5.出現 (序)一類感染症

20XX年6月6日(木)

「いったい、いつまでここにいればいいのですか!」
秋山信之は部屋に入って来た二人の男に対して、怒りと焦りをあらわにして怒鳴った。
「母と息子の遺体も僕が確認した後、そのままどこかにやられ、いつ返されるともわからず葬式の準備すら出来ない。妻は行方不明。いったい何がどうなっているんです!?」
「奥さんについてはまだ我々もわかりませんが、その他については一昨日、ここにお連れした時に説明しましたが・・・」
「あの時は、気が動転していて何が起こったのかほとんど理解出来なかったんです!」
信之は、妻からの妙な電話を受け、急いで大阪からF県の自宅に戻ったのだが、そこで息子の訃報を知らされ、息子が搬送された病院に向かったのだ。ところがそこで、母親の珠江まで前日に異常死していることを知らされた。両遺体を確認させられたその後、何がなんだかわからないまま妻諸共別の病院に移送されたのである。
「ここは、県内の感染症対策センターです。新型インフルエンザ等の重大な感染症の為の施設です」
感染防止用のマスクとゴーグルとガウンをつけた初老の男が言った。
「私は院長の高柳と申します。そして彼は・・・」と隣にいる同じ装備の大男を指していった。
「Q大のギルフォード教授です」
紹介された大男は軽く会釈をして言った。
「ギルフォードです。はじめまして、アキヤマさん。ワタシが説明しましょう」
ギルフォードはツカツカと信之に近づいて行った。信之はぎょっとして数歩後退った。
「ダイジョウブ、取って食いやしませんから。どうぞ椅子におかけください」
ギルフォードは笑いながら言った。もっともその最強の笑顔は、マスクとゴーグルで相手にはほとんどわからなかったようだが。圧倒された信之は、言われるままに傍にあったサイドデスクの椅子に座った。
「ストレートに言います。あなたの息子さんであるマサユキ君は、学校の帰りにホームレスの男を襲撃しました。不幸にもその男はそれが誘因で亡くなりましたが、司法解剖時に彼の真の死因は重篤な感染症だった可能性が高いことがわかりました。彼の仲間たちも同じ症状で死んでいました。そして、ソレはマサユキ君にも感染しました。そして、彼と何らかの接触を持ったタマエさんが先に発症し、ショック症状をおこして急死、さらにおととい、発症していたらしい息子さんが発作的に電車に飛び込んでしまった。以上のことから、あなた方ご夫婦も感染している確率が高いので、念のためしばらくここで様子を見ることになりました」
「そんな・・・、人権無視もいいところだ。だいたい、うちの雅之が人を傷つけるなんて信じられない。何の証拠があって・・・」
「家宅捜索をしたトコロ、マサユキ君の制服の上着に被害者の男性の血液の付着を確認したそうです」
「家宅捜索・・・・、そこまで・・・」信之は絶句した。
「マサユキ君がどうしてそういうことをしたのかはわかりません。しかし、彼の遺した書置きにもそのことが記されていたそうです。それから、ご両親に対するお詫びも書いてあったそうです」
「雅之・・・」
信之は息子の名前をつぶやくと、しばらく押し黙った。涙を必死で抑えているようだった。ギルフォードにはその姿が痛々しかった。しばらくして、信之はようやく口を開いた。
「それで、その新型インフルエンザかなにかの伝染病の菌は見つかったとですか?」
信之の問いにこんどは高柳が答えた。
「原因の病原体はまだ見つかっていませんが、血液像からあなたのお母さんと息子さんのお二人が細菌ではなくなんらかのウイルス感染をしていたことはわかっています。ただし、新型のインフルエンザではありません。であれば、もっと患者数は増えているでしょう。いま、お二人の血液を送って病原体の正体を調べているところです」
「・・・どれくらいでわかるんですか」
「既存のウイルスでもマイナーだった場合、遅くて2週間、もしも未知のウイルスであれば、正直どれくらいかかるかはっきり言えません」
「わからない? では僕はそれまで・・・?」
「あいにく今の私たちにはそこまで拘束力はありません。しばらく様子を見て特に異常がなければお帰しいたします」
「確かに雅之は高熱を出し、僕が近所の病院に連れていきました。しかし、病院に行ってだいぶ良くなったと聞いていたんです!」
「雅之君を連れて行った病院も、すでに調べて状況を伝えております」
「アキヤマさん」ギルフォードが言った。「僕はあなたより奥さんの方が、感染している確率が高いと思っています。しかし、彼女はここから姿を消しました。あなたが逃がしたのではないですよね」
「馬鹿な!」信之は怒りを押し殺すようにして言った
「あれは、雅之の死から半狂乱で鎮静剤が必要なくらいでした。僕は妻に就き切りで、母と息子を失った悲しみにくれる余裕すらありませんでした。そんな状態の妻を病院から出すなど僕がするはずないでしょう? いいですか、妻は今朝、1人だけこの部屋から呼び出され、それきり帰ってこなかったんです。だから、不安になった僕はあなた方責任者を呼んで、どういうことか聞こうと思ってたんです」
それを聞いて二人は顔を見合わせた。
「そう簡単にここから出られるのですか?」
「軍隊や警官が守っているわけではないから出ようと思えば可能だろう。だが、そう簡単にはいかないはずだが」
「セキュリティをもう一度見直す必要がありますね」
「ううむ・・・」
高柳が考え込んでいると、「教えてください」と信之が二人に尋ねた。
「雅之はともかく、母の遺体はひどいものだった。一体その伝染病は何なのですか?」
ギルフォードはチラと高柳の方を見てから答えた。
「お母さんの場合は、お気の毒ですが、死後に食害されてああいう状態になったのです。ですからあれがそのまま病気の症状ではありません。私たちは一類感染症の恐れがあるとして届出ました。一類感染症とは、天然痘とペスト、そしてラッサやエボラなどの特に危険な出血熱が指定されています。僕はお二人の解剖結果と病気の進行の早さや死亡率から、出自は不明であるものの、エボラやラッサ熱レヴェルの危険な出血熱の疑いがあると判断しました」
「出血熱・・・!? そんな・・・、信じられない・・・」
信之は言葉を失った。

|

5.出現 (1)由利子とギルフォード

 由利子は落ち込んでいた。4時ごろ社長に近くのファミレスの呼び出され、そこで退職を迫られたからだ。

「ということは、私に会社を辞めろということですね」
由利子は、コーヒーカップをガチャンと置きながら言った。
「すまないと思っている。だけど、本当に我が社は今、倒産寸前なんだ」
「そんなことは私に関係ありません。あくまで経営上の問題でしょう」
由利子は眉を寄せながら言ったが、それに構わず社長は続けた。
「今二つある事業部をひとつにまとめようと思っている。それで、事業部から何人か退職者を募ることにしたんだ。それで、今事業部にいる女性は君と黒岩君の二人だが、どちらかに退職をお願いしようということになった。だけど、黒岩君はもう46歳だろ? 今辞めたらおそらく次は無い。それに彼女の娘さんはまだ義務教育中だから、そうなったら大変だ思うんだ」
由利子は、30代だって女性の場合、次の就職は相当難しいわよ、と思ったが、黙っていた。黒岩の方を残そうという会社の温情は理解できたからだ。
「君には申し訳ないが、そういうことだ。良く考えて欲しい。今なら退職時に出来るだけ多くお金を払えるようにしてあげるから」
と、社長は言うと立ち上がった。
「はあ・・・」
由利子は座ったまま、気の抜けた返事をした。

 夕方5時はすでに過ぎていたが、由利子は帰る用意もせずに頬杖をついてぼおっとしていた。あの社長の様子では、遠からず自分はここを去ることになるだろう・・・。そう思ってもなんかピンと来ない。自分ごとのような、他人事のような、それでいてやる気が無くなるような、逆に気分が高揚するような、複雑な気分だった。周りの人間も心なしか由利子に対して気を遣っているように思えた。そんな時、由利子の携帯電話に着信が入った。美葉からだ。
「もしもし?」
「あ、由利ちゃん? 私」
由利子はいきなりの電話に驚いていった。
「どうしたの?」
「あのね、今からうちに来れる?」
「う~ん、いいけど、何かあったの?」
「何日か前から、見張られとぉみたいなん」
「それって、まさか例の彼?」
「違うと思う。でもなんか気持ち悪くて・・・」
「わかった、出来るだけ急いで来るけん、待っとって」
そう言って電話を切ると、由利子はすぐに帰り支度をして会社を飛び出した。

 長沼間は、部下と共に車の中でターゲットを見張っていた。
「今日で三日ですが、特に変ったところはありませんねえ。ふつうに会社と家と往復してるだけだし」
と、部下の武邑(たけむら)が言った。彼は小柄で童顔でいわゆるぼっちゃん刈りのおよそ公安とは思えない外見をしている。
「いや、ヤツは必ず彼女と接触を持とうとするはずだ」
「必ず、ですか?」
「ヤツが今、孤立無援の状態だからだ。必ず女とコンタクトをとろうとする」
多分ヤツを追う連中も同じことを考えているはずだ、と長沼間は思った。俺たちが彼女を見張っている間は連中も迂闊に彼女に手を出せない分彼女も安全なはずだ・・・。そう思った時、バイクの音がだんだん近づいてくるのに気がついた。それはすぐ傍に停まった。様子を見ていると、そのライダーはバイクから降り、まっすぐに長沼間たちの車に近づいてきた。
「うわぁ、でかい外人ですよ。こっち来た! どうしよう」
武邑はあせったが、長沼間は別の意味で困っていた。男がギルフォードだとわかったからだ。
(あちゃ~)長沼間は思った。(やれやれ、これで張り込みは台無しだな)
長沼間は仕方なく車から降りて、ギルフォードと対峙した。
「Hi! ナガヌマさん、こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
ギルフォードは笑顔で近寄ってきた。
「とにかく乗ってくれ。目立ってしょうがないやね」
長沼間はそう言うと後部座席を指で示した。(よりによってこいつが、それもバイクの爆音という鳴り物入りで来るとはな・・・)長沼間はげっそりした。ギルフォードが車に乗ると、長沼間も再度乗り込みながら言った。
「奇遇なもんか。お前さん、狙って来ただろ?」
「あ、バレマシタか」
「バレましたかじゃねえよ。職務妨害しやがって。目標に気づかれたらどうしてくれる」
「ちょっと、気になることをお聞きしたくなったので」
ギルフォードは相変わらずニコニコしながら言った。
「お前さんがそういう笑顔の時は、ろくなことがないんだよ、先生。ところでどうやってここがわかったんだ?」
「はい、サヤさんに尾行をお願いしました。そして場所を知らせてもらいました。最近は携帯電話でもナビが出来て便利ですね」
「・・・・。教授秘書がプロに気づかれずに尾行を遂行したのか? 彼女はもともと、何の仕事をしていたんだ?」
「僕もよくワカリマセン。CIAだったのかひょっとしてスペツナズだったか、はたまたシノビノモノだったのか」
「『忍びの者』とかゆーな。焼鳥屋で豚足が食いたくなるだろーが」
「九州のヤキトリ屋は不思議ですね。ヤキトリ屋なのにトンソクがある。ギュウサガリもあるし、ヤキザカナも・・・」
「焼鳥屋談義はどうでもいい、気になる事ってなァなんだ! さっさと訊いてとっとと帰ってくれ」
長沼間から話を振ると、ギルフォードはにっこり笑いながら質問を始めた。
「ナガヌマさん、あなた、M町の資料集めに妙に協力的でしたし、カツヤマ先生からの司法解剖立ち会いの依頼もあなたからでした。何よりその前からあなたはバイオテロに興味を持ち、私の授業の熱心な聴講生てした。ひょっとして、あなたは何か知っているんじゃないですか?」
「藪から棒になんだ? アレクサンダー、あんたの方こそ何かあったのか?」
「ええ、ひょっとしたらとんでもないことが起こりかねない状況です」
「何だよ、とんでもない事って」
「それはヒミツです」
「そんな昔のテレビ番組みたいなことを言ってないで、教えたらどうなんだ?」
「まず、あなたが質問に答えてからです」
「あのな、お前さんが何を思ったかは知らないが、関係するとしても多分偶然だ。俺は今、この前あんたの研究室で話した例の男を追って、いまも見張り中なんだ。お前さんみたいに目立つヤツがいると迷惑なんだよ、アレクサンダー」
「偶然? ホントニそうですかぁ?」
ギルフォードは疑いの目で言った。
「それより先生、あんたの言った『とんでもないこと』ってのが気になるんだがね」
長沼間がそう言った時、助手席の窓ガラスを叩く音がした。驚いて見ると、女性が立っていた。窓ガラスを叩いた右手には携帯電話、左手は腰にあてており、眉間にはくっきりと縦皺が入っている。長沼間は再びげっそりした。
(千客万来だな・・・)
それは長沼間の知っている顔であった。ただし一方通行であるが。長沼間は、恨めしそうな顔をしてギルフォードを見た。ギルフォードは他人事のようににっこりと笑って返した。渋々長沼間はウインドウを明けながら女性に言った。
「何かご用ですか?」
「ご用ですかじゃないわよ、いい加減にして! 友だちが怯えてるじゃない!」
その女性はもちろん由利子だった。

 話は少しだけ前に戻る。
 由利子は、美葉の家に近づくと電話をかけようとバッグに手をかけた。その時横の道路を真っ黒い大型バイクが走り去って行った。どこかで見たようなバイクである。バイクの主もちらりと由利子を見た。その顔を目ざとく観察した由利子は、瞬時に彼が誰か思い出した。
(あ、K署で見た変な外人だ)
そう思って由利子は彼の後ろ姿を目で追った。しかし、その姿は曲がり角に消え、すぐにエンジン音が途絶えた。近くに止ったらしい。後を追おうかと数メートル走ったが、はっと我に返って走るのを止め自嘲的に独り言を言った。
「何やってんじゃ、私は。バイク好きの小学生か!」
その時、握っていた携帯電話に着信が入った。美葉からである。
「もしもし、美葉? 今、近くに来てるの。ちょうど電話をしようと思ってたところ」
「わかっとぉよ、ここから見えるもん」
「見えるって何処にいると?」
「非常階段の最上階」
そう言われて美葉の住むマンションの方をよく見ると、端に設置された非常階段に見覚えのある姿があった。
「そりゃあ、そこからなら見えるよな」
「今、由利ちゃんの横をバイクが通ったやろ? そのバイクの人が、私を見張っている車に乗ったの。そのバイクが近くに止っているから。白い営業車みたいな地味~な車よ」
「あらま、ずいぶんと目立つ目印やね。美葉に気づかれたり、あまり張り込みの得意じゃない人かな?」
「多分普通の人なら気づかんと思う。ここら辺違法駐車多いし、あちこちで営業マンが車の中でサボって寝てるし。私は彼からそういうのの見分け方聞いていたの」
「あんたの彼氏、やっぱカタギじゃないみたいね」
「やっぱり、そう思う?」
「フツーの人が張り込みを見破るレクチャーとかするかい。でもまあ、美葉のカンが鋭いのも関係しているかもね。よしわかった。その車の中の人に文句の一つでも言って来てあげる。そこから道順を指示して」
由利子は、電話で美葉の案内を聞きながら、件の車を見つけた。
「目標確認! あとは任せて」
由利子は電話を切ると、目標の車に近づき助手席のガラス窓をノックした。ウインドウが開き、中の渋い中年男性が言った。
「何かご用ですか?」
「ご用ですかじゃないわよ、いい加減にして! 友だちが怯えてるじゃない!」

 由利子は威嚇高に言った。ギルフォードは長沼間の座っている助手席のシートに手をかけて、顔を近づけながらにっこりと笑って言った。
「どうやら、僕のせいではないミタイですね」
長沼間はどーーーんと落ち込んでいた。秘書の紗弥そしてターゲット自身にすら、張り込みを察知されてしまったからだ。
(だから、カンの鋭い女はイヤなんだ・・・)
「じゃっ!」
そう言って由利子が帰りかけると、長沼間が止めた。
「ちょっと待ってくれ」
「何ですか? 私は今日、リストラ宣言されて機嫌が悪いんです。ことによっては・・・」
「それは気の毒だが、いいから待ってくれ、篠原さん」
一瞬で由利子の表情が固まった。何で私の名前を?
「やあ、驚かせてすまん。何で名前を知ってるかって顔だね。それも含めて事情を説明しよう」
長沼間は、下手に事を荒立てるより由利子を味方につけることにした。
「アレクサンダー、紹介しよう。彼女が君の言ってたブログ『ゆり根の入った茶碗蒸し』の管理人の『ゆりね子』さんだ」
ギルフォードは「おお!」と感嘆の声を上げた。
「まさに、これこそが奇遇です!運命の出会いです!」
ギルフォードの大袈裟なジェスチャーを目の前にしながら、由利子は何がなんだかわからずに狐につままれたような顔をしている。ギルフォードは、(彼にとって)せまい後部座席から脱出すると、由利子に右手を差し出して言った。
「その節はゴメイワクをおかけしました。『アレクさん大王』です」
「え"っ・・・」
由利子は何がなんだかわからない状態を通り越して、一瞬頭の中が真っ白になった。

