1.侵蝕Ⅰ 【幕間】豊島家、ある夜の話

 豊島恵実子は現在、ごく普通の専業主婦である。以前は教師をしていたこともあるが、結婚して子どもが生まれたのを契機に教師をすっぱり辞め、母親業に専念することを選んだ。彼女は、公務員の夫、悟志(さとし)と二人の娘志帆海(しほみ)と裕海(ゆみ)、そして歳の離れた長男輝海(あきみ)の5人家族だが、今年長女の志帆海が就職のため東京で暮らし始めたので、4人暮らしになったばかりだった。

 4人での生活にようやく慣れた頃のある夜、恵実子がちょっと遅くなった夕食の片付けを終えて居間に戻ると、小学二年生の息子がテレビを夢中で見ていた。この日は夫は出張、下の娘は明日テストがあるとか言って、すでに自分の部屋に篭ってしまっていて、息子だけがぽつねんと、居間の床にクッションを敷き座っていた。彼はこうしてテレビを見ることが気に入っているらしい。
「こら、あっくん、とっくに9時過ぎとろうもん。寝る時間やろ!」
恵実子は息子の輝海(あきみ)の傍に座ると、何を見てるか番組のチェックをした。どうやらHNKの特集を見ているらしい。しかし、どう見ても7・8歳の男の子が喜んで見るような内容ではない。どこかの有名な医師が出てきて癌がどうのこうのと説明している。新聞のテレビ欄で確認すると、『癌治療最前線』と書いてある。
「あんた、何見とるん?」
恵実子は、画面を食い入るように見ている幼い息子の横顔を、まじまじと見ながら言った。
「なんね、お父さんが癌になったらいかんけん見とぉとね?」
しかし、息子は首を横に振った。
「違うと? どっちにしろ、もう寝んと、また明日起きんってぐずるやろうもん? さっ、おふとん行こ」
恵実子はリモコンでテレビのスイッチを切ると息子を抱きかかえようとした。すると、いきなり息子が半べそをかきながら抗議を始めた。
「おっ、おかあさんは、ぼくがガンで死んでもいいって思っとぉと?」
「へ????」
子どもは面白い。時折とんでもないことを言って大人を面食らわせることもよくある。恵実子の息子も例に漏れず・・・というか、上の子達と比べたらそういうことがずいぶんと多いような気がした。男の子のせいかしら?と恵実子は思った。まあ、そのおかげで退屈しない毎日を過ごせるのだが。
「何ね、あっくんは自分のために一所懸命見よっとね」
「うん」
輝海は、しかつめらしい顔をしながら答えた。
「わかったわかった。じゃ、おかあさんもあっくんが癌になったらイカンけん、いっしょに見ようかねえ」
恵実子は仕方なくテレビを点けると、輝海の横に並んで座った。しかし、昨夜寝るのが遅かったせいか、ものの十分もしないうちに、睡魔が襲ってきた。あくびを連発しながら、我が息子の様子を見ると、さっきまでの真剣さはどこへやらで、下を向いて船を漕いでいる。
(予想通りやね。でも、私の方が先に寝てしまいかねん状態やけど・・・)
恵実子の心配は当たらず、その後3分ほどで輝海は恵実子の膝を枕に夢の国で続きを見ていた。恵実子は輝海のふくふくした頬を人差し指で「ぷにっ」と押してみた。起きない。すでに爆睡状態である。
「よっしゃ、寝た!」
と、恵実子は輝海をよっこらしょと抱え上げた。「よっこらしょ」。若い頃は滅多に言うことのなかったこの言葉を、最近は1日のうちに何度も言うようになったなと、恵実子は思った。年齢と共に年々体力が衰えてくる。それは仕方がないことだと恵実子は達観していた。しかし、それでも自分の体力が衰えていることを実感してため息をつくこともある。恵実子は輝海を抱えて寝室に連れて行った。
「やっぱ、こういうときはお父さんが居らな困るねえ」
と、恵実子は独り言を言った。ようやく息子をベッドに寝かせると、幸せそうに眠るちょっぴりユニークな我が子の寝顔を見ながらしみじみと思った。
(でもさ、こういうのを『幸せ』っていうんだよね)
なんの変哲もない、日常の切片の積み重ね。悲しいことや辛い事も沢山ちりばめられているけれど、それでも平均すれば幸せのラインにいる。特別じゃないけれど平穏。
(だけど、これで充分!!)
恵実子はそう思うと、輝海の頭を撫でて電気を消し、そうっと部屋を出た。
「さて、これからたまったDVDでも見るか!」
子どもも寝たし、夫は出張だし・・・と、恵実子はつかの間の開放感に背伸びをして居間に向かった。
 紅茶をたっぷりポットにを用意して、お茶菓子も出して、さて何を見ようかとDVDを物色していたら娘の裕海が居間に入って来た。
「あ、DVD、私、『トータル・フィアーズ』がまた見たい! カップ持ってくるけん、ちょお待っとって」
「あんた、勉強は?」
「あ~、終わった終わった」
裕海はキッチンに行って自分のカップを持ってくると、母親の横にすわって勝手に紅茶を注ぎ始めた。
「『トータル・フィアーズ』やね。これ1本見たら、ちゃんと寝るとよ」
恵実子は、娘に夜更かししないように釘を刺した。
「わかった、わかった」
と、裕海が軽く返事をした。
(あまりアテにならんごたるね)
と、恵実子は思った。そして、母娘の映画鑑賞が始まった。中盤ほど見たところで、恵実子が言った。
「こわいね、核テロとか、ホントに出来るっちゃろか?」
「911テロとか現実にあったけんね。これも911の後に製作された映画やし。原作ではテロリストは中東関係のグループだったのを、洒落にならんからって極右団体に変更されたらしいよ」
と、裕海。好きなだけあって詳しい。
「そういやあ、日本でも世界に先駆けてサリンテロとかあったもんね」
「あまり、そういったもんで先駆けてほしくないなあ」
「あ、核爆発した!」
「これ、大統領もたいがいに放射線被曝しとるよなあ」
「死の灰、死の灰」
「平気で走り回っとぉやん、ジャック」
「あははは」
母娘で突っ込みを入れながら映画を見るのはそれなりに楽しい。そして、平和な豊島家の夜は更けていった。

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1.侵蝕Ⅰ (1)悪夢の明けた朝

20XX年6月11日(火)

 朝、多美山が目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。一瞬自分の置かれた状況が理解できなかったが、昨日の一連の出来事を思い出し、さらに自分が隔離状態にあることを思い出した。
 多美山は身体を起こすと、昨日怪我をした右手を見た。綺麗に包帯が巻いてあり、過度に出血しているようには思えなかったが、化膿しかかっているような軽くズキズキとした痛みがあった。そのほかは特に熱もなくいつもどおりの至って良好な体調であるように思えた。多美山は、ふと、これは現実なのだろうかと思った。実は俺はまだ自宅で眠っていて、これは夢の続きを見ているのではないか?と。しかし、それが現実逃避であることは、多美山自身がよくわかっていた。
 彼は、起き上がると病室の中を少しうろうろとしてみた。昨夜は疲労困憊して、この部屋の確認をする余裕もなく眠ってしまったからだ。
 部屋はビジネスホテルのシングルルームに似ていた。ベッドが1床置いてあり、サイドデスクもある。トイレ付きのバスルームも完備しており、この部屋を一歩も出ずに生活できるようになっている。逆を言うと、この部屋から一歩も出れないということでもある。さらに、部屋全体の白さが否応なく病室ということを感じさせた。昨日の説明では、部屋は陰圧に保たれており、中の空気が外に漏れないようになっているということだった。さらに、ベッドの横には空気清浄機までセットされていた。『窓』はあるにはあったが、それは部屋から外を見るものではなく、スタッフステーションから患者の様子を見るためのもので、多美山はまだ発症していないので、プライバシーを守るために今はきっちりと閉じられていた。窓のない代わりに、美しい湖水地方の絵の描いてある額縁が飾られている。要するに、少々消毒臭いのと、若干の閉塞感のあるものの、ビジネスホテル並みの快適さは補償されているようだった。ただし、病原体が外に漏れない構造故に、照明がすべて消えれば昼間でも暗闇になってしまうだろう。スタッフステーションの周りにはこのような第1類感染症用の隔離病棟が4部屋で、最大8人を治療することが出来、そのひとつに西原兄妹がいるという。4部屋というとかなり少ないが、旧センターでは2床しか用意されていなかったのだから、大躍進である。そのほか、2類用には最大100床の用意ができるようになっている(因みにこれらの部屋は平時は普通の病室として使われている)。しかし、新型インフルエンザのような感染力の強い疫病が発生した場合、それでも全く足らないのは明らかだ。
 秋山雅之の父、信之は1週間経った後発症しなかったということで、日曜夕方に「退院」した。もちろん、その後も経過の報告が義務付けられ、体調を崩した場合は再度感対センターに入院となる。退院にあたって、信之の姉が迎えにきた。母親と息子が死に、妻も行方不明のため誰かがしばらくついているべきだと病院側が身内に連絡したところ、すぐに姉がやってきたのだった。彼は、帰ったら息をつく暇もなく、母と息子の葬儀の準備に取り掛からねばならなかった。その翌日に妻の死を伝えられ、再び感対センターに姉と共にやってきた信之の姿は哀れなものであった。実はギルフォードの落ち込みのひとつはそれのせいでもあった。あの状態の信之を家に帰すべきではないと、ギルフォードは主張したが、信之自身が葬儀の準備ために帰りたがっており、人権上これ以上拘束することは出来ないということで、一晩様子を見ただけで帰されてしまった。もちろん、妻の遺体は感染の危険があるため連れて帰ることは出来なかった。
 多美山は検査室に向かう途中、待合室で姉と共に呆けたように座っている信之の姿を見た。
(俺がもっとさばけとったら・・・・)
多美山は、自責の念に駆られた。
 多美山は昨夜の信之の姿を思い出して、サイドデスクの前に座るとため息をついた。しばらくそこでぼうっとしていたが、続け様に昨日のことがいろいろ思い出されて辛くなった。それで、テレビはないが、ラジオは聞けるようになっているようなので、ためしに点けてみた。ちょうどニュースが流れていたが、昨日の件については全く報道されていないようだった。
 しばらくすると、コンコンとドアをノックする音が聞こえて、「多美山さん、おはようございます」という声と共に、中背で痩せ気味の看護師らしき男が入ってきた。彼はゴーグル・マスクにガウンといった出で立ちで、それは多美山に自分が危険な病原体の感染の疑いがあるという現実を認識させるに充分だった。
「あ、起きていらっしゃいましたか。このような姿で申し訳ありません。しかし、これは規則なものですから」
看護士は言った。
「私は今日からあなたの担当をいたします園山修二と申します。何かあったらお気軽におっしゃって下さい」
若いが礼儀正しそうな男だった。多美山も立ち上がって言った。
「こちらこそ、お世話になります。ひょっとしたらこれから色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「あ、お気遣いなく。どうぞお座りください」
園山は多美山を座らせると続けた。
「ご気分の方はいかがですか?」
「すこぶる良好です、と言いたい所ですが、昨日怪我をした傷がちと痛みますな」
「後で先生に傷の様子を見てもらいましょう。これから、どんな些細な体の変調でもいいですから、必ず報告してください。治療に於いての方向性もそれによって変わってきますから」
「わかりました。極力お伝えするようにします」
と、多美山が答えた。

 由利子は、朝6時半に猫達のご飯ちょうだい攻撃によって起こされた。
 昨日は結局、帰り着いてソッコーでシャワーを浴びて化粧を落として床に就いたのが3時だった。ブログの更新も止む無く休んだ。流石に実質3時間ちょっとの睡眠時間では厳しい。単に夜更かししただけならなんてことはないが、昨夜は月曜ということである程度自粛はしていたもののそれなりに酒は飲んでいる。起きるのは大層辛かったが、自業自得である。由利子はなんとか布団から身体を引っぺがすと、の~っと起き出してトイレに入り、そのままバスルームに直行し熱いシャワーを浴びた。しかし、いつものように芯からしゃきっとしない。今日は日課としているジョギングをする時間もない。しかたがないので少しだけストレッチをしてお茶を濁すことにした。その前に、窓を開けて外を見ると、空はどんよりと曇っていた。
「ああ、梅雨の季節だなあ・・・。傘、いるかな」
由利子はつぶやいた。沖縄の方はすでに入梅(つゆいり)しているから、こっちもそろそろだろう。由利子は憂鬱になった。彼女は雨の日は嫌いではない。しかし、梅雨は・・・。今年は陽性の梅雨だったらいいな、と由利子は思った。晴れた日が多くて降る時はどっかんと降る。
(あ、いかん、さっさとしないと遅刻やん)
有給消化のため、実質今日が由利子の最終出勤日となるので遅刻は出来ない。由利子は急いでストレッチを始めた。その後、由利子はメールとブログのコメントやトラバのチェックをし、スパム関連を削除すると、猫と自分の朝食の準備に取り掛かった。そして、なんとかいつもの時間に家を出、会社に向かった。
 会社では、感心にも昨日の送別会参加組の面子は全員無遅刻で来た。皆寝不足の顔をしながら仕事はしっかりこなしている。ただ、昨日何故か一番はじけていた古賀課長がひとりどんよりとしていた。机の上にはポカリスェットの500mlペットボトルが置かれており、ひどくキツそうにしていた。
「おはようございます。大丈夫ですか」
と、由利子は声をかけた。古賀は由利子の顔を見ると苦笑いしながら言った。
「うん、昨日は調子に乗りすぎたけんね。やっぱ、歳には勝てんなあ。昔はあの程度の酒じゃなんてことなかったばってん」
由利子はそれに答えずに、笑ってごまかした。古賀は続けた。
「篠原君は相変わらず強いなあ。ところで出社は今日までやったね」
「はい、お世話になりました。急なことで申し訳ありません」
由利子は答えた。
「いやいや、会社の都合やけん君のせいやないもんな。余った有給は使わんともったいないし。ちょうど仕事も暇な時期やから心配せんでいいよ。で、こんなことを聞ける立場やなかけど・・・、これからの予定は決まっとぉとか?」
「はい」由利子は答えた。「とりあえずアルバイトをしながら次を探します。バイト先はもうあたりをつけてますんで」
「そうか、さすが決めたら行動が早かね。ま、身辺整理が終わったら今日はゆっくりしていなさい。あ、後、何がどこにあるかわかるようにしとってね」
「はい、ありがとうございます」
由利子は、古賀に一礼すると自分の席に戻り、机の中の整理をすることにした。

 葛西は、ドキドキしながら病室のドアを叩いた。鈴木係長に言われて多美山の様子を見に来たのだ。2・3秒躊躇した後ドアを開けると、サイドデスクの前に座って本を読んでいた多美山が、顔を上げて葛西の方を見た。

「よお、ジュンペイ」多美山は葛西を見ると笑顔で言った。「なかなか素敵な格好やね」
多美山に言われて、葛西は自分の対感染症の厳重な井出達を確認しながら苦笑いをして言った。
「もう、昨日からこういうカッコばっかりですよ。でもよかった。多美さん、元気そうで」
「おお、傷がちょっと痛むくらいで、あとはまったくいつもどおりで異常なかとたい」
「そうですね。こんなの着てるのがばからしく思えますよね。脱いじゃおっかな」
葛西が言うと、多美山が真顔で言った。
「馬鹿なことを言うちゃいかん。それに刑事たるもの・・・」
「目先で判断しちゃイカン・・・でしたね」
葛西は多美山の言おうとしたことを先に言った。
「それに、決まりは守らないといけませんよね」
「そういうこったい。でもなあ、正直相手の顔、特に表情がようわからんとは辛かばってんが・・・」
「そうですか・・・。でも、僕ってよくすぐにわかりましたね」
「そりゃあ、わかるばい。相棒やろうもん。あと、何でかギルフォード先生もわかっとたい」
「でかい上に足が長いですからね」
二人はそういうと笑った。とりわけ葛西は多美山に「相棒」と言われ、嬉しかった。
「ばってん、元気なおかげで退屈でな。とりあえず看護士に頼んで適当に本を持ってきてもろうたったい」
「へえ、アガサ・クリスティですか。定番ですが、僕も高校生の頃一時期凝ったなあ」
「何十年かぶりばい、ゆっくり推理小説やら読むとは。やはりポアロのシリーズは面白かね」
「テレビドラマでやってましたよね、ポアロ。あれ、イメージにピッタリですね。声優さんの声がもうあの風貌にこれまたピッタリで・・・」
「あの声優がヒッチコックの声をあてるとまた絶妙でなあ・・・。ところでおまえ仕事は?」
「はい、朝からここで、祐一君たちから事情を聞いてました。で、鈴木係長から多美さんの様子も見てきてくれと言われまして・・・」
「そうや。あん人も気を遣うけんなあ。そういえばコンビニ強盗事件の調書が途中やったけど、どうした?」
「あれから署に帰って書き上げました。書き直しナシで無事に受け取ってもらえましたよ」
「そりゃよかった。」
「それより、多美さん。聞いたらテレビを置いてもいいっていうんで持ってきたんですよ。激安店で特売品の小型テレビですが・・・」
「おいおい、激安ってもテレビやけんそれなりの値段のするやろ。ここは隔離病棟やけん持って出れるかどうかもわからんとに、もったいなかけん気を使わんでっちゃよかたい」
「いいからいいから。一課のみんなでお金出し合って買ったんですよ。ちょっと待ってくださいね、持ってきますから」
葛西はそういうと、テレビの一式を抱えて持ってきて、さっさとセットしはじめた。手袋をはめての作業なので、多少てこずっていたが、なんとかセットを終えた。
「小さいですが持ち運び出来るし、お風呂でも見れますよ。じゃ、点けてみます」
葛西は電源を入れた。
「ほおお、小さいけど見やすかね。最近のデジタルもんの躍進はハンパやないなあ」
テレビは午後のワイドショーを映していた。多美山はそれを見ながらしきりに感心していたが、急に眉間にしわを寄せて言った。
「おい、ジュンペイ、昨日の事件ばってん、なんか報道されとったか?」
「いえ、それが全然です。報道が規制されてるんかなあ。まあ、ローカルな事件だし、報道されるにしても地方のニュースだったでしょうけど、結局自殺で終わったというのも、報道されない理由かもしれません。」
「う~~~ん、そんなもんかなあ。まあ、事件に関わった人たちのことを考えたら、報道されんで良かったとは思うばってんが・・・」
そういうと多美山は考え込んだ。
「そういや、病気をばら撒いた犯人からの犯行声明もまだなんやろ?」
「アメリカの炭疽菌テロ事件の時も結局正式な犯行声明は出されなかったようですから、なんとも言えませんね。犯人の目的もまださっぱりわからないですし・・・。それに、もし、もしですよ、病気を広めることだけが目的だった場合、犯人達がまったく表に出てこない可能性だってあります。でも僕は、彼、あるいは彼らが挑戦状メールを送ってきた事から考えて、いずれはなにかコンタクトを取ってくるとは思っていますが・・・」
「本当に気持ちの悪か事件やな」
多美山は憮然として言った。多美山はしばらく腕を組んで黙っていたが、不意に葛西の方を見てにやりと笑いながら言った。
「ときにジュンペイ、おまえ先生のとこで、偶然篠原由利子さんに会ったって嬉しそうに言うとったな」
「ええ、お互いに指を指して驚きましたよ、・・・って、嬉しそうにって、そんなでしたか、僕?」
「おおよ。俺の言うたとおり、おまえのストライクゾーンやったろ、彼女」
「やだな~、多美さん。・・・じゃ、僕、仕事があるんで、そろそろ帰りますね。祐一君たちから聞いた話の調書を作らないといけないんで。夕方からは佐々木君たちの事情聴取です」
雲行きが怪しくなってきたし、あまり長居も出来ないので葛西は退散することにした。
「そうやな。今日はありがとうな。こいつのおかげで退屈せんで過ごせそうや」
多美山は少し寂しそうに言った。葛西はなんとなく後ろ髪を引かれたような気がして言った。
「明日も時間見て来ますね。それから、僕、あさっての木曜日にこの前の代休を取ることにしたんで、ここに来ようって思ってるんです。奥さん亡くなってらっしゃるし、多美さんの息子さん、東京だからすぐには来れないでしょ?だから・・・」
「ジュンペイ、俺なんかのために貴重な代休を使わんでよかけん、ゆっくり休め」
「いいからいいから。では、失礼します!」
葛西は急に多美山に向かってびしっと敬礼すると、一礼して部屋から出て行った。残された多美山は、椅子に座ったままドアの方を見ながら、軽いため息をついた。病室が妙に広く感じた。白い室内に、ワイドショーの司会の大袈裟な声が空しく響いていた。
「こういうのも久々に見るが、そういや俺、こいつ嫌いやったったい」
多美山はそう言いながらもう一度ため息をつくと、チャンネルを変えることにした。

 日ごろから整理整頓を心がけている由利子にとって、身辺整理はたいして時間もかからず、午前中には終えてしまった。昼休みには、また黒岩が弁当を持って遊びに来た。食べながら黒岩がしみじみと言った。 
「いっしょにおべんと食べるのは、今日が最後やね」
「そうですね。お互い入社して長いけど、こうしてお昼を一緒に食べだしたのって最近ですよね」
「あ、ほんとやね。なんか篠原さんって近寄りがたいイメージがあってさ~。こんな人ってわかっとったら、もっと早う親しくしとったのにって思うよ。残念!」
「あ、それ、私も黒岩さんのこと、そう思ってました」
「なんだ、お互い敬遠しあってたのか~」
お互い様ということがわかって、二人は笑った。
「で、バイトはいつから?」
と、黒岩が聞いた。
「先方次第ですが、来いといわれたら明日からでも行ってみようかなと」
由利子が答えると、黒岩が言った。
「それ、確認しとったほうがいいっちゃないと?」
「そうですね。もう少ししたら電話してみます」
由利子は、それもそうよねと思いながら答えた。

 ギルフォードは何となく落ち着かなかった。知事が直接電話をかけてきて、夕方頃ギルフォードの研究室に来るというのだ。何の用件か気になって、昼食のほか弁を食べながら紗弥に言った。
「いったい、何の用なんでしょうかねえ、サヤさん?」
紗弥は、カップのもやしみそラーメンを食べる手を止めて答えた。
「流れから考えても、昨日の事件を受けての訪問じゃないでしょうか?」
「やっぱりそう思いますか」
紗弥の答えに、ギルフォードはうんうんと頷きながら言った。
「しかし、サヤさん、お昼にカップラーメンなんて不健康じゃないですか? それも1.5倍って・・・」
「いえ、ちゃんとバランスを考えてますわ。この後に100%野菜ジュースと特保のピチピチ乳酸菌入りヨーグルトもいただきますもの」
「健康なんだか不健康なんだかよくわからないメニューですねえ・・・」
その時ギルフォードの携帯電話が鳴った。例の笑い声が入ったワルツの着メロだ。
「あ、ユリコからです。バイトの件かな。・・・はい、ギルフォードです。・・・こんにちは、ユリコ」
ギルフォードはニコニコしながら言った。
「え? バイトはいつから来たら良いかですか?」ギルフォードは紗弥に向かって、やっぱりそうだったよというようにウインクした。
「ユリコはいつから? ・・・・。明日から有給取って休む? そうですか、ユリコがいいなら、明日、ウォーミングアップのつもりで出てきませんか? ・・・・・。そうですか、来てみますか」
ギルフォードは嬉しそうに続けた。
「じゃ、明日は9時くらいに出てきてください。いいですか? OK? わかりました、じゃあ、明日、お待ちしていますね」
ギルフォードは満足そうに電話を切って紗弥に言った。
「明日から来れるそうですよ。嬉しいですね」
「そうですか。じゃあ、由利子さん用の机を用意しておかないといけませんね」
と、紗弥がいつものポーカーフェイスで答えた。

