6.暴走 (1)心の闇

20XX年6月9日(日)

「ごめんなさい・・・」
涼子は、美千代の苦しそうな寝顔を見ながら言った。
「こんな、対症療法しか出来なくて・・・。本当はあなたを助けたい・・・。私にはそれができるはずなのに。でも、私はあの方には逆らえない・・・、私は今、自分が作ったワクチンすらも自由に出来ない・・・」
涼子は、ベッドサイドに椅子を持ってきて座ると、うなだれ、しばらくじっと動かなかった。誰も動くもののない室内で、点滴の液だけが規則正しく滴っていた。
 涼子は、あれからなんとか美千代を自分の車まで運び、近くの風俗営業のホテルまで連れて行った。やはり、人目につかないという点で、これを選ばざるを得ないと判断したためである。こういうところははじめての涼子には、かなりのカルチャーショックだったが、途中ご休憩済みの男女とすれ違い、彼らから興味津々な目で見られながらも、どうにかこうにか部屋にたどり着き、美千代をベッドに寝かせたのである。
 しばらくして、涼子は搾り出すような声でつぶやいた。
「あなたの息子さんが亡くなったのは、私の夫のせいなの。彼は私怨を晴らすために、私の目を盗んでウイルスを持ち出した。それがどんなものかもよく知らないで・・・」
そういうと涼子は両手で顔を覆った。誰も聞く者のいない告白であった。

 翌朝、美千代が目を覚ますと、もう涼子の姿はなかったが、美千代にはうっすらと記憶があった。あの時車の中で長兄さまから紹介された、あの女医さんがずっと傍にいてくれたような気がする・・・。美千代は、教主が涼子をよこしてくれたのだと信じた。実際、涼子の治療が効いたのか、気分はかなり良くなっていた。美千代はシャワーを浴びると、きっちりと身づくろいをした。少し痩せたせいか、かつての美千代より妖艶さが増したように思えた。美千代は鏡に全身を映し、満足したように微笑んだ。

 

 すこぶるよい天気になった日曜日、早起きして恒例のジョギングを済ませた後、由利子は張り切って掃除洗濯を午前中に終えた。午後はまったりとした時間を過ごそうと昼食の用意をしていると、チャイムが鳴った。
「ねこねこ宅配便で~す」
インターフォンから声がした。
「は~い、今行きま~す」
由利子はいそいそと玄関に向かった。荷物はもちろん美葉からだった。底の方にはジャガイモやタマネギなどの根菜が入っていて、その上に新聞紙が敷かれ、きっちりとお菓子が並べてある。しかし、野菜とお菓子の間にもう一つ何かが入っていた。
「何やろ?」
由利子はそれを手に取った。厳重に包まれた包装紙を剥がすと、中からCDかDVDらしきものが出てきた。パッケージには安い宇宙の背景に、いかがわしいコスチュームを着て銃を構える女性の写真が合成されている。
「え?『宇宙女刑事インジュー』?」由利子の手からDVDが滑り落ちた。女に『スケバン』刑事に『デカ』とルビがふってある。
「何これ、裏DVDじゃない?!」
それも、オタク向けコスプレモノである。パッケージの裏は主演女優がさまざまなコスプレをした写真で構成され、さらに、やたらと触手のある(安い造形の)怪人が裸同然のヒロインを襲っている画像が下の方に配置されていた。
「ちょっと、なんでこんなもんが野菜と一緒に入っているのよ!!」
由利子は驚いて速攻で美葉に電話をした。美葉はすぐに出た。
「美葉? 何よ、あれ?」
「由利ちゃん、落ち着いて。あれ、結城さんが送って来たと。大事なデータが入っているから私にしばらく預けるって。多分外側は偽装やけん」
「偽装? よりにも寄ってあんなもんに偽装せんでもよかろ~もん」
「だって、手に取っただけで引くやろ?」
「そりゃあ、ドン引きしたよ、ったくぅ。なにが『ハツジョーせよ!インジュー!』だぁぁ!! 謝れ! ギャ○ン・シャリ○ン・シャ○ダーに謝れ!! ついでに麻宮○キにも謝っとけ! あんなモン彼女に送ってくるなんて、トンだセクハラヤローだよ! ほんっとに、ロクでもないヤツだよ、あんたの彼氏は!!」
由利子はマジギレしてまくし立てた。
「ごめんね~」
美葉が電話の向こうで言った。
「だいたい、女性の部屋にこんなモンがあったら余計に目立とーもん。特にあんたの部屋は」
「ほんとにそうやね」
美葉はクスクス笑いながら言った。
「だからって、AVの煽り文句まで言わんでもいいと思う。由利ちゃん、相変わらずやねえ」
「あ・・・、つい勢いで・・・」由利子は冷静さを取り戻すと続けた。「そもそも普通の人が使わない小難しい計算ソフトに偽装するほうが、人に敬遠されそうだからよっぽど偽装の価値があるやろ」
「う~~~~ん、多分そーゆーパッケージしか手に入らんかったんやろ~ね」
「日ごろの暮らしが偲ばれますなあ・・・」
「なんか私じゃ不安だから、由利ちゃんに持っとって欲しいと。ほら、私、監視されてたりするやろ?」
「じゃあ、せめて送る前に了解させて欲しかったよ」
「ごめんごめん、荷造りの時に急に思い立ったんで・・・」
「まあ、いいや。預かってやろう。まあ、パッケージは変えさせてもらうけど」
「ありがとう、由利ちゃん。やっぱ頼りになるわぁ。パッケージについてはお任せします」
「でさ、話は変わるけど・・・」
由利子は、テロやスパムの件を上手く外して、昨日のギル研訪問について話した。
「え~っ! やっぱそうやったんやね、アレクってば。実はね、会った時そんな感じがしたっちゃん」
「ええ? わかったと、美葉?」
「なんか雰囲気がなんとなく。でも、残念やねえ、せっかくイイ男なのに」
「そうよ、女性にとっては多大なる損失だわ。まあ、そのぶん妙なことにならんやろうから、安心やけど」
「あはは、何よぉ、妙なことって」
二人はその後、雑多な話で盛り上がった。電話を切った後、由利子は例のパッケージを見ながらため息をついた。
「これ、どーしよ。捨てることすら恥ずかしいなあ・・・」
とりあえず由利子は、昼食の支度の再開を優先し、CDRの『偽装』については後で考えることにした。

 

 少し日が落ちて若干過ごしやすくなった3時過ぎ、祐一は気分転換にベランダに出て行った。あれ以来祐一は引きこもりがちになっていた。なんに対してもヤル気が起きない。家族は心配していたが、様子を見ながらしばらくそっとしておくことにした。しかし、ベランダの祐一を見ながら両親が心配そうに会話を始めた。
「ひょっとしたら、カウンセリングを受けさせんとイカンかもしれんなあ」
父親は言った。
「友人に医者がおるけん、だれかいい人を知らんか聞いてみとこうか」
「そうね・・・、お願いしておきますね。でも、私は祐一ならこれを、なんとか乗り越えられるような気がするとですよ」
と母親が言った。
「相変わらず親馬鹿やな」
父は、笑いながら言った。
 祐一がベランダに出ると、愛犬が尻尾を振って出迎えた。ジョンと言う名の、5年ほど前に保健所から子犬の時に引き取った雑種のオス犬である。もらってきた時小さかった彼も、今では小ぶりのシェパードほどのサイズに成長した。
「足の太かったけん、身体もでかくなるやろうとは思うとったばってんなあ」
父はどんどん大きくなるジョンを見るたびにしみじみと言った。毛は長いが毛色や模様もシェパードっぽいので、多分親か先祖にシェパードは入っているだろうねと家族で結論した。彼は、自分が一家に命を救われたことを知っているのか、家族の言うことを良く聞いた。しつけも良かったのだろう、彼は身体はでかいが優しい犬に育ったのである。
「ジョン、おいで」
祐一はベランダに座ると愛犬を呼んだ。ジョンは祐一の前に来るとお座りをして尻尾を振った。
「フリスビーをして遊ぼうね。鎖、外してやるけんね」
鎖から開放されたジョンは、喜んで庭をぐるぐると走り回ったが、祐一がフリスビーを投げるとすぐにそれを追って見事にキャッチした。数回それを繰り返していると、友だちと買い物に行っていた妹が帰って来た。
「おにいちゃん、ただいま~」
「香菜、お帰り。早かったね」
「うん。みさきちゃん、これからピアノのおけいこだって・・・あ、ジョンにもただいまぁ」
香菜はお帰りのポーズで待つジョンにも声をかけ、頭を撫でる。ジョンは祐一以外には決して飛びつかなかった。他の人に飛びつくと倒れることがあって危険なことを知っているからだ。
「香菜は何かお稽古事には行かんでもいいと?」
祐一が聞くと香奈が答えた。
「うん。ピアノはお母さんが教えてくれるし、お勉強はおにいちゃんが教えてくれるからいいっちゃん。あ、香菜もジョンと遊ぶけん着替えてくる~。ちょっと待っとってね」
しばらくすると、香菜が着替えてやってきた。ジョンは香菜に良いところを見せようと思ったのか、張り切ってフリスビーを追いかけキャッチした。祐一と香菜の笑い声が響いた。西原夫妻は居間でテレビを見ていたが、笑い声に気がついた。母が、嬉しそうにいった。
「あら、祐一が笑っとお。久しぶりやねえ。良かったぁ」
「やっぱりペットは癒しになるんやなあ」
父もすこしほっとした表情で言った。
「このまま、元気になってくれたらいいとですけど」
「大丈夫、あん子のことやけん、きっと元気になるばい」
しかし、夫婦の会話とは裏腹に、その光景を凄まじい目で見ている人物がいた。ジョンがそれに気づいてけたたましく吼えた。祐一と香菜は、ジョンの吼えた方角に反射的に振り向いた。それと共に、近くに止まっていた自動車が走り去っていった。

「いいわ、出してちょうだい」
犬が吼えるのを聞いて、美千代は運転席の男に言った。
「いいんですか? でも、会ってお話とかは・・・」
「いいから出して。あの子達と話すことはないわ」
男は、不審そうな表情をしながらも、車を発進させた。彼は今までの男達と違って年齢も高く、礼儀正しい紳士だった。
「ヘンな美夜さん。どうしてもここに来たいって言うから来たのですよ」
「顔が見れただけで充分だわ」
美千代は膝の上で両手を握り締めながら言った。
(笑っていたわ)美千代は思った。(私のまあちゃんは死んだのに、あの子は幸せそうに笑っている・・・)
美千代の心の中で、黒い染みがまた広がっていった。
「美夜さん、どうしたの? すごいを顔していますよ」
男が心配そうに声をかける。
「あ、ごめんなさい。少し疲れているんだわ。どこか静かなところに行ってお茶にしません?」
美千代は取り繕うように言った。
「了解。おいしいコーヒーを出すお店を知ってますから、そこにお連れしましょう。静かだし、お店の趣味もなかなか良いんですよ」
「ありがとう、都築さん。楽しみだわ」
美千代は言った。
「少し、眠っていいかしら?」
「どうぞ! 着いたらお起こししますから、安心して眠ってください」
都築の言葉に甘えて、美千代はシートに身体をうずめた。眠りは美千代をさらに深い闇に誘っていった。

「ジョン、どうしたと? ほえちゃダメやろ? おにいちゃん、ジョンがほえるってめずらしいけど、さっきの車のせいかなあ」
香菜はジョンをなだめながら、祐一の方を見た。しかし、祐一の様子がおかしい。
「あの車・・・雅之のお母さんが乗ってたような気がする・・・」
「おにいちゃん?」
「雅之・・・」
祐一はよろめきながら言った。
「おにいちゃん、どうしたん? しっかりしてぇ!!」
「雅之・・・オレが追い詰めたけん死んだとや? ひょっとしてオレが殺したとか?」
そう言いながら、祐一は頭をかかえ座り込んでしまった。ジョンが吼えるのを止めて祐一に駆け寄り、心配そうに彼の手を舐め始めた。
「お父さん! お母さん! おにいちゃんが、おにいちゃんが・・・!」
香菜の叫び声に驚いて両親が家から飛び出してきた。
「いかん、フラッシュバックや!!」
父が言った。
「とにかく家の中に入れよう。母さん、病院の薬、用意しとって」
「はい!」
母はすぐに家の中にとって返した。父は、すでに自分より背の高い息子を軽々と抱えあげると、早足で玄関に向かった。香菜とジョンが後を追った。 

 祐一が自室で目覚めると、家族が心配そうに覗き込んでいた。ジョンまで部屋の中にいる。
「あれ? オレどうしたんだっけ。香菜いっしょにジョンと遊んどって・・・?」
祐一は倒れた時のことをすっかり忘れていた。
「なんでジョンまでおると? こら、ジョン、ちゃんと足を洗ってきたか?」
祐一はそういうと手を差し伸べた。ジョンはクゥ~ンと鳴くと、祐一に近寄ってその手をペロペロと舐めた。
「お前はジョンと遊んどって急に倒れたったい。いろいろあったけん疲れとるんやろ。しばらく寝ときなさい」
父が言った。母は無言で祐一の頭を撫でている。
「おにいちゃん、ごはんの時間になったら起こしたげるけん、いっしょにアニメ見ながら食べよ。今日はテレビ見ながら食べていいって!」
香菜は努めて明るく言った。幼いながら、兄の力になろうと必死だった。
「うん、ありがと」
祐一は言った。
「ジョン、お前しばらく祐一の傍にいなさい。心配なんやろ?」
ジョンは嬉しそうに立ち上がって祐一のベッドの真横に行き、まるで張り番をするように床に座った。
「じゃ、ゆっくり寝てなさい」
「おにいちゃん、後でね」
「みんな居間におるけん何かあったら呼ぶとよ。枕元にあんたの電話置いとるけんね」
母は心配そうにしながら最後に部屋を出て行った。薄暗くなった部屋で祐一は目を閉じた。

「香菜、なんで祐一があげんなったかわかるか?」
しばらくして、父は香菜に聞いた。
「えっとね・・・、ジョンがほえて・・・」
「ああ、吼えよったな。珍しいと思うとった」
「で、香菜とおにいちゃんがいっしょにふり向いたら、車が出て行ったと」
「車が?」
「うん。そしたら、急におにいちゃんが変になったと。香菜びっくりしちゃって」
「祐一はその時なんか言うとらんかったか?」
「あのね、え~と、よぉ聞こえんかったけど、この前死んだ友達のお母さんが乗っとったって・・・」
「それでフラッシュバックを起こしたんやな。で、香菜、ほんとにそのおばちゃんが乗っとったとか?」
「わかんない。香菜、その人知らないもん」
「そうか、秋山さんとことウチが親しかった頃、香菜はまだ赤ちゃんやったもんな、覚えとらんよな」
「そうやね、子供同士の付き合いがなくなったら、自然と疎遠になってしもうたけんね」夕食の支度をしながら母が言った。「中学で同じクラスになったって祐一、喜んどったけど、まさかこんなことに・・・」
「そういや秋山さんの奥さん、行方不明ってウワサやけど、ほんとか?」
「ようわからんけど、秋山さん宅は立ち入り禁止になっとぉみたいですよ。雅之君のお葬式、いったいどうなるんやろ、かわいそうに・・・」
「そうやな。本来ならもうとっくに終わっとかんといかんのになあ」
「おばあちゃんも亡くなられたみたいで、やっぱり家が立ち入り禁止になっとって、何か変な病気じゃないかってうわさになっとるようですよ」
「らしいな。祐一は大丈夫やろか」
「いやですよ、あなた。ウワサに踊らされちゃいかんでしょ」
母は笑いながら言った。
「そうやな。そんな病気が流行っとるんなら、保健所からなんか通知があるやろうけどな・・・。でもな、国が正確な情報を流すとは限らんからな、意図的であれ、不手際であれ。気をつけとかんとな」
と、言いながら、最近は不手際のほうが多いがな、と父は思った。
「ばってん秋山さんの奥さんが行方不明というのが本当なら、見かけたということを警察に知らせた方がいいっちゃないや?」
それを聞いた母は夕食の準備をする手を止め、父の方を向いて真剣にいった。
「あなた、もうこれ以上このことに足を突っ込みたくはなかですよ。祐一が可哀想でしょう」
「そうやな・・・」その場合は『足』ではなく『首』だろう、と思いながら父は言った。「ところで祐一はちゃんと寝とるやろうか」
「鎮静剤を飲ませてますから、大丈夫とは思いますよ」
「そうか・・・」

 そんな家族の心配の中、祐一はあれから寝付けずにいた。時間が経つにつれ、頭の中がだんだんはっきりしてきて、何故自分が倒れたかも思い出した。彼は、ベッドに上半身を起こし、枕元の携帯電話を手に取ると、雅之の最後のメッセージとなったメールを開いた。

『祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。』

祐一の目から大粒の涙がこぼれた。
「雅之、オレ、どうしたらいいかわからんようになった・・・」
ふと、祐一はギルフォードに会ったとき、彼が言った言葉を思い出した。

「君たちは強い子です。これからいろいろあるでしょうけど、何があっても君たちなら乗越えていけるでしょう」

「色々あるってこういうことやったんやね」
祐一はつぶやいた。あの人もそんな色々のことを切り抜けてきたのだろうか・・・。祐一は思った。
「やけど、オレはギルフォードさんが言うほど強くない・・・」
祐一は足を曲げると、右手で電話を握り締めたまま、膝をかかえた体育座りの状態で両腕に顔を埋めた。彼はしばらくじっとして動かなかった。だが肩が小さく震えている。ジョンがそれに気づき、クゥ~ンと小さく鳴くと起き上がって祐一の左手の甲を舐めた。
「ジョン、ありがと・・・」
祐一はジョンの方を見ると、電話を左手に待ち替え、右手を伸ばしてジョンの頭をなでた。愛犬の暖かい頭を撫でていると、だんだん心が和らいでくる。祐一は徐々に冷静さを取り戻した。冷静になると、今まで忘れていた、いや、ここ数日考えまいとしていた疑問が大きく頭をもたげてきた。

  安田さんを、そして雅之を死に追いやったモノは何だ?

(そうだ、雅之は「待ってて」とメールに記していた)祐一は考えを巡らせた。(あいつは本気で自首するつもりだったはずだ)
あのメールから祐一はそれを確信していた。
(それなのに何故あいつは電車に飛び込んだ・・・?)
その時、いきなり祐一の脳裏にあの公園での出来事がフラッシュバックした。彼は両手で頭を抱え込んだ。だがそれは、祐一に新たな考察を与えた。頭をかかえた状態で祐一は考えた。
 公園の男、安田は最初、比較的理性的に助けを求めてきた。ところがだんだんろれつが回らなくなり、言葉に理性が全く失われた。さらに一旦雅之に蹴り上げられ、地べたに転がったあと、急に凶暴化して雅之に襲い掛かった。凶暴化する前に彼が言った言葉「ミンナ・アカイ」そして「オレに近づくな!!」。そういえば、ギルフォードさんもそこら辺が特に気になっていたようだ・・・。
「安田さんはあの時なんらかの脳障害をおこしていた・・・?」
祐一は、ハッとして頭を上げた。『インフルエンザ脳症』という言葉が急に思い出された。一時期インフルエンザに罹った子どもが異常行動をおこし、死亡する事件が世間を騒がせた。インフルエンザの特効薬タミフルとの因果関係もささやかれているが、それは証明されていない。それはさておき、再び祐一は思考を巡らせた。
 雅之も病気のせいで脳症をおこしていたとしたら・・・。そして、周り中が赤く見え、パニックを起こしたとしたら・・・?