「あなたがあの変なコメント書いていた人・・・!?」
外国人っだったのか、それならあの変な日本語も納得できる。
「こちらこそ、外国の方とは知らずに投稿禁止にしちゃってごめんなさい」
由利子はぺこりと頭を下げて言った。ギルフォードは由利子が差し出した右手を取ってくれないので、自ら彼女の両手を取りながら自己紹介をした。
「僕は、アレクサンダー・ライアン・ギルフォード。出身はイギリスです。Q大で客員教授をやっています」
(か、カルい・・・。大学教授? この人が? この外見で?)と思いながらも、肩書きに若干気後れした由利子だが、とりあえず自分も自己紹介をした。
「篠原由利子です。普通の会社員です」そう言った後、小さい声で付け加えた。「・・・今のところ
小声の部分が聞こえたかどうかわからないが、ギルフォードは恒例の一言を付け加えた。
「僕のことは、アレクと呼んでください」
「はい、あのぉ、アレクさん?」
「『サン』は要りません。アレクと呼び捨てでイイですから」
「・・・アレク・・・でいいんですか? いや、そんなことより・・・」
実は、由利子はギルフォードが握った手を離さないので困っていた。
「いい加減手を離してくださいませんか?」
それでもニコニコして手を離そうとしないギルフォードに、由利子の眉間のしわが復活した。
「・・・アレク?」
しかし、ギルフォードは由利子が彼をアレクと呼んだことに大喜びで、長沼間たちの方を向いて言った。
「ねえ、聞いてくれました? 僕のこと、ちゃんとアレクって呼んでくれました!」
その光景を、長沼間と武邑が車中であきれて眺めていた。
「ほとんど病気だな。天才となんたらは紙一重ってね・・・。おい、そっちの方はどうだ」そう言って部下の方を見た長沼間は、彼も一緒に二人を見ていたことに気づいて言った。
「ムラ、おまえは見張っとかんか」
「あ、すみません、つい」
武邑はそう言うと、焦ってマンションの方を向いた。
「『つい』じゃねぇよ」長沼間はブツブツ言いながらこんどは由利子たちに言った。
「お前さんたちも、いつまでも手を握りあっとかないで、こっちに寄ってくれ」
「あのぉ、一方的に握られてるんですけど・・・」と、由利子。
「ああ、スミマセン、つい嬉しくて」
ようやく手を離したギルフォードに長沼間は言った。
「あんたは早く車に乗ってくれ。目立ってかなわん」
言われてギルフォードはまた狭い車中に滑り込んだ。
「・・・ったく、いつから宗旨替えをしたんだ」
長沼間はギルフォードに向かって渋い顔で言った。
「あ、知ってたんですか?」
「公安舐めてるのか? というか、隠してねーだろ、あんた」
長沼間は呆れ顔で言った。由利子はその会話を聞きながら、話が見えずにきょとんとしていたが、すぐに当初の目的を思い出して言った。
「さあ、説明してください。何故美葉を見張っているのか、何故、私の事を知っていたのか」
「わかった、説明しよう。しかし、どこで話すかな。俺たちが信じられるなら、後部座席が空いているが・・・」
そう言いながら長沼間は身分証明を出して由利子に見せた。
「公安調査官の長沼間だ。後ろの妙な奴は、気にしないでくれ。まあ、だから安心できるという保障は無いがな」
「はあ・・・」
「後ろの妙な奴だが、ああ見えて女性には人畜無害・・・いや、違うな、う~~~ん、まあ、フェミニストだから女性は安心していい。これは保障する」
「フェミちょっと違いますが・・・」
ギルフォードが言いかけると長沼間が彼の襟首を引っつかみ耳元に小声で言った。
本当のことを言うと、女性の場合喜ばれるか引かれるかのどっちかだぞ!
そして、また由利子に向かって言った。
「喫茶店かファミレスにいくという手もあるが、そうすると『どんたく』の花自動車より目立つこの御仁が漏れなくついて来そうだからな・・・」
「これはまた、えらい言われ方ですね」
ギルフォードは不満そうに言ったが、長沼間は無視をして続けた。
「と、いうことで、後部席に乗る勇気はあるかな、篠原さん?」
「ちょっと待って。その前に美葉に電話しときますから。さっきからあそこで様子見てるの知ってます?」
由利子はそういって非常階段を指差し、それから電話をかけ始めた。長沼間はまた落ち込んでしまった。
「電話しました。ついでに念のため、この車の車種とナンバーも伝えましたから。さて、アレク、横に座らせてもらうわ」
由利子は後部座席に乗り込むと、足を組み、ついで腕を組んで言った。
「じゃあ、お話を聞こうじゃないですか」

 

「ありがとう。助かったわ」
と、助手席で女が言った。
「どうしてこんな夕方に、人気の無い山道を歩いとったとですか?」
運転席の若い男が尋ねた。
「拉致されかかったところをある方に助けられたの」
「拉致? 事件じゃないですか! 警察に届けなくてよかとですか?」
「大丈夫よ。それに私にはしなければならないことが出来たの」
男は、妙なことを言うその女性をミラー越しに観察した。ちょっと歳は食っているが、いい女だ。少し影のあるところがまたいい。
「それにしても」男は言った。「助けた人ってのも、拉致されかかった女性をあんなところに放っていくやら、いい加減やねえ」
「いいの。私が自分で望んだことよ。それに・・・」
女は意味深な笑顔で言った。若い男は、少しどぎまぎして尋ねた。
「それに・・・? なんですか?」
「うふふ、おかげであなたに知り合えたわ」
「いやだなあ、会ったばっかりじゃないですかぁ」
男は、少し赤くなりながら言ったが、悪い気はしなかった。少し危険そうな女だが、楽しめそうだと思った。ヒッチハイクの女を乗せ、シルバーのランドクルーザーは、山道を駆け下り街中に向かって消えていった。
 
「行ったな・・・」
林道に停まっていた黒塗りの大型車の後部席に乗った男が言った。歳は30過ぎくらいで、美男だが、つかみどころの無い不思議な顔をしている。
「さて、彼女がスーパー・スプレッダー(ばら撒き屋)になり得るかどうかだが」
「問題は彼女が感染しているかどうかですが、状況からするとおそらく陽性だと思います。調べればすぐにわかったのですが」
彼の言葉に隣の女が答えた。その女は、あの時雅之の死亡を確認した自称医者だった。
「まあ、全ては神の思し召し次第さ。いつも言うようにね」
男は携帯電話を右手でもてあそびながら言った。女はそれに気づいて尋ねた。
「長兄様、それはどうされたのですか? いつも携帯電話など下衆の持つものだとおっしゃってらしたのに」
「あの母親の持ち物をちょっと失敬したのさ」
長兄と呼ばれた男は、携帯電話を開くと中身を確認して言った。
「正確には、秋山雅之・・・、あの女の息子のものだがね。ちょっとこれで悪戯をしてやろう」
男は笑いながら、電話の電源を切りさらに電池を外した上で、大事そうに上着のポケットに納めた。

 

 美葉は、玄関のチャイムがなったので出迎えに行った。念のためドア越しに確認すると、間違いなく由利子だった。美葉は、安心して玄関のカギを開け由利子を招きいれようとドアを開けた。すると、由利子の後ろに白人の大男が現れて、親しげに「ハイ!」と手を振った。
「ごめん、おまけがついてきちゃった・・・」
由利子はバツの悪そうに言った。長沼間から体よく押し付けられたらしい。美葉は、目を丸くしながら言った。
「おまけって・・・。食玩のフィギュアみたいに存在感のあるおまけやねえ・・・」
「私は原価一円以下のラムネっすか?」
由利子は、わざと口を尖らせて不満そうに言った。美葉は、由利子が玄関に入るや否や引っ張り込むと、そのままキッチンまで引っ張っていき、小声で言った。
「誰よ、あのガイジン?」
「話すと長いことながら・・・」由利子は説明に困った。「とりあえず人畜無害らしいし、家に上げても大丈夫だと思う。日本語もペラペラだから・・・」
「日本語、大丈夫なんやね」
美葉はほっとしたように言った。
「心配なのはそれかよ!」
「あとは、犬の美月が受け入れるかだけど・・・」
美葉がそう言った端から犬の吼える声がして、犬が玄関まで駆け出してきた。
「あ~っ! ダメよ、美月!!」
美葉と由利子が慌てて玄関まで走っていくと、美月はギルフォードの足元に座って嬉しそうに尻尾を振り、頭を撫でてもらっていた。
「オ~! ミツキちゃんという名前ですか。Good girl! イイコですね~♪」
ギルフォードもとても嬉しそうだ。
「あの気難しい美月が・・・。本当に人畜無害みたいね、あの人」
美葉が信じられないという顔をして言った。
「そうみたい・・・」
由利子は驚きながらも、なんとなくギルフォードをいい人認定してしまったのだった。

|

5.出現 (2)月と葉、そして夜

「ミツキちゃんの名前は美しい月という意味ですかぁ、キレイな名前ですねえ」
「本当は『海』と『月』という字にしたかったんですけど、それだと『クラゲ』って言う意味になるんです」
「『Sea』と『Moon』で、クラゲですか。なんかわかるような気がします。フウリュウですねえ。英語ではJerry fishですよ。ゼリーの魚。無粋でしょ?」
「あはは、ゼリーウオ! それもわかるなあ。で、私の名前が『美しい葉っぱ』と書くんで、それにあわせて『海』を『美しい』という字に変えたんです」
「そうなんですか。ミハの名前も素敵な意味ですね」
美葉とギルフォードは、すっかりうちとけて話が弾んでいた。彼らの間には美月が 満足そうに寝そべっていた。彼女は中型の雑種で、顔は薄茶のハチ割れ模様で手足とおなかが白く狼っぽい長毛の可愛い犬だ。寒い冬に、海岸にダンボールに入れられて放置されていたのを、美葉に拾われたのだという。
(もう、美月ったら、私にだって初日は懐かなかったのに)
由利子は少し複雑な気持ちで彼らを見ていたが、ここまでなるのに実は一悶着あったのである。

 美葉は、用心深い美月が一瞬で懐いたのでつい安心してギルフォードも部屋に上げたのだが、心配になってキッチンでお茶の用意をしながら、由利子を手招きした。呼ばれたのに気がついて由利子が行くと、美葉は、リビングで無邪気に犬と遊ぶ欧米人の大男の方を見ながら聞いた。
「あのさ、ひょっとして、あの人、由利子の彼氏?」
「え? あの変な外人が?? 冗談でしょ、違うよ、ほら、あの私を追い越していったバイクの人だよ。あんた非常階段から見てたやん」
「だってあんたがさー、早く部屋に帰ってカギを閉めとけとか焦ったような声で電話してくるもんだから、びっくりしてすぐに部屋に帰ったもん。それに私、目が悪いけん遠いと顔だってようわからんし、てっきり髪を染めたヤンキーかと・・・」
そうだった。長沼間の話を聞いてから急に不安になった由利子は、美葉の部屋まで行く間すら心配になって、緊急に電話したのだった。

「じゃあ、お話を聞こうじゃないですか」
車に乗り込んだ由利子が挑戦的に言うと、
「職務上、あまり詳しいことは言えないが」
と、長沼間がこう前置きして言った。
「俺たちが追っているのは多田美葉ではない。彼女の男だ。だが、女の方を見張っていれば、必ずやってくると踏んでいるんだ」
「美葉の彼氏がロクでもないヤツだってことは、想像がつくわ。でも、彼はまだ事件は起こしてないんでしょ?」
「俺たちは、社会的な事件を未然に防ぐことが仕事なんだ」
「そういえば、私の父が言ってたけど、友人に左翼系の人がいた時に、知らない間に自分も色々調べられていたって言ってた・・・。あっ、わかった! それで、美葉だけでなく、私のことまで調べたのね! ネット上の記事まで?! 信じられない!」
由利子は、車の窓ガラスを拳(こぶし)でバンと叩きながら言った。
「ここで暴れないでくれ。職務上得た情報は、第三者に漏らすことはない。今回だって、君とアレクサンダーが偶然ここで会わなかったら、おそらく教えることはなかったはずだ」
「そんなの免罪符にならんやろ!」
由利子の怒りは収まらなかった。
「いいから聞きなさい」
長沼間は静かな命令口調で言った。
「君が来る前にアレクサンダーが言ってた『大変な事』と、俺たちの追っているヤマがもし同じものなら、ヤツはすでにコトを起こしてしまった可能性がある」
それを聞いて、ギルフォードは少し怒った顔をして言った。
「やっぱりわかってたんじゃん」
「だから、あくまでも予測の域だ」
「その大変な事って何?」由利子はすかさず尋ねた。
「詳しいことは言えない。まだ確定ではないし、だいたいこんな地方都市で実行するとは思えない。誰だって首都を狙う。だから、俺たちはヤツを九州から出す前に捕まえたいと躍起になっているんだ。俺たちが彼女を見張ることは、つまり、彼女をそいつから守ることになる。お互い損はないだろう? だから、あんたから彼女にさりげなく伝えて欲しい。張り込みの目標は彼女ではないこと。それから、会社と自宅以外の寄り道はしばらく慎むことと、人通りの少ない場所には近づかないこと。」

 由利子は話すタイミングを考えていた。文句を言いに行くつもりが逆に頼みごとをされてしまった。想定外もいいところだ。しかし、いくらなんでも美葉に彼氏が犯罪予備軍だなんて伝えられない。
「って、見張ってる人たちの仲間を部屋に入れちゃったの、私? 由利ちゃんったら、何考えてるのよ!」
美葉は急に不安そうな顔をして由利子に抗議を始めた。しかし、由利子の立場としては、話をするきっかけが出来たことになる。
(で、いったい何て言ったらいいのよ)
チャンスは出来たものの、由利子は困ってしまった。
「えっとね・・・」由利子は口ごもった。美葉は半べそをかいている。この状態であんなことを教えて良いのか迷った。しかし、話が話だけにこのままシカトするわけにはいかない。
(ええい、ままよ!)
由利子は半ばヤケになって言った。
「美葉、あんた、今、危険なんだって」
直球ストレートである。
「私が危険? なんで??」
美葉は由利子の真意が掴めずに鸚鵡返しに聞いてきた。由利子は公安警察官というと美葉が不安になると思い言葉を選んで答えた。
「あのね、車の中の人たちは法務省カンケイの人で、彼らが探しているのはあんたの彼氏・・・、いや、もう元カレ?」
「ゆっちゃん・・・結城さんが何かしたと?」
美葉は信じられないという顔をして言った。
「私にも詳しいことは教えてくれなかったけど、何かしたというより要注意人物みたいな感じやったなあ」
「確かに最近様子が変かったけど、あの人がそんなのに追われるようなことするわけないやん」
美葉は、きっぱりと言い切った。
「私だってそんなこと思いたくないけど、危険といわれたらやっぱり用心するべきだと思う。しばらくは会社と家の往復だけにして、あまりで出歩かないで。それから、人通りの少ないところには行かないで。私からもお願いします」
「由利ちゃんがそんな言うんなら・・・。どうせ彼にはもう会わんつもりやったし」
美葉は、由利子が本気で心配していることに気がついて言った。
「なんだか取り込んでますね」
二人がキッチンに篭ったまま出てこないので、ギルフォードが様子を見に来た。その横に美月が嬉しそうにやってきて座り、皆の顔を交互に見ながら尻尾を振った。
「そうだ、ミツキちゃんにかまけてしまって、自己紹介が遅れて申し訳ありません。僕はアレクサンダー・ギルフォード。アレクとお呼び下さい。Q大で教授をやってます。アヤシイモノではありません。ご心配なら、大学のサイトを確認してもらえば、写真付で僕が載ってますから」
丁寧に自己紹介され、美葉は驚いて自分も自己紹介を始めた。
「え~っと、多田美葉です。よろしく・・・で、いいのかしらね?」
「オ~、ミハさん! ステキな名前ですね。九州の女性は美人が多くてウレシイです」
美人と言われて美葉は流石に悪い気はしなかった。警戒した表情がかなり和らいだのを、由利子は見逃さなかった。
(さすが西洋人は口が上手いわ。日本人だとこうはいかないね)
「じつはですね、あの車にいたオッサンは僕の講義の聴講生なんです」
その説明に、美葉だけでなく、由利子まで同時に言った。
「えっ?」
そのあと、由利子はたたみかけるように言った。
「あの、助手席の渋いオッサン?」
「そうです。あのオッサンです、ユリコ」
由利子は(自分もオッサンじゃん)と心でツッコミを入れたが、ギルフォードはにやりと笑って言った。
「タイプですか?」
「話を何処に持っていくつもりですか」
由利子はあきれながらも、少し顔を赤くして言った。その横で美葉が確認するように言った。
「じゃあ、ホントにあの人たちの仲間じゃないのね」
「違います。ただ、依頼があれば捜査には協力しています。これは義務です。それで、今日たまたま通りがかりに彼を見つけたんで挨拶しようと近寄ったら、目立つからって、あの狭い車に乗せられたんですよ」
意外と嘘つきである。しかし、由利子はともかく美葉は信じたようだ。由利子は美葉にその後のギルフォードとのいきさつを説明してから言った。
「で、せっかく会ったんだから持って行けって私に押し付けたの、あのオッサン」
「因みにバイクは近所の100円駐車場に停めてます」
ギルフォードはにっこり笑って言った。

