20XX年6月13日(木)
由利子は、今日もいつもどおりの時間に目が覚めた。「休暇中」とはいえ、身体のリズムを狂わせないように心がけていた。
窓を開けると、久しぶりに爽やかな晴天であった。いつもどおりジョギングをしてから、さっとシャワーを浴び、自分と猫達の朝食を作る。しかし、今日はもうひとつやることがあった。久々のお出かけということで、弁当を作ることにしたのだ。もちろん弁当は日ごろから作って会社に持っていっていたが、今日のは数年ぶりに作る行楽弁当だ。昨日の夜、ギルフォードから明日の連絡が入り、10時半ごろマンションの下まで迎えに来るということを伝えられた。その時につい、お弁当を作って行きますね、と、調子よく言ってしまったからだ。するとギルフォードが、じゃあ、僕もスペシャルサンドウィッチを作ってきますね、と言ったので、じゃ、みんなで持ち寄って食べましょう、と言うことになったのである。とはいえ、何となくアレクには負けたくなかったので、久しぶりに張り切って弁当を作った。なんか、子どもの頃の遠足の当日のようなワクワク感があった。それに、もう一人って誰だろう? 紗弥さんかしら? 猫たちは、いつものカリカリの他に、鶏のから揚げの味のついてない部分をほぐしたのを少しもらって、大喜びだ。
約束の時間が近づいてきたので、由利子は出かけることにした。例の如く玄関までお見送りに来た猫たちの頭を撫でると、「お留守番を頼むね」と声をかけ、部屋を出た。
エントランスの前に立って、キョロキョロしていたら、短いクラクションが鳴った。音のした方向を見ると、黒いワゴン車の窓から、今は見慣れた顔が笑いながら手を振っている。由利子は走って車の方に向かった。
「おはようございます、アレク。いい天気で良かったですね」
「おはよう、ユリコ。そうですね。でも、これでは、日中は暑すぎるかも知れませんね。帽子を被ってきて正解ですよ。その帽子、よく似合ってます」
流石に欧米人だけあって、褒めるのに隙がない。由利子はお気に入りの綺麗な水色の帽子を褒められて、気をよくした。すると、運転席の男が声をかけてきた。
「おはようございます、由利子さん」
「葛西君!」
「どうも、早速『葛西君』と呼んでいただきまして・・・」
葛西は照れくさそうに後頭部を掻きながら言った。
「もう一人って、葛西君だったのか。な~んだ」
由利子が少しがっかりして言うと、葛西はしゅんとして言った。
「僕じゃ、物足りないですか?」
「あ、いやいや、そうじゃないけど。・・・あっ、そ、そういえば、葛西君メガネにしたのね。一瞬誰かわからなかった」
由利子は急いで話題を変えた。葛西は右手で眼鏡を押さえつつ言った。
「はい。コンタクトを失くしちゃって・・・。変ですか?」
「ううん、似合ってるわよ。生徒会長みたい」
「生徒会長・・・。生徒ですか・・・」
「ごめん、訂正する。知的な刑事さんって感じね」
葛西が何となく意気消沈してきたので、由利子が急いで訂正した。
「知的な刑事? そう言えば多美さんにもそう言われました」
少し嬉しそうに言う葛西を見て、由利子は「単純なヤツ」と思った。単純だけど、可愛いかも・・・。そう思ったあと、ふと思い出した。そういえば、アレクも大学で眼鏡をかけてたな。それで、ちょっと聞いてみることにした。
「アレク、あなたも大学では眼鏡をかけてますが、伊達めがねなんですか?」
「いえ、まあ、それもありますが」ギルフォードはそう言いながらちょっと笑った。「実は、もともと遠視なので、近くの小さい字が見え難いことがあるんです。特に学術関連の本は文字が小さいですから。でも、普通は全然問題ないので・・・」
「老眼?」
と、由利子が意地悪っぽく言うと、「違います!」と速攻で否定した。
「じゃ、どの辺まで見えるんです?」
と由利子が聞くと、ギルフォードは「そうですねえ」と言いながら周りを見渡すと言った。
「君の住んでいるマンションの、屋上の塔屋に小鳥が止まってますね。あの子の種類がハクセキレイっていうのがわかる程度には見えますね」
「あれ、小鳥だったんですか? ほとんど点じゃないですか」
