていた。
「彼女も妊娠かもしれないと気がついたのは、今日だったということだ。可愛そうに、彼女は子どもとその父親になるはずだった男の二人を一度に亡くしたんだ。彼女は感染自体よりそっちの方のショックの方が大きいようだ。とても質問出来るような状態じゃなくてね」
「エボラ出血熱の場合も妊婦に感染した場合、まず胎児からやられてました。出血熱は妊婦に対して特にひどい仕打ちをします」
「そうらしいな。彼女の病状もかなり進んでいて、そのせいで出血が全然止まらなくてね、このままだと長くもたせることが難しそうなんだ」
「悠長なことは言ってられないですね。感染源の男が死んでしまったからには、彼女から話を聞かないことには・・・」
「うむ。どうしたものかと思ってね・・」
「ところで・・・」
 ジュリアスが口を開いた。「その遺体が北川さんのボーイ・フレンドだということの確証は?」
「北山だ。彼女が言った彼の身体の特徴がほぼ一致した。今、彼の両親に連絡を入れているから、彼らの証言ではっきりするだろう。まあ、彼女の感染で、ほぼ鉄板だと思っていいだろうがね」
「テッパン?」
 と、聞きなれない言葉にギルフォードが首をひねって尋ねた。
「鉄の板、Iron plateだ。カタイということだよ。間違いないってことだ」
 その時、突然内線が入った。山口医師からだった。
「高柳先生、今、公安の方がこられて、北山さんに少しだけでいいからお話が聞きたいと・・・」
高柳が少し嫌な顔をしてギルフォードたちを見てから小声で言った。
「公安警察か、厄介だな」
 その後山口に向かって
「わかった。ただし、質問は彼から直接ではなく私を通してからにすると伝えてくれ。私もすぐに病室の前まで行く。山口君、君はその間、北山さんをなんとか説得してくれないか」
 と言うと、今度はまたギルフォードたちに向かって言った。
「とりあえず、またあちらに向かおう」
「公安・・・、ひょっとして、長沼間さんかな?」
「知り合いがいるのか」
「ええまあ。僕の聴講生ですが」
「聴講生? まあいい。とにかく急いで行こう」
「ホントに行ったり来たりになりましたねえ」
 と、ギルフォードがぼやいた。

