4.乱麻 (1)ある少女の死

20XX年6月24日(月)

 C野市にある、ミドルクラスのマンションの入り口に、早朝から慌ただしく警察車両や救急車が乗り込み、7階建ての5階の一室に、防護服の者たちが駆けつけた。彼らは状況を確認すると、あっという間に黄色いテープで5階ごと封鎖した。
 5階の住人は、しばらく部屋から出ないように言い渡され、何が何だかよくわからないまま、室内で息をひそめている。出勤のためエレベーターで1階に降りた男性は、ドアが開いたとたんに目の前に防護服の男が立っていたので、驚いて固まった。彼は3階の住人だったのでなんとか無罪放免になり、首をかしげながらエントランスから出て行った。

 一際厳重に、まるで封印されたかのようにテープを張り巡らされた部屋があった。玄関先で、中年の夫婦に刑事二人が状況を聞いていたが、主に説明しているのは夫の方で、妻は半狂乱でただ泣くばかりであった。
「いつも、金曜の夜から夜遊びでおらんことが多かったんですが、昨日、昼ごろ帰って来てから部屋に閉じ籠ってしまいまして」
「いつも夜遊びって、あんた、お子さんはまだ中学生じゃないですか。なんで怒らんかったとですか」
 夫の言葉にまずかみついたのは、宮田巡査だった。もう一人は中山巡査部長・・・二人はC野署の刑事で、最初に森田健二事件を担当したために、サイキウイルス対策にも関わることになったのだ。
「宮田、今、それはいいだろう。お父さん、それで?」
「はい、夜になっても出て来んので、心配して様子を見に行ったら、部屋の中から大丈夫だからあっちに行けと言われて・・・」
「そのまま引っ込んだ? 中に入らんかったのですか」
「はあ、鍵がかかっていて・・・」
 夫は語尾を濁らせて答えた。そこにまた宮田が憤った様子で言った。
「あんた、それじゃいざと言う時・・・」
「いいから、黙っとれ」
 中山は再び富田を静止すると、続けて言った。
「いざと言う時は、過ぎてしまったんだ」

 刑事たちはひとしきり話を聞いていたが、2人を救急隊員に任せ、室内に入っていった。家の中を歩きながら、中山はやや眉を寄せながら言った。
「朝になっても起きてこんから、気になって様子を見に行ったら、ドアのスキマから血が流れていたんで、びっくりして110番した・・・か。親が鍵を壊してでも駆けつけんでどうするんだ」
「なんだ。中山さんも怒ってたんですね」
「怒っとらんよ。常識を言ったまでだ」
 少しほっとしたように言う宮田の方を見ずに、中山は妙に冷静な口調で答えた。宮田は中山がいつもの調子と違うので戸惑っていた。
 二人が現場に入ると、既に検死が終わった遺体が袋に入れられようとしていた。遺体は14歳の少女で、部屋のノブに制服のリボンを結び、首をくくった自殺だった。死亡推定時刻は今日の午前2時頃。昨夜、無理矢理でも部屋に入って話を聞いていれば、防げたかもしれない死だった。中山の言うとおり、「いざと言う時は過ぎてしまった」のだった。
「やりきれんな。おれの娘と同じくらいの歳だ」
 中山はぼそっとつぶやいた。宮田は中山の様子が何故違うのか何となくわかったような気がした。しかし、中山はすぐに張りのある声で言った。
「自殺と言うことやったが、遺書はあっとか?」
「これです」
 鑑識が、すぐに一枚の便箋を差し出した。世界一有名なネズミのイラストの便箋だった。それには、ちまちまとした字でこう書いてあった。

パパとママへ 
この前テレビでやってたエイズになっちゃった。彼氏にもうつったみたい。パパママにもうつしちゃうかも。めいわくだよね? ネットで調べたの。あんなになって死ぬのはいや。だから先に行くよ。ごめんね。

「エイズ・・・? サイキウイルスではないのですか?」
 宮田が怪訝そうな表情で言った。中山がすぐにフォローした。
「遺書の内容からしてサイキウイルスのことやろうな。エイズの方がなじみもインパクトもあるからな・・・。最初にこの部屋に入った警官がこれを見てすぐにサイキウイルスを疑ったために、俺たちが呼ばれたんだ。さて、それで・・・」
 中山は、これから運び出されようとしている少女の遺体のそばに立つ女性医師に尋ねた。
「先生、この子がサイキウイルスに感染していた可能性はありそうですか?」
 中山に聞かれ、その医師が答えた。
「見た限り、出血等の症状はないようですが、体内の熱がまだ若干高いですから、高熱は出ていたようですね。ただ、他の感染症の可能性もあるから、センターに運んでウイルス感染の有無を詳しく調べてみます」
 医師は、サイキウイルス感染者発生の通報を受けた感対センターから、検死のため派遣された山口だった。彼女は、少し厳しい表情で部屋を見回して言った。
「年齢にそぐわないブランド物がずいぶんとありますね。それに、あのミ○ーのぬいぐるみ。プレミアもので、かなり高価なものですよ。甘やかしすぎだわ」
「そんな高価なものをポンポン買ってやれるほどほどの金持ちには見えないですがね。この高そうなマンションのローンもあるだろうし」
「え?」
「『自力』で買ったってことですよ。褒められた方法じゃなくて。でなきゃ、14歳の子が『エイズ』に罹ったなんて思わんでしょう」
「あれは、発症するまでに何年もかかりますけど・・・」
「エイズとエボラを混同しとるのかもしれません。実際、サイキウイルスをエボラだと思っている人が多いのでしょう?」
「まあ、出血熱ではエボラが有名ですから。でも、親は気付かなかったんですか? こんな高価なものが沢山あるのに不審に思わなかったなんて、信じられない」
 もっともな山口の質問に、中山がため息交じりに言った。
「親は入れなかったようですよ。ここは彼女の城だったんでしょう」
「こげなもんを付けとるからでしょうがっ!」
 宮田が腹立たしそうに言いながら、鍵のついたドアを蹴った。中山はそれに何も言わず、机の上の写真に目をやった。彼氏らしい少年と一緒に写った写真で、見た目も仕草も普通のそこら辺の女子中学生だった。
「遺体は見る影もありませんが、可愛い子だったんですね。これでも化粧をすれば、3歳くらいはごまかせたかもしれないが・・・」
 中山は眉間に皺を寄せながら言った。
「おそらく買った連中もうすうす気づいていたでしょう。証拠があるなら全員しょっぴいてやりたいくらいだ。だが、俺たちの仕事は、この彼氏君が感染しているかどうかと、彼女がなぜエイズ・・・いや、サイキウイルスに感染した、あるいはそう思った経路を調べることだな」
「私たちも、そろそろ行かなくては。それでは・・・」
 山口が会釈して行こうとしたので、宮田が焦って聞いた。
「あ、結果は・・・」
「わかり次第お知らせします。それでは失礼します。さ、行きましょう。ご両親も同行させてちょうだい」
 山口たちが行ったあと、宮田が中山に向かって言った。
「ナカさん、僕らも急いで捜査を始めないと・・・。彼女が感染者だったら、また被害が拡散してしまいますよ」
「そうやな」
 中山が答えた。
「まずは、彼女の携帯電話の履歴から交友関係を調べることからやな。許可を急ごう」
「はい」
 二人は後を残った警官たちに任せると、急いで部屋を出ていった。

 春風動物病院の前に黒い軽のワゴン車が止まり、後ろのドアが開くと女性が飛び出すように出て来て病院内に駆け込んだ。その後に降りた男女の背の高い白人の男が頭に手を置きながら笑って言った。
「おやおや、元気ですね、ユリコは」
「ずっと回復を待っておられましたもの」
 紗弥が由利子の背を目で追いながら、微笑んで言った。

「美月!」
 由利子が、病院の奥から姿を見せた中型の犬を呼んだ。犬は、既に由利子の存在に気付いていて嬉しそうにワンワンと鳴いている。美月は小石川獣医師の手を離れると、駆け出し由利子に飛びつくようにじゃれた。しかし、その後、きょろきょろと誰かを探したが、見つけられずにしょんぼりした。
「ごめんね。まだ、美葉は見つけられないの。ごめんね、ごめんね」
 由利子はミツキを抱きしめると何度も謝った。美月はそれがわかったのか、クウンと鼻を鳴らすと由利子の顔をぺろぺろと舐めた。
「いい子ね、美月」
 由利子はまた美月を抱きしめた。少し遅れて入ってきたギルフォードが言った。
「ミツキは知っているんですよ。ユリコが命の恩人だということを」
 ギルフォードの声で彼に気が付いた美月が、喜んで「ウォン!」と吠えた。
「私が命の恩人?」
「ユリコが異変を察知してミハのところに行かなかったら、おそらくミツキの命はなかったでしょうからね」
「そっかあ・・・。でも、この子はアレクが病院に連れて行ってくれたのもちゃんと覚えているよ。えらいね、美月」
 由利子がそう言いながらまた美月の頭を撫でると、美月はまたワンと吠えて尻尾を振った。由利子は改めてギルフォードに聞いた。
「アレク、この子を預けて、ほんとにいいの?」
「はい。ミハが帰ってくるまで僕が預かると決めました。僕のマンションはペット可だし、昼間は出来るだけ研究室に連れていきますから、ユリコも会うことが出来ます」
「ホントは私が預かるのが順当なんだけど、ごめんね」
「犬に慣れていない猫と同居は無理です。僕も動物は大好きですから、預かる分はまったく問題ありません」
「教授はジュリーが帰ってからしょげ気味でしたから、ちょうどいいと思いますわ」
 紗弥が、アレクのやや後ろですまし顔をして言った。ギルフォードが少し恥ずかしそうにして言った。
「サヤさん、も~、イラナイコト言わないでくださいよぉ。・・・あ、電話です」
 ギルフォードは、急いでジーパンの後ろポケットから電話を出すと、送信元を確認した。
「オー、ジュンからです。ハル先生、ここ、電話OKですか」
「いいですよ。それに、大事な要件なんでしょ?]
 小石川が快諾したので、ギルフォードはすぐに電話に出た。
「もしもし、ジュン? おはようございます。何かあったのですか? ・・・え? それで?」
 ギルフォードの口調から、また事件らしき予感がして、由利子と紗弥が緊張した表情で彼を見た。美月も心配そうに見上げた。
「わかりました。詳しいことがわかったら、知らせてください」
 ギルフォードは電話を切ると言った。
「感染者らしい女子中学生が自殺したそうです。今センターに搬送中ということらしいですが、まだ詳しいことはわかりません」
「え?」
「まあ」
 女性二人が同時に言い、小石川が不安そうにギルフォードを見ていった。
「それは何処でしょう?」
「おや、ハル先生でも気になりますか?」
「そりゃそうですよ。当然知る権利もあるし」
「そうですね。愚問でした。C野市のマンションですから、ここからはかなり遠いです」
「そうですか」
 小石川は少し安堵の表情を見せて言った。
「病気の出たコミュニティには、少なからず差別が起きていると聞きますから、やはり遠いとなるとほっとしますよ。うちもまだ小さい子を抱えてますし」
「感染がはっきりしたら、公表すると思いますが、そういうことになっているのはショックです」
「でも、新型ウイルスの存在を公式発表したんだから、発生地の公表はしてもらわないと・・・。正直複雑な気持ちですよ」
 実直な小石川は、素直に自分の心の内を口にした。その時、今度は病院の電話が鳴った。
「あ、急患かな? ちょっと失礼」
 小石川は、電話をとって先方と話し始めた。小石川の受け答えから、先方の愛犬の容体が悪いらしい。
「これは、すぐに患畜さんが来ますね。邪魔になりそうですし、そろそろ研究室に戻りましょうか」
 ギルフォードが二人に小声で言った。

 車中、当然話は自殺した中学生の話に集中した。後部座席で美月と一緒に座っている由利子が窮屈そうに言った。
「自殺って、やっぱり感染後の異常行動が起きたのかな」
「感染が本当なら、その可能性が大きいでしょうけど、そうだとしたら、その子はいったいどういう経路で感染したんでしょう。また新たな経路でしょうか」
「C野市なら、森田健二関係の可能性もありますわよ」
 運転席の紗弥が言ったが、ミラー越しにギルフォードに向かって眉を寄せた。
「教授、美月ちゃんが退院して嬉しいのはわかりますが、その図体で後部席に居るのですから、少し考えてくださいませ。由利子さんが気を遣ってぎゅうぎゅうじゃありませんか」
「あ、ゴメンナサイ」
 ギルフォーがそう言いながら、こそこそと身を縮めたので、由利子が笑って言った。
「アレクってば、そこまで縮こまらなくてもいいから。・・・で、話は戻るけど、もし森田健二経由なら、美千代つながりよね」
「そうなりますね。クボタ→カレン→コウジの一連も、接点はモリタケンジでミチヨつながりですから、マサユキ君→ミチヨルートでは、モリタケンジルートが一番拡大を広げていることになります」
 と、ギルフォード。
「その中学生からは?」
「彼氏に感染させたと遺書にあったそうですから、ひょっとしたらまだ拡大を続けているかもしれません」
「問題よね。健二以外に美千代から感染した例は見つかったの?」
「いえ、そっちの方は今のところ全く情報がありません」
「そっか。土日はちょっと落ち着いていたけど、またいろいろありそうやね」
「そうですね。サイトウコウジの事件も、思ったほど騒ぎにならなかったようですし」
「それが、そうでもないのよ」
 と、由利子が言った。
「事件を起こしたのが病人で、人質も身内だし、責任能力のあるなしとかいう関係もあって、マスコミの報道は控えめだったけど、ネットの掲示板とかツイッターとかすごかったわよ。特にめんたい放送の映像は全国版ニュースで流れたし。ボカシ入ってたけど」
「めんたい放送ですか・・・。あの女性記者はクセモノですね。2度にわたってスクープをとっているから、これからも躍起になって付きまとうかもしれませんね。サンズマガジンだけでもウットウシイのに、頭がイタイです。女性記者は鬼門ですよ」
 ギルフォードは憂鬱そうに言ったが、それを察した美月に頬を舐められて相好を崩し、美月を抱きしめた。
「抱きしめる相手が出来てよかったわねえ」
 由利子が呆れて言いながら運転席の方を見ると、同じように呆れた表情をしている紗弥の顔がミラーに映っていた。そんな中、ギルフォードの電話がまた着信を告げた。
「おや、今度はタカヤナギ先生からですよ。また電話に追われる生活が続くんでしょうかねえ・・・」
 ぶつぶつ言いながら電話に出たギルフォードだったが、話しながら、だんだん表情が厳しくなっていった。園山看護師の容態が良くないということらしい。
「わかりました。出来るだけ早く行きますから」
 と、電話を切って言った。
「ソノヤマさんがセンター長と僕だけに話たいことがあるというのです」
「え? どういうこと?」
 と、由利子が訊いた。
「ワカリマセン。ただ、容態があまり良くないということなので・・・」
「え? じゃあ・・・」
 言いかけて、由利子は言葉を飲み込んだ。
「それにしても、センター長にならわかりますが、なぜ僕なんでしょう・・・」
 ギルフォードは困惑した表情を隠せないようだった。
「とりあえず、研究室に戻りましょう。ミツキが退院したばかりなので、ユリコとサヤさんは、今回は研究室でお留守番をしておいてください。僕だけと言う希望なので、バイクでダダッと行って来ます。早い方がいいような気がしますから」
「了解しましたわ、教授。では、急ぎます」
 紗弥は言うや否や、いきなりアクセルを入れた。
「うひゃあっ」
 由利子が驚いて反射的に美月を抱きしめた。
「い、いや、サヤさん、そんな急がなくてイイから。アウトバーンじゃないんですよ、オネガイ」
 ギルフォードが運転席の背を掴んで懇願した。

