3.侵蝕Ⅲ (1)愛憎~The man she loves to hate.

20XX年6月14日(金)
※後半R18注意

 美葉失踪に関して、由利子は事情聴取を受けたが、ここに残っても由利子にはこれ以上もうどうしようもないので、後は警察に任せてとりあえず家に帰ることとなった。

 由利子はそのままギルフォードに車で家まで送ってもらい、念のためボディガードとして部屋の前まで付いてきてもらった。普通ならお茶くらい振舞うのだけれど、なにぶん丑三つ時を過ぎている。ギルフォードは、くれぐれもこれから注意するように言って、部屋の前から去っていった。
 由利子は帰ったが、いつもの猫たちのお出迎えがない。少し不思議に思ったが、時間が時間なので寝ているのだろうと、あまり気にせずにまずトイレに向かった。ドアを開ける瞬間、美月を発見した時のことを思い出して少し躊躇した。当然何もない。用を済ませると、とりあえず部屋に向かった。走り回ったので、せっかくお風呂でさっぱりしていたのにもとの木阿弥である。とにかくもう一度シャワーを浴びて着替えようと思った。
 部屋に入って、照明をつけた。玄関の明かりを点けたままにしていたので、そこまで真っ暗闇ではなかったが、やはりまぶしい。一瞬明るさで目がよく見えなかったがすぐに慣れた。しかし、由利子はベッドの方を見て驚いた。美葉がベッドの横に座り、寄りかかって眠っていたのだ。猫たちも美葉に寄り添うように眠っている。
「美葉! 起きて! 起きなさい!!」
由利子は美葉の傍に座ると彼女の肩をゆすぶった。
「あ・・・、由利ちゃん、おはよ」
「由利ちゃんおはようじゃないやろ!! ったっくもう今まで何処におったと? なんで私の部屋にいるわけ?」
心配した分、安堵でむしろ怒りが湧いてきた。由利子は美葉に問いつめようと改めてまっすぐ座りなおした。美葉は、眼をこすりながら言った。
「逃げて来たと。 あいつに誘拐されそうになったから、途中であいつを投げ飛ばしてタクシーでここまで来たんやけど・・・」
「そうならそうと、なんで連絡せんかったと!?」
「だって、ケイタイ壊されたし、電話番号全然覚えとらんし・・・」
「もう、アンタ、携帯電話に頼りすぎだよ」
「エヘヘ・・・」
美葉は屈託のない顔をして笑った。由利子はやれやれという顔をしながら言った。
「それにね、危険な時は私より先に110番しなきゃあ・・・」
「うん、そうだよね。なんか気が動転しとって・・・」
「そうそう、美月はね、アレクが病院に連れて行ってくれたよ。安心して。さ、今日は疲れたやろ、ちゃんと寝て」
「ありがとう。でも、あのね、冷たいお茶が飲みたい。なんか喉が痛くてさ・・・」
「大変やったもんね。じゃ、はと麦茶でもついで来るから待っとって」
由利子はすぐに麦茶をグラスについで持っていった。美葉は美味しそうにそれを飲んでいた。
「じゃあ、アレクと葛西君に電話して、とりあえず保護したって言っとくから・・・」
由利子がそう言った直後、美葉がなんとなく怪訝そうな顔をしながら言った。
「あれぇ、由利ちゃん・・・、蛍光灯、変じゃない? さっきから何となく部屋が赤い色しとぉよ・・」
由利子は一瞬耳を疑った。
「あんた、まさか・・・」
美葉はいきなり頭を押さえると苦しみだした。由利子は凍り付いたようにそれを見ていた。恐怖で身体が硬直してピクリとも動くことが出来なかった。美葉は由利子の方に手を伸ばし、苦しそうにあえいだ。その口からは、赤黒い血があふれ出した。
「痛いよ・・・苦しいよ・・・、助けて、助け・・・て・・・」
「美葉っ!!」
由利子は、我に返って美葉に駆け寄ろうとしたが、何者かが前に立ちはだかった。
「危ないユリコ! 近寄ってはダメです」
「アレク、何でここへ?」
「嫌な予感がしたので戻って来ました。ユリコ、早く猫を連れて逃げなさい」
「だ、だって・・・」
「いいから行きなさい!!」
ギルフォードはドアの方に由利子を突き飛ばした。由利子はドア横の壁に背中をしこたま打ち付けて、壁に張り付いたような形になった。その状態で、由利子は信じられないような状況を目の当たりにした。美葉があっと言う間に何か黒いモノに覆われたのだ。それは人型を形作ると突然飛散し、ギルフォードを襲った。ギルフォードは声を上げる暇もなく、それに飲み込まれた。
「アレクっ!! 美葉っ!! いやぁああ!!!」

由利子は飛び起きた。
「美葉!! ・・・あれ? 美葉は? アレクも・・・何処?」
由利子はきょろきょろと周りを見回した。しかし、時計の音が規則正しい音を立て、遠くから時折車の走る音が聞こえてくる以外は静かなものであった。
「夢・・・? はぁぁ、良かった・・・」
由利子はほっとした。どうやら、ベッドに寄りかかって寝ていたのは由利子の方らしい。家に帰りついて安心したせいか、そのまま転寝(うたたね)をしてしまったのだ。しかし、一体どこからが夢なのかさっぱりわからなかった。時計を見ると、3時を過ぎていた。大して長い時間は眠ってはいなかったようだ。
「変だと思ったっちゃんね。美葉やアレクが私の部屋に勝手に入って来るとか・・・」
由利子は、ふうっとため息をついて言った。
「美葉・・・。いったい何処に行ったんやろ・・・。もう、なんであいつは人に心配ばかりかけるかな・・・」
そう言うと、体育座りで膝を抱えたまま、顔を伏せてもう一度深いため息をついた。視界がぼやけ、左目から涙がひとすじ頬を伝って流れた。猫たちが飼い主の様子に気がついて擦り寄ってきた。由利子は彼女らの頭を撫でながら言った。
「何? おまえたちも心配なん? ・・・ありがとね」
その時、机の上で電話の震える音がした。振動音とはいえ静かな明け方に近い深夜では、かなり大きい音に聞こえ、由利子はドキッとした。ギルフォードからだった。手の甲で涙を拭いながら、急いで電話を取る。
「もしもし、由利子です」
「ハイ、ユリコ。こんな時間に電話をかけるのもどうかなと思ったんですが・・・」
「大丈夫です」
由利子は少し鼻を啜りながら答えた。
「おや、ひょっとして・・・、泣いてたのですか」
「あ、いえ、その、・・・美葉が帰って来ている夢を見て・・・」
「そうですか・・・。心配な時はそういう夢ばかり見ますよね。でも、警察とミハを信じて待ちましょう。希望を持って元気を出して」
「ありがとう、アレク。そう言えばあなた、夢の中で助けてくれたのよ」
「おや、どんな夢でしたか?」
「それが・・・」
由利子は夢の話をかいつまんで話した。ただし、最後の部分・・・ギルフォードたちが蟲に呑まれたところは、きっと嫌がるだろうと教えないことにした。
「そうですか。夢は不安を的確に表現します。ナガヌマさんの話から、ユウキという男がウイルスをばら撒いた犯人かもしれないと思った、そんなところから連想したんでしょう。・・・そうそう、本題を忘れるところでした。ミツキちゃんの容態が安定したそうです」
「え? ・・・ホントですか?」
「ええ、さっき電話がありました。幸い内臓には重篤な障害はなかったそうです。背中の傷も、凶器が一旦首輪に当たって威力が減じられたので致命傷にならなかったんだろうということでした。それに体毛もショックを和らげますからね。まともに当たってたら、背骨が折れていたかもしれないということでした」
「背骨が・・・」
由利子はゾッとした。と、同時に大事に至らなくて良かったとほっとした。
「じゃあ、助かるんですね!」
「まだ太鼓判は押せないということでしたが、当面の危機は乗り越えたということです」
「アレク、本当にありがとう。あなたが的確な措置をとってくれたおかげよ」
「いえ、それに偶然でしたが、僕が連れて行ったところがミツキちゃんの罹り付けの先生だったんですよ」
「そうだったんですか」
「とにかく彼は腕も良いし、信頼できる男です。これで心配がひとつ減りましたね。とにかく、今日はもうゆっくり休んでください」
「ええ、そうします」
「そうだ、もうひとつ。明日はお暇ですか?」
「暇も何も、暫定失業者ですから」
「あはは、暫定ですか。では、明日は感染症対策センターの方に来てもらえませんか」
「感染症対策センター?」
「はい、現在多美山さんが入院されている県の医療施設です。家でじっとしていても不安でしょ? これから君も頻繁に出入りするところですから、見学とご挨拶を兼ねて。午前中僕は講義があるので、午後からにしましょう。大丈夫、帰りはまたお送りしますから」
「わかりました。実は行ってみたかったんです、そういう所」
「OK、では、場所等はメールでお送りしておきますね」
「はい」
「では、また明日・・・」
「あ、そういえば葛西君は?」
「今日は、僕の部屋にお泊め・・・したかったのは山々でしたが、ナガヌマさんと県警本部の方に行きました。非常に残念です」
「それは良かった」
由利子はくすくす笑いながら言った。
「え~っと・・・。まあ、いいですけどね。では、僕と違って君はミハの件で精神的にかなりダメージを受けていますから、ゆっくり眠ってください。寝る前にあったかいミルクを飲むといいですよ」
「ありがとう、やってみます。ではおやすみなさい」
「Good night!」
ギルフォードとの電話が終わると、由利子はまたため息をついた。美葉の行方はわからないが、あそこで殺されたり傷つけられてれて放置されたりしていなかったので、彼女が無事な可能性は高い。それに、なんとか美月は助かりそうだ。美葉は見かけに寄らず芯の強い女だ。ギルフォードの言うように希望を持とう、由利子は思った。

 

 どうしてこんなことになったんだろう・・・。

 美葉は虚ろな眼でぼんやり考えていた。
 横にはかつて愛していた、今は憎むべき男がぐっすりと眠っていた。美葉ならば、逃げようと思えばさして難しい状況ではない。しかし、彼女は逃げることが出来なかった。

 美葉は、暗い場所で眼を覚ました。何か狭いところに寝かされているようだ。しかし彼女は、自分の置かれた状況がしばらく理解できなかった。一時的に記憶が飛んでいるらしい。
(今日は由利ちゃんと会って、確か私はうちに帰って・・・)
考えているうちに、美葉はだんだんと記憶を取り戻した。
(そうだ、私はあの時首になにか当てられて、そのまま気が遠くなって・・・)
美葉は、状況を把握しようとゆっくりと周囲を見まわした。どうやら車の中に居るようだ。後部座席のシートを倒して、寝かされている。とにかく身を起こそうとした美葉は、愕然とした。両手がヘッドレストに縛り付けられている。美葉は、必然的に万歳をしたような格好で寝かされていた。
「なに、これ?」
美葉は、自分の置かれた状況に驚いて言った。運転席でFM局を聞きながら、缶コーヒーを片手にくつろいでいた結城が、その声に気がついて振り返った。張り付いた笑い仮面のような表情だった。一瞬目が合って、美葉はおぞましさに息を呑んだ。
「やあ、眼が覚めたかい?」
結城が言った。
「すまないね。また暴れられると厄介だから、ちょっと自由を奪わせてもらったよ」
そう言いながら結城は、運転席と助手席の間をするりと抜けて、美葉の横に座った。
「傍に来ないで! 早く私をうちに帰して! 早く病院に連れて行かないと、美月が死んじゃう!!」
「犬のことより自分の心配をしたらどう?」
結城は笑いながら言うと、結城は美葉の上に覆いかぶさった。
「流石のおまえもこれでは何も出来ないよね」
美葉は、とっさに膝蹴りを入れようと試みたが、狭い車内では簡単にはいかず、あっさり右膝を掴まれて押さえつけられてしまった。そのため、短めの黒いルームワンピースのすそがめくれ上がり、白い内腿がむき出しになった。
「なかなかいい格好だねえ」
結城はまた笑いながら言うと、舐めるような目で美葉の身体を見た。
「久しぶりだね、美葉」
「触らないで! もうあんたなんか大っ嫌い!!」
美葉は顔を背けながら言った。
「もう『ゆっちゃん』とは呼んでもらえないんだ。つれないねえ・・・。」
結城は両手で美葉の顔を押さえて正面に向けた。
「今まで、数え切れないほど肌を合わせていたじゃないか。ほら、この唇も、他の部分も・・・」
そう言いながら結城は美葉と唇を合わせたが、すぐにはじかれたように飛びのいた。
「おまえ、本当は気が強かったんだね」
結城は唇を拭いながら言った。血が少し滲んでいた。美葉は低いが静かな声でいった。
「こんどやったら、本気で噛み千切ってやる」
「おお、怖いねえ・・・。だけど」結城はにやりと嗤った。「おまえは自分の立場がわかっていないね」
結城は右手を伸ばして美葉の細い首を鷲づかみにした。
「ほぉら、こうやって殺すことだってできるんだよ」
そういいながらゆっくりと美葉の首を締め上げた。気道と頚動脈が圧迫され眼と鼻の奥の内圧が上がり、頭の中が急激にもわっとした。自然に眼球と舌が飛び出しそうになる。
「苦しいだろ? 死ぬって苦しいんだ。でも、おまえは殺さないから安心して」
結城はあっさりと手を離した。美葉は咳き込みながら言った。
「殺せば・・・いい・・・」
ようやくそれだけ言うと、美葉は激しく咳き込んだ。咳がなんとか収まると美葉は続けた。
「あんたなんかと一緒にいるくらいなら死んだほうがマシよ。美月だってもう死んでるかもしれない」
「でも君が死んだら、君が大好きなあの『ゆりこ』とかいうお友だちは悲しむよね」
結城は屈託なく笑いながら言った。美葉は一瞬眼を見開いた。
「おまえのような女の扱い方はよくわかっているんだ。おまえはきっと僕から逃げられない。良い事を教えてあげようね」
結城は、楽しそうに言った。
「今ね、県下で密かに流行し始めている疫病はね、僕がやったんだよ」
「えきびょう? 何のこと?」
美葉は、いきなり結城の口から疫病とか言う単語を聞き、寝耳に水できょとんとして尋ねた。
「伝染病さ。新種の出血熱だよ。まったく治療法のない・・・ね」
「出血熱・・・? ホントにそんなものが流行ってるの?」
「おや、君は、あの友人から聞いていないのかい? 親友なんだろ?」
「いくら親友だって、言えることといえないことがあるくらい私だってわかってる。それに由利ちゃんは人に情報を漏らすような軽薄な女じゃないもの。そんな恐ろしい病気だったら尚更よ」
「そうか、じゃあ、僕が教えてあげよう。この前、浮浪者が4・5人ほど公園で死んだ事件があっただろ? あれは僕がやったのさ」
「うそ・・・」
「残念ながら本当だよ。僕は、あの方に言われたとおりにウイルスを撒いたんだ。あの目障りで薄汚い浮浪者たちを掃除するために」
「どういうこと? それにあの方って?」
美葉は、結城の言っていることが飲み込めずに訊いた。
「あの方・・・、偉大なる長兄さまだよ。この地球の救世主様だ。ウイルスで、人間を環境破壊させないレベルまで減らすんだよ。そして、選ばれた人間だけが生き残れるんだ」 
「は? 何それ・・・」
美葉は、自分の状況を一瞬忘れて言った。カルト特有の、アナクロい妄想にしか聞こえなかったからだ。
「その小手試しが僕のやった浮浪者の抹殺だったのさ」
「何言ってるか理解出来ないわ」
美葉は、なんとなく嫌な予感を感じながら言った。
「僕はね、僕を馬鹿にした安田とかいう浮浪者に仕返しをしたかったんだ。そうしたら、あの方が言ったんだ。彼の仲間を強力な伝染病に罹らせれば、自然と安田という男も感染して死ぬだろうってね。それで、僕は実行したんだ。あの方の計画通りに。そして、みんな死んだ」
「酷い・・・。ホームレスの人たちだって、望んでホームレスになったわけじゃないのに・・・」
「今、警察ではテロとして扱われているだろう。すでに浮浪者以外の犠牲者が何人か出ているからね。その前に公安が何か情報を掴んでいたらしい。それで公安に追われる羽目になったんだ。もっとも、最初彼らはまだ僕が実行していないと思っていたらしいけどね」
「で、何故、由利ちゃんがそういうことを知っているっていうの?」
「ヒントはおまえも知ってるあの外人の大学教授さ。 あいつはバイオテロの専門家で、テロ対策のアドバイザーとして日本に呼ばれた男なんだ。何かトラブルがあってそれはほとんど反古状態になって、今はここの知事にのために、新型インフルエンザ兼テロ対策のアドバイザーをしているらしいけど」
「アレクってそんなすごい人だったんだ・・・。それで、由利ちゃんが知っているって訳ね」
「すごい・・・か」
結城はくっくっと嗤いながら言った。
「そうだね。だけどね、あの方によれば、あいつはこの疫病に何らかの形で関わっているそうだよ。本人は気がついていないようだけどね」
「どういうこと?」
「さあ、それ以上は僕にもわからないよ。でもね、あの教授は間違っている。これはバイオテロなんてチンケな犯罪じゃないんだ。地球にとって健全な環境を取り戻すための荒療治なんだ。僕らは世界を救うんだよ」
「何が世界を救うよ! あんたがやっていることは、ウイルスの恐怖で世界を操ろうとするテロそのものじゃない!!」
「黙れッ!!」
結城は怒鳴りながら美葉の頬をひっぱたいた。美葉は頬を叩かれ顔を横に背けたが、すぐにキッと結城をにらみつけた。
「いつか隙を見つけてあんたを倒して、テロの実行犯として警察に突き出してやるから」
「勇ましいんだなあ、美葉は。これも新鮮でいいよ。ところでこれはわかるかな」
結城は首にかけたペンダントをシャツの下から引っ張り出すと、鎖にぶら下がったペンダントヘッドを美葉の目の前にぶら下げた。銀製らしいシンプルな筒型のロケットペンダントだ。
「この中に入っているものは何だと思う?」
「知るわけないじゃない」
「特別に中を見せてあげる」
結城はルームライトを点けると、ロケットの中身を出して右手の親指と人差し指で掴むと、美葉の目の前に見せた。密閉された樹脂のカプセルに、何か鞘型の種のようなものが入っている。ほんの1秒ほど見せて、すぐにロケットの中に戻すとライトを消し、すぐにペンダントをシャツの下に戻した。
「何だと思う?」
「種(たね)・・・?」
「ある意味近いけど、遠いね。これはある虫の卵だよ」
「卵?そんなじゃもう死んでるわね。それが何なの?」
「いや、生きているよ」
結城は、平然として言った。それを聞いた美葉は、一瞬息を呑み無意識に身体を引いた。
「い、生きているの?」
「正確には仮死状態だけどね。これは僕がばら撒いたウイルスを、もう少し強力にしたものに感染させた虫の卵だよ。樹脂のカプセルは、ウイルスが万一漏れないようにするためのものなんだ。これはね、切り札なんだ。あの方から、もし、計画が上手く行かなかった場合に追加で仕掛けるように渡されたんだ。この虫は従来型の何倍も生命力が強くてね、空気に触れると急速に孵化が始まる。孵った幼虫の中でウイルスも急速に増え、あちこちに散った虫から進化型のウイルスが撒き散らされるというわけなんだ」
美葉は、ゾッとして身動き出来ずに結城の説明を聞いていた。
「僕は、あの方の御指令でこれを適所に仕掛けるように言われている。これは僕とあの方だけの秘密さ。そして僕の他にこれを持っている者たちに僕が行動を起こすよう命令するんだ。日本中の数箇所で新たな疫病が発生するんだよ、美葉。でもね、もし君が僕から逃げ出したら、僕はすぐにこれを使うよ。或いは、これを奪って逃げたり僕を警察に売ろうとした場合は、すぐに仲間たちに僕から指令を出すよ。『種を撒け』ってね」
美葉は相変わらず黙っていたが、徐々に呼吸が短く荒くなっていくのが暗い車内で伝わった。相当なショックを受けているのは明らかだった。
「言っとくけど、僕を殺してもダメだよ。僕から定期連絡が無い場合も、仲間が『種を撒く』ようになってるからね。だから、美葉、おまえは僕から逃げられないんだよ。だって、おまえの行動如何で、大勢の人たちが死んでしまうことになるんだからね。わかったら僕から逃げないって約束してくれるかい? おまえはずっと僕の傍にいるんだ」
美葉は無言で頷いた。結城は満足して笑顔で続けた。
「じゃあ、次。僕の預けたCD-Rがどこにあるか教えてよ」
「私の部屋よ」
「うそをつくんじゃない。探したけど見つからなかったぞ」
「探し方が悪かったんじゃない?」
「いい加減にしろ。さっきはどこかに預けたって言ってただろ?」
結城は問い詰めたが、美葉は答えようとしない。由利子に累が及ぶのを恐れたからだ。
「ふん」
結城は鼻で笑うと、バッグから何か取り出した。
「じゃ、これはなにかわかるだろ?」
それは、携帯電話くらいの大きさで黒っぽい色をして、先の方には2箇所電極がついていた。美葉が気を失った時首に当てられたものだった。美葉は、ややこわばった顔で結城を見た。
「そう、スタンガンだよ。これで隠し場所を訊くことにしようかな」
結城はこれ見よがしにスタンガンを放電させた。凄まじい放電光とバチッという嫌な音がした。美葉は、顔を背け眼を瞑った。
「さあ、ちょっと試してみようか。どこがいい?」
結城は美葉の上に馬乗りになって、笑い顔でスタンガンを美葉の額に当てた。そのままつぅーっと眉間から鼻・唇と伝いながら、ワンピース越しに胸を這わせ谷間あたりで一旦止め、電極を押し付けた。
「さてどうする? ここは心臓に一番近いんだけど」
結城に聞かれたが、美葉は顔を背け眼を閉じたまま無言で通した。
「じゃ、先に行っちゃおか」
スタンガンはまた美葉の身体を這いながら、次はへそのあたりに止まった。
「ここは、内臓との間が一番薄いところだからね、多分効くよ。でもやっぱり上の方に戻ろうか、それとももっと下に行く? それも楽しいけど」
美葉は、黙って耐えていた。それに美葉には考えがあった。放電する時には感電を恐れて自分から離れるだろう。その時隙が出来る。その時を狙って彼にもう一度蹴りを入れてやろう。もちろん逃げることは出来ないけれど、しばらくの間、結城を行動不能にしてやれるかも知れない。だが、事態は美葉の思惑を裏切った。結城がいきなりスタンガンを投げ出したからだ。
「や~めた。だって、今また気絶されたら、この後のお楽しみがなくなるからね。それに・・・、CD-Rのありかは大体見当がついちゃった」
結城は貼り付いた笑顔で言った。
「おまえの愛する『ゆりちゃん』のところだろ?」
美葉は、ギクッとして結城を見た。
「正解だね。おまえがあまりにも頑なだから、そうじゃないかって思ってさ。彼女のうちなら僕はもう知ってるから、いつでも取りにいけるよ」
結城はニヤリと嗤って言った。美葉の顔色が蒼白になった。
「この前、マンションの下に行ってみたんだ。最近は住所さえわかれば、難なく目的地にたどり着けるから便利だね」
「ああっ、あの時由利ちゃんが電話で言ってた怪しい男、あれ、あんただったの!? 由利ちゃんに危害を加えたら承知しないから!!」
「だからおまえは僕に従うんだよ。わかったかい、美葉ちゃん。さて・・・」
結城はまた美葉に覆いかぶさり、今度は美葉のルームワンピースを引き裂いた。白い大きな胸が露(あらわ)になった。
「や! 私の服・・・」
「大丈夫だよ」結城は言った。「おまえをトランクに入れて運ぶ時、ついでに服もいくつか選んで入れてきたからね。ダメだよ、自分が入るような大きいトランクを持ってちゃあ」
結城はクスクス嗤いながら言った。
「さて、これからが本番だね。せっかくだからこのままでしようか。刺激的なスタイルだしね」
結城はにっと笑ってヘッドレストに縛られた美葉の手首に触れた。その後、その手はそのまま腕を這い、再び美葉の顔を掴むと結城は自分の顔を近づけた。結城の唇が合さると、缶コーヒーの臭いが鼻を突き、容赦なく侵入してきた舌が、美葉の口の中で踊った。美葉には、大人しくそれを受け入れるしか術はなかった。彼女の頬を涙が伝った。

 美葉は、屈辱のひとときを思い出しながら、ぼんやりと両手首を見つめた。縛られた跡にうっすらと血が滲んでいた。
(今日、私は何度・・・)
再び悔し涙が頬を伝った。シートに体育座りで膝を抱え、顔を埋めて美葉は声を押し殺して泣いた。泣きながら美葉は誓った。必ず今日結城から聞いた話を、なんとかしてギルフォードに報せることを。彼がそれを知ることで、何らかの有効なテロ対策を考えてくれるだろうと美葉は考えた。そして、それは、この男への最大の復讐にもなるだろう。そのためには、この屈辱をじっと耐えてやる。美葉は顔を上げて窓の外を見た。外界は白々と夜が明けようとしていた。
 

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3.侵蝕Ⅲ (2)リーグ~同盟~

 由利子は、美葉が暗い場所で泣いている夢を見て眼が覚めた。
 時計を見ると7時を数分過ぎたくらいだった。いつもより1時間ほど遅いが、昨夜寝たのが4時くらいだったから、ナポレオン並の睡眠時間である。しかし、ギルフォードが言った就寝前のホットミルクが効いたのか、思ったよりよく眠れたような気がした。しかし、由利子は目覚める前に見た夢が気になった。
「美葉・・・、ホントにあんな風に泣いてるんじゃないやろうか・・・」
そう思うと朝から悲しかった。
(昨日のことが全部夢だったらいいのに)
由利子は思ったが、テレビを見てもネットを見ても今日が金曜日であることは疑いようが無かった。由利子は重い気持ちと身体を奮い立たせて、いつもより1時間遅いジョギングに出かける準備を始めた。

 ジョギングから帰ると、いつもより少し遅い朝食を済ませ、午前中時間が空いているので、昨日の観光記事をブログに書き始めた。しかし、楽しかったあのひと時を書き残したいと思いながらも、美葉のことが気になってなかなか進まない。
「はああ~」
とため息をつきながら机に突っ伏した時、インターフォンが鳴った。時計を見ると、まだ9時半ごろだ。誰だろうと思って急いで確認すると、地味な背広を着た二人組みの男が立っていた。美葉の可能性を少しだけ期待していた由利子だが、当然のこととはいえがっかりした。気を取り直して呼びかける。
「はい、どちら様でしょうか?」
「中央警察署、刑事課の者です。多田美葉さん拉致事件の件で伺いました」
男の片方が、モニターで見れるように警察手帳をかざしながら言った。
「あ、は~い、今開けます」
由利子は急いで玄関に向かった。
 刑事たちは、一人が40代後半くらいで背はあまり高くなく、筋肉質ではあったが若干太り気味である。もう一人は葛西よりは若干年上の30代前半くらいで、背が高くがっしりとした体つきの、一昔前の刑事物ドラマによく出てくるステロタイプな刑事そのまんまな感じだった。由利子は若い方より先輩らしい刑事の方が気になった。何かに似ている・・・。しかし、それが何か思い出せない。
(なんか、どっかでよく見るんだよな、こういう感じ)
「あの、どうかされましたか?」
由利子が黙ったまま何も言わないので、若い方が怪訝そうに尋ねた。
「あ、すみません。えっと、美葉の件ですよね」
「そうです」と年上の方が言った。
「あ、紹介が遅れました。多田美葉さん拉致事件の担当になりました、私は富田林(とんだばやし)で、こっちは増岡です」
「篠原です。美葉のこと、よろしくお願いします」
「それで・・・」
「あ、上がってください。話が話ですから玄関では何ですので。お茶くらい出せますから」
由利子が言うと、富田林は遠慮なく答えた。
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・。いやぁ、悪いですねぇ」
むさくるしい男二人は、少し照れくさそうに室内に入って来た。
「部屋の方は散らかってますし、猫が怖がるのでキッチンのテーブルでいいですか?ちょっと狭いけど」
「いえいえ、座れるだけでありがたいです」
二人は由利子に勧められるまま、椅子に座った。
「一人暮らしなんですか?」
富田林はが尋ねた。
「ええ。気楽なものですよ」
お茶を入れながら由利子が答えた。
「じゃあ、こんなむさいオッサンが二人も上がっちゃあ不味かったですね」
「あはは、そんなことないですよ。だって警察の方でしょ?」
そう言いながら由利子は思った。
(そういえば、この部屋に父親以外の男の人を上げるのって初めてよね)由利子は思った。(夢では昨夜アレクがいたけど)
「多田さんとはお付き合いは長いんですか?」
「ええ。そうですね、子どもの頃家が近かったから・・・もう30年以上の腐れ縁ですかねえ」
「えっ、30年以上?」
若い方の増岡が驚いて言ったので、由利子は苦笑いした。
「意外と歳食ってるので驚きました?」
「あ、いえ・・・」
「おい、増岡。いつも脊髄反射は止めろって言っとるやろ」
「すみません」
富田林に注意されて、増岡は下を向いた。
「あ、気にしないで」由利子はお茶を配りながら言った。「若く見られたってことだから、嬉しいです。大目に見てあげてくださいな、富田林さん」
そういいつつ、富田林を見た由利子は、さっきから気になっていた疑問が一気に氷解したのを感じた。
(この人、ふっ○い君に似てる・・・! 制服を着たらそっくりだわ)
由利子は、富田林がF県警マスコットに似ていることにようやく気がついた。謎が解けて嬉しくなったが、由利子はそれ以来噴き出しそうで、富田林をまともに見ることが出来なかった。
 