由利子は驚いて言った。すると葛西もギルフォードに驚きの目を向けながら
「すごい! ボビー・オラゴンみたいですね」
と言った。
「それはともかく」ギルフォードはなかなか車内に入ろうとしない由利子に言った。「ユリコ、そろそろ乗ってください。後部座席でいいですか」
「あ、すみません」
由利子はそう言いながらふとナンバープレートを見たら、黄色だった。
(なんだ、軽じゃん)
そう思って、後部座席のドアを開けると、ギルフォードの乗っている助手席の座席がかなり後ろに下がっていて、狭くなっていた。それで、由利子は運転席の後ろに座り、横に荷物を置いた。バッグと弁当である。
「すみません、僕のせいで後ろ、狭いでしょ。適当にシートを後ろに下げて下さいね」
ギルフォードは、後ろを振り向いて言った。
「あ、大丈夫です。細いから」由利子は笑いながら言った。「それにこの車、軽にしてはずいぶん大きいんですね。葛西君の?」
「いえ、残念ながら僕のです。でも、今日はジュンに運転をおまかせすることになりました」
「え? アレクの車? って、意外!」
由利子が驚いて言うと、ギルフォードが説明をはじめた。
「はい。実はバイクにお金がかかったので、車は節約しました。ついでに言うと中古で買いました。色々物を運ぶことも多いから、車はどうしても必要なんです。バイクにリヤカーつけて運ぶ訳にはいきませんからね。
「リヤカー・・・。久しぶりに聞いたなあ」
「大八車よりマシでしょ?」
由利子のツッコミに対し、ギルフォードはさらに珍しい名詞を口にしたので、由利子は半ばあきれ気味に答えた。
「どんだけ、日本文化に詳しいんですか・・・って、葛西君、なんで泣いてるの?」
気がつくと、運転席の葛西の肩が震えている。
「泣いてません! でも、想像しちゃったんです。ア、アレクがバイクでリヤカーを引いているのを・・・!!」
葛西はやっとそこまで言うと、ハンドルに突っ伏してくっくっくと笑い始めた。つられて由利子が吹き出した。
「ぷはっ、やめてよぉ~。私まで想像しちゃったじゃないの!!」
「想像力旺盛なのはいいんですけれど。・・・そんなに可笑しいですか?」
アレクはちょっと不思議そうな顔をしていたが、1分ほど間を置いて、自分も笑い始めた。
「確かに可笑しいです。それに、僕の想像では、何故か僕がバイクで引くリヤカーには、藁が満載されていて、その上にユリコとジュンがちょこんと乗ってました」
「変、それ変です」
「しかも、藁の中にはサヤさんが潜んでました」
「って、リヤカーでかすぎだし、アイダホ風味だし」
「っていうか、アレクってば、紗弥さんのことをどういう風に思って・・・」
「何で朝からこんな大笑いを・・・」
車内はしばらくの間笑いに満たされた。平日の休みのせいか妙に頭のタガが外れてしまったらしい。買い物帰りらしい女性が、不審そうに車の中をチラ見していった。
「やば、これじゃ私たち変な人ですよ。とりあえず出発しましょう」
由利子が我に返って言った。
「そうですね。最初は何処に行きたいですか、アレク?」
葛西もなんとか笑いを納めて言った。
「僕ですか?うーんと、そうですねえ・・・」
ギルフォードはちょっとの間考えると言った。
「もう10時半をだいぶ過ぎましたから、まず景色の良いところに行って、お昼を食べましょう。ジュンのリクエストは?」
「僕は、多美さんにお守りを買う約束をしましたから・・・」
「じゃ、神社仏閣めぐりね。アレクは宗教的には大丈夫ですか?」
「そんなこと言ってたら、欧米人は京都に行けませんよ。それに、僕は洗礼は受けましたが基本的に無神論者ですから問題ないです。そもそもイギリス国教自体の出自がねえ」
ギルフォードは、少しシニカルな笑みを浮かべて言った。
「ヘンリー8世が、ヌカミソ(※下記訂正あり)の妻と別れて愛妾と結婚したいがために・・・」
「糠みその妻って・・・イギリス王妃が糠みそを漬けるとは思えませんけど・・・って、もう、アレク、日本語知りすぎ! 微妙に使い方間違ってるけど」