 さて、先ほど話題に上っためんたい放送の美波美咲だが、出勤予定だった土日に休暇をもらい、今日月曜も会社には2時間程度遅刻して出勤した。金曜の事件のせいで、妙に気分が晴れない。
 実は、あの後暴行犯人に逃走されてしまったのだ。
 倒れたまま目を覚まさない犯人を、頭を強打しているのだろうということで、病院に連れて行って検査するために、救急車を待っていたのだが、男は警察の一瞬の隙をついて、脱兎のごとく駈け出したのだ。途中意識を取り戻した男は、そのまま気絶したふりをして逃げる機会をうかがっていたのだ。男は闇に紛れて姿を消した。でかい図体に似合わず、チーターのように俊足だったという。
 犯人も、助けてくれた男も姿をくらまし、事情聴取は美波一人に集中した。
(まったく、セカンドレイプとはよく言ったものね。性犯罪被害者が被害届を出さない気持ちがよくわかるわ。私なんかレイプされなかっただけまだマシよね)
 美波は机に突っ伏していた。なんだかヤル気がおこらない。そんな美波をデスクの藤森が呼んだ。
「美波ィ」
 美波は仕方なく席を立ち、藤森の方に向かった。
「金曜の帰りは大変だったそうだね。もう、大丈夫か?」
「はい・・・、と言いたいところですが、あれから寝付けないので今日病院に行って睡眠導入剤を・・・」
「そうか。きついようなら一週間くらい休暇をやってもいいぞ。ただし、サイキウイルスの取材は他の班にやってもらうことになるが」
「いえ、大丈夫です。それに、家にいると却って落ち込みそうですから、仕事に没頭したほうがましです」
 せっかく体を張った取材だ。こんなことで降りてなるものかと美波は思った。
「よろしい。じゃあ、取材を続けてくれ。今朝がた、C野町でひと騒動あったようだ。例の防護服連中がやってきたんだと」
「では、また感染者が?」
「多分ね。それと、もうひとつ動きがある。人権派の連中が動き出しているようだ。不当隔離による人権侵害だと、国と県、そして感染症対策センターを相手取って訴訟を起こすそうだ。隔離された連中の中に、その眷属がいたんだろうな。まあ、取材については君に任せるよ」
「ありがとうございます」
 美波は藤森に一礼すると、その場を離れた。自分の席に戻ると、そこには出先から帰った赤間と小倉が待っており、彼らは美波の顔を見るなり同時に言った。
「ミナちゃん、大丈夫か?」
「あら、二人とも。もう帰ってたの?」
「心配してたんだよ。ほんとに何もされなかったんだね」
「ええ。通りがかりの人が助けてくれたの」
「はぁぁ~、よかった。・・・で、その恩人はいい男だった?」
 赤間は安心したら、今度はそれが少し気になったらしく尋ねた。
「何か変なこと訊くなあ。そうね。悪くないとは思うけど、昼間アタシを庇ってくれた刑事さんの方がずっと素敵だったわよ」
「君を庇った? そんなことがあったのかい?」
「って、その刑事、どんな男だよ」
 小倉が横から口を挟んできた。赤間が胡散臭そうに横目で彼を見た。
「そうねえ。防護服で顔は目元しかわからなかったし、背もあまり高くないけど、つぶらな眼ときりっとした眉の、素敵な人よ。とっさに全身でアタシを庇ってくれたの。サイキウイルス対策本部の人みたいだから、この取材をしてたらまた会えるかな~って、あは、不純な動機が混じっちゃまずいよね」
 と、美波は若干にやけ気味に言ったが、不意にその表情が真面目になった。
「まあ、たわごとはそれくらいにしといて、これからの取材について会議しましょ。サイキウイルス事件については、今のところうちが他局より抜きんでているんだから、出し抜かれないようにしないとね。それと、ローカルとはいっても、由緒正しい放送局なんだから、タブロイドとの違いを見せつけてやんなきゃ。さ、下のカフェテリアに行こ」
 美波はそういうとすたすたと歩きだした。小倉が驚いて言った。
「え? 会議室じゃないのかよ」
「バカ」
 と、赤間が小声で言った。
「あいつは先週あんな目にあったんだぞ。ちったあ気を遣え」
 と言うと、赤間はさっさと美波の後に続いたので、小倉は腑に落ちないまま彼らの後を追った。

 ギルフォードが感対センターに着いてセンター長室に向かっていると、3人組の男たちとすれ違った。彼らは、胡散臭そうな目つきで場違いな様相のギルフォードを一瞥すると、挨拶もせずに通り過ぎていった。ギルフォードは、通りすがりに彼らがつけているものを目の端で確認して、若干眉を寄せた。
「来たか、ギルフォード君」
 ギルフォードがセンター長室の扉をノックして入ると、高柳がほっとしたような表情で立ち上がった。
「さっき、3人組の男たちとすれ違いましたが、なんで弁護士が?」
「ほお、良くわかったね」
 と、高柳は着席しながら感心して言った。
「そりゃ、Sunflower・・・えっと、ヒマワリのバッジをつけてましたからね。で、何て言って来たのですか?」
「国と県、そしてこの病院を人権侵害で訴える準備をしているんだそうだ」
「え? どうしてですか? ここは、ちゃんとした感染症法の基準に則って運営されているんでしょう?」
「ああ、もちろんそうだし、念のために隔離されている方々の多くには、ちゃんと理解をしてもらっている。だがね、中には厄介な連中が居てね。まあ、外国から来た君には良くわからないと思うが・・・」
「いえ、どこの国にも厄介な人たちはいるものですよ」
「うむ。で、発症者に接触して隔離された人たちの多くは、幸い発症せずにほぼ1週間で退院、あるいは退院予定とされているんだが、その中にその手の人間がいたようなんだ」
「マジで厄介ですね」
「ああ、頭が痛いよ。俺た・・・私たちだって、やりたくてやってる訳じゃない。ここだって、これ以上増えたらパンクしかねない状態なんだ。スタッフだって疲れ始めている。確かに、いきなり一週間隔離されたら、仕事や人間関係に対する支障も馬鹿にならないと思うが・・・」
「でも、非常事態ですから」
「しかし、世間的にはほとんど影響ない状態だからな」
「それは、ここやタスクフォース(対策本部)のみなさんが頑張っているからです。でなければ今頃は日本中に感染者が出ているはずです」
「そうかもしれないが、人はそんなことより今の現実を見るものだよ。それにね、言わないでおこうと思っていたが、実は土曜にあの竜洞蘭子の父親が来て、さんざっぱら脅しをかけてきやがった」
「あの、タカヤナギ先生、口調がいつもと違いますが・・・」
「おっと・・・。まあ、言うだけ言わせてお帰り願ったのだが・・・」
「物騒ですね。ヤクザはシャレにならないです」
「まったくだ。だが、これからはもっとややこしいことが起きるだろうね。本気で頭が痛くなりそうだよ。おっといけない。早く園山君のところに行こう。ギルフォード君、久しぶりに防護服を付けることになるぞ」
 高柳は立ち上がると、さっさとドアに向かって歩き出した。ギルフォードが急いでその後に続いた。

 園山は、既に瀕死の状態だった。しかし彼は人工呼吸器をつけていなかった。
「お話したいことがあるって、拒否されたんです」
 看護師の甲斐が説明した。二人が来たことを察して、園山が目を開けた。ギルフォードは園山を気遣って言った。
「ソノヤマさん、無理しないで。眠いなら出直してきますから」
「いえ、お待ち・・・しておりました」
 園山は起き上がろうとしたが、その場の全員に止められた。園山は再びベッドに横たわると、深呼吸をしてから言った。
「すみません、山口先生は・・・」
「彼女は今別件で忙しいんだ」
「では、高柳先生とギルフォード先生以外は、申し訳ありませんが席を外していただきたいのですが・・・」
「わかった。すまんがみんな、いいかね?」
 高柳が指示すると、スタッフたちは静かに病室を出て行った。みんな、今まで一緒にウイルスと闘ってきた仲間の命が消えつつあることを予感して、ショックを受けていた。しかしそれ以上に、その仲間が自分等に言えない隠し事を持っていたことのショックが大きいようだった。
「すみません。仲間たちにはとても言えないことなんです。だけど、僕は懺悔をしなければいけない。どうか聞いてください・・・」
 園山はもう一度深呼吸をしたあと、目を閉じてから淡々と話し始めた。

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4.乱麻 (2)告白の波紋

「美月、おまえが昼間お世話になるところがここだよ」
 由利子がギルフォード研究室に美月を連れて入ると説明した。と、いきなり「きゃあ~」という歓声とともに研究生たちが集まってきた。由利子は、軽く会釈しながら言った。
「教授から聞いてると思いますが、訳あってお昼間ここでお世話になる子です。美月といいます。よろしくお願いします」
「は~い」
 と研究生たちは美月を囲んで座り、かわるがわる頭をなでながら言った。
「こちらこそ、よろしくね」
「いやん、かわいい」
「子供のタテガミオオカミみたい~」
「おとなしいね、いいコだねえ」
「アタシ、颯希(さつき)。名前似とおね。よろしくね」
「僕は如月(きさらぎ)言います。漢字は似とるけど、読みがちがいますねん」
「私は瑠梨よ。漢字も読みもまったく似てないけど、よろしく」
「おまえら何、変な自己紹介してんだよ」
 最初、美月は少し戸惑っていたが、皆から頭や背中を撫でられて、安心したように床に座って尻尾を振っている。由利子と紗弥は、その様子を見ながら顔を見合わせにっこりと笑った。
「心配したけど大丈夫そうで良かった」
「そうですわね」
 そんな二人を見て、如月が立ち上がって近づくと小声で尋ねた。
「僕は少しやけど事情を聴いてますが、この子、ひどい怪我やったんでしょ。もう大丈夫なんでっか?」
「ええ。もう、散歩もできるそうよ。それで2・3日様子見て、特に問題ないならフリスビーとかで遊んでも大丈夫だということだけど・・・」
「そうでっか」
 如月はほっとした表情をすると、今度は普通の声で訊いた。
「ところでこの子、金魚襲ったりしませんよね?」
「猫じゃないから大丈夫よ。そういえば教授室に居たわね、でかいのが3匹」
「あんなでっかいもん、忘れんどってくださいよ。ここに来て1年半でもうあのサイズですワ」
「そりゃあ、近いうちにピラルクーさんサイズも夢じゃないわねえ」
「それじゃあ、あの水槽には入りきりませんわね」
「って、紗弥さん、意外とノッてくれるのよね」
 由利子が感心して言ったので、紗弥が少し照れくさそうにして言った。
「そろそろアオコがついてきたので、教授に水槽のお掃除をお願いしないといけませんわね」
「え? 教授がお掃除するの?」
「あれ、けっこう重労働ですねん。ここでは教授が一番力持ちやから、力仕事は大抵教授がやってくれてはるんですわ」
「へえ。便利ねえ」
「そうですねん。あの人、教授辞めても便利屋で食っていけまっせ。そんでですね、この子の居る場所を教授室の隅に作っとります。教授や由利子さんがお忙しい時は、僕らの誰かがこの子の面倒を見ますんで、安心してください」
「ありがとう。これで、美葉が・・・この子の飼い主が見つかったら言うことないのだけれど・・・」
「大丈夫ですわ。美葉さんはきっと戻ってこられます」
 不安で表情を曇らせる由利子に、紗弥が力強く言った。

