1.序章 (1)インフルエンザA

 最初にここに来ちゃった方、まず、プロローグからお読みください。

 本編の前に少し注釈を。
 便宜上、日にちと曜日は設定していますが、特に何年に起こった事件とかの設定はありません。まあ、1年か2年先くらいの超近未来と思ってください。
 2009年の新型インフルエンザ発生後それなりに落ち着いた世界です。物語の発端であるM町のインフルエンザ流行は、新型インフルではなくて季節性インフルの地域的な突発的流行です。
 では、本編をお楽しみください

第1部 第1章流感 (1)インフルエンザA

「ああ、一週間も休んでしまった」
 篠原由利子は電車の中でつぶやいた。彼女は30代後半、際だって美人ではないが整った知的な顔をしている。背が高めでスレンダーな体型にショートカットがよく似合っているが、そのせいか時々妙に若く見られる時があった。いつもなら、パンツスーツを決めて颯爽と出勤する彼女だが、今朝は病み上がりの為いまいち冴えない様子であった。

(ああ、行きたくないなあ・・・)
 本当はもう一日休みたかったのだが、このままだと出社拒否症になりそうだと思い、自分に鞭打ってようやく体を布団から引っぺがしたのだった。
 一週間も寝ていたので流石になんとなくフラフラする。家を出て3分もしないうちに、気持ち悪くなって立ち止まった。少し休むと吐き気は治まったが、由利子は念のためいつもよりゆっくり歩くことにした。それが良かったのか、続けて吐き気が起きることはなかった。

 おかげで電車を一本逃してしまったが、次の電車でもギリギリ始業時間に間に合うはずだ。
 病み上がりで立ったまま電車に乗るのは辛かったが、まだ若いのに席を譲ってもらえるはずがない。仕方なく、出入り口横の手摺りにしがみついていた。

 F県K市の一部でインフルエンザが流行していた。
 気温が上がってからの遅い流行であるため、沈静化していたA型H1N1、いわゆる新型インフルエンザの再燃が疑われたが、PCR検査の結果、季節性のインフルエンザでいわゆるロシア風邪といわれるものと言うことがわかった。この時期からはあまり大流行しないタイプのインフルエンザなのだが、春なのに乾燥した気候が続いたせいかもしれない。

 インフルエンザウイルスは、湿気に弱いが乾燥にすこぶる強い。さらに、乾燥しているとウイルスが空気中に舞いやすく、その分感染も広がりやすくなるのである。
 由利子も不本意ながら感染、自宅でぶっ倒れてから高熱で動けなくなってしまい、そのまま会社を休んだ。幸い寝込む前に病院に行き、簡易検査でインフルエンザと診断されて、抗インフル薬はもらっていたので助かった。

 大学を出てから家族と離れて一人暮らしをしていたが、身動き出来ないとなると、医者に行くため家族を呼んでしまうだろう。だが、旧型とはいえインフルエンザは感染力の強い病気なのだから親に感染(うつ)してしまいかねない。
 それで、かなり苦しい思いはしたが、親には連絡しないことにした。言うと心配して来てしまうだろう。飼っている猫の世話等の最低限のことは、なんとかすることが出来た。
 たまに勇気ある友人が尋ねてきて、食事や簡単な身の回りの世話をしてくれた。由利子は感染(うつ)るからと断ったのではあるが。
 幸い、由利子からは誰にも感染しなかったようだ。季節外れの局地的インフルエンザ禍は早くも終息に向かっていた。

(大体、アイツが無理して出社してくるから。)
 由利子は思い出してため息をついた。それは8日前・・・。

 その日の朝のことだ。
 由利子と同じ2課の辻村という若い社員が、自分の席で顔を真っ赤にしながらふうふう言っていた。由利子はお茶を配りながら「大丈夫?」と聞いてみたが、彼はか細い声で「う~~~ん」と答え、机に突っ伏した。
「大丈夫じゃないじゃん。」
 と、由利子。その様子を見て古賀課長が言った。
「おい、オマエの家、M町やろ?あそこは今インフルエンザで大変らしいやないか。オマエも子どもあたりに感染されたっちゃろ! きつかろうし、もう帰ってんよかぞ」
 辻村は顔を少し上げてエヘヘと力なく笑った。
「でも、今日中に仕上げんといかん書類があっとです」
 そういいながら、彼はくしゃみを3連発し、古賀が露骨にいやな顔をした。その時、2課のドアがバーンと開いて、年のころ40半ばの小柄な女性が飛び込んできた。1課の黒岩るい子だ。
 サージカルマスクで武装した彼女は、2課に入るなり大声で怒鳴った。
「辻村~! 休まんか~~~!!」
 彼女は事務服の代わりに私服の上に自前の白衣を着ていた。
 以前、由利子が何故そんな格好をしているのか聞いたら、
『あ、これ? 大学の時使ってたヤツやん。写真現像する時に汚れるけん着とったと。ホラ、事務服だと、他所からきた人たちからなんか見下されるやろ。白衣を着てると何故か神妙に挨拶されるっちゃんね~~~。面白いよ、あっはっは。あ、後、着替えがめんどくさいやろ。この歳になると、夏場は着替えるだけで汗だくになるしさ』
 と、こう答えた。少し変わり者のようだ。

 黒岩は続けて言った。
「あのね、インフルエンザは風邪じゃない。風邪と比べて厄介で重症化しやすいし死亡率も高い。熱のある間は休んで感染を防がんといかん。
 それからマスクはちゃんとつけなさい。ウイルスは小さいからマスクの布目なんか通り抜けるけど、少なくとも咳やくしゃみの飛まつ感染は防げるから。今からさっさと帰って病院に寄ってタミフルもらって飲んで寝てな。あ、車は乗らんほうがよかけんね」
 彼女は言いたいことを言った後、持ってきたマスクを無理やり辻村につけると2課から出て行った。小走りだった。そのあと下の湯沸し室から手を洗う音とうがいをする音が聞こえた。社用で寄り道をしたために、少し遅れて出社してきた横田が、たった今すれ違った彼女の後姿を一瞥して不審そうに言った。
「なんや~?黒岩のオバサン、どうかしたとや?」
「辻村さんにインフルエンザなら休めって言いに来てその後にあれよ。なんかヒドイ疫病患者みたいな扱いよねぇ。ねえ、辻村さん!」
「ふあい。疫病患者ばマスク付けて大人しく仕事しばす」
「辻村、ほんとに大丈夫なんか?」
 ますます鼻声のひどくなる辻村を見て、古賀が不安そうに言った。皆が医者に行けと言ったが、辻村は大丈夫の一点張りで、仕方ないので各々仕事を開始した。
 由利子がせっせとデータを打ち込んでいると、どさっと音がした。ぎょっとして音の方向を見ると、辻村が床に倒れていた。
「辻村さん!!」
「様子が変やぞ」と横田。二人は辻村に駆け寄り、横田が辻村を抱き起した。見てわかるくらいガタガタと震えている。
「辻村さん、しっかりして! 辻村さん!」「おい、辻村ぁ! どうしたんか、オレや、横田や、わかるか?」
 二人の声に、電話をしていた古賀が驚いて電話を切って飛んできた。「おいこら、辻村! しっかりせんか! わあ、白目むいとる!! 篠原君、救急車、救急車!」

 ピーポーピーポー・・・

 辻村を乗せた救急車が、甲高い音を響かせながら去っていった。付き添いには横田が乗っていった。
 会社の玄関周辺には他所からの野次馬がいっぱいたかっていたが、救急車が去ると各々持ち場に戻っていった。
「大丈夫でしょうか」
 と、由利子。
「う~ん、ありゃ脳炎を起こしとるかもしれんなあ。ま、倒れたのが会社でよかったよ。すぐに119番出来たからな。さ、俺らも仕事に戻ろうか。心配やけど医者に任すよりどうしようもないもんな」
 古賀は言いながら部室に戻っていった。
 由利子がさて私も帰ろうかと思いながら、ふと横を見ると黒岩が立っていた。
 しっかりマスクを付けたままだ。白衣を着ているのでどこかの研究者みたいだ。
(これなら挨拶されるわね)
 と由利子は思った。
 黒岩は由利子に言った。
「だから言わんこっちゃない。高熱で無理するからだよ。篠原さん、あんた一番辻坊の近くに居たんだし、気分が悪くなったらすぐに病院に行きなさいよ。会社で倒れていいわけないやん。他の人に感染(うつ)したら大変やろうもん」

 黒岩の言うとおりだった。午後になるとなんだか寒気がし始めた。古賀もさっきからくしゃみばかりしている。
「ぶるる、感染ったかな?」
 古賀は独り言のように言った。「篠原、オマエは大丈夫か?今日は早く帰れ、いいな。」