由利子がさらにあきれて言いながら運転席を見ると、葛西がまた肩を震わせていた。何かまた想像したらしい。
「そこ! 笑ってないで。そのアン・ブーリンも1000日後には処刑されちゃったんだから」
今度は笑いが伝染しないように、由利子が釘を刺した。
「ああ、そうでしたね。キャサリン王妃が糠床をかき回してる図なんて想像しちゃダメですよね」
由利子はやっぱりと思いつつ、自分は想像しないようになんとか話を軌道に戻して言った。
「で、葛西君ってば、あなた自身はどこに行きたいの?」
「僕ですかあ?」
葛西は笑うのをやめてしばらく考えて言った。
「海が見たいなあ・・・。出来ればきれいな海がいいです」
「じゃ、ちょっと遠出になるわね。じゃ、お昼はちょいと近場で・・・植物園なんてどうでしょう?」
由利子が提案すると、葛西が言った。
「いいですね。そういえば、僕、植物園なんて、小学生以来ですよ」
「じゃ、植物園行って、神社仏閣巡りをして、最後に海に行くってカンジですね」
と、ギルフォード。
「で、海はどこがいいかしら」
「ちょっと遠いのですが、S島はどうですか? 僕、たまにバイクで行きますが、海も綺麗だし晴れていればステキな夕日が見れますよ」
と、由利子の問いにギルフォードが答えた。
「夕日? いいですね。最近個人的にだけど、夕焼けや朝焼けに悪いイメージが出来てたんで、ホンモノの夕焼けを満喫したいと思ってたんです。それに、僕はS島には行ったことないから、ちょうどいいかな」
と、葛西がかなり乗り気になったので、最終目的地はそこに決まった。ギルフォードはにっこり笑って言った。
「決まりですね。では、早速出発しましょう」
「了解! レッツゴー♪」
葛西はパイロットのように言うと、ギルフォード自慢のバンを発進させた。
(お天気も良いし、楽しい一日になりそうだ!)
由利子は、後部座席に小ぢんまりと座りながら、なんとなくワクワクしてくるのを感じた。
「あれ? 教授は?」
朝から研究室にやってきた如月は、教授室に紗弥しかいないのに気がついて言った。
「今日はお休みを取っておられますのよ」
紗弥は、パソコンから目を離さずに言った。
「え~~~? 珍しいですねー。一体なんの大事件が起こったんやろか」
如月が大仰に驚いて言うと、紗弥はチラと彼を見てから言った。
「いえ、葛西刑事と由利子さんとでドライブに行かれるそうですわ」
「ええっ! 紗弥さんをほっぽいてでっか?」
「まあ、私もたまには教授のお守りから解放されたいですから」
あまりにも紗弥が画面から目を離さないので、如月は彼女のパソコン画面を見た。彼女はネット対戦型ゲームに相変わらずのポーカーフェイスで挑んでいた。如月は仕方がないので終わるまで傍に立って見ていたが、勝負は意外とあっけなくついた。紗弥の圧勝であった。紗弥は、少しつまらなさそうにしながら、ゲーム画面を閉じた。
「ホンマ、羽伸ばしてまんなあ」
「まあ、如月君、まだいたの」
「まだいたの、って、ひどいやないですか。で、緊急の場合はどうやって連絡したらええんでっか? あの人、プライベートやったら絶対に電話に出られへんでしょ?」
「緊急時ですか? 大丈夫ですわ。いろいろありまして、私、教授の居場所なら常に把握しておりますの」
そういうと、携帯電話を開いて画面を見ながらふふっと笑った。
(まったくもう、何者なんでっか、この人は?)
如月は、紗弥を見ながら改めて思った。
「教授に聞きたいことがあったんやけど、仕方ありまへんな。明日にしますわ」
と言うと、如月は教授室を出た。そして仕方がないので、自分の席に戻り作業を続けることにした。
由利子たちは、市営の植物園に無事到着し、お昼の時間まで園内を見て歩くことにした。由利子の持っていた弁当の入ったバスケットは、さりげなくギルフォードが持ってくれた。平日だけあって人は多くなかったが、遠足か社会科見学の小中学生の団体と、数度すれ違った。彼らは一様にギルフォードの方を物珍しそうに見て行く。ギルフォードもギルフォードで、その度にニコニコ笑いながら手を振っている。
(ホントに変な外人!)