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1.侵蝕Ⅰ (2)新たなる旅立ち

「え? 県警本部に? どういうことですか?」
葛西は署長の前で緊張して立っていたが、署長の言葉がよく理解出来ずに聞き返した。
「まだ本決まりではないがね」
村上K警察署長は葛西に言った。
「今回の感染症発生に関して、対策本部を県警に設置することになったんだ。秋山美千代の事件を重く受けてのことらしい」
村上は慎重にテロという言葉を避けながら言った。
「それで、この事件に早くから関わっているうちの署員を迎えたいという、向こうからの打診があった。しかし多美山巡査部長はあのような状態だ。そこで、君に白羽の矢が立ったというわけだ」
「そ、そんな・・・。僕にはそんなところでやっていける自信はありません!」
「いや、君は適任だと思うよ。確か君は、大学では微生物専攻だったな」
「はい、最初、獣医を目指していたんですが、どうも合わない事がわかって・・・」
「そういうこともあって、私は君を推薦することにした。おそらく近いうちに辞令が出るだろう。普通は事前に報せるようなことはしないんだが、今回は特殊な事件だからな。心の準備をしておいて欲しい。おそらく例を見ない事件の最前線に立つことになるだろう、危険な任務だからな」
「は、はい!」
葛西は若干引きつった顔をして返事をした。
「よろしい。では、仕事にもどりなさい」
村上から退室の許可を得て、葛西は敬礼をすると、「失礼します」と言って署長室から出て行った。若干足元がふらついていた。
「大丈夫なんだろうな、あいつ・・・」
村上は一抹の不安を感じながら言った。葛西は、署長室を出て1課に向かう廊下を歩きながら、一抹どころか不安で一杯になっていた。しかし、くよくよしても仕方がない。それに、その方が、この事件の核心に迫ることが出来、多美山や祐一をあんな目にあわせた犯人達を追い詰めることができるじゃないか。葛西はそう思いなおし不安を振り切ろうとしたが、あることを思い出してつぶやいた。
「ひょっとして、あの防護服が日常になるんじゃ・・・」
葛西はこれからの季節を想像してげっそりとしてしまった。

 ギルフォードは、午後の講義が終わった後、研究室で県知事を待っていた。約束の時間が近づくにつれ、ギルフォードはさらに落ち着かなくなった。
「教授、何をそわそわしてらっしゃるんですの?」
と、紗弥が不思議そうに尋ねた。
「あの人の周りはなにかと騒がしいんですよ。ああ、僕が知事を尋ねて行った方がよっぽど気が楽です」
ギルフォードは頭を抱える振りをしながら言った。
「そういえば、一時期程ではないけれど、よく報道陣にたかられてますものね」
「せっかく静かな環境にいるのに、ヘンな連中が押し寄せてきたら大迷惑ですよ。それに、僕だって目立ちたくないんです」
(それは無理ですわね)
と、紗弥は心の中で密かに突っ込んだ。
 ギルフォードたちが、そのような会話をしていると、研究室の戸口で声がした。
「こんにちは~。ちょっとおじゃましますよ」
見ると、そこにはヘンなおっさんが立っていた。彼は、プリズムのイラストが描かれた色落ちした黒いTシャツにベルボトムのGパンとロンドンブーツ、そして丸いサングラスをかけて黄色と緑のチューリップ帽子をかぶっていて、ちょうど70年代の学生のような格好をしていた。しかし、中肉中背で中年太りこそしていないが、どうみても中年の男性である。
「やれやれ、学生時代の服を引っ張り出して着てみたんだけど、やっぱりずいぶんと浮いちゃったみたいだねえ」
怪しげな男は、そういいながら研究室にすたすたと入ってきた。ギルフォードは彼の顔を見て頭を抱えながら言った。
「えっと、ひょっとして・・・?」
「やあ、こんにちは、ギルフォード先生。お騒がせしたらいかんので、ひとりでこっそりタクシーで来ました。流石に誰も僕とはわからなかったみたいですよ、あっはっは」
「それじゃあ、わからないですよ。しかしまあなんて格好で・・・。相変らずですねえ」
ギルフォードはそういうと、笑いながら知事に右手を差し出した。
「知事、お久しぶりです。相変わらずお元気そうで」
「元気なだけが取り得ですからね」
森の内知事はギルフォードの手を取ると、両手でがっちり掴んで答えた。
 森の内を応接セットに座らせると、ギルフォードは自分も前の席に座った。森の内はソファに座って落ちつくと、帽子を脱ぎトンボ眼鏡を外して普通のシルバーフレームの眼鏡にかけかえた。森の内は怪しい中年男から、ロマンスグレーの紳士に変身した。
「で、知事自ら出てこられるなんて、いったい何があったんですか? 言ってくだされば僕の方から行きましたのに」
「こちらからお願い事をするんですから、そうはいきませんよ」
森の内がそう言ったところで紗弥がお茶を運んできた。森の内は「ありがとう」と言いながら座ったまま会釈をし、さらに言った。
「紗弥さん、相変わらず綺麗ですね」
「ありがとうございます。知事も相変わらずお上手ですわね」
紗弥はにっこりと笑って受け流し、部屋を出て行った。その後姿がドアの外に消えると、森の内がにやりと笑って言った。
「ところでアレックス、君、実は『元米軍の恐ろしい細菌学者』だそうですね」
「はあ~?」
ギルフォードは、驚くというよりあきれて言った。
「ははは、やっぱり思った通りの反応だ! 僕も『ハア?』ってなったんですよ。でも、本人が一番『ハア??』となりますワね」
「いったいどこからそんなことを聞いてきたんです?」
「例の秋山美千代が、西原祐一に電話をかけたときに言ったそうですよ」
「確かに、かつて僕はアメリカの大学で、ユーサムリッド(USAMRIID:アメリカ陸軍伝染病医学研究所)と関わったことはあります。しかし、僕は基本的に軍隊とは相容れません。それにしても、『米軍の細菌学者』だなんて、アナクロすぎませんか」
「うん。だけどね、そういう知識のない人に吹き込むにはわかりやすいネタでしょう?」
「ということは・・・、やはりアキヤマ・ミチヨに犯人が接触したと?」
「おそらくそうです。そして、美千代に嘘八百を吹き込んで、『ばら撒き屋』に仕立て上げた可能性があるとですよ」
「なんですって!?」
ギルフォードは椅子から立ち上がって、森の内の方に前のめりになりながら食いつかんばかりに言った。
「それはホントですか?」
「アレックス、照れるからあまり顔を近づけないで欲しいなあ」
森の内はにっと笑って言った。ギルフォードは、肩をすくめると椅子に座りなおして言った。
「もう、そんな情報を得てるんですか」
「うん、現場にいた刑事が、今日西原祐一君から事情聴取したことと、自分らの見聞きしたことをまとめた報告書をね、緊急にメールしてもらったとですよ」
「現場にいた刑事・・・、ジュン、いや、カサイ刑事のことですね」
「あ、知り合いだったの? そういえば、君も現場に急行したんでしたね」
「ハイ。でも、私が着いた時はすでにミチヨは意識不明になってましたし、当事者たちに状況を聞けるような状態でもなかったので・・・」
「ちょうど良かった。ここにプリントしたものを持ってきたから、読んでみて。漢字は大丈夫です?」
「ハイ、ある程度は読めます。マンガで鍛えましたから」
ギルフォードは笑いながら言うと、レポートを受け取って読み始めた。ギルフォードの顔から笑顔が消えた。ざっと目を通したあと、森の内の方を見て顔をしかめながら言った。
「何ですか、これは?」
「どうです、気持ちの悪かでしょう。僕は、対テロ特設チームを作ることを考えていましたが、今回の事件で刑事が感染の危機に陥るという事態を招いたことで、その時期を早めることにしました。その相談をしたくてここに来たんですよ。そのために、その事件のレポートを急いで入手したんですが、実際読んでみて、かなり驚きました。これは急がないと拙いと思いました」
「確かにマズイですね。まずは、ミチヨと接触した人間を探し出して、隔離しなければ」
と、ギルフォードが言うと、ここぞとばかりに森の内は言った。
「それで、これが本題です。アレックス、君に特設チームの顧問をお願いしたい、そのためにここに来たんです」
「僕に?」
ギルフォードは少し間を置いてから答えた。
「光栄ですが、お断りいたします。わざわざ外国人の僕に顧問をさせなくても、適した方が外に沢山いらっしゃるでしょう?」
「いや、この事件に比較的初期から関わっている人と言うことを考慮すれば、君しか適任者はいないと僕は思います。引き受けてくれんですか? お願いします!」
「ごめんなさい」
ギルフォードは立ち上がって頭を下げた。
「そんな・・・、なんかの番組でおつきあいをお断りしてるんじゃないんだから・・・」
森の内は苦笑いをしながら言った。ギルフォードは座りなおすと続けた。
「それに、大学にだって迷惑がかかりますし」
「あ、大学? それなら、先に学長に打診したところ、どうぞ持っていってくださいとおっしゃってましたよ」
「持っていけ、ですか・・・?」
ギルフォードは、やや引きつった笑いを浮かべながら言ったものの、心の中で悪態をついた。
(”あンのぉ~、狸オヤジ、人をモノみたいに! いったい何考えてんだよ、ったく・・・”)
そしてギルフォードはゲンナリとしながら言った。
「わかりました・・・。1日程考えさせてください」
「期待していますよ。葛西刑事からの続きの報告は、届き次第メールで転送しますから、それも読んだ上で決めて下さい」
森の内はそこまで言うと、チラと時計を見て少し焦ったような表情をした。
「では、私はスケジュールが押してますのでそろそろ帰ります」
森の内はいきなり立ち上がりながら言った。ギルフォードはそれを聞いて若干口の端を上げ気味に言った。
「そうですか、残念ですねえ、ホントニ」
「そこはかとなく嬉しそうだけど・・・ま、いっか。じゃ、お邪魔しました。良いご返事をお待ちしておりますから」
森の内は帽子を被ってから戸口の方に向かおうと横を向いて、いつの間にかそばに紗弥が立っているのに気がつき非常に驚いて「うわぁっ!」と悲鳴を上げた。紗弥はにっこり笑って言った。
「まあ、もうお帰りですの?」
「用件が済んだのでお帰りだそうですよ」
ギルフォードは既に自分の席について仕事を始めながら言った。
「戸口までお見送りしてあげて下さい」
「かしこまりました」
紗弥が答えると、森の内は「いいです、いいです、じゃっ!」と言いながら、脱兎の如く走って研究室を出て行った。出様に、研究室に来た如月とぶつかりそうになった。
「あ、失敬!」
森の内は如月に向かって軽く謝ると、そのまま走って廊下を曲がっていった。如月は首をかしげながら研究室に入ってきた。
「何でっか、ありゃあ。 そう言や、どっかで見た顔のような気もするんやけど・・・」
如月はブツブツ言いながら席につくと、パソコンの電源を入れ、カバンから資料を出し始めた。
 紗弥は紅茶を飲みながら、窓の外を見ていた。しばらくすると、走って建物から出てくる、森の内の悪目立ちする姿が見えた。時計を見ながら紗弥が言った。
「想定外の早さで出て来られましたわ。本当に急いでいらっしゃるのね」
さらに観察していると、棟を出てそ知らぬ顔で学生達に混じろうとしたところ、学生のひとりに知事ということがばれたらしい。彼はわらわらと学生達に囲まれ、握手と写真攻めに遭いはじめた。そこに通りかかった男たちが森の内を見つけて、学生達を追い散らしながら近づいていった。
「まあ、知事ってば、こんどはとうとうお付きの人に見つかったみたいですわね。あらら、ついでにマスコミの人にも見つかってもみくちゃにされてますわ」
ギルフォードは左手にカップを持ち、右手のマウスでPC画面をスクロールしながら涼しい顔をして言った。
「いいですよ、僕に累が及びさえしなけりゃ」
「それにしても、教授、彼、ずいぶん馴れ馴れしいですがどういった経緯でお知り合いに?」
「別にお尻をあわせた訳では・・・」
ギルフォードはそこでパソコン画面から顔をそらし紗弥の方をそっと見た。その時紗弥の眉間にかすかにしわが寄っているのをみて、ちょっとの間舌を出した後某CMの兄風に言った。
「スミマセン、ふざけてマシタ」
「洒落になりませんわよ、そのオヤジギャグ」
「彼とは・・・。キョウ・・・松樹警視が僕を彼に紹介してくれたんです。そう、馴れ馴れしいんですよ。キョウのマネをしてすぐに僕をアレックスと呼び始めるし」
「まあ」
「でもね、政治家としては未知数ですが、期待できる人です。形式に囚われずに考えられる人です。でも、その分敵も多いです。だから、僕も出来るだけサポートはしたいんですが・・・」
「では、お願いを聞いて差し上げればいいのに・・・?」
「僕が関わらないほうがいいことだってあるんですよ」
ギルフォードは、パソコンに向かったまま言った。なんとなく寂しそうな後姿だった。

 由利子は、花束をもらってみんなに見送られながら退社した。綺麗な深紅のバラの花束だった。気が抜けたようにとぼとぼと歩いていると、悲しさと惨めさと不安が襲ってきて目の前の景色がぼやけた。由利子は道端で涙ぐんだ照れくささから、立ち止まって花束を見た。赤いバラもぼやけてカスミソウの白と混じり、不思議な模様に見えた。古賀課長は気分が悪いのが納まらず、早退した。帰り際に古賀は由利子に言った。
「最後なのに見送ってやれんですまんね。がんばれよ。これは、終わりやなか、新しか門出なんやからな!」
由利子は、課長の言葉を思い出していた。
(新しい門出かあ・・・。これは新しい道に続いているんかなあ・・・)
由利子は不安になりながらも、古賀の言葉に力づけられたような気がした。
(いえ、その通りよ。第一マイナス思考なんて私のガラじゃないよね)
由利子はそう思いなおすと、軽快に歩き始めた。

 ギルフォードは夕方、多美山の病室を尋ねた。多美山はテレビをつけたまま、本を読んでいたが、ギルフォードの姿を見ると、椅子から立ち上がって彼を迎えた。
「ギルフォード先生、こんにちは。昨日はどうも」
「こんにちは、タミヤマさん。こんなカッコしてるのに、よく僕ってすぐにわかりましたね」
「そりゃあもう、その背丈と長い足でわかりますよ」
多美山は葛西と会話した時のことを思い出しながら言った。
「これは?」
ギルフォードはテレビの方を見て言うと多美山は嬉しそうに答えた。
「ジュンペイが持ってきてくれたとです。なんか音がなくて寂しかもんで、つい点けっぱなしにしとおとですよ」
「小さいし軽そうですね」
「風呂ん中でも見られるそうですよ。ばってん、裸でおる時に画面上とはいえ人の顔があるってのも恥ずかしかですから、遠慮しときますけどね」
多美山は笑って言った。そんな多美山を見ながら、ギルフォードはふと、彼の体の中で凶悪なウイルスが増殖しているのは悪い冗談じゃないかと錯覚した。今朝の血液検査の数値も、怪我のせいで白血球数が増えている以外は特に異常はない様に思われた。このまま発症せずにいてくれたら・・・。だが、ギルフォードは今までもそんな気持ちを何度も裏切られてきたのだった。
「お元気そうで、良かったです」
ギルフォードは率直に言った。多美山は、笑いながら答えた。
「ええ、このまま一週間後には何もなかったように退院できるごと気になってきとります」
しかし、多美山は急に真面目な顔をして言った。
「先生、ばってんお願いがあっとです。もし、私が発病した場合、どうか遠慮なく私の身体で試して、有効な治療法ば見つけてくれんですか。そのために私が命を落としたってかまわんですから」
「タミヤマさん、もちろんそうなった場合、僕たちは出来うる限りの治療を行います。だけど、それはあなたを救うためです。今までの経験から有効そうな薬を使って経過を見るのです。けっして突拍子のない薬を使って無茶な人体実験をするようなことはありません」
ギルフォードも真剣な顔で答えた。
「お願いします」
と、多美山は頭を下げた。ギルフォードは一瞬辛そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔にもどった。頭を下げていた多美山は、もちろんギルフォードのその表情には気がつかなかったが、頭を下げていなくても、マスクとゴーグルで微妙な表情には気がつかなかったかもしれない。ふいに、多美山が思い出したように手を打ちながら言った。
「あ、そうだ、もうひとつお願いがあっとですが・・・」
「何ですか?」
「こういうことを、先生にお願いしていいかどうかわからんとですが、今私がお願いできるんは先生しか思いつかんとですよ」
「かなえられるかどうかはわかりませんが、遠慮なくおっしゃってください」
「そう言って下さると嬉かですが・・・」
多美山はそれでも少し躊躇しながら言った。
「先生がもし、木曜に休みが取れるとでしたら、ジュンペイをドライブかなんかに誘ってくれんでしょうか」
「はあ、カサイさんをですか? それはまたどうして?」
ギルフォードは、不審そうな顔をして尋ねた。
「あいつは、大学からずっと東京におって、警官になってからこっちに帰ってきたようなもんなんですが、あれがクソ真面目で、ろくに有給も取らんでですね。それでなくてもこの仕事はなんかあればすぐに駆り出されて土日もあったもんじゃない事が多かとですよ。まあ、それで、念願の刑事にはなれたんですが、なんか余裕ってもんがないとですよ。そのジュンペイが久々に代休を取ったとかいうのに、私の世話に来るとかいいましてね・・・」
「いい子じゃないですか。多分そのために代休を取られたんでしょう、きっと」
「いや、いい若いもんがこんな年寄りの世話にたまの休日をつかっちゃイカンですよ。で、どうやらあいつ、先生のところにアルバイトが決まったという篠原由利子さんに好意を持っとうごたるとです」
ギルフォードはそれを聞いて少し驚いた。
「へえ、ジ・・・いえ、カサイさんがユリコのことをですか?」
「ええ、それで、一緒に篠原さんも誘ってドライブにでも行って下さればいいと思ったんですが・・・」
「う~~~ん」
ギルフォードは考えを巡らせた。木曜は特に講義のない曜日だし、多美山の容態が変わるとか、新たな感染者が運び込まれるとかなければ可能だろうと、彼は判断した。
「わかりました。誘ってみましょう。ただし、これからこの感染症の広がり次第では実行できないかもしれませんよ」
「ありがとうございます、先生」
多美山は再び頭を下げて言った。

 由利子は家に帰ると、もらったバラの花束を玄関に飾った。にゃにゃ子がトンと棚の上に乗って嬉しそうに花瓶に近づくと、ぱくりとバラの葉っぱに噛み付いた。
「こら!」
由利子はにゃにゃ子を持ち上げ、ぽんと軽く頭をはたいて言った。
「ばかもの! 君にはちゃんと猫の草を置いてあるだろう?」
由利子はそのまま彼女を抱えて玄関から離れ、そのまま部屋に入り、しばらくぼおっとしていたが、立ち上がると夕食の用意を始めた。新しい旅立ちを祝うため、少し豪華な料理をメインディッシュとしてデパートで買ってきて、ちょっぴり上等なワインも買った。あとは、サラダとスープを作るだけだ。しかし、その少し豪華な食事を取りながら、由利子はとても空しくなった。ワインを半分開けると、由利子はベッドにゴロンと大の字になりながら言った。
「いやだ、私ってば昨日もしこたま飲んだばっかりやん」
おなか一杯になった上にワインが効いたらしく、由利子はそのままうとうとしてしまった。しばらくして、ブーンブーンというでっかい虫の羽音のような音で目を覚ました。寝ぼけた頭で時計を見ると、夜10時を過ぎている。羽音の正体は携帯電話のバイブ音であった。発信先を見ると、美葉からだった。由利子は急いで電話に出た。
「こんばんは~。確かお仕事今日までだって聞いてたから、どうしてるかなって思って電話したっちゃん」
美葉は由利子が落ち込んでいるのではないかと心配して電話してきたらしい。由利子は会社での様子と、帰ってから1人で門出を祝ったことを伝えた。美葉は笑いながら言った。
「いやだ、由利ちゃんってば。言ってくれたら私が行って何か作ってあげたのに」
「だめだよ、あんた、寄り道するなって言われとぉやろ、いくら私の家でもだめだよ。第一帰りが心配やろうもん」
「そうだったね~。ああ、つまんないなあ」
「あれからどうなの?」
「うん、見張りの人が変わったみたいなの。なんか若くて頼りなさそうな人」
「で、例の困ったちゃんの彼氏は?」
「CD送ってきたやろ、あれから音沙汰なしよ」
「そっか~。それはそれで気味悪いね。いい? 変わったことがあったら、すぐに110番するとよ」
「うん、わかっとぉ」
「ほんとに大丈夫かなあ・・・」
由利子はそういいつつ、ふと窓を見た。しまった、カーテンを閉め忘れている。そう思って電話をしながらカーテンを閉めようと窓に近づき、ふと外を見てぎょっとした。窓から見える電信柱の影にこちらの様子を伺う人影のようなものを確認したからだ。しかし、部屋は4階なのでそいつの様子がよくわからない。それで、目を凝らしてそいつをよく見た由利子はつい声を上げた。
「いやだぁ~もう~」
「由利ちゃん、どうしたの?」
「ヘンなヤツが外にいるって思ったら、立ちションしてるオッサンやった~。げげ、やなもの見ちゃったよお~」
由利子はそう嘆きながら、カーテンをシャッと閉めた。
「やだ、ホント?」
「うん、幸い暗かったんで、よくわからなかったけど」
「時々いるっちゃんね、夜、道端で、女性が通るとわざと立ちションして見せるやつ。こっちもシカトして通るけど、本心は撃ち殺してやりたいと思うもん」
「そうそう、射殺許可が欲しいよね」
由利子たちは何も知らず物騒な会話をしていたが、件の男は由利子の部屋のカーテンが閉まり、彼女の影が窓際から去ると、立ちションをするポーズを止め、もう一度部屋を確認した。男は微かにニヤリと笑って、立ち去っていった。 

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1.侵蝕Ⅰ (3)広がる染み

20XX年6月12日(水)

 川崎三郎は、朝食を食べながら浮かない顔をしていた。

 定年退職してから半年が経とうとしていたが、未だに庭いじりくらいしか趣味が持てないでいた。専業主婦の妻は、子どもが育ち上がって独立したあと、すなわち夫の在職中から旅行だの絵手紙だのフラダンスだのと充実した老後を満喫しているが、仕事一辺倒だった三郎は、唯一の趣味であったDIYと彼の職種であった造園の知識を生かして、せっせと庭の手入れにいそしむくらいしか時間の潰しようがなかった。その甲斐あって、川崎家の庭はそこらの庭園より立派になっていった。妻から「いずれ兼六園を越えるかもしれんねえ」と、しょっちゅうからかわれるくらいだった。最近では、近所の庭の手入れも頼まれるようになり、彼のセカンドライフも充実し始めていた。

 三郎が浮かない顔をしているのは、今日、朝からの雨模様のせいで唯一の趣味である庭の手入れが出来そうにないからではなかった。実は、八日(ようか)前に虫にかまれたらしいところの炎症がひどくなっているのに気がついたからだった。八日前、そう、珠江の家で彼女の遺体にたかった大量の「虫」たちが三郎たちの足下を抜けた際に咬まれたあの傷である。
 三郎は、あの時長い作業ズボンをはいていたが、暑いので靴下を履いていなかった。その右足首前方に逃げる虫が一匹正面衝突し、行きがけの駄賃で食いついていったらしい。
 家に帰ってから、気になって咬まれたあたりを確認すると、ちょっと赤くなっているだけで特に咬み口もよくわからない状態だった。しかし1日経った頃、ちょうど蟻に刺された時のように腫れ上がったので、虫さされの薬を塗ってその場をしのいだ。薬が効いたのか、腫れは収まったのでそのまま気しないようにして放置していたのだが、昨日、また腫れているのに気がついた。それどころか、周りに小さいブツブツがいくつか出来はじめていた。三郎は医者に行くべきかと考えたが、当時のことを思い出して躊躇していた。あの時・・・。

 三郎たちが通報した後、すぐに警官二人がやってきた。彼らは三郎たち5人から簡単に事情を聞くと、さっさと家の中に入っていった。三郎たちが戸口で様子を見ていると、「なんだ、これは!?」「うわっ」という声がした後、彼らはすぐに血相を変えて戻って来て、「何があったとですか、ありゃあ」と三郎たちに改めて質問をした。三郎たちは口々に状況を説明した。
「じゃあ、この家の住人は、つい最近までまったく異常なく元気だったんですね」
「てことは、大量のゴキブリに食われて仏さんがああなったっていうとですか? そんな馬鹿な」
警官の言葉に典子は見たものを思い出し、耳をふさいで身を震わせた。女性たちは典子を気遣って警官と三郎が話しているところから彼女を遠ざけた。三郎は警官たちに詰め寄って言った。
「珠江さんの死因は何かわからんですが、遺体があの虫で覆われとってその後いっせいに逃げ出したとは、あたしら全員が見とります! 今思い出したって身の毛もよだとうごとある光景やったとですよ!」
三郎の剣幕に、警官達は顔を見合わせた。信じられない話だが、確かにあの遺体の様子はそう考えたほうが辻褄が合いそうな気がした。
「これは、保健所にも報せたほうがよかな」
そういうと警官は無線で署の方に連絡をとり始めた。
 三郎たちは、名前と電話番号を聞かれた後まもなく解放され、各々が家に戻って行った。しかし、皆一様に暗く辛そうな表情をしていた。
 それから数時間後、三郎がなんとか空元気を取り戻し、妻とお茶を飲みながらテレビを見ていると、警察がやってきた。亡くなった秋山珠江が危険な感染症に罹っていた恐れがあるので、とにかく感染症対策センターまで来て欲しいということだった。三郎たち5人は、センターの車に乗せられて、ほとんど強制的に連れて行かれた。そこで、マスク・ゴーグル等をつけた怪しい格好をした連中から遺体発見時のことを根ほり葉ほり聞かれた挙句、遺体に接触していないということで、高熱が出る等身体の異変があった時はすぐに保健所に届ける事を条件に、まもなく解放された。だが、遺体を食んでいたらしい虫が足元をすり抜けていったということは、はたして接触していないと言い切れるだろうか。少なくとも、間接的には接触したことになりはしないか。ましてや、食いつかれたとあっては・・・。三郎は怖くなったので咬まれた事は一切口に出さなかった。もし、そのことを伝えていたならば、三郎への対応は違っていたかもしれない。
(アレが咬むっちゃあ・・・)
三郎は腫れた患部の周囲をさすりながら思った。三郎はあの時起こった事が未だに信じられなかった。ヤツらが飛ぶことは知っていたがまさか食いつくとは。その上傷がこんなことになってしまうなんて。
(熱はないごたるが、こりゃあ体の異変にあたるんやろか・・・)
三郎は、考えた。
(やとしたら、保健所に連絡せんといかん。ばってん・・・)
そんなことをしたら、あの何とかいうセンターに連れて行かれ、こんどこそ隔離されてしまうのではないか・・・。そう思うと、三郎は怖くてとても保健所に電話することなど出来なかった。しかし、普通の病院に行って、万一そこで病気が広がったら・・・。そう思うと、三郎はさらにゾッとした。

