2.侵蝕Ⅱ (1)インターバル

20XX年6月13日(木)

 由利子は、今日もいつもどおりの時間に目が覚めた。「休暇中」とはいえ、身体のリズムを狂わせないように心がけていた。
 窓を開けると、久しぶりに爽やかな晴天であった。いつもどおりジョギングをしてから、さっとシャワーを浴び、自分と猫達の朝食を作る。しかし、今日はもうひとつやることがあった。久々のお出かけということで、弁当を作ることにしたのだ。もちろん弁当は日ごろから作って会社に持っていっていたが、今日のは数年ぶりに作る行楽弁当だ。昨日の夜、ギルフォードから明日の連絡が入り、10時半ごろマンションの下まで迎えに来るということを伝えられた。その時につい、お弁当を作って行きますね、と、調子よく言ってしまったからだ。するとギルフォードが、じゃあ、僕もスペシャルサンドウィッチを作ってきますね、と言ったので、じゃ、みんなで持ち寄って食べましょう、と言うことになったのである。とはいえ、何となくアレクには負けたくなかったので、久しぶりに張り切って弁当を作った。なんか、子どもの頃の遠足の当日のようなワクワク感があった。それに、もう一人って誰だろう? 紗弥さんかしら? 猫たちは、いつものカリカリの他に、鶏のから揚げの味のついてない部分をほぐしたのを少しもらって、大喜びだ。 

 約束の時間が近づいてきたので、由利子は出かけることにした。例の如く玄関までお見送りに来た猫たちの頭を撫でると、「お留守番を頼むね」と声をかけ、部屋を出た。
 エントランスの前に立って、キョロキョロしていたら、短いクラクションが鳴った。音のした方向を見ると、黒いワゴン車の窓から、今は見慣れた顔が笑いながら手を振っている。由利子は走って車の方に向かった。
「おはようございます、アレク。いい天気で良かったですね」
「おはよう、ユリコ。そうですね。でも、これでは、日中は暑すぎるかも知れませんね。帽子を被ってきて正解ですよ。その帽子、よく似合ってます」
流石に欧米人だけあって、褒めるのに隙がない。由利子はお気に入りの綺麗な水色の帽子を褒められて、気をよくした。すると、運転席の男が声をかけてきた。
「おはようございます、由利子さん」
「葛西君!」
「どうも、早速『葛西君』と呼んでいただきまして・・・」
葛西は照れくさそうに後頭部を掻きながら言った。
「もう一人って、葛西君だったのか。な~んだ」
由利子が少しがっかりして言うと、葛西はしゅんとして言った。
「僕じゃ、物足りないですか?」
「あ、いやいや、そうじゃないけど。・・・あっ、そ、そういえば、葛西君メガネにしたのね。一瞬誰かわからなかった」
由利子は急いで話題を変えた。葛西は右手で眼鏡を押さえつつ言った。
「はい。コンタクトを失くしちゃって・・・。変ですか?」
「ううん、似合ってるわよ。生徒会長みたい」
「生徒会長・・・。生徒ですか・・・」
「ごめん、訂正する。知的な刑事さんって感じね」
葛西が何となく意気消沈してきたので、由利子が急いで訂正した。
「知的な刑事? そう言えば多美さんにもそう言われました」
少し嬉しそうに言う葛西を見て、由利子は「単純なヤツ」と思った。単純だけど、可愛いかも・・・。そう思ったあと、ふと思い出した。そういえば、アレクも大学で眼鏡をかけてたな。それで、ちょっと聞いてみることにした。
「アレク、あなたも大学では眼鏡をかけてますが、伊達めがねなんですか?」
「いえ、まあ、それもありますが」ギルフォードはそう言いながらちょっと笑った。「実は、もともと遠視なので、近くの小さい字が見え難いことがあるんです。特に学術関連の本は文字が小さいですから。でも、普通は全然問題ないので・・・」
「老眼?」
と、由利子が意地悪っぽく言うと、「違います!」と速攻で否定した。
「じゃ、どの辺まで見えるんです?」
と由利子が聞くと、ギルフォードは「そうですねえ」と言いながら周りを見渡すと言った。
「君の住んでいるマンションの、屋上の塔屋に小鳥が止まってますね。あの子の種類がハクセキレイっていうのがわかる程度には見えますね」
「あれ、小鳥だったんですか? ほとんど点じゃないですか」
由利子は驚いて言った。すると葛西もギルフォードに驚きの目を向けながら
「すごい! ボビー・オラゴンみたいですね」
と言った。
「それはともかく」ギルフォードはなかなか車内に入ろうとしない由利子に言った。「ユリコ、そろそろ乗ってください。後部座席でいいですか」
「あ、すみません」
由利子はそう言いながらふとナンバープレートを見たら、黄色だった。
(なんだ、軽じゃん)
そう思って、後部座席のドアを開けると、ギルフォードの乗っている助手席の座席がかなり後ろに下がっていて、狭くなっていた。それで、由利子は運転席の後ろに座り、横に荷物を置いた。バッグと弁当である。
「すみません、僕のせいで後ろ、狭いでしょ。適当にシートを後ろに下げて下さいね」
ギルフォードは、後ろを振り向いて言った。
「あ、大丈夫です。細いから」由利子は笑いながら言った。「それにこの車、軽にしてはずいぶん大きいんですね。葛西君の?」
「いえ、残念ながら僕のです。でも、今日はジュンに運転をおまかせすることになりました」
「え? アレクの車? って、意外!」
由利子が驚いて言うと、ギルフォードが説明をはじめた。
「はい。実はバイクにお金がかかったので、車は節約しました。ついでに言うと中古で買いました。色々物を運ぶことも多いから、車はどうしても必要なんです。バイクにリヤカーつけて運ぶ訳にはいきませんからね。
「リヤカー・・・。久しぶりに聞いたなあ」
「大八車よりマシでしょ?」
由利子のツッコミに対し、ギルフォードはさらに珍しい名詞を口にしたので、由利子は半ばあきれ気味に答えた。
「どんだけ、日本文化に詳しいんですか・・・って、葛西君、なんで泣いてるの?」
気がつくと、運転席の葛西の肩が震えている。
「泣いてません! でも、想像しちゃったんです。ア、アレクがバイクでリヤカーを引いているのを・・・!!」
葛西はやっとそこまで言うと、ハンドルに突っ伏してくっくっくと笑い始めた。つられて由利子が吹き出した。
「ぷはっ、やめてよぉ~。私まで想像しちゃったじゃないの!!」
「想像力旺盛なのはいいんですけれど。・・・そんなに可笑しいですか?」
アレクはちょっと不思議そうな顔をしていたが、1分ほど間を置いて、自分も笑い始めた。
「確かに可笑しいです。それに、僕の想像では、何故か僕がバイクで引くリヤカーには、藁が満載されていて、その上にユリコとジュンがちょこんと乗ってました」
「変、それ変です」
「しかも、藁の中にはサヤさんが潜んでました」
「って、リヤカーでかすぎだし、アイダホ風味だし」
「っていうか、アレクってば、紗弥さんのことをどういう風に思って・・・」
「何で朝からこんな大笑いを・・・」
車内はしばらくの間笑いに満たされた。平日の休みのせいか妙に頭のタガが外れてしまったらしい。買い物帰りらしい女性が、不審そうに車の中をチラ見していった。
「やば、これじゃ私たち変な人ですよ。とりあえず出発しましょう」
由利子が我に返って言った。
「そうですね。最初は何処に行きたいですか、アレク?」
葛西もなんとか笑いを納めて言った。
「僕ですか?うーんと、そうですねえ・・・」
ギルフォードはちょっとの間考えると言った。
「もう10時半をだいぶ過ぎましたから、まず景色の良いところに行って、お昼を食べましょう。ジュンのリクエストは?」
「僕は、多美さんにお守りを買う約束をしましたから・・・」
「じゃ、神社仏閣めぐりね。アレクは宗教的には大丈夫ですか?」
「そんなこと言ってたら、欧米人は京都に行けませんよ。それに、僕は洗礼は受けましたが基本的に無神論者ですから問題ないです。そもそもイギリス国教自体の出自がねえ」
ギルフォードは、少しシニカルな笑みを浮かべて言った。
「ヘンリー8世が、ヌカミソ(※下記訂正あり)の妻と別れて愛妾と結婚したいがために・・・」
「糠みその妻って・・・イギリス王妃が糠みそを漬けるとは思えませんけど・・・って、もう、アレク、日本語知りすぎ! 微妙に使い方間違ってるけど」
由利子がさらにあきれて言いながら運転席を見ると、葛西がまた肩を震わせていた。何かまた想像したらしい。
「そこ! 笑ってないで。そのアン・ブーリンも1000日後には処刑されちゃったんだから」
今度は笑いが伝染しないように、由利子が釘を刺した。
「ああ、そうでしたね。キャサリン王妃が糠床をかき回してる図なんて想像しちゃダメですよね」
由利子はやっぱりと思いつつ、自分は想像しないようになんとか話を軌道に戻して言った。
「で、葛西君ってば、あなた自身はどこに行きたいの?」
「僕ですかあ?」
葛西は笑うのをやめてしばらく考えて言った。
「海が見たいなあ・・・。出来ればきれいな海がいいです」
「じゃ、ちょっと遠出になるわね。じゃ、お昼はちょいと近場で・・・植物園なんてどうでしょう?」
由利子が提案すると、葛西が言った。
「いいですね。そういえば、僕、植物園なんて、小学生以来ですよ」
「じゃ、植物園行って、神社仏閣巡りをして、最後に海に行くってカンジですね」
と、ギルフォード。
「で、海はどこがいいかしら」
「ちょっと遠いのですが、S島はどうですか? 僕、たまにバイクで行きますが、海も綺麗だし晴れていればステキな夕日が見れますよ」
と、由利子の問いにギルフォードが答えた。
「夕日? いいですね。最近個人的にだけど、夕焼けや朝焼けに悪いイメージが出来てたんで、ホンモノの夕焼けを満喫したいと思ってたんです。それに、僕はS島には行ったことないから、ちょうどいいかな」
と、葛西がかなり乗り気になったので、最終目的地はそこに決まった。ギルフォードはにっこり笑って言った。
「決まりですね。では、早速出発しましょう」
「了解! レッツゴー♪」
葛西はパイロットのように言うと、ギルフォード自慢のバンを発進させた。
(お天気も良いし、楽しい一日になりそうだ!)
由利子は、後部座席に小ぢんまりと座りながら、なんとなくワクワクしてくるのを感じた。

「あれ? 教授は?」
朝から研究室にやってきた如月は、教授室に紗弥しかいないのに気がついて言った。
「今日はお休みを取っておられますのよ」
紗弥は、パソコンから目を離さずに言った。
「え~~~? 珍しいですねー。一体なんの大事件が起こったんやろか」
如月が大仰に驚いて言うと、紗弥はチラと彼を見てから言った。
「いえ、葛西刑事と由利子さんとでドライブに行かれるそうですわ」
「ええっ! 紗弥さんをほっぽいてでっか?」
「まあ、私もたまには教授のお守りから解放されたいですから」
あまりにも紗弥が画面から目を離さないので、如月は彼女のパソコン画面を見た。彼女はネット対戦型ゲームに相変わらずのポーカーフェイスで挑んでいた。如月は仕方がないので終わるまで傍に立って見ていたが、勝負は意外とあっけなくついた。紗弥の圧勝であった。紗弥は、少しつまらなさそうにしながら、ゲーム画面を閉じた。
「ホンマ、羽伸ばしてまんなあ」
「まあ、如月君、まだいたの」
「まだいたの、って、ひどいやないですか。で、緊急の場合はどうやって連絡したらええんでっか? あの人、プライベートやったら絶対に電話に出られへんでしょ?」
「緊急時ですか? 大丈夫ですわ。いろいろありまして、私、教授の居場所なら常に把握しておりますの」
そういうと、携帯電話を開いて画面を見ながらふふっと笑った。
(まったくもう、何者なんでっか、この人は?)
如月は、紗弥を見ながら改めて思った。
「教授に聞きたいことがあったんやけど、仕方ありまへんな。明日にしますわ」
と言うと、如月は教授室を出た。そして仕方がないので、自分の席に戻り作業を続けることにした。

 由利子たちは、市営の植物園に無事到着し、お昼の時間まで園内を見て歩くことにした。由利子の持っていた弁当の入ったバスケットは、さりげなくギルフォードが持ってくれた。平日だけあって人は多くなかったが、遠足か社会科見学の小中学生の団体と、数度すれ違った。彼らは一様にギルフォードの方を物珍しそうに見て行く。ギルフォードもギルフォードで、その度にニコニコ笑いながら手を振っている。
(ホントに変な外人!)
由利子は改めて思った。
 3人は、薔薇園に入ってみた。咲き頃とはいえピークは過ぎていたが、それでも充分に綺麗だ。
「イギリス人は薔薇が大好きです。もちろん僕も好きです。派手なハイブリッド・ティー・ローズ系もいいですが、オールドローズやイングリッシュローズ系も、落ち着いていて良いです。僕の実家のローズガーデンも、今頃はいろんな花が咲き乱れているでしょう。グラン・マがとても大切にしていて・・・」
ギルフォードは遠い故郷に思いを馳せたのだろう。一瞬遠い目をしたが、直ぐにいつもの表情に戻った。しかし、由利子はそれを見逃さなかった。こんなに遠い異国にいるんだもの、いくら日本語が堪能でもやっぱり故郷は恋しいよね・・・。それで、なんとなく聞いてみた。
「アレクって、おばあちゃん子だったの?」
「はい。父は厳格で怖い存在でしたし、母は病弱で早くに亡くなりましたので、僕は祖母に懐いていました」
「お母様、亡くなられてたんですか・・・」
由利子はちょっと申し訳ないような気持ちになった。
「ええ、だから、母は僕には美しくて儚いイメージしかありません。気分の良い時は、よく、僕に本を読んでくださいました」
ギルフォードの眼に、また一瞬憧憬の色が見えた。しかし、由利子は冷静に思った。
(根っこはマザコンかあ。まあ、そういう状況なら仕方ないか。でもなんか、昔の少女マンガに出てくる美少年みたいな生い立ちねえ。なんだか『ええとこボン』っぽいし)
その時、今までデジカメで写真を撮るのに夢中だった葛西が言った。
「僕は父の方が早く亡くなりました。父も警官で、勤務中の事故だったそうです。だから、僕が警官になるって決めた時、母から猛反対をくらったんですよ」
「そうだったんだ。うちは両親共に健在だけどねえ、ずっと別居中だわ。お互いカレカノがいるから、私の居場所ねーし。みんないろいろあるのねえ」
なんとなく、お互いの身の上を語りつつ、彼らは温室に入って、色とりどりの南国の花々や熱帯の水辺を見て回った。
「けっこう充実してますね。実は、あまり期待していなかったのですが」
温室を出ると、ギルフォードが言った。由利子は背伸びをしながら言った。
「ん~~~、そうですね。だけど、温室と言っても今は外もあまり気温が変わらないですね。これから暑くなるぞ~」
「でも、今日は湿気が少なくて、暑いけど爽やかですね。絶好のピクニック日和だなあ」
葛西がそう言い終わるや否や、彼のおなかがキュウと鳴った。
「あ、すみません」
葛西が顔を紅くしながら言うと、ギルフォードが笑いながら言った。
「そろそろお昼にしましょうか」
「賛成」
由利子が即答した。植物園にはいくつか四阿(あずまや)があったが、せっかくの天気なので、彼らは手頃な木陰を探すことにした。
「あ、あの木の下がいいですよ! あそこにしましょう」
葛西は、ちょうど良い木陰を見つけて走って行った。その後姿を見ながら、ギルフォードは由利子の右腕を軽くつつき、小声で言った。
「彼、可愛いですよね」
「ええ、本当に」
由利子もそれにはまったく異存はなかった。
「彼ね、ユリコを気に入ってるみたいで、僕はキューピッド役を例のタミヤマさんに頼まれたんです」
「え?何でそんなことを・・・」
「聞くところによると、警察ってところは警官に早く身を固めさせたがるらしいです」
「そんな、私にはただの刑事さんです! 第一、8歳も歳が違うんですよ。しかも、年下!」
「そうですか? 僕もお似合いだと思いますけどねえ。でもね、僕は自分に正直だから、はっきり言いますが、僕も彼をすごく気に入っています」
「え? いえ、だから別に私は自分を偽っているわけでは・・・」
由利子はなんとなく頭がクラクラするのを感じながら言った。
「だから、その点では僕たちはライバルですね!」
「へ?」
由利子が驚いてギルフォードを見ると、彼もニッと笑って由利子を見た。
(なんてこったい!!)
由利子は引き続きクラクラしながら思った。葛西が自分を気に入るのは自由だし、もちろん悪い気もしないが、そのせいで勝手にライバル視されてはかなわない。それで由利子は負けじとにっこり笑い返しながら言った。
「ご自由に。それよりアレク、あなたがノーマルな葛西君をどう落とすか、お手並みを拝見させていただくわ」
「お! 言いますねえ・・・」
二人の間に一瞬かるく火花が散ったように思えた。が、次の瞬間同時にぷっと吹き出した。当の葛西が実に平和な顔をして二人に手を振っていたからだ。
「ねえ、早く来てくださいよ、二人とも~」
なかなか来ない二人に痺れを切らして、葛西がこんどは大きく手を振りながら呼んだ。
「早くお昼にしましょうよ~」
「はい、すぐ行きますよ」
と言いながら、ギルフォードは葛西のいる木陰まで大股で歩いて行った。由利子も小走りでその後を追った。
 ギルフォードは、背中に背負っていたリュックから、シートを出して地面に敷いた。シートの上には、由利子の持ってきた手作り豪華弁当やギルフォードの持ってきたスペシャルサンドウィッチなどと共に、アレクのリュックに入っていた、取り皿やカップも並べられた。完全にピクニックである。由利子は感心しながら言った。
「アレクってば、すごい気が利くのねえ。ステキなランチタイムだわ」
「ありがとう。英国人は、ピクニックが大好きですからね」
と、ギルフォードが笑いながら言った。
「皆さんが、お弁当を作ってこられるって言うんで、僕は飲み物を用意してきたんです。暖かいお茶とつめたいコーヒーでしょ、あ、アレクのためにミルクティーも作ってきました」
葛西がニコニコしてバッグを開けると、レジャー用ポットが3本頭を出した。
(こいつ、妙にでかい袋を提げていると思ったら、こんなのを持ってきてたのか~)
由利子は、嬉しそうにポットを取り出す葛西の様子を見て、クスリと笑った。
「オー、ありがとう、ジュン! 嬉しいです」
ギルフォードは、そういいながらさりげなく葛西の傍に座った。由利子は二人の前にちょうど二等辺三角形の頂点になるように座った。妥当な位置だと思った。
「では、食事の前に僕たち三人が出会ったことと、これからの友情に対して乾杯しましょう」
ギルフォードの提案で、三人は緑茶と紅茶で乾杯した。これが奇妙なトリオの新たな出発となった。

 食後、時間があまり無いので、庭木園や水生植物園を通過がてら鑑賞しながら植物園を後にした。
「また来たいですね。次は隣の動物園にも行きましょうね」
ギルフォードは、正門を見上げると少し名残惜しそうに言った。
「さて、次は神社仏閣巡りですね。時間がなくなって来たので急ぎましょう」
3人は駐車場に急いだ。時間に余裕がなくなってきたので、寺社巡りはF市三大祭のうち二つに縁の深いK神社と、由利子がお勧めのT寺に行くことにした。

 彼らが先ず出かけたのは、T寺だった。ここには平成に入って完成した、F大仏がある。寺の正門を入ったところで由利子が説明をした。
「ここは、1000年以上の歴史を持つお寺で、弘法大師が建立した真言宗のお寺では最古のものだそうです」
その後、すこしもったいぶって質問をした。
「さてお二人さん。お化け屋敷は大丈夫?」
葛西は、由利子がいきなり変なことを聞き始めたので不審そうな顔をして尋ねた。
「あの、お化けとお寺はなんとなくセットのような気がしますが、お化け屋敷ってのはどうかと思いますが・・・」
「いきなり何をバチアタリなこと聞いてくるんですか、」
ギルフォードも、肩をすくめながら言った。由利子は、意味深な笑いを浮かべて答えた。
「まあ、いずれわかります。さ、行きましょうか」
三人は庭を横切り階段を上って大仏殿まで行くと、若干薄暗い中に、金色に輝く大仏が座っていた。
「平成に入って完成したので、まだ新しいけど、木造の坐像では日本一の大きさだそうよ」
由利子が説明すると、二人は
「へえ、すごいですね」
と言いながら、大仏像を見上げた。しかし、見上げながらもギルフォードは首をかしげながら言った。
「でも、新しいせいか、いまいち、重厚さを感じませんねえ。顔もなんとなく橋■壽賀子に似ているし」
「あ、いいのかな、そんなこと言って。罰が当たっても知らないぞっと」
由利子が言うと、葛西がフォローした。
「もっと時がたつと、上手い具合にくすんでもっと重厚さが出てきますよ。とりあえず、お参りしましょう」
3人は並んでお賽銭を入れ、手を合わせた。
「じゃ、行きましょうか」
由利子はそういうとすたすたと歩いて大仏の左側に向かった。
「なんですか?」
「アレク、行ってみましょう」
「えっと、『地獄極楽巡り』って書いてありますけど、なんかのアトラクションですか?」
ギルフォードが言うと、前から由利子の答えが返ってきた。
「そんな豪勢なものじゃないわよ。二人とも、暗闇恐怖症じゃないですよね」
「ええ、僕はわりと平気なほうですけど」
葛西が言うと、ギルフォードも答えた。
「僕も、夜目が効きますから」
「そんな、甘いものじゃないのです」
由利子はふふふと笑いながら言った。ギルフォードと葛西は、顔を見合わせながら由利子について中に入って行った。
 中に入るとすぐに、地獄絵図が3枚並んで飾ってあった。とはいえ、擦れた現代人のこと、そんなものを見ても特に恐怖は感じない。現代は、インターネットという媒体を使うと、その気になれば現実の地獄絵図がいくらでも見られるのだ。案の定、ギルフォードは半分小馬鹿にしたような顔で絵を見ながら
「ふうん、洋の東西を問わず、地獄ってのは似たようなイメージなんですねえ」
などと、澄まして言っている。しかし、葛西はこういうのが苦手らしい。ギルフォードの後ろに隠れるようにして、絵を見ていた。
(こいつ、ホントに刑事かよ)
由利子は、心の中で突っ込みを入れながら、
「じゃ、先に進みましょう」と二人を促した。「ここから先はお戒壇巡りと言って、本当に真っ暗な真の闇だから気をつけて。手摺があるからそれを持つといいわよ」
「真の闇って・・・。うわ!」
ギルフォードは入るなり驚いて言った。
「ホントだ。全く光が入ってこない作りですか。これじゃ、夜目が効いても意味がないですね」
「うわあ、アレク、ゆりちゃん、置いていかないでくださいよ~」
「誰が『ゆりちゃん』だ!」
由利子は速攻で返した。
「ああ、すみません、すみません。訂正します。由利子さ~ん」
葛西が情けない声を出して言ったので、由利子は葛西の後ろに回り、ギルフォード・葛西・由利子の順番で暗闇を手探りで歩いて行った。
「鼻を摘まれてもわからない暗闇って、こういうのを言うんですね。いや、これは怖い。道は妙に曲がっているし、うっかり出来ないですね、これは」
ギルフォードは、感心しながら言った。
「何もないだけに、余計に怖いです。きっと20分以上居たら幻覚を見始めます」
葛西も、闇に慣れたのか落ち着きを取り戻して言った。由利子は、いまいち反応がつまらないので、ちょっといたずらっ気をだして言った。
「やん、ゴキブリ!」
「えっ、うそっ!!」こんどはギルフォードが急に落ち着きを失った。「ド、ドコ行きマシタ?」
「アレクの方!」
「No~!」
その一言で、ギルフォードは完全にパニックに陥ってしまったらしい。そのまま一歩も動けなくなってしまった。暗闇の中それに気付かずに、そのまま歩いていた葛西は、ギルフォードにどしんとぶつかった。
「いてっ。・・・あれ、ここでアレクが固まっていますよ」
このままじゃ先に進めないなと思った由利子は、種明かしをすることにした。
「うっそぴょ~ん。この暗闇で見えるわけないでしょ」
「もう、脅かさないでくださいよ。ジュンにまで弱点がバレてしまったじゃないですかあ」
ギルフォードは、ほっとしたような、怒ったような声で言うと、葛西も続けて言った。
「さっさとこんなところは出ちゃいましょう。実際、こんなに真っ暗だと、マジで何が潜んでいてもわからないですよ」
「さりげなくイヤなこと言いますね、ジュン」
彼らはとにかく手探りでなんとか出口までたどり着いた。出口にはありがたい仏様のレリーフが飾ってあった。由利子はバスガイドよろしく、手に旗を持ったジェスチャーをしながら言った。
「はい、極楽に到着で~す。皆様、お疲れ様でした~」
「なるほど、これで死後の世界を疑似体験したというわけですか」
とギルフォード。
「でも、目の見えない人って、ずっとああいう状態なんですよね。大変だなあ」
と、葛西は全く違うベクトルで感心していた。横の売店でお土産を物色していると、中学生の団体がやってきた。彼らはどやどやと入ってきたが、ギルフォードの姿を見ると、一瞬たじろいだ。それに気づいたギルフォードは、軽く手を上げるとにっこりと笑いかけた。彼らはおずおずと手をふり返し大仏の方に歩いて行った。その後、順番に『地獄極楽巡り』の入り口に消えていった。数秒後、中からわあとかきゃあとか言う声が聞こえてきた。ギルフォードは彼らに向けて言った。
「Good luck!」
三人は、それから大仏を後にして、他の展示されている仏像を一通り見た後、T寺を後にした。