「ユリコ、ぼんやりしてどうしたのですか?」
ギルフォードは由利子が考え事をしているのに気がついて言った。
「あ・・・あの、ちょっと・・・」
由利子が言うと、ギルフォードはにやりと笑って言った。
「わかった! リストラのこと、考えてたでしょ?」
「ええ~?! 由利ちゃん、リストラされたの?」
美葉は本気で驚き、その後すまなさそうに言った。
「そんな・・・。じゃ、人の心配しとぉ時やないっちゃない! ごめんね、ややこしい時に呼び出したりして・・・」
「いやいや、こういう時こそ他の事で気を紛らわせたいものだって」
由利子は美葉が気にしないように言った。
「ユリコ、次が決まるまで、僕のところでアルバイトしませんか? 高給は出せませんが、当面の生活費くらいにはなりますよ」
「由利ちゃん、渡りに船じゃん」
「わたしも、会社都合だと次の就職に影響しそうだから、自主退職にしようと思っているから、失業保険の出ない間バイト出来るのは助かるけど・・・でも、アレク、何故・・・?」
由利子は、話が出来過ぎな気がして躊躇した。
「実は、僕があなたに会いたかったのは、僕のサポートをして欲しかったからです。実は・・・」
ギルフォードはその後を由利子の耳元でこっそり言った。その途端、ユリコはぷっと吹き出してケラケラ笑いながら言った。
「人の顔が覚えられないだって???」
「せっかくこっそり言ったのに、そんな笑わなくてもいーじゃん」
ギルフォードは、決まり悪そうに言ったが、由利子の笑いは止まらなかった。
「だって、だって・・・、頭のいいはずの大学の教授が、顔が覚えられなくて悩んでたなんて」
「由利ちゃんったら、失礼よ、そんなに笑っちゃあ・・・」
と言いながら、美葉もクスクス笑っている。
「二人して、そんなにウケなくても・・・」
そう言いながら、ついにギルフォードまで笑い出した。
「全く覚えられないわけではないんです。たとえば、あなた方にはもう次に会ってもすぐにわかります。でも、あなた方は例外なんですよ。それなのに僕はすぐに覚えられるから困るんです。特に相手が重要人物だった場合、困ったことに・・・」
「ひょっとして、『字鳥花鳥』の猪上と『マスターオガタ』のオガタの見分けがつかないとか?」
と由利子が聞くと、美葉が横から言った。
「それは私も未だに単品で出るとよくわからんのやけど」
「この前お笑い番組に、ライズドアの元社長が出てたんで不思議に思って秘書に聞いたら、ブラヨネの大杉だって言われて笑われました」
「それはひどいわ」
「あはは、顔オンチ」
ギルフォードの告白を聞いて、二人は大笑いをした。ギルフォードもつられて笑っていたが、時計を見て驚いて言った。
「うわ、もうすぐ8時です。あの、僕、そろそろ帰りますね。きっと秘書のサヤさんが帰れなくてオニになって待ってます。こんどみんなでヤキトリ食べに行きましょう。オゴリますよ」
そういうと、立ち上がった。二人は玄関まで見送りに行った。美月もついて来てお座りをしている。帰りがけ、ギルフォードは由利子に言った。
「ユリコ、よかったら今度の土曜に僕の研究室に見学に来てください。これ、名刺です。電話してください。待ってます。じゃ、ネ、みなさん!」
ギルフォードはばたばた走りながら帰っていった。大男が去ると、いきなり寂しくなったような気がした。美月もつまらなそうにして寝そべっている。
「あ、ごはん作らなきゃ。由利ちゃん一緒に食べて帰ってね。二人の方が楽しいから」
「ありがとう。美葉の料理は美味しいから嬉しいなあ」
「んなこと言っても、あり合わせのものしかないけんね」
そう言いながら、美葉は嬉しそうにキッチンに向かった。

「あったあった、あははは・・・、美葉、ちょっと来て!」
美葉が夕食の用意をしている間、由利子は彼女のパソコンを借りてネットを見ていたが、いきなり笑い転げながら美葉を呼んだ。何かと思って一緒にパソコンを覗いた美葉も吹き出してしまった。
 由利子はギルフォードの言っていた大学のサイトで、彼のページを見つけたのだ。そこには、さっきまでそこに座って犬と遊んでいた、バサ髪を無造作に束ね、よれよれのジーパンにハーレーシャツ、袖なしのレザージャケットにドクターマーチンの土方靴(脱ぎ履きで玄関先で手間取っていた)の男が、髪を梳いてきっちりと後ろに束ね、細い銀縁の眼鏡をして、しかも黒い洒落たスーツを着て取り澄まし顔で載っていた。

 

 シティホテルの小洒落たバーのカウンターの一角で、仲良くカクテルを飲んでいる男女がいた。女の方は男よりかなり年上で、下世話な表現をすると、何処かの奥様が若いツバメを連れているといった訳ありな風情だった。男の方はこういう場所に慣れないのか、すこしオドオドしている。
「私ね、今日は誰かと居たい気分だったの」
女が言った。
「ねえ、今夜ここに泊まらない?」
「ええ? いいとですか? でも・・・、ダンナさん居るんでしょ?」
「夫のことは言わないでちょうだい。あんな人、もうどうでもいいの」
「でも・・・」
「それにあなた、もうお酒を飲んじゃったからしばらくは車に乗れないわよ。ヒッチハイクのお礼にホテル代は出してあげる」
「だって、悪いですよ。ここだってあなたが・・・」
「固いこと言わないの! もし、私を放って帰ったりしたら、飲酒運転を警察に知らせちゃうから」
「あはは、怖いなあ。わかりました、今日はとことんお付き合いしましょう」
酒の勢いもあり、男の方もまんざらではないようだ。
「名前、聞いてなかったわね」
「僕は森田健二といいます」
「私は・・・、そうね、美夜子・・・美夜って呼んで。美しい夜と書くの」
「美夜さん・・・ですか? なんかテレるなあ・・・」
「うふふ・・・。じゃ、そろそろ行きましょうか」
そういうと、美夜子はするりとカウンターの椅子から降りて健二の手を取った。彼女はさっさと清算を済ませると、健二と腕を組み、寄り添うようにしてバーから出て行った。

|

5.出現 (3)誘う女

20XX年6月7日(金)

 まだ暗い明け方、女はすでにシャワーを浴び身だしなみを整えていた。男の方は、死んだようにぐっすりと眠っていた。女は寝ている男に近づき、ベッドの脇に座ると愛おしそうに彼の頬を撫でた。
「うーーーん、美夜さん、ごめん、疲れちゃった。もう少し寝かせてください・・・」
 森田健二はそういうと寝返りをうって布団に潜り込むと、すぐにまた深い眠りに入った。美夜子は、布団から少し覗いた健二の横顔を見つめながら、妖しい微笑を浮かべてささやいた。
「健二君、知ってる? ウイルスってね、生物の細胞から生まれるの。私の身体に中にはね、まあちゃんの細胞から生まれたウイルスが育ってるんだって。まあちゃんは死んじゃったけど、まあちゃんのウイルスは生きているの。生きていて新しい身体をさがしているの。だから、まあちゃんのウイルスをあなたにもあげたの」
 そう言うと、彼女はクスクスと笑った。
「だから、あなたはもう私の子どもね」
 美夜子こと美千代は、健二の頭を撫でながら、クスクスと笑い続けたが、その頬には涙が伝っていた。健二は何も知らずにただ眠っている。
「愛しい子。でも、私はもう行かなくちゃ」
 美夜子は、健二の額に軽くキスをすると、ベッドから立ち上がった。
「約束どおり、ホテル代と、あと、すこしお小遣いを置いていくわね」
 彼女はベッドサイドの机に座ると、メモに「ありがとう。美夜子」と走り書きをした。そして財布から一万円札を無造作に数枚取り出すと、メモの横に置いた。
「お金なんて、私にはもうどうでもいいの。夫と同じようにね」
 そういうとまたクスクス笑った。そしてため息。美夜子は立ち上がると、バッグを持ってドアに向かった。その後健二の方を一瞥すると、そっとドアを開けて部屋を後にした。何も知らない健二は、幸せそうにひたすら眠り続けていた。

 ウイルスは、他の生物の細胞で増殖する。遺伝子とそれを包むタンパク質の殻しか持たないウイルスは、自力で増えることができないため、他の生物の細胞を工場代わりに使って自分の設計図(遺伝子)を複製していくのである。すなわち、そのウイルス工場と化した細胞で出来たものは、宿主の細胞とはまったく別物の、遺伝子と外殻だけの不完全な生命体なのだ。それゆえにウイルスを生命体として扱わない学者もいるのである。
 ウイルスに寄生された細胞は、ひたすらウイルス粒子を増産し続ける。そしてウイルスが細胞いっぱいになると、細胞膜を破ってウイルス粒子が放出される。そのウイルス粒子の一つ一つがまた他の細胞に取り憑き、自身のコピーを増やし続けていくのだ。
 ウイルスの中で息子の細胞が生きているように錯誤させるようなことを、一体誰が美千代に吹き込んだのだろうか。そして、今は美夜子と名乗る美千代はそれを信じ込んでいた。もともと自己中心的な性格だった上に科学的知識も乏しく、騙されやすい女性だったが、普通の精神状態ではおそらくこんなことを信じることは無かっただろう。しかし、子どもを失って心が壊れかかった彼女を、マインドコントロールすることが容易かったのは想像に難くない。さらに、美千代は自分のしていることが何を意味するのか、ほとんど理解していなかった。

 そんなことなど夢にも思わない健二が、呑気に目を覚ましたのは日も高く昇ってからだった。起きてから、すぐに隣を見たが、美夜子の姿は無かった。驚いて部屋中を探してみたが、姿はない。さて、あれは夢だったのかと思ったが、サイドディスクにお金が置いてあることに気がついた。数えてみると10万円ほどある。健二は少し首をかしげたが、嬉しそうにその臨時収入を手に取った。
「こんなことって、本当にあるんだ」
 よく、スパムメールにある、年増の有閑マダムを相手してお金をもらうという話だが、もちろん健二はそれを馬鹿馬鹿しいトラップだと一笑に付していた。しかし、自分の体験はまさにそれじゃないか?
 だが、それがやはりトラップであり、美味い話には多大なリスクが伴うこと、結果、その代償にお金より大切なものを払う破目に陥ることを、健二は後に身をもって知ることとなる。

 

 西原祐一は今、クラスで半ば孤立状態にあった。彼は昨日からまた登校を始めたが、一連のことはもうウワサとして広まっており、皆腫れ物を扱うように祐一に接していた。祐一は休んでいたが、祐一が警察から解放された翌日、つまり、秋山雅之が死んだ翌日である水曜日に全校集会があり、雅之の事故死についての話があったらしい。それは、あくまで事故についてであって、雅之のホームレス殺しについては一切触れられなかった。祐一も公には病気で休んでいたことになっていた。
 秋山雅之の机の上には花が飾ってあり、彼が死んだことを否応なく思い起こさせる。
(まだ、たった1週間前の出来事なんだ・・・)
 自分達の運命を変えることとなったあの事件。雅之が人の命を奪い、その後自らも無残な死を迎えることとなった忌まわしい事件。祐一は、この事件になにか釈然としないものを感じていた。昼休み、教室で、校庭で、みんながいつものように休み時間を楽しんでいる。しかし、そのいつもの風景が祐一に違和感を感じさせていた。今まで見ていた世界と違った、どこか離人的な感覚。それは、祐一の心がまだほとんど癒えていないことを示していた。
 祐一は、今日学校に行く前に近所にある雅之の祖母の家と、少し遠回りして雅之の家の様子を見てきたが、両方とも、「立入禁止」の黄色いテープが張り巡らされており、警官が数人で見張っていた。周囲には消毒液の臭いが漂っている。しかし、それは、祖母の家の方が強烈だった。雅之と一緒にいた田村勝太は、友人の死を目の当たりにしたショックのケアという名目で、入院させられている。噂によれば、雅之の両親や雅之の祖母の第一発見者達も、病院に居るという。
(やはり、雅之は危険な病気に罹っていたんだ)
と、祐一は確信した。これは、なにか大変な事の起きる前触れではないだろうか。祐一は何か知っている風なギルフォードに、問い詰めてみるべきではないかと思った。しかし、彼にはなにか危険そうな雰囲気があるように思われ、それが祐一に迷いを生じさせていた。それで、パスケースに入れているギルフォードの名刺を半分出してぼんやり見つめていると、そこに佐々木良夫がやってきた。
「西原君、考え事?」
 良夫の声に、祐一は名刺を素早くパスケースに納め、ポケットに入れた。良夫は、一人ぽつんと机に座っている祐一を心配してやって来たのだ。成績優秀で明るい性格の祐一は、ついこの前まで、いつもクラスの中心にいて友人達と楽しそうに過ごしていた。しかし、雅之の件と祐一が警察に一泊した事などが誰からともなく広まってしまい、その上彼自身、強いショックから立ち直れずにいたため、近寄りがたい雰囲気を彼にまとわりつかせていた。良夫の方は、もともと内向的な性格であまり多くの友人との交流もなく、いつも祐一の傍に影の様に貼り付いていたので今までとさして変らない状況にいた。むしろ、祐一を独占したような気持ちがどことなくあるような感じだった。
「あ? ああ、ちょっとね」
 祐一はそう答えると、左手で頬杖をついて再び考え事に没頭した。良夫は近くにある自分の席から椅子を引っ張ってくると、祐一の傍にちょこんと座って本を読み始めた。

 さて、ここにも腫れ物を触るように扱われている者がいた。由利子である。由利子のほかにも退職者はいたが、皆自主退職で肩を叩かれたのは由利子だけだったのが、余計に面白くない。今日は黒岩も弁当を食べに来なかった。やはり、気まずいのだろう。由利子は手製の特製サンドウィッチをぱくつきながら、半ばやけっぱちで堂々とハローワークの求人サイト内を検索していた。
(ひでぇ、ロクなのがないじゃないよ)
 由利子は口を尖らせた。それでなくても不況が続いているのだ。由利子の歳になると、それなりの資格がないと就職には不利になってくる。ましてや女性の場合となると、さらに厳しくなってしまう。
「やめたやめた!」
 由利子は独り言を言うと、机に突っ伏してつぶやいた。
「やっぱ、『永久就職』しとくべきだったかしら・・・」
 そして、昼寝に突入した。

20XX年6月8日(土) 

 見覚えのある家の階段の途中で、少年が倒れていた。
(どうしたのかしら?)
 美千代は心配になって駆け寄ると、その少年は血を吐いて倒れていた。彼は涙を流しながらうわごとのようにつぶやいていた。「母さん、どうして早く帰ってきてくれんと・・・?」
「まあちゃん?」
 美千代は凍りつくように立ち止まった。雅之は人の気配を察したのか、薄目をあけて何か言いたげに美千代を見、左手をまっすぐ彼女の方に伸ばした。気がつくと、周りはあの列車事故現場に変っている。カンカンと警鐘が鳴り響き、救急車やパトカーのランプがせわしく点滅をしていた。雅之は血だらけで転がっていたが、半身のほぼ潰れた状態でじわじわと美千代ににじり寄りながら言った。
「助けて、母さん、苦しいよ、助けて・・・」

 美千代は飛び起きた。体中汗だくであった。
「夢・・・?」
 美千代は周囲を見回した。そこは今日の宿に決めた市内の風俗営業のホテル、いわゆるラブホテルで、傍らには昨夜とは違う若い男が眠っていた。美千代のような女がそのようなホテルを選んだのは、彼女の捜索がすでに始まっており、正規のホテルに泊まるにはリスクが大きくなってきたからである。しかし、この手のホテルにありがちな過剰な装飾が、美千代には却って空虚さを感じさせた。
「まあちゃん、ちがうの。私はあの時、あなたが思ってたようなことをしてたんじゃないのよ」
 美千代はそうつぶやき、両手で顔を覆うと声を殺して泣き始めた。

 実は、美千代は友人から無理矢理誘われて行った、ある新興宗教の集会で、教祖の魅力に取り憑かれてしまったのだ。それから集会に足しげく通うようになり、教主の話に酔いしれていた。あの日も、まさか息子が高熱を出すとは思いもよらず、お茶会を兼ねた勉強会に出席していたのだ。
 たしかに、夫を裏切るような行為をしてしまった事はある。「入心の儀式」で、信者の男と交合したのである。まだ若い男だったが、むせ返るほど立込めるお香の中、夫とのそれとは比べられないほどの恍惚感と一体感を味わった。そして、美千代は夫や息子に秘密にしながら、どんどんその宗教に没頭していったのである。

