4.衝撃 (1)Pox ~ポックス~

20XX年6月15日(土)

 早朝6時頃、ギルフォードの寝室に携帯電話の着信音が響いた。
「う・・・ん・・・? こんな早い時間に誰かねー?」
ジュリアスはのそっと毛布から手を伸ばして、寝ぼけ眼(まなこ)でベッドサイドに置いてある電話を取った。
「ほい、ジュリアス・キングだがや」
「・・・? ・・・もしもし?」
ジュリアスの声を聞いて、電話の向こうの声は明らかに動揺していた。
”バカヤロ! それは俺の電話だ!”
ギルフォードは飛び起きて彼に背を向けて寝ているジュリアスにのしかかると、電話をひったくった。
「アレックス、重いがね!!」
ジュリアスが抗議したが、ギルフォードは意に介さずその体勢のまま急いで電話に出た。
「驚かせてすみません。ギルフォードです」
「お楽しみのところ、申し訳ないのだが・・・」
「え・・・?」
ギルフォードはギクッとしてジュリアスから飛びのいた。ジュリアスが驚いてふり返り、きょとんとしてギルフォードを見る。
「いや、一度言ってみたかったんだがね、図星だったのかね?」
電話の主は高柳だった。ギルフォードは朝からいきなり脱力感を覚えたが、とりあえず否定した。
「いいえ! 今は眠ってました」
「『今は』?」
「いえ、だから・・・」
「昨日中にやっつけてしまいたい仕事があるって言ったのは、そういうことだったのかね。ほ~お」
「急な来客で予定を変更したんです・・・ってあのね、僕のプライベートなんかどうでもいいでしょう。こんな早朝から何です? 何かあったんでしょ?」
ギルフォードの頭の中には多美山の顔が浮かんでいた。
「そうそう、今、連絡が入ったんだが、新たな感染者らしい男がこちらに搬送されているそうだ。それで、出来たら君にも来てもらいたいんだが・・・」
「感染者である可能性は高いのですか?」
ギルフォードは、多美山のことではなかったのでほっとした反面、新たな感染者発生の可能性に嫌な予感が彼の脳裏をよぎった。
「今朝方急に発熱したらしいんだが、それが、秋山珠江の遺体の第一発見者なんだ」
「タマエの時? じゃあ、一週間以上経っているじゃないですか」
「ああ、10日は経過している。しかし、感染の可能性を考えるのが当然だろう」
「もちろんです。わかりました。すぐに用意してそちらに向かいます」
「お疲れのところ、すまないね。じゃ」
「だから・・・!」
高柳は自分の用を告げるとさっさと電話を切ってしまった。
”食えねぇオヤジだ!”
ギルフォードは電話に向かって言い、ベッドから起きあがった。ふと横を見ると、ジュリアスが「くっくっくっ・・・」と、声を殺して笑っていた。ギルフォードはベッドから降りると、前かがみになってベッドに左手をつき、寝転がったまま笑うジュリアスの鼻面に右手の人差し指をつき付けて言った。
”このばかやろう! てめえが人の電話に出るから,話がややこしいことになったんじゃねぇか!!”
”ごめんよ.君んちに泊まっていたことをすっかり忘れててさ”
ジュリアスは毛布にくるまったまま笑いながら答えた。ギルフォードは立ち上がると腰に手を置き、すこし不機嫌そうに言った。
”昨夜のことを忘れただって?”
ジュリアスはそんなギルフォードを見て一瞬目を見開いたが、すぐにまたクスクス笑いながら答えた。
”しっかり覚えているさ.君は元気だった.おかげでよく眠れたよ”
”じゃあ,今日は1日寝てろ,大馬鹿野郎.俺は今から出かけるからな”
”君、昨日から人のことを馬鹿馬鹿ってさ、あまり馬鹿っていうなよ.体内の水が悪いものになるだろ?”
”1ナノメートルも信じていないことを,ニヤニヤ笑いながら言うんじゃねぇ!! だいたいどこでそんな’トンデモ’話を仕入れてきたんだよ”
”笑われたくないなら,せめてパンツくらいはけよ.目の前にそんなものがあったらさ,笑うしかないだろ? 変わってないなぁ”
ジュリアスは相変わらずクスクス笑いながら言った。ギルフォードは日常的に寝るときは素っ裸なので、そういうことに無頓着なのだが、改めて指摘されると流石に照れくさくなったらしい。少し顔を赤らめながらジュリアスに背を向けてベッドの端に座ると、振り向き様に言った。
”だいたいおまえは・・・”
しかし、彼は言いたいことを言えなかった。ジュリアスがすばやく毛布から這い出して両手でがっしりとギルフォードの顔を掴むと、そのまま彼の口を塞いだからだ。そして約一分経過・・・。ようやく自由になったギルフォードは引き続き何か言おうとしたが、それより先に、ジュリアスがベッドにおかっこ(正座)したような状態でにっこり笑って言った。
”愛しているよ,アレックス”
”お、おまえな・・・”
”ほらね,君は誰彼なく愛しているって言うくせに,自分が言われると戸惑うんだ”
ジュリアスはクスッと笑っていうと、戦意喪失したギルフォードを横目にベッドから飛び降りた。
”僕も行くよ.だって,兄さんから君の手助けをするように頼まれたんだからね”
”クリスから?”
”そうだよ”
ジュリアスはギルフォードの横に座りながら言った。
”近いうちにCDCから協力したいというオファーが来るはずだよ.だけど,クリスが君が心配だから行って様子を見て来いって言うからさ,とりあえず来てみたんだ.一週間の滞在だけどね”
”何だ、一週間か・・・、じゃなくて・・・”
ギルフォードは慌てて言い直した
”もう献体が届いたのか?”
”僕が国を出るときはまだだったけど,問題はその前に君が送ってきたウイルスさ,インフルエンザの”
”やはり,何かおかしかったのか?”
”これはCDC内でもまだ極秘事項らしいけど,ちょっとした騒ぎになっているらしいよ.クリスは,君から日本で出血熱らしい感染症が発生しているらしいと聞いて,なんとなく気になってお蔵入りしていたそのインフルエンザウイルスを調べてみたんだ”
”それで・・・?”
ギルフォードは、やっぱりお蔵入りしていたか、と思いつつ尋ねた。
”で,手始めに,どのウイルスの抗体に反応するか試してみた.そしたらどうなったと思う?”
”インフルエンザじゃなかったのか?”
”いや,間違いなくインフルエンザだった.A型のよくあるタイプさ.ところがもうひとつ,わずかだが別の抗体の反応があったんだ”
”何だって? で、それは?”
”デングウイルスさ”
”あり得ねぇ!!”ギルフォードが驚いて言った。”キマイラだったってのか?”
”多分ね,今解析中らしいけど・・・”
”おまえ,そんな大事なことは昨日のうちに言え!!”
”だってそんな雰囲気じゃなかったじゃん.研究室でだって,パソコンのウイルス騒ぎで大変だったし・・・.とにかく”
と、ジュリアスはギルフォードと自分を交互に見ながら言った。
”いつまでもこんな格好でうだうだしている場合じゃないな”
ジュリアスはニッと笑って続けた。
「ちゃっと服を着て出かけよまい」
”くそっ、調子が狂うぜ!!”
ギルフォードは頭を横にふりながら言った。

 由利子は7時過ぎに目を覚ました。猫たちのご飯クレクレ攻撃にあったからだ。このところ今までより1時間遅い7時起きが定着しつつある。これが8時起きにならないようにしなくっちゃ、と由利子は思った。しかし、起き上がって周囲を見回しため息をついた。昨夜は必要最低限しか片付けられなかったので、まだ部屋の大半は荒れたままだったし、さらに、昨夜は大量の捜査員が部屋に上がったので、いくら彼らが足カバーに手袋などの措置をしているとはいえ、あまり気持ちいいものではない。その上パソコンのリカバリもしなければならないのだ。
「今日は大ごとやね・・・」
由利子はつぶやいた。
「多美山さんに今日もお見舞いに行くって言っちゃったもんなあ・・・。でも」
由利子は昨日あのまま窓際で転寝をしてしまい、3時ごろ起きてざっとシャワーだけ浴びて寝たので、髪を洗いたくて仕方がなかった。
「とりあえず起きて考えようかね、にゃにゃたん春たん。まず、シャワーを浴びて髪を洗って・・・、あ、その前におまえたちのご飯だね」
そう猫達に話しかけると、よいしょと起き上がった。
「やだな。これじゃすっかりおばさんよね」
由利子は苦笑いをした。起きると猫たちもベッドから降りて足元をスリスリし始めた。由利子はその状態でキッチンへ行き、猫たちにご飯を与えた。彼女らがちゃんと食べるのを見届けると、シャワーを浴びようとタオルをもって脱衣カゴに入れながらふと思った。
(そういえば、紗弥さん彼氏が来ているって言ってたなあ。昨日はラブラブかあ。私とはえらい違いやね)
由利子はふうっとため息をついた。由利子は、実はそれがギルフォードの事だったのを知る由もない。タオルを持って来たものの、由利子はやはりその前に日課のジョギングに出ようと思い、用意して玄関に向かったが、ドアの鍵が壊れたままなのを思い出した。これでは物騒でジョギングどころではない。とにかく鍵の修理を呼ばねばどうしようもないということだ。由利子は試しにチェーンを外して玄関のドアを開けてみた。そこにはしっかりと警官が立ってくれていた。しかし、それをすっかり忘れていた由利子は一瞬驚いてしまった。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
見張りの警官が由利子に気がついて敬礼をし、笑顔で言った。
「あ、おはようございます。おかげさまで安心して眠れました。ありがとうございます。あなたは大丈夫なんですか?」
「自分は6時ごろ交代しましたから大丈夫です」
(あ、交代したんだ。だから眠そうにないのね)
由利子は納得したが、このまま警官に立たれるのも申し訳ないし、何となく周囲にも気まずいと思って言った。
「あの、もう起きましたので、見張りは・・・」
「いえ、そうはいきません。少なくとも鍵の修理が終わるまでは、ここから引き上げるわけにはいきませんから」
生真面目そうな若い巡査は、そういうとまた見張りの体勢に戻った。
「はあ、ありがとうございます・・・」
由利子は仕方なくお礼を言うと室内に引っ込んだ。
(これは、さっさと鍵屋さんを呼ばないと、気になってシャワーも浴びれないな)
そう思った由利子は、ネットで鍵屋を検索しようとパソコンの前に立って思い出した。
「ああっ、リカバリしないと使えないんだった~~~~~」
朝から脱力した由利子はその場で座り込んだが、すぐに立ち上がった。
「イエローページで探そう・・・。ああ、不便だなあ・・・。ちくしょ~、結城のクソッタレめぇ、必ずこの私が見つけ出してやるからな!!」
由利子は朝から結城に悪態をつきながら、固定電話の方へ電話帳を取りに行った。

 その頃ギルフォードたちは、ガラス越しに新たな感染者と対面していた。

 結局彼らは8時過ぎて感染症対策センター内にたどり着いた。ジュリアスの立ち入りについての連絡が行き届いておらず、門前でたっぷり30分以上待たされたからである。
「こんなことなら、もうちょこっとゆっくりしてから来りゃえかったがね」
ようやく許可が下りて車が動き出すと、ジュリアスは助手席でブツブツ言った。
「30分もあれば、おみゃあと・・・あいた! 何をするだてか」
「Do you wanna kill me?」
「言うたかて頭を殴るこたぁにゃーがね」
「冗談じゃありませんよ。それでなくても僕は連日寝不足なんですから」
「なんと、つまらにゃあ、日本語にもどったんかね」
ギルフォードは、隣でブツブツいうジュリアスを無視して、センター内に車を走らせた。

「紹介しましょう」
高柳が三郎に言った。今回は高柳も重装備で隔離病室内に入っていた。
「あちらの背の高いほうが、アレクサンダー・ギルフォード、Q大で教授をしていますが、ここの顧問でもあります。それからその隣が、彼の友人でアメリカのH大で講師をされている、ジュリアス・キング先生です。両者とも優秀なウイルス学者ですし、日本語も堪能ですからご安心なさってください」
紹介が終わり二人が会釈をすると、三郎は、ベッドに横たわったまま、力なく挨拶をした。
「先生方、この方は川崎三郎さんです。秋山珠江さんのご近所に住んでおられ、彼女の遺体を発見された方の中のお一人です。当日、一度ここに来てお話を聞かせてもらいましたが、ギルフォード先生はお会いされていないですよね」
「ええ、僕は外せない用があったので来れませんでしたが、内容はお聞きしています。大量の蟲に遭遇されたとか・・・?」
「はい」
三郎は答えた。
「実はその時、そいつに咬まれまして・・・」
「なんですって? 何故それをおっしゃらなかったんですか?」
「すんません、怖かったとです。言うたら二度とここから出られんごと気がして・・・」
「あなたはそれがどんな危険なことかわかっていらっしゃらない!!」
ギルフォードは、静かだが厳しい口調で言った。
「ちょお待ってちょーよ、アレックス。普通の人にそれを責めるのは酷だて」
ジュリアスは、三郎が萎縮するのを見てフォローした。高柳はうんと頷いて言った。
「そうですね。無理からんことです。しかし、川崎さん、あなたの行動が奥さんをはじめ周囲にまで危険が及ぶことまで考えましたか?」
そう言われて三郎はしょげ返ってしまった。
「先生方」
高柳が言った。
「川崎さんが咬まれた患部をお見せしましょう。驚かれないように」
そういいながら、高柳は三郎の足元の毛布をめくって右足を出し、包帯を取ってその問題の場所を見せた。
「うっ!」
ギルフォードは思わず右手で口を覆ってうめいた。ジュリアスは目を見張ってガラス窓に顔を近づけ言った。
「なんと、どえりゃあことになっとりゃーすがね」
”これは・・・”
ギルフォードは英語で言いかけて言葉を飲み込んだが、ジュリアスがその続きを言った。
”まるでスモール・ポックスの発疹じゃないか!!” 
”そうです”と、高柳も英語で答えた。”非常に酷似しています.でも,今までの犠牲者を調べた限りでは痘瘡ウイルスは見つかっていないのです.おそらく川崎さんについても同じでしょう”
高柳の答えを聞いて、二人は顔を見合わせた。英語のわからない三郎は、驚く二人と高柳の顔を不安そうな表情を貼りつかせたまま、交互に見つめていた。

 川崎三郎との対面後、高柳はセンター長室に二人を招き、尋ねた。
「さて、君達はあれを見てどう思うかね?」
「非常に嫌なものを見ました」
ギルフォードが言った。
「何なんですか、あれは!」
「私に聞かれても困るが・・・」高柳は右手でアゴを撫でながら言った。「昨夜運びこまれた遺体にも、よく見たら顔と右手に似たような発疹が出来ていたんだ。まあ、そっちの方はだいぶ蟲に食われていたから、よ~く見ないとわからなかったけどね」
「蟲に・・・」そういうとギルフォードは嫌な顔をして黙り込んだ。嫌悪感がまざまざと現れた表情だった。黙ってしまったギルフォードに代わってジュリアスが聞いた。
「そりゃー、そのムシに咬まれた時特有の症状やってゆーことですか?」
「うむ、少なくとも今まで調べた遺体にはそのような発疹の形跡は無かったですからな」
「気になるのは、そいつがsmallpox(痘瘡=天然痘)の発疹にそっくりとゆーことですが」
「まあ、よく似てはいるが咬まれたあたりに部分的に出来ているだけで、さっき言ったように、今まで調べた結果にも痘瘡の可能性はまったくありませんでしたからね」
「だけどよ、で~ら嫌な感じがするんだがや」
ジュリアスは、腕を組みながら眉を寄せて言った。
「ところで」ジュリアスは続けた。「そのムシってにゃあほんとにローチ(ゴキブリ)だったんですか?」
「昨日、現場の警官が写真に収めたものがあるので、見たければお見せしますが・・・」
「おー、そりゃあ好都合だて見せてくれませんか? でも、アレックスには見せにゃーほうがええでしょう。トラウマに触れたらいけにゃーから」
それを聞いて、高柳は驚くとともに興味を持ったらしく少し身体を乗り出して言った。
「嫌いなことは知っていたんだが、トラウマがあったのか」
「まあ、そーゆーことです。ん~と、アレックスは・・・」
「ジュリー、待ってください!」
ギルフォードは、珍しく鋭い声でジュリアスを止めた。驚いてギルフォードの顔を見るジュリアスの肩をぽんと叩くと彼は言った。
「それは僕から説明します。子どもの頃父に叱られて地下室に閉じ込められた事があるんです。その時にたかられて以来、どうも・・・」
「アレックス、それってウェタの・・・」
ジュリアスは何か言おうとしたが、ギルフォードの顔を見て口をつぐんだ。高柳はその様子を見て、少しだけ眉を上げると言った。
「まあ、そういうことならギルフォード君は無理して見なくてもいいから。じゃあ、キング先生、写真をお見せしましょう」
高柳は応接セットの椅子から立ち上がると自分の机に行き抽斗(ひきだし)からファイルを持って戻ってきた。
「これです。犠牲になったホームレスの遺体写真も入っていますから、閲覧には気をつけてください」
高柳はファイルをジュリアスに手渡しながら言った。
「その心配はにゃーですよ。おれも医者の端くれですから」
ジュリアスはそういうと躊躇なくファイルを開いたが、その瞬間ウッという顔をした。
「こりゃー、でらムゴイ遺体だて。さすがにおでれ~たわ」
しかし、その後は心の準備が出来たせいか、ジュリアスは特に顔色を変えることなくファイルをめくった。
「う~ん、えらい写真ばっかだわ。こんな死に方はしたくにゃーもんだて・・・、おお、これだてね」
ジュリアスはそういうとページをめくる手を止めた。
「アップの写真がありゃーすが、比べるもんがにゃあて、これじゃ~大きさがわからんですね・・・っと、警官がムシを捕獲しようと狙っとる写真がありますね」
ジュリアスは、ファイルに顔を近づけた。
「こりゃ~でらでっけぇわ。4インチ(約10cm)近くはありそうだがね。こりゃ~さすがに気持ち悪ぃわさ。でも写真を見る限り外来の巨大種とは違ゃあみたいだて。なあ、アレックス、こりゃあ・・・」
と言いながら、ジュリアスがファイルから顔を上げてギルフォードの方を見ると、彼は青い顔をして反対側を向いていた。仕方がないのでジュリアスは高柳に向かって言った。
「こりゃ~、なんとしても現物を捕まえにゃあといけにゃあのではにゃーですか? 写真じゃあ病原体について調べようのあ~せんでしょ?」
「キング先生、確かにおっしゃるとおりです。しかし、連中はでかいくせにかなりすばしっこくて、なかなか捕まらんらしいのですよ」
「日本にはええもんがあるじゃにゃ~ですか。ローチホイホイとか言いましたかね」
「あの蟲はかなり大きいので、素通りしてしまう可能性がありますな。それでなくても最近のゴキブリには知恵がついて、なかなか引っかからないんですよ」
高柳からゴキブリという単語が出たので青い顔に一瞬嫌悪感をあらわにしたが、ギルフォードは二人の方を向いて言った。
「ネズミ用の大きいのがあるでしょう。そいつを仕掛けてみるのはどうですか?」
「なるほどね」高柳は言った。「確かにそれなら充分だろう。だが、ネズミ用にゴ・・・失礼、あの蟲が寄って来るかね」
「奴らは感染者の遺体の臭いに反応するんでしょ?」
ギルフォードはさらに顔をしかめながら言った。
「ならば、その臭いをつければいいんですよ。もちろん、臭いの元は人に感染しないように無毒化して」
「それを遺体のあった場所あたりに仕掛けるのか。なるほど、試してみる価値はありそうだな」
高柳はにやっと笑って言った。
「犠牲者のホームレスが発見された河川敷は、広範囲に立ち入り禁止になっとる筈だから、ちょうどいいな」
「おれにその捕獲をやらせてくれにゃあでしょうか」
「君が?」
高柳が聞いた。ジュリアスは自信満々に言った。
「おれも、ウイルスハンターの端くれですから、こういうことには慣れてますから」
「わかりました。知事に掛け合ってみましょう」
高柳は請合った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、助手と護衛を兼ねて葛西刑事にサポートをしてもらえるようお願いてみよう。もう彼はテロ対策本部の仕事をしているんだろ?」
「ええ。まだ正式には移動していなくて籍はK署にあるようですが」
「じゃあ、なおさら適役だな」
葛西と聞いて、ジュリアスが言った。
「葛西さんならまったくの素人じゃないらしいですから、期待できますね。感謝します、センター長!」
ジュリアスは高柳に向かって丁寧に礼を言ったあと、ギルフォードの方を見て言った。
「実を言うとよ、おれ、葛西さんと一緒に仕事をしてみたかったんだてよ」
彼はそう言いながら、軽くウィンクをした。ギルフォードは少し困ったような顔をしたが、そのまま黙っていた。しかし、蟲のことが堪えているのかいつものアルカイックスマイルが浮かばない。それを見ながら高柳がジュリアスに言った。
「彼にとって、あの蟲はよっぽどの弱点のようですな」
高柳は、ギルフォードのさっきの話程度でそこまでトラウマになるのかと疑問に思ったが、深く追求することは避けた。
「まあ、誰でも色々ありゃーすがね」
ジュリアスが、肩をすくめて言った。
「ところで、ローチの話に戻って申し訳にゃーけどな、アレックス」
彼はそのまま質問を続けた。
「念のために聞くがよ、あれはああいうでっきゃぁのが日本におるんかね、それとも普通のローチから生まれたんかね」
ギルフォードは、また眉間にしわを寄せながら言った。
「あのような大きさのGが・・・」
「G? ああ、頭文字かね・・・ってすまんね、話の腰を折ってしもうて」
「・・・。・・・それがこの国に生息しているとは・・・、少なくとも九州本島に昔から生息しているとは思えませんし、ジュリーの言う限りは外来種でもないようです。可能性としては、ウイルスが原因の突然変異・・・」
「ウイルス進化説かね。だがよ、あれはトンデモに近い説やて思ぉとったがね」
「そうですね、自然界では起こりにくいと思います。しかし、このウイルスが人為的に操作されている可能性を考えると、その可能性も捨てきれないでしょう。実際、信じられないサイズのG・・・が存在しているのですから」
「人為的にだって?」
高柳が驚いて聞き返した。
「はい。まだはっきりとは言えないので申し訳ないですが、ジュリーからの情報でその可能性が出てきたのです」
ギルフォードが答えると、高柳は腕組みをしながら言った。
「うむ、ますますSFもどきな話になってきたな」
「不確かなことだて、絶対に口外しないでちょうだゃあよ」
と、ジュリアスが釘を刺した。
「もちろんそうしますがね」高柳は、ジュリアスの方を鋭い目で見ながら言った。「確実なことがわかり次第教えてくださいよ。アメリカの国益優先ってヤツだけは勘弁して欲しいですからな」
「おれもアレックスもそう思ーとるで、心配せんでええですよ」
「ところでこのファイルですが・・・」
ギルフォードが口を挟んだ。
「高柳先生、ひょっとして僕が帰ってから作られたんですか?」
「ああ。夜中に鑑識からメールで写真が送られて来てね。ついでに運ばれた遺体も調べておこうと思って安置室に行ったら、つい興に入ってしまってね。山口君と春野君も手伝ってくれたんだが、遅くなったので彼女らは帰して、僕だけ残ったんだ。そして、気がついたら夜が・・・明けてしまって・・・」
そこで、高柳は大きなあくびをした。
「寝てないことを思い出したら急に眠くなったよ」高柳はテレ笑いをすると続けた。「・・・それで仮眠を取ろうと思ったら、緊急電話が入って感染者が運ばれて来るというだろ。それで急いで君に電話したのさ、ギルフォード君」
「たしか、その前も多美山さんの件で徹夜してますよね? いったいいつ寝ているんです、先生?」
「ああ、空いた時間を見繕って適当に寝てるよ。おかげで半分吸血鬼みたいな生活・・・だ・・・」
高柳は、そこでまたあくびをすると言った。
「そういうことで、私は君らが羨ましいよ。多少はぐっすりと眠れただろうからね」
高柳の皮肉とも冷やかしとも取れる発言に、ギルフォードとジュリアスは顔を見合わせた。