 園山は苦しい息の中、ゆっくり、そして淡々と語り始めた。
「秋山美千代がこの病院を脱走した時に手引きしていた鹿島看護師・・・、彼女にそれを指示したのは私です。美千代の脱走計画も、私がたてました」
「なんだと? 君が?」
 高柳が驚愕を隠しきれずに言った。
「はい。私です。私がやったことです。鹿島看護師は・・・、何も知りません」
「どういうことですか?」
 ギルフォードは嫌な予感がして言った。
「美千代がここに隔離された日、私はある方・・・から美千代を脱走させるよう、依頼、されました。それで、その翌々日退職予定だった・・・鹿島さんを・・・利用しようと思ったんです。夜勤明けで帰宅前の彼女に、秋山美千代を、転院させるからと・・・説明して、美千代を、外に待たせている車・・・に乗せるよう、指示したのです」
「では、彼女は無関係だったということですか?」
「はい・・・」
「道理で、彼女の背景から何も浮かばなかったはずです」
「鹿島君はあれから行方不明だ。彼女は一体どうなったんだ?!」
 高柳が語気を強めて言った。しかし、園山は淡々として続けた。
「わかりません。でも、ひょっとしたら・・・・」
「ひょっとしたら、なんだ?」
「組織が連れ去った・・・の、かもしれません」
「かもって、鹿島君のことは心配じゃなかったのか? 同じ職場の仲間だろう?」
「彼女は、悪いようにはしないから、心配は・・・何も・・・いらない、と、言われてました・・・から」
「行方不明だぞ!! 心配ないはずはないだろう! 今、彼女の家族が、婚約者が、どういう思いでいるか、考えたことがあるのか!?」
「・・・」
 滅多にない高柳の荒げた声を聞いて、園山は言葉に詰まった。それを見てギルフォードが静かに訊ねた。
「だけど、今あなたは自分のやったことに疑問を持っている。だから、懺悔を申し出たのでしょう?」
 ギルフォードの穏やかな声に安心したのか、園山は再び語り始めた。
「鹿島さんのことは、大事の前の小事だと、自分に言い聞かせていました。あの方のおっしゃることは正しいと・・・。だけど、多美山さんを見て・・・。私の目の前で苦しむ多美山さんを見て・・・、これが自分がやったことの結果の一つだということを、徐々に実感してきて・・・、だんだん恐ろしくなってきたのです」
「その組織って、何ですか? それから、あの方って?」
 ギルフォードの質問に高柳がはっとして言った。
「そういえば、秋山美千代も『あの方』と言っていたのだったな」
「感染死した、ひったくり犯たちもそのようなことを言っていたようです」
「あの方は・・・」
 と言った後、園山は急にガタガタと震えだした。
「ダメです・・・。わ、私には答えられません。偉大な方です。同時に・・・恐ろしい方です」
「これは・・・」
 ギルフォードが言った。
「何か強力な暗示がかけられているのかもしれません」
「これ以上、組織や『あの方』について聞くことは出来ないということだな」
「はい。無理に聞き出すと、彼の精神がもたないかもしれません。彼が話すに任せる以外なさそうです」
「そうか」
 高柳は冷静さを取り戻して園山に言った。
「大声を出して悪かった。懺悔を続けてくれたまえ」
 園山も落ち着きを取り戻し、再び淡々と話し始めた。
「私は・・・、この世界が今、究極に汚染されていることを・・・知りました。もう後がないくらいに。人間が大気中に、二酸化炭素や放射性物質や・・・様々な化学物質を、まき散らしたせいです。この40年で、人口は2倍以上になりました。30億から70億です。特にこの10年では10億人増加しました。地球が、汚染されない筈・・・は、ありません・・・。人は地球にとって害虫・・・いえ、ガン細胞です。肥大したガン細胞は、切除するしかありません。このままでは地球が・・・ガン細胞に覆われる・・・それを憂えたあの方・・・が考えられたのが、ヒトに強力な天敵を、作ることでした。それが・・・」
「それが、サイキウイルスだというのですか?」
「そう・・・です。天然痘のように、ヒトにしか病原性を持たず、しかもワクチンなどの治療法のない、ヒトだけを駆逐する・・・ウイルスです」
「人を駆逐するために撒いたのか?」
 高柳が鼻白んで言った。ギルフォードも驚きを隠せずに訊いた。
「何故です? それにこの国は、これから人口が減っていくはずです。それなのに・・・」
「この国が・・・世界に災いを、もたらしているからです。現に数年前から、大地の女神の怒りが鎮まらずに・・・頻繁に地震が起こっている・・・」
「バカなことを言うんじゃない。それは、日本列島が地震の活動期に入ったからだ。自然現象であって神の怒りでもなんでもない」
「でも、あの方が・・・おっしゃった、のです。そして、災いをもたらしているこの国が、新たな災いの発生源と・・・なるにふさわしいと・・・」
「何という事だ!」
「そんな馬鹿な・・・」
 と、高柳とギルフォードが驚きと呆れが混じった表情で言ったが、園山は構わずに話し続けた。
「豊か・・・で医療も発達し、大部分の住民が、健康なこの国で・・・防げなかった疫病・・・は・・・、簡単に、近隣諸国に、広がるだろう・・・と・・・。これから、多くの人が、犠牲になるだろう。しかし、これは地球のための大浄化であり、必要なことなのだと・・・。だけど・・・、だけど僕・・・私は・・・多美山さんや・・・他の患者さんの苦しみを、目の当たりにして・・・その確信が揺らぐのを感じました。私が感染して死ぬことは、天主様のお導きなので、恐ろしくありません。だけど、あの人たちを現世で苦しめてしまった・・・ことを思うと、心穏やかに行けません。だから、VHF(ウイルス性出血熱)で苦しまれた、経験のある・・・ギルフォード先生に赦(ゆる)しを・・・請いたいと・・・」
「園山君! 君は・・・」
 険しい顔で園山に詰め寄ろうとする高柳を制して、ギルフォードが言った。
「ソノヤマさん、あなたは何を言っているのです?」
「はい。私は・・・お導きで浄化されるので、彼らに会えません。だから、あなたに謝罪をして・・・」
「浄化って何です?」
「天界の上位に行くのです。そこは、大浄化の後の地上にシンクロするユートピアなんです」
「僕には何のことか良くわかりませんが、あなたはそんなところへは行けません。謝るなら直接あの世で多美山さんたちに謝ってください・・・と、言いたいところですが、残念ながら死んだらそれで終わりです。死後の世界も天国も地獄も生まれ変わりもありません。終わりです。まったく何もありません。Nothingです」
 ギルフォードは静かに言った。園山が混乱した表情で言った。
「何も・・・なくなる・・・? そんな・・・」
「ギルフォード君、そういう言い方は慎みたまえ」
 瀕死の園山に冷酷に言い放ったギルフォードを高柳がたしなめた。しかし、ギルフォードは手厳しく続けて言った。
「命は一度きりのものです。だからこそ、それは尊く輝いているのです。ですから僕は、命を大切にしない人を許せません。ましてや、君は人の命に関わるナースなんです。僕は君の行為を赦せるほど寛大ではありません」
 ギルフォードは静かに言うと、そのまま園山に背を向け病室のドアに向かって歩き始めた。
「ギルフォード先生。後生ですから赦しを・・・。先生、先生・・・! 僕を赦し・・・」
 園山はギルフォードを追って半身を起こそうとした。しかし、急に激しく動いたために、激しくせき込み喀血し、呼吸困難に陥った。
「いかん、、気道出血だ! ギルフォー・・・、くそっ! 田中君、石原君、来てくれッ!」
 苦しさにのたうつ園山を抑えながら、高柳がスタッフに緊急招集をかけた。戸口に控えていた看護師二人がすぐに飛び込んできた。緊急事態を受けて病室に急ぐスタッフたちとすれ違いながら、ギルフォードは振り返ることなく足早に歩いた。ギルフォードは爆発しそうな感情を自制することが精一杯だった。

 ギルフォードは、一人、自販機の横のソファに座っていた。手には、半分以上残った飲みかけのミルクティーのペットボトルを持っている。彼は園山の告白を聞いて、何に怒っていいのかわからなくなり、かなり混乱していた。それはむしろ思考停止に近い状態だった。ギルフォードは、かなり長い時間その状態で座っていた。そこに、園山から解放された高柳がやってきた。
「やはり、ここに居たか」
 高柳の声を聞いて、ギルフォードはようやく我に返った。
「タカヤナギ先生・・・」
「驚いたよ。まさか身内にテロリストの眷属がいたとはね」
 と言いながら、高柳は自販機にコインを入れるとボタンを押した。どさっという音がして、高柳は取り出し口から缶コーヒーを手に取り、「まいったよ」と言いながら、ギルフォードの横にこれまたどさっという音をさせて座った。かなり精神的にダメージを受けている様子だ。その高柳にギルフォードが憂鬱そうに訊いた。
「それで、彼は?」
「何とか持ち直して、今は眠っているよ。だが、次に発作が起きたらどうなるかわからん」
「そうですか。それで、彼はどうなるのでしょう?」
「警察の方には連絡したが、あれじゃあ取り調べのしようがないだろう。目を覚ますかどうかわからんし、目を覚ましても、もう会話が出来るかどうかもわからんよ」
「つまり、話を聞いた僕らが事情聴取されるということですか?」
「そうなるだろうね。悪いが君の午後の講義は休講だな」
「ひどい話です・・・」
 ギルフォードはそう言うと、ため息をつきながら首を横に振った。その横で、高柳が同じくため息をつきながら言った。
「しかし、ウイルスを撒く理由が『人類が地球のガン細胞だから』だなんて、まるで20世紀のSFじゃないか。しかも、日本謀殺とかまるでどこかのヒーロー物の悪の組織だ。よくそんな話を信用できるものだ」
「先生には古臭くても、それを新たに聞いた人にとっては新鮮な話と思えるんです。ムーンホークス説(アポロ計画陰謀論)なんかが何年かのサイクルで持ち上げられるのはその典型です。しかも、秘密結社や宗教団体のような特殊な雰囲気の中に居るならなおさらでしょう」
「結局、その組織とやらの名前は聞き出せないまま意識不明になってしまったのは残念だ」
「おそらく、あの調子では聞き出すことはムリだったでしょう」
「そういえば君は、彼が隔離初期にも何か言いかけて様子がおかしくなったとか言っていたな」
「そうです。今考えると、あの時ヘンだと思うべきでした」
「まあ、あの時点で不審に思うことはムリだろう。それで、ギルフォード君。可能性は少ないが、もし彼の意識が戻ったら、もう一度話を聞いてはくれまいか? 組織や首謀者についてわずかな手がかりでもいいから得られるかもしれない」
 高柳はギルフォードに依頼したが、彼は不機嫌そうに言った。
「正直、もう彼の顔は見たくないのですが」
「よほど腹に据えかねたようだね」
「あれを聞いて冷静でいられるはずがないでしょう。献身的なナースと思って信頼していたのに・・・」
「だがね。考えてみると彼だって犠牲者だ」
「彼は自分からそういったものに飛び込んで行ったのです。そういう人は犠牲者ではありません。立派な加害者です」
「だが、強力に洗脳されているのに、あれだけの告白をしたんだ。洗脳も良心の呵責まではコントロールできなかったんだろう。彼の告白を聞いたときは、私も怒りを禁じえなかったが、今はむしろ同情している。心の深層で彼は本当に苦しんでいるんだと思う。ギルフォード君、君の心情は理解するが敢えて頼みたい。彼に一言赦すと言ってもらえないだろうか」
「いえ。僕には出来ません。一応話は聞いてみてもいいですが、僕は彼を赦せません。ゴメンナサイ」
 と言うと、ギルフォードは立ち上がり、高柳の方を見向きもせずに立ち去った。残された高柳は一人、ソファに寄りかかり天井を見ながらつぶやいた。
「俺だって赦し難いよ。だが、怒りの矛先を間違っちゃいかん。憎むべきは、園山君に罪を犯させてあのようにしてしまった連中だ」
 高柳は体を起こすと、コーヒーを一気飲みし、飲み終わった空き缶を右手で握りしめた。数秒後に缶の中央がぐしゃりと潰れた。高柳はそれを空き缶用のゴミ箱に投げ入れると立ち上がり、「おいら宇宙のパイロットォ♪」と歌いながらその場を後にした。

「あら、教授から電話ですわ」
 資料作りにいそしんでいた紗弥が急いで自分の電話に出た。
「はい。・・・ええ、わかりました。そのように手配いたしますわ」
 と、簡単に答え電話を切ると言った。
「午後の講義は休講ですって。でも変ですわ」
「どうしたの?」
 と、由利子がワープロを打つ手を止めて訊いた。
「なんだか声が沈んでいましたの。オヤジギャグもありませんでしたし」
「って、普段は電話のたびにオヤジギャグを言うのね。声が沈んでたって、園山さんの具合がやっぱりよくないのかしら?」
「それが、なんだか語気に少し怒りを含んでいるような・・・」
「怒っているの?」
 それを聞いて、由利子はスパム事件の時を思い出した。
「なんだか、尋常じゃないことが起きているのかしら・・・」
「いずれにしても、休講なら急いでこれを仕上げることもなさそうですわね。まったく予定が立たないったら」
 紗弥は美しい眉を少し寄せながら言うと、立ち上がった。
「そろそろお昼ですわね。教授もしばらく帰ってこれないようですし、少し早いけど昼食にしましょうか。お茶淹れてきますから、応接セットの上を少し片づけてくださいます?」
「あ、わかったわ」
 由利子は了解すると、データを保存してから立ち上がった。

 高柳から連絡を受けて、葛西と九木、10分ほど遅れて長沼間が、園山の病室の前に集まった。しかし、当の園山は眠ったままいつ目を覚ますかわからないという。長沼間がイラついたように言った。
「こんな寝坊野郎、叩き起こしてしまえばいいだろうが」
 その長沼間に向かって、葛西が言った。
「ただ寝ているんじゃなくて、昏睡しているんです。叩いたって起きませんよ」
「くそったれめ!」
 と言うと、長沼間はガラスをドンと叩いた。
「乱暴はやめてください。今度やったら出ていってもらいますよ」
 園山の診察をしていた高柳敏江医師が、長沼間の方を向いて釘を刺した。長沼間は渋面をして言った。
「くそっ、あの手の女は苦手だ・・・」
「あ、ちょっと待った。園山修二の様子が・・・。これは、目覚めるかもしれませんよ」
 それまで黙って園山をじっと見ていた九木が言った。敏江もそれに気づき、すぐさま園山の肩を軽く叩きながら呼びかけた。
「園山さん、園山さん。起きられますか? 園山さん」
 敏江に呼びかけられたためか、園山がうっすらと目を開けた。
「あ、起きた? 園山さん」
 しかし、園山は目の焦点の定まらないままに、ぼうっとした表情をして反応がない。
「ああ、ダメだわ。目は開けたけど、意識が戻っていないみたい」
 敏江が残念そうに言い、葛西たちはお互いに顔を見合わせた。長沼間が真っ先に怒鳴って言った。
「こら園山、さっさと意識を取り戻しやがれ! 貴様には冥土に行く前に話してもらわにゃあならんことがあるんだ!!」
「長沼間さんっ! やめてくださいよっ!」
 葛西が急いで止めたが、病室から「お引き取りください」という、非情な声がして窓がさっと曇った。長沼間は窓にへばりつくようにして言った。
「やいこら、開けやがれ! 園山、首謀者の名前を言えッ、このくそったれ!!」
「なっ、ながぬまさんっ、だめですったら。もう、これ以上敏江先生を怒らせないでくださいよ」
 葛西が止めるのも空しく、病室から再び声がした。
「お引き取りください。もし、お話しできる状態になりましたら連絡します」
 そして病室からの音声が途切れた。
「くそ、音声を切りやがった。畜生、非常時なんだぞ!!」
 と言いながら、もう一度窓を殴ろうとする長沼間を九木が止めた。
「お止めなさい。壊す気ですか?」
「こんなことくらいで壊れるわけねぇだろうが」
「あなたなら壊しかねませんから」
「あのな」
「焦る気持ちはわかりますが、とりあえず撤収しましょう。あの様子じゃあ、今、園山に何を聞いても無駄ですよ」
「くっそお~ッ!」
 長沼間は悔しそうに言うと、くるりと踵を返して戸口に向かった。葛西たちがその後を追うようにして出て行った。