 教主は、長い朝のお祈りを終え、立ち上がった。ここは教主専用の祈祷室で「ニュクス(夜)の間」と呼ばれていた。瞑想の間に比べるとささやかともいえるつくりだが、黒をベースに金の装飾が施され、その中で沢山の蝋燭が燦然と輝き幻想的な雰囲気を漂わせていた。部屋の奥には祭壇が飾られ、さらに多くの蝋燭が美しい模様を形どって輝いていた。その真ん中に神像が飾られていた。男とも女とも見える神秘的な美しい白亜の像である。
 教主がゆっくり振り返ると、後ろに控えていた二人の御付の者は、うやうやしく頭を下げた。
「二人とも、お待たせしましたね。さあ参りましょう。頭を上げてください」
その御付の片方・・・女性の方が言った。
「長兄さま。遥音先生が何かお話されたいということで、控えの間で待っておられます」
「そうですか。何の用でしょうね。すぐにお通ししてください」
 涼子は、控えの間でじっと教主のお目どおりを待っていた。ようやく祈祷室の戸口が開き名を呼ばれた。涼子は立ち上がって祈祷室に向かった。中は洞窟のように感じられた。その暗い洞窟を数多の蝋燭が照らし、御付の者たちと教主を真っ黒いシルエットに浮かび上がらせていた。教主のシルエットが言った。
「いらっしゃい、遥音先生。何かあったのですか?」
「はい。大事なお話があります。お人払いを・・・」
「わかりました」教主は御付の者たちに向かって言った。「私はここでもう少し先生とお話をします。あなた方は先に行ってください」
二人は深くお辞儀をすると、ニュクスの間から出て行った。二人は蝋燭の光の中向かい合った。二人の周りの空気が緊張を帯びたような感じがした。教主は、再び神像の方に向かって座った。涼子もその斜め後ろに座る。
「さて、ご用件は何でしょう?」
教主は、からかうような口調で言った。
「もう、ご存知でしょう?」
涼子は、出来るだけ感情を押し殺して言った。
「私の夫が再び事件を起こしました。今度は警察も動き出しました・・・」
「ああ、そのことですか」
教主はかすかに笑って言った。涼子は、辛そうに顔をゆがめて続けた。
「若い夫婦と公安警察の二人を襲い、愛人の美葉さんを誘拐して再び姿をくらましました。今回結城は直接人に手をかけています。確実に指名手配されるでしょう」
「まったく・・・。君の夫にも困ったものだな」
教主の口調が変わった。
「昔はああじゃありませんでした」
涼子は目を伏せながら続けた。
「少し自分を卑下し人を羨むようなところもありましたが、優しい人でした。ここ2・3年で急にあのような粗暴な人になりました。・・・長兄さまが結成された秘密結社『タナトスの大地』に入会してからです」
「彼は、私の理想に賛同してくれた。だから、特別に入会させ重要なポストにつかせたんだ。お偉い妻を持った負い目があったようだからね。だが彼は増長し、私を裏切って勝手にウイルスを仕掛けた。そして皮肉にもそれは成功し、すでにわかっているだけで10人以上の死者を出し、今もそれは増殖を続けている。まだそれに気がついているのは一部の人間だけだけどね」
「その一部の者たちが問題です。知事や警察がすでに現状を把握しています。おそらく結城が実行犯だということも」
「何、連中はまだ何も出来ないさ。現在の死者数と経済的パニックを計りにかけると、早々に事実を発表するわけにもいかないだろう」
「しかし、人を傷つけた結城は確実に追われるでしょう。何れは我が教団との関連も・・・」
「大丈夫だ。彼を我が教団と関連付けることは出来ない。彼は教団とは関わっていないだろう。直接『タナトス』の方に入ったからね。『タナトス』は、完全な地下組織だからね。まだ公安すらそれを把握していないはずだ。
 ところで、我々が実験的に日本中に仕掛けたウイルスは何箇所だったかね」
「首都を含む5箇所です」
「それがことごとく失敗して、単に結城が私怨で仕掛けたウイルスだけが増殖するとは皮肉な話だな」
「はい。その前にK市で、インフルエンザの組み換えウイルスを使って実験した時は上手く行ったのですが・・・。やはりウイルスの感染力の差でしょう。タナトス・ウイルスの場合、やはりエアロゾルでは感染力が弱いようです。結城は、ターゲットにほぼ『原液』を浴びせたようですが、それは感染者の血液を注射した時とほぼ同じ効果があります。それに、感染可能なのは、人間と我々が『蟲』と呼んでいるゴキブリのみですし、ウイルス自体は直接日光に当たるとすぐに死滅してしまいますから」
「確かに他の動物にも感染すれば、ヒトへの感染の確率はかなり上がるだろうが、動物たちをも死なせてしまうだろう。それで無くともヒトという種に絶滅に追い込まれている彼らまで殺しては、本末転倒だ。だから、君にヒトとゴキブリのみに感染するようなウイルスを注文したわけだ」
「ヒトもゴキブリも要らないものと・・・?」
「バカを言っちゃいけない。ゴキブリは野生ではちゃんとした掃除屋の役割を担っている。ヒトのように汚して回るだけの生き物ではない。ずっと上等な生き物さ。それに感染しても生き残った彼らは、もっと強い種になる。スーパーローチだな」
教主は愉快そうに笑いながら、涼子の方を振り向いた。彼の美しい顔立ちが蝋燭の光で凄みを増して見え、涼子は心ならずもドキッとした。
「遥音先生、ご安心ください。彼は我々がこれまで以上に全力をつくして、警察より先に探し出して見せますよ」
教主は口調をいつも通りに戻して言った。涼子はその教主の目をまっすぐに見て言った。
「あの人は、もうどうでもいいんです。ただ、巻き添えで誘拐された美葉さんを助けてあげてください。今の結城は、彼女に何をするかわかりません」
「ほお、愛人の心配をされますか。お優しいことです。その気持ちをずっとお忘れのないように。彼女の救出ももちろん視野に入れてますからご安心ください」
教主は、優しい笑みを浮かべながら言った。涼子は教主の真意を図りかねたが、深く礼をしながら感謝の言葉を述べた。
「ありがたいお言葉を戴き、気持ちがかなり落ち着きました。美葉さんの保護をよろしくお願いいたします」
「お任せください。ですから、先生は今までどおり何も気にせずに研究に励んでください。妹さんの病気の治療法を1日も早く見つけるためにね」
涼子は無言で再び深く礼をしてから部屋を出て行った。涼子が去った後、教主は自分の右手を広げ数秒間見つめた後、軽く掌を握ると微かな笑みを浮かべてつぶやいた。
「夫婦ともども私の掌の上・・・か」
そして、再び神像の前に跪くと静かに祈り始めた。
 

 由利子の部屋を出た富田林刑事らは、車に乗るともう一度事件現場である美葉の部屋に向かった。
「特に、昨日以上の証言は無かったですね」
増岡が、運転をしながら言った。富田林は助手席でメモを整理しながら言った。
「そうだな。最近まで数年間疎遠だったって言ってたしな。付き合いが再開した途端にこの事件ってわけだ」
「何か因縁を感じますねえ」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ。せめてマーフィーの法則とか」
「今時それを言う人こそ、あまりいないんじゃないスか? それにしても・・・」
増岡は、ちょっと嬉しそうに言った。
「猫可愛かったですねえ・・・」
「そうだな。俺はカミサンが猫嫌いだから飼えねぇからな。いいよな、癒しになって」
「僕、ケイタイで写真撮らせてもらったから、待ち受け画面に設定します」
「いいな。俺も出来たらそうしたいけど、カミサンがなあ・・・」
「でも、勤務中に猫撫でたりしてて良かったんでしょうか?」
「まあ、動物をネタに市民との交流を図るのも、警察のイメージアップとしてはいいんじゃないか?」
「そうですね、動物好きの優しい刑事さんって感じで」
「ところで、あの篠原由利子、途中から俺の顔をまともに見なくなったんだけど、何でかな」
「さあ?」
「よくあるんだよな、こういうこと。特に制服を着てる時さぁ」
(そりゃあ、あなたがふ○けい君に似ているから・・・)
増岡は心の中で思ったが、口には出さずに適当に誤魔化した。
「そうなんですか? 不思議ですねえ」
「それより、今署内でも話題になり始めたバイオテロとの関連だが、どう思う?」
「う~ん」
増岡は、うなりながら言った。
「僕は、そんなことが起こっていること自体、まだピンと来ていませんからねえ」
「そうだよな。特に、この誘拐事件の犯人がテロの実行犯の可能性だなんて余計にだよな」
彼らがピンときていようがいまいが、確実に病原体は広がっていた。いずれそれは彼らの上にも暗雲としてのしかかってくるのだが、今の彼らには目先の事件解決しか念頭に無かった。

「あの人たち、猫見に来たんやろか、ねえ、にゃにゃ子、はるさめ」
由利子は、部屋で猫達を撫でながら言った。彼らは一通り質問をした後、遠慮がちに猫を見たいと言い出した。もちろん、由利子もそういわれると嬉しいので、人見知りをしないにゃにゃ子を連れてきて刑事達に見せた。彼らはいきなり相好を崩して、にゃにゃ子を撫でた。口調がいきなり幼児語っぽくなった。
(ごつい刑事が二人、猫萌えしとぉ・・・。しかも、その一人は○っけい君・・。)
由利子は、笑い出しそうになるのをこらえつつ、半ばあきれてそれを見学していたのだった。
「まあ、動物好きに悪い人はいないって言うからね、きっと二人ともいい人なんやろね。いい人たちが担当でよかったね、美葉」
由利子は、写真の美葉に向かって言った。それは、昔旅行に行った時の写真で、まだ20代の二人が楽しそうに笑って写っていた。今朝アルバムから引っ張り出して飾ったのだ。美葉が無事に帰ってくることを祈って。
「この頃はまだ夢がいっぱいあったような気がするな・・・。まだ怖いもの知らずで無敵やったよね」
由利子はため息をついて言った。
「私は無職、美葉は行方不明・・・。そして、二人ともバイオテロなんかに関わっちゃってさ~。一体なんだっていうんやろ。私ら、何か悪いことした?」
由利子はまた、気分が滅入ってくるのを感じた。それで、由利子は窓に向かった。外を眺めると、昨日に引き続き晴天である。由利子は気分転換に窓を開けた。そろそろ日差しが強くなってきそうだが、窓から入る風は梅雨前で若干湿気を含んでいるものの、まだ涼しかった。
「美葉・・・。あんた、今、一体どこにおると・・・?」
由利子は流れる雲をぼんやりと見ながらつぶやいた。
 

 昼休み、食後図書館に行くために廊下を歩いていた彩夏は、ふと窓から外を見た。なんとなく気になる光景が目に入ったからだ。確認しようと窓に近づく。やはりそうだ。校庭の裏庭の片隅で、佐々木良夫と田村勝太が、何か真剣な顔で話をしていた。不審に思った綾香は、急遽予定変更、返す本を持ったまま階段を駆け下り、靴を履き替えるのももどかしく、急いで二人の下に向かった。
 珍しく自分の方に走って来る彩夏を見て、勝太はニコニコしていたが、良夫は若干不機嫌な顔をしながら近づく彩夏に言った。
「何の用だよ。西原君ならまだ病院だよ」
「そんなの知ってるわよ」
彩夏は、彼らの傍まで来ると少し息を弾ませながら言い、さらに数秒間を置いて続けた。
「珍しい顔ぶれで一体何の話をしてるのかしらと思って」
「そんなこと、あんたに関係ないやろ」
良夫はあくまでも彩夏に冷たい。勝太は、こんな可愛い子に話しかけられて、何の不満があるのだろうといぶかしく思った。彩夏はそれを無視して二人に言った。
「あのね、私も同じ事件に関わっているでしょ。外さないでよね。口止めされてるから誰にも言えないから辛いんだから。それに、どうせ言っても誰も信じてくれないし。でも・・・」
彩夏は不安な顔をして口ごもった。
「錦織さん、ひょっとして・・・」勝太が言った。「誰かにそのことを聞かれたっちゃないと?」
「ええ、ええ、そうなの。・・・田村君、ひょっとして、あなたも?」
彩夏は勝太の顔をまっすぐ見て言った。彩夏にそんな風に話しかけられて、勝太はすこし嬉しくなった。
「うん、一昨日。今、ぼくらはその話をしていたところなんだよ」
勝太は、若干ぎこちない標準語で言った。彩夏はそんな勝太に向かって訊いた。
「その人って、わりと若い女性で、美人でスタイルの良い・・・?」
「そうそう、その人!」
「もしかして、佐々木・・・クンも?」
「会ったよ。ボクは昨日。君みたいなやな感じの女やったけどね」
「一体どこで嗅ぎ付けて来たのかしら・・・」
彩夏は良夫の挑発を無視して、腕を組みながら小首をかしげて言った。この事件を嗅ぎまわっている女がいるのは確実だった。
「いらん事をしゃべったりしてないやろうね」
良夫は訝しげに彩夏を見ながら言った。
「言うわけないじゃないの。徹底的に無視してあげたわよ。って、あんたこそどうなのよ」
彩夏はむっとして言うと、良夫も負けじと答えた。
「ボクだって無視したよ。だいたい、男がみんな田村君みたいにフラフラついて行くって思ってんだよ、ああいう女は!」
「田村君、ついて行っちゃったの?」
彩夏が驚いて田村の方を見ながら言った。勝太は焦って答えた。
「あのね、ぼくは、そんなんでついて行ったわけじゃないよ。あの人がどれだけ何を知っているか知りたかっただけだよ。そりゃあ、ちっとはクラクラ来たけどさ」
「やっぱ、そうなんじゃん」
良夫と彩夏は口を揃えて言い、はっと気が付いて「ふん!」とそっぽを向いた。ベタだな、と思いながら勝太は話を続けた。
「お・・・ぼくは、最初にあの人から、雅之の死に疑問を持たなかったかって聞かれて、驚いたんだ。だって、普通は自殺って思うだろ? それで、何を聞いてくるかって思ったんで、ついていったんだよ。事故の状況については、ぼくは辛くて説明できないっていったんだ。本当のことだしね。そしたら、あの人話題を変えてきたんだ。大きい外人の男が関わって来なかったかって聞いたんだよ」
「それ、やっぱギルフォードさんのことやろ?」
「他にいないわよ、そんな人。私はあの時病院で少ししか話さなかったけどさ、目立つよ、あの人」
「何が少しだよ。ボクにギルフォードさんと話す機会をほとんどくれずに、一人で質問してたじゃないか」
良夫がむっとした顔で言った。彩夏は良夫の方を向くと、両手を腰に置いて答えた。
「だって、わからないコトだらけだったんだもん。だいたいギルフォードさんギルフォードさんって、あんた、気持ち悪いわよ」
「で、でさ」
勝太は二人の雰囲気が悪くなる一方なので、焦って口をはさんだ。
「適当に誤魔化そうって思ったんだけど、ついフェイントを受けて、病院の名前とか、ギルフォードさんに会ったこととか言っちゃったんだ。それで、気になって良夫に相談してたんだ」
「どういうフェイントだか」
彩夏があきれて言うと、良夫が珍しく同意して言った。
「まったく、下手の考え休むに似たり、やね。で、さっきの続きやけど、そこまでやって、あの女が何処まで情報を掴んでるかわかったと?」
「ああ、雅之がホームレスを・・・。」
と、言いかけて、勝太は彩夏を見た。
「そのウワサはもうみんなが知ってるわ。気にしないで続けて大丈夫よ」
「う、うん、わかった。・・・雅之のホームレス事件とその時西原君が傍にいたってこと、雅之が事件を悔やんで自殺したんじゃないか、ってこと。でも、彼女はそれを疑問視してる。それから、ギルフォードさんになんか興味を持っているみたいだってことくらいかな」
「たいした情報じゃないじゃん。秋山君の話は、周知のことだし」
彩夏が言うと、良夫がふっと含み笑いをして言った。
「甘いね。問題は、その女がどうしてギルフォードさんのことを聞いてきたかってこと。ギルフォードさんについてはボクたちしか知らないことやし、ひょっとしたら、例の病気について何か掴んでいるのかもしれんやろ」
「そうなんだよ、錦織さん。あの女の人は、雅之の死に疑問を持ってるんだよ。ただの自殺や事故死じゃないって。そこから例の病気のことを突き止めたのかも知れないんだ」
「で、何故、彼女はそんなことを調べてるっていうの?」
二人に言われて彩夏は少しお冠で言った。それに良夫が深刻な顔をして答えた。
「ボクはマスコミ関係者じゃないかって思うんやけど」
「え? あのデカパイが?」
そう言ったのは、なんと彩夏だった。勝太は驚いてぽかんとして彩夏の方を見た。彩夏はつい口に出た言葉に焦って、真っ赤になって口を押さえた。良夫はまた含み笑いをして言った。
「まあ、そんな感じで女性だって見かけによらないってことやね」
「と、とにかく」勝太は彩夏が良夫に突っかかりそうになったので、急いで口を挟んだ。「このことは、ギルフォード先生に報せたほうがよかっちゃ・・・いいんじゃないかな」
「ボクが電話しておくよ。西原君のことも聞きたいし」
良夫は言ったが祐一の名を出した時ちらりと彩夏を見た。
「じゃあ、お願いしておくわね」
彩夏は、見事にそれを無視して言った。
「その人が田村君に接触してから、すでに2日経ってるから急いだほうがいいわ」
「わかっとぉ。今日放課後連絡してみる」
良夫は、少し口を尖らせて言った。彩夏は二人を見ながら言った。
「私達は、西原君も含めて恐ろしい事件に巻き込まれちゃったのよね。だから、私達4人はリーグを組まないといけないの。お互いが協力しあわないと、不安に飲み込まれてしまうわ。だって、それぞれの胸にしまっておくには、事件が大きすぎるもの。だから、お互いの情報は公開し合っていかないと・・・」
雅之から発生した事件に関わった4人をまとめようと考えたのは、他ならぬ彩夏だった。彼女は美千代の事件に関わり、祐一たちと共にギルフォードから質問を受けた。その時、逆に彼を質問攻めにして辟易させたのも彩夏だった。傍にいた良夫やまだショックから覚め切れていない祐一が、驚いて彩夏を見ていた。
 彩夏はその後、雅之の死に関わった勝太に話しかけた。その時、雅之の病気について報せたのが勝太であり、彼はそのために例の病院に連れて行かれ、ギルフォードに会ったということを知った。そして、彩夏は良夫も勝太もかなり精神的にダメージを受けていることを感じていた。彩夏本人は、悲惨な現場を目の当たりにしていないため、まだ余裕があった。それで、事件に関わった自分を含めた四人が支えあうような協力体制を考えたのだ。これなら個々にのしかかる負担が四分の一に軽減されるはずだ。誰にも言えないことほど辛いことはないということを、彩夏は経験上知っていた。
「あの女性も気になるけど・・・」彩夏は続けた。「事故現場で田村君に秋山君の病気のことを教えたっていう女医さんも気になるのよね。まるで病気のことを知っていたよう・・・」
「うん。今考えるとそうだね。でも、その時は医者だから当たり前だって思ってたから・・・」
「え?」
「通りがかりのお医者さんに感染症のおそれがあるって言われたとしか説明しなかったんだ」
「あんた、バカじゃないの?」
彩夏が言った。
「何でちゃんと説明しなかったの? あんたの話を聞いたとき、私だってあの女医はメチャメチャ怪しいって思ったわよ。それにその人に会ったのって君だけなんだよ」
「だって・・・。オレ・・・、あん時すごくショック受けとって、ホントに全然まともに答えられんかったんだ。そんなことまで頭に回らんかったんだよ」
勝太は、彩夏に言われて半べそをかきながら言った。それを見て、流石の良夫も気の毒になったのかフォローに回った。
「田村君、そのことはボクが電話した時ついでに伝えるから・・・。錦織さん、田村君を責めるのは可哀想だよ。実際に悲惨な事件を目の当たりにするとね、すごく辛いんだよ」
「わかったわ。ごめんなさい・・・」
彩夏は素直に謝った。
「とにかく、もうすぐ帰って来る西原君も含めてお互いが協力しあいましょう。これからも何がおこるかわからないし」
「西原君、立ち直れるかなあ・・・」
勝太は心配そうに言った。
「大丈夫だよ」
良夫が言った。
「西原君は強いもの。きっと帰ってくる」
その時、昼休みが終わるチャイムが鳴った。
「いっけない、結局図書館へ行けなかったわ」
「早く教室に戻らないと!」
良夫はそういうと駆け出した。後の二人もそのあとを追った。誰も居なくなった校庭を、午後の日差しが照り付け始めた。
 

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3.侵蝕Ⅲ (3)シンフル・ラヴ~Sinful love

 由利子が感染症対策センターに着いたのは、2時近かった。というのも、ギルフォードがセンターに着くのがそれくらいになりそうだからなのだが、病院の前に立った由利子は、少し緊張した面持ちで病院を眺めた。なんだか場違いな気がしたからだ。建物は、白いモダンな近代建築で大きい門にはレリーフ風に「県立病院IMC」と書かれたいぶし銀のようなプレートがはめ込んである。由利子はそれを確認すると、意を決したように病院内に入って行った。平時は主に総合病院として機能しているらしい。通院患者らしき人たちと何人もすれ違った。しかし、由利子の目指すのは隔離病棟のある、この病院本来の機能を持つ特別棟だった。総合病院の病棟を通り抜けると広い中庭があり、その中を通るパスをさらに通り抜けると高い塀が現れた。門には警備員ではなく、警官が二人立っていた。しっかりと腰に拳銃を携帯している。由利子は彼らに用件を告げた。警官は無線で用件を内部に伝えた。しばらく待つように言われた由利子は、仕方なく門の前でぶらぶらしながら待っていると、門が開いてギルフォードが現れた。
「ユリコ、お待たせしました」
ギルフォードは両手を広げて由利子を迎えた。
「すみませんね。少し前までは、こんなに厳しくはなかったんですが、アキヤマ・ミチヨの事件以来こんな感じになってしまいました。気を悪くしないでくださいね」
由利子はギルフォードの前に駆け寄ると言った。
「そんな、気にするほどのことじゃないですよ。むしろ当然の配慮でしょ?」
「ありがとう、ユリコ。では、早速案内しましょう」
ギルフォードは、由利子をエスコートするようにして院内に連れて行った。
 由利子は、スタッフステーションに案内された。
「ここは、この病棟の中枢でもあるんですよ」
ギルフォードは説明した。中に入ると、高柳と数人のスタッフが何か真剣に話していたが、由利子に気がつくといっせいに彼女の方を見た。由利子は軽く会釈をした。ギルフォードが由利子を紹介した。
「ミナサン、今度から僕の助手として来てくれるシノハラ・ユリコさんです」
「はじめまして、篠原です。よろしくお願いいたします」
由利子は改めてお辞儀をしながら言った。高柳が親しげな笑みを浮かべて言った。
「はじめまして、篠原さん。ギルフォード先生からお話は聞いています。僕はここの責任者の高柳です」
高柳の紹介が終わると、他のスタッフも自己紹介を始めた。
「スタッフの山口です」
「三原です」
「看護師の春野です。よろしく」
「あとは、看護師の園山君が来ているかな。このメンバーが主に多美山さんの治療にあたっているんだよ」
高柳が説明した。
「もし、感染者が増えてもっと状況が深刻化したら、一般病棟を含めてこの病院全体が感染者を受け付ける体制になるんです。そんなことにならないように願いたいですけれども」
と、ギルフォードが追加で説明した。
「今、入院されているのは多美山さんだけなんですか?」
「あと、ニシハラ兄妹が念のため入院していますが、今のところ感染した様子は見られないようです。このままなら、火曜には退院出来ると思います」
「そうですか。良かった。小さい子があんな病気に罹るなんて、考えただけでもゾッとしますよね」
由利子はほっとした表情で言った。
「そうですね・・・。僕はアフリカでそういう幼い患者を沢山見てきました。とても辛いことです」
ギルフォードは思い出したのか、少し表情を歪めた。この人は、そういう修羅場を沢山見てきたんだ・・・と由利子は改めて思った。
「だから、僕はこんな病気をばら撒いた連中を絶対に許せません」
と、ギルフォードは別人のような厳しい表情をして続けた。由利子は頷いて言った。
「私も同じ気持ちです」
それに、美葉を誘拐したのもその関係の可能性があるから、もう私も完全に関わってしまったのかも・・・。と由利子は思った。ギルフォードは由利子の両肩をがっしりと掴み、彼女を真直ぐに見て確認するように言った。
「ユリコ、辛い戦いになるかもしれませんよ」
「もう、とっくにその覚悟はしていますよ」
由利子は、ギルフォードの眼を真直ぐに見返して言った。
「Good!」
ギルフォードは満足そうに言った。
「そうだ、ユリコ、タミヤマさんとは会ったことありますか?」
「ひょっとしたら、K署で会った事があるかもしれません」
「タミヤマさんの調子が良いようならば、会ってあげてください。タミヤマさん、会いたがっておられましたから」
「ええ、是非、お会いしたいです」
「多分ガラス越しになるでしょうけど、面会出来たら、あとで僕も病室に行くからってお伝えください。では、僕は、今からニシハラ・ユウイチ君のところに行かねばなりません。何か話したいことがあるそうですから。君はしばらくここにいてください。タカヤナギ先生、ユリコをよろしくお願いしますね」
ギルフォードはそう言うとスタッフステーションから去って行った。由利子はその後姿を見ながら、なんか寂しそうだな、と思った。彼女は、ギルフォードが親しげに接しながらも、何となく人と距離を置いている様なところがあることに気がついていた。
 

 窪田栄太郎は、体調不良と精神的なストレスで元気がなく、その上午後からは集中力にも欠け、仕事が全くはかどらなかった。精神的なストレス・・・。そう、火曜の深夜・・・実質水曜の午前1時ごろ、過失で自動車でぶつけてしまった男のことをずっと気に病んでいるからだ。相手が車道を歩いていたとしても、もちろん非は窪田にあった。彼は愛人である部下の笹川歌恋の挑発からいわゆる無謀運転になっており、男に気がつくのが遅れた。しかも酒気帯びである。それ故に窪田は被害者を道路脇に隠して逃げてしまったのだ。
 彼は運が悪かった。普通ならあの程度の事故ならば、まず死ぬようなことはない。何故なら、気付くのが遅れたとはいえ、酒気帯びのためスピードを出さないように気をつけて運転していたのが幸いして、重傷を負わせるような衝撃ではぶつからなかったからだ。しかし、男は何故か激しく痙攣して目の前で死んだ。窪田は歌恋に押し切られ、遺体を放置して逃げてしまった。しかし、あれ以来、毎晩のようにその時の夢を見て汗だくで飛び起きる。妻は、そんな彼を不思議に思ったが、敢えて理由を聞くようなことはしなかった。夫婦仲は冷え切っていたのである。

 あの夜の事故の後、窪田は闇雲に車を走らせ、目に付いた山奥のホテルに飛び込んだ。チェックインの電話を済ませると、窪田はそのまま倒れこむようにベッドに横たわった。まだ、心臓がドキドキしていたが、そのくせさっき起こったことが事実だったのかどうか、記憶はあるが実感が全然湧かない。まるで悪夢のようだった。一度眼をぎゅっとつぶって開け、そっと掌を見た。やはりうっすらと血のあとが残っている。あれは紛れもない事実だった。窪田はガバッと起き上がってポケットから血を拭いたハンカチを取り出し、ベッド脇のゴミ箱に投げ捨てた。
「課長・・・」
歌恋の声に、窪田は我に返った。彼女はベッドの傍に心配そうに立っていた。窪田は立ち上がって彼女に向き合うと言った。
「取り乱してすまない、笹川君」
「私こそ、ごめんなさい」歌恋は窪田に抱きつきながら言った。窪田も彼女を抱きしめた。
「でも、あんな自殺者の為に課長の一生が台無しになるなんて、我慢できなかったの・・・」
「自殺・・・?」
「だってそうでしょ? 車道の真ん中をフラフラ歩いていたのよ。第一あれくらいのことで死ぬわけないもの。きっと毒を飲んでたとか、リスカとかしてたんだわ」
「そ・・・そうかな?」
言われて見れば歌恋の言うことはもっともであるように思われた。
「そうですよ」
「でも、遺体が見つかったら・・・」
「大丈夫ですって。だって課長との接点がないもの。課長は捕まったりしないわ。あれくらいだと車体には大して傷はついてないでしょうし、轢いてないからタイヤに血もついてないと思う。だから現場に課長がやったっていう証拠は残ってないはずよ。目撃者もいなかったでしょ」
歌恋は理路整然と言ってのけた。
「そう、そうだよね」
窪田が安堵の表情を浮かべて言うと、歌恋は無言で窪田をぎゅっと抱きしめた。
「笹川君・・・」
「ダメよ、歌恋って呼んでくれなきゃ」
「歌恋・・・」
「うふふ、栄太郎サン・・・」
歌恋は、背伸びをしながら窪田の方に顔を近づけてきた。
「さ、先にお風呂に入ろうよ、ね・・・」
窪田はそう提案したが、若い歌恋はすでに歯止めが効かなくなっていた。
「いや・・・。このまま続けて・・・お願い」
歌恋は濡れた眼をして息を荒げながら言った。あまつさえ歌恋に胸を押し付けられ、股間を彼女が擦り付ける腹にくすぐられていた窪田の理性は遂に吹き飛んだ。そのまま二人は床に崩れ墜ちた。