 祐一は、ガバッと起き上がった。
(安田さんは、『オレに近づくな!』と言った。彼は自分の病気が感染ることを知っていた・・・。いや、むしろ自分の行動を恐れていた!?)
祐一は空恐ろしいものを感じ、肌が粟立っていくのがわかった。
(ひょっとしたら、オレたちはとんでもないことに巻き込まれたのかもしれない)
祐一はもう一度ギルフォードの言葉の一部を思い出した。

「でも、結果的に現実から逃げないで真っ向から向き合いました」

(そうだ、逃げちゃいけない!)祐一の目に光が戻った。(雅之、おまえの死の原因をつきとめてやる・・・!)
祐一はベッドから降り机の前に座ると、カバンの中から定期入れを出し、ギルフォードの名刺を取り出した。

 しばらくして祐一が居間に姿を現した。
「おにいちゃん!」
最初に香菜が気付いた。
「祐一! 起きてよかとね?」
「大丈夫や?」
両親が驚いて祐一に聞く。
「父さん、母さん、香菜、心配かけてごめん。もう大丈夫やけん」
祐一が家族に向けて力強く言うと、彼の後ろでジョンが「ワン!」と吠えた。

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6.暴走 (2)シニスター~不吉~

20XX年6月10日(月)

「ここは?」
美千代は見覚えのない寝室で目を覚ました。上半身を起こして周りの様子を伺うと、ベッドサイドに椅子に座ったままうつ伏せて寝ている都築の姿が目に入った。美千代は思い出した。都築は昨夜また高熱を出した美千代を病院に連れて行き、その後自宅に連れて帰り、自分のベッドに寝かせてくれたのだ。美千代は熱に浮かされながらも、不思議に思って訊いた。
「どうして、そんなに親切なの?」
「あなたがものすごく辛そうだからですよ。放っておけないくらいに」
都築は笑って答えた。
「でも、私にはあなたに何もお返しが出来ないわ・・・」
「実は一目ぼれだったんです。5年前に妻を失って以来、久々に女性に心を動かされました。でも、公園で見かけたあなたは今にも死にそうな顔をしていた。だから勇気を出して声をかけてみたんです・・・。美夜さん、何があったかわかりませんが、自暴自棄になってはいけません。生きている自分を大切にしてください」
「都築さん・・・」
「もし良かったら、落ち着くまでずっとここに居ても構いませんよ。むしろその方が私は嬉しい」
「ありがとう。でも、ごめんなさい・・・・」
「良いんですよ、私の一方的な気持ちですから。とにかく今はゆっくり眠ってください。大丈夫、私が傍についていますから」
都築にそういわれて、美千代は目を閉じた。病院で処方された薬が効いたのか、彼女はすぐに眠りに落ちた・・・。

 
「都築さん・・・。朝まで看病してくれたの・・・?」
朝、目を覚ました美千代は、都築が昨夜と同じようにしてベッドサイドにうつぶせているのを見て、嬉しさと申し訳なさで一杯になった。しかし、いつまでも彼に甘えるわけにはいかない。幸いなことに、今は熱がだいぶ下がっている。美千代はそっとベッドから抜け出すと、身支度を整え書置きをして都築邸から姿を消した。

 都築が目を覚ますと、すでに美千代の姿はなかった。枕元には封筒と書き置きがあった。
『都築さん、ありがとう。でも、私は行かなくてはなりません。足りるかどうかわかりませんが、病院代としていくらか置いていきます。本当にごめんなさい。あなたともっと早くお会いできたらよかった。美夜子』
「美夜さん、あんな身体でどこへ・・・」
都築は、美千代の手紙を握りしめ、つぶやいた。

 

 雅之の初七日にあたるこの日、祐一は家族に心配されながらも学校に向かった。今日はゆっくり歩いたほうがいいからと、また早めに家を出て、雅之の家と彼の祖母の家の様子を見るため回り道をした。やはり、両方とも立ち入り禁止は解除されておらず、何人か警官が見張りに立っている。しかし雅之の家をじっと見ていた祐一は、警官から胡散臭そうな目で見られたので、早々に退散した。祐一は歩きながら、昨日ギルフォードに電話した時の内容を、もう一度思い返してしてみた。

「ユウイチ君、君がこういう電話をしてくるだろうことは、予想していました」
ギルフォードは言った。心なしか声が嬉しそうだった。
「ただし」ギルフォードは今度は厳しい口調で言った。「僕は君の質問に全て答えることは出来ません。また、君は私が答えた事についても他言は許されません。何故なら、まだ発表段階にない事柄であり、無用の混乱を避けるためです。約束出来ますか」
「はい、もちろんです」
「僕が君の質問に答えるのは君がこの事件の当事者でもあり、君の疑問に対して隠したり誤魔化したりすることが難しいと思うからです。ですから、君自身が謎を解く為に、キケンに近づくようなことだけはしないでください。いいですね?」
「は、はい」
「これは男同士の固い約束です。必ず守って下さいますね?」
「はい、わかりました」
「よろしい、では本題に入りましょう」ギルフォードは何度も念を押した上で、ようやく祐一の質問に答え始めた。「ホームレスのヤスダさんが、なにかの感染症に罹っていたのではないかという質問ですが、答えは『イエス』です。これは僕がこの前君たちに質問した時には、すでに予想していたんじゃないですか?」
「はい・・・、安田さんが亡くなった時から『ひょっとして感染るんじゃないか?』という漠然とした不安がありました」
「そうでしょうね・・・。それから、彼らが罹っていた感染症、言ってしまえば疫病についてですが、まだ調査中です。少なくとも既存の感染症とは合致しませんでしたので、新種である可能性が高いです」
「新種なんですか! 何故そんなものが・・・?」
「それについても、まだはっきりとした答えが出てませんのでお答えできません」
「雅之と雅之のおばあちゃんの家が封鎖されているのもそのためですね」
「そうです。ご家族やタマエさん・・・マサユキ君のおばあさんですね、彼女の第一発見者達も、念のため追跡調査している状態です。はっきりと君に言えることは、未知の病原体がどこかに潜んでいるかもしれないということと、マサユキ君がヤスダさんからそれに感染し、タマエさんがマサユキ君経由で感染したということだけです」
「症状については・・・?」
「それに関してはある程度わかっていますが、まだお答え出来る段階ではありません」
「周囲が赤く見えるというのは、症状に合致しますか?」
「それに関しても、なんともいえない状態です。何故なら、この病気の生存者が今のところ存在しないからです。それに関しての記録は君らと、お友だちのショウタ君の証言だけで、実際患者がどんな風に見えていたかは・・・」
「勝太の証言? ってことは、やっぱり雅之にも同じことがおこってたかもしれないのですね!?」

そこまで回想して、祐一はハッと我に返った。周囲が妙に騒がしいことに気がついたからだ。見ると、大人たちが大騒ぎをしながらどこかに向かっている。祐一は何かあると思い、彼らについていった。しかし、長身でしかも学生服の祐一は否応なく目立つ。大人たちは祐一に声をかけてきた。
「おい、ボウズ。学校へは行かんでよかとね?」
「あんたぁ背の高かばってんまだ中坊やろ?」
「学校ずるけたらイカンやろうもん」
「いえ、ちょっと家を早く出すぎちゃって・・・」
祐一は言い訳をした。
「確かに、中学生が登校するにはずいぶん早い時間やね」
「何かあったんですか」
祐一は声をかけられたついでに質問をしてみた。答えはすぐに返ってきた。
「向こうの護岸に人だかりの出来とろうが。あん下に 虫のようけ死んどるったい。うっちゃあ、あげんこつばさらか※虫の死んどうとは初めてみたばい」
と、初老の男性が答えた。
「僕、もうちょっと電車の時間があるんで、一緒に行っていいですか?」
「あんた、中学生の癖に電車通学ね・・・私立のよか学校たい。まあ、遅刻せんっちゅうんならついて来てよかばってん」
「ありがとうございます」
祐一はお礼を言い、彼らの後について問題の場所まで行くと、さっきの初老の男性が祐一を前の方に誘導してくれた。護岸から見下ろすと、河川敷に雑草の生い茂るなか、直径1m弱ほどの真っ黒い小山が出来ていた。すでに、ゴーグル・マスク・コートと完全武装した警官が数人来ていて、立ち入り禁止のテープを張り巡らし、河川敷まで降りてきた野次馬がその近くに寄らないように人払いをしている。大量死している昆虫の種類が種類だけに、警官達の異様な出で立ちを不審に思う者はほとんどいなかった。眼の良い祐一はその小山に目を凝らした。しかし、それがなにか確認した祐一は「うわぁっ!」と言ったまま口を右掌で覆い固まってしまった。
「すごかろうが」と初老の男が言った。「近いうちにまた地震でもあるっちゃないやろかって、みんな心配しとるったい」
「そうそう、モーカン現象やったかねえ」
隣にいるおばさんが相槌を打った。
「宏観異常現象です」
祐一はついつい訂正した。
「あら、そうやったかねえ。学生さんは物知りやねえ」
おばさんが感心して言ったが、正確には学生は大学生を指す言葉で、中高生は生徒というのが正しいらしい。
「もうじき保健所から人が来るけん、心配せんでっちゃよか。あんたぁ、そろそろ学校へ行かな。遅刻するばい」
初老の男は祐一に向かっていった。時計を見ると、かなり走らないと電車に間に合わない時間になっていた。
「あ、本当だ、行かないと! おじさんたち、どうもありがとうございました!」
祐一は丁寧にお礼を言うと、猛然と駆け出した。
「若いけん元気やねえ・・・」
猛ダッシュする祐一の後姿を見ながら、おじさんたちが言った。

 祐一は、何とか電車に間に合った。朝は上り電車に比べ、下りの方は鮨詰めにはならないが、流石に通勤通学時間は人が多い。朝っぱらから全力疾走し、電車に駆け込んだ祐一は、流石に息が上がっていたが、若い分回復も早かった。
(それにしても・・・)
つり革に捕まり、窓の外を見ながら祐一は思った。
(さっきのアレはなんだったんだろう。なんであんなモノがあんなところであんなに沢山死んでいたんだ?)
祐一はさっきの光景を思い出し、再びゾッとした。恐怖と嫌悪感の入り混じった嫌な感じだった。
(昼飯、食えんかも・・・)
思い出しただけで、朝食が逆流してきそうだ。あんなに凝視するんじゃなかったと祐一は後悔した。彼は、雅之の祖母宅で起こった事を知らない。ギルフォードが、子どもには刺激が強すぎるだろうと言うのをためらったからである。知っていれば、それなりの答えが出たかもしれない。見た記憶を消し去りたい・・・。祐一は、ショックでしばらく何も考えることが出来なかった。
 その隣の車両に由利子が乗っていた。彼女は昨夜、何度も書き直した辞表をバッグに入れていた。書きながら流石にいろんな思いがこみ上げてきて、悲しくなってしまった。この会社なら、ずっと勤めていけると思ったのに、とうとうこんな日が来ちゃったなあ。
「はああ」
ドアに寄りかかりながら、由利子は無意識にため息をついていた。
 同じ事件に関わりながら今現在、全く違う思いで悶々としている二人を乗せて、電車はレールの上をいつもの通りに何事もなく走っていた。

 

 ギルフォードは、研究室で午後からある講義の準備をしていた。しかし、どうも落ち着かない。彼は立ち上がると、机の横に置いている水槽を眺めた。中には鮮やかな赤・背面がピンクがかった赤で腹面が白・そして全体的に白っぽくて尾の部分が金色がかった黄色の3匹の金魚がひらひらと泳いでいた。名前は赤いのがネプチューナ・ピンクがピピ・白がミューティオでどれも秋の祭りの出店で掬ったものだった。6匹掬ったのだが残念ながら3匹は次々と昇天し、残った3匹はすくすくと育ち最初からは考えられない程の大きさになった。名付け親は誰かわからないが、ギルフォードが名付ずにいたら、ある日水槽にそれぞれの金魚用に「命名 ○○○○」と書いた紙が貼ってあった。彼女ら(実際オスかメスかはわからないが、名前からメス扱いされている)は、ギルフォードが近寄ってきたのに気がつくと、嬉しそうに寄って来て水面をパクパクしながらえさをねだった。
「ハイハイ、ごはんですね。チョット待ッテ、クダサ~イ♪」
ギルフォードはどこで覚えたのか、懐かしい歌のフレーズを口ずさみながら、エサのビンの蓋を開けると水槽にパラパラとエサを撒いた。彼は、しばらく彼女らの食事風景を見ていたが、何か思い立ったらしく椅子に勢い良く座るといきなり電話をかけ始めた。
「ハァ~イ、マッキアン? ギルフォードです。お元気ですか?」
「アレックス・・・、そのあだ名で呼ぶのは止めてくれんかな。俺には松樹 杏士郎(きょうしろう)という暦(れっき)とした日本名があるんだぜ」
マッキアンこと松樹は、ディスクで大量の書類に囲まれながら言った。
「で、用件は何だ? こう見えても俺は忙しい身でね」
「ええ、それはわかっています。僕が電話したのは、例の疫病についてどこまで対策が検討されているか知りたいからです」
松樹はそれを聞くとふっとため息をつきながら言った。
「君の焦る気持ちはわかるけどね、ギルフォード君。確かに俺は県警の組織犯罪対策課にいるが、しがない管理職だ。俺の力じゃあどうにもならんことはわかっているだろう? ただ、上層部の連中が君を疑っているわけではない。もちろん不審に思っている人間も多いけどね。だが、君の報告を受けて、行政の対応も含めてレベルⅡの対策を進めているのは、君も知っているだろう? この国にしてはずいぶんと対応が早いほうだ」
「しかし、実際はレベルⅢまで事態は進んでいるのです」
「わかっている。事態が急変すればレベルⅢの対策にシフト出来るようになっているはずだ」
「本当にダイジョウブなんですか?」
「知事が就任後初の大仕事で張り切ってるから大丈夫だろう。それより」松樹は少し声のトーンを落として言った。「ウワサによれば君を日本から追い出したい連中がいるらしい。足を掬われない様に気をつけろよ」
「僕を追い出す? どうしてでしょう。僕は誰の何の邪魔もしてません。日本の片隅で大人しくしているだけです。まったく、冗談じゃないですよ、せっかく安住の地を見つけたのに・・・」
「ほお、安住の地か・・・。あれだけ東京から遠いだの僻地に行くのは嫌だのと失礼なことを言って、九州行きをゴネてた君がねえ」
「ジンカン(人間)至るところセイザン(青山)ありです」
「言ってくれるねえ」
「故郷を飛び出してだいぶ経ちますけどね。・・・だから、あなたのお祖父様の計らいには感謝しています、松樹警視正殿」
「君にそう呼ばれるとどうも居心地が悪い。いつも通り『キョウ』でいいよ・・・。あ、ちょっと待ってくれ。内線が入った」
松樹はしばらく内線電話に対応していた。
「アレックス、今の電話だけどね・・・。例の紗池町の河川敷で、大量の昆虫の死がいが見つかったそうだ。多分秋山珠江の遺体を襲ったモノじゃないかということだ」
「死んでいた? 全部がでしょうか」
「さあな。そうであることを祈っているよ。数匹サンプルを残して消毒の上焼却処分するそうだ」
「賢明ですね。しかし、なんでこんな妙な行動を・・・? まるでレミングの自殺伝説みたいです。ひょっとして、あのウイルスは節足動物にも異常行動をおこさせるのでしょうか・・・」
「しかし、影響のあったのはゴ・・・」
「やめてください。せめてローチと言ってください。僕はアレとコオロギに似た羽根のないアレだけは苦手なんです」
「いわゆる便所コオロギだな。正しくは、k・・・」
「それ以上言わないでください」
「わかった、わかった。君とは長い付き合いだが、その弱点は初めて聞いたよ。そのローチだが、ウイルスの宿主あるいはキャリアになるのか?」
「死んでしまったのなら、宿主ではないと思います。しかし、疫病で死んだ人を食害・・・してますから、キャリアになっている可能性は高いですね」そういいながらギルフォードは身震いした。「全滅してくれていることを本気で神に祈りたい気分です・・・」
「日頃信心しないヤツが祈っても、聞いてくれるかどうかわからんぞ」
松樹は笑いながら言った。
「近いうちに、保健所から君に詳しい内容が伝えられるはずだ。楽しみに待っておけ。俺はこれから会議に出にゃならん。悪いがもう切るぞ」
「あ、すみません。お忙しい時に長電話してしまって・・・」
「いや、俺の仕事に関わる内容だったからな。私用電話なら問題だが。ま、意外な話も聞けてよかったよ」
「それはよかったです。それではまた。愛してますよ、キョウ」
「やめてくれ、俺はストレートだ。じゃあな!」
松樹は電話を切って何気なく周囲を見た。すると、皆が松樹を見ていたらしくそれぞれがとっさに下を向いて仕事を始めた。県下に異常事態が発生しているかもしれないという事への関心もさることながら、アレックスだのレベルⅢだのウイルスキャリアだのと一風変わった話の内容につい皆が聞き耳を立ててしまったらしい。特に最後のストレート発言には数人が「おおっ」と小声で言った。
(ったくもう・・・)
松樹はため息をついて立ち上がった。
 松樹からそそくさと電話を切られてしまったギルフォードは、すでに相手と繋がっていない電話に向かって言った。
「そんなに焦って切らなくてもい~じゃん」
その時、後で声がした。
「そりゃあ、焦りますわよ、公用の電話で男性に『愛してる』なんて言われたら」
振り向くと紗弥が立っていた。
「サヤさん・・・、いつの間に来てたんですか?」
ギルフォードが問うと、紗弥は嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「うふふ、教授の弱点がゴキブリとカマドウマだなんて、わたくしも初めてお聞きしましたわ」
紗弥はギルフォードが聞くのも嫌がった名詞をあっさりと言ってのけた。ギルフォードは一瞬でげんなりした。
「カッコワルイから、人に言わないでくださいよ」
紗弥は意味深にニッコリと笑うと、すぐに自分の席についてパソコンのスイッチをいれた。窓機の起動音が研究室に響いた。
(”それにしても・・・”)ギルフォードは思った。(”出血熱とあの昆虫・・・。まるで俺に対する嫌がらせみたいな組み合わせじゃねえか”)
一抹の不安を感じながら、ギルフォードは本来の作業、すなわち講義の準備に戻り、それに没頭することにした。

※ たくさん・大量
もともと筑後弁で純粋な博多弁ではないらしいが、より「大量」感のある言葉だ。

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6.暴走 (3)クリミナル

 由利子は社長室に入ると、退職願を出し一礼してその場を離れようとした。その由利子の背に向かって社長が声をかけた。
「篠原君」
由利子は背を向けたまま立ち止まった。
「ありがとう。私がふがいないせいでこういうことになって申し訳なく思っている。本当にすまない・・・!」
社長は立ち上がり深く礼をしながら言った。社長の真摯な言葉に由利子は笑顔で振り返って言った。
「まあ、これも運命かもしれません。それより会社を潰したら承知しませんからね」
「もちろんがんばるさ。必ず生き残ってみせるから」
社長は由利子にそう確約して言った。
 由利子が社長室を出ると、その前に黒岩るい子が居た。黒岩は泣きそうな顔をして言った。
「ごめん、私の代わりに辞めるっちゃろ? ごめんねごめんね」
由利子は困って言った。
「黒岩さん、そうじゃないです。それに、次の仕事もいちおう見つけてあるし」
「ホント? 本当なんやね?」
「ホントですよ。今、仕事中だからお昼休みにお話しますから」
由利子は努めて明るく言った。