 夕方5時過ぎて帰る頃になると、由利子はもうふらふらし始めていた。関節も節々に痛みを感じている。やはり感染(うつ)されてしまったらしい。
 古賀から追い立てられるように会社を出て、帰り道にある内科に駆け込んだ。検査キットで調べるとテキメンでインフルエンザの反応が出た。医者が言った。
「ちょっと前なら、インフルエンザの特効薬はとっくに在庫がないところだったんだけどね、新型が出たこともあって夏季も備蓄するようになったんだ」
 由利子にはインフルエンザは高校生以来罹った記憶はないが、高熱と関節痛で死ぬほど苦しんだことは覚えていた。
 タミフルを処方され病院を出ると、ようようの思いで部屋まで帰り着き、着替えもそこそこにそのままベッドに倒れこんで、そのまま上記のように3日間ほどほとんど身動き出来なかった。
 黒岩が同僚を連れてお見舞いに来て、ついでに大量のスポーツドリンクとビタミン剤を置いていってくれた。辻村は処置が早かったため、順調に回復しているらしい。
 だが古賀課長も倒れ、他に数人が感染してしまったという。幸い、横田には感染(うつ)らなかったようだ。「横田さんったら、『馬鹿は風邪を引かないって本当だろ~。』とか言ってんのよ。笑えねぇって」
 見舞いに来た同僚が笑いながら言った。

 そんなことを回想していたら、駅に着いてしまった。
 改札を出て、バスセンターに向かった由利子は外を見て愕然とした。電車の中から見たとき小雨だったのが、バケツをひっくり返したような大雨になっていたからだ。確か朝は晴れていたのに。
「こういうのを『姑の朝笑い』って言うんだな・・・。」
 由利子はつぶやいた。やれやれ、またバスが遅れるな、と思いながら普段なら絶対に座らないバスセンターのベンチに力なく座った。歩いても20分くらいの距離ではあるが、ただでさえ病み上がりなのに、こんな大雨の中を歩けるわけがなかった。

 最悪の病み上がり第1日目だった。しかし、それが彼女がこれから巻き込まれる事件の前触れであることは、今の由利子には知る由もなかった。

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1.序章 (2)近況報告

 ようやく会社についた由利子はエレベーターを待つことにした。
 彼女の会社はビルの3階にあり、普通なら階段を使うのだが、さすがに今日はその気力がなかった。その間に黒岩が走って来た。
(ありゃー、黒岩さんと同じ時間になっちゃったな。完全に遅刻だわ)
 由利子は思った。黒岩は遅刻常習犯だった。黒岩は息を切らしながら汗を拭き拭き言った。
「あ、篠原さん、おはよう。大丈夫? もういいと?」
「はい、もう大丈夫です。ちょっとキツイけど」
 由利子は答えた。エレベーターが到着し、ふたりは乗り込んだ。小柄な黒岩は由利子を少し見上げながら言った。
「このインフルエンザ、変とは思わんやった?」
「特に・・・。普通に高熱が出て普通に関節が痛くて普通に治ったような気がしますけど・・・。かなりキツかったけど、インフルエンザってそんなもんだし」
 そこまで言うとエレベーターは3階に到着した。
「あ、着いちゃった。続きはお昼休みにね」というと、黒岩は元気よく駆けだした。その後姿を見ながら、ため息をついて由利子も歩き出した。走るなんて、まだとてもそんな元気は無かった。

「あのさ、そもそも新型でもない普通のインフルエンザが、こんな5月も終わり頃に流行るってのが変と思うっちゃん」
 昼休み、黒岩が待ち構えたように2課の部屋に入って来るや、由利子の隣に勝手に椅子を引っ張ってきて、座りながら言った。由利子はまだ弁当を食べていた。まだ気分が優れず食が進まなかったからだが、黒岩が話しかけてきたので食べるのを断念し、片付け始めた。
「あ、ごめん、食べよっていいとよ」
 黒岩が申し訳なさそうに言った。
「いいんです。実のところ、今日はあまり欲しくなかったから」
 と、由利子が答えたので、黒岩は安心して続けた。
「普通インフルエンザのウイルスは湿度と高温に弱いけん、冬に流行するやろ? あの新型豚フルならいざ知らず、何で季節型が今頃大流行したんと思う?それもM町近辺限定でさ」
「季節性インフルだって、必ずしも冬場しか流行しないとは限らないでしょ? それに、強毒性が心配されているトリインフルエンザの発生地、東南アジアの方は、暑いし湿度も高そうじゃないですか」
「まあ、そうだけど、時期はずれの上に何でM町に集中してるのかって。それに・・・」と少し間を置いて言った。
「ひょっとして、例の特効薬、効かなかったんじゃない?」
 そういえば、一向に楽にならなかった。そのせいで一週間も休むハメになってしまったのだ。
 しかし、インフルエンザの抗ウイルス薬に耐性を持つウイルスについて以前新聞で読んだことを思い出し、黒岩に言おうとしたが、黒岩は質問のターゲットを違う方向にロックオンしていた。
「そういえば辻村君、あんたのインフルエンザ何処で拾ってきたん?」
「え~、オレですか~?」
 今まで机に突っ伏して寝ていた辻村は、いきなり話題をふられて顔を上げ、赤くなった顔で眠そうな目をこすりながら言った。
「息子の通っている幼稚園で急に集団感染したとです。で、すぐに園を閉鎖したけどすでに遅く息子も感染してしまって・・・。そして、次にカミさんがやられてその後にオレが感染ったとです。一家全滅ですよ」
「で、辻村君から篠原さんと古賀課長に感染したんやね」
「申し訳なかったです。オレがちゃんと休んでいたら・・・」
 辻村はしょんぼりとして言った。
「やけど、もう流行はほぼ終息したっていうことですけん」
「う~~~ん、やっぱとーとつやねえ」と黒岩。
「で、黒岩さんはどう思ってるんですか?」
 と由利子が言った。内心(この人は言うことが大袈裟だからなあ)と辟易していたのだが。
「笑うなよ。遺伝子操作の新型で、きっとどこかの研究室から漏れたんじゃないかって思っとるんやけど」
「黒岩さ~ん、変な小説の読みすぎですよ~~~」
 辻村が笑いながら言った。
「だから笑うなゆーたやん」
 黒岩は少し顔を赤くして言った。自分でも若干そう思っているのだろう。由利子は笑わなかったが疲れが倍増した気分だった。
「は~い、もう1時過ぎてるよ~~~、持ち場に就こうね」
 いつの間にか古賀が部屋に帰ってきていた。
「は~~~い、すんませ~~~ん!」黒岩はあわてて出て行った。2課はいきなり静かになった。

 由利子は5時になると、直ぐに会社を出た。ぐずぐずしているとまた黒岩に捕まりそうだったからだ。雨は昼過ぎには落ち着いて、夕方にはもう薄日が差していた。この日は何処にも寄らずにまっすぐ帰った。

「にゃ~子、はるタン、ただいま~」
 部屋に入るとすぐに愛猫の『にゃにゃ子』と『はるさめ』を呼んだが出てこない。
 探したらベッドの中で仲良く熟睡している。室内で大暴れした形跡があった。久々にケージから出され、ヒートアップしたらしい。
「くぉ~ら、おまいら~~~。」
 いつもならひっくり返しておなかモフモフの刑に処すのだが、今日はそこまで元気がなかった。それで彼女らはそのままにしておいて、あり合わせの材料で適当に食事を済ませて、ゆっくり風呂に浸かった。
「んんん~~~」
 湯船で腕をぐっと前に伸ばしながら背伸びをした。節々が生き返ったような気がした。
(あさってあたりからジムに復帰しなくっちゃ)
 病気で休んでいる間に、身体は鈍りに鈍っていた。

 風呂から上がると、テレビとパソコンをつけてカフェ・オ・レを飲みながらまったりとメールやサイトのチェックを始めた。由利子のブログを見ると、彼女の身体を心配するコメントが沢山ついていた。インフルエンザで休んでいる間、当然更新も滞っていたが、昨日やっと数行近況を書いてアップしていたのだ。しかし、一々返事を書くのもまだ疲れるので、今日のエントリーでお礼を書くことにした。

みんな、ありがとう。もう大丈夫だよぉ~。 (`・ω・´) シャキーン

とか言って、ホントはちょっとキツイけどさ~。 ( ;-∀-)ノ

 などと、テレ隠しにガラにもなく顔文字を多用して書いてみた。一通り書き終わったあと、今日のことも少し書いてみることにした。

でね、私の会社にいるKさんって人が、「これは遺伝子操作されたインフルエンザじゃないか」なんてスゴイこと言うんだよ┐('~`;)┌
ない、ないって(爆)

じゃ、また明日から平常運転に戻りま~す。今日はもう寝るね。

 と書いて、書き込みボタンを押した。
「これでよ~し」
 そう言うと、さすがに疲れたので、本当に寝ようと這うようにベッドまで行った。布団をめくると愛猫たちが、相変わらずど真ん中に眠っていた。飼い主の帰ったのも知らずに爆睡している。
(こん子たちはもぉ~)
 あきれながらも彼女らを避けるように布団に入り、そのまま電気を消した。