 窪田は、仕事中にとんでもないことを思い出して、あせって咳払いをした。顔が少し赤くなっていた。
「課長、風邪でもひかれたんですか?」
窪田の元に出来上がった書類を持ってきた、部下の加藤が心配をして声をかけてきた。
「最近元気がないようですし、顔色も悪いですよ」
「あ?・・・ああ、大丈夫だよ。このところなんだか眠れなくてね」
「そりゃあ、よくないじゃないですか」
「ははは、ひょっとして男の更年期かな?」
窪田は自嘲気味に笑いながら言った。それを聞いて加藤は少し安心したように言った。
「何言ってんスか。まだそんな歳じゃないでしょ。そーゆー冗談が言えるようなら大丈夫ですね。はい、これ、来週の会議用の書類です」
「ああ、いつもありがとう。ご苦労さん」
部下へのねぎらいの言葉を忘れない、律儀な性格の窪田は部下達から慕われていた。もちろん歌恋とのことは誰にも知られていない。加藤は書類を渡すと、一礼して自分の席に戻った。窪田はちらりと歌恋の方を見た。彼女はパソコンの前で、黙々とキーボードを打っていた。歌恋は小洒落た名前や派手な見かけによらず、仕事熱心な女性だった。そのため、他の人の分の仕事まで回って来てよく夜遅くまで残って仕事をしていた。ある日、たまたま二人きりで残業になり、夕食を食べに行った。その時、なんとなく意気投合し、その後はお決まりのコースをたどってしまったのである。実は、窪田は今度の土日、つまり明日と明後日で歌恋とこっそり温泉旅行をする企画を立てていた。このまま体調が悪いままだと、行けない可能性が出てくる。
(帰りに栄養ドリンクでも買って帰るかな・・・)
そう思った時、メールが入った。こっそり確認すると歌恋からだった。ふと見ると歌恋は席を立っていた。トイレかどこかでメールを送ったのだろう。内容は、窪田の体調と旅行を心配したものだった。急いで窪田は『大丈夫だよ』という短いメールを返した。
  

 多美山がうつらうつらしていると、傍に人の気配を感じて目を開けた。気配の方を見ると園山看護師だった。
「多美山さん、起きてらっしゃいましたか?」
「やあ・・・、園山さん・・・。もう定期検査の時間・・・ですか?」
「いえ」
園山は答えた。
「面会の方が来られていますが、お会いになりますか? 窓越しですけれども」
「どなたです?」
「篠原由利子さんとおっしゃる方ですが・・・」
「ああ・・・」
多美山の顔に生気が戻った。
「篠原・・・由利子さんですか。もちろん喜んでお会いします」
「そうですか。ただ、あまり無理してお話はなさらないでくださいね」
園山は、そう言うと窓のカーテンを開け、マイクでスタッフセンターに連絡した。
「お会いされるそうです」
しばらくすると、曇りガラスがさっと透明になり、窓の向こうに女性の姿が現れた。
「多美山さん、篠原です。・・・初めまして・・・じゃあないですよね」
女性は親しそうな笑顔を向けて言った。
「そうですな・・・。K署で一瞬だけお会いしましたが・・・。確か、秋山雅之の事故のことをジュンペイに報せに行った時でしたな」
「そうです。葛西さんからお話は良くお聞きしていましたが、あの時の方とは思っていませんでした」
「それより、あの一瞬で覚えておられることが驚きですよ」
「私が最初にK署にお電話した時に、応答されたのも多美山さんですよね」
「おや、そんなことまで覚えとられますか」
由利子は、クスッと笑って言った。
「だってお名前をおっしゃったじゃありませんか」
「そう言えばそうですな」
「珍しいお名前だから覚えてたんですよ」
由利子は、またにっこり笑って言った。多美山は、由利子の笑顔を見て、なんとなくほっとするのを感じた。
「多美山さん、ご気分のほうはいかがですか? あまり長くお話するとお疲れではないですか?」
「大丈夫ですよ。今は熱もだいぶ下がっとりますし・・・、食欲もあっとですよ。午前中は本も少し読めたし昼食は完食しました。入浴やシャワーは禁止されてしもうたとですが、トイレもちゃんと自力で行けっとですよ」
多美山は笑顔で答えた。
「すごいですね。私なんか、具合が悪いと食欲がほとんど無くなりますのに」
「体力勝負の仕事ですけん、出来るだけ食事はとるように訓練しとぉとです。ところで、今日はギルフォード先生はご一緒じゃなかとですか」
「来られてますよ。今、西原君が話したいとかいうので、そっちの方に行っておられます。後で多美山さんの病室の方に行くって言ってましたから、多分近いうちに来られますよ」
「そうですか。篠原さんは、先生のところでアルバイトされるそうですね」
「ええ、当面ですが」
「どういう経緯でお知り合いになられたとですか? やはり、秋山雅之つながりで?」
「まあ、それもありますが・・・、これが傑作なんですよ」
由利子は、ギルフォードと知り合った経緯簡単に話した。
「ほお、先生が人の顔を覚えるのが苦手というのは初耳ですな。まあ、まだそんな長い付き合いでもなかですが」
多美山は愉快そうに続けた。
「ばってん、教授のごたぁ偉か人の悩みが『顔を覚えられない』ってのも面白かですな」
「そうでしょ、そうでしょ」
由利子は言った。
「でも、それを言ったらいじけるんですよ。変な人ですよね」
「ところで、昨日は大変でしたな。お友だちのこと、ご心配でしょう」
多美山は急に神妙な顔をして言った。
「もう、ご存知でしたか」
「今朝ジュンペイが来て教えてくれたとです。昨夜は結局本部の方に泊り込んだと言うとりました」
「あらら、そうでしたか。申し訳なかったですね、せっかくの休暇だったのに」
「いえ、それが警官の仕事ですから、気にせんでください。しかし、先生の秘書の女性はたいしたもんですな。息の止まっていた男性を見事蘇生させたそうですよ」
「そうですか。良かった・・・」由利子はほっとして言った。「私、そんなことに全然気がつかなくて・・・。とにかく美葉のことで頭がいっぱいで、他にも被害者がいるなんて考えもしませんでした。亡くなっていたら、きっとすごく後悔しました」
「普通の人は気付かんですよ。そういう取り込んでいる時は、特に」
「そうでしょうか・・・。それで、他の人たちは?」
「奥さんと、公安の武邑とか言う男は、意識を取り戻したそうで、重傷ですが命に別状はなかということです。しかし、蘇生した夫の方と公安の若い方は、依然意識不明の重体だということでしたが」
「そうですか・・・」
「犯人の男はお友だちと付き合いがあったそうですが、篠原さんは彼とは面識はなかとですか?」
「ええ。話だけで会ったことはないんです。ただ・・・」
「ただ?」
由利子は苦笑しながら言った。
「彼女が彼と付き合い始めた頃、アリバイ作りにずいぶん利用されたみたいで」
「ほお?」
「ある日、いきなり美葉のお母さんから電話が入って、誤魔化すのに大変でした」
「あららら」
「まったくもお、それならそうと一言断ってくれてたらいいのにって、その後美葉と大喧嘩になって、それから何となく気まずくなって、2年近く音信不通ですよ」
「そげんやったとですか」
「それで、最近久々に美葉から連絡があって、会ったら、彼氏のことを相談されて・・・」
「相談を?」
「ええ、彼氏に奥さんがいたって・・・」
「あらま、それは深刻ですな」
「って、私、何を話しているんでしょうね」
由利子は、また苦笑して言った。
「いや、私もついクセで色々聞いてしまいました。職業病ですなあ・・・。それで、お友だち・・・美葉さんとはまたお付き合いが復活したとですね」
「ええ。なんだかんだと言ってもやはり幼馴染ですし、下らないことに意地を張っていたなあって・・・。会って話して、改めてお互いが信頼しあっているって気がついたんです。それなのに、こんなことになってしまって・・・」
由利子は急に悲しくなって下を向いた。
「あのね、篠原さん」多美山は優しく言った。「たぶんね、つきあいが復活したとは、美葉さんに危険がせまっとったからですよ。あなたはきっと、美葉さんというお友達と強い絆で結ばれとぉとです。大丈夫、美葉さんはきっと無事に帰って来ます。その時に彼女をしっかり支えてあげんしゃい」
多美山の言葉に、由利子はついホロリとなって涙ぐんでしまった。
「ありがとうございます」由利子は目の縁を、人差し指でそっとぬぐいながら言った。「すこし、気が楽になりました」
「話題を変えまっしょうか。昨日の市内観光はどうやったですか?」
多美山は、深刻な話題から軽い話題に変更した。
「楽しかったです。朝の10時半に集まって・・・」
由利子は昨日のことを詳しく多美山に話し始めた。
 

「やあ、ユウイチ君、こんにちは。久しぶりですね」
ギルフォードは、西原兄妹のいる病室に入ると声をかけた。兄妹は仲良く並んで勉強していたが、ギルフォードの姿を見ると、香菜は慌てて兄の後ろに隠れた。
「あ、こんにちは、ギルフォードさん。すみません、まだ、香菜はまだその防護服が怖いみたいで・・・」
「オー、カナちゃん、ゴメンナサイネ。規則で着用が義務付けられているので仕方がないんです」
ギルフォードは、とっておきの笑顔で香菜に話しかけたが、笑顔の大部分が隠れてしまっているので大して効果はない。
「香菜、ギルフォード先生にちゃんとご挨拶しなさい。すごくお世話になっているんだよ」
兄に言われて香菜は、おずおずと兄の陰から姿を現し、ぴょこんとお辞儀をすると言った。
「先生、こんにちは。お世話になっています」
「カナちゃん、こんにちは。ご気分はいかがですか?」
「はい、大丈夫です」
そう答えると、香菜はまた兄の後ろに隠れた。その様子を見て、ギルフォードは苦笑しながら言った。
「ユウイチ君、お話したいことがあるそうですね。一時期は僕に会いたくないって言ってたそうですが、どうしたんですか?」
「はい」祐一は答えた。「あなたに合わせる顔がないと思ったからです。僕はあなたからあんなに危険に近づくなと注意されたのに、結局自分から近づいて行って、その結果最悪な事態を招いてしまいましたから・・・。でも、それじゃあいけないって思ったんです。会ってからちゃんと謝らないと、って」
「祐一君、確かに君は自ら危険に近寄ってしまいました。でも、今回は仕方がないと思います。僕だって可愛い妹が盾にされたら同じことをしたかもしれません」
ギルフォードは、祐一に向かって優しく言った。祐一は安堵した顔でそれを聞いていたが、ギルフォードは続けてしっかりと釘を刺した。
「でも、今回はもっと最悪な結果も考えられました。ユウイチ君、確かに、不可抗力という言葉があります。でも、これからは本当に気をつけてください。一人で決着をつけようとしないで、必ず誰かと相談してください。それも、出来るだけ信頼のおける大人に相談するのですよ」
「すみません。これからはきっとそうします」
祐一は、素直に答えた。何となく肩の荷が下りたような気がした。
 ギルフォードは、改めて彼らの座っているテーブルの上を見た。そこには、ノートや参考書が所狭しと並んでいた。そのテーブルは二人が勉強できるように特別に運び込まれたものだった。
「二人とも、ちゃんと勉強しているんですね。エライです。何かわからないコトなどありませんでしたか? せっかくですから、僕がわかるところ限定ですが、お教えしましょう」
「ええ? いいんですか?」
祐一が、嬉しそうに言った。
「ええ、でもホントに僕がわかるところだけですよ」
「はい充分です。実は科学と英語でどうしてもわからない箇所があったんです」
「さて、どこですか?」
ギルフォードは身体を乗り出して尋ねた。
 ギルフォードは祐一だけではなく、香菜の質問にも答えた。香菜の質問は、葉っぱは何故緑色をしているの、とか、虹はどうして出来るのとか、そういう子どもらしい素朴な疑問だったが、ギルフォードはわかる限りのことを答えてやった。それが功を奏したのか、いつの間にか香菜はギルフォードの膝に座るくらいに打ち解けていた。
「女の子って、意外と質問が好きなんですね」
ギルフォードは、笑いながら言った。
「ほら、あの事件で君と一緒にいたあの女の子」
「錦織さんのことですか?」
「そうそう、その子です。彼女からも僕は質問攻めに遭ったでしょ?」
「すみません。錦織さんの出現は、僕にとっても本当にイレギュラーで・・・。あいつ、関係ないくせに勝手に危険に首を突っ込んで・・・。困ったやつです」
「ホントに」
ギルフォードはニヤッと笑って続けた。
「でもユウイチ君、キミ、まんざらでもないでしょ?」
「ギ...ギルフォードっさんっ、あのっっっ!!」
「いや、話のわかる子でよかったです」ギルフォードは焦る祐一を無視して言った。
「賢(さか)しい子です。僕の心配を理解して、事件について伏せることを了解してくれました。彼女は頭がいいだけじゃない、機転も利きそうです。ただ、これ以上事件に興味を持たなければいいんですが・・・」
「そうですね。ご心配は、よくわかります」
祐一も納得して頷いた。

「くしゅん」
彩夏は、軽いくしゃみをした。
(いやだ、風邪ひいちゃったかしら?)
午後のけだるい授業を受けながら、綾香は思った。ふと外を見ると、梅雨前なのに日差しが照りつけて暑そうだが、妙に景色が霞んでいる。
(や~ね、黄砂かもしれないわ。またアレルギーが出ちゃうじゃない)
彩夏はため息をついた。
「錦織さん」
彩夏は急に自分の名を呼ばれて慌てて正面を向いた。名を呼んだのは、もちろん先生だった。
「ちゃんと聞いてる? くしゃみをしたり、ぼうっとしたり、ため息をついたりと忙しいみたいだけど・・・」
「すみません」
彩夏は、恐縮して言った。前の方でクスクス笑う声がした。良夫だった。彩夏は口を尖らせて良夫を見たが、すぐに姿勢を正して授業に専念することにした。
 

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3.侵蝕Ⅲ (4)悪夢再び

「なかなか楽しそうな一日でしたな」
由利子の話を聞き終えて、多美山は笑顔で言った。
「時間があまりなくて、ジュンペイからは詳しい内容は聞けませんでしたが、あいつもとても楽しかったと言うとりました」
「ええ、とても。・・・そうだ、病気が治ったら多美山さんも一緒に行きましょうよ。今度はもう少し遠出して・・・」
「そうですなあ・・・」
「いっそ、秘書の紗弥さんや美葉・・・も誘って、一緒に温泉にでも行きましょうか」
「ははは、そりゃあ綺麗どころが揃って、よかでしょうなあ」
多美山は、楽しそうに笑って言ったが、急に真面目な顔になって言った。
「時に篠原さん、ジュンペイのことはどげん思ぉとられますか」
「どげんもこげんも、お会いしてからまだ10日かそこらですので何とも・・・」
「そうですか。お話を聞いていると、けっこういい雰囲気になっとったように思えたんですが・・・」
多美山は少しがっかりして言った。
「ばってん、ジュンペイはあなたを結構気に入っとるようでしてね。あなたのことを話す時は、実に幸せそうな顔をしよりますんで・・・」
「はあ・・・」
「まあ、けしかけたとは実は私なんですが、こりゃあ、瓢箪から駒かな、と、思うとったとですが・・・」
「そりゃあまあ、確かに嫌いじゃあないし、たまに可愛いと思うこともありますが・・・、って、いえ、その・・・だからって特に好きと言うわけでは・・・」
由利子は、口を滑らせて少し焦った。それを見て多美山は安心したように言った。
「嫌いなわけじゃぁなかとですな」
「そっ、それよりも」由利子は、照れくさくなって焦って話題を変えた。「お話し忘れていましたが、海に行った時、アレク・・・ギルフォード先生が、こんなことを言ってたんですよ」
「先生が?」
「はい。日本の海の歌にはワルツが多いと」
「ほう、そうですか。ギルフォード先生が」
多美山は感心して言った。
「ええ。確かに『海』とか『港』とか思い出して歌ってみたら、ワルツなんですよね」
「なるほど、そういえばそうですな。波の打ち寄せるゆったり感がワルツ的なのかもしれませんなあ」
「それで、つらつらといくつかそういう3拍子の海の曲を思い出してみたんですが、『浜辺の歌』の2番がどうしても思い出せなくて・・・」
「ああ、それならこうですよ。♪ゆうべ浜辺を もとおれば 昔の人ぞ しのばるる 寄する波よ 返す波よ 月の色も 星の影(かげ)も」
多美山は、無骨な見かけによらず優しい低い声で繊細に歌った。由利子は感心して言った。
「ああそうです。思い出しました! でも多美山さん、歌が上手いですねえ・・・」
「いえいえ、お粗末様でした。この歌は、死んだ妻が好きな歌でしてね・・・」
「奥さん、亡くなられたんですか・・・」
「はい。ガンやったんですが、気付くのが遅れて・・・病院に行った時はもう手がつけられなくなっとったとです。それなのに私は、その時大きな事件を抱えとってろくに見舞いにも行ってやれんでした。時たま見舞いに行くと、いつも寂しそうに窓の外を見ていました。その姿は今でも思い出します。海辺にある病院で、窓から綺麗な浜辺がよく見えたとです。ある日見舞いに行くと、気分が良かったのか窓際に座って、この歌を歌ってました・・・」
「そんなことが・・・」
「この歌は2番までしか歌われんですが、3番があっとです。♪疾風(はやち)たちまち波を吹き 赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし 病みし我はすでにいえて 浜辺の真砂(まさご) まなごいまは・・・」
「昔の歌だから、歌詞が難しいですね」
「そうですな。妻も意味はようわかっとらんやったと思います。今考えると、『病みし我は、すでに癒えて』という歌詞が羨ましかったのかも知れんです・・・」
「・・・」
由利子は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「結局、死に目にも会えんでした。あん時は息子にずいぶんと責められましたなあ・・・。当然っちゃあ、当然ですが。でも、妻は自分の為に被害者をおろそかにするな、仕事を優先しろと言うてくれましたんで・・・。根っからの警官の妻でした。ばってん・・・」
多美山はここで少し間を空けて言った。
「実際、自分がこうやって病気になってみると、あの時の妻の気持ちがようわかります。・・・心細いもんですなあ」
「すみません。なんか辛いことを思い出させてしまったみたいで・・・」
由利子は、軽い気持ちで聞いた歌に悲しい思い出があったと言うことを知り、話題を振ったことを後悔した。
「いえ、実はその前にインフルエンザに罹りましてな、さすがに5日間ほど自宅で寝込んでしまいまして、その時に痛感したとです」
「え? それって5月にK市で流行った?」
「そうです」
「それ、私もやったんですよ。きつかったです。私は一週間会社を休みましたよ」
「そうやったとですか。うちはやもめの一人暮らしなんで、ジュンペイや他の同僚も様子を見に来てくれたんですが、やはり大半を寝たきりで一人で過ごすとはちょっと辛かったですな」
「私もそんな感じでした。同僚が来てくれて・・・。でも、感染る病気だから安易に人は呼べないですから、辛いですよね。普通なら家族に来てもらうんだけど」
「家族・・・ですか。今は息子しかおらんです。それも、東京に住んどるんで、なかなか・・・。娘が生きていれば、あれでも・・・来てくれた、かもしれんですが・・・」
「娘さんも亡くなられたんですか?」
「はい。まだ、私が若か頃です。娘は・・・交通事故やったです。そん時も・・・私は仕事で―――――...」
多美山はそこで言葉に詰まった。由利子は、かける言葉を失っていた。何を言っても嘘くさくなりそうだからだ。今まで二人の会話を黙って聞いていた園山看護士が、とうとう口を挟んだ。
「多美山さん、篠原さん、そろそろこの辺で・・・」
「あ、すみません。楽しかったんで、つい長話を・・・」
由利子は恐縮して言った。
「わたしゃあ・・・、まだ構わんです、けど・・・」
多美山は言ったが、園山はそれを退けた。
「ダメですよ。もう1時間以上お話されてますでしょう? また熱が上がってるみたいじゃないですか」
そう言いながら園山は、リクライニングさせたベッドをさっさと元に戻しはじめた。
「多美山さん、良かったらまた明日も来ますから・・・。今日はもうゆっくりお休み下さい。それに、後からアレクや・・・それに葛西さんも来られるかもしれないでしょ、その時お話される体力は残しておかなくっちゃあ」
と、由利子も多美山に休むことを薦めた。
「そう・・・ですか・・・。じゃあ、しば らく 休むことに、しまっしょう。篠原さん、私も、楽しかった・・・ですよ」
そういうと、多美山はベッドに横たわり、ふうっとため息をついた。
「やはり、きつかったんじゃありませんか?」
由利子は、心配そうに訊いた。多美山は笑顔で答えた。
「まあ・・・、ちっとは――・・・。ばってん、久しぶりに、女性と楽しく・・・語らいました・・・な」
「そう言ってくださると嬉しいです。なんか最後の方、暗い話になっちゃってすみません。じゃ、ゆっくりお休みくださいね」
「はい。それでは少し・・・お休みさせて、いただきまっしょうか・・・」
多美山は、布団に身体を埋めると目を閉じた。園山が掛け布団の少し乱れたすそあたりを整えていた。由利子は黙ってそれを眺めていた。今は病気の為にやつれ気味だが、本当は実直で辛抱強くて頑強な刑事さんなんだろうなと思った。と、急に多美山が目を開けて由利子をじっと見て言った。
「篠原さん・・・、私に何かあったら、ジュンペイば、よろしく頼みます・・・・・」
「多美山さん、そんな気の弱いこと言わないでください」
「たのみ、ます・・・ね・・・」
それだけ言うと、また眼を閉じた。
「多美山さん、あの・・・」
由利子は立ち上がってガラスにギリギリまで近寄ったが、そこで無情にも窓は元の曇りガラスへと瞬時に変わってしまった。由利子はがっくりと椅子に腰掛けた。視界がじわっとぼやけていった。多美山の容態が急激に悪化したことが由利子にもわかった。由利子はしばらく座ったまま、下を向いてぼんやりと床を見つめていた。
 多美山の入院当初から傍にいた園山看護士も、会話中の多美山の変化からなにか不吉なものを感じていた。
(今までと、様子が違う)
園山は直感した。急いでインターフォンで内線電話をかけ、他のスタッフと二言三言話すと電話を切り、多美山の様子を伺った。多美山はもう寝息を立てていた。園山はそれを確認すると軽く頷き、急いで病室を出ると、通路にあるインターフォンでセンター長室に居る高柳と連絡を取った。

「園山君か。多美山さんに何かあったのか?」
高柳は、内線電話に出るとすぐに問うた。
「はい。ついさっきまで、篠原さんとお話になってたんですが、急に様子が変わったように思われて・・・」
「どんな風なのかね?」
「何か、会話が急に緩慢になって・・・」
「お疲れになっただけじゃないのか?」
「始めはそう思ったのですが、なんか違う気がして・・・。上手く説明できないのですが、急に知的レベルが落ちたというか、劣化したというか・・・」
「うむ、ギルフォード先生の話や葛西刑事のレポートにあったような状態だろうか。ところで、君は廊下のインターフォンでかけているようだが、何故病室からかけなかったのかね?」
「患者に容態についての話を聞かせるわけにはいきません。寝ているようでも眼をつぶっているだけかもしれませんし」
「しかし、多美山さんの様子は見ていたまえ。私は今からスタッフと相談してみよう」
「お願いします」
「ギルフォード先生は、まだ西原兄妹の部屋に居るはずだ。防護服を着用しているはずだから、至急連絡してきてもらいなさい」
「はい。では」
園山は高柳との回線を切ると、西原兄弟の居る部屋に内線をかけなおした。

 園山が廊下で連絡をとっている間に多美山は急に目を開け、何かに驚いたように飛び起きた。続けて周りを見回し、その後自分の両手を見た。
「おおお・・・」
多美山はうなると、両手で頭を押さえた。しかし、すぐに吐き気が襲ってきたらしく、片手で口を覆ってよろよろとバスルームに向かった。

内線電話を切りながら、ギルフォードは祐一たちに言った。
「緊急の用件が入りました。僕は急いで行かねばなりません」
「え~、先生、行くとぉ? つまんない」
香菜は不満そうだ。入って来たときとは雲泥の対応である。祐一はそんな妹をたしなめた。
「香菜、先生は遊びでここにいるわけじゃないんだよ。わがままを言うたらいかんやろ」
「また来ますよ、カナちゃん。ユウイチ君、じゃあね」
その言葉を残しつつ、ギルフォードはあっという間に姿を消した。
「ほら香奈、勉強を続けるぞ」
「え~~~。普通の勉強って面白くないもん。アレク先生のお話の方がいいよお」
「だ~か~ら~、わがまま言うなってば。1週間の欠席だぞ。学校に戻ってから授業に遅れたら大変やろ」
「は~~~い」
そういうと、香菜は素直に教科書を読み始めた。 

 園山は、連絡を終えると急いで多美山の病室に戻りドアに手をかけた。その時、部屋の中でガチャンという、何かが壊れる音がした。園山は驚いて部屋に飛び込んだ。しかし部屋には誰もいなかった。一瞬狐につままれたような表情になった園山だが、すぐに今聞こえるガチャガチャという音がバスルームであることに気がついた。
「多美山さん、何があったんですか?」
園山はドアをノックして尋ねた。しかし、返事がない。嫌な予感がして、園山はドアを開けた。
「多美山さん!! 何してるんですか!!」
園山は、半ば悲鳴のような声で叫んだ。

 多美山と話した後、由利子は椅子に座ったまま考えていた。
(ひょっとして、私が疲れさせたからやろうか・・・)
(でも、奥さんの話になるまで、全然普通やったから・・・。ああ、歌のことなんか聞かなきゃあ良かった)
そんな時、高柳がスタッフステーションに戻ってきて、スタッフ達と話始めた。
「ずっと様子を見ていた園山君がああ言うんだ。異変がおきたのは間違いないだろう。私が直接行ってみるから君たちは・・・」
高柳が言うとスタッフの三原が止めた。
「ダメです、先生。あなたにはこれからずっとここの指揮を執ってもらわないといけませんから、万一のことがあったら大変です。僕が行きます」
「三原先生の言うとおりですわ、高柳先生」
山口が同意する。高柳は頷いて言った。
「わかった、三原君、行ってくれ」
高柳の言葉が終わらないうちに、三原は駆け出していた。
「山口君、交代要員の二人もまだ早いが緊急に出てくるように伝えてくれないか?」
その時、多美山の部屋のモニターからガチャンと言う音が聞こえた。
「春野君、窓を『開けて』!」
高柳が叫んだ。すぐに春野看護士は切り替えスイッチを入れた。すぐに窓が透明になった。由利子も急いで室内に目をやった。が、誰もいない。
「え?」
由利子は驚いたが、すぐに病室に園山が入ってきた。園山は、一瞬躊躇したように見えたが、すぐにバスルームに向かうとノックして何か言い、すぐにドアを開けた。園山の叫ぶような声がスピーカーから響いてきた。由利子は、目の前でおきていることを見て、目を疑った。周りを見ると、スタッフ全員が窓に張り付くように中の光景を見ていた。

 ギルフォードが多美山の部屋に急いでいると、遠くで何か割れるような音がした。嫌な予感がして、ギルフォードは全力で走り、病室に飛び込んだ。実際防護服を着て全力で走ることはかなり苦しい。ギルフォードは部屋に飛び込んだものの、しばらく息が上がって動けなかった。しかし、顔を上げて何がおこっているのかを確認し、想像もしていなかった展開に息を呑んだ。多美山が、包帯で覆われた右手に何かガラスのようなものを持って暴れており、園山が後ろから羽交い絞めにして、多美山のしようとしている行動を必死で阻止していた。園山は、一見中背で痩せ気味だが、職業柄見かけよりかなり筋肉質で力が強かった。園山は、ギルフォードを確認すると言った。
「ギルフォード先生!! すみません、ちょっと目を離した隙にこんなことになってしまって・・・」
「先生、後生やから、死なせてくれんですか」
多美山は、ギルフォードの姿を見ると、半ば泣き声で言った。園山は、何とか多美山を落ち着かせようとして言った。
「死んじゃダメです!! 多美山さん、どうか、落ち着いてください。お願いですから、手に持ったガラスを捨ててください」
「いったい、何が起こったのです?」
ギルフォードは、そう言いながら、今は凶器となったガラスの出所を探した。それは開け放された、バスルームの中を見ると一目瞭然だった。
(”バスルームの鏡か!”)
ギルフォードは、驚愕した。まさか、そんなことまで『させる』なんて・・・! 
「タミヤマさん、どうなさったのです?」
ギルフォードは、勤めて落ち着くように自分に言い聞かせながら言った。
「あなたは自殺を考えるような方じゃなかったはずです」
「先生・・・、さっきから、周囲が赤く見えるごと、なっとぉとです。とうとう、私も発症してしもうて・・・」
「タミヤマさん、あなたらしくないです。一緒に病気と闘うって言ったじゃないですか。一体どうして・・・」
「病気が怖かとじゃありません。いつか、誰かに襲い掛かりそうで、それが、怖かとです。見舞いに来た、ジュンペイや、由利子さんを、傷つけるかもしれんとです」
「あなたにそんなことは、僕たちがさせませんから・・・!」
園山が、一所懸命に多美山を止めながらも平静を努めて言った。
「だから、落ち着いてベッドに戻りましょう。ね、多美山さん」
「そうですよ、タミヤマさん。さあ、僕にそれを渡してください」
そう言いながら、優しく笑ってギルフォードは手を差し伸べた。しかし、予想に反して多美山はそれを拒んだ。
「近づかんで下さい、先生!」
ギルフォードが手を差し伸べたと同時に、多美山はガラスを持った手を振り回した。それは、一瞬だった。信じられない出来事に、ギルフォード本人はもとより、誰もが声を上げることすら出来なかった。多美山の持った鏡の破片は、その鋭い断面でギルフォードの防護服の手袋を突き破り、さらに多美山の包帯のない掌の一部の皮膚も破り、血が飛び散った。ギルフォードの防護服にも飛び散った血があちこちに赤黒い花を咲かせた。
「ああっ! ギルフォード先生!!
園山が叫んだ。
「だっ大丈夫ですか!?」
スピーカーからも高柳の声が響いた。
「大丈夫か? ギルフォード君!?」
「大丈夫、じゃ・・・なさそうです・・・」
ギルフォードは、後退りをして病室の壁にどっともたれかかった。それを見た高柳は、怒鳴った。
「何をしている! 急いでそこを出て血を洗い流せ! そして傷の有無を確認しろ!」
しかし彼はそこを動こうとせず、壁にもたれ小刻みに震えながら右手を見た。やはり、裂けた手袋にも血が飛び散っている。
「Oh, fuckin' damnit...! (くそ!やっちまった)」
ギルフォードはつぶやくと、力なく壁にもたれかかったまま床に座り込んだ。スピーカーから高柳の声が再度響いた。
「ギルフォード君! 早くそこを出て傷を確認したまえ! 急げ!!」
その時、遅れて三原が病室に飛び込んできた。彼は、状況を見て一瞬唖然としたが、すぐに我に返って言った。
「ギルフォード先生、しっかりして! ここは僕に任せて、急いで傷の確認をしてください! 早く!!」
「ありがとう、ミハラさん」
三原の声で自分を取り戻したギルフォードは、すぐに立ち上がって病室から出て行った。多美山は、自分のしでかしたことに驚いて、呆然として言った。
「お・・・俺は、なんちいうこつば、してしもうたとか・・・」
多美山は、へなへなと床にへたり込んだ。
「多美山さん、さあ、もういいでしょ。それを渡してください」
園山は、多美山の前にしゃがむと言い、さっきの光景を目にしながら恐れることなく多美山に手を差し伸べた。多美山は、今度は素直にガラス片を園山に渡した。
「先生方、すみません、すみません。私も何でこんなことをやってしもうたんか判らんとです」
多美山は、泣きそうな顔をして何度も謝った。
「ギルフォード先生は大丈夫でしょうか・・・」
三原は、そんな多美山の背をさすりながら言った。
「あの人ならきっと大丈夫です。だから、傷の手当をして、ガラスの破片がついていたらいけないので着替えて、少し休みましょう」
「はい」
多美山は素直に答えた。園山はふと気になって尋ねた。
「多美山さん、ところで、まだ視界が赤く見えますか?」
「はい・・・。まるで、夕焼けか朝焼けの真っ只中にいるごたります・・・」
多美山は、熱に浮かされた声で答えた。