 美千代はファミレスでコーヒーを飲んでいた。
 都築の家を出たものの、どうも体調が思わしくないのでこれからどうするべきか指示を仰ごうと電話を探したが、見つからない。そういえば・・・、美千代は思い出した。携帯電話は電波で居場所を特定される恐れがあるというので、雅之の電話も一緒に教主に預けたのだ。しかし、彼女はこれまでその存在をすっかり忘れていた。かつては手元に無いとあんなに不安だったけど、けっこう無くてもなんとかなるものね・・・。美千代はそう思うと少し可笑しくなってクスリと笑った。気分は解熱剤が効いているのかだいぶマシになっていたが、頭の芯がすこしぼうっとしているような気がした。美千代は教主との連絡先をノートにメモしていた。それを思い出して電話を入れてみると、教団幹部の男が出て使者をよこすという。それで、彼女は今、待ち合わせに指定されたファミレスでコーヒーを飲んでいるわけである。病気の進行のせいか、食欲は全くと言っていいほど無くなっていた。
「美千代さんですね」
教団からの使いが美千代の座った席の前に現れた。若い男で顔もまあまあだったが、少し緩んだ表情があまり利口そうではない印象を与えた。
「F支部の河本です。お迎えにあがりました。さあ、参りましょう」
河本は美千代にそう言うと、さっさときびすを返して店の出口に向かった。美千代は慌てて席を立つと、会計を済ませ店から出た。河本は店先に止めた車の前で待っていた。路上駐車・・・、だから急いだのね、と美千代は理解した。河本は車の後部席のドアを開けて美千代を座らせた。
「体調の方はいかがですか?」
河本は車を走らせながら美千代に聞いた。
「少し気分が悪いけど、だいぶいいですわ」
「吐き気とか腹痛は?」
「おなかは痛くないけど、吐き気はありましたわ。薬を飲んだから今は治まっているけど・・・」
「そうですか」
河本はそこまで聞くと、また無言になった。美千代はだんだん不安になってきた。一体どこへ連れて行くつもりなのだろう。その気持ちを抑え、美千代は一番気になっていたことを聞いてみた。
「雅之の・・・息子の遺体ですけれど・・・、どうなっているかご存知ですか?」
「私はそのように重要な件には加担しておりませんので・・・」
河本はそっけなく言った。車はどんどん山道を進んでいるが、以前行った教団の支部へ続く道とは全く違うように思えた。美千代の不安はさらに大きくなった。
「行き先はどこですの?」
美千代は思い切って男に聞いた。
「あなたは教団にとって危険だ」
河本は言った。
「長兄さまは面白がっておられるが、一部の幹部からあなたを野放しにすることを危険視される意見も出ています」
「え?」
美千代は自分の耳を疑った。
「あなたはおそらくもうすぐに死ぬ。だが、それまである場所に隔離させてもらいます。全てが終わったら、そこに火をかけて浄化します」
河本は抑揚の無い声で言った。想像もしていなかった事態に美千代はパニックを起こしかけたが、なんとか自分を抑えた。だが、このままだと美千代にとって危機的状況を招くことは間違いない。美千代は生き残る方法を探るため考えを巡らせた。今ここで死ぬわけには行かない。自分の病状から息子と同じ病であることは想像がついた。河本の言うように、ひょっとすると自分も死ぬかもしれない。だが今、彼らに拉致監禁され、そこで死ぬわけには行かない。美千代はバッグの中をそっと探った。この状況から抜け出すために何か役に立ちそうなものはないか・・・。すると美千代の手にあるものが触れ、彼女はかすかに微笑んだ。それだけ残していてもしようも無いものだったが、捨てなくてよかった・・・と美千代は思った。
 しばらく、山道を走ったところで美千代は勝負に出た。彼女は後部座席でうめき声を上げた。
「ご、ごめんなさい、本当はさっきからずっとおなかが痛くて・・・吐き気もするの。苦しい、助けて・・・」
「もう15分もしたら目的地に着きます。がんばってください」
河本は流石に驚いたらしく、声に少し感情が混じっていた。美千代はさらに息を荒げながら言った。
「だめ・・・よ、それまで・・・もたないわ。・・・ねえ、車を止めて! 外に出してちょうだい。林の中でするから!!」
「ダメです。あなたを逃がすリスクは避けねばなりません」
「わかったわ。放っとくがいいわよ。でも、ここで漏らしても知らないわよ」
「それは困ります!! 私まで感染リスクが上がってしまいます。今だって充分怖いんですよ!」
美千代は河本が無愛想だった理由がわかった。病気を恐れていたのだ。病気のことを知っているということは、河本は彼が言う以上に教団の中心に近しい人物なんだろうと美千代は判断した。
「ああ、どうしよう・・・、ホントに・・・もたないわ。死にそうよぉ・・・お願い、車を止めてぇ・・・」
美千代は身体をくの字に曲げて苦しんで見せたが、右手にはさっき見つけたものを握りしめていた。
「わかりました。でも、私はあなたが逃げないように監視する義務がありますから・・・」
「いいわ、紐で括ろうが傍で見ていようが勝手にするといいわ!」 
美千代は自暴自棄に言った。とうとう河本はあきらめて車を止めた。木々がうっそうと茂り車通りもほとんど無い山道だった。以前問題になった、利用者のいない利権のみで作られた道のひとつらしい。車を止めて振り向こうとした河本の首に何かが巻かれ、一瞬にして首を絞められた。美千代がヘッドフォンのコードを彼の首に引っ掛け、彼女の全体重をコードにゆだねたのだ。
「ぐえぇ・・・」
河本の目が異様に見開かれ舌が飛び出した。彼は口から涎を垂らし泡を吹きながら数秒もがいたが、すぐに力が抜けた。美千代はロックを解除すると車外に飛び出し運転席のドアを開けると、満身の力を込めて河本を引きずり出した。さらに彼女は河本の身体を山道の隅に必死で引きずりながら運んだ。絞首のショックで勃起した河本の股間辺りから排泄物の強い臭いが漂ってきた。大きく開いた口から泡を吹き鼻血を流し、白目を剥いたままぐったりと動かない河本の胸に、美千代は恐る恐る耳を当てた。心臓はなんとか動いている。美千代はほっとした。彼女の体重が軽かったのと車内が狭かったために、幸いにもトドメを刺すに至らなかったのだ。それでも美千代は自分のしでかしたことに恐怖したせいか、胃から何かが逆流して来るのを感じた。美千代は河本の横で吐いた。すでに吐くものは無いはずの吐物はどす黒く、赤黒い血の塊が混じっていた。
 美千代は河本の身体を見つかりにくい法面の林の下生えの中に隠すと、彼の車に乗り込み何処かに走り去った。

 多美山と葛西は、ひとりの男を追っていた。二人は情報を受けて、とある大衆食堂の前で男が昼食を終えて出てくるのを待った。受けた情報どおりに男が店から出てきたので、それを見計らって近づいた。男は30代でガタイが大きく、如何にも労働者タイプの男だ。多美山は人好きのする笑顔で男に近づき、警察手帳を見せながら言った。
「山田 孝さんですね。XXのコンビニ強盗の件ですが、ちょっと署までご同行願えんですか?」
男は咄嗟に多美山を突き飛ばして駆けだした。多美山はバランスを崩し、路上に尻餅をついてしまった。
「多美さん!」
「いいから追え、ジュンペイ!!」
葛西は多美山が言う前にすでに駆けだしていた。路地に入ったところで山田は振り向いて驚いた。もういい加減ひき離しただろうと思ったのに、すぐ後ろに葛西が追ってきていたからだ。葛西は自分を何の取り得の無い男だと思っていたが、脚だけには自信があった。高校時代陸上部で中距離ランナーをやっていたからだ。山田は道に置いてあったゴミ袋を蹴飛ばして妨害しようとした。葛西は一瞬脚を取られかけたが、すぐに体勢を立て直して男にタックルをかませた。二人してもんどり打って倒れ、山田は足下にしがみつく葛西から逃れようともがいたが、それが無理とわかり大人しくなった。葛西は起きあがって山田に手錠をかけようとしたが、その隙を狙って彼は寝転がったまま葛西に蹴りをいれた。葛西はとっさに身を引いたが腹に蹴りを食らってその場にうずくまった。その隙に立ち上がって路地裏に逃げようとしたところ、彼は何者かに投げ飛ばされた。そこには多美山が立ちはだかっていた。
「孝君、罪を重ねるとはやめんね」
多美山はすでに戦意を喪失している山田に向かって言った。
「通報、誰からやと思う? あんたのお母さんからたい。・・・お母さんはな、あんたの様子がおかしいとに気づいて心配してな・・・、あんたん部屋ば探して現金と血の着いた包丁ば見つけたったい。・・・そん時のお母さんの気持ちがどげんやったかわかるね?」
山田は多美山の言葉に下を向いたまま微動だにしない。多美山は山田の前にしゃがみこむと、彼の肩に手を置きながら言った。
「お母さんはな、通報するか息子を逃がすかずいぶん悩まれたらしいばってんな、やったことはきっちりと償わせんといかんち思うて、通報を決められたそうだ」
山田は相変わらず下を向いて黙っているが、肩が震えているのが傍目にもはっきりわかる。多美山は続けた。
「孝君、会社を首になって、一所懸命次を探したばってん見つからんで、生活に困った挙句の犯行やろ・・・。そりゃあどんな事情があっても強盗はいかんし、人を傷つけるのはもっといかん。ばってん初犯やし刺した相手も重症やけど幸い命に別状はなかごたるけん・・・。お母さんな、あんたが罪を償って出てきたら、またいっしょにがんばりたいっち言うとったぞ。たった一人のお母さんをこれ以上泣かせたらいかんやろ?」
多美山は優しく言い含めるように言った。
「はい・・・」
山田はやっとのことで答えたが、すでに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。そして彼は、だまって多美山に両手を差し出した。

「ジュンペイ、大丈夫や?」
多美山は、山田の手に手錠をかけると、まだ地面にへたり込んでいる葛西を心配して言った。
「あ、なんとか大丈夫です。とっさに避けたので何とか直撃は免れました。それよりスミマセン。ドジっちゃって」
「いや、オレが油断したとがいかんかった。声かけてどつかれる様じゃ、オレも焼きが回ったなあ」
多美山はすこし悔しそうに言った。
「ジュンペイ、ありがとう。あそこで彼を逃がしとったら取り返しのつかん事になっとったかもしれん」
「いいえ、そんなこと・・・。・・・あれ?」
葛西は目をしばしばとさせた。その後右目を押さえて多美山の顔を凝視した。
「ああ~、しまった・・・! 左目のコンタクトレンズ落としちゃいました」
「え”?」
想定外の葛西の言葉に、多美山と山田が同時に言った。

 

「へえ、大学の研究室でアルバイトすると? すごかやんね」 
由利子はお昼休み、黒岩にこれからのことを簡単に説明した。もちろんギルフォードと出会った経緯やひょっとして大変な事になりかねない疫病については一切カットした。
「え、その長身でハンサムなイギリス人教授がどうやらゲイらしいって??? なにそのジュネ・アラン的世界! あ~ん、羨ましい」
由利子の話を聞いて、黒岩の目がキラキラと輝いた。
(ああ、ここにもいたよ、腐女子が・・・)
由利子は心の中で苦笑いをした。
「凄くいい男なんですよ。もったいないと思いませんか?」
「どうせ手に入らんのやったら、いっそ観賞用のほうがよかろうもん?」
「そういうもんですかねえ」
「篠原さんってボーイッシュやもんね、だけん気に入られたっちゃないやろか」
「そういえば、秘書の紗弥さんもスレンダーだし、着るもの次第で少年に見えないこともないなあ・・・。まあ、深く考えんどこ。で、私のことはこれだけだけど、黒岩さん、もう日にちがあまりないけん、少し突っ込んだこと聞いていい?」
「なんね、いきなり」
黒岩は少し警戒しながら言った。
「あのですね、答えたくないなら答えなくていいですけど・・・。以前母子家庭って言われましたよね。ご主人亡くなられたんですか?」
「ああ、それね。そう、早死にやったよ。なんせ娘が生まれる前やったけんねえ」
黒岩はしみじみと言った。
「え? そうやったんですか・・・。すみません、悪いこと聞いちゃいましたね・・・」
由利子が黒岩にそういう話を聞きたかったのは、自分が身を退くことが正しかったんだという確信を得たかったからなのだが、想像以上にハードそうな身の上に、正直しまったと思った。
「まあ、略奪婚やったけんねえ・・・」
黒岩は遠い目をして言った。
「ええっ?」と由利子はうっかり言ってしまった。
「なんね、失礼な。これでも10ン年前は細くて今よりちったぁ見れたっちゃけん。娘を育てるんでなりふり構わなんかったけん、こうなったったい」
黒岩は笑いながら言った。
「それでも、離婚成立までじっと大人しく待ったとよ。やけん娘が出来たのも結婚してからやん」
「すごい、がんばりましたねえ。私なら既成事実を・・・いえ、茶化してすみません」
「まあ、それまでやったことなかったけんね」
「ええっ??? だって当時はすでにさんじゅう・・・」
「数えんでええっ!」
由利子が指折り始めたので黒岩は焦って止めた。
「意外とお茶目なことするんやねえ」
黒岩は若干引きつったマネをして言った。
「で、我慢してようやく結婚して子どもが出来て・・・・前妻との間には子どもがおらんかったけんね・・・、でね、ようやく幸せに、と思ったら、生まれる前にガッチャーン☆ 交通事故でさ、もう目の前真っ暗よ」
「なんと言っていいやら・・・」
「保険金は慰謝料代わりに元嫁からふんだくられるし」
「え?そんなのあり?」
「色々言ってきて、小うるさいしめんどくさいので払っちゃった」
「ひどっ」
「で、まあ残った保険金と私の働き分でなんとか暮らしてたんだ。母に娘を見てもらいながらさあ。そしたら5年前母も病気であっという間に昇天。で、父もとおに亡くなってたから一気に母娘二人さ・・」
「ダンナさんのご両親は?」
「居るけど長野。来いって言われてるんだけど、私がここを離れきらんでねえ。それに」
「それに?」
由利子は鸚鵡返しに聞いた。
「どうも、あっちの両親は苦手で・・・」黒岩は笑いながら言った。「変やろ? 最愛のダーリンの両親なのに」
「長野、いいとこじゃないですか。いまいち食文化が違いそうだけど・・・。でもまあ、なんとか生活出来るんなら、娘さんが独立するまで今の状態でがんばっていいんじゃないですか?」
「そう思う。でも・・・」
「いえいえ、気にしないで。私なんか独身で身軽だからなんとかやっていけますよ。いざとなったら適当に誰か引っ掛けて・・・」
そこで、何故か葛西の顔がポンと浮かんでしまい、由利子は密かに焦った。
「どうしたん?顔が少し赤うなったけど?」
「いえ、実はですね・・・」
由利子はギルフォードの友人(ということに便宜上勝手に設定した)の刑事のことを、適当に話をつなげて話した。
「はは~~~~ん」黒岩は、意味深な笑いを浮かべて言った。「脈ありそうやん。約10歳歳下かあ。やるじゃん」
「8歳です、黒岩さん」
「四捨五入して10でいいやん」
「その計算だと4歳の幼児は0歳になるわけで・・・」
「ま、細かいことはともかく、教授との三角関係にならんようにね」
「って、黒岩さん、キモイこと考えんでくださいよ~」
由利子は想像もしなかったことを言われて焦った。
「まあ、がんばれや~」
黒岩は、由利子の背中をバシッと叩いて言った。
「いってえ~、黒岩さん、ちったあ手加減てものを・・・」
「あはは、1時になるけん、また課長に言われる前に帰っとくね」
黒岩は明るく笑いながら去って行った。
「ふう・・・」
由利子は小さくため息をつきながらつぶやいた。
「やっぱり、これでよかったんだ・・・」

「へっし!」
ギルフォードが、ほか弁の幕の内を食べようと蓋を開けた途端くしゃみをした。
「Bless you! 風邪ですか?」
紗弥が聞いた。
「いえ、きっと誰か僕の噂話をしてるんですよ」
そういうと彼はもう一度くしゃみをした。

 多美山と葛西は、例の捕り物のせいで少し遅くなった昼食をとるため、署内の食堂に入った。二人とも定食をを注文すると、やっと落ち着いて椅子に座った。葛西は水を飲み干し、多美山は椅子の背にもたれかかった。
 二人は黙々と食事をした。定食を先に平らげた多美山が言った。
「あ~あ、なんか妙に疲れたなあ」
「そうですね」
葛西は最後の漬物を口に運ぶ手を止めて言い、その後それを口に放り込んだ。
「オマエも全力疾走して疲れたやろ? この仕事は体力勝負やからな」
「・・・はい」葛西は漬物を飲み込みながら言った。
「ばってん今日のごと派手な捕り物ばかりじゃない、地道なことの積み重ねの方が多いけん」
「そうですね。・・・でも、今日の男はなんかかわいそうでしたね」
「生活に困って、深夜コンビニに強盗に入って店員を刺した挙句、盗った金額は3万円・・・。やり切れんよなあ」
「だけど、あまりにも短絡的な行動です。お母さんが可愛そうですよ。刺された店員が死ななくて本当に良かったです」
「うむ、類似事件で店員の刺殺されたケースが数件あるけんなあ」
「はい。犯人を追いかけて刺されて亡くなられた店長さんもおられました」
「ああ、東京の方の事件やったかな」
「彼らはやったことの結果がどういうことになるか、考えないんでしょうか?」
「発作的にやってしまうんかな? 犯罪に走る境界線ってのが曖昧になってきたのかも知れんね。ところで、ジュンペイ、おとつい、あの先生んとこ行ったんやろ?」
「ええ、行きました。なんか大変でした」
「そうか、なんか脅迫状が来たって?」
「というか挑戦状ですね」
「テロがどうとかいう? ジュンペイ、あれ、信じられるか?」
「う~ん・・・。でも現に数人が感染症らしき病気で死んでいますから」
「・・・このことは、中央の方には届いているんやろうか」
「知事から報告が行っているはずですが・・・」
「あっちも対応に困っとるんかもな」
「炭疽菌とか天然痘のような特定しやすい病原体ならば、却って動きやすいのでしょうけど」
「おいおい、もし天然痘やったら今頃大変なことになっとるやろう。俺らだって無事じゃすまされん。なんせ、感染者に接触した少年達と会っているんだから。いや、最悪K署内全体が危険区域になったかもしれん。彼らの学校もな」
「まあ、そうですけどね。だけど、正体のわからない敵と正体のわからない病原体。それだけでかなり不安な要素が充分です」
「まあ、先生には悪いが、先生の先走りであって欲しいと思うね」
「わかります。僕もそう思います」
そう言いながら、葛西は窓の外の景色を見た。梅雨を控えた6月の空はまだ青く、明るい日差しにだいぶ色の落ち着いた木々の緑が映え、街は平和そのものだった。この平穏をこわさないでくれ・・・。葛西は祈るような気持ちだった。
「時にジュンペイ」と、多美山が言った。
「なんですか?」葛西は窓から多美山に視点を移して言った。
「オマエ、眼鏡もよく似合うやないか。童顔がカバー出来ていいかもしれんぞ」
「そ、そうですか?」
「コンタクトを失くしたついでに、しばらく眼鏡君でおったらどうや?テレビに出てくる知能派の刑事みたいやぞ」
「やだなあ、多美さん、茶化さないでくださいよお」
葛西は少し赤くなって言った。
「茶化してなかばい。ホントに似合っとおって」
「そっかなあ。じゃ、これ、古いから新しい眼鏡買おうかなあ」
素直な葛西であった。

 昼過ぎ、森田健二の彼女のクミが彼のマンションを訪れた。彼らの大学では珍しく出席に厳しい授業に彼が出てないので、様子を見に来たのだ。もちろんそれは会いに行く口実だった。エントランスのインターフォンで所在の確認をする。返事が無い。(あれ? 出かけてるのかしら?)クミは思った。しかし、ひょっとしたら、またどっかの女を引っ張り込んでいるのかもしれないと、彼女は返事の有無を無視していつものようにマンション内に入っていった。部屋に入ると、テレビの音がする。部屋の電気もパソコンまでついたままだ。しかし、人の気配がしない。
「もうなんもかんもつけっぱなしで、どこ行ったんやろ? そうだ、トイレ! トイレに行きたかったんだ」
彼女は独り言を言うと、かって知ったる彼氏の部屋、さっさとバスルームに向かった。しかし、ドアを開けた瞬間、彼女は息をのんだ。森田健二が裸のまま倒れていたのだ。
「きゃあああ、健ちゃん!!」
クミは慌てて彼に駆け寄った。
「う・・・ん」
健二は、少し首を動かしながらうなった。良かった生きている。しかし、身体が火の様に熱くなっていた。
「待っとって、今、救急車を呼ぶからね、がんばるんよ」
クミは彼にバスローブを被せると、急いで電話を取りに走った。