「お父さん、なんボンヤリしとうとですか?」
妻の言葉に三郎は我に返った。
「あ、すまんすまん。ちょっと考え事ばしとった」
「はやく、お食事済ませてくださいよ。私、今日の午前中は尚子さんたちとお買い物に行く予定なんですから、早く片付けたいとですよ」
「ああ、そんなこと言うとったな。悪い悪い、すぐに食べてしまうけん」
そういうと、三郎はご飯にお茶をかけて急いで掻き込んだ。

 由利子はギルフォード研究室の応接セットで、借りてきた猫のようになっていた。
 今日は、いつもの時間に目が覚め、日課のジョギングもこなし万全の体調で家を出た。今日はお試しとはいえ初出勤である。由利子は遅刻しないようにネットできっちりと電車の時刻を調べ、早めの電車に乗ったはずだった。ところが、間の悪いことに信号のの故障とやらで足止めを食い、結局30分ほど遅れて研究室に着いた。もちろん、遅れる旨を電話し、ギルフォードたちも「大変だったね」と、ねぎらいながら迎えてくれたが、あまり幸先の良いスタートではない。特に完璧主義の由利子には、不可抗力とはいえ初日からの遅刻は許せないものがあった。
「まあ、そんな気にしないで」
由利子の前に座ったギルフォードが言った。紗弥は紅茶をサーブした後、自分の席について仕事を始めた。
「あ、そうだ、言い忘れてたけど、今度、履歴書を持ってきてください。提出しないといけないので」
「あ、持ってきてます。・・・っていうか、退職が決まってから、次の就活用に何通か書いていたのを常備しているものですが・・・」
由利子は、バッグから履歴書を出すと、今日の日付を書き込んでギルフォードに渡した。
「へえ、準備がいいですねえ」
ギルフォードは、感心しながら履歴書を受け取ると内容を読み始めた。
「大学は東京でそのままあっちで就職されたんですね。Uターンして前職に?」
「はい」
由利子は答えた。
「やっぱり、こっちの方が良かったんですか?」
「まあ、いろいろありまして・・・。でもまあ、確かにこっちの方が暮らしやすいですね。親元も近いし食べ物も美味しいし。ただ、今再就職するとなると、こっちではかなり難しそうですが・・・」
由利子は、出来るだけ率直に答えた。
「運転免許をお持ちですが、まさか、ペーパーじゃないですよね」
ギルフォードの問いに、由利子は笑って言った。
「車は持ってませんが、運転は大丈夫です。前の会社でもけっこう使ってましたから」
「車、持ってないんですか」
「ええ、東京でもこっちでも通勤には使わなかったし、持つメリットが無かったんです。最初持ってたんですが、維持費がかかるので売っ払ってしまいました。でも、仕事では使うことが多かったんで、運転に関しては問題ないと思います」
「わかりました。まあ、車の運転をお願いすることはあまりないと思いますけど、いざというときはお願いしますね」
と、ギルフォードは笑って言った。
「で、前の会社ではどういう仕事をしておられたんですか?」
「はい、データの打ち込みや文書作成、そのほかに3D-CADを使ってパースとかも描いてました」
「パースが描けるんですか」
「はい、手描きも出来ますよ」
「すごいですね。で、データや文字を打つのは早いですか」
「普通だと思うのですが・・・」
「ちょっと僕のパソコンで打ってみてください」
「え? 今からですか」
「はい」
ギルフォードは、またにっこり笑うと言った。しかたなく由利子は立ち上がってギルフォードの席についた。ギルフォードは、その横に立つと、ワープロソフトを立ち上げ、手近な本を手に取り中をランダムに開いてそのページを指差すと言った。
「このページの最初から5行くらいを打ってみてください」
「はい」
由利子は返事をするや否や打ち始め、あっという間に作業を終えた。
「オー、さすが! 早いですね。ミスもなさそうです。OK、これなら大丈夫でしょう。ためしに僕が今から言うことを、そのまま打ってみてもらえますか?」
「はい」
「じゃ、行きますよ。『隣の竹垣に 竹立てかけたのは、竹、立てたかったから 竹立てかけた』」
「って、これ、早口言葉・・・。どんだけ日本語が上手いんですか、アレク?」
由利子は言われたとおりをほぼ同時に打ち終えてから言ったが、口調はややあきれ気味だった。
「おお、バッチリですね。・・・あ、ゆっくり慌てずに言えば、早口言葉は誰でも言えますよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです。じゃ、また元の席にもどりましょうか」
二人はまた応接セットに座った。ギルフォードはすぐに口を開いた。
「で、ですね。出来たら来週から本格的に来て欲しいんですけど、来られますか?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、月曜の9時から、よろしくお願いしますね。バイト料等に関しては、その時に説明します」
「ありがとうございます」
由利子は、なんとか当座はしのげることがわかって、ほっとしつつ言った。
「ところでですね、明日なんですがね、ユリコ」ギルフォードが、ちょっと言い難そうに言った。「ちょっと僕たちにお付き合いしてくださいませんか」
「え?」
由利子はちょっと驚いて言った。しかし、「僕たち」と言ったからにはギルフォード1人にたいして付き合うわけではないらしい。それで由利子は聞いてみることにした。
「はあ、どういったことで?」
「たいしたことじゃないです。僕はここに来て1年以上経ちますが、あまりこの街をゆっくり見て回ったことがないんです。で、もう1人の友人と一緒に、穴場を案内して欲しいんです」
「え~っと、それは、観光案内して欲しいということですか?」
「そうです」
ギルフォードはニコニコしながら言った。由利子はひとつ気になったことを尋ねた。
「で、もう1人の友人っていうのは?」
「それは、来てからのお楽しみです」
「で、なんでそれが木曜日に?」
「え~~~っと、もう1人の都合・・・でしょうか? いいじゃないですか、ユリコもいちおう有給休暇中だし、たまには故郷観光をしてみるのもいいでしょう?」
由利子は、この人、何をたくらんでいるんだろう、と、思いながら面白そうなので受けることにした。
「わかりました。あしたですね」
「ありがとう、ユリコ。詳しいことが決まったら連絡しますね。じゃ、僕は仕事に戻りますので、ユリコはこの研究室を自由に見てください。今は、学生達はまだ来ていませんが、そろったらまた紹介しますから」
ギルフォードはそう言って立ち上がると、自分の席に戻っていった。由利子は、応接セットに座ったまま、どうしようかと考えながら、室内を見回した。

 森田健二の彼女、北山紅美は、また連絡の取れなくなった健二のことが心配になって、昼頃彼のマンションを訪ねていた。
 健二が浴室で倒れているのを発見して、救急車で病院に運んだあの日、結局、彼の症状は高熱ではあったが過度に飲酒した上に高温の風呂に入ったため眠ってしまい、長時間湯船に使っていたために起こした熱中症とそれによる脱水症状のせいだろうということになった。1泊したものの、翌日には熱も引いたため健二は自宅に帰された。一晩心配して彼の傍にいた紅美は、帰りのタクシーの中で、元気を取り戻した健二に言った。
「もう、どんだけ飲んでたのよ! バカ健二!!」
「そう耳元できいきい言うなよ。二日酔いでまだ頭がガンガンしてんだから」
「そりゃあ、昼間っから倒れるほど飲んでりゃあ二日酔いにもなるでしょうよ」
「違うよぉ、クミ、飲んだのは朝まで。友人達が来てさ、オレ、体調が悪かったけど、飲んだら良くなると思って飲み始めたら、勢いづいてさ、結局8時くらいまで飲んだかなあ・・・。連中が帰ったんで、それからちょっと寝たけど、汗で気持ち悪いし頭もガンガンするんで熱い風呂に入ろうと思ってさ、お湯出しながら湯船に浸かったまでは覚えとるんやけど」
「あんたさ~、そんな長い間お湯出しっぱなしのままお風呂に入ってたら、そりゃあ、熱中症にもなるよ。下手したら死んでたんだからね! 人騒がせにも程があるよ、もう」
「ありがと、クミ。君は命の恩人だよ。しかし、よく溺れんかったなあ、オレ」
「私が行った時は湯船から出てたから、無意識に湯船からは脱出したんやね。ま、大事に至らなくて良かった。せいぜい今月の光熱費の請求見て目を回してなさい」
「げげ、代わりに財布が大事に至りそうだ~~~」
健二は、両手で頭をのけぞらせて悩むポーズをした。その時、紅美は健二の首辺りにかすかな紅い点々があるのを見つけた。
「あら? 健ちゃん、首に薄紅いブツブツみたいのがあるけど・・・」
「ああ、オレ、薬飲んだ後にたまに軽い蕁麻疹が出ることがあるけん、多分それやろ。心配すんな」
「そっか、じゃ、大丈夫やね。これに懲りて、今度からお酒はほどほどにしてね」
紅美は、安心したせいか軽口をたたくくらいで、いつものように誰と飲んでたの等としつこく聞くことは無かった。それが、健二を油断させたらしい。
 夕方、紅美が病み上がりの健二のために、また夕食の用意をしてやろうと彼の部屋に行くと、お見舞いと称して数人の女性が彼のベッドの傍にたむろしていた。それを目撃し頭に血の上った紅美は、そこらに買ってきたものを投げつけるとそのまま家に帰り、その後かかって来た彼からの電話にもメールにも頑として応答しなかった。しかし、火曜の深夜辺りから電話もメールもぷっつりと絶えてしまった。それでも怒りさめやらない紅美は、気に留めまいと無視を決め込むことにした。しかし、水曜になってもまったく連絡が無い。心配になった紅美は、とうとうメールを確認した。すると、最初は、ひたすら謝罪だったメールが途中から、体調を崩したことを報せる内容へと変わっていた。「なんか目が疼くし頭も痛い」から「急に高熱が出てしまった」「体中の関節が痛い」「体中に蕁麻疹が出たようだ」そしてとうとう「うごけん」という4文字のメールで連絡が途絶えた。一件入っていた留守録を聞くと
「クミ、助けて、部屋の中が、赤い・・・」
という息も絶え絶えな気味の悪いメッセージが入っていた。留守録の時間は日付の変わった水曜日の1時であった。紅美は急に心配になった。しかし、これは自分を心配させるための健二のウソかもしれない。アイツならやりかねない、とも思った。だが、それにしては切羽詰っている。紅美は悩んだ挙句、やはり彼のマンションに行くことにしたのだった。
 彼女が部屋に行くと、玄関の鍵がかかっていないのに気がついた。ドアが少し開いていたのだ。彼女はドア越しに声をかけてみた。
「健ちゃん・・・?」
返事は無かった。思い切って中に入ってみた紅美は、室内に嫌な臭いが漂っているのに気がついて顔をしかめた。今回は電気も消えテレビなどの音もなく、部屋は静まり返っていた。
「健ちゃん、いないの?」
紅美は彼の部屋まで行って様子を見たが、やはり誰も居ない。ひょっとしたらと思ってバスルームも見てみた。だが、今回はそこも健二の姿は無かった。
「もう、健ちゃんってば、カギ開けっ放しでどこ行っちゃったんだろ。やっぱウソ電話やったのかな。もう、このまま帰っちゃおうか・・・」
紅美はブツブツと独り言を言いながら、また健二の部屋に入ってこんどは照明をつけた。外が雨模様のため、かなり暗かった部屋の中がぱあっと明るくなった。紅美は健二のベッドに近づいてみた。何となく枕あたりになんかどす黒いものが見えた。なんだろうと思って、紅美は掛け布団をめくったが、その瞬間彼女は悲鳴を上げていた。
「キャッ! 何これ! 血・・・?」
布団の枕元と下半身辺りに、どす黒い染みの様なものが出来ていた。よく見ると、部屋のところどころに同じような染みがあった。これは健二の身に何かあったにちがいない! そう確信した紅美は、悩んだ挙句にとうとう警察に通報した。

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1.侵蝕Ⅰ (4)カサイ・レポート

 尋常でない室内の様子から、健二の異変にやっと気がついた紅美が警察を呼んだことから、健二の住むマンション付近がいきなり只ならぬ雰囲気に包まれた。今までも、夜中に学生達が乱痴気騒ぎをして警察が出動したことが何回となくあったが、昼間から、しかも本格的な捜査が入ったのは初めてのことである。近隣の住人達も、興味半分心配半分で、家から出てきて様子を探っている。
 警官達が室内をくまなく探したが健二の姿はどこにも無かった。しばらくすると鑑識が到着し、早速室内を調べはじめた。彼らはやはり、ベッドや床の赤黒い染みに着目した。状況からすると血液と考えるのが妥当であり、調べた結果も間違いなく血液の反応があった。しかし、この色はあまりにも奇妙だ。
「吐物でしょうか? なんか腐った血に似ていますね」
鑑識の1人が言った。まだ若い青年だ。
「おいおい、ここの住人は少なくとも昨日まではここに住んでいたんだ。ゾンビじゃあるまいに、生きた人間の血が腐ったりするかい」
と、彼より年上の男がたしなめた。だが、ある意味若い方の鑑識の言葉は正しかった。健二の体内は急激なウイルスの増殖により崩壊し始めていたのだ。
 紅美は、後悔と心配ですっかり沈み込んでいた。
(私があんな意地を張らないで、早く様子を見に来ていたらこんなことにはならなかったのに・・・)
しかし、後悔しても時間は戻らない。
(健ちゃん、いったいあんたの身に何があったの?)
紅美は、警官達が忙しく動き回る中、1人健二の机の前に座りぼんやり警官達を眺めていた。すると、1人の私服警官が紅美に声をかけてきた。
「あなたが通報された方ですね」
「あ・・・、は、はい」
紅美は、あせって答えた。
「失踪された方の奥さんですか?」
「いえっ、いいえっ、違います。まだ結婚はしてませんっ」
妻かと聞かれた紅美はさらに焦り、思っても無かったことを口走って驚いた。
(やだ、『まだ結婚はしてない』だなんて、私ってばこんな浮気男との結婚を考えてたんやろか?)
だが、刑事はそんな紅美の心境など知る由も無く事務的に話を進めた。
「あ、失礼いたしました。詳しいお話をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
と、紅美は素直に答えた。それにしても、健二はどこに行ってしまったのか。話を前夜に戻そう。

 夜中の県道を、一台の車が走っていた。時間は午前2時近く、道路は県道とはいえ山の中を通っており、昼間はけっこうな交通量があるのだが、この時間ともなれば交通量は激減、時たま対向車とすれ違う程度だった。注意して見ると、その車はたまにふらつくような不審な走り方をしていた。乗っているのは会社員の窪田栄太郎と部下の笹川歌恋(かれん)、窪田は40半ばの中間管理職だったが歌恋の方はまだ20代前半の若い女性だった。この日は大事なプロジェクトが成功したため市内の飲食店で盛大な打ち上げがあり、その後に行った二次会の帰りだった。そういうわけで窪田は酒気の抜けきらない状態で運転していた。もちろん、重大な交通違反である。彼は、二次会では用心してアルコールを控えてはいたが、一次会ではそれなりに飲んでいる。だが、それくらいで運転に支障をきたすことはないと自負していたし、実際、彼の運転はしっかりしていた。実はたまに運転がふらつくのは、助手席に座っている歌恋に原因があった。
「歌恋ちゃん、頼むよ、もうすぐ着くからさ、ちょっとの間我慢してくれないかなあ・・・」
窪田はしつこくちょっかいを出してくる歌恋に若干手を焼いていた。窪田が酒気帯びでありながら車で帰っているのは、途中、とある場所で酔いを醒ますつもりだったからだ。しかし、歌恋はくすくす笑いながらまた手を伸ばしてきた。
「あ・・・、もうっ、いい加減にしなさいよ」
窪田は叱り口調で言ったが、息を荒げながらでは威厳もへったくれも無い。歌恋は窪田の様子を見てきゃらきゃらと笑った。その時、窪田は男性らしき人影が道路でフラフラしていることに気がついた。窪田はとっさにブレーキを踏んだ。その甲斐あって、彼はその人影を跳ね飛ばすようなことにはならなかったが、ギリギリでぶつかってしまったらしく、軽い衝撃が伝わった。男は数歩後退りをすると、道路に倒れこんだ。
「な、何よお!?」
歌恋は急ブレーキのせいで乱れた髪をかきあげながら文句を言った。
「人を轢いたようだ」
窪田はそう言うとヘッドライトを消しすぐに車を降りて、車の前に倒れた男に近づいた。歌恋も心配になって後を追う。とりあえず窪田は男に声をかけてみた。
「君、大丈夫か?」
しかし、男は路上に仰向けになったまま激しく痙攣をしていた。空は曇り、街灯の光がようやく届く程度の明るさだったが、男の凄まじい表情に、可憐はかすれた悲鳴を上げ窪田にしがみついた。男はうなり声をあげて弓なりに痙攣し、ふっと力が抜けてまた路上に大の字になるとそのまま動かなくなった。死んだ? 馬鹿な! 車はかなり減速しており、致命的な衝突はしていないはずだ。祈るような気持ちで窪田は男の上半身を抱え上げ、心臓に耳を当てた。男の心臓は動いていなかった。
「そ、そんな・・・」
窪田は呆然として言った。たが、雲間から顔を出した月光を浴び浮き上がった男の容貌に驚いて、歌恋が悲鳴を上げた。それを聞いて反射的に男の顔を間近で見た窪田は、さらに驚愕し男を放り出して飛びのいた。男は再び道路に転がり、頭がゴッと嫌な音をたてた。男は苦悶の表情で目をむき、口から血のようなものを吐いていた。口元に黒いものがこびりついており、Tシャツの柄だと思っていたものは、吐物で赤黒く染まったものだった。しかし、それは若干乾きかけており、今の事故のせいではないのは明らかだった。よく見ると、彼の短パンの方も同じように汚れていた。顔には無数の発疹が浮き、鼻や目からも血を流していた。明らかに交通事故とはちがう異常死体である。呆然と立つ窪田に歌恋がしがみつきながら言った。
「課長、逃げましょう。今なら誰も見ていないわ、ね?」
「しかし、このままにしておくわけには・・・」
「このまま警察を呼んでもあたし達が疑われるだけだし、その上飲酒運転で捕まっちゃったら、罰金どころか課長、会社を首になっちゃうかも。第一、あたし達の・・・」
歌恋はそこで口ごもった。窪田の頭の中で一瞬の葛藤があったが、状況を考えると逃げることが妥当なように思えた。それからの窪田の行動は早かった。窪田は遺体の足を持って引きずり道路わきの草むらに隠した。遺体は生え放題になっている草に上手く隠された。それを確認すると窪田は車に飛び乗って歌恋を呼んだ。
「早く乗って!」
歌恋は反射的に車に乗り込んだ。車は一目散にその場から立ち去った。
「ふう」
しばらくして緊張の解けた窪田は、やっとため息をついた。ハンドルを持つ手はまだ震えている。窪田は自分が汗だくになっているのにようやく気がついた。額の汗が流れて目に入りそうになり、慌てて手でそれを拭いた。しかし窪田はその掌を見て驚いた。男を触った時に血が付いていたらしい。はっとして耳を触った。すると、耳たぶにも少し付着しているようだった。窪田は驚いてポケットからハンカチを出して顔と手と耳を拭いた。白いハンカチに赤黒い染みが出来た。窪田はそれを見て気持ち悪くなったが、そのままそのハンカチをポケットにしまい込んだ。
 草むらに隠された遺体、それは、変わり果てた健二であった。病気で動けなかったはずの健二は、熱に浮かされたためか、夢遊病者のように自分の部屋から抜け出していたのだ。夜中だったこともあって、彼は誰にも会うことなく、従って誰にも不審に思われることもなく、道路を歩き事故に遭ったのである。

 そういうこととは夢にも思わない紅美は、健二の行方を心配しながら、刑事に向かって一所懸命に今までの経緯を説明していた。

 

 由利子は午前中を、研究室内にある書籍や雑誌類に目を通すことで過ごした。
 今日の昼食は、由利子が始めて来たということで、紗弥と三人でギルフォードたち行きつけの喫茶店で昼食を取った。BGMにジャズが流れていて、なかなか居心地も良い。由利子はギルフォードに薦められて、そこのお勧めメニューである『Q大のそば』という焼きそばのセットを注文した。豚肉と野菜がたっぷりの焼きそばが、鉄板の皿の上でジュウジュウという景気の良い音をさせながら運ばれてきた。その上には目玉焼きと紅しょうが、そして青海苔がたっぷりとかけられており、その三色が更に彩りを添えていた。特製ソースの美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。一口食べると由利子は言った。
「美味しい! ほんと、美味しいです。頼んでよかった!」
「気に入ってもらえて嬉しいです」ギルフォードは、にこにこ笑って言った。「ここは夕方6時からパブタイムになりますが、夜11時くらいまで開いてますから、気に入ったら今後もご利用くださいね」
「ええ、これから寄らせていただきます」
由利子は笑って言うと、カウンターでこのやり取りを聞いていたこの店のマスターがうやうやしく礼をしながら言った。
「よろしくお願いいたします」
「あ、マスター、この人はシノハラ・ユリコさんです。今度ウチの研究室に・・・」
ギルフォードは、マスターに由利子の紹介をはじめた。