由利子は改めて思った。
3人は、薔薇園に入ってみた。咲き頃とはいえピークは過ぎていたが、それでも充分に綺麗だ。
「イギリス人は薔薇が大好きです。もちろん僕も好きです。派手なハイブリッド・ティー・ローズ系もいいですが、オールドローズやイングリッシュローズ系も、落ち着いていて良いです。僕の実家のローズガーデンも、今頃はいろんな花が咲き乱れているでしょう。グラン・マがとても大切にしていて・・・」
ギルフォードは遠い故郷に思いを馳せたのだろう。一瞬遠い目をしたが、直ぐにいつもの表情に戻った。しかし、由利子はそれを見逃さなかった。こんなに遠い異国にいるんだもの、いくら日本語が堪能でもやっぱり故郷は恋しいよね・・・。それで、なんとなく聞いてみた。
「アレクって、おばあちゃん子だったの?」
「はい。父は厳格で怖い存在でしたし、母は病弱で早くに亡くなりましたので、僕は祖母に懐いていました」
「お母様、亡くなられてたんですか・・・」
由利子はちょっと申し訳ないような気持ちになった。
「ええ、だから、母は僕には美しくて儚いイメージしかありません。気分の良い時は、よく、僕に本を読んでくださいました」
ギルフォードの眼に、また一瞬憧憬の色が見えた。しかし、由利子は冷静に思った。
(根っこはマザコンかあ。まあ、そういう状況なら仕方ないか。でもなんか、昔の少女マンガに出てくる美少年みたいな生い立ちねえ。なんだか『ええとこボン』っぽいし)
その時、今までデジカメで写真を撮るのに夢中だった葛西が言った。
「僕は父の方が早く亡くなりました。父も警官で、勤務中の事故だったそうです。だから、僕が警官になるって決めた時、母から猛反対をくらったんですよ」
「そうだったんだ。うちは両親共に健在だけどねえ、ずっと別居中だわ。お互いカレカノがいるから、私の居場所ねーし。みんないろいろあるのねえ」
なんとなく、お互いの身の上を語りつつ、彼らは温室に入って、色とりどりの南国の花々や熱帯の水辺を見て回った。
「けっこう充実してますね。実は、あまり期待していなかったのですが」
温室を出ると、ギルフォードが言った。由利子は背伸びをしながら言った。
「ん~~~、そうですね。だけど、温室と言っても今は外もあまり気温が変わらないですね。これから暑くなるぞ~」
「でも、今日は湿気が少なくて、暑いけど爽やかですね。絶好のピクニック日和だなあ」
葛西がそう言い終わるや否や、彼のおなかがキュウと鳴った。
「あ、すみません」
葛西が顔を紅くしながら言うと、ギルフォードが笑いながら言った。
「そろそろお昼にしましょうか」
「賛成」
由利子が即答した。植物園にはいくつか四阿(あずまや)があったが、せっかくの天気なので、彼らは手頃な木陰を探すことにした。
「あ、あの木の下がいいですよ! あそこにしましょう」
葛西は、ちょうど良い木陰を見つけて走って行った。その後姿を見ながら、ギルフォードは由利子の右腕を軽くつつき、小声で言った。
「彼、可愛いですよね」
「ええ、本当に」
由利子もそれにはまったく異存はなかった。
「彼ね、ユリコを気に入ってるみたいで、僕はキューピッド役を例のタミヤマさんに頼まれたんです」
「え?何でそんなことを・・・」
「聞くところによると、警察ってところは警官に早く身を固めさせたがるらしいです」
「そんな、私にはただの刑事さんです! 第一、8歳も歳が違うんですよ。しかも、年下!」
「そうですか? 僕もお似合いだと思いますけどねえ。でもね、僕は自分に正直だから、はっきり言いますが、僕も彼をすごく気に入っています」
「え? いえ、だから別に私は自分を偽っているわけでは・・・」
由利子はなんとなく頭がクラクラするのを感じながら言った。
「だから、その点では僕たちはライバルですね!」
「へ?」
由利子が驚いてギルフォードを見ると、彼もニッと笑って由利子を見た。
(なんてこったい!!)