 6月5日の朝、美千代は感染症対策センターで、診察のために呼ばれた。夫から離されて不安な思いで部屋を出たが、そのまま医者に会うこともなく看護師に連れられ、裏口に待機していた車で外に連れ出されたのである。美千代を乗せるとすぐに車は発進した。美千代を連れ出した看護師は、車の姿が遠くに消えたのを見届けると、何食わぬ顔で病院の中に戻っていった。
 美千代が車に乗ると、後部席に座った教主がにこやかに笑って迎えてくれた。
「ああ、あなたが脱出できて良かった。もう二度と外に出られないところだったんですよ」
「教主さま・・・!?」
 美千代が驚いて言うと、教主は微笑みながら穏やかな声で言った。
「『教主』と呼ぶのはお控えください。父(教祖)の教えを踏襲する者として、すべての信者の兄として、『長兄』とお呼びください」
「そ、そうでしたわね」
 美千代はこんなに間近で教主を見たのは初めてで、かなり動揺していたが、それ以上に、いつもは都心に近い総本山で暮らしているはずの教主が、こんなところにいることが信じられないでいた。すると教主はそれを見越したように言った。
「あなたがあの病院に入れられたと聞いて、驚いて脱出の手配をいたしました。あそこは国の機関ですが、以前から米軍の息がかかっているというウワサがあるのです」
「ええっ? そんなに恐ろしいところだったんですか?」
「そうです。外国人の大きな男がいたでしょう? 彼は、以前米軍の細菌研究所に居たのです。恐ろしい経歴を持つ男です」
「そんなところから、よく私を連れ出すことが出来ましたのね・・・。それも長兄さま自らが指揮されて・・・!!」
 教主の言葉を微塵も疑うことなく、美千代は感動して言った。
「私たちの仲間は、至る所にいますから。財界や政界、警察にすら。ですから、そう難しいことではありません」
 教主は、いとも簡単に言ってのけた。しかし、その後彼の顔は急に辛そうな表情になった。
「美千代さん、本当に申し訳ないと思っています」
 美千代は教主が何を言っているのかわからずきょとんとして彼を見つめた。
「あなたの息子さんは、あなたが我が教団の集会に出ている間に、具合が悪くなったそうですね。あなたの友人である信者から聞いてびっくりいたしました。衆生を救うべきが逆に苦しめてしまいました。あなたが帰ってくるまで息子さんがどんなに心細かったかと思うと心が痛みます。ましてや、その数日後事故で亡くなる運命であったということを考えると、よけいに不憫でなりません」
 そういうと、教主は涙を浮かべながら美千代の手を握った。
「息子さんは本当にお気の毒でした。彼の前途は洋々たるものであるはずでした。志半ばで倒れるとは、どんなにか無念であったことでしょう。どんなに恐ろしく、そして、痛かったことでしょう」
「長兄さま・・・」
 教主のいたわりの言葉に、美千代の麻痺していた心が氷解し、両目から涙があふれた。嗚咽が口から漏れ、美千代は両手で顔を覆って号泣した。
「可哀想に、可哀想に・・・。あなたも辛かったでしょう。泣きなさい。思い切り泣きなさい。がまんしなくていいのですよ」
 教主は美千代の背中をさすりながら優しく言った。しばらくして、美千代はようやく落ち着きを取り戻した。
「すみません、私ったら子どもみたいに・・・」
 美千代が手で涙をぬぐおうとすると、教主がハンカチを差し出した。
「取り乱されるのは当然のことですよ。息子さんを失われたのですから・・・。どうか、お使いください」
「す、すみません」
 美千代は恐縮しながらもそれを受け取った。
「それはあなたに差し上げましょう。気にせずにお使いください」
「ありがとうございます」
 その上品な白い絹のハンカチはうっとりするようなよい香りがした。美千代は、それで涙をぬぐうと、ふうっとため息をついた。美千代が落ち着いたのを見計らって、教主は向かいの席に座っている女性を紹介した。
「彼女は遙音涼子。我が教団が誇る医師にして天才ウイルス学者です」
 涼子は美千代に軽くお辞儀をした。彼女は美千代よりだいぶ年上だが、知的な美しさを感じさせる女性だった。美千代も軽く礼を返した。
「遙音先生は、あなたが息子さんを連れて行った病院に依頼され、彼の血液を調べたのです。すると・・・。いいですか? 心してお聞き下さい。あなたの息子さんは・・・」
 美千代は息を呑んで聞いていた。
「新種のウイルスに感染していたのです。それは、人類を振り分けるウイルスです。このウイルスは短期間で人を死に至らしめます。しかし、選ばれた人は生き残り、その後、どのような病気にも感染しなくなります。つまり、強毒性インフルエンザのような疫病のパンデミックがおこっても必ず生き残るのです。まさに『サバイバー』です。残念ながら、息子さんは選ばれし者かどうかわかる前に事故で亡くなられましたが、彼から生まれたウイルスは生きています」
「生きている?」
 思いもしなかった教主の言葉に美千代は鸚鵡返しに尋ねた。
「そうです、生きているのです。ウイルスは、人の細胞から増えるのです。雅之君の細胞で育ったウイルスは生きています。さあ、美千代さん、顔を上げて私の顔をしっかりと見てください」
 教主の独特な声色に誘導され、美千代はゆっくりと彼の方を見た。その瞬間、彼の目に惹き付けられ身動きできなくなってしまった。
「息子さんのウイルスは、今はあなたの身体の中で育っています」
 教主は静かな声でゆっくりと言った。
「まあちゃんのウイルスが私の中にいる・・・」
「そうです。あなたの中に生きているのです。あなたの使命は、雅之君から生まれたウイルスを多くの人に広めることです」
「私の使命・・・。まあちゃんのウイルスを広める・・・」
「そうです。辛いですが崇高な使命です。出来ますか?」
「はい」
「それ故に夫を裏切ることになりますが、出来ますか?」
「はい」
「もっとも効果的なのは、あなたの血液のついた針を相手に刺すこと。これは、確実ですが怪しまれます。それから相手に血液や体液を浴びせること。しかし、これは論外ですね。残るは、最も古典的な方法です。HIV・・・エイズを短期間で世界中に広めた方法、つまり・・・、わかりますね?」
「はい」
「出来ますか?」
「・・・はい」
「よろしい」
 教主はそういうと満足げに微笑んだ。しかし、美千代に恐ろしい行為をさせようとしているのに、その笑みは無邪気で邪悪さは微塵もない。美千代は教主の一言とともに体の自由を取り戻したが、自分が一時催眠状態だったことには全く気がついていない。
「でも・・・」と、美千代は気がかりを言った。「まあちゃんのお葬式は・・・」
「おそらく、このままでは雅之君のご遺体は返ってこないでしょう」
 教主は言った。
「雅之君だけではなく、お義母さままで亡くなられ、あなたとご主人は病院から生きて出ることが出来ない。そのような状態で、雅之君のご遺体がどのような扱われ方をするか、想像に難くないでしょう?」
「そんな・・・」
 美千代は蒼白になって言った。
「それじゃあ、まあちゃんはお葬式すらしてもらえないの?」
「おそらく、細胞の一片まで研究に使われ、その挙句、危険な医療廃棄物として捨てられる可能性があります」
 見る見る顔が歪んでまた涙があふれそうになる。そんな美千代に教主は優しくそして力強く言った。
「ご安心なさい。美千代さん、雅之君のご遺体は、我が教団の力で必ず取り戻してご覧にいれます。その間、あなたはあなたのお勤めをお果たしください。雅之君のご遺体が戻ってきましたら、お迎えに上がります。教団を挙げて御葬儀を執り行いましょう」
「長兄さま・・・。ありがとうございます。なんとお礼を言って良いのか言葉が見つかりません・・・」
 美千代は、今度は感動と感謝の涙を浮かべて言った。じわじわと蜘蛛の糸に絡み取られているのも気づかずに・・・。
「今、安全なところまであなたをお連れしています。我々があなたをお助け出来るのは、取りあえずここまでです。その後は私たちから連絡があるまで、あなたの判断で行動してください。・・・おっと、その前に身だしなみを整えないといけませんね」
 美千代は前日家を出たままの、着の身着のままのすがたであった。
「では、まず教団の支部に向かいましょう。」
 そういうと、教主は運転手に指示した。車は美千代を乗せたまま何処かに走り去った・・・。

 
 ―――しばらく泣くと、美千代の気持ちはかなり落ち着いてきた。しかし冷静になったため、ふと横に寝ている若者を見て、自分が何故このような行為をしているのかという疑問が一瞬頭を過ぎった。実際、面白いほど男達は『美夜子』の誘いに乗ってきた。それが地獄への誘いとも知らずに。しかし、美千代にはそれに対しての罪悪感はまったく感じていなかった。さもあらん、美千代は息子のため、そして教団のため、崇高な使命を果たしているのだから。しかし、そのはずなのに、心に迫ってくる、この空しさはなんだろう・・・? だが、それは自分に対する全否定でもあった。美千代はその疑問を押さえ込んだ。その代わり、もう一つの思い・・・怨念とも言うべき思いが頭をもたげてきた。わたしのまあちゃんは死んだのに、何故西原祐一は生きているのだろう・・・。あいつさえ、いらぬことをしなければ・・・。それは明らかな逆恨みであった。どう考えても、雅之の犯した犯罪を全身で受け止めてしまった祐一は、被害者である。しかし、水に落とした一滴の墨汁が水を黒く濁らすように、その考えは美千代の心にどす黒く広がっていった。

|

5.出現 (4)神は疫病に関わらず

 某大学で、ある学生がやたらと自慢話をしていた。暇な主婦と寝て小遣いをもらったというのである。
「そのオバサンがさあ、オレを気に入って離してくれないのよ。またいい女であ~んなことやこ~んなこともしてくれて、おまけにお金をポンと10万置いていってくれてさぁ~」
その学生は学内でもかなりモテる男だったが、当人の軽さもあり、友人の男子学生達は話半分ウザさ全開で聞き流していた。しかし、収まらないのは彼と交流のある女性達であった。
「健二、ホントなの!?」
彼女らは彼と会うごとに各々問い詰めたが、結局皆うまい具合にかわされてしまった。その後はいつものパターンで朝を迎えることとなった。
 そんな中、とある巨大掲示板のウワサ話板に、あるスレッドが立った。友だちがオバサマに奉仕して、お金をもらったと自慢してるが本当だろうか、という内容だった。それは、健一の友人がやっかみ半分に立てたスレッドかもしれない。そのスレッドにはすぐに住人が食いついた。ほとんどが冷やかしだったが、書き込みの中には鋭い指摘をしたものもあった。しかし、最初は盛り上がったものの、そのスレッドは、すぐに飽きられいつの間にか板の上位から姿を消した。そして、速やかに膨大な過去ログの中に埋もれてしまったのである。

 さて、せっかくだからここで、性感染症について触れてみよう。

 微生物には、生物の営みを利用しているものが多い。日常生活において、食餌において、あるいは生殖において。特に完全な寄生生物であるウイルスは、取り付くべき生物が居なければ存在することすら出来ない。その上、レセプターの形状により、取り付くことが出来る生物(ホスト)に制限がある。また、増殖をホストに依存して生きるウイルスにとって、取り付いた個体如何によっても運命を左右される。かつて、人間の生殖行動と移動能力によって勢力を拡大した微生物がいる。梅毒トレポネ-マ(スピロヘータ・パリダ)だ。元は主に新大陸に存在する細菌(それまで旧大陸で発生がまったくなかった訳ではないらしい)だったが、侵略者が先住民に痘瘡(天然痘)ウイルスをばら撒いた代わりの土産に梅毒の病原体のお持ち帰りをした。人の飽くなき生殖行為により旧大陸でもそれは生息範囲をどんどん広げていった。それはシルクロードを渡って日本にも到着した。もちろん梅毒は今では手遅れにならない限り、薬で完治する感染症だ。しかし、日本でも性感染症に対する知識の低下により、水面下で感染者が増えているという。
 さらに80年代から新たなる性感染症が人類の間で猛威を振るい始めた。後天性免疫不全症、すなわちエイズ(HIV)である。1981年に最初の患者が確認され、1983年には、フランスのパスツール研究所でウイルスが同定された。しかし、HIVは、人類の欲望と移動能力を利用して瞬く間に地球上に広がっていった。

 ギルフォードは、自分が担当している公衆衛生学の講義においての最初の授業で、或いは依頼された講演をやる時、掴みとして話すことがある。それはこういうものであった。
「さて、講義に入る前に、少しお話をしましょう。皆さん、もちろん公衆衛生がどういうものかを知って、僕の講義を受けようと思ったんですよね?」
ギルフォードは壇上から学生や聴講生達を見回しながら言う。多くは、うんと頷いたが中には微妙な顔ををしている者たちも居る。
「あの、ひょっとして、僕目当ての人っておられます?」
「は~い」
広い講義室のあちこちから手が上がった。
「どうして? 僕がカッコイイから?」
会場からクスクス笑い声が漏れる。ひとりの女子学生が言った。
「先生の授業が面白いって聞いたからで~す」
「な~んだ、僕がカッコイイからじゃないの」
ギルフォードは落胆して見せたが、気を取り直したように言った。
「すみません、ガッカリしてはいけませんね。それは教える側にとって、サイコーの褒め言葉です」
その後、彼は例の最強の笑顔で講義室を見回し、続けた。
「では、まず公衆衛生について説明しましょう。ご存知の方は復習のつもりで聞いてください。『公衆衛生』って、なんだかわかりにくい言葉ですよね。これは、公衆トイレを清潔にするということではありません。いや、実はそういことも含まれるのですけれども。英語ではPublic Health(と言いながら黒板に書く)、すなわち、公共的に健康を守っていくことです。普通皆さんが受ける医療は個人の健康を維持するためのものですが、公衆衛生は社会全般の健康を維持していこうというものです。公衆衛生のためには、下水道や食品衛生管理のような公的機関の仕事だけでなく、みなさん個人で実行すべきこともたくさんあります。たとえば、外から帰ったら手を洗う、うがいをするということや、セキやクシャミをする時、口をハンカチやそれがないときは袖等で覆うとこも立派な公衆衛生への貢献となるわけです。
 ところでみなさん、女性が多いので質問しにくいのですが、SEXは好きですか?」
ここで、講義室内が一瞬静まり返り、その後ざわつき始める。この外国人の教授は一体なにを話し始めるのか?
「ああ、引かないでクダサイ。僕は壇上でセクハラしているのではありません。公衆衛生では大事なことなのです。まあ、保健体育の授業を受けていると思って聞いてください。HIV、エイズウイルスのことですね、が、これだけ世界中に広がってしまったのは、SEXを介して広がる感染症だったからです。かつて、同じように広がったものに梅毒があります。エイズは一時期ゲイだけが感染する病気だと思われていました。それは、ゲイの間では不特定多数とのSEXをすることが多かったからです。・・・誰です? え?ゲイの病気じゃなかったの?って顔をしてる人は?」
ここで、いつも数箇所から笑いが漏れる。
「しかし、今では男女間のSEXが世界的なエイズ感染の主な原因となっています。日本だって既に安全地帯ではありません。薬害エイズなんて、ゴンゴドウダンな事件も起こってますが、不用意なSEXによる感染がじわじわと増えています。ひょっとすると、ある時を境に、それは爆発的に増えるかもしれません。それで、僕からもお願いします。SEXは特定のパートナーと、そして、できるだけコンドームを・・・、だからみなさん、引かないでくださいってば」と、ギルフォードは顔を赤らめながら言う。「僕だって、ホントはこんな話するの、恥ずかしいんだから」
ここで、講義室全体に笑いが広がる。数箇所から女子学生の「かわい~」という声がする。
「特に男の方にお願いします。女性からはなかなかお願いし辛いことですから。昔、こんなコピーがありましたね。『愛しているなら0.1ミリ離れて』・・・あれ、何ミリだったかな、まあいいや、これはなかなか上手いコピーだと思います。それからあまり野暮なことも言いたくないんですが、もし、恋人以外とする時は、特に注意してコンドームは必ず使用してください。いいですね。
 何故、僕がこんな話をするかというと、以前、僕の親友がこの病気で亡くなったからです。彼女はノーマルでしたが、バイセクシャルのボーイフレンドから感染しました。僕は日に日に衰えていく彼女に、結局何も出来ませんでした。僕はこの病気の恐ろしさを目の当たりにしたのです」
ギルフォードの意外な話に講義室は、水を打ったように静かになったが、彼は話を続けた。
「それから、性行為とともに重要な感染源に麻薬常用者の注射針の使い回しがあります。まさか、ここにいる方でそのようなフラチモノはいないと思いますが、念のため注意しておきます。感染の広がりを元から封じることは、ます感染をしないことです。これはこれ以上HIVが地球上に広がらないようにするために必要なことなのです。自分は大丈夫だなんて、絶対に思わないでください。正しい知識を持つことは、エイズに限らず感染を防ぐのに有効です。そして、元々エイズは感染しにくい病気です」
ここで、ギルフォードは一息いれる。
「エマージングウイルス、すなわち新興感染症といいますが、多くは新しく出てきたものではありません。それらは昔からあったものが、ヒトの進出により人間界に出現してしまったのです。しかし、もともと存在していた微生物が変異してヒトに激しい病原性を持つようになったものもあります。エイズもそのひとつです。
 エイズに関しては、もともとサル由来のウイルスだったのものが、ヒトに病原性を持つものに、比較的最近変異したものです。しかし、普通ならば、それはアフリカの風土病として、特に脚光も浴びずに細々と人から人へ渡り歩きながら、静かに暮らしていくはずでした。それが、現代の交通機関の発達とアフリカの急速な近代化のために、アフリカから飛び出し、ものすごい勢いで世界中に広がりました。梅毒の時とは比べものにならないスピードです。それは、エイズの潜伏期間がとても長いので、感染に気づくまでに病気を広げてしまうことも関係しています。
 アメリカで1981年に初めてエイズ患者が見つかってから、20世紀末までのわずか20年ほどの間に、世界中で少なくとも3400万人が感染し、1200万人が亡くなっています。最初にエイズウイルスが確認されたのが、1983年、その後、医療関係者たちはこの厄介な感染症を制圧しようと必死で戦いましたが、HIVは非常に変異しやすいRNAウイルス、しかも、レトロウイルスのためその戦いは未だに続いています。ただし、その努力の結果、感染者の存命期間をかなり延ばすことが出来るようになっています。しかし、完治することはありませんから、一生薬を飲んでいかねばなりません。貧しい国では治療薬の入手が難しく、未だ、感染すれば死を免れない恐ろしい病気です」
ここで、またギルフォードは講義室を見回した。
「気をつけて欲しいのは、感染症は生物が生きる残るためのせめぎ合い、つまり、弱肉強食の一環であって、決して神様の鉄槌ではないということです。善人も悪人も、道徳者であれ不道徳者であれ、病原体にさらされた場合感染するリスクは平等です。善人が死に悪人が生き残ることも、その逆もあります。
 しかし、病気が流行ると、必ず天の怒りだとか勝手に解釈する人たちが出てきます。エイズがそうでした。アメリカでは、最初、同性愛患者に多く見られたため、それを神罰とみなした当時の大統領・・・ぶっちゃけていうとロナルド・レーガンですが・・・の判断で国の対策が送れ、エイズ患者を大量に発生させてしまいました。皆さんには信じられないことでしょうけれども、これは事実です。彼はキリスト教原理主義者、いわゆるキリスト教ファンダメンダリストの支持によって大統領の座に就き、彼自身も熱心な反同性愛主義者でした。彼にとって、同性愛という罪深い行為が神によって罰せられることは当然の摂理だったのです。日本のように昔から同性愛に寛容だった国では考えられないことでしょう。さらに悪いことに、ファンダメンダリストであるレーガンの感染症についての知識は、非常にお粗末なもので・・・言ってしまえば完全に間違っていました。エイズを麻疹(ましん)つまり、はしかのようなもの・・・かかっても自然治癒する何の心配もないものだと思ってたらしいのです。もちろん、それも間違いで麻疹はワクチンが開発されるまでは、特に子どもにとって怖いウイルスでした。今でも発展途上国ではワクチンが行き渡らずに、高い死亡率を誇っている病気です。そういえば、近年ある大学で流行って問題になったことがありますね。病気制圧の為に休校にしたのに、学生が自宅待機せず出歩いて感染を広げたというお粗末な顛末もありました。これでは新型インフルエンザが発生した時のことが思いやられますね。
 麻疹を例にあげたように、アフリカ等の医療や公衆衛生の立ち遅れた国、いや、立ち遅れざるを得ない状況の国では、耐性菌の問題を含め、未だに感染症が深刻な問題になっています。これも重要なことですので、日を改めてまた詳しくお話しましょう。
 さて、レーガンはエイズに対しての強固な対策を立てるべき立場にありました。それができるのは彼だけでした。しかし、彼は、彼の間違った認識からそれを放置しました。それが今の結果です。もちろんエイズの流行はアメリカだけの責任ではありませんが、このことから、正しい知識を持つことが如何に大事かということがわかりましたね? 僕の講義では、これからも正しい知識、いわゆる『知識のワクチン』を伝授していきます。エイズだけでなく(笑)、インフルエンザなどが流行った時に、出来るだけ感染しないように役立つ知識です」
講義室のあちこちで拍手が起こる。ギルフォードはウインクをしながら続けた。
「さて、僕も今はフリーです。一名様のみ受付ますので、よろしく。では、今から講義に入ります」