「この神社もかなり古くて1000年以上の歴史があるの」
由利子はK神社に着くと言った。彼らは鳥居をくぐって神社に入ると、まず参拝。手水場(ちょうずば)で手と口を清め、社殿に向かった。
「ここで洗った手、拭かないで自然乾燥させるんですよね!」
と、ギルフォードが言った。
「よく知ってますねえ。そういえば、ちゃんと口もすすいでいたし、最後にひしゃくも立てて水を流してましたね」
「二礼二拍手一礼ってのも知ってますよ」
「アレク、あなたそこらへんの日本人より立派な日本人ですよ」
由利子は、またもあきれて言った。
「実は、調べてきたのです。その土地の神様には敬意を表しないといけません。一神教はそういうことをないがしろにするからいけないんですよ。もっとも、新興宗教が勢力を広げるためには、信仰対象をひとつに絞る方が便利なんでしょうケド」
「そういえば、この神社だけでも色々な神様がおわしますからねえ。一神教の神様も、日本では八百万(やおろず)分の一の神様かあ」
由利子は、改めて感心したように言った。その会話を聞いていた葛西がおずおずと尋ねた。
「あのぉ、ぼく、手を拭いちゃいましたけど・・・」
「ほとんどの人が拭いているから大丈夫じゃない?」由利子は、言った。「それに、今の時期はいいけど、真冬にそれはキツイし」
「そうですよ。汚れたハンカチでなければいいと思いますよ」
と、ギルフォードもフォローした。葛西はほっとした顔で言った。
「よかった。新しいハンカチだったので」
葛西は、多美山のお守りを買うというので、少し慎重になっているようだった。彼らは参堂の端を歩いて御社の前に行った。さすがに平日の昼間だけあって、そこまで混雑していない。彼らは悠々と参拝を終えた。葛西は早速お守りを買いに走った。由利子とギルフォードは特に買うものもないが、暇なので、売店の品物を何となく見て回っていた。
「アレク、あなた幾つになるんですか」
由利子はいきなりギルフォードに質問した。
「はい、8月の8日(ようか)で41歳ですが、何か?」
「あらら、本厄だわ」由利子は言った。「しかも、大厄だし」
由利子は厄除け御守の横に書いてある、厄年早見表を見ながら言った。
「大丈夫です。僕は一応クリスチャンですから、日本の宗教的行事は関係ないでしょう」
「行事って・・・。ま、関係ないっちゃ関係ないか」
由利子は、あっさりと言った。そこに、買い物を終えた葛西が帰ってきた。
「お待たせしました」
「どんなのを買ってきましたか?」
「色々悩んだのですが、これを買いました」
と、葛西は買ってきたお守りを見せた。木の札に「身代御守」と書いてある、いたってシンプルなものだった。
「ミダイオマモリ・・・あ、ちがうな。あ、・・・ミガワリオマモリですね」
「なんか効きそうでしょ」
葛西はニコニコとして言った。ギルフォードは微笑みながら
「そうですね」
と言ったが、由利子にはなんとなく彼が無理をしているように思えた。それで、由利子は話題を変えることにした。
「アレク、飾り山って知ってますよね」
「はい、7月のお祭りに使われる山車の飾り専用のでかいやつですよね」
「正解。普通はお祭りが終わったら、解体されるんですが、ここのだけは一年中飾ってあるんですよ。じゃ、その飾り山を見て、それから海に向かいましょう」
由利子は明るく言うと、飾り山の設置してある境内の奥に二人を誘導した。

 海に向かう運転は、道に慣れたギルフォードが行った。運転席に座ったギルフォードは、
「はい、ユリコ、シートを下げますから、ちょっと避けてくださいね」
と言うと、座席をグッと下げた。葛西がそれを見て言った。
「行きにですね、僕が運転席に座ったでしょ、その時、足が届かなくて、シートをグッと前に持ってきたんですよ。もう、嫌になっちゃいます。座高はあまり変わらないのに」
そういいながら、助手席に座り代えた葛西は、椅子を今度は前に引いた。従って、由利子は助手席の後ろの方に移動した。
 道路は若干混んでいたが、なんとか3時過ぎには着くことが出来た。島に入る途中、砂洲の中を通り島と本土を結ぶ橋を渡る。両側に海が見えるという、なかなかステキな橋だ。ギルフォードは、砂浜の海岸につくと、葛西と由利子に車を降りるように言うと、自分はバンの最後部席をフラットにした荷物置き場から、何かを下ろしながら言った。
「ここら辺は、前の大地震でだいぶ被害があったようですが、しっかり復興していますね」
「そういえば、当時、道路が地割れだらけになってました」
と由利子が言った。葛西も海の方を見ながら言った。
「こうしていると、何事も無かったように平穏ですね」
「まあ、あんな地震が来るとは誰も・・・専門家すら思ってなかったですから・・・。じゃ、車を置いてきます。ちょっと待っててくださいね」
そういうと、ギルフォードは葛西と由利子を置いて、駐車場に向かった。
「だいぶ涼しくなったよねえ。お昼間は暑かったね」
と、由利子が海をみつめている葛西の背に向かって言った。
「そうですね・・・」
葛西は由利子の方を振り向いていうと、また、海の方を見た。
「綺麗ですねえ。波の音もしみじみしていいですね・・・。」
「そうね」
由利子はそう答えると、葛西の隣に立って一緒に海を見た。潮騒の音が響く中、しばしの間、二人は無言で立っていた。特に話すこともないが、まったくそれが苦にならない。不思議だな・・・、と由利子は思った。葛西はその状況に照れくさくなったのか、急に歌い始めた。
「♪うーみーはー広いーな、おおき~いなー、つーきーが上るーし、日がしーずーむー♪」
「な~に、それ」
由利子はくすりと笑いながら言った。その時、後ろからその続きを歌う声が聞こえた。
「♪う~み~は、おおな~み、青い~波~、ゆ~れ~て、何処ま~で、続く~や~ら~」
歌声の主はギルフォードだった。いつの間にか車を置いて戻ってきていたのだ。意外にもうっとりするようなテノールで歌詞も完璧だった。彼は、歌い終わると言った。
「いい歌ですね。曲も綺麗だし・・・、それに、ワルツです」
「あ、そういえばそうだ。今までそんなこと思っても無かった!」
由利子が感心して言った。ギルフォードは、その後、置いてきた荷物から、キャンプ用のベンチとテーブルセットを出して組み立てはじめた。葛西が急いで手伝いに行った。作業をしながらギルフォードは言った。
「日本の海の歌って、ワルツが多いんですよ。『港』もそうでしょ?」
「そうでした。小学校の時、ワルツの三角形を描きながら歌わされましたね」
由利子は右手で三角形を描きながら言った。
「他にないかなあ」
葛西が、ギルフォードを手伝いながら考えている。しばらくして、あ、と言った後、嬉しそうに口を開いた。
「あった、あった。ほら、まつばーらーとおく、きいゆーるところ♪って、ね、ワルツでしょ? アレク、知ってます、これ?」
「ええ、もちろん。僕はワルツが大好きなんです。日本の唱歌は、綺麗なものが多くていいですね」
ギルフォードはそう答えると、最後の仕上げにパラソルをテーブルに立てた。
「さて、だいぶ遅くなったけど、3時のお茶にしましょう。スコーンを焼いてきたんです。ま、焼き立てとはいきませんけどね」
「すごい! 準備万端じゃん!」
由利子が目を丸くして言った。ギルフォードは、執事よろしくテーブルの前に立って、うやうやしく礼をしながら言った。
「さあ、お客様方、お掛けくださいませ」
 3人は、ギルフォードのスコーンと葛西の持ってきた紅茶とコーヒーで、ティータイムを過ごした。ギルフォードの祖母直伝のスコーンは絶品だった。美味しいものを食べている時の人の顔は、一番幸せそうだという。しかし、潮騒の中まったりとした時間を過ごす彼らのすぐ傍に、思いも寄らない危険が近づきつつあった。

「あ、思い出した、『浜辺の歌』。これもワルツだ」
皆が忘れかけた頃に、由利子がぼそりと言った。

(※)3人盛り上がってますが正しくは「糟糠(ソウコウ)の妻」です。

 

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2.侵蝕Ⅱ (2)ギルフォード教授の野外講義 前半

※この講義でのウイルスに関する記述を一部修正する予定です。修正後はまたご報告いたします。(H24年5月11日)
 

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 彼らは、浜辺でまったりとしたティータイムを過ごしていた。しかし今の時期、しかも平日に浜辺でキャンプセットのテーブルでお茶をしている外国人(実のところ、そこらへんの日本人よりも日本人らしいが)を含むおっさんおばさんの3人は、傍から見るとけっこう妙なものらしい。通る人たちが、ものめずらしそうに見て通り過ぎて行った。そろそろ、犬を散歩させる人たちがちらほらし始める時刻である。
「時折写メ撮られてる」由利子は言った。「やっぱ目立つわよねえ」
「その、写メですケド、写真メールって意味ですよね。撮った後は、みんなメールするんですかねえ」
「そりゃあ面白いから写真撮るんで、やっぱり友人に送ったりするんじゃないですかね」
「なんか知らないところでネタにされるのはイヤですねえ・・・」
ギルフォードがぼやいたところで、葛西が急に真剣な顔をして言った。
「実は、アレク、ずっと気になってたんですが・・・。あの美千代が公園で事件を起こしたときに隠れていた女性、携帯電話でも写真を撮ってましたね」
それを聞いて、ギルフォードの表情も厳しくなった。
「どこかに送っている可能性があると・・・?」
「ええ・・・。そうでなければいいのですが・・・」
「それって、トイレに隠れていたって女性のこと?」
葛西の調書を読んで、内容をある程度理解している由利子が聞いた。
「そうです。まったく、嫌な時代になったものですね」
ギルフォードはため息をつきながら言った。その時、由利子の携帯電話に着信が入った。
「あ、美葉からだ。ちょっと失礼しますね」
由利子はそういうと、電話に出た。
「もしもし?何?・・・うん、今ね、S島の浜辺でティータイム。・・・・って、そんな羨ましがらないでよ。・・・・うん、・・・・うん、・・・あ、ちょっと待って、聞いてみるから」
由利子は電話を中断して、二人の方を見て尋ねた。
「あのね、美葉が・・・、あ、葛西君は会ったことないわね。美葉は私の友達なんだけど、今夜、夕食をご一緒しませんかって言ってますが・・・」
「オ~、ミハさんですか。僕はOKですよ」
と、ギルフォードは快く承諾した。
「由利子さんのお友だちなら歓迎です」
と、葛西。そうと決まったら話はすぐに進み、なじみの居酒屋に集まることになった。
「さて、夕方からの予定も決まったことだから・・・」
ギルフォードはもったいぶりながら言った。
「これから、君達のために少しバイオテロについてのレクチャーをしますね」
「ええ~? こんなところで?」
由利子は驚いて言った。ギルフォードはにっと笑って答えた。
「こういう教室とは違ったところで受ける講義も、なかなかいいものですよ。しかも、タダですよ」
「課外授業ですね。久しぶりだなあ、こういうの」
と、葛西が嬉しそうに言った。
「そう言って下さると、タミヤマさんも喜びますよ。このことを提案してくださったのは、他ならぬタミヤマさんですから」
「多美さんが?」
「そうです。タミヤマさんは、ジュンがバイオテロ事件の最前線に行くことになるだろうことを、とても心配しています。それで、個人的にレクチャーするように頼まれたんです。普通は引き受けませんけど、今回はユリコもいますから、ちょうどいいと思いました」
「葛西君、対策本部に入るの?」
由利子が、すこし意外そうに言ったので、葛西は答えた。
「今回の事件に最初から関わってしまいましたので、白羽の矢が立ったみたいです」
「大丈夫ななの? なんか頼りないなあ・・・」
「大丈夫です、ユリコ。彼の専門は、僕と同じ微生物だったそうですから」
「ええ? それがなんで刑事に?」
由利子は再度驚いて言った。
「まあ、いろいろありまして・・・」
葛西は言葉を濁した。それで、由利子はそれ以上追求するのを止めた。
「では、始めます。ジュンが知ってることも説明すると思いますが、初心者がいるということで、復習のつもりで聞いていてくださいね」
葛西は「はい」と言いながら頷いた。ギルフォードもそれを見て頷くと続けた。
「さて、バイオテロといえば・・・まず、何を思い浮かべますか、ユリコ?」
ギルフォードはいきなり由利子に話を振った。フェイントに驚きながらも、由利子は答えた。
「やっぱり、あのアメリカで起きた炭疽菌テロ事件、あれですね」
「そう、米国の炭疽菌テロ事件を思い起こす人が多いでしょう。結局犯人とおぼしき科学者の自殺で幕を閉じることになりましたが・・・。バイオテロはBiological weapons、生物兵器の転用と考えられます。生物兵器とは、病原微生物やそれが作る毒素を利用したものですが、歴史的にはかなり古いです。それは、まだ感染症が微生物が原因で起こることすらわかっていない頃からのことです。疫病で死んだ人や動物の死がいを敵地に投げ込んだりしていました。それが感染るということだけはわかってましたからね」
「随分原始的な方法だったんですね」
「そうです。それが、20世紀に入ってから、兵器として本格的に研究され始めました。その頃生物兵器を研究していた主な国は、イギリス・アメリカ・ドイツそして日本です。特に日本の研究資料は、戦後の生物兵器研究に関わってきます。その日本の研究機関こそが、悪名高い・・・ジュン、知ってますね」
「私も知ってます」由利子が間を割って答えた。「731部隊・・・ですね」
「そうです。さて、生物兵器というと、炭疽菌と天然痘ウイルス、これがまず出てきます。特に炭疽菌は、生物兵器に出来る特性を充分備えているのです。731部隊も炭疽菌の兵器開発にはかなり力を入れてました」
ギルフォードはここで、一息入れた。そして、改めて二人を見ながら言った。
「さて、まずここで、よく混同されるウイルスとバクテリア・・・細菌の違いをはっきりさせておきましょう。ジュン、もちろん君は説明できますね」
「はい。細菌は自分の細胞を持つ単細胞生物ですが、ウイルスは違います。遺伝子とそれを包むたんぱく質の膜しかもっていません。細胞を持っている細菌は宿主の栄養を横取りしながらも自分の力で増えますが、それのないウイルスは、他の細胞に取り付かないと増殖できません。大きさも細菌なら普通の顕微鏡で見えますが、ウイルスは非常に小さくて電子顕微鏡でなければ見ることができません」
「はい、よく出来ました。ですから、病気のおこし方も違います。細菌はO157や破傷風菌、炭疽菌もそうですが、毒素を出して色々な症状をおこさせるもの、結核のように増えた菌が病巣を作り害をなすものなどがあって、いずれも細胞の外側から作用します。しかし、ウイルスは細胞の中に入り込み、結果破壊してしまいますから、細胞の内側から作用していることになりますね。さらに補足しますと、細菌は抗生物質で殺せますが、細胞を持たないウイルスには効きません。よく風邪を引いて病院に行くと抗生物質を処方されますが、あれは、風邪の病原ウイルスを退治するためではなく、免疫力の落ちた身体を細菌による二次感染から予防するためのものです。タミフルのような抗ウイルス剤も、ウイルスを殺すのではなくて、ウイルスの増殖を阻害するものです。ウイルス自体は、人体がそれに対する免疫をつけるまで追い出すことはできません。で、人工的に免疫をつけるのがワクチンです。ただし、全ての細菌やウイルスにワクチンがある訳ではないし、発症してからはワクチンの効果はあまり期待できません。また、ワクチンによっては、副作用の強いものもあります。幸い風邪の場合は普通なら5日から1週間くらいで治りますけどね」
「人体が勝手に治しちゃうんだ」
「そうです。だから、普通の風邪の場合は、脱水症状に気をつけて安静にして寝ていれば、放っておいても治ることが多いです。でも、高熱や咳、時に下痢など、それに伴う苦しい症状を緩和するためには、やはり、病院に行ったほうがいいかもしれません。それに、風邪じゃない可能性もありますからね。ただ、気をつけなければならないのは、時に病院自体が感染症を広める役割をすることがあるということです。だから、新型インフルエンザのような強力な感染症の場合は、病院に行かず直接保健所に連絡しなければいけません。アフリカでのエボラ出血熱の発症者の多くは、病院で感染しています。設備が不十分だったのと、そのために注射針の使いまわし・・・しかもろくに消毒もせずに使いまわした結果でした」
「でも、日本も昔はそうだったみたいですよ」と由利子が口を挟んだ。「私が勤めていた会社の黒岩さんって人が以前言ってたことがあるけど、彼女が子どもの頃、学校で予防接種する時は、一本の注射器で、もちろん針も変えずに軽く3人から5人はこなしていたらしいです」
「オー!」
ギルフォードは首をゆっくりと左右にふりながら言った。
「まあ、昔はおおらかだったということでしょうケド・・・。後々変な病気が出ないと良いのですが」
「彼女はいたって元気でしたよ」
「もちろん、先に注射した人が妙なウイルスを持ってなければ問題ないですが、運悪くそれで肝炎や白血病などのウイルスに感染してしまった場合、数十年後に発症する可能性があるのです」
「白血病も?」
「一部の白血病はヴァイラ・・・ウイルス感染が原因だといわれています」
「そうだったんだ。ところで、時々ヴァイラって言いかけるけど、どうして?」
由利子は、ついでに以前から疑問に思っていたことを聞いた。
「ウイルスって、実は日本語なんですよ」
「日本語?」
「そうです。英語表記はV-i-r-u-sで、読みはヴァイラス、ドイツ語読みではヴィールス。日本でも昔は『ビールス』と言ってたんじゃないですか?」
「そういえば・・・」由利子は言った。「昔読んだモグリの医者が活躍するマンガでも、ビールスってなってました。改訂版はわかりませんが」
すると、葛西が続けて言った。
「あ、『2○世紀少年』っていうマンガでは、少年時代は『ビールス』、大人になった現代では『ウイルス』って使い分けてました」
「マンガになると、みなさんお詳しいですね。まあ、あのマンガでは、作者も途中までウイルスと細菌の区別がついてなかったように思えますが」
「読んでんじゃん」
と、由利子が突っ込んだが、ギルフォードはうふふと笑いつつ続けた。
「Virusというのは、ラテン語の「毒」という意味からきています。ラテン語の発音は『ウィールス』。日本では昔は病毒あるいは濾過(ろか)性病原体と言ってました。中国では今も『病毒』と表現されるそうですが・・・。濾過性というのは、濾過しても濾材を通り抜けるほど小さいということです。このV-I-R-U-Sという単語を日本語でどのように言うかが話し合われた結果、ラテン語読みの『ウイルス』と決まったらしいです。でも、この言葉が定着するまで30年ちかく掛かったらしいです。まあ、ドイツ語を元にしたビールスの方が使い慣れていたからですね。因みに日本ウイルス学会の機関誌の名前は『ウイルス』ですが、その誌名の英語表記はローマ字でU-I-R-U-S-Uです。なんか妙ですね。ですから、僕もたまにヴァイラスと言いかけてしまうのです」
「でも、ヴァイラスって怪獣の名前みたいでカッコイイですね。そういえば、ガ×ラシリーズにバイラスという怪獣というか宇宙人がいますけど」
葛西が横から言った。ギルフォードは、葛西の方を見ながら苦笑いをして言った。
「さっきから、なんとなく伏字になっていないような気がしますが・・・、じゃなくて、ジュンはカイジュウフリークなんですか?」
「いえ、そこまで濃くはないですが、昭和40年代のテレビシリーズものなんかはカナリ好きですね」
「って、葛西君が生まれるずいぶん前じゃん」
と、由利子が言うと葛西は頭を掻きながら言った。
「叔父から、さんざんLDやDVDを見せられまして・・・」
「LD!」由利子は少し驚いて言った。「すっかりその存在を忘れていたなあ。けっこうなマニアなのねえ、そのおじさんって」
「はあ、そうですね。おかげでシルエットだけで怪獣名がわかるようになりました。初期のシリーズだけですけど・・・って、すみません、アレク。話の腰を折っちゃって」
「大丈夫ですよ。こういう脱線も課外授業のいいところですから。僕もそのカイジュウのシリーズ、機会があったら見てみましょう」
「いえ、多分アレクが見ても面白くないと思いますよ。特撮もしょぼいですし」
葛西は、ギルフォードがいきなり言い出したので、少し焦って言った。しかし、ギルフォードは例の最強の笑顔で臆面もなく言った。
「ジュンの好きなものは、僕も見てみたいんです」
「・・・アレク」由利子が心なしかげっそりして言った。「話を先に進めましょう」
「ハイ、そうでしたね。さて、そういうことで、細菌とウイルスがまったく違うとことはわかりましたね、ユリコ」
「はい」
「ですが、ウイルスと細菌の違いをややこしくするものがあるんですね。インフルエンザ菌ってのがあるんです」
「え? インフルエンザはウイルスですよね」
「もちろんそうです。最初にインフルエンザの病原体と勘違いされて、こういう名前になったのです。いったん命名さえたものは変更出来ませんから、インフルの病原体ではないのですが、こういう名前になったのです。菌自体はありふれたもので、ヒトの鼻腔内でよくみつかります。先に言った、風邪を引いた時の二次感染を起こさせる細菌のひとつでもあります」
「さて、ウイルスがどのように自分のコピーを作るのか、簡単に説明をしましょう。ウイルスは宿主の細胞に取り付くと、遺伝子の設計図・・・DNA或いはRNAをちゅーっと入れちゃいます。その段階でウイルスは設計図だけの状態になります。宿主の細胞は、そうとも知らずにその設計図を使ってどんどん複製を作り始めます。そして、細胞内がウイルス粒子で一杯になると、細胞膜をパ~ンと破って大量の複製されたウイルスが出てきます。それらがまた他の細胞に取り付いて、そこで同じように自分のコピーを作っていきます」
「なんか、すっごく嫌なんですけど」由利子が、両腕をさすりながら言った。「私がこの前インフルエンザで苦しんでいた時も、私の身体でそういうことがおこっていたんですね」
「そういうことです。でも、本来、ウイルスは正当な宿主となら、穏やかに共存出来ます。だって、困るでしょ。せっかく入った家が、すぐに壊れてしまっちゃあ。だから、激しい症状を起こして宿主を殺してしまうようなウイルスは、本来の宿主ではないものを選んだということになります。ただし、もともと無害だったものが、強毒性を持つように変異する場合もありますし、天然痘のように、ヒトにししか感染しないのに、病気を起こすものもいますけどね。ま、そのせいで天然痘は自然界では絶滅させられてしまいましたケド。
 さて、バイオテロの話にもどりましょう。まずは、生物兵器の代表である炭疽菌からです。なぜ生物兵器として使われたかというと、炭疽菌は生存に危機的状況に陥ると芽胞という形になってその場をしのぐからです。一旦芽胞状態になると、空気も栄養もない状態でも何年も生き延び、かなりの高温低温にも耐える事ができます。炭疽菌は人から人へは感染しませんが、そのような特徴からと、その毒性の高さにより生物兵器の代表格となったのです」
「そうか、無酸素状態にも高温にも強いということは、爆弾に仕込みやすいということですね」
「そうです、ユリコ。馬鹿馬鹿しい話ですが、弾道ミサイルにだって仕込めますよ。さて、炭疽菌は人から人へは感染しませんが、吸入したり、食べたり、炭疽菌が傷口から体内に入ったりして感染、発症します。皮膚に病巣を作った皮膚炭疽・・・まんまですが、の場合、中心部が炭のように黒くなります。炭疽菌といわれる所以ですね。英語の『アンスラクス』という名前は、ギリシャ語の木炭や石炭という意味からきています。皮膚炭疽の場合は、比較的致死率は低く、抗生物質で適切な治療を受ければほぼ治ります。ただし、放置した場合の致死率は約10~20%です。時に炭疽菌が血液を回り、毒素で敗血症を起こすからです。次に、炭疽菌で汚染された肉を食べた場合の消化器炭疽ですが、これは、致死率が上がり未治療の場合は50%です。これも、適切な治療を受ければ致死率はぐんと下がります。それに、汚染肉を生で食べるということかなり珍しいことなので滅多におこりません。最後に吸入炭疽です。これは、名前の通り炭疽菌を吸い込むことによって菌が肺胞まで届いて発症するもので、アメリカの炭疽菌テロ事件での死者5人はすべてこれでした。この致死率は90%と言われていますが、早めに抗生物質で適切な治療を受ければ高い確率で回復するということがわかりました。この吸入炭疽も自然発生では非常に珍しいものです。何故炭疽菌テロでは吸入炭疽が多いかというと、芽胞状態になった炭疽菌を吸入して肺胞まで届きやすくする細工がされているからです」
「細工?」
と、由利子が聞いた。
「そうです。普通、炭疽菌芽胞は周囲に電位を帯びていて・・・、まあ、一粒がベタベタしていると考えてください。非常にお互いがくっつきやすいんです。しかし、その状態では肺胞まで届くことは難しいのです。ですから、自然発生することは非常に珍しいのです。しかし、その電位を取り払う方法を見つけた機関がありました。米国メリーランド州にある米国陸軍基地にあるフォート・デトリックです。そこは当時生物兵器の研究をしていました。まあ、1975年の生物兵器禁止条約発効後もこっそり研究していたようですが。で、調べた結果、テロに使われた炭疽菌はその技術が使われていることがわかりました。その技術は極秘扱いとなっていましたから、米国の炭疽菌テロは、フォート・デトリックから持ち出された炭疽菌が使われた可能性が高いということになったのです。因みに後々他の生物兵器所持国家でもそれぞれの方法で電位を取り除く技術を持つ様になりました」
「結局マッチポンプだったってこと?」
と、これまた由利子。
「いえ、そうではありませんが、米陸軍の炭疽菌テロへのあの対応の早さは、それと無関係ではなかったかもしれませんね。炭疽菌のしつこさはですね、1942年から43年の間、英国の炭疽菌実験に使われたグリニャード島では、実験で大量にばら撒かれた炭疽菌芽胞がなかなか死滅せず、1986年から87年にかけて、大量のホルムアルデヒドを土に混入してようやく死滅させたということからもわかると思います」
「ホルムアルデヒドってホルマリンですよね」由利子は眉を寄せながら言った。「そっちの方が炭疽菌より危険な気がするなあ・・・」
「そうですね。まさに毒を以って毒を制すってやつです。さて、炭疽菌にも有効なワクチンがあります。副作用も少ないのですが、かなり痛いらしい。軍人ですら、接種後は痛くて仕事にならないくらいです。それを6回に分けて接種し、その後も毎年追加してワクチンを打たねばなりません。だから、米軍人でもこれを受けるのは、炭疽菌感染リスクが高い人たちだけです。因みに、O教団のバイオテロが失敗した原因として、彼らが知らずに毒性の少ない炭疽菌のワクチン株を使ったためだといわれています」
「ワクチン株を渡した人GJ!ですね!」
と、今度は葛西が言った。
「まったくです。もし、成功していたらと思うと、ゾッとします。まあ、生き物を利用するのですから、扱いは通常兵器より難しいと思います。次に、ウイルス兵器の代表格、天然痘についてお話しましょう。まず、二人ともこちらに右肩を向けてみてください」
由利子と葛西は、何だろうと思いながらも疑わずにそれぞれギルフォードに右肩を差し出した。