 高柳が仮眠をとりに行ったあと、残された二人は例の自販機の前のソファで、缶コーヒーとペットボトルの紅茶を飲みながら休憩をしていた。
「僕はこれから講義がありますので大学に帰りますが、君はどうしますか、ジュリー?」
「そうだてねえ。ここに残っていてもええんなら、居りてぇんだてが、ええかねー?」
「僕らは日本での資格がありませんから、医療行為をすることは出来ないのは知っていますね」
「わかっとるがね」
「君がみんなの邪魔をしないでいい子にしているのなら」
「了解。ところで、例の篠崎由利子さんだがよ、今日もここに来るんだてか?」
「シノハラですよ。来ると言ってましたが、昨日の今日ですからねえ、どうでしょうか」
「えー、つまらにゃあ。彼女にも是非会いたいんだてが。おりゃ~ね、おみゃーさんが気に入った人にゃあ、みんな会いたいんだなも。」
「まったく、誰から聞いたんですか、そんなこと」
「紗弥からに決まっとるがや」
「まったくもお・・・」
ギルフォードはため息をつきながら、上半身を伏せ、左ひざに左ひじを立て頬杖をついた。
 

 葛西は、ひとり早朝から事件のあったA公園周辺で聞き込みをしていた。ホームレスとウイルスの関連が気になったためである。その甲斐あって、二つのことが浮かび上がってきた。
 ひとつは、葛西が公園について質問すると大抵「あなたも?」という答えが返ってくることだった。聞くと、若い女性から質問されたという。
(誰か、それも、若い女性がこの件に興味を持っている・・・?)
葛西は嫌な予感がした。あの、極美とかいう元グラドルのことが頭をよぎったからだ。あの女はやはり食わせ者だったのか・・・、と葛西は思った。
 もうひとつは、あの公園でホームレスと会社員らしき男が言い争っているのを目撃したという人を見つけたことだ。
 土曜休みでいつもより遅く犬を散歩させているというその男性は、樫本伊佐夫という40歳半ばくらいの会社員で、通勤時にその公園の傍を通っている人だった。以前は公園内を突っ切ったほうが近いので、いつも公園を通って通勤していたらしい。現在封鎖されているので非常に不便だと彼はぼやいた。
「えっと、どんな状況だったんですか?」
葛西が質問すると、彼はえ~っと、と少しの間考えて言った。
「もう何ヶ月か経ちますんで、よく覚えとらんとですが、その日は残業で9時過ぎにあの公園を通ったんです。そしたら公園の中ほどで、女性を連れた会社員風の男がホームレスの男と激しく言い争ってました。・・・いや違う、激しく言ってたのは会社員の方で、ホームレスの方は終始落ち着いて受け答えしてましたね。なんか常識が逆転したような、異様な感じがしたので覚えてます。私は関わろうごとなかったんで、そのままそ知らぬ顔でそこを通り抜けましたが、少し歩いたところでいきなり歓声が上がったので驚いて振り返りました」
「歓声が?」
「はい。振り返ると、連れの女性が男を引っ張るようにして公園を出ようとしていました。言い合いで仲間が勝ったので、歓声が上がったのでしょう。ホームレスたちは、その後二人を盛んにからかっていました」
「何か、特徴ある名前とか単語が出てませんでしたか? 思い出されたら何でもいいので教えてください」
「そうですねえ・・・。う~~~んと・・・・」
葛西に促されて、樫本はしばらく考えていたが、ぽんと手を叩いて言った。
「そうそう、『やすやん、いいぞ!』と、みんな口々に言ってました。それで、ああ、あの落ち着いたホームレスの人は『やすやん』と呼ばれているのか、って」
「やすやん、ですか」
葛西は繰り返した。
(やすやん・・・安やん・・・。多分それは安田さんのことだ!)
彼は確信した。念のため、樫本に結城の写真を見せてみることにした。
「女性連れの男は、この人じゃないですか?」
「うーん、もうちょっとよく見せてください」
樫本は首をかしげながら写真をじっと見て言った。
「何分、夜だったし、街灯があったとはいえ会社員の方は僕から見て逆光だったので、顔はよくわからんかったですもんなあ。この人だったような、違うような・・・」
「そうですか・・・」
葛西は少しがっかりして言った。
「そろそろ行ってもよかでしょうか?」樫本が聞いた。「犬が散歩の続きがしたくて、そわそわし始めとぉとですよ」
見ると、彼の愛犬がお座りをしたり立ったりしながら、熱い眼をして飼い主を見ていた。
「あらら、申し訳ありません。ええっと、良かったら連絡先を教えてほしいのですけれど」
「ああ、いいですよ」
樫本は、快く住所と携帯電話の番号を教えると、犬に引っ張られながら去って行った。
「点が線に繋がったみたいだ」葛西はつぶやいた。
「結城の狙いが何だったかわかったような気がする・・・」
葛西はその場に立ったまま今聞いたことのメモを整理しながら、少しだけ核心に近づいたような手ごたえを感じていた。  

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4.衝撃 (2)交錯する想い

 せっかくの土曜だが朝から薄曇で、時折日差しは射しているが天気予報では午後からは雨だった。窪田はレンタカーの助手席に部下の歌恋を乗せて、高速道路を走っていた。道は若干混んでいるが、渋滞はしていない。この分では予定通りにY温泉に着くだろう。そう思った時、隣の歌恋が言った。
「課長、何でこんな天気なのにサングラスをかけているんですかぁ?」
「ああ、これ?」
窪田は言った。
「え~~っと、これは・・・。そうそう、変装!」
「やぁだ、課長ったら、目的地は県外だしこれは私が借りたレンタカーですよ。そんなに気を使うことないのにぃ」
歌恋は少し笑って言った。
 実は窪田は昨夜から微熱があり、軽い頭痛もしていた。頭痛薬でそれはなんとか収まったがそのせいか、ちょっとした光がまぶしくて時折眼の奥に痛みすら覚えるほどだった。それで、濃い目のサングラスをかけてみたら、なんとかそれが解消されしかも、意外と渋くてダンディに見えた。窪田は鏡の前でニッと笑うと、サングラスを旅行アイテムのひとつに決めた。その様子を横目で見ながら、妻は聞こえよがしに独り言を言った。
「接待ゴルフなのにそんなにお粧し(おめかし)して、キャディさんに美人でも居るのかしら?」
窪田は聞こえないふりをしながらひたすら準備にいそしんだ。
 朝のことを思い出しながら、窪田はちょっと苦々しい気分になったが、それより歌恋になんとなく元気がないことが気になった。
「そんなことよりもねえ、笹川君、なんかいつもの元気がないけど、具合でも悪いんじゃないの?」
「え? あ・・・、ううん、全然! そんなことないですから。きっとお天気のせいですよ。晴れなくて残念でしたね」
「もうすぐ梅雨だからねえ。まあ、雨の温泉街もひなびた感じがしていいと思うよ。でも、こんな天気ならK温泉のほうが風情があったかな?」
「Y温泉の方がお洒落でいいですよぉ」
歌恋が言った。
「課長はやっぱりK温泉の方が良かったですか?」
「僕はどっちでも良かったから。両方とも行った事あるしね。それより、今日は『課長』はやめてくれないかなあ?」
「あ、そうでしたね、栄太郎さん。じゃあ、私も笹川君じゃなくて『歌恋』って呼んでほしいな」
「ああ、そうだったね」
二人はお互いをチラと見て笑った。二人を乗せた車は、高速道路を順調に進んだ。楽しい旅行になる筈だった。
 

 ギルフォードが研究室に戻ると、如月が待っていた。
「キサラギ君、おはようございます。昨日は午後からスミマセンでしたね」
「あ、先生、おはようございます。あのですね、実は昨日、友人から・・・正確には友人の友人なんやけど、彼から聞いたんですがちょっと気になることがあったんでお伝えしておこうと思うて・・・」
「おや、昨日は聞きたいことで、今日は伝えたいことですか」
「聞きたいことの方はおかげさまで解決しました。今日の話は、先生が関わっておられる事件に関わりがありそうやと思うたんです。で、その友人の友人の妹の友だちが・・・」
「なんか都市伝説の始まりみたいですね」
「はあ、実際そんな風にも取れるんですが・・・、急死したそうなんですが、それが・・・」
「急死? なんか嫌な感じがしますね。ちょっとこっちに来て詳しい話を聞かせてください」
ギルフォードは如月を教授室に招いた。教授室では紗弥が今日の講義のための資料をせっせと作っていたが、ギルフォードに気がつくと言った。
「おはようございます。・・・あら、ジュリアスは?」
「センターに残りたいというので置いて来ました。まあ、何かの役には立つでしょうからね。スミマセンが如月君からお話を聞きたいので、ちょっと待ってくださいね」
「ええ、ごゆっくり」
紗弥はそういうと、作業を続けた。
 
「え? 血を吐いて死んだ?」
ギルフォードは、如月の話を聞いて驚いて聞き返した。
「そうらしいです。高熱を我慢してたらしくて、倒れて病院に搬送されたときには、すでに多臓器不全をおこしていて、手がつけられない状態だったそうです」
「多臓器不全・・・、ですか。この事件の犠牲者の多くと同じ症状ですね。で、解剖結果は?」
「それが、両親が宗教上の理由とかで解剖を拒んで、遺体を強引につれて帰って・・・、結局死因不明ということらしいんです」
「なんですって?」
「しかも、病院でも殆どの治療や検査を拒んで、ろくに娘の身体を触らせようともしなかったらしいんです」
「なんて馬鹿なことを!! その後、その家族からは死者は?」
「ええ、なんでもおじいさんが倒れて、やはり同じような症状で・・・。ただ、これも・・・」
「宗教上の理由ですか・・・」
「はい。よくある心霊治療系の宗教らしくて、おじいさんの場合は病院にも行かず自宅で治療を行っていたそうです。友人の友人の妹の友だち・・・ややこしいですね、そうそう、確か杏奈て言うたと思いますが、彼女が病気を我慢していたのも、それが嫌で両親に言えなかったらしくて、幸か不幸か路上で倒れたので救急車で病院に搬送出来たということですワ」
「ひどい話です」
「ただ、今のところおじいさんで連鎖は止まっているようですが。ところがですよ、今朝また彼から電話があって、もっと気になることを言ってきたんです」
「気になること?」
「ええ、その杏奈ちゃん、先週列車事故の現場に遭遇していたらしいんですよ」
「ひょっとして、マサユキ君の?」
「多分そうです」
「なんですって!?」
ギルフォードは立ち上がって言った。
「恐れていたことが起こってしまったようです。キサラギ君、貴重な情報をありがとう。でも、例によってまだ口外しないでくださいね」
「もちろんですワ。色々理由があるんはわかっとるつもりやし」
「本当は隠すべきではないのですけど・・・。とにかく、急いでタカヤナギ先生に連絡して対処をお願いしますから・・・」
「高柳先生に?」
「はい。彼から各方面に連絡が行きますから。その家の住所とかわかりますか?」
「急いで電話して聞いてみますさかい、ちょっと待っとってください」
如月は、すぐに友人に電話をかけ始めた。それを見ながら、ギルフォードの心に不安が広がって行った。
(”この分じゃ、表立っていない犠牲者がもっと居るかもしれないぞ”)
もはやこれは隠している段階ではない。ギルフォードは、今までゆっくりと動いてた時計の針が、徐々にスピードを上げて進み始めたように感じていた。

 由利子は部屋の片付けを途中で諦め、パソコンのリカバリに取り掛かった。どうもパソコンが使えないと不便を感じて仕方がないからだ。10年ほど前なら無くても一向に困らなかったのになあ、と、由利子は時代の流れを痛感していた。
 それでも、それなりに部屋は片付いていた。壊されたものは全部廃棄するため分別してゴミ袋に入れ、倒された家具を定位置に戻した。散乱した小物を集め、汚れを落としてとりあえず一まとめにした。粗方だが掃除機もかけた。後はまとめている小物を分類して定位置或いは新たな置き場に配置し、仕上げの掃除機をかけるのみだ。ついでに少し模様替えもしたかった。験直しの意味も含めて気分転換にもなるだろう。
 玄関の鍵は、朝一番に修理屋を呼んで厳重なものをつけてもらった。それでもドアごと壊された場合意味を成さないだろうが。後は防犯グッズをそろえるくらいしかないだろう。
「念のため、しばらくの間この辺りは私達が巡回しますから。でも、くれぐれも気をつけて、人気のないところには近づかないようにしてください」
鍵の修理が終わり、玄関警備をしていた警官はそういうと敬礼をして去っていった。由利子はお礼を言いながら、美葉の件を考えていまいち不安に思ったが、部屋に閉じこもってばかりもいられない。多美山にも今日行くと言ってある。
「でも、行けるかなあ・・・」
由利子はつぶやいた。OSの再インストール自体はそう時間のかかるものではなく、実際すでに終わらせていた。しかし、設定をしなおしたりソフトを入れ直したりと、元に近い状態に戻すまでが大仕事なのだ。特に由利子のパソコンは型も古く、従ってOSもそれなりに古いのでメール設定も若干面倒くさい。
「やっぱ新品に買い替えたほうがいいっちゃろか?」
しかし、これから先どうなるかわからないし、ギルフォードのバイトだって大した時給はないだろうから、無駄遣いはしたくないというのが本音だった。
 メール設定が終わったところで、電話が入った。ギルフォードからだった。

 葛西は、今朝から聞き込んだ情報をまとめるためと遅い朝食をとるために、駅の近くにある喫茶店に入っていた。
 朝早く寮を出たため、空腹感は限界に来ていた。なんとかモーニングのオーダー時間に間に合った葛西は、まず運ばれてきたコーヒーを飲みながら、ノートを開いた。
 メモを整理しながら彼は妙なことに気がついた。公園周辺の住民数人からの証言に、事実誤認と思われるものがあったのだ。それはあのホームレス集団死事件の翌朝、公園で大勢の防護服の警官を見たというものだった。話を聞いている時は不思議に思わなかったが、考えてみたらあの時はまだ、それが未知のウイルスによるものだとはわかっていなかったはずだ。それで、警官も救急救命士も平常の装備で対応したのだ。そのため、救命を焦った古賀隊員が安田さんにマスク無しで地かに人口呼吸を施して、感染、死亡したと考えられているのだ。だからこそ、彼らの感染追跡調査が今も行われているのである。
(どういうことだ?)
葛西は思った。
(美千代の事件の時と話が混ざって噂になっているんだろうか。まさか、誰かが意図的に流した噂じゃないだろうな・・・)
しかし、そんな噂を吹聴したところで何のメリットがあるのか、ということを考えると特に無いように思われた。やはり、これは記憶違いの可能性が高いな、と葛西は結論した。
 だが、他にも噂や憶測、あるいは完全なデマと思われる証言がけっこうあった。
 その最たるものが、現場の調査に当たった警官がばたばた死んでいるが、警察はその事実を隠している、と言うものだった。しかもそれは、大勢の警官が死んだこと以外は完全に否定できないことだった。ギルフォードは当初から発表すべきと主張していたが、当局の方がどう対処すべきか頭を悩ませた結果のことで、悪意は全く無いのだが、多くの事実を伝えていないことは間違いないのだから。
 あとは、頭のおかしい科学者(証言者はもっと直接的な言い方をしていたが)が人体実験のためにやったとか、公園の池から有毒ガスが流れたとか、日本軍の細菌兵器が見つかったからだとか、医療廃棄物である放射性物質が公園内に捨てられていたとか、流石に宇宙人犯行説には失笑を禁じるのが大変だったが、そういう類の噂まで流れていた。いずれにしても、「複数の遺体―防護服の警官」という連想から成り立っているような内容である。
 だが、ホームレス集団死事件からは、まだたったの2週間しか経っていないのだ。それでこれだけの様々な噂や憶測が広範囲に飛び交っているのだ。昨日の河川敷の事件からも、また噂が広まっていくのは時間の問題だった。それは真偽を取り混ぜ、最終的には皆が納得するような形で『真実』として定着するかもしれない。そんな時、もし一気に感染が拡大したら・・・。葛西はゾッとした。現場の警官として、葛西は告知のリミットが目の前に迫っているのと感じ取っていた。
 今までの調査でわかったことは、大まかに分けると3っつに分類された。ひとつ目は、犠牲者の一人である安田さんと言い争っていた男がいたということ。二つ目は、この事件を調査しているらしい若い女性がいること。しかもかなりの美人らしい。三つ目は、この事件は予想以上に市民が関心を持っており、すでに様々な憶測や噂が飛び交っているということ。
 葛西は、モーニングのトーストを齧りながら、調書のまとめをざっと読んでみた。やはり、これは昨日の件が今どう広がりつつあるか調査してみるべきだと思った。葛西は食事後、昨日の河川敷の辺りで情報収集を行ってみることを決めた。証言の整理がほぼ終わったところで葛西はサラダを突っつき、最後に、取っておいたゆで卵に手を伸ばした。
 その時、葛西の携帯電話に着信が入った。鈴木係長からだった。葛西は電話を掴むと、急いで客の少なそうな手洗いの方に急いだ。 

 ギルフォードから由利子へ、また、鈴木から葛西へとそれぞれかかった電話の内容は、同じく多美山の急変を伝えるものだった。

 ギルフォードは、高柳に沢村杏奈の変死について連絡したあと、急いで講義の資料の整理をしていた。幸い紗弥が手際よくまとめてくれていたので、なんとか時間には間に合いそうだった。ギルフォードはニコニコ笑いながら紗弥に言った。
「サヤさんは本当に頼りになりますねえ」
「褒めても何も出しませんわよ」
紗弥はいつものポーカーフェイスで言った。
「ジュリーのこと、ありがとう。彼とはずっと連絡を取っていてくれたんですね」
「ずっと、ではありませんわ。半年前くらいからかしら? 言ってしまえば彼の執念が教授の居場所を突き止めた、と言うことです」
「ジュリーが?」
「ええ。でも、教授と直接連絡を取るのが怖いといって、私の方にコンタクトを取って来たのですわ」 
「そうだったんですか・・・」
「教授、科学者が思い込みで人を遠ざけるなんて変ですわ。新一さんの事とジュリアスの事故の事は偶然です。頭ではわかっておられるのでしょう?」
「偶然も、三度続けば臆病になってしまうんですよ。特に最あ・・・」
ギルフォードが言いかけた時、彼の携帯電話に着信が入った。
「噂をすれば、ジュリーからですよ」
そう言いながら電話に出たギルフォードの耳に飛び込んできたのは、ジュリアスの緊迫した声だった。
”アレックス,大変だ.多美山さんの容態が急変した! 今度はかなりヤバイらしい”
”なんだって!?”
ギルフォードは思わず椅子から立ち上がった。
”まだなんとか意識があるけど,すぐ来たほうがいい.来れそうか?”
”ダメだ.今から講義があるんだ.学生達が待っている.すっぽかすわけには行かない.終わったらすぐに行くから,俺の代わりにそこで出来ることをやっていてくれないか”
”って,いいのかよ,アレックス? おい・・・”
ジュリアスは何か言いかけたが、ギルフォードは無視してそのまま電話を切った。
「タミヤマさんが急変されたそうです」
「まあ、急いで行かなくてよろしいのですか?」
「タミヤマさんは、仕事に厳しい方です。講義をすっぽかして行ったりしたら、それこそ怒られてしまいます。さあ、そろそろ講義室に行きましょうか。その前に僕は、ユリコに電話して伝えておきますから、サヤさんは先に行っておいて下さい」
「承知しました」
紗弥は、資料を持って研究室を出た。ギルフォードはそれを確認すると、力が抜けたように椅子に座り机に寄りかかった。その後、組んだ両手を額にあて、一瞬何かに祈るようなしぐさをしたが、すぐに由利子に電話をかけるべく、電話を取り出した。

「多美山さんが? うそっ!!」
電話からは由利子の予想通りの声が返ってきた。
「僕もウソと思いたいのですが・・・。さっきジュリーから電話があったのです」
「ジュリーさんから?」
「ええ、僕が大学に戻らねばならないので、僕の代わりに感対センターに居てもらいました。ユリコ、君も昨日のことがあって、外出はどうかと思ったのですが、やはり報せないわけには行きませんので・・・」
「いえ、教えてくれてありがとう、アレク。知らなかったらきっとものすごぉく後悔しました」
「ですが・・・」
「今から行きます」
「え?」
「絶対に行きますから!」
「大丈夫なのですか?」
ギルフォードの心配を他所に、由利子はきっぱりと言った。
「まさか、昼間から私を襲うようなことはないと思うし、鍵は頑丈なものに変えました。それにこのマンション付近は警察の方たちが巡回して警備してくださっています。だから、部屋の方も昨日のようなことにはならないと思いますから、大丈夫です」
「わかりました。くれぐれも気をつけて行ってください。僕は今から講義がありますから、多分急いでも12時半前後になるでしょうけど、必ず行きますから」
「わかりました。私もいまやっているインストールが終わり次第、出かけます」
「では、センターでお会いしましょう」
ギルフォードはそう言うと、すぐに電話を切り、紗弥が残していった資料を片手で抱えると、急いで研究室を出て行った。
 電話が切れた後も、由利子は携帯電話を持ったまま数秒間呆然としていた。昨日会った時、多美山は熱が若干あるとはいえまだまだ元気そうだった。会話も弾み、むしろ楽しいひと時が過ごせたくらいだった。ところが、由利子の見ている前でどんどん病状が悪化して行き、一時は危篤状態にまで陥ってしまった。幸い治療が効いたのか、何とか多美山は危機を脱し、駆けつけてきた息子とゆっくりとなら会話出来るくらいに持ち直していた。ひょっとしたら、ひょっとしたら・・・と、わずかな希望を持ち、由利子は奇跡を祈っていた。しかし、まさか、こんな早くに運命の時が訪れようとは・・・。由利子は多美山の顔を思い浮かべた。自然と口から言葉が漏れる。
「いや、もう一度奇跡を信じよう。まだ亡くなられた訳じゃない!!」
由利子は、立ち上がると急いで出かける準備を始めた。

 葛西はお手洗いのドアの前まで走ると、人影が少ないことを確認して電話を取った。
「すみません、出るのが遅くなりました。葛西です」
「今どこだ? 改めて公園周辺を調査するとかいうメールを早朝から送って来て、一人で出かけるものだから、心配したぞ。電話くらいかけたまえ」
「すみませんでした。朝早かったもので。それで、理由はそれに書いてあるように・・・」
「ああ、わかっている。実は私も多美山主任もそれが気になっていたんだ。美千代の事件が無ければ、多美山主任は君と、今週半ばにでもそれについての調査をするつもりだったんだ」
「そうだったんですか・・・」
「その多美山主任の件だが・・・」
鈴木は改まって言った。その口調に葛西は嫌な予感を覚えた。
「容態が急に悪化したとの知らせが、たった今入ったんだ。葛西君、とりあえず今日のところはそれを切り上げて、急いで多美山さんのところに行っていいから」
「いえ、行きません」
葛西はキッパリと答えた。
「葛西君?」
「これが多美さんと僕の仕事ならば尚更です。僕は、引き続き聞き込みを続けます。多美さんの分も僕が・・・」
そういうと、葛西は自分から電話を切った。その後、電源も落としてしまった。携帯電話をポケットにしまうと、メガネを少し上げて、袖口で目の辺りを軽く拭き、葛西は自分が座っていた席に戻った。しかし、彼はもう席には着かず、テーブルに散らばしたものを片付けると、すぐに伝票を持ってレジに向かった。