由利子は引き続きクラクラしながら思った。葛西が自分を気に入るのは自由だし、もちろん悪い気もしないが、そのせいで勝手にライバル視されてはかなわない。それで由利子は負けじとにっこり笑い返しながら言った。
「ご自由に。それよりアレク、あなたがノーマルな葛西君をどう落とすか、お手並みを拝見させていただくわ」
「お! 言いますねえ・・・」
二人の間に一瞬かるく火花が散ったように思えた。が、次の瞬間同時にぷっと吹き出した。当の葛西が実に平和な顔をして二人に手を振っていたからだ。
「ねえ、早く来てくださいよ、二人とも~」
なかなか来ない二人に痺れを切らして、葛西がこんどは大きく手を振りながら呼んだ。
「早くお昼にしましょうよ~」
「はい、すぐ行きますよ」
と言いながら、ギルフォードは葛西のいる木陰まで大股で歩いて行った。由利子も小走りでその後を追った。
ギルフォードは、背中に背負っていたリュックから、シートを出して地面に敷いた。シートの上には、由利子の持ってきた手作り豪華弁当やギルフォードの持ってきたスペシャルサンドウィッチなどと共に、アレクのリュックに入っていた、取り皿やカップも並べられた。完全にピクニックである。由利子は感心しながら言った。
「アレクってば、すごい気が利くのねえ。ステキなランチタイムだわ」
「ありがとう。英国人は、ピクニックが大好きですからね」
と、ギルフォードが笑いながら言った。
「皆さんが、お弁当を作ってこられるって言うんで、僕は飲み物を用意してきたんです。暖かいお茶とつめたいコーヒーでしょ、あ、アレクのためにミルクティーも作ってきました」
葛西がニコニコしてバッグを開けると、レジャー用ポットが3本頭を出した。
(こいつ、妙にでかい袋を提げていると思ったら、こんなのを持ってきてたのか~)
由利子は、嬉しそうにポットを取り出す葛西の様子を見て、クスリと笑った。
「オー、ありがとう、ジュン! 嬉しいです」
ギルフォードは、そういいながらさりげなく葛西の傍に座った。由利子は二人の前にちょうど二等辺三角形の頂点になるように座った。妥当な位置だと思った。
「では、食事の前に僕たち三人が出会ったことと、これからの友情に対して乾杯しましょう」
ギルフォードの提案で、三人は緑茶と紅茶で乾杯した。これが奇妙なトリオの新たな出発となった。
食後、時間があまり無いので、庭木園や水生植物園を通過がてら鑑賞しながら植物園を後にした。
「また来たいですね。次は隣の動物園にも行きましょうね」
ギルフォードは、正門を見上げると少し名残惜しそうに言った。
「さて、次は神社仏閣巡りですね。時間がなくなって来たので急ぎましょう」
3人は駐車場に急いだ。時間に余裕がなくなってきたので、寺社巡りはF市三大祭のうち二つに縁の深いK神社と、由利子がお勧めのT寺に行くことにした。
彼らが先ず出かけたのは、T寺だった。ここには平成に入って完成した、F大仏がある。寺の正門を入ったところで由利子が説明をした。
「ここは、1000年以上の歴史を持つお寺で、弘法大師が建立した真言宗のお寺では最古のものだそうです」
その後、すこしもったいぶって質問をした。
「さてお二人さん。お化け屋敷は大丈夫?」
葛西は、由利子がいきなり変なことを聞き始めたので不審そうな顔をして尋ねた。
「あの、お化けとお寺はなんとなくセットのような気がしますが、お化け屋敷ってのはどうかと思いますが・・・」
「いきなり何をバチアタリなこと聞いてくるんですか、」
ギルフォードも、肩をすくめながら言った。由利子は、意味深な笑いを浮かべて答えた。
「まあ、いずれわかります。さ、行きましょうか」
三人は庭を横切り階段を上って大仏殿まで行くと、若干薄暗い中に、金色に輝く大仏が座っていた。
「平成に入って完成したので、まだ新しいけど、木造の坐像では日本一の大きさだそうよ」
由利子が説明すると、二人は
「へえ、すごいですね」
と言いながら、大仏像を見上げた。しかし、見上げながらもギルフォードは首をかしげながら言った。
「でも、新しいせいか、いまいち、重厚さを感じませんねえ。顔もなんとなく橋■壽賀子に似ているし」
「あ、いいのかな、そんなこと言って。罰が当たっても知らないぞっと」
由利子が言うと、葛西がフォローした。