 葛西たちが出直すためにステーションを去ってから数分後、今度はギルフォードが入ってきた。急いで来たのか少し息が荒い。ギルフォードはつかつかと園山の病室の窓に向かい、マイクを手に取ると言った。
「ギルフォードです。開けてください。ソノヤマさんとお話ししたいです」
 しかし、中からは敏江のつれない声が戻ってきた。
「残念ですが、まだ意識が戻っていません。お引き取りください」
「意識がなくてもいいです。彼には言っておきたいことがあります。開かなかったら開くまでここで待ちます」
 ギルフォードは窓に向かって立ったまま、先ほどのことを思い出していた。

 それは、怒りの持って行き場がないギルフォードが、気を静めようと外に出た時だった。後ろから「アレクせんせ~~~い」と呼ぶ声がした。ギルフォードが振り返ると、山口が走ってきた。
「トモさん?」
 ギルフォードは少し驚いて言った。山口が全力で走る姿を初めて見たからだ。彼女は息急き切ってギルフォードの前に来ると、はあはあ喘ぎながら言った。
「か、帰っちゃうのかと思って・・・」
「帰りませんよ。これからジュンたちから根掘り葉掘りほっくりほっくりと、色々聞かれなきゃいけないですから」
「そ…そう・・・。ほっくり・・・?
「どうしたんですか? 亡くなった中学生は?」
「あの件は、改めて調べたらインフルエンザの反応が出てきたわ。たぶんシロね。彼氏の方も病院に連絡して診断を聞いたら、新型インフルだということだったから・・・」
「じゃあ何故、彼女はサイキウイルスだなんて思って自殺なんかしたのでしょう」
「それはわからないけど・・・。念のため、彼女の遺体はココに保管することにしたけど、ご両親にはご帰宅いただいたわ」
「そうですか。で、それを言うために僕を呼んだのですか?」
「いいえ・・・、いえ、それもあるけど・・・。高柳先生にそれを報告に行ったら園山さんのことを教えてくれたので、この前の夜、彼と話したことを言ったの。そしたら先生が急いであなたにその話をしろって・・・」
「ソノヤマさんと話しを? そういえば、ソノヤマさんはあなたにも話を聞いてもらいたそうでしたが・・・」
「そうだったの。残念だったわ・・・」
「で、そのお話って何ですか?」
「ええ、あれは木曜日・・・園山さんが発症して隔離された日の夜だったかな・・・」
 山口は、夜中に園山と話した時のことをギルフォードに告げた。
「じゃあ、もともとソノヤマさんはクリスチャンだったということですね」
「ええ」
「それが、キリスト教に疑問を持ち、それに明快な答えを与えた宗教に傾倒して行ったと?」
「ええ、そうよ。何か役に立ったかしら?」
「はい。ソノヤマさんの言う組織が、宗教団体の可能性があるということが分かっただけでも、すごい収穫です」
「そう、よかったわ」
「それで、僕は今からソノヤマさんに伝えなければならないことが出来ました。今から行ってきます。ありがとう、トモさん」
 と、言うと、ギルフォードは足早に戻って行った。
 

 10分ほど経っただろうか。ふっと目の前が開け、ギルフォードははっと我に返った。
「さっき刑事さんたちが来られた時に目を開けたのですが、意識はもどりませんでした。それ以来こういう状態なのです」
 と、高柳敏江医師が説明した。
「それで良いなら、少しだけ話しかけることを許可しましょう。それによって園山さんの意識が、呼び戻されるかもしれませんから」
「ありがとうございます」
 ギルフォードは敏江に感謝の意を伝えると、園山を見た。彼は少し目を開けてこちらを見ているように見えるが、その眼に生気は感じられなかった。やはり見えていないのか、とギルフォードは思った。
(”あるいは,本人が外界と反応することを拒んでいるか,だな”)
 ギルフォードはそれに賭けて、とりあえず話しかけてみることにした。
「ソノヤマさん。トモさん・・・、いえ、ヤマグチ先生から聞きました。あなたはクリスチャンの家に生まれ、信仰してきたキリスト教に疑問を持って、それに答えを与えてくれた別の宗教に心酔していた・・・。あなたに罪を犯させた組織とは、その宗教の関係ですか?」
 ギルフォードの直球な質問に、園山についていた春野看護師が驚いて言った。
「あの、罪とか、園山さんを追い込むようなことを言うのはやめてください」
「いいえ。彼は今自分を欺いています。彼が自分のやったことに素直に向き合わない限り、彼の心は救われません」
「でも・・・」
 春野が言いかけるそばで、敏江が言った。
「春野さん、いいからギルフォード先生に任せてみましょう」
「先生、ありがとうございます。
 ソノヤマさん。まず、僕には、やはりあなたを赦すことはできません。何故なら、あなたたちが撒いたウイルスのせいで僕が死にかけたのはないからです。赦しを請いたいなら、タミヤマさんたちに詫びてください。
 そして・・・、ソノヤマさん。僕からお聞きします。人に罪を犯させるようなモノが本当に信じられるのでしょうか? 事実、あなたは心の奥で苦しんでいます。僕も洗礼は受けましたが、基本的には宗教は信じてません。しかし、それでも時に神様にすがってしまうこともあります。僕の科学者の部分は、人は死んだらそれで終わりと思っています。でも、一人の人間としては、死後の世界があって、死んだ親しい人たちがそこで幸せに暮らしていたらいいなと思っています。そして僕も死後そこに行けたらいいなと思います。地球を救うとか壮大なレベルじゃなくて、そういうササヤカなことじゃだめですか?」
 ギルフォードはそこで一旦区切りをつけて園山の反応を見た。気のせいか、少し表情に変化が現れたような気がした。
「僕は思ったんです。ひょっとしてあなたが疑問に思ったのは、キリスト教のあり方であってJesus・・・イエス自身にではなかったのではないかって。 もう一度お聞きします。地球のためと言いながらウイルスで大勢の人を無差別に殺そうともくろむ人と、堕落したという理由で大雨を降らせ大洪水で無差別に人々を滅ぼした神と、どれだけ違いますか? 宗教の名のもとに人殺しをする人々とどう違いますか? あなた、心の底ではイエスにすがっているのではないですか? 何故なら、あなたは懺悔すると言いました。あなたは本当は僕にではなくて、イエスに許して欲しいのではないですか?」 
「アレク先生、園山さんが・・・」
 春野が園山の様子に気付いて言った。園山の目からは涙が一筋流れていた。その後、彼は2・3度またたくと、ゆっくりと周囲を見回した。
「よかった。意識が戻ったのね」
 敏江は園山の肩を優しく撫でながら言った。すると園山は小さく身じろぎして、何か言おうと口を動かした。
「何? 園山さん?」
 敏江が優しく訊いた。そこに居る皆が注目し、病室がしんとなった。
「たみ・・・や・・・さん、ゆるし・・・て・・・くださ・・・い」
 園山の目から赤い涙があふれた。
「園山さん!」
「シュウさん! もう、いい、いいから・・・!」
「苦しいんでしょ、無理してしゃべらないで」
 仲間たちが口々に彼に声をかけた。それでも園山は懸命に伝えようとしていた。
せん・・・せ・・・
 園山はギルフォードの方見て言った。
タ・・・ナ・・・、大・・・。・・・い・・・さま・・・
「それが、あなたに命令した組織ですか?」
 ギルフォードが問うと、園山は微かに笑ってうなづいた。その後、彼は敏江やスタッフの方を見ながら言った。
・・・みなさ・・・、ごめん・・・な・・・さい・・・
「いいの。あなたは十分に苦しんだのよ。きっとイエス様も赦して下さるわ」
 敏江が園山の手を握って優しく言った。しかし園山は、わずかに頭を左右に振って言った。
それでも・・・主・・・よ、願わ・・・く・・・
 園山はそこまで言うと大きくため息をついた。そしてそのままベッドに身を沈め、動かなくなった。同時に口と鼻から血があふれ、生き物のようにシーツに広がっていった。

 急を聞いて駆け付けた葛西たちは、園山の死を知って呆然となった。長沼間が窓に駆け寄り、仲間の死を悼み悲しむスタッフに囲まれた園山を見て悔しそうに言った。
「畜生、また、証人が・・・」
「いえ、彼は死に際に証言してくれました。あいにく、ほとんど聞き取れませんでしたが、手掛かりにはなると思います」
 ギルフォードが窓の方を向いたまま、微動だもせずに言った。
  

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4.乱麻 (3)罪と報い

 園山の母親がN県から駆け付けたが、臨終の席には間に合わなかった。息子と無言の対面を終えた母親は、呆けたようにして来客室のソファに座っていた。
「夫が寝たきりなので、息子の発病を聞いてもなかなか来ることが出来なかったらしい」
 部屋のドアの前で、高柳がギルフォードに説明をし、ドアをノックした。
「園山さん、高柳です。入ってよろしいでしょうか?」
「はい・・・」
 部屋の中で弱弱しい声がした。高柳は部屋に入りギルフォードを紹介した。
「彼はこのセンターの顧問でQ大のギルフォード教授です。ギルフォード君、この方は園山看護師のご母堂の園山ツタエさんだ」
「この度は・・・」
 と、ギルフォードが神妙な顔で言った。ツタエは少しよろけるように立ち上がると、力なく微笑みながら一礼して言った。
「息子がお世話になりました」
「園山さん、お気遣いなくどうぞお座りください。長旅でお疲れでしょう」
 高柳は母親に気遣いを見せ座らせると、自分もギルフォードとともにその前のソファに腰かけた。
「園山さん。ギルフォード先生は息子さんの最後を看取った者たちの一人ですので、何か訊かれたいことがありましたら・・・」
「はい、あの・・・」
 園山の母親はおずおずと聞いた。
「息子はかなり苦しんだのでしょうか? 遺体の様子があまりにも・・・」 
 ギルフォードは一瞬躊躇したが、意を決して答えた。
「はい」
「ああ・・・」  
 ツタエは顔を覆いながら言った。
「すまんねえ、修二。母ちゃんもっと早く来たかったとやけど、父ちゃん放っておけんかったとよ」
 嘆く母親を見ながら、ギルフォードは言いにくそうに訊いた。
「あの、込み入ったことをお聞きしていいですか?」
「はあ。・・・?」
「余計なことかもしれませんが、シュウジさんが気にされていたので・・・」
「どうぞ」
「シュウジさんがキリスト教から離れておられたということはご存じでしたか?」
「はあ。それで父親が激怒しまして、それが原因で倒れまして、それ以来寝たきりに・・・」
「そうだったんですか」
「修二もそれ以来敷居が高くなったのか、連絡もよこさずに・・・。その挙句がこれですから、もう、情けないやら悲しいやら・・・」
「シュウジさんは、ずっとそれを気にされていたようでした。しかし、シュウジさんは今際(いまわ)のキワで悔い改められました。そして安らかに召されていかれましたよ」
「おお・・・、主よ、感謝いたします」
 ツタエは指を組み、天を見上げるようにして言った。そこにはさっきとは違った安どの表情が伺えた。ギルフォードは一瞬微妙な表情を浮かべたが、すぐに神妙な表情に戻って言った。
「ほかには・・・?」
「いえ、もう充分です。安らかに天国に召されたのなら、もう言うことはありません。これで審判の日に永遠の命を得ることが出来るでしょう。先生方、本当にありがとうございました」
 と、ツタエは笑顔でお辞儀をしたが、その後、息子の死を改めて実感したのか、さめざめと泣き始めた。
 その後の説明を高柳に任せ、来客室を出たギルフォードの前には、葛西らが待ち構えていた。