 由利子は12時前になんとか感対センターに着いた。昨日許可証をもらっていたので、今日はすんなりとセンター内に入ることが出来た。
 スタッフ・ステーションの中に入ると、スタッフの数が昨日よりずいぶん増えており、雰囲気もかなり慌しいものになっていた。昨日から隔離患者が増えたことと、多美山の病状悪化が重なったためだろう。現場の雰囲気から自分の場違いさを感じ、気後れする。とりあえず由利子は入り口で挨拶をし、尋ねた。
「こんにちは。あの、ギルフォード先生から連絡を受けて来たのですけれど・・・」
「あ、篠原さん、こんにちは」
春野看護士が由利子に気がついてくれた。彼女は由利子に近づくと言った。
「昨日は大変だったそうですね。大丈夫でした?」
「ええ、私自体はぜんぜん大丈夫です。それより多美山さんが・・・」
「そうなんです。今日は早朝にまた新しい患者さんが担ぎこまれて・・・。でも多美山さんはその頃はまだ落ち着いていらしたんです。でも、8時過ぎた頃からまた熱が上がり始めて・・・。とにかく行ってあげてください。まだ意識はしっかりとしてありますから」
春野はそう言い残すと、仕事に戻って行った。
「ありがとうございます」
由利子は春野の背に向けてお礼を言うと、多美山の病室の窓に向かった。窓は昨夜からはもう「開いた」ままになっていた。窓の前には先客が居た。もちろん由利子はそれに気がついていたが、声をかけるのにちょっと躊躇した。
(ひょっとして、この人がジュリーさん?)
紗弥さんの彼氏と聞いていたが、ギルフォードのイメージがあったのでてっきり白人と思っていたが、ひょっとして・・・。
 由利子の気配を感じて、男が振り返った。長身で痩せ気味だが筋肉質の彼は、黒い肌をしていた。男は由利子を見ると、白い歯を見せて笑った。黒い肌に白い歯と綺麗な目が際立っていた。
「由利子さんですね」
彼は流暢な日本語で言った。
「はじめまして、ジュリアス・キングです」
「あ・・・、こちらこそはじめまして。篠原由利子です」
「お噂は聞いています。どうぞ、こちらに来て多美山さんに会ってあげてください」
「はい、すみませんっ」
由利子は恐縮しながら窓に近寄った。病室を見た由利子は息を呑んだ。言葉が出なかった。装備された機材こそ昨日とあまり変化がなかったものの、そこには別人のように憔悴しきった多美山が、ベッドに埋まるように寝ていた。酸素マスクが昨日より大きくなったように感じられた。
 横にはいつもの三原医師と園山看護士に加えて、息子の幸雄が防護服に身を包んで多美山の横に座っていた。彼自身が望んだということだった。三人は由利子を見ると軽く会釈をした。由利子も会釈を返す。多美山は、その気配で由利子に気がついて目を開き彼女を見た。その目を見て由利子はぎょっとした。赤かった。充血と言うにはあまりにも赤い目をしていた。
「篠原さん・・・、でしょう? ・・・来て・・・くれたと ですか・・・?」
「ええ。昨日約束したでしょ?」
由利子は微笑んで言った。
「ありがとう・・・」
多美山は力ない笑みを浮かべて言うと、また目を閉じた。相当きついのだろう。ジュリアスが由利子に言った。
「多美山さんは、人工呼吸器の装着を拒まれました。お孫さんに会った時、お話が出来ない、と言って・・・」
「そうですか。そういえば・・・、延命治療も拒まれておられましたから・・・」
「辛いですね」
「――ええ・・・」
二人はそのまま黙って病室内を見つめていた。内心由利子は何を話していいかと困っていた。この状態で、ジュリアスのことを根掘り葉掘り聞くのも不謹慎に思われた。そんな中、ジュリアスの方が先に口と開いた。
「僕は・・・、あの、すみません、話し難いので名古屋弁でいいですか?」
「え? はい、どうぞ」
「アレックスの古くからの友人だなも。由利子さんには本当にお会いしたかったんだわー」
「え? そうなんですか? 光栄です」
由利子は、何となく可笑しくなって笑顔で答えた。
「あ、ちゃんと笑ってくれてまったね。黒人の名古屋弁って変かね?」
「ちょっと変かも・・・。って、ごめんなさい、偏見ですね。でも、ほんわかねっとりな感じでいいです。私、好きですよ、キングさんの名古屋弁」
「ほんわかねっとり・・・。面白い表現だて。僕のことはジュリーって呼んでちょーね」
「じゃあ、私は由利子って呼び捨てでいいですよ」
「了解だて」
二人の会話は自然になり始めたが、ひとりの女性がステーション内に入って来たのに気がついて、二人とも驚いて振り向いた。女性はツカツカと窓の近くまで来ると言った。
「お義父さん・・・!」
「おまえ! やっと来たか」
幸雄が言った。
「梢(こずえ)さん・・・」多美山が言った。「よく来てくれて・・・。ありがとう」
「お義父さん・・・、何てことになって・・・」
それ以上言葉が続かない。梢は両手で顔を半分覆い、黙り込んだ。幸雄は娘の姿が無いのに気がついて言った。
「桜子は?」
「あなた? そんなところに居たのね。桜は連れて来たけど外で母に見てもらっているわ。ごめんなさい、お義父さん。ここには病気が怖くて連れてなんかこれないもの」
多美山はそれを聞いて、目を瞑った。明らかに落胆している。
「梢、病室にまで連れて来いって言うわけじゃない。そこで会って話すだけだよ。そこは安全なんだ。みんな、軽装で居るだろ?」
「万が一ってことがあるじゃない。だめよ。だから、お義父さん、孫が可愛いなら悪く思わないで」
「梢っ!!」
梢はそう言ってのけると、幸雄の呼ぶ声も無視して病室に背を向け、さっさとステーションから出て行ってしまった。
「私、後を追って説得してきます!」
由利子はそういい残すと、その場から駆け出した。
「おれも行きます」
ジュリアスもすぐにその後を追った。
「由利子! おれも行くがね」
二人は並んで早足で歩き、梢の後を追った。
「ひっどいよね。あれじゃ多美山さんがかわいそうだ」
「感染症に対する一般の認識なんて、あんなもんだて」
ジュリアスはしかつめらしい顔で言った。
「まあ、おれだって、怖い時は相当怖いと思うくらいだからよー」
梢の後を追って、二人は感染症センターの見舞い客用待合室に着いた。あまり広くは無いが、清潔で明るい雰囲気の待合室にはまだ殆ど利用者はおらず、窓際のソファに初老の上品そうな女性が、6歳くらいの女の子をつれて座っていた。なぜかその前に大柄な男が、女の子と話しやすい高さになるくらいに跪いて、親しげに話している。梢は男を見て一瞬首を傾げたが、迷わずそちらの方に歩いて行った。すかさず、由利子は梢に声をかけた。
「あの、多美山梢さん・・・でしたね」
梢は振り向くと、不機嫌そうに言った。
「何か用?」
「あの、多美山さんに・・・」
「娘を会わせるのなら、お断りよ!」
梢は鋭い声で言った。
「そんな、頭っから・・・。ここはそういう感染症用に作られた病院です。絶対に感染ったりしないから・・・」
「そうだなも。最後になるかも知れんのだて、なんとか会わせてやってくれんかねー」
「勝手なことを言わないでよ! ・・・そりゃあ、私だって会わせてあげたいですよ。だけど、危険な病気なんでしょ? 感染ったら、あんな風になって死んじゃうんでしょ? それに、あんな状態のおじいちゃんを見せたら、桜のトラウマになっちゃうかもしれないじゃない!!」
「何をもめているんですか?」
窓際のソファの辺りから、聞き覚えのある男の声がした。男は、女の子を肩車しながら近づいてきた。後ろから初老の女性が心配そうについてくる。
「アレックス!」
「アレク、どうしてこんなトコに?」
「ああ、バイクで来たんですが、こっちから入った方が早かったもんで・・・」
ギルフォードは、例によってにっこりと笑いながら言った。

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4.衝撃 (3)桜子とギルフォード

 葛西は、昨日ホームレスの遺体が見つかった場所の近くで聞き込み調査をする前に現場に寄ってみることにした。もちろん、現場付近は広範囲にわたって立ち入り禁止のテープが張られており、警官たちが侵入者のないよう警備していた。彼らは葛西の姿を見ると、さっと敬礼した。葛西も敬礼を返してから尋ねた。
「何か変わりはありましたか?」
「いえ、何人かが何が起きたのか聞いてきましたが、後は特に・・・」
警官たちの答えはだいたいこういった感じだった。
「で、なんて答えてるんですか?」
「ああ、事実のとおり答えてます。身元不明の遺体が見つかったからだと」
「そうですか」
「葛西刑事」
少し離れたところに居た警官が、葛西の傍に近寄って来て言った。
「自分らもまだ詳しい話は聞いていないのですが、これも今問題の事件と関わりがあるんですか?」
「ええ、多分・・・」
葛西は言葉尻を濁しつつ答えた。そんな中、葛西は橋の上で写真を撮っている女の姿を見つけた。遠くで顔はよくわからないが、あの極美という女に似ているように思えた。葛西は急いで女の方に向かって走ったが、女は近くに止まっていた車に乗って姿を消した。
「くっそぉおおお~!」
葛西は走るのを止めて毒ついた。いくら葛西が元中距離ランナーでも車には敵わない。取り合えず、葛西は橋の上まで歩き、女のいた辺りにたって周囲を見回した。
「こんな、うっぽんぽんの地形じゃあ、なにもかも丸見えじゃないか・・・」
葛西はぼやくと、欄干に寄りかかり広いC川の川面を眺めた。

「ああ、びっくりした」
極美は助手席でシートベルトを締めながら言った。運転席の降屋裕己(ふるやひろき)が、不審そうな表情で尋ねた。
「どうしたの?」
「あ、堤防の上で警官と話していた刑事らしい人が、私を見つけて追いかけてこようとしたの。きっと、公園に居た連中の一人だわ。ほかに私のことを知っている人なんかいないもの」
「そうか、やっぱり」
「昨日ここの河川敷にも大勢の防護服が居たらしいという、あなたの情報は、多分間違いないようね」
「そのようだね」
「で、あなたの情報源って一体何?」
「そりゃあ、例の公安の友人と・・・」
「それだけじゃないでしょ?」
「あ、わかった? でも、今はまだ秘密だよ」
「あん、いじわる!」
「その機会が来たらきっと話してあげる」
降屋は極美に向かって意味深な笑みを浮かべて言った。

 講義を終えて駆けつけたギルフォードが、待合室の方からセンター内に入ると、小さい女の子の話し声が聞こえた。その方を見ると、待合室のソファに女の子と初老の女性が座っていた。ギルフォードはそれが多美山の孫だと判断した。おそらく女性の方は、年齢からして祖母なのだろう。多美山の妻は早くに病死しているから、おそらく母方の祖母であろう。女の子は、祖父である多美山について、何度も祖母に質問しているのだが、祖母の方は孫の質問に「そうねえ・・・」と言葉を濁すばかりであった。
「キュウシュウのおじいちゃんに あいにきたんでしょう? おじいちゃん、びょうきなの?」
「そうねえ・・・、でも、おばあちゃんもよくわからないの・・・」
「はやく、あいに いこ!」
「そうねえ・・・」
「びょうきなんでしょ? はやく おみまいにいこぉ」
「そうねぇ・・・、でもママが帰るまでちょっとまってちょうだいねえ」
と、堂々巡りである。なんとなく状況を把握したギルフォードは、彼女らに近づいて行った。
 案の定、でかい白人の男が近づいて来たので、二人は警戒して黙ってしまった。ギルフォードは彼女らの警戒心を解こうと、とびっきりの笑顔を浮かべて言った。
「こんにちは。タミヤマさんのお身内の方ですか? 僕はギルフォードと言って、タミヤマさんにはお世話になっています」
ギルフォードの努力にもかかわらず、女の子は見知らぬ大きな外国人に話しかけられ、驚いて祖母の陰に隠れた。
(”まあ、泣き出されない分上等だな”)
ギルフォードがそう思っていると、祖母がおずおずと質問をしてきた。
「あの、どういったお知り合いで?」
(”俺の出自が判るまで信用してもらえないって感じだな。まあ、無理ないか”)
ギルフォードはそう思いながら、引き続き笑顔で答えた。
「はい、今、多美山さんが関わっておられる事件の関係で知り合いました。あ、申し遅れましたが僕はこういう者です」
そう言いつつ彼女に名刺を渡す。
「はあ、Q大の教授先生でいらっしゃいますか」
目の前の外国人が怪しいものではないということがわかって、女性の態度にすこし軟化が見られた。
「失礼いたしました。私は多美山の嫁の母で谷楓と申します。多美山がお世話になっております」
「カエデさんとおっしゃるのですか。あなたにお似合いの、日本的で美しいお名前ですね」
ギルフォードは、にっこりと笑いながら歯の浮くようなセリフを臆面もなく言ってのけた。この一言で楓の態度が急に好意的になったのは言うまでもない。
「いえ、古風なだけですから」
楓は少しはにかみながら言った。すかさずギルフォードは楓に尋ねた。
「可愛い女の子ですね。お孫さん・・・、ですよね」
「ええ、そうですけど」
「あの、スゴクぶしつけでスミマセンが、お孫さんと少しお話していいですか?」
「ええ、どうぞ」
楓は快諾した。ギルフォードは女の子の方を向くと、目線が合うようにしゃがみながら言った。
「こんにちは。僕は、アレクサンダー・ギルフォードです。君のお名前は?」
女の子は戸惑って楓の方を見た。楓は笑いながら言った。
「いいのよ。先生にお名前を教えてあげなさい」
祖母の許しを得て、女の子は安心して言った。
「さ~ちゃんは、たみやま さくらこ、です」
「サクラコちゃん? いいお名前ですね」
「おじいちゃんがつけてくれたの」
「おじいちゃんが? へ~え、そうなんだ。さ~ちゃんはおじいちゃんが好きですか?」
「はいっ。だいすきです」
「どこが好き?」
「えっとね。つよいけどやさしいのと、とりさんみたいだから」
「鳥さん?」
ギルフォードは、少し驚いて聞き返した。あの多美山からはとてもイメージ出来ない例えだったからだ。
「方言ですよ」楓がフォローした。「九州の方って、よく『とっとぉと(取っているの)』っておっしゃるでしょ? それが鳥みたいだって、この子ったら・・・」
「ああ、そうですか。そう言えば鳥っぽいですねえ」
ギルフォードはそう言いながら微笑んだが、急に真面目な表情になって桜子に言った。
「さ~ちゃんは、おじいちゃんに会いたいんですよね?」
「うんっ!」
桜子は即答した。
「こら、『うん』じゃなくて、『はい』でしょ?」
祖母に注意されて桜子は小さく「はい」と言い直した。それを見てギルフォードは少し微笑みながら言った。
「おじいちゃんが病気なのは知ってますね」
「はい。だって、ここびょういんだもん」
桜子は口を尖らせて言った。
「そうでしたね」ギルフォードはくすっと笑って続けた。
「いいですか、よく聞いてください。おじいちゃんは重い病気に罹っています。そしてそれは感染る病気です」
「あなた、子どもにそんなこと言っても・・・」
「いえ、問題ありません」
楓が口を出したが、ギルフォードは反論し、続けて聞いた。
「感染るってわかりますか、さ~ちゃん?」
「おカゼみたいに?」
「そうです。でも、もっともっとアブナイ病気です。だから、お見舞いに行ってもさ~ちゃんは直接おじいちゃんに会うことが出来ません」
「あえないの?」
桜子は悲しそうな顔して言った。
「会えますよ。ただ、違うお部屋からおじいちゃんとお話することしか出来ません。抱っこもキスもしてもらえませんし、出来ません」
「さ~ちゃんもおじいちゃんもキスはしないよ。おじちゃんみたいなガイジンじゃないもん」
「あ、そうでしたね。触れることが出来ないって言いたかったんです」
「あのね桜、おじいちゃんのお傍に寄れないってことよ」
楓がフォローした。
「さ~ちゃん、キスしないし、だっこもがまんするから・・・」
「そうはいかないのです。ゴメンネ。でも、お顔は見えるし、少しならお話も出来ますよ」
「・・・」
子ども心になにかを察したのだろう、桜子は黙って下を向いてしまった。
「さ~ちゃん、どうしたの?」
「・・・そうじゃなかったらあえないの?」
「はい。残念ですケド・・・」
「あのね・・・。さ~ちゃん、それでいいからおじいちゃんにあいたい」
桜子は、少し涙目で言った。
「さ~ちゃんはイイコですねぇ」
ギルフォードは、つい目の前の幼い少女が愛おしくなり抱きしめてしまった。
「あの、ぎるふぉーど先生?」
祖母の楓が驚いて声をかけた。ギルフォードは焦って桜子を解放して言った。
「あ、すみません、つい西洋のノリで・・・」
しかし、当の桜子の方はさして気にした様子は無いようで、そのままギルフォードにしがみつきながら言った。
「おじちゃん、あのね、かたぐるまして」
「え?」
いきなりのオーダーに、ギルフォード自身が驚いた。桜子がギルフォードを見上げて言った。
「おじいちゃんね、よくかたぐるましてくれるの」
「おじいちゃんより背が高いですから、ずいぶんと高いですよ。怖くないですか?」
「うん、さ~ちゃん、たかいとこヘイキだから」
「じゃあ、『アレクおじ様』って呼んでくれたら・・・」
ギルフォードはいたずらっ気をだして言ってみた。
「アレクおじちゃま、かたぐるましてください」
即答である。
「本当に素直でいい子ですねえ」
意外とあっさり答えが返って来たので、ギルフォードは驚きつつ感動して、桜子の両肩に手を置いて言った。感動でじ~んとしている大男を見ながら楓は思った。
(変な外人ねえ・・・)
その時、待合室に言い合いのような声が聞こえた。見ると娘が知らない二人となにか話している。桜子もそちらを見て言った。
「あ、ママだ」
ギルフォードも振り返った。彼の知らない女性一人とよく知っている二人の人物が、何がしか言い合っていた。桜子の一言と、彼らの話の内容から状況を把握したギルフォードは、桜子に言った。
「じゃあ、さっそく肩車でママのところにいきましょう」
「うん!」
桜子は嬉しそうに言った。

「いいですか。落ちないようにしっかりと僕の頭を持っているんですよ。あ、目隠ししないで」
ギルフォードは、肩に桜子を座らせると立ち上がった。
「ひゃあ、だいぶたかいよぉ~」
桜子は嬉しそうに言った。言葉に反してまったく恐れている様子は無い。
「さ~ちゃん、大物になりますよ」
ギルフォードは楓に言った。楓は困ったように答えた。
「もう、本当にお転婆で・・・」
 ギルフォードは、ゆっくりと由利子たちに近づきつつ声をかけた。
「何をもめているんですか?」
「アレックス!」
「アレク、どうしてこんなトコに?」
二人は驚いて言った。
「ああ、今日車を止めた場所からは、こっちから入った方が早いもんで・・・」
ギルフォードはにっこりと笑いながら言った。しかし、梢はギルフォードが娘を肩に乗せているのを見て、驚いてすごい剣幕で言った。
「あなた、誰? 娘になんてことをしてるのよ!!」
(”『なんてこと』たぁ人聞きの悪い”)
「あのね、梢。この人は怪しい人じゃないから」
ギルフォードが不満に思ったところで、楓がフォローしつつ、もらった名刺を梢に見せた。
「で、Q大の教授がなんで娘を肩車してるんですか。危ないから降ろしてちょうだい」
「や! さ~ちゃんおりないから!! ママってば、おじいちゃんにもいつもそうやっておこってたもん」
桜子が口を尖らせて言った。
「やめてちょうだい。3mくらい高さがあるじゃないの! 落ちたら死んじゃうわ!!」
「さすがに3mはないと思いますが・・・。それじゃあ、ジャンボマックスですヨ
ギルフォードは肩の上にいる桜子の方を向いて言った。
「ママが卒倒する前に下りようか」
「うん。しかたないなあ、ママは」
桜子が了解したので、ギルフォードは桜子を降ろすためにしゃがんだ。桜子はギルフォードの肩からよいしょと降りたが、そのままギルフォードの首にしがみついて言った。
「じゃあ、かわりにだっこして」
「桜子!!」
梢は本気で怒って言った。
「会ったばかりの男に平気で抱きつくなんて、はしたない! パパが見たら卒倒するわ!!」
「アレックスは子どもと動物に懐かれる天才だがね。セミが木に止まるようなもんだて、お母さん、心配せんでええて」
ジュリアスが複雑な表情で言った。由利子はジュリアスの様子を見て(あれ?)っと思った。(ひょっとして・・・?)。
 結局、桜子は祖母と母親の両方から手をつながれた。そのせいか、なんとなく仏頂面をしている。
「じゃ、帰るわよ! 桜、おじちゃんにご挨拶なさい」
「え? かえるの? おじいちゃんのおみまいはぁ?」
「ダメ! 感染ったら大変でしょ?」
「アレクおじちゃまがいったもん。おへやがべつだからダイジョウブだって!」
「ダメと言ったらダメなの!」
「だって、だって・・・」
「いいから帰るの!!」
「ママのバカぁ!!」
そう叫ぶと、桜子はうえ~んと泣き出してしまった。待合室の受付の女性が驚いて走り寄った。
「大丈夫ですか? なにかあったんですか?」
「あ、大丈夫です。子どものかんしゃくですから」
梢は焦って取り繕って言った。まさかそこまで娘が祖父に会いたがるとは思ってもいなかった。梢はギルフォードの方をキッと睨みながら言った。
「あなた、この子に何を吹き込んだの!?」
「タミヤマさんには直接は会えないということを言っただけです。彼女は最初からおじいちゃんに会いたがっていたんですよ。ねえ、カエデさん」
楓はいきなり自分に振られたので、驚きつつ答えた。
「ええ。ママが帰って来るまで待ってって、なだめるのが大変だったのよ。そこにギルフォード先生が来られて・・・」
ギルフォードはここぞとばかりに説得を始めた。
「コズエさん、サクラコちゃんをおじいさんに会わせてあげてください。お子さんがご心配なのはよくわかります。でも、僕はこの建物の図面と実際に内部を確認しましたが、特に問題はありませんでした。それに、もしウイルスが漏れ出していたとしたら、すでに僕たちの何人かは発症してしまっています。それに、この病気は直接触れた場合には強い感染力を発揮しますが、空気感染しないタイプです。したがって、離れている限りは感染のリスクはかなり低くなると思われます」
梢は、ギルフォードの説明を聞きながら少し態度を和らげたような感じだった。あと一押しだな、とギルフォードは思った。
「ましてや、タミヤマさんの病室は内圧が少し低く保たれていて、空気が外に向かわないように設定されていますし、何より完全に隔離状態にあります。ガラス窓も三層になっていて、密封されていますから、絶対に病原体が漏れ出すことはありません」
それでも、梢はまだ心配事が抜けないような表情で言った。
「でも、お義父さんの今の状態を知っているでしょ? あんな酷い状態のおじいちゃんを見たら、桜はショックを受けてしまいます」
「それは、ショックかもしれません。でも、子どもを甘く見てはダメです。子どもには意外と柔軟性があります。むしろそういうことから目隠しするほうが問題です。さ~ちゃんは、僕の肩車の高さでも平気でした。タミヤマさん似の強い子です。きっとダイジョウブですよ」
「だけど・・・」
「しようと思えば、僕がサクラコちゃんをかっさらって、病室の前まで連れて行くことだって出来ます。それをしないのは、コズエさん、あなたの了解を得るべきだと思うからです」
(アレク、それって犯罪ですから)
由利子は出る幕が無いので、心の中で突っ込んだ。梢は根負けしてため息をつきながら言った。
「そこまでおっしゃるのなら・・・。わかりました。ちょっとの間だけなら・・・・・」
「ありがとう。多分、タミヤマさんの負担になりますから、実際にちょっとしか会えないと思います」
祖母に抱っこされて泣きじゃくっていた桜子は、いつの間にか泣き止んで二人の会話を聞いていた。ギルフォードは、桜子の方を見て微笑みながら言った。
「さ~ちゃん、良かったですね。おじいちゃんに会えますよ」
「ほんと? いいの、ママ?」
「ええ、でも、ちょっとだけですよ。いいわね。これ以上わがままを言わないでちょうだい」
「ママ、ありがとう!!」
桜子は、母親に抱きついて言った。
「アレックス、おれ、先に行って報せてくるがね」
そういいながら、ジュリアスが走って行った。彼の姿はすぐに見えなくなった。その後、梢と桜子が手をつないで歩き楓がその後に続いた。
「さ、僕らも行きましょう」
「はい」
ギルフォードと由利子は三人の後に続いた。
 由利子はギルフォードと並んで歩きながら彼に言った。
「また、アレクにいいトコ取りされちゃったわね」
「え?」
「私とジュリーが説得するつもりだったの」
「そうでしたか。悪いことしましたね」
「でも、きっと私たちだったらダメだったな。このマダムキラー! おまけにロリコンの気もあったのね。何よ、アレクおじちゃまってなぁ」
「ゴカイです」
「ゴカイもミルワームもないわよ。それより・・・」由利子は声のトーンを落として言った。
「ジュリーが紗弥さんの彼氏ってウソでしょ? 彼、アレクの?」
「スルドイですね。バレましたか。でも、騙すつもりじゃなかったんですよ。サヤさんがサプライズにしたかったそうなのです」
「なるほどね。じゃあ、昨日ラブラブだったのは・・・」
そこまで言うと、由利子は自分の顔が赤くなっていることに気がついた。
「やだ、私ったらこんな時に何を・・・」
そう言ってギルフォードの方を見ると、彼の頬もぽっと赤く染まっていた。
「あれぇ、アレクおじちゃま、おばちゃんも、どうして おかおが あかくなってるの?」
二人がついてきているか確認しようと後ろを振り向いた桜子が、不思議そうに言った。
 