 研究室に戻ると、ギルフォードは紗弥からプリントアウトした数ページ程の書類を受け取り、自分の席に直行して真剣な顔で読みはじめた。彼は一度ざっと目を通すと、今度はもう一度ゆっくりと読み始めた。読みながら時折眉間にしわを寄せたり右手でこめかみあたりを押さえたりしていたが、だんだん顔つきが厳しいものに変化していった。それは、由利子に先週の縦読みメール事件の時を思い出させた。だが、今回はあの時のように怒りを爆発させるようなことはなかった。しかし、それはギルフォードの心の奥に刻まれ、彼にある決心をさせるに充分だった。森の内知事の思惑は成功したのである。
 ギルフォードは由利子を呼んだ。
「ユリコ、ちょっと、また応接セットまで来てくれませんか?」
「はい」
由利子が座ると、ギルフォードも例の書類を持ったまま向かいに座って言った。
「ユリコ、この前ここに来たときお話ししたテロのことは覚えてますか?」
「はい。縦読みの挑戦状、忘れるわけないです」
やはりそのことだったか、と由利子は思いながら答えた。
「それは、誰にも口外していませんね」
「はい、もちろんです」
「OK、ユリコ、いいですか? おそらく、これから僕たちはそれと深くかかわることになると思います。したがって、ユリコ、君にも手伝ってもらうことになると思いますが、良いですか?」
「もちろんです。いえ、やらせてください」
由利子ははっきりと言った。由利子は雅之とも祐一とも直接話したことはない。遠くから顔を見ただけだ。また、この事件についてはさわりを聞いただけで、全体像はある程度把握しているものの、個々についての詳しい情報を聞いているわけではない。しかし、それでも由利子は犯人がテロを「演出」しようとしているような気がして漠然とした怒りを感じていた。それで、ギルフォードの申し出に即決して答えたのだ。 
「そう言ってくれると思っていました。ありがとう、ユリコ。では、これからこのレポートに書いてあることも含めて詳しい経緯をお話します。長くなりますが、聞いてください」
由利子は無言で頷いた。ギルフォードは語った。
「まず、発端はホームレスの異常死体の司法解剖からでした。その後、似たような遺体の司法解剖が行われる際、執刀医である法医学者が前もって僕を呼び寄せ、解剖に立ち合わせました。その時僕はその遺体の真の死因に出血熱を疑いました。その遺体が、アキヤマ・マサユキに暴行死させられたホームレスのヤスダさんでした。ウイルスはヤスダさんからマサユキ君へ、そして彼のお祖母さんのタマエさんに感染し、ご存知のようにマサユキ君は私鉄の電車に飛び込み轢死しました。彼のお祖母さんも前日に亡くなっています。マサユキ君の両親は感染の恐れがあり、念のため感染症対策センターで様子を見ることになりました」
「ちょっと待ってください」
由利子が言った。
「今まで亡くなった方がその未知のウイルスに感染していたという証明は出来たのですか? だって、その正体すらわかっていないのでしょう」
「ウイルス自体が未知でも、ウイルス感染かどうかを調べる方法はあります。そして、彼らが共通して何らかのウイルスに冒されていたということまではわかっているのです」
「わかりました。続けてください」
「ウイルスはマサユキの遺体に触れた母親のミチヨに感染していました。そして、あの縦読み挑戦状メールへと話が繋がります。正体不明のテロリスト・・・ここでは単に『犯人』と呼ぶことにしましょう。犯人は感染症対策センター・・・感対センターからミチヨを連れ出し彼女が持っていた息子の携帯電話を奪いました。例のメールを発信するためです。僕は最初、彼女がセンターから単独で逃亡し、街中に潜む危険を考えていましたが、そのメール事件から、彼女の殺害の可能性も考えました。しかし、彼女は生きていました」
「殺されたんじゃなかったんですね」
「そうです。犯人の本当の目的は、携帯電話などではなく、ミチヨをばら撒き屋に仕立てることだったのです。これは、感染者が街中に潜んでいるよりまずいことです。感染者にウイルスを広める意志があるのですから。そして、愚かにも彼女はそれを承諾しました。しかし、彼女はユウイチ君を恨んでいました。ユウイチ君は、マサユキ君のホームレス狩りを止めようとして事件に巻き込まれました。幸い彼はウイルス感染を免れましたが、そのせいで母親のミチヨから恨まれることになったのです。それで、ミチヨはユウイチ君をおびき出して復讐しようと考え、彼の妹を利用して彼を公園・・・、マサユキ君がホームレスを殺害した公園に誘い出しました。それを知った彼の友人が僕に連絡をしてきたので、僕はジュンの電話番号を教え、僕たちも急いでバイクで現場に向かいました。それが月曜日、一昨日(おととい)のことです」
「一昨日? そんなことがあったんですか」
「ジュンは先輩であり相棒のタミヤマ刑事と少年課の女性警官との3人で急遽現場に向かいました。その時のことをジュンが調書にまとめたのがこの書類です。僕が現場に行った時はすでに全てが終わっていましたが現場が取り込んでいたので、何が起こっていたのか詳しいことを聞く余裕がありませんでした。しかし、これを読んでほぼ全貌がつかめました。敵さんはミチヨに息子の細胞で増殖したウイルスは息子の遺伝子を持っているといかにも息子の一部が生きているような錯覚をおこさせて、彼女にウイルス拡散を命じたのでしょう。それは子どもを亡くしたばかりの女性を惑わすには充分だったでしょう。少なくとも彼女の話からはそれを実行したことが伺えます」
「では、雅之君のお母さんが接触したらしい人たちを探し出さないとまずいのでは・・・」
「そうです。でも、彼女が死んだ今となっては、糸口が全くつかめないのです。まさか、今の段階で公開捜査をすることも出来ませんし・・・」
「え? 亡くなられたんですか」
「はい。ミチヨはユウイチ君殺害を目的として彼を公園に誘ったわけではなかったのです。彼女は彼を感染させて息子と同じ目に遭わせるため、彼に自らの血液を浴びせようとして、自害しました。しかし、それを見抜いていたタミヤマ刑事に阻止され、子どもたちは直接それを浴びずにすみました。しかし、タミヤマ刑事がその身代わりとなってしまい、今、センターに隔離され様子を見ているところです。これは、ジュンの書いたその事件のレポートです。僕が説明するより読んだほうが早いでしょう。ジュンのレポートは緻密でわかりやすいですから」
ギルフォードは由利子に葛西作成の調書のコピーを渡した。由利子は真剣にそれを読んでいたが、読み終えるとギルフォードに向かって言った。
「そんな大変なことが起きているなんて知りませんでした。何でこの事件がニュースにならなかったんですか? 少なくともローカルニュースになる程度のインパクトはあると思うんだけど」
「おそらく、用心のために報道を規制したのだと思います」
「それってまずいんじゃ・・・」
「まずいです。でも、今の段階では仕方がないのでしょう」
「葛西君、落ち込んでるんじゃないですか」
「ええ、かなり。今度会ったら元気付けてあげてください」
「会ったらですね。・・・ところでこれを読んで思ったんですが、美千代さんが言ったことから犯人についての手がかりがいくつかありますね」
「ほお。で、それは?」
「まず、犯人は1人ではなくある程度組織立った団体ということです。そして、美千代さんが『あの方』と呼んでいた人、その人は多分、その団体の中でも主犯あるいは主犯に近い人物ですよね。そして、その人はナントカ『イ』様と呼ばれています。なんか他所の国の人の名前みたいにも思えますが、彼らが何処かの国に属するものなのか、宗教団体か、極右あるいは極左団体なのかわかりませんが、一般女性が関わりやすいものと考えると、私は宗教団体ではないかと思います。美千代さんは多分、その団体と元々関わりがあったんです。だから犯人達も彼女を利用しやすかった。それに、いくら子どもを失ってまともな精神状態ではなかったとはいえ、初めて出会った人の言葉をいとも簡単に信じるのは不自然です。また、先の方で、美千代さんは『あそこに行かなければ』と言ってます。多分、『あそこ』というのはその宗教団体を指すのではないですか」
「良い推理です、ユリコ。宗教団体がテロを行うことは珍しくありません。その多くは爆弾テロですけど、カルト宗教団体がバイオテロを行った事例は、十数年前のO教団や、この前例にあげたラジニーシ教団の例があります」
「え? O教団はサリンテロだけじゃなくてバイオテロもやってたんですか?」
「はい。ボツリヌス毒素や炭疽菌でテロを起こそうとしました。しかし、バイオテロの方は不成功に終わったので、日本ではあまり取り上げられていませんが、アメリカではこの事実を重く受け取って、バイオテロ対策を強化しました。まあ、その頃の大統領が、テロ対策を重視していたクリントンだったってこともありますけど」
「そうだったんですか」
「はい。そう考えて、僕も該当しそうな新興宗教団体を探してみました。しかし、どれもこれといった決め手がありません。そもそも、バイオテロを行う動機が見つからないんです」
「動機ですか・・・」
「そうです。宗教団体が殺人ウイルスをばら撒いて何の得があるのか、僕にはさっぱりわかりません」
「あの、病原体を培養するためには、それなりの施設が要るんじゃないですか? それを探せば・・・」
「その点が宗教がらみだと難しいのです。宗教施設の場合は、よほど犯罪の証拠が無い限り、手をだすことが難しいんです。O教団の時もそれが捜査に当たって重大な障害になったといいます。彼らがかなり大掛かりなプラントを持っていたにも関わらず、です」
「はあ、困ったものですねえ」
「ホントに。宗教は厄介です」
ギルフォードは、肩をすくめて言うと続けた。
「他にも解決しなければいけない謎があります。先ず、指針症例であるホームレスがどのようにしてウイルスに感染させられたかという、根本的な問題があります。ウイルスはいつどこでどのようにして仕掛けられたのか。そして、それは何箇所に仕掛けられたのか。そして、犯人達の目的と要求。これを知ることが出来ないと、このテロ事件の輪郭がはっきりしません」
「そうですね。ところで・・・」
由利子は、前から気になっていたことを聞いてみることにした。葛西が雅之の祖母のことで言葉を濁し、言いたがらなかったあの件である。
「葛西君が言いかかったことなのですが、雅之君のお祖母さんのことで何か恐ろしいことがあったとか。葛西君ってば、言いかけたくせに、悪夢だからって教えてくれなかったんです」
「ああ、マサユキ君のお祖母さんの・・・。えっと、それは・・・僕の口からは説明し難いな・・・」
ギルフォードは口ごもった。
「ええ? アレクまで? どして?」
由利子は少し驚いて言った。ギルフォードは少し黙っていたが、重い口を開いた。
「それは、秋山雅之の祖母である秋山珠江の遺体の状態のことです。彼女の遺体は、夥しい蟲・・・たちに食い荒らされていたのです。そして、その約一週間後、その蟲らしきものが大量死しているのが見つかりました」
「遺体を食べた虫たちが全部死んじゃったってことですか?」
「それはわかりません」
「でも、一体どうして・・・」
「遺体がある種の昆虫を引き寄せるにおいを出していたらしいのです」
「ある種の昆虫って?」
「そ、それは、えっとですね」
「ゴキブリですわ」
横から紗弥が間髪いれずに言った。
「ゴキブリ!! これまたよりによって嫌な虫が・・・」
由利子は流石にゾッとして言った。
「そうでしょう。僕にとっては死ぬより辛いですよ。遺体をあんなモノに食われるなんて、死んでも死にきれません」
と、ギルフォードは得も言われぬ表情をしていった。
「ひょっとして・・・」由利子はギルフォードに言った。「ゴキブリ、苦手なんですか?」
由利子の質問に固まったギルフォードの代わりに紗弥が答えた。
「そのようですわ。しかも、名前を口にすることすら出来ないくらいに」
「やだ、カワイイ~!」
「でしょ?」
由利子と紗弥は二人してギルフォードの顔を見ると、ケラケラと笑った。
「だって、本当に大っキライなんだもん。そんな笑わなくてもい~じゃん」
ギルフォードはまたいじけモードで口をとがらせながら言った。

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1.侵蝕Ⅰ (5)親子刑事(デカ)

 室内で黒い血の染みを残して学生が失踪した事件を受け、数人のC野署員が聞き込みをはじめた。事件性を考え中山・宮田両刑事もそれにかり出されていた。
「それにしても、失踪した森田健二という学生ですが、友人達にもご近所にも評判悪いですね。通報者と数名の女性以外誰も心配していないし」
後輩の宮田が言うと、中山がすこし馬鹿にしたような口調で言った。
「まあ、よくいる甘やかされたクソガキやろ。金を払えば卒業できる大学で親の金で4年間遊び放題だ。それで卒業したらいっぱしの大学出の学士様だ、ヘッ。ヤツの部屋を見たろ。学生の分際で2DKのマンションに1人暮らしって、ふざけるな、だよ」
「うらやましいですね」
「おお、オレの学生時代なんか農家の納屋の2階を月1万で借りて、夏は暑いわ臭いわでカノジョも・・・、って、そんなことはどうでもいい」
「失礼しました」と、言いながら、宮田は(自分からノッたくせに)と思いつつ話の軌道を戻した。
「で、その彼ですが、女癖が悪くてしょっちゅう北山紅美とケンカしていたらしいですが、ひょっとして・・・」
「まさか。自分で殺しとって通報するとはあまり思えんがな。女の手で死体を隠すのも大変やろ。ま、絶対にありえないとは言い切れんが、彼女と話した限りでは、不審な点はなかったと思うぞ」
「まあ、そうですけど、なんか不自然な失踪だな、と思って。そもそも動けないほどの症状だった男が、家を出ることが出来たことが不思議です」
「それは、北山紅美が最初疑ったように狂言やった可能性もあるし、何者かに拉致されたって事もある。それにしても、何となく気持ち悪いシロモノやったなあ。あのベッドの染みは・・・!」
中山は、思い出して少し身震いしながら言った。
「な~んか、俺のカンが危険信号を発しているんだよなあ」
(また、中山さんの悪いクセが始まった・・・)
宮田は、内心ゲンナリしながら言った。
「とにかく、聞き込みを続けましょう。何か手がかりを見つけないことには・・・」
早く解決しないと、またしばらく家に帰れなくなってしまう・・・と、宮田は心の中で付け加えた。しかし、中山の野生のカンは少なくとも外れてはいなかった。

 田村勝太は、下校時、電車を降り、商店街をぶらぶらしていたところで若い女性に声をかけられた。
 勝太は雅之の事故死の後、3日ほど病院に入院していた。表向きは、目の前で友人が事故死するのを見てしまった心のケアだったが、もちろん感染を疑ってのことで、心のケアもされていたが、実のところ感染症対策センターで半隔離状態にあった。しかし、雅之が彼の間近で轢かれたわけではなく、朝ちょっと出会っただけで遺体にも触れていないということで、隔離自体を疑問視され、入院は3日に短縮された。もちろん勝太は強いショックを受けていた。病院では専門の医師のカウンセリングも受けていたが、勝太の心の傷は自分が想像している以上に深かったらしい。退院してから近所のクリニックに通うこととなったが、一向にやる気が出ない。以前のように友人達と騒ぐ気にもなれない。友人達も気を遣って彼に声をかけられない。祐一とまさに同じ状態に陥っていた。そんな時、勝太は知らない人に声をかけられ、無気力に振り向いた。そこには、20代の、妙に垢抜けた、綺麗な女性が立っていた。スタイルも良く、特に胸の大きさは圧巻であった。その上胸元が大きくV字に開いた黒いTシャツを着ている。流石に勝太は目のやり場に困り、どぎまぎしながら答えた。
「あの・・・、何ですか?」
「田村勝太君ね?」
「は、はい」
答えた後、勝太はしまったと思ったが遅かった。
「あのね、聞きたいことがあるの。そこの喫茶店でちょっとお話しない?」
「あの、おれ、まだ中学生ッスから、商品とか買えないッスから。宗教も間に合ってます」
勝太はそう答えると、女に背を向けその場からそそくさと去ろうとした。そこに女がまた声をかけた。
「聞きたいのは秋山雅之君のことよ」
勝太は、ぎょっとして振り向いた。
「雅之のこと?」
「そう。あなた、彼の死について、疑問とか持たなかった?」
勝太は、胡散臭そうな目で女を見ると、言った。
「わかりました。ちょっとの間ならお付き合いします。でも、おれは、よく知らないし、思い出したくないんですけど」
「ゴメンネ。驕るからさ」
女は、勝太の背に手を添えると、すぐそこにあった小ぢんまりとした喫茶店に向かった。
 その女は真樹村極美だった。例の公園での一件に遭遇した後、長沼間らに捕まり写真を消去されたが、その前にメールに添付して送っていた写真3枚のうち1枚を編集長に見せ、見事に取材許可をもらった。取材費もたっぷり振り込まれて、極美はやる気満々だった。そして、まず、彩夏の制服から祐一たちの学校を突き止め、祐一の友人である雅之の事故について知ったのである。それから公園で問題を起こした女性が雅之の母であるらしいこと、祖母も雅之の前日になくなっていること、それを発見した近所の人たちがとんでもないものを見たらしいということ等、祐一と雅之の家の近所の人たちに取材してすぐに得ることが出来た。どの人も秋山家に連続して起こった不幸に興味を持っていたからだ。もちろん、半分以上がウワサや憶測の類ではあったが。極美はとりあえず、珠江の遺体発見者たちに話を聞こうとしたが、口をそろえて「思い出したくない」と言って、誰一人そのことを語ろうとしなかった。そんな時、雅之の死に立ち会った友人がいることを、祐一の学校の生徒から聞き出し、関係者の中で一番弱そうな勝太をまずターゲットにしてみたのだ。
「で、お話ってなんですか」
勝太は、目の前のケーキセットに手をつけず、緊張気味に言った。
「ま、先に食べてよ。せっかく頼んだんだからさあ」
極美はにっこり営業用スマイルを浮かべながら、先ず、彼にケーキを食べることを勧め、自分も食べ始めた。この前までギリギリの予算でやりくりしていたので、このように間食を取るなんて久しぶりだった。勝太は極美が美味しそうに食べ始めたので、つられてケーキに手を伸ばした。一口食べると、急におなかが空いてきて、あっという間に小さいケーキはなくなりカップのコーヒーも空になった。極美は目を丸くして言った。
「あらぁ、やっぱ若いわね。お代わりいる?」
聞かれて勝太はぶんぶんと首を横に振った。我に返って周りを見ると、勝太と極美の奇妙な組み合わせに皆から注目されている。こんなとこ、かあちゃんに見つかったらどやされてしまう・・・。勝太は早く用件を済ませたいと思って再び尋ねた。
「あの、で、お話は・・・」
「そうそう。お友だちの雅之君ね、彼について何か知ってること教えてよ。死ぬ間際、なんか変じゃあなかった?」
「確かに、あの日雅之は、急に何かに怯えだして・・・」
そこまで言うと、勝太は顔を歪めた。
「やっぱだめだ・・・」
「え?」
「ごめんなさい。そのことについては、今は、やっぱ辛いのでお話できません。わかってください。思い出すことすら苦しいんです。そのせいで、今、病院に通っているくらいなんです」
「そう、わかったわ・・・」
極美は、一瞬理解したようなそぶりを見せた。
「でも、私ね、あなたの学校の子から雅之君が人を殺したんじゃないか、そのせいで自殺したんじゃないかって話聞いちゃったの。で、祐一君だっけ? 彼、その場にいたんでしょ」
「おれ、あれ以来ずっと西原君とは会ってませんから、そこらへんは全く知らないんです。昨日からまた休んでるし。また何かあったんやろうか・・・」
(その現場をあたしは見ちゃったのよ)極美は心の中で言った。(だから、あたしはそれまでの過程を知りたいの)
極美はその時のことを回想してみた。と、その時、あることが引っかかっていたことに気がついた。何故、あそこに1人だけ外国人が居たの?
「わかったわ。とりあえず今回は諦める。でも、何か話したくなったら電話して」
そう言いながら、極美は名刺を渡した。念のため雑誌の営業用は避け、プライベートに作っている名刺にしておいた。極美は立ち上がると勝太に名刺を渡しながら、上半身をテーブル越しに勝太に近づけ、肩にそっと手を置いた。勝太の目の前に胸の谷間が迫ってきた。
(うわあ・・・)勝太は心の中で言い、真っ赤になりながら名刺を受け取った。極美はここぞとばかり、勝太の顔のすぐ傍で尋ねてみた。
「雅之君が亡くなった頃、大きい外国人の男が君に関わってこなかった?」
「が・外国人・・・?」
勝太は言葉につまりながら続けた。
「そういえば・・・、おれが病院に連れて行かれたとき、外国人の教授とか言う人から質問をされました。でも、おれ、その時全然ショックから立ち直っていなかったので、ろくに答えられなくて・・・。そしたら、彼は、また落ち着いてからお話を聞かせてください、とか言って、去って行きました」
(ビンゴ!)と極美は思いながら、椅子に座りなおすと聞いた。
「その病院はなんていうの?」
「F市内の、県立病院IMCとかいう名前でした。おれは3日間そこでケアを受けて退院しました」
「アイエムシー? カタカナ?」
「アルファベットでした」
「変な名前ね」
「ええ、なんか特別な病院のような気がしました」
「そう。ありがとう。参考になったわ」
「もう帰っていいですか?」
と、勝太は周りを気にしながら言った。極美はまた営業用スマイルを見せて言った。
「ええ、今日はどうもありがとう。約束どおりここは驕りだから、支払いは気にしなくていいわ」
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
勝太は立ち上がると、極美に一礼してそそくさとその場から去って行った。店から出ると、勝太はほうっとため息をつき、首を盛んにかしげながら歩き始めた。歩きながら勝太はふと不安になった。
(いらんことを話してないよな、おれ・・・)
しかし、過ぎてしまったことは仕方がない。勝太は手に持った名刺を一瞥し、そのまま無造作に財布にしまった。
 喫茶店に1人残された極美は、ついでにそこで夕食をとることにした。メニューをもらって注文すると、さっき、メモしたノートを見ながらつぶやいた。
「この外人の男。こいつがなんか怪しいわね」
極美は、『白人(教授)』『IMC』と走り書きした文字を赤ペンで丸く囲んだ。
(あの時の警官達の装備・・・、考えられるのは、毒ガスか細菌・・・。放射能漏れは多分ないわね。毒ガスならば、あの時あそこに防護服なしが数人いたし、それに嫌なにおいも刺激も無かったわ。では、毒ガスもなしよね。残るは、細菌・・・?)
極美は、ノートに赤ペンで細菌と書くと、二重丸で囲った。
(そうよ、伝染病なら、秋山雅之と彼の祖母、そして母が、続けて死んだことと辻褄が合う!! もし、そうなら、これはすごいスクープだわ)
極美は自分がわくわくしているのを感じた。その時、頼んだ定食が運ばれてきた。極美は、とりあえずノートをバッグにしまうと、定食に向かいペンを箸に持ち替えた。