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6.暴走 (4)イレギュラー

 真樹村極美(きわみ)は財布の中身を見てため息をついていた。帰りの旅費を引くと1000円にも満たない。彼女は20代後半、背が高く細身でかなり華のある美人だ。それもそのはず、今彼女は駆け出しのジャーナリストとして弱小週刊誌の記者をしているが、少し前まで「KIWAMI」という名でグラビアアイドルをしていた。しかし、チャンスに恵まれず鳴かず飛ばずだったグラビアの仕事に見切りをつけて、思い切って今の職業に転職したのだが、ほとんど枕営業でやっと入り込んだ今の仕事も鳴かず飛ばずは相変わらずで、見入りは以前よりかなり悪くなってしまった。今回もデスクに命令されてK市の暴力団抗争の取材にはるばる九州まで行かされたのだが、命令された段階で既に出足から遅れており、後手後手に回ってろくな取材も出来ずに終わってしまった。ここまでされて流石の極美も、自分が厄介者扱いされていることに気がついた。彼女は腹が立ってなんとか一矢報いたいと思いつつ、どうしようもない現実に持って行き場の無い苛立ちを感じていた。このままおめおめと東京に帰るのか・・・。それとも自腹を切って取材費を出し、もう数日取材を続けるか・・・。そう考えながら、K駅のコンコースを歩いていると、美味しそうなにおいがした。見るとうどん屋の暖簾がかかっている。腹が減っては戦が出来ない・・・。それにうどんなら安く食べられるだろう。そう彼女は考えて、うどん屋の暖簾をくぐった。
(肉うどん・・・。大エビ天ぷら2尾入りの上天ぷらうどん・・・、あ、蕎麦もあるじゃん)
メニューを見ながら彼女はごくりと唾を飲み込み、朝から何も食べていなかったことにようやく気づいた。少しは栄養があるだろうと、ペットボトルのミルクティーを1本買って飲んだだけだ。極美は続けてメニューを見た。
(昆布うどんにワカメうどんって・・・ヘルシーじゃん。へ~え、ごぼう天うどんってのがある、何これ・・・、あ、練り物のごぼ天じゃなくて、切ったゴボウに衣をつけて揚げた天ぷらが入ってる。おいしそー)
しかし、極美は財布の中身と相談した末に一番安いかけうどんを注文した。うどんはすぐに来た。来たうどんを見て極美はちょっと嬉しかった。ネギだけではなく、ペラペラのスライス状ではあるが縁が紅色の板かまぼこが2枚入っていて彩を添えていたからだ。かけ汁は関東に比べるとやはり色がかなり薄く関西風ではあるが、見た目ほど甘くはなく、昆布と鰹のだしが効いていておいしい。極美はあっという間に平らげると、最後に水を一気飲みしてようやく人心地がついた。そしてしばらくここで休んでこれからのことを考えることにし、傍に置いてあるウォーターピッチャーからコップに水を注いだ。道は二つ。彼女は水をちびちび飲みながら考えた。このまますごすごと帰るか、確率の低いスクープを求めて、自腹で取材を続行するか・・・。
 そんな中、極美は近くの席に座って話している、40代くらいの主婦らしき女性二人の話が耳に入った。
「ねえ、この前、ここから少し行ったところにあるA公園で、ホームレスの大量死が見つかったやない?」
「4人が大量というかはともかく、気持ち悪い話ではあるね」
「あれね、暴行死っていう話やけど、実は伝染病じゃないかってウワサもあるとよ」
「ああ、アタシも聞いたことある、そのウワサ。早朝の公園に防護服を着た人がいっぱい居たとか、警官が他のホームレスにも熱を出したのがおらんか聞いて回っとったとか」
「実際数日間立ち入り禁止になっとったし消毒臭かったけんね。まあ、死体が四つも出たっちゃけん、それも不思議じゃなかばってんが」
「あれ以来、あの公園に近づく人もめっきり減ったけん」
「ここのバスセンター界隈にもホームレスの多かろうが。なんか気持ちの悪かばってんが」
「なんとかならんとかね、あん人たちゃ」
極美のアンテナが何かを察知した。彼女は女性たちの席の近くに椅子ごと移動すると声をかけた。
「すみません、その話、詳しくお聞きしていいですか?」
「詳しくって言うたって、ウチらもそげん詳しいことは知らんとやけどねえ」
女性達は、困惑したような表情でお互い顔を見合わせた。

 

 授業を終えた香菜は、途中まで同じ道の友だちと別れた後一人で自宅に向かっていた。その横に、一台の自動車が止まって中の女性が香菜に声をかけた。
「香菜ちゃん!? 西原香菜ちゃんでしょ?」
香菜は振り返って首を傾げながら尋ねた。
「はい、そうですけど、あのぉ、おばちゃん、だれですか?」
「私? 私はあなたのお母様、真理子さんの友だちで、秋山美千代っていうの。それより、お兄さんの祐一君が大変なのよ」
「ええ!? おにいちゃんってば、またたおれちゃったの?」
「そうよ。それでお母さんに頼まれたの。一緒に来てくれる?」
「はい。ありがとうございます」
香菜は、美千代が綺麗で優しそうな女性で母親の友だちと名乗り、さらに母親や兄の名前も知っていたので、安心して車に乗り込んでしまった。
 しばらく香菜は大人しく助手席に座っていたが、家では絶対に乗せてもらえない慣れない助手席と、なかなか目的地らしきところに着かないことから、不安になって恐る恐る美千代に尋ねた。
「あ、あのっ・・・、どこまで行くんですか?」
「お兄ちゃんの学校の近くの病院よ。学校の中で倒れたらしいの」
「じゃ、遠いからなかなかつかないですよね・・・。おにいちゃん、だいじょうぶかしら? きのうはもうだいじょうぶって言ってたのに・・・」
「そうね・・・、大丈夫だといいわね」
美千代はそっけなく答えた。美千代の態度に香菜は若干の不安を覚えたが、兄への心配が先立って美千代を疑うことは微塵もなかった。それより、香菜は美千代の顔色の悪さが気になった。この人、本当は気分が悪いんじゃないかしら・・・? 香菜はそう思ったが、気を遣って質問することを控えた。しばらく走って美千代はコンビニの前で車を止めた。
「祐一君の状態を尋ねて来るわね。・・・香菜ちゃん、携帯電話持ってる?」
「ううん、まだ持たせてくれないの。でも香菜今のところ無くても平気・・・です」
「そう、じゃ、そこの公衆電話でかけるから、そこで大人しく待っていてね」
美千代はそう言うと、香菜を助手席に残して公衆電話に向かった。

 帰りのSHRの時間、校内放送が祐一に電話がかかっていることを告げた。祐一は担任に席を立つ許可をもらい、事務室に急いだ。事務の先生が祐一に言った。
「あ、西原君、なんか秋山雅之君の叔母っていう方からよ。秋山君のお葬式のことでお知らせしたいことがあるって・・・。可愛そうに、雅之君・・・」
彼女は何かを思い出したように涙ぐみながら事務室内に戻って行った。祐一は窓口にある電話に出て、恐る恐る言った。
「もしもし・・・?西原ですが」
「祐一君ね。久しぶりだわ。すっかり声も大人ねえ」
「え? なんですか?」
祐一は、想像した電話の内容とのあまりの相違にいぶかしげに言った。
「うふふ。私・・・、雅之の母よ。昨日チラッと目が合ったわよねえ」
「やっぱりあれはおばさんだったんですか・・・。すみません、僕がついていながらあんなことに・・・」
祐一は、彼なりの誠意を伝えた。しかし、相手はヒステリックに言った。
「いい加減なこと言わないでよ! 私のまあちゃんは死んでしまったの。あなたに謝ってもらっても帰ってこないのよ!!」
「・・・」
祐一には返す言葉が無かった。
「今ね、誰と一緒だと思う?」
美千代はさっきとはうって変わった落ち着いたトーンで尋ねた。祐一は状況が全く読めずに尋ね返した。
「どういうことですか?」
「今ね、香菜ちゃんと一緒よ。・・・赤ちゃんだったあの子がこんなに大きくなって、それにすっごく可愛いわ。私も二人目に女の子が欲しかったんだけど、ダメだったわ・・・」
「・・・? それで、なんで香菜がおばさんといるんですか?」
祐一は不安になって聞いた。
「あの子、ホントに可愛いわ。危険な目にあわせたくないでしょ?」
「どういうことですか?」
祐一は、高いところから下を見下ろした時のように、足下からのズシンという衝撃を感じ、一瞬倒れそうになった。
「祐一君、私ね、まあちゃんがホームレスを暴行したとかいうの、信じてないのよ。本当はあなたでしょ。私は騙されないわ」
「いえ、僕は嘘はつけません。それだけは事実なんです、おばさん・・・」
「いいわ。これから1時間後、例の公園で会いましょ。待っているわ。そこでその時の説明をしてちょうだい。絶対にボロを出させてあげるわ」
「わかりました。わかりましたから、香菜を家に帰してやってください。香菜を人質にしなくても、必ず僕はそこに向かいますから」
祐一は必死で懇願したが、美千代は頑として聞き入れなかった。
「そうだわ、念のためあなたの携帯番号を教えてちょうだい」
祐一は仕方なく番号を教えた。
「いいわね、一人で来るのよ。香菜ちゃんを無事に返して欲しいでしょ?」
(無事に・・・?)
祐一はその言葉が引っかかった。まさか・・・?
「おばさん、ひょっとして・・・どこか具合が悪いんじゃないですか?」
「私の体調なんてあなたにはどうでもいいでしょ? ・・・それともあなた、何か知ってるの?」
「いえ、ただ、僕はギルフォードさんという人に・・・」
その名前を聞いた美千代は、再び冷静さを欠いて言った。
「なんですって!? あの元米軍の恐ろしい細菌学者とお知り合いなのね。ほら、ひとつボロが出た。この決着は公園でつけましょう」
そう言って美千代は電話を一方的に切った。
「はあ?」
祐一は美千代の捨てゼリフの意味がわからずに、電話が切れた後も数秒間受話器を見つめていた。元米軍の恐ろしい細菌学者って何だよ・・・。
「西原君、どうだった?」
事務の先生が出てきて尋ねてきたので、祐一は適当に答えて教室に戻った。帰りの会はほとんど終わりつつあった。最後に礼をして今日のカリキュラムが終わった。皆が部活やら帰宅やらの準備や世間話でざわついている教室で、祐一は席に座り、机に両肘を着いて両手で顔を覆いながらさっきの電話について必死で考えた。とにかく香菜が心配だった。雅之のお母さんは、完全に何か誤解している。だけど、病気のことを何故か気がついていて、ギルフォードさんのことについても何か知っているらしい。祐一は考えると余計に何がなんだかわからなくなった。しかし、とにかく行って誤解だけは解かないと・・・。
(だけど・・・、もしおばさんに雅之の病気が感染っていたら・・・)
祐一はゾッとした。彼は彼なりにこの疫病について仮説を立てていたからだ。
(香菜・・・。無事でいてくれ・・・)
祐一は知らず知らずのうちに、両手を額のところで組んで何者かに祈っていた。
「西原君、どうしたと?」
その声に祐一はハッとして顔を上げると、良夫が心配そうに顔を覗き込んでいた。
(しまった、厄介なヤツに気がつかれてしまった・・・)
祐一は思った。美千代は1人で来いと言った。状況を説明したら、良夫は絶対に付いて来たがるに違いない。だけど、それは香菜だけでなく良夫まで危険な目に遭わせる事になる・・・。祐一は当惑しながら良夫の顔を見た。

 美千代は、車に戻ると香菜にコンビニで買った紙パックの100%オレンジジュースを与えた。
「さ、喉が渇いたでしょ、お飲みなさい」
「はい、ありがとう」
香菜は素直にジュースを飲み始めた。美千代は自分用にスポーツ飲料を買っていた。しかし、彼女は一口飲むと、そのまま蓋を閉めてボトルホルダーにそれを置いてしまった。香菜はそれに気がついて美千代の顔をなんとなく見て驚いた。
「おばちゃん、すごい汗。だいじょうぶ? お熱があるんじゃないですか」
香菜は美千代を心配して、母親がやるように彼女の額に手を伸ばした。
「触らないで!」
美千代は香菜の手を跳ね除けた。香菜は予想外の仕打ちに怯えて泣きそうになった。
「ご、ごめんなさい。もし、風邪だったらいけないわ。香菜ちゃんに感染っちゃったら困るでしょ? おばちゃんもあなたのお母さんから怒られちゃう」
美千代はそう言って取り繕いながら、ハンカチで自分の顔の汗を拭いた。それは、例の教主からもらったハンカチだった。香菜は、その言い訳を信じたらしく、こっくりと頷くと、またジュースの残りを飲み始めた。しかし今の出来事で、香菜の心に美千代に対する危険信号のようなものが生まれ始めていた。
「これから下の道は混み始めるから、高速を通るわよ」
美千代は香菜に言った。
「・・・はい」
香菜は、少し警戒したまま答えた。実は美千代は、さっきコンビニで借りたトイレで用を足した時の事で絶望感を感じていた。特に腹痛は感じなかったのだが、大量の黒いタール状の便が出たのだ。さらに手足に小さい内出血が見られた。それで驚いて両手の袖をめくると、点滴の跡に大きく内出血の染みが出来ていた。雅之とまったく同じ状態だ。顔も化粧でカバーされているが、よく見ると目の下に隈が出来ていて、昨日よりかなりやつれていた。香菜の手を跳ね除けたのも、とっさに感染の危険性を考えたからだ。
(私は本当に死んでしまうのだろうか・・・)
美千代はその不安を振り払うように、車を飛ばした。

「あのね、西原君」
良夫は、祐一の横にまた自分の椅子を持って来て座ると小声で話し始めた。
「ボクね、あのことについてギルフォードさんに電話してみたんだ。そしたら先に西原君も電話して来たって教えてくれたんだ」
「そうか・・・。で、どげな話をしたと?」
祐一は、内心の心配をカンのいい良夫に気取られまいと、出来るだけ平静を装いながら、やはり小声で言った。
「多分、西原君と同じやと思うけど・・・」
良夫はその後少し躊躇して言った。
「話の内容は誰にも言わないって、男同士の約束をしたけん・・・、西原君にも言えんと」
「オレもだ」
祐一は答えた。それに対して良夫は言った。
「でもね、ボクたち同じ事件に遭遇したやろ、だからそれについてお互いの意見を話すことは出来ると思うっちゃんね。でね、ボクが思ったこと言っていい?」
「ああ、いいよ」
祐一はむしろ良夫の考えに興味を持って言った。良夫は続けた。
「あのホームレスの安田さん、やっぱり伝染病に罹っとって、あの時秋山君に感染った。それで、秋山君もきっとあのおじさんみたいに、訳わかんなくなって電車に飛び込んだんだって思う・・・」
「うん、オレの考えもだいたい同じだよ」
「でね、これはギルフォードさんから否定されたんやけど、ボクの考えではこの病気に罹った人はね・・・」
「何、さっきから二人でこそこそ話してるの?」 
不意に二人の後で女の子の声がした。二人はぎょっとして振り向くと、女子のクラス委員長、錦織彩夏(にしきおり あやか)が立っていた。因みに男子は祐一である。彼女は東京から越してきた子で、容姿も綺麗だが言葉も綺麗な標準語を話した。彼女はツインテールにした長い真っ黒な髪を揺らしながら両手を腰に当てて言った。
「あなた達、最近アヤシイわよ」
「錦織さんってば、嫌だなあ、ヘンなこと言わないでよ。ひょっとして腐女子?」
つられて祐一のしゃべり方までが標準語っぽくなった。
「あ、オレ、もう帰らなきゃ・・・。じゃね、錦織さん」
祐一は、そそくさと席を立つと彼女の傍をすり抜けて行った。良夫がその後を追う。
「待ってよ、まだ話の途中やろうもん」
「ちょっと、西原君ってば・・・!」
彩夏は祐一の背に向けて言ったが、彼は振り向きもせずに行ってしまった。
「もおっ、頑固者! トーヘンボク! 私だって話があったのに・・・」
彩夏は少しふくれっ面をして言ったが、その後小声でつぶやいた。
「なんであんな風に言っちゃうんだ、バカ彩夏!」
実は先週、彩夏は雅之の死後際限なく落ち込んでいく祐一を力づけようとして、つい、叱咤激励してしまったのである。つい、というのは叱咤激励の比率が「叱咤:激励=9:1」だったからだ。それで、その後何となく二人の間がギクシャクしてしまったので謝ろうと思っていたのだ。
 祐一にフラれた彩夏は、自分の席に着くと左手で頬杖をついてつまらなそうに足を組みながら、思った。
(何よ、チビの佐々木良夫なんかに懐かれちゃってさ、ホ~モ)
しかし、その後祐一から『腐』と言われたことを思い出して、また落ち込んでしまった。

「待って・・・! 待ってってば、西原君」
良夫は、長い足でさっさと歩く祐一を駆け足で追いかけながら言った。
「あのさ、錦織さんと何かあったと?」
祐一はそれを無視してさらに足早に歩いて行った。良夫は若干むっとしたが、気を取り直して本気でダッシュし祐一を追い越した。そのまま祐一の前に立ちふさがって言った。
「じゃ、なくてさっきの続き・・・やけど・・・さ・・・」
そこまで言うと、身体をくの字に曲げ両膝に手を置いてハアハアと息を荒げた。
「西原君さ・・・、足、速すぎる、よ」
そんな良夫を見ると、祐一はもう無視することが出来なくなった。まあいいや、こいつとはいつも駅前で別れるんだし。祐一はそう考えると言った。
「ヨシオ、さっきの続き、オレが言ってみようか?」
「え?」
「病気が末期になって宿主に死期が近づくと、近くの人間に感染しようと宿主を操る・・・やろ?」
良夫は驚いたように祐一を見た。
「うん! やっぱ西原君も同じ考えやったんやね。でも、ギルフォードさんには笑われちゃった。それこそまるでゲームや映画みたいだって。寄生虫にはそういうのがいるけど、遺伝子しか持たない、無生物と生物の中間の性質を持つウイルスには不可能だって」
「でも、あの状況を目の当たりにしたら、そう思ってしまうよな」
祐一は言った。
「でね、ボクね、その遺伝子に仕掛けがあるっちゃないかって思うっちゃん」
「なるほどね・・・」
そこまで話している間に二人はバス停に着いてしまった。
「あ、もう人がおるけん話はここまでやな」
祐一が言った。
 駅に着いてバスから降り、祐一が今日は用があるからと良夫と別れようとした時、電話が入った。
「家からだ。なんやろ?」
そういいながら、電話に出る。
「もしもし? どうしたん? メールじゃなくて電話って、なんかあったと? え? 香菜が帰って来ない?」
もちろん祐一は香菜の帰らない理由を知っていた。しかし彼は、どう説明していいものか、それどころか言っていいものかすら迷った。
「う~ん、だけどかーさん、今までだって何回か遅くなったことあったやろ? 猫拾って困ってたり、逆上がりが出来なくて放課後練習してたり・・・。下校時間までだってもうちょっとあるし、もう少し待ってみたらいいっちゃない? うん・・・、うん・・・、出来るだけオレも早く帰るけん、あまり心配せんどき」
そう、母親をなだめると祐一は電話を切った。
(かーさん、うそついてごめん。でも、オレだけで行かないと香菜が危険なんだ)
電話をポケットにしまいながら、祐一は思った。しかし、良夫は彼の表情を見逃さなかった。
「西原君さ、今の件、なんか知ってるんとちがう?」
「オレが知るわけないやん。香菜の学校は家から歩いて10分だぞ。こっからだとメチャクチャ遠いやん」
「だって、学校で西原君に電話があってからヘンなんやもん」
「考えすぎやって。じゃ、オレ、心配やけんもう帰るわ」
そう言って、祐一はやや一方的に良夫と別れた。良夫は少しの間、そこに立ったまま途方にくれていたが、祐一の尾行をすることに決め、こっそりと彼の後を追った。
 