 葛西は、その後周辺の民家やオフィス・店舗等ランダムに数カ所ほど聞き込みを終えていたが、まだそこまで妙な噂が広がっているような様子は感じられなかった。どちらかと言うと公園での事件の方にみなの興味は集中していた。葛西自身も、要らないことを聞いたがために藪を突いて蛇を出すようなことをしないように、質問を選んでいたせいもあるかもしれない。
 しかし、ある安アパートで聞き込みをしていると、その一室に住んでいる、近所の大学に在籍しているという学生が言った。
「そういえば、今朝だったか、ようつべに妙な動画がアップされていたな。C川河川敷とか書いてあったんで、ちょっと興味があったんで見たんだけどさ」
「って、それは何? どういうものだったの?」
葛西は、何となく嫌な予感がして尋ねた。
「ああ、『C川にストームトルーパー現る』ってネタ動画だったんだけど、合成にしてはなんとなくリアルでさ。あ、見る?」
「え? いいんですか?」
「いいよ。汚い部屋で良かったらね。上がって」
葛西は、言われるがままに部屋に入った。確かに男子学生の部屋だけあって、かなりこ汚い。
「あ、いろいろ落ちてるから踏まないでね。エロ本も気にしないで。もし無修正見つけても見逃してよ」
学生はそういいながら、パソコンの前に座るとyoutubeを開いて検索を始めた。
「ブクマしときゃよかったな。履歴探すのもめんどくさいし・・・」
彼はブツブツ言いながら探していたが、わりと早くそれは見つかった。
「あ、あったあった。画面粗いから全画面にすると見え難いけどね。まあ、ちょっと離れて見たら同じか」
そういいながら、彼は葛西に画面を見せながら言った。
「ほら、これだよ」
「何ですか、これは!!」
その動画は、まさに昨日の河川敷の情景を撮ったものだった。携帯電話で撮った動画らしく、夕刻だったこともあり画像はかなり荒かったが、何人もの防護服を着た男達が写っている。この中にひょっとしたら自分も写っているかもしれない、と思うと葛西は嫌な感じがした。しかし、確かにこの荒れた映像ではスターウォーズのストームトルーパーに見えないこともない。アップした人のメッセージにはこう書いてあった。

 これは一切の手を加えていない。私は見た。信じようが信じまいが、銀河帝國軍はすでにこの星に来ているのだ。

葛西はそれを読んで、頭がクラクラするのを覚えた。
「ね、すごいだろ?」学生は言った。「これ、ホントだと思う?」
「いや、僕は合成だと思うけどな」
葛西は勤めて冷静さを保ちながら答えた。
「そうだよねえ、トルーパーなんてSF映画の話じゃんね。やっぱ地球に来ているのはグレイだよね」
「そ、そうですね。でも、僕はフラットウッズ・モンスターが好きだなあ」
「おや、刑事さん、話が合いそうですね」
うっかり口走ったことで学生が乗り気になったので、葛西は焦って言った。
「いや、そんなに詳しくは無いんだ。それに、勤務中なんで・・・」
「ですよね。じゃ、また何かあったら言ってよ。わかることなら協力するから。これ、ネット用だけど名刺あげとくね。ケータイ番号も書いとくから」
彼はそういうと、名刺にさらさらと携帯電話の番号をメモして、葛西に渡した。
「ハンドルネームは、GFだけど、本名は緑原蔵人(くろうど)って言うんだ。それもメモってるからさ」
「ありがとう。何かあったら頼りにするよ」
葛西は緑原にそういって挨拶すると、そそくさと彼の部屋を後にした。
 

 ジュリアスは、スタッフステーションに飛び込むと、多美山の病室の前に急ぎ言った。
「多美山さんよお、喜んでちょーだゃあ。お孫さん、会いに来るってよ。もうすぐやって来るがね」
「キングさん、本当ですか?」
息子の幸雄が言った。
「ああ、アレックスがよ、何とか奥さんを説得したんだてよ」
「父さん、起きてる? 聞こえた? 桜がもうすぐ来るよ。良かったね」
「ああ・・・、桜子に会えっとか・・・」
多美山は、うっすらと目を開けて言った。
「良かったですね、多美山さん」
「ホント、良かったですね。もう、どうなるかと思ってました」
三原医師と園山看護士も口々に声をかけて喜んだ。
「園山さん・・・、すんませんが・・・私の目を、包帯で隠して、くれんですか? 孫が怖がると・・・イカンから・・・」
「多美山さん、そんなことしたらお孫さんの顔が・・・」
「よかとです」
多美山は力なく笑った。その表情を見た三原は愕然とした。目の焦点が合っていなかったからだ。
「多美山さん、ひょっとして・・・」
「そうです・・・。お察しのとおり・・・、もぅ、だいぶ前から、殆ど、見えとらん・・・とです・・・」
三原・園山・幸雄の三人は、顔を見合わせた。
「わかりました。急いで目を保護しましょうね」
園山が、少しかすれた声で言った。
「父さん・・・」
幸雄は父の右手を取って両手で優しく覆った。その手は腕の方から皮下出血による青黒い染みが広がっていた。

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4.衝撃 (4)涙色の笑顔

 ギルフォードは、スタッフステーションの前まで来ると、桜子を呼び止めた。桜子は母親と共に振り返った。若干遅れて、楓も振り返る。ギルフォードは桜子に近づくと、また目線の高さに跪いて言った。
「さ~ちゃん、ちょっとだけ聞いてください。おじいちゃんは重い病気で、前会った時よりもずいぶんと様子が変わっておられます。お話も上手く出来ないかもしれません」
桜子は、一瞬戸惑ったがすぐに真剣な顔をして答えた。
「うん。わかった。さ~ちゃん、それでもおじいちゃんにあいたい。だいじょうぶ、さ~ちゃん、ちゃんとおみまいできるよ」
「いい子です」
ギルフォードはにっこりと笑って言うと、桜子の頭を撫でてから立ち上がった。
「さ~ちゃん、じゃあ行きましょう。コズエさん、お呼び止めしてスミマセンでした」
ギルフォードはそう言うと、ドアボーイの如くドアを開け三人を中に通した。続いて由利子が、最後にギルフォードが入って、ドアを閉めた。
 

 窪田たちは、若干渋滞した高速道路を通りながらも、滞りなく予定通りに宿に着いた。
 宿は、街よりも少し山際にあり、緑に囲まれた敷地内に部屋が独立した和風のコテージ風になっており、それぞれに露天風呂が付いていた。
 女将に案内された部屋に入って、歌恋は小さい歓声を上げた。
「きゃあ、ステキなお部屋!」
そこは広い和室で、窓からは洗練された日本庭園がまるで一幅の絵のように見えた。旅館でありながら、隠れ里のようなその佇(たたず)まいは、自分達の旅にピッタリだと思った。お風呂は内風呂と露天風呂があり、もちろん両方ともかけ流しの天然温泉である。特に露天風呂はまるで森の中の天然温泉のようで、実に趣があった。
「栄太郎さん、ありがとう。わたし、こんなステキなところに泊まるのって初めてだわ!!」
歌恋は、窪田の腕にしがみつきながら喜んで言った。女将はお茶を入れながら、いかにも訳ありそうな二人を見て曖昧な微笑を浮かべて言った。
「気に入ってくださって、とても嬉しいですわ。天気がよろしければもっと眺めも良いのですけれど・・・」
「いえいえ、女将、充分ですよ。これくらいの天気の方が侘び寂があってちょうどいいですよ」
窪田は言った。女将は窪田の気遣いににっこりと笑いながら尋ねた。
「まだ日もお高いですけれど、これから観光をなさいますか?」
「はい。少し休んでから、いろいろまわってみます。せっかく有名な温泉地に来たのですし、ここには名所も沢山ありますから」
「では、お夕食は何時(いつ)頃までにご用意いたしましょうか?」
「そうですねえ・・・。じゃあ、6時くらいにお願いしましょうか」
「かしこまりました。あの、よろしければ、観光用にタクシーなどをご用意出来ますけど・・・」
「いえ、大丈夫ですよ。乗ってきた車で地図を見ながら回ってみますから」
せっかくの申し出だが、窪田は断った。なにせ、初めて二人で旅行しているのだ。水入らずで楽しみたいではないか。
「そうですか。何か御用がございましたら、内線でフロントまでお電話くだされば、いつでも対応いたします。それでは、わたくしはここで・・・」
女将は、丁寧に頭を下げて礼をすると、すっと戸を閉めて去って行った。女将が行ってしまったのを確認すると、二人はほっとした表情をし、今まで座卓に向かい合って座っていたのを、どちらとも無く近寄って窓の方を向いて並んで座った。歌恋は窪田の腕を取って寄り添い、二人は美しい庭園とその背景の林を見ながら、しばしの間黙って座っていた。静かなゆったりとした時が流れた。しかし、歌恋は、この束の間独占した恋人の身体が少し熱いような気がした。
 

「おじいちゃん・・・!」
桜子は、祖父との距離を遮るガラス窓の前に立って多美山を呼んだ。しかし、その後の言葉が続かなかった。ギルフォードが前もって言ったように、あまりにも様変わりをしていたからだ。
「おお・・・、桜か・・・。よう来てくれたなあ」
多美山は、桜子の声を聞くと、ゆっくりとその方角を向いて言った。桜子はその声で祖父に間違いないと確信し、再び心配そうに声をかけた。
「おじいちゃん、おめめどうしたの?」
「病気でちょっと・・・な・・・。ばってん、おまえの顔は、よう覚えとおけん・・・目を瞑っていても・・・わかるばい。心配せんでん、よか」
「あのね、さ~ちゃんあれからすこし、せがのびたんだよ」
「そうか、来年は、小学生やもんな・・・」
多美山はぎこちなく笑って言った。その硬い表情を見て、ギルフォードは不吉なものを感じた。アフリカで散々見てきた顔を思い出したからだ。おそらくもうすぐ表情を作ることが出来なくなるだろう・・・。そう思うと、ギルフォードは上を向き目を瞑った。ジュリアスと由利子がそれに気付いて心配そうにギルフォードを見、ついでお互いを見た。ジュリアスは由利子に向かって静かに首を横に振った。
 桜子は、防護服を着て祖父の傍に座っている人が、父親であることにやっと気がついて言った。
「パパ! パパはおじいちゃんのそばにいていいんだ」
「だって、パパはおじいちゃんの息子だもの」
父親の幸雄は少しだけ笑って答えた。
「そのかっこうはなに?」
「変かい?」
「うん。なんか、へん・・・」
「でもね、これを着ないと病気が感染るかもしれないんだよ」
それを聞いて桜子の顔がぱっと明るくなり、尋ねた。
「じゃあ、そのふくをきたら、はいれるの?」
「そうだよ。病院の人と患者の身内だけだけどね。でも、桜はまだ小さいからダメなんだ」
「そっか・・・」
桜子はがっかりとして言った。しかし、気を取り直してまた祖父に向かって声をかけた。
「おじいちゃん、ごきぶんはいかがですか? どっかいたい?」
「桜が来たけん、今は痛ぉなか。 ありがとうな・・・」
「おじいちゃん・・・」
祖父に呼びかけ、また言葉に詰まる桜子に多美山が言った。
「なんや、泣きよぉとか、桜?」
「さ~ちゃん、なかないよ」
桜子は、ぐっとこらえて言った。多美山は、またぎこちなく笑った。
「そうやな、桜は、強い子やもんな・・・。桜、元気・・・やったか?」
「うん」
「いい子に・・・しとったか?」
「・・・うん」
桜子はちょっと間を置いて答えた。そこで梢が口を挟んだ。
「うそおっしゃい。この前なんか幼稚園で男の子と大ゲンカして・・・」
「だってあいつ、しんゆうのミキちゃんをいじめたんだもん」
「で、勝ったのか、桜?」
「うん!」
「そうか。ようやったな」
「もう、お義父さんったら・・・」
梢に言われてしまったと思ったのか、多美山はすぐに付け加えた。
「だがな、桜。すぐに、手を出しちゃあ・・・いかんぞ。まずは、話し合いから・・・な」
「うん、わかった」
「いい子だ。・・・桜、元気でな」 
「うん」
「パパとママの言うことをよく聞くんだぞ」
「うん・・・。おじいちゃん、なんだかへんだよ」
「そうか?」
・・・しんじゃいやだ・・・
「どうした? 聞こえんぞ?」
「おじいちゃん・・・、しんじゃいやだ・・・」
桜子は小さい声で言った。多美山は悲しそうに笑いながら言った。
「死なんよ・・・。だって、先生たちが、ついとる・・・やろう? それに、おまえが、小学校に上がるのも・・・見んといかん、からな・・・」
「うん」
「泣くな・・・、なあ、桜・・・」
「うん、・・・うん」
桜子は頷きながら、右手の甲で涙を拭い、泣くまいと口を一文字に結んだ。その様子が見えたかのように、多美山はつぶやいた。
「強い子やなあ、桜は」
その様子を見て桜子の涙を拭おうと、ハンカチを出して娘のそばに寄ろうとする梢を楓が止めた。
 桜子は、その後しばらく下を向いて黙っていたが、何かを思い出したように顔を上げて言った。
「・・・おっ、おじいちゃん・・・、あのね」
「なんや?」
「さ~ちゃん、おしょうがつにおじいちゃんにやくそくしたこと、ぜったいにまもるから」
「桜・・・、頼もしいなあ・・・。ばってん、それは、大人になって、から、決めて・・・いいとやけん」
「でも、さ~ちゃんきめたんだよ」
「そうか・・・。ありがとうな・・・。じゃあ、まず、自分のことを、『さ~ちゃん』って、いうとを・・・やめんと、なあ・・・」
「うん、わかった。さ~ちゃ・・・あたし、がんばるから・・・」
「おじいちゃんも、病気に、勝てるように・・・頑張るからな」
多美山は、そういうとまたふっと笑った。その様子を見て、幸雄は言った。
「桜、おじいちゃん、そろそろきつそうだから、寝かせてあげようか」
「うん。そうだね・・・。おじいちゃん、またくるからね」
「おお、今日はありがとうな・・・」
多美山は、そういうと天井の方を向き、ベッドに身体を沈めた。
「じゃあ、帰りましょう、桜」
「うん・・・」
母親に促されながら、桜子は去り難そうに病室の祖父を見てから背を向けた。その時、多美山の声がした。
「桜、もう一度、顔を・・・見せてくれんか・・・」
桜子は振り返ってまた窓に顔を近づけた。
「でも、おじいちゃん、おめめが・・・」
「大丈夫や。見えんでも、見えとるって、言うた・・・やろ?」
「おじいちゃん・・・」
「桜、笑っとおか?」
「・・・うん」
「そうか・・・、笑っとおか・・・。いい笑顔やなあ・・・」
多美山はぎこちない笑みを浮かべてそう言うと、ふうっとため息をつき、そのまま静かになった。
「おっ、おじいちゃん!?」
「父さん!」
「大丈夫です」
三原医師が言った。
「痛み止めを大量に投与していましたから、眠られただけですよ。よく今まで普通に話しておられました。すごい精神力です」
「父さん、そんなに桜に会いたかったんだね・・・」
幸雄は父の方を見ながら言った。その父に、桜子が心配そうに声をかけた。
「パパ、・・・おじいちゃんは?」
「大丈夫だよ、眠っただけだから」
「そっか~、ああ、びっくりした」
桜子は、ほっとして笑った。まだ目に涙の跡が残っていたが、多美山に見せてやりたいほど良い笑顔だった。

 ギルフォードたち三人は、多美山母子を見送るために待合室のエントランスで彼女らと向かい合っていた。梢がギルフォードに向かって言った。
「ありがとうございます。あなたの言うとおり桜子を義父(ちち)に会わせてやって良かったって、今はそう思っています」
「そうですか。良かった。でも、差し出がましいことをして申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ、失礼なことばかり言って・・・」
「いえいえ、気にしないで下さい」
「義父をよろしくお願いします」
梢は深々と頭を下げて言った。
「今日は義父宅に泊まりますから、何かあったら連絡してくださいね。では、失礼します。桜、帰るわよ」
「あ、ちょっと・・・」
ギルフォードは彼らを引き止め、中腰になって言った。
「さ~ちゃん、ちょっと来て」
「な~に?」
桜子は走ってギルフォードのもとに来た。ギルフォードは跪くと小声で桜子に聞いた。
「おじいちゃんと何のお約束をしたの?」
「あのね・・・」
桜子も小声で言った。
「ママがきいたらおこるからね、ナイショだよ・・・」
そう前置きをして、桜子はギルフォードの耳元で何か囁き、すぐに母親の方に走った。桜子は母親と手をつなぐと、もう片方の手を振って言った。
「アレクおじちゃま、それからおねえちゃんと、くろいおにいちゃんも、ありがとう。さよなら、またね~」
その後、もう一度手を振ると、桜子は祖母の手を握った。母と祖母も振り返って一礼し、三人は仲良く並んで帰って行った。ギルフォードは、由利子とジュリアスと共に手を振りながら言った。
「なんで、僕だけ『おじちゃま』なんでしょうねえ・・・」
「ど~せ、おみゃあが言わせたんだろ~がね」
ジュリアスが、正面を向いたまま言った。
「言い方じゃあないですよ。何でふたりがおにいちゃんおねえちゃんで、僕だけが『オジサン』なのかと・・・。あまり歳は変わらないと思うんですけど・・・」
「『アレクおじちゃま』って言われて、まんざらじゃあなさそうだったけど?」
と、由利子も正面を向いたままで言った。
「ところで・・・」
由利子が、今度はギルフォードの方をチラ見して続けた。
「桜ちゃん、アレクになんて言ったのよ」
「おれも聞きてぇがや」
「まあ、ママに内緒っていうんだから、君達に言うぶんは構わないでしょう」
ギルフォードは、ちょっとだけ微笑んで言った。
「さ~ちゃんは、『おじいちゃんのあとをついで、けいじになる』って言ったんです。『パパがあとをつがなかったから、おじいちゃんがさびしそうだったから』って」
「そりゃあ、お母さんは怒りゃ~すわ。特に今はマズイがね」
ジュリアスが言うと、由利子も続けて言った。
「桜ちゃん、意味わかって言ってるのかしら」
「さあ、どうでしょうねえ・・・。まあ、多美山さんが言ったように、大きくなってから決めることですから・・・」
ギルフォードは一旦言葉を切ってから、桜子の後姿を見つめて言った。
「でも、頼もしいですね」
 三人の姿が門の外に消え、ギルフォードはそれを見届けて言った。
「さっ、戦場に戻りましょうか」
ギルフォードは、身を翻して室内に入った。ジュリアスもその後に続く。由利子は、どんよりした空を見上げた。生ぬるい風が吹き、冷たいものが2・3頬に当たった。雨が降り始めたようだった。

 三人が戻ると、眠った多美山の傍で息子の幸雄が顔を覆いながらうつむいて座っていた。
「このまま、こん睡状態になるかも知れないということです」
幸雄が誰にともなく言った。
「万一を考えて覚悟しておいてくださいと・・・」
「そうですか・・・」
ギルフォードが言った。ほかにかける言葉が見つからなかった。幸雄は顔を上げてギルフォードたちに向かって言った。
「苦しんでいないということが救いです・・・。だけど、これから苦しむことになるのでしょうか」
そう聞かれて、ギルフォードは何と言っていいか迷ったが、こう言うしかなかった。
「これは、未知のウイルスですし、実際に僕らが患者を見るのは、タミヤマさんが始めてなのです。申し訳ありませんが、何ともいえないというのが、正直なところです・・・」
「そうですか・・・」
幸雄は、不安とも安堵ともとれない、曖昧な表情でギルフォードを見、ついで父親の顔を見た。しかし、多くの出血熱の経過を知るギルフォードやジュリアスは、辛い気持ちを抑えていた。
「もお、こんな時に、葛西君は何をしているのかしら・・・!」
由利子は、葛西が一向に姿を現さず、連絡も入れてこないようなので、ずいぶん前からイライラしていたのだった。
「ユリコ。ジュンは、タミヤマさんとやる予定だった公園の事件の再調査を引き継ぐと言って、一人で調査をしているということですから」
「何も、こんな日にするこたあなかろ~もん! あのお子ちゃまわぁ~!」
「電話も電源を切っているか電波の届かないところにいるかで、通じないのですよ」
「もう、何なのよ」
「でもね、ユリコ、僕はジュンのやっていることは、無駄だとは思いません。テロ事件に関しては、・・・特に今のようにほとんど手がかりがない場合は、どんな些細な手がかりでもいいから、出来るだけ早く、少しでも多く情報を得るべきなのです。それが、どんな大きな情報に繋がるかわかりませんから。それが事前にわかっていた筈なのに阻止できなかったのが、9.11テロであり、サリンテロであるわけです」
「それはわかるけど・・・」
「ユリコ、ジュンはタミヤマさんの後を継ごうと、彼なりにがんばっているんです」
「だけどそれじゃあ・・・」
そう言いながら、多美山の顔を見た由利子が「あら?」とつぶやいて、病室の三原医師に尋ねた。
「三原先生、多美山さん、眠っておられるんですよね?」
「はい」
「この会話は聞こえているんでしょうか?」
「ここには聞こえてますよ。でも、多美山さんは・・・。よく眠っておられますからねえ・・・」
「そうですか・・・? 今、多美山さんが、かすかに笑顔を浮かべられていたような気がしたものですから・・・」
由利子は、改めて多美山の顔を見た。しかし、そこにはすでに笑顔はなく、多美山は無表情で静かに眠っていた。由利子にはそれが能面のように思えた。
「ああ、ギルフォード君、いたいた」
と、そこへ、高柳が両手を白衣のポケットに突っ込んだまま小走りでやってきた。
「例の蟲に食われたらしい遺体がもうひとつあったということで、鑑定して欲しいとさっき資料が届いたんだが」
「なんですって? 他にもあったって、それは、いつ見つかったんですか?」
「なんでも、木曜の夕方らしい」
「一昨日ですか! じゃあ、昨日の遺体より早く見つかってたと言うことですね。何故すぐに報告がなかったんです?」
「C野署の管轄だったということで、事件のあったK市やF市から離れていることもあって、伝達が上手く行っていなかったらしいな」
「二日で虫食い遺体が二つですか・・・。もっと出てきそうな気がしてきました」
ギルフォードが、またえもいわれぬ表情で言うと、横からジュリアスが言った。
「二体とも野ざらしになっとったってことですか?」
「ああ、そうらしいですな」
「ホームレスだったということだてか?」
「一体についてはまだ資料をよく見てないので、わからんね。それを見せようとギルフォード君を探しとったわけだが、今度は幼女とよろしくやっていたらしいな」
「人をロリの犯罪者みたいに言わないでクダサイ!」
「とにかく来てくれたまえ」
高柳はギルフォードの抗議を無視して言った。
「あ、キング先生と篠原さんも来てください。ここに貼り付いていても仕方がないだろうし、特に篠原さんには、これからギルフォード君のサポートをするにあたっての勉強になるだろうからね」
「え? いいんですか?」
由利子が自分を指差し驚いて言った。
「もちろんだ。さあ、三人とも来たまえ」
高柳はそういうと、またすたすたと歩き始めた。ギルフォードもその後に続いた。
「由利子、行こまい」
ジュリアスに促されて、由利子は彼らの後について行った。
 

