3.暗転 (1)ブルー・クライシス
日曜日だが、由利子はいつもどおりに目覚めてジョギングをしていた。
折り返してから半分くらい走っただろうか、由利子はいきなり声をかけられた。
「おはようございます、篠原さん」
驚いて声のほうを見ると、若い男が駆けてきた。
彼は由利子の前まで来ると足踏みをしながら言った。
「お久しぶりです。僕を覚えていらっしゃいますか?」
「あ、あなたは長沼間さんの部下の…」
と、由利子も足踏みをしながら言った。
「そうです、そうです」
「たけむらさん、でしたね」
「僕があなたに顔を見せたのは一瞬だったと思いますが、あの状況で顔だけじゃなく名前まで覚えるなんてすごいです。噂は本当だったんですね」
「ウワサ?」
「ギルフォード先生のところには、人間顔探知システムがいるって、もっぱらの評判ですよ」
「ええ?」
「あ、申し遅れました。私は今日からあなたの朝のジョギング時の警備を任された、武邑です。改めてご挨拶いたします。宜しく」
「たけむらさんは、確かあの数日後に大怪我をされたんじゃなかったですか?」
「そうです。瀕死の状態でしたが数日前にようやく退院しました。実はそのリハビリを兼ねて朝あなたの護衛をするよう指令を受けました」
「それって長沼間さんから?」
「そうです。てっきり閑職に回されるとばかり思っていたのですが」
「見かけによらず人情家ですよね、あの人」
「そうです。非情に見えてどこか甘い…」
「え?」
「でも、そういうところが大好きなんですよね、僕は」 武邑は爽やかに笑って言った。「まあ、こういう所で足踏みしながら話すのも変ですから、走りましょうよ」
「でも、大丈夫なんですか?」
「もうすっかり元通りです。あなたを守るのも葛西さんには負けませんから」
そう言うと武邑は走り出した。
「ジョギングでも負けませんよ」
「私だって」
由利子も対抗して駆け出した。
しばらく走っただろうか、武邑が空を見上げて言った。
「いい天気ですねぇ、梅雨も明けたかな?」
「もうちょっとかかるんじゃないですか?」
「そうですね。豪雨とか来なきゃいいけど」
「それが心配ですね。明日の朝晴れて欲しいけど…」
「明日? ああ、明日の早朝はフィナーレでしたね。僕も警備に出動しますよ」
「そうですか、大変ですね」
「今日はお休みですね。家でゆっくりですか?」
「そうしたいところですが、昼からちょっと出かけます」
「お買い物ですか?」
「まあ、そんなところです」
「女性はそういうストレス発散の場があっていいですねえ」
「買いすぎてクレジットカードの請求を見て却ってストレスになったりしますけどね」
「ははは、くれぐれもご利用は計画的に、ですよ」
「そう心がけます。あ、そろそろ着きますね。それではこの辺で…」
「あ、マンションのエントランス前までお送りしますよ」
「え? いえ、大丈夫ですよ。もう明るいし」
「周囲の様子も知りたいんで、ご遠慮なさらずに」
警官にそう言われると由利子もそれ以上言えなくなった。
武邑はエントランス前まで律義に送ると、由利子に言った。
「明日からは、若干距離を置いて護衛します。背後に気配がするかもしれませんが、お気になさらずに」
「はあ、ありがとうございます」
「ではっ!」
武邑はそのまま踵を返して去っていこうとしたが、数歩走って振り向きざまに言った。
「篠原さん、あなた、今日からでも警官の奥さんになれますよ」
彼は最後にニコッと笑って去って行った。
「何言いよぉとかね」
由利子は首をかしげながらエントランスに入った。武邑はかなり童顔で、背丈も由利子とあまり変わらないが、けっこういい男で人好きのする笑顔は相手を油断させるに十分だった。見ただけでは彼が公安警察と見抜ける者はほぼ居るまい。由利子は武邑が別れ際に言ったことが正直かなり嬉しかった。しかし、反面、さりげない会話の中、彼に何がしか探られたような気がした。
(ちょっと気を許せないって感じかな。まっ、警察ってのはそんなもんかもしれんけど、葛西君はもっとのほほんとしてるよな)