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6.暴走 (5)少年探偵団

 良夫は祐一から距離をおきながら、さりげなく後を追った。追いながら、良夫はギルフォードに相談をすべく電話をかけた。しかし、頼みの綱であるギルフォードの電話は留守電になっていた。
(ああ、授業があってるんだ)
良夫はがっかりしたが、とにかく祐一を追うことに専念することにした。祐一は階段を上って電車の改札口まで行き、定期券を通して中に入った。それでも良夫は用心深く目で祐一の行き先を追っていると、祐一はホームに上がらず反対の改札口から出て行ってしまった。良夫はすぐに走ってその反対の改札口に回った。そこで祐一の姿を探すと、階段を降りる彼の後姿が見えた。
(やっぱり、なんか様子が変だ・・・。いったいどこに行くんやろう)
良夫は何か嫌な予感を覚えながら、祐一が階段を下りてしまうのを見計らって駆け足で、しかし気取られないように用心深く階段を降りていった。階段を下りると、数メートル先に祐一の歩いている後姿を確認、引き続き尾行を続けた。
(なんか少年探偵になった気分やね)
良夫は小学生の頃読んだ、江戸川乱歩のシリーズものを思い出した。しかし、しばらく歩いたところの曲がり角付近で、良夫は祐一の姿を見失った。
「しまった!!」
良夫は小さい声で言った。タクシーにでも乗ったか、何処かのビルに入り込んだのか、いずれにしろ良夫の尾行の可能性を考えてとった行動に違いない。こうなったら良夫にはどうすることも出来ない。良夫は途方に暮れてしまった。その時、良夫の電話が震えた。
「ひゃあ~!」
良夫は相変わらず慣れない電話のバイブに驚きながら、急いでポケットから電話を出した。着信はギルフォードからだ。良夫は安堵し嬉しそうに電話に出た。
「もしもし、良夫です!」
「ハイ、ヨシオ君。さっきは悪かったですね、講義中だったので。・・・何かあったんですか?」
「はい、あのっ・・・」
良夫は祐一に電話がかかってからの経緯を話した。それを聞いたギルフォードは、う~んとうなってから言った。
「そうですか、確かに様子がヘンですね。妹サンが心配なら、家に急いで帰ったハズです。仲の良い兄妹だとお聞きしていますし」
「あのっ、ひょっとして、妹さんの誘拐って可能性はありませんか?」
「誘拐の可能性も考えられますが、それとユウイチ君の行動がどう関わるかがわかりません。いずれにしても、私の管轄外ですし、起こったコトにアドヴァイスすること以外どうすることもできません。・・・ヨシオ君、ユウイチ君に関しては、どう行動するか僕より君の方が推理し易いと思うのですが、彼が行きそうな場所の心当たりはありませんか?」
「西原君が行きそうな場所・・・?」
「はい、今、君はK駅近辺に居るのですよね。でも、ユウイチ君は電車に乗らず駅を出てどこかに行ったのでしょう? その駅近辺で彼の行きそうな場所はどこですか?」
「この辺で・・・、あっ」
良夫はハッとした。自分自身忘れたいことだったので、思いもよらなかった場所があった。
「あの公園・・・。西原君、最近よく考え事をしていて・・・。多分、ボクと同じくずっとあの事件のことを考えてたと思うんです。でも、ボクは二度とあそこへは行きたくなかったから、思いもつきませんでした。ボク、今からそこへ行ってみます」
「君にとっても辛い場所です。気をつけて行ってください。もし、何かあったらすぐに110番するんですよ」
「わかりました。また電話します」
良夫はそう言って電話を切り、一回深呼吸をして公園に向かって歩き出した。ギルフォードは電話を切ると、立ち上がり、出かける用意を始めた。紗弥が尋ねた。
「お出かけされるのですか? 今の電話、何かあったんですか?」
「いえ、まだわかりません。しかし、例の病気が発生した公園で、また何かあるかもしれないんです。取り合えず、何かあったらすぐに出かけられるようにしておきます」
「何かあったらって・・・気が早すぎませんか? それに、これから白水川先生のお嬢様が研究室の見学にこられる予定じゃありませんか。ひょっとして、それから逃げようとしていません?」
「見学って、あのワガママ娘のゴキゲン取りをするだけじゃないですか。そりゃあ、僕はイヤですよ。それでなくても僕は女性がニガテなんです。特にあーゆー女性にはどう接していいかわかりません。この前はヒドイ目に遭いましたし。あなたが機転をきかせてくれなかったら、僕は襲われていましたよ」
「・・・・」
「あ、今笑いそうになりましたね。面白がっているでしょう?」
ギルフォードは仏頂面をしながら言った。
「とにかく、それとこれとは違いますからね。じゃっ、着替えますからちょっと席を外してください」
教授室から紗弥が出ると、待ってましたとばかり、如月が質問した。
「紗弥さん、ホンマでっか? 白水川先生のお嬢さんに教授が襲われかけたって言うんは」
「正確には、お嬢様じゃなくてお嬢様がお連れしていた犬が、牙をむいて飛びかかろうとしてたのです」
「な~~~んや、犬でっか・・・っていうか、その状況は却って危険やおまへんか? せやけど、教授は よう犬や猫から好かれてますやろ? 一体なんで・・・」
すると、教授室からギルフォードの声がした。
「飼い主の性格が悪いと、犬の方もタチが悪くなるんですよ」
「ですって」
紗弥は、肩をすくめて言った。

 良夫はギルフォードからヒントを得、例の公園に向かっていた。しかし、あの忌まわしい場所が近づくに連れだんだん気持ちが萎えてくるのがわかった。行きたくない・・・! その気持ちが心の底から徐々にあふれ出してきた。とうとう良夫は気分が悪くなり、途中にあったバス停のベンチに座って休憩した。
(ボクだってこんなに行きたくないのに、西原君はどうしてあんなところに行こうとしてるんやろう・・・。アレは一体なんの電話やったんやろうか?)
そう、改めて疑問に思っていると、また電話が震えた。良夫はまたギルフォードからだと思って急いで電話を取ったが、それは電話ではなくメールだった。送り主を見ると祐一である。
(あれ? ボクのアドレス知ってたっけ? ・・・あ、同じ電話会社だからか)
良夫は急いでメールを開いた。それは長文で、びっしりとベタ打ちされていた。

 ヨシオ、撒いてごめん。巻き込みたくなかったんだ。でも僕に何かあった時のためにメールしとく。これから1時間しても僕から連絡が無かったら警察に知らせてほしい。実は今日の電話は雅之のお母さんからで、あの公園で何があったか真実を知りたいから公園に来いといわれたんだ。何か誤解をしているみたいなんで会ってちゃんと説明して来る。それにあの人は何故か香菜を連れているんだ。ウソだと思いたかったけどさっき電話があって声を聞かされた。ひょっとしたらあのおばさんも感染しているかもしれない。おまえは危険だから絶対に来るな。頼んだことよろしくな。

「に、西原君!!」
メールを読み終わった良夫は、立ち上がって叫んだ。周りにいたバスを待つ人たちが一斉に彼を見た。良夫はそのままバス停から離れると、すぐにギルフォードに電話をかけた。
「ヨシオ君、彼は見つかりましたか?」
ギルフォードは電話に出るとすぐに尋ねた。
「いえ、まだです。でも、あの公園に向かったことは間違いないみたいなんです」
良夫はたった今受けたメールの内容を伝えた。
「なんですって? マサユキ君の母親が?」
ギルフォードは驚いた。状況から、行方不明の美千代は、拉致され最悪殺されている可能性も考えていたからだ。何故、美千代が今頃現れて祐一を公園に呼び出そうとしているのかを考えて、ギルフォードは嫌な予感を覚えた。
「とにかく急いで公園に行って様子を見てきます。でも・・・」良夫は至極最もなことを尋ねた。「どうして秋山君のお母さんは、西原君を呼び出したりしたんでしょう?」
「こういう事を君に言って良いかわかりませんが、非常事態なので・・・。マサユキ君のお父さんから聞いたのですが、お母さんはずいぶんユウイチ君を恨んでいたようです。心当たりと言えば、これしかないですね」
「最悪だ! じゃあ、ボク、今から走って・・・」
「ちょっと待ってください。彼女も感染している可能性が高いです。危険ですから君が行くのは止めたほうがいい・・・」
「じゃあ、110番してから行きます」
「だから、行ってはダメだってば! ここは、ある程度事情を知っている人に連絡したほうがいいと思います。ジュン・・・いえ、葛西刑事は覚えていますね」
「はい」
「彼なら事情がわかるし、場所的にも公園にも行きやすいです。すぐに彼に連絡して状況を説明してください。電話番号は知ってますか」
「いえ、知らないです」
「わかりました、今から教えます。メモしてください」
良夫は葛西の電話番号を控えると言った。
「ありがとうございます。今からすぐに電話しますから」
「とにかく、公園には行かないでくだs・・・」
と言うギルフォードの声が終わらないうちに電話は切れた。
「Shit!」
ギルフォードはそうつぶやいて電話を切ると、立ち上がり紗弥に言った。
「今からすぐに例の公園に行って来ます」
そう言いながら、急いで部屋を出ようとしつつあるギルフォードに紗弥が言った。
「そこって、K市ですわよね。本当に今から行くんですの?」
「はい、なんか大変なことが起きそうなのです。道が混む時間ですが、バイクで高速を飛ばせば40分かからないかもしれません」
「私も行きますわ」
そう言うと、紗弥はジャケットとヘルメットをさっさとロッカーから出し、靴をブーツに履き替え始めた。ギルフォードは如月に声をかけた。
「キサラギ君、出かけます。帰る時間はわかりませんので、戸締り等よろしく頼みます」
声を残して二人は研究室を飛び出していった。
「え? あのっ、先生たち? どこに行かはるんでっか? ・・・って、もうおらへんし」
如月はため息をついて言った。

 祐一は公園にたどり着くと、きょろきょろと周りを見回した。誰も居なかったが、トイレあたりに何かの影が見えたような気がして周囲を見て回ったが、特に異常はないようだった。念のため、男子トイレの中に入ってみた。かつて3K(汚い・暗い・臭い)と言われていた公衆トイレだが、最近はだいぶ綺麗に建て直されたものが増えている。この公園のトイレもそんな感じで小奇麗になってはいたが、ここからも遺体が見つかったらしいというので、あまりいい気持ちがしなかった。それで、すぐにそこを出ると、美千代が姿を現すまで公園内を歩いてみた。あの事件以来、ほとんど人が近づかなくなったというが、それは事実らしい。それまでは、夜こそ一部施設がホームレスの寝場になっていたものの、昼間は子ども達の遊び場や散歩コースになっており、春には桜が満開になり花見客でにぎわうような、それなりに市民に利用されていた公園だった。一体あの事件について、流言飛語の類を含め、どれくらいの情報が流れているのだろう・・・と、祐一は思った。祐一自身、実況見分立会いのため訪れて以来この公園には来ておらず、2度と来ることもないのではないかとすら思っていたが、期せずしてまた足を運ぶことになってしまった。
 祐一はある場所で足を止めた。ホームレスの安田と出くわした場所だ。昼間なのであの時と全く雰囲気が違うが、ここから全てが始まったのである。祐一はまたしてもフラッシュバックが起きそうになり、急いでその場所から離れた。そう、初めてフラッシュバックが起きたのは、実況見分でここに立って説明している時だった。祐一は傍でおろおろする良夫と共に、そこから救急車で病院に連れて行かれた。祐一は自分の精神力が強いほうだと思っていたので、そこまで自分が精神的に追い込まれているとは思わなかったが、結果はASD(ストレス障害)と診断されてしまった。祐一は足早にそこから立ち去ると、ベンチに座って美千代たちを待った。
(こんなことで、おばさんに上手く説明できるのだろうか・・・)
祐一は不安になっていた。そこに、香菜を連れた美千代が姿を現した。美千代の容貌は、やつれたせいかすっかり変わっており、香菜を連れていなければ誰かわからないくらいだった。
「おにいちゃん!」
香菜が叫んだ。 
「ごっ、ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったの」

 良夫は、公園に急ぎながら葛西に電話をかけていた。本来歩きながら電話することが苦手な良夫だが、そんなことは言っていられなかった。
「はい、葛西です」
良夫は、葛西の声を聞くと少し安堵した。
「ボク、佐々木良夫です。ホームレスの安田さんの事件の時・・・」
「良夫君、覚えているよ。なんか声が焦っているようだけど、何かあったの?」
「はい、ギルフォードさんから、あなたに連絡して助けてもらうように言われて・・・」
良夫は、今までのことを葛西に話した。
「わかった。今すぐ手配して、僕らもすぐに公園に向かうから、君は危ないので公園内には入らないで・・・」
「いえ! ボクは西原君が心配だから、行きます。もうすぐ公園なんで・・・」
「良夫君!ダメだ、それは許可出来ない。後は僕らに任せて・・・」
葛西が全部言い切らないうちに良夫は電話を切った。
「くそっ!」
葛西は電話を切りながら言った。
「どうしたとや? オマエさんらしくなかばってん、困ったことが起きたみたいやな」
「ええ、今の電話の内容を説明します」
葛西は、横で葛西を指導していた多美山に言った。葛西はちょうど、今日逮捕した男についての書類を書いているところだった。まだ新米刑事の葛西にとって、今回の犯人逮捕が初めてで、ベテランの多美山に色々指導を受けていたのである。事情を聞いた多美山は、立ち上がって言った。
「行こう、ジュンペイ! なんだか嫌な予感がするばい。すんません、鈴木係長!」
多美山は、ディスクワーク中の鈴木に言った。
「秋山雅之の母親、美千代が、西原祐一を例の公園に呼び出したそうです。彼女は感染者である恐れがあり、さらに、西原祐一を恨んでいて彼に害をなす可能性もあります。今からすぐに現場に向かいます。行くぞ、ジュンペイ!」
「おい、多美さん」鈴木は驚いていった。「その情報はアテになるのか?」
「呼び出された西原祐一本人からメールを受けた佐々木良夫からの知らせです。後の手配をよろしくお願いします」
そう言うと、多美山は後ろも見ずに飛び出して行った。
「あ、ちょっと待ってください、多美さん」
葛西は焦って後を追った。
「早いな」
鈴木は感心して言った。
「感染している可能性があるのか・・・。向かわせる警官にはそれなりの装備をさせないと・・・」
そう言って鈴木はハッとした。
「あいつら、全く無防備で向ってるんじゃないか?」
外を見ると、多美山たちは既に捜査用車両で署から出ようとしていた。緊急ではあるが目立つ白黒のパトロールカーは避ける判断をしたらしい。近くを通りかかった少年課の堤みどりが、車中に葛西の姿をつけて車に向かって走って近づき手を振った。仕方なく葛西は車を止めて、窓を開け言った。
「ごめん、堤さん急いでるんだけど、なんか用?」
「葛西君、焦ってどうしたと?」
葛西は簡単に事情を話した。
「わかった、私も行く! 少年が関わっているんなら私もお役に立つかもしれないし」
「わかった、乗って!」
その様子を見て、鈴木はここぞとばかりに窓を開けると大声で言った。
「堤君! 葛西君に装備はどうしてるか聞いて!」
「装備はどうだ?っとか聞かれとぉけど・・・」
堤は何だかよくわからないと言った風情で伝えた。
「時間がありません!」
葛西が車の窓から顔を覗かせながら大声で答えた。
「気をつけろ! 無理をするんじゃないぞ!!」
「了解しました!! さっ、堤さん、早く乗って!」
葛西にせかされてみどりは後部座席に乗り込んだ。
「途中までサイレンを鳴らして急ぎます」
葛西はそういうと、いわゆる覆面パトカーを再発進させた。彼らを乗せた車は、緊急のサイレンを鳴らしながらK署を出て行った。

 良夫が公園に駆けつけると、公園の中ほどで祐一と女の子を連れた女性が対面している姿が見えた。祐一と女との間隔は5m弱といったところか。女の子はもちろん香菜だったが、よく見ると幼児がよくされているような腰紐がつけられて、女性が紐の先を握っているようだった。とりあえず傍にあった木の陰に隠れて様子を見ていたら、低木の植樹帯が作る茂みに誰か潜んでいるのを見つけた。それは彩夏(あやか)だった。思いもしなかった彼女の出現に良夫は驚いたが、そっと近づいて小声で彼女を呼んだ。
「錦織さん」
「きゃっ」
彼女は小さい声で悲鳴を上げると振り向いた。
「佐々木・・・クン、お、脅かさないでよ・・・」
「・・・どうしてここにおると?」
こいつ、呼び捨てにしかかったな、と思いながら良夫は聞いた。彩夏は小声で一気に答えた。 
「あなた達の後を追ってたの。西原君は私には気がつかなかったから、見失わなかったのよ。それで、声をかけようかどうか悩んでたらああいうことになっちゃってて、どうしたらいいかわからなくなって、急いでここに隠れたの」
「大丈夫、警察には伝えとおけん、君は危ないからもう帰ったほうがいいよ」
良夫はやや迷惑そうに言った。
「いいえ、私も残るわ。だって心配だもん」
「いいから帰れって」
「いいえ、帰りません」
「帰れよ!」
「嫌っ!」
小声のつもりがだんだんヒートアップした二人の声は大きくなっていった。美千代はそれに気がついて彼らの方を見て言った。
「そこ! こそこそ隠れてないで出ていらっしゃい!」
「しまった・・・!」
良夫は一瞬血の気が引くのを感じた。
「いいから、出ていらっしゃい」
二人は覚悟を決めて、茂みの陰から姿を現した。
「ヨシオ! それに、何で錦織さんまで・・・!」
祐一は目を丸くして言った。その後、良夫に向かって厳しい口調で怒鳴った。
「来るなと言ったろうが、ヨシオ!! それも錦織さんまで巻き込んで!!」
「ちがうわ、西原君、私が勝手にあなたについて来たの。だから、佐々木君より私の方が先だったの」
「そんなことはどうでもいいから、二人ともこっちにいらっしゃい。そして祐一君の後ろに並びなさい」
二人は躊躇してお互い顔を見合わせ、その後に祐一の方を見た。その様子を見て祐一は言った。
「言うとおりにして、二人とも」
二人は走って来て祐一の後ろに並んだ。
「せっかくだから、二人には祐一君の説明を聞いてもらおうかしら?」
美千代が言うと、良夫が言った。
「何回説明してもおんなじだよ、おばさん! 秋山君はここで・・・」
「やめろ、ヨシオ! いいんだ、黙ってて。それに・・・」
祐一は口ごもった。この母親に、ここで息子の所業を聞かせるのは酷ではなかろうか?それに、ここには錦織さんがいる。香菜もいる。雅之のやったことを彼女らにも聞かせたくない・・・。と祐一はとっさに思ったのだ。しかし、そんなことを口に出すわけにはいかない。
「それになによ!」
美千代に問われ祐一は困った。説明をして、なんとか誤解は解きたい。
(どうしたらいいんだ・・・)
祐一は、苛ついた表情の美千代と、兄を信頼し泣くのを必死で耐えている香菜を見比べながら、追い詰められていた。