 ギルフォードの思ったとおり、件の公安警察官は長沼間だった。彼は、高柳に挨拶と自己紹介をした後、共に現れたギルフォードを見て笑って言った。
「やあ、先生。いるかもしれないとは思っていたが、やはり居たな」
「もう嗅ぎ付けて来るなんて、さすが、行動が早いですね」
「ふん、やっと現れた潜在感染ルートの一部だからな。ここを引っ張らんとまた地下に潜ってしまう」
 そう言うと、長沼間は高柳の方を向きなおして言った。
「さっさとお願いしますよ」
 しかし、高柳は彼を制して言った。
「ちょっと待ってください。患者の意思を確かめてからです。今、医師の山口君が説得をしているところですから」
「悠長ですな」
 長沼間が薄笑いを浮かべて言った。しかし、高柳はそれに動じずに答えた。
「ええ、ここにいるのは患者であって犯罪者ではありませんから。医師なら患者のことをまず考えるのが当然でしょう」
「ふん」
 長沼間は鼻で言うと、まだ中の様子が見えない窓の方に向いた。
 しばらくして、モニターから声がした。
「高柳先生、患者さんだいぶ落ち着かれました。短時間なら質問をお受けするそうです」
「よろしい。では、窓を『開けて』くれたまえ」
 高柳の声と共に、窓が開いた。葛西は多美山のことを思い出して一瞬辛そうな顔をした。あれは、まだ昨日の出来事なのだ。まだ記憶に生々しい。しかし、今ベッドに寝ているのは若い女性であった。彼女は憔悴しきっており、いつもの彼女を知る者は、おそらく言われるまで北山紅美とは思ってもみないだろう。
「北山さん」
 高柳がマイクをを持って言った。万一を考えて、病室の外からはマイクを通してからしか話せないように設定したのだ。
「具合の悪いのにすまないね。ちょっとだけ質問に付き合ってくださいね」
「すみません、わたし・・・」
「謝ることなんてないんだよ。ただ、君が答えてくれたことで、感染の流れが断ち切れるかもしれないんだ。君のような人を増やさないためにも、協力してくれますね?」
 紅美は静かにコクリと頷いた。
「さあ、長沼間さん。そういうことだ。さて、質問は何かな?」
「単刀直入に聞こう。森田健二というド阿呆と付き合っていた女は他に複数いただろう。知っているだけ名前を教えろと聞いてくれ」
  長沼間は、早速容赦ない質問をぶつけてきた。
「もう、そんなことまでわかっているんですか」
 と、ギルフォードがあきれて聞いた。
「森田健二の失踪についての調書を見たんだ。タラシで有名でな、ひでぇ評判だったよ」
「こっちの会話が聞こえないようにして正解だったな」
 高柳は独り言のように言うと、病室に向かって質問をした。
「早速、このようなことをお聞きするのは申し訳ないのですが・・・。森田健二君は・・・、え~、あなた以外の女性と、その、親密なお付き合いをしていたようですが、名前はわかりますか」
("タカヤナギ先生がこんなに戸惑っているのを見るのは初めてだな")
 ギルフォードは、いつも流暢に話す高柳が言葉を選んで慎重に話す様子を見ながら思った。案外と気を使う男のようだ。しかし、当の紅美は、いきなり辛い質問をされて黙り込んでしまった。長沼間が気忙しそうに言った。
「早く答えるように言ってくれ」
「北山さん、辛いでしょうけれど大事なことなんです。答えてくれませんか?」
 高柳は彼が出来る最大限の優しさを以って質問した。しかし紅美は、嗚咽を漏らしながら再び泣き始めた。
「ちょっと貸してくれ」
 長沼間はそう言うと、いきなり高柳からマイクを奪い怒鳴った。
「メソメソするんじゃねぇ! 事態はもうあんただけの問題じゃなくなってるんだ。こうしている間にもどんどん感染が拡大しているんだぞ。子を失う母親をこれ以上増やしてもいいのか!?」
 長沼間に怒鳴られて、紅美は一瞬呆然とした後さらに泣き出した。山口と春野が驚いて駆け寄った。
「ナガヌマさん!」
 ギルフォードが素早く手を伸ばし、長沼間のマイクを持つ手を押さえて言った。
「気持ちはわかります。でも非道いことを言うのは・・・」
「ふん、俺を病室に入れなくて正解だな。中だったらあの女を締め上げていたかもしれん」
「ナガヌマさん・・・?」
「いいか、今は綺麗事を言っている時ではないんだぜ。あんた達だってわかってるんだろう?」
 そう言いながら長沼間はギルフォードを振り切り、続けて紅美に何か言おうとしたが、紗弥が後ろから近づきマイクを取り上げ高柳に渡した。長沼間は驚いて振り向き、紗弥の顔をまじまじと見た。マイクを取り戻した高柳は、急いで紅美に声をかけた。
「北山さん、暴言を浴びせてしまって申し訳ない。大丈夫かね?」
「大丈夫です・・・」
 紅美はなんとか平静に戻っていた。彼女は今度はしっかりと答え始めた。
「取り乱してすみません。そうですよね、あの人の言うとおり、ちゃんと答えないといけませんよね」
「決心してくれましたか。ありがとう」
「あの、でも、答えたら・・・彼女たちはどうなるんですか」
「おそらく強制隔離になるでしょうな。しかし、それは彼女らを守ることにもなるんですよ」
「私が教えたことは・・・」
「大丈夫、秘密は守られますよ」
「わかりました。お答えします」
 紅美は意を決したように言うと、彼女と同じ大学の女性の名を3人挙げた。