 ギルフォードは、夕方から多美山の病室に様子を見に現れた。多美山はすでに夕食を終え、サイドデスクで本を読んでいた。今日はテレビはつけておらず、代わりに病室備え付けのラジオをかけていた。見た目は元気そうだった。しかし、まだ事件から3日と経っていない。予断は許されない状態である。容態を聞くと、身体の方は健康そのもので検査の結果も今のところさして問題もないと告げられているようだった。
「ばってん、指のキズがなかなか塞がらんとですよ。まあ、もともと最近は傷の治りが遅くなっとりましたけどね。歳のせいでしょうな」
「そうですね。そう言えば僕も、昔に比べて傷跡がなかなか消えなくなってしまいましたよ」
ギルフォードはにっこり笑いながらそう相槌を打ったが、内心不安を感じていた。傷の治りの速さ自体は個人差や年齢の違いで当然違ってくる。しかし、ギルフォードが多美山の検査結果に目を通したところ、昨日は怪我のせいで増えていた白血球の値が、若干減っていたのだ。もちろん充分規定値内だったが、白血球の減少はウイルス感染に多く見られる。それを考えると傷の治りの遅さが気になった。それでギルフォードが少し考え込んでいると、多美山が声をかけた。
「そういえば、先生、ジュンペイの調書を読まれたそうですが・・・」
「はい」
「どうでしたか? お役に立てそうですか?」
「はい、とてもわかりやすく要点をまとめてありました。僕の学生でしたら優をあげてもいいくらいです」
「ははは、褒めすぎですよ、先生。調子に乗ったらイカンので、ジュンペイ本人に向かってはあまり褒めんでください」
口ではそう言いながら、多美山は嬉しそうだった。ギルフォードは昨日の多美山のお願いについて、疑問があったので聞いてみることにした。
「明日、ジュン・・・カサイさんをお誘いする件ですが、タミヤマさん、他になにか頼みたいんじゃないですか?」
「ああ、お見通しですな。実は、鈴木からジュンペイを、今度県警本部に設置されるテロの対策本部に移動させるという話を聞きまして・・・。私の気持ちはそんな危険なところへは行かせたくなかとですが、先生が顧問になられるということで、少し安心したとです」
「え? カサイさんがタスクフォース・・・対策本部に来られるのですか?」
ギルフォードは、内心嬉しいと思ったが、もちろん顔には出さない。
「多分そうなると思います。上の決定には逆らえんですから。」
「そうですか。実を言うと、最初僕は顧問の件を断るつもりでした。外国人の僕が出しゃばるのは良くないと思ったからです。でも、カサイさんのレポートを読んで気が変わりました。まだ正式な返事はしていませんが」
「顧問を引き受けてくださるとですね」
「はい。でも、タミヤマさんのご心配はわかりますよ」
「あいつはああ見えて時々無茶をやりよります。今回も、私が矢面に立たねば、あいつが美千代の前に飛び出しとったでしょう。先生、あいつにバイオテロや病原体のことを徹底的に教えて、無茶をせんごと釘を刺しとってください。あいつには、私のような目にあって欲しくないとです」
多美山はギルフォードに向かって真剣に言った。
「わかりました」ギルフォードは答えた。「明日、頃合を見てそこらへんをカサイさんにレクチャーしてみましょう。ユリコも来ますから、課外授業みたいでいいですね」
「よろしくお願いします」
多美山は頭を下げながら言った。その後、二人は他愛ない世間話をしていたが、しばらくするとノックの音がして葛西が現れた。
「多美さん、こんばんは~。お見舞いのお花を持って来れないのは困りますね・・・。あれえ、アレクも来てたんですか」
葛西はギルフォードの姿に気がついて言った。ギルフォードは葛西を見てニコッと笑いなから言った。もっとも、その笑顔は肝心な部分がマスクに半分隠れてしまっていたが。
「ジュン、こんばんは。なかなかその格好が板についてきましたね」
「そうですかぁ? 僕には怪しい人にしか見えないんですけど」
「ジュンペイ、これからそう言う格好をすることが増えるんやから、早う慣れんとイカンぞ」
多美山は葛西に言った。口調は厳しいが表情は心なしか心配げだ。
「了解。でも嫌だなあ、これから暑くなると思うと・・・。今でも充分に暑いのに」
「まあ、ある程度慣れますから。それよりも呼吸の方が大変かもしれませんよ」
「もう、頼むから脅かさないで下さいよお・・・」
あなりにも情けない声で葛西が言うので、多美山とギルフォードが吹き出した。
「笑わないで下さい。僕にとっては深刻な問題なんです」
「失礼しました。ところでジュン、明日休みなんですってね。じゃ、僕たちと少しおつきあいして下さいませんか?」
「え?」
それを聞いて葛西が固まった。そしてしどろもどろに答えた。
「おつきあいって・・・その・・・、それに、僕たちって・・・」
その様子にギルフォードはまた吹き出して言った。
「僕と僕の研究室の人ですよ。まあ、他にも増えるかもしれませんが」
「でも、明日は多美さんと一緒に過ごそうと思ってたんですが・・・」
葛西は多美山の方を見ながら助け船を求めた。しかし、言い出しっぺは多美山である。
「ジュンペイ、俺は大丈夫やけん、行って来んね。ついでにK神社のお守りを買うてきてくれ」
と、行かせる気満々である。葛西は、しかし、お守りという言葉に反応した。
「お守りって、多美さん、本当は不安なんじゃないですか?」
「そりゃあ、不安さ。なんせ、感染者が目の前で死んだとやからな」多美山は躊躇無く言った。「でもな、おまえからお守りをもらったら、元気になりそうな気がしてな」
「そうですかあ?」
「そうたい。ばってん、学業祈願や恋愛成就のお守りは要らんぞ」
「あはは、わかりました、多美さん。じゃ、明日はギルフォード教授にお付き合いいたしましょう」
葛西は仕方なく言ったが、相変わらず乗り気ではなさそうだ。
「ありがとう、ジュン」
ギルフォードはそう言うと、葛西の手を取って握手しながら言った。
「ではタネ明かしです。僕の研究室の人ってユリコのことですよ」
「あ、そうなんですか」葛西の顔が少し明るくなった。「良かった。知らない人と一緒は嫌だなあって思ってたんです」
「意外と人見知りなんですねえ」
「それはともかく、そろそろ手を離してくれませんか?」
「あ、失礼しました。手袋越しなので握手してる気がしなくって」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです」
ギルフォードは、またにっこり笑って答えたが、やはりいまいち笑顔が発揮出来ない。それを見て多美山が言った。
「先生、その装備じゃ、コミュニケーションをとるのが大変そうですなあ」
「はい、困ったものです」
ギルフォードはあっさりと答えた。ギルフォードの握手から解放された葛西は、多美山にようやく一番気になる質問をした。
「ところで多美さん、具合はどうですか?」
「おお、全く異常なかけん、自分でも驚いとるったい」
「そうですか、良かった~」
「やけん、明日は安心して行って来んね」
「わかりました、行ってきます」
葛西はそう答えると、ぼそりと口の中で言った。
「なんか、うまく丸め込まれたような気がするなあ・・・」
 その後、3人はしばらく雑談をしていたが、先に葛西が仕事が残っているからと、K署に帰って行った。帰り際に明日の集合場所を決めた。葛西は朝、先に多美山の見舞いをしたいというので、10時に感対センターの駐車場に集合ということになった。
「いい子ですねえ」
葛西が部屋を出て行ったあと、ギルフォードは言った。「本当にタミヤマさんが大好きで心配してるんですね、カサイさんは。まるで親子みたいですよ」
「あいつの父親も刑事で、あいつが小さい頃殉職しとるとですよ。私に父親のイメージを被らせとるのかもしれんです。良いことなのか悪いことなのか・・・」
「良いことに決まってますよ。パートナーを組む場合、信頼関係にあることが一番ですから」
「そうですな・・・」
と多美山は満足そうに言ったが、その後急に立ち上がるとギルフォードに対して頭を下げながら言った。
「ギルフォード先生、申し訳ありませんが、実は最初、あなたのことを誤解しとりました」
「胡散臭いガイジンだと思ってました?」
「ははは、正直、先生が署に出入りされるのが不満でした。何となく、その・・・、態度がでかいというか、上目線でしたし・・・」
「僕は本質的に警察が嫌いなんで・・・、まあ、過去にいろいろあったので・・・そのせいで態度が悪かったのかもしれませんね」
「あの時、救急車の中に先生が入って来られた時、内心驚いてました。状況からして、来てくれるとは思ってもいませんでしたから」
「ヨシオ君からの電話を受けて、じっとしていられなくて・・・」
ギルフォードは照れ笑いをしながら言った。
「今は、あなたが信頼をおける方だということがわかります。先生、実のところ、私はどうなるかわかりませんし、純平は私から離れて危険な任務につきます。私の代わりにジュンペイ、いえ、葛西刑事をよろしくお願いいたします」
そういうと、多美山はまた頭を下げた。ギルフォードは、焦って言った。
「タミヤマさん、そんな、気の弱いことを言わないでください。それに、カサイさんは見かけよりずっとしっかりしていますよ。心配なさらずとも大丈夫です。もちろん、僕もいろいろフォローはしますから」
「ありがとうございます。・・・それにしても、こんな状況におかれると、やっぱり気が弱くなりますなあ」
多美山は笑って言った。

 ギルフォードも去り、室内がまた寂しくなった。
「ふふ、女房が死んでから、ひとりは慣れとったつもりやったばってん、やっぱり寂しかな・・・」
多美山は、つぶやきながらラジオを切って、葛西が持ってきてくれたテレビの電源を入れた。点けた瞬間、画面がいきなりキラキラと眩しく輝いたので、多美山は眉間にしわを寄せ、目を閉じた。それを見た瞬間眼の奥が疼くのを感じたからだ。しかし、それは一瞬だった。画面を再度見ると、何処かの美術館で今行われている、某国の秘宝展を、情報バラエティ番組が特集しているらしいことがわかった。綺麗、欲しいと言いながら、かまびすしくはしゃぐレポーターの女性芸人の声が、病室に響いた。多美山は、一瞬のことだったし、急に明るい画面を見たせいだろうと考え、よくあることと、彼はその傷みを特に気に留めることはなかった。今映っている番組がお気に召さなかったのか、多美山はチャンネルをNNKに変えた。ちょうど7時のニュースの時間だった。
「浮世は相変わらずか・・・」
多美山は、次々に伝えられるニュースを見ながらつぶやいた。

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2.侵食Ⅰ 【幕間2】帰り道

 小波瑞絵(みずえ)は2人の友人と、薄暗くなった住宅街の中の道をとぼとぼと歩いていた。3人とも黒を基調とした服を着ていた。彼女らは、友人の通夜から帰るところだった。
「ねえ、明日のお葬式、どうしよう。やっぱ、行かんといかんかなあ」
友人の永久保香津美(かつみ)が残りの二人に向かって言った。瑞絵は、少し驚いて友人の顔を見ながら言った。
「何言うとぉと。そりゃあ、行かんと・・・」
「うん、そうだけど、なんか・・・う~~~ん、・・・ほんとに杏奈が死んじゃったってのを実感したくないっていうか・・・」
「うん、わかるよ。だけど、友だちだもん。ちゃんと送ってやろうよ」
と、谷川真緒が諭す様に言った。
「うん、そうだよね。・・・なんでやろう。まだ17歳なのに連れて行っちゃうなんて、神様はひどいよ」
そう言いながら香津美はまた泣き始めた。後の二人の涙腺もつられて緩んだ。3人は歩きながらポロポロ涙をこぼした。3人はクラスメートの沢村杏奈の急死に、一様にショックを受けていた。彼女らは4人で今度の土日を利用して、好きなバンドのライブのために東京に行く予定だった。
「ライブどうしよう。こんな気持ちで行っても楽しめないよね」
香津美が泣きながら言うと、瑞絵はキッと正面を向き、涙を拭きながら言った。
「私は行くよっ。だって、杏奈は楽しみにしてたんだもん。杏奈と一緒に行くよ。杏奈の写真持って会場に入るんだ!」
「そ、そうだよね」
二人は同意した。
「でも、何でやろう。杏奈、全然元気やったのに、急に高熱で倒れて、5日間も苦しんで死んじゃったなんて・・・」
瑞絵は、時折流れる涙を拭いてはいたが、仲間内ではしっかりとした口調で言った。
「検査しても原因がわからんで、薬もほとんど効かんかったって・・・。最後には血を吐いて死んだって・・・」
真緒がそれを聞いて驚いて言った。
「検査しても原因がわからないって、そんな病気ってあるの?」
「知らんけど、そりゃあ、いろんな病気があるやろ」
「えっ、そうなの? 病院に行ったらなんでも治るかと思ってた」
と、真緒は、信じられないというような顔をして言った。
「世の中には、お医者さんでも治せない病気のほうが多いんだって。風邪だってそのひとつで、病院に行ったから治るっちゃなくて、ホントは自力で自然に治っとるって」
と、瑞絵は知ったような顔をして言ったが、これは、医大に通う兄の受け売りである。
「じゃあ、お医者さん要らなくない?」
「バカやね。治る病気もあるんやし、じゃなくても熱をさましたり、点滴したりがないと困るやろ。他にも、怪我した時とか、それから、手術をしたりさあ」
「それもそうだね」真緒は納得した。「じゃあ、きっと杏奈は風邪が治らなかったから死んだんだね。怖いね・・・」
真緒が言うと、二人は黙ってしまった。これ以上説明するのが面倒くさくなってしまったからだ。だが、真緒の言ったことの半分は正解だった。一瞬の沈黙を瑞絵が破って言った。
「それにしても・・・、お棺の中のご遺体に会わせてもらえないなんて、一体、どんな状態やったっちゃろ・・・」
そういえばそうだ・・・と、少女達は顔を見合わせた。そしてまた沈黙。だが今度の沈黙は少し長かった。彼らは無言で歩いた。
「そういえば、杏奈さ」
香津美が思い出したように言った。
「先週ちょっと落ち込んどったやろ? 火曜あたりやったっけ」
「ああ、なんか、遅刻して来た時やね。中学生男子が電車に轢かれたのを間近で見たとか言って」
瑞絵も、それを思い出して言うと、香津美もそれからさらに記憶が甦った。
「そうそう、それで気分が悪くてお昼も食べれんで、結局午後から早退したっちゃんね」
「そういえば、その子の血が近くに飛んできたとか言ってたよ~。思い出した~。気持ち悪いよぉ」
真緒も記憶を呼び覚ましたらしく、両手を組んで寒そうに自分の二の腕をさすりながらさらに言った。
「やだ、その子のタタリじゃないの?」
「やめてよ、そんな非科学的なこと言うとは!!」瑞絵は真緒に本気で怒りながら言った。
「タタリなんてありえんやろ! 第一、亡くなった子に悪いやろ? 杏奈は病気で死んだの。原因は不明で病院で調査中。今わかっとるのはそれだけ」
「ごめんなさい・・・」
瑞絵の剣幕に、真緒はしょぼんとして言った。瑞絵は言いすぎたと思って、急いで真緒に言った。
「こっちこそ、怒ってごめんね」
「まあ、この話はもうやめようよ。杏奈もきっと楽しい思い出話とか聞きたいって思っとぉよ」
微妙なこの空気をなんとかしようと、香津美が話題を変えることを提案した。
「そうやね」
二人は同意し、思い出を話始めた。しかし、最初は笑っていても、その思い出が楽しいほどその杏奈がもういないと思うと、悲しさがこみ上げてくる。瑞絵が言った。
「いい子やったよねえ。ちょっとドジやったけど、優しくて友達思いで・・・」
「すっごい不器用なのに、いっしょうけんめいで、絶対にあきらめなかったもんね。でも、やっと出来たら料理もマフラーも、とんでもないことになってて」
香津美がクスクス笑いながら言った。しかし、その顔は半泣きである。真緒が続けて言った。
「そうそう、何で、マフラーがこんなことにって感じ? それで、バレンタインにあげるって編んでたのに、4本編んでお揃いだってあたし達にくれたんだよね。絶対にあれ、本命にあげるつもりで編んだ失敗作だよ。本命には結局買ったマフラーあげてたもん」
「どうするよ、これ、って思ったけど、捨てるに捨てられなくて、箪笥にしまったままやったけど、形見になっちゃったね、あれ・・・」
と瑞絵。
「杏奈のバカぁ・・・何で死んじゃったのよぉ・・・」
真緒が、我慢出来ずにうわあんと泣き出した。一人が泣くと、もう、残りの二人も耐えられなくなった。三人は住宅街の真ん中で、抱き合って友の名を呼びながら、わあわあ泣き始めた。

(「第2部 第1章 侵蝕Ⅰ」 終わり)   

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2.侵蝕Ⅱ (1)インターバル

20XX年6月13日(木)

 由利子は、今日もいつもどおりの時間に目が覚めた。「休暇中」とはいえ、身体のリズムを狂わせないように心がけていた。
 窓を開けると、久しぶりに爽やかな晴天であった。いつもどおりジョギングをしてから、さっとシャワーを浴び、自分と猫達の朝食を作る。しかし、今日はもうひとつやることがあった。久々のお出かけということで、弁当を作ることにしたのだ。もちろん弁当は日ごろから作って会社に持っていっていたが、今日のは数年ぶりに作る行楽弁当だ。昨日の夜、ギルフォードから明日の連絡が入り、10時半ごろマンションの下まで迎えに来るということを伝えられた。その時につい、お弁当を作って行きますね、と、調子よく言ってしまったからだ。するとギルフォードが、じゃあ、僕もスペシャルサンドウィッチを作ってきますね、と言ったので、じゃ、みんなで持ち寄って食べましょう、と言うことになったのである。とはいえ、何となくアレクには負けたくなかったので、久しぶりに張り切って弁当を作った。なんか、子どもの頃の遠足の当日のようなワクワク感があった。それに、もう一人って誰だろう? 紗弥さんかしら? 猫たちは、いつものカリカリの他に、鶏のから揚げの味のついてない部分をほぐしたのを少しもらって、大喜びだ。 

 約束の時間が近づいてきたので、由利子は出かけることにした。例の如く玄関までお見送りに来た猫たちの頭を撫でると、「お留守番を頼むね」と声をかけ、部屋を出た。
 エントランスの前に立って、キョロキョロしていたら、短いクラクションが鳴った。音のした方向を見ると、黒いワゴン車の窓から、今は見慣れた顔が笑いながら手を振っている。由利子は走って車の方に向かった。
「おはようございます、アレク。いい天気で良かったですね」
「おはよう、ユリコ。そうですね。でも、これでは、日中は暑すぎるかも知れませんね。帽子を被ってきて正解ですよ。その帽子、よく似合ってます」
流石に欧米人だけあって、褒めるのに隙がない。由利子はお気に入りの綺麗な水色の帽子を褒められて、気をよくした。すると、運転席の男が声をかけてきた。
「おはようございます、由利子さん」
「葛西君!」
「どうも、早速『葛西君』と呼んでいただきまして・・・」
葛西は照れくさそうに後頭部を掻きながら言った。
「もう一人って、葛西君だったのか。な~んだ」
由利子が少しがっかりして言うと、葛西はしゅんとして言った。
「僕じゃ、物足りないですか?」
「あ、いやいや、そうじゃないけど。・・・あっ、そ、そういえば、葛西君メガネにしたのね。一瞬誰かわからなかった」
由利子は急いで話題を変えた。葛西は右手で眼鏡を押さえつつ言った。
「はい。コンタクトを失くしちゃって・・・。変ですか?」
「ううん、似合ってるわよ。生徒会長みたい」
「生徒会長・・・。生徒ですか・・・」
「ごめん、訂正する。知的な刑事さんって感じね」
葛西が何となく意気消沈してきたので、由利子が急いで訂正した。
「知的な刑事? そう言えば多美さんにもそう言われました」
少し嬉しそうに言う葛西を見て、由利子は「単純なヤツ」と思った。単純だけど、可愛いかも・・・。そう思ったあと、ふと思い出した。そういえば、アレクも大学で眼鏡をかけてたな。それで、ちょっと聞いてみることにした。
「アレク、あなたも大学では眼鏡をかけてますが、伊達めがねなんですか?」
「いえ、まあ、それもありますが」ギルフォードはそう言いながらちょっと笑った。「実は、もともと遠視なので、近くの小さい字が見え難いことがあるんです。特に学術関連の本は文字が小さいですから。でも、普通は全然問題ないので・・・」
「老眼?」
と、由利子が意地悪っぽく言うと、「違います!」と速攻で否定した。
「じゃ、どの辺まで見えるんです?」
と由利子が聞くと、ギルフォードは「そうですねえ」と言いながら周りを見渡すと言った。
「君の住んでいるマンションの、屋上の塔屋に小鳥が止まってますね。あの子の種類がハクセキレイっていうのがわかる程度には見えますね」
「あれ、小鳥だったんですか? ほとんど点じゃないですか」
由利子は驚いて言った。すると葛西もギルフォードに驚きの目を向けながら
「すごい! ボビー・オラゴンみたいですね」
と言った。
「それはともかく」ギルフォードはなかなか車内に入ろうとしない由利子に言った。「ユリコ、そろそろ乗ってください。後部座席でいいですか」
「あ、すみません」
由利子はそう言いながらふとナンバープレートを見たら、黄色だった。
(なんだ、軽じゃん)
そう思って、後部座席のドアを開けると、ギルフォードの乗っている助手席の座席がかなり後ろに下がっていて、狭くなっていた。それで、由利子は運転席の後ろに座り、横に荷物を置いた。バッグと弁当である。
「すみません、僕のせいで後ろ、狭いでしょ。適当にシートを後ろに下げて下さいね」
ギルフォードは、後ろを振り向いて言った。
「あ、大丈夫です。細いから」由利子は笑いながら言った。「それにこの車、軽にしてはずいぶん大きいんですね。葛西君の?」
「いえ、残念ながら僕のです。でも、今日はジュンに運転をおまかせすることになりました」
「え? アレクの車? って、意外!」
由利子が驚いて言うと、ギルフォードが説明をはじめた。
「はい。実はバイクにお金がかかったので、車は節約しました。ついでに言うと中古で買いました。色々物を運ぶことも多いから、車はどうしても必要なんです。バイクにリヤカーつけて運ぶ訳にはいきませんからね。
「リヤカー・・・。久しぶりに聞いたなあ」
「大八車よりマシでしょ?」
由利子のツッコミに対し、ギルフォードはさらに珍しい名詞を口にしたので、由利子は半ばあきれ気味に答えた。
「どんだけ、日本文化に詳しいんですか・・・って、葛西君、なんで泣いてるの?」
気がつくと、運転席の葛西の肩が震えている。
「泣いてません! でも、想像しちゃったんです。ア、アレクがバイクでリヤカーを引いているのを・・・!!」
葛西はやっとそこまで言うと、ハンドルに突っ伏してくっくっくと笑い始めた。つられて由利子が吹き出した。
「ぷはっ、やめてよぉ~。私まで想像しちゃったじゃないの!!」
「想像力旺盛なのはいいんですけれど。・・・そんなに可笑しいですか?」
アレクはちょっと不思議そうな顔をしていたが、1分ほど間を置いて、自分も笑い始めた。
「確かに可笑しいです。それに、僕の想像では、何故か僕がバイクで引くリヤカーには、藁が満載されていて、その上にユリコとジュンがちょこんと乗ってました」
「変、それ変です」
「しかも、藁の中にはサヤさんが潜んでました」
「って、リヤカーでかすぎだし、アイダホ風味だし」
「っていうか、アレクってば、紗弥さんのことをどういう風に思って・・・」
「何で朝からこんな大笑いを・・・」
車内はしばらくの間笑いに満たされた。平日の休みのせいか妙に頭のタガが外れてしまったらしい。買い物帰りらしい女性が、不審そうに車の中をチラ見していった。
「やば、これじゃ私たち変な人ですよ。とりあえず出発しましょう」
由利子が我に返って言った。
「そうですね。最初は何処に行きたいですか、アレク?」
葛西もなんとか笑いを納めて言った。
「僕ですか?うーんと、そうですねえ・・・」
ギルフォードはちょっとの間考えると言った。
「もう10時半をだいぶ過ぎましたから、まず景色の良いところに行って、お昼を食べましょう。ジュンのリクエストは?」
「僕は、多美さんにお守りを買う約束をしましたから・・・」
「じゃ、神社仏閣めぐりね。アレクは宗教的には大丈夫ですか?」
「そんなこと言ってたら、欧米人は京都に行けませんよ。それに、僕は洗礼は受けましたが基本的に無神論者ですから問題ないです。そもそもイギリス国教自体の出自がねえ」
ギルフォードは、少しシニカルな笑みを浮かべて言った。
「ヘンリー8世が、ヌカミソ(※下記訂正あり)の妻と別れて愛妾と結婚したいがために・・・」
「糠みその妻って・・・イギリス王妃が糠みそを漬けるとは思えませんけど・・・って、もう、アレク、日本語知りすぎ! 微妙に使い方間違ってるけど」
由利子がさらにあきれて言いながら運転席を見ると、葛西がまた肩を震わせていた。何かまた想像したらしい。
「そこ! 笑ってないで。そのアン・ブーリンも1000日後には処刑されちゃったんだから」
今度は笑いが伝染しないように、由利子が釘を刺した。
「ああ、そうでしたね。キャサリン王妃が糠床をかき回してる図なんて想像しちゃダメですよね」
由利子はやっぱりと思いつつ、自分は想像しないようになんとか話を軌道に戻して言った。
「で、葛西君ってば、あなた自身はどこに行きたいの?」
「僕ですかあ?」
葛西は笑うのをやめてしばらく考えて言った。
「海が見たいなあ・・・。出来ればきれいな海がいいです」
「じゃ、ちょっと遠出になるわね。じゃ、お昼はちょいと近場で・・・植物園なんてどうでしょう?」
由利子が提案すると、葛西が言った。
「いいですね。そういえば、僕、植物園なんて、小学生以来ですよ」
「じゃ、植物園行って、神社仏閣巡りをして、最後に海に行くってカンジですね」
と、ギルフォード。
「で、海はどこがいいかしら」
「ちょっと遠いのですが、S島はどうですか? 僕、たまにバイクで行きますが、海も綺麗だし晴れていればステキな夕日が見れますよ」
と、由利子の問いにギルフォードが答えた。
「夕日? いいですね。最近個人的にだけど、夕焼けや朝焼けに悪いイメージが出来てたんで、ホンモノの夕焼けを満喫したいと思ってたんです。それに、僕はS島には行ったことないから、ちょうどいいかな」
と、葛西がかなり乗り気になったので、最終目的地はそこに決まった。ギルフォードはにっこり笑って言った。
「決まりですね。では、早速出発しましょう」
「了解! レッツゴー♪」
葛西はパイロットのように言うと、ギルフォード自慢のバンを発進させた。
(お天気も良いし、楽しい一日になりそうだ!)
由利子は、後部座席に小ぢんまりと座りながら、なんとなくワクワクしてくるのを感じた。

「あれ? 教授は?」
朝から研究室にやってきた如月は、教授室に紗弥しかいないのに気がついて言った。
「今日はお休みを取っておられますのよ」
紗弥は、パソコンから目を離さずに言った。
「え~~~? 珍しいですねー。一体なんの大事件が起こったんやろか」
如月が大仰に驚いて言うと、紗弥はチラと彼を見てから言った。
「いえ、葛西刑事と由利子さんとでドライブに行かれるそうですわ」
「ええっ! 紗弥さんをほっぽいてでっか?」
「まあ、私もたまには教授のお守りから解放されたいですから」
あまりにも紗弥が画面から目を離さないので、如月は彼女のパソコン画面を見た。彼女はネット対戦型ゲームに相変わらずのポーカーフェイスで挑んでいた。如月は仕方がないので終わるまで傍に立って見ていたが、勝負は意外とあっけなくついた。紗弥の圧勝であった。紗弥は、少しつまらなさそうにしながら、ゲーム画面を閉じた。
「ホンマ、羽伸ばしてまんなあ」
「まあ、如月君、まだいたの」
「まだいたの、って、ひどいやないですか。で、緊急の場合はどうやって連絡したらええんでっか? あの人、プライベートやったら絶対に電話に出られへんでしょ?」
「緊急時ですか? 大丈夫ですわ。いろいろありまして、私、教授の居場所なら常に把握しておりますの」
そういうと、携帯電話を開いて画面を見ながらふふっと笑った。
(まったくもう、何者なんでっか、この人は?)
如月は、紗弥を見ながら改めて思った。
「教授に聞きたいことがあったんやけど、仕方ありまへんな。明日にしますわ」
と言うと、如月は教授室を出た。そして仕方がないので、自分の席に戻り作業を続けることにした。