 葛西はC川の遺体発見現場の対岸に立っていた。携帯電話を手に、盛んに風景と電話の画面を見比べている。
「ああ、だいたいここら辺から撮ったな」
葛西は独り言をつぶやいた。ケイタイから例の動画を閲覧しつつ、動画がどこら辺から撮られたか確認していたのだ。葛西はあたりを見回した。河川堤防道路の下にいくつかの民家があった。しかし、そこからよりも、、この道路を通るついでに撮影した可能性が高そうだった。映像のブレとやパンの仕方がいかにもそれっぽい。
(最終的には、ビニールシートで現場は全て目隠しされていたはずだ。ということと、映像撮影時のほんのりした明るさからいって、警察の到着後、比較的早い時間に撮影されたはずだ)
と、葛西は判断した。
(しかし、ここは堤防道路で比較的交通量も多い。かなりの人が捜査中の警官の姿を見たはずだ。しかも、奇妙な防護服を着た・・・。ということは、かなりの割合で、不審に思った人が居てもおかしくないけれど・・・)
だけど、と葛西はさらに考えた。
(公園の事件での教訓もあって、今回はローカルニュースではあるけど、しっかりとニュースとして配信されたのだから、それを見た人はその疑問を自己解決しただろう。実際、今回の聞き込みでも、まだ妙な噂はたって居なかった。今現場を警戒中の警官も、市民の疑問には率直に答えているということだし)
(ということは、あの映像をアップした人はニュースを見ないか地元の人間じゃあないということだ。あの映像が、今度はネット上で広まって、全く関係ないところから煙が立つかもしれない)
葛西の心に漠然とした不安がよぎった。
(それに、あの橋の上で撮影していた女。一番の不安要因はあいつだな)
葛西はため息をついたが、とりあえず、堤防下の住人達に聞き込みをしようとその場を後にした。
 

 由利子は、三人のウイルス学者と共に、センター長室の応接セットに座っていた。ひどく場違いな気がしたが、これからの仕事のためと言われたならば仕方がない。
「ギルフォード君、これが資料だ。大丈夫、あの蟲の写真はないから。1冊しかないんで、悪いが三人で一緒に見てくれたまえ」
「これは、いつ送ってきたんです?」
ギルフォードは、資料を受け取りながら尋ねた。
「午前11時頃、送っていいかという確認の電話があって、30分ほど前にバイク便で送って来たんだ」
「バイク便で、しかも30分前ですか。大至急って感じですねえ」
ギルフォードはややあきれ気味に言いながら、資料のファイルを開き、ざっとページをめくった。
「ああ、これは、やっぱりGに食害されたと思って間違いなさそうですね」
ギルフォードは写真をいくつか見ながら言った。
「あのな、アレックス」ジュリアスは、言い難そうにしながら言った。「これ、言おうかどうか迷っとったんやけど、気付いてにゃあようなんで早めにゆーとくわ」
「なんですか、ジュリー」
「そのぉ、・・・Gってにゃあ止めたほうがええて。ギルフォードのGと被るだろーがね」
それを聞いて、ギルフォードは一瞬ぽかんとして固まった。
「やっぱり気付いとらんかったんだな」
ジュリアスがやれやれという表情で言った。由利子は、ギルフォードの狼狽振りがあまりにおかしくて吹き出しそうになり、あわてて両手で口を塞いだ。
「ま、とりあえず、私達はあれを『ムシ』と統一して呼ぶことにしよう。漢字では『虫』と言う字を三つ書く『蟲』と言う字だね」
高柳が平常心のままフォローした。何事にも動じない男であった。
「さて」
高柳は固まったままのギルフォードからファイルを奪うと、ジュリアスに渡して言った。
「キング先生、君も今朝見せたファイルでだいたいのことはわかると思うけれど、どう思われるか意見を聞きたい」
「あまり何度も見たいもんじゃにゃあですがね・・・」
そう言いつつジュリアスはファイルを受け取った。
「由利子はどうするかね。見れるんなら一緒に見よまい」
「いいの?」
「おれは構わにゃあがね、おみゃあ次第だがや」
「わかった。見せて」
「でら惨い遺体だて心してみてちょおよ。そーとーわやになっとるからよお」
「ハンカチ用意しとくから」
由利子は言った。
「ほんじゃ、いくがね」
ジュリアスはファイルを開いた。
「うわっ!」
流石の由利子も驚愕の声を上げ、右手のハンカチで口を覆った。
「これが例の虫食い遺体・・・」
「大丈夫かね?」
「なんとか・・・」
由利子は気丈にもそれから目をそらすまいとがんばった。
「おっけ~。流石アレックスが目をつけただけのことはあるがや」
ジュリアスは親指を立てながら言った。
 遺体は出っ張った部分をほとんど蟲に食われ、特に顔はほとんど凹凸がなくなっていた。身長約170cm、18歳~60歳くらいの成人男性という程度しか判別が付かなかった。せいぜい着ている物の様子から、おそらく若い男だろうと推理できるくらいだった。
「こりゃあ、どう見ても今朝の遺体と同じあんばいの遺体だがね。けどよぉ、着とるもんから考ぎゃあて、多分ホームレスじゃにゃあと思うわ。ほれ、よー見たら、ブランド物のええ時計をしとるがね。着る物もええもんみたいだでな。ひょっとして殺されて誰かに遺棄されたんじゃにゃあですか?」
「鑑識の調査報告には、腹に打撲跡があり、現場を検証した結果、軽い急ブレーキ跡が残っていたとある。ただ、死ぬような事故じゃなかっただろうということだが・・・」
「たしか、安田さんも少年が蹴った程度のショックで大出血を起こして死んでしもうたんでしょ? 多分それと同じやて思うわ。多分、事故にお~て死んだ彼を何者かが・・・まあ、多分加害者だろうけどな、草むらに隠して逃げたってとこでしょう」
「でも、見つかったのは県道でしょ? 何でそんな重病人がそんなところに居たのかしら」
と、由利子がしごく真っ当な質問をした。
「推測だけどな、脳症をおこして無意識にうろついていたんじゃにゃあか?」
「秋山雅之君は、急に警報の鳴る踏切に向かって走って行ったそうだ。また、最初の感染犠牲者と考えられているホームレス、今は仮にAさんと呼ぼうか、彼は、高熱に浮かされながらも仲間4人が静止するのを振り切って姿を消したそうだ。そして、例の公園周辺から駅あたりを行動範囲としていた筈のAさんの遺体は、数キロ離れたC川中流で見つかった。それを考えると、この彼が県道をうろついていても不思議はないよ」
「そういうことですか・・・」
「感染者が行動範囲を広げるとゆ~ことは、ウイルスの広範囲な拡散に繋がるとゆ~ことだわ。信じられんことだて、アレックスも最初は否定してたけどよぉ、このウイルスは感染者を操っとる可能性があるんだわ」
「あんな遺伝子だけの半生物がですか?」
「うむ、ウイルスに意思があるとは思えんが、多美山さんが異常行動を起こした時のことを考えても、脳症発症時に結果的にそういう行動を起こしてる可能性はあるだろうな」
「そんな・・・」由利子はゾッとして言った。「じゃあ、彼の遺体を遺棄した人間にも感染している可能性があるんですね」
「もちろんそうだ」
「そーいやあ、発見者が蟲に咬まれたとかいうことはにゃあのかね?」
「咬む?」由利子が眉を寄せながら聞いた。
「今朝運ばれてきた患者は、遺体の発見時に蟲に咬まれて発症したらしいのだわ」
「ええっ?! ・・・最悪!」
と、由利子は嫌悪感をあらわにして言った。
「大丈夫らしい。連れていた犬が威嚇したので反対方向に逃げたということだよ」
「そりゃあ、そのわんこに感謝しにゃあといけにゃあな、その人は」
「そうだな。だが、付近の住民に被害が出るかもしれん。近隣の徹底した消毒と、各家庭でのゴ・・・もとい、害虫退治を徹底させないといかんな」
「ほいで、この人がどういう経緯で感染したかということもつきとめにゃーといけにゃーがね」
「もちろん、それは重要なことだ。しかし、死者からそれを突き止めるのはむずかしいだろう。遺体を遺棄した可能性の人間を含めて公開捜査に踏み切る必要があるだろう」
「やっぱり、アレクの言うとおり、たいがいに公表しないと現場も動きようがないですね・・・。知事は一体いつ公表するつもりなのかしら?」
「今夜・・・、遅くとも明日中にはすると言っていたが」
「そうですか・・・。でも、公表後の世間の反応を考えたら・・・・。怖いですね」
由利子は眉をひそめながら言った。
「だが・・・」高柳が腕を組みながら言った。
「これ以上野放しには出来んよ。今は確かに犠牲者は十数人で、交通事故死に比べても微々たるものだが、これからどうなるか想像もつかないし、このままだとこっちも後手後手にしか動けんからね」
「そうですよね・・・。それにしても、アレクってば妙に大人しいけど、あのまま固まってる?」
「落ち込むのもいいが、いい加減浮上してくれんと困るのだが」
「いつもなら、うるさいくらいしゃべるのに、さっきからずっとうつむいたままだし、なんだか調子がくるってしまいますよ。ねぇ、高柳先生?」
「まったくだ。そもそもは、ギルフォード君の意見を聞こうと思ってたんだがね」
由利子と高柳は、何故かジュリアスを見ながら言った。ジュリアスは肩をすくめ、
「しょうがにゃあて。おれの責任だてなんとかしよまい」
というと立ち上がってギルフォードに近づいた。
「ほれアレックス、いい加減に浮上しや~て」
そういうと、ジュリアスは右手の人差し指でギルフォードのあごをクイと持ち上げると、いきなり唇を合わせた。ジュリアスの衝撃行動に今度は高柳と由利子が固まった。いきなり眼前に出現した濃厚なキスシーンに、流石の高柳の目も点々になっている。
「うわぁ~!」
約15秒後、ギルフォードが口を押さえながらソファから身を引いて言った。
「何デスカ、今のホンカクテキなキスは!!!」
「あ~、すまにゃあな~。おみゃ~さんを正気に戻すのはこれが一番だてね」
と、ジュリアスはニッと笑いながら言った。
「イイ加減なコト言わないでクダサイ!! ミナサン、コノヒトは無差別テロ級のキス魔デスからねっ、ダイシキュウ気をツケてクダさい!!」
「アレク、日本語が変よ」
我に返った由利子が、妙に冷静に言った。ついで、高柳があきれ果てたように言った。
「これだから欧米人は・・・。しかし、隠していないのは知っていたが、あまりにも大っぴらなのはどうかと思うがな。女性にこういうのが好きな人が多いと聞くが、篠原君、君はどうかね?」
「いやあ、私にはそんな嗜好はありませんから、萌えませんけどねえ・・・」
「なるほど、こういうのを『萌え』というのか」
高柳が違う方向で感心しながらも言った。
「だが、やっぱり私にはわからんな」
「あ、萌えといえば、前の会社の同僚が好きだったな。しまった、写メ撮っとけば良かった!」
由利子は悔しそうに指を鳴らして言った。
「まあ、経過はどうあれ・・・」高柳がまとめに入った。
「ギルフォード君も正気に戻ったことだし、話を続けようか」
「えっと・・・」
ギルフォードは怪訝そうな顔をして言った。
「何の話でしたっけ」
「もう一度このファイルを見てから思い出したまえ」
高柳がため息をついて言った。

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4.衝撃 (5)悲しいワルツ

「うん、高柳さんの言うとおり、うみゃあわ、このAランチ」
ジュリアスが、おかずの一口カツをぱくつきながら言った。
 三人は感対センターの職員食堂で、少し遅い昼食を食べていた。高柳が昼ごはんがまだならば、ここが安くて美味いからと勧めてくれたのである。
「ほだけど流石アレックスだて。あれからすぐにおれ達の話に追いついたでにゃあ」
「ジュリーってば何をのんびり言ってんの。こっちは一時どうなることかと思ったんだから」
「申し訳ありません、ユリコ。僕もまさかあんなにショックを受けようとは・・・。やはり僕にとってあの蟲は鬼門です」
「いや、どうなるかと思ったのは・・・。まあ、いいや。でも、ホントに大嫌いなんだ、あの昆虫」
「ええ、ホントに」
「まあ苦手なものは仕方がないよねえ」
「ユリコは怖いものなしですか?」
「んなワケないでしょ。私にだって怖いもののひとつや二つあるわよ」
「何ですか、ソレは?」
ギルフォードが興味津々で聞いてきた。
「大型の蛾よ」
「ガ?」
「え~っと、昆虫の・・・」
「ああ、『蛾』ですか。Mothraですね」
「そこまで大きくないけどね。でかい蛾がいたら、パニックになるの。子どもの頃、夏休みに長野に家族旅行に行った時、山奥の旅館で、うっかり電気をつけたまま窓を全開してみんなで食事に行ったの。部屋が3階だったので安心したんだね。で、2時間ほどして部屋に帰ったら、部屋の中がドえらいことに・・・」
「虫だらけになってたんですね」
「そう。しかも、最初に入ったのがこともあろうにシンジュサンという種類の大型蛾のメスだったらしくて、もう明かりとフェロモンに釣られたオスがわんさかと。壁と言う壁、照明と言う照明にモスラのミニチュアが・・・」
「それは、虫が平気な人でも引くでしょうね」
「もう、山中のシンジュサンが集まったかと・・・。旅館の人には怒られるし、その部屋はそのままじゃ気持ち悪くて寝られないし、大変だったのよ。それ以来1匹でも部屋に入ってくると、もうパニックですよ」
と、由利子は当時を思い出したのか、ぶるっと震えて言った。
「そうですね。誰にでもトラウマはありますよね」
ギルフォードは明るく言った。ジュリアスは、黙々とランチを食べながら、二人の会話を静かに聞いていた。しかし、彼が時折ギルフォードの方を心配そうに眺めていたことに、二人が気付いた様子はなかった。ジュリアスは、あることを由利子に話すべきかどうか迷っていた。
「それにしても、日を追って問題が増える一方ですね。その上に、事件を調べているらしい女と、訳ありそうな女医の存在まで・・・」
「ちょっとまって。私、その女医の話は聞いてないけど・・・」
「おりゃー事件を調べとるとかゆー女についても聞いてにゃあぞ」
「わかりました。説明しましょう。女医の件については僕も昨日初めて知ったのです」
ギルフォードは、昨夜電話で聞いた佐々木良夫からの情報を簡単に説明した。
「さらに、これは今朝キサラギ君から得た情報で、まだ未確認ですが、アキヤマ・マサユキ君の事故現場に遭遇したという少女が、謎の病気で亡くなっているらしいのです」
「なんてこった!」
ジュリアスがテーブルを叩いて立ち上がりながら言った。
「問題が増えるというより加速がついとるじゃにゃあか」
「翌日すらどんなことになっているか、また、どんなことが起きるか、想像もつかないってことね」
由利子も厳しい表情で言った。ジュリアスの勢いに、周囲の人たちが驚いて彼らの方を見たが、すぐに自分達の話に戻っていった。ジュリアスは少しバツの悪そうにして椅子に座りなおした。
「ところで、葛西君からは何か連絡は入ってない?」
「君には入ってないんですか?」
「ええ、今日はアレク以外は誰からもま~ったく」
由利子は少し口を尖らせて答えた。
「僕の電話にも入ってないですね」
ギルフォードは携帯電話を確認しながら言った。
「ちょっとかけてみましょうか。ここは携帯電話禁止ではないですか?」
「え~っと」
と、由利子は周囲を見回して言った。
「壁に『携帯電話のご使用は最低限に』と書いてありますから、禁止ではないようですね」
「じゃあ、ちょっとならいいですね。緊急電話なのは間違いないですし」
そういうと、ギルフォードは葛西に電話をかけた。
「あ、今度は繋がりましたよ・・・あ、出ました!」
ギルフォードは嬉しそうに言った。
「ジュン! 何をしているんです? そろそろ切り上げてこっちに来てください。・・・え? 今取り込んでいる? 明日ではだめなんですか? タミヤマさんの容態? 悪くなる一方ですよ・・・。それに・・・」
ギルフォードは『このままだと明日はないかもしれない』と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「こちらにも君に伝えたい情報があるんです。え? ええ、電話じゃダメです。資料がありますから・・・って、ジュン?・・・ジュン!! ・・・切られました・・・」
ギルフォードは電話を耳から離すと画面を一瞥し、少し眉間にしわを寄せて電話を切った。由利子がため息をついて言った。
「こうなってくると、むしろ現実逃避やね。まったくもう、あのお子ちゃまは!」
「ほいじゃあ、今日は葛西君と会えにゃあだか?よだるいねえ。」
ジュリアスはそう言いながらお茶をグイッと飲んだ。
「ぐい飲みで日本酒を一杯やっているみたいですね」
ギルフォードが冗談を言ったが、誰も笑わなかった。

 病室は静かで、生体モニターの音と酸素マスクに酸素が送られる音だけが聞こえる。多美山はあのまま目を覚ますことなく、依然危険な状態にいた。すでに鼻や耳からの出血が始まっていた。息子の幸雄は横に座ったまま、ずっと父親の手を握っていた。見かねた園山看護士が言った。
「幸雄さん、そろそろ防護服でいるには限界が近いんじゃないですか? 特にそのマスクは呼吸し辛いでしょ? 僕らだって時間で交代しているんだから、あなたも少し休まれてください。何かありましたら、すぐにお呼びしますから・・・」
「いえ、着がえに時間がかかるし、万一に間に合わなかったら後悔しそうで・・・」
「幸雄さん」
三原医師が言った。
「申し訳ないのですが、病状がこれ以上悪化した場合、医療関係者以外はここから退出していただくことになっています。どんなキケンなことが起こるか我々にもまったくわかりませんから、万一の感染リスクを考えてのことです」
「そんな・・・。じゃあ、もしも・・・の時には傍にいてやれないっていうことですか?」
「残念ながら・・・」
三原は頭を下げて言った。
「例の『窓』で見守っていただくしかないのです」
「何とかならないのですか?」
「なりません。それに、お父さんだってあなたに感染して欲しくないはずですよ」
そう言われると、幸雄は返す言葉がなかった。三原の言葉に幸雄が迷っていると、多美山がゆっくりと幸雄の方を向いた。目はあのままガーゼで覆われているが、少し意識が戻ったのか。
「父さん、起きたの?」
幸雄が少し嬉しそうな表情で言った。多美山は何か言いたげに口を動かしていたが、声帯をやられたのか声がほとんど出ないようだった。
「え? 何か言いたいの?」
幸雄は父親に耳を近づけようとした。慌てて園山がそれを止める。
「ダメです。念のためあまり近づかないで!! 僕が唇を読んでみますから」
それが聞こえたのか、多美山は出来るだけはっきりと口を動かそうとした。園山はじっとその口を読んで幸雄に伝えた。
「『ゆ・き・お、・・・おれ・は、いい、あとを、たの・む、しあわ・せ・に・・・』・・・・」
園山の最後の方の声がかすれた。多美山は、ようやくそれだけ言うと笑顔を作ろうとしたが、すでにそれは不可能になっていた。ウイルスが表情筋まで冒してしまったからだ。多美山はもはや全身をウイルスに席巻されていた。
「父さん、何弱気なこと言ってんだよ! らしくないだろ? しっかりしてくれよ!!」
幸雄は多美山の手を両手で握りながら言った。その時、多美山の身体が引きつりのけぞった。
「いかん! 園山君、幸雄さんを!!」
三原が叫ぶと共に、園山が幸雄を右手で抱え上げ多美山から引き離した。
「は、放して下さい! 父さん、父さん!」
幸雄は抵抗したが、見た目は長身で細身だが介護で鍛えている園山は、多少の抵抗にはビクともしない。慣れない手袋をした手から、空しく父の手がすり抜けた。園山の肩越しに父が見えた。身体を激しくひきつけた父の口から大量の黒い血が流れているのがわかった。その父の姿がどんどん小さくなっていく。幸雄が諦めずに父を呼び突ける中、三原が叫んだ。
「みんな、来てくれ!! 多美山さんの容態が悪化した!! 非常に危険な状態だ」
それを受けて、山口医師と春野看護士をはじめ、数人が駆け出した
「父さん! 父さーーーん!!」
何度も叫びながら、幸雄は園山と駆けつけてきたもう一人の男性看護士に抱え上げられて、病室から姿を消した。ドアが閉まり、幸雄の目の前から父の姿が消えた。
「うぉぉおおおおお・・・!!」
幸雄が号泣する声が、多美山の病室の中にまで聞こえた。三原は一瞬両目を堅く瞑った。

 多美山の激変は、すぐにギルフォードたちにも伝えられた。ギルフォードはすぐに葛西に報せるべく、携帯電話を手にした。
「出ませんね。電源は入っているようですけど」
呼び出し音が続く中、一向に電話に出ない葛西に、ギルフォードは流石にイラついた面持ちで電話を切った。それを見て由利子が言った
「とりあえず、ほっといて行きましょう。着信に気がついたら電話して来るはずよ」
「でも、病棟では携帯電話は禁止です」
「子どもじゃないんだから、その辺は何とかするでしょうよ」
由利子もイラッとして言った。
「アレックス、由利子の言うとおりだがや。とにかく行ってみよまい」
「わかりました。とりあえず留守録に入れておきましょう」
ギルフォードはそういいながらまた葛西に発信した。
「『ギルフォードです。多美山さんが危篤です。出来るだけ早く来て下さい』・・・と、これでよしっと。さあ、とにかく行きましょう」
ギルフォードはそういうと席を立った。残りの二人も追って席を立つと、急いで食堂を後にした。
 

 葛西は女を追っていた。ギルフォードからの電話を切った理由は、本当に取り込んでいたからだった。彼の追っている女は、あの真樹村極美だった。C川の現場周辺の調査を切り上げ、とりあえず署まで帰ろうと商店街までたどり着いた時、ふと見た果物店で店主らしい男と話している極美を発見したのだった。これはなんとしても呼び止め、職務質問をして彼女の目的を知らねばならない。場合によっては交渉しなければならないかもしれない。葛西はまっすぐ正攻法で極美に近づいていった。葛西が10mほど近づいた時に、店主の親爺と談笑していた極美が葛西のいる方向を見た。彼女はすぐに葛西の姿を見届けると、顔色を変え、店主への挨拶もそこそこに駆け出した。彼女は葛西があの時の刑事だということに気付いていて、彼から逃れようとしていることは明白だった。
「あ、こら、待てよ!!」
葛西はすぐに後を追った。極美もかなり足が速かったが、もともと陸上選手だった葛西の足にかなう筈もなく、最初人の間を上手く縫いながら逃げていたが、駅前の広場でとうとう追いつかれ、葛西から腕をつかまれた。
「キャーーーーーーッ!!」
極美はとっさに鋭い悲鳴を上げた。
「イヤーーーーーッ! 変質者よ、助けてーーーーー!!!」
「な・・・」
葛西は一瞬呆然とした。周囲を見回すと、何人もの人がこっちを見ていて、中にはフトドキにも携帯電話のカメラを向けている輩までいた。依然、ここぞとばかりにわめきまわる極美の手を意地で離さないまま、葛西は焦って言った。
「ち、ちがいます。僕は警察の者です。あなたに聞きたいことがあって・・・」
葛西は警察手帳を出して、見せようとした。その時、背後で声がした。
「僕の知り合いに何か用?」
「裕己さん!」
極美がほっとした表情で男の名を呼んだ。男は続けた。
「この人は何か犯罪を犯したのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
「警察だからって、犯罪者でもない女性を追い回して腕を掴むだなんて、野蛮なことをしていいの?」
「いえ、でも彼女は・・・」
そこまで言って葛西は口ごもった。何と言って良いのかわからなくなったのだ。
「彼女を離しなさい。このまま、この人をこの状態で人前にさらすなら・・・」
その時、葛西の手に激痛が走った。一瞬降屋の方に葛西の注意がいった隙に、極美が噛み付いたのだ。
「うわっ!!」
痛みに葛西が反射的に手を離したのを幸いに、極美は逃げ出した。
「待ちなさい!!」
葛西が再び彼女を追おうとした時、笑いながら降屋が言った。
「女なんか追っかけている場合じゃないんじゃない? 今、君の大事な人が大変なんだろ?」
「な・・・?!」
葛西は驚いて振り返った。しかし、そこにはもう降屋の姿はなかった。
「どういうことだ?」
一瞬呆然とする葛西。しかし、すぐに当初の目的を思い出し、極美を追おうと彼女の逃げた方向に駆け出したが、すでに極美もどこかに姿を消していた。
「しまった・・・!!」
葛西は悔しがったが後の祭りだった。
「一体何なんだ、さっきの男は・・・?!」
葛西は憮然として歩道に立ちつくしたが、手の痛みに気がついて噛まれた右手をじっと見た。掌の小指側にくっきりと歯型が残っていた。
(何なんだよ、まったく・・・)
葛西は思ったがどうしようもない。しかし、噛み付かれた手を見て秋山雅之のことを思い出した。もう一度あの公園に寄ってみよう・・・、と葛西は思った。