「ただ、最近一度だけ知らない女性を連れ込んでいたことがあって・・・。その人だけは誰かわかりません。ごめんなさい・・・」
「北山さん、だから、謝らなくてもいいんです。君のせいじゃない」
「はい、でも・・・」
「いいんだよ。君はむしろ被害者の方なんだから。で、それは、ここ1・2週間位のことですか?」
「はい、確か先週の土曜日のことでした。そのことで大喧嘩になったので・・・」
「君も色々と大変だったんだね」
 高柳から優しい言葉をかけられて、紅美の両目から再び大粒の涙が流れた。
「あらら、泣かないで、北山さん。あ、ちょっと待ってね」
 そう言った後、高柳は長沼間の方を見て尋ねた。
「私からも質問していいかね?」
「何を質問するつもりです?」
「当然、健二と秋山美千代との関わりについてですよ」
「俺もそのつもりだったんでね。遠慮なく聞いてくれ」
 高柳は、長沼間の先ほどの行動とその不躾な言い方に少なからず不快感を持ちながらも、それを押さえて紅美に質問をした。
「北山さん、その女性はお幾つくらいの方でしたか」
「多分、私より下の18くらいだったと思います・・・。ひょっとしたら、もっと下かも」
「そうですか・・・。それでは、彼が最近かなり年上の女性と付き合ったというようなことは・・・?」
「はい、これは噂でしか知りませんが、先週彼が30代の人妻のお相手をしてお小遣いをもらったと自慢していたとか・・・」
「それは、単なる噂なのかな? それとも・・・」
「・・・事実だと思います。私はそんなこと考えるのも嫌だったので、確認することはしなかったけど、そのお金で友だち数人を連れて遊びまわった挙句、さっき言った女性をお持ち帰りしたらしい・・・です」
 そこまで聞いて、ギルフォードがあきれて言った。
「彼らは大学に何をしに行ってるんです?」
 それを聞いて、長沼間が肩をすくめて言った。
「さあね。学問じゃないことは確かだな」
 彼らの会話を余所に、高柳が質問を続けた。
「北山さん、その女性の手がかりになるようなことはご存じないですか? どんな些細なことでもいいですが」
「その女性については、本当にまったくわかりません。ごめんなさい。でも、何故この質問をされたかはわかります。その女性が、今日の放送で情報を求められていた人ではないかということですね・・・。彼女がこの病気を運んだと・・・」
「そのとおりです」
「お役に立てなくてすみません・・・」
 と、紅美はまた謝りながら続けた。
「でも、その人を見た訳じゃないけど、多分その女性とあなた方の探してる女性は同じだと思います。放送を見てそんな気がしたんです。だから、連絡したんです。赤ちゃんだけでも守ろうと思って・・・。なのに・・・なのに、赤ちゃん死んじゃった・・・。私が守らなきゃいけなかったのに、私のせいで死んじゃった・・・」
 紅美はとうとう耐えきれずに泣き崩れた。春野が再び紅美をなだめ、沈静剤を用意しながら山口が言った。
「すみません。もう限界なので、今すぐ全てを遮断します。後は後日お願いします」
 その声が途切れるや否や、窓が曇り中が見えなくなった。皆が深刻な顔をしている中、長沼間が言った。
「センター長、今聴いた女達の名前を大学に確認して、すぐに彼女たちの隔離を手配してくれ。俺は彼女らからの新たな感染ルートと例の女と森田との接点を探るよう要請する。無理を言ってすまなかったな。じゃあ」
 長沼間はきびすを返すとさっさと戸口に向かった。その後を葛西が追い、長沼間の背に向かって言った。
「長沼間さん!」
 長沼間は足を止めたが、振り返らずに答えた。
「坊やか。なんだ? あんたには用はないが」
「彼女のせいじゃないでしょう!」
「わかっている。悪いのはウイルスを撒いた馬鹿共とタラシのクソ野郎だ。両方とも許せねえよ。クソ野郎の方はくたばっちまったがな」
 葛西は長沼間が両拳を握り締め、それが何故か小刻みに震えていることに気が付いた。
「じゃあ、なんであんな・・・」
「時間がねぇからだ。・・・じゃあな、急ぐんでな」
 長沼間は振り返らないままそれだけ言うと、また歩き出した。が、戸口の前でまた足を止めた。
「坊や、彼女に怒鳴ってすまなかったと伝えてくれ。それから、生きてくれ、と。」
 そう長沼間は低くつぶやくと、スタッフステーションから出て行った。
 葛西はすぐに皆のところに戻ると、ギルフォードに聞いた。
「長沼間さん、昔何かあったんですか?」
「どうして?」
 ギルフォードは例のアルカイックスマイルを浮かべて聞き返した。
「いえ、なんかさっき鬼気迫るものがあったんで・・・」
「そうですか・・・」
「それに、今・・・、あっ、そうだ、伝えなきゃ。高柳先生、声だけでも部屋に伝えることが出来ますか?」
「ああ、聞いてみよう」
 高柳は再度マイクを手にして山口に尋ねた。音声だけならということで、山口から許可が下りた。葛西がマイクを受け取り、やや緊張した面持ちで言った。
「あの、北山紅美さん、聞こえますか。さっきの怖いおじさんからの伝言です。『怒鳴ってすまなかった』それから、『生きてくれ』・・・。あの、僕からもお願いします。生きてください」
 葛西はそう言いながら多美山のことを思い出していた。葛西はメガネを持ち上げ目元を袖口で拭うと、マイクを高柳に返した。
「もういいのかね?」
「はい」
 葛西は照れくさそうに答えた。