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1.序章 (3)一粒の種から

20XX年5月24日(金)

 翌朝、由利子は平常の朝どおり6時に起きる事が出来た。目が覚めるとにゃにゃ子が顔面に、はるさめが腹の上に乗って寝ていた。由利子が病気だったので、昨日の朝までケージに入れられてしまっていたのだから羽を伸ばすのも無理はない。しかし、顔面はないだろう、と由利子は思った。
 普段彼女は朝起きると30分ほど軽くジョギングをするのが日課である。それで、今朝は気分がだいぶよいので、久々に出かけることにした。

 昨日とはうって変わって爽やかな朝だった。5月も後半になると新緑の葉色もだいぶ濃くなってきている。
(この時間もすっかり明るくなったなあ。)
 走りながら由利子は思った。県道の横を走って川沿いに抜ける。川の土手にはさまざまな野草が色とりどりの花を咲かせており、木々や電線の上で小鳥達が口々にさえずっている。
 川の浅瀬にはアオサギが魚を狙って静かに立っていた。この時間はいつもあそこにいるので多分同じ個体だろう。コサギも数羽見かけるようになった。
「しっかし、雑草に外来種が増えたなあ。花が綺麗なのはいいけど」
 いつもの折り返し地点で、軽くストレッチをしながら由利子はつぶやいた。
 近年オレンジ色のナガミヒナゲシや薄紫のマツバウンランなどが、特に目立っている。
 可憐な紫の小さい花を沢山咲かせるマツバウンランは、愛好者が多く専用のサイトまで出来ている。しかし、その見かけの可憐さとは裏腹に、痩せた土地にもどんどん勢力を広げることの出来る頑丈な雑草だ。日当たりのよい空き地には大抵群生している。冬場にしっかり文字通りの根回しをしているからだ。
「お前達、アメリカ生まれなのにずうずうしいぞ」
 といいながら、由利子はマツバウンランの花を何本か手折ると、折り返しの道を走り出した。飾るにはヒナゲシのほうが派手でよかったが、切り口からの白い汁で手がカブれそうだからやめた。因みにこのケシからは麻薬は取れない。まあ、取れないから生え放題に放置されているのだが。
 このように、かなり勢いを増している雑草界の外来種だが、彼等とて初めからこのように蔓延っている訳ではない。
 最初は、わずかな数の種子が日本の大地に根を下ろしたに過ぎなかった。しかし、あらゆる偶然が重なり、このように日本中に広がっていったのである。
 もし、その植物の繁殖力が旺盛でさらに条件がそろったなら、たった一粒の種が芽生えたために、それが日本中に蔓延る可能性だってあるのだ。ましてや、何者かが故意に増やそうと画策したならば・・・。

 由利子はジョギングから帰って、トイレにマツバウンランの花を飾った。
 角部屋のため、トイレとバスルームは比較的日当たりが良く明るい。その後シャワーを浴びると、おなかすいたとまとわりつく猫達にごはんを与え、自分も朝食をとりながら由利子は昨日アップしたブログをチェックした。すると、異様にコメントが付いている。あれっと思って見てみると・・・。

「大丈夫ですか?熱が高かったのでひょっとして・・・・? と心配しています。大丈夫ですよね。」

「顔文字多用禁止~。きんも~☆(死語) とりあえずインフルエンザ生還乙」

「まさか・・・まさか、脳炎起こしてないでしょうね。次回からの平常運転をドキドキしながら待ってます」

「おまいは顔文字似合わないからやめれ。(´∀`)つ[快気祝い]
いや、オレはいいんだオレは(・∀・) 」

「見た瞬間、どこの女子高生のブログかと思いましたよ、もぉ!。でも回復してよかったです。しばらくお体ご自愛ください」

 顔文字と改行を多用した、昨夜の記事に対する苦情コメントがどっさり付いて、プチ炎上していた。不評だった。
 しかしながら、ほとんどの人が由利子の回復を喜ぶコメントを付け加えてくれていた。
(オバサンは顔文字を使っちゃいかんのかい!)
 由利子はすこしがっかりしたが、反面(みんなほんとうに心配してくれてたんだ)と嬉しかった。思ったより読者が多かったのも気を良くした。
 一通りざっとコメントに目を通していたら、ひとつだけ妙なコメントが付いていた

名前:アレクさん大王
「生還おめでとう。君の友人はいいカンしてるよ。僕も少し妙だと思う」

 昨日の付け加え記事へのコメントらしい。
「アレクさん大王? アレクサンダー大王のもじりよね。『生還おめでとう』って、気味悪い変なコメント・・・」
 由利子はつぶやいて一瞬消そうと思ったが、そのせいで粘着されても困るので放置を決め込み、メールチェックを始めた。
 ほとんどが購読中のメールマガジンだったが、1通友人の美葉から来ていた。ここ2年ほど連絡がなかったので気になっていたのだが、ある理由からなんとなく放置していた。
 メールには由利子が寝込んでいたことへのお見舞いと、近いうちに会いたいから、会える日を連絡くださいということが書いてあった。
(あれ? 最近連絡してないのに、何で私が病気したの知ってるんだ?)
 由利子は疑問に思ったが、ふと時計を見ると7時をとっくに過ぎていた。
「急がないと遅刻じゃん!」
 美葉への返事は会社で書くことにして、由利子はあせって準備を始め、ギリギリの時間にマンションを飛び出した。

(「第1章 流感」 終わり)

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2.胎動 (序)黒い河面

20XX年5月27日(月)

 夜のC川は、暗い河面に周囲の街灯や建物の明かりを映しながら、満々と水を湛えてゆっくりと流れていた。日付が変わったこの時間になると、流石に建物の明かりもだいぶ消え、水面には街灯の明かりが規則正しく並び、堤防上の道路を時折通る自動車のヘッドライトが流れるように移動している。人通りはほとんどなく、橋の下に住み着いたホームレスも、すでに白川夜船であった。

 そんな静かな川のほとりをフラフラと歩く人影があった。その人影は不気味にうなりながら、時折転び、這いずりながらようやく立ち上がってヨロヨロ歩くことを繰り返していた。その動きは緩慢で、ただ壊れた機械が無目的にようやく動いているようにすら見えた。さらに、時折自動車のヘッドライトに照らされた、その男の姿には異様なものがあった。
 男の衣服は汚れて身体も垢にまみれていたが、ボロボロに敗れかけた服から覗く肌にはあちこちに血が滲んでいた。一見ひどい事故に遭ったような男の風体で、ライトに照らされたその顔も数箇所にわたって血が滲み鼻からも血が流れていた。しかし、そんな悲惨な状態よりさらに凄まじかったのはその両目であった。真っ赤に充血してあふれた血が流れ出している。
 最初はなんとか歩いていた男だが、だんだん転ぶ回数が増え、しまいには半ば這うような状態でひたすら前に進んでいた。一体そんな状態でどこに行こうとしているのか。
 彼の頭の中は、今、ひとつの考えのみが支配していた。

 ――タシカ、コノサキニ、ダレカ、スンデイルハズダ。ソイツニ、アワナケレバ。

 とにかく誰かに会わねばならない。この体が終わる前に。会って・・・。

       会って?

 会ってどうする? おそらく彼にもそれはよくわかっていなかった。ただ彼はゆっくりと、しかし、ひたすら進んでいた。

 ――ソウダ、アノハシ、アノハシダ。アソコニヤツガイル。イソゲ。イソガナケレバ・・・

 目標を確認して、彼はやや焦った。這うような状態からなんとか立ち上がって数メートルよろけながら走った、いや、走ったつもりだった。しかし誰か見ているとしたら、それは緩慢な歩みに見えたかもしれない。
 ところが、彼の焦りが今までなんとか保っていたバランスを失わせてしまった。彼の身体はよろけた。目の前には取水用の水路があった。まずい。彼は方向転換をしようとしたが、そのために思い切り足を滑らせた。

 道路橋の下を『住居』と決め込んでいる男は、夜中、川に何か大きなものが落ちたような音を聞いて目を覚ました。彼は不審そうにもそもそ起き出すと、身体をあちこち掻きながら、粗末な『自宅』から出て川の様子を見た。しかし、川は、何も無かったように静かにゆっくりと流れていた。彼は首をかしげながら『住居』に戻っていった。

 しばらくすると、川になにか大きいものが浮かびゆっくり流れていった。それはいずれ、葦原の中に静かに消えていった。

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2.胎動 (1)ニュース

20XX年5月29日(水)

