20XX年6月7日(金)
まだ暗い明け方、女はすでにシャワーを浴び身だしなみを整えていた。男の方は、死んだようにぐっすりと眠っていた。女は寝ている男に近づき、ベッドの脇に座ると愛おしそうに彼の頬を撫でた。
「うーーーん、美夜さん、ごめん、疲れちゃった。もう少し寝かせてください・・・」
森田健二はそういうと寝返りをうって布団に潜り込むと、すぐにまた深い眠りに入った。美夜子は、布団から少し覗いた健二の横顔を見つめながら、妖しい微笑を浮かべてささやいた。
「健二君、知ってる? ウイルスってね、生物の細胞から生まれるの。私の身体に中にはね、まあちゃんの細胞から生まれたウイルスが育ってるんだって。まあちゃんは死んじゃったけど、まあちゃんのウイルスは生きているの。生きていて新しい身体をさがしているの。だから、まあちゃんのウイルスをあなたにもあげたの」
そう言うと、彼女はクスクスと笑った。
「だから、あなたはもう私の子どもね」
美夜子こと美千代は、健二の頭を撫でながら、クスクスと笑い続けたが、その頬には涙が伝っていた。健二は何も知らずにただ眠っている。
「愛しい子。でも、私はもう行かなくちゃ」
美夜子は、健二の額に軽くキスをすると、ベッドから立ち上がった。
「約束どおり、ホテル代と、あと、すこしお小遣いを置いていくわね」
彼女はベッドサイドの机に座ると、メモに「ありがとう。美夜子」と走り書きをした。そして財布から一万円札を無造作に数枚取り出すと、メモの横に置いた。
「お金なんて、私にはもうどうでもいいの。夫と同じようにね」
そういうとまたクスクス笑った。そしてため息。美夜子は立ち上がると、バッグを持ってドアに向かった。その後健二の方を一瞥すると、そっとドアを開けて部屋を後にした。何も知らない健二は、幸せそうにひたすら眠り続けていた。
ウイルスは、他の生物の細胞で増殖する。遺伝子とそれを包むタンパク質の殻しか持たないウイルスは、自力で増えることができないため、他の生物の細胞を工場代わりに使って自分の設計図(遺伝子)を複製していくのである。すなわち、そのウイルス工場と化した細胞で出来たものは、宿主の細胞とはまったく別物の、遺伝子と外殻だけの不完全な生命体なのだ。それゆえにウイルスを生命体として扱わない学者もいるのである。
ウイルスに寄生された細胞は、ひたすらウイルス粒子を増産し続ける。そしてウイルスが細胞いっぱいになると、細胞膜を破ってウイルス粒子が放出される。そのウイルス粒子の一つ一つがまた他の細胞に取り憑き、自身のコピーを増やし続けていくのだ。
ウイルスの中で息子の細胞が生きているように錯誤させるようなことを、一体誰が美千代に吹き込んだのだろうか。そして、今は美夜子と名乗る美千代はそれを信じ込んでいた。もともと自己中心的な性格だった上に科学的知識も乏しく、騙されやすい女性だったが、普通の精神状態ではおそらくこんなことを信じることは無かっただろう。しかし、子どもを失って心が壊れかかった彼女を、マインドコントロールすることが容易かったのは想像に難くない。さらに、美千代は自分のしていることが何を意味するのか、ほとんど理解していなかった。
そんなことなど夢にも思わない健二が、呑気に目を覚ましたのは日も高く昇ってからだった。起きてから、すぐに隣を見たが、美夜子の姿は無かった。驚いて部屋中を探してみたが、姿はない。さて、あれは夢だったのかと思ったが、サイドディスクにお金が置いてあることに気がついた。数えてみると10万円ほどある。健二は少し首をかしげたが、嬉しそうにその臨時収入を手に取った。
「こんなことって、本当にあるんだ」
よく、スパムメールにある、年増の有閑マダムを相手してお金をもらうという話だが、もちろん健二はそれを馬鹿馬鹿しいトラップだと一笑に付していた。しかし、自分の体験はまさにそれじゃないか?