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6.暴走 (6)赤い情念

「どうしたの、祐一君、何か言ったらどうなの?」
 美千代は薄笑いを浮かべながらからかい口調で言った。祐一が口ごもっているのは、彼にとってまずいことだからだろうと思ったらしい。そして、祐一は、苦渋の選択に悩み黙って下を向いている。後ろにいる二人はハラハラしながら状況を見守っていた。
「祐一君! 良夫君!」
 その時、彼らを呼ぶ声がした。祐一たちはいっせいに声の方を見た。すると、そこには彼らのところに駆けて来る葛西の姿があった。
「葛西さん!」
 良夫が嬉しそうに言った。
「祐一君、私は確か、1人で来なさいって言ったハズよね・・・!!」
 美千代が険しい顔で祐一に言ったので、良夫はマズイと思ってすぐに答えた。
「違うよ、僕が勝手に呼んだんだ。西原君は、最初っから1人でおばさんと会うつもりやったんだよ」
「本当かどうかわかったもんじゃないわ。これじゃ人が増える一方じゃないの」
 美千代はそう言いながら、葛西の走ってくる方を向いて怒鳴った。
「それ以上近づかないで!!」
 葛西はその声に従ってピタッと立ち止まった。まだ彼らまでの距離は10mほどある。葛西は少年たちに聞いた。
「みんな、大丈夫かい?」
「はい、なんとか」
 良夫が答えた。子どもらの安全を確認して、葛西は今度は美千代に向かって言った。
「秋山美千代さんですね。どうか、落ち着いてください。話し合いましょう。とにかく、香菜ちゃんを早く解放してあげて下さい」
「あなた、どうして私の名前を?・・・ひょっとして、警察の方?」
 美千代はいぶかしげに葛西を見ながら言った。葛西は少し躊躇したが、意を決して答えた。
「そうです。K署、刑事一課の葛西です」
「刑事一課・・・」
 それを聞いて美千代の顔色が変わった。逃げるためとはいえ、人を1人瀕死に追いやったことを思い出したのだ。さらに葛西の後から二人走って来るのを見て、いっそう表情が厳しくなった。二人のうち1人は婦警で警察関係者なのは聞くまでもない。多美山は葛西の隣に並ぶと小声で葛西と葛西の後方に立った堤に言った。
「おまえさんたち、あの女の右手に時々光るもんが見えるとに気がついとるか?」
 多美山は目ざとく美千代が隠し持っている凶器らしきものを見つけた。葛西も確認して言った。
「ああ、ほんとだ。マズイですね・・・」
「ジュンペイ、おまえはとりあえず黙っとけ。おれが説得してみる。堤、おまえさんはあのおじょうちゃんを保護した後を頼む。よかな、二人とも」
「はい!」
 二人は同時に言った。多美山はかるく頷くと、美千代の方を向いて言った。
「秋山美千代さん・・・ですね? 私はK署の者で多美山と申します。」
 そう言いながら、さりげなく一歩を踏み出す。
「お子さんを亡くされて辛い気持ちはようわかります・・・」
「あなたに? あはは、何がわかるって言うのよ!!」
「わかりますよ。私も若い頃娘を1人亡くしましたから・・・」
 多美山は静かに言った。美千代は一瞬目を見開いて息をのんだ。しかし、美千代以外の居合わせた者たちも、驚いて多美山の方を見た。
「仕事で死に目に会えんで、今もそれを思うと胸の辺りがぎゅっとすっとです。だからわかっとですよ、息子さんのために何かしたいと言う気持ちも・・・」多美山は続けた。
「でも、もう充分やなかですか。祐一君を責めたって、雅之君が悲しむだけですよ。もう、こんなことは止めて帰りましょう。それにあなた、体調も良くなかとでしょう? もう立っとうとがやっとなんやなかですか?」
 美千代は黙って何も答えない。さらに多美山は優しく言葉をかけ続けた。
「もう、おじょうちゃんを解放してあげまっしょうよ。可哀想に、一所懸命泣くのばこらえとぉとが判りますか? さ、おじょうちゃんば放してこっちへ渡しんしゃい」
 美千代は首を横に振った。だが、さっきまでの強気は影を潜め、その動きは弱弱しい。多美山の優しい言葉に香菜の肩が震えだしたのに気がついたからだ。自分のしていることが、幼い少女を苦しめていることが判っており、多美山は巧妙にその点を突いたのだった。美千代の心が動いたのを確認した多美山は、さらにゆすぶりをかけた。
「私はあなたを逮捕したくなかとです。どうか、おじょうちゃんを放してやってくれんですか。大丈夫、誰にもあなたに危害は加えさせんですから。そって一刻も早う治療ば受けんと・・・」
「おばさん、僕はどこにも逃げたりしません、しませんから・・・、とにかく香菜を放してください。お願いします!」
 祐一も必死で美千代に声をかける。すると、美千代は祐一の方を向いて言った。
「じゃあ祐一君、こっちに来なさい。代わりに香菜ちゃんを解放してあげるわ」
「祐一君、ダメだ、行っちゃいけない!」
 葛西はとっさに止めたが、祐一はすでに一歩前に足を踏み出していた。
「さあ、ゆっくりこっちにいらっしゃい」
 祐一は言われたとおりに、ゆっくり美千代に近づいて行った。
(こりゃあマズかね・・・)多美山は思った。(こうなったら、何としてでも香菜ちゃんを美千代から離すことを優先せんと・・・)
 多美山は美千代と祐一の様子を慎重に観察した。
「そこで止まって」
 1.5mほど祐一が近づいたところで美千代は彼を制止した。
「そこの可愛いおじょうちゃん」
 美千代は、彩夏の方を見て言った。
「祐一君より一歩手前まで来てちょうだい。あなたに香菜ちゃんをお渡しするわ」
 彩夏はいきなり自分にご指名がきたので驚いたが、すぐに命令に従った。彩夏が祐一の手前で止まったところで、美千代はいきなり香菜の腰紐を引き寄せ、ナイフを構えた。一瞬その場の全員が凍りついた。

 しかし、美千代は約束どおり香菜を解放した。ナイフは腰紐を切るために出したものだったのだ。しかし、紐から手を離せば済むことなのに何故紐を切ったのだろうか。美千代は左手に残った腰紐を握ったままだった。手にはこの季節に薄い手袋をしていた。香菜は紐を切られた反動で少しよろけたが、しっかりとした足取りでバランスをとり立ち止まった。その後美千代の方をまっすぐに見て言った。
「おばちゃん、あの・・・、子どもが死んで寂しいなら、香菜が代わりに子どもになってあげましょうか?」
 それを聞いて、美千代は一瞬戸惑ったようだがすぐに冷たく言い放った。
「いいから行きなさい。おじょうちゃん、あとはお願いね」
 美千代に言われ、彩夏は香菜に近寄りそっと手を握った。香菜は戸惑って祐一を見た。祐一はすぐに言った。
「いいからおねえちゃんと一緒に向こうへ行ってなさい。おにいちゃんは大丈夫だから」
 彩夏は祐一を見て力強く頷いて言った。
「香菜ちゃん、おねえちゃんと向こうで待っとこ? ね?」
 香菜は祐一と彩夏の両方を見比べながら、小さく「うん」と頷いた。
「美千代さん」
 多美山が声をかけた。
「うちの堤をおじょうちゃんたちの保護に向かわせてよかですか?」
「その婦警さんならいいわ。早く遠くに連れて行ってちょうだい」
 美千代はつっけんどんに言ったが、少しだけ目が潤んでいた。それは高熱のせいだったのか、香菜の言葉のせいだったかは、誰にもわからないだろう。堤は美千代の言葉が終わるや否や、駆け出して少女達の許に向かった。その後二言三言彼女らと話すと、香菜を抱きしめ、その後香菜と手をつないで彩夏と共に乗ってきた車の方に向かった。香菜は2・3度心配そうに振り向いたが、大人しく去って行った。それを見届けながら多美山は葛西に小声で言った。
「これからが気を抜けないぞ。いいか、最悪の場合、俺が合図をしたら、おまえはあの子ら二人をあの女から出来るだけ遠ざけろ、よかな!」
「はい!」
 多美山は葛西の返事を聞くと、また美千代の方を見て言った。
「さ、美千代さん、祐一君はあなたの前から逃げませんでした。彼の誠意は充分通じたとやなかですか?」
 美千代と祐一は約1.5mの距離を以って向かい合い、その横に5m近くの距離までなんとか近づいた多美山と葛西の2刑事が彼らを見守っていた。良夫は最初と同じ位置で、緊張して一歩も動けずにいた。
「とりあえず、そのナイフ・・・、危険やから捨ててくれんですか? もう紐を切ったから必要なかでっしょうが?」
 多美山は、まず凶器になりそうなものを排除しようと考えた。
「嫌よ。まだ安心できないもの」
美千代は拒んだ。多美山は彼女がまだ目的を捨ててないことを知り、次の作戦に移ろうと考えた。その時祐一が言った。
「おばさん。僕は今日、おばさんにきちんとあの夜のことを話そうと思って来ました。誤解を解きたかったからです。でも今になって、僕にはそれが出来ないことがわかりました。僕にとってもおばさんにとっても、それは辛すぎる現実だからです。だから、おばさんが元気になって、そしてまだそのことを聞きたいと思った時にお話しようと思います」
「誤解・・・?」
 美千代がつぶやいた。
「いいえ、わかってたわ。本当はわたしのせいでまあちゃんが死んだ・・・」
 多美山は首を振って優しく言った。
「息子さんが亡くなられたとは、あなたのせいやなかですよ。あれは、不幸な事故でした。そげん自分ば責めんでください・・・」
「違う! 私のせいなの・・・!」
 不意に美千代が叫んだ。
「私があそこに行かなかったら、まあちゃんに寂しい思いをさせずに済んだの。だから、まあちゃんが不良になっちゃったんだわ」
 妙に幼い口調だった。多美山たちは顔を見合わせた。
「あそこって、一体どこに行ったんです?」
 多美山はすかさずそれを聞いた。しかし、美千代はそれに答えずに続けた。
「あの方が、まあちゃんのウイルスを広げるように言ったの」
 その場の全員が、美千代の告白の意味がわからずに戸惑っていた。この人は一体何を言い出したのか? ただ、その告白が不吉な意味を持つことは明白だった。
「『まあちゃんのウイルス』ってどういう意味ですか?」
 要領を得ない美千代に対して、とりあえず葛西が質問した。
「まあちゃんの細胞から生まれたウイルスよ。今私の身体に中にいる・・・」
 相変わらず要領を得ない美千代の答えだが、葛西にはその意味がわかってぞっとした。
「美千代さん、ちがいます。ウイルスは確かに宿主の細胞を利用して増えます。でも、それは工場を丸ごと占領しているようなもので、出来たウイルスは宿主とは関係ありません。いったい誰がそんなことを・・・」
 しかし、美千代は意味がわからずきょとんとしていた。ついで多美山が聞いた。
「美千代さん、あの方って一体誰なんです?」
「私は、あの方の言われたとおりに・・・。でも、まあちゃんが死んだのに生きている祐一君が憎くて憎くて・・・、妹と一緒に笑っているのが悔しくて・・・」
 美千代はそういうと顔を覆った。ううっという嗚咽の声が漏れる。
「おばさん、違うよ!」良夫が祐一の後ろで言った。「おばさんは、西原君がどんなに苦しんだか知らないんだ。今だってここにいるだけで辛いのに・・・。僕だって・・・」
 良夫はそこまで言うと、悔しくて涙があふれて言葉にならなかった。しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、ほかならぬ美千代だった。
「あら?」彼女は不意に顔を上げると不思議そうに周りを見回して言った。
「すごい夕焼け・・・だけど、なんだろ? 雨の降る前の朝焼けみたいに不吉な、血のような赤・・・」
 それを聞いて、祐一は心臓が凍りつくほどぞっとし、眩暈で少しよろけた。
「西原君!!」
 良夫は祐一の傍まで走って行き、彼の腕を掴んで言った。
「同じだ、あのおじさんと!!」
 しかし、祐一は微動だにせず美千代を見つめている。彼はショックで動くことが出来なくなっていた。
「赤い・・・そんな」
 葛西は呆然としてつぶやきながら空を見た。空はいつの間にか雲に覆われ、日差しのカケラもなくどんよりと曇っていた。多美山も葛西の方を見て言った。
「こりゃあ、彼女は確実に感染しとぅと思ってよかな」
「はい」
 と葛西は答えた。『かも知れない』が確実となった。今まで話としてしか知らなかった感染者を目前にして、葛西は両手が汗ばむのを感じた。
「あーっははは・・・」
 美千代がいきなり嬌笑した。
「私はまあちゃんのためにやったつもりだったの・・・あの方のおっしゃるとおりにやったわ。だけど、私はあの方の仲間に殺されそうにな・・・て、だから、そいつの首を・・・て車を奪って逃げたの。多分、あの人、死ん・・・わ・・・」
「美千代さん、本当ですか? それはどこで!?」
 葛西が予想外の美千代の告白に驚いて尋ねた。美千代はそれに構わずに続けた。しかし、言葉はだんだん不明瞭になっていく。
「私は何・・・ためにあんなことをしてたのかしら? ま・・・ちゃんのため? それとも・・・けい様のため・・・? あははは、バッカみたい・・・。もう疲れた、わ・・・。もう、痛みも・・・ない・・・体が鉛・・・よう・・・」
 美千代は、ふうっとため息をついた。
「だから、もうお仕舞い・・・。ここで・・・らせるわ・・・」
 そういうと、美千代は祐一の方に向かい、ゆっくりとナイフを持つ右手をかざした。
「いかん! ジュンペイ、行けぇっ!!」
 その合図と共に、葛西は祐一たちの方へ猛然と走って行った。

 祐一には全てがスローモーションのように感じた。美千代がゆっくりとナイフをかざし、自分に近づいてきた。良夫がとっさに祐一の前に立ちはだかって、果敢にも盾になろうとした。しかし、祐一には何が起こってるのか瞬時には理解できなかった。ただ、漠然と思っていた。ああ、オレはここで終わるんかな? 香菜ごめん。約束守れんかも・・・。何でこんなことになったっちゃろ? 不思議やな。なあ、雅之・・・? その時、視界に葛西の姿がいきなり飛び込んできて、目の前の映像を遮断した。葛西は祐一と良夫の二人に向かって飛び掛ると彼らを抱いた状態で地面に転がりそのまま彼らの上に覆いかぶさった。葛西はその状態で多美山の方を見た。多美山は美千代の前に仁王立ちになっていた。
「多美さ・・・」
 葛西が多美山の身を案じ名前を呼ぼうとしたその時、多美山の後姿の向こうで血しぶきが上がるのが見えた。
「多美さんッ!!」
 葛西は絶叫した。

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6.暴走 (7)軋む歯車

「なんかすごいことになっちゃってる」
 極美は男子トイレの窓からこっそり外を覗きながらつぶやいた。

 駆け出しのジャーナリスト真樹村極美(まきむらきわみ)は、うどん屋で主婦達の話を聞いてから、どうしてもその公園のことが気になった。それで、店を出るとすぐに場所を聞きながらその公園を探し当てた。彼女にとっては慣れない土地で、道を聞いた人たちも例のウワサを知っているのか、あまりいい顔をしなかったので若干手間取ったが、思ったより簡単にたどり着くことが出来た。しかし、いざ公園内に入ってみると、夕方のこの時間なのに人っ子一人いなかった。普通なら遊ぶ子どもらや散歩する人たち等で賑わっている時間帯である。それなのにこの静寂さは周囲のざわめきと対照的で、まるでここだけが異空間を形成しているようだった。とりあえずせっかくここまで来たのだからと、極美は公園のベンチに座って一服することにした。幸いにも喫煙場所らしく、灰皿が設置してある。
「いったいここで何があったのかしら・・・?」
 極美は紫煙をくゆらしつつ周囲を見回しながら思った。しかし改めて見ると、人気がないだけで何の変哲もない公園でしかないように思われた。多分、事件とその後立ったウワサのせいで一時的に過疎化しているだけなのだろう、そう思って一服し終わった極美は公園から出ようと立ち上がった。数歩歩いたところで、彼女が入って来た反対側の入り口から、少年が1人周りを気にしながら入ってくるのが見えた。極美はとっさに近くにあった公衆トイレに身を隠した。彼女に隠れる理由はない。しかし、なんとなく彼の様子から、隠れなければならないような気がしたのだ。トイレの陰から様子を見ていると、少年はキョロキョロとあたりを見回した。どうやら誰かを探しているようだった。しかし、誰もいないことを確認すると、少年は軽くため息をついた。しかし、その後、何か気配を察したらしく、少年はまっすぐにトイレに向かってきた。(やばっ・・・)極美は焦って女子トイレの個室に隠れた。この公園のトイレは、例の事件で徹底的に消毒されたらしい。今もキツイ消毒液の臭いが篭っていた。そんなところに身を隠してしまった極美は、何となく物悲しくなってしまった。
(もう、何隠れてんだろ、わたし。せっかくだからあの子からなんか話でも聞き出せばいいのにさー)
 極美自身が自分の行動を理解出来なかった。彼女は子どもの頃からカンだけは鋭かったので、自分でも気がつかないうちに、なにか尋常ならざる雰囲気を察したのだ。少年は、トイレの周囲をぐるっと回って様子を探っているようだった。しかし、少年だけあって流石に女子トイレまで入ってくる様子はなかった。彼の足音が遠のくのを聞いて、極美はほっとした。彼女は個室から出ると、また公衆トイレの建物の陰から顔を覗かせて、そっと少年の動向をうかがった。少年は公園内を歩き回り何かを探っているようだった。時折考え事をしたり、深いため息をついたり、足を止めた場所で頭を抱えたと思ったら、そこからいきなり走って逃げたりと、妙な行動が目立つ。
(何やってるのかしら? かっこいいコなのにヘンな子ねえ…)
 極美は少しあきれ気味で彼を観察していた。少年は、疲れたのかベンチに座って相手を待つことにしたようだ。極美が座っていたところから対角線上にある遊具の近くのベンチだ。極美は迷ったが、もうしばらく観察を続けることにした。
 しばし待つと、少年の待ち人が現れたようだ。彼は立ち上がると、待ち人の方角へ歩いて行った。しかし、極美の位置からは少年の進行方面がまったく見えない。彼女は女子トイレの中に戻り、入り口の反対側にある窓際に向かった。そして、視界を遮る型板ガラスの窓を少しだけそっと明け、覗いてみたが目隠しの為に植えてある木が邪魔になってほとんど見えない。仕方がないので思い切って男子トイレの方に入り、同じように窓からそっと覗いてみたら、なんとか少年達が視界に入った。少年は、女の子連れの女性と向かい合っていた。極美は最初母親かなと思ったが様子がおかしい。まだ幼い少女は、腰紐をつけられ女に引っ張られていた。
「何、あれ? 犬や幼児じゃあるまいし…。何考えてんのよ、あの女!」
 若干憤りを感じながら、じっと我慢してなおも様子を見ていると、少年の後に彼の友人らしき少年と少女が現れ、続けて青年が駆けつけてきた。少し遅れて初老の男と婦警が走ってきた。
「なんかだんだん人数が増えていくわね」
 極美はその光景を見ながら、なんとなく可笑しくなってくすっと笑った。しかし、さらに観察すると、ことは思ったより深刻であるように感じられた。女の手元に何か光るものが垣間見え、初老の男が盛んに女を説得しているように見えた。しかし、流石に極美のいる場所からは会話の内容までは聞き取れない。彼らの雰囲気や婦警の存在から考えて、男二人は私服警官だろうと極美は判断した。初老の男の説得が効いたのか、女の子は無事に解放され年上の少女と共に婦警に連れられて去って行った。極美はほっとした。いったい何があったのかわからないが、子どもが被害に遭うのを見るのはたまらない。しかし、まだ少年二人が残っている。
「説得できるのかしら、あのおじいさん刑事・・・」
極美は固唾の呑んで見守っていた。しかし・・・。