 由利子は久々にスポーツクラブに来ていた。2週間ぶりくらいだろうか。彼女の姿を見つけた担当インストラクターのお兄さんが、走って寄ってきた。背はあまり高くないがボディビルダーで、筋骨隆々だ。無駄に爽やかな笑顔を振りまいている。
「篠原さん、こんばんは~。」
 と満面の笑顔で言った後、彼は真顔になって言った。
「ずいぶんお見えになりませんでしたが、どうかされていたのですか?」
「実は季節外れのインフルエンザにかかっちゃって・・・」
 と、テレ笑いをしながら由利子。
「そうだったんですか、大変でしたねえ。だけど、どうしてまた?」
「会社がK市にあるんですよ、それで・・・」
「あー、会社で感染されたんですかぁ。確か流行ってるのK市のほうでしたもんね。いえ、だいたい3日間隔で来られているので心配してましたよ」
「あら、ありがとうございます。でももう大丈夫ですから」
 由利子はガッツポーズをして見せた。
「でも、今日はあまり無理をしないようにして、早めに切り上げて下さいね」
 と言いながら、インストラクターは去っていった。

 由利子はとりあえずエアロバイクに乗ってみることにした。ちょっと軽めに漕いでみる。大丈夫だ。その後いつもの負荷にして20分ほどやってみることにした。
 本当に久々に来たような気がした。一月くらい休んだような感じがする。スポーツクラブの独特の臭いと機械と人の声・BGM・・・。後方では、エアロビクスをやっていて、レオタードの女性達に混じって、数人おじさん達がバツの悪そうに踊っていた。ああ、いつもの風景だ、と由利子は思った。そして、「やっぱり平穏が一番よね」とつぶやいた。エアロバイクを漕ぐ間、ヒマなので前に設置してあるテレビを見ることにした。今日は本もiポッドも持ってきてなかったからだ。テレビはすでに7時のニュースが始まっており、今日は珍しく目ぼしい事件がなかったようで、どこぞの寺の話だの動物園で動物の赤ちゃんラッシュだの総理大臣がまたキレただのという、のどかな話題が中心だった。
「続いてF岡からです」
 ニュースはローカル版に移行し、クソ真面目な顔をした、目の妙にきれいな若い男性アナウンサーが映った。そして画面は見たことがある風景に切り替わった。川の土手に立ち入り禁止のテープが張られており、数人の警官が何かを捜査していた。
「昨日C川流域で発見された男性の遺体ですが、死亡推定時刻より損傷が激しく、警察は事故と自殺の可能性に加え、この男性がなんらかの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査することにしたということです」
 見たことがあると思ったら、C川だったのか、と由利子は納得した。
 その川は会社からも近く、時々お昼に弁当を持って川土手まで遠征することがあった。大きくてゆったりとした川だ。食べ終わった後、よく寝転がって小鳥の声を聞きながらまったりと雲を見る。K市はあまり好きではないが、C川は好きだった。そんな川に遺体が流れてたのか、そういえば、今朝そんなニュースを言っていたな。由利子は少し鬱になった。しばらくは川土手に行くのはやめよう、そう思った時、隣でエアロバイクをこいでいた女性が由利子に向かって言った。
「やだ、それって殺して川に投げ込んだってことやろ?それでなくても水死体っちゃぁえずかとにねえ」
「そうですねえ。監察医の人も大変ですね」
「オヤジ狩りやないと?最近の子どもって怖いけんねえ。ウチにも中学生の男の子が二人おるんやけど、最近なんを考えとるんかいっちょんわからんっちゃけん」
「そうですか。大変ですね」
 答えながらも、二人も中坊の子どもが居るのにここでエアロバイク漕いどったらイカンやろーもん、と思ったら先方は見越したように言った。
「今、子ども達は塾の時間でね、おとうさんはシンガポールに単身赴任やし、ここでジムやって終わった頃迎えに行ったらちょうどよかとですよ」
「そうですか、息子さん達もお母さんのお迎えがあるなら安心ですね」
 由利子は答えたが、そろそろ会話がうっとおしくなってきた。知らない人と話すのはどうも疲れる。そう思っていたら、ちょうどバイクの終了ブザーが鳴った。
「じゃ、お先に~」
 由利子はさっさとバイクを降りてウオーミングアップのストレッチをするためマットのある方向に走っていった。

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2.胎動 (2)コンコース

20XX年5月31(金)

 二日後の夕方、由利子は友人の美葉に会うため6時過ぎにK駅にいた。
 バスが遅れた場合を考えて、歩くつもりで早めに会社を出たら、何故かバスがすぐに来てその上さして渋滞もなく、普段より早く着いてしまった。普段でも念のため約束より早めに着くように心がける由利子なので、だいぶ時間が余ってしまった。それで時間つぶしに駅のコンコースをうろうろしていたが、約束の7時には程遠い。暇を持て余した由利子は本屋に行くことにした。本屋なら1時間2時間だってタダで時間つぶしが出来る(もっとも本を衝動買いしていしまい、却って金がかかる場合が多いのが難点だが)。それで、彼女は本屋に向かうエスカレーターに向かって歩き出した。その時、彼女の前を男子中学生が数人わやわや話しながら通って行った。
 彼らは人が歩いているその前を何もはばからずだらだらした歩きで横切っていく。その傍若無人さに由利子は少なからずムカッとした。しかし、最近の中学生は恐ろしい。由利子は立ち止まって彼らの行過ぎるのを待った。その間暇なので彼らを観察することにした。みんなだらしなく学生服のズボンをずり下げて履いており、足が極端に短く見える。制服からK市にある有名な私立進学校の中等部の生徒だということがわかる。わざわざ遠くから通わせる親もいるほどの有名校だった。しかし、どんなところにもこういう連中がいるものだ。
 由利子が中高生の時もボンタンとかいうズンダレたズボンが流行ったが、こういう連中の好みは世代によらず似たようなもんだと思った。反面女子生徒のスカートは短くなってしまっているが。
 由利子は彼らの中で一際目立つ少年に気がついた。ジョミーズの人気グループ「V-lynX(ファイヴ・リンクス)」のタツゾーにとても似ていたからだ。背はちょいと低いが、渋谷あたりを歩いているとスカウトされそうな感じだった。彼もそれを意識してるんだろう。さかんに「じゃね?」とか「ヤバくね?」とか言っている。はっきり言ってうっとうしいタイプだ。由利子はジョミオタではない。ここで彼女を擁護すると、彼女は萌えで少年アイドルを覚えていたのではなく、これは彼女の特技によるものだった。
 彼らが通り過ぎる様に由利子は不穏な会話を耳にはさんだ。
「あ~~~つまんね、今日は塾サボったし」
「ガッコも塾もつまらねーし」
「今日当たりまたやっか?」
「やめろよ、昨日のニュース見たやろ?」
「あれは俺らじゃねーし」
「シーッ!」
(うわ・・・)
 由利子は思った。昨日ジムで隣の女性が言った言葉はあるいは間違いじゃなかったかもしれない。しかし、あの件に関しては、彼らがやったのではないらしい。嫌な会話を聞いてしまった・・・。由利子はものすごく気分が悪くなってしまった。しかし、妙なことには関わらないほうがいい。(聞いてない、聞いてない)彼女は極力平常心を保って振り返らないように歩いた。しかし、由利子はなんらかの手を打つべきだったとあとで後悔することになる。とはいえ、彼女にはこの時点ではどうしようもなかったと思われるが・・・。

 7時が近づいてきたので、メールで打ち合わせた店の前に向かった。手には本屋の手提げ袋を持っており、その中には分厚い本が2冊。やはり衝動買いをしたらしい。少し走ることになったが5分前にはそこに着いた。すると、遅刻常習犯の美葉が珍しく先に着いて待っていた。
「由利ちゃ~ん、こっち!」
 美葉が盛んに手を振っている。
(F市内の繁華街じゃあるまいし、そんなしなくてもわかるわよ)
 と、由利子は思ったが、とりあえず彼女の方に小走りで駆け寄りながら言った。
「早かったね、待った?」
 これは通常なら美葉の台詞だった。立場が逆転したような妙な気持ちだった。
「私もさっき来たっちゃん」美葉は答えた。「とりあえずお店に入らん? おなか空いちゃった!」