 由利子たちは、市営の植物園に無事到着し、お昼の時間まで園内を見て歩くことにした。由利子の持っていた弁当の入ったバスケットは、さりげなくギルフォードが持ってくれた。平日だけあって人は多くなかったが、遠足か社会科見学の小中学生の団体と、数度すれ違った。彼らは一様にギルフォードの方を物珍しそうに見て行く。ギルフォードもギルフォードで、その度にニコニコ笑いながら手を振っている。
(ホントに変な外人!)
由利子は改めて思った。
 3人は、薔薇園に入ってみた。咲き頃とはいえピークは過ぎていたが、それでも充分に綺麗だ。
「イギリス人は薔薇が大好きです。もちろん僕も好きです。派手なハイブリッド・ティー・ローズ系もいいですが、オールドローズやイングリッシュローズ系も、落ち着いていて良いです。僕の実家のローズガーデンも、今頃はいろんな花が咲き乱れているでしょう。グラン・マがとても大切にしていて・・・」
ギルフォードは遠い故郷に思いを馳せたのだろう。一瞬遠い目をしたが、直ぐにいつもの表情に戻った。しかし、由利子はそれを見逃さなかった。こんなに遠い異国にいるんだもの、いくら日本語が堪能でもやっぱり故郷は恋しいよね・・・。それで、なんとなく聞いてみた。
「アレクって、おばあちゃん子だったの?」
「はい。父は厳格で怖い存在でしたし、母は病弱で早くに亡くなりましたので、僕は祖母に懐いていました」
「お母様、亡くなられてたんですか・・・」
由利子はちょっと申し訳ないような気持ちになった。
「ええ、だから、母は僕には美しくて儚いイメージしかありません。気分の良い時は、よく、僕に本を読んでくださいました」
ギルフォードの眼に、また一瞬憧憬の色が見えた。しかし、由利子は冷静に思った。
(根っこはマザコンかあ。まあ、そういう状況なら仕方ないか。でもなんか、昔の少女マンガに出てくる美少年みたいな生い立ちねえ。なんだか『ええとこボン』っぽいし)
その時、今までデジカメで写真を撮るのに夢中だった葛西が言った。
「僕は父の方が早く亡くなりました。父も警官で、勤務中の事故だったそうです。だから、僕が警官になるって決めた時、母から猛反対をくらったんですよ」
「そうだったんだ。うちは両親共に健在だけどねえ、ずっと別居中だわ。お互いカレカノがいるから、私の居場所ねーし。みんないろいろあるのねえ」
なんとなく、お互いの身の上を語りつつ、彼らは温室に入って、色とりどりの南国の花々や熱帯の水辺を見て回った。
「けっこう充実してますね。実は、あまり期待していなかったのですが」
温室を出ると、ギルフォードが言った。由利子は背伸びをしながら言った。
「ん~~~、そうですね。だけど、温室と言っても今は外もあまり気温が変わらないですね。これから暑くなるぞ~」
「でも、今日は湿気が少なくて、暑いけど爽やかですね。絶好のピクニック日和だなあ」
葛西がそう言い終わるや否や、彼のおなかがキュウと鳴った。
「あ、すみません」
葛西が顔を紅くしながら言うと、ギルフォードが笑いながら言った。
「そろそろお昼にしましょうか」
「賛成」
由利子が即答した。植物園にはいくつか四阿(あずまや)があったが、せっかくの天気なので、彼らは手頃な木陰を探すことにした。
「あ、あの木の下がいいですよ! あそこにしましょう」
葛西は、ちょうど良い木陰を見つけて走って行った。その後姿を見ながら、ギルフォードは由利子の右腕を軽くつつき、小声で言った。
「彼、可愛いですよね」
「ええ、本当に」
由利子もそれにはまったく異存はなかった。
「彼ね、ユリコを気に入ってるみたいで、僕はキューピッド役を例のタミヤマさんに頼まれたんです」
「え?何でそんなことを・・・」
「聞くところによると、警察ってところは警官に早く身を固めさせたがるらしいです」
「そんな、私にはただの刑事さんです! 第一、8歳も歳が違うんですよ。しかも、年下!」
「そうですか? 僕もお似合いだと思いますけどねえ。でもね、僕は自分に正直だから、はっきり言いますが、僕も彼をすごく気に入っています」
「え? いえ、だから別に私は自分を偽っているわけでは・・・」
由利子はなんとなく頭がクラクラするのを感じながら言った。
「だから、その点では僕たちはライバルですね!」
「へ?」
由利子が驚いてギルフォードを見ると、彼もニッと笑って由利子を見た。
(なんてこったい!!)
由利子は引き続きクラクラしながら思った。葛西が自分を気に入るのは自由だし、もちろん悪い気もしないが、そのせいで勝手にライバル視されてはかなわない。それで由利子は負けじとにっこり笑い返しながら言った。
「ご自由に。それよりアレク、あなたがノーマルな葛西君をどう落とすか、お手並みを拝見させていただくわ」
「お! 言いますねえ・・・」
二人の間に一瞬かるく火花が散ったように思えた。が、次の瞬間同時にぷっと吹き出した。当の葛西が実に平和な顔をして二人に手を振っていたからだ。
「ねえ、早く来てくださいよ、二人とも~」
なかなか来ない二人に痺れを切らして、葛西がこんどは大きく手を振りながら呼んだ。
「早くお昼にしましょうよ~」
「はい、すぐ行きますよ」
と言いながら、ギルフォードは葛西のいる木陰まで大股で歩いて行った。由利子も小走りでその後を追った。
 ギルフォードは、背中に背負っていたリュックから、シートを出して地面に敷いた。シートの上には、由利子の持ってきた手作り豪華弁当やギルフォードの持ってきたスペシャルサンドウィッチなどと共に、アレクのリュックに入っていた、取り皿やカップも並べられた。完全にピクニックである。由利子は感心しながら言った。
「アレクってば、すごい気が利くのねえ。ステキなランチタイムだわ」
「ありがとう。英国人は、ピクニックが大好きですからね」
と、ギルフォードが笑いながら言った。
「皆さんが、お弁当を作ってこられるって言うんで、僕は飲み物を用意してきたんです。暖かいお茶とつめたいコーヒーでしょ、あ、アレクのためにミルクティーも作ってきました」
葛西がニコニコしてバッグを開けると、レジャー用ポットが3本頭を出した。
(こいつ、妙にでかい袋を提げていると思ったら、こんなのを持ってきてたのか~)
由利子は、嬉しそうにポットを取り出す葛西の様子を見て、クスリと笑った。
「オー、ありがとう、ジュン! 嬉しいです」
ギルフォードは、そういいながらさりげなく葛西の傍に座った。由利子は二人の前にちょうど二等辺三角形の頂点になるように座った。妥当な位置だと思った。
「では、食事の前に僕たち三人が出会ったことと、これからの友情に対して乾杯しましょう」
ギルフォードの提案で、三人は緑茶と紅茶で乾杯した。これが奇妙なトリオの新たな出発となった。

 食後、時間があまり無いので、庭木園や水生植物園を通過がてら鑑賞しながら植物園を後にした。
「また来たいですね。次は隣の動物園にも行きましょうね」
ギルフォードは、正門を見上げると少し名残惜しそうに言った。
「さて、次は神社仏閣巡りですね。時間がなくなって来たので急ぎましょう」
3人は駐車場に急いだ。時間に余裕がなくなってきたので、寺社巡りはF市三大祭のうち二つに縁の深いK神社と、由利子がお勧めのT寺に行くことにした。

 彼らが先ず出かけたのは、T寺だった。ここには平成に入って完成した、F大仏がある。寺の正門を入ったところで由利子が説明をした。
「ここは、1000年以上の歴史を持つお寺で、弘法大師が建立した真言宗のお寺では最古のものだそうです」
その後、すこしもったいぶって質問をした。
「さてお二人さん。お化け屋敷は大丈夫?」
葛西は、由利子がいきなり変なことを聞き始めたので不審そうな顔をして尋ねた。
「あの、お化けとお寺はなんとなくセットのような気がしますが、お化け屋敷ってのはどうかと思いますが・・・」
「いきなり何をバチアタリなこと聞いてくるんですか、」
ギルフォードも、肩をすくめながら言った。由利子は、意味深な笑いを浮かべて答えた。
「まあ、いずれわかります。さ、行きましょうか」
三人は庭を横切り階段を上って大仏殿まで行くと、若干薄暗い中に、金色に輝く大仏が座っていた。
「平成に入って完成したので、まだ新しいけど、木造の坐像では日本一の大きさだそうよ」
由利子が説明すると、二人は
「へえ、すごいですね」
と言いながら、大仏像を見上げた。しかし、見上げながらもギルフォードは首をかしげながら言った。
「でも、新しいせいか、いまいち、重厚さを感じませんねえ。顔もなんとなく橋■壽賀子に似ているし」
「あ、いいのかな、そんなこと言って。罰が当たっても知らないぞっと」
由利子が言うと、葛西がフォローした。
「もっと時がたつと、上手い具合にくすんでもっと重厚さが出てきますよ。とりあえず、お参りしましょう」
3人は並んでお賽銭を入れ、手を合わせた。
「じゃ、行きましょうか」
由利子はそういうとすたすたと歩いて大仏の左側に向かった。
「なんですか?」
「アレク、行ってみましょう」
「えっと、『地獄極楽巡り』って書いてありますけど、なんかのアトラクションですか?」
ギルフォードが言うと、前から由利子の答えが返ってきた。
「そんな豪勢なものじゃないわよ。二人とも、暗闇恐怖症じゃないですよね」
「ええ、僕はわりと平気なほうですけど」
葛西が言うと、ギルフォードも答えた。
「僕も、夜目が効きますから」
「そんな、甘いものじゃないのです」
由利子はふふふと笑いながら言った。ギルフォードと葛西は、顔を見合わせながら由利子について中に入って行った。
 中に入るとすぐに、地獄絵図が3枚並んで飾ってあった。とはいえ、擦れた現代人のこと、そんなものを見ても特に恐怖は感じない。現代は、インターネットという媒体を使うと、その気になれば現実の地獄絵図がいくらでも見られるのだ。案の定、ギルフォードは半分小馬鹿にしたような顔で絵を見ながら
「ふうん、洋の東西を問わず、地獄ってのは似たようなイメージなんですねえ」
などと、澄まして言っている。しかし、葛西はこういうのが苦手らしい。ギルフォードの後ろに隠れるようにして、絵を見ていた。
(こいつ、ホントに刑事かよ)
由利子は、心の中で突っ込みを入れながら、
「じゃ、先に進みましょう」と二人を促した。「ここから先はお戒壇巡りと言って、本当に真っ暗な真の闇だから気をつけて。手摺があるからそれを持つといいわよ」
「真の闇って・・・。うわ!」
ギルフォードは入るなり驚いて言った。
「ホントだ。全く光が入ってこない作りですか。これじゃ、夜目が効いても意味がないですね」
「うわあ、アレク、ゆりちゃん、置いていかないでくださいよ~」
「誰が『ゆりちゃん』だ!」
由利子は速攻で返した。
「ああ、すみません、すみません。訂正します。由利子さ~ん」
葛西が情けない声を出して言ったので、由利子は葛西の後ろに回り、ギルフォード・葛西・由利子の順番で暗闇を手探りで歩いて行った。
「鼻を摘まれてもわからない暗闇って、こういうのを言うんですね。いや、これは怖い。道は妙に曲がっているし、うっかり出来ないですね、これは」
ギルフォードは、感心しながら言った。
「何もないだけに、余計に怖いです。きっと20分以上居たら幻覚を見始めます」
葛西も、闇に慣れたのか落ち着きを取り戻して言った。由利子は、いまいち反応がつまらないので、ちょっといたずらっ気をだして言った。
「やん、ゴキブリ!」
「えっ、うそっ!!」こんどはギルフォードが急に落ち着きを失った。「ド、ドコ行きマシタ?」
「アレクの方!」
「No~!」
その一言で、ギルフォードは完全にパニックに陥ってしまったらしい。そのまま一歩も動けなくなってしまった。暗闇の中それに気付かずに、そのまま歩いていた葛西は、ギルフォードにどしんとぶつかった。
「いてっ。・・・あれ、ここでアレクが固まっていますよ」
このままじゃ先に進めないなと思った由利子は、種明かしをすることにした。
「うっそぴょ~ん。この暗闇で見えるわけないでしょ」
「もう、脅かさないでくださいよ。ジュンにまで弱点がバレてしまったじゃないですかあ」
ギルフォードは、ほっとしたような、怒ったような声で言うと、葛西も続けて言った。
「さっさとこんなところは出ちゃいましょう。実際、こんなに真っ暗だと、マジで何が潜んでいてもわからないですよ」
「さりげなくイヤなこと言いますね、ジュン」
彼らはとにかく手探りでなんとか出口までたどり着いた。出口にはありがたい仏様のレリーフが飾ってあった。由利子はバスガイドよろしく、手に旗を持ったジェスチャーをしながら言った。
「はい、極楽に到着で~す。皆様、お疲れ様でした~」
「なるほど、これで死後の世界を疑似体験したというわけですか」
とギルフォード。
「でも、目の見えない人って、ずっとああいう状態なんですよね。大変だなあ」
と、葛西は全く違うベクトルで感心していた。横の売店でお土産を物色していると、中学生の団体がやってきた。彼らはどやどやと入ってきたが、ギルフォードの姿を見ると、一瞬たじろいだ。それに気づいたギルフォードは、軽く手を上げるとにっこりと笑いかけた。彼らはおずおずと手をふり返し大仏の方に歩いて行った。その後、順番に『地獄極楽巡り』の入り口に消えていった。数秒後、中からわあとかきゃあとか言う声が聞こえてきた。ギルフォードは彼らに向けて言った。
「Good luck!」
三人は、それから大仏を後にして、他の展示されている仏像を一通り見た後、T寺を後にした。

「この神社もかなり古くて1000年以上の歴史があるの」
由利子はK神社に着くと言った。彼らは鳥居をくぐって神社に入ると、まず参拝。手水場(ちょうずば)で手と口を清め、社殿に向かった。
「ここで洗った手、拭かないで自然乾燥させるんですよね!」
と、ギルフォードが言った。
「よく知ってますねえ。そういえば、ちゃんと口もすすいでいたし、最後にひしゃくも立てて水を流してましたね」
「二礼二拍手一礼ってのも知ってますよ」
「アレク、あなたそこらへんの日本人より立派な日本人ですよ」
由利子は、またもあきれて言った。
「実は、調べてきたのです。その土地の神様には敬意を表しないといけません。一神教はそういうことをないがしろにするからいけないんですよ。もっとも、新興宗教が勢力を広げるためには、信仰対象をひとつに絞る方が便利なんでしょうケド」
「そういえば、この神社だけでも色々な神様がおわしますからねえ。一神教の神様も、日本では八百万(やおろず)分の一の神様かあ」
由利子は、改めて感心したように言った。その会話を聞いていた葛西がおずおずと尋ねた。
「あのぉ、ぼく、手を拭いちゃいましたけど・・・」
「ほとんどの人が拭いているから大丈夫じゃない?」由利子は、言った。「それに、今の時期はいいけど、真冬にそれはキツイし」
「そうですよ。汚れたハンカチでなければいいと思いますよ」
と、ギルフォードもフォローした。葛西はほっとした顔で言った。
「よかった。新しいハンカチだったので」
葛西は、多美山のお守りを買うというので、少し慎重になっているようだった。彼らは参堂の端を歩いて御社の前に行った。さすがに平日の昼間だけあって、そこまで混雑していない。彼らは悠々と参拝を終えた。葛西は早速お守りを買いに走った。由利子とギルフォードは特に買うものもないが、暇なので、売店の品物を何となく見て回っていた。
「アレク、あなた幾つになるんですか」
由利子はいきなりギルフォードに質問した。
「はい、8月の8日(ようか)で41歳ですが、何か?」
「あらら、本厄だわ」由利子は言った。「しかも、大厄だし」
由利子は厄除け御守の横に書いてある、厄年早見表を見ながら言った。
「大丈夫です。僕は一応クリスチャンですから、日本の宗教的行事は関係ないでしょう」
「行事って・・・。ま、関係ないっちゃ関係ないか」
由利子は、あっさりと言った。そこに、買い物を終えた葛西が帰ってきた。
「お待たせしました」
「どんなのを買ってきましたか?」
「色々悩んだのですが、これを買いました」
と、葛西は買ってきたお守りを見せた。木の札に「身代御守」と書いてある、いたってシンプルなものだった。
「ミダイオマモリ・・・あ、ちがうな。あ、・・・ミガワリオマモリですね」
「なんか効きそうでしょ」
葛西はニコニコとして言った。ギルフォードは微笑みながら
「そうですね」
と言ったが、由利子にはなんとなく彼が無理をしているように思えた。それで、由利子は話題を変えることにした。
「アレク、飾り山って知ってますよね」
「はい、7月のお祭りに使われる山車の飾り専用のでかいやつですよね」
「正解。普通はお祭りが終わったら、解体されるんですが、ここのだけは一年中飾ってあるんですよ。じゃ、その飾り山を見て、それから海に向かいましょう」
由利子は明るく言うと、飾り山の設置してある境内の奥に二人を誘導した。

 海に向かう運転は、道に慣れたギルフォードが行った。運転席に座ったギルフォードは、
「はい、ユリコ、シートを下げますから、ちょっと避けてくださいね」
と言うと、座席をグッと下げた。葛西がそれを見て言った。
「行きにですね、僕が運転席に座ったでしょ、その時、足が届かなくて、シートをグッと前に持ってきたんですよ。もう、嫌になっちゃいます。座高はあまり変わらないのに」
そういいながら、助手席に座り代えた葛西は、椅子を今度は前に引いた。従って、由利子は助手席の後ろの方に移動した。
 道路は若干混んでいたが、なんとか3時過ぎには着くことが出来た。島に入る途中、砂洲の中を通り島と本土を結ぶ橋を渡る。両側に海が見えるという、なかなかステキな橋だ。ギルフォードは、砂浜の海岸につくと、葛西と由利子に車を降りるように言うと、自分はバンの最後部席をフラットにした荷物置き場から、何かを下ろしながら言った。
「ここら辺は、前の大地震でだいぶ被害があったようですが、しっかり復興していますね」
「そういえば、当時、道路が地割れだらけになってました」
と由利子が言った。葛西も海の方を見ながら言った。
「こうしていると、何事も無かったように平穏ですね」
「まあ、あんな地震が来るとは誰も・・・専門家すら思ってなかったですから・・・。じゃ、車を置いてきます。ちょっと待っててくださいね」
そういうと、ギルフォードは葛西と由利子を置いて、駐車場に向かった。
「だいぶ涼しくなったよねえ。お昼間は暑かったね」
と、由利子が海をみつめている葛西の背に向かって言った。
「そうですね・・・」
葛西は由利子の方を振り向いていうと、また、海の方を見た。
「綺麗ですねえ。波の音もしみじみしていいですね・・・。」
「そうね」
由利子はそう答えると、葛西の隣に立って一緒に海を見た。潮騒の音が響く中、しばしの間、二人は無言で立っていた。特に話すこともないが、まったくそれが苦にならない。不思議だな・・・、と由利子は思った。葛西はその状況に照れくさくなったのか、急に歌い始めた。
「♪うーみーはー広いーな、おおき~いなー、つーきーが上るーし、日がしーずーむー♪」
「な~に、それ」
由利子はくすりと笑いながら言った。その時、後ろからその続きを歌う声が聞こえた。
「♪う~み~は、おおな~み、青い~波~、ゆ~れ~て、何処ま~で、続く~や~ら~」
歌声の主はギルフォードだった。いつの間にか車を置いて戻ってきていたのだ。意外にもうっとりするようなテノールで歌詞も完璧だった。彼は、歌い終わると言った。
「いい歌ですね。曲も綺麗だし・・・、それに、ワルツです」
「あ、そういえばそうだ。今までそんなこと思っても無かった!」
由利子が感心して言った。ギルフォードは、その後、置いてきた荷物から、キャンプ用のベンチとテーブルセットを出して組み立てはじめた。葛西が急いで手伝いに行った。作業をしながらギルフォードは言った。
「日本の海の歌って、ワルツが多いんですよ。『港』もそうでしょ?」
「そうでした。小学校の時、ワルツの三角形を描きながら歌わされましたね」
由利子は右手で三角形を描きながら言った。
「他にないかなあ」
葛西が、ギルフォードを手伝いながら考えている。しばらくして、あ、と言った後、嬉しそうに口を開いた。
「あった、あった。ほら、まつばーらーとおく、きいゆーるところ♪って、ね、ワルツでしょ? アレク、知ってます、これ?」
「ええ、もちろん。僕はワルツが大好きなんです。日本の唱歌は、綺麗なものが多くていいですね」
ギルフォードはそう答えると、最後の仕上げにパラソルをテーブルに立てた。
「さて、だいぶ遅くなったけど、3時のお茶にしましょう。スコーンを焼いてきたんです。ま、焼き立てとはいきませんけどね」
「すごい! 準備万端じゃん!」
由利子が目を丸くして言った。ギルフォードは、執事よろしくテーブルの前に立って、うやうやしく礼をしながら言った。
「さあ、お客様方、お掛けくださいませ」
 3人は、ギルフォードのスコーンと葛西の持ってきた紅茶とコーヒーで、ティータイムを過ごした。ギルフォードの祖母直伝のスコーンは絶品だった。美味しいものを食べている時の人の顔は、一番幸せそうだという。しかし、潮騒の中まったりとした時間を過ごす彼らのすぐ傍に、思いも寄らない危険が近づきつつあった。

「あ、思い出した、『浜辺の歌』。これもワルツだ」
皆が忘れかけた頃に、由利子がぼそりと言った。

(※)3人盛り上がってますが正しくは「糟糠(ソウコウ)の妻」です。

 

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2.侵蝕Ⅱ (2)ギルフォード教授の野外講義 前半

※この講義でのウイルスに関する記述を一部修正する予定です。修正後はまたご報告いたします。(H24年5月11日)
 