 ギルフォードたちは、駐車場に向かってセンターの廊下を歩いていた。
「ジュン、長沼間さんのこと聞いてましたね」
 歩きながら、ギルフォードが葛西に声をかけた。
「はい。何か知ってるんですか?」
「ええ。彼は、あの地下鉄サリンテロで妹さんを亡くしています。正確には、それが元で自殺されたようです」
 長沼間の悲しい過去に、葛西だけでなく紗弥やジュリアスも驚いてギルフォードの方を見た。
「そうだったんですか。それであんなに・・・・」
「彼は当時既に今の職業についていて、ペーペーだった彼はO教団を調査するチームにいました。なのに地下鉄テロを止めることが出来なかったことを悔やんでいます。妹さんの死も自分のせいだと思っているみたいで・・・」
「長沼間さんから聞いたんですか?」
「いえ、今回のテロの参考に、サリンテロについて改めて調べていたら、被害者の中に彼と同じ『長沼間』という名字の女性を見つけたんです。あの漢字を使う『ナガヌマ』は珍しいですから、調べたらすぐに彼の妹と言うことがわかりました。彼は僕がこのことを知っているとは思ってもいないでしょうね」
「なるほど、今度は未然に防ぐつもりが始まってまったじゃあ、そりゃ~焦るはずだわ~」
 ジュリアスが納得して言った。
「行き過ぎにゃあとええけどな」
「僕もそれが心配なんですが・・・」
「でも」
 と、葛西がしみじみ言った。
「それを考えると、あの『生きてくれ』というメッセージは重いですね」
「そうですね、本当に重いです。ジュンが言った『生きてください』もね」
 ギルフォードはそう言うと、少し微笑み、続けた。
「二人の気持ちがキタヤマさんに通じるといいですね。ただ、伝わったからと言ってどうにかなる病気じゃないのが辛いところですが・・・」
「ええ・・・」
 葛西がうつむき加減で言った。ギルフォードはそんな葛西を見ながらにっと笑うと、パン!と手を叩いた。
「さっ、元気出して帰りましょう。明日からはきっとものすごく忙しくなりますよ。みなさん、今日はゆっくり眠ってください。ほら、ジュンも元気出して」
 そう言いながら、さりげなく葛西の肩に手を回した。それを見たジュリアスがすかさず言った。
「あ、こら、浮気はあかんでかんよ」
「おや、ばれてました~?」
 そういうと、ギルフォードは廊下を駆けだした。
「おい、ちょこっと待て、アレックス!!」
 と、すぐにジュリアスがその後を追った。残された葛西と紗弥は、お互いを見て肩をすくめあった。
「いったい何ですか、あれ?」
「さあ。犬も食わなさそうですけど。それにしても、廊下は走るものじゃありませんわ」
「じゃ、僕らはゆっくり行きましょうか」
「そうですわね」
 紗弥が同意した。二人は並んで駐車場まで向かった。心なしか、紗弥が穏やかな微笑みを浮かべているように見えた。

 紅美は虚ろな眼をして病室の天井を見ていた。出血はだいぶ治まったそうだが、このまま血が完全に止まらなかった場合、どうなるのだろうと思うとゾッとした。その反面、いっそ健二や赤ちゃんの所に行ってしまったほうが楽なのではないか、とも思っていた。
(だけど・・・)
 紅美は思った。
(あの恐ろしげな男の人は、私に生きてくれと言ったらしい。それを伝言してくれた人も、同じことを言った。見ず知らずの私を、二人は励ましてくれた・・・)
 紅美はそのまま目を閉じた。
(私がこのまま死んだら、彼らは悲しむだろうか・・・? )
 閉じた眼から涙があふれ、顔の側面を伝って枕を濡らした。

 あれからこのような展開になっているとは知らず、由利子は家でテレビを見ていた。あれから特に何か変わったような感じはしない。テレビ番組もいつもどおりで、相変わらずのバラエティ番組やドラマがひしめいていた。ただ、ニュースにおいて、例の告知が全国版で取り上げられていたのには、少し驚いた。たしかに、わざわざ既存の番組を潰してまで時間を割いて行われたのだから、ニュースになるには充分な素材なのは間違いない。
 だが、これが明日以降どう影響するだろうかと思うと、由利子はかなり不安になった。また、ローカルニュースでも当然メインニュースで取り上げられており、町を歩く人のインタビューを交えて報道されていた。道行く人たちは、不安に思う者・楽観的観測の者・信じてない者・放送自体を知らない者等様々な反応だったが、特にパニックになっている様子は無い。ただ、危険地域とされた数箇所の地区は、人通りもほとんど無く静まりかえっていた。もっともそれらが住宅地で、日曜ゆえに通行人が少ないということもその一因だろう。
 由利子はふと気になって、ネットを立ち上げ有名巨大掲示板をチェックした。すると、ニュース速報板と新型感染症板にそれぞれ早々とスレッドが立っており、特に、新型感染症板ではトリインフルや新型インフルを差し置いて、プチ祭りになっていた。多くの住人達が、すわエボラ出血熱発生かと騒ぎ立てている。由利子は眉をひそめながらつぶやいた。
「う~ん、予想通りの反応っちゃ反応やけど、この騒ぎがネットからリアルに移行したら怖いな」
 由利子はその後少し考え込んだが、うんと頷いて言った。
「アレクに一応連絡しとこ。多分彼はそんなトコ見んやろうし」
 由利子は早速携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。