 そこはF市内でチェーン店を展開している有名居酒屋グループの店舗のK店で、新鮮な海鮮料理を安く提供するというのが売りの店だった。由利子は海鮮料理が大好物だったので、大喜びで刺し盛りやら鯛のあら炊きやらアサリのバター焼きやら注文した。ビールは好きではないのでのっけから日本酒を冷酒で頼んだ。豪快な女である。美葉は、生ビールを頼んでいる。二人は乾杯し、料理が来るまで突き出しの小エビのから揚げをつまみでやっていたが、まもなく料理が並んだ。刺し盛りはカンパチと甘エビとイカとマグロ。イカは透き通っていて、その新鮮さを物語っていた。
「おいしーねー!」
 由利子は上機嫌だった。しかし、美葉はこころなしか浮かない顔をしており、おなかが空いたといっていた割りに食も進んでいない。由利子はそもそも今日彼女と会ったのは、相談を持ちかけられたからということを思い出した。しかし、思うところがあり、美葉から切り出すのを待つことにして、まったく違う話題を振ることにした。
「そうそう、さっきね、『V-lynX』のタツゾーに良く似た中学生を見たんだ。クソガキだったけど」
「タツゾーに? へぇ~、私ファンなんだ~。今度見つけたら教えて! 由利ちゃんは顔と名前を覚えるの得意だから、きっと1年後でも覚えとるやろね」
「まあね、それも良し悪しの特技なんだよね。だって特徴があれば一発で、そうじゃなくも2・3度見ただけで、覚えたくない顔でも覚えちゃうんだから」
「うふふ、みんな言っとおよ。由利子にだけはデスノートを持たせたくないって。きっと10年20年も前のことでも名前書かれて殺されそうやって」
「そんなしつこいイメージかぁ、私は!」
「それだけ記憶力がいいってことよ」
「でも、人の顔だけだからなー」
 由利子は言った。その分他の記憶力もあればいいのに・・・、そう思っていたら、唐突に美葉がたずねた。
「由利ちゃんは・・・、―――今付き合ってる人、いる?」
 突然の質問に由利子は焦った。おまけにその微妙な間(ま)はなんだよ。
「なんね~、藪から棒に! いないよ、少なくともここ10年くらいは・・・」
 と、少しむっとして答えた。
「そうやろーね。得意先の対応に怒ってその場は押さえたけど、怒りの持って行き場がなくて、湯沸し室で空き缶を素手で潰してへし折っていたら、若い男性社員に目撃されて怖がられたなんて調子では、無理ないか」
「ちょい待ち! 何でそんなこと知ってんのよ!」
「アンタ、ブログに書いてたやん」
「へ?」
「会社の友達に、面白いからって勧められたんよ。そしたらどっかで見たような猫の写真が載っとーし、内容見たらどう考えても由利子やし。偶然とはいえ驚いたけん」
「あ、だから私が病気だったのも知ってたんだー」
 謎が解けてスッキリする反面、ものすごくテレ臭くなってしまった。
「アンタのブログけっこう有名みたい」
「はあああ、誰が見ているかわからんねえ。・・・で、」
 由利子はテレ隠しで話題を振ろうと、つい聞いてしまった。
「相談っていったい何なの?」

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2.胎動 (3)少年A

「おい、マジかよ!」
 西原祐一は友人の秋山雅之に言い、その後仲間達の顔を見回して言った。
「お前ら止めねぇのか?」
 仲間達は顔を見合わせて言った。
「でもよ~・・・」
「お前らが行かんのやったら、俺だけで行く!」
 雅之は息巻いた。
「俺ら、やっぱ帰るわ。雅之キレたらタチ悪ぃし」
「なんかあって捕まりとうなかけん」
「じゃ、な! 雅之のお迎えに来たついでに後を頼むわ、西原」
 仲間たちはそそくさと去って行った。
「きさん(貴様)らぁ~、明日覚えとけよ!!」
 雅之は荒々しく怒鳴った。コンコースに繋がるバスセンターに、雅之の声が響き渡たり、そこのベンチにたむろしていたホームレスたちが、驚いて彼らを見た。雅之は彼らを威嚇した。
「何見とるんや! こんクズ共がぁ~!!」
「待てや、こんなとこで暴れたら一発で補導されろーが」
 と、祐一がなだめる。
「そんなこた判っとぉ! むこうの祭木公園に行く。あっちにも住み着いとぉ奴等が居ろうもん」
 雅之はさっさと歩き出した。祐一はあせって後を追った。
「おい、待てよ! 最近部活サボって何してるかと思ったら・・・帰ろうぜ。オレが上手く言い訳してやっから」「オレらもう3年やろ、オレらの学校は中等部から高等部に上がるにしても、審査が厳しいんだぜ。こんなことやっとったら・・・」
 祐一はなんとか雅之を止めようとなだめすかしてみたが、雅之は一向に耳を傾ける様子がなかった。祐一は日頃から雅之の素行を心配しており、今日、偶然K駅のコンコース内に仲間とたむろしていた雅之を見つけて、思い切って声をかけてみたのである。・・・しかし、雅之は無言で彼の干渉を拒否し、どんどん歩いていく。仕方なく祐一は後を追った。
 その後を祐一と一緒にいた少年、佐々木良夫がついていく。それに気づいて祐一が言った。
「ヨシオ・・・何や、おまえもついて来よっとか、」
「うん。ボク、秋山君より西原君が心配やけんね。大丈夫、ボクんちがこの近所なの知っとうやろ」

 雅之は先ほど由利子の前を、傍若無人に通っていった少年達の1人であった。彼が由利子の注意を引いたタツゾー似の少年で、他の仲間は帰ってしまったらしい。後を追う祐一も、やや細身だが背が高く目立つ少年だ。祐一の連れである良夫は小柄でメガネをかけており、祐一とは対照的に目立たないおとなしそうな少年だった。祐一も良夫も服装は乱れておらず、真面目そうで、去って行った少年達のだらしない格好とは対照的だった。雅之も少しズボンを下げ詰襟のボタンを外しているくらいで、多分学校や家ではちゃんとしていると思われた。
 祐一と良夫は雅之の後を黙ってついて行った。雅之はイライラを隠せないようで、ポケットに手を入れたままどんどん歩いていく。このような状態の雅之を止められないことは、祐一は良く知っていた。(こいつはどうしてこげんなったんやろ・・・)祐一は雅之の背中を見ながら思った。彼も手をポケットに突っ込み、万一の時に備えて携帯電話を握り締めた。祐一たちの学校は私立で遠くから通う生徒が多いので、学校の許可を得れば、携帯電話を持つことが出来たのである。もちろん授業中や不正なことに使えば、その場で没収となる。

 祐一と雅之は家が近所にあり幼馴染なのだが小学校では同じクラスになることはなかった。しかし、同じ私立中学に入学し、2年の時晴れてクラスメートになれたのだった。だが、一緒のクラスになって祐一は驚いた。幼い頃素直でやさしかった雅之が、粗野でキレやすい少年になっていたからだ。それも頭のよい分性質(たち)が悪かった。祐一は雅之が心配で、出来るだけ注意して彼を見守ることに決めた。良夫は、中一から祐一と同じクラスになったのだが、何故か祐一と気が合った。だから良夫は祐一が雅之に構うのが不満だった。いつかトラブルに巻き込まれるのではないかと心配だった。それで、今回も祐一について来たのだ。
「雅之、もうやめようや」
 公園についた時、祐一はもう一度言ってみた。
「おまえ、身体がでかいわけでもないのに、一人でやったって逆にボコられるだけやぞ。」
 雅之は何も答えない。祐一はさらにやさしく言ってみた。
「な、マック寄ってなんか食って帰ろうや。腹へってきたやろ?」
 しかし、雅之はそれを無視して無言で公園を見回した。だが、幸いにも人のいる気配はない。いつも物陰で寝ている筈のホームレスの影がまったくなかった。祐一はほっとした。これで雅之もあきらめるだろう。コーヒーでも飲みながら、雅之に何故こんなに自暴自棄になっているのか思い切って聞いてみよう・・・。

 

「え~~~!?」
 由利子は驚いて素っ頓狂な声を出した。美葉があせって身を乗り出し由利子の手を押さえ、「しーッ!」というしぐさをした。由利子は少し赤くなって声のトーンを落として小さく続けた。
「今付き合ってる人に奥さんがいた?」
 うん、と美葉は首を縦にふった。
「で、子どもは? 居たの?」
「恐ろしくて聞けんかった・・・」
「はあ・・・」由利子は椅子からややずり落ち背もたれに寄りかかった。「何でそんなことに・・・」
 そう言いながら、由利子は美葉の様子を見た。彼女はバツが悪そうに下を向いていた。
「あの・・・さあ、なんでそんなこと今頃私に相談すると?」
 由利子は尋ねてみた。こいつ、何で今まで私と疎遠になっていたのか忘れてる?
「由利ちゃん・・・強いから、こういうときどうしたらいいかわかるかなあって・・・」
「強い? 私が?」
「だって、10年前由利ちゃんの彼氏が浮気して、結局その浮気相手と結婚してしまった時、由利ちゃんすっぱりと相手に譲ったじゃない。あれ、すごくカッコ良かったもん。だから私・・・」
「ちょっと待って」
 由利子は遮って言った。
「あのね、私があの時どれだけ悲しくて辛くて、そして悩んだと思っとぉと? 部屋の家具を半分くらい破壊したし、あいつに関するものは全部捨てたし、いろんな意味で高くついたよ。おかげで私は未だに男性不信なんだから」
 由利子は一気にまくし立てた。美葉は黙っている。
「それにね、あんた・・・。その彼と付き合うために、散々私を利用したやろ・・・? ―――ま、いいか、で、美葉はどうしたいの?」
 由利子は嫌味のひとつでも言ってやりたかったが、あまりに美葉が意気消沈しているのでそれ以上言うのをやめた。美葉は下を向いて何も言わなかった。それで出来るだけやさしい声で聞いてみた。
「美葉? どうしたの? いいから言いたいこと言ってごらん」
「由利ちゃんごめんなさい、ありがとう・・・」
 美葉はうつむいたまま言った。後半声が裏返って両目の辺りから光るものがぽろぽろ落ちてきた。
(あちゃ~、困ったな~。こんなところで泣かないでよ~)
 由利子は焦ってきょろきょろ周りを見回した。しかし、由利子の焦りを余所に、美葉は肩をふるわせて本格的に泣き始めてしまった。