「今頃ジュンペイは、彼女といっしょに先生の講義を受けているんやろうな」
多美山は、代わり映えのしない隔離病棟で本を読む間に、時計を見ながらつぶやいた。
 葛西が多美山と過ごしたいと言ってくれた時、本当はとても嬉しかった。しかし、それを素直に受けることは、多美山には出来なかったのだ。もし、ジュンペイがいる時に急に病状が悪化したら・・・、いやそれ以上に怖いのは・・・。そこまで考えて、多美山は頭を振った。思うだに恐ろしかった。しかし、美千代の所業が思い出したくないのにフラッシュバックし、多美山は、頭を抱えてベッドに突っ伏した。
(もし発症したら、俺はどうなる・・・?)
眼に見えない悪魔に怯える日々。一旦発症したら、治療不可能な新型のウイルス感染症。今、俺の身体はじわじわとウイルスに冒されているのか? だとしたら、どれくらいなのか? 俺は死んでしまうのか? 赤い血を撒き散らし、周囲を朱に染めながら・・・? 美千代の前に立ち塞がった時に、覚悟を決めたつもりだった。だが、こうやって一人でいると、恐ろしさがだんだん迫って来る。耐え難い恐怖が。その時、ドアをノックする音が聞こえて、看護士の園山が入ってきた。
「こんにちは。検温に参りました。体調の方はいかがですか?」
「園山さん、ありがとう。助かりました」
多美山は我に返りながらほっとして言った。
「え? どうかなさいました?」
園山は、きょとんとした顔で多美山を見て言った。

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2.侵蝕Ⅱ (3)ギルフォード教授の野外講義 後半

※この講義でふれた種痘の件ですが、これを書いたころはまだ由利子さんの年齢にも種痘の痕があっておかしくありませんでした。しかし、書いていくうちに年月が経ち、由利子さんどころか教授すらその年齢には種痘接種痕のない時代になってしまいました。最終的に書きなおす予定ですが、しばらくはこのままであることをご了承ください。

 由利子と葛西が教授の講義を受け、多美山が園山看護士の顔を見てほっとしている頃、とある場所で大変な騒ぎが起きようとしていた。

 D市在住の大坪俊男は、夕方恒例の犬を連れた散歩をしていた。彼は定年退職後、D市の閑静な住宅地で悠々自適の生活をしていた。彼はこの地に住んでから長いが、近年増え続ける無頼学生に辟易していた。俊男は、今日は気分が良かったので、なんとなく遠出をしてみようと思い、山の方に入った。犬のタロウは、今日の散歩が長いことがわかって、嬉しそうにあちこち嗅ぎまわりながらたまにマーキングをしつつ、歩いている。彼は、柴犬系の白い雑種犬で、滅多に飼い主を引っ張るようなことはなかった。
 山道を通って、俊夫は県道に出た。県道とはいえ、山の中の道路である。歩道は無くその分路肩が広めにとってあった。俊男は、張り切って歩きすぎたと苦笑いしながら愛犬に話しかけた。
「タロウ、遠くに来すぎたごたるけん、そろそろ引き返そうか」
あまり道路際を歩くのを好まない俊男は、タロウを軽く引っ張ろうとした。しかし、タロウの様子がおかしい。耳をピンと立てて何かを警戒している。その後、クンクンと臭いながら、珍しく飼い主を引っ張って草むらの方に歩いて行こうとした。
「なんかあるとや?」
俊男は怪訝そうにタロウの向かいたがる方向に、慎重に歩いて行った。タロウは草むらの一部を見ながら足を止め、上半身を低くしてウーッ!と警戒の唸り声を上げた。その時、草むらがワサワサと揺れ、何か黒い塊が飛び出してきた。
「うわ~!!」
俊男は悲鳴を上げた。タロウは再び低くうなると、ワンワンと激しく吠え立てた。それは大量の虫のようだった。タロウの剣幕のせいか、虫たちは反対方向に逃げ去った。俊男は腰を抜かさんばかりに驚いて言った。
「な・何やったとや、ありゃあ? 心臓が止まるごとあったぞ」
しかし、タロウはまだ警戒を解いていなかった。彼はクンクンと草むらのにおいを嗅ぎながら、何かを探していたが、ある地点でピタリと足を止め、急に怯え始めた。
「あの草むらに何かあるとや?」
俊男はタロウに聞いた。タロウは怯えたまま、今度は頑として動かない。仕方ないので、俊男が様子を見に草むらに入っていった。草をかき分け進むと、何かが足に当たった。固いけれど何となく弾力があるような、妙な感触。嫌な予感がして、俊男はゆっくりと・・・ゆっくりと下を見た。
 

 ギルフォードは、二人に右肩を自分の方に向けさせると言った。
「じゃ、二人とも、肩まで袖を捲ってみて」
「ええ~? 何でそんなこと・・・」
由利子が言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「天然痘に関わる重要な事ですよ。別にストリップしろって言ってるんじゃないですから」
「わかった! 種痘の痕(あと)ですね!」
葛西はポンと手を打って言った。
「正解です。そういうことですので、ユリコ」
ギルフォードは自らの袖も捲りながら言った。「僕にも右の二の腕・・・というか肩に近いところに、はんこを押したような痕があります。ユリコにもありますね」
ギルフォードに言われ、由利子はしぶしぶ袖を捲り上げて言った。
「はい、あります」
「あ、ジュン、ちょっと失礼」
ギルフォードは、手を伸ばして葛西の右腕をとってから言った。
「おや、意外と筋肉質ですねえ」
「一応警官ですから」
と、葛西は若干テレながら言った。
「まあ、それはともかく・・・」ギルフォードは、由利子が何となく冷たい目で見ていることに気がついて、話題を戻して言った。「ほら、彼の腕にはないでしょう? 多分左腕にも無いと思います。ある年代から、種痘を受けなくてもよくなったからです。日本では、1976年に種痘が中止されましたが、その前から種痘を行わなくなっていました。日本での天然痘の自然発生がゼロになっていたのと、副作用の問題が顕在化してきたためです。ユリコの年代が種痘を受けたギリギリのラインではないかと思います」
「アレク、何さりげなく葛西君の腕を持ったままにしてるんですか。葛西君困ってるじゃない」由利子は葛西が気の毒になって言った。「そもそも、フツーそーゆーことは女性に対してやるもんでしょ」
「だって女性にやったらセクハラじゃん」
「そりゃあ、フツーのオヤジならそうでしょうけど、アレク、あなたの場合はイテッ!・・・今、私の足、蹴りましたね!」
「あ、ゴメンナサイネ、足が長いもんで。では、あなたも腕を掴んで欲しかったですか?」
ギルフォードは、そう言いながらテーブルに両肘をついて両手を組みあごを載せ、にっと笑った。
「あのね、アンタね」
由利子はムカッとして、椅子から立ち上がると、テーブルにバンと手を置いて、ギルフォードに迫った。しかし、彼はクスクス笑いながら言った。
「それが地なんだ」
由利子は、その一言で真っ赤になった。しまった、つい、アンタと言ってしまった。横を見ると、葛西が驚いて目を丸くしていた。
「あ、失礼っ、つい・・・」
由利子は無礼を詫び、焦って席に就いた。しかし、ギルフォードは笑いながら言った。
「ノー・プロブレムです、ユリコ。猫は被らなくていいんですよ。これから長いお付き合いになるかもしれないんだから、地はどんどん出してください。そのためのレクリエーションです。僕も女性は活きの良い方が好きですし。では、続きをやりましょう。さて」
ギルフォードは姿勢を正して椅子に座り直すと言った。
「天然痘は、医学では痘瘡と言いますが、ここでは馴染み深い天然痘でいきましょう。天然痘というのは、種痘に対して自然発生する痘瘡をいうようになったようです。このウイルスは人類によって始めて制圧されたウイルスです。種痘という有効なワクチン接種があったことと、自然界ではヒトだけが保有するウイルスであったことが、根絶出来た主な理由です。1980年、WHOは自然界の天然痘ウイルスの根絶を宣言しました。地球上の何処にも天然痘ウイルスが存在しなくなったのです。ただし、いくつかの研究所を除いてですが。その後、何度かの不幸な事故、つまり、バイオハザードで何人かの命が奪われ、結局、天然痘ウイルスは、現在、アメリカのCDCとロシアのベクター研究所の2箇所のみが保管するということで落ち着いています。でも、ほんとは保管されたウイルスは、解明が終わったと同時に廃棄されるはずでした」
「廃棄されなかったんですか?」
由利子が尋ねた。
「はい。密かに誰かがウイルスを悪用しようと保管している可能性は残っており、それがテロや兵器に使われた時に、抗ウイルス剤やワクチンを作るために必要だというのです。まあ、本音は一番怖いのはウイルスを所有しているお互いの国ということだったんでしょう」
「核兵器開発と同じ理由ですね」
と、葛西が言った。
「そうです。まあ、もし、廃棄が実現していたとしても、お互い密かに隠し持っていたでしょうケド。炭疽菌と同じようにね。廃棄に反対する意見の中で面白いのは、病原体とはいえ意図的に人類が一つの種を消滅させてしまっていいのかという、とても『人道的』な意見です」
「ウイルスにとっては、まさにそう言う気持ちでしょうけど、なんだかな」
葛西がいうと、由利子も
「まったくだわ。既に天然痘ウイルスをフルボッコにしていながらそれはないと」
と、苦笑しながら言った。ギルフォードは由利子が言った言葉に興味を持ったらしく、すぐに尋ねた。
「フルボッコ・・・?何ですか、それは?」
「あ、フルパワーでボッコボコにするって意味の略語です」
「オー、ボッコボコは、殴る時の擬音ですね。やはり日本語は面白いです。いろんな言葉を取り入れて新しい言葉を作りますね。あ、すみません、また脱線しましたね。・・・ですから、根絶したことが皮肉にも、この古典的ともいえるウイルスを最強の生物兵器のひとつにしてしまったことになります。しかし、僕は、天然痘撲滅は、アポロの人類月着陸に匹敵する・・・いえ、それ以上の偉業だと思っています。少なくともそれに関しては、人類が初めてひとつの目標のために協力しあったのですから。ですから、これを意図的にばら撒き、元の木阿弥にするのは許せないことです。」
聴講生二人はうんうんと頷いた。
「天然痘は、炭疽病と違って人から人へ感染します。潜伏期間の感染はないですが、身体に発疹が出て天然痘と発覚する前に口や気管の粘膜に発疹が出来、咳やくしゃみによってウイルスが飛び散って他の人に感染します。もちろん全身に広がった発疹の膿や瘡(かさ)からも感染します。天然痘の発疹は独特ですが、最初は水痘、いわゆる水疱瘡と区別がつきにくいです。水痘の場合は天然痘に比べると致死率も低く後遺症も少ないです。痕は少しは残りますが、天然痘のような目立った瘢痕(はんこん)は残しません。しかし、水疱瘡が治癒した後も、水痘ウイルスは神経系に隠れ、何十年も経って、免疫の弱った時を見計らって悪さをします。いわゆるヘルペス・・・、帯状疱疹ってやつです。
 さて、天然痘の発疹は痘疱(とうほう)といってとても特徴的です。同じような大きさの・・・う~~~ん、荷造り用の緩衝材にプチプチ・・・エアークッションがありますね、あのプチプチに空気ではなく膿をつめたようなのが主に手足と顔にびっしりと出来ます。大きさは約10mm程度で少しへこんでいます。身体の前の方はそこまでびっしりにはなりません。そこらへんも水疱瘡とは違います。致死率は高いですし、治癒してもすごい痕が残ってしまいます」
「天然痘ウイルスが今撒き散らされたら大変ということですね。種痘を受けていないからみんな免疫がない」
「そうです。僕も君も種痘の効果はとっくに切れてますから、ジュンとリスクはあまり変わりません。世界中の人間が、およそ30年天然痘ウイルスに触れていないということです。まったく免疫がないことが、どういうことかというと、南米の先住民・北米の先住民、共に、侵略者の持ち込んだ、天然痘ウイルスによって壊滅的な被害を受けました。天然痘患者の膿をつけた毛布を、北米先住民に意図的に配ったという記録もあります」
「なにそれ、ひっどいことしたんだ」
「まあ、その酷いことをしたのは、イギリス人なんですが、僕も許せない行為だと思います。ネイティヴ・アメリカンは勇敢でしたから、まず、その戦闘能力を奪おうとしたのでしょう。当時は病原性微生物によって感染症に罹るという概念はなかったのですが、経験的に試してみたのだと思います。結果的に生物兵器を使ったことになります。それにより、イギリス軍は先住民との戦争に優位に立ちました・・・。もちろん、軍事力の差は大きかったので、残念ながら、いずれは征服される運命だったのでしょうけど・・・」
「歴史の影に微生物あり、ですね」
と、葛西が言った。
「そうですね。さて、話は現代にもどりますが、今度天然痘が自然発生を始めた場合、以前のような根絶運動はできません。なぜなら、エイズの問題があるからです」
「あ、アフリカやアジアの貧困層に蔓延しているみたいですからね」
と、これも葛西。
「そうです。HIV感染で免疫の低くなっている人たちへのワクチン接種は、命取りになりかねません。それでなくても副作用があるのですから。たった30年で、世界はあの時と全く状況が変わってしまったのです」
「アレクはその天然痘ウイルスはどうすべきだったと思う?」
「僕はもちろん廃棄派ですよ、ユリコ。根絶運動の苦労は聞いてますから。種痘はね、覚えてないかも知れないけど、二股針という器具を使って何度も皮膚を軽く刺してワクチンを植え込むんです。そういう行為をするのですから、未開地の部族の方たちに接種する場合など、まず、信頼関係を築かねばなりません。命がけで身体を張って・・・、そう、何かがあったら殺される覚悟で種痘を行った医師だっているんです。それに、ワクチンを作るために犠牲になった牛さんたちにも申し訳ないです」
「牛?」
由利子が訊いた。何故牛?
「そうです。ジェンナーは牛痘・・・牛の罹る天然痘ですね、に罹った人は、天然痘に罹らないということを証明するために、牛の乳を搾る女性の手に感染した牛痘の病変から取った膿を、当時8歳だった羊飼いの少年に接種しました」
「ええ? 自分の息子にじゃなかったんですか?」
「いえ、残念ながら最初の実験では他人の子を使ってます。その少年は、その後20回ほど天然痘患者の膿を接種させられましたが、発症しませんでした。まあ、それが種痘の始まりなのですが、問題があって、人の膿を使うので、ほかの病原体も混じることがあり、ひどいときには種痘によって梅毒もついでにもらってしまうこともありました。英語では天然痘をスモール・ポックス、梅毒は古い言い方でグレート・ポックスというのですが、まあ、天然痘を予防するつもりが、似たような名前の病気に感染してしまうという、洒落にならない状態を招いたりしたのです。因みに名前は似ていますが、この二つは全く違う感染症です。梅毒の発疹に比べて天然痘の発疹が小さいのでこう呼ばれるようになりました。梅毒の病原体は、スピロヘータという細菌と原虫の中間に位置するような単細胞生物です。で、その後、子牛の腹を使ってワクチンを作るという、方法が考え出されたのです。今では動物愛誤の考えから、この方法は使えないでしょうが、天然痘根絶運動の時までは、この古典的方法が使われてきたのです」
「で、ワクチンに使われた牛は・・・?」
と、由利子がすかさず訊いた。
「う~ん・・・、言い難いですけど、だいたい処分されたということです」
「酷い! 使い捨てだったんだ。役に立った牛ということで死ぬまで面倒見るべきでしょう!!」
「そうです。でも、当時にはそういう考え方なんかなかったのでしょう。実験動物は実験が終わったら処分があたりまえだったのではないでしょうか。だから、天然痘根絶の影には、多くの牛さんたちの尊い犠牲があったのです。因みに1頭の牛からは2万人分のワクチンがとれました」
ギルフォードは、フォローともいえないフォローをしたが、由利子の憤りは納まりそうになかった。
(”これじゃ、牛でどうやってワクチンを作るかまで話したら、俺に噛み付きかねんなあ”)
そう思ったギルフォードは、その説明は避けた。その製造方法とは、牛をよってたかって仰向けに押さえつけ、腹の毛を綺麗に剃って、腹全体に縞模様に浅い傷をつけ、そのワクチンの元となるウイルスを擦り付ける。そのあと、ガーゼで傷を覆うが、牛が疲れて座ったら泥がついて台無しになるので、縛り付けて立たせたままにする。一週間後牛の腹に溜まった膿を、また仰向けにねかせて削り取る。それがワクチンになるのだ。明らかに今なら動物福祉法(日本では動物愛護法あるいは実験動物の飼養及び保管等に関する基準)違反であろう。そんな辛い目に遭わされた挙句に殺された牛たちは、迷惑なんてものじゃなかったろう。彼らにとっては、まさに災厄である。
 ギルフォードは話の矛先を変えることにした。
「天然痘撲滅には、日本人も重要な立場で関わっていたんですよ。天然痘根絶計画の2代目のリーダーは、日本人のアリタ(蟻田)博士でした。
 それから、種痘は副作用が強いワクチンで、時に脳症をひきおこしました。それは1歳未満の乳児に多かったので、種痘接種の年齢を1歳半からに上げたりとリスクを減らす工夫はされたのですが、それでも、種痘による副作用は時にですが、おきてしまいました。副作用は、種痘後脳炎のほかに、免疫が落ちた人におこりやすい進行性種痘疹、これは、しばしは致死的状況を招きます。それから、健康な人に時におこる全身性種痘疹、これは見かけに反して予後はいいです。以前、テレビのバラエティ番組で、女性お笑いコンビの黒い方が、子どもの頃種痘の後に発疹が出て、いろんな医者が見に来たとか言ってましたが、彼女もおそらく全身性種痘疹だったのだと思います。まあ、副作用が多いワクチンとはいえ、医者が見に来るくらいなのですから、やはりめずらしいことだったのでしょう。
 で、1970年代の初め頃、日本のハシヅメ(橋爪)博士が脳炎を起こす確率の低い、安全なワクチンを開発されました。しかし、当時はすでに、天然痘は撲滅されつつあり、日本の種痘は1976年には中止されていたので、この、ハシヅメワクチンが、その威力を発揮する機会はなかったですが、昨今のバイオテロの心配から、また注目されるようになりました」
そこまで言うと、ギルフォードは由利子の顔を見て言った
「安心してください、ユリコ。今のワクチン製作の多くは、培養細胞や卵などを使っており、生きた動物は使ってません。これは、動物福祉法の関係もありますが、他の病原体の汚染を防ぐためでもあります」
由利子は納得したようなそうでないような顔をして頷いた。
「さて、これで、何故天然痘によるバイオテロが恐れられているかわかりましたか」
「はい。そういえば、半島にある北の某国ほか数カ国が、天然痘ウイルスを持っている可能性があると聞いたことがありますが」
「そうですね。ソ連の崩壊で、食い詰めた生物学者が、生活に困って売っ払ったり亡命時に持ち込んだりという可能性はあります。だから、さっさと廃棄すべきだったんです。ウイルスの保管は難しく、それなりの設備や技術も必要ですから、その国が隠し持っていたというより、ロシアから得たと考えるほうが無難でしょう」
「なるほど」
由利子は納得した。
「では、時間がなくなって来ましたので、駆け足で次にすすみましょう」
 