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 彼らは、浜辺でまったりとしたティータイムを過ごしていた。しかし今の時期、しかも平日に浜辺でキャンプセットのテーブルでお茶をしている外国人(実のところ、そこらへんの日本人よりも日本人らしいが)を含むおっさんおばさんの3人は、傍から見るとけっこう妙なものらしい。通る人たちが、ものめずらしそうに見て通り過ぎて行った。そろそろ、犬を散歩させる人たちがちらほらし始める時刻である。
「時折写メ撮られてる」由利子は言った。「やっぱ目立つわよねえ」
「その、写メですケド、写真メールって意味ですよね。撮った後は、みんなメールするんですかねえ」
「そりゃあ面白いから写真撮るんで、やっぱり友人に送ったりするんじゃないですかね」
「なんか知らないところでネタにされるのはイヤですねえ・・・」
ギルフォードがぼやいたところで、葛西が急に真剣な顔をして言った。
「実は、アレク、ずっと気になってたんですが・・・。あの美千代が公園で事件を起こしたときに隠れていた女性、携帯電話でも写真を撮ってましたね」
それを聞いて、ギルフォードの表情も厳しくなった。
「どこかに送っている可能性があると・・・?」
「ええ・・・。そうでなければいいのですが・・・」
「それって、トイレに隠れていたって女性のこと?」
葛西の調書を読んで、内容をある程度理解している由利子が聞いた。
「そうです。まったく、嫌な時代になったものですね」
ギルフォードはため息をつきながら言った。その時、由利子の携帯電話に着信が入った。
「あ、美葉からだ。ちょっと失礼しますね」
由利子はそういうと、電話に出た。
「もしもし?何?・・・うん、今ね、S島の浜辺でティータイム。・・・・って、そんな羨ましがらないでよ。・・・・うん、・・・・うん、・・・あ、ちょっと待って、聞いてみるから」
由利子は電話を中断して、二人の方を見て尋ねた。
「あのね、美葉が・・・、あ、葛西君は会ったことないわね。美葉は私の友達なんだけど、今夜、夕食をご一緒しませんかって言ってますが・・・」
「オ~、ミハさんですか。僕はOKですよ」
と、ギルフォードは快く承諾した。
「由利子さんのお友だちなら歓迎です」
と、葛西。そうと決まったら話はすぐに進み、なじみの居酒屋に集まることになった。
「さて、夕方からの予定も決まったことだから・・・」
ギルフォードはもったいぶりながら言った。
「これから、君達のために少しバイオテロについてのレクチャーをしますね」
「ええ~? こんなところで?」
由利子は驚いて言った。ギルフォードはにっと笑って答えた。
「こういう教室とは違ったところで受ける講義も、なかなかいいものですよ。しかも、タダですよ」
「課外授業ですね。久しぶりだなあ、こういうの」
と、葛西が嬉しそうに言った。
「そう言って下さると、タミヤマさんも喜びますよ。このことを提案してくださったのは、他ならぬタミヤマさんですから」
「多美さんが?」
「そうです。タミヤマさんは、ジュンがバイオテロ事件の最前線に行くことになるだろうことを、とても心配しています。それで、個人的にレクチャーするように頼まれたんです。普通は引き受けませんけど、今回はユリコもいますから、ちょうどいいと思いました」
「葛西君、対策本部に入るの?」
由利子が、すこし意外そうに言ったので、葛西は答えた。
「今回の事件に最初から関わってしまいましたので、白羽の矢が立ったみたいです」
「大丈夫ななの? なんか頼りないなあ・・・」
「大丈夫です、ユリコ。彼の専門は、僕と同じ微生物だったそうですから」
「ええ? それがなんで刑事に?」
由利子は再度驚いて言った。
「まあ、いろいろありまして・・・」
葛西は言葉を濁した。それで、由利子はそれ以上追求するのを止めた。
「では、始めます。ジュンが知ってることも説明すると思いますが、初心者がいるということで、復習のつもりで聞いていてくださいね」
葛西は「はい」と言いながら頷いた。ギルフォードもそれを見て頷くと続けた。
「さて、バイオテロといえば・・・まず、何を思い浮かべますか、ユリコ?」
ギルフォードはいきなり由利子に話を振った。フェイントに驚きながらも、由利子は答えた。
「やっぱり、あのアメリカで起きた炭疽菌テロ事件、あれですね」
「そう、米国の炭疽菌テロ事件を思い起こす人が多いでしょう。結局犯人とおぼしき科学者の自殺で幕を閉じることになりましたが・・・。バイオテロはBiological weapons、生物兵器の転用と考えられます。生物兵器とは、病原微生物やそれが作る毒素を利用したものですが、歴史的にはかなり古いです。それは、まだ感染症が微生物が原因で起こることすらわかっていない頃からのことです。疫病で死んだ人や動物の死がいを敵地に投げ込んだりしていました。それが感染るということだけはわかってましたからね」
「随分原始的な方法だったんですね」
「そうです。それが、20世紀に入ってから、兵器として本格的に研究され始めました。その頃生物兵器を研究していた主な国は、イギリス・アメリカ・ドイツそして日本です。特に日本の研究資料は、戦後の生物兵器研究に関わってきます。その日本の研究機関こそが、悪名高い・・・ジュン、知ってますね」
「私も知ってます」由利子が間を割って答えた。「731部隊・・・ですね」
「そうです。さて、生物兵器というと、炭疽菌と天然痘ウイルス、これがまず出てきます。特に炭疽菌は、生物兵器に出来る特性を充分備えているのです。731部隊も炭疽菌の兵器開発にはかなり力を入れてました」
ギルフォードはここで、一息入れた。そして、改めて二人を見ながら言った。
「さて、まずここで、よく混同されるウイルスとバクテリア・・・細菌の違いをはっきりさせておきましょう。ジュン、もちろん君は説明できますね」
「はい。細菌は自分の細胞を持つ単細胞生物ですが、ウイルスは違います。遺伝子とそれを包むたんぱく質の膜しかもっていません。細胞を持っている細菌は宿主の栄養を横取りしながらも自分の力で増えますが、それのないウイルスは、他の細胞に取り付かないと増殖できません。大きさも細菌なら普通の顕微鏡で見えますが、ウイルスは非常に小さくて電子顕微鏡でなければ見ることができません」
「はい、よく出来ました。ですから、病気のおこし方も違います。細菌はO157や破傷風菌、炭疽菌もそうですが、毒素を出して色々な症状をおこさせるもの、結核のように増えた菌が病巣を作り害をなすものなどがあって、いずれも細胞の外側から作用します。しかし、ウイルスは細胞の中に入り込み、結果破壊してしまいますから、細胞の内側から作用していることになりますね。さらに補足しますと、細菌は抗生物質で殺せますが、細胞を持たないウイルスには効きません。よく風邪を引いて病院に行くと抗生物質を処方されますが、あれは、風邪の病原ウイルスを退治するためではなく、免疫力の落ちた身体を細菌による二次感染から予防するためのものです。タミフルのような抗ウイルス剤も、ウイルスを殺すのではなくて、ウイルスの増殖を阻害するものです。ウイルス自体は、人体がそれに対する免疫をつけるまで追い出すことはできません。で、人工的に免疫をつけるのがワクチンです。ただし、全ての細菌やウイルスにワクチンがある訳ではないし、発症してからはワクチンの効果はあまり期待できません。また、ワクチンによっては、副作用の強いものもあります。幸い風邪の場合は普通なら5日から1週間くらいで治りますけどね」
「人体が勝手に治しちゃうんだ」
「そうです。だから、普通の風邪の場合は、脱水症状に気をつけて安静にして寝ていれば、放っておいても治ることが多いです。でも、高熱や咳、時に下痢など、それに伴う苦しい症状を緩和するためには、やはり、病院に行ったほうがいいかもしれません。それに、風邪じゃない可能性もありますからね。ただ、気をつけなければならないのは、時に病院自体が感染症を広める役割をすることがあるということです。だから、新型インフルエンザのような強力な感染症の場合は、病院に行かず直接保健所に連絡しなければいけません。アフリカでのエボラ出血熱の発症者の多くは、病院で感染しています。設備が不十分だったのと、そのために注射針の使いまわし・・・しかもろくに消毒もせずに使いまわした結果でした」
「でも、日本も昔はそうだったみたいですよ」と由利子が口を挟んだ。「私が勤めていた会社の黒岩さんって人が以前言ってたことがあるけど、彼女が子どもの頃、学校で予防接種する時は、一本の注射器で、もちろん針も変えずに軽く3人から5人はこなしていたらしいです」
「オー!」
ギルフォードは首をゆっくりと左右にふりながら言った。
「まあ、昔はおおらかだったということでしょうケド・・・。後々変な病気が出ないと良いのですが」
「彼女はいたって元気でしたよ」
「もちろん、先に注射した人が妙なウイルスを持ってなければ問題ないですが、運悪くそれで肝炎や白血病などのウイルスに感染してしまった場合、数十年後に発症する可能性があるのです」
「白血病も?」
「一部の白血病はヴァイラ・・・ウイルス感染が原因だといわれています」
「そうだったんだ。ところで、時々ヴァイラって言いかけるけど、どうして?」
由利子は、ついでに以前から疑問に思っていたことを聞いた。
「ウイルスって、実は日本語なんですよ」
「日本語?」
「そうです。英語表記はV-i-r-u-sで、読みはヴァイラス、ドイツ語読みではヴィールス。日本でも昔は『ビールス』と言ってたんじゃないですか?」
「そういえば・・・」由利子は言った。「昔読んだモグリの医者が活躍するマンガでも、ビールスってなってました。改訂版はわかりませんが」
すると、葛西が続けて言った。
「あ、『2○世紀少年』っていうマンガでは、少年時代は『ビールス』、大人になった現代では『ウイルス』って使い分けてました」
「マンガになると、みなさんお詳しいですね。まあ、あのマンガでは、作者も途中までウイルスと細菌の区別がついてなかったように思えますが」
「読んでんじゃん」
と、由利子が突っ込んだが、ギルフォードはうふふと笑いつつ続けた。
「Virusというのは、ラテン語の「毒」という意味からきています。ラテン語の発音は『ウィールス』。日本では昔は病毒あるいは濾過(ろか)性病原体と言ってました。中国では今も『病毒』と表現されるそうですが・・・。濾過性というのは、濾過しても濾材を通り抜けるほど小さいということです。このV-I-R-U-Sという単語を日本語でどのように言うかが話し合われた結果、ラテン語読みの『ウイルス』と決まったらしいです。でも、この言葉が定着するまで30年ちかく掛かったらしいです。まあ、ドイツ語を元にしたビールスの方が使い慣れていたからですね。因みに日本ウイルス学会の機関誌の名前は『ウイルス』ですが、その誌名の英語表記はローマ字でU-I-R-U-S-Uです。なんか妙ですね。ですから、僕もたまにヴァイラスと言いかけてしまうのです」
「でも、ヴァイラスって怪獣の名前みたいでカッコイイですね。そういえば、ガ×ラシリーズにバイラスという怪獣というか宇宙人がいますけど」
葛西が横から言った。ギルフォードは、葛西の方を見ながら苦笑いをして言った。
「さっきから、なんとなく伏字になっていないような気がしますが・・・、じゃなくて、ジュンはカイジュウフリークなんですか?」
「いえ、そこまで濃くはないですが、昭和40年代のテレビシリーズものなんかはカナリ好きですね」
「って、葛西君が生まれるずいぶん前じゃん」
と、由利子が言うと葛西は頭を掻きながら言った。
「叔父から、さんざんLDやDVDを見せられまして・・・」
「LD!」由利子は少し驚いて言った。「すっかりその存在を忘れていたなあ。けっこうなマニアなのねえ、そのおじさんって」
「はあ、そうですね。おかげでシルエットだけで怪獣名がわかるようになりました。初期のシリーズだけですけど・・・って、すみません、アレク。話の腰を折っちゃって」
「大丈夫ですよ。こういう脱線も課外授業のいいところですから。僕もそのカイジュウのシリーズ、機会があったら見てみましょう」
「いえ、多分アレクが見ても面白くないと思いますよ。特撮もしょぼいですし」
葛西は、ギルフォードがいきなり言い出したので、少し焦って言った。しかし、ギルフォードは例の最強の笑顔で臆面もなく言った。
「ジュンの好きなものは、僕も見てみたいんです」
「・・・アレク」由利子が心なしかげっそりして言った。「話を先に進めましょう」
「ハイ、そうでしたね。さて、そういうことで、細菌とウイルスがまったく違うとことはわかりましたね、ユリコ」
「はい」
「ですが、ウイルスと細菌の違いをややこしくするものがあるんですね。インフルエンザ菌ってのがあるんです」
「え? インフルエンザはウイルスですよね」
「もちろんそうです。最初にインフルエンザの病原体と勘違いされて、こういう名前になったのです。いったん命名さえたものは変更出来ませんから、インフルの病原体ではないのですが、こういう名前になったのです。菌自体はありふれたもので、ヒトの鼻腔内でよくみつかります。先に言った、風邪を引いた時の二次感染を起こさせる細菌のひとつでもあります」
「さて、ウイルスがどのように自分のコピーを作るのか、簡単に説明をしましょう。ウイルスは宿主の細胞に取り付くと、遺伝子の設計図・・・DNA或いはRNAをちゅーっと入れちゃいます。その段階でウイルスは設計図だけの状態になります。宿主の細胞は、そうとも知らずにその設計図を使ってどんどん複製を作り始めます。そして、細胞内がウイルス粒子で一杯になると、細胞膜をパ~ンと破って大量の複製されたウイルスが出てきます。それらがまた他の細胞に取り付いて、そこで同じように自分のコピーを作っていきます」
「なんか、すっごく嫌なんですけど」由利子が、両腕をさすりながら言った。「私がこの前インフルエンザで苦しんでいた時も、私の身体でそういうことがおこっていたんですね」
「そういうことです。でも、本来、ウイルスは正当な宿主となら、穏やかに共存出来ます。だって、困るでしょ。せっかく入った家が、すぐに壊れてしまっちゃあ。だから、激しい症状を起こして宿主を殺してしまうようなウイルスは、本来の宿主ではないものを選んだということになります。ただし、もともと無害だったものが、強毒性を持つように変異する場合もありますし、天然痘のように、ヒトにししか感染しないのに、病気を起こすものもいますけどね。ま、そのせいで天然痘は自然界では絶滅させられてしまいましたケド。
 さて、バイオテロの話にもどりましょう。まずは、生物兵器の代表である炭疽菌からです。なぜ生物兵器として使われたかというと、炭疽菌は生存に危機的状況に陥ると芽胞という形になってその場をしのぐからです。一旦芽胞状態になると、空気も栄養もない状態でも何年も生き延び、かなりの高温低温にも耐える事ができます。炭疽菌は人から人へは感染しませんが、そのような特徴からと、その毒性の高さにより生物兵器の代表格となったのです」
「そうか、無酸素状態にも高温にも強いということは、爆弾に仕込みやすいということですね」
「そうです、ユリコ。馬鹿馬鹿しい話ですが、弾道ミサイルにだって仕込めますよ。さて、炭疽菌は人から人へは感染しませんが、吸入したり、食べたり、炭疽菌が傷口から体内に入ったりして感染、発症します。皮膚に病巣を作った皮膚炭疽・・・まんまですが、の場合、中心部が炭のように黒くなります。炭疽菌といわれる所以ですね。英語の『アンスラクス』という名前は、ギリシャ語の木炭や石炭という意味からきています。皮膚炭疽の場合は、比較的致死率は低く、抗生物質で適切な治療を受ければほぼ治ります。ただし、放置した場合の致死率は約10~20%です。時に炭疽菌が血液を回り、毒素で敗血症を起こすからです。次に、炭疽菌で汚染された肉を食べた場合の消化器炭疽ですが、これは、致死率が上がり未治療の場合は50%です。これも、適切な治療を受ければ致死率はぐんと下がります。それに、汚染肉を生で食べるということかなり珍しいことなので滅多におこりません。最後に吸入炭疽です。これは、名前の通り炭疽菌を吸い込むことによって菌が肺胞まで届いて発症するもので、アメリカの炭疽菌テロ事件での死者5人はすべてこれでした。この致死率は90%と言われていますが、早めに抗生物質で適切な治療を受ければ高い確率で回復するということがわかりました。この吸入炭疽も自然発生では非常に珍しいものです。何故炭疽菌テロでは吸入炭疽が多いかというと、芽胞状態になった炭疽菌を吸入して肺胞まで届きやすくする細工がされているからです」
「細工?」
と、由利子が聞いた。
「そうです。普通、炭疽菌芽胞は周囲に電位を帯びていて・・・、まあ、一粒がベタベタしていると考えてください。非常にお互いがくっつきやすいんです。しかし、その状態では肺胞まで届くことは難しいのです。ですから、自然発生することは非常に珍しいのです。しかし、その電位を取り払う方法を見つけた機関がありました。米国メリーランド州にある米国陸軍基地にあるフォート・デトリックです。そこは当時生物兵器の研究をしていました。まあ、1975年の生物兵器禁止条約発効後もこっそり研究していたようですが。で、調べた結果、テロに使われた炭疽菌はその技術が使われていることがわかりました。その技術は極秘扱いとなっていましたから、米国の炭疽菌テロは、フォート・デトリックから持ち出された炭疽菌が使われた可能性が高いということになったのです。因みに後々他の生物兵器所持国家でもそれぞれの方法で電位を取り除く技術を持つ様になりました」
「結局マッチポンプだったってこと?」
と、これまた由利子。
「いえ、そうではありませんが、米陸軍の炭疽菌テロへのあの対応の早さは、それと無関係ではなかったかもしれませんね。炭疽菌のしつこさはですね、1942年から43年の間、英国の炭疽菌実験に使われたグリニャード島では、実験で大量にばら撒かれた炭疽菌芽胞がなかなか死滅せず、1986年から87年にかけて、大量のホルムアルデヒドを土に混入してようやく死滅させたということからもわかると思います」
「ホルムアルデヒドってホルマリンですよね」由利子は眉を寄せながら言った。「そっちの方が炭疽菌より危険な気がするなあ・・・」
「そうですね。まさに毒を以って毒を制すってやつです。さて、炭疽菌にも有効なワクチンがあります。副作用も少ないのですが、かなり痛いらしい。軍人ですら、接種後は痛くて仕事にならないくらいです。それを6回に分けて接種し、その後も毎年追加してワクチンを打たねばなりません。だから、米軍人でもこれを受けるのは、炭疽菌感染リスクが高い人たちだけです。因みに、O教団のバイオテロが失敗した原因として、彼らが知らずに毒性の少ない炭疽菌のワクチン株を使ったためだといわれています」
「ワクチン株を渡した人GJ!ですね!」
と、今度は葛西が言った。
「まったくです。もし、成功していたらと思うと、ゾッとします。まあ、生き物を利用するのですから、扱いは通常兵器より難しいと思います。次に、ウイルス兵器の代表格、天然痘についてお話しましょう。まず、二人ともこちらに右肩を向けてみてください」
由利子と葛西は、何だろうと思いながらも疑わずにそれぞれギルフォードに右肩を差し出した。

「今頃ジュンペイは、彼女といっしょに先生の講義を受けているんやろうな」
多美山は、代わり映えのしない隔離病棟で本を読む間に、時計を見ながらつぶやいた。
 葛西が多美山と過ごしたいと言ってくれた時、本当はとても嬉しかった。しかし、それを素直に受けることは、多美山には出来なかったのだ。もし、ジュンペイがいる時に急に病状が悪化したら・・・、いやそれ以上に怖いのは・・・。そこまで考えて、多美山は頭を振った。思うだに恐ろしかった。しかし、美千代の所業が思い出したくないのにフラッシュバックし、多美山は、頭を抱えてベッドに突っ伏した。
(もし発症したら、俺はどうなる・・・?)
眼に見えない悪魔に怯える日々。一旦発症したら、治療不可能な新型のウイルス感染症。今、俺の身体はじわじわとウイルスに冒されているのか? だとしたら、どれくらいなのか? 俺は死んでしまうのか? 赤い血を撒き散らし、周囲を朱に染めながら・・・? 美千代の前に立ち塞がった時に、覚悟を決めたつもりだった。だが、こうやって一人でいると、恐ろしさがだんだん迫って来る。耐え難い恐怖が。その時、ドアをノックする音が聞こえて、看護士の園山が入ってきた。
「こんにちは。検温に参りました。体調の方はいかがですか?」
「園山さん、ありがとう。助かりました」
多美山は我に返りながらほっとして言った。
「え? どうかなさいました?」
園山は、きょとんとした顔で多美山を見て言った。

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2.侵蝕Ⅱ (3)ギルフォード教授の野外講義 後半

※この講義でふれた種痘の件ですが、これを書いたころはまだ由利子さんの年齢にも種痘の痕があっておかしくありませんでした。しかし、書いていくうちに年月が経ち、由利子さんどころか教授すらその年齢には種痘接種痕のない時代になってしまいました。最終的に書きなおす予定ですが、しばらくはこのままであることをご了承ください。

 由利子と葛西が教授の講義を受け、多美山が園山看護士の顔を見てほっとしている頃、とある場所で大変な騒ぎが起きようとしていた。

 D市在住の大坪俊男は、夕方恒例の犬を連れた散歩をしていた。彼は定年退職後、D市の閑静な住宅地で悠々自適の生活をしていた。彼はこの地に住んでから長いが、近年増え続ける無頼学生に辟易していた。俊男は、今日は気分が良かったので、なんとなく遠出をしてみようと思い、山の方に入った。犬のタロウは、今日の散歩が長いことがわかって、嬉しそうにあちこち嗅ぎまわりながらたまにマーキングをしつつ、歩いている。彼は、柴犬系の白い雑種犬で、滅多に飼い主を引っ張るようなことはなかった。
 山道を通って、俊夫は県道に出た。県道とはいえ、山の中の道路である。歩道は無くその分路肩が広めにとってあった。俊男は、張り切って歩きすぎたと苦笑いしながら愛犬に話しかけた。
「タロウ、遠くに来すぎたごたるけん、そろそろ引き返そうか」
あまり道路際を歩くのを好まない俊男は、タロウを軽く引っ張ろうとした。しかし、タロウの様子がおかしい。耳をピンと立てて何かを警戒している。その後、クンクンと臭いながら、珍しく飼い主を引っ張って草むらの方に歩いて行こうとした。
「なんかあるとや?」
俊男は怪訝そうにタロウの向かいたがる方向に、慎重に歩いて行った。タロウは草むらの一部を見ながら足を止め、上半身を低くしてウーッ!と警戒の唸り声を上げた。その時、草むらがワサワサと揺れ、何か黒い塊が飛び出してきた。
「うわ~!!」
俊男は悲鳴を上げた。タロウは再び低くうなると、ワンワンと激しく吠え立てた。それは大量の虫のようだった。タロウの剣幕のせいか、虫たちは反対方向に逃げ去った。俊男は腰を抜かさんばかりに驚いて言った。
「な・何やったとや、ありゃあ? 心臓が止まるごとあったぞ」
しかし、タロウはまだ警戒を解いていなかった。彼はクンクンと草むらのにおいを嗅ぎながら、何かを探していたが、ある地点でピタリと足を止め、急に怯え始めた。
「あの草むらに何かあるとや?」
俊男はタロウに聞いた。タロウは怯えたまま、今度は頑として動かない。仕方ないので、俊男が様子を見に草むらに入っていった。草をかき分け進むと、何かが足に当たった。固いけれど何となく弾力があるような、妙な感触。嫌な予感がして、俊男はゆっくりと・・・ゆっくりと下を見た。
 