だが、それがやはりトラップであり、美味い話には多大なリスクが伴うこと、結果、その代償にお金より大切なものを払う破目に陥ることを、健二は後に身をもって知ることとなる。
西原祐一は今、クラスで半ば孤立状態にあった。彼は昨日からまた登校を始めたが、一連のことはもうウワサとして広まっており、皆腫れ物を扱うように祐一に接していた。祐一は休んでいたが、祐一が警察から解放された翌日、つまり、秋山雅之が死んだ翌日である水曜日に全校集会があり、雅之の事故死についての話があったらしい。それは、あくまで事故についてであって、雅之のホームレス殺しについては一切触れられなかった。祐一も公には病気で休んでいたことになっていた。
秋山雅之の机の上には花が飾ってあり、彼が死んだことを否応なく思い起こさせる。
(まだ、たった1週間前の出来事なんだ・・・)
自分達の運命を変えることとなったあの事件。雅之が人の命を奪い、その後自らも無残な死を迎えることとなった忌まわしい事件。祐一は、この事件になにか釈然としないものを感じていた。昼休み、教室で、校庭で、みんながいつものように休み時間を楽しんでいる。しかし、そのいつもの風景が祐一に違和感を感じさせていた。今まで見ていた世界と違った、どこか離人的な感覚。それは、祐一の心がまだほとんど癒えていないことを示していた。
祐一は、今日学校に行く前に近所にある雅之の祖母の家と、少し遠回りして雅之の家の様子を見てきたが、両方とも、「立入禁止」の黄色いテープが張り巡らされており、警官が数人で見張っていた。周囲には消毒液の臭いが漂っている。しかし、それは、祖母の家の方が強烈だった。雅之と一緒にいた田村勝太は、友人の死を目の当たりにしたショックのケアという名目で、入院させられている。噂によれば、雅之の両親や雅之の祖母の第一発見者達も、病院に居るという。
(やはり、雅之は危険な病気に罹っていたんだ)
と、祐一は確信した。これは、なにか大変な事の起きる前触れではないだろうか。祐一は何か知っている風なギルフォードに、問い詰めてみるべきではないかと思った。しかし、彼にはなにか危険そうな雰囲気があるように思われ、それが祐一に迷いを生じさせていた。それで、パスケースに入れているギルフォードの名刺を半分出してぼんやり見つめていると、そこに佐々木良夫がやってきた。
「西原君、考え事?」
良夫の声に、祐一は名刺を素早くパスケースに納め、ポケットに入れた。良夫は、一人ぽつんと机に座っている祐一を心配してやって来たのだ。成績優秀で明るい性格の祐一は、ついこの前まで、いつもクラスの中心にいて友人達と楽しそうに過ごしていた。しかし、雅之の件と祐一が警察に一泊した事などが誰からともなく広まってしまい、その上彼自身、強いショックから立ち直れずにいたため、近寄りがたい雰囲気を彼にまとわりつかせていた。良夫の方は、もともと内向的な性格であまり多くの友人との交流もなく、いつも祐一の傍に影の様に貼り付いていたので今までとさして変らない状況にいた。むしろ、祐一を独占したような気持ちがどことなくあるような感じだった。
「あ? ああ、ちょっとね」
祐一はそう答えると、左手で頬杖をついて再び考え事に没頭した。良夫は近くにある自分の席から椅子を引っ張ってくると、祐一の傍にちょこんと座って本を読み始めた。
さて、ここにも腫れ物を触るように扱われている者がいた。由利子である。由利子のほかにも退職者はいたが、皆自主退職で肩を叩かれたのは由利子だけだったのが、余計に面白くない。今日は黒岩も弁当を食べに来なかった。やはり、気まずいのだろう。由利子は手製の特製サンドウィッチをぱくつきながら、半ばやけっぱちで堂々とハローワークの求人サイト内を検索していた。
(ひでぇ、ロクなのがないじゃないよ)
由利子は口を尖らせた。それでなくても不況が続いているのだ。由利子の歳になると、それなりの資格がないと就職には不利になってくる。ましてや女性の場合となると、さらに厳しくなってしまう。
「やめたやめた!」
由利子は独り言を言うと、机に突っ伏してつぶやいた。
「やっぱ、『永久就職』しとくべきだったかしら・・・」
そして、昼寝に突入した。
20XX年6月8日(土)
見覚えのある家の階段の途中で、少年が倒れていた。
(どうしたのかしら?)