由利子は気を取り直してそう思ったあと、口に出してつぶやいた。
「まー、それもどーかと思うけどね」
そして、由利子は照れくさそうに笑みを浮かべているのに気付いて苦笑いをした。
武邑は由利子と別れてからしばらくすると、ププッと噴き出した。しかし、すぐに真面目な表情に戻った。
(何か聞き出せるか試してみたけど、思ったより用心深いな、彼女は。俺に配慮して俺が警官だとわかるような言葉は微塵も出さなかった。ただ、今日自分が外出する事を言ってしまったのは迂闊だと言えなくもないな。俺が警察官ということで油断したのかもしれないけど…)
武邑は軽快な足取りの走りを止めて由利子のマンションの方を見た。
(まあ、仕事だからな。全力で守ってやるさ、篠原さん)
「クシュン! 」
ドアを開けて部屋に入りざまくしゃみをした由利子は、鼻と口を抑えて呟いた。
「何か変なモノが飛んでたのかなあ。後で大気汚染情報見なくちゃ」
しかし、お腹をすかせて玄関先にまで迎えに来てじゃれる猫たちに急かされ、先ほどの不安はすっかり消えてしまったのだった。
振屋は怯えてベッドにうずくまっていた。早朝に病室へやって来た遥音医師からサイキウイルス反応が陽性だったことを告げられた。遥音は表情も変えず「すぐに専用の病室に移します。最善を尽くしますから」と言い残し、ろくに説明もせず無情にも立ち去っていった。
しかし、振屋には遥音から告げられなくとも感染を確信していた。既に体のあちこちに小さい内出血が起こっていたからだ。
しかし、待っていても一向に迎えの来る気配がない。不安に思っていると、いきなりドアが開いて医療用防護服を着た中背で瘦せぎすの男と小柄な男が入ってきた。振屋はその瘦せぎすの男の顔を見て驚いた。
「月辺参謀…」
「降屋。 その体たらくはなんだ? 貴様には大いなる碧珠の守護天使としての自覚はないのか?」
驚く降屋に月辺は冷徹に言った。それは怒号ではなく、むしろトーンの低い冷ややかな声だった。降屋はうろたえた。
「申し訳ありません。しかし長兄さまが私を…」
「たわけたことを言うな。このウイルスに感染したら助からんということは、お前が良く知っているだろう。となれば、ガーディアンであるお前がすることは一つしかあるまい?」
「それは、長兄さまの御意向でしょうか?」
「長兄さまはな、昨日から腹心の部下である貴様を助けようと東奔西走しておられる。だが、そのために我々の碧珠浄化計画に支障をきたす恐れがある。それを考慮するなれば、貴様のすべき事は自ずから解るはずだ。城生(じょう)、持ってきたものを」
父に促され、息子は肩に掛けていたビジネス用ショルダーバッグを振屋の足元に置いた。
「これの使い方はお前に任せよう。碧珠のお導きに従え。さらばだ、振屋」
月辺はそれだけ言うと、息子を連れて去って行った。振屋はしばらく呆然としていたが、かがみこんでバッグの中を確認し、そのまま床にへたり込んだ。数秒の沈黙の後、振屋は涙を流しながら笑いだしていた。
振屋の病室を後にしてから、城生は何か思いつめたような表情をしていたが、思い切ったように父に尋ねた。
「父さん、振屋はあれを使うでしょうか?」
「あれは自分の役目というものをよくわかっている」
月辺はそれ以上言わなかった。城生は強張った表情で頷いたが、それに気づいて月辺が問うた。
「何を浮かない顔をしているのだ」
「ヒロキ兄さん、いえ、振屋には小さい頃から良く世話になっていたので、感染してしまった事が信じられないのです」
「次期幹部を目指すと豪語している割に小心だな」
そう言われて城生はむっとした表情で言った。
「想定外なことに驚いただけです。あの、自信に満ちていた兄さ…振屋があのようになってしまうなんて」
「運命は受け入れがたいものよ。だが、振屋は碧珠に選ばれたのだ。世界浄化の為の聖なる矢として。奴は必ず実行するだろう」
「それは、振屋の意思で でしょうか」