 余談だが、ギルフォードの恋人募集には今のところ誰の応募もないようだ。常に横に美人秘書が控えているせいか、彼の性癖が有名だからか、それとも冗談を見抜かれているのかは定かではない。

 さて、本筋に戻ろう。

「長兄さまぁ~、こんなにおおきなジャガイモが採れましたよ」
「とれました~」
子ども達が嬉しそうに立派なジャガイモを沢山入れたかごを運んできた。ここは教団の所有する土地の中にある菜園である。菜園と呼ぶにはあまりにも広大な農地で、無農薬なのが自慢の作物が沢山作られていた。教団の収入の一つである。教主は信者達と共に、畑仕事に汗を流していた。皆と同じように教団のマークの入った作業着を着ている。教主といえども例外ではない。
「おやおや、大きくて美味しそうなおいもですね」
教主は、子ども達の目の高さにかがみ、にこにこと笑いながら言った。
「あなた方はお母さまのお手伝いに来たのですか?」 
「はい!」
子ども達は声を揃えて返事をした。
「みなさん良い子で、私はとてもうれしく思いますよ」
というと、教主はそれぞれの子ども達の頭をなでてやった。
「うわぁ!」
子ども達は顔を見合わせ、その後嬉しそうに笑った。子どもの一人が尋ねた。
「長兄さまは、いつまでF支部におられるのですか?」
「そうですね、今、こちらで大事な御用がありますから、しばらくは居ますよ」
と教主が答えると、年長の子どもが顔を輝かせて言った。
「ではしばらくの間、僕たちは長兄さまと一緒に畑でご奉仕出来るんですね!」
「わ~い」
と、他の子ども達も大はしゃぎだ。子ども達の反応に、教主は満足げに笑って言った。
「ではご褒美に、たくさん美味しい野菜を持って帰ってくださいね」
「はい!」
「はぁい!」
「ありがとうございまぁす!」
子ども達は、口々に教主にお礼を言うと、ジャガイモの入ったかごを所定の場所に持って行き、その後母親達の元に走って行った。教主はそれを見ながら笑顔で立ち上がり、背伸びをした。良い天気である。昼になる頃には暑いくらいになるだろう。昼前に作業を終え、残りは夕方からだな、信者達にもそう伝えておこう・・・。そう思って菜園を見回すと、休憩所・・・と言ってもかなり大きなものであるが・・・の前庭に設置してある縁台に座っている女性の姿を見つけた。マスクと花粉対策用のサングラスをつけた女、遥音涼子である。教主はにこやかに笑いながら涼子に近づいていった。涼子もそれに気がついて立ち上がった。それを見て教主は手で座るよう指示しながら、大きめの声で言った。
「そのまま座っていてください。そこでお話しましょう」
教主はゆっくりと涼子に向かって歩き、前庭まで来ると言った。
「やあ、ドクター、どうしました?」
「ご奉仕を中断させて申し訳ありません」
涼子は教主に頭を下げながら言った。
「いえいえ、そろそろ休憩をしようと思ってたところです。お気になさらずに」
そう言うと、涼子の傍に腰を下ろしながら尋ねた。
「まだ、そういう格好をしなければ、病原体が怖くて外出できないのですか?」
「はい、ウイルス学者の癖に、ふがいない話ですが」
「それで、ご用件は?」
「はい、秋山美千代さんのことで・・・」
「ああ、あの愚かな母親か。今頃はせっせとウイルスの拡散に努めていることだろう」
教主は口調を変え、冷ややかに言った。
「そのことですが、あのウイルスはいったん野に放たれると、散発的に発症者を出しながら、蟲に隠れてじわじわと自然に広がって行きます。止める方法はワクチンしかありません。私には、あの可哀想な母親にわざわざあのようなことをさせて、感染者を増やす意味はないと思います。彼女は・・・、息子の遺体に取りすがって泣いていました。おそらく感染は確実でしょう。何故、残り少ない命をせめて病院で終わらせてあげるよう・・・・」
「残り少ないからこそ、彼女に自由を与えたのだよ」教主は涼子の言葉を遮って言った。「彼女は本来家庭に収まっているような器ではなかった。彼女に使命を与えたのは、自由にも目標が必要だったからだよ。まあ、たしかに悪戯心もあったがね」
「長兄さま?」
「私は、信者の息子が感染しているらしいという報告を聞いたとき、これを利用しない手はないと思った。そして思ったとおり、彼女は今、私の意向どおりに動いている」
「でも、あまりにも痛々しくて・・・」
「一人の女性から意図的に、どれだけの感染者を増やすことが出来るか、君は医者として知りたくないか?」
「それは、医学的見地とは違います。ただの興味でしかありません。あの731部隊と同じです」
「これはこれは! 何人もの信者を使って人体実験を繰り返した、君らしくない言い様だな」
教主のその言葉に涼子はギクリとし、うつむいてしまった。
「それは、信者の皆さんが承知の上の実験でした。それに、できるだけ動物で安全を確認した上で行ったのです」
「それでも、幾人かは死んでしまった。そうだろう?」
涼子はうつむいたまま頷いた。
「しかし、我々の目的はもっと崇高な・・・」
涼子は愕然としながらも言った。
「いや、あまり変らないな、多分ね」
教主は皮肉な笑みを浮かべて言った。
「さて、ここ40年で人口は一体どれくらい増えた?30億から70億、倍以上だ。何故人が増えたか? それは、人が死ななくなったからだ。かつて感染症は死因のトップだった。しかし、公衆衛生やワクチン・抗生剤の発達から、死因は癌や脳卒中、心臓麻痺などの、老衰によるものが上位を占めるようになった。
 環境破壊の原因は、人口の増加だ。今問題の地球温暖化はその結果にすぎない。我々の目的は、効率的な人類の間引き。エイズのように発症まで何年もかかるものではなく、インフルエンザのように一過性ではなく、永遠の人類の天敵として、『捕食者』として、アンドロメダウイルスのような強力な病原体をばら撒き、人類を減らし穢れた大地を浄化する。それこそが、我が神の思し召しだ。君もそれは理解しているはずだが」
「はい、もちろんです。でも・・・」
「では、要らぬ事に頭を悩ませずに研究室に戻り、新たなる展開に備えて研究を続けたまえ」
そういわれると言い返しようがなく、涼子は黙って頷いた。
「では、私もそろそろ畑に戻ってもう一仕事するとしようか」
教主は立ち上がると、再び背伸びをして涼子に背を向け去って行った。涼子はしばらく座って考えていた。前の教主、いえ、教祖さまの教えはすばらしかった。現教主の教えも確かにそれを踏襲しており、遜色ないものだ。しかし、何かが歪んでいるような気がする。教祖さまも人口増加に憂えておられた。しかし、教祖さまであれば、無理やり破滅を演出するなどという考えはなかっただろう。しかし、涼子には教主に逆らえない理由があった。涼子は半ば呆然としながら長い間縁台に座っていた。

    (教授の授業参考資料:ローリー・ギャレット「崩壊の予兆」下巻) 