 葛西は公園の前まで来た。さっきからポツリポツリと小さな雨粒が時折頬に触れていた。葛西は自分が今日の天気予報すら確認していないことに気がついた。
(大雨になるのかな?)
葛西は思ったが、そんなことはどうでもいいような気がした。葛西は公園の門の前で立ち止まった。全てはここから始まったような気がした。ここで多美山が感染したのだ。あの時、皆に黙ってこっそりと自分だけここに来ていたら・・・、葛西は思った。それならば多美山の感染もなく、今も元気で走り回っているだろう。代わりにあの病院で今苦しんでいるのは、自分だったかも知れないが・・・。だが、自分だけで子どもたちを守れただろうか・・・。それは誰にもわからない。人生にやり直しは出来ないからだ。件の公園は未だ立ち入り禁止が解除されず、門の前には警官が見張りをしていた。葛西は彼らに敬礼して挨拶をするとそこを後にしようとした。数m歩いたところで、バイクが横を通り過ぎた。
(アレク?)
葛西はそのバイクを目で追った。しかし、ギルフォードのバイクよりいく分か小型だった。それでも赤いボディの大型のバイクだ。ライダーは体型からして女性のようだった。件のバイクは葛西の斜め前あたりで止まった。ライダーはバイクから降りて葛西の前に立った。
「ここら辺を流してたら、お会いできると思ってましたわ」
女性ライダーは、ギルフォードの秘書の紗弥だった。
「さ、まだ間に合うかも知れませんわ。感対センターまでお連れします」
葛西は状況が飲み込めずに言った。
「アレクに頼まれたんですか?」
「いいえ、私の独断ですわ。教授からあなたのことを聞いたので、なんとかしたいと思ったのです。さあ、ヘルメットをお渡ししますから・・・」
「いえ、僕はまだ行けません。まだ多美さんに報告するほどの成果を得ていないんです!」
頑なに拒もうとする葛西を見て、紗弥は美しい眉間を一瞬寄せると軽く葛西の頬を叩いた。
「え?」
葛西は呆然として頬を押さえた。
「あなたの相棒であり大先輩が危篤なんですのよ。今行かないと一生後悔しますわ」
紗弥は、静かな中に厳しさを交えて言った。
「危篤? ホントに・・・? 本当に多美さんは・・・」
葛西は急いでポケットの携帯電話を見た。ギルフォードからの着信が入っていた。さっきのごたごたで気がつかなかったのだ。
「アレクからまた電話が・・・。留守電も入ってる」
葛西はギルフォードからの留守録を聞いて、顔色が青ざめ、電話が手から滑り落ちた。紗弥はそれを見逃さずに地面に落ちる前に受け止め、葛西に渡した。
「ほら、しっかりなさいませ」
「紗弥さん、すみません。僕、やっぱり行きます。連れて行ってください」
葛西はとうとう現実を受け入れた。紗弥は微笑んで言った。
「さあ、まずこれを着てくださいな」
紗弥は半透明のビニールの袋のようなものを葛西に渡した。
「100円ショップので申し訳ないですが、レインコートとレインズボンです」
「え?こんなの着るんですか?」
「バイクでの雨を舐めてはいけませんわ。それでなくても風で体感温度がかなり下がりますのよ」
それを聞いて葛西はすぐにコート類を受け取ると身につけはじめた。
「如月君のオッサンヘルメットで申し訳ないですけれど・・・」
紗弥はそういいながら、白いヘルメットを葛西に渡した。葛西が準備している間に紗弥はバイクにまたがってエンジンをかけた。ヘルメットを押さえながら、葛西がバイクに小走りで近づいた。
「さ、後部席にまたがって、私の腰に手を回しておなかのところでしっかり両手を組んで!」
「え? いいんですか?」
「振り落とされたくなかったらそうしてくださいな」
「はい!」
葛西は返事をすると、焦って紗弥の言うとおりにしっかりと手を組んだ。細いけれど、大型バイクを操るだけあって、かなり鍛えた腹筋だった。
「組みました!」
「じゃ、行きますわよ!!」
紗弥はいきなりバイクを発進させた。
「うわ~~~~っ!」
ドップラー効果付きの葛西の悲鳴を残して、二人を乗せたバイクは見る見る姿を小さくしていった。


 三人は、多美山の病室に通じる『窓』の前に駆けつけた。ギルフォードとジュリアスは躊躇することなく窓に近づいたが、流石に由利子は数歩前で足が止まった。しかし、数秒後、意を決して二人と肩を並べて窓の前に立った。
 病室ではスタッフが忙しそうに動きまわっていた。多美山は、苦しそうに喘いでいた。口の周りには血の跡が残り、口の端からはまだ血が流れていた。目・鼻・耳からの出血も止まらないようで、春野看護士が何度もガーゼを取り替え血を拭っていたが、頭の周囲はすでにどす黒い血の染みが白いシーツに広がっていた。顔の表面も所々内出血の青黒い染みが出来ている。
「あれ?」
由利子は気がついて言った。
「息子さんがおられないけど・・・」
「多分、リミットが来たので、病室から出されたのでしょう」
「え? そうなんですか? 防護服を着ているのに」
「はい。放血する可能性がありますし、万一のことがあってはいけませんからね」
「そういうことですか・・・」
由利子は納得したのかそうでないのかよくわからない表情で答え、もうひとつ質問した。
「で、人工呼吸器はつけないんですか? 延命拒否をされたから?」
「違いますよ、ユリコ」
ギルフォードは説明した。
「もう、呼吸器官がボロボロなんで、送管出来ないんです。無理につけようとすると、大出血を起こしてしまいます」
「そんな・・・。じゃあ・・・」
「酸素マスクに頼るしかありませんが、自発呼吸が出来なくなった場合・・・。いずれにしても、かなり苦しいと・・・」
「なんで・・・。昨日最初に会った時は、あんなに元気だったのに・・・」
「劇症化です。最悪な状態ですよ。マサユキ君のおばあさんと同じ状態だと思われます。原因はまだわかりません」
「昨日のような治療は?」
「もう・・・。多美山さんの手を見てください。包帯が巻かれていますが、血が滲んでいるでしょう? 点滴の針跡からも血が流れて続けているんです。皮膚も血管もボロボロなんで、うっかり針をさせないんです。おそらく内臓もかなりダメージを受けているはずです」
「・・・」
由利子は、何と言って答えたらいいのかわからず、無言でギルフォードを見た。彼は淡々と続けた。
「ベッドの横に下がっている袋が見えますね? あれは尿を溜めておくものですが、見てわかりますね、すでに血尿が出ています。おそらく、下血もしているでしょう。よく言われるような毛穴からまで出血することは滅多にありませんが、これが出血熱というものです。出血熱と言うのは、風邪と同じように、様々なウイルスによる出血性の疾患の総称で、特定の病名ではありません。この病気もウイルスが特定されれば、はっきりした病名がつきますが、今は、謎の出血熱としか言いようがないのです」
「アレク、もういいよ」
由利子は言った。
「流石に医者やね。こういうときには冷静だわ」
「ユリコ・・・?」
「褒めているのよ。私にはとても出来ないもの。こんな時にそんな説明・・・」
傍目からは、由利子自身もかなり冷静に見えたが、よく見ると手や膝などが小刻みに震えていた。それに気付いてジュリアスが言った。
「由利子、おみゃあさんもそーとー気が強いと思うがね。普通の女性ならこの状況を見るだけで耐えられにゃあて。よ~がんばっとるよ」
「逃げ出したいよ、本当は。でも、逃げちゃいけないんだ」
由利子は、正面を向いたまま言った。そこに、看護士に支えられて多美山の息子、幸雄がやってきた。すでに泣き腫らした目をしていた。三人は彼の方を向くと、無言で挨拶をして椅子に座らせた。
「危険ということで、追い出されました・・・」
幸雄は、寂しい笑顔で言った。
「結局何の役にも立てませんでした・・・」
「そんなことはにゃあて!」
ジュリアスが力強く否定して言った。
「幸雄さんは、病室に入ってずっとお父さんを励ましとったでしょう? 普通、感染が怖くてそこまで出来にゃーんだなも。きっとお父さんも心強かったと思うて」
「そうでしょうか?」
幸雄はうつむいたまま訊いた。
「そうに決まっていますよ!」
由利子が、ジュリアスに援護するように言った。
「ありがとうございます。少し気が楽になりました・・・・ところで、あの・・・」
相変わらずうつむいたまま、幸雄が尋ねた。
「この病気が人為的にばら撒かれたものというのは本当でしょうか・・・?」
三人は顔を見合わせ、ギルフォードが答えた。
「このウイルスの出処がはっきりしない限り可能性はないとは言えません。しかし、あくまでも可能性です。そして、多美山さんはその捜査にあたる予定でした」
「父は身体を張って子どもたちを感染から守ったと聞きました。僕はそんな父を誇りに思います。そして、このボロボロになった父を目の当たりにすると・・・。僕は、父を見て育ち、それゆえに警官になることを避け、平凡なサラリーマンの道を選びました。でも、今は、自分が父と同じ道を選ばなかったことを後悔しています。何も言わなかったけど、父は僕に後を継いでほしかったに違いありません。だから、葛西さんに対してあんな風に・・・」
幸雄は、くぐもった声で淡々と言った。しかし、それが却って彼の持って行き場のない悲しみを際立たせた。
「ユキオさん、あなたには大事なことがあります。家族を守ることです。これから何が起こるかわかりませんから。タミヤマさんもそれが気がかりなのだと思います」
ギルフォードが言った。
「ええ、そうでしたね。父は僕に後を頼むと言いました。それは、家族を守れということなんですよね」
幸雄が頷いて言った。そこに、園山看護士の声が会話の流れを絶った。
「幸雄さん、多美山さんが何かうわごとを言っておられるようですが」
「え?」
幸雄は驚いて病室を見つめた。
「えっと・・・の・はまべ・には、お・や・を・なく・し・て、なく・とり・が・・・何なんです、これは?」
園山は、多美山の唇を読んで戸惑いを隠せずに言った。ギルフォードがすぐに気がついて答えた。
「あ、これは歌です。『浜千鳥』という日本の唱歌ですよ」
「ああ、昨日お話に出ていた歌ですね。でも、なんで、そんな歌を・・・」
園山は余計に戸惑って言った。ギルフォードは昨日の多美山との会話を思い出して言った。
「そういえば、タミヤマさんは言っておられました。娘さんや奥さんが亡くなられた時に、この歌が頭から離れなかったと・・・」
「そんな・・・。まさか、父はこんなときにそんな辛い時の夢を見て・・・?」
幸雄が両手で顔を覆いながら言った。
「いえ、そんなことは・・・」
ギルフォードが言いかけたそばから、
「違うわ!」
と由利子がはっきりと否定した。
「そういうときに思い出すような歌ですから、多美山さんにとってご家族との深い思い出がある歌なのだと思います。きっと、多美山さんは家族みんなで過ごした頃の夢を見ているんです。奥さんや娘さんや・・・もちろんあなたも一緒の・・・」
「そうでしょうか・・・」
幸雄はようやく顔を上げ、父の姿を改めて見ながら言った。
「きっとそうです」
由利子は幸雄を安心させようと、少しだけ笑顔を浮かべて答えた。
 多美山は小康状態を取り戻したかのように見えた。病室やスタッフステーションの緊張が少し和らいだ。
 しかし、それは束の間のことだった。ステーションのセントラルモニターで、多美山の容態を監視していた高柳が、いきなり立ち上がって多美山の病室の窓に走った。病室内のスタッフも慌しく動き始めた。高柳はマイクを取って、様子を見ながら病室内のスタッフに指示をしていた。遠目の効くギルフォードは、ベッドサイドモニターの画面を見て体を乗り出している。
「な、何があったの?」
不安そうに由利子が聞くと、ジュリアスがすぐに答えた。
「急に血圧と心拍数が下がったみたいだてよ。こりゃーまずいわ」
「え?」
「体内で大出血が起こっているかもしれんて」
「そんな・・・」
由利子はそれを聞いて幸雄の方をとっさに見た。彼は蒼白な顔をして身じろぎもせず病室を見ていた。
 皆が慌て始めたとほぼ同時に、多美山が今までにもまして苦しそうに喘ぎ始めた。
「いかん、気道に血液が急激にたまっているんだ。春野君、急いで吸引して!」
「はい!」
春野がそういって多美山のそばに行こうすると、いきなり多美山が半身を起こした。
「多美山さん? どうされました?」
春野が驚いて声をかけ近寄ろうとした。それを見て山口が何かを感じ取って言った。
「春野さん、待って!」
しかし、春野は反射的に患者の元に向かっていた。
「あぶない、よせ!」
と叫んで園山が咄嗟に立ちはだかりそれを阻止した。その時、ゴボッと嫌な音がして、多美山の口から塊の混じった大量の血液が噴出した。園山の防護服の背に大量の血が飛び散った。多美山はそのまま血を撒き散らしながら昏倒したが、すぐに全身が痙攣し身体が弓なりに反り返った。『幸いにも』それは長く続かなかった。十数秒後、多美山の身体は力なくベッドに沈み、傍目からもわかるように見る見るうちに全身の力が抜けていった。そして、そのまま彼は動かなくなった。生体モニターの波形の静止する音が、静まり返った病室に空しく響く。多美山の身体の下からは、じんわりと血が滲んで広がっていった。口からはまだ生々しい血が流れていた。
 全てが突然だった。あまりのことに、皆、身じろぎも出来ずにただ呆然と立っていた。

 その頃葛西はようやくセンターの前にたどり着いていた。だが、紗弥の助けがなければとてもこの時間にはたどり着けなかっただろう。
「雨具はそのまま脱ぎ捨てて! 早くお行きなさいませ!」
「ありがとう! お言葉に甘えます! あ、これ、如月さんにもよろしく!」
葛西はそう言いながらヘルメットを返し、雨具の上下を脱ぎ捨てて、脱兎の如く室内に走った。走りながら、今までの多美山との沢山の思い出が甦っていた。
(多美さん、多美さん、どうか死なないで・・・!)
葛西は心の中で叫んでいた。

 園山が、最初に我に返った。
「蘇生を・・・」
彼はとっさに言った。しかし、三原は静かに首を横に振った。
「どうして!」
「ウイルスに全身を冒されて、免疫の暴走で多臓器不全を起こし、ウイルス増殖の結果、内臓も呼吸器も大出血で血の海だろう、おそらく脳も! そんな状態で蘇生してどうなるっていうんだ!! 見ろ! ベッドも床もそして君も、血だらけなんだぞ!」
三原が珍しく激しい言葉を吐いた。しかし、すぐに冷静に戻って言った。
「成功したとしても、多美山さんを無駄に苦しませるだけだ。わかるだろ、園山君」
園山は黙って下を向いていた。しかし、その肩は小刻みに震えていた。由利子たちは、その様子を身じろぎもせずに見ていた。由利子にはまだこれが現実であるような実感が湧かない。悪夢としか思えなかった。高柳が静かに言った。
「多美山さんは、延命拒否をされていただろう。園山君、君の気持ちはきっと通じているよ。それから三原君・・・」
三原は高柳に促されて死亡の確認をすると、開いたままだった多美山の目をそっと閉じた。その後、低音だがはっきりとした声で幸雄に言った。
「残念ですが、亡くなられました。死亡時刻は午後4時7分です・・・。力が足りず申し訳ありませんでした」
「いえ・・・」
幸雄はしっかりした口調で答えた。
「最善を尽くしていただいて、父も感謝していると思います。ありがとうございました・・・」
だが、その後またがっくりとうなだれてしまった。
「春野君、清拭をお願いします」
三原に言われて、未だ呆然としていた春野が我に返った。
「はいっ」
彼女はすぐに返事をすると、多美山の遺体に向かい手を合わせた。その様子を見ながら、幸雄が言った。
「由利子さんでしたっけ・・・」
由利子はいきなり呼ばれて内心驚きながら答えた。
「はい」
「さっき、あなたが言ったことで思い出したんです。昔、父がまだ交番勤務だった頃ですが、当時も父は忙しくて、なかなか夜一緒に寝ることが出来ませんでした。でも、添い寝してくれる時、子守唄代わりに必ず歌ってくれたのが、さっきの『浜千鳥』だったんです。子供心になんであんな悲しい歌を歌うんだろうって思ってましたけどね・・・」
幸雄はそういうとクスッとわらった。
「聞いたら、おれも子どもの頃母ちゃんに歌ってもらったんだって言って・・・。意外とマザコンだったんですね。母も年上だったし・・・」
そういうと、幸雄はまた笑った。悲しい笑顔だった。
「ありがとうございます。由利子さんの言われたとおり、父はあの頃の夢を見ていたんだと思います。それなりに穏やかな日々でした」
幸雄はそこでまた言葉を切った。こみ上げる何かをこらえるように彼は続けた。
「無骨で不器用な人でした。でも誠実でまっすぐな人でした。仕事熱心でしたから、ひょっとしたらいつか殉職するんじゃないかって・・・、生前母も心配して・・・。だけど、こんな死に方・・・。酷い、酷すぎます。 父が何の悪いことをしたって言うんです? 何でここで死ななきゃならないんです? 父さんは・・・、父さ・・・」
幸雄の口から嗚咽が漏れた。こらえきれずに声をひそめて泣く幸雄を前に、高柳を含む4人はかける言葉もなく、ただ立っていた。
「うそだろ・・・、多美さん・・・」
そんな彼らの背後で、声がした。振り返ると、いつの間にか葛西が、息を切らせながら倒れそうなほど蒼白な顔で、呆然と立っていた。 
 

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
浜千鳥(索引から「は行」に飛んで該当曲を探してください)
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4.衝撃 (6)新たな誓い

 楓は、多美山の家に無事に帰り着いていた。
 娘の梢は夫が心配だからと、孫の桜子を楓に任せて、とんぼ返りで感対センターに引き返してしまった。それで、仕方なく孫と二人で多美山の家に居るのだが、いくら娘婿の実家であるとはいえ、所詮「他所の家」、どうも主不在の家にいてもくつろげない。
 一方孫の桜子のほうはといえば、長旅となれない病院で緊張したせいか、何とか家に帰りつくまで頑張っていたが、家に入って落ち着くと、着がえもそこそこに転寝をしてしまった。帰る途中、駅のうどん屋で少し遅い昼食を摂ったので、おなかいっぱいになったせいかもしれない。それで、楓は仕方なく押入れから適当に寝具を出して孫を横に寝かせ、自分はすることもないのでテレビをつけて、買ってきたペットボトルのお茶を飲みながら、なんとなくぼうっと二時間サスペンスドラマの再放送を見ていた。
 ドラマが中盤に差し掛かったころだろうか、横で気持ち良さそうに寝ていた桜子がいきなり起き上がって言った。
「おじいちゃん、かえってきた?」
桜子は、寝ぼけ眼できょろきょろと部屋を見回すと、またころんと布団に転がって寝てしまった。
「なんなの? この子ったら・・・」
楓はそう言ったものの、なんとなく嫌な予感がして時計を見た。時間は夕方4時を少し回ったくらいだった。楓は、桜子が踏み脱いだタオルケットを、再度掛けなおしてやると再びテレビドラマの続きを見始めた。しかし、すでに楓は真剣にドラマを見るどころではなくなっていた。
 彼女らがこの家にたどり着いた頃は小降りだった雨は、本格的に降りはじめていた。

 葛西はふらふらと歩いて窓に近づいてきた。
「葛西君・・・、やっと来た・・・」
由利子は葛西の方を見て、少しだけ微笑みながら言った。しかし、葛西はそれに気がつかないようだった。周囲は何も目に入らず、葛西はただ多美山のほうに向かっていた。葛西はドンとガラス窓にぶつかると、両手を窓につき、額を擦り付けるように病室内を見た。そこには血まみれの多美山の姿があった。スタッフの何人かの防護服にも血が飛び散った跡があった。園山看護士は、三原に命令され病室から退去していた。防護服の上からとは言え、大量の血液を浴びていたし、何より三原には、園山がすでに精神的に限界に至っていたのがわかっていた。多美山が発症してから、ろくに休まずに彼のそばについていたからだ。
 葛西は黙ったまま病室を見た。多美山の身体からはすでに機材が外され、看護士が顔の周囲を拭っていた。しかし、葛西はすぐに顔を病室からギルフォードの方に向けて、戸惑ったような表情で言った。
「アレク・・・、あの・・・」
「残念ですが、亡くなられました。ここで多美山さんとお別れですよ・・・」
「お別れ・・・?」
「ええ。病理解剖のあと、火葬されます。もう、会えないんですよ」
「うそ・・・」
葛西が小さい声でつぶやいた。
「うそじゃないですよ・・・。最後のお別れに間に合ってよかったですね」
「間に合った・・・?」
葛西はまた病室の方を向いてつぶやいた。
「いや、僕は間に合わなかった・・・」
葛西はそれからまたおし黙った。しかし、その背中はかすかに震えていた。しばらくして葛西がつぶやくように言った。
「多美さん・・・」
その後、いきなり窓にガンッ!と思い切り額をぶつけた。
「何するの! 割れたらどうするのよ!」
由利子が驚いて言った。しかし、葛西はそのままの姿勢で窓にへばりついていた。彼の背は、今やはっきりと震えていた。と、いきなり葛西が大声で多美山を呼びながら、窓を叩いた。
「多美さん! 多美さん! 目を覚ましてよ!! 死んだなんてうそでしょ・・・?」
半泣きで叫ぶ葛西を、幸雄が戸惑ったような表情で見た。ギルフォードはその様子を見ながら言った。
「まあ、この窓はあれくらいの衝撃ではビクともしませんが・・・、そばに息子さんがおられるのに、困りましたね」
「彼は多美山さんを父親のように思っとったんだろ? 無理にゃあて」
ジュリアスは同情的に言ったが、ギルフォードは厳しい顔で葛西に近づき彼の手を掴んで言った。
「もういいでしょう? そのくらいにしておきなさい」
ギルフォードに手を掴まれ、反射的に振り返った葛西が言った。
「アレク、僕、多美さんのそばに行きます。行かせてください!」
「それはダメです。我慢してください」
「いやだ! 多美さん!多美さん!!」
葛西はギルフォードの手を振り切って駆け出そうとした。ギルフォードは、ジュリアスと二人がかりで葛西を止めながら言った。
「ダメです! どこに行くつもりですか!」
「僕は多美さんにありがとうも何も言っていない! だから、多美さんのそばに行かなきゃ! 離してよ、アレク! 離せってば!」
「落ち着きなさい、ジュン!」
静かだが鋭い声と共に、ぱん!という乾いた音がした。ギルフォードが葛西の頬を打った音だった。ギルフォードは、葛西の耳元で言った。
「見なさい! これが、テロリストのしでかしたことです」
ギルフォードは葛西の襟首を掴むと、無理やり病室の方に彼の顔を向けた。
「目に焼き付けておきなさい、タミヤマさんの姿を・・・! 僕たちの・・・、君の戦う敵は、人に対してこんな残酷な仕打ちをするウイルスを、平気でばら撒くことが出来る連中なんです。彼らはウイルスを操作し培養出来る能力と、それを躊躇せず使用出来る冷酷さを持っているんです」
ギルフォードに現実を突きつけられ、葛西は否応なく目の前のことを受け入れざるを得なかった。彼は、へなへなと座り込んで、がっくりとうなだれた。由利子は葛西の様子をずっと無言で見ていたが、とうとう切れて怒鳴った。
「いい加減にしなさい! 多美山さんね、あんたが一人で頑張って捜査しているって聞いて、こん睡状態の中で笑っておられたんだよ。それだけ嬉しかったんだよ。なのに、そのテイタラクは何よ!」
ギルフォードとジュリアスが驚いて由利子の方を見た。由利子は涙をポロポロこぼしながらも腰に手を当て、続けて怒鳴った。
「しっかりしろ、葛西刑事!! 立ちなさい! ちゃんと立って、多美山巡査部長に最後の捜査報告をしなさい!!」
由利子に一喝されて、葛西は一瞬ぽかんとしたが、すぐに弾かれたように立ち上がり、姿勢を正した。
「多美さん、取り乱してすみませんでした! 報告します!」
葛西は敬礼をした後、直立不動の体勢で報告を開始した。
「今日は、早朝から公園周辺をまわり、いくつかの証言や情報を得ました。それからC川周辺で聞き込みをして、学生から少し変わった情報をもらいました。その後、商店街で美千代の事件で公園にいた女性を発見、追跡しましたが、何者かの妨害にあって取り逃がしてしまいました。詳しいことは調書に書き込みます。以上報告を終わります!」
葛西は報告をし終わると、また敬礼をして、今度はそのまましばらく立ち尽くしていた。顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「なにも、口に出して報告しなくてもいいのに・・・」
由利子が困ったような顔をしてつぶやいた。
「まあ、彼なりに配慮していたのか、詳細まで言っていませんから大丈夫でしょう。それより、今話に出た例のキワミという女のことがますます気になりますね。少なくとも仲間が居るようです。・・・あ、ちょっと待ってください。サヤさんが来ていますので」
ギルフォードは入り口に紗弥が立っているのに気付き、彼女の方に向かいながら付け足した。
「ユリコ、涙はちゃんと拭いてね」
由利子は焦ってジーパンのポケットからハンカチを出すと、涙を拭いながら言った。
「流石に冷静やね、アレクは」
「そう見えるかね?」
ジュリアスが言った。
「今日はほとんど、いつものアルカイックスマイルを浮かべとらんだろ? 今も笑っとらんかった。あいつに全く余裕がにゃあってことだ。由利子が切れなかったら、あいつが切れとったかもしれにゃあて」
「ふうん。そうなんだ」
由利子とジュリアスは、戸口で紗弥と話すギルフォードの方を同時に見た。由利子にはいつもとあまり変わらない様に思えたが、確かにその顔はいつもと違って妙にこわばっている。それに・・・、由利子は思った。そういえば、今日は何となく妙に元気を装っていたような気もする・・・。由利子は何となく納得した。もっとも、空元気を出していたのは由利子も同じだったが、彼女はそれに気付いていなかった。
 葛西は幸雄の横に立ち、二人は静かに病室を見ていた。その横で、今まで黙って病室の様子を見守っていた高柳が幸雄に言った。
「幸雄さん。あとでお父さんの今後についてお話がありますから、ここでしばらくお待ちください」
「はい。色々とありがとうございます」
幸雄は頭を下げて言った。それから少しして、梢が姿を現した。
「あなた・・・」
梢は異様な雰囲気に戸惑いながら夫に声をかけた。
「梢・・・」
幸雄は哀しい笑みを浮かべて言った。
「父さん・・・、逝ってしまったよ・・・」
「ええ・・・」
「がんばったけど、ウイルスに勝てなかった・・・。あんなに強靭だった父さんが・・・、最後の方は苦しんで、苦しんで・・・、なのに、最後の最後は本当にあっけなく・・・」
「お義父さん、よく頑張られたわ。それに、最後まで刑事の誇りを捨てなかったと思うわ」
「うん・・・、そうだよ。でも、意識を失う間際に一人の父親に戻ってくれた・・・」
「そう・・・そうだったの・・・」
梢はそういうと、幸雄の横にそっと座った。由利子とジュリアス・葛西を加え、5人は静かに多美山の旅立ちを見守っていた。もはや、みんなが押し黙っていた。それは、嵐が去った後の無力感に似ていた。