 俊男は、ゆっくりと足元を見て、息をのんだ。ついで心臓が飛び出るほど驚いたが、今度は驚きすぎてろくに悲鳴も上げることが出来なかった。
「ひ、ひぃ~」
全力で絞り出たのは、こんなかすれた声だった。俊男は見下ろした先にあったものを、凝視していた。頭ではそれを拒否しているのに、身体が動くことを拒否し、眼が勝手にその全貌を確認した。そこには、死体の頭部らしきものがあった。らしきと言うのは、食い荒らされて顔の特徴部がほとんど無くなっていたからだ。瞼や鼻・唇はすでに食いつくされ、眼球もしつこく突かれた跡があった。目鼻や耳から入った虫から、脳も相当食われているようだった。死体の首から下は大まかには欠けてはいなかったが、細部はあちこち食われてしまっていた。衣服から男性だということの予想はついたが、年齢他、見当がつかないほど、損傷が激しかった。呪縛が解けたように俊男は動き出すと、よろけながら草むらから脱出した。
「う・・・うげぇ」
うずくまり、何度も吐きそうになるのをこらえて、ズボンのポケットから電話を取り出した。
「うげ、ひゃ、ひゃくとおばん・・・おえ」
食事前で良かった、食ってたら確実に吐いていた・・・。俊男は心の隅で思った。そんな俊男を心配して、タロウがやっと動き出し、心配そうに彼の傍に座った。焦りながら、110番を押そうとするが、指が震えてなかなか押せない。その様子を不審そうに見ながら車が何台も通り過ぎていった。そんな中、俊男を心配したのか、その中の一台が引き返してきて、路肩に止まり助手席の女性が降りてきた。
「どうなさいました?」
それは上品そうな熟年女性だった。
「あそこに、し、死体が・・・」
「死体?」
彼女は、俊男が指差している方向に行こうとした。
「だ、だめです! 女性が見るもんじゃなかですけん」
俊男はあせって止めた。その様子を見てただ事じゃないと思ったのだろう、運転席の男の方も降りてきた。
「夏美、どうした?」
「あ、あなた・・・。あの、あそこに死体があるそうなんですよ。どうしましょう」
「死体? なんかの見間違いじゃないのかい?」
夫は、夏美の指差した方へ向かった。その時、俊男がようやく110番通報に成功した。
「F県警本部、通信指令室の河上です。どうされました?」
「は、はい・・・。うげ」
「落ち着いてください。事故ですか、事件ですか?」
「た、多分事件です」
その時、死体を見た夫が悲鳴を上げて、草むらから飛び出してきた。
「こ、こりゃいかん、警察を呼ばにゃ」
「今、電話されているようですよ」
慌てる夫に妻が答えた。通報先の警官にもその悲鳴が聞こえたらしい。
「今なにか悲鳴が聞こえましたが、大丈夫ですか?」
「今、死体を見た人が上げた悲鳴です」
「死体! それは大変だ! まだ息があるようなことはありませんか」
「あれで生きとったら・・・。死後だいぶたっとるようですけん」
「状況を説明出来ますか?」
「状況は・・・、うげ・・・、すんません。とても・・・。とにかく、道路脇の草むらに男の死体が隠してあったとです」
「わかりました。場所はどこですか?」
「D市の県道の・・・、すんません、説明出来そうにありません」
「近くに電柱か自販機はないですか?」
と、警官が尋ねた。固定電話の場合は住所を特定できるが、携帯電話の場合は特定が難しいので、最寄の自販機に書いてある住所、無い場合は電柱の記号で割り出すのだ。
「電柱か自販機ですか?」
俊男はそれらを探そうと周りを見回した。その時、いつの間にか夏美とその夫がタロウと共に、傍で電話の内容を心配そうに聞いていたことにようやく気がついた。
「電柱か自販機ですね」夫の方が言うと、半屈みの状態から立ち上がり、道路際に出て周囲を見回した。
「あ、あそこに電柱があります! ちょっと遠いので僕が見てきましょう。何を見てきたら・・・」
「電柱、あるそうです!」
俊男は警官に告げた。
「では、電柱に番号が書いてありますから、それを教えてください。それで、場所が特定できますから」
「わかりました!」俊男はすぐにそれを協力者に告げた。「電柱の番号だそうです」
「わかりました、見てきます!!」
と言うや、夏美の夫は電柱まで駆け出した。
 

「さて、生物兵器と一口にいいますが、幅が広く、使われる微生物も細菌やウイルスだけでなく、リケッチア・クラミディア・真菌・・・いわゆるカビです、などが使われます。また、生物そのものではなく、それが出す毒素を利用する場合もあります。リシンなんかはよく暗殺に使われます。これは、ヒマという植物の実から抽出した毒素で、猛毒です。摂取したばあいの有効な治療法はありません。ヒマは世界中に自生する植物なので、入手しやすい毒素ということになります。
 O教団がテロに使おうとして失敗したのは、ボツリヌス菌の作り出すボツリヌス毒素です。これは、毒素兵器の代表格なので、少し詳しく説明します。ボツリヌス毒素は、地球最強の毒素で、その毒性は青酸カリの30万倍の強さともいわれています。ボツリヌス菌は、嫌気性の細菌なので、無酸素下でどんどん増えます」
「あ、そういえば、ずいぶん前ですが、からしレンコンからボツリヌス中毒を起こした事件がありました。おかげで、いまでもからしレンコンといえばボツリヌス菌とインプットされちゃってて。まあ、食べますけど」
と、由利子が言った。
「なるほど。ボツリヌス菌は、よく土の中にいるので、たまたまレンコンに付着した菌が、除菌を免れて真空パックの中で増えたのでしょう。酸素を嫌う菌ですから、よくソーセージの中で繁殖して中毒患者をだしますから。ボツリヌス菌も炭疽菌と同じように芽胞を作りますから、熱や乾燥や消毒にも強いです。ただし、毒素自体は高温に弱いですから、熱を加えると無毒化します。ですから、真空パックのものは、過熱して食べたほうが無難なわけです。
 ボツリヌス毒素を摂取すると、普通、1日から数日後に症状が表れます。まず、頭の方から症状が現れます。物が二重に見え始め、ものが飲み込めなくなり、声が出せなくなって、顔から表情がなくなります。その時眼瞼下垂といって瞼が下がるという特徴的な症状がでます。進行すると、全身が脱力して最終的には呼吸困難を起こして死亡します。恐ろしいのはその間意識がはっきりとしているということです。治療しない場合の致死率は20%ですが、これは毒素の摂取量によってもかわります」
「予防や治療法は?」
「はい、今までヒトに中毒を起こした菌型の抗血清はありますが、毒素が神経組織と結合してしまった場合には効果がありません。ボツリヌス中毒で呼吸困難を起こした場合は人工呼吸器をつけてその場をしのぐしかありません。それで神経組織が新たに再生するのを待つのです。有効なワクチンはありますが、珍しい中毒なので、現在ボツリヌスを扱う人にしか接種されていません。まあ、あるかどうかわからないテロのためにワクチンを接種する必要はありませんからね。
 しかし、怖いのは、そのボツリヌス毒素が実際に使われた場合です。テロを含めてボツリヌス毒素を兵器として使う場合は、エアロゾルにして空気中に散布します。もちろん無味無臭ですから、住民は気がつかないうちにボツリヌス毒素に曝露されます。そして間を置いて続々と中毒患者が発生しますが、この場合、患者数が多すぎて、人工呼吸器が足らなくなる可能性は充分にあります。街はパニックに陥るでしょう。サリンテロは行われてしまいましたが、バイオテロが失敗したことは、不幸中の幸いでした。ボツリヌス毒素は国会付近で撒かれていました。毒ガスの場合、効果はすぐに出ますから早急に対処できますが、生物兵器の場合は潜伏期間があり、発症までにタイムラグがあります。その間に、水面下で被害が拡大してしまいますから」
「今回の事件も、今現在水面下で広がっている可能性があるんですよね」
葛西が浮かない顔をして言った。急に心配になったらしい。
「そうでないことを願いたいですが、可能性は高いでしょう」
「こんなことをしてていいんでしょうか・・・?」
「だって、どうなってるかわからないんだもん、じたばたしても仕方ないじゃん」
ギルフォードは、珍しく投げ遣りともいえる発言をしたが、そうではないことはすぐにわかった。
「だから僕たちは、今出来ることを精一杯やるしかないんです。今、君達がすべきことは、バイオテロについてしっかり学ぶことです。そうでしょ」
ギルフォードの言葉に、二人は黙って頷いた。
「もし、何か進展があった場合、すぐに感対センターから僕の携帯電話に連絡が入るようになっています。今のところ、特に連絡はありませんから、ゆっくりしてて大丈夫ですよ。それに・・・」
「それに、何ですか?」
と由利子が訊いた。
「もし、事件が動き始めたら、ひょっとすると休日すらなくなるかもしれません。休める時に休んでおくべきです。では、講義を続けますよ」
「はい」
聴講生二人は同時に返事をした。
「その他の毒素兵器に使われそうなものは、フグ毒のテトロドトキシン・カビ毒のマイコトキシンがあります。マイコトキシンの中で元も重要なのがコウジカビの一種フラバン菌の作るアフラトキシンです。この毒素は安定していて熱にも強く、発がん性があります。一度に大量のアフラトキシンを摂取すると、急性中毒をおこし、最初腹部の不快感を覚え、その後黄疸をおこし、最終的には手足の痙攣、こん睡状態に陥り死亡します。有効な予防も治療法もありません。コウジカビだけにまさに『醸して殺すぞ』ってやつですね。フセイン時代のイラクでは兵器化に成功していたと言ううわさもあります。熱に強いので、エアロゾルとして撒くほかに、ミサイル等に搭載も出来ます。
 細菌では赤痢菌の、今では病原性大腸菌O157の毒素としてのほうが有名なシガ(志賀)毒素、これは、ボツリヌス菌や破傷風菌毒素に匹敵する強毒素です。そして、黄色ブドウ球菌腸管毒素、これは、毒性は今まで挙げたものほど強くなく、致死率も1%以下ですが、エアロゾル化して散布した場合、発熱や嘔吐などの症状で、敵を無力化することが出来ます。治療法がないので、対症療法しかないのが現状です。
 次に、リケッチャとクラミディアです。これらの名前はユリコはあまり馴染みがないのではないかと思いますが・・・」
「あ、クラミジアですよね。それ、聞いたことがあります。たしか性病の・・・」
「それは、性感染症のクラミディア・トラコマティスですね。兵器として使われる可能性のあるクラディミアは、オウム病の原因微生物で、種類が違うのです。こちらはズーノシス・・・人獣共通感染症です」
「あ~、違うんだ」
「そうです。リケッチャやクラミディアは、科の名称です。共に、細菌より小型で、自前の細胞はもっていますが、完全ではないので、ウイルスと同じように他の細胞を利用して増殖します。細菌とウイルスの中間に位置するような生物です。この中では、生物兵器として米陸軍がかつてユタ州の兵士を使って人体実験を行い、また、O教団が特に興味を持っていたという、Q熱について簡単に説明しましょう。
 これは、最初なかなか病原体が見つからず、英語で”Query”・・・謎と言う意味ですが、この頭文字から名づけられました。伏字にしたわけではありません。これは致死率は低いですが、発症した場合病気が長引きますので、黄色ブドウ球菌毒素と同じように、敵の無力化のために使われます。また、Q熱リケッチャは芽胞に近い構造をとることが出来るので、熱・乾燥・消毒に強いという、生物兵器向きの構造をしています。さらに、このQ熱は、たった1個のQ熱リケッチャを取り込んだだけで発症するくらい感染力が強いです。このQ熱リケッチャと同じように、敵の無力化に使われるものに、ブルセラ菌があります」
「ブルセラ?」
由利子が苦笑して言った。
「ブルマーとセーラー服の略じゃありませんよ。僕も最初、驚きました。僕が講義でこの細菌の名前を言うと、講義室内のあちこちでクスクス笑い声がするんです。不思議に思って調べたら、そういう名の風俗系ショップがあると知りました。ブルセラ症は、僕にとっては笑えない感染症ですが、そういう店があることも笑えませんね、公衆衛生的にも」
ギルフォードは、やや不機嫌そうに言った。
「そうですね」由利子も相槌を打って言った。「日本人に、だんだんプライドやモラルが欠けていってるんじゃないかって、よく思います」
「日本人の、娯楽や性風俗のアイディアには、ユニークなものが多いと感心はしますけどね」
「褒められたんだか、けなされたんだか・・・」
由利子が苦笑しながら言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「両方です。さて、生物兵器ですが、直接人間に攻撃を仕掛ける方法ではないものもあります。農作物や家畜を狙う、アグロテロです。しかし、今回はアグロテロはあまり関係ありませんから、簡単にお話します。近代戦の兵器としては、対人間よりも、対家畜のアグロテロが先でした。旧ドイツ軍は、敵方の家畜に炭疽菌や鼻祖菌を感染させようとしました。また、旧日本軍は牛疫という、牛には致命的な感染症を起こす牛疫ウイルスを乾燥させて風船爆弾に詰め込んでアメリカを攻撃する計画を立てていました。結局これは実行されませんでしたが、もし、実行されていたら、アメリカにはまだ牛疫は上陸していなかったので、相当な被害を受けたかもしれません。日本から風船爆弾は9300発が放たれた内、361発がアメリカ本土に届いていたといいます。今は、牛疫には有効なワクチンがありますので、生物兵器としての重要度はなくなりました。今は、同じく牛のウイルス病で有名になった口蹄疫ウイルスや、豚に強い感染性を持ち、時に致命的な病状を示す、ブタコレラウイルスが生物兵器として有効だと考えられます。
 口蹄疫は豚にも感染しますが、いずれにしても、致死率はあまり高くありません。しかし、これに罹った牛は乳を出さなくなってしまいます。感染力が強いので、現在もこれに感染した牛や豚は殺処分されています。ですから、もしこれがアグロテロとして撒かれた場合、相当な経済的損失を受けることになります。このように、アグロテロは、動物や植物のみに感染する病原体を使いますので、テロリストに安全で、人の犠牲者も出しませんが、経済的なダメージを相当与えるものであり、それを狙ったテロということになります。
 さて、バイオテロに関して重要なことを出来るだけわかりやすくお話しましたが、理解できたでしょうか?」
ギルフォードは、二人に尋ねると、ようやく一息入れた。 

 

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2.侵蝕Ⅱ (4)テロと生物兵器

 荘厳で重厚な回廊を、三人の男が足早に歩いていた。彼らは、一際荘厳さの際立つ部屋の扉の前に並んだ。扉の両側に立った、親衛隊らしき二人が彼らを見るとサッと姿勢を正した。彼らの中で一番格上らしい50代の男が言った。
「長兄さまはおられるか? こちらに来ておいでのはずだが」
「はい。ですが、ただいまは瞑想の間に入っておられます」
二人の「衛兵」は異口同音で答えた。
「瞑想の間か。厄介な場所に入っておられるな。あそこは、一切の電波が遮断されておる」
「広間の前で待つしかないでしょう」
彼の息子らしき男が言った。
「そうだな、では、そちらに向かうとしよう」
三人は、「衛兵」に背を向けるとその場を後にした。「衛兵」たちは、一糸乱れずに敬礼をし、また元の微動だにしない姿勢に戻った。
(ふん、双子でもないのに、相変わらず気味の悪い連中だ。まるでロボットだな)男は、密かに思った。(彼のお付きの連中はみんなこんな感じだ。まるで意思と言うものが感じられん)
 彼らは、瞑想の間の前室である読書の間で教主を待った。ここでは、信者達が静かに本を読んでいたが、圧倒的に若い女性信者が多く、華やかな雰囲気が漂っていた。蔵書は、宗教がらみというより、自然科学的なものが多かった。中でも、戦争や民族紛争、飢餓、環境破壊や絶滅動物等に関するような、現代の環境を危ぶむようなものが多数を占めていた。宗教関連の本もあったが、この教団の教義に関する本はもちろん、聖書や経典のみならず、新興宗教からカルトに至るまで、さまざまな本がストックしてあった。信者達は、物音もさせずに熱心に読書をしている。三人は居心地悪そうに黙ってソファに座り教主を待っていた。 

 しかし、彼らが思ったより待たずに瞑想の間の扉が開いた。中から、信者の中でも上級クラスなのだろう、白いゆったりとした衣服を身にまとった30代の美しい女性が姿を現し、静かな笑みを浮かべながら言った。
「お会いになられるそうです。お入りください」
三人は、ぞろぞろと中に入って行った。
 瞑想の間は、かなり広く高い天井は半球のドーム型をしていた。全体が深いブルー系統の色に統一され、壁面と天井には透明なブルーの材質のモザイクで幾何学模様が描かれていた。窓は全くなく、瞑想中であったために照明が落とされたままになっており、そのため青く薄暗い室内は深海を思わせた。部屋の真ん中台座があり大型の椅子が設置され、椅子の上には3mほどの高さの天蓋があり、そこからやはりブルーの薄いカーテンが降りて周囲を囲っていた。三人は、台座の前で跪(ひざまず)き、声のかかるのを待った。
「よくいらっしゃいました。冨野川(ふのかわ)教館長」
カーテンの中で椅子に座った人影は、そういうと立ち上がり姿を現した。彼は台座の階段をゆっくりと下りると、冨野川たちの方に近づき、彼らの目の前に立った。冨野川たちは深く頭を下げた。頭(こうべ)を垂れたまま、冨野川が言った。
「長兄さまには今日も美しい碧玉のご加護を・・・」
「冨野川さん」教主は、厳かな笑みを浮かべて言った。「堅苦しいご挨拶は抜きにしましょう」
「貴重な瞑想のお時間をお邪魔いたしまして、誠に申し訳ございません」
「いいえ、大事な情報を持って急いで来られたのでしょう? そんなあなた方にお会いするのは私の務めです」
教主は笑みを浮かべたまま言った。
「はは・・・、ありがたきお言葉・・・」
そういうと三人はいっそう深く頭を下げた。
「さあ、頭をお上げください。そして楽な姿勢になられて・・・。どうぞ、お話をお聞かせください」
そう言われて、三人はようやく頭を上げた。しかし、跪いた姿勢は崩さずに、富野川は口を開いた。
「は、先ほど入った情報によりますと、秋山美千代から感染した森田健二の遺体が先ほど発見されたそうです」
「森田健二・・・、ああ、あの第二のばら撒き屋候補の男ですね。彼であることは間違いないのですか」
「はい、彼をマークさせていた信者が、彼が熱に浮かされて夢遊状態で山奥まで行き、自動車事故に遭い死亡した一部始終を目撃しています。彼を轢いた者は罪を逃れようと、遺体を草むらに遺棄して逃げたということです」
「そうですか、残念でしたね。彼にはもう少しがんばって欲しかったところですが」
「今のところ潜伏期が平均して短く、発症後も研究段階より病状の進行が早いようですので」
「そうですか。さて、遥音先生、いらっしゃいますね」
「ここに」
教主が何者かに声をかけると、台座の後ろの方から女が返事をした。冨野川は、ぎょっとした。人のいる気配などなかったからだ。しかし、声のしたほうをよく見ると、カーテンの陰に女の姿があった。
「そのあたりの改良点についてどう思われますか」
「潜伏期間は、人によりまちまちです。現在は比較的感染の進行の早い人たちが発症していますが、いまだ潜伏期間の人も多くいるはずです。それに、蟲たちも順調に数を増やしていると思われます。私は、もうしばらく様子を見るべきだと考えます。新たに改良ウイルスを撒くリスクは避けるべきです」
「なるほど。先生には、このままで充分だという自信がおありなのですね。たのもしい限りです」
教主はそういうと、かすかに口元を歪めた。しかしそれは一瞬のことだったので、誰もそれに気がついた者はいない。涼子を除いては。涼子は心の中で身震いしたが、表面は全く動じずに答えた。
「お褒めに与(あずか)り嬉しゅうございます。が、慢心せず、引き続き真摯に研究を続ける所存でございます・・・」
「お任せいたしましょう。さて・・・」そう言うと、教主は冨野川たちの方を見て言った。「教館長。その森田某の遺体はどの様に発見されたのでしょうか」
「はい、我々が採りこんだ警官からの報告ですが、草むらに遺棄されたままの遺体を、散歩中の飼い犬が発見したということです」
「警察では、彼の身元は割り出しているのですか」
「いえ、おそらくすぐにはわかりますまい。彼をマークしていた我々と違いますし、遺体の損傷も激しい。なにせ、二日近く野ざらし状態だったので、充分蟲たちの贄(にえ)になってくれましたから」
「そうですか・・・。働かず学びもせず、大地を汚し資源をムダに消費するだけの愚か者が、やっと、大地のために役立とうとしている・・・。良いことです」
「はい、真に・・・」
三人は恭(うやうや)しく答えた。その後、冨野川は若干間を置いて、教主に言った。
「ところで長兄さま、ここにおります河本が、甥の不始末についてお伺いしたいと申しておりますが・・・」
「さて、何のことでしょうか・・・」
教主は、空とぼけた顔をして言った。
「申し訳ありません、長兄さま・・・」河本がいきなり床に頭を擦り付けて土下座しながら言った。「長兄さまのご意向に逆らって、我々が勝手に秋山美千代を捕獲し隔離しようとしたことは、勇み足だったと思っております。しかし、甥は・・・・」
「河本さん」教主は河本の言葉を遮って言った。「あなた方が秋山美千代の存在を恐れたというのは、わからないでもありません。しかし、その結果、美千代の暴走を招き、敵にむざむざとウイルス感染の経緯を教えるサンプルを与えることとなってしまったのです。現役の刑事が感染したとなれば、これからは相手も本気でかかってくるでしょう。シナリオに若干の狂いが生じ始めています」
「申し訳ありません」
河本は、再度額を床に擦り付けた。
「私達は、なんとか息のある状態の甥を探し当て、教団の病院に入院させました。しかし、いつの間にかどこかに連れ去られてしまいました。今、甥がどこにいるか長兄さまがご存知なのではと・・・」
「彼の身体ですか・・・」
教主は、一瞬冷やりとするような笑みを浮かべて言った。
「彼の身体は生きていますが、魂はすでにそこにありません。抜け殻は抜け殻としての使い道があります」
「まさか・・・」
河本のみならず、冨野川父子までもが蒼白な顔をして涼子を見た。その彼らに向かって涼子は、表情も変えずに説明した。
「はい。甥の河本泰一郎さんの身体は、私がお預かりしています。貴重な御献体ですから、細部まで大事に使わせていただきますので、ご安心ください」
「そんな・・・」
河本は、力が抜けそのまま床に突っ伏した状態になった。慌てて冨野川が彼を支え起こした。そんな河本に、教主は冷徹に質問をはじめた。
「河本さん、甥ごさんの身体は回収出来ましたが、彼の所有する自動車等が、警察の手に渡っています。それから、我が教団が浮上するようなことはありませんね」
「はい・・・」河本はヨロヨロと身体を起こすと言った。「ご・・・ご安心・・・ください。車には教団関係のものは一切乗せておりません。さらに、甥が我が教団に入信しているということは、彼の両親・・・すら・・・知らないことです。一般の信者と同じように、全て秘密裏に遂行されておりますゆえ」
「そうですか、安心しました。まだまだ、我々の名を浮上させる訳にはいきませんからね」
そう言うと、教主は人好きのする笑顔を浮かべた。その顔を見ながら、涼子は再び肌が粟立つのを覚えた。教主の側近達は皆マインドコントロールを受けていた。しかし、涼子は別だ。マインドコントロールで彼女の頭脳が使い物にならなくなる可能性が高かったこともあるが、そんなもので征服するよりも、彼女を雁字搦めにして繋ぎ止めることの出来る理由があったのである。
「河本さん・・・」
教主は、今度は今までとはうって変わった辛そうな表情を浮かべて言った。
「甥ごさんは気の毒な事になりました。若干方向は違っていたとはいえ、教団の為を思ってやったことで命を落とすことになりました。私の力不足です。申し訳なく思います」
そう言いながら、はらはらと涙を流す教主を見て、河本は再び額を床にすりつけながら言った。
「そんな、もったいのうございます」
「私を許してくださるのですか」
「許すだなんて、そんな畏れ多い・・・」
河本はひれ伏したまま答えた。声が感動で震えている。
「河本さん、甥ごさんは無駄死にをするのではありません。彼の御尊体は、我が教団の崇高な計画のために尽くして下さるのです。この大地を守るために。さあ、河本さん」
そう言いながら、教主は河本に手をさしのべ跪きながら彼の手を取った。河本は驚いて半身をおこした。教主は彼の肩にもそっと手を添えながら言った。
「河本さん、私たちの理想は同じです。共に、この世界を守るために戦いましょう」
「ああ、もったいのうございます」
河本は、跪いたまま教主の両手にすがると、感動のあまり号泣しはじめた。冨野川親子を始め、信者達はその光景を見ながら涙していた。その様子を涼子は、ただひとり無表情で眺めていた。
 教主への報告終え、三人は部屋から出て行くべく立ち上がると、教主に向かって深く礼をした。河本は、冨野川親子に支えられるように歩いている。それは、甥を失った悲しみより、教主の言葉に感激したことが大きかった。その彼らを教主は慈愛に満ちた眼をして見ていたが、その後、涼子の方を向いて言った。その眼はさっきとはうってかわった冷ややかな眼だった。
「遙音先生、もう一度確認したい。このまま様子を見ている状態で、本当に充分なのか」
「はい」涼子は答えた。
「少なくとも、秋山雅之の事故現場にいた人たちの一部や、森田健二を轢いた男性はまだ潜伏期にあります。そして、蟲に咬まれた男性も。秋山珠江の急激な病状の変化も、想定内です。おそらく、あの刑事も発症の経過を見るような余裕はないでしょう・・・」
「そうか。楽しみだな」
そう言うと教主は楽しそうに笑った。涼子はその様子を、暗い眼で眺めていた。