|

5.出現 (5)スパム

 葛西は、大学の構内をきょろきょろしながら歩いていた。大学の中に入るなんて数年ぶりだが、学生の雰囲気はあまり変っていないなと思った。土曜日であるが、思いの外の学生がいる。歩いている学生の一人を捕まえてギルフォード研究室の場所を聞いた。彼はすぐに教えてくれた。どうやら学内でも名物研究室らしい。しかし広大な大学内で、一研究室を探すのは大変だ。まず、学部棟から探さねばならない。結局数人から道を尋ねることとなった。
 ようやくたどり着いて、研究室のドアをノックした。軽快な足音がしてドアが開き、綺麗なお姉さんが出迎えてくれた。秘書の鷹峰紗弥である。
「K署の葛西様ですね。どうぞお入り下さい。教授がお待ちかねです」
 女性は笑顔で言うと、葛西を案内した。研究生達が、葛西に気がついて軽く会釈したが、その後チラチラと葛西を見ながらなにかこそこそ話していた。
(なんだろう。刑事が珍しいのかな?)
 そう思いながらもさして不審にも思わずに、葛西は紗弥の後をついていった。教授室の前に来ると紗弥はドアをノックし開けると伝えた。
「葛西様がお見えです」
 そういうと、「どうぞ」と葛西を部屋に通した。ギルフォードはパソコンの前でなにやら首を傾げていたが、葛西の姿を見ると嬉しそうに立ち上がり、両手を広げて近づいてきた。すわ、またロシア式挨拶かと思って葛西は身構えた。その時、鋭い声で紗弥が言った。
「教授、学内です。ご自重なさいませ」
 ギルフォードはすごすごと両手を下げ、一瞬つまらなさそうな顔をしたが、すぐに立ち直ってにっこり笑いながら葛西に右手をさしのべた。
「いらっしゃい、カサイさん。K市からわざわざご足労申し訳ありませんでした」
「いえ、県警に寄ったついでですから」
 そう答えつつ、葛西も右手をさしのべ、再会の握手をした。
「追跡調査の結果ですが・・・」
 と葛西が続けて言った。
「はい、スズキさんから電話で概要は聞いてます。一人フシンな亡くなり方をされた方がおられるとか」
「そうです。詳しくは書類を見ながら・・・。あの、いい加減手を離してくださいませんか?」
 葛西はギルフォードがなかなか握手の手を離さないので困って言った。
「オー! スミマセン、つい・・・」
 そう言いながらギルフォードは手を離した。紗弥はやれやれという顔をしながら、お茶の用意をしに教授室を出ようとした。その際、一言釘を刺す。
「教授、わかってますわね」
「Yes! Mam」
 教授が怯えたフリをして答えると、紗弥は冷ややかな目をしてチラリと教授の方を見、そのまま部屋から出て行った。
「綺麗ですけど、なんか怖い方ですねえ・・・」
 葛西は紗弥の姿が見えなくなってから言った。
「はい、優秀な秘書なんですケド、マジで怖いですよ。ガチで戦ったら多分僕も負けてしまいます」
 と、ギルフォードは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「そうなんですか?あなたに勝つなんてスゴイ方なんですねえ」
 葛西はギルフォードの細めだが背が高く頑丈そうな体躯を見ながら、不思議そうに言った。
「ホントにマジメな人ですねえ」
 ギルフォードは葛西の素直な感想に、むしろ感心して言った。
「まあ、とりあえず座ってください」
 と、ギルフォードは机の前に置いてある、シンプルなデザインの応接セットを示しながら言った。
「あ、どうも」と葛西が座ると、ギルフォードも前の椅子に腰掛けた。
「今日は、後からもう1人お客さんが来ます。今日は楽しい午後になりそうです」
「もう1人?」
「はい、女性が見学に来られます。おいでになったら紹介しますね」
「ええ」
 葛西はてっきり学生の研究室見学だと思い、適当な返事をした。それにしてはちょっと早いような気がするが。
「さて、カサイさん、早速説明をお願いしたいのですが・・・」
「あ、すみません、ギルフォード先生。今すぐ資料を出しますのでちょっと待って下さい」
 そう言うと、葛西は鞄から大きな封筒を取り出し始めた。
「あ、カサイさん、良かったら僕のことは先生とかじゃなく、『アレク』と呼んで下さい」
 葛西は手を止めてギルフォードの方を見た。
「アレク・・・ですか? あはは、じゃあ、僕のことは『純ちゃん』って呼んでもらいましょうかねえ」
 そう言うと、作業を再開し封筒を取り出した。どうやら冗談と思ったようだ。しかし、ギルフォードのは大真面目に答えた。
「ジュン-チャン? ・・・う~ん、なんか言いにくいですねえ、ジュンでいいですか」
「え? マジ?」
 葛西は驚いて一瞬ぽかんとしたが、ギルフォードがにっこりと笑うのでつられて笑いながら言った。
「あ~、いいですよ、ジュンでもジュンペイでも」
 その後葛西は、すぐに頭を切り替えて仕事モードに戻り、ギルフォードに封筒を渡した。
「で、これが資料です」
「ゴクロウサマです」
 ギルフォードはそう言いながら、封筒の紐を解き中身を出して読み出した。
「あの、失礼ですが、読めますか?」
「ハイ、書くのはだめですが、読むほうは何とか。でもわからない漢字は教えてくださいね」
「もちろんですよ」
 葛西がそう答えたところで、紗弥がお茶を運んできた。紗弥が紅茶をサーブし終わると、ギルフォードが彼女の紹介をした。
「ご紹介が遅れました。僕の秘書のタカミネ・サヤさんです」
 紗弥が会釈をすると、葛西は立ち上がって挨拶をした。紗弥はにっこりと笑いながら、部屋を出て行った。葛西はその後姿を見ながら言った。
「やっぱり、綺麗ですねえ」
「マジで怖いですケドね。さて、お茶も来た事だし、資料を見ましょうか」
「あ、先に僕から説明しますね。例のホームレス集団死事件に関わった警官や医療関係者ですが、1名を除いて特に今のところ異常はないようです。そして、その1名ですが、救急隊員でした。名前は古賀忠志。あ、古賀姓ってK市にすごく多いんですよ。彼は、秋山雅之から暴行を受けたホームレス、安田圭介と知り合いだったそうです。同僚が、よく公園で安田さんと世間話をしているのを見かけたそうです。古賀さんはホームレスの支援をする団体に属していたそうで、安田さんにもなにかと気をかけていたそうです。それで、救急車で駆けつけた古賀さんは、倒れているのが安田さんだというのがわかり、心臓マッサージと人工呼吸で蘇生を試みたそうですが・・・、焦って感染防護措置をとっていなかったそうなのです」
 そこまで聞いて、ギルフォードは眉をひそめた。
「それは、非常にキケンなことです。ジュン、あなたは・・・」そこで、ギルフォードは声のトーンを落として言った。「ホームレス達がキケンな感染症にかかっていた可能性が高いことについて、説明は受けましたか?」
「ええ」と葛西は答えた。「大体のことは聞いています。ただ、近未来SFやゲームの世界みたいで、まだちょっと信じられないのですけれど」
「まあ、無理ないです」
 ギルフォードは肩をすくめて言った。葛西は続けた。
「彼は、奥さん方の法事があるということで、家族で広島にある奥さんの実家に帰っていたそうなのですが、その帰り道、6月5日未明、高速道路でカーブを曲がり損ね擁壁に激突した車の中から遺体で発見されました。仕事があるので、家族を置いて1人で帰られたそうなのですが、気になるのは、彼が熱を出していたということです。ご家族の方は、危ないからと止めたらしいのですが、仕事を休むことは出来ない、病院には明日暇を見て行くからと、反対を押し切って帰られたということです」
「熱があった? 高熱ですか?」
「ご家族が止められたくらいですから、けっこう高い熱だったのでは・・・」
「そうですか」
「ところが、解剖の結果、激突前にすでに亡くなっていたらしいということがわかったのです」
「ということは、運転を誤ったのではなく、運転手が亡くなったためコントロールを失った車は、猛スピードでぶつかったということですか」
「そうです」
「で、その遺体は・・・」
「あいにく・・・」
「オー・・・」
 ギルフォードは事故と遺体解剖の資料を見て顔をしかめて言った。
「これじゃあ、発症していたとしても二次感染の心配はなさそうですが、ヴァイラ・・・ウイルスも見つかりそうにありませんねえ・・・」
「はい」
 葛西は資料から顔をそむけながら言った。
「激突した車はオイル漏れと激突のショックで引火しました」
「車ごと丸焦げですねえ・・・、っていうか、もうメチャクチャじゃあないですか」
 その時、ギルフォードの携帯電話が鳴った。着メロは笑い声の入った不思議なワルツ曲で、事故現場の写真と妙にシンクロしていた。
「ジュン、ちょっと失礼しますね。・・・はい、ギルフォードです。・・・オー!ユリコ!」
(ユリコ?)葛西は思った。(そういえば、篠原由利子さんはどうしているだろう)
「近くまで来ていますか? そうですか。ハイ、・・・ハイ、お待ちしていますね」
 ギルフォードは電話を切って言った。
「もうすぐ来られるそうです。・・・ジュン?」
「あ、すみません、聞いたことのある名前だなって・・・あ、あはは、そんな珍しい名前じゃないですもんね」
 葛西は笑いながら言った。
「話は戻りますが・・・」ギルフォードは言った。「コガさんの死因が事故でないなら、発症が原因でショック死した可能性があります。アキヤマ・マサユキのおばあさんがそうでした。劇症化のせいで大量出血をし、ショック死したのです。これには死因は心臓麻痺とありますが、もうすこし、詳しい解剖資料はないのですか?」
「はい、なにぶん県外で起きた事故ですので・・・。所轄どころか管区から違うので、こちらとしてもあまり踏み込めないところがあるんですよ」
「理由は説明したのですか?」
「もちろんですが、一笑に付されました」
「無理ないですケドね。僕だって多分信じないでしょう・・・。しかし、何とかしなければ。すでにウイルスは九州を出てヒロシマまで行ったかもしれないのです。ところで、奥さんの方は大丈夫なんでしょうか?」
「今はご主人のお葬式の為にこちらに帰ってらっしゃるそうですが、法事のすぐ後にお葬式だなんて、お気の毒です。」
「いえ、そうではなくて」と、ギルフォードは言った。「感染についてです。配偶者には一番の感染リスクがありますから」
「え?そうなんですか?」
「はい、夫婦ですから」
「あっ・・・・、ああ、そ、そうですよね」
 葛西は意味がわかって顔を赤らめながら言った。ギルフォードはそれを微笑ましく見ていたが、すぐにあることを思いついて真面目な顔に戻り尋ねた。
「配偶者といえば、アキヤマ・マサユキの母親は見つかったのですか?」
「いえ・・・。県警を挙げて捜査しているはずなのですが手がかり無しです。ただ、感対センターの看護師が、秋山美千代失踪直後に退職しています。彼女がなんらかの関わりがあることはわかっているのですが、彼女も行方不明です」
「なんですって?その看護師の身元の確認は・・・」
「身元は雇用時にきっちり調べているそうですが、本籍から現住所まではっきりしていて、怪しいところは何もなかったそうです。家族にも問題はありませんし、近所でも真面目で評判な女性だったということです。昨日家族からも正式に捜索願が出されています。家族の話からも、最近様子のおかしいところは何もなかったそうです」
「なんか、イヤなカンジですね」ギルフォードは言った。「ますます人為的なバラマキの可能性が出てきました。街中に、ひょっとして時限爆弾がいるかも知れないってことです。これは大変なことですよ」
「でも、理由を公表して公開捜査をするわけにはいきません。それこそパニックになってしまいます。それに、上の方だってまだ半信半疑なんですから」
「僕があれほど資料をそろえて説明したのにですか?」
 ギルフォードは落胆して言った。
 その時、紗弥が由利子を案内してやってきた。
「教授、篠原様がお見えになりました」
「こんにちは~。ちょっと迷ったので、遅くなりました」
 紗弥に連れられて教授室に入って来た由利子は、戸口で少し恥ずかしそうに挨拶したが、椅子に座っている葛西を見て驚いた。葛西も思いがけない再会に驚いて立ち上がった。二人はお互いを指差して同時に言った。
「え~~~? なんでここにいるんですか?」
「おや、お知り合いでしたか」
 ギルフォードも驚いたようだ。
「はい、西原祐一と秋山雅之の顔を確認していただくために、署まで来ていただいたことがあります。あいにく、雅之君はああいうことになってしまいましたが・・・」
「ああ、それで、あの時僕はK署の門のあたりでユリコと出会ったんですね」
 ギルフォードはポンと手を叩いて言った。
「ということは、あの時僕たちはほぼ同じ点にいたことになります。フシギですね」
 由利子と葛西はそれを聞いて頷いた。ギルフォードは戸口に立ったままの由利子を手招きして言った。
「どうぞ、コチラに来てお座り下さい」
「はい、失礼します」
 由利子は遠慮なく葛西の横に座るとすぐにテーブルの上の書類に気がついた。
「うわ、アレク、なんですかこれ?」
「事故の報告書ですわね」
 紗弥も覗き込んで言った。葛西は驚いて書類を隠そうとしたが、紗弥がそれより先に奪い取ってしまった。
「まあ、凄い事故ですわね」
「ひゃー、どうやったらこんなひどいことになるんやろ・・・」
 由利子と紗弥は、仲良く資料を覗き込んでいる。
「やれやれ、二人ともジュンより刑事に向いてますね。ユリコは気持ち悪くないんですか?」
 二人の様子にさすがに呆れてギルフォードが言った。
「あ、この程度ならネットで見慣れてしまって・・・。最も生では気持ち悪くて、絶対に見れないと思うけど・・・」
 由利子は、しまった、また可愛くない女だと思われちゃったなと思い、右手で後頭部を掻きながら言ったが、ギルフォードは思いの外、満足そうに言った。
「やっぱりユリコはうちの研究室向きの人です」
「はあ?」
「何事にも興味を持つ、動じない、大事なことです」
「あのォ、僕には話が見えないのですけど・・・」
 葛西が1人困った顔をして言ったので、ギルフォードは説明した
「ああ、ジュン、すみません。実は、ユリコにはウチの研究室にアルバイトで来てもらおうかと思ってるのです」
「ええ? じゃあ、今の仕事は?」
 葛西は驚いて言った。それで、仕方がないので由利子が少し仏頂面をしながら答えた。
「リストラされたんです」
 それを聞いた葛西は心配そうな顔をして言った。
「ええっ? まさか、僕が警察に呼んだのがまずかったのではないですか?」
「いえ、違いますよ。うちの会社が不況のあおりで経営難に陥っているだけの話です」
「そうですか。勤め先が近かったのに残念です」
「葛西さん、あなたと職場が近くても、私にはあまりメリットはないと思いますけど?」
 由利子は不思議そうに言った。
「ははは、そ・・・、そうですよね」
 葛西は頭をかきながら照れ笑いをして言ったあと、紗弥から書類を取り戻して封筒にしまいながらギルフォードに向かって言った。
「えっと、アレク、説明はあれでよかったですか? 後でこれ、ゆっくり読んでください」
 そういうと、葛西はギルフォードに書類を渡した。興味深いものが無くなったので、紗弥は由利子のお茶を入れるために部屋を出て行った。その後姿を見ながら葛西が言った。
「自由ですね、あの人」
「はい、自由です」
 ギルフォードも笑って答えた。
「ところで・・・」葛西が言った。「アレク、気になってたんですが、僕が来た時、パソコンの前で何を悩んでいたんですか?」
「ああ、あのですね、昨夜から変なメールが来てるんですよ。昨日一通来てて午後からまた一通来たんです。差出人は同じみたいなのですけれども」
 それを聞いて、研究生達がわらわらと教授室に入ってきた。どうやらまた、戸口で様子を伺っていたらしい。
「先生は、迷惑メール対策に命かけてますもんね」
 1人が言った。
「見ちゃ駄目ですよ、キサラギ君。これは僕のプライベートなメールですから。だけど、ユリコ、あなたはけっこうネット関係に強いようですから見てください。あ、ジュンも来てください」
 ギルフォードは由利子と葛西を自分のパソコン画面の前に呼んだ。
「あ、ずる~い!」
 如月をはじめ、研究室の学生たちがブーイングをしたが、ギルフォードは特に気にする様子はない。いつもこういう感じなのだろう。
「これが昨日来た分です」
 と、ギルフォードは由利子にメールを開いて見せた。

差出人:ルネ
件名:僕だよ

げんき? 僕のこと覚えてる?
ー度くらい、お返事ください。
無理かどうかは、やってみないとわからないだろう?
はじめてだけど、君だったらだいじょうぶ

はげしいほど君が大好きだっていう
自信が僕にはあるんだ。
まずはメールして。連絡先を教えます。
つねにきみを見ていたよ。素敵な人だっ
て、ずっと思ってた。眠れない夜を過ごしてた。
いつでもまっているからね。
ルネより。

「それから、これが今日来た分です」

差出人:ルネ
件名:僕だよ

きのうメールした、ルネです。
みてくれたかい?
二度もメールしてごめんよ。でもぼくは
こんなに君が大好きなんだ
レポートを書いていても、忘れられなくて、だから、
がんばってきみに愛されたいって思ったんだよ
とにかく、へんなメール送ってごめん。よかったら
メールのお返事くださいね。
らくな気持ちでいいの。どうかお願い、一度でいいから
れんらくしてください。
ルネより
かならずだよ

「なんか、普通の出会い系誘導スパムとは、雰囲気が違うような気がするんです。特に文章がなんか不自然な気がして・・・」
「アレク、こんなのは無視すれば良いのに、なんで開いちゃったの?」
 由利子が基本的な疑問を言うと、ギルフォードは素直に答えた。
「『僕だよ』って件名だったのでつい・・・。だいたい、不正ドメインや無料メールは振り分けるようにしてますし・・・」
「ということは、これは正規のアドレスで来ているわけね」
「このメールの文章、確かに不自然ですね。改行も変だけど、簡単な漢字まで平仮名になってたりしてますよ」
 と、今まで黙ってメールを読んでいた葛西が口を開いた。その直後、由利子たちの後ろで大阪なまりの素っ頓狂な声がした。
「あれぇ~? ・・・えっと由利子さん・・・でしたっけ」
 いつの間にか後ろに立っていた如月が何かに気がついて口を挟んできたのだ。
「はい、由利子ですけど、何かわかりました?」
「これ、いわゆる『ねこ大好き』やないですか?」
「え?」
 そう言われて由利子は、二つのメールを如月の言ったことを踏まえ、改めて見直して気がついた。
「ほんとだ! 何? これ、ひょっとして挑戦状?」

|

5.出現 (6)アクロスティック

 由利子と如月は文章の仕掛けに気がついて興奮しているものの、他の者たちは何がなんだかわからない状態であった。ギルフォードは、二人に尋ねた。
「なんですか、『ねこ大好き』って?」
如月がその質問に答えた。
「縦読みのことですよ。英語ではアクロスティックとかいいませんか?」
「はい、アクロスティックなら知っています。推理小説等にもよく使われますね。でも、何故、それが『ねこ大好き』なのですか?」
ギルフォードの質問に、如月が再度説明する。
「以前、ある巨大掲示板で、ある人が縦読みで『氏ね』と締めようとしたら最後の『ね』が思いつかんで、苦し紛れに『ねこ大好き』と入れたことが由来らしいですワ」
「それで・・・」と、如月に続いて由利子が言った。「このメールの左端を縦に読むと・・・、あ、ちょっとアレク、何か書くものを貸してください」
由利子はわかりやすくしようと、紙に書いて説明することにした。
「まず、最初のメールから左端の文字を抜書きしてみます」
由利子は、ギルフォードから紙とペンを借りると、彼の横に膝をついて座り込み、パソコンディスクの空いた場所に紙を置いて、書き写し始めた。

げんき? 僕のこと覚えてる?
ー度くらい、お返事ください。
無理かどうかは、やってみないとわからないだろう?
はじめてだけど、君だったらだいじょうぶ

はげしいほど君が大好きだっていう
自信が僕にはあるんだ。
まずはメールして。連絡先を教えます。
つねにきみを見ていたよ。素敵な人だっ
て、ずっと思ってた。眠れない夜を過ごしてた。
いつでもまっているからね。
ルネより。

「こうなります」

《 げ/ー/無/は/ /は/自/ま/つ/て/い/ル 》

「で、次のは、こう」

差出人:ルネ
件名:僕だよ

きのうメールした、ルネです。
みてくれたかい?
二度もメールしてごめんよ。でもぼくは
こんなに君が大好きなんだ
レポートを書いていても、忘れられなくて、だから、
がんばってきみに愛されたいって思ったんだよ
とにかく、へんなメール送ってごめん。よかったら
メールのお返事くださいね。
らくな気持ちでいいの。どうかお願い、一度でいいから
れんらくしてください。
ルネより
かならずだよ