美千代は心配になって駆け寄ると、その少年は血を吐いて倒れていた。彼は涙を流しながらうわごとのようにつぶやいていた。「母さん、どうして早く帰ってきてくれんと・・・?」
「まあちゃん?」
美千代は凍りつくように立ち止まった。雅之は人の気配を察したのか、薄目をあけて何か言いたげに美千代を見、左手をまっすぐ彼女の方に伸ばした。気がつくと、周りはあの列車事故現場に変っている。カンカンと警鐘が鳴り響き、救急車やパトカーのランプがせわしく点滅をしていた。雅之は血だらけで転がっていたが、半身のほぼ潰れた状態でじわじわと美千代ににじり寄りながら言った。
「助けて、母さん、苦しいよ、助けて・・・」
美千代は飛び起きた。体中汗だくであった。
「夢・・・?」
美千代は周囲を見回した。そこは今日の宿に決めた市内の風俗営業のホテル、いわゆるラブホテルで、傍らには昨夜とは違う若い男が眠っていた。美千代のような女がそのようなホテルを選んだのは、彼女の捜索がすでに始まっており、正規のホテルに泊まるにはリスクが大きくなってきたからである。しかし、この手のホテルにありがちな過剰な装飾が、美千代には却って空虚さを感じさせた。
「まあちゃん、ちがうの。私はあの時、あなたが思ってたようなことをしてたんじゃないのよ」
美千代はそうつぶやき、両手で顔を覆うと声を殺して泣き始めた。
実は、美千代は友人から無理矢理誘われて行った、ある新興宗教の集会で、教祖の魅力に取り憑かれてしまったのだ。それから集会に足しげく通うようになり、教主の話に酔いしれていた。あの日も、まさか息子が高熱を出すとは思いもよらず、お茶会を兼ねた勉強会に出席していたのだ。
たしかに、夫を裏切るような行為をしてしまった事はある。「入心の儀式」で、信者の男と交合したのである。まだ若い男だったが、むせ返るほど立込めるお香の中、夫とのそれとは比べられないほどの恍惚感と一体感を味わった。そして、美千代は夫や息子に秘密にしながら、どんどんその宗教に没頭していったのである。
6月5日の朝、美千代は感染症対策センターで、診察のために呼ばれた。夫から離されて不安な思いで部屋を出たが、そのまま医者に会うこともなく看護師に連れられ、裏口に待機していた車で外に連れ出されたのである。美千代を乗せるとすぐに車は発進した。美千代を連れ出した看護師は、車の姿が遠くに消えたのを見届けると、何食わぬ顔で病院の中に戻っていった。
美千代が車に乗ると、後部席に座った教主がにこやかに笑って迎えてくれた。
「ああ、あなたが脱出できて良かった。もう二度と外に出られないところだったんですよ」
「教主さま・・・!?」
美千代が驚いて言うと、教主は微笑みながら穏やかな声で言った。
「『教主』と呼ぶのはお控えください。父(教祖)の教えを踏襲する者として、すべての信者の兄として、『長兄』とお呼びください」
「そ、そうでしたわね」
美千代はこんなに間近で教主を見たのは初めてで、かなり動揺していたが、それ以上に、いつもは都心に近い総本山で暮らしているはずの教主が、こんなところにいることが信じられないでいた。すると教主はそれを見越したように言った。
「あなたがあの病院に入れられたと聞いて、驚いて脱出の手配をいたしました。あそこは国の機関ですが、以前から米軍の息がかかっているというウワサがあるのです」
「ええっ? そんなに恐ろしいところだったんですか?」
「そうです。外国人の大きな男がいたでしょう? 彼は、以前米軍の細菌研究所に居たのです。恐ろしい経歴を持つ男です」
「そんなところから、よく私を連れ出すことが出来ましたのね・・・。それも長兄さま自らが指揮されて・・・!!」
教主の言葉を微塵も疑うことなく、美千代は感動して言った。
「私たちの仲間は、至る所にいますから。財界や政界、警察にすら。ですから、そう難しいことではありません」