「もっと時がたつと、上手い具合にくすんでもっと重厚さが出てきますよ。とりあえず、お参りしましょう」
3人は並んでお賽銭を入れ、手を合わせた。
「じゃ、行きましょうか」
由利子はそういうとすたすたと歩いて大仏の左側に向かった。
「なんですか?」
「アレク、行ってみましょう」
「えっと、『地獄極楽巡り』って書いてありますけど、なんかのアトラクションですか?」
ギルフォードが言うと、前から由利子の答えが返ってきた。
「そんな豪勢なものじゃないわよ。二人とも、暗闇恐怖症じゃないですよね」
「ええ、僕はわりと平気なほうですけど」
葛西が言うと、ギルフォードも答えた。
「僕も、夜目が効きますから」
「そんな、甘いものじゃないのです」
由利子はふふふと笑いながら言った。ギルフォードと葛西は、顔を見合わせながら由利子について中に入って行った。
中に入るとすぐに、地獄絵図が3枚並んで飾ってあった。とはいえ、擦れた現代人のこと、そんなものを見ても特に恐怖は感じない。現代は、インターネットという媒体を使うと、その気になれば現実の地獄絵図がいくらでも見られるのだ。案の定、ギルフォードは半分小馬鹿にしたような顔で絵を見ながら
「ふうん、洋の東西を問わず、地獄ってのは似たようなイメージなんですねえ」
などと、澄まして言っている。しかし、葛西はこういうのが苦手らしい。ギルフォードの後ろに隠れるようにして、絵を見ていた。
(こいつ、ホントに刑事かよ)
由利子は、心の中で突っ込みを入れながら、
「じゃ、先に進みましょう」と二人を促した。「ここから先はお戒壇巡りと言って、本当に真っ暗な真の闇だから気をつけて。手摺があるからそれを持つといいわよ」
「真の闇って・・・。うわ!」
ギルフォードは入るなり驚いて言った。
「ホントだ。全く光が入ってこない作りですか。これじゃ、夜目が効いても意味がないですね」
「うわあ、アレク、ゆりちゃん、置いていかないでくださいよ~」
「誰が『ゆりちゃん』だ!」
由利子は速攻で返した。
「ああ、すみません、すみません。訂正します。由利子さ~ん」
葛西が情けない声を出して言ったので、由利子は葛西の後ろに回り、ギルフォード・葛西・由利子の順番で暗闇を手探りで歩いて行った。
「鼻を摘まれてもわからない暗闇って、こういうのを言うんですね。いや、これは怖い。道は妙に曲がっているし、うっかり出来ないですね、これは」
ギルフォードは、感心しながら言った。
「何もないだけに、余計に怖いです。きっと20分以上居たら幻覚を見始めます」
葛西も、闇に慣れたのか落ち着きを取り戻して言った。由利子は、いまいち反応がつまらないので、ちょっといたずらっ気をだして言った。
「やん、ゴキブリ!」
「えっ、うそっ!!」こんどはギルフォードが急に落ち着きを失った。「ド、ドコ行きマシタ?」
「アレクの方!」
「No~!」
その一言で、ギルフォードは完全にパニックに陥ってしまったらしい。そのまま一歩も動けなくなってしまった。暗闇の中それに気付かずに、そのまま歩いていた葛西は、ギルフォードにどしんとぶつかった。
「いてっ。・・・あれ、ここでアレクが固まっていますよ」
このままじゃ先に進めないなと思った由利子は、種明かしをすることにした。
「うっそぴょ~ん。この暗闇で見えるわけないでしょ」
「もう、脅かさないでくださいよ。ジュンにまで弱点がバレてしまったじゃないですかあ」
ギルフォードは、ほっとしたような、怒ったような声で言うと、葛西も続けて言った。
「さっさとこんなところは出ちゃいましょう。実際、こんなに真っ暗だと、マジで何が潜んでいてもわからないですよ」
「さりげなくイヤなこと言いますね、ジュン」
彼らはとにかく手探りでなんとか出口までたどり着いた。出口にはありがたい仏様のレリーフが飾ってあった。由利子はバスガイドよろしく、手に旗を持ったジェスチャーをしながら言った。
「はい、極楽に到着で~す。皆様、お疲れ様でした~」
「なるほど、これで死後の世界を疑似体験したというわけですか」
とギルフォード。
「でも、目の見えない人って、ずっとああいう状態なんですよね。大変だなあ」