《 き/み/二/こ/レ/が/と/メ/ら/れ/ル/か 》

「声に出して読んでみます。『げ ー 無 は  は 自 ま つ て い ル 』『き み 二 こ レ が と メ ら れ ル か』。わかりました? 念のため、ちゃんと読んでみます。『ゲームは始まっている。君にこれが止められるか』。どう? アレク、あなたへの挑戦状みたいに思えませんか?」
由利子は、ギルフォードに向かって言った。
「確かに、そう受け取れます・・・。でも、どうして僕宛てに・・・」
教授の問いに、葛西はウンと首を縦に振って言った。
「この犯人は自己顕示欲が強そうですから、文面は違うかもしれませんがおそらく何箇所も送っているでしょう。ただ、どこでもスパムとして開かれることなく処理されているのかもしれません。だけど、アレク、あなたを強く意識しているのは間違いなさそうです」
「だけど、僕がもともとどんな理由で日本に呼ばれたかを知る人は少ないです。最近頓に、警察のアドバイザーのようになってますが、表向きは一介の客員教授という立場だし」
「でも、彼らはあなたに挑戦してきたんです」
と、葛西は言い切った。その横から如月が心配そうに言った。
「せやけど、単なる愉快犯のイタズラメールかもしれへんですよ。変に騒ぐとそいつを喜ばせるだけやないですか?」
「いや、如月君。単にイタズラと片付けられない理由があるんだ」
葛西はポケットから携帯電話を出しながら言った。
「僕は今から本部にどう対処すべきか聞いてみます。僕はこういうのは専門外なので」
そしてすぐに電話をかけ始めた。
「まあ、いきなり騒然としていますけど、何かあったのですか?」
由利子のためにお茶を入れて研究室に戻ってきた紗弥は、先ほどとうって変わった教授室の雰囲気に驚いた。ギルフォードは、簡単に経過を話した。紗弥はさっそく興味を持ったらしく、応接セットのテーブルに紅茶を置くと、お盆を持ったままギルフォードのパソコンを覗きに行った。
「まっ、ひどい文章! 座布団全部没収ですわ」
メールを見るなり、紗弥は一刀で切り捨てた。
「多分わざとでっせ、紗弥さん」
と、如月が言った。
「縦読みだと気づかせるために、わざと不自然な文章にしたんやと思います。現に教授はメールを読んで悩んではりましたやろ?」
「まあ、『僕だよ』にひっかかってメールを開けるなんてアッサリ敵の術中にハマるあたり、そこらのスケベオヤジとレベルは一緒ですわね」
紗弥は返す刀でギルフォードも叩き切った。ギルフォードは両手で顔を覆うと指の間から紗弥を見て情けない声で言った。
「サヤさぁ~~~ん、スケベオヤジってのだけはやめて下さいよ」
「エロオヤジのほうがよろしいかしら?」
「どっちもイヤですよ!」
ギルフォードはきっぱりと断った。
「あらま、ホントにすごい文章」
「思い切りアッーなメールやね」
「教授がうっかり開けちゃうわけだ」
「で、ルネって誰よ」
「ルネ・シマールかな?」
「誰よ、それ?」
「アタシのママが若い頃好きだった美少年歌手だって」
「知らんわ、『ミドリ色の屋根』なんて」
「知ってんじゃねーか」
「おまえら、いつの生まれだ」
すでにギルフォードのPCモニターの周りには、研究生がたかってわいわい言っていた。ギルフォードは仕方なく、右上の|-|をクリックしてブラウザを最小化した。
「あ~~~、またぁ、ずる~~~い」
「こすか~~~」
ギルフォードはわめく学生達を再度無視して如月に言った。
「キサラギ君、みんなを連れて行ってください。これから彼らと大事な話をしますから」
ギルフォードは由利子と葛西を指して言った。
「了解しました。おい、みんな行くで!」
如月は彼らを外に出した後、最後に部屋を出てドアを閉めた。教授室は静けさを取り戻しため、葛西のぼそぼそと電話をかける声が際立った。とはいえ、ギルフォードの教授室は研究室の中にパーテーションで仕切られただけの部屋なので、自分らの持ち場に戻った学生達が引き続き盛り上がって話す声も良く聞こえる。
「ユリコ、口外しないという約束で、お話があります。守れますか?」
ギルフォードは、由利子の方を向くと真剣な顔で言った。正面から見据えられて、由利子は不覚にも一瞬ドキリとした。まともな顔をするとかなりいい男だからだ。もちろん由利子の返事は決まっていた。
「はい、もちろんです」
「OK、では、またあっちの席にもどりましょう。長くなりますから」
二人はパソコンから離れ、先ほどまで座っていた応接セットに戻った。葛西は少し離れた窓際で電話している。由利子が座ると、早速ギルフォードは話を始めた。
「信じられないと思いますが、あなたは知らないうちに、バイオテロ事件に関わってしまったようです」
「はぁ~?」
由利子はギルフォードが言ったとおり、思い切り信じられないという顔をして言った。
「僕にはテロと断言する決め手がありませんでしたが、今のメールで確信しました。何故かはわかりませんが、このF県下で、バイオテロを起こした連中がいます」
「あのォ、それを信じろと? 大体なんで中央じゃなくてこんなとこから始めるっていうんですか?」
「それは、わかりません。しかし、交通機関の発達している現在、どこで起こるかより、確実に感染を広げるほうが有効ですから。F空港からだって、2時間以内に東京に、12時間ほどでヨーロッパに着くんですよ」
「確かにそうですが・・・」
「テロが必ず首都やその付近で起こるとは限りません。たとえば、1984年にアメリカで実際にあった、ラジニーシ教団というカルトがおこしたサルモネラ菌によるバイオテロ事件は、オレゴン州ワスコ郡で起こりましたよ。今回のテロは、日本国内で何箇所もウイルスをばら撒いた結果、K市のみで成功したのかもしれません。とにかく、今わかっているだけで、マサユキ君を含む7人、いえ、おそらく8人が犠牲になっています」
「ちょっと待ってください。雅之君が感染していたんですか?」
「そうです。彼が暴行したホームレスが感染・発症していたからです」
「それで私も関わっていると・・・」
「そういうことです」ギルフォードは言った。
「悪いことに8人目の犠牲者はヒロシマまで出かけています」
その時、葛西が話に割って入った。
「お話の途中ですが、アレク、例のメールを県警のサイバー犯罪対策部に転送してください。管理者に発信元の確認をさせるということです」
「わかりました。すぐに転送しましょう」
「それは私がやっておきますわ。教授はお話を続けてください」
紗弥がその役目を買って出た。
「お願いします、サヤさん」
ギルフォードは彼女の申し出を受け、任せることにした。葛西は電話を続けながら、紗弥をサポートするために彼女の傍に行った。ギルフォードは、テーブルに右肘を付くと掌であごを支え、指で顔下半分を覆いながら仏頂面をして言った。
「それにしても、ナガヌマのあのクソオヤジ、ロコツにバックレやがって・・・」
「へ?」
「あ、すみません、下品な言葉を使ってしまいました。今のは忘れて下さい」
「はあ」
由利子は驚いたが、こんなに日本語がしゃべれるし学生たちとも付き合っているのだから、多少乱暴な言葉だって知ってるだろうと考えた。だがそれでも(一瞬別人が居るかと思った・・・)と、今までのイメージの違いに少しとまどってしまった。
「ナガヌマさんは、このことを知っていたんです。少なくとも嗅ぎつけていたのに、僕が聞いた時にアカラザマにごまかしてました。あとで電話でとっちめてやります」
「それで、あのメールのメッセージが理解できました。テロリストがあなたに挑戦してきたわけですね」
「僕に対しての挑戦だけではないでしょう。それならテロを起こす前からなんらかのアクションがあったはずです。それにしても、敵さんは僕があのメールを開けることを見越していたようで、キモチワルイですけれど」
「それで思ったんですが、『ルネ』って名前に心当たりはないですか?」
由利子は気になっていたことを聞いた。
「それこそ、縦読みの文字あわせに使うための適当な名前じゃないんですの?」
予想外に自分の隣で声がしたので由利子はぎょっとした。いつの間にか由利子の横に座っていた紗弥が言ったのだ。
「いえ」由利子は平静を装って言った。「それならルネでもルッキオでもルンルンでもルフィーでも、極端な話ルパン三世でも構わないと思うんです。わざわざルネという名前にしたというのが気になるんです」
「ルネ・・・ルネ・・・。う~~~ん・・・」
ギルフォードはしばらく考えていたが、首を横に振りながら言った。
「学生時代にまで記憶をさかのぼってみましたが、ルネという名の男性に心当たりはありませんねえ」
「って、女性には心当たりはないんですか?」
由利子が訊くと、ギルフォードと紗弥が二人そろってにっこりと笑った。何となく訊いてはいけないことを訊いたのだと思って、由利子はそれ以上の追及をやめた。微妙な空気の中、電話を終えた葛西がギルフォードの隣に座った。
「とりあえず、連絡待ちです」
葛西は言った。すると、紗弥が立ち上がった。
「由利子さん、お茶、冷えてしまいましたから、入れなおしてきますね」
「あ、そんな・・・。大丈夫ですよ、お構いなく」
由利子は遠慮したが、ギルフォードが遠慮なく言った。
「あ、ついでにジュンと僕の分もお代わりお願いします。サヤさんも一緒にブレイクしましょう」
「かしこまりました。今度は教授以外はコーヒーにしましょうね」
紗弥はそういうと、カップを下げ部屋を出て行った。その間、ギルフォードは由利子に今までの事件の経過を説明した。
「出血熱だなんて、そんな映画みたいな・・・」
由利子はそれでも信じられないという風情だった。
「ダスティン・ホフマンが出てきそうですよね」
葛西も言う。ギルフォードは二人を見ながら、しごく真面目な顔をして言った。
「今の時点では何とも断言できません。病原体の正体がわかっていないからです。今のところ、『きわめて一連の出血熱に良く似た症状のおそらくウイルスが原因の非常に危険な感染症』としか言いようがないんです。まさに『名前のない怪物』です」
「じゃあ、アレク、その『怪物』の特定にはどれくらいかかるんです?」
由利子がもっともな質問をした。ギルフォードはふっとため息をついて言った。
「特定感染症に指定されているようなものならば、最近はかなり早く病原体を特定できます。しかし、今回のような未知のもの、それもウイルスとなると、相手がナノサイズだけに難しいのです。たとえばサーズの時で一ヶ月かかりました」
「そんな、ふうたんぬるい・・・」
「え? フータン・・・?」
聞きなれない言葉に、こんどはギルフォードが戸惑った。
「『ふうたんぬるい』というのは、『とろい』とか『のろま』とか言う意味の方言です」と葛西が口を挟む。
「なるほど。それにしても、面白い言葉ですね」と、ギルフォードは少し珍しそうに言った。そして微妙な笑みを浮かべながら、「さらにそのフウタンなんとか言われそうですが・・・」と言ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「病原体がわかったとしても、ワクチンを作るには最低半年から1年はかかるんです。大人の事情で何年もかかることもありますし、HIVのように変異にワクチンが追いつかないこともあるんです」
「それじゃあ、手の打ち様がないじゃない!」
由利子は憤って言った。しかし、ギルフォードは反論した。
「手の打ち様はあります。ただし、それには官民が力を併せて予防措置をとらねばなりません」
その時、葛西の電話が震えた。ギルフォードと由利子は話をやめて葛西に注目した。
「もしもし、お母さん、何?」
「あらら・・・」
メールの発信元がわかったのかと期待していた二人の緊張が一気に解けた。
「仕事やって言うたやん・・・、うん? そげなことはなかって・・・」
そう言いながら、葛西は二人に目ですみませんを言いながら、廊下に出て行った。
「ジュンも方言を話すんですねえ・・・」
ギルフォードが言った。
「はじめて聞いた」
由利子も言い、二人は顔を見合わせ笑った。
「ところで、アレク、今更こんなこと言うの何だけど、日本語すごく上手いけど誰に習ったの?キッカケは何?」
由利子は会ったときから思っていた疑問を、興味津津で尋ねた。ギルフォードはにっこり笑って答えた。
「学生時代付き合ってた人が日本人留学生だったんです」
「へえ、どんな人?」
「当時は僕より背が高くて・・・途中で僕が少し追い越しましたけどね、キビシイ面もあったけど、思いやりがあって優しくていい男でしたよ」
「男?」
「はい。それで、彼の母国語で彼と話したいと思いました」
ギルフォードは隠すことなく、むしろ臆面もなく答えた。
「―――そっ・・・・、そ、そうなの」
若干の沈黙の後、由利子は言ったが声も若干裏返っていた。
「ちょっとジュンに似ています。初めて会った時、驚きました。で、つい、抱きしめてしまいました。これはジュンにはナイショですよ。彼はこういうことに、かなりウトイみたいですから」
ギルフォードは笑顔でウインクしながら言った。由利子は、あのK署で見た光景を思い出し、なるほどそうだったのかと思った。由利子はそういうことに対して寛容ではあったが、さすがに身近にいるとなると驚きを隠せず、その後に続く言葉が出なかった。そこに、ちょうど紗弥が紅茶とコーヒーを入れて戻って来た。由利子はほっとした。
「もう、湯沸し室までの往復が大変ですわ。早く壊れたポットの補充をしてくださいな」
紗弥は言った。
「すみません、明日、電気屋さんに行って安いの買って来ます」
ギルフォードが、頭を下げながら言った。
「すみませ~ん」
葛西も戻って来た。
「仕事中にはかけるなって言ってるのに、もう、母ときたら・・・」
「そういえば、今日は土曜日じゃない。皆さん仕事なんですよね」
何とか立ち直った由利子が言った。
「僕らは基本土日休みなんですが、現場の方はそういうわけにはいかないもんで」
と葛西が言うと、紗弥も続けて言った。
「ここも人使いが荒くて大変なんですの。先週なんか資料が来るからって、日曜に総出で集合をかけられましたのよ」
「い~じゃん、今日なんか頼んでもいないのに、ユリコ目当てでみんな来てるじゃ~ん」
ギルフォードは例のスネスネ口調で言いながら、紅茶を一口飲んだ。
「あ、あたし? みんな私を見に来たの?」
思ってもないことを言われて、由利子は焦った。そこにまた葛西の携帯電話の震える音がした。葛西は急いで電話に出た。
「はい、葛西です。・・・え? 判りました? は、はやッ」
みんなの緊張が一気に高まった。
「はい、発信は携帯電話からですか。やっぱり。それで・・・?」
しばらく相手の報告を聞いていた葛西の顔色が変わった。
「そ、そんな馬鹿な! あり得ません。その子はもう亡くなっています!」
ギルフォード・由利子・紗弥の3人は顔を見合わせた。嫌な予感がした。
「で、その電話の電波発信は?・・・・え?・・・・H埠頭で消えた? ってことは、海に投げ捨てたって事ですか?・・・それで?」葛西はしばらく相手の話を聞いていた。
「わかりました。また連絡します。どうもありがとうございました」
葛西は電話を切ると、みんなに向かって言った。
「このことは、内密にお願いします。メールの発進元は、秋山雅之の携帯電話からでした。さらに、調べてみると同一携帯電話から同じようにスパムを装ったメールが、県下の官庁や警察関係のおえらいさん数人のプライベートメアドに送られていたそうです。しかし、やはりスパムとして処理され、だれも内容を見ていないようです」
皆は改めて顔を見合わせた。
「どういうこと?」
由利子が言った。
「テロリストが犠牲者の携帯電話を手に入れていたということです」
ギルフォードが答えた。しかし、声のトーンが今までと違っている。由利子はそれに気づいてギルフォードの顔を見た。彼の表情は硬く、笑顔がすっかり消えていた。葛西が続けて言った。
「雅之君のケータイが敵の手に渡っていた。そして、雅之君のお母さんは行方不明・・・。まさか・・・」
「おそらく連中は、マサユキ君が感染していることを知り、ロックオンしていた・・・密かに観察していたんです。彼の死すらも。そしてさらに彼の母親を巻き込み、彼女から息子の携帯電話を奪った」
淡々として話すギルフォードの様子を、紗弥が心配そうに伺っている。
「マサユキ君はまだ14歳でした」ギルフォードは静かに続けた。「確かに彼のやったことはサイテーです。裁かれるべきことです。しかし、彼は充分苦しんだでしょう。罪を償って再出発も出来たはずです。現に自首するつもりで友だちのユウイチ君にメールでそれを伝えていました。だけど、テロリストがウイルスをばら撒かなければ、彼は殺人という大罪を犯すことはなかったんです。何故ならあのホームレスは、発症し死につつあったからです。そして、彼は自分の罪と病の双方に苦しんだ挙句に殺されたんです。そして彼を殺した連中は、あまつさえ彼の携帯電話を利用して、下品な挑戦状メールをばら撒きました。これは死者への冒涜に他なりません」
ギルフォードは淡々と話し続けたが、声のトーンはさらに下がっていった。
「メールに隠されたメッセージのとおり、このテロは彼らにとってゲームなんです。メール送付のやり方自体がお遊びです。必ず読まれるという前提は考えていない。気づけるなら気づいてみろ、そして、止められるものなら止めてみろ、という、犯人のからかい口調すら聞こえて来ます。これは、多くの人命を賭けた最低最悪のゲームです・・・!」
そしてギルフォードは何かに耐えるようにして黙り込んだが、その表情は紗弥でさえ今まで見たこともないような厳しいものだった。室内の空気が異様に張り詰める。しばらくの沈黙の後、ギルフォードは
”********, *******,****!! ”
と、英語で何かつぶやくと立ち上がった。
「すみません、少しの間失礼します」
そう言うと、ギルフォードはすたすたと歩いて研究室の外に出て行ったが、まもなく彼の向かった方向でものすごい音がした。残った3人は顔を見合わせた。隣に居る学生達の声も一瞬途絶え、その後ひそひそと話し始めた。由利子たちは、誰からともなくカップをを手に取り、一斉にコーヒーを飲み干した。なんとか緊張が解け、3人はほっとため息をついた。
「相当怒っていますわね」
紗弥が最初に口を開いた。
「今回何を壊したのやら・・・」
「意外と熱血だったんだ」
由利子が感心して言うと、葛西が戸惑ったように紗弥に尋ねた。
「僕、よく聞き取れなかったけど、なんか英語ですごいこと言ってませんでしたか?」

|

5.出現 (7)間~はざま~

「そうですわね。でも、教授の英語での会話は普段からあんなものですわよ。さっきのは際立って粗暴でしたけど」
紗弥は、特に驚くほどもないという風に言った。
「それより私、教授のあんな怖い顔、初めて見ましたわ」
「で、紗弥さん、アレクは一体なんて言ったの?」
英語のまったく苦手な由利子は気になって仕方がないようだ。
「"ド腐れ外道が、必ず捕まえて地獄に叩き落してやる、ケツを洗って待っていやがれ、クソッ"ってところでしょうか」
「確かにすごいけど、紗弥さんの口からそんな言葉が出たことのほうが、破壊的だわ」
由利子は少し引き気味に言った。葛西に至っては、顔が完全に引きつっていた。
「そうだ!」葛西の顔を見て紗弥が思い出したように言った。「葛西さん、良い事をお教えしましょう。魔除けの言葉ですわ」
「なんでしょう?」
葛西はまだ引き気味に言った。
「こんど、教授が『ロシア式挨拶』をせまって来たら、教授に向かって毅然として彼のフルネームを言ってご覧なさいな」
「フルネーム? 『アレクサンダー・ライアン・ギルフォード』でしたっけ?」
「これが効果覿面ですのよ。もう、面白いったら」
そういうと紗弥はくすくすと笑った。
「魔除けというより、孫悟空にとっての緊箍経(きんこきょう)みたいですね」
由利子が言うと、紗弥はそれがツボにハマッたのか、あははと本気で笑い出した。
「紗弥さん、こんなカンジでちゃんと笑うんだ」
「っていうか、一種のツンデレ? かわいい」
紗弥の意外な面に、今まで彼女に少し距離感を感じていた二人は少し親近感を覚えたが、少しすると紗弥はぴたりと笑うのを止めて言った。
「帰ってきましたわよ、孫悟空が」
すると、すたすたと足音がしてギルフォードが帰って来た。
「お待たせしました。サヤさん笑ってましたね、珍しいです」
しかし、彼を見た3人は驚いた。
「きゃあっ、アレク、手っ、手っ!」
「わーーーーっ!!」
「教授、右手から血が滴ってますわ!」
言われて右手を見たギルフォードは「あ・・・」と言った。中指の第三関節辺りからだらだらと血が流れている。血は彼が歩いた道筋を、点々と示していた。ギルフォードはその『点々』を目で追いながら、再度自分の右手をじっと見て、「あ~あ」と言いながら口元に手を持ってくると、ペロッと傷を舐めた。
「いやぁあ、傷口を舐めないでくださいな! もうっ! ケダモノなんだから!」
珍しく紗弥が声を荒げ、急いで救急箱を取りに行った。
「ケダモノだって・・・」
「ケダモノでしょうね、やっぱり・・・」
由利子と葛西が目を点々にして言った。紗弥はギルフォードの手を消毒しながら、
「過激なことをなさるのは構いませんが、後先を考えてくださいませ」
と言うと、傷口に特大の絆創膏を貼り、その上をパシッと叩いた。
「はい、終わりましたわ」
「おうっ、何するんですか、サヤさん」
「自業自得ですわよ」
紗弥は冷たく言うと、モップを取って来てギルフォードに渡した。
「とっとと床に垂れた血をふき取ってきてくださいな」
「は~い」
ギルフォードは素直にモップを持って、床を拭きながら部屋を出て行った。それを見た学生達が声をかけた。
「先生、また怒られたとぉ?」
「はい」
「懲りへんなあ、先生も」
「手伝いま~す」
「アタシも~」
「ああ、素手は駄目ですよ、人の血を触る時は、ちゃんと感染防止の手袋をして・・・」