「当然だ。おまえもその時が来たらそれに従うだろう。勿論、私もな」
「幹部であってもですか」
「当たり前ではないか。碧珠の為には己だけ安全圏におる訳にはいかん。我々は碧珠のガーディアンなのだ。おまえもその自覚を持て」
「持っているつもりですが、覚悟が足らなかったのかもしれません。」
話している間に駐車場の車の前に着いたので、二人は乗車した。
しばらくたって、月辺が息子に言った。
「私が何故、この組織に入ったのか教えていなかったな」
「はい。まだ早いと言って話してくださいませんでした」
「そうだったな。私にはおまえにそれだけの覚悟があるかどうか計りきれなかったからだが、この機会に話しておこうか」
と、月辺は運転のスピードを下げ、車を停車帯に止めると話し始めた。
「私は若い頃、教団の奉仕の一環として、教祖様…即ち長兄様の父上と世界中を回って環境汚染の実態を調べていた。そこで、私は見たのだ。思っていたよりはるかに上回った人類の自然破壊の現状を。牙や角、あるいは毛皮を取るためだけに大量に殺され打ち捨てられた動物たち。誤食したビニール袋を胃や腸に詰め死んだウミガメ。核実験の放射能で方向感覚を奪われ、浜で大量死したウミガメの子。悪者として目の敵にされ大量に狩られるオオカミたち…例を挙げるだけで枚挙に暇(いとま)がない。それらを見続けていく内に私の脳裏に一つの疑問が生まれ始めた。人間さえいなければ、こんなことは起こらなかった。果たして人間はこの星に必要なのかと。
それは、アフリカのワタカ共和国の事件で確実となった。ワタカ国には最初、教祖様と私を含む幹部候補数名とで訪れた。その時、ワタカは独立したばかりだった。教祖様は、その国が争いを避け国連の仲介の下、地道に話し合いを続けた結果独立を果たしたことに非常に興味を持たれていた。独立をしたばかりのワタカは平和で活気に満ちていた。我々はこの国の安全を確信し、まだ少年だった長兄さまの訪問地の一つに決めた」
月辺はそこで一息入れた。城生は黙ったまま続きを待った。
「その後、教祖様は長兄様とお二人で世界一周の旅に出られた。我々も付いて行こうと申し入れたが、どうしても親子二人で行きたいとおっしゃって、やんわりと拒否をされた。今思えば、強引にでもご一緒するべきだった。そして、滞在先のワタカ国のマウアという村でウイルス過に巻き込まれてしまった。そこは無医村で、医療の心得のあった教祖様はバタバタを倒れる発症者を見捨てることが出来ず、長兄さまを助手に一人看護にあたった。そして、数キロ先のチサ村というところにWHOから派遣された医師団が来ているという情報を得た教祖様は、重症患者を連れてそこに向かった。しかし、そこに留まり感染者の世話をしておられた教祖様は長兄様共々感染し、教祖様はその村で身罷(みまか)られてしまった。長兄さまは幸いにも米軍の医療チームに救出され一命を取り留められた。教祖様がお連れした患者のうち二人はチサ村に派遣されていた医師により回復した」
「教祖様がアフリカで亡くなられたことは、教わっています。ワタカ国でも感謝され、名誉国民として記念碑も作られたとか」
「その通り」
「でも、確か、ワタカ国は今…」
「そうだ。今はもう存在しない。隣国に攻め込まれ、国民の約半分が虐殺された。教祖様が命がけで守ったマウア村の人たちもな。私は教祖様の死後、1年ほどして渡航許可が下りたのでマウア村とチサ村に行った。教主様が命を懸けて守った場所を知りたくてな。そこで私が出会い、交流を持った者たちも殺されてしまった」
話を聞きながら、城生は一言も発する事が出来なかった。
「私はあの時二つの村から大歓迎され、子供達から長兄様に感謝し回復を祈る手紙をもらった。大統領にも会い感謝され、教祖様を名誉国民として讃え記念碑を建てたいという申し出を受けた。私は誇り高かった。教祖様を失った我々に、ワタカ国の人々は希望を与えてくれたのだ。そうだ、教祖様は身罷られたが長兄様がおわすのだ。我々は教主となられた長兄様を立て、教団の再建に努めた。そして、その数年後教団が元の力を取り戻し軌道に乗り始めた頃、恐るべき知らせを受けたのだ。ワタカ国が壊滅したと…」