と、葛西は全く違うベクトルで感心していた。横の売店でお土産を物色していると、中学生の団体がやってきた。彼らはどやどやと入ってきたが、ギルフォードの姿を見ると、一瞬たじろいだ。それに気づいたギルフォードは、軽く手を上げるとにっこりと笑いかけた。彼らはおずおずと手をふり返し大仏の方に歩いて行った。その後、順番に『地獄極楽巡り』の入り口に消えていった。数秒後、中からわあとかきゃあとか言う声が聞こえてきた。ギルフォードは彼らに向けて言った。
「Good luck!」
三人は、それから大仏を後にして、他の展示されている仏像を一通り見た後、T寺を後にした。
「この神社もかなり古くて1000年以上の歴史があるの」
由利子はK神社に着くと言った。彼らは鳥居をくぐって神社に入ると、まず参拝。手水場(ちょうずば)で手と口を清め、社殿に向かった。
「ここで洗った手、拭かないで自然乾燥させるんですよね!」
と、ギルフォードが言った。
「よく知ってますねえ。そういえば、ちゃんと口もすすいでいたし、最後にひしゃくも立てて水を流してましたね」
「二礼二拍手一礼ってのも知ってますよ」
「アレク、あなたそこらへんの日本人より立派な日本人ですよ」
由利子は、またもあきれて言った。
「実は、調べてきたのです。その土地の神様には敬意を表しないといけません。一神教はそういうことをないがしろにするからいけないんですよ。もっとも、新興宗教が勢力を広げるためには、信仰対象をひとつに絞る方が便利なんでしょうケド」
「そういえば、この神社だけでも色々な神様がおわしますからねえ。一神教の神様も、日本では八百万(やおろず)分の一の神様かあ」
由利子は、改めて感心したように言った。その会話を聞いていた葛西がおずおずと尋ねた。
「あのぉ、ぼく、手を拭いちゃいましたけど・・・」
「ほとんどの人が拭いているから大丈夫じゃない?」由利子は、言った。「それに、今の時期はいいけど、真冬にそれはキツイし」
「そうですよ。汚れたハンカチでなければいいと思いますよ」
と、ギルフォードもフォローした。葛西はほっとした顔で言った。
「よかった。新しいハンカチだったので」
葛西は、多美山のお守りを買うというので、少し慎重になっているようだった。彼らは参堂の端を歩いて御社の前に行った。さすがに平日の昼間だけあって、そこまで混雑していない。彼らは悠々と参拝を終えた。葛西は早速お守りを買いに走った。由利子とギルフォードは特に買うものもないが、暇なので、売店の品物を何となく見て回っていた。
「アレク、あなた幾つになるんですか」
由利子はいきなりギルフォードに質問した。
「はい、8月の8日(ようか)で41歳ですが、何か?」
「あらら、本厄だわ」由利子は言った。「しかも、大厄だし」
由利子は厄除け御守の横に書いてある、厄年早見表を見ながら言った。
「大丈夫です。僕は一応クリスチャンですから、日本の宗教的行事は関係ないでしょう」
「行事って・・・。ま、関係ないっちゃ関係ないか」
由利子は、あっさりと言った。そこに、買い物を終えた葛西が帰ってきた。
「お待たせしました」
「どんなのを買ってきましたか?」
「色々悩んだのですが、これを買いました」
と、葛西は買ってきたお守りを見せた。木の札に「身代御守」と書いてある、いたってシンプルなものだった。
「ミダイオマモリ・・・あ、ちがうな。あ、・・・ミガワリオマモリですね」
「なんか効きそうでしょ」
葛西はニコニコとして言った。ギルフォードは微笑みながら
「そうですね」
と言ったが、由利子にはなんとなく彼が無理をしているように思えた。それで、由利子は話題を変えることにした。
「アレク、飾り山って知ってますよね」
「はい、7月のお祭りに使われる山車の飾り専用のでかいやつですよね」
「正解。普通はお祭りが終わったら、解体されるんですが、ここのだけは一年中飾ってあるんですよ。じゃ、その飾り山を見て、それから海に向かいましょう」
由利子は明るく言うと、飾り山の設置してある境内の奥に二人を誘導した。
海に向かう運転は、道に慣れたギルフォードが行った。運転席に座ったギルフォードは、
「はい、ユリコ、シートを下げますから、ちょっと避けてくださいね」
と言うと、座席をグッと下げた。葛西がそれを見て言った。
「行きにですね、僕が運転席に座ったでしょ、その時、足が届かなくて、シートをグッと前に持ってきたんですよ。もう、嫌になっちゃいます。座高はあまり変わらないのに」