 事情聴取はセンターの会議室で行われた。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
 葛西がすまなさそうに言った。
「本来は署の方に来ていただくのですが、今回は特殊ですのでここお借りしました。後からセンター長にも来ていただきます」
 その葛西の言葉をさえぎるようにして長沼間が言った。
「今回は、ここの全員から個別に事情を聴くことになったからな。すでに山口って女医から聞かせてもらっている」
「まあ、それは仕方ないことでしょうね。スタッフの中にテロリストの協力者がいたんですから・・・」
 ギルフォードが納得して言った。
「ところで、みなさんご一緒で聴取されるんですか?」
「情報は共有せねばならん」
 と、長沼間は心持嫌そうにして言った。その横で九木が促すようにして言った。
「と言うことで、さっさとはじめましょう。ギルフォード先生、早速ですが園山修二が告白したという経緯と内容を話してください」
「はい」
 ギルフォードは、園山が告白を始めてから息を引き取るまでのことを、出来るだけ正確に説明した。
「それじゃあ、鹿島という看護師も、ひょっとしたら殺されているかもしれないと・・・」 
 と、葛西が驚いて言った。その横で、九木が腕組みをして言った。
「あるいは、敵の手に落ちて取り込まれているか、だな。どっちにしても、彼女にとって最悪な状態だ」
「だが、それは今捜査しているだろう」
 と、長沼間がせかすように言った。
「問題は、ヤツ・・・園山修二の吐いた組織だ」
「キーワードレベルの情報だがね」
「キーワードレヴェルで申し訳ないですが、それでもようやく聞き出したんです」
 九木に言われて、ギルフォードが若干ムッとした表情で言った。
「おっと、失礼。ダイイングメッセージの方が良かったですか」
「意味はあまり変わりませんよ。確かに状況はそうでしたが」
 と、ギルフォードが諦めたように言い、肩をすくめた。葛西が軌道修正するようにして言った。
「それはともかく、そのキーワードから話を進めましょう」 
 葛西からまでキーワードと言われて、ギルフォードは恨めしそうな表情で葛西を見た。葛西は一瞬しまったという表情をしたが、話を続けた。
「園山・・・さんが死に際に言った言葉でアレク・・・いえ、ギルフォード教授が聞き取れたのは『タ』『ナ』『ダイ』『イ』『サマ』ということですね。そして、秋山美千代が『あの方』と言ってたのも『イ』『サマ』。『サマ』は多分敬称の『様』でしょうから、2人の言った 『あの方』という人物はテロの主犯格で名前のなかに『イ』という言葉が入った名前で呼ばれていると考えられます。そして、駅で『自爆』した男が残した声明文から、『タ』『ナ』は『タナトス』に間違いないでしょう」
「『ダイ』についてはどう考える?」
 と、すかさず九木が葛西に質問した。。
「ダイ・・・? ダイモス・・・ダイタロス、え~と、他にギリシャ神話系では・・・」
 葛西が行き詰ったようなので、ギルフォードが付け加えた。
「ダイモンがいますね」
「ダイモン? 妖怪大戦争?」
「なんですか、それは?」
「あ、すみません。昔の日本映画なんで・・・」
「昔って、ダイモンが出る方の妖怪大戦争が公開された頃は、お前、生まれてなかっただろ? 俺だってまだ赤ん坊だったぞ」
 自分より10歳以上若い葛西の口から、思いがけず昔のマイナーな映画の名前が出たので、長沼間が驚いて言った。 
「ジュンは昔の特撮マニアなんだそうです」
「ほお、そうなのか」
 何故か、長沼間は感心したように頷いた。ギルフォードは話題をもどして言った。 
「ダイモンはデーモンの語源となったギリシャ神話の神ですよ。だけど、ギリシャ神の名前を続けて名前にする可能性は少ないと思いますよ」
「そうですよね。タナトス&ダイモンじゃあ漫才コンビみたいになりますし」
「どーゆー持ちネタのコンビですか」
「君たちは、大事なことを忘れているようだね」
 九木がしびれを切らせたように言った。
「さっき葛西君があげた、駅で『自爆』した男の持っていた声明文、あれはなんて書いてあったかね?」
「あ」
葛西がはっとして言った。
「『我は夜の子にして眠りの兄弟 母なる大地に代わり人類を絶滅する』・・・。大地・・・ですか」
「多分ね」
「意味深ですね」
 と、ギルフォード。
「う~ん、タナトスと大地、タナトスを大地に、タナトスの大地、タナトスから大地へ・・・、え~っと」
「葛西君、言葉遊びを続けても仕方がないだろう。おそらく、これからは今回のテロ組織あるいはテロリストに関しては『タナトス』、コードネームは『T』とされるだろう。敵の名称は、連中の正体が不明な限りあまりこだわって推理する意味はないよ」
 名称にこだわる葛西を九木がたしなめると、続いて長沼間が言った。
「これから新興宗教を中心に、主にタナトスあるいはギリシャ・ローマ神話系の神、あるいは大地に関連する地母神をを祭っていて、教主や指導者を「イ」が付く名前で呼んでいる宗教団体があるかを、しらみつぶしに探すことだな」
「そういえば、先生のところの篠原さんは、その組織の首謀者あるいは重要人物らしき連中の顔を見ているということでしたね。しかも、一度見た人は絶対に忘れないという」
 九木が言うと、長沼間もポンと手をたたいて言った。
「そうだ、篠原由利子がいたな。ちょうどいい、彼女に探させよう」
「やめてください。マイナーなところまで含めれば、多分数十万に上る宗教があると思います。ユリコがパンクしてしまいます」
 ギルフォードは焦って止めた。
「それに、組織に自分等の宗教にかかわる名称を付けるなんて危険なことをするでしょうか」
 ギルフォードの疑問に、今度は九木が答えた。
「だがね、今のところ手がかりはそれしかないんだ。それに、信者を関わらせようとするなら、多少は関連付けた名前にしたほうが効力はあるはずだよ」
「まあ、そういう可能性もありますが」
「なんだ、おまえ、園山から聞き出した本人のくせに、消極的だな」
「何かが腑に落ちないような気がするんです。それが何かはわからないのですが」
「俺なんか、腑に落ちないことだらけだ。それでも、得られた手がかりから事件を解決していくしかないんだ」
 長沼間が、いつもと違った真剣な表情で言った。
「連中の計画が始まってしまった今、一刻も早く連中を捕まえてウイルスの正体を突き止めにゃならん。おそらくワクチンも保有しているはずだしな」
「そうですね。すみません、杞憂でした。とにかく、ユリコに関わらせるのは、ある程度絞り込んでからにしてください。ユリコ本人に捜査に協力する意思はありますから」
「まあ、残念だが仕方ないな」
 長沼間が言い、九木も頷いた。

「クシャン」
 由利子が短いくしゃみをした。
「う~、誰か噂しているかな? 一瞬悪寒もしたし」
「Bless you! 大丈夫ですか」
「だいじょうぶだいじょうぶ。それにしても、何話してるのかなあ。園山さん、大丈夫かなあ・・・」
「心配ですわね。でも、何か異常があったら連絡があるはずですから」
「でも、休講かあ・・・。アレクの講義、楽しみにしてたのにな。ねえ、美月」
 由利子に声をかけられて、美月は軽くワンと吠えた。

 改めて九木が言った。
「ところで先生、ちょっと気になることがあるんですが・・・」
「はい、なんでしょう?」
「聞いた話では、最初、園山の告白を聞いた時、君は彼に対してかなり腹を立てて部屋を飛び出したようだが、その後山口先生の話を聞いて、園山を説得するほうに考えを変えた。それは何故です?」
「トモさん・・・ヤマグチ先生の話から、ソノヤマさんがクリスチャンであることを心から捨てていないことが判ったからです」
「どういうことです?」
「彼は、最初僕に懺悔(ざんげ)をしたいと言いました。懺悔と言う言葉はもともと仏教用語の『さんげ(懺悔と漢字は同じ)』から転用された言葉で、日本人も普通に使う言葉ですから、最初はあまり気にしませんでした。しかし、トモさんから彼がクリスチャンだったことを聞いて、彼が死の前に懺悔をしようとしていることから、心の底では彼は信仰を捨てていないと考えました。それで、それを利用して、彼を落とせるのではないかと思ったのです。結果、彼は最後に組織について白状したというわけです」
「え? では、アレクは園山を死の前の恐怖から救おうとしてやったわけではない、ということですか?」
 と、葛西が戸惑った表情でギルフォードを見ながら言った。
「そうです。彼は勝手に救われたと思って昇天しただけで、僕は彼が救われようと、絶望とともに息を引き取ろうと、知ったこっちゃないと・・・いえ、むしろ、救われるべきではないとすら思っていました」
 冷たく言い放つギルフォードに、葛西が戸惑いの色を濃くして言った。
「じゃあ、先生は、単に組織の名前を聞き出すための方便に彼の信仰を利用しただけだと・・・」
 葛西の目の中に非難の色を見出しながらも、ギルフォードは冷徹に言った。
「僕は、宗教の名において人を苦しめる連中は許せません。だから、そんな連中がどうなろうと知ったこっちゃありません」
「それは、君の親友がHIV感染で亡くなったからですか?」
 と、九木が思ってもない質問をしたので、ギルフォードはこわばった表情をして言った。
「僕のこと、どこまでご存じなんですか?」
「腐っても日本警察ですよ。記録に残っているものなら難なく調べられます」
 九木はさらりと言った。
「その上で適任と判断し、日本政府はあなたをこの国にお呼びしたのですから。もっとも、何故かあなたはこんなところにいらっしゃいますが」
「こんなところって、ユリコが聞いたら怒りますよ」
「おっと、失礼しました」
「・・・確かに、それもあります。HIVのアメリカ上陸が確認された時に早急に手を打っていれば、感染拡大はかなり抑え込めたでしょうから。そしてその結果、エーメ・・・親友の感染は防げたかもしれない。しかし、当時の政府は天罰などと下らない宗教観で決めつけて、対策を怠ったんです。万一、ゲイ特有の病気だったとしても、それを天罰と言って、苦しむ人々を見捨て、危険な病原体を放置すると言うことは、国家としてあってはならないことです」
 ギルフォードは、そこで一旦言葉を切ると、一度深呼吸をした。そして、さらに淡々と話を続けた。
「でも、僕が宗教と言うものを忌み嫌うのは、それだけではありません。
 僕たちが新型ラッサ熱対策で派遣され、命がけで守ったアフリカのワタカ共和国・・・。独立してまだ年は浅く、小さくて貧しい国でしたが、平和で希望に満ちた国でした。それなのに、その国は下らない宗教間の諍いに巻き込まれて滅ぼされました。
 僕の行ったチサ村も例外ではなく・・・。共にウイルスと戦った村人たち・・・は、・・・そう、ラッサ熱で父親を亡くし墓の前で涙をこらえながら、胸を張って医者になると言った幼い少年も、感染し倒れた僕たちを、感染を恐れず懸命に看病してくれた勇敢な少女も、・・・男も女も、年寄りも子供も・・・容赦なく・・・逃げ込んだ教会ごと、生きたまま焼き殺されました。僕はそのことを聞いたとき、全身を引き裂かれるような悲しみと苦しみに襲われました。あがめる神様は同じなのに、宗教が違うと言うだけで情け容赦なく人を殺せる。何故です? 宗教は人を救うためにあるのではなかったのですか? 何故、一所懸命に生きていたチサ村の人々が虐殺されねばならなかったのですか? 彼らは、村周辺が閉鎖され、僕たちの食料が尽きそうになった時、自分等の備蓄を削って分けてくれた、僕たちの活動の趣旨を理解して、恐れながらも他所からの患者も受け入れてくれた・・・。そんな彼らが、何故・・・? 下らない。バカバカしい。そんなモノは必要ない・・・。だからその時以来、僕は宗教ごと神というモノを捨てました」
 ギルフォードは話を終えたが、その重い内容に皆言葉を失っていた。ギルフォードは周囲を見回すと、いつもの笑顔に戻って言った。
「さて、九木さん、以上ですが納得していただけましたか?」
「あ、ああ、・・・嫌なことを思い出させたようですね。申し訳ない」
 さすがの九木も色を失っていた。ギルフォードは、さらに穏やかに言った。
「他にご質問がなければ、そろそろ僕を解放してほしいのですが」
「俺はもう十分だ。九木さんは?」
「まあ、十分だと言うしかないですな」
 二人の許可を得て、ギルフォードはにっこり笑うと言った。
「では、僕は大学に帰らねばならないので、これで失礼します」
 ギルフォードはさっさと立ち上がると、一礼して会議室から出て行った。

「まいったな・・・」
 ギルフォード出て行ったドアの方を見ながら、九木が少し後悔したようにつぶやいた。その後しばらく3人は無言でいたが、ギルフォードの話の途中からずっと黙ったままだった葛西がようやく口を開いた。
「あんな教授を初めて見ました。感情を抑えている分、余計に怖かった・・・。僕だって多美さんのことを思うと園山さんのしたことは赦せませんが、あそこまで冷ややかにはなれません」
「相変わらず坊やだな、お前さんは」
 と、長沼間がニヤリと笑って言った。
「ツンデレなんだよ」
「ツンデレ・・・ですか? アレク・・・いえ、教授が?」
「一歩間違えればヤンデレだがな、あいつだってわかってるんだ。宗教もハサミも道具にすぎない、使う人間次第だってな。そして、あいつはまだ人間に対して希望を失っちゃいない。だから、あいつは園山を説得出来た」
「よくわかりませんが・・・」
「要するに、アレクサンダーが園山を見捨てることが出来なかったってことさ」
「はあ・・・」
 まだ納得できていないのか、葛西は気の入らない返事をして考え込んでしまった。

 ギルフォードが会議室から出て通路を歩いていると、山口から声をかけられた。
「アレク先生、どちらへ?」
「おや、トモさん。用が終わったので、大学に帰るところです」
「そうですか・・・。でも、なんか怖い顔をされていますね」
 山口に言われて、ギルフォードが右手で額を抑えながら言った。
「まあ、嫌なことがあった上に、さらに嫌なことを思い出させられましたからね」
「園山さんのこと?」
「まあ、そんなところです」
 山口はそれを聞くと、言いにくそうに尋ねた。
「あの・・・、園山さんがウイルスを撒いた人たちの仲間だったって、本当ですか?」
「はい。いずれ判ることですが・・・」
 と、ギルフォードは正直に答えたが、山口は頭を左右に振ると言った。
「私は隠してほしかったと思っています」
「そういうわけにはいきません。下手に隠すと、後で事実がわかった時、信用されなくなってしまいます」
「そうかもしれませんが、今、スタッフ間に異様な空気が漂い始めています。園山さんの死は2重の意味でスタッフに動揺を与えることになってしまいました」
「2重?」
「恐怖と疑心暗鬼です」
「トモさん、あなたはどうなのですか?」
 逆にギルフォードに聞かれ、山口は一瞬戸惑ったがすぐに答えた。
「今の私の気持ちは・・・。園山さんの死に対しては悲しいと思います。だけど、それ以上に許せない。彼はここのスタッフ全員を裏切っていたんでしょ。彼があの女を逃がしたせいで、紅美さんも歌恋さんも死んでしまったのよ。2人とも幸せになるべき人だったのに、あんな酷い殺され方をして・・・」
 山口はそこまでいうと、声を詰まらせた。
「トモさん・・・」
「殺されたの、 そうでしょ? 私は絶対に許せない。なのに、アレク先生、どうして彼を赦したの? あいつは後悔して苦しんで死ぬべきだったのよ!」
「長沼間さんたちにも言いましたが、僕は許していませんよ。許したとしたら、あの人類の罪を一人であがなったとかいうあの人くらいでしょうね」
「詭弁だわ! 現にあいつは安らかに死んでいったって・・・」
「トモさん!」
 ギルフォードは山口の両肩を抑えると、彼女の目をじっと見ながら少し語気を強めて言った。
「いいですか、僕も彼を、ゆ_る_せ_ま_せ_ん。だけどトモさん、彼が加害者側であるとともに、被害者であることは忘れないでください」
「アレク先生・・・」
「彼は罪を犯しました。しかし、それは誰かに洗脳されたせいです。あなたが許せないと思うべきはそいつらじゃないですか? 確かに裏切られ感はあるでしょう。でも彼はね、本当は、あなたに罪の告白をしたかったのだと思います。でも、彼にはどうしても話せなかったんです。たぶん、あなたに軽蔑されるのが怖かったからでしょう」
「先生、あの・・・」
「今ここで皆が疑心暗鬼に陥るのは危険です。それこそ敵の思うつぼだと思いませんか? トモさん、君は、道を誤った仲間を責めちゃダメです。でないとスタッフの決裂助長させてしまうでしょう」
「そっ、それは正論だと思います。でも、人の気持ちはそんな合理的には出来ていません」
「彼の罪は消えることはありませんし、彼は後悔と罪を背負ったまま亡くなりました。それで十分じゃないですか」
「わかりました。わかりましたから、少し離れてくださいませんか?」
 山口は真っ赤になりながらようやく言った。ギルフォードは、自分が山口の両肩を掴んだまま顔を間近に寄せていたことに気が付いて、急いで手を放し跳ぶようにして一歩後ずさった。
「ゴ、ゴメンナサイッ」
「もう、アレク先生ってば、その気がないなら気を付けてください。わかっていても勘違いをしてしまいます」
「スミマセン・・・」
「こちらこそ、お引止めしてすみません。私ももう行かなきゃ。川崎五十鈴さんと瀬高亜由美さんの容体が良くないらしいの」
 山口は一礼すると、くるりとギルフォードに背を向けて足早に去ろうとした。しかし、また振り返ると言った。
「アレク先生、私、まだ気持ちの整理はついてないけど、頑張ってみます」
 山口はそう言うと、再び足早に去って行った。 