 由利子はスタッフステーションで、一部始終を目撃していた。由利子は目の前で起きていることが、にわかに信じ難かった。さっきまであんなに温厚にしていた多美山が、まるで別人のようになって暴れていた。
「多美山さん、やめて! 自分を取り戻して!!」
由利子はガラスの向こうに向けて叫んだが、マイクを通していないので病室に届くはずがなかった。こちら側では緊急事態の勃発に、高柳がてきぱきとスタッフに指示をしていた。しかし、由利子は窓から病室を見ているしかなかった。
 最初に多美山を羽交い絞めにした園山がバスルームから姿を現した。多美山は手にガラス片を持っている。すぐにギルフォードが飛び込んで来て、2・3秒ほど動かなかったが、すぐに多美山に向かって説得を始めた。しかし、ギルフォードが多美山に向けて手を差し出した途端、多美山はギルフォードに向かって凶器を持った手を振り下ろした。
「きゃあ、アレク!! うそっ!!」
由利子はガラスに張り付いて叫んだ。それを聞きつけて高柳が病室を確認し、急いで指示をだした。しかし、ギルフォードは相当うろたえているらしく、高柳の指示に気がついていないのか、防護服のせいで聞こえないのか、そのまま床に座り込んでしまった。由利子は、彼が例の虫以外であんなに狼狽するなんて思ってもいなかった。
「アレク! しっかりして!! 高柳先生の言うことを聞いて!」
由利子は、ガラスを叩きながら叫んだ。聞こえないのがわかっていても、声を上げずにはいられなかった。その時、三原が病室に駆け込んできた。三原に言われて、ギルフォードはようやく病室から出て行った。由利子は取りあえずほっとして椅子に座り込んだ。しかし、彼はすでに感染の危険に曝されている。予断は許されない状態だった。由利子は、何かに祈るように両手を組んで目をつぶった。

 ギルフォードは病室を飛び出すと、隔離病室のあるホットゾーン(危険区域)からの出口に急いだ。まず、第一のドアを開け、消毒槽に入りさらに上から消毒液のシャワーを浴びる。その後、グレーゾーンの部屋に移り、防護服や、その下に着ていたもの全てを脱いで、消毒ボックスに放り込まねばならない。ギルフォードは、逸る思いで消毒室を通り、グレーゾーンに入ると、急いで防護服を手袋ごと脱ぎボックスに投げ入れた。その後、防護服の下につけていた手袋を外そうと恐る恐る右手を確認した。やはり、こっちの手袋まで切れていた。ギルフォードは右手の手袋を外すため、左手を右手首に持って行き、手袋の端を掴んだ。しかし、ギルフォードは無意識に手から顔を背けた。今まで関わった、さまざまな出血熱の患者の姿が脳裏をよぎったからだ。ギルフォードは思わず神に祈った。
 

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3.侵蝕Ⅲ (5)トラップ

 ギルフォードは手袋を取る手を止め、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。今更じたばたしても仕方がない。もし、傷が出来ていてそこからウイルスが侵入していたなら、とっくに血流に乗って体中を駆け巡っているだろう。血液は平均して1分ほどで体内を一周するのだから。深呼吸のおかげか、ギルフォードはだいぶ落ち着きを取り戻した。まだ心臓の鼓動が判る程は緊張しているが、それなりに落ち着いて、まだ手袋をつけたままの右手をよく観察した。ラテックスの薄い手袋の人差し指と中指の付け根より1cmほど下に3mmほどの傷があった。しかし、よく見るとその傷は手袋自体を突き破ってない様に思われた。血液が付着している様子もない。ギルフォードはゆっくりと手袋をとった。両手袋を消毒BOX横の廃棄BOXに投げ捨て、急いで手洗いに走り、消毒液で手を念入りに洗った。その後、ゆっくりと右手を目の前に持ってきて該当部分をじっと見た。数秒後、ギルフォードは上を向いて目をつぶった。口からため息が漏れ、そのまま床にへたっと座り込んだ。・・・ギルフォードの手は傷ついていなかった。文字通り髪の毛一本の差、間一髪で命拾いしたのである。
 ギルフォードは、すぐに立ち上がると着ている物一切を廃棄BOXに脱ぎ捨て、そのまま次のシャワー室に駆け込んだ。それからすぐに熱いシャワーを頭から浴びた。一時絶望的な状況に追い込まれたが、ギリギリで危機を脱した。もし神が本当に存在するならば、まだソレはこの俺に生きろと言っているらしい・・・。
そう思った途端、無意識に口元が少し歪んだ。
「くっ・・・くくく・・」
ギルフォードの口から自嘲的な笑いが漏れた。最初泣き声とも思えるような笑いがいつしか哄笑に変わり、土砂降りの雨のようなシャワーを浴びながら、彼はヒステリックに笑い続けた。衝動的な笑いが収まると、ギルフォードはシャワー室の壁に両手をつき、がっくりと下を向いた。
”よかった・・・”
少し間を置いて、彼の口から弱弱しい言葉が漏れた。
”イヤだ・・・、あの時のように死ぬ思いは・・・。シンイチ、君と約束したのに・・・、本当は怖いんだ、俺は・・・。無様・・・だな・・・”
激しいシャワーの音に紛れて、嗚咽する声がかすかに聞こえた。ギルフォードはそのまましばらく動かなかった。
 

 真樹村極美は、彼女が拠点とするホテルの中にある喫茶店で考え事をしていた。彼女はどん詰まっていた。
 例の事件について取材していたが、いまいち情報が集まらない。疫病に関しても、ホームレスから雅之に、そして、雅之から祖母と母へというルートで感染したというところで、経路がぷっつり切れてしまった。あの公園の事件で現場に居合わせた生徒二人にも取材を試みたが、双方からけんもほろろな応答が返って来た。特に小柄な少年の敵意に満ちた対応には辟易させられた。
 例の『教授』と呼ばれているらしい外人も、防護服を着ていたため、背格好と性別くらいしか同定の決め手はなく、年齢も髪の色もわかりにくい。防護服から垣間見えた少ない情報から、目の色はグレー系で、髪の色はおそらく茶系か金髪だろうということは判ったが、白人である限りは珍しくもないことだった。ただ、彼と一緒に行動しているらしい、あの忌々しい女はバッチリ覚えている。極美は彼女から容赦なく腕をねじり上げられ、無様に拘束された屈辱を忘れてはいなかった。『教授』の正体を知るには、あのサヤという女のほうから突っついたほうが早いかもしれないな、と極美は思った。それより、さらに不思議なことに、勝太が一時収容されていたという、『県立病院IMC』とかいう病院が、いくら探しても見つからないということだった。電話帳で調べても、104で聞いても、ネットで検索しても一向に引っかからないのだ。
「何なのよ、これ・・・」
極美は、ペンの後ろでアゴをトントンと叩きながらつぶやいた。その時、極美の傍に何者かが近づいてきて言った。
「相席、よろしいでしょうか?」
(まだ空いている席もあるのに、何だこの人は・・・)
極美はそう思いながら胡散臭そうに声の主の方を見ると、そこには30歳前後の男が立っていた。極美は適当に断ろうと思い、言葉を捜した。
「相席って・・・、あの、ええっと――」
「ウイルスに興味がお有りなんでしょ?」
男の意味深な言葉に、極美は目を丸くして男の顔をじっと見た。
 

 スタッフ・ステーションでは、ギルフォードからの連絡があまりに遅いので、由利子を始め皆やきもきしていた。
「消毒に時間がかかるとはいえ、遅すぎるな。シャワーの浴びすぎで更衣室で伸びているかもしれん。山口君、更衣室に内線を入れてくれないか?」
「はいっ」
山口は、歯切れの良い返事をしてインターフォンに向かった。
「ギルフォード先生、そこにおられますか? ギルフォード先生?」
山口が呼びかけると、数秒経ってギルフォードの声がした。
「はい。ギルフォードです」
スピーカーからギルフォードの声を確認すると、高柳が走ってきてマイクに向かって怒鳴った。
「みんな心配しとるんだ、連絡ぐらい入れたまえ!」
「すみません」
「で、大丈夫だったのか?」
「はい。防護服と手袋は破れていたようですが、素手の方にはめていた手袋は破れていませんでした。タミヤマさんの血液が侵入していた形跡もありませんでした」
「そうか。それはよかった」
「防護服の丈夫さと、手袋の伸縮力に救われました」
「そうか。ウイルスが空気感染するレベルじゃなくて良かったな」
「取り乱してもうしわけありませんでした」
「そういう場合には当然の反応さ。気にするな。特に君の場合は無理からん話だろう」
「すみません」
「君の感染に関する審議をしなきゃならんが、多分大丈夫だろう。その間、君も隔離だが、とりあえず、山口君をそっちにやろう。そのままそこに居たまえ」
「はい、わかりました・・・」
ギルフォードは素直に答え、電話を切った。

「あ~、電話が通じないや・・・」
放課後、帰宅片方ギルフォードに電話をかけていた良夫は、ガッカリしてつぶやき、電話を切った。
「何よ、通じないの?」
傍で彩夏が言った。
「先生は忙しいんだよ。っていうか、何であんたがついてくるんだよ」
良夫が鬱陶しげに言うと、彩夏は腕を腰にあてて高飛車に言った。
「だったら、さっさと留守録いれときなさいよ」
「そんなの、わかっとぉ」
良夫は、ぶつぶつ言いながら再度電話をかけ、伝言を入れた。
「良夫です。あのことで新事実がわかったので、お知らせしたくて電話しました」
それだけ言うと、良夫は電話を切った。そばで、また不満げに彩夏が言った。
「何よ、それだけ? それに新事実って何よ。バラエティの見過ぎじゃないの、あんた」
「あ~、うるさい!」
良夫は、彩夏に向かってシッシッと手を振りながら言った。二人より少し後ろを歩いていた勝太がぼそりと言った。
「二人とも、ツンデレ?」
「バカッ!!」
二人から同時に振り向き様に言われ、勝太は首をすくめた。
 

 夕方のC川で、若者達が群れていた。
 気候が暖かくなると、若者達が集まってバーベキュー・パーティーをやる姿がよく見られるが、それに乗じて大音量で音楽をかけたり花火や爆竹を鳴らしたりして騒いだり、川や周囲を汚したまま帰ったりする輩も少なくないので、近隣の住民からはいい顔をされないが、広いC川の河川敷故に大目に見られている、言ってしまえば放置されている状態であった。
 今日も例に漏れず、彼らはバーベキューの準備に余念がなかった。彼らはワイワイ騒ぎながら、ハイテンションで作業をしている。そんな中、仲間の女性がきゃあという悲鳴を上げた。
「どうした?」
「なんかおったと?」
「ゴ・・・ゴキブリがいるの」
女性は怯えたように答えた。
「え~、ウッソ~。気持ち悪~」
別の女性も気味悪そうに言ったが、多分に媚が入っていた。仲間の男の一人が言った。
「ゴッキーなんて、有史以前から人のいるところにいるようなもんだ。気にしてたらきりがないよ」
「そうそう。それよりちゃっちゃ準備して早く始めようや」
「おれ、もう腹が減ってたまらんばい」
男達は、怯える女性達を尻目に準備に余念がない。しかたなく彼女らも準備を再開した。バーベキューコンロに火が入り、炭火の臭いがあたりに広がった。その頃には、みんなゴキブリのことはすっかり忘れてワイワイとコンロを囲んでいた。
 

 その頃、由利子は山口と共に、ギルフォードの待機している更衣室に向かっていた。
「あの、ほんとに私も行って良いんでしょうか」
由利子は少し心配そうに訊いた。山口は爽やかな笑顔で答えた。
「だいじょうぶよ。じゃなきゃ高柳先生から行っていいなんて言うわけないでしょ」
「そうでしょうか」
「それに、空気感染する病気じゃないでしょ。万一感染していたとしても、人に感染すようになるまで何日かかかるわ。まあ、そうなったらもう簡単には会えなくなるでしょうけど」
「そんな・・・」
「うふふ、大丈夫よ。アレク先生は悪運が強いもの・・・。って、やだ、悪運なんて言っちゃった」
山口は、心配する由利子が安心するように勤めて明るく言った。山口は30歳半ばくらいの女性で、小柄で華奢な体格をしている。その上顔は可愛くてなんとなく幼く見える。しかし、彼女は見かけとは裏腹に、この病棟を支える優秀な医療スタッフの一人だ。
「それより・・・」山口は意味深な笑みを浮かべて言った。「私ね、アレク先生が紗弥さん以外に気に入ったという女性に会ってみたかったの」
「え?」
「ほら、あの人あまり女性に興味持たないでしょ」
(有名じゃん、アレク)
由利子は思った。
「だから、どんなスーパーレディーかと思ってたのよ。でも良かったわ」
「全然普通の凡人だったので、がっかりしたでしょう?」
「ううん、逆よ逆。お付き合いしづらい人だったらどうしようかって思ってたの。あなたとは気が合いそうだわ。私、山口朋恵(ともえ)。改めてよろしくね」
山口は由利子の方を再度見ると、右手を差し出した。由利子はその手を取って言った。
「私の方こそ、よろしくお願いしますね」
「じゃ、これから敬語は無しで、お願いね」
山口はにっこり笑うと言った。由利子も負けじと笑顔で答えた。
「ええ」
「おっと、着いたわ。ここよ。念のために中にもうひとつドアがあるからね」
山口は、分厚い扉を開けて中に入った。由利子も後に続く。山口の言ったように、中にもうひとつ頑丈そうなドアがあった。病棟自体が回りを厚い壁の廊下で囲まれているから、2重3重に防御されていることになる。更衣室は当然男女別だったが、山口は躊躇せずに男子用のドアを叩いた。
「アレク先生? お加減はいかがですか?」
すると、中からギルフォードの元気そうな声がした。
「はい、ダイジョウブです」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ドアの鍵は開いてます。デモ、チョット待って・・・」
ギルフォードがそう言い終わらないうちに、鍵が開いているという言葉に反応した山口がドアノブに手をかけていた。チョット待ってという言葉も耳に入ったが、反射的にやってしまったことなので、手を止められずにドアをあけてしまった。と、同時に二人は「キャァッ」という短い悲鳴を上げた。中には焦って立ち上がろうとしている素っ裸のギルフォードが居た。
「Oh! No!!」
流石のギルフォードも驚いてその場でうずくまった。
「もうっ! いつまですっぽんぽんで落ち込んでんのよッ! バカ!!」
由利子は怒鳴りながら真っ赤になって後ろを向いたが、山口は流石に医師と言うだけあってすぐに平静を取り戻して冷静に言った。
「アレク先生、大丈夫です。ご本尊様までは見えませんでしたから」
「ご、ご本尊様・・・、ご本尊様って・・・」
由利子は耐え切れず、その場に座り込むとケラケラと笑い出した。
 

「え? テロォ?」
流石の極美も胡散臭そうに問い直した。
 最初、近づいてきた見知らぬ男に警戒した極美だが、その男がいかにも育ちがよさそうで、しかもイケメンだったので、彼が言った意味深な言葉もあって相席を了解したのだった。男は降屋裕己(ふるやひろき)と名乗った。この界隈のオフィスに勤めているが、家はK市にあるという。その後、世間話をしながら彼の様子を見ていたが、誠実そうで中々好青年のように思われた。そこで、最初振られた話を改めて訊いたところ、出てきたのが「バイオテロ」というものだったのだ。
「シッ! 声が大きい」
「ごめんなさい」
極美は声のトーンを落として続けた。
「ええっとぉ、それが、何でこの地で?」
「そこまでは・・・。しかし、これは僕の知り合いの公安から直接聞いた話なんだ。実は、僕も今回ホームレスが集団死した事件を不審に思ってたんだよ。実は、当日の朝公園の前を犬を連れて散歩していたら、警官達に通行を止められてしまって、気分の悪い思いをしてさ。僕は文句を言って中に強引に入ろうとしたんだけど、警官達に取り押さえられて・・・。で、その時見たんだ。中に異様な格好をしている警官達が沢山いたのを・・・」
「それって、何かの防護服みたいな?」
「そうそう。そんな感じだったよ。それで、気になっていろいろ調べていたら、さっき言った知り合いの公安警察官から、危険だから嗅ぎ回るのを止めるように忠告されたんだ。その時、彼が言ったのが『バイオテロ』かもしれないということだったんだ」
そこまで聞くと、極美は彼の言うことに興味を持つようになった。何より彼は自分も見たあの防護服の警官達を見ている。極美は彼に自分の見たものを話すことにした。
「なんだって? そんなことがあったなんて・・・。君、すごいことに遭遇したんじゃないか!」
降屋はやや興奮気味に言った。
「あなた、公園のこと調べてたのに、気がつかなかったの?」
「あのね、その頃は僕、会社だよ。それに、用もないのにわざわざ帰宅方面と反対方向の公園なんかに寄るわけないだろ」
「あ、そっか」
「だけど君の話を聞いて、正直しまったなって思ったよ。帰りに寄ってみれば、まだ何か見れたかもしれないって。実は、また公園が閉鎖されたので、変だとは思ってたんだ」
「でね、写真を撮ったけど警官にばれてデリられちゃったの」
極美は、まだ2枚ほど証拠写真が生きていることを、彼に教えることは控えた。
「なんてことだ」
降屋は、残念そうに言った。
「それにね、おかしいことだらけなの」
と、極美はさらに声のトーンを落として言った。小声で頭を寄せながら話す二人は、傍からは仲の良い恋人同士に見えたかもしれない。
「その事件は報道されなかったのよ。女の子が誘拐・・・多分だけど、されて、犯人の女が自殺したのよ。全国報道されてもおかしくない事件よ。なのに、ローカルニュースでも報道されなかった・・・。私、その日はワクワクしながらニュースを待っていたのよ。見逃す筈がないわ」
「報道規制されたと?」
「そうとしか考えられないじゃない。それに、私が調べたその事件関連の病院がないの」
「なるほどね。例の公安警察・・・ぶっちゃけ僕の親友なんだけど、彼は、僕があんまり息巻いていたんで、危険とおもったんだろうね。ここだけの話だからって教えてくれたんだ」
「え? 何?」
極美は身を乗り出して聞いた。しかし、降屋はにやりと笑って言った。
「君、他にも何か知ってるだろ? それを教えてくれなきゃあ続きは無しだよ」
「え・・・? どうしてそんなこと・・・。そういえば、最初あなた、ウイルスに興味があるとか聞いたわよね。どうしてそんなこと?」
「実はね、僕がホームレス死亡事件を不審に思って調べてたって言ったよね。その時、偶然君が同じ事件を調べているところを見たんだ。それで、興味があってしばらく君の周辺を見張ってたのさ」
「え~~~? 全然気がつかなかったわ」
極美はいささかゾッとしながら言った。
「君、自分だけが知ってるって思ってただろ? だから周囲に無頓着だった。『鹿追うものは森を見ず』っていうだろ? 気をつけないといけないよ」
降屋はしごく真面目な表情で言った。極美は降屋のそういう態度にすっかり彼を信用してしまった。それで、彼女は調べたことの概要を降屋に話した。
「なるほどね。君があの公園で見た防護服の警官と細菌を結びつけたのはいい線行ってるよ。ただし、それは細菌じゃなくてウイルスらしいけどね」
「ウイルス・・・? それって細菌の一種じゃないの?」
「ちがうよ。ウイルスはもっと小さくて、他の細胞に寄生しないと増えないモノさ。生物とはいえないね、あんなの。まあ、僕も最近までそんなこと知らなかったけどさ」
「それで?」
「それでって、だからウイルスと・・・」
「それじゃないわ。今度はあなたが話す番でしょ」
「そうでした。僕が公安の親友から聞いたのは、ホームレスたちがウイルス病で死んだってことと、それはテロリストがウイルスの効果を調べるためにやった実験らしいということ。テロリストの正体はまだわかっていないらしい。判っていることは、それには・・・」
「それには?」
「ある外国人のウイルス学者が関わっているってこと」
「外人の!? そういえば、公園の事件の時居たわ。外人の男が一人。でも、彼は警察側の人間みたいだったわ」
「多分そいつだ。知事の信頼をいいことに警察内部に入り込んでいるって話だ」
「そういえば、私が会った少年から聞いた話にも、そいつが『教授』って呼ばれてたって・・・。でも、彼はウイルスを防ぐ側だったみたいだけど?」
「実験のつもりがそのマサユキとかいう少年のために感染拡大したんで、慌てて収拾をつけようとしてるんじゃないかな」
「じゃ、じゃあ、拡大が防げなった場合は・・・」
「多分、・・・日本中で本格的なテロが始まる・・・!」
「大変だわ!」
極美は言った。
「裕己さん、私ね、実は週刊誌の記者なの。これ、名刺」
極美は急いで名刺を渡した。
「えっと、『週間サンズ・マガジン』・・・? あ~、あの有名な・・・」
「有名な?」
「タブロイド紙・・・」
降屋の言葉に、極美はがっくりした。
「あのね、違うわよ。確かに最近妙な記事がよく載ってるけど、もとは正統派のジャーナリズムを追求する・・・」
「でもねえ、今はタブロイド色が強いのは事実だし・・・」
「わ、わたしが元の路線に戻してやるわよ。だから、あなたの話の掲載を許可してちょうだい。掲載されたらそれなりの代価を払うわ」
「でもねえ、タブロイド紙にこんな話載せても、何人が信じてくれると思う?」 
「でも、誰かが報せないと・・・! 一部の人たちだけでも信じてくれたら、もしテロが始まった時に有効だと思うの。お願い、裕己さん」
極美は真剣な顔で降屋をじっと見た。
「わかったよ。許可しよう」
降屋も真剣な顔で答えた。
「その代わりだけど・・・」
そう言いながら、降屋はじっと極美の胸の辺りを見ながら言った。
「な、何よ?」
極美は、次の言葉を予想して身構えた。
「あのね、僕、実はKIWAMIちゃんのファンだったの。これにサインしてくださ~い!」
降屋は急に相好を崩しながら、カバンから写真集を出して言った。
「そ、そんなんでいいの?」
想定外の降屋の行動に、極美はすっかり毒を抜かれた形となった。
 二人は目的の話が終わっても、しばらく世間話で盛り上がった。降屋は、極美からグラビアアイドルだった頃の裏話を聞いて、怒ったり爆笑したりした。極美は彼のそういう純なところが気に入った。
「あはは、極美ちゃん、話上手いよ、ほんっと。ジャーナリストよりタレント目指せばよかったのに」
「ううん。もう、根無し草のような生活に疲れちゃったの。でも、考えたら今の仕事だってジャーナリストというよりヤクザ仕事よね」
「せっかく転職したんだろ。がんばってよ。僕も影ながら応援するよ。また何か情報を仕入れたら連絡する。僕の名刺、失くさないで」
「私のもね。じゃあ、今から部屋に帰って忘れないうちにまとめておくわ。またお会い出来るかな」
「電話してくれたらソッコーで会いに行くよ。仕事中はだめだけどね」
「頼もしいわね」
極美は立ち上がりながら言った。
「じゃ、そろそろ行かなきゃ。情報をありがとう。今日は楽しかったわ。お勘定済ませとくわね」
極美は伝票を手にしながら言った。
「あ、ありがとう。僕も楽しかった・・・っていうか極美ちゃんと話せて夢みたいだったよ」
「うふふ、上手いわね。じゃ!」
極美は手を振ると、颯爽とレジに向かい、勘定を済ませると降屋に向かってぺこりと頭を下げて店を出た。降屋もニコニコ笑いながら、手を振っていたが、極美の姿が見えなくなると急に笑顔が消えた。そして、ふうっと上を見ながら言った。
「これで宜しかったですか?」
「名演技でしたよ。ご苦労様でした」
降屋の後ろの席に座っていた男性が答えた。降屋は振り向かないまま、胸に手をあてゆっくりと頭を下げながら言った。
「お役に立てて光栄です。長兄さま」

 罠にはめられたとも知らず、極美は陰謀を暴くべく、正義感に燃えて自室に向かっていた。その足取りは自信に満ちていた。
 

 C川でバーベキューパーティーをしていたグループは、盛り上がっていた。日は落ちていたがまだ明るい。夕焼けもかなり色褪せ、空には朱色の雲に混ざって紫や灰色の雲が目立ち始めた。しかし、彼らにとってはこれからがパーティーの本番である。興に乗った彼らは、かけている音楽のヴォリュームを上げ、プチ祭り状態となった。その時、女性の悲鳴が上がった。
「何だよ」
「どうしたん?」
「またアレが出たんか?」
男達が、めんどくさそうに悲鳴を上げた女性の方を向いていった。しかし、女性は悲鳴を上げながら何かを指差している。他の女性達もそれに気がつき、共に悲鳴を上げた。その方向を見ると、彼らが残飯やゴミを捨てたビニール袋に沢山の黒いドットが出来ていた。しかも、それは動いている。
「うわぁあ~~~~~!!」
流石の男達も、叫び声を上げた。臭いに釣られたのかゴキブリたちが続々と集まって来ていた。パーティーの場は、いきなりパニック状態になった。
「みんな落ち着け!」
一人の青年が叫んだ。
「いいか、まだ虫の侵入していないものはビニール袋やクーラーボックスに入れて急いで車に積むんだ。食べかけたものや封の開いたものは廃棄しろ! 開けてないカンやペットボトルはクーラーから出して! ビニール袋の口は、しっかり閉めろよ!」
彼はテキパキと仲間達に指示を出した。
「本剛さん、ゴキのたかったゴミはどうする?」
「他のゴミと一緒に燃やそう! コンロの中の燃えた炭を被せるんだ。焦って火傷はするなよ!」
「判った!」
「頼んだぞ、早渡(ハヤト)!」
「了解。 多岐、手伝え! みんな、ゴミをここに集めろ!」
すばやくゴミが集められ、早渡と多岐はコンロを運び、空いた方の手で口を塞ぎながらコンロの炭をゴミの山に被せた。ジュウッと激しい音がして、灰が周囲に舞った。
「いって~! 灰が目に入った! コンタクトが~!」
しかし、皆が呆然としていて誰もその声に反応しなかった。彼は片目を押さえながら走って煙から逃れ堤防の法面(のりめん)を駆け上がった。女性が一人それに気付いて後を追った。
「末松君、大丈夫?」
「ああ、亜由美か? なんとか大丈夫や。目薬で目とコンタクトを洗ったけん」
そう言いながら彼女の方を振り返ろうとして、彼の動きが止まった。彼は、橋の下にある粗末な急ごしらえの小屋のようなものを見つめていた。彼女もそれに気がついてそっちを見た。どうやらあの虫達はあそこから湧いたらしい。
「くそっ、浮浪者やろ? 俺達のバーベキューを台無しにしやがって・・・。ちょっと文句言ってくらあ」
末松は、そう息巻くと『小屋』の方に向かった。亜由美もその後をこわごわ追った。
「おい、オッサン!」
末松は乱暴にノックしながら声をかけた。しかし、何の反応もない。
「もういいじゃん。みんなのトコに帰ろうよぉ。なんだか嫌なにおいもするし・・・」
しかし、頭に血の上った末松は、亜由美の言葉は通じなかった。
「そりゃあ、浮浪者やけん臭いにおいもするやろ。おい、オッサン、返事せぇ!!」
末松はもう一度激しくドアを叩いた。しかし、力任せに叩いたのが不味かったのだろう。もともと粗末だった作りの戸口がバタンと倒れ、それと共に埃やチリがもうもうと舞った。
「うおっ」
末松はまた目にゴミが入りそうになって、とっさに目を閉じ小屋から走って逃れた。そのため、法面に足をとられて半ばまですべり落ちてしまった。亜由美は、逃げる余裕もなく顔を覆ってしゃがみこんだ。亜由美は咳き込みながらしばらくその体勢でいたが、おずおずと目を開いた。埃はかなり収っていた。ほっとして亜由美は立ち上がった。黄昏の薄闇のなか、小屋の中は灯油ランプが点いていたので、薄ぼんやりと明るかった。そこで亜由美は男がこっちに頭を向けて仰向けに倒れているのを見た。亜由美は恐怖で動けなくなり男から目が離せなくなってしまった。見たくもないのにその様子が目に入った。男は死んでおり、すでに硬直していた。遺体はかなり損傷しておりその上には大きな虫が10数匹ちょろちょろしていた。
(アレラハ、死体ヲ食ベテイルンダ・・・)
亜由美がやっとそれを理解した時、男の眼窩から一際大きな虫が這い出てきた。亜由美の目と口が大きく開かれ、のどから悲鳴がほとばしった。末松は驚いて亜由美のもとに走った。河川敷の仲間らもそれに気がついて数人の青年達が二人の方に向かって駆け出した。