そういいながら、助手席に座り代えた葛西は、椅子を今度は前に引いた。従って、由利子は助手席の後ろの方に移動した。
道路は若干混んでいたが、なんとか3時過ぎには着くことが出来た。島に入る途中、砂洲の中を通り島と本土を結ぶ橋を渡る。両側に海が見えるという、なかなかステキな橋だ。ギルフォードは、砂浜の海岸につくと、葛西と由利子に車を降りるように言うと、自分はバンの最後部席をフラットにした荷物置き場から、何かを下ろしながら言った。
「ここら辺は、前の大地震でだいぶ被害があったようですが、しっかり復興していますね」
「そういえば、当時、道路が地割れだらけになってました」
と由利子が言った。葛西も海の方を見ながら言った。
「こうしていると、何事も無かったように平穏ですね」
「まあ、あんな地震が来るとは誰も・・・専門家すら思ってなかったですから・・・。じゃ、車を置いてきます。ちょっと待っててくださいね」
そういうと、ギルフォードは葛西と由利子を置いて、駐車場に向かった。
「だいぶ涼しくなったよねえ。お昼間は暑かったね」
と、由利子が海をみつめている葛西の背に向かって言った。
「そうですね・・・」
葛西は由利子の方を振り向いていうと、また、海の方を見た。
「綺麗ですねえ。波の音もしみじみしていいですね・・・。」
「そうね」
由利子はそう答えると、葛西の隣に立って一緒に海を見た。潮騒の音が響く中、しばしの間、二人は無言で立っていた。特に話すこともないが、まったくそれが苦にならない。不思議だな・・・、と由利子は思った。葛西はその状況に照れくさくなったのか、急に歌い始めた。
「♪うーみーはー広いーな、おおき~いなー、つーきーが上るーし、日がしーずーむー♪」
「な~に、それ」
由利子はくすりと笑いながら言った。その時、後ろからその続きを歌う声が聞こえた。
「♪う~み~は、おおな~み、青い~波~、ゆ~れ~て、何処ま~で、続く~や~ら~」
歌声の主はギルフォードだった。いつの間にか車を置いて戻ってきていたのだ。意外にもうっとりするようなテノールで歌詞も完璧だった。彼は、歌い終わると言った。
「いい歌ですね。曲も綺麗だし・・・、それに、ワルツです」
「あ、そういえばそうだ。今までそんなこと思っても無かった!」
由利子が感心して言った。ギルフォードは、その後、置いてきた荷物から、キャンプ用のベンチとテーブルセットを出して組み立てはじめた。葛西が急いで手伝いに行った。作業をしながらギルフォードは言った。
「日本の海の歌って、ワルツが多いんですよ。『港』もそうでしょ?」
「そうでした。小学校の時、ワルツの三角形を描きながら歌わされましたね」
由利子は右手で三角形を描きながら言った。
「他にないかなあ」
葛西が、ギルフォードを手伝いながら考えている。しばらくして、あ、と言った後、嬉しそうに口を開いた。
「あった、あった。ほら、まつばーらーとおく、きいゆーるところ♪って、ね、ワルツでしょ? アレク、知ってます、これ?」
「ええ、もちろん。僕はワルツが大好きなんです。日本の唱歌は、綺麗なものが多くていいですね」
ギルフォードはそう答えると、最後の仕上げにパラソルをテーブルに立てた。
「さて、だいぶ遅くなったけど、3時のお茶にしましょう。スコーンを焼いてきたんです。ま、焼き立てとはいきませんけどね」
「すごい! 準備万端じゃん!」
由利子が目を丸くして言った。ギルフォードは、執事よろしくテーブルの前に立って、うやうやしく礼をしながら言った。
「さあ、お客様方、お掛けくださいませ」
3人は、ギルフォードのスコーンと葛西の持ってきた紅茶とコーヒーで、ティータイムを過ごした。ギルフォードの祖母直伝のスコーンは絶品だった。美味しいものを食べている時の人の顔は、一番幸せそうだという。しかし、潮騒の中まったりとした時間を過ごす彼らのすぐ傍に、思いも寄らない危険が近づきつつあった。
「あ、思い出した、『浜辺の歌』。これもワルツだ」
皆が忘れかけた頃に、由利子がぼそりと言った。
(※)3人盛り上がってますが正しくは「糟糠(ソウコウ)の妻」です。
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