 
 河部千夏は、2日ほど前から気分が優れず倦怠感が続いていたが、もともとつわりのひどい彼女はあまり気にしていなかった。しかし、今日は朝から熱っぽく、念のために熱を測ってみると38度近くになっていた。
「やばっ、土日が肌寒かったから・・・。風邪薬飲んで寝た方がいいかな・・・。でも、久しぶりにお日様が出ているし、天気予報も今日は降雨確率0%って言ってるから、洗濯やお蒲団干ししたかったんだけどなあ・・・」
 少し無理して洗濯だけでも終わらせようか・・・。そう思ってソファから立ち上がろうとしたが、ふらついてどうも調子が良くない。
「もう、風アイロンとかジェット乾燥とかいう最新式の、買っとけばよかった」
 千夏は、先週量販店で夫が買おうと言った洗濯機を思い浮かべて後悔していた。梅雨に入ったし、身重で洗濯も大変だろうと言う夫の気遣いだったが、値段を見て家のローンを考えた千夏は、今のがまだ十分使えるからと言って断ったのだ。
「だって、たかが洗濯機に20万なんてもったいなかったんだもんね」
 今更後悔しても仕方がない。千夏は冷凍庫から冷却用の枕を取り出すと、寝室に向かった。
「まったく、たっちゃんってば、こういう時に限って出張で居ないんだから。しかも、海外なんて最悪だよ」
 千夏はぶつぶつ言いながらベッドに横になった。着替えたかったがとてもそんな気力はない。既に頭がガンガンしている。しかし、おなかの子供のことを思うとやたらと薬を飲みたくなかったし、しばらく寝ていれば改善されるだろうと楽観的に考えていた。それで、千夏は布団にもぐりこむと目をつぶった。

    
 数時間後、千夏は目を覚ました。少し寝るつもりがすでに夕方になっていた。しかし、頭痛は治まらず熱は上がる一方だった。昨日とは打って変わった暑さのはずが、寒気までしてきた。しかも、体中の関節が痛い。
(やだ、本格的に風邪引いちゃったのかなあ・・・)
 千夏はそう思ったが、どうも様子が違う。腹に何か違和感を感じるのだ。
「まさか・・・」
 千夏は急いで起き上がろうとしたが、激しい頭痛で半身を起こしたのが限界で、すぐに布団に横たわった。恐ろしくなった千夏は、枕元の携帯電話を探って手にすると、実家の母親に電話をかけた。
「お、お母さん、私、私・・・」
「どうしたとね?」
 電話から、尋常ではない娘の声を聞いて異常を察した母親の不安な声がした。
「あのね、熱が出たと。それで・・・・それでね・・・」
 亜由美の声はすでに半べそをかいていた。
「なんね、しっかりせんね」
「おなかがなんか変なと」
「そりゃあいかん! すぐに救急車呼んでかかりつけの産婦人科に行きなさい。あたしもすぐに行くけん」
「うん。そうする・・・。お母さん、ちゃんと来てよ」
「わかっとおって。ほんとにもお、巽(たつみ)さんったら、こういう時に限って・・・」
 そこまでで、電話が切れた。千夏はすぐに119番を押して救急車を呼んだ。
 千夏は這うようにして、必要なものを一式入れたバッグを手に取り、必死に玄関に向かった。玄関でうずくまっていると、5分ほどしてサイレンの音がして千夏の家の前に止まった。千夏はほっとして一瞬気が遠くなったが、必死に意識を保った。
 駆け付けた救急隊員にストレッチャーで救急車に運ばれた千夏は、病状を聞かれ、経過を正直に話した。すると、救急隊員たちは顔を見合わせた。
「すみません、河部さん。急に高熱の出た方に質問しなければならないのですが、気を悪くなさらずにお答えください。今、県下で発生しているサイキウイルスですが、その患者の出た場所に行ったとか、知り合いに患者あるいはその疑いで隔離された人とかいませんか」
「いえ、私にはそんな覚えは・・・」
「そうですよね。そんなことはそうそうありませんよね」
 質問した救急隊員は、笑いながら言った。
「では、搬送希望の病院は・・・。おや、河部さん? どうされました?」
 千夏は、隊員の質問からある事を思い出していた。怖くて封印していたある事件。あれは一週間前・・・。

 F駅でサイキウイルス患者が死亡したというニュースを見ながら夫の帰りを心配していると、元気な顔をして帰って来た。しかし、彼はそのまま洗面所に行くと何かを洗っている。千夏は不審に思ってそばによると、夫はハンカチを洗おうとしている。
「どうしたと? そんなの洗濯機に入れたらよかやん」
 千夏は笑いながらハンカチに触ろうとしたが、巽は驚いてそれを阻止しようとした。それで、千夏はつい、むきになってそれを取ろうとしたために、ハンカチの水が周囲に飛び散り、一部が千夏の顔にかかった。
「バカ! 何するんだよ」
「だって、たっちゃんが・・・」
「あのね。今日駅で変な男とすれ違った時、メガネについたものをこれで拭いたんだ。だから、気持ち悪いのでさっさと洗って消毒しておこうと思っただけだよ」
「そんなん、捨ててくればよかったやん」
「だって、昔君がくれたハンカチだろ。失くしたら怒るくせに・・・」
「ごめん。そんな気遣いさせちゃってたっちゃね。でももういいよ。そんな気味の悪いハンカチ捨てよう。私、また買ってあげるから」
 千夏は、言いながらビニール袋をとってきてハンカチを入れ、ゴミ箱にすてた。
「これでいいね。はやく着替えて来てよ。ご飯出来てるから」
「ああ、でも手を洗ってからだよ。ほら、君も」
 二人は仲良く並んで手を洗うと、そのまま居間に向かった。居間ではテレビが今日のニュースを流していた。
「あ、これこれ。たっちゃん、これ、大丈夫やった?」
「え? 俺、特急にギリギリだったんで急いでたし、特急電車はすぐに出たからこの事件今知った・・・。じゃあ、あいつが・・・」
 ニュース映像を見る巽の表情は、強張っていた。
「たっちゃん・・・。その眼鏡も洗った方がいいよ。すぐに服を脱いでお風呂に入って。着てるもの、みんな捨てておくから。ちょうどゴミの日やし」
 千夏は夫の方を見て懇願するように言った。

「ま・・・、まさか・・・」
 千夏は思いだした途端、背筋に寒気が走った。急に様子の変わった千夏に、隊員が呼びかけた。
「河部さん、か・わ・べさん! どうされましたか!」
 千夏は震えながら言った。
「いえ・・・、思い出しました。一週間前、駅でウイルス患者が亡くなった事件の時、夫が駅でその男とすれ違ったって・・・、その時眼鏡に血が付いたのをハンカチで拭いたって・・・」 
「それは大変だ。搬送先は感染症対策センター。各隊員は直ちに感染防護の確認!」
 隊長は、そう命令すると、千夏に向かって言った。
「急いで連れて行きますから、がんばって。きっと助かります!」
 しかし、千夏にはそれが気休めだということを確信し、深い闇に飲み込まれるような感覚に陥っていた。

続きを読む "4.乱麻 (3)罪と報い"

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4.乱麻 (4)シンプル・ゲーム

 西原祐一は、あの事件以来すっかり明るさを失っていた。将来はジャーナリストも夢じゃないと言われていたほどの報道研究部もあっさりと辞め、昼休みや放課後を学校図書館で過ごすようになった。彼に付き合い、リーグのメンバー(『タミヤマ同盟(リーグ)』とリーグ発足者の彩夏が多美山刑事に因んで命名)良夫・勝太そして彩夏も図書館に入り浸るようになった。

 今日も放課後に祐一を筆頭に4人ゾロゾロと図書室に入って行くと、司書教諭の中谷悟朗が声をかけた。
「来たね、西原君と金魚のフン」
 それを聞いて彩夏がムッとした顔をしたものの、4人は会釈をして「こんにちはー」と言うと、いつもの席に向かった。不思議なもので、通い始めるといつの間にか居場所が決まってしまうが、それは人間が動物であることの証明でもある。中谷は声をかけて見事かわされたものの、懲りずに言った。
「錦織サン、怒った顔も可愛いねえ」
「セクハラだわ」
 彩夏は小声で言ったがそのまま無視して男3人を追い抜き、足早に席についた。彩夏に前を横切られて、足を止めた祐一に中谷が言った。
「おっと、金魚・・・やない、西原君、頼まれとった本、入ったけえね。ほら、これじゃが」
 中谷は屈んで数冊の厚い本を出すと、カウンターの上に置いた。祐一は急いで貸出カウンターに戻った。
「ありがとうございます。早かったですね」
「ああ、普通ならこんな専門的で高価な本をしかも同じテーマを3冊もなんて通らない可能性もあったけど、今、こういう事態やろ? 僕が口八丁手八丁で・・・」
「ありがとうございます。席に持って行っていいですか?」
 祐一は、中山の言葉をさえぎるように言うと、返事を待たずに本を手にした。中谷は半ばあきれたようにして言った。
「ああ、どうぞ」
「すみません」
 祐一は3冊を抱えると、急いで皆の待つ席に向かった。その背中に中谷はまた声をかけた。
「おい、西原君、2冊は新興ウイルス関連の本やけぇわからんでもないが、もう一冊の『悪魔の生物学』ってのは生物兵器の本やろ」
「ええ。そうです。それがなにか?」
 祐一は体を半分だけ中谷の方に振り向けて聞き返した。
「いや、実際にそういう噂を聞くんでね。だけど、西原君。変な噂に惑わされてはいけんよ」
「大丈夫です。僕はそんなものに惑わされません。微生物を知るために読んでみたかっただけです」
 祐一はそういうと、こんどこそ席に向かおうとしてとしたが、何かが気になったようでまた中谷の方を振り返った。
「先生、Y県の方ですか?」
「いいや、H県じゃが、何で?」
「お国言葉がダダ漏れですよ」
 祐一はそういうと、にこっと笑った。
「西原君。ようやく笑うたのう」
 つられて中谷は笑顔で言ったが、祐一が席について読書を始めると、首をかしげながらつぶやいた。
「なんで方言が出たんやろ?」
「あれ、なんか中谷先生、首かしげてるけど、どうしたと?」
 と、良夫がそれに気がついて言った。祐一は本から目を離さずに答えた。
「方言を指摘したからだろ」
「だって、普段からダダ漏れやったやろ」
 と、勝太が言ったので彩夏が少し驚いて言った。
「方言違ったの? そういえば、なんか違和感があったけどそのせいだったのね。海峡を挟んで言葉が変化してるんだ。面白いわ」
「九州じゃ『いけない』を『いかん』っていうけど、中国地方じゃ『いけん』になるからね」
 と、彩夏の言葉を受けて、良夫が言った。
「『いけん』のほうが『いけない』に近いけど、『いかん』って言葉自体は関東の方でもオジサンが使ってる言葉よね」
「ところがさ、『いけん』って北九州の一部も使うらしいんだ。でも、日本の方言は『いかん』が主流みたいなんだ。関西は『アカン』だけど。関門海峡で言葉が違ってるなかで、境界付近ではそういう共通点もあるんだよ」
「へえ、おもしろいわねえ」
「大まかな方言の体系は、中国地方と九州に分けられるんだけどね」
「やっぱり、昔は本州と九州は交通手段が船しかなかったからかしら?」
「多分そうやろうね。徒歩で行き来できるかそうでないかは重要だね。特に昔は」
「それでも一部の言葉が混ざるってのも不思議よね」
「うん。なんでか調べてみたら面白いかもね」
 と、二人は仲良く話していたが、ふと自分等が顔を突き合わせて話しているのに気が付いて、同時に「ふん!」と言って顔をそむけた。
「仲良いよね」
「うん。そう思う」
 勝太と祐一がボソッと言いあった。