 刑事と少年たちが説得を試みる中、途中から、女の様子がおかしくなったように見えた。女は急に泣き出したかと思うと、しばしの沈黙の後急に笑い出した。その後しばらくの間何か言いながら、いきなり少年に向かってナイフを振り上げた。しかし、少年は魅入られたように動こうとしない。
(逃げて!)
 極美が思ったその瞬間、若い方の刑事が少年たちに向かってダッシュし、ほぼ同時に少年の友人が彼をかばおうと小柄な身体で前に立ちふさがった。老刑事の方はすばやく上着を脱ぐと、それを手に持ち女に向かって走った。女は最初少年を刺すように思われたが、すぐにその切っ先を自分の喉元に向けた。老刑事は、それを阻止するため手を掴もうとしたが、間に合わず、彼の指先を切っ先が走った。そのまま女は笑いながら自分の喉を切り裂いた。ついで血しぶきが散る。老刑事は仁王立ちになって、彼女から飛散する血液を最小限に留めようとしたが、身体だけでは防ぎきらないと思ったのか、すぐに手に持った上着を女に被せ、そのまま倒れこもうとする彼女を支えた。若い刑事は少年たちをかばった体勢で、老刑事の方を向き、悲鳴のような声で彼の名前を呼んでいた。
「・・・う、うそっ!!」
 極美は、自分が目撃している光景が信じられなかった。その時になって、初めて彼女はこれが自分が求めていたスクープだということに気がついた。
「そうだ、カメラっ、カメラはっ!?」
 極美はカメラを出そうとバッグの中を探した。

「多美さぁん!!」
 葛西は少年達を庇った体勢のまま、もう一度多美山に向かって叫んだ。多美山の陰で美千代が崩れるように倒れていくのが見えた。多美山は美千代を支え、地面に寝かせながら言った。
「俺はまだ大丈夫だ! 早く外で待機している救急と、公園の周りを警備させている警官から2・3人呼んでくれ。充分な装備で来るようにな」
 事態が事態だけに早口だったが、その声は落ち着いている。葛西は少しほっとしながら答えた。
「了解!」
 葛西はすぐに起き上がり、無線でそれを伝えた。すぐに救急車が公園内に入って来た。
「ジュンペイ! 子どもらは大丈夫や?」
 多美山は、美千代を介抱しながら後ろを向いたまま問うた。
「はい、佐々木君の方は大丈夫ですが、西原君の方が気を失ってしまったようです」
「そうか。救急隊員にそっちも見てもらったほうがいいな」
「多美さん、美千代のほうはどうなんですか?」
「うーん…」と、多美山はうなった。「厳しいな、これは…」
 多美山は答えかかったが、良夫がいることを考慮して言葉を濁した。当の良夫は、まだ状況が把握出来ないらしく、葛西に抱きかかえられたままの状態で、へたりこんでいた。おかげで良夫はまだ現場の惨状を目の当たりにしていない。葛西はなんとか彼らをこの場から遠ざけたかった。美千代の上半身は多美山の陰に隠れて葛西にはどういう状態かよくわからなかったが、確認できる彼女の両足はぐったりしながらも時折痙攣し、その周りを血がゆっくりと広がっている。その様子から、多美山が「厳しい」と言った意味がわかり、葛西は何とも表現できない無力感に襲われた。そこに無線が入った。
「え? 外人の男と女性の二人組みが中に入れろって五月蝿い?」
 葛西が言うと、すぐに良夫が言った。
「ギルフォードさん…、来てくれたんだ」
「すぐお通ししてください。専門家の方です。あ、その前に防護服の着用もお願いします」
 葛西はそういうと無線を切った。
「意識を失ったっていうのは、その少年ですね」
 と言いながら、防護服に身を包んだ救急隊員が1人走ってきた。葛西はすぐに答えた。
「はい、そうです。診てやってください」
b救急隊員は、祐一を診ると言った。
「多分、この状況を見たショックで失神したんだと思いますが、ここは危険ですのでとにかく救急車に運びましょう」
 葛西は彼を救急隊員に任せることにした。担架で運ばれる祐一を見守りながら葛西は言った。
「よろしくお願いします。佐々木君、西原君についていてくれるね」
「もちろんです」
 良夫はすぐに答えた。
「頼むよ」
 葛西はそういうと、しばらく祐一が運ばれていくのについて行き、救急車に入ったのを見届けると、多美山の方に向かった。そこには既に生化学防護服を着た警官や救急隊員たちが集まっており、数人が美千代の蘇生を試みていた。彼らは防護服を着用していない葛西に言った。
「危険ですからそれ以上近づかないで!」
 葛西は仕方なく足を止めて言った。
「すみません、状況を教えてください。多美さんは大丈夫なんですか?」
「ジュンペイ」多美山は言った。「とにかく、防護服ば着てこんね」
「多美さん、どういう状況だったんですか? 怪我はないんですか?」
「美千代の自殺を阻止しようとしたばってん、止められんやった。おまえ達に血が飛ばんごとすっとが精一杯やった…。あげに躊躇せんで喉をかっさばくとはなあ・・・」
 そういって振り向いた多美山を見て、葛西は息をのんだ。彼はほぼ上半身にかけて美千代の血を浴びていたのだ。
「そんな・・・」
 葛西はそういうと、へなへなとその場に座り込んだ。目の前が真っ暗になったような気がした。
「ジュンペイ! しっかりせんか、情けなかぞ。さっさと防護服を着て職務につけ!」
「は、はいっ!」
 多美山に怒鳴られて、葛西は立ち上がった。彼は公園の入り口に待機している警察車両に向かって走った。走りながらも涙で眼鏡が曇る。
(これだから、眼鏡は・・・)
 泣きながらも妙に冷静にそう思った。
(いや、泣いている場合じゃない。しっかりするんだ、純平!)彼は涙を拭いて気持ちを奮い立たせた。途中、公園の出入り口で防護服に身を包んだギルフォードと紗弥に出合った。
「ハイ! ジュン」
 ギルフォードは葛西に声をかけた。葛西は一旦すれ違ったが足を止め、ギルフォードに向かって言った。
「アレク、多美さん・・・多美さんが・・・、あのっ、よろしくお願いします」
 葛西は、一礼すると、また走り出した。
「大変なことになってるようですね。紗弥さんはこの辺で待っていてください」
 ギルフォードは、防護服を着ていない紗弥に向かって言うと、すぐに駆け出した。

 ギルフォードが現場に駆けつけると、美千代が救急車に乗せられようとしていた。彼女には感染防止のための厳重な措置がなされている。
「お疲れ様です。Q大のギルフォードと申します」
 ギルフォードは隊員達に挨拶すると、すぐに尋ねた。
「容態は?」
 彼の問いに、1人の隊員が答えた。
「我々が駆けつけた時はすでに心肺停止状態でした。なんとか蘇生させましたが出血多量で依然危険な状態です。女性がこんな風にためらいなく自分の喉を掻き切っただなんて・・・」
 救急隊員はそう言うと、首を横に振った。救急車の中を見ると、すでに多美山が乗っていた。彼は血まみれの衣服を脱いで、毛布に包(くる)まっていた。元気そうなので、彼にかかっている血は美千代のものだろうとギルフォードは判断したが、彼が右手を手当てされているのを見て顔をしかめた。すかさずギルフォードは、最後に救急車に乗り込もうとしていた隊員に尋ねた。
「すみません、中に入って少しタミヤマさんのお話を聞いていいですか?」
「ことは一刻を争いますので、手短にお願いします」
 隊員の許可を得て、ギルフォードは救急車に乗った。前方の椅子に座って応急処置をされている多美山が、ギルフォードの方を見て防護服の中の顔を確認すると言った。
「ギルフォード先生・・・ですよね。すんません。最悪の結果になってしまいました」
「怪我をされたんですか?」
「ええ、美千代の自刃を止めようとして、指先に切っ先が触れたとです。結局彼女の血を子どもらにかからんごとすっとが精一杯でした」
 多美山は悔しそうに言った。
「彼女は頸動脈を切ったのです。あなたが盾にならなければ、血液は相当飛び散ったでしょう。あなたは良くおやりになりました。でも・・・」
 ギルフォードは沈痛な表情を浮かべ、その後の言葉を濁した。相手が未知のウイルスであるため、現時点では確実な治療法がまったくないのだ。それを察知して多美山が答えた。
「もう、覚悟は出来とります」
 ギルフォードは硬い表情をしたまま無言で頷くと、美千代の方を向き容態を観察した。首は応急処置を施されているが、血がかなり滲んでいる。呼吸も自立では出来ず機械に頼っているようだ。袖をめくってみると、大きな内出血が認められた。点滴の跡と思われた。身体も点々と内出血をしている。ギルフォードは右手で顔を覆った。その後姿に多美山が言った。
「先生、美千代は錯乱する前に周囲が赤く見えたようです。すごい夕焼けだ、と言ってました」
「夕焼け・・・。マサユキ君も友人に『朝焼けか』と聞いたそうです。やはり・・・」
 その時、救急隊員が言った。
「タイムリミットです。続きは搬送先の感染症対策センターでお願いします」
「あ、申し訳ないです」
 ギルフォードが焦って救急車から降りると、すぐにドアが閉まって発進した。サイレンの音が否応なく緊張感を招く。また、近隣の噂になるだろうなとギルフォードは思った。多美山と美千代を乗せた救急車が公園を出た頃、葛西が走ってきた。
「ああ、行ってしまいましたか」葛西はがっかりしながら言うと次にギルフォードの方を見て言った。
「先生・・・、いえ、アレク、多美山さんは大丈夫でしょうか。感染者の血を浴びても感染しない可能性だってあるんですよね」
「ジュン・・・」ギルフォードは厳しい表情で答えた。「もちろんそういうラッキーな可能性はあります。しかし、タミヤマさんは、指先に深い切り傷を負ってました。決して楽観は出来ない状態です」
「え? 多美さんが怪我を!?」
「そうです。さっき救急車の中で少しお話ししたのですが、ミチヨさんの持った刃物がかすったということです。傷口に感染者の血液がかかったということが何を意味するか、君にはわかりますね」
「そんな・・・」
 葛西は呆然として言った。その時、女性の悲鳴が聞こえた。声の方向を見ると男が公衆トイレから女を引きずり出そうとしていた。
「貴様、何をしている!!」
 現場にいる警官達がほぼ同時に叫んだ。ギルフォードも警官達の怒鳴り声に振り向き、男の顔を見て驚いた。それは長沼間だったからだ。
「ナガヌマさん、どうしてここに!?」
 ギルフォードは長沼間に向かって言った。防護服越しなので、どうしても大声になる。
「おっと、少し体型が違うのがいると思ったら、先生だったのかい?」
 長沼間は、女を後ろ手に掴んで引きずるように連れてきた。
「イッタイ! 痛いわね! 離してよ、野蛮人!!」
 女は悪態をつきながら抵抗している。件の女はもちろん極美だった。その騒ぎに気がついて、紗弥も待機していた入り口から走ってきた。葛西は警官達に仕事に戻るように言い、その後、改めてギルフォードに訊いた。
「アレク、あの男とお知り合いなんですか?」
「君達の同業者ですよ。公安警察のナガヌマさんです」
「公安ですって・・・!?」それを聞いた葛西は険しい顔をして言った。「くそっ! いったいどこからこのことを嗅ぎつけてきたんだ!」
 珍しく毒つく葛西に驚いて、ギルフォードは聞かれる前に言った。
「僕じゃないですよ」
 長沼間は極美を引っ張って皆の近くまで来ると、にやりと笑って言った。
「甘いな、オマエさんたち。こんなネズミが潜んでいるのに気がつかなかったのか?」
「民間の方にそんな乱暴は止めてください!」
 葛西が怒鳴った。しかし、長沼間は極美を離そうとしない。それどころか、彼女のバッグの中を探ってカメラを取り出してしまった。極美はそれを見ると自由なほうの手で焦ってカメラを取り返そうとしたが、その手は空しく空を切った。
「何すんのよ、泥棒! 返せってば、馬鹿ぁ!!」
 極美はまた悪態をついたが、長沼間はまったく無視している。
「警官に対して泥棒ですか・・・」
 ギルフォードは苦笑しながらつぶやいた。
「こいつを見てみろ・・・と言っても、みんなそんな格好じゃ迂闊にはカメラに触れないな。紗弥さん、このカメラの画像を確認してごらん」
 カメラを渡された紗弥は、言われたとおりに画像を見ると珍しく驚きを表して言った。
「何てこと! この現場が何シーンも写っていますわ」
 そういうと、紗弥はギルフォードと葛西に画像を見せた。特殊な防護服を着た男達や救急車、仰々しい装備で搬送される美千代等、見ただけで尋常でないことが起こっているとわかるシーンばかりだ。ギルフォードはそれを見るなり眉間にしわを寄せ、胡散臭そうに極美を見た。葛西は信じられないという顔をして極美に向かって言った。
「どういうことなんですか、これ?」
「こんなものがネットなんかで流出しちゃあ、マズくねぇか?・・・おっと、こっちもだ。ほれ、紗弥さん」
 長沼間は極美の携帯電話を探し出すと、紗弥に投げてよこした。紗弥は難なくキャッチするとそれも確認して言った。
「こっちにも数枚写ってます。こっちには倒れている女性と血まみれの刑事さんの顔まで写ってますわ。遠いから鮮明ではありませんが、確かに不味いですわね」
「困ったお嬢サンですね。不審者として警察署までご同行ですか、ジュン?」
 ギルフォードは渋い顔で葛西に問うた。それを聞いた極美は、長沼間に腕を掴まれたまましくしく泣き始めた。
「ごめんなさい。ちょっと休もうとここに来たら、偶然すごい事件を目撃しちゃって、つい、写真を撮っちゃったんですぅ」
「まあ、反省しているみたいだし、今回は・・・」
 葛西が言いかけると、長沼間が横で怒鳴った。
「馬鹿か、おまえは。まず画像をなんとかしろ! こんなもんが流出した場合、どういうことになるかよく考えてみろ!!」
 頭ごなしに言われて葛西はむっとした顔をしたが、長沼間は無視をして極美に向かって言った。
「そういうわけだ、おじょうさん。悪いが画像は全て消去させてもらうぞ。紗弥さん、この女とカメラを交換しよう。捕まえておいてくれ」
 紗弥は黙ったままカメラを渡すと、代わりに受け取った極美の手を取りねじり上げた。これでは極美は痛くて身動きできない。
「いった~い、何よ、この女!!」
「サヤさん、やりすぎですよ。ナガヌマさん、サヤさんを共犯に仕立てないで下さいよ」
 ギルフォードは長沼間の方を見て困った顔をして言った。
「共犯たぁ人聞きの悪い。捜査に協力してもらっているだけだろ」
 長沼間は、嘯(うそぶ)きながらカメラを操作した。その間半べそをかきながら極美が抗議し続けていた。作業が終わると長沼間は
「紗弥さん、もう離していいぞ。これ、返してやってな、ほれ」
 と言って紗弥に携帯電話とカメラを投げ返した。紗弥はそれらを軽く受け取って極美に渡す。
(ふん)長沼間は思った。(この紗弥って女、やはりタダモノじゃねぇな)
 その時、返されたカメラや携帯電話のチェックをしていた極美が悲鳴に近い声で言った。
「何よ、これぇ!! 綺麗さっぱり画像データが無くなってるじゃない!!」
「すまんな。面倒だったから全部削除したよ。カードに保存してある分もな」
 と、長沼間は、しれっとして言った。
「うっそぉ~!」極美は一瞬気が遠くなったような気がした。カメラにはこれまで取材した時の写真も記録されていたが、全てはオシャカである。極美はマジ泣きして抗議した。
「ひどい! 官憲の横暴だわ! 訴えてやるから!!!」
「オマエな、それより自分の立場を考えたらどうだ?」
 長沼間が言うと、ギルフォードも援護する。
「彼は公安の人ですから、容赦ないです。怖いから大人しくしたほうがいいですよ」
「えらい言われようだな」
 長沼間は苦笑すると、極美への職務質問を始めた。
「身分を証明するものは?」
 極美はしぶしぶ運転免許証を差し出した。名刺も持っていたが、この場でそんな雑誌記者を証明するものを出したりしたら、どうなるかわからない。
「え~と真樹村・・・ゴクミ・・・でいいのか?」
「『きわみ』です」
 極美は内心むっとして答えた。今まで散々そう読み間違えられてきたからだ。
「まきむらきわみ・・・、住所は東京都○○区・・・。東京から来たのか、ご苦労なこった。で、観光か?」
「はい」極美は答えた。
「観光客が1人で、なんでこんな人気のないところに来たんだ?」
 理由を聞かれて、極美は適当にそれらしく説明をした
「ここには有名な○○ラーメンを食べに来て、・・・えっとそのあと・・・I美術館とかに行ってぇ、ちょっと疲れたんで、休もうと思ってこの公園に入ったんです。まさか、こんなに誰も居ないなんて・・・。ここで以前何かあったんですか?」
 極美はドサクサに紛れて聞いてみた。因みにラーメンを食べたのは昨日のことである。しかし、長沼間はけんもほろろに答えた。
「知らんな」
(ちぇっ)
 極美は心の中で舌打ちしながら言った。
「もういいでしょ? いい加減許してください」
 その様子を見ていたギルフォードは、痺れを切らして長沼間に言った。
「あまり、ここに居られてもリスクが増えるばかりですから、彼女の言うとおりそろそろ解放してあげたほうがいいと思いますけど・・・」
「怪しすぎるんだよ、この女は。だいたい、さっきも男子用トイレに潜んでたんだぞ」
「ええ? 女性の痴漢ですか?」
 と、いままで黙ってやり取りを見ていた葛西が、驚いて言った。
「女性の場合は痴女じゃないですか? やっぱり逮捕したほうがいいカモしれませんね」
 と、ギルフォード。
「違います、誤解です。この人が近づいて来たんで、怖くてとっさにトイレに隠れたんです。そしたらそこが男子トイレだったんです。本当です」
 極美は、そういうとわっと泣き出した。
「俺か? 俺のせいか? ・・・まあ、いい。名前と住所と免許証の登録番号を控えたし、ついでに顔も覚えたから、もう行っていいぞ」
 長沼間は鬱陶しくなったのか、極美を放免してやることにしたらしい。極美はそれを聞くや否や、そのまま泣きながらも脱兎の如く走って公園を出て行った。
「なんだったんですか、あれは?」
 葛西があきれて聞いた。長沼間は苦々しい顔で、極美の去って行った方向を見ながら行った。
「怪しいが、これ以上引きとめようがないんでな」
 そのとき、警官の1人が近づいて来て、葛西に言った。
「葛西刑事、あの女性どこかで見たことがあると思って見てたんですが、『きわみ』という名でやっと思い出しました。グラビアアイドルのKIWAMIちゃんですよ」
「グラドル? あの子が?」
 葛西は意外なことに首をかしげて言った。
「ええ、売れっ子ではなかったですが、週刊誌の袋とじや青年漫画誌のグラビアによく載ってましたね」
「ほう、よく覚えていたな。ファンだったのか?」
 長沼間が、にやりと笑いながら警官に向かって尋ねた。
「はい、お世話になってました」
 ははは、と男性陣から誰ともなく笑い声が上がった。紗弥は呆れ顔で肩をすくめた。
「確かグラドルを辞めたと聞いてますが、まさかこんなところでご本人と遭遇するとは・・・。そういえば、ジャーナリストになるとか言って辞めたそうです」
「なんだって?」
 長沼間が聞き返す。
「はい。あまりにも職種が違いすぎるので、冗談だと思われて軽くあしらわれていましたが」
と、件の若い警官が答えた。
「まずかったかな・・・」
 長沼間はそう言いながら、ギルフォードと葛西の顔を見た。
「まあ、いずれにしても、もう近くにはいないでしょうね」ギルフォードが答えた。「ところで、ナガヌマさん、あなたはミハさんを監視していたんじゃなかったですか?」
「下ろされたよ」
 と長沼間は苦々しい表情をして言った。
「苦情が入ったらしい。ひょっとしたら・・・・」
「じゃあ、ミハさんは今、誰にも見守られていないということですか?」
「いや、武邑ともう1人ペーペーの部下に張り込みを続行させている。連中は俺と違って見かけで怪しまれたりしないだろうからな」
「確かにアヤシイですもんね、ナガヌマさんは」
「ほっとけ!」
 怪しさでは引けをとらないギルフォードに言われて、長沼間はヤケ気味に言った。その時、公園内に鑑識が入ってきた。それを見て葛西が言った。
「鑑識の方たちがこられました。僕はこれから彼らに説明をしに行きます。アレクもついてきてくださいませんか?」
「もちろんです。そのために来ました。紗弥さん、ちょっと行って来ますね」
 ギルフォードと葛西は、紗弥と長沼間をその場に残し、鑑識の集まっている現場に向かった。
「アレク、そういえばバイクは?」
 葛西が尋ねるとギルフォードが答えた。
「今日はサヤさんのバイクでタンデムで来ました。それに彼女なら、何かあっても臨機応変に行動出来ますから後を任せても大丈夫です」
「そうですか」
 葛西は答えたが、二人がバイクに乗った図を想像してちょっと萌えた。
 