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5.告知 (7’)背徳者

【R18】注意  

 美葉が目を覚ますと、バスローブに着替え、紫煙をくゆらせながらテレビを見てくつろぐ結城の姿があった。美葉は横になったまま、室内を見回した。過度な装飾、そして天井に映った自分の姿・・・、レザーのタンクトップとアンダーパンツだけの姿で、毛布も掛けられずにベッドに寝かされている・・・。美葉はため息をついた。
「目が覚めたかい、美葉」
結城は美葉が目を覚ましたことに気がついて、ソファから立ち上がって彼女の方に近づいてきた。
「なかなか目を覚まさないんで、先に風呂に入らせてもらったよ」
「また、こんなところなのね」
「仕方ないだろう、『僕たち』はお尋ね者なんだからね。普通のホテルだったら怪しまれるどころか通報されてしまうだろ? しかも、おまえは眠ったままだったし。ここはガレージから直接部屋に入れるようになってたから、その点も都合が良かったしね」
そう言いながら、彼は美葉に近づいてきた。
「ま、もう少ししたら、仲間が僕たちの住む場所を提供してくれる手はずになっているから、それまでの辛抱だよ」
そう言いながら、結城はベッドサイドに腰掛けて、美葉の方に手を伸ばした。美葉は静かに、しかし鋭く言った。
「触らないで」
「おや、また今夜は特にご機嫌斜めで」
「あたりまえだわ。あんた、さっき私に何をした?」
「おまえが僕を馬鹿にして、笑い続けるからいけないんだ」
「そんなことで・・・」
「僕を馬鹿にする者は許さない」
「あんた・・・」
美葉は結城の言葉の中に狂気を感じて一瞬言葉を失った。
「僕は無敵なんだ。全人類を滅ぼすことだって出来るんだぜ」
「そんなことはさせないわ。さっきの警官たちは見抜けなかったけど、由利ちゃんなら、あんたがどんなに面変わりをしても、絶対に見つけ出すから。警察側に由利ちゃんがついている限り、あんたが逃げ切れることはないんだからね」
「篠原由利子、あの女がか?」
「そうよ。由利ちゃんはね、人の顔を覚えるのが得意なの。そうそう、いい事を教えてあげる。私ね、子どもの頃にも誘拐されたの。公には未遂ってことになってるけどね。まあ、ほかの子たちと違って早めに逃げ出せたけど、それでもけっこうひどい目にあったわ。今ほどじゃないけど」
美葉の告白に結城は少なからず驚いたようだが、彼女が忘れずに皮肉を交えた事に気がついてだまっていた。美葉はかすかに笑って続けた。
「だから私、ホントは男の人がすごく苦手だったの。何度か付き合ったことはあるけど、全部長続きしなかったわ」
「そうか、それで・・・」
結城は何か言いかかったが、美葉が眉を寄せたのを見て口をつぐんだ。
「・・・でも、あなたが現れて・・・。最初は由利ちゃんがやきもきするのが面白くて付き合ってみたの。でも、あなたは優しくて、一緒にいて安心出来たの。だからあなたなら大丈夫だって思えるようになったわ。でもその頃、私のおいたが過ぎて、由利ちゃんに絶交されちゃった・・・。だけど、あなたがいるから大丈夫だって思った。だから、あなたに奥さんがいたって知った時、ショックだった。奈落に落ちた感じだった。その上、あなたはしばらく会えないっていい出すし。私、途方に暮れたわ。そしたら、由利ちゃんがまた手を差し伸べてくれたの。すごく親身になってくれた。嬉しかったわ」
美葉はここで一息ついた。
「そうそう、肝心な誘拐犯の事を言わないとね。由利ちゃんはね、2年間私の周囲を警戒してくれたの。犯人はきっと様子を見に戻って来るって。そして、とうとう犯人を見つけてくれたわ。痩せた上に変装してたけど、由利ちゃんの目は誤魔化せなかったの。由利ちゃんね、私が目の前で誘拐されたから、すごく悔しがってね、絶対に見つけてやるって。あいつが捕まったのは由利ちゃんのおかげ。今度も由利ちゃんはきっと見つけてくれる」 
美葉は結城から目をそらすと、遠くを見るような目で言った。それを見て結城はせせら笑うように言った。
「馬鹿なことを。細身で見た感じ宝塚の男役みたいなやつだったが、ただの中年女だ。そんなヤツにこの僕が捕まるはずがないだろう?」
「自信過剰ね。あなたはきっと捕まるわ。最悪のテロリストとしてね」
美葉は天井を向いたままそう言うと、くすっと笑った。
「美葉、まさかおまえ・・・」
結城は美葉の顔をまじまじと見て言うと、ものすごい勢いで美葉に襲い掛かった。
「だめだ、おまえは誰にも渡さない」
「やめて。どきなさい。私、少し前にあなたに殺されかかったのよ。いい加減にして」
美葉は言い放った。しかし、こういう状態になった結城は歯止めが利かない。結城は美葉の両手を掴みベッドに押し付け押さえ込んで言った。
「おまえは僕のものだ。だっておまえに女の悦びを教えてやったのは僕なんだから。ほら。こうやって・・・」 
彼はそういうと美葉の唇をむさぼり、彼女の口の中で結城の舌がのたうった。その間、結城の膝が美葉の股間を責めつけた。嫌悪感に身を震わせながら、美葉は耐えるしかなかった。キスに満足すると、結城はバスローブを脱ぎ床に投げ捨てると、美葉の下着を剥ぎ取り、タンクトップをめくりあげた。美葉の白い豊かな乳房がむき出しになり、結城はにっと笑った。そのまま右の乳房を口で含みながら、左の乳房をもてあそぶ。
「あっ・・・」
たまらず美葉が声を上げたが、その後は無言で耐え続けた。しばらくして、美葉の胸から顔を上げた結城が言った。
「美葉、そうやって耐える姿もイイって知ってた?」
美葉は、怒りと恥ずかしさで真っ赤になって顔を背けた。
「そういうところもいいんだよなあ・・・」
そう言いながら、結城は美葉の両足を持ち上げ広げた。美葉が悲鳴のような声を上げた。
「やめて!」
「でもさ、こっちは嫌がってないじゃない」
結城はにやりと笑いながら、美葉の身体を抱きすくめ、突き上げた。いきなりのことに美葉は悲鳴を上げたが、結城は頓着せずに何度も美葉の身体を突き上げた。
「いやっ、結城さ・・・、お願い、やめてぇ、やめ。。 あああっ」
美葉は懇願したが、結城はその声に興奮したのか彼女を責め続けた。
「ああっ、ああっ、苦しいよお、いやあ、由利ちゃん、由利ちゃん、助けてぇ」
「由利ちゃん、ゆっちゃん? そういうことか!!」
結城は美葉を抱いた手を離すと、彼女の頬を平手打ちして言った。
「この女!!」
結城は起き上がりながら美葉の身体を抱き上げ、目合ったまま向き合いに脚の上に座らせると、両手で彼女の顔を掴んで言った。
「やっぱりそうだったのか。とんだ倒錯者だったわけだ」
「違うわ、友情よ!」
切れた唇から流れる血を手で拭いながら、美葉が言った。
「へえ、女同士の熱~い友情ってわけか。そうだよな。あっちはノンケのようだから、そうやって誤魔化すしかないか。だが、友情だろうと愛情だろうと、おまえはあの女には渡さん」
結城はそういいながらまた、美葉を抱きすくめ口を塞いだ。その後首筋から胸まで唇を這わせると、また美葉の身体を抱き上げ、胸の上でたくれていたタンクトップを脱がせると、背を向けて座らせた。そして、左手で美葉の身体を抱きながら、胸に手を這わせ、右手で美葉の右足を持ち上げ陰部を探った。
「あ・・・、くっ・・・」
声を上げまいと耐える美葉の耳元で、結城が囁いた。
「いい考えがある。僕の仲間に・・・、おまえの由利ちゃんを攫ってこさせよう。それから・・・、おまえさんの目の前で息の根を止めてあげよう・・・・・ね。でさ・・・、篠原由利子の死体を前にしてさ、こんなことしようよ」
言葉の合間に荒い息が、美葉の耳元と首筋に何度もかかった。美葉はおぞましさに身震いしながら叫んだ。
「やめて! 由利ちゃんに何かしたら、許さない―――」
「立場をわきまえてよ。君は命令する立場にはいないんだから」
結城はくすくす笑いながら言うと、乱暴に美葉の身体を上下させた。美葉がウッと短い声を上げると、結城は喉の奥で嗤いながらまた耳元で囁いた。
「いい加減そうやって耐えるのはお止しよ・・・。愛しい由利ちゃんを守りたかったら、せいぜい僕を楽しませておくれ」
美葉は、結城の言動から恐れていたことを確信し愕然とした。
(この人は狂ってしまったんだ・・・。多分元には戻らない・・・)
「ああ・・・」
美葉は絶望し、気が遠くなるのがわかった。彼女の精神力は限界に来ていた。意識を失う直前に、どこかで聴いたことのある昔のフォークソングが頭をよぎった。