「さっきとは別人ですね」
葛西が言うと由利子も頷いた。
「ほんとに。さっきはめちゃ怖かったのに、今はまるででっかい子どもみたい」
「というより、やっぱり孫悟空と三蔵法師の構図ですよ」
「でも、学生達には慕われているみたいやね」
「そうですね」
 由利子は、すでにここのバイトのことを本気で考えていた。秘書の紗弥も学生も感じが良いし、研究室の雰囲気も和気藹々としている。何よりもギルフォードの人柄が気に入った。日ごろの物柔らかい言動と、さっきの怒りで見せた熱血さ。面白い。彼にならなんかついて行けそうな気がした。彼がゲイであることなど瑣末なことに思えた。現に学生達はそれを知りながらも偏見なく彼を慕っている。バイトのことを尋ねられたらOKと言おう。由利子は思った。
 だが、由利子の選ぼうとしている道は、実は何よりも険しく辛いものになろうとしていた。もちろん、彼女にはそんなことは知る由もない。 

「僕、そろそろ帰らないと・・・。長居をしすぎてしまいました」
葛西が時計を見ながら言った。
「おや、残念です。でも、ジュンが居てくれて良かったです。メールの件、どうもありがとうございました」
「ウチの者がそのメールについて、事情聴取に来ると思います。テロについてはまだ警察では確定されてはいませんが、それとも関わりが深いということで」
「わかりました」
「あ、私もそろそろお暇(いとま)しようかと・・・」
由利子も言った。
「おや、ユリコもですか? すみません。バイトのことをいろいろ説明しようと思ったのに、ヘンなメール事件で予定がメチャクチャになりましたね」
ギルフォードは残念そうに言った。
「いえ、却ってこの研究室の雰囲気がわかって良かったですよ」
「そうですか・・・」
ギルフォードは元気なく言った。
「では、僕のオファーについては・・・」
「OKです」
「え?」
「バイトに雇ってください」
「いいんですか?」ギルフォードの顔がぱっと明るくなった。
「はい。まあ、次の仕事が決まるまでですが・・・」
「僕はてっきり断られるかと・・・」
それで元気がなかったのか、と由利子は思った。
「月曜に辞表を出します。有給休暇が余ってますから、来週半ばあたりから休むつもりですので、よかったらその辺りからお手伝いにこれますから」
「ありがとう、ユリコ!」
ギルフォードはガバッと立ち上がると、いきなり由利子を抱きしめた。
「ひゃぁあああ!」
由利子はいきなりの攻撃に、驚いて悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford!!」
紗弥と葛西が同時に怒鳴った。

 

 美千代はフラフラしながら、一人でラブホテルの廊下を歩いていた。指定した部屋に入り、途中薬局で買ってきた頭痛薬を飲むと、そのままベッドに突っ伏した。昨夜からどうも気分が悪かったが、午後から発熱したようで節々も痛い。しかし、病院に行く訳にはいかなかった。身元がばれて、またあの恐ろしい病院に連れ戻される可能性があったからだ。そうなったらもうお仕舞いだ。まだ明るいうちから、それも、一人でそういうところに入るのは気が引けたが、とにかくどこかで横になりたかった。背に腹は替えられない。
 ベッドに突っ伏して数分すると、確認の電話がかかってきた。ようやく身体を起こし、電話に出る。電話の向こうで無愛想な女の声がした。
「ご休憩ですね」
「はい・・・」
「失礼ですが、お1人?」
「後で連れが参ります」
「そうですか。ではごゆっくりどうぞ」
電話を切ると、美千代の意識はそのまま遠のいていった。

  
 森田健二は、今朝から気分が優れなかった。彼は臨時収入が入ったので、昨夜友人達を引き連れて繁華街でどんちゃん騒ぎをしたのだが、きっとそのせいで飲みすぎたのがまずかったのかな、と思った。昨日お持ち帰りをした女の子と、昼近くまで正体なく眠っていたら、彼女がやってきてひと悶着あったのち、二人とも出て行ってしまったので、彼は1人だった。部屋はひどい状態だったが片付ける気も起こらず、スポーツ飲料を一杯飲んだだけで午後からまた布団に倒れこんで死んだように眠ってしまった。
 夕方になると、機嫌を直した彼女が色々食材を買ってやってきた。健二は仕方なく起き出したが、気分はだいぶ回復していた。
「もう、だらしないなあ」
そう言いながら彼女は部屋を片付け始めた。やっぱり私がいないと駄目じゃない。健二はその後姿をぼうっと見ていた。気分は改善したが、少し頭痛が残っている。寝すぎのせいだろう、健二は考えた。その時、かかっていたテレビ画面がピカピカと激しく点滅をした。いつの間にかアニメが始まっていたらしい。それを見た健二の眼の奥がズキンと痛んだ。彼は反射的に目を押さえた。
「何よ、子どもみたいに」
彼女が健二の様子を見てからかうように言ったが、健二は両目を押さえたままうずくまって動かない。
「健? 健二!! どうしたん!?」
彼女は驚いて健二に駆け寄った。
「ううう・・・」と苦しそうに言いながら健二は彼女にしがみついて来た。
「きゃあ、どうしたの? しっかりしてよォ!!」
彼女は、おろおろしながら言ったが、しがみついてきた健二に押し倒された形になった。健二はそのまま動かなくなった。
「健! しっかりしてぇ~!!」
彼女が涙声で叫んだとき、健二の上半身が起きあがった。
「なんちゃって」
「ちょっとぉ! お芝居やったん? 本気で心配したやん、モォッ、いい加減にし~よ!!」
「ごめんごめん、クミ、面白かったんでつい」
「許すから、どいてよ。そろそろ夕飯の支度をしなくっちゃ・・・って、ちょっとぉ、何すんの」
「いいじゃん、ちょっとだけ」
「もお、少しは辛抱しなさいよ」
口ではそういいながら、クミはクスクス笑っている。健二は彼女がOKしたと考え、彼女のサマーセーターを捲り上げ、胸元に顔をうずめた。

 
 美千代が目を覚ますと、7時を過ぎていた。頭痛薬が効いたのか、気分はだいぶ良い。清算を済ませて外に出ると、美千代はまた夜の街に消えていった。

 

 由利子は、風呂から上がると紅茶を用意し、飲みながら恒例のブログ記事を書き始めた。今日はギルフォードの研究室を見学しに行って、色々面白い経験をしたが、内密な話が多すぎてうっかりしたことは書けないと判断し、もったいないが書くことを控えた。その代わり、「欧米人における、フルネームの魔力」というテーマで書くことにした。今日の体験もあり、なかなか面白いエントリーになった。読み直して文字のチェックを終え、ふんふんと鼻歌交じりで書き込みボタンを押す。アップされた記事をもう一度読み直すと、一箇所訂正漏れがあった。それを訂正し再々度読み直す。今度は完璧であった。
「よっし、おっけー!」
由利子はそういうと、背伸びをした。そのまま横を向くと、猫たちがベッドの上で正体なく眠っているのが見えた。二匹とも動物園のラッコが眠った時のような格好で並んで寝ていたので、ぷっと吹き出しそうなのをこらえて、携帯電話をこっそり取り出し写真を撮ろうとした。その時、ブーンと電話が震えた。
「うわっ!」
びっくりして電話を取り落としそうになり、焦って電話を持ち直したが、由利子の声で猫たちが目を覚まし、せっかくのシャッターチャンスを逃してしまった。
「ちぇっ! せっかく明日の記事のネタが出来たと思ったのに」
由利子はブツブツ言いながら、電話の相手を確認した。美葉からのメールだった。

「由利ちゃん、元気?アレクの研究室はどうだった?様子を教えてね。そうそう、実家から野菜とお菓子送ってきたから、おすそ分けします。今日送ったよ。市内だから明日には届くと思うよ。お楽しみにね。美葉」

「野菜とお菓子! 助かるなあ」
由利子は喜んでお礼のメールを出した。ついでに今日の様子も知らせる。とはいえ、機密事項が多すぎるので、研究室の雰囲気とバイトを受けたことだけを伝えることにした。ギルフォードがゲイということも、とりあえず伏せておいた。それは今度会った時に伝えよう。そう思ったところで、何となく眠くなってきたので時計を見ると、まだ0時にもなっていなかった。休みの日は夜更かしで、ともすると2時くらいまで起きていたりするのだが、なんとなく気疲れしたらしく、今日は早く寝ることにした。
 ベッドに入ると仰向けになり、両腕を組んで後頭部を支え、背伸びをする。そのまま両手を枕にして天井を見た。電気を消さなくちゃ、と思いつつ目を閉じると今日、葛西と一緒だった帰り道のことが思い出された。 

「ああ、おどろいた」
由利子は葛西と大学内を歩きながら言った。
「女性でも驚きますか?」と、葛西。
「そりゃあ、あんなでかい外人のオッサンにいきなり抱きつかれた日には、誰だって驚くわよ」
「しかし、あの『緊箍経』は、効きますねえ」
「あのアレクが、いきなりしょぼ~んってなったもんねえ」
由利子は思い出してクスクス笑った。
「欧米じゃ、本気で怒られる時はフルネームで呼ばれますから」
「子どもの頃、悪さばっかりしていて、しょっちゅうご両親に怒られてたって、いったいどんな子だったんだろ」
「今からは想像もつかんですねえ。・・・あ、篠原さん、僕、車なので最寄の駅まで送りましょう」
「え? いいんですか?」
「ホントはご自宅までお送りすべきなんでしょうが、なにぶん県警にまた寄らないとならなくなったんで・・・」
「いえ、そんな、駅までで充分だって。で、県警に寄るって、あのメールの件?」
「そうです。実際、このテロ事件、どう動いて良いのか警察の方も判断がつかないんです。アレクの資料は緻密で信憑性は高いのですが、いまいち決め手がない。相手が新種のウイルスらしいとまではわかっても、ウイルスが見つかったわけではない。犠牲になったという8人のうち、二人は事故で1人は暴行が直接の死因です。今回の挑戦状メールにしても、使用された雅之君の携帯電話を探すためにH埠頭の海中を捜索すべきか意見が分かれるでしょう」
「でも、テロ事件の重要な手がかりになるかもしれないんでしょ?」
「そうです。僕が怖いのは、こうやってもたもたしている間に感染が広がって、ある日いきなり病気が表面化する可能性があることなんです。厄介です。相手がナノワールドだと」
葛西はため息をついた。
「それと、もうひとつ気になることがあるんです。雅之君のおばあさんの・・・」
葛西はここで言葉を濁した。
「何?」
「いえ、これは聞かないほうがいいと思います」
「え~? いいじゃない、聞かせてよ」
「僕は、話したくないんです」
「どして?」
「悪夢です。事実、それを聞いた夜、夢に見てうなされました。興味があるなら今度アレクに聞いてください。それより・・・」
由利子は、是非悪夢を見るような話の方を聞きたかったが、葛西が本気で嫌がるのであきらめた。
「それより、何?」
「えっとですね・・・、あのですね・・・」
「だから、何?」
「はいっ! あのぉ、よかったら僕のことを『ジュンちゃん』って呼んで下さい」
「ぶはっ」それを聞いて由利子は吹き出した。「あ、ごめんなさい。ぷっ・・・ぷはははは・・・」
謝った先からまた笑いが込み上げてきた。
「すみません、下品な笑い方しちゃった・・・あははは・・・ジュ、ジュンちゃんて・・・」
「篠原さぁん」
「何、それ、いきなりアレクのマネして笑わせないでよ~~~。腹筋イタ~~~」
「僕は本気です!」
葛西が赤い顔をしてそういうのを聞いて、由利子は苦労して笑うのを止めた。
「本気って、何?」
「いえ、その、僕も篠原さんをユリちゃんって呼びたいなあと・・・」
「却下」
由利子は速攻で答えた。
「だいたい、何で歳下のあなたからちゃん付けで呼ばれなきゃなんないのよ。いいとこ『由利子さん』でしょ?」
「はい、すみません・・・」
葛西はまたしょんぼりとなった。K署での時と同じである。あまりにしょげ返ったので、由利子はまた噴出しそうになった。こいつ、ほんとに刑事っぽくないな、いい意味でも悪い意味でも。由利子は思った。
「まあ、焦らなくても、ひょっとしたらいつか、そういう風に呼び合うようになるかも知れないじゃない。確率はかなり低いけど」
かわいそうなので、由利子がフォローする。
「そ、そうですよね!」
葛西はそういうと、元気を取り戻した。
「それで、何と言って呼んでくれますか?」
「葛西君」
「せめて純平君で・・・」
「葛西君」
「いいです。それで」
葛西はガッカリしながら譲歩した。

「ヘンなヤツよね」
由利子はつぶやいた。背が高く、細身の優男に見えるが彼は一応警官である。しかし、由利子にはまるで子犬のようなイメージがあった。可愛いけど、果たして男としてはどうだろう。その時腹の上に、にゃにゃ子がずしんと乗ってきた。最近太り気味の彼女が乗ると、けっこうなダメージがある。そのせいで由利子は回想から現実に戻った。
「やーね、何を考えてるんやろ。寝よ寝よ!」
由利子は身体を起こすと電気を消した。腹の上に乗っていたにゃにゃ子が転げ落ちて、また「ニャアっ!」と文句を言った。
「あ~、ごめんごめん」
由利子はにゃにゃ子を抱きかかえると、布団の中に入れ、にゃにゃ子を抱きしめたまま、ことんと眠りに入った。寝つきの良いのが取柄であった。抱きしめられたままのにゃにゃ子は、必死で由利子の腕をすり抜け、枕元に座り、「にゃっ!」と鳴きながらしっぽバンをした。その時、尻尾の先が由利子の頬に触れたが、「う~~~ん?」と言っただけで彼女が目を覚ます様子はなかった。由利子が起きそうにないので、仕方なく、にゃにゃ子ははるさめの傍に行って丸くなった。

 

 由利子が平和な眠りについている頃、繁華街の路地の片隅に、女が倒れていた。皆酔っぱらいだと思ったのか、あるいは暗くて気がつかないのか、誰も助けようとする気配がない。女は美千代だった。彼女は今夜の獲物を得るためにここまでやって来たのだが、ついに力尽きて倒れてしまったのだ。カッカッとハイヒールの音を響かせて、女が歩いてきた。彼女は美千代の傍で足を止め、美千代を見下ろした。タクシーがすぐ傍を通り、ヘッドライトが彼女の顔を照らした。花粉対策用のサングラスにマスクをつけた、この場所にそぐわない奇妙な姿が浮かび上がった。遙音涼子だった。涼子は無表情で美千代を見下ろしていた。



(「第五章 出現」 終わり)

|