「教授、こっちに帰ってきてから美月ちゃんと遊んでばかりじゃあありませんか。ちゃんとお仕事してくださませ」
 紗弥が、美月のそばから離れようとしないギルフォードに対して、しびれを切らして言った。そんなギルフォードを見ながら由利子が紗弥に小声で言った。
「電話の声が怒ってたって言ってたけど、なんか大丈夫そうじゃない?」
「いえ、多分センターで何かあったんですわ。報告がまったくありませんし、第一燥(はしゃ)ぎ過ぎですわ」
「う~ん、そう言われてみると・・・。でも、日頃からちょっとムリして明るくふるまっているようなトコあったからなあ」
「まあ、気付いておられたんですの?」
「なんとなくね」
 ジュリアスから聞いた話のせいでそう思うのかもしれないと思ったが、由利子はそれを口に出さなかった。
 そんな時、教授室の電話が鳴った。
「はい。ギルフォード研究室でございます・・・。あら、山口先生。・・・まあ、そうですの? 少々お待ちくださいませ」
 紗弥は電話を保留にすると、ギルフォードに言った
「教授、山口先生からですわ。携帯電話に電話しても出ないからと・・・」
「だって、帰ったばかりなんだもん。美月と遊びたいんだもん」
「幼児化していないで、さっさと出てくださいませ!」
 紗弥から怒られて、ギルフォードはしぶしぶ電話に出た。
「はい。トモさん。高柳先生は?」
 電話の向こうで山口が言った。
「高柳先生は、三原先生と手が離せない患者さんを診ておられます。今、二人の方が深刻な状態におられますが、そのうちの一人が危篤状態なんです。それで、私がお電話を差し上げているのですが・・・」
「何かあったのですか? まさか、また・・・」
 ギルフォードは、嫌な予感を覚えつつ訊いた。
「はい、また新たな感染患者が搬送されたそうで、もうすぐ到着するみたいですが」
「なんてことだ。それで、感染ルートはわかりますか?」
「ええ。一週間前の、F駅で感染者が亡くなった事件です。その時に感染者からの飛沫が眼鏡に付着した男性がいたらしくて・・・」
「それなのに、名乗り出なかったのですか」
「ええ。でも、発症されたのは、その方の奥さんなんです」
「オ~、最悪です」
「しかも、もっと最悪なことが・・・」
「なんです?」
「件の旦那さんが、今海外出張中らしいんです」
「海外・・・」
 ギルフォードは一瞬絶句したが、続けて言った。
「どの国へ出張されているのでしょうか」
「アメリカだそうです」
 それを聞いて、ギルフォードは憂鬱そうに言った。
「アメリカ・・・ですか。まずいですね。なんか嫌な予感がします・・・」
 由利子と紗弥は、不安と興味の入り混じった風情で様子を見ていたが、ギルフォードの電話が終わると、むしろ興味津々で質問してきた。
「何? また感染者?」
「最悪ってどういうことですの?」
「今回は、特にメンドクサイことになりそうです」
 と前置きすると、ギルフォードは再び美月のそばに座りこみ彼女の頭を撫で、そのまま電話の内容を説明した。
「じゃあ、その旦那さんが感染していたら・・・」
「アメリカ大陸にウイルスが上陸したことになります。早急に封じ込め対策がなされるでしょう。すでにアメリカ政府に連絡済みということですから、ダンナはおそらく日本に強制送還されると思いますが・・・」
「アメリカだったらなんかまずい訳?」
「まずいのはアメリカでもロシアでも中国でも北の国でも一緒ですけどね・・・」
「何故ですの?」
「新型の殺人ウイルスですよ。興味持たない方がおかしいでしょう」
「何それ? 上陸されたら困るんじゃないの?」
「ええ。自国に拡散するのは困る、でも、ウイルスは欲しいってとこですか。僕がCDCに送った検体ですが、アメリカ陸軍から再三、分けてほしいと言う要請があっているらしいのですが、CDC側は断固として断っているそうなんです」
「それって、やっぱ、悪用されそうだから?」
「その可能性もありますが、話はもっとリアルです。2001年の炭疽菌テロの時の確執がまだ影響しているんですよ。あの時、CDCは米陸軍に出し抜かれっぱなしでしたからね。以前お話したように、炭疽菌のノウハウは米軍の方が勝っていたとはいえ、ほんと、いいとこなしだったんですよ。もともと犬猿の仲だったってこともありますが・・・」
「ああ、あの、米軍のマッチポンプだったって・・」
「ではなくて、炭疽菌の内部流出ですってば。そういう機関としてはもっとマズイ」
「今サイキウイルス感染者の検体を持っているのはCDCと、どこ?」
「フランスのパスツール研究所、海外ではその2か所だけのはずです」
「パスツール研究所にも、そういった依頼が来ているんじゃないの」
「それどころか、センターや僕にも各国の研究施設や学者から熱いラブコールが来てますよ。新種のウイルスを発見することは名誉なことですから、競争率があがらないように、おそらく横流しは起きないを思いますが・・・」
「ふうん。まあ、ウイルスが流出しないに越したことはないけど、みんなで探した方が早く見つかるよね。科学者の世界もいろいろ大人の事情があるんだねえ」
 と、由利子がしみじみ言うと、ギルフォードが肩をすぼめて言った。
「むしろ、オトナの事情だらけですよ。ただ、君が言ったように、他国から悪用される可能性も十分考えられます。おそらく米軍もこのウイルスがテロに利用されていることは周知でしょうから、早く手に入れて正体を解明しないと心配で安眠出来ないんでしょう」
「なるほどね。確かにメンドクサイね」
「ところで、教授」
 紗弥が、改めて言った。
「園山さんのことですが、どうなったのですか。お帰りになってから、まったくそのことに触れられないので、気になっているのですか・・・」
 園山と聞いて、ギルフォードはため息をついて言った。
「ショックを受けるだろうと思って、言いたくなかったのですが・・・」
 ギルフォードは少し困った顔をすると、数時間前の出来事を話し始めた。
 由利子たちは、ギルフォードからの報告を聞いてさすがにショックを隠せないようだった。
「そんな・・・。園山さんが敵のスパイだったなんて・・・」
 と、由利子が見るからに愕然として言った。紗弥は黙っていたが、いつものポーカーフェイスに陰りが見えている。
「僕だって信じられませんでしたから」
「多美山さんにあんなに献身的にしてたのも、罪滅ぼしだったの?」
「そういう気持ちもあったのでしょうけど、タミヤマさんに対しての献身は、本心からのものだったと思います。でなければ、自分が感染する程患者と接することなんて、怖くてできません」
「自業自得ですわ」
 と、紗弥が少し険のある口調で言った。
「紗弥さん?」
「それより、どういう経緯で園山看護師が送り込まれたかが重要ですわね」
「その通りです。さらに、あの病院がどの程度敵に浸食されているかも調べねばならないでしょう。内通者がソノヤマさんだけならいいのですが」
「むしろ、敵の目的はセンター内のかく乱じゃないの?」
「こちらの一枚岩を壊そうって魂胆ですか。確かにスタッフにかなりの動揺が見られました」
「っていうか、動揺しない方がおかしいよね。連中にとっては園山さんが感染して死ぬことなんかどうでもよくて、彼のスパイ発覚における動揺こそが目的だったとか」
 由利子が言うと、紗弥が深く頷いた。
「しかも、このテロの首謀者は愉快犯的な面がありますから、園山看護師の投入すら余興と考えているかもしれませんわ」
「ひどい。何の意味があってそんな」
「それは、自明のことですわ、由利子さん。彼あるいは彼女は最初にメールで明言していましたでしょ。ゲームだと」
「ゲーム? ゲームって、いったい何のゲームなのよ」
 由利子の質問に今度はギルフォードが答えた。
「そのまんまですよ。ウイルスを封じ込めて殲滅し、ラスボスまでたどりついて倒す・・・いえ、この場合は逮捕する・・・ことが出来れば僕らの勝ち。対して、テロリストの方はウイルスを世界中に拡散させれば勝ちです」
「明らかにこっちの方が不利じゃん。そもそも、今どのステージにいるかすらわからないのよ。」
 由利子はうんざりした様子で言った。
「正体不明の誰かさんから勝手に振られたゲームですが、負けるわけにはいきません。大袈裟ではなく、これは下手をすれば人類の未来にも関わるゲームなんですから」
「テロならテロで、なんで素直に首都を狙わないのよ。何考えてるのかさっぱり判らないわよ! はあ、またむかついてきたわ。もうこの話やめよ。そういえばアレク、センターには行かなくていいの?」
「危篤患者が二人いるところに新患が搬送されるんです。医療行為の出来ない僕が行っても邪魔になるだけですから、要請がない限りここでおとなしくしていますよ。さて、ミツキ姫、僕は秘書閣下の仰せのとおり仕事に戻らねばなりません。姫はしばしここでお休みくださいませ」
 ギルフォードは恭(うやうや)しく言うと、立ち上がって自分の席についた。美月は判ったのか、自分のペット用マットの上をうろうろしてちょうど良い寝場所を見つけると、大人しく横になった。

 祐一たちは閲覧を終え、例の如くぞろぞろとカウンターの前を横切ろうとしていると、またもや中谷が声をかけた。
「先生は嬉しいよ。最近インターネットや電子書籍の普及で図書館の利用者ががた減りしているんだよ。特に調べものなんかは、ネットで検索したらほとんど答えが出て来るからね。それでなくても、近年本離れが進んでいたからね。君たちのように頻繁に利用してくれる子達は逸材なんだよ」
 祐一は、立ち止まり真顔で言った。
「僕はネットも利用しますけど、やっぱり画面より本を読んだ方が、自分のものにしやすいと思うんです。図書館にはネットでは読めない貴重な本もありますし、それに・・・」
「それに?」
「操作次第では一瞬でデータがなくなったり、停電になるとまったく利用できなくなったりするようなものは、信頼できないんです」
 中谷は一瞬ぽかんとしたが、すぐに半ばあきれたように言った。
「君、本当に中学生?」
 祐一は肩をすくめてそれに答え、「失礼します」と言って図書館を出、先に退出して待っていた友人3人と合流した。
 4人は連れ立ってバス停に向かった。彼らは周囲からなんとなく注目されていた。祐一と彩夏が並ぶとかなり目立つからだ。
 面白くなさそうな顔をしていた良夫が、意を決したようについと前に出た。
「西原君、あの本借りよったと?」
 良夫が彩夏と反対側の祐一の横に並びながら訊ねた。
「いや、家では他にすることがあるから、休み前に借りようと思うんだ。きっとあんな本、オレ以外借りないよ」
 祐一の答えを聞いて、彩夏が興味津々な様子で言った。
「じゃ、あの生物兵器の本、明日私が借りようかな? 週末には返すから心配しないで」
「大丈夫? けっこう字が細かいし、女の子には退屈かもしれないよ」
「バカにしないで。私、これでも意外と読書家なんだから」
 彩夏はつんとして言うと、後ろに下がって勝太と並んだ。勝太は少し嬉しそうに笑った。対照的に祐一は、しまったという表情でつぶやいた。
「一言多かったな・・・」
「気にせんでいいよ、あんな女」
 と、良夫がつんけんした様子で言った。
(こいつも素直じゃないよな・・・)
 祐一は心の中でつぶやいた。
 その4人をやや離れた場所に止まった車からじっと見つめる人影があった。それは、彼らがバスに乗り去って行くのを確認すると、車を発進させて去って行った。 

 
  
 NY(ニューヨーク)出張中の河部巽は、ホテルで寝ているところを異様な姿の者たちに囲まれて飛び起きた。
”な、何です? あんたたちは? まだ4時ですよ!!”
”就寝中,まことに申し訳ありません”
 隊長と思われる者が、巽の方へ近づきながら言った。どうやら女性らしかった。
”何者ですか、あんたたちは!”
”米軍海兵隊CBIRFです”
「シーバーフ・・・?」
 CBIRFについては聞いたことがあった。確か生化学災害に対応する部隊だったような・・・。巽は、時差のせいでなかなか寝付けず、ようやく眠ったところで寝込みを襲われたため半ば痺れたような頭で、何とかこの事態を把握しようとした。
「寝起きドッキリ・・・じゃないよな」
”ミスター・タツミ・カワベ.あなたをサイキウイルス感染の疑いにより,保護いたします”
”サイキ・・・,なんだって?”
”ミスター・カワベ,あなたの奥様がサイキウイルス感染症を発症され,感染源はあなたとされました,よって・・・”
”サイキウイルス? 妻が発症? 何の冗談だ? あいつはいま妊娠中で・・・”
”私たちはまだ,詳しいことはお聞きしていません.あなたの身柄を保護し,日本にお送りするよう指令を受けました”
”妻は,おなかの子は,大丈夫なのか? まさか私が帰るまで・・・”
”残念ですが,我々にはわかりません”
”なんということだ・・・! 夢なら覚めてくれ・・・”
 巽は両手で頭を抱えるようにして、髪を鷲掴みにし、呻いた。
”出来るだけ早く日本へお帰しします.急いでご用意をなさってください.”
”ちょっと待ってくれ.今叩き起こされたばかりで急に言われても何が何だか・・・”
”速やかに言うとおりにしてください.御身のためにも”
 隊長らしき女は、丁寧ではあるが有無を言わせぬ口調で言った。  