 かごの鳥でも翼があれば、飛んでゆきたい青い空・・・

結城は崩れ落ちる美葉の身体を、背後から抱きしめた。
「愛しい美葉、もう行ってしまったのかい?」
結城の腕の中で気を失った美葉は、まるで人形のように愛らしかった。結城は彼女をさらに抱きしめ頬ずりをしながら言った。
「可哀想に、おまえもあの男と同じ背徳の徒だったんだな。重罪だよ。でも、僕がおまえを浄化してあげるから奈落に落ちることは無いよ。一緒に楽園に行こうね。僕はおまえを絶対に離さない。誰にも渡さない・・・。」
結城はまたくすくすと笑った。その後、結城はまた美葉に口づけすると、彼女の身体を静かに寝かせた。
「さあ美葉、綺麗にしてあげようね」
そして彼は、美葉の身体を丁寧に舐め始めた。結城はそうやって美葉の上を何度も這い回った。その狂気に満ちた姿は、まるで悪鬼のような禍々しさを漂わせていた。
 

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5.告知 (8)妹

「兄さん、こうやって一緒に夕食って、久しぶりね」
「そうだな。今の仕事が佳境なんで、最近は特に帰りが遅いからな」
 俺はそう言うと、少しばかり肩をすくめてみせた。すると妹は、不満そうに口を尖らせながら言った。
「それどころか外泊も多いじゃない。ほんとにお仕事?」
「馬鹿言え。仕事以外の外泊だったらなんぼも気が楽だよ。今だっていつ呼び出しがかかるかと冷や冷やしてるんだぞ」
「やだ、途中で席立たないでよ。特に兄さんとの外食はホントに久々なんだから」
「そうか。それならこんなファミレスじゃなくてもっと小洒落たレストランにするべきだったかな」
「何言ってんのよ。肩が凝るようなところは苦手だって、いつも言ってるくせに」
「ははは、そうだな。ところで話ってなァ何だい?」
「あのさ、兄さんて今、カノジョ居るの?」
「なんだよ、藪から棒に。そんなもん作る暇なんかねえよ。大学ん時のはとっくに別れちまったし」
「そっか・・・。じゃあ私が先に結婚するの、申し訳ないなあ」
 いきなり妹が衝撃的なことを言い出すので、俺はたっぷり1分間ほど固まった。
「・・・結婚?」
「うん」
「するのか?」
「うんっ♪」
「・・・マジ?」
「ごめんね、兄さん。驚いた?」
「いや、謝られてもな、何がなんだか・・・。すまん、ちょっと・・・、いや、かなり驚いた。・・・しかし、なんでいきなり?」
 妹はそれを聞いて意味深に笑った。
「えへへへ・・・」
「あ~、おまえ~~~!」
「ごめんなさ~い」妹は手を合わせ、俺を上目遣いで見ながら照れ笑いを浮かべて言った。「だって、兄さんいつも帰り遅いしぃ、寂しかったんだもん」
「まあ、おまえだってもう大人なんだから、どうのこうの言うのもナンだが、まあ・・・、あー、えー、しかしだな、俺はおまえには、あー、その・・・、出来ちゃっ、いやそのなんだ、つまりその、そうじゃなくて、えー、ちゃんとした順序で・・・、兄さんはちょっと残念・・・って、一体俺は何を言ってるんだ。で、えーっとその、それで一郎君は・・・?」
「うん。すっごく喜んでくれて、それじゃすぐに結婚しなきゃって言ってくれて・・・。こんど一緒に式場を見に行くの」
「そうか・・・。じゃ、出来るだけ盛大な式を挙げろよ。費用なら兄さんがなんとかしてやれるから」
「ううん、兄さん、無理しないでよ」
「たった一人の妹なんだぞ。それくらいやらせてくれ」
 しかし、妹は首を横に振りながら言った。
「もう充分よ、兄さん。今まで本当にありがとう。10年前、事故で父さんと母さんが死んでから、ずっと親代わりをしてくれて・・・」
「何言ってるんだ、二人だけの兄妹なんだからあたりまえだろ。それに幸い父さん達が遺してくれた蓄えと保険で、なんとか食うには困らなかったからね。感謝するなら両親にしなくっちゃ」
「でも・・・」
「さっ、辛気臭い話は抜きだ。ほら、そろそろ頼んだものが来る頃だぞ」
「うん・・・」
「って、こら、泣くな。さっ、今日はお祝いだ。ワインで乾杯しようか」
「ダメよ、兄さん下戸でしょ」
「一杯くらいならなんとか大丈夫だよ、きっと」
「ダメ。また倒れちゃうわよ。それに、もし呼び出しがあったらどうするの?」
「あ、そうだった」
「バカね」
「・・・そうそう、披露宴では俺に一曲歌わせてくれよ」
「え? 何を歌ってくれるの?」
「んっと、そうだな、あ、あれだ、『妹』がいいや」
「って、あの、『かぐや姫』の?」
「そうそう。久々に弾き語りってのをやってやるよ。特に、あの『帰っておいで~、妹よ』ってところ、大声で泣きながら歌ってやるから」
「やだ、兄さんってば。それ、禁句じゃないの」
「お、笑ったな。さ、料理が来たようだ。やっと腹ごしらえが出来るぞ」

 それからおよそ1ヶ月後、運命の日が訪れた。その朝・・・。
 俺が眠い眼をこすりながら台所に行くと、既に妹がそこにいた。
「兄さん、おはよ」
「なんだ、久美子、もう起きてたのか・・・。それに、朝メシまで出来てるし」
「うん。兄さん、今日早いって言ってたから私も早起きしちゃった。一緒に朝食食べようと思ってさ」
「ありがたい。めんどくさいからシリアルで済ませようと思ってたんだ」
「そうだと思った。さっ、座ってよ。すぐごはん装うから」
 そう笑顔で言う妹を見て、俺はしみじみと思った。もう少しでこの日常は終わるんだなあと。しかし、それは違う形で実現してしまった・・・。 
「じゃあ、行って来るよ」
「今日も遅いの?」
「ああ、近いうちに大事なイベントがあるんで、その準備で大変なんだ。また何日か帰れないかも知れない」
「そっか、残念。今日は一郎も一緒にまた夕食したいなって思ってたのに」
「あ、そうか、おまえ、会社今日までだったな」
「うん。ちょうど20日で区切りがいいし」
「ちゃんとお世話になりましたって挨拶に回るんだぞ」
「やだ、兄さん、あたりまえじゃないの」
「ははは、そうだな。じゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
 妹の笑顔に送られて、俺は家を出た。いつもの平和な朝だった。2日後には、例の教団への強制捜査を控えていた。それで俺の仕事は一段落する予定だった。妹と過ごす余裕も出来るはずだった。しかし・・・。

 1995年3月20日午前8時 地下鉄サリンテロ発生。

 俺のいる分室にも、地下鉄での異変が伝えられる。しかし、最初の頃は情報が錯綜し、爆破だの薬品が撒かれたなどと、事実と憶測が入り乱れていた。
「渦中の路線は?」
「千代田線、それから丸の内線と日比谷線・・・他線でも同時多発しているという情報もあります」
「まさか、地下鉄テロ・・・!?」
 誰とも無くそれを口にした。それを聞いて俺は、居ても立ってもいられなくなって席を立ち言った。
「日比谷線・・・その時間は私の妹も通勤で利用しているんです。実は会社に問い合わせたら、まだ出勤していないと・・・」
 動揺する俺に、室長が言った。
「長沼間、地下鉄のダイヤ自体がずっと乱れているんだ。事件のあった路線は止まったままだし、全線が停止するかも知れん。地下鉄以外の交通にも影響が出ている。まだ事件に巻き込まれたとは限らんだろう。とにかく落ち着け! 何か情報が入ったらすぐに知らせてやる」
「は、はいっ、ありがとうございます」
 そう言ったものの、俺の心中は落ち着かず、1分が数倍に思えるような辛い時間が流れた。
「長沼間! 妹さんの所在がわかったぞ! L病院だ! 被害者の多くがそこに運び込まれているらしい」
「室長、でも、仕事がまだ・・・!」
「いいから行け! たった一人の身内だろう? こっちは仕切りなおしだ。やられたよ。二日後の強制捜査の情報が漏れてたんだ」
「じゃあ、やはりこれは奴らの・・・」
「警察の分析部門がサリンと断定した! 他にあんなモノを撒くような気のふれた集団がいるものか! 畜生! 奴ら、霞ヶ関を狙いやがったんだ!! M市の時に連中をなんとか出来ていればこんなことには・・・!! とにかく、早く行け。既に死者が出とるんだ、どういう状況になるかわからんぞ!!」
「申し訳ありません!」
 俺はそう言うや否や、脱兎の如く部屋を飛び出した。