 多美山の身体は、見映え良く清拭された。まだ血を流している身体は毛布でしっかり覆われ、感染防止用の透明な袋を装備したストレッチャーに乗せられた。今週の月曜まで強靭に駆け回っていたその身体は一回りも二回りも小さくなって、ぐったりとし、持ち上げられるがままになっていた。目は二度と開かれることなく、彼の実直で無骨な博多弁も二度と聞くことは出来ない。内線をオープンにして、三原が皆に伝えた。
「今から多美山さんを安置室にお送りします。医療スタッフ以外の方はこれが最後のお別れです。みなさん、お見送りをお願いします」
それを聞いて、ギルフォードと紗弥が駆けつけ、ジュリアスの横に並んだ。手の空いたスタッフたちも窓の前に並んだ。幸雄と梢が椅子から立ち上がった。梢の左手は幸雄の右手をしっかりと掴んでいた。
 皆の見守る中、袋の口が閉じられようとしていた。葛西が敬礼の姿勢をとった。ギルフォード、次いで紗弥が彼に続いて敬礼した。周囲も彼らに従い、多美山はいつしか敬礼する沢山の人たちに見守られていた。病室内のスタッフ達に守られ、多美山を乗せたストレッチャーはゆっくりと動き出した。その時、スタッフステーションのドアが開いて、多美山危篤の知らせを受けた森の内知事がようやく駆けつけて来た。彼は状況を把握すると、窓に近づいて姿勢を正してサッと敬礼をした。お付の警護の者たちもそれに倣った。
 ストレッチャーはゆっくりと病室を移動し、病室を出て行った。ドアが閉まり、多美山はとうとう葛西たちの前から姿を消した。病室にはまだ血だらけのベッドや機材等の戦いの跡が残り、スタッフが片付けを再開しはじめると共に窓が曇り、中の様子が見えなくなった。

 周囲の人たちも仕事に戻り、多美山の息子夫妻は高柳から説明を聞くために、病室の前から去って行った。紗弥も、仕事をやりかけてきたからと、大学に戻っていった。しかし、葛西は未だ病室の前に立ちつくしていた。ギルフォードたちは、そんな彼を静かに見守っていた。
「葛西君、もういいやろ? とにかくここから出よう、ね、ね?」
由利子がたまりかねて声をかけた。葛西が気の抜けたような声で言った。
「多美さん、行っちゃった・・・」
「うん。悲しいね・・・」
由利子はそう言いつつ葛西の肩にそっと手を置いた。葛西は病室の方を向いたまま、肩を震わせ低い声で言った。
「僕・・・僕は・・・このウイルスを撒いた連中が憎い・・・! 絶対に許せない・・・!! 必ず犯人を挙げて多美さんの仇を打ってやります!!」
「ここにいるみんなが同じ気持ちだよ。でも、ここに立っていたって何も動かないやろ。多美山さんも、今、きっとこう言っておられるはずだよ。『ジュンペイ、なんばしとっとか。事件はおまえば待ってはくれんとぞ。いつまっでも落ち込んどらんと、さっさと捜査に戻らんか』ってね」
「・・・そうですね。そうですよね・・・」
「さ、行こ。これからは弔い合戦だね」
由利子は葛西の手を掴んで、他所に連れて行こうと彼の腕を引いた。それを引き金に、葛西が今まで何とか押さえていた感情が堰を切ったようにあふれた。彼は由利子にしがみつくと、外聞もなく号泣した。
「え~・・・っと・・・、葛西君? ・・・あのぉ、アレク、これ、どうしましょう?」
由利子は戸惑って、しがみついている葛西の背を指差して言った。ギルフォードは肩をすくめて答えた。
「仕方ないですねえ・・・。ユリコ、今日は君に塩を送りますよ。僕らはこれから色々話し合わなければなりませんから、しばらくその馬鹿ちんのお守りをしていてください」
ギルフォードはそう答えると、さっさと会議室の方に歩いて行った。
「塩を送るって、アレックス、どういうことだがや」
ジュリアスがブツブツ言いながらその後を追う。
「いや、そんな塩いらねーし・・・。 って、こら、アレク、この状態で置いて行くな! 戻ってこーい!!」
由利子は大声で言ったが、ギルフォードが振り返ることはなかった。
「ったく、もう・・・」
由利子は彼らの背を一瞥し、自分にしがみついて泣くでっかい子どものせいで、張り付く周囲の視線を気にしながら、そういえば、最近美葉ともこんなことがあったなあと思い出しつつ、やっぱり困っていた。

 ギルフォードがジュリアスと共に会議室に向かっていると、高柳と一緒に森の内知事が現れた。
「ギルフォード先生」
「知事、いらしてたんですか」
「はい。なんとか、多美山さんとのお別れに間に合いました。でも、私はもう帰らねばならないので、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょう?」
「この新型ウイルスの公表についてのことです。出来たら今夜にしたかったのですが、議会で一部から猛反発がありまして、もう一度資料をそろえて明日の朝、もう一度審議を行います。多美山さんが亡くなられたこともありますから、必ずみんなを説得します。それで、新型ウイルスについての解説を、高柳先生にお願いしたのですが、この事件の対策室顧問として是非ギルフォード先生にもお話をお願いしたいと・・・」
森の内のオファーに、ギルフォードが少し悲しい顔をして言った。
「せっかくですが、辞退させてください。僕のような胡散臭いガイジンが話しても逆効果かも知れないし、解説ならタカヤナギ先生お一人で充分だと思いますし」
「そんなことをおっしゃらずに・・・」
「いえ、それに、今度は大丈夫だと思うんです。現役の警官が亡くなったこととその経緯、そして感染者の増加、以上のことを踏まえると、いくら石頭でも公表せねばならないことは理解できる筈です」
「そうですか、やっぱりダメかあ・・・」
「すみません」
「仕方ないですね。ま、そういうわけで、公表はおそらく明日の夕方辺りになると思います」
「翌日は月曜ですね。妙なパニックを招かねばいいのですが・・・」
「それより、どれだけの人が信じてくれるかの方が心配だな」
今まで黙っていた高柳が言った。
「じっさい、今のところ事件に関わった人の数はわずかだし、感染者や死者の数はもっと微々たるものだからね」
「でも、アキヤマ・ミチヨからの感染ルートが解明しやすくなります。今までろくに情報を集められなかったですからね。それに、感染容疑者の保護と監視もしやすくなります」
ギルフォードは続けた。
「でも、本当はもっと早くから公表すべきだったんです。遅くとも、ミチヨの事件の時には公表すべきでした。はたして、この遅れがどう影響するかが問題ですね」
「僕の力が足りないばかりに申し訳ない・・・」
森の内がうなだれて言った。高柳がすぐにフォローした。
「いえ、知事一人の責任ではないでしょう。それに、ひとつの都市の、いや、下手をすれば国自体の経済を左右する決断ですからな。法はどうあれ、公表に踏み切るには相当の勇気がいるでしょう」
ギルフォードも非礼を詫びた。
「責めるようなことを言ってすみませんでした。そんなつもりはなかったんですケド・・・」
「いえ、事実は事実ですから、真摯に受け止めます。・・・ところで、さっきから気になっていたんですが、ギルフォード先生の横におられる方は?」
森の内は、ジュリアスの方を見ながら尋ねた。
「あ、彼は僕の友人で、アメリカのH大の講師をしている、ジュリアス・キング君です。お兄さんは、CDCの研究者で、今、この新型ウイルスについて調べて下さっているハズです」
「おお、よろしくお願いいたします。F県知事の森の内 誠と申します」
「ジュリアス・キングです。お目にかかれて光栄です。森の内知事。僕が子どものときに見た『今夜も騒がナイトショウ』の司会の方とお会い出来るなんて思ってもいませんでした」
「おお、あれをご存知でしたか。それに日本語も堪能で・・・」
「子どもの頃、名古屋に住んでいましたから」
「じゃあ名古屋弁がお分かりになる?」
「むしろ、そっちの方がしゃべりやすいです」
「じゃ、名古屋弁でよかですよ」
森の内がざっくばらんに言ったので、ギルフォードがあわてて言った。
「無礼にならない程度にお願いしますよ、ジュリー。うっかりすると、フレンドリーになりすぎますからね、あれは」
「わかっとるがね」
ジュリーはニッと笑って答えた。

 由利子たちは、桜子と会った、あの待合室でギルフォードたちの帰りを待っていた。葛西はだいぶ落ち着いており、バツの悪そうな表情で座席に腰掛けていた。二人とも、何となく照れくさくてあれからずっと黙っていた。
「よ~、やっぱ、そこにおったかね」
と、そこにジュリアスがようやく姿を現した。葛西は戸惑った顔をして、名古屋弁を話しながら親しげに手を上げて近づいてきたイケメンの黒人を見ていた。ジュリアスはニコニコしながら二人の前に立った。
「あ、葛西君、彼が昨日のジュリアスさんよ。ジュリー、もう知ってると思うけど、彼があなたの会いたがっていた葛西刑事よ」
「葛西さん、お会いしたかったがね。ジュリアス・キングだなも。ジュリーって呼んでちょおよ」
ジュリアスは親しげに笑って葛西に右手を差し伸べた。葛西はその右手を掴みながら言った。
「あなたがジュリーさんでしたか。さっきはみっともない姿をお見せしてすみませんでした。葛西純平です。呼び名はジュンで良いです。アレクが僕をそう呼んでますんで」
二人はしっかりと握手をした。由利子はギルフォードの姿がないことに気がついて聞いた。
「ところで、アレクは?」
「ああ、アレックスなら西原ゆういち君だったかね、彼のところに行ったわ。多美山さんのことを伝えるためとゆーことだわ」
「報せて大丈夫なの?」
「いずれ知ることになるだろうからね、隠すよりもちゃんと報せるべきだということになったんだわ。それで、アレックスが適任ってゆーことになってよ」
「そっか。損な役回りよね、アレクも」
「そうですね」
葛西が同意した。
「それにしても・・・」由利子が外を見ながら言った。「中に居たから気がつかなかったけど、ずいぶんと大降りになったものね」
「僕が紗弥さんにバイクで送ってもらった時、すでに大降りになりつつありましたから・・・」
「なんだか、涙雨みたい」
由利子がしみじみと言った。

 祐一はギルフォードから多美山の死を知らされたが、意外と淡々として言った。
「そうですか、あの時の刑事さんが・・・。なんとなくスタッフの方たちが慌しかったので、そんな予感はしていました・・・。でも・・・」
「おにいちゃん、どうしたと?」
本を読んでいた妹の香菜が、戸口で密かに何者かと話す兄に、訝しげに聞いた。
「たいしたことじゃないよ。いいからそこで大人しくしておいで」
「は~い」
香菜は、口を尖らせながら、兄の言うことを素直に聞いて、また本の方に目を向けた。祐一は香菜を制すると、すぐにギルフォードの方に向きなおして言った。
「そんなにお悪かったんですか・・・」
「はい。木曜の夕方から症状が出始めてから、あっという間でした」
「そう・・・ですか・・・・」
「大丈夫ですか? ユウイチ君。顔色がよくないですよ」
「はい。でも、実はオレ、正直あまりピンときていないんです。あれからすぐにここに入れられましたし、その刑事さんともお会いしていないので・・・。でも、ひょっとしたらそれは・・・オレや香菜、最悪、ヨシオや錦織さんの運命だったのかも知れないんですよね・・・」 
「自分を責めちゃだめですよ。タミヤマさんも、それを心配されていました」
「はい。でも、やっぱり・・・」
祐一は、眼を伏せながら言った。
「・・・せめて、もう一度お会いして、一言お礼を言いたかった・・・」
祐一の目から涙がこぼれた。
「あれ? 変だな? 全然実感が湧いていないのに、涙が・・・。あれ? 止まらないや・・・、何でだろ・・・?」
祐一は、意思に反して流れ続ける涙に戸惑っていた。
「ギルフォードさん、オレ、何で・・・・」
「ユウイチ君、泣いていいんですよ。こういうときは泣いていいんです」
ギルフォードは、祐一の肩にそっと手を置いて言った。祐一は、そのままギルフォードに寄りかかるようにして、泣いた。ギルフォードは、祐一の肩を抱きながら言った。
「ユウイチ君、ひとつだけ約束してください。タミヤマさんが自らの命を懸けて守ってくれた命です。絶対に、絶対に粗末にしないでください。ヨシオ君やあの利発なお嬢さんにもお伝えください。お願いしますね」
「はい」
祐一は、涙の中でしっかりと頷いた。

「由利子、えーことを教えてやるわ」
葛西がトイレにたった間にジュリアスが言った。
「さっきな、ジュンが泣いとった時、アレックスのヤツ、さっさと行ってしもうただろ? あの時、実は貰い泣きしとったらしいがね」
「え? なんで?」
「あの後な、おれの方もまったく見ずに、トイレに駆け込んだんだわ」
「それが?」
「そりゃーおみゃあ、男がトイレに駆け込む理由は3つしかないわ。行きたい時と行きそうな時と泣きそうな時だがね」
「行きたい時と行きそうな時の区別は聞かないでおくとして・・・」
由利子は苦笑しながら言った。
「泣きそうな時ってのは納得できるわね。女性だってそうだもん」
「あいつ、あー見えてけっこう泣き虫なんだわ」
ジュリアスは急に真面目な顔をして言った。
「由利子、あーゆーややこしいヤツだもんで、よろしく頼むわ」
「何よ、いきなり」
由利子が笑いながら言うと、ジュリアスはさらに真剣な顔をして続けた。
「由利子、おみゃあにはあいつについて話しておきたいことがよ~けあるんだがね、どこまで話してえーのかよーとわからんのだわ。おれは来週国に帰るけどな、正式に許可をもらってまたここに戻ってこようと思っとるんだが、正直どうなるかわからんて。ほんだで、由利子、その間おみゃあにあいつをフォローしてほしいのだわ」
「フォローなら、紗弥さんがおろーもん?」
「おっと、由利子、釣られて方言が出ただろ?」
ジュリアスは、ニッと笑って言った。
「まあ、おもりとフォローは違うて」
「お守りって、エライ言い方されてるなあ、アレクも」
ここまで話している間に、葛西がトイレから戻ってきた。
「ま、そういうことで、今度な」
ジュリアスは軽くウインクをしながら由利子に言った。
「すみません、お待たせしました」
葛西は頭を掻きながら言った。由利子は、彼の前髪が濡れ、また目が赤くなっているのに気がついた。
(こいつもトイレに駆け込んだクチやね。で、顔も洗ったんだ)
由利子はさっきジュリアスが言ったことを思い出して、少し可笑しくなった。

 すっかり片付いて、今や多美山が居た形跡の全くなくなった病室に、防護服をつけた大男が独り入ってきた。彼はゆっくりと、今や台だけになったベッドに近づき、それを眺めながらしばらくじっと立っていた。男は、ギルフォードだった。彼は祐一に多美山の死を告げに行き、その帰りに寄り道をしたらしい。
 祐一のところで、また香菜に懐かれだいぶ気が紛れた。一週間の隔離生活は、たとえ大好きな兄と一緒とはいえ幼い香菜にとってかなりの苦行である。実際、夜中に母を恋しがって何度も泣いたらしい。それで、彼女はたまにギルフォードが寄るのを楽しみにしているようなのだ。ひょっとしたら、これからもこんな子どもを隔離せねばならないことが多々あるかもしれない、それに、これからは隔離期間はもっと延びる可能性がある・・・。そう思うとギルフォードは気持ちが重くなるのを覚えた。
 子ども達から離れてここに来ると、重たい現実がさらにギルフォードにのしかかってきた。彼は小さい声で何やらつぶやくと、唇を噛んで何かに耐えるように腕を下ろしたまま両拳を握り締めた。身体が小刻みに震え、唇に血が滲んだ。彼はもう一度喉から搾り出すような声で言った。
”ちくしょぉ・・・.”
その後、少し間を置いてつぶやいた。
”すまない,多美山さん・・・."
しゃべると口の中に錆びた鉄の味が広がった。それが、かつて彼が無理やり記憶の底に沈めた忌まわしい記憶を、彼の脳裏に呼び覚ます。ギルフォードは一瞬顔をゆがめた。彼はその後、しばらく立ち尽くしていたが、やがて、魂が抜けたような顔でベッドサイドに腰掛け、両手で顔を覆うと、しばらくじっと座っていた。

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4.衝撃 (7)現の悪夢、来たるべく悪夢、過去の悪夢

※一部R18注意

「そんな・・・」
 幸雄は呆然として言った。梢はその手をぎゅっと握り締める。
「申し訳ありませんが、これは規則・・・というより法令ですから、私たちにもどうしようもないのです」
 高柳が、珍しくとても辛そうな表情をして言った。
「検疫法によって、このような危険な病原体によって死亡した場合、遺体をそのままお返しすることが出来ないのです。感染リスクを最低限に抑えるための処置をせねばなりません。そのためには、火葬後に返還することが一番安全ということになりますから」
「では、遺体無しで、もしくはお骨で帰ってから葬式をすることになるわけですか・・・」
「申し訳ありませんが・・・」
「あの時、ギルフォード先生がおっしゃってたのはこのことだったんですか・・・」
 幸雄はそういうと、顔を覆った。いきなり辛い現実が次々に襲い掛かり、幸雄はすでに心身ともに限界に来ていた。あまりのことに、涙も枯れてしまった。高柳はさらに言い難そうに言った。
「その上このようなお願いをするのはとても辛いのですが・・・、お父さんの遺体解剖の承諾をしていただきたいのです。感染症で亡くなられた場合、死因を解明せねばならないので遺族の方の同意は必要ないのですが、心情的にそういうわけには行きませんから・・・」
「ああ・・・」
 幸雄は苦しげな声を漏らしたが、それ以上言葉が出なかった。その横で梢が夫に変わり質問をした。
「苦しんで血まみれになって亡くなった義父の身体を、さらに切り刻まねばならないのですか・・・?」
「お父さんの死因を解明するためと、今後の治療のために必要なんです。今ここに入院されている患者と、おそらくこれから運び込まれるだろう発症者に、出来るだけ適切な対応が出来るように」
「だけど・・・」
 幸雄が何とか口を開いた。
「この疫病に関しては、治療法がないんでしょう? 結局あんな風に苦しんで死ぬなら、いっそ何もせずに・・・」
「あなたにそれが出来ましたか?」
 高柳にそういわれて、幸雄がはっとした。
「いえ・・・、出来ませんでした」
「そう、そういう絶望的な状況でも希望を持つのがヒトと言う生き物です。そして、私たち医者は、たとえ暗闇の中でも希望の光を見出そうと努力せねばなりません。最初から諦めたら、永遠にこのウイルスを制圧することが出来ません。そうでしょう? それは、多美山さんの死を無駄にすることにもなりますし、多美山さんだってそれを望んではおられないでしょう。どうか、わかってください」
「・・・」
 幸雄は無言で目を堅く瞑った。
「あなた・・・」
 梢は幸雄の手を再び強く握った。その時、応接室のドアをノックする音が聞こえた。高柳が問うた。
「誰だね?」
「ギルフォードです」
「入りたまえ。ちょっと取り込んでいるがね」
 高柳の許しを得てギルフォードが入って来た。
「すまんが、ちょっとそこで待っていてくれたまえ」
 高柳はギルフォードに指示すると、もう一度幸雄に言った。
「わかってくださいませんか?」
「私たちが承諾せずとも、それは遂行されるのでしょう?」
 幸雄は目を閉じたまま言った。
「それにどうせ火葬するなら、解剖のことなんて黙ってればわからないでしょう? 僕らはたった今、父を目の前で失ったばかりなんです。それなのに、解剖だの火葬だの、あまりにも無神経です!」
「申し訳なく思っています」
 高柳が言った。
「我々も、何とか救いたかった患者を亡くしたばかりです。皆、自分達の無力さを思い知らされ、悔しさと悲しさを痛感しながらも、戦いを続けなければなりません。すでに今日新たな発症者が来ています」
「高柳先生、僕たちだってそれはわかっています。しかし、気持ちの上では割り切ることは出来ません。父は命懸けで子供達を救いました。そんな父が、ひっそりと、まるで罪人のように葬られる、それが辛くて悔しい・・・!」
 幸雄は声を震わせて言った。会話から事情を察したギルフォードは、高柳に近づいて耳打ちした。高柳は頷いて言った。
「幸雄さん、奥さん。ちょっとギルフォード先生に付き合ってあげてください」
「え? どういうことですか?」
「ユキオさんにお願いがあります」
 ギルフォードが言った。
「タミヤマさんに救われた少年、ニシハラ・ユウイチ君のことです。彼は、タミヤマさんが亡くなられたことを知って、かわいそうに、すっかりしょげ返ってしまいました。もし、よかったら、息子さんであるあなたに彼と会って欲しいのです」
 幸雄と梢は顔を見合わせた。
「とりあえず彼らのいる病室の前まで行きましょう。会うか会わないかは、そこで決めればいいですから」
「わかりました。行きましょう」
 幸雄が立ち上がりながら答えた。
 二人はギルフォードに病室の前へ案内された。父親が居た病室と同じ仕様だった。ギルフォードが言った。
「ここに、ユウイチ君とその妹のカナちゃんが、念のため隔離されています。彼は、タミヤマさんの死をとても悲しんでいて、一言もお礼を言うことが出来なかったことを悔やんでいます」
「父が救った少年が・・・」
 幸雄がつぶやいた。
「そうです」
 ギルフォードは頷くと幸雄の顔をまっすぐ見て言った。
「会っていただけますね?」
「ええ、わかりました」
 ギルフォードはそれを聞くと、もう一度頷きマイクで中の祐一に呼びかけた。
「ユウイチ君、タミヤマさんの息子さんと奥さんが来られています。ここを開けていいですか?」
 少し間を置いて、中から声がした。
「え? は、はい、よろしくお願いします」
「ユキオさん、まだ小さい妹の方にはショックが大きいので、まだタミヤマさんの死については言っていません。ケガで入院していることになっています。その点をご了承ください」
 そういうと、ギルフォードは窓を『開けた』。幸雄たちの前に病室の中の少年と妹が姿を現した。
「父は、この子らを救って・・・」
 幸雄は無意識に窓に向かって歩いた。少年は幸雄の方を向いて深く礼をして言った。
「多美山さんのおかげで、妹は無事に解放されました。僕らも最悪の事態を免れました。心から感謝しています。そして、ごめんなさい。僕は・・・、僕はあなたに何と言ってお詫びをして良いか・・・」
 祐一はそこまで言うと、また深い礼をした。
「ゆういち君と言ったね。もういいから顔を上げて」
 幸雄の許しを得て祐一は顔を上げ、袖口で涙を拭いた。
「君らを助けられて、父も本望だったと思うよ。君たちに会えて良かった。ありがとう」
「おじさん・・・」
「僕は父を誇りに思う。君達に会ったから余計にそう思うよ。だから、君らも父のことを忘れないでほしい」
「はい。絶対にわすれません。そして、この命、絶対に粗末にはしません。香菜、このおじさんにご挨拶しなさい。あのおじいちゃん刑事さんの息子さんだよ」
「うん」
 香菜は、椅子から立ち上がり言った。
「おじちゃん、こんにちは。香菜といいます。お父さんの刑事さんに、ありがとう、香菜、こんどお見舞いに行くから待っててねってお伝えください」
「うん、わかった。必ず伝えるからね」
 幸雄は静かに笑って答えた。ギルフォードが幸雄の方を見ると、彼は軽く頷いた。
「ユウイチ君、少しは気持ちが軽くなりましたか?」
「はい、ありがとうございます」
「じゃ、ここを閉じますね。じゃ、ユウイチ君、カナちゃん、またね」
 ギルフォードはそういうと、窓を『閉めた』。閉まる間際に祐一がもう一度礼をした。
「彼らも感染している可能性が?」
 幸雄がギルフォードに不安げに質問した。
「妹の方が、感染発症者と長く一緒にいたので、念のため隔離されています。二人とも発症者に触れるような濃厚な接触はしていませんので、感染の可能性はかなり低いですし、今まで発症していませんからおそらく大丈夫だと思います」
「そうですか・・・」
 幸雄は安堵して言った。
「お付き合いいただいてありがとうございます」
 ギルフォードが言った。しかし、幸雄は首を振りながら言った。
「いえ、礼を言うのはこちらの方です。彼らに会えて良かった。決して父の死は無駄じゃなかったと確信出来ました。それに、会ってわかりました。父は何としてもあの子とその兄を助けたかったんでしょう。本望だったと思います」
「そうですか。そういってくださると、僕も安心出来ます。では、また応接室に戻りましょうか」
 ギルフォードはそう言いながら歩き出した。
「はい。じゃ、梢、行こうか」
 幸雄は妻の肩を抱いてギルフォードの後に続いた。歩きながら幸雄がつぶやいた。
「あの女の子・・・」
 幸雄の頬を一筋の涙が伝った。
 