  

「はい、早速質問です」
由利子が手を挙げた。
「何でしょう?」
「今お話で出てきたものの他に、使われそうなものはありますか?」
「そうですね、CDCがカテゴリーAに挙げているもので重要なものを簡単に言いましょう。
 まず、ウイルスですが、有名なところではエボラとマールブルグですね。これはフィロウイルス科に属しています。フィロとは紐(ヒモ)という意味で、ウイルスなのに文字通りヒモのようなミミズのような姿をしています。その不気味な形状も、このウイルスが有名になる一因となりました。因みにあの有名なエボラウイルスの羊杖状の電子顕微鏡写真ですが、ひも状のウイルスがたまたまああいう形になっただけで、エボラウイルスはヒモが色々な形になるのと同じように、さまざまに形を変えます。ひも状と言えば、炭疽菌も増えると連なって、毛糸玉のようになります。サイズは全く違いますけどね。
 それと、アレナウイルス科に属するラッサ熱。これは、一度アフリカ帰りの日本人が感染していたことがありました。これらの出血熱のほかにクリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、そして天然痘と後に挙げるペストは、日本でも一番危険度の高い一類感染症に指定されています。ペスト以外は全部ウイルス疾患です。
 それから、将来の使用危険度の高いカテゴリーCにランクされているのにハンタウイルスというのがあります。これもまた731部隊が目をつけて研究していたものです。1960年頃、何故か大阪の一部で流行した記録もあります。これは、主にセズジネズミという可愛らしいネズミが媒介するウイルスですが、大阪の例ではドブネズミが感染源になっていたようです。もともとアジアにあった風土病の出血熱で、主に腎臓をやられます。しかし、アメリカで先住民のナバホ族に拡がったものは、変わり種で感染者に肺炎をおこさせました。ハンタウイルス肺症候群といいます。このハンタウイルスには、シンノムブレという名前がつきました。「誰も知らない」と言う意味です。普通は、発生した土地の名を付けるのですが、激しい反対が起きたので、命名者が気を利かせてそう言う名にしたのです。因みにマールブルグはドイツの地名です。そこにあるワクチン製造工場で発生したのです。ワクチンに使う腎臓を提供するアフリカ産ミドリザルが未知のウイルスに感染していて起きた、バイオハザードでした。エボラは発生地の近くを流れる川の名前からつけられました。本来ならウイルスが猛威をふるった旧ザイールのヤンブクという町の名が付けられるのですが、命名者があまりにもむごいヤンブクの惨状に心を痛めてそれを避けたのです。
 カテゴリーAにランクされている細菌では、炭疽菌と同じくらい生物兵器として使用頻度が高そうなのが、野兎(やと)病です。野兎(のうさぎ)と書いて『やと』と読みますが、その名の通り野ウサギに潜む細菌で、これも安定した菌ですので、エアロゾルにして撒くことが出来ます。それから重要なものとして、ペストが挙げられます。中世に黒死病と怖れられた疫病です。まあ、あの時猛威をふるったのは、もちろん公衆衛生上の問題もあったでしょうが、宗教的理由で猫を殺しすぎたというのも原因の一つという説もあります。日本では、猫を殺すと7代祟ると言いますよね」
「ホントにもう、よくご存じで」と由利子は言った。「あの頃は本当に嫌な時代だと思いますね。猫にとっても女性にとっても。ところで何故猫?」
「ペストの宿主はノミですが、それを媒介するのがネズミなのです。ネズミを捕獲していた猫を殺し尽くしたためにネズミが増え、ネズミにペストが蔓延した結果であるという見解です(※)」
「なるほど、ここでも宗教が感染症を広げる役割をしたわけですね」と、これは葛西。
「そうです。まあ、イエスさまが生きていたら、猫が悪魔の使いだから殺せ何てことは、言わなかったでしょうけどね。もちろん魔女狩りも。全て宗教の名を借りた、人間の欲望が招いたことです。因みにペスト菌にも有効な抗生物質がありますが、抗生物質の乱用による耐性菌も出てきています。これは、結核菌にも言えることです。もし、意図的にそのような菌株あるいは遺伝子操作で抗生物質に耐性をつけた菌株を撒かれた場合、対処が困難になります。地域的には中世の再来のようになるかもしれません」
そこで、葛西がそっと手を挙げた。
「ジュン、なんでしょう?」
「エボラウイルスには、O教団の教祖も興味を持っていたって聞きましたが・・・」
「ええ、わざわざ部下にアフリカまでウイルスを探しに行かせたといいますね。しかし、アレはまだ宿主がコウモリらしいとしかわかっていませんし、当時はそれすらも確定ではなかったですから、ウイルスをゲットしようがなかったでしょうね。よかったよかった」
「まったくだわ! あんなキチ○イ集団があんな危険なウイルスを持つなんて、文字通りキ○ガイに刃物だわ」
由利子は眉間に皺を寄せながら、厳しい口調で言ったが、はっとして続けた。
「ひょっとして、今回のテロはそれを手に入れたO教団の残党が・・・?」
「それはないでしょう。今のところ彼らにはそんな力は無いと思います。それに、同じグループに同じ犯罪を起こさせるほど日本の警察も甘くないでしょうし、エボラやマールブルグなら、調べればすぐにわかります。少なくとも、今回のウイルスは、既存のウイルスには合致しませんでした。旧ソ連がエボラだったかマールブルグだったかを、遺伝子操作して強力に兵器化したものに成功しているという話もありますが、それを手に入れたと仮定しても、それでも同じ種類のウイルスですから、調べればどちらかの抗体反応があるはずです。その仮定はありえません。それに、彼らは炭疽菌やボツリヌス毒素の失敗で、生物兵器を扱う難しさがわかっているはずですから」
それを聞いて、由利子が怪訝そうな顔をして言った。
「そんな面倒くさいものを、どうしてテロリストは使おうと考えるのかしら?」
「いい質問です、ユリコ。病原体を兵器に使うというのは、アイディアとしてはユニークですが、生物兵器は兵器としてはデメリットが多い不完全な兵器なんです」
「不完全?」
「そうです。まず、これは生物兵器の長所でもありますが、病気は密かに拡がりますから効果がすぐにはわからない。さっき出たマンガでは、ウイルスを浴びた人が、その瞬間血を吹き出して即死するシーンがありますが、実は生物兵器ではそれはあり得ません。感染症には潜伏期間がありますし、それに、その場で死んでしまった場合は病気を拡散させることが出来ませんよね。って、フィクションの世界にちょっと野暮なこと言ってしまいました。でも、あれは僕も大好きなマンガなんですよ。
 さて、効果がすぐにわからないと言うことは、それが成功か失敗かがすぐにはわからないと言うことです。ですから、失敗した場合、すぐに次の手段を講じると言うことが難しいのです。
 そして、これが一番の問題点ですが、ブーメラン効果です。これは、どこかの野党が与党を攻撃するたびに食らっていましたが、まあ、似たようなことです。例えミサイルや爆弾で遠くを攻撃したとしても、風向きや、感染症の広がり具合によっては、攻撃した方にも被害が拡がる可能性があるのです。また、その病気がもし、パンデミック・・・世界的流行ですね、を引き起こした場合、戦争の勝ち負けなど関係なく、世界が壊滅的な状況になりかねない。さっき言った耐性菌や、エボラなどを強化した遺伝子操作ウイルスのばあい、特にそういう危惧があります。
 しかし、生物化学兵器は、貧者の核兵器と言われているように、低いコストで核兵器に匹敵する威力を持ちうる兵器です。ですから、経済的に厳しい国でも持つことができますね。ところが、今まで生物兵器の開発に積極的だったアメリカですが、1969年にニクソン大統領が攻撃用生物兵器の開発中止声明をだしました」
「アメリカがですか? 意外ですね」
「案外、裏があったりしてね」
葛西は素直に驚いたが、由利子は若干穿った見解を口にした。
「スルドイですね」
ギルフォードは由利子を見てにっと笑って言うと続けた。
「これは、ベトナム戦争での枯葉剤使用に対するダーティーなイメージを払拭しようとする意図もありますが、その真意は、それよりも、『貧者の核兵器』といわれる生物兵器を多くの国が持つことを良しとしなかったからです。
 充分な核兵器を持つアメリカ合衆国にとって、不完全な兵器である生物兵器を持つメリットはあまりないことに気がつきました。しかし、自国だけが中止したところで、核に匹敵するレベルの兵器を多くの国が持ってしまうと、当然アメリカの軍事力との差が縮まってしまいます。攻撃用生物兵器開発中止声明の後、アメリカが中心となって、1972年に生物兵器禁止条約がまとめられ、炭疽菌の時にも言いましたが1975年にこの条約が発効されました。しかし米ソを中心として72カ国が調印したにもかかわらず、アメリカを信用していなかったソ連は、その後も鉄のカーテンのなかで大々的な研究開発を続けてきたのです。ま、アメリカもこっそり研究していたのが、炭疽菌事件でバレちゃいましたが」
「だけど、そのソ連が崩壊して、その生物兵器のノウハウや病原体が他国に流出したということでしたね」
「そうです。そして、そこから今度はテロリストの方に流れていった可能性もあるのです」
「国家自体がテロリストレベルの国もありますよね。」
「そうです。そして、9.11のテロや、その後頻発する自爆テロからもわかるように、死ぬことを恐れない連中にとっては、自分が感染することも、ブーメラン効果も意に介さないでしょう。ですからテロに使う場合、安価で手に入る、あるいは製造できる生物兵器は、実に都合がよいのです。さらに、種類によっては土壌や身近な生き物から得ることも出来ます。安価で核兵器並みの恐怖を世界にもたらすことが出来るのです。まさにテロにうってつけだと思いませんか?
 また、すぐに効果が現れないと言うことは、実行犯が病原体を散々ばら撒いた後から悠々と逃げることが出来るということです。騒ぎは充分逃げおおせた頃に起きるので、犯人達はその成果を、安全圏でお茶でも飲みながら、テレビやネットで悠々と見ることも出来るのです」
「なんか、だんだん腹が立ってきちゃった」
由利子が言った。
「何で、そんなことが平気で考えられるの? 平気で実行できるの?」
「確信犯と言うものはそういうものですよ、ユリコ。人間は自分が正しいと思ったら、どんな残酷なことでも出来る生き物ですから。戦争なんてみんなそうでしょ」
「確かにそうだけど・・・」
「でも!」
と葛西が口を挟んだ。
「テロに関しては、何故そのようなことが起きるのか、原因を考え、その元を正していけば、ゼロにはならないでしょうけど、減らすことは出来るんじゃないでしょうか」
「まさにそうです、ジュン。どこかの国のように、軍事力に任せて叩くだけでは減らせないのは確かです。むしろ、憎しみを増長させ、テロを増やすことになりかねません」
「すでに、そうなっているような気がするな・・・」
と、由利子がつぶやいた。
「そうですね。ベルリンの壁が壊されてソ連が崩壊して冷戦が終わり、これからは平和な世界が来るかも知れないと、一瞬期待はしましたが、現実はそんなものじゃなかった。むしろ二大対立の構図が無くなった分、世界の力関係がわかりにくくなってしまった。そして、その構図はそのままイスラムとそれに敵対する宗教と言う形にシフトしました。それにロシアや中国の民族紛争などが加わって、もうごちゃごちゃです」
「そういえば、さっき葛西君がテロには起きる原因があるって言ってましたが、今回の事件にも何か原因とか思想とかがあるんでしょうか」
「もちろんあるでしょう。しかし、今は何もわかりません。それがわかれば、対処の方法がわかるかもしれませんね」
「今度のウイルスが、パンデミックを起こす可能性はあるんですか?」
と、今度は葛西が尋ねる。
「感染力自体は弱くないようですが、今のところ、空気感染はしていないようですし、眼や粘膜・傷口からウイルスが直接入らない限り、感染は難しいと思われます。ですから、爆発的に世界中に広がると言うことはないと思いますが・・・。ただ、気になるのは・・・」
「遺体を食べたゴキブリのことですね」
「そうですが・・・」
ギルフォードは、ものすごく不愉快な顔をして言った。
「スミマセン、ユリコ。それ、ストレートに言うの、止めてくださいませんか?」
「了解。アレクの弱点っての、忘れてました。で、あれが・・・」
「あの、『あれ』っていうのも、アレクと被るからやめてください。せめてムシとかGとか」
「いちいちうるさいわね。で、そのGがウイルスを広げる可能性はあるんですか」
「それが、マサユキ君のお祖母さんについていたGは、河原で大量に死んでいました。しかし、その数は把握してませんから、生き延びた個体がある可能性も否定できません」
「はっきりしないなあ」
「あの、由利子さん、それはしかたありませんよ。まだあまりにもデータが少なすぎるんですから」
と、葛西がギルフォードをフォローした。
「そういうことです。これからすべきことは、ウイルス拡散の範囲とその阻止、病原体の特定と治療方法、事態についての広報とパニックの防止です」
「病原体の特定はどうするの? 確か、日本では調べる設備が使えないって・・・」
「はい、マサユキ君とおばあさんからいただいた献体を、CDCに送るようになっているはずです。そろそろ届く頃ではないでしょうか」
「そうですか。それなりに手配はされているんですね」
「まあ、そのくらいは当然でしょう。本当は自分の国でやれるべきなのでしょうけど・・・」
「そうですねえ・・・。だけど」
と、由利子は周りの景色を見回しながら言った。
「とても、そんな疫病が身近に迫って来ているなんて思えない・・・」
「そうですね・・・。とても平和で美しい風景です」
ギルフォードが相槌を打った。葛西はそんな二人に向かって言った。
「みんなでがんばって守りましょう。僕らの街をウイルスから」
二人は頷いた。日はすっかり傾いて、潮もだいぶ満ちてきた。風がもう肌寒い。
「ああ、もう6時を過ぎてしまいましたね」
ギルフォードが時計を見ながら言った。
「お話が面白かったので、時間の過ぎるのが早かったからですね!」
「ああっ! 忘れてた! 美葉に今夜の待ち合わせとか連絡しないと!」
「オ~!いけませんね。早く電話してあげてクダサイ。今頃電話の前で首長竜になってますよ」
由利子は焦って携帯電話を取り出した。

※参考:猫とペスト
 ただし、本格的な魔女狩りは17世紀以降で、中世の黒死病蔓延とは時代が異なるようだ。

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2.侵蝕Ⅱ (5)赤い暗雲

 電話を見ると、案の定美葉から着信とメールが入っていた。
「やっば~、やっぱり電話してきてる。話に夢中で気がつかなかった」
由利子は急いで美葉に電話をした。
「もしもし、美葉? ゴメン、話に夢中になっとった。今、まだS島やけど・・・」
「ま~、いいわね~。私はたったひとり、事務所でパソコン相手よ」
「え? みんな帰っちゃったの? ひとりで大丈夫?」
「な~んてね、うそうそ。まだ半分くらい人が残ってるけん大丈夫よ。私もあと30分くらいやって帰ろうかと思ってたんだ」
「そっか。こっちは車だから、時間がはっきり言えないけど、どうする?」
「そうやね、先に行っとこうか?」
「先に行くって、ひとりでウロウロして大丈夫なん?」
その時、ギルフォードが口を挟んだ。
「ダメですよ、アブナイです。サヤさんにお願いしましょうか? 頼りになりますよ。ついでにサヤさんも一緒にごはんしましょう。早速電話してみますね」
「アレクの秘書の紗弥さんって人にお迎えを頼んでみるって」
由利子は美葉に伝えた。美葉は驚いて言った。
「ええ? いいの? 会社H駅方面だけど、大学から遠いんじゃない?」
「っていうか、もう電話しよぉよ」
「早っ!」
二人が驚いているうちに、ギルフォードはさっさと話を進めていた。
「ユリコ、ミハの特徴を教えてくれって言ってます」
「あ、はい。・・・え~っと、小柄です。150cmくらい。で、童顔でちまちましてて可愛いですね。髪は・・・えっと、肩くらいでちょっとだけ茶色に染めてます。それから、え~っと・・・」
「ユリコは人の顔を忘れないわりに、説明が下手ですねえ」
ギルフォードは紗弥に由利子の言うとおりをそのまま伝えていたが、途中でつい、思ってたことを言ってしまった。葛西がそれを聞いて吹き出した。由利子は葛西をちらりと見て言った。
「外野、うるさい。・・・あ、そうそう、小柄だけど胸がでかいです」
「ちょっとお、要らんこと言わんでもええやろ」
電話の向こうで美葉が焦って言った。ギルフォードは、思い出したように、ポンと手を叩いた。
「ああ、けっこうグラマーでしたよね。昔風に言えば、トランジスタ・グラマーってヤツですね。いや、興味深いです。友達ってのは、やっぱりお互いを補うようなタイプを選ぶんでしょうかねえ。サヤさんのもササヤカだけど、ユリコはさらにペッタンコで。あ、安心してください。僕はペッタンコの方が好きですから。いや、改めて見ると、ホントにペッタンコおうっ!・・・蹴りましたね、ユリコ」
「さっき蹴ったお返しよ、この、セクハラオヤジ! 人が気にしてるのに、よくも3回もペッタンコって言ってくれたわね!」
「電話の向こうからも、どやされました」
ギルフォードは、苦笑いをして言った。葛西があ~あという顔をして見ている。
「だいたい、あなたにペッタンコ好きって言われても嬉しくないわよ。そもそもあなたイテ! また蹴ったわね」
「余計なことは言わないでくださいね」
「あーのーねー!」
例の如くにっこり笑って言うギルフォードに、由利子が再び突っかかろうとした。足下の攻防が始まりそうになったので、葛西が心配して声をかけた。
「あのぉ、由利子さん、お友だちほったらかしでは・・・」
「きゃああ~、忘れてた」
由利子は急いで電話に戻った。

 結局、ギルフォードの提案どおり、紗弥が美葉の会社まで迎えに行くことになった。
「さて、だいぶ日が落ちてきましたね。空も赤くなってきましたよ。・・・そろそろ片付けましょうか」
そういうと、ギルフォードはテキパキと片付け始めた。由利子と葛西もそれぞれ持って来た物を片付ける。
「じゃ、僕はまた車を持ってきますから、ちょっと待っててくださいね」
ギルフォードはそういうと、走って行った。浜辺にはまた二人が残された。
「元気ねえ、アレクは。駆け足で駐車場までいったわよ」
「そうですねえ。でも・・・。あの、由利子さん」
「何?」
「・・・なんか、いつの間にかケンカ出来るほどアレクと仲が良くなってたんですね」
「な~に~、それ」
由利子は笑い出した。
「そういえばそうだわ。あんな変な外人のオッサンとテーブルの下で蹴り合いしてたなんて、なんか可笑しい」
「見ててうらやましいです」
「何言ってんの。アレクと私なんて、男同士みたいなものよ、きっと。ぺったんこだし」
「意外と根に持つんですね」
「そりゃあ、持つわよ。それより、6月ともなれば、日が長いわねえ。なかなか日が沈まない」
「まあ、夏至も近いですからね。でも、だいぶ夕焼けらしくなってきました」
「うん・・・。まだ赤みは少ないけど、綺麗よね」
「ええ。それに、雲の間から光のカーテンが降りてますね。まるで西洋の宗教画です」
「そういえば、理科の授業で習ったわね。何現象だっけ?」
「チンダル現象です」
「変な名前よね」
「発見者の名前ですよ」
「そうだったわね。他にもコロイドとかブラウン運動とか」
「懐かしいですね」
二人は、その後静かに金色に輝く海を眺めていた。心地よい波音の中、ゆったりとした時間が流れ、さっきギルフォードからバイオテロの話を聞いたばかりなのに、世界中が平和そのもののように錯覚してしまう。現実は、世界中のあちこちで今も戦争や紛争があっており、あまつさえ自分らの身の回りにもただならない危険が迫ってきているはずなのに・・・。
 浜辺に二人きりで立っていると思うと、今度は由利子の方が気恥ずかしくなってきて言った。
「昨日、天気が悪かったので心配してたんだけど、いい天気に恵まれて良かった・・・」
「てるてる坊主を作ったかいがありました」
「え? てるてる坊主?」
想像以上に緊張感のない言葉が返ってきたので、由利子は気の抜けたような声で聞き返した。
「作ったの? 葛西君が?」
「変ですか?」
「う・・・うん。ちょっと変かも。・・・あ、じゃあ、晴れたから銀の鈴をつけてあげないと」
「ああ、そんな歌詞がありましたね」
その時、車の音が聞こえてきた。ギルフォードが戻って来たらしい。二人が迎えると、ギルフォードはバンから降りて言った。
「さあ、荷物を積んで帰りましょう」
 