 俺は、妹が搬送されたといわれる病院に急いだ。L病院は、キリスト教関係の病院で、大きな礼拝堂がある。病院にそぐわない大きさだが、後で、それが東京大空襲を教訓として、大規模災害時に緊急病棟に転用出来るように作られたものだと知った。それが、あのテロの時、大いに役立った。
 いつもなら静かで厳かであろう礼拝堂内が、文字通り野戦病院さながらの状態だった。俺は何とか妹のベッドを探し当てた。そこには既に婚約者が駆けつけ、横に座っていた。
「お義兄さん!」
「一郎君! 久美子の容態は?」
「今、解毒剤を混ぜた点滴を受けています。一時期に比べてだいぶ症状が治まったようです。意識はまだ戻ってませんが、とりあえず、命には別状はないそうです・・・」
「そうか・・・」
 俺はそう言うと、ほっとして床に座り込んだ。
「お義兄さん、中毒の原因物質がサリンって、本当ですか?」
「ああ、そうらしいな・・・」
「どうして、こんな・・・」
 俺には事と次第を推察できたが、職務上の秘守義務のために、わからないと首を横に振るしかなかった。

 妹は、いつものように地下鉄に乗って会社に行く途中被害にあった。途中、他のどこかの車両で何かあったらしい。妹の乗った車両でも皆がキョロキョロ始めた頃、異臭がし始め、いきなり鼻水と涙が出てきた。
(嫌だわ、急に風邪をひいたのかしら?)
 妹は最初そう思ったが、周りを見ると、みな同じような症状になっている。妹は何か異変を感じた。息苦しさが限界になろうとしたとき、ドアが開いた。妹は皆と一緒に転げるようにホームへ脱出し、無我夢中で駅の外に出た。既に目の前が暗く眼が見え難くなっていた。サリン中毒の特徴的な症状である瞳孔収縮が起こっていたのだ。妹はしばらく他の乗客と共に、地下鉄出入り口近くの道にハンカチで顔を抑えながらうずくまっていたが、途中意識が途切れ、気がついたら病院のベッドに寝かされていたということだった。
 俺はしばらく妹の様子を見るため傍にいたが、後を婚約者に任せ、仕事に戻った。こうなったらなんとしてもあの組織を一網打尽にせねばならない。

 強制捜査は予定通り2日後に開始され、その後、教団は徐々に追い込まれていった。

 妹は1週間後に退院したが、堕胎を余儀なくされ、その上ひどい後遺症に悩まされることになった。妹は家に引きこもり、婚約も一方的に破棄した。婚約者の一郎が何度か尋ねてきたが、会うことはなかった。後で知ったのだが、一郎の母親が病院に来て、妹に別れてくれと懇願したらしい。息子には健康な嫁を迎えたい、そう母親は言い切ったという。
 俺は、妹の様子を見るために1ヶ月ほど休暇を取り、出来るだけ一緒にいるようにしたが、妹はそれさえ疎ましいようだった。あんなに明るかった妹の性格が一変してしまった。俺は犯人たちを憎んだ。しかし、それ以上に、ここまでOの連中をのさばらせた官僚や上層部の連中を恨み、事件捜査に関わった己の不甲斐無さを呪った。
 もっと早く手を打てたはずだった。遅くともM市の事件以降には。

 そして妹は・・・・、俺がちょっと眼を離した隙に、自室のドアノブに紐を引っ掛けて首を括ってしまった。俺はすぐにそれに気付いて、まだ息のあるうちに妹を救出、救急車で病院に運んだが、妹はこん睡状態のまま眼を覚ますことは無かった。

 同年5月16日、M市と地下鉄の両サリン事件やその他の事件の首謀者である教祖M逮捕のための大規模な強制捜査が行われ、屋根裏に潜んでいたAことMがついに逮捕された。
 俺は、仕事に復帰していた。妹がああなってしまった以上、仕事に没頭しないとやり切れなかったからだ。その日の夕方、俺は妹に教祖逮捕を報告するために病院に向かった。しかし、報告をしても、妹は何の反応もせずに静かに眠ったままだった。俺は、痩せこけて変わり果てた妹の傍に座ったまま、声を殺して泣いた。
 その二日後の夜、病院から妹危篤の知らせを受け、俺は妹の病室に駆け込んだ。そこには既にもと婚約者の一郎も来ていた。だめ元で俺が連絡したのだが、彼は来てくれた。婚約破棄は彼にとっても理不尽なことだったとその時知った。彼はまだ妹を愛していたのだ。彼女を愛する二人の男に見守られて、妹は息を引き取った。まだ22歳だった。これから幸せになろうとしていた妹の人生を、いや、命さえもあの事件は奪ってしまった。
 一郎は妹に取りすがって号泣したが、俺は呆然としていた。突然大地が失われたような喪失感に襲われた。宇宙空間に一人投げ出されたような、妙な感覚だった。俺は泣くこともわめくことも怒ることも出来ずに、ただただ呆けたように立ち尽くしていた・・・。
 

「チッ! あいつのせいで思い出してしまった」
長沼間は、感対センターの駐車場で、車のエンジンをかけながら言った。
「紅美か・・・、嫌な偶然だぜ」
彼はそう言うと病棟を一瞥し、車を発進させた。長沼間の黒い車は門を出ると、猛スピードで闇に消えていった。