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3.侵蝕Ⅲ (6)知事の決断

「そこに入った気分はどうかね、ギルフォード君」
高柳は、一旦隔離病室に入ったギルフォードとガラス越しに対面して言った。ギルフォードはとりあえず検査用のガウンを着てベッドに腰掛けていた。
「あまりいい気分はしませんよ。思い出したくないことまで思い出しそうで・・・」
ギルフォードは、肩をすくめながら言った。高柳は含み笑いをしながら言った。
「まあ、せいぜいそこで大人しくしているんだな」
「さっきから、何、悪の首領みたいなコト言ってるんですか」
ギルフォードは、困ったような表情で高柳を見ながら言った。
「いや、この状況がいかにもなんでね、なんとなく」
ギルフォードに突っ込まれた高柳は、若干テレたように言うと続けた。
「まあ、おそらく君はすぐ出られるとは思うがね。身体を調べても特に感染に繋がるような傷は無かったようだし」
「そう願いたいですね。一泊するのはカンベンですよ」
「いっそ休養を兼ねて三泊くらいしたらどうだ?」
「カンベンしてください。今日中にやっつけてしまいたい仕事があるんです」
「今からその審議がある。ま、もう少しの辛抱さ」
「隣はタミヤマさんの部屋ですよね。彼の様子はどんな感じですか?」
ギルフォードは、気になっていたことを聞いてみた。
「容態は今のところ落ち着いているよ。ただ、自分の行動にかなりショックを受けておられるようだが」
「そうでしょうね・・・」
「病気の影響だと充分な説明してはいるんだがね」
「そうですか。ここを出られたら、僕がフォローしてみます。ところでユリコは?」
「彼女ならここにいるよ。君があられもない姿を見せるから、恥ずかしがって隠れてるんだ。篠原さん、おいで。大丈夫、ちゃんと服は着せてるから。検査用だけどね」
高柳に呼ばれて、由利子はようやくギルフォードに顔を見せたが、何となく居心地悪そうだ。
「ハイ!」
ギルフォードは、由利子を見ると笑顔で言った。
「心配かけて申し訳なかったです。その上、とんでもない姿まで見せてしまって」
「私の方こそ、小娘みたいな悲鳴あげちゃって・・・」
由利子もテレながら言った。その様子を見ながら大丈夫と思ったのだろう、高柳は二人に向けて言った。
「じゃあ、行って来るよ。篠原さん、彼の話相手をしてやってね。ヒマそうだから」
だが、高柳は途中で何か思い出したらしく引き返して来た。
「そうそう、ギルフォード先生、知事が多美山さんのお見舞いを兼ねてここに来られるそうだ。僕らに話があるらしい」
「知事が? 何の用でしょうね」
ギルフォードはいぶかしげに言った。
「さあね・・・。でも、ひょっとしたら・・・。まあいいか、来たらはっきりすることだしな。じゃ、ほんとに行ってくるから」
そう言うと、高柳は早足で去っていった。由利子は彼の後ろ姿を見ながら言った。
「渋いおじさまなのに、面白い人ですねえ・・・」
「これから来るらしいおぢさんも、かなり面白いというか、変な人ですよ」
ギルフォードは、若干ゲンナリ気味に言った。
「森の内知事の事ですか?」
ギルフォードは黙ってこっくりと頷いた。
「へえ、あの方、タレントさんの時もかなり変でしたが、あれは素だったんですか」
「この前、ウチの研究室に来られた時の姿を、お見せしたいくらいですよ」
「へえ、一体どんな格好をされてたんですか?」
「知事の学生時代のファッションとやらでサイケな格好で来られました。まあ、知事の学生時代はあんなもんだったのかも知れませんが、まるで70年代のヒッピーでした」
「ラブ&ピースですね」
「アレじゃ却って目立ちますよ。案の定、学生や追いかけてきたマスコミにバレて、構内が大パニックになってました。僕への用件を済ませた後だったんで、僕達には累は及びませんでしたが」
「まあ、彼は普段でもすごいオーラ放ってますからねえ。それじゃさぞかし目立ったでしょう」
「知事としては、優秀だと思うんですけどね。僕も彼がここまでがんばるとは思ってませんでした」
「そうですね。まあ他所のタレント出身の知事に対して、ライバル心もあるようですけど」
由利子が同意したところで、なんとなく室内の空気がざわついてきた。由利子はドアの方を見て言った。
「その『優秀な』知事が来られたようですよ」
「噂をすれば・・・、ですか」
ギルフォードは、肩をすくめて言った。
「やあ、こんにちは、みなさん。ご苦労様です」
知事は軽く挨拶をしてステーションに入ってきた。その後から警護の人たちがぞろぞろと入って来ようとしたが、知事が制止した。
「だめですよ、みなさん。ここのスタッフさんたちの邪魔になりますから、ドアの前あたりで待機しておいてください」
そう言いながら、森の内は部屋から彼ら全員を締め出し、ドアを閉めた。
「こんにちは、知事」
「こんにちは」
「こんにちは~」
森の内に気がついたスタッフ達が挨拶をした。
「えっと、ギルフォード教授は?」
早速知事は、ギルフォードのことを尋ねた。
「先生なら、あちらの隔離病室におられます」
春野看護士が『窓』の方を左掌で示しながら言った。森の内は驚いて半ば駆け足で病室の窓の方に向かった。
「ああ、ギルフォード先生、こんなことになってるとは・・・」
森の内はガラスにペタリと張り付くと、中のギルフォードを見て言った。由利子は、そんな森の内を目の前にして少し引いたが、軽く会釈をした。しかし、森の内は目の前のことに集中して気がつかない。ギルフォードはその様子を見ながら苦笑いをして言った。
「大丈夫ですよ、知事。感染は免れていると思います。まあ、ここにいるのは審査待ちです。規則ですから」
「そうなんですか。良かったぁ~」
森の内は、やっとガラスから離れると、ようやく由利子の存在に気がついた。森の内が張り付いていたあたりのガラスは顔の辺りが曇っている。由利子は改めて会釈をしたが、当惑してついついアルカイックスマイルになる。
「やッ、これはどうも失礼をば」
森の内は恐縮して2度ほど会釈を返した。
「彼女は、来週から僕のところにバイトに来てくれる、篠原由利子さんです」
ギルフォードは紹介した。
「おや、この方がそうですか。ご挨拶が遅れました。森の内です」
森の内はそういいながら右手を差し出した。由利子もそれに習う。
「篠原です。お会いできて光栄です」
森の内は、両手で由利子の手をがっつり掴むと言った。
「ギルフォード先生を、しっかりとサポートしてあげてくださいね」
「はい」
由利子はなんとなくデジャヴを感じながら言った。案の定、森の内は握ったまま手を離さない。
「知事、知事」
それに気がついて、ギルフォードが言った。
「いい加減手を離してあげてください。相変わらずなんだから、もう」
(あんたが言うな)
由利子は心の中で突っ込んだ。
「おっと失敬」
森の内はようやく手を離した。
「そういえば、高柳先生は?」
「だから、他の先生方と、僕がここを出れるかどうかの審議中ですよ」
ギルフォードが鬱陶しげに答えた。
「そうですか。じゃあ、高柳先生と君への用件は後にするとして、多美山さんの具合はどんなでしょう?」
森の内が言うと、それに気がついた春野看護師が言った。
「今は、落ち着いておられるようですが」
「お会いできますか? ほんの短い間でいいのです」
「聞いてみましょう」
春野は病室に待機している園山看護師に内線で問い合わせた。
「多美山さんの希望もありまして、お会いできるとのことです。ただし、ガラス越しに5分間だけという条件つきですけど、よろしいですか?」
「はい、わかりました」
「では、ちょっとだけお待ち下さい」
「ああ良かった」
森の内は言った。
「実は、ここに来る前に庁舎で、今日ここで起こったことの連絡がありまして、それで今日はもうお会いできないだろうと諦めていたんですよ。せっかく、多美山さんにお会いできると思ってたのにと、がっかりしていたんです」 
「知事にそういってもらえたら、きっと多美山さんも浮上されると思います」
春野が答えた。
「そんなに落ち込んでおられるのですか?」
「ええ、私達があれは病気のせいだって何度説明しても、やはりご自分が許せないようで・・・」
「そうですか。責任感の強い方とお聞きしていますから、なおさらなんでしょうなあ」
「そうですね・・・。あ、準備が出来たみたいです。知事、どうぞこちらへ」
春野が森の内を手招きした。
 『窓』の前に立つと森の内は多美山と対面した。多美山はベッドに横たわったままで、なんとなく生気がずいぶんと損なわれているように思われた。森の内はそんな彼の姿を見て、痛ましく思うと同時に胸に熱いものが込み上げてきた。しかし、森の内はそれを表に出さず、笑顔で多美山に声をかけた。
「多美山巡査部長、初めまして。F県知事の森の内です」
多美山は力無い笑顔で答えた。
「多美山です。こちらこそお会いできて光栄です、知事。横になったままでお会いすることをお許し下さい」
「いえいえ、お楽になさっていて下さい。きつくなったら(疲れたら)いつでも言ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「今日は、あなたが命がけで子どもたちをを救って下さったことへのお礼に参りました。あなたのおかげで4人の子どもが感染から免れました。内二人はまだ様子を見ている段階ですが、おそらく大丈夫だろうと言うことですから。あなたが守った子らの中に、小さい女の子がいましたね。彼女はもう、笑顔を見せるくらい元気になったそうですよ」
「笑顔を・・・、そうですか・・・」
多美山はほっとしたせいか、こんどは心からの笑顔を見せたが、それはすぐにまた雲ってしまった。
「ばってん、私は結局美千代と同じことをやってしまうところでした。もう少しでかけがえの無い人を死に追いやるところやったとです。森の内知事、私には、あなたからの感謝の言葉を受け取る資格はなかですよ・・・」
「そんなことはありません。それに、あれは病気のせいということでしょ? 幸いギルフォード先生は傷を負うことなく、おそらくすぐに病室から解放されるでしょう。いいですか、あなたは身体を張って子ども達4人を助けたのです。警官とはいえ誰でも出来ることではありません。あなたはやはり、ヒーローなんですよ。少なくともあの子らや僕にとってはそうなんです」
森の内は、選挙演説以来とも思える真剣な顔で熱く言った。
「知事・・・」
多美山は森の内の顔を、じっと見ながら言った。
「ありがとうございます。なんとなく気が楽になりました。でも、ヒーローは大袈裟ですよ」
「いえ、決して大袈裟なんかじゃありません。きっと子どもらは、多美山さんという頼もしい刑事さんのことは一生忘れないでしょう。だから、あなたもまた元気な姿で子ども達と会えるように、希望を捨てないでください。気持ちを強く持っていれば、これから病気に惑わされることはないでしょう」
「知事のおっしゃるとおりですよ、多美山さん」
森の内はいきなり背後で声がしたので、ぎょっとして後ろを見た。そこには高柳が立っていた。
「所長、驚かさないで下さいよ」
「いや、すまんですな、知事」
高柳はそのまま彼の横に立ち多美山に向かって言った。
「多美山さん。ああいうことになってしまったのは残念ですが、幸いにもバスルームの鏡と防護服の手袋以外、特に被害はありませんでした。ですが、我々は今回のことも教訓としてこれからに活かすことができます。ですから多美山さん、あなたはもう気に病む必要はありません」
「はあ・・・」
「多美山さん、はっきり言いますが、発症してしまった限りは我々の打つ手は限られます。一部のウイルスには有効なものがありますが、基本的にウイルスに対する特効薬と言うものはほとんどありません。いくつかの抗ウイルス薬は試してみますが、これからは対症療法が主になるでしょう。あなたの身体に抗体が出来るまで、ウイルスの攻撃に耐え抜けばあなたの勝利です。苦しい戦いになりますが、いっしょにがんばりましょうね」
「はい。ありがとうございます」
「そうそう、多美山さん」
高柳は、少し声のトーンを上げて言った。
「さっき連絡がありまして、息子さんが今、こちらに向かってこられているそうです。明日には奥さんとお孫さんもお見舞いに来られるそうですよ」
「本当ですか?」
多美山の顔が少し明るくなった。
「もちろんですとも。土日を利用して帰ってこられるそうです」
「そうですかぁ・・・、息子が・・・孫も・・・」
そういうと多美山は数秒間、目を瞑った後少し笑って言った。
「それは、がんばらんといけませんなあ」
「そうですよ、多美山さん」
森の内も言った。
「早く治して、お孫さんを抱きしめてあげてください」
「そうですなあ、早く会いたかですなあ」
多美山は、そういいながら天井の方を向いて遠い眼をして笑った。高柳はその様子を見て、何か不吉な予感を覚えたが、口には出さなかった。
「それにしても・・・」
多美山は、再び森の内たちの方を向くと言った。
「ギルフォード先生があのようにうろたえられっとは・・・」
「僕も内心お驚きました。いつも飄々としておられるし、冷静な方だと・・・」
園山看護士も横から言った。
「それは、病気の恐ろしさを知っていれば当然のことです。彼はね、若い頃中央アフリカの小国に医療援助に行った時、医療事故でラッサ熱に罹ったことがあるらしいのです。その時、何人かスタッフが亡くなったとお聞きしています。だから彼は・・・」
その時、山口が高柳を呼んだ。
「高柳先生、緊急のお電話です」
「おっと、急用だ。とりあえず失礼しますよ」
高柳はそういうと走って電話に向かった。残った森の内たち三人は、顔を見合わせたまましばらく黙り込んでしまった。
 しかし、驚いたのは彼らだけではなかった。傍で何となく話を聞いていた由利子も、初めて聞いたこの事実に驚いてギルフォードの方を見た。
「どうしました? ユリコ?」
こちらの会話が聞こえないギルフォードは、訝しげな顔をして尋ねた。
「あ、いえ、何か高柳先生に緊急電話が入ったようです」
由利子は、何となくこのことに触れてはいけないような気がして、誤魔化してしまった。
「緊急電話? またこの事件で何か起こったんでしょうか・・・」
「そうですね。心配だなあ」
由利子は言った。
 園山が、まず口を開いた。
「そうだったんですか。先生にそんなことが・・・」
「一瞬、悪夢が甦ったのでしょうね」森の内が納得をして言った。「そんな恐ろしい目に遭ったのに、まだウイルスとの戦いを続けておられるのですね」
「私もがんばらんといけませんな・・・」
多美山は驚きの余韻を残しつつ、噛みしめるように言った。
「ああ、もう5分過ぎていますね。知事、そろそろ・・・」
園山は、時計を見て少し焦り気味に言った。
「ああ、そうですか。5分は短いですなあ」
「あまり長い時間はお体に触りますし、知事も忙しい方ですから」
「多美山さん、今日はあなたにお会いできて本当に良かった。私はあなたに勇気をもらいました。ありがとう。またお会いしましょう」
森の内は、多美山に握手を求めるように右手を差し出した。多美山もそれに答え、右手を差し出した。美千代の事件で傷ついた上に、さっきの鏡での傷が加わり、見るからに痛々しいその手に森の内の胸は痛んだ。ガラス窓が邪魔をして、二人は当然握手をすることは出来ない。それでも、二人は気持ちの上ではしっかりと手を握っていた。
「今度お会いする時は、バーチャルでない握手をしましょう」
森の内が言うと、多美山も答えた。
「そうですな。・・・知事、テロの封じ込めをよろしくお願いします。是非、テロリストたちを殲滅してください」
「もちろん、そのつもりです。私達に任せて、治療に専念して下さい」
「ええ。今日は本当にありがとうございました」
「では、お二人とも、いいですか? 窓を閉めます」
園山の声とともに、窓がさっと曇り病室と遮断された。森の内は、その曇りガラスを見つめたままつぶやいた。
「多美山さん、私はあなたに背中を押してもらいました。ありがとう」
その時、高柳が珍しく慌てた様子で走ってきた。
「知事! 大変なことが起きているようです」
「何が起きたのですか?」
「C川河川敷きで大量の蟲が発生し、同時に例のウイルスで死んだらしいホームレスの遺体が、発見されたそうです」
「蟲って、つまり、ゴキブリですか?」
「そうらしいですな」
「では、遺体は・・・・」
「はい。かなり食い荒らされていたようです」
「うわあ・・・」
嫌そうな表情を浮かべた森の内を尻目に、高柳はギルフォードがいる部屋のマイクに向けて言った。
「ギルフォード君」
「はい、今、ユリコから内容は聞きました。動きがあったようですね」
「今、葛西君たちが現場に向かっているそうだ。何か重要な手がかりが発見されるといいのだが」
「蟲は?」
「例によって、いくつかサンプルを捕って後は駆除だな」
「これで2度目ですか。他の場所でおきてなければいいのですが」
「知事」高柳は森の内の方を見て言った。「2度目ということは、他所でもこういうことが起こっている可能性があります。ウイルス感染者の出たK市やF市やその周辺に限らず、F県全域で情報収集を行って下さい」
「そのつもりです。それより僕が今日、ここに訪れた理由のひとつに、お二人に是非最初にお伝えしたいことがあると言いましたね」
森の内は、再び真面目で厳しい表情をした。二人はそれを見て、ただならない様子を感じ取った。森の内は続けた。
「僕は、このウイルス病に関する非常事態について、正式に発表しようと思っています」
森の内の決心を聞いて、高柳や由利子のみならず、ギルフォードまで驚いて彼の方を見た。
 

「葛西刑事、こちらです」
葛西は、先に現場に到着していた警官に案内されて、橋台下にある粗末な『住居』に向かった。河川敷には警察のNBC対策車が黒いシルエットを夕闇に潜め、広範囲に出立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。周囲には野次馬が入り込まないよう警官達が警備を固めていたが、対岸の堤防道路や周囲の住宅からは、その異様な光景が見えるだろう。葛西はその様子を確認しながら、そろそろこの事件を隠し続けることが困難になりつつあることを感じていた。立ち入り禁止区域の中に、関係者の若者達が全員集められて事情聴取をされていた。彼らは一様に、生化学防護服に身を包んだ警察官達の姿を訝しげに眺めていた。そこから離れた場所で、別に女性一人と男性二人が警官達に囲まれていた。
「彼らは?」
葛西は案内の警官に尋ねた。
「第一発見者の女性と、遺体のすぐ近くまで近寄った者達です。状況から考えて、おそらく彼らは隔離でしょう」
「そうですか。可哀想ですけどそれが無難でしょうね」
葛西は彼らの方を見て気の毒そうに言った。住居と言うより掘建て小屋が正しいホームレスの住処に、注意深く葛西が入っていった。小屋の周囲には青いビニールシートが張られつつあった。すでに周りは黄昏を通り越して薄暗くなっており、シートを夜間照明が一際青く際立たせている。中に入った葛西が、犠牲者にそっと近づくと、案内の警官が遺体にかけてあるシートをめくった。
「うわっ!」
葛西は小さい悲鳴を上げると一歩後退りをした。
「酷い状態でしょう? 私もこのような仏さんは始めてです。ゴキブリから食い荒らされてこんな状態になるなんて・・・」
警官の説明に、葛西は無意識に防護服のマスクの上から口を押さえながら言った。
「彼を食害した虫の姿が見当たりませんが、逃げてしまったんでしょうか?」
「発見者の話では、見つけた当初はまだ体表や眼窩の中・・・おそらく脳内でしょう・・・に異様に大きな虫が居たようですが、いつの間にか居なくなっていたそうです」
「じゃあ、どこかに潜んでいる可能性がありますね。気をつけたほうが良さそうですね」
「河川敷に居た連中が、バーベキューパーティーを楽しんでいた時に、突如、大量の虫・・・ゴキブリが現れたそうです」
「ゴキブリと判断できたってことは、それらは普通のゴキブリだったんですね」
「だと思います。彼らはとっさの判断で、それらをゴミごと焼却したということです。あそこにまだ燻った名残がありますでしょう?」
警官は、そう言いながら河川敷でまだ赤く燃え残っている跡を指差した。
「なるほど、相当派手に燃やしたようですね」
「彼らの110番通報とほぼ同時に、近隣の住民数件から消防と警察に通報があっています。河川敷で火遊びをしているようだ、という通報でした」
「とっさの判断とはいえ、対処方法としては間違ってないでしょう。ただ、全部の虫が殲滅されたかどうかは疑わしいですね。それに、女性の見た巨大な虫とゴキブリがどう関係するかということですが・・・」
その時、別の警官が大声で葛西を呼んだ。
「葛西刑事、来てください!!」
声の方を見ると、一人の警官が、懐中電灯で橋台と橋桁の隙間を照らしていた。葛西は急いで彼の隣に立って照らされた方を見て息を呑んだ。海中電灯の光を反射して、いくつかの赤い点がチラチラと見え隠れした。数匹の蟲がそこに潜んでこちらの様子を伺っていた。

「知事、何となくそんな気はしていたんですが、本気で言っておられるんですか?」
高柳が森の内に改めて確認をした。
「はい。ただし、テロの可能性については伏せようと思います。まだ確証は得られておりませんし、皆の不安を必要以上煽るのは避けたいからです。そもそも、危険な感染症が発生した場合は、住民の安全のために情報公開をせねばならないのですが、やはり、諸般の事情で中々そう簡単にはいかないものです。議会からも猛反発を受けましてね、僕も、かなり悩みました。ことによると、感染症よりも、パニックや風評被害でのダメージの方が大きくなりますから。ましてや、7月には全国的にも有名な祭りが控えています。客足が遠のいた場合の損失は計り知れないでしょう。しかし、すでに判っているだけで9人・・・いえ、今日で10人ですね、・・・の犠牲者が出ています。他にも犠牲者が出てくる可能性が高いでしょう。それに美千代から感染した者が居る可能性も忘れてはいけませんよね。何より、僕は多美山さん・・・現役の警官の感染にショックを受けました。そして、今起こっている河川敷での事件です。いつかは、いえ、近いうちに流言飛語の類が飛び交うことになるでしょう。そうなる前に、正確な情報を提示しておくべきだと思うんです」
森の内は一気に自分の考えを伝えた。ギルフォードは、知事の英断に手を叩きながら言った。
「知事、よく決断されました。僕はあなたの判断は正しいと思います」
「しかし、公表の上手い方法を考えないと、却って最悪の事態を招くことになりますよ」
高柳が言うと、森の内はうんと頷きながら言った。
「そうなんです。今、最良の方法を模索中です。いずれにしろ、来週早々には公表するつもりです」
「判りました。我々にも協力できることがあれば、おっしゃってください」
「ありがとうございます」
「あのお・・・」
今まで男性3人の会話に入れずに大人しくしていた由利子が、おずおずと割って入った。
「ところで、ギルフォード先生はまだ出られないのでしょうか?」
「おっと忘れていた。ギルフォード君、審議の結果、感染の可能性はほとんど無いだろうという結論になった。さっさとそこから出て来たまえ」
「早くソレを言って下さいよぉ、タカヤナギ先生~」
ギルフォードは、仏頂面をしつつ立ち上がった。
「文句はいいから、とっととこっちに帰って来なさい」
「了解」
ギルフォードは一言言うと、次の瞬間駆け出してあっという間に病室から出て行った。
「よく今まで大人しくしていたもんだな」
『窓』を曇りガラスに戻しながら、高柳が言った。森の内も笑っている。由利子はそんな森の内に尋ねた。
「公表の方法は? 新聞で号外を出しますか? それとも、テレビを使って?」
「広報と号外そしてインターネット、もちろんテレビでの発表も考えています。今のところ、一番認知率が高いのはテレビだと思いますので、効果的な方法を考えているところです」
「夕方のローカルニュースを利用するとか、夜の報道番組に出演するとか・・・?」
由利子が言うと、森の内は「う~ん」と考えながら言った。
「全国ネットってのは考え物ですね。下手をすればそれこそ風評被害で大変なことになりそうですし」
「公表の目的は?」
「未知の感染症に対する注意の喚起と、秋山美千代と接触した人間の捜索です」
その時、多美山の病室から園山看護士の悲痛な呼び声がした。
「高柳先生! 多美山さんが、急変しました。早く誰か先生を!!」
「三原君、すまんが、また行ってくれ!」
「はい!」
高柳の命を受け、三原医師が多美山の元に走った。
「何があったんだ? さっきまで安定した状態で落ち着いておられたのに・・・」
高柳はそうつぶやきながら急いで『窓』を開けた。そこに居る全員が、多美山の部屋の前に集まった。由利子も恐る恐る病室を覗いた。ベッドの上で多美山が苦しそうに喘いでいた。傍で園山看護士が必死で多美山を励ましている。その状況を見て、山口と春野が「私達も行って来ます」と、駆け出した。と、同時に多美山の病室に三原が駆け込んできた。由利子は、あまりのことに驚いて高柳の方を見て尋ねた。
「一体何がおこっているんですか」
その時、後ろで声がした。
「サイトカイン・ストーム・・・? まさか・・・」
二人が振り向くと、ギルフォードが緊張した面持ちをしながら半ば呆然と立っていた。

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3.侵蝕Ⅲ (7)息子ふたり

「サイトカイン・ストーム?」
由利子が鸚鵡返しに訊いた。
「簡単に言うと、免疫系の暴走です。強毒性の新型インフルエンザが恐れられているのは、これが起こるからなんです。病原体に感染した場合、体の免疫機構を活性化させるためにサイトカインと言う物質が生産されます。感染症に罹ると、だいたい高熱を出すのはこのためです。ところが、これが過剰生産され、内臓に深刻な打撃を与えて機能不全に陥らせ、結果、死に至らしめることがあります。それがサイトカイン・ストームです。強力なウイルスに感染した場合等に、体が過剰反応をおこすからです」
ギルフォードが答えると、横から高柳が口を挟んだ。
「しかし、それは免疫機能が活発な若い人に多く起こるものなんだ。多美山さんのような50代の人に有り得ないことではないが、ひょっとすると、ほかに何かそれを誘発させる原因があるのかもしれない」
「マサユキ君のお祖母さんが、彼より早く亡くなったのも、おそらくこのせいで劇症化したためでしょう」
由利子は説明を聞いているうちに、だんだん恐ろしくなってきた。
「死に至るって、そんな・・・。治療法はないんですか?」
「そのために、三原君が居るんだ」
「血液浄化療法とかいうやつですか?」
と、知事が尋ねた。
「一か八か、やってみるしかないだろう」
高柳は、病室の方を見ながら依然厳しい表情で言った。由利子は無意識のうちにギルフォードに近づき、彼の腕をぎゅっと掴んだ。ギルフォードの腕は、かすかに震えていた。