 帰りの道路は、通勤時間の影響もあって、けっこう混んでいた。その間、空は朱の色がだんだん濃く変化し、見事な夕焼け空になった。
「ジュン、本格的な夕焼けです。街中の夕焼けもそれなりに綺麗ですね」
ギルフォードが信号待ちの間、空を眺めながら言った。
「そうですね。夕日にビルが映えてとても綺麗だ。そういえば、あまりこういう風に空を見たことがなかったなあ・・・。でも、周囲が赤く見えたという発症者には、夕焼けでもない時にこういう風に見えるのでしょうか?」
「まあ、実際にどう見えてるかってのはわからないでしょう。今だって、君や由利子や僕が、それぞれ同じ光景を同じように見ているかは疑問でしょう。脳がどう判断しているのかなんて、誰にもわかりません。ただ、赤く見えているらしいということしか」
「どっちにしても、あまり気持ちの良いもんじゃないわね、自分だけ周囲が赤く見えるって考えたら」
由利子が、眉を寄せながら言った。
「まったくです。・・・ところで、サヤさんは無事にミハを連れて行けたでしょうか」
「特に連絡が無いから、大丈夫でしょ」
「そうですか。正直に言うと、僕はミハみたいなタイプは基本苦手なんですが、彼女に対してはそんな風に思えないんです。不思議な人ですね」
「うふふ・・・」
由利子が急に意味深に笑った。
「さすがのアレクも見た目の可愛さに、若干騙されてましたね。ああ見えて彼女、合気道やってるんですよ。だから、私なんかより随分強いんです。ホントは護衛も要らないかもしれない」
「ええ? そうなんですか、なるほど。ユミ・カホリですね」
「また、妙なことを知ってるんだから」
「で、何か訳ありなんですか?」
由利子は、一瞬躊躇した後答えた。
「あのコ、子どもの頃誘拐されかかったんです。で、お父さんが護身のために習わせたんです。でも、美葉はそれが気に入っちゃって、とうとう有段者に・・・」
由利子の説明を受けて、ギルフォードは若干こわばったような表情を浮かべて言った。
「そうですか・・・。彼女も誘拐されたことが・・・」
「彼女『も』?」
由利子は、ギルフォードの言葉の細部を聞き逃さなかった。葛西も気になったらしい。由利子の後に続いて質問した。
「知り合いの方とかに、誘拐被害者がいるんですか?」
「ええ、まあ・・・。彼はけっこう悲惨な目に遭ったみたいですが」
「そうですか。気の毒に・・・。美葉の場合は未遂・・・でしたけど、かなり怖い経験だったようです。犯人は、子どもを何人も暴行した非道いヤツでした。当時は幼い被害者たちのことを考慮して、あまり表沙汰にはなりませんでしたが。美葉ももし誘拐されていたかと思うと・・・」
「ゾッとしますね」
ギルフォードは、厳しい表情で言った。
「だけど、どんなに強くても、隙を見せるとやられてしまいます。ですから、けっして油断してはいけません。これは、テロ対策と同じです」
「そうですね」
由利子が答えると、ギルフォードが不安げな表情をして言った。
「それに、ひとつ気にかかることがあるんです」
「え?」
「長沼間さんが、ミハの張り込みから外されたそうです。住民からの苦情だそうですが、僕は、通報だったんじゃないかと思ってますけれども」
「怪しい男がうろついているってですか? まあ、あの悪役商会ヅラでは仕方がないですね。よく見たらいい男なのだけど」
「今は、あの時に居た若い男と、ルーキーの警官が張り込みにあたっているそうです」
「う~~~ん、確かにそれじゃ心配ですね、でも・・・」
由利子は自分に言い聞かすように言った。
「大丈夫ですよね。彼らだってプロなんだもん。ね、葛西君」
「え? は・はい。そりゃあ、大丈夫じゃないと困ります」
葛西は自分に振られると思っていなかったので、焦って答えた。
「ところで、何のお話ですか?」
「あ、そうか、葛西君の知らない話だったわね。そもそも葛西君は美葉に会ったことないんだし」
話が見えていない葛西に、由利子が経緯を説明した。
 夕闇が迫る頃、彼らはようやく目的地に着いた。ギルフォードは二人を居酒屋の前で降ろすと、例によって駐車場に車を止めに行った。二人はギルフォードを見送ると、古びた居酒屋に入っていった。

 

 黄昏のC川は、ジョギングや犬を散歩させる人たちと入れ変わりに、若者達が河川敷に集まり、騒ぎ始めていた。車道橋には、自動車がやや渋滞気味で、時折改造バイクが耳障りな騒音を立てながら走り去っていく。その橋台の下の「住居」で、「主」の男が仰向けに倒れていた。
 男は、全身出血しているらしく、皮膚が全体的に黒ずみ、目や鼻からは血を流していた。さらに、彼の右腕と額から右頬にかけて、酷い発疹が広がっていた。彼は全身を襲う痛みに、弱弱しい呻き声をあげていた。しかし、その赤い目は、橋脚の隙間を怯えながら見つめていた。そこには、何か生き物がいるらしく、いくつかのうごめく影とチロチロと光る目のようなものが見える。
(あいつら、おれが死ぬとを待っとぉとか・・・)
男は絶望と恐怖の中、何故こんなことになったのかを考えていた。
 先月、ホームレス仲間がC川に落ちて溺死した。男は、あの夜に聞いた水音が知り合いが川に落ちた音だったいうことを、新聞で読んで初めて知り、ゾッとした。
 その数日後の夜、男は灯油ランプの明かりの下、酒を飲みながら拾った新聞を読んでいた。それは、彼にとって至福の時間だった。新聞は、彼が世の中の情報を知る数少ない手段だった。数社の新聞を毎日隅々まで読む彼は、そのあたりで騒いでいる若者達よりよほど世界情勢に詳しかった。その彼のまったりとした時は、いきなり壊されてしまった。外からなにか黒いじゅうたんのようなものが侵入してきたのだ。それは大量の虫だった。男は驚いて飛び起きたが、右手と顔面の一部に、そいつらがぶち当たった。男は怯えながら部屋の隅でその尋常ならぬ大群を見ていた。ここは彼らに占拠されてしまうのか?
 しかし、男の心配は当たらなかった。彼らは単にそこを通路にしただけで、すぐに彼の「住居」は平和を取り戻した。男は、恐る恐る自分の寝場所に戻った。放置した酒は倒されずにいたが、中になんだかいろんなものが浮いていた。虫の正体はわかっていたのでさすがに気持ち悪くて、もったいないと思ったが酒は捨て、仕方がないので寝ることにした。
 それから。2・3日して、右手と顔面に湿疹のような発疹が出始めた。痛くもかゆくもなかったが、却ってそれが気持ち悪い。しかし、病院に行く余裕が彼にはなかった。それからまた数日して、今度は眼の奥が痛み始めた。さらに明るいものが眩しくて見れなくなり、彼は日中外に出ることが出来なくなった。そして発熱。発疹はいくつかが集まって膿を持ち傷みを伴うようになった。高熱ののせいか、体中の関節が痛んだ。寝ていても、身の置き所のない苦痛。その病状はインフルエンザによく似ていた。しかし、その後、間断のない吐き気と腹痛までが襲ってくるようになった。そして今、かれはほとんど身動きできない状態にあった。発疹が出始めてから約2週間が経っていた。
 男は胸の辺りにざわつきを感じて目を覚ました。いつの間にか意識を失っていたらしい。苦痛に耐えて、なんとか上半身を起こし、胸に居る何かを確認しようとした。彼の目に映ったのは、とある昆虫・・・。しかし、大きさは成虫だがその姿はどう見てもまだ翅のない幼虫だった。男はゾッとして、とっさにまだ自由の利く左手でそれを払った。そのまま男は力尽き身を横たえた。周囲を確認すると、弱い灯油ランプの明かりにいくつかの黒い影がチラチラしていた。男は再び意識を失いかけたが、今度は右目のあたりにざわつきを感じて目を開けた。そこで、彼は信じがたいものを文字通り目の当たりにした。右目にあの蟲がとまっており、ランプの明かりを反射したそいつのキラキラした複眼をぼんやりと確認した。
「ひ、ひいっ・・・」
男はかすれた悲鳴を上げると、再び左手でそれを払おうとした。しかし、他の蟲がその手に飛びついてきたため、男は手を振ってそれを剥がそうとした。男の注意がそれた隙に、顔面の蟲が男の眼窩に潜り込んだ。男のかすれた絶叫が辺りに響いた。しかし、それは橋を通る自動車の騒音と、河川敷で騒ぐ若者達の嬌声に紛れ、誰にも気づかれることはなかった。

 

 多美山は、珍しく早い時間から床についていた。
 彼が隔離されてから、丸3日経っていた。今まで何十年も刑事として忙しい日々を送っていた彼にとって、この隔離生活は、かなり苦痛であった。そろそろ読書にも飽き、葛西の持ってきたテレビを点けて何か見るものはないかとチャンネルを変え確認すると、民法の特番で、歴史もののドキュメントをやっていた。それで、それを見ることにし、テレビをサイドテーブルに置き、ベッドに座った。しばらくはそんな感じでテレビを見ていたのだが、なんとなくだるさを感じてテレビを消しベッドに横になった。
「多美山さん、こんばんは~」
園山看護士が定期検温にやって来たが、多美山が寝ていることに気がついて言った。
「多美山さん? 寝ていらしゃいますか?」
その声に多美山は目を覚まし、身を起こした。
「あ、すんまっせん、園山さん。寝てしまいましたな」
「ご気分はどうですか?」
「たいして変わりないと思うとですが、何となくだるいですな・・・」
「だるい・・・?」
園山は、少し緊張した表情で言った。
「とりあえず、検温しましょう」
園山は体温計を取り出しセットすると多美山に渡した。

 

 由利子と葛西は、待ち合わせ場所の居酒屋に入っていった。カウンターのところまで行くと、中に居る店の主人と目が合った。
「大将、こんばんは~」
「おっ、篠原さん、らっしゃい。久しぶりですなあ。お連れさんたち、いらしてますよ」
主人の言葉に、カウンター席に座っている美葉と紗弥が振り向いた。
「あ、由利ちゃん。思ったより早かったねえ」
美葉は立ち上がって由利子を迎えた。
「あれ? アレクは?」
「車を置きに行ったよ。二人とも、待たせてごめんなさいね。美葉、彼がK・・・」
「あ、僕、K市にある会社に勤めてます、葛西といいます」
それを聞いて、ちょっと不思議そうな顔で美葉が言った。
「多田美葉です。はじめまして。由利ちゃんとは小学校の時からのお付き合いなんですよ」
「まあ、腐れ縁ってヤツですけどね」
由利子が笑いながら言った。美葉は、二席空けて座り、紗弥との間に由利子と葛西を座らせた。
「アレクが来たら、真ん中に座らせようね」
と、美葉が笑いながら言った。葛西は座るとすぐに、小声で言った。
「すみません。警察官とか言ったら周りから敬遠されちゃうんで、普通は会社員って言ってるんです」
「それって、職業詐称じゃないの?」
「みんなそうみたいですよ。仕事内容によっては身分を明かせないこともあるし。まあ、嘘も方便って言うじゃないですか」
「そういえばそうよね」
由利子は納得した。その時、入り口の戸が開いてギルフォードが入って来た。思いがけず、大きなガイジンが入って来たので、客も店の主人も驚いた。
「スミマセン、お待たせしました」
ギルフォードはそう言いながら、まっすぐに由利子たちの座っているカウンターにやって来た。由利子はアレクを真ん中に座らせた。これで、カウンターから見ると、右から紗弥・葛西・ギルフォード・由利子・美葉と並んだ。
「あ、大将、紹介しますね。えっと、アレクサンダー・ギルフォードさん、彼はQ大で教授をされてます。
「こんにちは。はじめまして」
ギルフォードが挨拶をすると、主人は恐縮しつつ答えた。
「こちらこそ、これからご贔屓に」
「で、ひとり置いて、向こうの綺麗な女性は紗弥さんっと言って教授の秘書さんです」
紗弥は紹介されると、にっこり笑って一礼した。店の主人も釣られて笑顔になりながら「よろしく」と言った。
「そして、この頼りなさそうなのが、会社員の葛西君」
「あの~、僕だけ説明が情けないんですけど・・・」
と言いながら、立ち上がって一礼をする。
「けっこう頼りになりますよ」
とギルフォードが横からフォローした。
「そうそう! 男の値打ちはいざと言う時ですたい。がんばりんしゃい、兄さん」
主人は、葛西にそう声をかけると、ギルフォードに向かって言った。
「それにしても、先生の日本語は上手かですなあ」
「先生は止めてください。アレクって呼んでくださいね」
例によっての決まり文句に、紗弥を除く三人が笑った。
「あ、注文しなきゃ」
由利子が気がついて言った。
「とりあえず、3人とも生ビールでいいかしら?」
「あ、僕はウーロン茶か緑茶にしてください」
こう言ったのは、意外にもギルフォードだった。
「え? 飲まないの? あ、車だから?」
「いえ、実は僕、下戸なんです」
「えええ~?」
これまた紗弥を除く3人が驚いて言った。
「珍しいですね。外国の方はみんなアルコールに強いとばかり思ってましたが」
葛西が言うと、ギルフォードは笑いながら答えた。
「日本人に酒豪がいるように、白人にも下戸はいます。特に、母方の祖母がネイティヴアメリカンの血を引いているので、僕にそれが遺伝したようです。家族で下戸は僕だけですし」
「え~、本当? それ」と半信半疑のまま、由利子は注文した。「じゃ、大将、生ビール2杯とウーロン茶一杯ね」
「へえ、アレクの旦那、下戸には見えないけどねえ」
そういいながら、主人はビールを注ぎ始めた。
「アレクの旦那?」ギルフォードは、ちょっと困ったように言った。「なんか、時代劇みたいですねえ・・・」
とりあえず、飲み物が揃ったので、5人は乾杯をした。

「ところでサヤさんは車で来たんですか?」
ギルフォードは、しばらくして思い出したように訊いた。
「あ、如月君が送ってくださいましたわ」
「へえ、あのシブチンのキサラギ君が? その上ミハまで拾って運んでくれたんですか? よく承知してくれましたねえ。彼の自宅と正反対じゃないですか」
「ええ、最初は嫌がっていましたけど、あの事をバラしますよ、と言ったら、二つ返事で引き受けてくださいましたわ」
「で、あのこととは何だったんですか?」
「さあ。何だったんでしょう?」
「ハッタリですか。こういう人ですよ」
ギルフォードは肩をすくめて言った。その時、ギルフォードの電話に着信が入った。
「あ、電話です。ちょっとかけて来ますね」
ギルフォードは、電話を耳に当てつつ小走りで店の外に出て行った。しばらくして、ギルフォードが深刻な顔をして帰ってきた。
「ジュン、タミヤマさんが発熱されたそうです」
「ええ? 多美さんが!?」
「すみません、みなさん。僕は帰らねばならなくなりました。ジュンはどうしますか?」
「僕も行きます!」
葛西は居ても立ってもいられない様子で言った。
「では、私もご一緒しますわ」
と紗弥が言った。
「アレクの旦那、もうお帰りですか?」
「すみません。急に野暮用が入ってしまって。とりあえずの清算、いいですか?」
ギルフォードは、清算を済ませながら主人に言った。
「大将、お料理美味しかったです。魚介類も新鮮で良かったです。今度また、ゆっくり来ますね」
ギルフォードは清算を済ませると、心配そうな顔の由利子と訳のわかっていない顔の美葉に向かって言った。
「二人とも、良いお店を紹介してくれてありがとう。君たちはゆっくりして帰ってください。じゃ、行きますね」
ギルフォードは、そういうと急いで店を出て行った。
「美葉、ごめん。ちょっと待ってて」
と、言い残すと、由利子はギルフォードの後を追った。店を出たところで由利子はギルフォードを呼び止めた。
「待って、アレク!」
「ユリコ。追ってくると思ってましたよ」
「多美山さん・・・まさか・・・?」
「わかりません。抗ウイルス剤は試していたんで、副作用かもしれませんし。それよりユリコ、必ずミハはタクシーで送り届けてください。ユリコもそのままタクシーで帰るように。これ、タクシー代の足しにしてください」
ギルフォードは由利子に5千円ほど手渡した。
「いいえ、大丈夫です。タクシー代くらいありますよ」
「受け取ってください。僕は君らを家まで送り届けるつもりでしたから、その代わりです。いいですね、無事に家に帰るまでが遠足ですよ。じゃ」
ギルフォードは手を振ると、足早に去って行った。
「由利子さん、今日は楽しかったです。また行きましょうね。今度は紗弥さんも一緒に」
「ごきげんよう、由利子さん」
葛西と紗弥も口々に言うと、ギルフォードの後に続いた。
「うん、私も楽しかったよ。気をつけてね」
由利子は彼らの後姿に声をかけた。そしてそのまま、彼らの姿が人ごみに紛れて見えなくなるまで、名残惜しそうに見送っていた。
 

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2.侵蝕Ⅱ (6)七匹の子ヤギ

 三人が去った後、残された女二人は拍子抜けしたような心持ちで、しばらく黙って酒を飲んでいた。最初に美葉が口を開いた。
「いきなり寂しくなっちゃったねえ・・・」
「そうやね・・・」
由利子も頬杖を付きながら、冷酒を片手にぼそりと言った。
「何があったんやろ。由利ちゃん知っとぉ?」
「警察関係のことみたいだから、よくわからんけど、仕事中に怪我をした葛西君の先輩の容態がよくないごたぁよ」
詳しい内容を言うことができないので、由利子はかなり大雑把に答えた。
「ふうん。警官も大変やねえ」
美葉は納得したようだった。由利子は考えていた。長沼間とギルフォードの会話から、美葉に対する張り込みも、この事件と関係しているように思えたのだが、それから推理すると、とんでもない結論に行き着くのだ。
(まさかね・・・)
由利子は焦って否定した。しかし、やはり気になるので少し聞いてみることにした。
「ところで美葉、あれから彼氏だか元カレだかしらないけど、あいつから何か連絡はあったと?」
「ううん。あれから一向に連絡して来る気配はないよ」
「そう。いっそのことずっと連絡無ければいいのにね」
「相変わらず手厳しいなあ、由利ちゃんは」
美葉は笑いながら言ったが、すぐに真面目な表情をして訊いた。
「カレのことはともかくさ、由利ちゃん、あの紗弥さんって人、何?」
「何って?」
急に話が紗弥の方に向かったので、由利子は驚いて聞き返した。
「うん、迎えに来てくれて、最初、綺麗で感じのいい人だなって思ったんやけど、話しているうちにだんだん感じが悪くなってきて・・・」
「会話が噛み合わなかっただけじゃない? 教授秘書と一般会社のOLだもん。そういえば、私も一対一で話したことないし」
「そうかな」
「そだよ」
(ああ、だから最初ここに来た時、二人の空気が微妙だったんだ)
由利子は、思い当たって納得した。
(まあ、どっちかって言うとミーハーな美葉と浮世離れした紗弥さんでは話が合わないのも当然かもしれないな。紗弥さんのようなタイプはアレクと一緒で、美葉のように一見女々したタイプは苦手なのかもしれないし・・・)
「じゃ、由利ちゃん、今日は二人でしこたま飲もう!」
「え~っと、私、今週やたら飲んでいるような気がするけど・・・。って、あんた明日会社やん」
「あ、そうか。なんか感覚的に金曜日のごと思っとったよ。あはは、じゃ、適当に飲んで引き上げるか」
「そやね」
そう言うと、由利子は冷酒をく~っと空けると言った。
「大将、お代わりね」
「はいよっ! 今日も良い飲みっぷりやね、篠原の姐(ねえ)さん」
「だからその言い方はやめろって」
由利子は左手で額を抱えながら、右手で主人に向けて裏手チョップのしぐさで突っ込んだ。

 ギルフォードは感対センターの門に着くと、物々しい警備の中、身分証を差し出した。確認後、門が開き、ギルフォードたちの乗った車は中に通された。
「すごい警備ですわね」
「ミチヨのことがあってから、警備が厳重になりましたからね」
ギルフォードは、緊張した面持ちで言った。駐車場に車を止めると、足早に多美山のいる特別病棟に向かった。
 隔離病室に隣接するスタッフステーションの前で、ギルフォードは葛西に言った。
「ジュン、君にとって辛い現実が待っているかもしれません。その時、もし君が平常心を保つ自信がないなら、黙ってこのまま帰ったほうが良いです。どうしますか」
「それなら最初からここには来ません。大丈夫です」
葛西はきっぱりと言った。
「Good! では行きますよ」
ギルフォードはドアをノックすると、部屋に入っていった。
「ギルフォードです。遅くなりました」
「お呼び出ししてすまんね、ギルフォード先生」
高柳医師は、ギルフォードを迎えた。
「それで、タミヤマさんは?」
「今日の昼間までは、特に問題はなかったんだが、夕方から発熱をしていたらしい」
「体温は?」
「今のところ37度8部程度だが、これからおそらく上がっていくだろう。血液検査から、すでにウイルス感染の兆候が出ている」
「リバビリンは効かない可能性が高い・・・ということですね」
「うむ。ラッサに有効な抗ウイルス薬だし、感染の初期も初期だったから、ちったぁ期待はしたんだが・・・」
「敵は我々にそう簡単な解決はさせてくれそうにない、ということです。他の抗ウイルス薬を試してみるしかないですね」
「暗中模索だよ。中世の医者の気持ちがよくわかるね」
葛西は、二人の会話を聞きながら、不安を募らせた。
「あの、アレク、すみません。多美さんとお話は出来ますか?」
「ああ、ジュン。ほっぽっててすみませんね。高柳先生、どうですか?」
「そうだな」
そういうと、曇りガラスの大窓の傍に行き、壁のインターフォンを手にした。
「園山君。多美山さんはまだ起きておられるかな? そうか。そこを開けても大丈夫だな」
そういうと、ギルフォードたちを大窓の傍まで手招きした。
「君は、葛西君・・・だったね。そこに立っておいで」
高柳が壁のスゥイッチを押すと、曇りガラスが一瞬にして透明ガラスに変化した。
「通電すると、透明になる仕組みだよ」
高柳は少し得意げに言うと、受話器を葛西に手渡した。
「これで、会話をしなさい」
「あ、すみません」葛西は高柳に礼を言うとすぐに病室に呼びかけた。「多美さん、大丈夫ですか?」
多美山は、ベッドに横たわったまま葛西の方を向くと、笑顔で言った。
「おお、ジュンペイ。残念ながら、あまり気分はよくなかばってん、まあ、心配せんでんよか。こっちには優秀な先生方がおられっとやから」
「多美さん、すみません、僕・・・」
「何ば謝りよっとか、おまえは。これはおまえのせいやなか。ところで今日は楽しかったか?」
「はい」
「先生から、ちゃんとバイオテロの講義を受けたか?」
「はい・・・」
「そうか。俺の代わりにがんばってくれな。頼むぞ」
「そんな、多美さん。それじゃあ・・・」
「何ば言うとっとか。俺は必ず治って復帰するぞ。そん時はまたコンビを組もう。一緒にテロリスト共をやっつけよう。な?」
「は、はい!」
葛西が返事をすると、多美山は満足そうに笑った。
「それと、多美さん。頼まれていた御守を買って来たんですけど・・・」
「ジュンペイ、ありがとうな。ばってん、もう外から簡単に物が持ち込めんごとなったったい」
「え? どうしてですか?」
葛西の疑問にギルフォードが答えた。
「病室に雑菌を持ち込まないためですよ。患者はかなり免疫が落ちますから、二次感染のリスクを最小限に押さえるためです」
「そうですか・・・。せっかく買って来たのに・・・」
「ジュンペイ」気落ちする葛西に、多美山が声をかけた。「俺が治るまで、俺の代わりにおまえが持っといてくれ」
「それじゃ、意味がないような気がしますよ」
葛西が、少し笑って答えた。
「笑ったな、ジュンペイ。そんでよか。見えない未来を悪い仮定を以って怖がったり悲しんだりしたらいかん。苦境に立った時、何をしていいかわからなくなったら、とりあえず笑ってみろ。そこの先生のごとな」
葛西は多美山に言われてギルフォードの方を見た。ギルフォードは、忙しく他のスタッフと話し合いをしていた。
「葛西さん、多美山さんお疲れのようですから、そろそろこの辺でよろしいですか」
病室の園山看護師が言った。
「あ、はい。すみません。・・・じゃあ、多美さん、お大事に」
「おう、ジュンペイ。おまえもがんばれよ。ただし、無茶をするんやなかぞ」
「はい」
葛西が答え終わると同時に、無情にも窓が一瞬でもとの曇りガラスにもどり、多美山との回線が途切れた。葛西は、窓に両手を突いてよりかかると、ぎゅっと両目を閉じた。その葛西の肩に誰かがそっと手を置いた。意外にもそれは紗弥だった。