 

 祐一が雅之をなんとかなだめすかして、やっと帰ろうと公園の出口に向かった時、ガサガサと音がした。ぎょっとして振り向くと、つつじの植え込みから男が這うようにして出てきた。この公園に住むホームレスのひとりらしい。そのただならない様子に祐一と良夫は一歩下がって警戒した。
「君達、お願いだ、誰か助けを・・・いや、救急車を呼んでくれ! 頼む!!」

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2.胎動 (4)公園の男

「みんな死にかかっとるんや! はよう・・・早ゥせんと死んでしまう!」
 オレンジ色の街灯の照らす公園で、男は必死の形相で言った。
「最初、杉やんが熱を出して倒れて・・・それから熱に浮かされて暴れ・・・て・・・みんなで止めた・・・んやけど・・・・・杉やんは熱に浮かされたまま・・・どっかに行って・・・た。―――何日かして、その時止めた奴らが次々倒れて・・・な・・・とか動けるの・俺だけ・・・杉やん、変な病気にかかっと・・・や。一人もうは生きとrか・・・わk・・・早う医者に診tもらわんと・・・あいつら、イマは俺のカゾク・・・今度こそ助けナイと・・・。―――あんたら、ケイタイもっt・・・る・・・やろ?」
 男は一気にしゃべろうとしていたが、息が切れてろれつもよく回らない状態だった。相手を楽勝と見てヤル気満々の雅之を抑えながらそれを聞いていた祐一は、気味悪く思いながら言った。
「あの、おじさん、救急車なら公衆電話でタダで呼べますよ」
「ここらは・・・え…駅まで行かんと・・・で・でんわ・・・ない・・・」
 携帯電話の普及でめっきり公衆電話の数が減っていた。
「早く・・・はやクして・・・みんナ・シンで・・・シマ・・・」
 最初、ある程度の知的レベルを感じさせていた男の言葉が、急速に劣化していった。祐一は何か不吉なものを感じ取っていた。
「何、ワケのわからないコト言ってんだよ!」
 雅之は怒鳴った。祐一は驚いた。こいつはこの異常な状況に何も危機感を感じていない。こんな病人を威嚇してどうするんだ? と、その時の一瞬の気の緩みから祐一は雅之から突き飛ばされてしまった。そのまま体勢を崩し地面に激しくしりもちをついた。突き飛ばされた時に雅之の手が顔に激しく当たり、鼻血がふきだした。
「西原くん!」
 良夫が驚いて駆け寄り、すぐに祐一の鼻にハンカチを宛がった。
「やめろ、雅之! そんな病人をいたぶってなんが楽しいとか!?」
 祐一は怒鳴ったが、すでにその時雅之は地べたにへたり込んでゼイゼイ言っている男を、容赦なく蹴り上げていた。男はもんどりうって倒れ、そのまま動かなくなった。(まさか、死んだのか?)祐一はぎょっとして男を良く見ると、ピクピク痙攣しているように見えた。生きてはいるようだが、かなり危険な状態みたいだ。救急車を呼ぶか?しかし、この状態をどう説明する・・・?
「なん寝とうとか!」
 雅之は男の襟首をつかみ上げた。男は鼻と口から血を流していたがそれも気にならない様子で、襟首を捕まれたまま周囲を見回すと震えながら言った。
「あ・・・赤い!アカイ!ミンナアカイ・・・! チクショウ、オレまで・・・!」
「何わからん事言うとるんか!そりゃ、街灯の色が赤っぽいけんやろうが!」
 もう一度殴ろうとする雅之を、今度は男が病人とは思えない力で突き飛ばした。雅之はなんとかバランスを取り倒れるのを免れた。
「ヤメロ!オレに近づくな!!」
 男は怒鳴った。それが雅之を刺激してしまい、男は再度蹴り上げられた。男は再びもんどりうって倒れたが、今度はすぐに起き上がった。その後の行動に祐一と良夫は凍りついた。男が「があッ!」と叫び、すごい勢いで雅之に襲い掛かったのだ。
「うわ!」
 雅之は叫び、そのまましばらく男ともみ合いになった。祐一はとっさに雅之を助けに行こうとしたが、良夫が全身でしがみついている。
「西原くん、危ないからやめて! 秋山君は自業自得だもん、少しは痛い目にあったほうがいいんだ!」
 確かに良夫の言うことは一理あるが、これはいわゆる「窮鼠猫を噛む」とは違うような気がした。その間に雅之はなんとか男から逃れていた。というより、男の方が雅之を放しそのまま力なく地面に座り込んだのだった。
「こいつ噛み付きやがった! それに手も!」
 雅之の右手の甲には引っかかれたらしい二本の傷跡があり、かすかに血が流れている。
「どこを噛まれたんか?」
 相変わらず良夫にしがみつかれた状態で祐一は聞いた。
「腕やけど、制服の上やったけんたいしたことない」
 雅之はつっけんどんに言ったが、楽勝と思った相手に反撃され、驚きと怒りでかすかに震えていた。
「こんクズがぁ!!」
 雅之は怒鳴ると、地面にへたり込んでいる男につかみかかった。
「おまえみたいなんは・・・。」
 と、言いかけて雅之は言葉を飲んだ。男が「ゴボォッ!」と嫌な音を立ててどす黒い液体を吐いたからだ。それは普通の吐物とは違ったすさまじい悪臭がした。それは、ある臭いを嗅いだことのある人には思い当たる臭いだった。男の内臓は生きながら腐り始めていたのである。
「うわぁ~っ!」
 雅之は驚いて飛びのいたが、すでに遅く制服のシャツにそれが飛び散った。
「な・なんやこれは!? 気色悪ッ!!」 
 それは雅之の手にもかかってしまったらしい。盛んに右手を腰の辺りで振っていた。男はそのまま倒れ、ゴボゴボと大量の黒い吐物を吐きながら激しく痙攣した。祐一は呆然としながらそれから目を離せなかった。気がつくと、彼にしがみついている良夫はすでにガタガタ震えており、恐怖でひきつける寸前のようだった。
「見たらイカン!」
 祐一は良夫を引き寄せると彼の目を覆い、自分もぎゅっと目を閉じる。大人でも正視に耐えない光景である。中学生の彼らに耐えられる筈がなかった。
 さすがの雅之もその場にヘタヘタと座り込んでしまった。いったい目の前で何が起きているかさっぱりわからなかった。男は痙攣しながら、両手で空をつかみ口をパクパクさせていた。それは何か言っているように・・・いや、誰かの名を呼んでいるように見えた。その後激しく弓なりにひきつけると、急に力が抜け手がぱたりと下に降りた。みるみる男の目から生きた光が失われていき、男はピクリとも動かなくなった。
 祐一はおそるおそる目を開けて男の方を見た。彼は今静かに横たわり、うつろになった目に街灯のオレンジ色の光が反射している。

 ――――死んだ・・・?

祐一は愕然とした。男のすぐ傍で、雅之が地面に座り込んで呆然と男の方を見つめていた。

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2.胎動 (5)友情・・・

 美葉は、まだ泣き続けていた。ハンカチを握りしめ、声を出さずに肩をふるわせて泣いている。取り合えず気が済むまで泣かせて落ち着くのを待とう、そう思っていたのだが、なかなか泣き止みそうになかった。周りの客達がチラチラと様子を伺っているのがわかる。
(私が泣かしたように見えるかもしれないな~)
 そう由利子は思うとかなり憂鬱になった。しかし、よく考えたら自分が泣かせたような気もしてきた。損な役回りである。美葉のように儚げで保護欲をそそるような女性に生まれたかったな、と、いつも思っていた。なんでこんなに強そうな外見に生まれたんだろう。昔二股をかけられて結局フラれた時もそうだった。「お前は強いから一人で生きていける。アイツは俺がいないとダメなんだ」という、数多の三文小説やドラマやマンガで使い古されて発酵しつくした陳腐な言葉を残して彼は去って行った。怒りや悲しみよりも、その恥ずかしいセリフに呆然として彼を見送ったことをふと思い出し、さらに憂鬱になった。
 話の進展のなさに業を煮やした由利子はひとまず居酒屋を出ることにした。それで、半分ほどグラスに残った冷酒をグイッと飲み干してから言った。
「美葉、とりあえずここから出よ。ね、そうしよ!」
 美葉は小さく頷いて、さっきまで握りしめていたハンカチで涙を拭きながらぼそりと言った。
「トイレでお化粧直してくる・・・」
 そう言われて美葉の顔をよく見ると、確かに化粧が部分的に取れてすごいことになっていた。いつも薄化粧の由利子には有り得ない顔だったので、不思議やらおかしいやらで、多少引きつりながら由利子はなんとか答えた。
「行っておいで。お会計払っとくから・・・出口の方で待ってるよ」