 葛西は多美山の容体悪化を知らぬまま、C川の遺体発見現場で謎の昆虫と対峙していた。葛西たちは、蟲たちに見据えられたような形になって、一瞬金縛りのような状態になった。しかし、葛西はすぐに我に返って叫んだ。
「渡辺さん、居ました! 例の蟲です! 捕獲して下さい!」
葛西の叫び声で、捕虫網を持った鑑識の警官が走ってきた。
「どっ、どこに!?」
「あ、あそこです。橋の隙間に・・・、あれ?」
葛西は、蟲のいた場所を指し示したが、既にそこには何の姿もなかった。
「しまった! 逃げられた!」
「一体何処に・・・」
その時、「ぶわん」という音がして、彼らの傍を何かが飛んで行った。
「うわぁあっ!! こっちにも居た!!」
「何だ、これは」
「こなくそっ!」
渡辺が咄嗟に捕獲を試みたが、あと少しのところで取り逃がしてしまった。
「ちくしょう!」
渡辺は悔しがって、網を地面にたたきつけた。葛西は若干引きつった顔をして言った。
「見ましたか?」
「何ですか、あれは? カブトムシほどの大きさはありましたよ」
「まるで南方産並みのでかさやったぞ。一体何が起こっとぉとか!?」
「僕にもまだ何がなんだか・・・」
葛西には、そう答えるしかなかった。実際、当のテロリスト以外、誰にも判るはずはない。
「まだそこら辺に潜んでいるかもしれん。探そう。お~い、防護服チームから何人か来てくれんね」
渡辺は周囲に声をかけると、捕虫網で草むらをつつきながら葛西に向かって言った。
「あれが、もしウイルスを媒介するものだったら大変なことだ」
「そうですね。単なる外来種だったらいいのですが」
葛西は、無意識に眉間にしわを寄せながら言った。
「ナベさん、何ッスか?」
渡辺の呼びかけに三人の若い警官が走ってきた。
「今から昆虫採集だ。ホシはカブトムシサイズの、多分・・・ゴキブリだ」
「それって、でかすぎでしょう」
「うへぇ」
「じょ、冗談ですよね?」
「俺がこんな時に冗談を言うか。四の五の言わずにさっさと探せ。それから下川、おまえはカメラを持っとるから、出てきた虫をなんとか撮影してくれ。いいな」
「了解!」
三人は同時に答えると、いっせいに草むらを探しはじめた。その傍らで、被害者男性の遺体の回収が始まった。
 遺体とその周辺に消毒液を充分にかけると、遺体袋に入れしっかりと口を縛る。その上からまた消毒液をたっぷりとかけ、さらにもう一度遺体袋に入れ、口を縛る。それをさらに感染防止用のシートにくるみ、担架に乗せて遺体搬送車まで運ぶのだ。葛西たちは呼ばれてそちらの作業に加わり、その遺体を間近で見ざるを得ない状況になってしまった。最初、秋山雅之の祖母、珠江のことを聞いた時からいずれはそういうものに対峙するときが来る様な予感はしていたが、思ったより早くその時が来てしまった。
 遺体は、人がこのようになるものかと慄然とするような姿だった。耳・鼻・唇・頬と柔らかい場所はことごとく食いつくされ、口からは骸骨のように歯が露出していた。大きく開いた口の中は血まみれで、舌まで食われたらしく血溜まり中にの中にそれらしい痕跡を残して消失していた。目は蟲が眼窩に入り込んだために、両目共に眼球が飛び出し、かろうじて視神経に繋がって顔からぶら下がっていた。その眼球も何箇所も食い破られており、ゲル状の硝子体が漏れ出していびつな形に変形しており、ぽっかりと空いた眼窩には、どす黒いタール状の血が溜まっていた。体中の表面には食い散らされた跡が無数にあり、表皮は殆ど消失、両手足の指先は爪の一部を残して骨が露出していた。さらに、6月の気温で遺体の腐敗も進み、すでにかなりの異臭を放っており、防護用マスクをしていなければ、相当な悪臭が鼻を突いたことだろう。葛西は吐きそうになるのを必死でこらえていた。その様子を見て、横の警官が話しかけてきた。
「葛西さん、こういう死体は初めてなんですか」
「え? ええ、まあ」
「顔色が青を通り越して土気色をしとりますよ。大丈夫ですか」
「大丈夫です。慣れなきゃ」
そういいながら葛西は、こみ上げてきそうな熱いものを元の位置に納めた。
「遺体の様子から、死後1・2日って感じですけど、それでこんな惨いのは、おれも初めてですよ」
がっしり型だが背のあまり高くない、眉の太いその警官は、何の因果かこういう悲惨な死体にばかり遭遇するという。
「まあ、2・3回ほど吐けば慣れますって」
彼は、わははと笑いながら言った。葛西は、遺体のビジュアルを出来るだけ思い浮かべないようにしながら考えた。
(いったいこの人は、何匹の虫から食われたんだろう。それに、見ただけでアレクが卒倒しそうなあの巨大ゴキは、どこから来たのだろう・・・)
 遺体の搬送後、葛西は食害の「犯人」の方について考察することにした。そもそも、損傷の激しい遺体は写真ですらよく見ることが出来ない初心者なのに、今日はいきなり生でたっぷりと見てしまった。手には防護服の手袋ごしとはいえ、感触がまだ残っている。さっさと忘れないと、今日の夕食は『10秒メシ』で摂ることになってしまいそうだった。しかし、この場にいる限りは、そうはいかない。葛西が「昆虫採集」組の成果はどうだろうと被害者の住居の方へ向かおうとしたその時、いきなりそちらが騒がしくなった。
「いたッ! でかかぞ!!」
「何だァ、これは!!」
それを聞いた葛西は、反射的に駆けだした。
「ど、どこですか? 捕獲は・・・」
「シッ! 今が捕獲の最中ですから」
葛西は下川に制止され、指さされた方向を見た。5m程先で、渡辺が捕虫網を構えてじりじりと蟲に近寄っていた。その蟲は、葛西の距離からでも判るほど大きかった。
「タチの悪い冗談みたいだ。まるでドッキリカメラだな」
葛西はつぶやいた。蟲はじっとして動かなかった。しかし、それは竦んでいるというより、むしろ捕獲しようとしている人間に挑戦しているようにすら見えた。渡辺は、捕獲に充分な距離まで近づくと、捕虫網をすばやく振り上げた。しかし、それと同時に蟲は翅を広げ震わせた。渡辺は、飛び立つ前に捕獲しようと急いで網を振り下ろしたが、それより若干早く蟲は飛び立った。渡辺は、とっさに叫んだ。
「しもかわっ! 写真を早くっ!!」
「わかってます!」
下川は渡辺に言われるまでもなく、すでにカメラを構えて惜しげもなくシャッターを押していた。
(そうか、デジカメだから枚数を気にしなくていいんだ。便利になったもんだな)
葛西は、この緊迫した状況の中で妙に冷静に思ったが、次の瞬間あわててのけぞった。飛び立った蟲が自分の方に向かってきたからだ。すれすれで蟲から逃れ、葛西は興奮気味に言った。
「びっくりした! あいつ、顔に向かって飛んできましたよ」
「あ~あ、避けなかったら捕獲できたかもしれんとに」
「冗談はよしてくださいよ」
そういいながら葛西は苦笑して渡辺の顔を見たが、その顔が本気なのに気がついて笑いが貼りついてしまった。蟲はそのまま飛んで十数メートル先の草むらに消えていった。
「くそお!」
渡辺は悔しがったが仕方がない。防護服のせいで動作が若干緩慢になっているからだ。視界もあまりよろしくない。いつもとは違う状況に、渡辺は苛立っていた。その横で、葛西が居心地悪そうに立っていたが、下川が気の毒そうに言った。
「誰だって、あんなモノが飛んできたら避けますって。気にしないで下さい。渡辺さん真面目だから」
「おい、下川! 写真のほうはどうだ?」
渡辺に言われて、あわてて下川は撮った写真を確認しながら言った。
「はい。大きいとはいえ昆虫なのであまり鮮明なのはありませんが、いくつか全身像が撮れています」
「見せてみろ。葛西刑事も見たほうがいいやろう。これからこれが君の敵になるかも知れんとやからな」
渡辺に言われて、葛西と下川は三人で頭を寄せ合うように写真を見た。写真には捕虫網をもって奮闘する渡辺と、その横をすり抜けて飛ぶ蟲が写っていた。夕暮れ時であまり参考になりそうな写真は少なく、ひどいのになるとほぼスカイフィッシュ状態だったが、一枚だけ飛翔する蟲の全身が一部画面からはみ出ているものの、比較的鮮明に写っているものがあった。三人はそれを見た瞬間、一様にものすごく嫌な顔をした。葛西が眉間の皺をさらに深く寄せながら言った。
「気持ち悪いですけど、これを見る限りでかいだけのクロゴキブリですね」
「ひょっとして、人を食ってあんなに成長したんでしょうか」
「嫌なことを言うなよ。まあ、これだけ写っていれば、専門家の鑑定もしやすいやろ。しかし、このあたり一帯に殺虫剤を散布すべきかもしれんな」
「それはこの蟲の行動半径が不明ですから、無意味だと思います」葛西は渡辺に反論した。「下手をすると生態系に深刻な悪影響を与えます。せっかく自然に配慮した護岸整備をしているのに、台無しになってしまいます。それに付近の住民にも悪影響があるでしょう。この小屋付近の消毒だけに留めるべきです」
「まあ、それは上が決めることやろうけん、我々はそれに従うまでさ。さあ、俺達はもうしばらく採集を続けるからな。みんな、昆虫採集再開だ!」
渡辺たちは再び草むらと格闘をはじめ、葛西は被害者の住居に一人立って中を確認した。ドア付近の倒壊で埃まみれになってはいるが、中は比較的きちんと片付いていて、沢山の新聞はきちんとまとめられ、古本が手製のダンボール本棚にきちんと分類して並べられていた。灯油ランプにCDラジカセもある。流石にパソコンはなかったが、ここの住人が見かけによらず高い知性を持っていたことが伺えた。葛西は遺体のあったところの人型の傍にしゃがむと、それをじっと見つめた。
(いったいこの人は、これまでどんな人生で、どういう経緯でホームレスにまで身を持ち崩してしまったのだろう)
葛西は犠牲者のことを思うと心が痛んだ。この転落の賢者は、この粗末な城の中でひっそりと暮らし、誰も看取る者もなく、しかも苦悶のうちに息を引き取った。さらにその死後、夥しい蟲共に食まれ人間としての尊厳も奪われ、見るも無残な遺体と化してしまった。あの状態では、顔もろくにわからない。おそらく安田さんと違って、彼は何者かもわからないまま、荼毘に付され無縁仏として葬られるだろう。彼の生きた証であるこの住居や持ち物も、撤収後全て焼却処分されるのだ。それは、一人の人間の抹殺に他ならなかった。やりきれない気持ちでもう一度住居のなかを確認していると、葛西が心の中でずっと抱いていた疑問が浮上した。

『何故、まずホームレス達が狙われたのか』

もちろん、無差別にウイルス攻撃した結果、たまたまホームレスにのみ感染に成功した可能性も拭いきれないが、人の行動には、必ず何がしかの動機があるものだと葛西は確信していた。
(もう一度原点に戻って、あの公園のホームレスたちに関わった人間を洗い出してみるべきじゃないだろうか)
葛西はそう結論して威勢よく立ち上がったが、すぐにため息をついてつぶやいた。
「はあ、それにしても暑い。暑すぎるよ。早く脱いでしまいたい、こんなもの!」
その時、何か大声で争う声が聞こえてきた。葛西は驚いて小屋から飛び出した。見ると、河川敷で警官達と若者達が小競り合いになっている。葛西は急いでそっちに走ったが、防護服を着ていることを思い出して途中で足を止めた。それで、葛西は比較的近くに居る警官に大声で尋ねた。
「何があったんですか?」
「あの3人を隔離するために移送しようとしたら、彼らがいきなり抗議をしてきたんです。3人には充分な説明をしているといっても、聞く耳を持たず・・・」
その結果、この状態になったらしい。若者達と警官達の間に鈴木係長が立って、若者達への説得を試みているようだった。鈴木は根気強く説得を続けている。それでもしばらくの間、時折怒号が飛び交うほど緊迫していたが、ようやく彼らは鈴木の説得に応じたようだった。どうやら、リーダー格の青年を上手く落としたようだった。
(多美さんがいたら、もっと早く説得できたかもしれないな)
葛西はそう思うと、あの事件が残念でならなかった。鈴木はリーダーの青年と挨拶を交わすと、ほっとした面持ちでその場から離れたが、葛西の姿を見つけると、手を振りながら大声で言った。
「葛西君! 多美山さんの容態が良くないそうだ。ここはいいから、隔離の人たちを送る連中といっしょにセンターまで行きなさい」
「多美さんが? そんな・・・」
葛西は呆然として立ち竦んだ。

 多美山は、ふっと目を覚ました。目の前には、心配して多美山の顔を覗き込む園山看護士の顔があった。
「多美山さんが気付かれました!」
園山看護士が、嬉しそうに言った。ほぉおっと三原医師がため息をついてベッドの側に置いた椅子に座った。
「私は・・・いったいどうなって、いたんでしょう」
多美山は、不思議そうな顔をして尋ねた。依然、呼吸は苦しそうで酸素マスクは外せない状態だったが、意識が戻っただけでも幸運だった。三原が多美山の質問に答えた。
「ウイルス感染から免疫系の暴走が起きているんです。とりあえず処置が早かったので、なんとか小康状態に落ち着きましたが、予断は許せない状態です」
「血液浄化療法というのを試しているところです。ミハラ先生は優秀な透析医ですから」
窓の向こうでギルフォードが言った。彼の姿を見て、多美山はほっとした表情で言った。
「ギルフォード先生、ご無事やったとですね・・・。良かった・・・」
「僕は不死身ですよ」
ギルフォードは、にっこりと笑いながら言った。それを聞いて、多美山は安心したように言った。
「ああ、いつもの先生だ・・・。もう少しで取り返しのつかないことをするところでした。本当に良かったあ・・・」
「僕はもう大丈夫ですから・・・。もう気になさらないで下さい」
「はい。ありがとうございます。・・・知事は、帰られたのですか?」
「ええ。あなたを心配してギリギリの時間までおられたのですが、スケジュールの関係で止む無く帰られたんですよ」
「せっかく来られたのに、却って心配をかけてしまって、申し訳、なかったです。・・・しかし、この赤い・・・光景はずっと続くとでしょうか・・・」
「それはまだなんとも・・・」
「そうですか・・・。この赤さ・・・、思い出しましたぁ。私が子どもの頃・・・夏休みも終わる頃の、ことでした。台風が近づいていて、私はなんとなく・・・ワクワクして、朝早く起きたんです。そしたら、窓の外が異様に赤くて、私は、火事かと思って・・・驚いて、外に様子を見に行きました・・・。外に出た私は、驚きました。それは火事ではなくて、朝焼けやったとです。空には台風の・・・厚い雲が、かかってましたが・・・、朝日の昇っている・・・あたりの雲が途切れて・・・、山際から真っ赤な太陽が・・・顔を出しとりました。その太陽の光が、あたり一帯を赤く・・・染めていたとです。空も山も海も町並みも・・・。そして私自身でさえ・・・。あまりの不気味さに、私は怖くなって、家に戻ると布団に飛び込み、頭からタオルケットを被って・・・震えていました。あの時の、地獄の業火の中で悪魔が踊っているような、不気味な朝焼けの色・・・この赤さは、その時の色に似とります・・・」
多美山は、そう言いながら再び遠くを見るような目をした。園山看護士はそんな多美山を心配して言った。
「多美山さん、あまり無理をしてお話なさらないほうが・・・」
「いえ、大丈夫です・・・。話せるうちに、話しておきたかとです」
それを聞いて、みんなは顔を見合わせた。ギルフォードの横に座って話を聞いていた由利子は、目を見開いて両手で口を覆った。
「ところで・・・、高柳先生は・・・?」
と、多美山が尋ねた。
「今から、新たに隔離される人が三人来ますから、山口先生と、それの準備をしているところです」
三原が答えた。多美山は驚いて言った。
「また、感染者が・・・?」
「はい」今度はギルフォードが答えた。「河川敷でホームレスがまた遺体で見つかりました。遺体発見者の状況から、隔離したほうがいいと判断されたのです」
「そうですか・・・。やはり、状況は徐々に深刻になっとぉとですな・・・」
多美山は、そう言うとふうっとため息をついて続けた。
「三原先生・・・。ギルフォード先生と・・・もう少し・・・、お話をしたかとですが、よかですか?」
「そうですね。血漿交換にはまだ時間がかかりますから、退屈でしょう。いいでしょう。但し、お体に負担をかけないように、園山さんの指示には従ってくださいね」
三原の許可を得て、多美山は改めてギルフォードの方を向いて言った。
「先生、あの・・・」
「何でしょう?」
「篠原さんから、聞きましたが、先生が、海の歌にワルツが多いと・・・」
「ええ、日本の唱歌には結構あると思いました。僕はワルツが大好きなので」
「私は、さっき、意識を失っている時、夢を・・・見ました。娘と妻が死んだ、時の夢です。娘の時も、妻の時も、私の頭から、何故か離れずに、ずっと繰り返し繰り返し、響いていた歌が・・・あったのを、思い出したとです」
「ワルツなんですか?」
「ええ・・・。浜千鳥という唱歌です・・・。子ども達に・・・子守唄代わりに、よく・・・歌っとったとですが・・・、ああ、すんません・・・、何でか今、歌詞が思い出せんとです」
「ああ、僕、知っていますよ。間違いなくワルツですね。えっと、♪青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が♪・・・これでしょ?」
「そう・・・その歌です。・・・先生、いい声ですなあ・・・」
「おだてても何も出ませんよ」
ギルフォードは少し、はにかみながら言った。
「ばってん・・・、何でこの歌が、頭から離れんやったとか・・・わからんとです」
「長調の曲なのに、何故かもの悲しい歌です。お二人との思い出が、歌に投影されていたからかもしれませんね」
「ああ、そう・・・かもしれません・・・」
多美山はそう答えると、しばらく黙ってぼんやりと天井を見つめた。
「タミヤマさん」ギルフォードは静かに言った。
「ホントは歌の話をしたかったワケじゃないでしょ?」
「いえ、そうやなかとですが・・・」
そこまで言うと、多美山はまた黙ってしまったが、すぐに何か決心した様子でギルフォードの方を向くと言った。
「先生、教えてください・・・。私の生き延びる・・・可能性は、もう・・・ほとんど、なかとでしょう?」
多美山からあまりにもまっすぐな質問を受けて、ギルフォードは一瞬戸惑った。三原と園山もいっせいにギルフォードの顔を見た。ギルフォードも訴えるような目で二人を見た。三原は深く頷いた。
「家族が来るのも・・・、そのためや・・・なかですか?」
多美山は、さらに畳み掛けるように尋ねた。ギルフォードは、下を向いて両手で顔を覆いながら言った。
「それを・・・、僕に言わせるのですか・・・」
その声はくぐもり、病室とステーションに重い空気が流れた。
「ああ、すんません」多美山が慌てて言った。「先生を、困らせるつもり・・・やなかったと、です。私は、ただお願いが、あっただけなんです」
「お願い?」
「はい。生きる・・・可能性が、あるのなら、今後のためにも、私で、治療を試して・・・ください。・・・ばってん、・・・もし、絶望的に・・・なった、時は・・・」
多美山はここで一旦言葉を区切り、一回深呼吸をして続けた。
「延命は、一切・・・しないで下さい。そのまま、逝かせてください・・・」
由利子は、とうとういたたまれなくなって立ち上がり、ギルフォードが隔離されていた時に彼女が座っていた席に戻り座った。両目から涙があふれ、床を濡らした。
「意識を、失ったままに、なる前に、お願いしておきたかった・・・とです。先生、辛いことを、言わせようとして・・・すまんかった・・・です」
多美山はそう言うと、かすかに微笑んでギルフォードを見た。
「判りました、タミヤマさん。延命拒否のご意思、確かにお受けしました」
ギルフォードは、真摯な表情で言った。その時、30歳前半くらいの男が、スタッフステーションに飛び込むように入ってきた。
「た、多美山です。父さ・・・いえ、父は」
男はハアハア喘ぎながら尋ねた。スタッフの女性が彼の傍に近づくと、右手でギルフォードの居るほうを指して言った。
「あちらです。あの外国人の方がいる方へ行ってください」
多美山の息子は、入って来た時の勢いとはうって変わり、おそるおそる指示された窓の方に近寄った。件の外国人の男が振り返ると、にっこり笑って彼を迎えた。
「タミヤマさんの息子さんですね。どうぞこちらへ。今は落ち着いておられますよ」
ギルフォードは、いつもの笑顔で多美山の息子を招いた。
「落ち着いて・・・。ああ、よかった。意識不明になったという連絡があったので、もう駄目かと・・・」
息子は、ギルフォードの報告を聞くと、こんどは足早に近づいてきた。しかし、機械につながれた父親の深刻な姿を見ると、愕然として言った。
「父さん・・!! どうして・・・・」
「おお、幸雄か」多美山は、息子を見ると申し訳なさそうに、しかし、嬉しそうに言った。「心配させてすまんなあ」
「あんたはいっつもそうだ。自分や家族はそっちのけで・・・、とうとう自分までこんな・・・」
「それが、俺の仕事やけん・・な。・・・全く、後悔していないと言うと・・・ウソになるばってんが・・・」
「あんた、馬鹿だよ」
そう言いながら、幸雄の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「そうやろうなあ・・・。それよりおまえ、ちゃんと挨拶したとか」
「あっ・・・」幸雄は、無礼に気がつくと、急いで皆に挨拶をした。
「すみません、みなさん。私は多美山の息子で幸雄と申します。父がお世話になっております」
「Q大のギルフォードです。僕の方こそお世話になってますよ。病室の方にいるのは、医師のミハラ先生と看護士のソノヤマさんです。彼らのおかげで、タミヤマさんの意識が戻ったのですよ」
「あ・・・、みなさん、ありがとうございます」
幸雄は深々と頭を下げて感謝をした。病室の二人もそれに倣って礼をしていた。
「で、父の容態は?」
「今は小康状態ですが、予断を許されない状態です」
三原が答えた。
「ことによると、人工呼吸器をつけることになるかもしれません。あとで、院長から説明があると思います。・・・それより、久しぶりに会われたのでしょう。少しお話をしてあげてください」
それを受けて、ギルフォードが立ち上がりながら言った。
「じゃあ、僕は少し席を外しましょう。ここに腰掛けてゆっくりお話してくださいね」
「ありがとうございます」
幸雄は、一礼するとギルフォードの空けた椅子に座った。そして、父親の方をじっと見ながら言った。
「父さん・・・。痩せたね」
「幸雄、おまえは・・・しばらく見ない間に、ずいぶんと、恰幅が良く・・・なったな」
「イヤだな、父さん」
幸雄は、痛いところを突かれ苦笑いをしながら言った。ギルフォードは二人の様子を見ながら、そっとその場を離れた。

「アレク、そろそろ私帰らなきゃ」
由利子が言った。
「ここにずっと居ても、お役に立てそうにないし・・・」
「そうですか。しかし、困りましたね。僕はまだ帰れそうにありません。新たな隔離者が来るのを待たなければならなくなりました」
「大丈夫です。バスと電車で帰れますよ」
「いえ、危険です。昨日の今日ですし、送るという約束ですから・・・。とはいえ、サヤさんも今日は午後から休んでいるし、困ったな・・・」
「サヤさん、お休みなんですか。いつもアレクと一緒に行動していると思ってたんですが、昨日といい、そういうわけでもないんですね」
「まあ、あくまで秘書ですから、プライベートまで拘束できません。アメリカからボーイ・フレンドが来ているんですよ」
「彼氏? うわ、羨ましい。今日はラブラブかあ」
「あ、なんとなく騒がしくなりましたね。どうやら来たようです。ユリコ、もうちょっと待っていてくれませんか」
「ええ、出来るだけ早くね」
由利子が答え、ギルフォードがステーションから出ようとドアに向かったところで、先にドアが開いて葛西が飛び込んできた。
「おや、こんどはジュンですか」
ギルフォードが言った。
「アレク、多美さんの容態が悪化したって・・・」
「ええ。でも、今は落ち着いておられますよ。今、息子さんが来られて話をされているところです」
「なんだあ、良かったぁ~。鈴木係長から聞いたときは、心臓が止まるかと思うくらい、ドキッとしましたけど」
「ただし、ジュン、いいですか。容体悪化は免疫機能が暴走を始めたからです。これが何を意味するかわかりますね?」
「え・・・? それじゃあ・・・。すみません、アレク」
そう言うや、葛西は多美山の方へ駆け出していた。
「多美さん、大丈夫ですか?」
多美山は葛西の姿を見ると、厳しい表情で言った。
「ジュンペイか。仕事はどうした?」
「係長の許可をもらって来たんですが」
「俺は大丈夫だ。俺のことはいいから、おまえは、仕事に戻れ。まだまだ、することが・・・残っとるやろう」
「でも、多美さん・・・」
「いいか、おまえの仕事は、これから重要になる。これからは、職務を優先するんだ。いいな!」
「でも、多美さん」
「いいから行け!!」
多美山から怒鳴られて、葛西は力なく多美山の病室の前から離れた。
「父さん、ちょっとごめん」
幸雄は急いで立ち上がると、葛西の後を追った。
「えっと、君、待って!」
葛西は呼ばれて振り向いた。
「あの、はじめまして。私は多美山の息子で幸雄といいます」
「あ、失礼しました。僕は葛西純平といいます。お父さんにはお世話になってます」
「すみません。うちの父、たまにああいうところがありますんで・・・」
「大丈夫です。僕、しょっちゅう多美山さんに怒られているんで慣れっこですよ」
「そういってくださると、助かります」
幸雄はほっとした表情で言った。
「今日はお父さんとじっくりお話してください。じゃあ、僕はこれで」
と、葛西はにっこりと笑いながら言うと、幸雄に背を向けた。ギルフォードは、彼らの様子を見ていたが、葛西が幸雄から離れたのを確認すると、声をかけた。
「ジュン、チョット待って。これからどうするのですか?」
「あ、アレク。せっかくここまで来たんですが、僕はこれからK署に戻ります。それから、ちょっと気になることを調べたいと思っています」
「そうですか。じゃあ、帰るついでにユリコを送ってもらえますか?」
「いいですけど、自分の車で来てないので、バスと電車ですけど」
「それでいいですよ。実は、僕がお送りするつもりだったんですが、いつになるかわからないので」
「そっか、昨日あんなことがあってますからね。判りました。僕が責任をもってお送りしますよ」
「ちゃんと戸口までお送りしてくださいね。デモ、うちの中に上がり込んじゃダメですよ」
ギルフォードがウインクをしながら言うと、葛西は頭をかきながら言った。
「アレクってば、やだなあ」
「ユリコ、ジュンと一緒に帰ってください。彼がボディガードになってくれるそうです」
「葛西君が? なんか頼りなさそうだなあ」
ギルフォードの提案に、由利子はちょっとだけ不服そうに言った。

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3.侵蝕Ⅲ (8)預かり物の正体

「父さん。葛西さん、帰られましたよ」
幸雄は、葛西と由利子が帰るのを立ち上がって見送った後、椅子に座りなおしながら多美山にそれを告げた。多美山はそれを聞くと、ふっと天井の方を見、それからすぐに目を閉じて言った。
「そうか、帰ったか・・・」
「父さん、あんなに言っておきながら、なんだか寂しそうだね」
「そう見えるか?」
「うん。そういや僕もよくああやって怒鳴られてたね」
「今考えたら、怒りすぎ やったなあ」
多美山は、少し笑いながら言った。
「そうだよ。家にろくに帰らないくせに、顔を見ると怒ってばかりで、嫌な父さんだって思ってた。でも、よく考えたら怒られた思い出が強いだけで、けっこう楽しかったこともあったよ。ほら、僕が小学生の時母さんと妹と耶馬渓にキャンプに行ってさ、一緒に川釣りしただろ? 覚えてるかい」
「釣った魚で・・・夕食にしようとしとったとに、ほとんど、釣れんかったったい」
「仕方がないから、車で魚買いに行ってさ、川の傍で海の魚を焼いて食ったよね」
「母さんは、川魚が嫌いやから・・・、ちょうど良かって、喜んどったやろ」
「でも、買いに行った道が混んでて大変だった。まあそれも良い思い出だね。考えたら結構楽しい思い出もあるよね・・・。父さんは居ない時が多かったけど、いる時は出来るだけ僕たちの傍に居ようとしてくれてたんだなって、自分が父親になってなんとなく判ってきたんだ。早くそれを伝えたかったけど、母さんの葬式の時にやった大喧嘩のわだかまりが消えなくてさ。・・・あのさ、父さん、また一緒に住もう。来年にでもこっちに帰れるように会社に申請してみるよ。来年ダメでも、父さんが定年になる頃にはきっと・・・」
「帰って来てくれるとか?」
「うん。父さんが念願だった孫と一緒の生活ができるんだよ」
「そうか。定年が、楽しみになったぞ。がんばって・・・病気を 治さないとな」
「そうだよ。だから、弱気になっちゃダメだよ」
幸雄はそこでふっと何かを思い出したように話題を変えた。
「ところで父さん、ちょっと気になったことがあるんだ」
「なんだ、急に・・・?」
「葛西さんのことだよ。葛西さん、父さんに怒られるのは慣れてるからって言いながら、なんとなく暗かったんで気になるんだけど・・・」
「あいつが・・・?」
「なんとなく、僕がいたから父さんに冷たくされたって思ったんじゃないかって気がして・・・」
「そげん思われたとなら、しょんなかたい。・・・いや、そのほうが、よか・・・」
「え? どうしてだよ」
「あいつは、俺の感染に対して、負い目を感じとぉごたる。まわりもそれを察してか、俺の見舞いを、優先させようとしとる。ばってん、それじゃあいつのためにはならん。あいつは、これから、正体不明の犯罪者と・・・戦わんといかんとたい。生半可な・・・甘い気持ち じゃあ、やっていけん。ここでいったん、突き放してやらんと・・・」
「それであんな態度を? だからなんとなく不自然に感じたんだね」
「そうかもな。それに・・・」
「それに、なんだい?」
「いや、なんでんなか・・・」
「なんだよ。水臭いなあ。言ってよ」
幸雄が父に向かって問うていると、高柳が彼に近づいてきた。
「多美山さんの息子さんですね。はじめまして。院長の高柳です」
「あ、お世話になってます。多美山の長男で幸雄と申します」
「幸雄さん・・・。いろいろご説明することがありますので、ちょっとこちらに来ていただけますか? 多美山さんは、そろそろお休み下さい。お疲れでしょう? 三原君、園山君、後をたのむよ。 じゃ、幸雄さん、行きましょう」
高柳はそれだけ言うと、さっさと歩き出した。
「じゃ、父さん、行って来るね。またあとで来てみるけど、遠慮なく眠ってていいからね」
「おう。じゃあな」
多美山はそういうとベッドに身体を沈め、目を閉じた。