「言葉もありません…」
「その時の長兄様のお嘆きは大層なもので、せっかく健康を取り戻しておられたのがまたひと月ほど寝込まれてしまった。その頃から長兄様は神懸かったことを言われるようになられた。
そしてある日、突然長兄様が言われたのだ。このままヒトという種に世界を支配されたままでいいのだろうか、と。それは、アメリカ同時多発テロからイラク戦を経て、世界が混沌としていた時だった。そしてそれは、奇しくもワタカ国壊滅以来私の脳裏から離れなかった事と同じだった。
その後半年たっただろうか。長兄様は1人の女性を連れてきた。彼女はウイルス学者で遺伝子操作の天才ということだった。それゆえ、各国からの争奪戦に巻き込まれた挙句、某国から数度にわたり拉致されかかり、このままでは命も危ういということで、教団で保護したのだ。それがリョーコ・レーヴェンスクロフト(Ravenscroft)、遥音涼子だった。人間の愚かしさを骨身に知り、極度な人間不信に陥っていた彼女は、長兄様のプランに賛同したという。そして、長兄様は言った。彼女に最強のウイルスを作ってもらおうと。
かつて、最も戦争を終わらせた原因は感染症だ、と長兄様は言われた。第一次世界大戦はスペイン風邪、すなわちインフルエンザの蔓延により終了した。もし、第二次世界大戦の時にもインフルエンザのような強力な感染症の世界的流行が起きていれば、日本に原子爆弾は落とされず終戦を迎えたかもしれない、とも。
『もし今、致死性が高く感染力の強い未知の疫病が世界中に蔓延すれば、人類は争いどころではなくなりましょう。ヒトという種の支配から逃れたこの碧珠は、真のユートピアとなりましょう』。この長兄さまの言葉に私達は心酔した。冷戦終了後、平和な時代が来ると思っていたわたしは、9・11後の混沌とした世界に失望していたからだ。長兄さまはこうも預言された。『今後、憎悪の連鎖により、世界はますます混沌としていくでしょう。何れ核兵器がさく裂するか、そうでなくても重大な原発事故で碧珠は汚染されましょう。その前に、人類を碧珠の支配者から引きずり下ろすべきなのです』、と」
月辺はそこまで言うと言葉を止めた。表情にこそ出さなかったが、蘇った感動が彼の胸中にわきあがったのだ。城生はそんな父を仰ぎ興奮して言った。
「まさに! いま、世界はそのようになっているではありませんか。人類の存亡を左右しかねない原発事故は実際に2度も起きています。しかも現在の世界情勢は、いつ核テロが起こってもおかしくありません。そうなれば、攻撃された国の指導者が報復に核弾道を使うやもしれません」
「幾人かの信頼できる碧珠の民の賛同を得、我々は教団を母体とするものの教団とはまったく別の地下組織を作り上げた。もちろん、碧珠浄化計画のための組織だ。名前もそれらしく『タナトスの大地』と命名した。そして、我々は遥音チームと共に、あるウイルスを元に『新型』ウイルスを作り上げた。それがタナトスウイルス、世間ではサイキウイルスと呼ばれるウイルスだ。お前もこの組織について知らされている数少ない信者の一人だ。そして、私は今、お前に詳しい経緯を教えた。これからはお前も組織の一員としていっそう励め。そして、万一の時の覚悟をしっかりと持つのだ。長兄さまはお前に期待しておられる」
「はい、光栄です」
「しかし、私はお前たち若い信者は、碧珠浄化後生き残った人類を導く役目を担ってほしいと思っている。降屋のようなことにならないよう、これからも用心に用心を重ねて活動しなさい。これは、父としての私の願いだ」
「はいっ! 必ずお父さんの意にかなうよう精進いたします!」
城生は、父に一人前と認められたということを感じ、嬉しさと感動の入り混じった声で言った。
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