 由利子は美葉と店を出て、駅に向かって歩いていた。出口でたっぷり15分待たされた由利子は、若干むすっとしており、美葉はその後を下を向いてとぼとぼと歩いていた。しばらくその状態で歩いていたが、だんだん美葉が可哀想になってきた由利子は、足を止めて振り返り美葉に手をさしのべた。
「美葉・・・」
 由利子は再び優しく話しかけた。
「人ってさー、相談する時には大体自分ではどうするか決めてることが多いよね? だから、美葉も心の中では結果を出しているんじゃないかって思うんだけど・・・」
 美葉は無言だった。由利子はさしのべた手で美葉の手を取り、並んで歩きながら続けて言った。
「美葉はさ、きっと誰かにこのことを聞いて欲しかったんだよね。ひょっとして、今までずっと誰にも言えなかったんじゃない?」
 すると、由利子が握った美葉の手が小刻みに震え始めた。横を見ると、また大粒の涙を流しながら泣いている。
(げげ・・・しまった!)
 と、由利子は思ったがすでに遅し、美葉は由利子にしがみついて号泣を始めた。
「そだよね。悲しいよね・・・よく我慢してたね、辛かったやろ・・・」
 由利子は美葉の背中を軽く叩きながら、慰めた。こうなったら仕方がない。気の済むまで泣かせてやろう。由利子は腹を決めた。
(でもねえ、名前は由利子だけど、レズっ毛はないんだよね、私・・・)
 行き交う人たちの視線を浴びつつ、由利子は困惑しながら美葉の肩を抱き、繁華街の片隅で立ったまま困っていた。

 

 由利子達の悲喜劇を余所に、こちらでは深刻な展開が続いていた。
 倒れた男とその周りに少年が3人、公園のオレンジ色の街灯に照らされていた。少し向こうのとおりから車の音が聞こえたが、公園内は異様に静かだった。しかしその静寂はすぐに破られた。
「人殺し! 人殺し! この人は助けを求めてただけやろ、何でこんな非道い事せんといかんと!?」
 最初に我に返った良夫が泣きながらヒステリックに叫び始めたのだ。雅之はその場に座り込んだまま、無言だった。まだショックから立ち直っていないのだ。相変わらず呆然と男の顔を見つめている。
「やめろ、ヨシオ!」
 祐一は良夫を制止した。
「だ、だって、こんなのひどい!!」
「雅之だって、まさかこんな事になるなんて思わなかったんだ。とにかくこれからどうするか考えんと・・・」
 祐一の切り替えは早かった。この状態では自分がしっかりしないと・・・。祐一は自分の冷静さに驚きながら考えを巡らした。
(どうする?警察に連絡するか?)
 祐一はポケットの中の携帯電話を握りしめた。しかし、直ぐに考えなおした。
(いや、ダメだ。それじゃ無関係の良夫にまで迷惑がかかる。あいつはオレが心配でついてきただけだ。巻き込む訳にはいかん。ここは逃げるしか・・・)
 そこまで考えた時、「ひ・・・ひいっ・・・!」っという雅之のかすれた悲鳴が聞こえた。
 見ると雅之は腰を抜かした状態のまま、這うようにそこから逃げようとしていた。ようやく我に返り、事の次第が理解できたらしい。
「待て、雅之! 落ち着け!」
 祐一は叫んだが、雅之は何度か転びかけながら立ち上がり、かすれた悲鳴を上げながら逃げ出した。
「おい、そんな血まみれで何処に行くとや!」
 祐一は雅之を追って走り出した。
「そんな・・・・! 西原君! あのおじさんはどうすると!?」
「あとで考えよう! 今は雅之を追うほうが先やろ!」
 祐一は雅之の後を追って走り出した。
「おじさん、ごめんね! 後で誰か呼んでくるけんね・・・」
 良夫はそう言いながら男の遺体に向かって手を合わせると、祐一の後に続いた。
 雅之はすぐに見つかった。公園を出たところの電柱に咳き込みながらもたれかかっていたのだ。祐一は雅之に近づくと言った。
「バカやな。そんな血まみれのシャツなんか着たままで人前に出たりしたら、一発であやしまれるやろ。」
 言いながら祐一は自分のシャツもあちこちに染みが付いているのに気がついた。手も血まみれになっている。雅之のせいで鼻血を出したことをすっかり忘れていた。冷静に見えても相当動揺しているようだ。無理もないことだが。祐一はこの分じゃ顔も相当汚れてるだろうと思いポケットに手を入れ、ハンカチを出そうとしたら、良夫が貸してくれたハンカチの血まみれになったのが出てきた。もう一度それをポケットにしまい、カバンから自分のハンカチをだして顔を拭いた。その後祐一は自分の制服のボタンを掛けながら雅之に言った。
「とりあえずおまえも上着のボタンを止めとけよ」
 雅之は機械的に祐一の言うことを聞いて上着の前を合わせ始めた。
「西原君、顔、よく見たらまだ汚れとぉよ」と、良夫が指摘した。
「うん、どこかで顔を洗わんと帰れそうにないね。雅之のほうもなんとかせんと・・・」
 祐一はため息をついた。

 

 由利子と美葉は、再び駅に向かって歩いていた。美葉は泣くだけ泣いてだいぶ気が晴れたようだ。美葉は、由利子に寄りかかるようにして歩いていた。
「思い出したよ」
 由利子が言った。
「10年前、あの馬鹿男にフラれた時、美葉が旅行やら映画やらに誘ってくれたんだよね。あれでだいぶ気が紛れたっけ」
「ほんとはね・・・」
 美葉は言った。
「あの時、由利ちゃんが帰って来たみたいで嬉しかった。だからいっぱい誘ったの。・・・今日は由利ちゃんに会えてよかった。私、自分がホントは何をするべきかは判っとぉとやけど、ふんぎりがつかんやった。でも、やっとアイツに三行半突きつけてやる勇気が出た・・・」
「そっか、がんばれ美葉! そうだ、これからウチの近所にあるカラオケ屋に行かない?今日は朝まで歌いまくろう!」
 由利子は提案した。
「うん、いいよ! 明日は休みだし」と、美葉。数年ぶりの友情復活であった。

 二人は程なくして駅にたどり着いた。美葉は、
「由利ちゃんごめん、またお化粧なおしてきていいかな?」
 と聞いてきた。実はさっきの惨状を見た由利子が、そうなる前に見栄え良く涙をぬぐってやったので、さっきよりずいぶんマシなのだが、それでもやはり気になるらしい。
「いいよ、行っておいで。私はここのベンチで待ってるから」由利子は快く答えた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
 美葉は駅のトイレに走って行った。
(ああいうところがいつまでも女の子なのよね)
 由利子は美葉の後ろ姿を見ていたが、すぐにベンチに座ると、さっき居酒屋で美葉を待っている間に読んでいた本の続きを読み始めた。
(さて、何分かかることやら。買っててよかったよ、これ)

 美葉がトイレのそばまで行くと、隣の男子トイレに向かう中学か高校くらいの少年3人に遭遇した。
(こんな時間にここらをうろうろしてるなんて。。。塾の帰りかしら? 中学生も大変よね)
 美葉はそう思いながら彼らの顔をそれとなくうかがった。そのうちの一人は見たことがあるような顔だった。しかし、美葉はあまりジロジロ見るのもマズイと思ってそそくさと女子トイレに入った。