 由利子は、ギルフォードに言われたとおり、タクシーで美葉のマンションの前まで行くと、タクシーを待たせたまま美葉を部屋まで送り届けようと一緒に車を降りた。
「あ、ちょっと待ってね」
美葉は、そういうとマンションの前に止まっている車の方に駆けて行った。由利子が後を追うと、美葉は車の運転手と親しげに話をしている。
「美葉ったら、危なかろうもん。ってこの車には見覚えがある! この人ひょっとして・・・」
「そうよ。公安の松川さん。なんとなく話しかけるようになっちゃって・・・」
「あのね~、それじゃ意味がないやろ~、あんたら」
「えへへ・・・」
美葉は照れ笑いで誤魔化した。
「もう、さっさと部屋に帰るよっ、美葉!」
「は~い。じゃ~ね。がんばって張り込んでね」
美葉は松川に手を振ると、由利子と並んでエントランスに入り、オートロックの入り口を通るとエレベーターに乗った。
「一人のときは、これ、使ったらイカンよ」と、由利子は言いながら、ふと気がついた。「あれ、見張り、もう一人のたけむらって人が居なかったな」
「今買いだしに行ってるって」
「そっか、張り込みも大変だね」
「あの松川って人、ちょっといい男でしょ?」
「またぁ、悪い癖が始まった。いい? これはアレクが今日言ったことやけど、どんな強い人でも隙を見せればやられるって。決して油断してはいけないって・・・。美葉は複数の男に襲われたって負けないかもしれないけど、例えば目の前で銃をぶっ放されたら避けれないでしょ」
「わかったわかった」
ちょうどその時エレベーターが美葉の部屋の階に着き、ドアが開いた。二人はそそくさと降り、美葉の部屋に向かった。まだ深夜には早いせいか、住人が彼氏と並んで歩いていくのとすれ違った。
「今からどっかに行くのかな?」
「コンビニでしょ。お酒でも切れたんじゃない?」
「もお、由利ちゃん基準でしょ、それ」
美葉が笑いながら言った。
 部屋について美葉がドアを開けると、愛犬の美月が座って待っていた。彼女は美葉が帰ると喜んで尾をばたばたと振り、擦り寄った。その後に由利子にも軽い挨拶をしに来た。
「美月ちゃん、いつもお留守番お利口さんやねえ」
由利子は、しゃがんで美月の頭を撫でた。
「あ、お茶でも飲んで行く? いっそ泊まってったら?」
「いや、タクシー待たせとるけん、すぐに帰るよ。ウチにも猫がいるしね。じゃ、また。今度はみんなで一緒に遊ぼうね」
「うん。楽しみにしとぉよ」
「じゃ」
由利子は手を振るとドアを閉め、マンションの廊下を足早で歩いた。急ぎながら、何故か後ろ髪を引かれるような気がした。
(下に公安の人が見張ってるんだし、葛西君も大丈夫って言ってたし。頼りになりそうな長沼間さんも事件自体から外された訳じゃなさそうだし、大丈夫よ)
由利子は階段を駆け下りる間に気を取り直し、そのまま駆け足でタクシーまで急いだ。

 感対センターの廊下にある例の自販機コーナーで、紗弥と葛西がソファに座って紅茶とコーヒーを飲んでいた。ギルフォードが打ち合わせで忙しそうだったので、邪魔にならないように二人はスタッフセンターを出てここでギルフォードを待つことにしたのだ。
「落ち着きました?」
紗弥が尋ねた。
「ええ」葛西はテレながら言った。「アレクにはああ言ったものの、ガラスが曇って多美さんの姿が見えなくなった途端、たまらなくなってしまって。情けないですね」
「そういうところが良いんだと思いますわ。だから、みんなあなたに好意を持ってくれるのだと」
「そうでしょうか」
「ええ。でも、気をつけないと、それは自分自身を危険に追い込む要因にもなりますわ。時には非情になることも必要です」
「僕に出来るでしょうか」
「無理ですわね、きっと」
紗弥はキッパリと言った。
「はああ・・・」
葛西はため息をついて、上半身を前に倒し膝の上にうつ伏せた。紗弥の答えがモロに応えたらしい。その横で、紗弥が珍しく感情を表し困惑したような表情で葛西を見ていた。

 由利子は、ようやく家に帰り着いた。部屋に入ると、すぐに騒ぐ猫たちにご飯を与える。そして自分用の紅茶を淹れミルクティーにした。ギルフォードと出会ってから、ミルクティーを飲む回数が確実に増えたように思われた。ちゃぶ台代わりの炬燵テーブルの前に座り、ミルクティーを飲みながら、ようやくほっと一息入れた。そこに美葉から電話が入った。
「はい、美葉?」
「うん、帰り着いたかなって思ったけど、連絡が無いんで」
「さっき帰り着いたっちゃん。電話しようと思っとったところやったんよ」
「そっか。私は今お風呂から上がったとこ」
「私も今から入ろうかな~。今日はシャワーで済ませないで湯船にたっぷりお湯溜めて・・・」
「いい湯だな♪なんて歌いながら?」
「風邪ひくなよ、歯ぁ磨いたか?なんてね」
「ババンババンバンバン」
「あははは、懐かしい」
由利子は美葉と他愛ない話を15分ほど続けた後、電話を終えた。
「さてっと、この紅茶を飲んだら、お風呂に入ろうっと」
由利子の頭の中は、すでに入浴モードになっていた。

 美葉は、由利子との電話を終えると寝そべっていたソファから起き上がり、う~んと伸びをして立ち上がった。
「さぁてっと。コーヒーでも入れて、クッキーでも食べながらテレビ見ようっと」
美葉はそう独り言を言うと、コーヒーを立てようとキッチンに向かった。その時、インターフォンが鳴った。
「こんな時間に誰かな?」
時はすでに夜11時を過ぎていた。インターフォンからモニターを見る。
「ゆ、結城さん・・・」
美葉は驚いた。美葉の反応に結城は不審そうな顔をして訊いた。
「どうしたの? 何を驚いてるんだい?」
「あ・・・、いえ、今まで音沙汰なくて、急に来られたから・・・。それに、髪も少し伸びて無精ヒゲも・・・」
「やだな、僕はヒゲが濃いから油断したらすぐに無精ヒゲ生えてたじゃない。それより、早く中に入れてよ。のどが乾いてるからなにか飲ませて」
「あ、あの、それより入り口ののオートロックのドア、どうやって通ったの?」
「ああ、ちょうど帰って来たカップルが居たから、一緒にいれてもらったんだよ」
「え?・・・そう。で、ここに来るまで誰にも声をかけられなかった?」
「全然。むしろ、こっちからご苦労さんって声をかけてやったくらいだよ」
「声をかけて何ともなかった?」
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
「あ、ああ、たいしたことじゃないの」
美葉は、なんとか誤魔化しながら、考えていた。
(それで、松川さんたちが何も言わなかったってことは、この人を探してるんじゃないってことよね。部屋に通して大丈夫だよね)
「とにかく開けてくれないかなあ。トイレにも行きたいんだ。ここで漏らしちゃうぞ~」
結城は身体を揺らしながら、おどけて言った。
「もぉ、相変わらずオヤジやね。ちょっと待ってね」
美葉はくすっと笑うと、玄関まで走って行き、ドアのチェーンを外そうとした。すると、美葉の後をついてきた美月が「ウ~!」と低く警戒のうなり声を上げた。
「こら、美月。相変わらず結城さんと相性が悪いわね。いい子にしていなさい。ハウス!」
美葉に命令されて、美月はすごすごと所定の場所に帰って行った。しかし、「美月の家」の前にいじけたように寝そべった美月だが、耳と目はじっと美葉の様子を伺っていた。
 美葉が結城を招き入れると、彼は彼女を見ながら眩しそうな笑顔で言った。
「美葉、久しぶりだね」
そして、彼はいきなり美葉を抱きしめた。
「ああ、美葉だ。美葉だ。ずっと会いたかったよ。ずっと後悔してた。妻のこと黙っててごめんな、騙すつもりじゃなかったんだ」
「結城さん・・・」
美葉は、自分を騙していたこの男に対して、ついさっきまで抱いていた恨みや怒り・悲しみが、抱きしめられたことによって氷解していくのを感じた。結城の心臓の音や息遣いを聞いて、切なくなった。美葉は、一瞬自分も結城を抱きしめようとしたが、途中でその手を止めた。それからすぐに結城を軽く押しのけ、顔を赤らめて言った。
「結城さん、なんだか臭い」
「おっと、そうだった。ずっと風呂に入ってなかったんだ、僕。ちょっとトイレのついでにシャワーも使わせてくれない?」
「いいわよ。あ、私、今日湯船に浸かったから、お風呂にも入れるわよ。あ、ちょっと待って」
そういうと、美葉は箪笥に向かい、タオルを出した。
「あ、そうだ。着替えの下着・・・。たしか随分前に置いて帰ったのがあったよね」
美葉が引き出しの中をごそごそと探すと、奥の方からビニール袋に入った男物の下着が出てきた。
「あ、あったあった。はい、どうぞ。 さすがに着替えの服はないから、今のままで我慢してね」
「ありがとう。これでさっぱり出来るよ。じゃあ、ちょっと入ってくるから」
「ええ、ごゆっくり。じゃ、私はコーヒー沸かして待っているわね」
「嬉しいね」
そう言いながら、結城はバスルームに入っていった。しばらくすると、水音がし始めた。美葉は、キッチンに向かい、コーヒーを入れるため戸棚からフィルターを出そうと手を伸ばして、ふっと考えた。しばらくお風呂に入ってないって、どういうこと? それに、さっきインターフォンで結城が言った言葉。
『むしろ、こっちからご苦労さんって声をかけてやったくらいだ』
(確かに私は誰かに声をかけられなかったかって聞いたけど、普通ならなんて答える? 私なら・・・? そう、多分『いいえ。どうして?』。でも、彼の言い方は何? まるで張り込みを知ってた様・・・)
そう思ったとたん、美葉の背に冷たいものが走った。
(私のバカ! 結城さん、張り込みのレクチャーが出来るほど、そういうのに詳しかったじゃない! 声をかけたって、まさか・・・)
(どうしよう・・・。うちの中に入れちゃった・・・)
美葉は、由利子が言ったギルフォードの言葉を思い出した。
『どんな強い人でも隙を見せればやられる。決して油断してはいけない』
美葉は、手に取ったフィルターを放り出すと、居間まで携帯電話を取りに行った。急いで由利子に電話をかける。しかし、繋がらない。
「あ・・・、由利ちゃんも入浴中なんだ・・・!」
美葉はつぶやくと、がっかりしてソファにへたり込んだ。
(そうだ、メール! とにかくメール送っとこう!)
美葉は気を取り直すと、また携帯電話に向かった。しかし、焦ってなかなか文字が打てない。
「もぉ~、何でこんなにやりにくいと、ケイタイメールって! もっと練習しとくんやった」
美葉は、テンキーでの文字うちに慣れていない自分を呪った。その時、後ろで男の声がした。
「誰に焦ってメールしてるんだい? 美葉?」
ぎょっとして美葉が振り返った。そこには、全裸でまだ身体が濡れたままの結城が立っていた。手には、なにか黒い得物のようなものを持っている。メールに四苦八苦していた美葉は、それに全く気がつかなかったのだ。美葉はとっさにメールを下書きで保存し立ち上がったが、結城の様を見るなり電話を握りしめ目を見開いたまま、一瞬身動き出来なくなってしまった。

 時間はその少し前に戻る。
 松川は、買出しに出た武邑の帰りが遅いので、やきもきして待っていた。その時、電話に着信があった。長沼間からだ。急いで電話に出る。案の定、武邑が居ないことに対して大目玉を食らった。
「武邑は、後からこっ酷く説教をしてやる。とにかく、武邑が帰って来るまで油断するなよ。いいな。結城の顔はちゃんと覚えているだろうな」
「忘れませんよ。でも、あんなインテリそうな人がテロを画策しているなんて信じられません」
「馬鹿か、貴様。 アメリカの炭疽菌事件の犯人はどうだった? いや、それ以前にO教団のテロ事件に、どれだけのインテリと言われていた連中が関わっていたと思うんだ!?」
「す、すみません。勉強不足で・・・!」
「まったく、おまえら、普通のリーマンにでもなっとれば良かったんだ。平和ボケしやがって! 税金ドロボーが!! もういい。とにかく異状があったらすぐに連絡しろ、いいな。ターゲットになにかあったら、貴様ら二人まとめてひき肉にしてやるからな!!」
長沼間は、一方的にまくし立てると電話を切ってしまった。
「はあ~。ああいうけど、何日もずっと異状なしだし、退屈だもんなあ・・・。ああ、家のベッドで寝てぇ・・・」
そういうと、松川は大あくびをした。その時、窓を叩く音がしたので、松川はぎょっとしてそっちを振り向いた。そこには、中年の男らしい姿が見えた。しかし、松川の目には少し涙が浮かんでいるため、若干視界がかすんで見えた。もちろん、先ほどの大あくびのせいだった。松川は、焦って目をこすった。
「お疲れ様。退屈そうですね」
男はそう声をかけると、にこっと笑って背を向けた。男の顔と姿を確認した松川は、驚いて車から降りようとした。中肉で背は高め、面長の顔で人好きのする知的な笑顔、写真より若干やつれ、長髪と無精ヒゲで容貌はかなり変わっているが、さんざっぱら写真で容姿を覚えさせられた、結城に間違いない。急いで車を降りながら、松川は男に声をかけた。
「そこのあなた、止まりなさい」
男はゆっくりと振り向いた。
「御用ですか?」
「警察です。少しお話を聞かせて・・・」
その時、男がにやりと笑った。そのままきびすを返してマンションに駆け込もうとする。
「ま、待て!!」
松川が結城を追おうとしたその瞬間、彼の後頭部に激痛が走った。そのまま松川の意識が途切れた。

「松川! しっかりしろ!!」
松川は自分をゆり起こす声を聞いた。買出しから帰った武邑だった。松川は急いで時計を見た。まだ2分と経っていない。松川は立ち上がろうとして、うめき声を上げ後頭部を押さえた。大量の血で掌がべっとりと赤く染まった。
「ゆうき・・・いま・・・マンション・・・」
松川はそれだけ言うと、また意識を失った。武邑は松川が完全に気を失ったのを確認すると、彼を置いてマンションのエントランスに駆け込み怒鳴った。
「結城! 今日は逃がさんぞ! 貴様の不始末の報いを受けさせてやる!!」
その時、男女の小さい悲鳴が聞こえた。声の方向を見た武邑は、信じられない光景を目撃した。オートロックのドアの前で、マスクとサングラスで顔を隠した男が気絶した女性を抱えて立っており、足元には若い男が倒れていた。男の片手には、細長い黒い皮の袋のようなものが確認できた。
「スラッパー・・・! そんなもので人を・・・貴様ァッ!」
武邑は、危険を感じとっさに男に体当たりをかませようと突進した。しかし男はあろうことか、武邑に向かって、今抱きかかえていた女性を物のように投げつけた。見た目からは考えられない力だった。武邑に女性の身体が直撃して、二人は重なったまま床に倒れた。強い衝撃を受けて、武邑は全身が痺れ動けなくなった。その武邑の目に男がゆっくりと近づくのが見えた。男の靴の裏が自分の顔面に迫って来るのを、彼は成す術もなく見つめていた。男は武邑の頭を蹴り上げた。とどめが効いて武邑は意識を失った。男は三人の身体を公共トイレの中に隠すと、悠々とエレベーターに乗った。

「悪い子だなあ、美葉は。様子が変だと思ったら、やっぱり警察と繋がってたんだね」
結城は笑いながら言った。美葉は目を見開いたまま首を横に振った。
「違うのか? まあいいや」
結城は美葉の手から電話をもぎ取り、床に投げ捨てた。電池の蓋が外れて電池が飛び出した。
「さて、預けたCD-Rを返してくれないか?」
結城は、美葉に詰め寄ると彼女の身体を抱きよせようとした。その瞬間、結城の身体が空に舞った。結城は裸のまま、みっともなく床に投げつけられた。
「ぐう・・・、美葉、きさま・・・!?」
結城は呻き声を上げながら言った。美葉のような小柄な女に投げ飛ばされるとは、夢にも思っていなかった。彼は美葉が合気道をしているなんて全く知らされていなかった。美葉は、付き合う男に嫌われたくなくて、そんなそぶりは全く見せない女だったからだ。結城が床に倒れている間に、美葉は急いで携帯電話を拾い、電池を入れなおして再び由利子に電話をかけようした。しかし、まだ風呂から上がってないらしく、繋がらない。それで、美葉は書きかけのメールを送ることにした。読んでもほとんど意味不明だが、きっと由利子なら異変に気づいてくれる。美葉はそう確信したからだ。メールを送信した直後、体勢を立て直した結城が美葉を再び襲ってきた。手に持った黒い凶器を美葉に向けて振り下ろそうとした。避けきれない!! 美葉は次に来る衝撃を覚悟した。その時、凄まじい吼え声と共に、美月が結城に牙をむいて飛び掛った。美葉は驚いて愛犬を止めようと命令した。
「ダメ! 美月! ステイ!!」
しかし、主人の危機を察した美月は、もはや美葉の言うことは聞こうとしなかった。だが、次の瞬間、ギャインという悲鳴と共に、美月が床に転がった。結城が手に持った得物で美月を思い切り殴ったのだ。床に転がった美月は、それでも美葉を守るために必死の思いで立ち上がろうとした。その美月の腹を、結城は容赦なく蹴り付けた。美月は再びギャンという悲鳴を上げると、そのまま動かなくなった。その美月を結城はさらに蹴りつけようとした。
「やめてぇ!!」
美葉は、結城に取りすがって止めた。
「お願い、もう止めて。もう逆らわないから。この子をこれ以上傷つけないで・・・!!」
その時、玄関の戸を叩く音がした。
「多田さ~ん? なんか騒々しいって近くの数部屋から苦情が来てるけど、どうしたの?」
「あ、は~い」
美葉は返事をしながら結城を見た。
「行ってこい。怪しまれるとまずい。妙な事を言うと・・・、わかってるよな?」
美葉は頷くと玄関に出て行った。
「あ、管理人さん。すみません。ちょっとお部屋の模様替えをしていたら、うっかり犬の上に物を落としちゃって・・・」
「あらそうなの? 美月ちゃん、怪我しなかった?」
「大丈夫です。びっくりしただけみたい。もう終わりましたから。明日、皆さんにはお詫びに伺いますわ」
「そうね。あなたはしっかりしてるから大丈夫よね。じゃあね。もう、夜中に模様替えなんかしちゃあだめよ」
「すみません。おやすみなさい」
美葉は、恐縮しつつドアをしめた。管理人は、少し首をかしげながら自室に戻って行った。
「管理人さんだったから、適当に誤魔化して来たわ」
美葉は結城に告げ、彼には見向きもせずに美月の方に駆け寄った。辛うじて息はしているが、背中の毛に血が滲み、口と鼻からも血を流している。これは早く医者に見せないと危ないかもしれない・・・。美葉は美月を優しく撫でながら言った。
「ごめんね、美月。私のせいで・・・。アレクの言ったとおりだったね。私がバカだったよ・・・」
美葉の目から涙があふれた。しかし、後悔しても時間は戻らない。美葉は結城に向かって言った。
「この子を動物病院に連れて行きます。急がないと・・・」
「あのCD-Rを渡すんだ」
「ここにはないわ。ある場所に預けたの」
「どこだ、それは」
「病院が先よ。このままだといずれ美月は死んでしまう!」
「ダメだ。そろそろ公安が動き出すかもしれない。さっさとここを出るぞ」
「どこにでも行けばいいじゃない! 人でなし!」
美葉は結城に目もくれず、美月を撫でながら吐き捨てるように言った。
「おまえも一緒だよ」
「え?」
驚いて振り向こうとした美葉は、首筋になにか当たるのを感じた。耳元でバチッと凄まじい音がして、そのまま気を失った。
 

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2.侵蝕Ⅱ (7)キッドナップ

「ああ~、いい気持ちだった~。お風呂サイコー」
由利子は、気分よく風呂から上がった。髪は洗い立てなので頭には大きめのタオルを巻き、暑いのでこれまた大き目のTシャツにアンダーパンツだけのあられもない姿だったが、一人暮らしで同居人は猫だけという気楽な生活であるので、そのあたりはさして気にする必要もない。由利子は、冷蔵庫を開けると缶ビールに手を出そうとした。しかし、つい1時間半前くらいまで飲んでいたことを思い出し、予定を変更して手を牛乳パックの方に向けた。グラスに牛乳をついで、く~~~っと一気飲みをした。その後グラスを流しの中に置き水に浸け、キッチンから部屋にもどり、ぬれた髪を乾かし始めた。ドライヤーの苦手な猫2匹は、ベッドの中に避難した。いつものことなので由利子は全く気にしていない。髪を乾かしながらふと机の上の携帯電話を見ると、着信の知らせが入っていた。中を確かめてみると美葉からの着信とメールだった。電話は、メッセージも何もなく切れていた。変だなと思いメールを開いてみる。件名はなく本文も短いようだ。しかしその内容を見て、由利子は首をかしげた。

 由利ちゃんどうしよう、ゆうきさ

「何、これ?」
普通なら、単なる送り間違いとして大笑いで終わりそうなメールだったが、由利子は、そのメール文の妙な中途半端さに、却って不気味なものを感じた。
「『ゆうきさ』って何? 勇気さ? 違うよな。『どうしよう、勇気さ』じゃあ辻褄が合わんやろ。なんだろ、引っかかるな。ゆうきさ・・・ゆうき・・・ゆう・・・き?」
由利子はハッとした。この前ギルフォードと美葉の部屋に行った時、長沼間の伝言を彼女に伝えたが、その時彼女が口にした彼氏の名前が、確か『ゆうき』だったということに思い当たったからだ。不吉な予感がして、いそいで電話を入れる。
「頼む、出て・・・!」
祈るような気持ちで電話を耳に当てる。しかし、呼び出し音はせず、無情にも留守番電話サービスに繋がった。電源が入ってないか電波の届かないところに居る・・・? しかし、美葉が携帯電話の電源を切ることはほぼないと思っていい。また、美葉がこんな時間に電波の届かないようなところに行く可能性も少ない。第一、由利子から危険に曝されていることをあんなに注意されたのだから。
「何かあったんだ・・・」
由利子は直感した。由利子は急いで着替えると火元の確認をし、電話と財布を引っ掴み、髪が半濡れのまま部屋を飛び出した。猫達が不思議そうな顔をして、ベッドから顔を出した。