 由利子と葛西は、電車を待つため私鉄のホームに並んでいた。由利子は葛西の様子がなんとなくおかしいのに気がついていた。話しかけても上の空で二言三言で終わってしまうし、時折ため息をついており、なんとなく落ち込んでいるようすだった。由利子はその様子を見ながらだんだんイライラして来たので、思い切って聞いてみることにした。
「葛西君。どうしたの? さっきから変だよ」
葛西は目を泳がせながら答えた。
「え? いえっ、そんなことないですよ」
「うそ。さっき多美山さんから怒られたからでしょ」
「う・・・」
葛西は口ごもった。
(判りやすいヤツ・・・)
由利子は、ややあきれ気味に思ったが、続けて言った。
「あなた、多美山さんには怒られ慣れてるって言ってたし、じっさいそうなんでしょ。何で今日に限って・・・」
「はあ・・・。多美さんが元気な時には確かに時々怒鳴られてました。それが、あの事件以来なんとなくそういう面がなくなって、それはそれで心配だったんだけど・・・。だけど、実の息子が来たからってあんな態度はないじゃないって・・・」
葛西は、やや口を尖らせながら言った。
(やっぱり・・・)
由利子は納得した。あの時の様子がちょっと変だったのは、一部始終を見ていた由利子にはなんとなく想像出来た。葛西にしては、幸雄に対する態度がそっけなさ過ぎたからだ。
(多美山さんも罪作りよね。それにしても、このお子ちゃまデカは・・・)
そう思いながら、由利子は葛西の方を見て言った。葛西は案外背が高く、傍に立つと背の高い由利子でも、顔を見るのにちょっと上を見なければいけない。
「多美山さんって、そんな人じゃないでしょ。きっとそれなりの考えがあってああ言ったんだって思うよ」
「だって・・・」
「何よ。多美山さんはあなたの相棒でしょ? それくらい理解してあげたら」
「・・・」
「多美山さんは、自分が定年間近だから、あなたに早く一人前になって欲しいから厳しいんでしょ。あなたに後を継いで欲しいのよ」
「そうかなあ・・・」
「そうよ」
そこまで言ったとき、電車がホームに入ってきた。二人は会話を中断して流れに従って電車に乗った。夜も8時過ぎているが、下り電車はまだまだ人が多くすでに満員状態だった。当然座れるはずもないので、二人は戸口に付近でつり革に掴まった。降車駅が比較的近くだからだ。改札近くの車両に乗ってしまったので、発車間際に滑り込みの客が数人駆け込んできて押され、由利子は体勢を崩して葛西の方によろけた。幸い葛西がとっさに抱きとめたので由利子が倒れることはなかった。
「あ、ありがとう」
由利子は少し赤くなりながらお礼を言って、体勢を整え再度つり革に掴まった。しかし、何となく気まずい空気が流れ、二人はそのまま黙って並んで立っていた。電車が動き出し夜の闇の中に突入した。由利子は窓ガラスに映る自分ら二人の姿をぼんやりと見ながら思った。
(どう見ても姉と弟だよねえ・・・)
電車を降りて、由利子のマンションに向かう道すがらも、二人はなんとなく黙って歩いていた。ずっと気まずい空気が流れたが、それに耐え切れずに葛西がまず口火を切った。
「昨日来た時は車だったので、歩いて行くのもまた新鮮でいいですね」
「そう? 私には歩き飽きた道だけどね」
由利子は笑って答えた。
「ここからだいぶ歩くんですか?」
「ううん、たいしたことないよ。早歩きで10分くらいかな」
「そうですか。でも、もう閉まっちゃってるけど、商店街もあって小さいけど公園もあるしコンビニもあるし、住むのに良さそうな環境ですね」
「そうかな」
「僕の寮があるところは・・・寮と言ってもK署の上なんですけど、お店も沢山あって居住空間も悪くないんですが、なにぶんちょっとごちゃごちゃしていて、どうも」
「そうね、駅周辺はちょっと雑然としすぎてるわね。まあ、その点ではT神の方も似たようなところがあるけど」
二人の会話が乗りはじめたところで、突然物陰から何者かが飛び出して来て、由利子のバッグをひったくろうとした。
「きゃっ!」
由利子はとっさにバッグを両手で胸に抱き必死で取られまいとした。葛西は速攻でひったくり犯に体当たりを食らわせると、犯人の男はもんどりうって倒れた。
「くそっ。覚えてろ!」
男はすぐに立ち上がると、お決まりの捨てゼリフを残し脱兎の如く逃げ出した。
「こら、待て!」葛西は叫ぶと男の後を追った。
「刑事が横に居るのにひったくろうったあ、いい根性だ」
そうつぶやきながら葛西は走り、かなり近くまで追いつきそうになったが、その時後ろでまた叫び声がした。
「いやあ、葛西君! 葛西君! こっち!!」
葛西が急いで振り返ると、もう一人の男が由利子にしがみついていた。
「しまった!」
葛西は男を諦めて、猛然と由利子の元に走った。しかし、葛西が戻る途中で、犯人は由利子から離れ次の瞬間地面に転がっていた。
「ゆっ、由利子さん?」
由利子は、パンパンと手を払いながら言った。
「ふん! 美葉から痴漢撃退法を教わってて良かったわ」
由利子から地面に転がされた男は、またもすぐに立ち上がって逃げ出した。
「あっ、こらまて!!」
葛西はそれを見て再び追おうとしたが、由利子がそれを止めた。
「こら、ボディガードが依頼人から離れるな! また襲われたらどうするのよ!」
「そうでした」
葛西は頭をかきながら由利子の元に戻った。
「つい、刑事の癖で・・・」
「警察呼んだほうがいいかしら・・・。って葛西君も警官か」
「僕の管轄外ですから、所轄の警官を呼んだほうがいいです」
「やっぱ110番か。なんか最近しょっちゅう警察に電話してるような気がする・・・」
由利子がため息をついて言うと、葛西がすぐに突っ込みを入れた。
「気のせいじゃないですよ」
「皮肉よ。今の自分の状況に対しての。まあ、この由利子さんに顔を覚えられたんだから、犯人達も運のつきだわね」
「由利子さんの特技でしたね。とにかく、ここで110番するのも危険なので、とりあえず家に帰りましょう。ここの場所は覚えられますね?」
「ええ、もちろん。通いなれた道だし・・・」
「そうか、ってことは偶然通りかかったからじゃなくて、由利子さんが狙われた可能性がありますね。何か心当たりはないですか?」
「心当たりなんてなくても最近物騒なことばかり起こって・・・」
そこまで言うと、由利子は何かを思い出してハッとすると、再度ぎゅっとバッグを胸に抱えた。
「思い当たったわよ。急いで帰りましょ」
由利子はそういうと駆け出した。
「ちょ、先に行かないで下さい。危険なんでしょ!?」
葛西は焦って由利子の後を追った。

 由利子は葛西と共にマンションのエレベーターに飛び込むと、焦って自分の部屋のある4階のボタンを押した。念のためにその上下3階と5階、ついでに6階のボタンも押した。
「いったいどうしたんですか?」
葛西が由利子に尋ねると、彼女は少し震えながら不安そうな顔で言った。
「思い出したのよ。狙われたのは私じゃない。このバッグの中身よ!」
「どういうことです?」
「この中に、美葉から預かったものがあるのよ」
「ええっ? それは重要なことじゃないですか。何で今まで黙ってたんですか? 美葉さん失踪の手がかりになるかもしれないのに」
「単に忘れてたのよ。思い出したくもないものだったんだもん。それより、いい? ドアが開いたら私の部屋まで一気に走るからね!」
由利子が説明する間にエレベーターは4階に止まった。
「いい? 走るわよ! それっ!」
ドアが開くと共に由利子が駆け出した。葛西もその後に続く。
「由利子さん、元気ですね」
「伊達に毎朝ジョギングしていないから」
由利子は走りながら続けた。
「あそこよ。あの角の・・・」
そこまで言うと由利子は言葉を飲み込み、立ち止まった。葛西は由利子にあやうくぶつかりそうになって、立ち止まり言った。
「急に止まらないでくださいよぉ、由利子さん。どうしたんですか?」
葛西の問いに由利子はドアを指差して言った。
「なんか、玄関のドアが開いているような気がするんだけど・・・」
「ええっ?」
そう言われて葛西はドアをよく見た。確かにわずかだがドアに隙間のようなものが見えた。葛西と由利子は用心深くそっと部屋の前まで近づいた。やはり、ドアはかすかに開いていた。
「由利子さん、危険ですからそこでじっとしていてください。僕が先に入って様子を見ます」
そういうと、葛西はドアに近づきドアノブに手を伸ばした。
 

「ええ? じゃあ、父の容態はそんなに・・・」
高柳の父親の容態に関する説明を聞きながら、幸雄は絶句した。
「はい。あらかじめお知らせしていましたが、お父さんは未知のウイルスに感染されています。それもかなり危険なウイルスです。正直言って、今の医学では、一部を除いてウイルス感染に対して特効薬は殆どありません。新感染症ならばなおのことです。それでも私たちは出来るだけのことを試してみましたが、サイトカインストーム・・・免疫系の暴走が始まってしまい一時危篤状態にまで悪化してしまいました。今は小康状態ですが、これからまた悪化の一途をたどる可能性があります」
「そんな・・・」
「もちろん、我々も出来る限りのことはいたします。状況によっては人工呼吸器をつけることになるかもしれませんが・・・」
高柳はそこで一旦言葉を切って、一息ついてから続けた。
「このウイルスは、出血熱の可能性が高いのです。すでに内臓からの出血が見られています。いずれ全身からの出血が始まるかもしれません。そうなった場合は覚悟されてください」
「打つ手はないのですか?」
「我々のカードはあまり多くありません。その中でカードを切っていくのです。ただ、お父さんは延命拒否をされましたので・・・」
「父が? 本当ですか?」
「はい。我々の方も患者を無駄に苦しめるより、苦痛を出来るだけ和らげるような処置にシフトするべきだと思います・・・。ご了承下さい」
「・・・。何で父さんが、そんな・・・。今まで病気らしい病気もしたことがなくて、全然元気だったのに、何で・・・」
幸雄はそこまで言うと再び絶句して下を向いた。
「最初の2日間は特に変化がなかったのですが、3日目に・・・昨日ですね、急に発熱されました。そして今日、私たちがウイルスから何らかの脳障害を起こしたと考える『赤視』・・・周囲が赤く見えるという症状が出て・・・、大変申し上げにくいのですが・・・、病室で暴れられてギルフォード先生が負傷しかかるという事態に陥りました」
「あの父が?・・・まさかそんな・・・」
「病気の症状です。お父さんが悪いわけではありません。・・・まあ、それは、すぐに収まり、ギルフォード先生も負傷しておらず感染は免れました。しかしその後、間髪を置かず免疫系の暴走が起きました。赤視が起きてから急速に病状が悪化しています。もっとも今までの犠牲者の多くは、赤視が起きた時の発作で亡くなっていると思われますが」
「それじゃあ・・・」
「最悪の状況を覚悟しておいたほうがいいでしょう。会わせたいご家族の方がおられたら、出来るだけ早く呼んだ方が良い」
「妻と娘は明日の朝飛行機でこちらに向かいます。間に合うでしょうか・・・?」
「申し訳ありませんが、我々には何とも・・・」
高柳は目を伏せながら言った。幸雄は終始うつむき加減だったが、その姿勢のまま絞り出すような声で高柳に言った。
「すみません。しばらく一人にしておいて下さいませんか?」
「判りました・・・」
そう答えると、高柳はそっと椅子から立ち上がり、幸雄を残して応接室を出て行った。
「父さん・・・何でだよ・・・・・」
幸雄はそうつぶやくと、うつむいたまま肩を震わせた。
 

 葛西は安全のため由利子を壁際に背を向けて立たせると、自分は由利子の部屋の玄関扉をそっと開け、中の様子を伺った。特に人の気配はない。ドアの鍵は、無理やりこじ開けられたようで完全に壊されていた。葛西は由利子の顔を見ながら自分を指差し継いで玄関の中を指差した。由利子は頷いた。
(アレク、緊急事態です。申し訳ないけど部屋に入りますよ)
葛西はギルフォードに釘を刺されていたのを忘れていなかったので、一応心の中で許しを得てそっと部屋に入った。やはり人の気配はないようだ。ついで玄関の灯を点け改めて周囲を見回す。そのままそっとキッチンに入ってそこの灯も点け様子を見る。すると、確かに何者かがあちこち物色したような痕跡があった。キッチンから繋がる由利子の部屋のドアも半開きのままになっており、荒らされた室内が垣間見えた。葛西は玄関に戻り玄関ドアから顔を出すと由利子を手招きして小声で言った。
「ざっと様子を見ましたが、今のところ人の気配はなさそうですので、とりあえずそっと入って下さい」
「部屋の様子は?」
と、やはり小声で由利子。
「荒らされてます」
「うそっ!? じゃあ、ね...猫たちは!?」
「いや、そこまでは・・・」
「ごめん! ちょっとどいて!」
葛西が言うのが終わらないうちに、由利子は葛西を押しのけて部屋に飛び込んだ。
「ああ、ちょっと待って。まだ犯人が居ないとは断言できないのに・・・」
葛西は焦って止めたが、由利子の耳には入らなかったらしい。
「にゃにゃ子! はるさめ!」
由利子は荒らされた部屋を尻目に、必死で愛猫たちを探した。由利子の脳裏には、美葉のところでの出来事が浮かんでいた。まさか、うちの子たちもあんな風に・・・? 由利子はデジャヴュを感じながら、おそるおそるバスルームのドアノブに手をかけた。それから意を決してドアを開いた。しかし、特に異常はない。すると、隣のトイレからにゃあという声がした。
「いた!」
由利子は急いでトイレのドアを開けた。トイレの中に猫用のベッドが入っていて、それに二匹が寝ぼけ顔で座っていた。いままで眠っていたらしい。彼女らは、由利子の顔を見ると声をそろえて「ニャー」と鳴いた。急いで二匹を出して怪我がないか確かめる。特にケガはないようだった。由利子はほっとして二匹を抱きしめ床に座り込んだ。
「無事でしたか?」
葛西がその様子を見ながら問うた。
「ええ」由利子は答えた。「・・・おそらく侵入者の一人は美葉よ。この子達、美葉にすごく懐いていたもの。美葉がこの子らを守ってくれたのよ」
「なるほど。じゃあ、結城も一緒にいた可能性が高いということですね」
「部屋の荒らされ方からして多分そうね。急いで110番しないと・・・」
由利子が言うと、葛西が少し得意そうな顔をして言った。
「美葉さん失踪事件との関連性が高そうだったので、本部の方にさっき連絡しました」
「いつ?」
「猫を探している時」
「早っ!」
「もうすぐ捜査員が来ると思います。ところで念のためにお聞きしますが、この部屋は侵入者に荒らされてこうなったんであって、もともとそうではなかったんですよね」
「失礼やね!」
由利子はそう言うやいなや、葛西の背中をばんと叩いた。
「いたた、冗談ですってば」
葛西は口の割りに嬉しそうに言ったが、すぐに真面目な顔をして尋ねた。
「で、狙われたという、美葉さんから預かったものって?」
「あ、また忘れるところだったわ。これよ」
由利子はバッグから統計計算ソフトを出した。
 

 夕食後、良夫が部屋で宿題をしていると、すぐ横に置いている携帯電話がブブブ、ブブブと震えた。振動音とはいえ、机の上に置いているとけっこうな音がして、計算に集中していた良夫はびくっとした。しかし、着信の相手がわかって急いで電話を取った。
「ヨシオ君? ギルフォードです。遅くなってゴメンナサイね」
「先生! 留守電聞いてくれたんですね!」
良夫は嬉々として言った。
「はい、もちろんです」
ギルフォードは答えた。
 今日はあまりにも色々ありすぎたので、すっかり携帯電話のチェックを忘れていたギルフォードがようやく電話を手にしたのは、由利子たちが去ってしばらく経った8時もとっくに過ぎた頃だった。研究室の方には、緊急時の連絡先としてセンターの電話番号を教えていた。こっちの方には連絡が無かったので、特に何もなかったのだろう。携帯電話の方には、紗弥から無事に会えたというメールと、留守録として、如月からの定期連絡と佐々木良夫からの伝言が入っていた。研究室の方は特に問題ないらしい。ただ、明日は必ず研究室に出てきて欲しいとしっかりと釘をさされた。そんな訳でギルフォードは、まず緊急性の高そうな良夫の方に電話を入れたのである。
 良夫は、ギルフォードからの連絡があまりに遅かったので、不安になって尋ねた。
「ひょっとして、また何かあったんですか?」
「ええまあ」
ギルフォードは言葉を濁していった。
「詳細はお伝えできませんが、色々と。で、まだ出先なんですけどね」
「出先って、例の病院ですか?」
「まあ、そうです」
「まさか、西原君たちに何か・・・?」
「いえ、彼らは大丈夫です。おそらく予定通りに退院できるでしょう。安心してください。それで、ヨシオ君。新事実っていうのは何ですか?」
ギルフォードは続けて訊いた。
「はい。今日、例の事件に関わった友人達と話してたんですが・・・」
良夫は、自分達三人が別々に同じ女から事件のことを聞かれたこと、勝太が彼女に対してある程度応対したことについて、そしてもうひとつ、勝太が雅之の事故の時に出会った女医についての二つの用件を伝えた。
「事件を調べているらしい女性ですが・・・」
ギルフォードが憂鬱そうな声で言った。
「それについては心当たりがあります。公安の長沼間さんの悪い予感が当たりました。実は、ミチヨ・・・マサユキ君のお母さんの事件の時、公園のトイレに潜んで一部始終を見ていたらしい女性がいたのです。君達が現場を去った後に見つかったので、君たちは知らないでしょうけど、その女性は君たちの顔を知っているはずです。それで君らに接触を試みたのでしょう」
「ええっ!? それじゃ大変じゃないですか」
「そうです。しかも、彼女はその現場を写真に撮っていました。公安の人が気がついて、データを全て消去したハズですが・・・」
「何なんですか、その女は!? ひょっとしてマスコミ関係の人なんじゃ・・・」
「わかりませんが、その可能性は高いですね。一般の人にそこまで事件に執着したり取材に集中したりすることは難しいと思いますし」
「それって、まずいですよね」
「マズイです。それもかなりマズイです。もし妙な記事でも書かれたら不要なパニックを招きかねません。それについては僕がしかるべきところに連絡しておきます。しかしそれ以上に、謎の女医が気になりますね。明らかにウイルスについて何か知っている様子ですし。ひょっとしたらそっちのほうが最重要事項かもしれません。ショウタ君には早く言って欲しかったですね。・・・まあ、それについて彼を責めるのは酷でしょうけど。目の前で友人を失った直後でしたから」
「だからボクも彼を責めることは出来なかったんです。でも、これは一刻も早く伝えたほうがいいって思ったから、先生に電話したんです」
「賢明です、ヨシオ君。今日はわざわざ電話をくれてどうもありがとう。また何かあったら電話してください」
「はい。お役に立てて嬉しいです」
「でも、くれぐれも危険なことに首を突っ込まないようにしてくださいね。君に万一のことがあったら、僕は君のご両親に顔向けが出来ませんから。それから緊急時には、まず警察の方に電話するんですよ」
「はい、判りました」
「では、これで失礼しますね。いいですか、くれぐれも気をつけるんですよ」
ギルフォードは再三良夫に注意をすると、ようやく電話を切った。それでも良夫としては、話し足らなかったような気がした。良夫は軽くため息をつくと宿題に戻ったが、どうもさっきまでの集中力がどこかに行ってしまったようで、勉強に身が入らない。良夫は今度は深くため息をついて、気分転換にコーヒーでも飲もうとキッチンに向かった。
 

「この統計計算ソフトが狙われたんですか?」
葛西はそれを見ながら不思議そうに言った。由利子はあきれて言った。
「馬鹿ね、偽装よ。計算ソフトはパッケージだけ。中身は違うの。判る?」
そういいながらパッケージを開いた由利子は、ぎょっとした。結城はご丁寧に中のCDまで偽装を凝らせていたのである。すなわち、裏DVD仕様である。ヒロインの女刑事がニーハイの黒皮のブーツと同じく黒皮のロンググローブのボンテージスタイルであちこちに武器を装着しながら、体部分はすっぽんぽんという刺激的な井出達でポーズを取っている写真がプリントされていた。そのことをすっかり忘れていた由利子は、取り出したCD-Rを手に持ったまま一瞬固まってしまった。その後焦ってそれを裏に向け裏のままパッケージに戻した。
「あのっ、えっと、由利子さん」
葛西が真っ赤になりながら言った。
「それじゃあ、たしかに偽装しないと持って歩けませんよね」
「バ、バカッ! 人聞きの悪いこと言わないでよっ! もともとこういう裏DVD風にパッケージごと偽装されてたの。だから、統計計算ソフトケースに入れ替えてたの。でも、CD本体のプリントまではどうしようもなかったのよ!!」
由利子は葛西以上に赤くなりながら一気にまくし立てた。葛西はその剣幕に驚いたが、それ以上にCDの中身の方に興味が湧いた。
「ということは、何かテロに関する重要な機密みたいなのが入っているかも知れないってことですよね」
「そういう可能性が高いわね」
由利子はまだ赤い顔をしながら言った。葛西は今居るキッチンから由利子の部屋を一瞥して言った。
「あまりこの状況を乱さないほうがいいことはいいのですが、このCDの中身を確認できますか?」
「パソコンなら部屋にあるけど・・・」
「捜査員が来るまで、内容を見ておきましょう」
「いいけど、この状態の部屋に人を入れたくないなあ」
「これから嫌と言うほど入ってきますから」
「もう美葉の時に知っているわ」
由利子はため息をつきながら言った。
「しかたないわね。じゃあこっち来て。あ、その前に猫達をケージに入れなきゃあ。知らない人が来ると怖がっちゃうからね。葛西君、1匹つれてきてくれる?」
そう言いながら、由利子は何の気なしに葛西ににゃにゃ子を抱かせようとした。すると、意外にも葛西が引いてしまった。
「あの、僕、動物を飼ったことがないんで、どうやって扱っていいのやら・・・」
「え?そうなの? アレクは動物関連は全然平気なのに」
「あの人はライオンでもゾウでもいけそうじゃないですか」
「流石に猛獣の類は無理だと思うけど・・・。そうね、そのまま抱っこしてつれてきたらいいの。ついて来て」
「はあ・・・」
葛西は気のない返事をしながら由利子の言うとおりにした。
「うわ。この子、しがみついてきますよ」
葛西が困ったような声で言った。振り返った由利子は笑いながら言った。
「葛西君がおっかなびっくりで抱きしめてるからよ。でも案外似合ってるわよ、猫を抱っこした姿」
「そうですかぁ?」
由利子に言われて葛西はまんざらでもない気になったらしい。
「ねこちゃん、可愛いでちゅね~。僕がジュンちゃんパパでちゅよ~」
(バカ・・・)
いきなり幼児語で猫に話しかけ始めた葛西を横目で見ながらあきれつつ、部屋の中を改めて見回してげっそりした。部屋の中は外から見た以上に荒らされていた。由利子はもう一度深いため息をついた。
(これを片付けなきゃいけないのよね・・・)
それでも、落ち込んでいるわけには行かない。由利子は猫達を部屋の隅に置いてあるケージに入れると、葛西と共にパソコンのある机に向かった。そして椅子に座り、パソコンの電源を入れ起動させた。葛西はその横に立ってそれを見ていた。
「あれ?」
内容をチェックしていた由利子が首をかしげて言った。
「Dドライブの中が空になってる」
「ええ?」
「うそっ。Dドライブだけじゃない! 画像データとエクセルデータが全部消されてる!!」
「ホントだ」
葛西も画面を見て同意する。
「どういうことよ? 侵入者が消して行ったってこと?」
「それ以外考えられないでしょう」
「ひど・・・」
由利子は頭を抱えた。
「データはオシャカですか? バックアップは?」
葛西が質問すると由利子は頭を抱えたままで言った。
「重要なデータはプロバイダのレンタルHDに入れているし、パスワードの類も全て記憶させないようにしていたから大丈夫だけど、それでも相当なデータが消えたと思う。だってこんな事態なんて想定していなかったし・・・」
「CDの内容がコピーされてないか確認したうえで、念のためそれらしいデータを全部消していったってことですか?」
「そうのようね。ってことはこのCD-Rの中身は画像とエクセルデータか」
由利子は苦々しい表情で言うと、急に立ち上がって言った。
「他のデータ類は?」
そのまま横の本棚のディスク置き場に目を走らせた。棚の中の物は本からCD・DVDから物色された後があり、データの入っていそうなディスクは全部ケースごと割られて床に投げ捨てられていた。
「あああ・・・」
由利子は座り込んだ。
「私、今なら極美さんとかいう人の気持ちがよくわかるわ」
「って、あの、長沼間さんに写真データを全部消された?」
由利子はそれに答えずに思い切り眉間に深い皺を寄せ、低い声で吐き捨てるように言った。
「結城のヤロー、もし出会ったら殺してやるっ」
「由利子さん、気持ちは判りますが、それは犯罪ですから」
「判ってるわよ。そういう気持ちになっただけよ」
由利子がそう言った時、玄関のチャイムが鳴った。
「あなたのお仲間が来たようやね」
由利子は立ち上がると、急いで玄関に向かった。葛西もその後に続く。
「警察です。篠原さん、いらっしゃいますか」
インターフォンから声がした。由利子は映像を確認した。外には大量の警官達が立っていた。
「は~い、今開けます」
由利子は急いでドアを開けた。とはいえ鍵が壊されているのでわざわざ開けることもなかったのだが。
 ドアを開けると、先頭に例の富田林と増岡のコンビが立ち、後ろに鑑識の警官達がずらりと並んでいた。
「あ、ふっ○い君」
由利子は富田林の顔を見て、つい口を滑らせた。その瞬間増岡と後ろの警官達、葛西までもがいっせいに下を向いた。由利子は焦って口を押さえ、言い直した。
「富田林(とんだばやし)さんと増岡さんでしたわね」
「同じ日にまたお伺いするとは思ってもいませんでしたよ。大変な日ですね、篠原さん」
幸いと言うか、当の富田林だけが今現在の状況を把握せずに言った。継いで隣の増岡が何か言おうと口を開いたが、「ぶはっ、ごほっごほっ」
と噴出しそうになって慌てて咳で誤魔化した。ふっ○いくんの衝撃は思いの外強かったらしい。
「大丈夫ですか?」
葛西が近寄って言った。
「えっと?」
富田林が葛西を見て不審な顔をして言った。
「あ、失礼しました。僕が連絡をいれたんです。K署の葛西です」
葛西は警察手帳を見せて言った。
「えっと、K署の刑事さんがなんでここに?」
「篠原さんと知り合いなもので。今日、頼まれてたまたまうちまでお送りしていたら、このような事件が起こってしまいまして・・・」
お決まりの質問にお決まりの返事をした後、葛西は何故ここにいるかを説明した。富田林はかるくウンウンと頷いた。
「とにかく、証拠が新しいうちに調べさせてください。犯人の手がかりが残っているかもしれません」
「ええ、よろしくお願いします」
由利子が答えると、富田林はすぐに鑑識の警官達に中に入るように告げた。由利子の狭い部屋は、たちまち警官だらけになった。由利子はささやかな城を無粋な警官達に占拠され、腕組みをしながらため息をついた。幸い女性捜査員がけっこう居るのが救いだった。その時、由利子を呼ぶ声がした。富田林だった。由利子が振り向くと彼は手招きをした。首を傾げつつ近づいていくと、富田林は小声で両手を合わせながら言った。
「昼間、お伺いした時に猫とちょこっとだけ遊んだこと、内緒にしてくれませんか?」
「ええ、いいですよ。ご安心下さい、っていうか、そんなこと忘れていましたし」
由利子は(やっぱりあれ、まずかったっちゃね)と思いながら答えた。