教主は、いとも簡単に言ってのけた。しかし、その後彼の顔は急に辛そうな表情になった。
「美千代さん、本当に申し訳ないと思っています」
美千代は教主が何を言っているのかわからずきょとんとして彼を見つめた。
「あなたの息子さんは、あなたが我が教団の集会に出ている間に、具合が悪くなったそうですね。あなたの友人である信者から聞いてびっくりいたしました。衆生を救うべきが逆に苦しめてしまいました。あなたが帰ってくるまで息子さんがどんなに心細かったかと思うと心が痛みます。ましてや、その数日後事故で亡くなる運命であったということを考えると、よけいに不憫でなりません」
そういうと、教主は涙を浮かべながら美千代の手を握った。
「息子さんは本当にお気の毒でした。彼の前途は洋々たるものであるはずでした。志半ばで倒れるとは、どんなにか無念であったことでしょう。どんなに恐ろしく、そして、痛かったことでしょう」
「長兄さま・・・」
教主のいたわりの言葉に、美千代の麻痺していた心が氷解し、両目から涙があふれた。嗚咽が口から漏れ、美千代は両手で顔を覆って号泣した。
「可哀想に、可哀想に・・・。あなたも辛かったでしょう。泣きなさい。思い切り泣きなさい。がまんしなくていいのですよ」
教主は美千代の背中をさすりながら優しく言った。しばらくして、美千代はようやく落ち着きを取り戻した。
「すみません、私ったら子どもみたいに・・・」
美千代が手で涙をぬぐおうとすると、教主がハンカチを差し出した。
「取り乱されるのは当然のことですよ。息子さんを失われたのですから・・・。どうか、お使いください」
「す、すみません」
美千代は恐縮しながらもそれを受け取った。
「それはあなたに差し上げましょう。気にせずにお使いください」
「ありがとうございます」
その上品な白い絹のハンカチはうっとりするようなよい香りがした。美千代は、それで涙をぬぐうと、ふうっとため息をついた。美千代が落ち着いたのを見計らって、教主は向かいの席に座っている女性を紹介した。
「彼女は遙音涼子。我が教団が誇る医師にして天才ウイルス学者です」
涼子は美千代に軽くお辞儀をした。彼女は美千代よりだいぶ年上だが、知的な美しさを感じさせる女性だった。美千代も軽く礼を返した。
「遙音先生は、あなたが息子さんを連れて行った病院に依頼され、彼の血液を調べたのです。すると・・・。いいですか? 心してお聞き下さい。あなたの息子さんは・・・」
美千代は息を呑んで聞いていた。
「新種のウイルスに感染していたのです。それは、人類を振り分けるウイルスです。このウイルスは短期間で人を死に至らしめます。しかし、選ばれた人は生き残り、その後、どのような病気にも感染しなくなります。つまり、強毒性インフルエンザのような疫病のパンデミックがおこっても必ず生き残るのです。まさに『サバイバー』です。残念ながら、息子さんは選ばれし者かどうかわかる前に事故で亡くなられましたが、彼から生まれたウイルスは生きています」
「生きている?」
思いもしなかった教主の言葉に美千代は鸚鵡返しに尋ねた。
「そうです、生きているのです。ウイルスは、人の細胞から増えるのです。雅之君の細胞で育ったウイルスは生きています。さあ、美千代さん、顔を上げて私の顔をしっかりと見てください」
教主の独特な声色に誘導され、美千代はゆっくりと彼の方を見た。その瞬間、彼の目に惹き付けられ身動きできなくなってしまった。
「息子さんのウイルスは、今はあなたの身体の中で育っています」
教主は静かな声でゆっくりと言った。
「まあちゃんのウイルスが私の中にいる・・・」
「そうです。あなたの中に生きているのです。あなたの使命は、雅之君から生まれたウイルスを多くの人に広めることです」
「私の使命・・・。まあちゃんのウイルスを広める・・・」