「あれから、そんなことがあったんですか。へえ、長沼間さんが紅美さんにねえ」
 由利子は、ギルフォードにインターネット掲示板のことを教えようと電話をしたのだが、その時センターでの一連の話を聞いたのだった。そんなこんなでギルフォードは、ようやく先ほど家に帰りついたのだと言った。
「それにしても、あのオッサンの妹さんがサリンテロの被害者だったなんて・・・。それじゃあ、長沼間さんのテロリストに対する憎悪が深いはずですね」
「そうですね。僕もそれを知った時びっくりしました」
「O教団の捜査に関係していたのなら、その悔しさも並大抵のことじゃなかったでしょうね。その上に、今回も相手に先手を取られっぱなしじゃあ、焦りますわな」
「仕方ないですよ。見事なまでに姿を現して来ないですからね、敵さんは。おそらく、O教団についてもかなり研究しているでしょう。だから、今のところ表立っている唯一の存在のユウキを追うしかないのに、それすらも手がかりを逸してしまったのですから」
「結城・・・」
 由利子は低い声で言うと、声のトーンを元に戻して続けた。
「美葉は無事でしょうか・・・」
「彼女は、あいつにとって唯一の心の寄りドコロのハズです。きっと無事ですよ。必ず帰って来ます」
「そう、そうですよね」
「彼女を信じて待ちましょう。いずれにしても、ユウキの線から突き崩していくしかないのです。僕は、彼女がそのきっかけを作ってくれるのではないかという希望をもっています」
「アレク、ありがとう。美葉を信じてくれて・・・」
「どうして?」
「結城は美葉の彼氏だったから・・・。それに、そうじゃなくても、昔パトリシアって人が誘拐された時みたいに・・・」
「パトリシア・ハーストのことですか? よく知ってますね。ナルホド、君が心配しているのは、人質が誘拐犯と同調してしまう、いわゆるストックホルム・シンドロームのことですね」
「ええ。そんな風に思われていたらどうしようかって・・・」
「確かに、警察の方ではそういう見方をしている人がいます。でも、僕はそうは思いません。彼女は強い人です。武道に優れているはずの彼女が、ユウキから逃げず行動を共にしているのは、やむを得ない事情があるのでしょう。おそらく、巧妙に脅されているのでしょう」
「ありがとう、アレク。なんか少しほっとしました」
「それは良かった。ユリコ、そういう時は、一人で悩まないで相談してくださいね。一人で考えていると、往々にしてマイナスの方向に思考してしまいますから」
「ええ、そうします」
「それで、ユリコは何の用件だったんですか?」
「あ、忘れてた! 実はですね」
 由利子は、先ほど見たインターネットの掲示板について話した。
「へえ、もうそんな話題になってるんですか。僕はあまりそういう場所は見たくないんですけど、しかたないですね、ちょっと見てみましょう。ジュリー、今ネット見てますか?・・・・そう、じゃ、ちょっと『nちゃんねる』を見てください」
(あ、そうか、ジュリー君が一緒なんだっけ)
由利子がそう思った時、電話の向こうでジュリアスの声がした。
「nちゃん? へー、アレックス、そんなとこ見る趣味があったんだわー。 ま、おれも時々見るけど」
「普段は見ませんよ」
「なんだ、見にゃーのか。面白くにゃあ」
「四の五の言わずにとっとと開けてください。ユリコ、どこ見たらいいのですか?」
「えっと、新型感染症って板があるんですけど・・・」
「そのまんまですねえ・・・。ジュリー、新型感染症ってイタだそうですよ・・・、って、もう開けてる?」
 それを聞いて、由利子は思った。
(こりゃあ、時々じゃなくて、ほぼ毎日見ているクチだな)
「おい、アレックス。こりゃあ、けっこうすごいことになっとるよ。いわゆる祭りってゆーあんばいだて」
 ジュリアスは、そう言いながら、関連スレッドのひとつを開いて画面をスクロールさせた。
「うわ、ユーチューブに、もう晩げの放送がアップされとって、それがしっかり貼られとるよ。それに、あのC川のトルーパーの動画もだわ」
「これは、明日からが思いやられますねえ・・・」
 ギルフォードがため息をつきながら言った。由利子も改めてスレッドを見ながら言った。
「この調子じゃあ、明日の夜あたりには森の内知事のニュース番組出演が決まりそうだなあ・・・」
「予想はしていましたけど、遥かに想定を超えているみたいです」
 と、ギルフォードも困惑した様子で言った。
「だけど、告知に関しては正しいコトだったと思います」
「もちろんですよ」由利子も同意した。「速攻で紅美さんって人が名乗り出たんだし、きっと他にも情報が出てくるでしょう」
「ええ、明日からが本番です。ユリコ、心しておいてくださいね」
「はい。覚悟しています」
 そう言いながら、由利子は気持ちが奮い立つのを感じていた。

 ギルフォードは、その後、明日のことについてしばらくの間、由利子と打ち合わせをした。由利子からの電話が終わってからジュリアスの方を見ると、彼はパソコンの前に突っ伏して眠っていた。よっぽど疲れているのだろう。そういえば、来日してから色々あって彼を休ませてやる暇もなかったな、とギルフォードは思った。
「ジュリー、起きてください。そのまま寝ちゃあダメですよ」
「もーあかん。このまんま寝かせてちょーよ」
「そうは行きませんよ」
 ギルフォードはジュリアスの襟首を掴むと、そのままバスルームへ引っ張っていった。
「た~けっ(馬鹿)、何すんだ~~~」
”風呂に入るんだよ。おまえは今日あの虫を触ったろーが。そのままじゃ一緒に寝てやらねえぞ”
”ちゃんと防護服を着てたし、その後ちゃんと葛西と一緒にシャワー浴びたし、大丈夫だったら~。眠い~。お願い、寝かせてよ~”
”ジュンと一緒にシャワー?”
”うらやましい?”
”妙なことをしてないよな?”
”あたりまえだろー?”
”よろしい。さぁて、隅々まで洗ってやるから覚悟しろよ”
”ひゃあ~”
 情けない悲鳴を上げるジュリアスをバスルームに放り込み、自分も中に入るとドアを閉めた。ザーッと言うシャワーの音。
「このクソた~けっ! 服の上からシャワーかけるヤツがおるかぁ~~~」
 ジュリアスの半ば裏返った声が、バスルームに響いた。

※教団の頭文字は正しくはAですが、日本語の発音に合わせてOと表記しています。

(「第2部 第5章 告知」 終わり)   
第二部:終わり

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