 ある教団経営の墓地を、数人の墓参り客が歩いていた。まだ夕方の5時過ぎくらいの時間だったが、小降りになったとはいえ雨天のためにいつもより薄暗く、場所が墓地であるために、かなり不気味な雰囲気を醸していた。
 それぞれ黒っぽい紫の経帷子のようなデザインの上着を着ている。彼らの先頭を行く一見貧相な老人が教祖らしく、一際豪華な金糸で縁取られた僧衣を身につけていた。その教団は、まだ小規模でまだ布教範囲も小さいが、その分結束も狂信性も高く、まさにカルトの典型であった。
 その奇妙な集団は、二つ並んだ墓の前で止まった。教祖が墓の前で金の鈴が文字通り鈴生りについた錫杖を振るった。信者達がそれを合図にいっせいに跪いた。教祖が錫杖を振るうごとにシャンシャンという音がせわしなく鳴った。それに合せて信者達が祝詞(のりと)の様なお経のような不思議な言葉を唱え始めた。それらに紛れて、何か地の底からゴトゴトという音がした。それを聞いた信者達は、ざわざわと落ち着きを失くした。教祖が興奮して言った。
「おお~、我らの願いが叶い奇跡が起こったのじゃ。薬に頼らずひたすら護摩を焚いて祈り、入滅後も身体を酒で清め、土葬した甲斐があったということじゃ。聞くがいい! 死者が生き返った音がするであろう。今すぐにこの沢村老の墓を掘り返そうぞ!!」
 教祖が命令するや否や、信者の男達が競って墓の周囲を掘り始めた。女や子共達は目の当たりにするであろう奇跡を思い、興奮し上気した顔で墓を見守っている。御棺を埋めた土饅頭の上部には穴があけてあった。死者が生き返った時も息が出来るように配慮されたらしい。しかし、そこからなにやら異様な臭気が漂っていた。しかし、信者達にそんなことを気にする余裕などなかった。彼らは素手で我先にと墓土を掘り返している。その空気穴からちょろちょろと黒い大きな虫が数匹這い出してきた。
「何だぁ、これは!」
 信者の一人が気がついて騒いだが、教祖から一括された。
「莫迦者ッ!! 早く墓を掘って沢村老を出してやるのじゃ」
「ははっ!」
 男は恐縮して作業に戻った。人海作業の甲斐あって、墓が暴かれるのに20分もかからなかった。歓喜の声と共に蓋が打ち付けた釘と共に外された。しかし、そこには生き返った筈の老人の姿は見えず、何か黒いものが無数に蠢いていた。それは、動く黒いじゅうたんの如く這い出した。喜びの声が悲鳴に変わり、信者達は逃げ惑った。
「何をしておる! 早く老を起こしてやらぬかッ!」
 教祖は両手を広げて信者達が逃げるのを止めようとしたが、パニックを起こした彼らにはすでに教祖の言葉は意味を成さなかった。教祖は突き飛ばされひっくり返り、棺の中に転げ落ちた。一瞬何が起こったかわからなかった教祖が身体を起こそうと手を付いた。そこには何とも形容しがたい感触があった。
「ひぇあ~っ」
 教祖が威厳のあるとはとても思えないような悲鳴を上げ、また棺の上に大の字にひっくり返った。その上を何かがザザッと通っていった。教祖は反射的に息を止め目を瞑った。それが通り過ぎたのを確信して教祖は目を開けもう一度身体を起こすため、さっきの感触の原因を確かめようと横を見た。そこには、顔面をほとんど食われた老人の顔があった。息を呑んで急いで起き上がろうとしたが、腐敗した上に雨にぬれた遺体に滑ってまた身体がひっくり返り、今度は遺体の下にはまり込んでしまった。結果、遺体に押さえ込まれた形になった教祖は、なんとかそれから逃れようとじたばたもがいたが、それが却って遺体をまとわり付かせることとなった。
「ひぃぃいいい~」
 教祖は、かすれた悲鳴を上げると、そのまま泡を吹いて動かなくなった。教祖の老いた心臓が恐怖とショックに耐え切れなかったのだ。このとき蘇生していれば彼は助かったかもしれないかった。しかし、パニックに陥った信者は誰ひとり、教祖の悲劇に気がつかなかった。彼らは蜘蛛の子を散らすように墓地から逃げ帰った。
 数時間後、冷静さを取り戻した信者達が暗い中懐中電灯を持って墓地に戻り、ようやく暴かれた墓にものすごい形相で息絶えた教祖を発見した。再びパニックに陥った信者達が警察に連絡をするのは、翌朝明けてからのこととなる。
 

 由利子は、ギルフォードの車で家まで送ってもらっていた。時間は夜7時を回っており、天気のせいかすでに周囲が暗くなっていた。
 ついでにK署に帰る葛西もそれに便乗していた。葛西は最初公共交通機関で帰ると言い張ったが、ギルフォードがなんとか懐柔して了解させた。本来なら休みの土曜日である。ましてや、ギルフォードは今度葛西が配属される対策室の顧問なのだ。
「だいたいですね、サヤさんのバイクで2ケツしてセンターに来たんですから、何をか言わんやですよ」
ギルフォードはぼそぼそと言った。
 助手席にはジュリアス、後部席には由利子と葛西が乗っていた。当然のことながら、葛西に元気がない。そのせいか、車内がなんとなくお通夜のような雰囲気になってしまった。その空気にたまらなくなったのか、ギルフォードが口火を切った。
「ジュン、今日タミヤマさんに報告した件ですが、要点しか言ってなかったですね」
「ええ。美千代が行方不明になった件から、まだセンターに敵の息のかかったヤツがいるかもしれないって、ふと思ったんで・・・」
 葛西が少し照れくさそうに言った。
(”あの状況でそれに気がまわったか。この男、見かけほどじゃないらしいな”)
 ギルフォードはそう思いつつ言った。
「それで正解です、ジュン。で、ここでその内容を差し支えない程度で良いからもう少し詳しく説明してくれませんか?」
「ええ」
 葛西は、今日調べたことをかいつまんで話した。
「へえ、いいセン行ってるじゃない」
 由利子が言った。
「安田さんと言い争っていたヤツ、そいつがウイルスばら撒きの実行犯の結城だとしたら、ターゲットをあそこのホームレスにした理由になるよね。目撃者がそいつの顔をよく見てなかったのが残念やね」
「それと、やはり気になるのは、あのキワミという女ですね。彼女に関わっているらしい奇妙な男・・・、タミヤマさんのことをほのめかしていたんでしょう? 明らかに事情を知っていますね。怪しすぎます」
 ギルフォードが言うとジュリアスが付け加えた。
「アレックス、正確に言おまい。そいつはテロリストの仲間と考えるほうが自然だがね」
「それが極美ってグラドル上がりのジャーナリストもどきに取り入って、何をしようとしているっての?」
 と、由利子。
「テロってのは、恐怖で世の中を混乱させて目的を遂げようとするもんだで。奴らの目的が何かはわからんけどよ、なーんか嫌な予感がするんだわ」
「じゃあ、極美をとっとと手配して捕まえてしまえばいいじゃん。どーせ事件のあったあたりでちょろちょろしてるんやろーし」
「あのね、ユリコ。ジャーナリストが事件を調べているということで、捕まえるワケにはいかないでしょう? ここは、言論も思想も宗教も自由を保障されている法治国家ですよ。どこぞの独裁国家とは違うんですから」
「意外とワヤなことを言う女だなも」
 二人から呆れられて、由利子は少しお冠で言った。
「じゃあ、どうしようもねーじゃんよ」
「僕が報告しますから、何らかの手が打たれると思いますよ。それに関しては、長沼間さんたち公安の出番でしょうね」
 と、葛西がフォローした。
「もうひとつ気になるのは」
 ギルフォードが言った。
「youtube(ユーチューブ)に上がっていた映像ですね。話題になる前に削除してもらったほうがいいと思うんですけど」
「どうかしらね。下手に削除させると、また陰謀だ何だと言い出す連中が出てきかねないと思うんだけど」
 由利子が言うと、ギルフォードも納得して言った。
「確かにそれはありますね・・・」
「それに、削除しても再アップされたら一緒でしょ。映像共有サイトは『ようつべ(youtube)』だけじゃないし、そうじゃなくても誰かがキャプ画像をアップするかもしれないし」
 由利子の指摘に、ジュリアスが腕組みをしながら言った。
「ネットってにゃあ、そういうところが厄介なんだわ」
「しかし、よく半日でこれだけ調べましたね。タミヤマさんもきっと褒めてくれますよ」
 ギルフォードがにっこりと笑って言った。ようやく見せた笑顔だった。
「そっ、そうかな・・・」
 葛西が照れくさそうに笑って言いながら、その後また泣きそうになって下を向いた。
「これで、泣き虫を卒業したら言うこと無しですケドね」
 ギルフォードが笑顔で続けて言うと、由利子とジュリアスがギルフォードの方を見てにやにや笑った。ギルフォードがそれに気がついて言った。
「なんですか、二人とも?」
「何でもな~い」
 由利子がにまっと笑って言った。
「なんか、気になりますけどまあいいでしょう。でもジュン、ユリコにしがみついて泣くなんて、なかなかやりますね」
「それを言わないでください。思い出すだけでものすごく恥ずかしいんですから。弾みとはいえ、女の人にすがりついて・・・しかもマジ泣きまでしちゃって・・・。もう、情けないです」
 葛西は今度は真っ赤になった。それを見て、ジュリアスがひやかすように言った。
「ほんで、居心地はどうだったかね」
「それがその、想像以上に貧に・・・いえ、その、えっと・・・」
 葛西が口ごもると、ギルフォードがミラー越しにイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「ぺったんこだったんでしょ?」
「そう、そうなんです。我に返った時、一瞬隣に居た幸雄さんと間違えたかと・・・」
 その時、バチンという音がして葛西が頬を押さえた。間髪を入れず由利子にひっぱたかれたのだ。
「失礼ね! どうせ私には大胸筋しかないわよっ!!」
 由利子が怒鳴った。当然である。葛西は頬を押さえたままぽかんとして由利子を見た。葛西今日3度目のビンタであった。
 

 窪田は歌恋と一緒に、露天の岩風呂に入っていた。彼は結局一日中しつこい頭痛に悩まされていた。
 それでも、昼間歌恋と回った観光は楽しかったし、久々に羽を伸ばしたような開放感に浸ることが出来た。体調が悪いせいで、せっかくのご馳走もあまり食べられなかったが、こうしてプライベートの露天風呂に浸かっていると、少し気分がよくなった。雨は止んで、雲の切れ目に時折月が顔を覗かせた。充実した一日だった、と、窪田は思った。
「奇麗ね・・・」
 隣に寄り添っている歌恋が言った。
「今日、お月様を見れるなんて思わなかったわ」
「そうだね。こんな景色で見る月は格別だね」
 窪田が相槌を打つ。歌恋はチャプンと水音をさせて窪田の方を向きながら言った。
「今日は、帰る時間を気にしなくていいのよね。朝まで・・・、ううん、その後も一緒に居ていいのよね」
「あたりまえじゃないか。僕らは旅行に来ているんだよ」
「嬉しい・・・」
 歌恋は涙ぐみながらも笑って言った。
「今日と明日の夕方まで、栄太郎さんは歌恋のものなんだよね」
「そうだよ。何も気にしなくていいんだ」
「うん・・・」
「今日も明日もふたりきりだよ」
「うん・・・うん」
 歌恋は泣きながら何度も頷いてから言った。
「わたし・・・、歌恋ね、栄太郎さんと一緒にいられるだけで嬉しいの。だから、気分が悪いなら、無理しなくてもいいの。ね、ゆっくり休みましょ?」
「気がついていたのか・・・」
 窪田は驚いて言った。そして、いっそう歌恋を愛おしく感じ、抱きしめた。
「大丈夫だよ、これくらい・・」
 彼はそういうと、そっと歌恋に顔を近づけ唇を合わせた。上空の強い風が雲を流し、束の間に現れていた月を群雲が隠した。辺りがまた暗くなり、生ぬるい風が駆け抜けた。
「嫌な風・・・。何か気味が悪いわ」
 歌恋がぶるっと身体を震わせながら言った。
「そうだね。部屋に戻ろうか」
 窪田が同意した。

「うわあ、和風な敷布団もステキね」
 寝室に入った歌恋が嬉しそうに言い、布団の横に正座し三つ指を突いてお辞儀をしながら言った。
「不束者ですが、お世話になります・・・って、きゃっ、昔のドラマみたい」
 はしゃぐ歌恋の腕を取って、窪田は乱暴に歌恋を布団の上に押し倒した。
「って、こういうのもドラマみたいだろ?」
 窪田は歌恋の両手を右手で掴んで、開いた左手で浴衣の帯を解いて乱暴に引きぬいた。浴衣がはだけて歌恋の身体が露になった。白い肌が薄いピンク色に上気し、歌恋は息を荒げながら潤んだ目で窪田を見た。
「おや、意外とこういうのが好きだったのかな?」
「ヤぁ、栄太郎サンの意地悪! 恥ずかしいよ、こんなの」
 窪田にからかわれ、歌恋は真っ赤になって言った。それに触発され、窪田は歌恋を乱暴に抱きすくめた。ふたりは絡み合い、やがてひとつになった。せっせと上下運動を繰り返す窪田に、歌恋が荒い息の中で言った。
「あ・・・、栄太郎サン、・・・あのね、わたし、終わったばっかりなの。・・・だから、・・・そのま・・・ま・・いいからね・・・」
 窪田は、一瞬動きを止めて言った。
「え? 本当にいいのかい?」
歌恋はこっくりと頷いて言った。
「ええ、お願い・・・、そのまま、最後まで・・・」
歌恋が恥を忍んでそこまで言ったのには、実は理由(わけ)があった。しかし、結局窪田がその理由を知ることはついぞなかった。
 体調が万全でない状態で歌恋に挑んだ窪田は、疲れ果てて眠っていた。その横で歌恋が彼の胸によりかかっていた。こうしてじっとしていると、窪田の心臓の音がよく聞こえた。歌恋はその規則正しい心音がやや速いことに気がついたが、そういう行為の後だからとあまり気にしなかった。ただ、その心音にはなんとなく雑音が混じっているような気がした。歌恋は窪田の身体をじわじわと侵し続けているナノサイズの悪魔が、彼女まで侵そうとしていることに全く気がついていなかった。彼女の胎内に大量に放出された精子には、その悪魔が無数に取り憑いていた。それは、確実に歌恋を感染に追いやるに充分すぎる量だった。もっとも、あの事故の日、森田健二の血液が付着したままの窪田の手に触れた歌恋が、すでに感染している可能性は充分にあったのだが。そうとは知らない歌恋は、幸せそうに窪田のそばに寄り添うと布団をかけ、満足そうに目を閉じた。
(明日はこのままゆっくり寝ていてもいいのよね・・・)
 朝目覚めたときに愛する人がそばにいる幸せ・・・。それは、歌恋が願ってやまないことであった。しかし、そのささやかな願いと引き換えた代償は、大きすぎるものであった。
 

 少年は、半裸で無造作に床の隅に転がされていた。身体のあちこちがうっ血し、右足と左手が不自然に曲がっている。顔も、原形が想像出来ないほど腫れあがっていた。その状態で少年はすでに半分意識を失いかけていた。その朧げな意識の中で、男達の会話を夢現(ゆめうつつ)のように聞いていた。
”バカヤロウ! キサマ,おれ達のいない間にあのガキを・・・! せっかくの上玉だったのにどうするんだよ!”
”おまえの性癖にも困ったもんだな.コトに及ぶ前に相手を痛めつけないといられないなんてよ,このド変態が!”
”今回は男だからって油断してたら,これだよ.まあ,そこらへんの女よりよっぽど綺麗だったことは認めるがね.今はザマァないが”
 男達は一言言うたびに、件の男を殴りつけているようだった。
”もう,勘弁してくれよお・・・.結局犯っちゃいないんだからさあ”
”この大馬鹿野郎がぁあ!!”
 ボスらしい男の声がして、男を蹴り上げる音がした。男は吹っ飛んでテーブルごと壁にぶち当たった。
”痛めつけすぎて,犯る前に死にかけたからビビッただけだろうが!!”
”だってよ,あのガキ,最後までオレを馬鹿にした目つきで見やがって・・・”
 男は半泣きで言った。
”許してくれよお・・・”
 その時、外から年配の女が慌しく入って来た。
”大変だよ,ギルフォード家の次男坊が昨日から行方不明だって大騒ぎになってるよ”
”なんだって? マジかよ、グラン・マ”
 男達はいっせいに床に転がった少年を見た。
”ギルフォードってあの,昔ワケ有りで王室を抜けたっていう、あのギルフォード家か?”
”で,そのギルフォード家の御曹司が,なんで山の中でたった一人で虫取りをして遊んでたんだよ.え?”
”おい,おめえ,ひょっとしてギルフォードの敷地から攫ってきたんじゃないだろうな??”
 ボスらしき男が、自分が蹴り上げた手下の方を見て言った。
”そんなの知らねえよ.ただ,車で流していたら、綺麗なガキが目に付いて売り物になるだろうって・・・”
”そいつをこんなにしちまったのかい?”
 女が言った。
”本当に馬鹿な男だよ,おまえは”
”どうするよ.ギルフォードの連中,絶対におれ達を探し出すぞ.この馬鹿が息子をこんな目に遭わせちまってよお,おれら八つ裂きにされっちまうよぉ”
”こうなったらここをズラかるしかないね.その前に証拠を消してしまうよ.このガキに食油をぶっ掛けて,地下の元食料倉庫に転がしときな.腹をすかせた住人のネズミやゴキブリが、身元不明死体になるまで食ってくれるさ”
(いや! やめて! 殺さないで!)
 少年は叫びたかったが声にならなかった。彼は抱えあげられ地下に連れて行かれ隅に転がされた。かろうじて身にまとわりついている、血と泥で汚れた白いシャツを引っ剥がされ、トドメに頭から古い食油をかけられ放置された。無情にも地下倉庫のドアが閉められ鍵のかかる音がした。男達が去ると、やがて周囲から黒いモノたちが、ガサガサと寄ってきた。
(助けて!! 父様,母様!!)
 少年はもがこうとしたが、身体がピクリとも動かない。外傷性ショックでだんだん息も苦しくなってきた。と、目の前に黒いモノが近づいてきた。痛めつけられたせいで霞んだ目にも、それが何かわかった。少年の恐怖は頂点に達した。

”アレックス! アレックス!! 目を覚ませ! しっかりしろ!!”
 ギルフォードはジュリアスに起こされて目を開いた。全身汗びっしょりになっていた。
”また,あの夢をみたのかい?”
”ああ・・・”
 ギルフォードは起き上がると、両手で顔を覆った。恐怖で身体が遠目にもわかるほど震え、息も上がっている。
”ひどいうなされ方だったぞ”
 ジュリアスが心配そうに顔を覗き込んで言った。ギルフォードは荒い息を整えようと、ため息をつきながら答えた。
”成人してからは,年に5・6回見るくらいに減ってたんだがな・・・,ここ数日連発して見ているんだ”
”やはり,この事件のせいかい?”
”多分ね”
”寝不足ってのは,このこともあったんだろ?”
”ああ・・・”
 ギルフォードは、右手で頭を支えながら言った。半分見える顔が苦痛に歪んでいる。
”アレックス,ぼくがいるだろ.そんな悪夢なんて忘れさせてやるから,ゆっくりと眠るんだ・・・”
 ジュリアスは、ギルフォードをぎゅっと抱きしめ、彼の震えが収まるのを待った。彼が落ち着いたのを確認すると、彼を寝かせ自分も横に寝ると、間接灯だけつけて他の灯りを消し毛布を被った。
”大丈夫,ぼくがついているよ.安心してゆっくりとお休み・・・”
 ジュリアスは、ギルフォードに両手を絡ませ、彼の身体を再び抱くと優しく囁いた。ギルフォードはしばらくジュリアスの腕の中で大人しくしていたが、急に身体を起こしてジュリアスにのしかかった。
”こら,アレックス.今日は大人しく寝るんだよ”
”忘れさせてくれるんだろう?”
 ギルフォードが切ない眼をして言った。
”悪い子だな・・・”
 ジュリアスは困った笑みを浮かべて言ったが、さして抵抗する様子もない。ギルフォードはそのままジュリアスに顔を近づけた。昼間、ジュリアスがやったゲリラキスよりはるかに長く濃厚なキスだった。ギルフォードはそのままの体勢で、間接灯を消した。部屋は暗くなったが、窓のカーテンの隙間から差し込む月光でぼんやりと明るかった。ジュリアスはそのまま目を閉じ、ギルフォードに身体をゆだねた。

(第2部 4章衝撃 終わり) 

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