「そうです。辛いですが崇高な使命です。出来ますか?」
「はい」
「それ故に夫を裏切ることになりますが、出来ますか?」
「はい」
「もっとも効果的なのは、あなたの血液のついた針を相手に刺すこと。これは、確実ですが怪しまれます。それから相手に血液や体液を浴びせること。しかし、これは論外ですね。残るは、最も古典的な方法です。HIV・・・エイズを短期間で世界中に広めた方法、つまり・・・、わかりますね?」
「はい」
「出来ますか?」
「・・・はい」
「よろしい」
教主はそういうと満足げに微笑んだ。しかし、美千代に恐ろしい行為をさせようとしているのに、その笑みは無邪気で邪悪さは微塵もない。美千代は教主の一言とともに体の自由を取り戻したが、自分が一時催眠状態だったことには全く気がついていない。
「でも・・・」と、美千代は気がかりを言った。「まあちゃんのお葬式は・・・」
「おそらく、このままでは雅之君のご遺体は返ってこないでしょう」
教主は言った。
「雅之君だけではなく、お義母さままで亡くなられ、あなたとご主人は病院から生きて出ることが出来ない。そのような状態で、雅之君のご遺体がどのような扱われ方をするか、想像に難くないでしょう?」
「そんな・・・」
美千代は蒼白になって言った。
「それじゃあ、まあちゃんはお葬式すらしてもらえないの?」
「おそらく、細胞の一片まで研究に使われ、その挙句、危険な医療廃棄物として捨てられる可能性があります」
見る見る顔が歪んでまた涙があふれそうになる。そんな美千代に教主は優しくそして力強く言った。
「ご安心なさい。美千代さん、雅之君のご遺体は、我が教団の力で必ず取り戻してご覧にいれます。その間、あなたはあなたのお勤めをお果たしください。雅之君のご遺体が戻ってきましたら、お迎えに上がります。教団を挙げて御葬儀を執り行いましょう」
「長兄さま・・・。ありがとうございます。なんとお礼を言って良いのか言葉が見つかりません・・・」
美千代は、今度は感動と感謝の涙を浮かべて言った。じわじわと蜘蛛の糸に絡み取られているのも気づかずに・・・。
「今、安全なところまであなたをお連れしています。我々があなたをお助け出来るのは、取りあえずここまでです。その後は私たちから連絡があるまで、あなたの判断で行動してください。・・・おっと、その前に身だしなみを整えないといけませんね」
美千代は前日家を出たままの、着の身着のままのすがたであった。
「では、まず教団の支部に向かいましょう。」
そういうと、教主は運転手に指示した。車は美千代を乗せたまま何処かに走り去った・・・。
―――しばらく泣くと、美千代の気持ちはかなり落ち着いてきた。しかし冷静になったため、ふと横に寝ている若者を見て、自分が何故このような行為をしているのかという疑問が一瞬頭を過ぎった。実際、面白いほど男達は『美夜子』の誘いに乗ってきた。それが地獄への誘いとも知らずに。しかし、美千代にはそれに対しての罪悪感はまったく感じていなかった。さもあらん、美千代は息子のため、そして教団のため、崇高な使命を果たしているのだから。しかし、そのはずなのに、心に迫ってくる、この空しさはなんだろう・・・? だが、それは自分に対する全否定でもあった。美千代はその疑問を押さえ込んだ。その代わり、もう一つの思い・・・怨念とも言うべき思いが頭をもたげてきた。わたしのまあちゃんは死んだのに、何故西原祐一は生きているのだろう・・・。あいつさえ、いらぬことをしなければ・・・。それは明らかな逆恨みであった。どう考えても、雅之の犯した犯罪を全身で受け止めてしまった祐一は、被害者である。しかし、水に落とした一滴の墨汁が水を黒く濁らすように、その考えは美千代の心にどす黒く広がっていった。
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