 ギルフォードは、二人に右肩を自分の方に向けさせると言った。
「じゃ、二人とも、肩まで袖を捲ってみて」
「ええ~? 何でそんなこと・・・」
由利子が言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「天然痘に関わる重要な事ですよ。別にストリップしろって言ってるんじゃないですから」
「わかった! 種痘の痕(あと)ですね!」
葛西はポンと手を打って言った。
「正解です。そういうことですので、ユリコ」
ギルフォードは自らの袖も捲りながら言った。「僕にも右の二の腕・・・というか肩に近いところに、はんこを押したような痕があります。ユリコにもありますね」
ギルフォードに言われ、由利子はしぶしぶ袖を捲り上げて言った。
「はい、あります」
「あ、ジュン、ちょっと失礼」
ギルフォードは、手を伸ばして葛西の右腕をとってから言った。
「おや、意外と筋肉質ですねえ」
「一応警官ですから」
と、葛西は若干テレながら言った。
「まあ、それはともかく・・・」ギルフォードは、由利子が何となく冷たい目で見ていることに気がついて、話題を戻して言った。「ほら、彼の腕にはないでしょう? 多分左腕にも無いと思います。ある年代から、種痘を受けなくてもよくなったからです。日本では、1976年に種痘が中止されましたが、その前から種痘を行わなくなっていました。日本での天然痘の自然発生がゼロになっていたのと、副作用の問題が顕在化してきたためです。ユリコの年代が種痘を受けたギリギリのラインではないかと思います」
「アレク、何さりげなく葛西君の腕を持ったままにしてるんですか。葛西君困ってるじゃない」由利子は葛西が気の毒になって言った。「そもそも、フツーそーゆーことは女性に対してやるもんでしょ」
「だって女性にやったらセクハラじゃん」
「そりゃあ、フツーのオヤジならそうでしょうけど、アレク、あなたの場合はイテッ!・・・今、私の足、蹴りましたね!」
「あ、ゴメンナサイネ、足が長いもんで。では、あなたも腕を掴んで欲しかったですか?」
ギルフォードは、そう言いながらテーブルに両肘をついて両手を組みあごを載せ、にっと笑った。
「あのね、アンタね」
由利子はムカッとして、椅子から立ち上がると、テーブルにバンと手を置いて、ギルフォードに迫った。しかし、彼はクスクス笑いながら言った。
「それが地なんだ」
由利子は、その一言で真っ赤になった。しまった、つい、アンタと言ってしまった。横を見ると、葛西が驚いて目を丸くしていた。
「あ、失礼っ、つい・・・」
由利子は無礼を詫び、焦って席に就いた。しかし、ギルフォードは笑いながら言った。
「ノー・プロブレムです、ユリコ。猫は被らなくていいんですよ。これから長いお付き合いになるかもしれないんだから、地はどんどん出してください。そのためのレクリエーションです。僕も女性は活きの良い方が好きですし。では、続きをやりましょう。さて」
ギルフォードは姿勢を正して椅子に座り直すと言った。
「天然痘は、医学では痘瘡と言いますが、ここでは馴染み深い天然痘でいきましょう。天然痘というのは、種痘に対して自然発生する痘瘡をいうようになったようです。このウイルスは人類によって始めて制圧されたウイルスです。種痘という有効なワクチン接種があったことと、自然界ではヒトだけが保有するウイルスであったことが、根絶出来た主な理由です。1980年、WHOは自然界の天然痘ウイルスの根絶を宣言しました。地球上の何処にも天然痘ウイルスが存在しなくなったのです。ただし、いくつかの研究所を除いてですが。その後、何度かの不幸な事故、つまり、バイオハザードで何人かの命が奪われ、結局、天然痘ウイルスは、現在、アメリカのCDCとロシアのベクター研究所の2箇所のみが保管するということで落ち着いています。でも、ほんとは保管されたウイルスは、解明が終わったと同時に廃棄されるはずでした」
「廃棄されなかったんですか?」
由利子が尋ねた。
「はい。密かに誰かがウイルスを悪用しようと保管している可能性は残っており、それがテロや兵器に使われた時に、抗ウイルス剤やワクチンを作るために必要だというのです。まあ、本音は一番怖いのはウイルスを所有しているお互いの国ということだったんでしょう」
「核兵器開発と同じ理由ですね」
と、葛西が言った。
「そうです。まあ、もし、廃棄が実現していたとしても、お互い密かに隠し持っていたでしょうケド。炭疽菌と同じようにね。廃棄に反対する意見の中で面白いのは、病原体とはいえ意図的に人類が一つの種を消滅させてしまっていいのかという、とても『人道的』な意見です」
「ウイルスにとっては、まさにそう言う気持ちでしょうけど、なんだかな」
葛西がいうと、由利子も
「まったくだわ。既に天然痘ウイルスをフルボッコにしていながらそれはないと」
と、苦笑しながら言った。ギルフォードは由利子が言った言葉に興味を持ったらしく、すぐに尋ねた。
「フルボッコ・・・?何ですか、それは?」
「あ、フルパワーでボッコボコにするって意味の略語です」
「オー、ボッコボコは、殴る時の擬音ですね。やはり日本語は面白いです。いろんな言葉を取り入れて新しい言葉を作りますね。あ、すみません、また脱線しましたね。・・・ですから、根絶したことが皮肉にも、この古典的ともいえるウイルスを最強の生物兵器のひとつにしてしまったことになります。しかし、僕は、天然痘撲滅は、アポロの人類月着陸に匹敵する・・・いえ、それ以上の偉業だと思っています。少なくともそれに関しては、人類が初めてひとつの目標のために協力しあったのですから。ですから、これを意図的にばら撒き、元の木阿弥にするのは許せないことです。」
聴講生二人はうんうんと頷いた。
「天然痘は、炭疽病と違って人から人へ感染します。潜伏期間の感染はないですが、身体に発疹が出て天然痘と発覚する前に口や気管の粘膜に発疹が出来、咳やくしゃみによってウイルスが飛び散って他の人に感染します。もちろん全身に広がった発疹の膿や瘡(かさ)からも感染します。天然痘の発疹は独特ですが、最初は水痘、いわゆる水疱瘡と区別がつきにくいです。水痘の場合は天然痘に比べると致死率も低く後遺症も少ないです。痕は少しは残りますが、天然痘のような目立った瘢痕(はんこん)は残しません。しかし、水疱瘡が治癒した後も、水痘ウイルスは神経系に隠れ、何十年も経って、免疫の弱った時を見計らって悪さをします。いわゆるヘルペス・・・、帯状疱疹ってやつです。
 さて、天然痘の発疹は痘疱(とうほう)といってとても特徴的です。同じような大きさの・・・う~~~ん、荷造り用の緩衝材にプチプチ・・・エアークッションがありますね、あのプチプチに空気ではなく膿をつめたようなのが主に手足と顔にびっしりと出来ます。大きさは約10mm程度で少しへこんでいます。身体の前の方はそこまでびっしりにはなりません。そこらへんも水疱瘡とは違います。致死率は高いですし、治癒してもすごい痕が残ってしまいます」
「天然痘ウイルスが今撒き散らされたら大変ということですね。種痘を受けていないからみんな免疫がない」
「そうです。僕も君も種痘の効果はとっくに切れてますから、ジュンとリスクはあまり変わりません。世界中の人間が、およそ30年天然痘ウイルスに触れていないということです。まったく免疫がないことが、どういうことかというと、南米の先住民・北米の先住民、共に、侵略者の持ち込んだ、天然痘ウイルスによって壊滅的な被害を受けました。天然痘患者の膿をつけた毛布を、北米先住民に意図的に配ったという記録もあります」
「なにそれ、ひっどいことしたんだ」
「まあ、その酷いことをしたのは、イギリス人なんですが、僕も許せない行為だと思います。ネイティヴ・アメリカンは勇敢でしたから、まず、その戦闘能力を奪おうとしたのでしょう。当時は病原性微生物によって感染症に罹るという概念はなかったのですが、経験的に試してみたのだと思います。結果的に生物兵器を使ったことになります。それにより、イギリス軍は先住民との戦争に優位に立ちました・・・。もちろん、軍事力の差は大きかったので、残念ながら、いずれは征服される運命だったのでしょうけど・・・」
「歴史の影に微生物あり、ですね」
と、葛西が言った。
「そうですね。さて、話は現代にもどりますが、今度天然痘が自然発生を始めた場合、以前のような根絶運動はできません。なぜなら、エイズの問題があるからです」
「あ、アフリカやアジアの貧困層に蔓延しているみたいですからね」
と、これも葛西。
「そうです。HIV感染で免疫の低くなっている人たちへのワクチン接種は、命取りになりかねません。それでなくても副作用があるのですから。たった30年で、世界はあの時と全く状況が変わってしまったのです」
「アレクはその天然痘ウイルスはどうすべきだったと思う?」
「僕はもちろん廃棄派ですよ、ユリコ。根絶運動の苦労は聞いてますから。種痘はね、覚えてないかも知れないけど、二股針という器具を使って何度も皮膚を軽く刺してワクチンを植え込むんです。そういう行為をするのですから、未開地の部族の方たちに接種する場合など、まず、信頼関係を築かねばなりません。命がけで身体を張って・・・、そう、何かがあったら殺される覚悟で種痘を行った医師だっているんです。それに、ワクチンを作るために犠牲になった牛さんたちにも申し訳ないです」
「牛?」
由利子が訊いた。何故牛?
「そうです。ジェンナーは牛痘・・・牛の罹る天然痘ですね、に罹った人は、天然痘に罹らないということを証明するために、牛の乳を搾る女性の手に感染した牛痘の病変から取った膿を、当時8歳だった羊飼いの少年に接種しました」
「ええ? 自分の息子にじゃなかったんですか?」
「いえ、残念ながら最初の実験では他人の子を使ってます。その少年は、その後20回ほど天然痘患者の膿を接種させられましたが、発症しませんでした。まあ、それが種痘の始まりなのですが、問題があって、人の膿を使うので、ほかの病原体も混じることがあり、ひどいときには種痘によって梅毒もついでにもらってしまうこともありました。英語では天然痘をスモール・ポックス、梅毒は古い言い方でグレート・ポックスというのですが、まあ、天然痘を予防するつもりが、似たような名前の病気に感染してしまうという、洒落にならない状態を招いたりしたのです。因みに名前は似ていますが、この二つは全く違う感染症です。梅毒の発疹に比べて天然痘の発疹が小さいのでこう呼ばれるようになりました。梅毒の病原体は、スピロヘータという細菌と原虫の中間に位置するような単細胞生物です。で、その後、子牛の腹を使ってワクチンを作るという、方法が考え出されたのです。今では動物愛誤の考えから、この方法は使えないでしょうが、天然痘根絶運動の時までは、この古典的方法が使われてきたのです」
「で、ワクチンに使われた牛は・・・?」
と、由利子がすかさず訊いた。
「う~ん・・・、言い難いですけど、だいたい処分されたということです」
「酷い! 使い捨てだったんだ。役に立った牛ということで死ぬまで面倒見るべきでしょう!!」
「そうです。でも、当時にはそういう考え方なんかなかったのでしょう。実験動物は実験が終わったら処分があたりまえだったのではないでしょうか。だから、天然痘根絶の影には、多くの牛さんたちの尊い犠牲があったのです。因みに1頭の牛からは2万人分のワクチンがとれました」
ギルフォードは、フォローともいえないフォローをしたが、由利子の憤りは納まりそうになかった。
(”これじゃ、牛でどうやってワクチンを作るかまで話したら、俺に噛み付きかねんなあ”)
そう思ったギルフォードは、その説明は避けた。その製造方法とは、牛をよってたかって仰向けに押さえつけ、腹の毛を綺麗に剃って、腹全体に縞模様に浅い傷をつけ、そのワクチンの元となるウイルスを擦り付ける。そのあと、ガーゼで傷を覆うが、牛が疲れて座ったら泥がついて台無しになるので、縛り付けて立たせたままにする。一週間後牛の腹に溜まった膿を、また仰向けにねかせて削り取る。それがワクチンになるのだ。明らかに今なら動物福祉法(日本では動物愛護法あるいは実験動物の飼養及び保管等に関する基準)違反であろう。そんな辛い目に遭わされた挙句に殺された牛たちは、迷惑なんてものじゃなかったろう。彼らにとっては、まさに災厄である。
 ギルフォードは話の矛先を変えることにした。
「天然痘撲滅には、日本人も重要な立場で関わっていたんですよ。天然痘根絶計画の2代目のリーダーは、日本人のアリタ(蟻田)博士でした。
 それから、種痘は副作用が強いワクチンで、時に脳症をひきおこしました。それは1歳未満の乳児に多かったので、種痘接種の年齢を1歳半からに上げたりとリスクを減らす工夫はされたのですが、それでも、種痘による副作用は時にですが、おきてしまいました。副作用は、種痘後脳炎のほかに、免疫が落ちた人におこりやすい進行性種痘疹、これは、しばしは致死的状況を招きます。それから、健康な人に時におこる全身性種痘疹、これは見かけに反して予後はいいです。以前、テレビのバラエティ番組で、女性お笑いコンビの黒い方が、子どもの頃種痘の後に発疹が出て、いろんな医者が見に来たとか言ってましたが、彼女もおそらく全身性種痘疹だったのだと思います。まあ、副作用が多いワクチンとはいえ、医者が見に来るくらいなのですから、やはりめずらしいことだったのでしょう。
 で、1970年代の初め頃、日本のハシヅメ(橋爪)博士が脳炎を起こす確率の低い、安全なワクチンを開発されました。しかし、当時はすでに、天然痘は撲滅されつつあり、日本の種痘は1976年には中止されていたので、この、ハシヅメワクチンが、その威力を発揮する機会はなかったですが、昨今のバイオテロの心配から、また注目されるようになりました」
そこまで言うと、ギルフォードは由利子の顔を見て言った
「安心してください、ユリコ。今のワクチン製作の多くは、培養細胞や卵などを使っており、生きた動物は使ってません。これは、動物福祉法の関係もありますが、他の病原体の汚染を防ぐためでもあります」
由利子は納得したようなそうでないような顔をして頷いた。
「さて、これで、何故天然痘によるバイオテロが恐れられているかわかりましたか」
「はい。そういえば、半島にある北の某国ほか数カ国が、天然痘ウイルスを持っている可能性があると聞いたことがありますが」
「そうですね。ソ連の崩壊で、食い詰めた生物学者が、生活に困って売っ払ったり亡命時に持ち込んだりという可能性はあります。だから、さっさと廃棄すべきだったんです。ウイルスの保管は難しく、それなりの設備や技術も必要ですから、その国が隠し持っていたというより、ロシアから得たと考えるほうが無難でしょう」
「なるほど」
由利子は納得した。
「では、時間がなくなって来ましたので、駆け足で次にすすみましょう」
 

 俊男は、ゆっくりと足元を見て、息をのんだ。ついで心臓が飛び出るほど驚いたが、今度は驚きすぎてろくに悲鳴も上げることが出来なかった。
「ひ、ひぃ~」
全力で絞り出たのは、こんなかすれた声だった。俊男は見下ろした先にあったものを、凝視していた。頭ではそれを拒否しているのに、身体が動くことを拒否し、眼が勝手にその全貌を確認した。そこには、死体の頭部らしきものがあった。らしきと言うのは、食い荒らされて顔の特徴部がほとんど無くなっていたからだ。瞼や鼻・唇はすでに食いつくされ、眼球もしつこく突かれた跡があった。目鼻や耳から入った虫から、脳も相当食われているようだった。死体の首から下は大まかには欠けてはいなかったが、細部はあちこち食われてしまっていた。衣服から男性だということの予想はついたが、年齢他、見当がつかないほど、損傷が激しかった。呪縛が解けたように俊男は動き出すと、よろけながら草むらから脱出した。
「う・・・うげぇ」
うずくまり、何度も吐きそうになるのをこらえて、ズボンのポケットから電話を取り出した。
「うげ、ひゃ、ひゃくとおばん・・・おえ」
食事前で良かった、食ってたら確実に吐いていた・・・。俊男は心の隅で思った。そんな俊男を心配して、タロウがやっと動き出し、心配そうに彼の傍に座った。焦りながら、110番を押そうとするが、指が震えてなかなか押せない。その様子を不審そうに見ながら車が何台も通り過ぎていった。そんな中、俊男を心配したのか、その中の一台が引き返してきて、路肩に止まり助手席の女性が降りてきた。
「どうなさいました?」
それは上品そうな熟年女性だった。
「あそこに、し、死体が・・・」
「死体?」
彼女は、俊男が指差している方向に行こうとした。
「だ、だめです! 女性が見るもんじゃなかですけん」
俊男はあせって止めた。その様子を見てただ事じゃないと思ったのだろう、運転席の男の方も降りてきた。
「夏美、どうした?」
「あ、あなた・・・。あの、あそこに死体があるそうなんですよ。どうしましょう」
「死体? なんかの見間違いじゃないのかい?」
夫は、夏美の指差した方へ向かった。その時、俊男がようやく110番通報に成功した。
「F県警本部、通信指令室の河上です。どうされました?」
「は、はい・・・。うげ」
「落ち着いてください。事故ですか、事件ですか?」
「た、多分事件です」
その時、死体を見た夫が悲鳴を上げて、草むらから飛び出してきた。
「こ、こりゃいかん、警察を呼ばにゃ」
「今、電話されているようですよ」
慌てる夫に妻が答えた。通報先の警官にもその悲鳴が聞こえたらしい。
「今なにか悲鳴が聞こえましたが、大丈夫ですか?」
「今、死体を見た人が上げた悲鳴です」
「死体! それは大変だ! まだ息があるようなことはありませんか」
「あれで生きとったら・・・。死後だいぶたっとるようですけん」
「状況を説明出来ますか?」
「状況は・・・、うげ・・・、すんません。とても・・・。とにかく、道路脇の草むらに男の死体が隠してあったとです」
「わかりました。場所はどこですか?」
「D市の県道の・・・、すんません、説明出来そうにありません」
「近くに電柱か自販機はないですか?」
と、警官が尋ねた。固定電話の場合は住所を特定できるが、携帯電話の場合は特定が難しいので、最寄の自販機に書いてある住所、無い場合は電柱の記号で割り出すのだ。
「電柱か自販機ですか?」
俊男はそれらを探そうと周りを見回した。その時、いつの間にか夏美とその夫がタロウと共に、傍で電話の内容を心配そうに聞いていたことにようやく気がついた。
「電柱か自販機ですね」夫の方が言うと、半屈みの状態から立ち上がり、道路際に出て周囲を見回した。
「あ、あそこに電柱があります! ちょっと遠いので僕が見てきましょう。何を見てきたら・・・」
「電柱、あるそうです!」
俊男は警官に告げた。
「では、電柱に番号が書いてありますから、それを教えてください。それで、場所が特定できますから」
「わかりました!」俊男はすぐにそれを協力者に告げた。「電柱の番号だそうです」
「わかりました、見てきます!!」
と言うや、夏美の夫は電柱まで駆け出した。
 

「さて、生物兵器と一口にいいますが、幅が広く、使われる微生物も細菌やウイルスだけでなく、リケッチア・クラミディア・真菌・・・いわゆるカビです、などが使われます。また、生物そのものではなく、それが出す毒素を利用する場合もあります。リシンなんかはよく暗殺に使われます。これは、ヒマという植物の実から抽出した毒素で、猛毒です。摂取したばあいの有効な治療法はありません。ヒマは世界中に自生する植物なので、入手しやすい毒素ということになります。
 O教団がテロに使おうとして失敗したのは、ボツリヌス菌の作り出すボツリヌス毒素です。これは、毒素兵器の代表格なので、少し詳しく説明します。ボツリヌス毒素は、地球最強の毒素で、その毒性は青酸カリの30万倍の強さともいわれています。ボツリヌス菌は、嫌気性の細菌なので、無酸素下でどんどん増えます」
「あ、そういえば、ずいぶん前ですが、からしレンコンからボツリヌス中毒を起こした事件がありました。おかげで、いまでもからしレンコンといえばボツリヌス菌とインプットされちゃってて。まあ、食べますけど」
と、由利子が言った。
「なるほど。ボツリヌス菌は、よく土の中にいるので、たまたまレンコンに付着した菌が、除菌を免れて真空パックの中で増えたのでしょう。酸素を嫌う菌ですから、よくソーセージの中で繁殖して中毒患者をだしますから。ボツリヌス菌も炭疽菌と同じように芽胞を作りますから、熱や乾燥や消毒にも強いです。ただし、毒素自体は高温に弱いですから、熱を加えると無毒化します。ですから、真空パックのものは、過熱して食べたほうが無難なわけです。
 ボツリヌス毒素を摂取すると、普通、1日から数日後に症状が表れます。まず、頭の方から症状が現れます。物が二重に見え始め、ものが飲み込めなくなり、声が出せなくなって、顔から表情がなくなります。その時眼瞼下垂といって瞼が下がるという特徴的な症状がでます。進行すると、全身が脱力して最終的には呼吸困難を起こして死亡します。恐ろしいのはその間意識がはっきりとしているということです。治療しない場合の致死率は20%ですが、これは毒素の摂取量によってもかわります」
「予防や治療法は?」
「はい、今までヒトに中毒を起こした菌型の抗血清はありますが、毒素が神経組織と結合してしまった場合には効果がありません。ボツリヌス中毒で呼吸困難を起こした場合は人工呼吸器をつけてその場をしのぐしかありません。それで神経組織が新たに再生するのを待つのです。有効なワクチンはありますが、珍しい中毒なので、現在ボツリヌスを扱う人にしか接種されていません。まあ、あるかどうかわからないテロのためにワクチンを接種する必要はありませんからね。
 しかし、怖いのは、そのボツリヌス毒素が実際に使われた場合です。テロを含めてボツリヌス毒素を兵器として使う場合は、エアロゾルにして空気中に散布します。もちろん無味無臭ですから、住民は気がつかないうちにボツリヌス毒素に曝露されます。そして間を置いて続々と中毒患者が発生しますが、この場合、患者数が多すぎて、人工呼吸器が足らなくなる可能性は充分にあります。街はパニックに陥るでしょう。サリンテロは行われてしまいましたが、バイオテロが失敗したことは、不幸中の幸いでした。ボツリヌス毒素は国会付近で撒かれていました。毒ガスの場合、効果はすぐに出ますから早急に対処できますが、生物兵器の場合は潜伏期間があり、発症までにタイムラグがあります。その間に、水面下で被害が拡大してしまいますから」
「今回の事件も、今現在水面下で広がっている可能性があるんですよね」
葛西が浮かない顔をして言った。急に心配になったらしい。
「そうでないことを願いたいですが、可能性は高いでしょう」
「こんなことをしてていいんでしょうか・・・?」
「だって、どうなってるかわからないんだもん、じたばたしても仕方ないじゃん」
ギルフォードは、珍しく投げ遣りともいえる発言をしたが、そうではないことはすぐにわかった。
「だから僕たちは、今出来ることを精一杯やるしかないんです。今、君達がすべきことは、バイオテロについてしっかり学ぶことです。そうでしょ」
ギルフォードの言葉に、二人は黙って頷いた。
「もし、何か進展があった場合、すぐに感対センターから僕の携帯電話に連絡が入るようになっています。今のところ、特に連絡はありませんから、ゆっくりしてて大丈夫ですよ。それに・・・」
「それに、何ですか?」
と由利子が訊いた。
「もし、事件が動き始めたら、ひょっとすると休日すらなくなるかもしれません。休める時に休んでおくべきです。では、講義を続けますよ」
「はい」
聴講生二人は同時に返事をした。
「その他の毒素兵器に使われそうなものは、フグ毒のテトロドトキシン・カビ毒のマイコトキシンがあります。マイコトキシンの中で元も重要なのがコウジカビの一種フラバン菌の作るアフラトキシンです。この毒素は安定していて熱にも強く、発がん性があります。一度に大量のアフラトキシンを摂取すると、急性中毒をおこし、最初腹部の不快感を覚え、その後黄疸をおこし、最終的には手足の痙攣、こん睡状態に陥り死亡します。有効な予防も治療法もありません。コウジカビだけにまさに『醸して殺すぞ』ってやつですね。フセイン時代のイラクでは兵器化に成功していたと言ううわさもあります。熱に強いので、エアロゾルとして撒くほかに、ミサイル等に搭載も出来ます。
 細菌では赤痢菌の、今では病原性大腸菌O157の毒素としてのほうが有名なシガ(志賀)毒素、これは、ボツリヌス菌や破傷風菌毒素に匹敵する強毒素です。そして、黄色ブドウ球菌腸管毒素、これは、毒性は今まで挙げたものほど強くなく、致死率も1%以下ですが、エアロゾル化して散布した場合、発熱や嘔吐などの症状で、敵を無力化することが出来ます。治療法がないので、対症療法しかないのが現状です。
 次に、リケッチャとクラミディアです。これらの名前はユリコはあまり馴染みがないのではないかと思いますが・・・」
「あ、クラミジアですよね。それ、聞いたことがあります。たしか性病の・・・」
「それは、性感染症のクラミディア・トラコマティスですね。兵器として使われる可能性のあるクラディミアは、オウム病の原因微生物で、種類が違うのです。こちらはズーノシス・・・人獣共通感染症です」
「あ~、違うんだ」
「そうです。リケッチャやクラミディアは、科の名称です。共に、細菌より小型で、自前の細胞はもっていますが、完全ではないので、ウイルスと同じように他の細胞を利用して増殖します。細菌とウイルスの中間に位置するような生物です。この中では、生物兵器として米陸軍がかつてユタ州の兵士を使って人体実験を行い、また、O教団が特に興味を持っていたという、Q熱について簡単に説明しましょう。
 これは、最初なかなか病原体が見つからず、英語で”Query”・・・謎と言う意味ですが、この頭文字から名づけられました。伏字にしたわけではありません。これは致死率は低いですが、発症した場合病気が長引きますので、黄色ブドウ球菌毒素と同じように、敵の無力化のために使われます。また、Q熱リケッチャは芽胞に近い構造をとることが出来るので、熱・乾燥・消毒に強いという、生物兵器向きの構造をしています。さらに、このQ熱は、たった1個のQ熱リケッチャを取り込んだだけで発症するくらい感染力が強いです。このQ熱リケッチャと同じように、敵の無力化に使われるものに、ブルセラ菌があります」
「ブルセラ?」
由利子が苦笑して言った。
「ブルマーとセーラー服の略じゃありませんよ。僕も最初、驚きました。僕が講義でこの細菌の名前を言うと、講義室内のあちこちでクスクス笑い声がするんです。不思議に思って調べたら、そういう名の風俗系ショップがあると知りました。ブルセラ症は、僕にとっては笑えない感染症ですが、そういう店があることも笑えませんね、公衆衛生的にも」
ギルフォードは、やや不機嫌そうに言った。
「そうですね」由利子も相槌を打って言った。「日本人に、だんだんプライドやモラルが欠けていってるんじゃないかって、よく思います」
「日本人の、娯楽や性風俗のアイディアには、ユニークなものが多いと感心はしますけどね」
「褒められたんだか、けなされたんだか・・・」
由利子が苦笑しながら言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「両方です。さて、生物兵器ですが、直接人間に攻撃を仕掛ける方法ではないものもあります。農作物や家畜を狙う、アグロテロです。しかし、今回はアグロテロはあまり関係ありませんから、簡単にお話します。近代戦の兵器としては、対人間よりも、対家畜のアグロテロが先でした。旧ドイツ軍は、敵方の家畜に炭疽菌や鼻祖菌を感染させようとしました。また、旧日本軍は牛疫という、牛には致命的な感染症を起こす牛疫ウイルスを乾燥させて風船爆弾に詰め込んでアメリカを攻撃する計画を立てていました。結局これは実行されませんでしたが、もし、実行されていたら、アメリカにはまだ牛疫は上陸していなかったので、相当な被害を受けたかもしれません。日本から風船爆弾は9300発が放たれた内、361発がアメリカ本土に届いていたといいます。今は、牛疫には有効なワクチンがありますので、生物兵器としての重要度はなくなりました。今は、同じく牛のウイルス病で有名になった口蹄疫ウイルスや、豚に強い感染性を持ち、時に致命的な病状を示す、ブタコレラウイルスが生物兵器として有効だと考えられます。
 口蹄疫は豚にも感染しますが、いずれにしても、致死率はあまり高くありません。しかし、これに罹った牛は乳を出さなくなってしまいます。感染力が強いので、現在もこれに感染した牛や豚は殺処分されています。ですから、もしこれがアグロテロとして撒かれた場合、相当な経済的損失を受けることになります。このように、アグロテロは、動物や植物のみに感染する病原体を使いますので、テロリストに安全で、人の犠牲者も出しませんが、経済的なダメージを相当与えるものであり、それを狙ったテロということになります。
 さて、バイオテロに関して重要なことを出来るだけわかりやすくお話しましたが、理解できたでしょうか?」
ギルフォードは、二人に尋ねると、ようやく一息入れた。 

 

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