 極美は泣きながら公園を出ると、周囲を見張っている警官達に胡散臭い目で見られながら、そのまま走って公園を後にした。しばらく走って誰も追ってこないことを確認すると、ゆっくり歩き始めた。
「あいつ等、絶対になにかを隠しているわ。あそこできっと何か公表されちゃあマズイ事件があったのよ。でも、証拠隠滅のために写真を全部消されたのは悔しいけど・・・」
 極美はそうつぶやくと、携帯電話を開いてにやりと笑った。
「実は、携帯の写真、こっちにもあるんだよね」
 そう言って、携帯電話でインターネットに接続し、ウエブメールを開いた。確認をすると、無事に3枚写真が添付されたメールが届いていた。
「あはは、ザマーミロだわ。私を舐めないで欲しいわね」
 極美は、警官達をあざ笑った。極美は長沼間に見つかった時、咄嗟にトイレの個室に籠り、携帯電話からパソコンのメールに写真を添付し送信、すぐに履歴を消した。それから降参したフリをして個室を出、長沼間に捕まったのである。
「さて、この写真を見せて、取材の許可をもらえるようデスクを説得すればいいわね。多分取材費も弾んでくれるはずよ。見てなさい。警察が何を隠蔽しようとしているか、私が暴いてあげるから」
 極美は意気揚々と歩き始めた。
「さて、今夜の宿を探すか」
 そう言うと彼女は、5時を過ぎて会社帰りの人たちがあふれ始めた街の雑踏の中に姿を消した。

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6.暴走 (8)キープ・オン・ウォーキング

 子どもらの乗った救急車と、それを護衛するような形で警察車両が感染症対策センターまで向かった。生化学防護服を着たギルフォードは、紗弥と目的地で会う事にして葛西ら防護服組の警官達と行動を共にした。
 ギルフォードは知り合いということで葛西の横に座らせてもらった。しかし、葛西は浮かない顔をして、ずっと押し黙っている。ギルフォードは、葛西の肩をぽんと叩いて尋ねた。
「ジュン、眼鏡に替えたんですか?」
「え・・・? あ、はい、今日コンタクトを落としちゃったんで・・・」
「そうですか、眼鏡、よく似合ってますよ」
 しかし、葛西はギルフォードのフリに応じず、また黙り込んでしまった。コンタクトレンズを落とした時・・・そう、今日多美山と強盗犯を追った時は、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。今日はいつもどおりに終わり、また、いつもと変わりない多忙な明日が訪れるはずであった。だが、多美山は、あの、実直な刑事は今、致死性のウイルス感染の危機にある。何故だ! 何でこんなことになってしまったんだ!? 葛西は今にも叫びたい気持ちだった。ギルフォードはしばらく黙って葛西の様子を見ていたが、とうとう我慢できずに声をかけた。
「ジュン、タミヤマさんが心配なんでしょう?」
「あ、はい・・・」
 葛西はそう言って少し黙ったものの、思い切って話を続けた。
「あの、・・・本当は僕が美千代を取り押さえに向かうべきだったんじゃないでしょうか・・・。僕の足なら間に合ったんじゃないかって思うと、なんか僕・・・悔しくて・・・」
葛西は下を向いたまま、ギルフォードの方を見ずに答えた。
「タミヤマさんは、ミチヨさんの自殺を止めるのに失敗した時のリスクを考えて、自分より君の方が少年達を守れると判断したんだと思いますよ。僕は彼の判断は正しかったと思います」
 ギルフォードは葛西にそう説明したが、葛西は黙ったままじっとしている。ギルフォードは続けた。
「ジュン、終わってしまったことをいつまでも悔やんではいけません。君は少年達を守った。タミヤマさんはウイルスの拡散を最小限に留めた。二人とも立派に職務を全うしました。そうでしょ?」
ギルフォードに諭されて、葛西はこっくりと首を縦に振ったが、やはり口をつぐんだまま足下をぼんやり眺めている。ギルフォードも仕方なく静かにしていた。しばらくして葛西が言った。
「アレク、この防護服ってすごく暑いですね。これから真夏に向かうのに、思いやられますよ」
「僕はアフリカや南米で何度も着ました。それも、もっと宇宙服みたいなやつで、その上十何年も前だから、今より出来も良くなくて・・・。感染の恐怖でなんとか脱ぎたい衝動を抑えていたくらいです」
「僕はこれでも絶えられないくらい辛いです。汗は拭けないしうっかりすると眼鏡は曇るし・・・。もう、こんなモノを着るような事態が起きないといいですが・・・」
 そういうと、葛西は深いため息をついた。その後、またしばし黙っていたが、いきなりギルフォードの方に向かうと、ゴーグル越しにまっすぐ彼を見て言った。
「アレク、いえ、ギルフォード先生、多美さんをお願いします。どうか助けてください」
葛西の目は濡れていた。ギルフォードの顔に一瞬悲しいような困ったような表情が浮かんで消え、その後少し寂しそうな笑顔を浮かべて言った。
「もし、タミヤマさんが発症に至った場合、僕もセンターのスタッフも、タミヤマさんと共にウイルスと戦います。決して望みを捨てません。それが僕たちの使命ですから。だから、ジュンもがんばってこのテロ事件を解決してください」
 葛西はハッとした。そうだ、僕は警官だ。落ち込んでいる場合じゃない。事件は始まったばかりで、ウイルスもそれをばら撒いた犯人も野放しのままだ。
「そうでしたね。落ち込んでいる場合じゃなかったですね。また多美さんからどやされてしまうところだった。アレク、僕は警官としてこの事件に全力で取り組みます。多美さんの事、よろしくお願いします」
 葛西は再びギルフォードをまっすぐに見て言った。
 数十分後、彼等は感染症対策センターに到着した。センターの専用駐車場で、乗ってきた車両をグレーゾーンにして防護服を脱いだ。その後、防護服は滅菌、救急車と警察車両は徹底的に消毒された。

 美千代は搬送の途中で息を引き取った。致命傷を負ったウイルスに蝕まれた末期の体には、救急隊員たちの、せめて夫に会わせるまではという懸命な努力も通用しなかった。多美山は美千代の遺体に両手を合わせ、しばらくじっと動かなかったが、その後どっと疲れたように椅子に座って目を閉じた。彼は、じわじわと実感が湧いてくる恐怖と戦い始めていた。

 一方、祐一は搬送途中で目を覚ました。
「西原君、大丈夫?」
彼を心配して横に座っていた良夫と彩夏が同時に声をかけ、その後お互いの顔を見て「ふん!」と言って顔をそむけた。祐一は彼らを無視して、その後ろにいた堤の方を見て何がどうなったか尋ねた。しかし、堤は優しく笑って「いいから今は寝ていなさい」とだけ言った。ふと見ると、堤の傍で香菜が下を向いたまま黙って座っており、堤は香菜に寄り添うように座って時折優しく声をかけている。祐一は堤が香菜に考慮しているのだと気がつき、「わかりました」と言って、また目を閉じた。

 美千代は感染症対策センターに搬入され、そこで死亡が確認された。
 子どもらは感染症対策センターに着くと、簡単な調書を取られた。事情聴取は葛西と堤が行った。疲れているだろうからと、詳しい事情聴取は日を改めて行われることになった。すっかり夜が更けてしまったので、良夫と彩夏はパトカーで家まで送られることとなった。堤が彼らに付き添った。センターには祐一たちの両親がすでに待機していた。母親は祐一の顔を見るなり「バカッ!!」と怒鳴りつけ、彼の横っ面をひっぱたいたが、すぐにその場にへたりこむとおいおい泣き出した。
「かーさん、何回も心配かけてごめん・・・、本当に、ごめん・・・」
 祐一は床に膝を着き、母親の肩に手を置いて何度も謝った。両目から涙がこぼれた。父親は声をかける機会を逸して、困ったように傍に立っていた。
 香菜は、発症していた美千代と長く一緒にいたので、可哀想ではあるが念のため両親とは直接会わせず、ガラス越しの対面となり、一週間ほどセンターで監視されることとなった。一週間というのは、今までの感染者が一週間以内に発症しているからだ。まだ幼い子であることから、祐一が一緒にいることを申し出、特別に許可された。香菜の話から美千代が彼女に触れておらず、ギルフォードが香菜の感染リスクを当初考えられたよりもかなり低いだろうと判断したからだ。
 香菜の話では、美千代は直接香菜には一切触れなかったようであった。それが、香菜に美千代に嫌われているという印象を与えていた。落ち込んでいる香菜に葛西が言った。
「香菜ちゃん、僕ね、君の話を聞いて思ったんだ。美千代さんは、ホントは君が大好きだったんだよ。だから病気を感染(うつ)したくなくて、君に絶対に触ろうとしなかったんだ」
 おそらく腰紐に関しても、と思ったが、葛西はそこまでは口に出さなかった。それを聞いて、香菜は急に美千代が心配になったらしく、葛西に容態を尋ねた。
「あの、おばちゃんは大丈夫ですか? 病気は重いんですか?」
 美千代の死と多美山の負傷は、香菜には伏せられていた。葛西はすぐに答えた。
「おばちゃんはね、あの後すぐに救急車で運ばれたから安心していいよ」
 香菜はそれを聞いて、ほっとした顔をしたが、今まで気を張り詰めていたのだろう、急に堰を切ったように泣き出した。祐一は妹をそっと抱いた。妹の暖かさが心に染みて、自分のせいで妹まで辛い思いをさせたという罪悪感が広がっていった。彼は妹を抱きしめて一緒に泣いた。その傍で、葛西が1人困っていた。
 香菜は、よほど疲れていたのだろう、祐一に抱かれたまま、いつの間にか泣き寝入りをしていた。涙を流し辛そうな表情のまま眠る香菜の顔を見て、葛西の胸は痛んだ。同時にテロリストに対する怒りが徐々に増大して行った。葛西はあのスパムメール事件の時のギルフォードの激しい怒りを理解した。
 祐一が落ち着いた頃を見計らって、葛西が言った。
「あのね、祐一君。自分を責めちゃダメだ。これは、全部病気のせいなんだ。そうだろ?」
「葛西さん」祐一は葛西に向かって改めて真剣に尋ねた。「その件でお聞きしたいことがあったんです。僕はずっと考えていたんですが、この病気は意図的にバラ撒かれたものじゃないですか?」
 祐一の言葉に葛西はぎょっとした。
「こんな疫病が自然発生するなんて、不自然だと思うんです。教えてください。僕にはもう知る権利があるはずです。お願いします」
 祐一に問い詰められて葛西は悩んだ。しかし、このまま彼に事実を隠したままでいると、彼はきっと自分に怒りの矛先を向けてしまうだろう。そう思った葛西は意を決して言った。
「わかった。誰にも言わないと約束できるなら教えよう」
「約束します。絶対に誰にも言いません」
 祐一は、まっすぐに葛西を見ながら間髪を入れず答えた。葛西は、うんと頷くと言った。
「君の推理どおり、これは意図的にばら撒かれたウイルスによる感染症の可能性が高いそうだ。ただ、困ったことに、まだ誰が何の目的を持ってやっているのか、まったくわからない状態なんだよ」
「やはり、そうだったんですか」
「だから悪いのは君じゃない、こんな病気をばら撒いた連中だ。君らは被害者なんだ。雅之君や彼のお母さんを含めてね。いいかい、もう一度言うけど、決して君が悪いんじゃない。怒りの矛先を間違ってはいけないよ。いいね」
「はい」
 祐一は答えると、無意識のうちに妹を抱きしめた。

 多美山は、特別室に入れられ厳重な監視と試行錯誤の治療が開始されることとなった。彼が発症すれば、発症から経過が観察出来る患者第1号となる。人類が幸運であれば、これで有効な治療法が見つかるかもしれない。スタッフ達は、センター所長の高柳とギルフォードの指示の下、一縷の望みをかけて多美山の治療にあたるのである。

 怒涛の半日が一段落し、ギルフォードと紗弥は感染症対策センターの廊下にある自販機のドリンクでブレイクしていた。
「サヤさん、今日、僕は改めて自分の無力さを実感しました」
 廊下の長椅子に座って、ペットボトルのミルクティーを飲んでいたギルフォードは、こう言うと深いため息をついた。彼は、前のめりになって足を組み左ひざに左手で頬杖をつくと、右手で紅茶の残ったペットボトルを持ち何となくラベルを眺めながら続けた。
「子どもたちを命がけで守った刑事さんの危機を目の前にして、何も出来ないのですから・・・」
 壁に寄りかかってストレートティーを飲んでいた紗弥は、ギルフォードの横に並んで座ると珍しく優しい声で言った。
「教授、焦らないで。新型のウイルスが厄介なことは、教授が一番ご存知じゃありませんか」
「ふふ・・・、慰めてくれてるんですか? サヤさん」
 ギルフォードは紗弥の方を見ると、少しだけ笑って言った。
「それも私の仕事ですから」
 紗弥は、正面を向いたまま答えた。少し照れくさそうな顔をしているような気がした。
「今日はホントに辛かったです。ジュンが捨てられた子犬がすがりつくような眼で、タミヤマさんを助けてくれって言うんです」
「あの、落ち込んだところはそこですか?」
 と、紗弥が訝しげな顔でギルフォードを見ると、彼は真面目な顔をして言った。
「いえ、思い出したんです」
 ギルフォードは、遠くを見るような目をして続けた。
「アフリカで、子どもたちから、お父さんをお母さんを助けて、とかね、よく言われたんです。僕らが来たから助かるって、すがるような眼をして言うんです。辛かったですよ、彼等の目が期待から失望に変わっていくのを見るのは・・・。今日のジュンの眼が、もう、それと同じで・・・」
 その時、横の方で声がした。
「ギルフォード先生」
 ギルフォードは声の方を振り向き、紗弥は驚いて立ち上がった。声の主はセンター長の高柳だった。彼は50歳半ばで、一見俳優の故、平田昭彦のような渋い外見だが、意外とお茶目な面もある男だ。
「脅かしてすまんね。私もコーヒーを買いに来たんだが、なんとなく声をかけにくい雰囲気だったんで、そっと近づいて機会をうかがってたんだ」
 と、高柳はにっと笑って言った。
「そっと近づいてって、まるでライオンの狩りですね」
 ギルフォードは笑いながら言った。実際紗弥に気づかれずに近づくなんて、タダモノではない。
「珍しく落込んでいるようだね」
 高柳はそう言いながら自販機の前に行くと、ブラックの缶コーヒーを買った。そのままピシッと缶のフタを開けると一気飲みして、ふうと一息つき、ぽいと空き缶をゴミ箱に投げ込んだ。その後ギルフォードの前に立つと、白衣のポケットに両手を突っ込んで、なにやら神妙な顔をして言った。
「ギルフォード先生、君もご存知のように、森之内知事の就任後の重要な目標の一つに新型インフルエンザ対策があった。そのために知事は君の助言を乞い、君はそれに応えてくれた。その準備があったからこそ、今回のような対応が取れたわけだ。最悪の場合、広範囲に広がって表面化するまで気付かずにのほほんとしていて、気がついた時は手が付けられなくなっている可能性もあったんだよ。こんな仕事をしていると、たまに無力感に襲われるときもあるけど、君は君が思っているほど無力ではないってことさ」 
「タカヤナギ先生・・・」
「まあ、弱気になるってことは、疲れている証拠さ。これからはもっと大変だ。今日は旨い物でも食って、ゆっくり風呂にでも浸かって早めに寝るといい。じゃ、私はもうちょっとやることが残っているから失礼するよ」
 高柳は言いたいことだけいうと、きびすを返した。
「タカヤナギ先生、ありがとうございます」
 ギルフォードが高柳の後姿に向かって礼を言うと、彼は振り向かず右手を肩のところまでしゅたっと上げて答え、「おいら宇宙のパイロット♪」と、歌いながら去って行った。
「なんか、カッコつけなわりに変な先生ですわね」
「面白い先生です。じゃ、サヤさん。先生の言うとおりご飯を食べに行きましょう。今日は大変な目にあわせたから、オゴります。中華バイキングのお店でいいですか?」
「そうですわね。先生を破産させたくないからそれにしましょう」
 と、紗弥が言った。
「じゃ、行きましょうか。また後ろに乗せてくださいね。帰りは僕が運転しますから」
二人は空きボトルをゴミ箱に捨てると、並んで廊下を歩いて夜間出口に向かった。
「あ、しまった」
 と、急にギルフォードが言った。
「ナガヌマさんを問い詰めるのをすっかり忘れてました!」
「あの状態では仕方なかったですわよ」
「そうですね。じゃ、早く中華屋さんに行きましょう」
 二人はガードマンに挨拶すると、センターの建物から出、駐輪場に向かった。

 

 さて、忘れられないうちに、由利子の事についても少し触れておこう。

 辞表を提出した今日、会社の有志が急遽送別会を企画してくれ、もちろん由利子はそれに主賓として出席した。平日の、それも月曜日にも拘らず、思ったより人が集まって由利子の退職を惜しんでくれた。由利子はギルフォードや葛西が今日、大変な思いをしたなどと知る由もない。彼女は大いに飲み、大いに食べた。そして、2次会のカラオケ屋で不評を覚悟の半ば居直り状態で、アニメ『宝島』のオープニングテーマを歌ったら意外に評判がよく、それがきっかけで大アニメ祭りが始まって盛り上がりに盛り上がった。送別会は結局2時近くまで行われ、みんなへろへろになってそれぞれタクシーや代行運転を使って帰宅した。由利子は途中まで同じ方向に向かう人のタクシーに便乗させてもらった。K市からストレートでタクシーを使うとバカ高くなってしまうからだ。由利子が社内で一番遠くから通っていたのである。
 1人乗り換えたタクシーの中、何故か由利子の頭の中で、『宝島』の歌、特に2番のこの部分が何度もリフレインしていた。

海が呼ぶ 冒険の旅路で、苦しい事や嵐に きっと遭うだろう
いつも微笑みを 忘れずに、勇気を胸に進もうよ
ただひとつの 憧れだけは、どんな時にも捨てはしないさ 

由利子は、歌詞の言葉の意味をひとつひとつ考えながら、なんとなく涙が出そうになった。
(いけない、いけない。ナーバスになっちゃダメだ)
 由利子はそう思って違うことを考えようとした。
(そういえば・・・。外人なのにいつもアルカイックスマイルを浮かべているから気がつかなかったけど、アレクってあのジョン・シルバーに似ているかも)
「あの、お客さん?」
 その時、運転手が由利子に声をかけたので、彼女は我に返った。
「はい、何ですか?」
「すみません、あの、眠らないでくださいね。女性を起こすのは大変なんです。下手に触れると問題になることもあるんで」
「あ、ちょっと考え事をしてたんです。大丈夫ですよ。目は冴えてますから・・・」
「そうですか」
 運転手は安心したように言った。
(う~ん、アレクとシルバーが似てるって思うなんて、そうとう酔っているな・・・)
 由利子はそう思って苦笑した。由利子を乗せたタクシーは、深夜の道路を走り続けた。明かりも疎らになった寝静まった丑三つ時の街の道路は、異次元への通り道のようにも思えた。
(これからどうなるんだろう)
 由利子は、窓の外の闇を見つめながら、これからのことに漠然とした不安を感じていた。

(「第1部 第6章 暴走」 終わり)   
第一部:終わり

参考: 『宝島』オープニングテーマ  『宝島』エンディングテーマ

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