 由利子は、一気に走って大通りに出てタクシーを捜したが、こういうときに限ってなかなか空車が来ない。やきもきしていると、ようやくランプを点けたタクシーが一台走ってきた。両手を振ってタクシーを止める。
「すみません。助かります」
由利子は乗りながら運転手に礼を言った。その後すぐに行き先を告げ、タクシーが動き出すとすぐにギルフォードに電話を入れた。ここは110番より、事情を知っているギルフォードに電話したほうがいいと思ったからだ。しかし、これまた繋がらない。
(しまった! 彼は今、病院にいるんだった! なんてこと・・・)
由利子は伝言を入れた後電話を切ると、しばらく電話を眺めながら考え込んだ。
(やっぱ、110番か・・・)
そう思って再度電話を開いた時、ちょうど電話が震えた。ギルフォードからだ。由利子は速攻で電話に出た。
「あ、アレク? 由利子です」
「どうしました?」
「電話、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です。携帯電話の電源を入れ忘れてました。今、帰ろうと思って駐車場に向かっているところです。サヤさんもジュンも一緒ですよ」
「あのっ、美葉が電話に出ないんです」
「電話に出ないって、トイレとかお風呂じゃないんですか?」
「電源が切れてるんです。美葉のところには固定電話がないから、彼女が家にいる時、携帯電話の電源を切ることは、まずないんです」
「なるほど」
「それに、美葉から着信があってて、その後、途中までの意味不明なメールが来てたんです。だからそれまでは電源は切ってなかったはずです。ほんの15分かそこら前のことです」
「確かに、それは変ですね・・・」
「今、タクシーで美葉のところに向かってます」
「わかりました。僕らもそっちに向かいます。交通事情によってはこっちからのほうが早いかもしれません。事件性が不明なので警察は動けないかも知れませんが、一応110番してみて下さい。何よりパトカーが一番速いでしょうから。僕は、長沼間さんに連絡を入れてみます。張り込みの人に様子を見てもらえるかもしれないですし」
ギルフォードは、その張り込みの警察官が、まず倒されてしまったことをまだ知らない。由利子は言われたとおり110番したが、やはり事件性の根拠が希薄なせいか、あまり熱心には受け取ってくれなかった。それでも、とにかく誰か向けましょうと言ってくれたので、由利子はとりあえずほっとした。一方通報を受けた通信司令室の警官は、司令室前方の大ディスプレイでパトカーの所在を確認して「あちゃ~」と言った。パトカー出動を表す地図を見ると、九州最大級の繁華街であるN州近辺とQ自動車道の方にパトカーが集中しており、電話の通報のあったマンション付近に即向かえる位置にパトカーがいなかったからだ。
「そういえば、繁華街で発砲事件と、高速では玉突き事故が発生していたな・・・」
彼はつぶやいた。

 ギルフォードは事情を説明して運転を紗弥に任せ、長沼間に電話をいれた。その間、葛西があることに気がついて紗弥に尋ねた。
「紗弥さん、ひょっとして酒気帯びでは・・・?」
「大丈夫です。生ビールをほんの一杯しか飲んでませんから、もうとっくに分解していますわ」
紗弥は澄ました顔で答えた。
「マジ・・・?」
いくら何でも三時間やそこらで分解はないだろう。しかし、そういえば酒臭さはしないようだ。
(バケモノ・・・?)
葛西は思ったが、もちろん口には出さなかった。
 長沼間は何故か電話に出るまでに時間がかかったが、しばらくして不機嫌そうな声で応答してきた。
「俺だ。こんな時間に何だ、先生」
「あ、ナガヌマさん、ギルフォードです。あのミハさんが・・・」
「あいつ等に電話しても繋がらないんで、張り込みの現場に向かおうとしていたところだ。まったく糞の役にも立たん連中だよ」
「え? 現場の部下に連絡がとれない・・・?」
ギルフォードは不吉な予感に襲われた。
「ナガヌマさん、これは何かあったのかもしれませんよ」
ギルフォードは長沼間に、由利子からの電話の内容を話した。
「くそ~!」長沼間は言った。「本当に役立たずな奴らだ。オマケに心配までかけさせやがる」
そこまで言うと電話がブチッと切れた。
「長沼間さんが向かったようです。急ぎましょう」
ギルフォードが言った。紗弥は、何も言わずにアクセルを踏んだ。車はいきなりスピードを上げた。後部座席に乗った葛西が驚いて言った。
「うわあ、一応現役の警察官が乗ってるんです。派手なスピード違反はやめて下さい」
「サヤさん、急ぐとは言え公道です。ある程度の速度で手を打ってくださいね」
それでも、紗弥はスピードを緩めない。
「パトランプが欲しいぞ~~~!」
葛西が叫んだ。

 由利子は思ったより早く美葉のマンションについた。電話の内容から緊急性に気づいた運転手が、抜け道の限りを駆使して急いでくれたからだ。警察もギルフォードもまだ来ていない。がっかりしながらも、由利子は運転手に心からお礼を言うと、急いでマンションの中に駆け込んだ。急いでインターフォンで美葉の部屋に連絡をとってみる。やはり反応がない。仕方がないので管理人を呼び出した。深夜にも関わらず彼女は幸い起きていて、すぐに出てきてくれた。由利子は事情を説明し、管理人に美葉の部屋の鍵を開けることを納得させた。二人は美葉の部屋に向かった。
「いえね、変と思ったのよ」
管理人の女性が言った。
「多田さんの部屋が騒がしいって苦情が出たの。彼女が入居してからこんなこと初めてだったのよ。でね、様子を見に言ったら、なんでもないって言われて。ほら、こっちもそれ以上追求できないでしょ」
管理人の言い訳じみた話を聞きながら、由利子は不安を募らせた。美葉の部屋の前に着くと、管理人はインターフォンで美葉に呼びかけた。
「多田さん?」
応答がない。管理人はドアをノックしながら言った。
「多田さん? 居るの? 何かあったんじゃないの? 開けるわよ」
やはり、何の反応もない。由利子と管理人は顔を見合わせた。二人とも顔がこわばっている。
「仕方がない、開けましょう」
管理人は言うと、合鍵でドアを開けた。中は電気が消えて真っ暗になっていた。管理人が慌てて電気を点ける。部屋は急に明るくなり、由利子は一瞬目をつぶった。
 部屋の中は、かなり荒らされていた。美葉の部屋では誰かが暴れたような跡があった。床には砕けた携帯電話が落ちており、血を拭いた様な跡もあった。尋常でない事態が起こったことは間違いない。管理人は「110番、110番」と言いながらオロオロしながら電話をポケットから取り出していた。その間由利子は部屋中を美葉と美月の姿を探し回り、バスルームのドアを開けて息を呑んだ。
「美月!!」
由利子は悲鳴に近い声で、美葉の愛犬の名を呼んだ。

 幸い、葛西が同業者に遭うことなく目的地に着いた。どうやら、長沼間より先に着いたようだ。葛西は乗っている間、生きた心地がしなかったが、ほっとして車から降りた。ギルフォードも車を降りながら言った。
「しかし、まったく警察には遭わなかったけど、何か事件でもあってるんでしょうか」
「そうかもしれませんね」
「いずれにしても良かったですね、ジュン」
「ですが、逆にこっちにすぐ来れない可能性も出てきました。急ぎましょう!」
葛西がそう言ったと同時に、もう一台車が止まり、男が降りてきた。長沼間だ。彼は、バタンと激しくドアを閉じると、駆け足でギルフォードたちの方に向かってきた。
「何があったんだ? アレクサンダー」
「いえ、僕たちも今来たばかりです。ナガヌマさんの部下さんたちはどこに?」
「それは、俺が行く。オマエさんたちは早く多田美葉のところに行ってくれ」
「OK、急ぎましょう、二人とも」
ギルフォードたちと長沼間は二手に分かれ、目的の方へ向かった。
 ギルフォードたちは、エントランスのオートロックの前で顔を見合わせた。
「管理人を呼んでみましょう」
葛西はインターフォンで100を押してみる。しかし、応答がない。
「寝てるんでしょうか」
「ユリコに電話してみましょう」
ギルフォードはそう言いつつ電話をかけ始めた。
「もしもし、ユリコ?」
「アレク!」
電話の向こうで珍しく冷静さを欠いた由利子の声がした。
「アレク! どうしよう、美月が、美月が・・・!!」
「ミツキちゃんが? てことは、今、美葉さんのところに居るんですね」
「あ、はい。でも美葉がいないんです。それで、美月が大怪我をしていて・・・」
「大ケガ?」
「はい。息はあるけど全く反応がなくて・・・どうしたら・・・」
由利子の声が涙声になった。
「すぐ行きますから、とにかくオートロックをどうにかして欲しいのですが」
「管理人さんに言ってみます」
そのまま電話が切れ、少しするとドアが開いた。と、同時に三人は中に入り急いでエレベーターに向かおうとしたところで、紗弥が異変に気がついた。
「呻き声が聞こえますわ」
紗弥は、あたりを見回すとまっすぐに建物内の公共トイレに向かいドアを開けた。
「教授!」紗弥はギルフォードを呼んだ。「中で人が三人倒れていますわ」
「なんだって?」
ギルフォードより葛西が先に反応し、走ってきた。ギルフォードも後に続く。
「女性が一人で男性が二人。男性の一人はもう息がありません。後の二人は呼吸は安定していますが、急いで病院に運ばないと」
紗弥が説明した。葛西はギルフォードに向かって言った。
「ここは僕たちに任せて、アレクは早く由利ちゃんのところに行ってあげてください!」
その時、長沼間が走ってきた。
「あ、ナガヌマさん! こっちに人が倒れています。お願いします」
そう言いながら、ギルフォードはきびすを返し由利子のもとに向かった。
「何があった?」
長沼間は、葛西と紗弥が人をトイレから引っ張り出しているのを見て駆け寄ってきたが、そのうちの一人を見て驚き、怒鳴った。
「武邑!!」
長沼間は、葛西を押しのけて部下の脈を見、まだ息のあるのを確認してほっとした。葛西はむっとした顔をしたが、すぐに救急車要請のため電話をかけはじめた。長沼間は、武邑の頬を軽く叩きながら怒鳴った。
「武邑! しっかりしろ! わかるか? 俺だ!!」
武邑はうっすらと目を開けて言った。
「・・・。長沼間さん、すみません。ヤツを取り逃がして・・・。僕が油断したせいで、松川まであんな目に遭わせてしまって・・・」
「もういい、後は病院で聞こう」
「長沼間さん、少しお退きくださいませ。息のない男性の蘇生をしてみますわ。まだ暖かいですから」
そういいながら、紗弥はバックから感染防止用の人口呼吸マスクを出すと、蘇生をはじめた。
「流石、ギルフォードの秘書だな、用意のいいこって」
長沼間は感心しつつ言ったが、すぐに葛西に向かって言った。
「一台すでに呼んでいるんだ。念のため別口だということを伝えといてくれ。連中時たま勘違いするからな」
以前女性が車中で水死した事件のことを言っているらしい。葛西は頷き電話を続けた。
「すぐ来るそうです。一台呼んだってどういうことですか」
「車の方で、部下が一人倒れていた。まだ息はあるが、意識不明の重体だ。それで、もう一人の確認のためこっちに来た。すまんが、向こうの様子を見に戻らんといかん。こっちはよろしく頼む」
長沼間は葛西に頭を下げると、外に走って行った。入れ替わりに警官が二人走ってきた。
「すみません、立て込んでいたので遅くなりました」
そう言うなり、思った以上の惨事に警官二人は一瞬たじろいだ。
「何があったとですか?」
「わかりません。僕らも来たばかりなので」
葛西が、警官達に向かって手帳を出しつつ言った。
「ご苦労様です。K署捜査一課の葛西です」
「K署の刑事さんが何でこんなところへ?」
と、警官の一人が訝しげに訊いた。
「成り行きです」葛西は答えた。「通報した女性の知り合いです。連絡を受けたので急いで来ました。しかし、まさかこんなことになっていようとは・・・」
葛西は絶句した。傍らでは、もう一人の警官が、増員を要請している。
「通報があったのは、上の階の女性の件でしたが・・・」
「そうです。今二人、その女性の関係者が行ってます。ここは任せて、とにかく行ってあげてください」
「わかりました。行くぞ!」
二人の警官は通報現場に向かった。遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。

 ギルフォードは管理人に通され美葉の部屋に入ると、室内の状況を確認し予想以上の荒れように驚いた。しかし、すぐに、心配そうに美月の傍に座っている由利子のところに向かった。
「ユリコ」
「アレク! 美葉がどこにもいないの。誘拐されちゃった・・・」
「とにかくミツキちゃんの様子を見させてください」
ギルフォードは、急いで美月の容態を見ると言った。
「急がないと危ないです。今から知り合いの獣医師のところに連れて行きましょう。毛布かバスタオルはありますか?」
「探してみます」
由利子は立ち上がった。まもなく押入れからタオルケットを引っ張り出して持ってきた。ギルフォードは美月をタオルケットで包みながら言った。
「酷いことをしますね・・・」
「ええ・・・」由利子は答えた。「美葉から彼氏について聞いた話では、気の弱い優しい人だったのに、こんなことをするなんて・・・」
「ペルソナ・・・。人はいろんな仮面をつけているものですよ。・・・或いは何か薬物をやっているのかもしれません」
「クスリ・・・?」
「ええ。ある種の薬物は人の性格を変えてしまいます。ホラ、あそこの携帯電話、見事に砕かれているでしょう? 多分、君にメールを送ったことがわかって、あれに怒りをぶつけたんです。かなり衝動的な行動です。あと、家の中を物色した形跡がありますね。ここに何か探しに来たんでしょうか。見つからなかったので、怒ったのでしょう。周囲のものが壊されています。これは相当イカれてますね」
「そんな危険なヤツに、美葉は連れ去られたって・・・」
由利子は言葉を失った。
「部屋に入れてしまった段階で、もう勝負は見えています。言わんこっちゃないです。厳しいようですが、これは、ミハの失態です。かわいそうに、この子はミハを必死で守ろうとしたんでしょう」
「でも、悪いのは美葉の彼氏です。でも、不甲斐無いのは美葉を守ると言った公安だわ。彼らの目をスルーしてやってきたから、美葉も安心したんだと思うわ」
「その公安の人たちですが、おそらくやられてしまったようです」
「ええ? そんなバカな・・・!!」
由利子は驚いて言った。そんな事態は考えてもいなかった。ギルフォードは美月を抱き上げると、立ち上がって言った。
「男は何か強力な武器を持っています。それにこの子はやられたようです。下にも被害者がいました」
「下に!? 気がつかなかった・・・。なんてこと・・・」
「一刻を争いますので、僕はこれからこの子を病院に連れて行きます。あとはよろしくお願いしますよ」
そういうと、ギルフォードは急いで美葉の部屋を出て行こうとした。その背中に由利子が声をかけた。
「よろしくお願いします。助けてください」
「大丈夫。彼ならきっと助けてくれます」
ギルフォードはにっこり笑って言うと、部屋を出た。出掛けに警官二人に出会った。
「ああ、ゴクロウサマです。今から被害にあった犬を病院に連れて行くところです。急がないと間に合わないので・・・」
ギルフォードは不審そうに自分を見る警官達に説明した。
「あ、その人は大丈夫です。あの、私が110番した者ですが・・・」
由利子が玄関から顔を出すと、急いで説明をした。
 ギルフォードがエレベーターで一階に降りると、増員された警官と救急隊員でごった返していた。血を流した犬を、タオルケットで包んで抱きかかえた大男のガイジンは、目立ちすぎて警官達の不審そうな目が集中し、ギルフォードはエレベーターから出た途端、警官たちに囲まれてしまった。
「どいてください! この子を早く病院に連れて行かないと・・・」
ギルフォードはゲンナリとして言った。こういう時は、やはり自分がこの国では異分子なのだと実感する。葛西がギルフォードの声に気がついて焦って説明した。
「この人は大丈夫です。僕の友人で、Q大のギルフォード教授です」
「失礼しました」
警官達がさっと道を開けた。
(”モーゼの気分だな”)
ギルフォードは思った。彼は、警官たちから解放され足早にマンションから出ると、片手で美月をしっかりと抱きながら片手で電話をかける。
「あ、ハルさん? 僕です。夜遅くすみません。大怪我をした犬がいます。診てもらえますか? いいですか? よかった。さすがハルさん、頼りになります。愛してますよ」
電話の向こうで何か騒ぐ声がしたが、気にせずにギルフォードは電話を切った。急いで車に戻ると、後部座席に美月を乗せ、シートベルトで上手く固定するとサッと運転席に乗り、エンジンをかけた。
”必ず助けてやる.がんばるんだぞ,ミツキ”
後部座席の方を振り向き美月に声をかけると、ギルフォードは車を発進させた。

 由利子は、警官達から事情を聞かれて困っていた。どこまで話していいかさっぱりわからなかったからだ。そもそも長沼間からは詳しい話はほとんど聞いていない。通報した経緯までは話したが、それまでのことはどういうべきか迷った。そこに葛西と長沼間が入って来た。
「葛西君!」
由利子は葛西を見てほっとした表情になったが、後ろの長沼間を見ると一変して険しい顔つきになった。由利子は長沼間に近づくと、噛み付かんばかりの勢いで言った。
「うそつき! 美葉を守るって言ったじゃない! 美葉、居なくなっちゃったわ。きっと、あいつに連れて行かれちゃったのよ!」
「すまない」
長沼間は素直に謝った。苦渋に満ちた表情だった。事実、これは長沼間らの大失態である。おまけに部下2名がしばらく活動不能にされてしまったのだ。
「あなたに謝られても美葉は帰ってこないわ! 早く探してよ、急がないと殺されてしまうかもしれない・・・」
「由利子さん、長沼間さんをあまり怒らないでください。この人も二人の部下を意識不明の重体にされたんです」
見かねた葛西が、長沼間に助け舟を出した。
「とにかく早く探してください!! あの人たちにはあなたからちゃんと説明して」
由利子は制服警官たちを指差して言った。二人の警官は由利子の剣幕に驚きつつ、話の内容からこれは思っていたような痴話げんかではないことを認識した。由利子に言われて、長沼間は警官達の方に向かった。
「あなたは?」
「公安の長沼間です」
「公安?」
二人の警官の顔色が変わった。痴話げんかどころか、これが普通の刑事事件ですらないことがはっきりしたからだ。二人は顔を見合わせた。

 ギルフォードが動物病院に着くと、獣医師の小石川晴希が半分シャッターを明け、戸口で待っていた。小石川獣医師は40代後半で、身長はギルフォードと競う高さだったが、体格はもっとがっしりしているため、ギルフォードよりでかく見え、さらに動物病院の医師にありがちな髭を生やしている。近所の人からは春風動物病院の熊先生と呼ばれ、親しまれていた。ギルフォードは美月を小石川に渡すと、医師は美月を見るなり驚き、野太い声で言った。
「美月ちゃん!」
「知ってるんですか?」
「ええ、僕はこの子の罹りつけです」
「とにかくお願いします」
ギルフォードはそう言うと病院の駐車場に車を置きに行った。急いで美月の元に走る。診察室に入ると、小石川が、診察台で酸素マスクをつけた美月を深刻な顔で診ていた。
「ひどい怪我です。何があったんです?」
「この子の飼い主が連れ去られました。その犯人にやられたようです」
「多田さんが? 一体どうして?」
「わかりませんが、犯人はかなりイカれた人物には間違いないですね」
「そうですね。動物をこんな目に遭わせるなんて・・・」
小早川は、表情を曇らせた。
「とにかくレントゲンを撮って背骨に異常がないか見てみます。あと、内臓の損傷も。場合によっては今から手術することになるかもしれません」
「お願いします。お金は僕が立て替えますから」
「いや、気にしないでいいですよ。飼い主にちゃんと請求しますから」
「でも、彼女は今・・・」
「大丈夫、きっと帰ってきます」
小石川は断言した。その時、クウンというかすかな声が聞こえた。酸素マスクのおかげで意識を取り戻したらしい。美月はギルフォードと小石川の顔を見ると安心したように尻尾を弱弱しく振った。
”ミツキ! 気がついたか?”
とっさにギルフォードは英語で言った。それでも美月にはなんとなく意味がわかったらしい。彼女を撫でようと差し伸べられたギルフォードの手を舐めた。しかし、それも力ない。
「Good girl! 僕がわかるんですね。一度しか、それも少しの間しか会っていないのに・・・。」
ギルフォードは感動して言った。
「ハルさん、この子をなんとか助けてやってください。お願いします」
「アレクさん、この子はね、3月のまだ寒い満月の夜に海辺に捨てられていたんです。多田さんが見つけた時は半分ほど塩水に浸かっていて、他の姉妹二匹はすでに死んでいたそうです。この子だけがかろうじて生きていて、必死で鳴いていたそうです。ここに連れて来られた時は、ほとんど意識がありませんでした。でも、この子は生き延びました。今回もきっと生き延びてくれると信じています」
「そうだったんですか・・・。美月、君も大変だったんですね。命の恩人を君は守ろうとしたんですね・・・」
「さ、そろそろ治療を始めます。もうすぐ妻が助手をしにやってきますが、会っていきますか?」
「いえ、僕はミハのところに帰って説明をせねばなりません。奥様にはまた今度」
「残念ですね。妻も会いたがっているのに」
「じゃあ、ミツキちゃんをよろしくお願いしますね。じゃ、ミツキ、がんばるんですよ」
ギルフォードは美月をもう一度優しく撫でると、病院を出ようとした。そこで、小石川の妻とばったり出会った。まだ20代の若い女性である。小柄で可愛らしく、夫と並ぶとまるで赤頭巾ちゃんと野獣といった風情だ。実はギルフォードはこの女性が苦手であった。
 彼女はギルフォードの姿を見るなり言った。
「きゃああ~、ギル教授、おこんばんは~」
彼女はそのままきゃあきゃあ言いながらギルフォードに抱きついた。実は彼女はゲイ大好き腐女子で、おまけに抱きつき魔だった。
「あ、あの、マイさん、僕はこれから急ぎますので・・・」
「舞衣、先生の邪魔をしちゃあダメだろ。早くこっちに来て手伝ってくれないか。重傷なんだ」
小石川は焦って妻を呼んだ。
「マイさん、ミツキちゃんをよろしくお願いします」
ギルフォードはそう言い残すと、病院を出た。
「え? 美月ちゃんなの?」
舞衣は急に真面目な顔になって、夫の元へ走った。

「どうしてこんなことになったんやろ・・・」
由利子は、長沼間や葛西が警官達と話しているのを見ながら、ぼんやり考えていた。
 今日は、楽しい一日で終わるはずだった。だが、夕方から多美山が発症し、そしてトドメのように美葉が誘拐されてしまった。
(一体何がおころうとしているんだろうか・・・)
 由利子は不安を募らせた。しかし、美葉誘拐の重要な鍵は由利子自身が持っていたのだ。そう、美葉から預かった、CD-Rのことである。それは由利子のバッグの内ポケットの中で、統計計算ソフトのパッケージに収まって、綺麗さっぱりと忘れられていた。

(「第2部 第2章 侵蝕Ⅱ」 終わり)  
 

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