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3.侵蝕Ⅲ (9)刈り取る者

「それで、帰る前に二人の引ったくりに遭ったんですね」
 富田林(とんだばやし)は由利子と葛西から状況を聞きながら念を押した。由利子は自分の机にもどり、富田林から調書を取られていた。
「ええ。それで何が狙われていたのかが判ったんです。で、急いでうちに帰ったら部屋の中がこんなことになっていて・・・」
「その引ったくり犯の一人と、この部屋の侵入者は同一人物と思いますか?」
「判りません。それに引ったくりの顔は二人とも覚えていますが、私は結城の方の顔を知りませんので」
「それは、こちらで入手しています」
 富田林はポケットから写真を出して由利子に見せた。由利子は初めて見る結城という男の顔をまじまじと見た。それは会社のオフィスで何人か一緒に撮られたスナップ写真を拡大したもののようで、結城は穏やかな笑顔で写っていた。若干髭が目立つが端正な顔をしており、少しクセのある髪をきちんとセットしていた。その写真からは粗暴さなど微塵も感じられない、かなりインテリな男のように思えた。今彼が起こしている数々の事件と写真のイメージがどうも一致しない。
「どうかされましたか」
 写真を見た瞬間黙り込んだ由利子を見て、富田林が声をかけた。
「いえ、親友の元カレの顔を今始めて見るなんてのも変だなって思って・・・。引ったくり犯とこの男が別人なのは間違いないです。でも、仲間かどうかは・・・」
「間違いないときましたか」
 富田林はふっと笑って言った。
「よくいるんですよね。絶対に顔は覚えたと自信満々だったのに、いざと言う時全くあてにならないことが。本当に大丈夫なんですか?」
「ええ。私は人の顔は名前も含めて忘れません」
 由利子もふっと笑って言い返した。
「もし、こいつや引ったくり犯達がいたら、たとえ人ごみの中でも見つけてやります。あなただって、これから何十年か経って多少容貌が変わったとしても、道ですれ違うことがあったら、声をかけてさしあげますよ」
 葛西もフォローする。
「篠原さんの特技なんです。最初署で会った時、僕も不審に思って試してみたんですが、僕の引っ掛けにまったくかかりませんでした」
(あれに引っかかるやつなんであまり居ないと思うけどな~)
 由利子は思ったが、せっかくのフォローなので黙っていた。
「で、それが狙われたというCDなんですね」
 富田林は、由利子が机の上においているCD-Rに目をやって訊いた。
「そうです。これを見てみようと思ってパソコンを立ち上げていたところでした。今から見ようと思いますが、いいですか?」
「いいでしょう。確認せずにもって帰って、裏ビデオとかだったら洒落になりませんからな」
 富田林はわははと笑いながら言った。もちろん彼は冗談で言ったのだが、由利子と葛西は微妙な顔をして笑わなかった。
「富田林さん」
 由利子は複雑な表情で言い、ケースからCD-Rを取り出して見せた。
「これは中身がこーんなプリントなんですが、裏DVDじゃないですから」
「おおっ!」
 富田林が驚きの声を上げたが、若干表情が嬉しそうだったのを由利子は見逃さなかった。
(ったく、刑事とはいえ、やっぱ男やね)
 そう思いつつ、由利子はさっさとCD-Rをパソコンのディスクトレイに入れた。
(とかいって、ほんとにエロ動画が出てきたらどうしよう)
 一抹の不安を感じながら、由利子はパソコン画面に向かった。ディスクが高速で回転する音が聞こえ、まもなくEドライブのウインドウが開き、中にフォルダが二つ示された。その時、葛西の携帯電話に着信が入ったらしい。葛西は急いでポケットから電話を取り出した。
「あ、アレクからです」
 葛西は由利子にそう伝えながら電話に出た。
「はい、葛西です」
「ジュン、どうしたのですか? 9時過ぎたのに連絡が無いので心配してるんですけど、無事にお送りしましたか?」
「いや、それが、無事と言えば無事だったんですが・・・」
 葛西は、帰り道から今までの出来事を簡単に説明した。
「では、君はまだユリコのところに居るんですね。そうですか・・・。まあ、非常事態ですから仕方ないでしょう」
「アレクはまだ病院に?」
「いえ、今研究室に戻ったところです。何故か、サヤさんと彼氏が居るのが釈然としないんですが・・・」
 ギルフォードは足早で教授室に入り、そこで仲良くお茶を飲んでいる二人を見つけて言った。
「アレクの帰りを待ってたんですか?」
「そのようです。程よく酔っておられますから、放っておいても良さそうです。で、今、ユリコがそのCD-Rを見ようとしてるんですね。じゃあ、今からちょっとかけ直します」
 ギルフォードはそういうなり電話を切った。
「由利子さん、アレクが折り返し電話するそうです。研究室に帰っているそうですよ。で、紗弥さんと彼氏も居るらしいですが」
「へえ? 変なの! あ、かかって来た。・・・はい、由利子です」
「オツカレサマです。しかし、次から次へと大変ですね」
「好きでトラブってんじゃないんですけどね」
 由利子は少しむっとして言った。
「いや、失礼。で、CD-Rの中身はわかりましたか?」
「今から開くところです」
 由利子の電話での受け答えを聞きながら、富田林が尋ねた。
「どなたからの電話なんです?」
「ギルフォード教授です。Q大の」
「へえ、大学教授のお知り合いがいるんですかぁ」
 富田林は感心して由利子と葛西を見た。由利子は電話を片耳に当て、右手でマウスをせわしなく動かしながらギルフォードに説明した。
「フォルダは二つです。ひとつはエクセル、もうひとつは・・・え~っと画像データが入ってるみたいです。まあ、予測どおりですね。でも各フォルダにはデータがひとつづつですね。わざわざフォルダ分けすることもなさそうですが」
「他にもデータを入れるつもりだったのかもしれませんね。それが何らかの理由で出来なかったとか」
「なるほど。ありえますね」
 由利子はなるほどと同意して言った。
「とりあえず、何が入っているか楽しみですね。早く開いてください」
 ギルフォードは自分の席に着き、足を組みながら言った。紗弥が立ち上がって紅茶を入れる準備を始めた。どうやら新しいポットを買ってもらえたらしい。紗弥の彼氏も立ち上がったが、彼はまっすぐにギルフォードの方に向かった。彼はアフリカ系アメリカ人で、年の頃は30代半ば、ギルフォードより若干背が低く、かなりスレンダーな体格で少年のようにも見えた。彼の姿を正面から見た瞬間、ギルフォードの表情が一瞬明るくなったが、それはすぐに消えていつものアルカイックスマイルに戻った。男は親しげに笑って言った。
”ハイ! アレックス.久々に会ったのにずいぶんとつれないじゃないか? それって緊急な用件なのかい?”
「すみませんね、ジュリー。説明は後でしますから、今のところ僕の会話から推理してください。それから、電話向こうの人たちは英語が不得手なので、日本語でお願いします」
「わかっただなも。そうしよまい」
「・・・なんで名古屋弁なんでしょうねえ、この人は・・・」
「名古屋で育ったんだで、仕方あーせんよ」
 由利子は電話口から妙な声が聞こえるので、不審そうに訊いた。
「アレクぅ? なんとなくみゃあみゃあって声が聞こえるんですけど」
「ああ、招かれざる客です」
「招かれざる客はにゃーがね。ジュリアス・キングだなも。ジュリーって呼んでちょーよ」
 ジュリアスはギルフォードの顔に自分の顔を近づけ、彼の携帯電話に向かって言った。
(こんどは名古屋弁の外人? また変なのが現れたよ)
 由利子は思ったが、とりあえず無視してCD-Rのデータを開くことにした。
「じゃあ、まず、フォルダ『w-h-o-’(アポストロフィ)-s』・・・『who's(フーズ)』に入っているエクセルの方を開きます。ファイル名は『名簿』です」
「めいぼ?」
「はい。えっと、・・・そうそう、名前のリストです」
「あ、わかりました。名簿ですね」
「では開きます。・・・う~ん、なんだかけっこう勇気が要りますねえ」
 由利子は緊張した顔で言いながら、フォルダ名をクリックした。エクセルが開きファイル名どおり名簿らしきものが現れた。
「開きました。写真と・・・あっ、文字が化けていて判読できません!!」
「暗号化されているのかもしれませんね。そこらへんは警察の方で解読してもらえるでしょう」
「暗号化・・・ですか。富田林さん、警察の方で解読できるだろうって言ってますが・・・」
「いや、僕の管轄外だからなんともいえませんが、なんとかなるんではないですかね。多少時間はかかるかもしれませんが。しかし、見事な文字化けですねえ」
 富田林は妙に感心して言った。画面をスクロールして見ると、四人の男の情報が載っている。富田林と葛西も横から画面を覗き込んだ。
「知らない顔ばかりだなあ」
 富田林が言った。
「有名政治家あたりが出てくるかと期待したのに」
 と、ちょっと不満そうだ。由利子はう~んとうなりながら言った。
「そうですね。それに、四人分ってのも少ないですし」
「それより問題は、それが何の名簿かということですよ」
 と、横から葛西が言った。
「やはり、お仲間関係かな?」
 と、由利子。
「そうですね。ユウキは仲間からも追われているらしいですから、いざと言う時の保険としてミハに預けていたのかもしれません」
「それを、どうして今取り返そうとしてるんでしょうね」
「のっぴきならない状況に追い込まれているんでしょう。孤立無援と言うのは辛いものですから、ミハを誘拐したのも案外そういう単純な理由かもしれません。逃げるなら一人の方が身軽でしょうに」
「でも、いざと言うときに人質に使えるじゃない」
 由利子は不安げに言った。彼女はそれがずっと気になっていたのだ。
「そうですね。その可能性もあるでしょう。ところで、電話では画面が見えないので説明してくれませんか?」
「わかりました」
 由利子はそう言いつつ、ふと周りを見回した。富田林はもう興味を無くしたのか、増岡が鑑識の一人と話しているのを見ていた。葛西は画面より由利子とギルフォードの会話の方が気になるようだった。
「男性四人のデータがあります。年齢は30代くらいから60代までまちまちですね」
「なるほど。男性という以外共通性はあまりないようですね」
「アレックス、すまにゃーけど、向こうがゆーたことを教えてくれーせんか」
 横でジュリアスがもどかしそうに言った。
「事件についてはちょびっとだけど聞いておるのだもんで、おれにもなにかわかるかも知れにゃーだろう」
”ああ,うるせぇ.わかったから耳元でみゃあみゃあ言うんじゃねえ”
ギルフォードは、電話の通話口を塞いでぞんざいに言った。
”そっちのほうが君らしいよ”
 ジュリアスはクスッと笑いながら言った。
「アレク、聞いてる?」
 受話口から由利子の少しイラついた声が聞こえた。ギルフォードは焦って通話口から手を外した。
「すみません。外野がちょっとうるさいもんで。続けてください」
「はい。どれも特に特徴のない顔ぶれですね・・・。っていうか、みんななんか共通した雰囲気がありますね」
「同じような思想をしているからかもしれませんね」
「テロリストの幹部だったりして」
「なるほど、それなら双方が奪取したがるでしょうね」
「じゃあ、引ったくりの方は結城を追う側かもしれないと・・・」
 由利子はゾッとして言った。
「葛西君が一緒でよかったわ」
「え? あいつらがテロリストの一味の可能性が? それにしてもしょぼかったというか、ただのチンピラでしたよね」
「葛西君がチンピラだったと言ってます。私もそう思います」
「世の中には金さえもらえれば何でもするヤツはいますからねえ」
 と、横から富田林が言った。どうやらこちらに興味が戻ったらしい。
「そうですね。そういう類の輩でしょう」
 ギルフォードが同意して言った。富田林の声がでかいので聞こえたらしい。
「とりあえず顔は覚えましたから、次にいきましょう。えっとこっちのフォルダ名は『t-h-a-n-a-t-o-s』・・・? え? 何? ざんあとす・・・?」
「thanatos(タナトス)ですね。ギリシャ神話の死の神の名前です。フロイト派心理学では、攻撃や自己破壊に傾向する死の欲動を意味する用語として使われていたようですが」
「なるほど。意味深なフォルダ名ですね。・・・あれ、これGIFイメージのくせに、ちょっとしたアプリケーション並みにデータがでかいわね・・・。ファイル名は『t-h-e  r-e-a-p-e-r』」
「The Reaper(ザ・リーパー)・・・収穫者・・・刈り取る者・・・死神ですか・・・。タナトスに対してこれまた意味深ですね。それに、GIFでデータがアプリケーション並ですか」
「クリックします」
 由利子はそういいながら、ファイル名をクリックした。ビューアが開いて若い男の姿が現れた。
「開きました。若い・・・と言っても30代くらい・・・かなりイケメンですね・・・。え? 何? この人? 20代にも、ううん、ずいぶんと歳をとった人のようにも見えるわ!」
”まずいぞ、アレックス!!”ギルフォードの説明を聞いていたジュリアスが急に真剣な顔で言い、電話に向かって大声で叫んだ。
「それ、開くのちょこっと待ってちょーよ」
「もう開いているようですよ」
 ギルフォードは、ジュリアスが居るほうの耳を塞ぎながら言った。
「なんと、遅かったかねー」
「ユリコ、ジュリーがそのファイルを開くなって騒いでますが、異常はないですか」
 しかし、電話の向こうからは、由利子のパニックに陥った声が聞こえてきた。
「うそっ、何? これ?」
「ユリコ、ユリコ! 何が起こっているんですか? ジュン! ユリコをサポートしてください! 聞こえますか、ジュン!!」
 珍しく焦りながら大声で電話をかけるギルフォードに驚いて、ミルクに紅茶を注いでいた紗弥がゆっくり振り返った。 

 由利子は電話を握りしめたまま、パソコン画面を前に硬直していた。葛西と富田林も声もなく画面に見入っていた。富田林に至っては、口をぽかんと開けてすらいた。ビューアに出現した謎の男の画像が、いきなり映画「リング」に出てきた写真のように不気味に歪みはじめたのだ。
「ユリコ! どうしました? 返事をしてください!!」
 ギルフォードは、声のしなくなった電話の向こうに呼びかけた。ジュリアスは応接セットのテーブルに置いたままにしていたコーヒーを持って来ながら言った。
「アレックス、彼女にネットとの接続を切るようにゆーてちょーよ」
「ユリコ! ネットから接続を切ってください。ジュン! そこにいますか? ジュン!!」
「何があったんですの?」
 紗弥がジュリアスに尋ねた。
「由利子さんが開いたCD-Rに、不正プログラムが入っとるみてゃーだわ」
「あらまあ・・・」
 紗弥は言ったが、どうしようもないのでそのままミルクティーを作る作業を再開した。
 葛西は、由利子の電話から自分を呼ぶ声がしたので、急いで由利子の電話に手を伸ばした。
「由利ちゃんごめん、ちょっとケイタイ貸して」
 そういうと、葛西は由利子の手から携帯電話を取り電話に出た。
「葛西です!!」
「ジュン! 急いでネットとの接続を切ってください」
 葛西はそれを聞いてすぐ、はっとその意味に気付いて由利子に言った。
「由利ちゃん、急いでネットの接続を切って」
「え? え?」
 しかし、すっかりテンパってしまった由利子は、葛西の言っている意味がピンときていないようだった。
「ごめん!!」
 葛西は意を決して手を伸ばしモジュラージャックをつまむと、パソコン本体からケーブルを引き抜いた。
「とりあえず、切りました!」
「様子はどうですか?」
 ギルフォードに言われて葛西は慌ててモニター画面を見た。
「どうかしたんですか?」
 と、増岡が異変に気がついて走ってきた。既に謎の男の画像は完全に歪み、次いでパソコン画面の中央に吸い込まれるように消ていった。と、同時にモニター画面が不吉なブルースクリーンになって左上端から白い文字で「Thanatos」という文字がズラズラと高速で流れ始めた。
「男の画像が消えて、ブルースクリーンに”Thanatos”という文字が次々と出て来て画面を埋めています」
「画像が消えて、青い画面に文字がどんどん出ているらしいですよ」
 ギルフォードはジュリアスに説明した。ジュリアスは額に手を当てていった。
「そりゃあまずいがね。電源を落とした方がええて」
「ジュン! 強制終了して下さい」
 ギルフォードはすぐにジュリアスのアドバイスを伝えた。ジュリアスはその様子を見ながら手に持ったコーヒーを一口すすって言った。
「まあ、もうおせーかもしれにゃーもんだで、いっそどうなるかあんばいを見るって言うのはどうかねー」
「馬鹿言わないでください」
 ギルフォードは言った。
「後でユリコから殺されますよ」
 パソコンの画面は相変わらずブルーでそれを白い「Thanatos」という文字が埋め続けていた。それは画面いっぱいに広がると、ざあっと中央付近に集まって、白いシルエットとなった。少年の全身像のように見えるそれは、にやりと笑うと、さあっと砂の柱のように崩れた。ジャ~ンと荘厳な音楽が流れ、画面が真っ黒になった。その黒い画面にこんどは赤い文字が現れた。

The Reaper is here.
Unfortunately, your computer has just passed away now.
My deepest condolences.

「何なに?」増岡が画面の覗き込んで言った。「『死神参上。残念ながら、たった今あなたのコンピュータはお亡くなりになりました。ご愁傷様』……だそうですよ」
「システム・クラッシャーですか・・・。これはもう、強制終了しても意味ないかも・・・」
 と、同じく画面を覗き込みながら葛西が言った。
「悪い冗談やね・・・」
 由利子は机に両肘をつき両手で顔を覆いながら力なく言った。その直後文字がはらはらと下に落ち、「キュゥ~ン」と嫌な音をさせて電源が切れた。
「アレク、その必要はなくなりました」
 葛西は、ギルフォードに告げた。
「え?」
「勝手に電源が落ちました」
「勝手に電源が落ちた?」
 ギルフォードは鸚鵡返しに聞いた。
「お悔やみ申し上げますだなも」
 ジュリアスはそういうとまたコーヒーをすすった。

 由利子たちは、パソコンから取り出したCD-Rを囲んでいた。
「このCD-R自体にウイルスらしきものが仕掛けられていたんですね」
 葛西が言った。
「ジュリーさんの機転ですぐにネットとの接続を切ったので、もしウイルスだったとしても拡散は防げたと思いますが、このパソコンはリカバリしないとだめでしょうね」
「どうして? 私のウイルス対策は万全だったはずよ。常に最新の状態にしていたもの。それなのに・・・」
「人間のウイルスでも新種に対しては、免疫もワクチンもありませんから簡単に感染します。それと同じですよ」
「じゃあ、このコンピューターウイルスも新種ってこと?」
「多分そうです。ウイルス対策ソフトの会社にデータがなければブロックの仕様がないでしょ?」
「連中はコンピューターウイルスまで作ってるっていうの?」
「葛西さん」
 増岡が横から口を出した。
「これは、ウイルスというより、データ流出を阻止するためのプログラムじゃないでしょうか。迂闊に開くとシステムが破壊され、CD-R自体のデータも破壊されるという。エクセルデータの文字化けもそのせいでは・・・」
「え? CD-Rまでが壊れてしまったと?」
 葛西が驚いて言った。
「いずれにしても、リカバリ後にもう一度見て確認しようって気にはならないな。心臓に悪いもん」
 由利子がため息をついて言った。
「こんなもの見なきゃ良かった。リカバリなんて1日仕事だわ」
「OSも古いし、買い替えたほうが早いんじゃないですか?」
 増岡が言った。由利子は、ジロリと彼の方を見て言った。
「公務員さんはお金持ちね。今、失業者にPC買い替えはキツイわ」
「最近は中古でもいいのが売ってますよ」
「どうせ買うなら新品を買うわよ!」
「まあ、落ち着いて」
 脳天気な増岡に由利子が切れ掛かったのを見て、富田林が急いで口を挟む。
「このCDは、うちのサイバー犯罪対策本部の専門家に解析してもらうしかないでしょう」
「そうですね」
 葛西が同意すると、由利子が含み笑いをしながら言った。
「結城ってヤツも、こんな不正プログラム付きのディスクを掴まされるなんて間抜けよね」
「結城本人が仕掛けたのではないと?」
 葛西は意外という顔をして聞き返した。
「多分ね。簡単に開けないようでは切り札の意味がないし、第一、それを知っていたらわざわざ人のパソコンを開いてデータの確認なんかしないでしょ。お互いに信用してなかったって感じね」
「そうか、そうですよね」
「ところで葛西君」
 由利子は改めて葛西の方を向いて言った。
「あなた、さっきどさくさに紛れて二回も『由利ちゃん』って言ったわよね」
「え? そ、そうでしたっけ」
 葛西は(しまった、気がついてたんだ)と思いながら、なんとか誤魔化してこの場を凌ごうとしたその時、葛西の携帯電話にまた着信が入った。
「あ、また電話だ。アレクからかな?」
 渡りに船と、葛西は急いでポケットから電話を出した。
「あ、やっぱりそうですよ。・・・はい、葛西です」
「ジュン、どうなりました?」
「はい。結局警察の方で専門家が調べる以外ないと」
「まあ、それはそうでしょうねぇ」
「そちらはどうですか?」
「ええ、僕は今からサヤさんを送っていきます」
「え? ジュリーさんは?」
「ジュリーは僕のところに泊めますから」
「ああ、そうなんですか」
 葛西は、紗弥さんの彼氏なのに変だなと思ったが、まあ、紗弥さんのお家の事情かなと勝手に納得した。
「で、写真を見たのはユリコと君とあと誰がいるんですか?」
「あ、あと、C署の刑事の富田林という者と・・・増岡・・・、あ、増岡さん、画像は見ました?」
 葛西は念のため増岡に確認した。
「いえ。僕が来た時はもう画像はほぼ判別できない状態でしたから・・・」 
「アレク、見たのは由利子さんと富田林刑事と僕の3人ですね。でも、最後の問題の画像をちゃんと見たのは由利子さんだけみたいです」
「ジュンは写真の顔を覚えていますか?」
「覚えてはいますが、自信がありません。富田林さん、覚えていますか?」
「へ? 何を?」
「CD-Rに記録されていた写真の人物ですよ」
「あ、ああ、それね。実はその後起こったことの衝撃がすごくて、よく覚えとらんっちゃんね」
 富田林は、あはははと空しく笑いながら言った。
”あははじゃねーだろ”
 ギルフォードはついボソリと自国語でつぶやいた。
「あ、すみません、聞こえました? そういうことで・・・」
 葛西は少し困り気味に言った。
「僕はうろ覚えだし、完璧に覚えているのは由利子さんだけみたいですね」
「マズイですね。あの写真の男たちがテロ組織の人間だったとしたら、顔を覚えている人物は彼らにとって脅威となるはずです。しかも、そのうちの一人は人間の顔の判別と記憶に優れたユリコですから」
「確かにかなりまずいです・・・よね」
「しかも、その中にラスボスクラスの最重要人物がいたとしたら・・・」
「あ、問題の画像の人物・・・!」
「もっと悪いことに、それはユリコしか見ていないんですよね」
「うわ、どうしよう・・・」
 葛西は由利子の方を見て戸惑ったように言った。由利子はパソコンの前で机にひじを突きながら、いじけモードで葛西の電話をかける姿を見ていたが、葛西の様子に気がついて言った。
「どうしたの、葛西君?」
 葛西は、今ギルフォードの言ったことを説明した。
「え? 見ちゃった・・・ってこと?」
「そうなりますね」
 葛西は腕組みをしながら眉を寄せて言った。
「とにかく、君らがここでデータを見たということは伏せておいたほうがいい」
 ギルフォードは言った。
「でないと危険ですよ。特にユリコは」
 葛西からそれを聞いた由利子は、頭を抱えて言った。
「うそっ、どうしよう。ちょっと待って・・・」
 由利子はしばらく目を瞑って沈黙した。数分後、ため息をついて言った。
「ああっ・・・、だめ! やっぱり忘れることなんて出来ない!!」
 セリフだけ聞くと三文恋愛小説のようだが、彼女にとっては深刻な事態である。しかし、その後、由利子は少し戸惑ったような表情をした。
「あれ?」
 そう言った後、また1分ほど目を閉じて考えていたが、目を開けるといっそう戸惑ったような眼をして言った。
「なんか変なの・・・! あの画像だけ添付されていた男、そいつの顔のイメージがはっきりしないのよ」
「ええ!?」
 と、ギルフォードと葛西が電話の向こうとこっちで同時に驚いて言った。声が半分裏返っていたので、ギルフォードにも聞こえたらしい。
「おかしいな、こんなこと初めて・・・。どういうこと?」
「覚えられなかったってことですか?」
 葛西が心配そうに尋ねた。
「いえ、覚えていないわけじゃないの。多分本人を見れば判ると思う。でも、イメージが全く固定されなくて説明が上手く出来ないのよ。顔は浮かぶんだけど、特徴を掴もうとするとイメージが急にぼやけるの。例えるなら・・・そうね、夢に出てきた現実にはいない人物の顔を良く思い出せないみたいな・・・。写真を見た時のとりとめの無い印象のせいだわ」
 戸惑いを深くする一方の由利子を気にしながら、葛西はギルフォードにその様子を伝えた。
「一癖も二癖もありそうな人物ですね。とにかくユリコがそいつを直接見ない限り、特定出来ないという事ですから、ますますマズイじゃないですか」
「そういうことになりますね。由利子さん、アレクが心配しているのは・・・」
 葛西は説明した。
「そんな・・・。だいたい、なんで私がこんなことに・・・。あの公園の事件以来、ろくなことが起こらないわ!」
 由利子はそうつぶやくと、ああ、と言いながら机に寄りかかり、そのまま右ひじを突いて掌で額を押さえながら髪をぐしゃっと掴み、眉間に深い皺を寄せ黙り込んでしまった。三人の刑事たちは声をかける勇気もなく黙ってそれを見ていた。
「ジュン、どうしたんですか」
 ギルフォードが様子を掴めずに心配して尋ねたが、葛西は「シッ、静かに」と言うしかなかった。数分の沈黙の後、由利子は地の底から湧くような声で言った。
「くそ~~~っ、結城のヤロー、いっそこの手で絞め殺してやりたい!!」
「お気持ちはよ~くわかりますっ!」
 葛西と富田林と増岡が同時に言った。
 

 その頃、別の場所でまた異変が起きようとしていた。
 あの、珠江を発見した時蟲に咬まれた川崎三郎は、風呂に入ろうとして足の包帯を外したのだが、今朝より発疹がまた少し大きくなり、さらに膿を持っていることに気がついた。しかも、いままで見た目の割りに傷みなど全くなかったのに、少しだけ痛みを感じるようになったのだ。このできものについては、妻にも話していなかった。これが出来た原因のことを考えると、恐ろしくてとても言い出せなかったのである。三郎は毎日少しずつ大きくなっていく発疹に漠然とした不安を感じていたが、その不安が今、ひしひしとリアルに迫ってくるのがわかった。
「あなた、どうされたとですか? 早くお風呂に入ってくださいな」
「あ? ああ、すまん。もうすぐ入るけん」
 三郎はそう答えると立ち上がった。その時、眼の奥に一瞬ズキンと痛みが走った。
「あれ?」
 三郎は驚いたが、痛みはすぐに収まったので特に気にも留めずに入浴の準備に取りかかった。
 

 ギルフォードは、紗弥を送ってようやく自宅にたどり着いた。
「へえ、ここがおみゃーさんの部屋だか?」
 ジュリアスが部屋の中を見回しながら珍しそうに言った。
「いい部屋に住んどるじゃにゃーか。日本の家はウサギ小屋とかよ~言われとったけど、なんの、立派なものだがや」
「まあ、ここら辺は東京なんかに比べるとずいぶん部屋代が安いですからね。そこそこの金額を出せばそれなりのフラット・・・日本ではマンションですが、に住めますから」
「マンションってのも大きく出たもんだて」
「まあ、なかなかいいセンスだと思いますよ。高級感だけはありますからね。名前も凝ってますよ。因みにここの名前は『メゾン・ド・シャルム』ですよ」
「フランス語かー。『魅力の家』って意味だがね。ステキな名前じゃにゃーか」
「本気で言ってるんですか。って、何で僕達二人なのにわざわざ日本語でしゃべってるんでしょうね」
「おれはバイリンガルだて、名古屋弁でも英語でも問題にゃ~けどな」
 ジュリアスはにっと笑って言った。
”君が英語の方がいいって言うんなら,こっちで話すけどね.久しぶりだね,アレックス”
”俺がこの国に来て以来だな.ずっと音沙汰なしだったから嫌われたのかと思ってたぜ”
”音沙汰無しだったのは君の方だろ.心配していたんだぞ”
 二人はそういった後、一瞬黙ってお互いを見たが、すぐにぶはっと笑った。ギルフォードが言った。
”サヤが’カレシ’としか言わないから,てっきり彼女のボーイフレンドかと思ってたよ”
”ちょっとしたサプライズだっただろう? サヤの提案だよ.でも研究室で会った時,君が全く驚かなかったからちょっとガッカリしたけどね”
”驚いたに決まってるだろ? でもあの時は緊急事態だったからね”
”サヤは充分驚いているって言ってたけど,ほんとだったんだ.相変らずややこしいヤツだな、君は”
 ジュリアスはクスクス笑いながら言った。ギルフォードはそんなジュリアスの肩をポンポンと軽く叩きながら言った。
”長旅で疲れただろ,早く風呂に入ってゆっくり寝ろよ”
”ああ、ありがとう.だけど,君も大変だったんだろ.先に入ったらどうだ?”
”じゃあ,一緒に入るか?”
 ジュリアスは一瞬考えたが、笑いながら言った。
”ごめんだね.日本のバスルームは狭そうだ”
”ビンゴ! 一人でぎゅうぎゅうだよ”
ギルフォードも笑って言った。
”じゃあちょっと待ってろ,バスローブを持ってきてやる”
 と言って背を向けたギルフォードにジュリアスが言った。
”おいおい,アレックス.久しぶりに会ったのにハグもキスもなしかい? もうすっかりシャイな日本人だな,君も”
 その言葉が呪文を解いたのか、ギルフォードは弾かれた様に振り返った。そして自制心をかなぐり捨てたようにジュリアスを激しく抱きしめて言った。
”馬鹿を言うな,会いたかった,本当に会いたかったんだぞ,ジュリー.話したいことも沢山あるんだ”
”僕もだよ.今夜は眠れそうにないな”
 ジュリアスは優しく笑ってギルフォードの背に腕をまわした。
”馬鹿野郎・・・”
 ギルフォードは囁くように言った。二人はしばらく抱き合ったままじっと佇んでいた。

 由利子は、荒れた部屋の真ん中でぼうっと座っていた。警官達はすでに部屋から引き上げていた。葛西もCD-Rを持って、富田林たちと一緒に本部に向かった。玄関の鍵は壊れたままなので、チェーンだけかけているという実に心細い状態であった。それで、戸口に見張りの警官を立ててくれたのだが、防犯上は心強いとはいえ、それはそれであまり気持ちのよいものではない。それに美葉の時のことを考えたら、100%の信頼を寄せることが出来なかった。
「とにかく、ベッド周辺だけでも片付けないと寝られそうもないな」
 由利子はため息交じりにつぶやくと、疲れた身体に鞭打って片付け作業に入った。

  前日に引き続き、怒涛の一日が終わろうとしていた。由利子にはこの二日間が異様に長く感じられた。だが、これからこの長い日々が続くのだろうという予感が、すでに由利子にはあった。由利子は窓を開けて外を見た。梅雨間近のすこし湿った風が入って来た。それでも夜風は心地よい。外はいつもどおりの夜景が広がっていた。ふっと不安になって、下の電信柱あたりを見た。例の男が立っていた場所だ。誰もいない。由利子はほっとした。しかし、よく見ると道の何カ所かに警官が立って警備をしていた。今日のところは安心して眠っていいみたいね、と由利子はすこしほっとした。空には月がぽっかりと浮かんでいた。
(美葉もどこかでこの月を見ているんだろうか・・・)
 由利子は思った。悲しくなって由利子は窓を閉め遮光カーテンを閉じ、そのままそこに体育座りで壁に寄りかかった。由利子は膝に腕を組んで顔を伏せた。彼女はそのまましばらくじっと動かなかった。しかし、その肩はかすかに震えていた。猫達のケージから由利子を呼ぶ声が、寂しく室内に響いた。

 (第二部 第3章侵蝕Ⅲ 終わり) 

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