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2.胎動 (6)平穏の終わり

 美葉が出会ったのはもちろん祐一・雅之・良夫の3人だった。彼らは美葉を見て一瞬躊躇したが、ぞろぞろとトイレに入っていった。
「雅之、やっぱそのシャツ脱いだ方がいいぞ」
 祐一は言った。雅之は言われるままにシャツを脱いだが、そのままトイレのゴミ箱に捨てようとした。祐一は焦った。
「バカ! こんなとこに捨てとったらヤバイやろ! 捨てるなら持って帰って捨てろ、な?」
 すると雅之はシャツをくるくると丸めてカバンに突っ込んだ。祐一は自分の手と顔を洗い、とりあえずさっぱりとした。
「ヨシオ、ハンカチありがとう。洗って返すから、貸しとって」 
と、祐一が良夫に言うと、良夫はなにか釈然としない顔つきで言った。
「あのおじさん、あのままでいいの?」
「仕方がないやろ。それに、多分あの人はオレたちが行かなくても死んでいたと思うし」
「だからって・・・!」
 良夫が言いかけたその時、トイレに酔っ払った50代の男性が入ってきた。
「よぉ、兄ちゃんたちこんなところでストリップな?」
 彼はご機嫌で鼻歌交じりで用を足しながら言った。
「子供がこんな時間に便所でたむろしとっちゃイカンばい。早う帰らんと母ちゃんが心配しとろうもん」
 男は用を足し終わったが話は続いた。
「塾ね? 部活ね? がんばっとるやないね」
 この男のせいで、雅之がまたイライラし始めて言った。
「さっきオレ、浮浪者のオッサンを〆て来たんですよ」
 祐一はぎょっとして、焦って否定した。
「バ・・・、バカ! すみません、こいつタチの悪い冗談ばっか言うんです」
「うわぁ、怖かねぇ、ほんなこつ。おじさんも絞められないうちに帰るけん、君らも早う帰らんね」
 男はそばにいた良夫の頭をぽんぽんと叩くと、ふらふらしながら手も洗わずに出て行った。良夫が露骨に嫌な顔をした。
「ボク、外で待っとぉけん。公衆トイレの中って気持ち悪いし・・・」
 良夫は不愉快そうに言うと出て行った。祐一は後を追ってトイレから出て、良夫の肩をつかんでこっそり言った。
「雅之は俺がなんとか説得して自首させるから・・・。おまえは心配せんでいいからな」
 良夫は首を横に振りながら、トイレの入り口の壁にもたれ座り込んだ。胃がぎゅっとして本当は吐きそうだった。しかし、中で雅之と居ると余計に気分が悪くなりそうで嫌だったのだ。

 祐一がトイレに戻ると、雅之が必死で手を洗っていた。
「どうした?」
「引っ掻かれたところが何か痛くなってきた・・・」
 雅之は言った。傷口に水を大量にかけている。
「うわ、腫れたなあ。あのままにしてたから・・・。すぐに洗えば良かったかなあ。・・・あ、右手やないか、それ。大丈夫か?」
「オレは左利きやけん、一時的なら多少右手が使えんでもいいけど・・・」
 と、雅之は言葉を濁した。祐一は雅之の言わんとしていることが判った。しかし、敢えて口に出さなかった。そんなことがあるはずがないじゃないか・・・。
 雅之は手を洗い終わると、傷口を覆うようにハンカチを巻きつけた。祐一はその端を結んでやった。そのあと雅之は上着を着て、ボタンをかけた。
「ギリギリ冬服でよかったなあ。アンダーシャツで帰るのは変だもんな」
 祐一はそういいながら自分も上着のボタンを確認した。お互い身だしなみを確認しあってから、二人はようやくトイレから脱出した。外に出ると、外にしゃがみこんでいた良夫が少しギクッとした感じで振り返り立ち上がった。顔色は青ざめたままで、まだショックから立ち直っていなかった。多分俺も同じような顔をしているんやろうな、と祐一は思った。祐一は大丈夫だと言い張る良夫を無理やりタクシーに押し込むと、「すみません、こいつ、気分が悪いみたいなんで、近いけどよろしくお願いします」と運転手に頼んで家に帰らせた。その後、残った二人は駅のホームに向かった。

 その頃由利子たちは、早くホームに上がりすぎて時間を持て余し、ベンチに座って自動販売機のコーヒーを飲みながら雑談していた。その由利子の目に、階段を上ってきた雅之の姿が映った。
「美葉美葉、見てあの子よ、階段上ってくるあの子。 『V-lynX(ファイヴ・リンクス)』のタツゾー似!」
「あら? あの子? 私トイレの前で出会っちゃった」
 と、美葉。
「ね、ね、タツゾー君によく似てるでしょ?」
「そう言えば似てる! だけどさっき見た時全然気がつかなかったよ。なんていうか、うつむいてて暗い印象で・・・」
「そう言えば、あの時よりも元気が全然ないなあ。何かあったのかしら・・・。あれ、もうひとり・・・お友だち? さっきの仲間の中にはいなかったけど」
「由利ちゃんがそう言うんだから間違いないと思うけど、私が会ったときにはもう居たよ。あともうひとり小柄なメガネ君と3人やったかな・・・」
「小柄なメガネ君もいなかったな、あの時は。それにしてもあのコ、背が高くてカッコイイわね。真面目そうだし、意外な組み合わせやね」
「一発で覚えた?」
「うん一発で」
 二人は声を上げて笑った。お酒が入っているので妙にハイ・テンションだ。
「あれ?あっちにいっちゃうよ?」
「残念! なんか見てるの気づかれたみたいね」
 二人はしかたなく両少年の後姿を見送った。
「あの子たち、ずいぶん長くトイレに籠ってたよ。私が出た時まだ中にいたみたい」
「そりゃあ長いわ!」
「ひど!・・・そうそう、何か中でひそひそ話してたわね。途中オッサンの声もしてたけど」
Image021_3「オッサンすか?・・・あ、電車、来た来た」
 電車がガーッと音をたててホームにすべり込んだ。
「あ~、1メートルオーバーラン!」
 彼女らが待っていた位置より扉が通り過ぎたのを見て美葉が言った。ここの電車がオーバーランするのは珍しい。ドアが開いて乗り込もうとした時に、由利子が気がついて言った。
「あ、救急車! なんかあったんかな?」
「由利ちゃんってば、乗らないと電車出ちゃうよ。救急車なんて珍しくないやろ?」
 美葉にせかされて由利子は急いで乗車した。

 由利子たちに観察されているのに気づいた祐一は、ホームの前の方に移動することにした。
「何であのオバサンたち、オレたちを見てたんやろ」
 と、雅之が怪訝そうに言った。
「そりゃ、オレたちがイケメンやからやろ」
 祐一が少しおどけて言ったが、雅之は笑わなかった。
「一人はさっきトイレの前で会った人に似とった」
 雅之がいうと、祐一の顔つきが少し厳しくなった。
 程なくして電車が到着し、乗り込んだ。座席に座ってほっと一息入れると、駅の下の道路を救急車やパトカーが通っていくけたたましい音が聞こえた。二人はこわばらせたままの顔を見合わせたが、すぐに扉が閉まって電車が動き出し、そのために外の音が遮断されてしまった。
「オッサンが見つかったんかな・・・」
 と、雅之がボソリと言った。
「そうかもな・・・」
 ヨシオが電話したのかも・・・。と、祐一は良夫が振り返ったときの顔を思い出し、ふと思った。
「オレ・・・」
 雅之が言った。
「最近すげぇイライラしてて、時々自分に歯止めが利かんようになって・・・。オレ、あんなことするつもりなかったっちゃん。祐ちゃん、警察に連絡せんでくれてありがとう。オレ、取り返しのつかんことをやったんやなあ・・・」
 妙にしおらしい雅之の言葉に、祐一は何と言っていいかわからなかった。しばらくして雅之が口を開いた。
「あのな、祐ちゃん、・・・オレのオヤジと母さんな・・・」
「ご両親がどうかしたと?」
 祐一は、出来るだけ優しくたずねてみた。しかし雅之は
「いや・・・、ごめん。なんでもない」
 と答えたきり、またなにもしゃべらなくなってしまった。電車を降りてから、祐一は心配だから家まで送ると言ったが、雅之はひとりで帰れる、大丈夫だ、と言ってきかなかった。それでも家の近所までついて行った。そして、雅之が家の中に入るのを確認し、自分も家路についた。夜も10時を過ぎて帰宅した祐一は、両親からこっぴどく怒られた。

 雅之が家に帰ると、母親が心配して飛んできた。
「まーちゃん、どうしたの? 何処に行ってたの? あんまり遅いから、心配してたのよ。警察に電話しようかと思ってたのよ」
 雅之は、靴を脱ぎながら母親をうるさそうに一瞥すると、無言で2階の自室に向かった。
「まーちゃんってば・・・。夕飯はどうしたの? 食べて来たの?」
「ごめん、気分が悪いけん・・・風呂入って寝る」
 振り向きざま母親にこう告げると、雅之は自室に入ってしまった。母親はしばらく下でオロオロしていたが、ため息をついて居間に戻っていった。

 3人は各々諸般の用を済ませ床に就いたが、公園でのことを思うとなかなか寝付けなかった。
 特に雅之は、男の断末魔の顔が目に焼きついていた。後悔と贖罪の念が渦巻いていた。何度か起き出してトイレに行き吐いた。夕方友だちとドーナッツ屋に入ってセットを食べただけなので、吐いてもろくなものが出てこない。ようやく眠れたと思ったら、悪夢にうなされて何度も飛び起きる。最悪な夜だった。

 3人が眠れない夜を過ごしている頃、由利子はカラオケ屋で美葉と一緒に、ジッタリンジンの「プレゼント」をシャウトしていた。

(「第2章 胎動」 終わり)(次へ

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