 長兄こと碧珠善心教会教主、白王清護(すめらぎしょうご)は、講演を終えて教団のF支部である碧珠会館の廊下を自室に向かって歩いていた。そこへ、月辺洋三が姿を現した。
「おや、月辺、どうしました?」
 教主に声をかけられ、月辺はさっと跪くと言った。
「長兄さま、園山の件でお話が・・・」
「わかりました。ちょうど部屋に帰るところでしたから、そこでお話を聞きましょう。一緒に来てください」
 教主は月辺に言うと、また歩き出した、月辺はすぐに立ち上がり、教主の後ろをついて歩いた。
「さて、月辺。話を聞きましょう」
 教主は部屋に入って机に座ると、前に跪いている月辺に言った。月辺は跪いたまま、ちらと教主の横を見て言った。
「その前に、恐れながら長兄さま。なぜそこに女医がいるのですか?」
「先生とはこの後大事なお話があります。月辺、あなたの話は彼女に聞かれると困るような内容ですか?」
「そうではありませんが、あまりにもその者を信用しすぎているのではないかと・・・」
「私のやりかたに不満ですか?」
 教主の口調は静かでものやわらかだったが、月辺は急に狼狽して言った。
「いっ、いえ、めめめ滅相もございません。出すぎたことを申し上げました。お許しください」
 月辺は言うなりひれ伏した。それを見ながら、教主は満足そうに微笑みながら言った。
「月辺、顔を上げてください。さあ、お話とはなんですか」
「ははっ」
 月辺は恐縮しながら顔を上げた。
「先ほど知らせがありまして、園山が死んだと・・・」
「おや、そうですか・・・。それは・・・かわいそうなことをいたしました・・・」
 教主は、少し目を潤ませながら言った。月辺はそれを見て言った。
「御慈悲は無用ですぞ。あの男はギルフォードめにほだされて神祖さまが尊いお教えを捨てた挙句に、我らの情報を漏らしたのです。幸い、病状が進みすぎていて、ほとんど伝わらなかったようですが・・・」
「彼の感染は予想外でしたが、発症後の彼がそうなるだろうことは予想しておりました。むしろ、よくもったといえましょう。彼のような子供のころから刷り込まれた宗教心にはなかなか完全に上書きすることは難しいですから。それより、敵の結束に毒を流し込んだ彼の功績のほうを評価してやりましょう。情報が漏れた件も、少しくらい相手にヒントを与えたくらいが、却って展開が面白くなるというものです」
「寛大なお言葉、痛み入ります」
「ところで、月辺。斉藤某の立てこもりですが、あれを画策したのはあなたですね?」
「お見通しでございますな。出過ぎた真似をいたしました」
「おかげで面白いものが見れました。しかし、くれぐれも敵に気付かれないように心配りをなさいますよう」
「伊達に参謀は名乗っておりません。電話も田舎街の公衆電話を使いましたから、斉藤某の携帯履歴から何も得ることは出来ないでしょう」
「あれはなかなか見ごたえのある事件に発展しました。ただ、今後はますます慎重に事を運びますように。我らの計画はこれからが大事なのですからね」
「承知いたしております」
「いいでしょう。これからも頼みますよ」
「では、私はこれで・・・」
 と、月辺は跪いたまま礼をすると立ち上がり、再び恭しく礼をして教主の部屋を出て行った。
「さて、遥音先生、お聞きの通りです。私の言ったようになったでしょう?」
 教主は、横に一言もしゃべらず立っていた涼子に言った。
「はい・・・」
 涼子は目を伏せたまま答えた。
「しかし、長兄さま。園山にワクチンを投与していさえすれば、命を失うこともなかったでしょう」
「それは出来ませんよ。何がどう作用してこのウイルスの情報がもれるやもしれません。死のうが生き延びようが、彼の体は徹底的に調べられましょう」
「しかし、信徒を捨て駒にするのは・・・」
「それは、園山も納得していたことです。彼は喜んで私の要請を受けたのですから」
「でも・・・」
「遥音先生、これはゲームなのですよ。プログラムこそ我らが作成しましたが、私もあなたもギルフォード先生たちと同じプレイヤーであり登場人物でもあります。ただのゲームですが、人類の存亡をかけたリアルなゲームと言えましょう」
「でも、人の命がかかったゲームです」
「命のかかったゲームなど沢山ありましょう。私に言わせれば、戦争も大勢の命がかかったゲームです。しかも、かかる命は私の計画など足元にも及びませんよ」
 教主はそう言うと、嬉しそうに声を上げて笑ったが、すぐに真顔になって言った。
「これ以上は不毛です。さて、遥音先生、もう一つのプログラムの方はどうなりましたか?」

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4.乱麻 (5)サヴァイヴァーズ

 もう一つのプログラムと聞いて、涼子は少し表情を曇らせながら言った。
「『2nd(セカンド)』のほうも順調です」
「順風満帆ですね。これからも完成に向けて励んでください」
 教主は満足そうに言った。涼子はその様子を見ながら、思い切ったように訊いた。
「長兄さま、アレが完成したら本当に使われるおつもりですか?」
「使わないものをあなたにお願いすることはありませんよ」
「あんなものを使ったら、人類の医学は中世に戻ってしまいかねません」
「中世の黒死病も、実はペストではなくて出血熱ではなかったかという説があるようですね。実際、ペスト等の古くから知られた感染症と、近年発見されたエボラなどのいわゆるエマージング(新興)ウイルス、どちらも人類に対して脅威です。今彼らを制圧した、あるいは制御しようとしている人類は、いつか、彼らの反逆に遭いましょう。私はその時を少しだけ早めてあげるだけですよ」
 と言うと、教主はさも楽しそうに笑った。涼子は自分が加担している計画の恐ろしさと、自分が仕える男の狂気を改めて実感し、体が小刻みに震えるのを抑えることが出来なかった。
「おや、怖いのですか、遥音先生?」
「もちろん、怖いです。しかし、私は長兄さまに永遠にお仕えすることを誓いました。最後まであなたに従います」
 涼子はかすかに震えながら答えたが、彼女の眼は教主をまともに見ることが出来なかった。教主は涼子を一瞥すると、クスリと笑って言った。
「あなたの忠誠心を信じましょう。2ndの開発を急いでください。念を押しますが、それにはワクチン等は必要ありません。これを使う時は、我らも衆生(しゅじょう)と同等でなければなりません。いいですね」
「はい。承知しております」
「では、ラボにお戻りください」
 教主に言われて、涼子は恭しく一礼すると、その場を去って行った。残った教主は笑みを湛えたままつぶやいた。
「涼子、遺伝子操作の天才にして、僕の愛する傀儡。僕と共に、世界中の人々に、僕やチサ村の人々が味わった恐怖や苦しみを味あわせてあげようね」
 その後教主はくっくっと喉を鳴らして笑ったが、それは次第に哄笑へと変わった。だが、いつしか彼は椅子にうずくまるようにして座り、涙声でブツブツとつぶやいていた。
「お父様、僕は教主になんかなりたくなかったんだ。僕は兄さんと兄さんのお母さんと、普通に暮らしたかったんだ。どうして僕をあんなところへ連れて行ったの? そして、どうして僕を置いて逝ってしまったの? 僕は未だに夢を見るんだ。あの時死んだ人たちの苦しそうに歪んだ血まみれの顔、顔、顔・・・。そして、死にかけた僕の顔とそれに重なるもう一人の僕と言うべき彼の顔。みんなが僕に言うんだ。人々にこの苦しみを分け与えろって。疫病をばら撒けって・・・。だって、僕は生き残ってしまったから・・・。生き残って・・・」
 と、教主の声がふいに自信に満ちたものに変わった。
「そう、僕は生き残った。僕は、いや、僕らは選ばれて生き残った。そして、それぞれに陰と陽の役目が与えられた。疫病をばら撒く疫神とそれを払う除疫神だ。僕らはそういう運命なんだよね」
 教主の顔は再び輝きを取り戻した。彼はすっくと立ち上がり部屋を出た。ドアの外で待機していた御付の女性たちと『衛兵』が、恭しく頭を下げた。教主は女性たちに向かって言った。
「今からニュクスの間に参ります」
 颯爽と歩く教主の後を二人の女性が、静かに続いた。 

 河部千夏の母親、山崎八重子は、娘の掛かり付けの産院で戸惑っていた。
 娘が体の異常を訴える電話をかけてきたので、急いで産院に行けと指示したあとすぐに、自分もタクシーを呼んで件の産院に向かった。タクシーを使うには若干距離があったが、公共交通機関を使うよりその方が早いと判断したからだった。
 しかし院内に入ると、どうもいつもとは様子が違い、なにやら周囲がざわついている。しかも、どこにも娘の姿はない。これは、大事が起こったのかもしれないと恐れながら受付で訊ねると、娘は来ていないと言う。しかも、今まで過剰なまでに愛想の良かった医者も看護師も、八重子に対してけんもほろろな態度で接した。何が起こったかわからず、おろおろしていたが、仕方がないので待合室で椅子に座って少し自分を落ち着かせようとした。
 八重子は、まず周囲の様子を見ようと院内を見回した。壁にはいろいろなポスターや注意書きが貼ってあった。その中でひときわ目立つポスターがあった。サイキウイルスに対して注意を喚起するもので、赤の目立つセンセーショナルなポスターだった。八重子は、こんな病院には似合わない内容だなと思ったが、その前を院長が通りかかり、そのポスターの前で足を止めた。彼はそれに手をかけ剥がすようなしぐさをしたが、思いとどまったように手をおろし、歩き出した。八重子はここぞと声をかけたが、相手はまるで無視するように行こうとした。八重子は、何とか話を聞かないと娘の所在が判らないと、必死で呼び止めた。主治医は不機嫌に振り返ると語気荒く言った。
「あのね、あんたのお嬢さんのおかげで、ウチはとんだ迷惑をこうむってんの!」
 彼はそう言いながらチラリとあのポスターを見た。しかし、八重子には何が何だかわからずに戸惑って言った。
「え? どうして・・・? 娘は何処にいるのですか?」
「少なくともここには来ていないよ。しかるべき病院にぶち込まれたんじゃないの? おかげでこっちは沈静に大わらわだ。とにかくここにはお嬢さんはいないんだから、あんたも早く帰ってくれ。じゃあ、忙しいので失礼するよ」
「あの、せめて、何が起こったか教えてください! お願いし・・・」
 八重子の懇願も虚しく院長は逃げるように去って行った。八重子には、娘の身になにか尋常でないことが起きたのは判ったが、いったい何がどうなったのか依然見当がつかず、混乱して立ち尽くした。そんな八重子を指さし、あるいはちらちらと見ながら、皆がこそこそと話していた。いたたまれなくなって、病院の外に出た八重子を、玄関の陰で呼ぶ者がいた。それは、いつもよくしてくれている若い看護師だった。八重子は小走りで彼女のもとに行った。
「門田さん、いったい何が起こったと? 娘に何があったとですか?」
「しぃっ、静かに。落ち着いて聞いてくださいね。河部さんはサイキウイルスに感染されたそうなんです。そのせいで、保健所の方が来られて、今、院内がちょっとしたパニックになってしまっているんです」
「パニック? サイキウイルス?」
 八重子は一瞬混乱したが、すぐに事態を理解した。
「千夏があの殺人ウイルスとかいうのに感染したっていうとですか? それで・・・」
「はい。それで、ここには来られずそのまま救急車で感染症対策センターへ運ばれたそうです」
「それは何処に・・・」
「XX区の郊外に・・・あの、電話番号メモってますので、詳しいことはお電話されてお聞きください」
 門田看護師は、そういうとポケットからメモを出して八重子に差し出した。八重子は震える手でメモを受け取り言った。
「怖い話とは思ったけど、関係ないと思ってあまりあの放送を本気で聞いとらんかった・・・。まさか、自分の娘が感染するなんて・・・」
「あの、私もう行かないと・・・。悪いけどあなたと話したことが知れたら、叱られてしまいます。悪く思わないでください。サイキ病患者が出たって院内感染したみたいな風評被害が出たら、こんな病院なんてひとたまりもありません。・・・とにかく、急いでお嬢さんのところに行ってあげてください。じゃっ」
 門田看護師は、そう言うとそそくさと逃げるように裏口の方に走って行った。その後ろ姿を見ながら、八重子は不安と悲しさと悔しさがじわじわと湧いてくるのを感じていた。
(何で? 娘が恐ろしい病気にかかってしまったというのに、どうしてこんな思いまでせんといかんの?)
 メモの文字が涙でじわっとぼやけていく。しかし、八重子は落ち込んでいるわけにはいかなかった。娘は今頃さぞや不安な気持ちでいることだろう。一刻も早く行ってやらなくては。気力を奮い起こすと、八重子はハンカチを出して涙をぬぐい、産院を後にした。

 米軍機で輸送中の河部巽は妙なことに気が付いた。日本に向かっているならそろそろ夜が明けてもいい頃なのに、未だ窓の外は暗いままなのだ。巽は不安になって横に座っている兵士に訊いた。
”この飛行機は日本に向かってないように思います。どこへ行くのですか?”
”いったんメリーランド州に向かいます.そこであなたはウイルスの検査をした受けてもらいます.その後送還いたします”
”未知のウイルスなのに、調べることが出来るのですか?”
”ウイルスに感染しているかどうかなら、調べることが出来ます”
”それなら、日本に帰ってからでもいいと思います”
”検査の結果によって、これからの私たちの作戦が決まるのです.ご協力ください”
”私は妻が心配です.強制送還と言うのなら,早く私を日本に帰してください.お願いです”
 巽は懇願したが、彼の英語が未熟だったせいか、その兵士の気に障ったらしい。彼は声を荒げて言った。
”勝手なことを言うんじゃないッ! 貴様は殺人ウイルスを我が国に持ち込んだという自覚がないのか?”
”何を騒いでいる!”
 件の女性隊長がそれを聞きつけて駆けつけてきた。
”申し訳ありません。この者が非協力的な態度をとったものですから”
”この方は大事なお客人だ.敬意を以て接しろ.威嚇は許さん”
 隊長は兵士に厳しく言うと、今度は河部に向かって癖のある日本語で言った。
「それから河部サン、アナタはご自分の立場を理解してクダサイ。ココにいる間はワレワレの指示に従ってもらいます。逆らえば、アナタの身の安全は保障しません。事態はソレだけ深刻なのです」
 隊長は口調こそ穏やかだが、明らかに態度を威圧的に変えていた。巽は自分がかなり拙い立場にあるということに愕然として、あきらめたようにシートに身を沈めた。

 隔離病室内に、悲鳴に近い女性の泣き声が響いた。その横で、春野看護師が彼女を慰めている。山口医師は春野に後を任せて病室を後にした。しかし、その表情は怒りと悲しみに満ちていた。
 シャワーを浴びて隔離病棟から一時解放された山口は、これから病棟に向かう甲斐看護師と出入り口で出会った。甲斐がぎょっとした表情で言った。
「や、山口先生、何かあったのですか? すごく怖い顔をされてますよ」
「え? あ、ああ、ごめんなさい。怖がらせちゃったかしら?」
「いえ、とんでもない。・・・新しく入られた患者さん、どうですか?」
 甲斐の質問に、山口は表情を曇らせて言った。
「あまり、良くないわ。・・・妊娠していたけど、彼女の子供も紅美さんの時と同じでもう死んでたの。でも、紅美さんの時と違って22週過ぎてたから・・・」
「出産・・・」
「そうよ。でね、見ない方がいいって言ったんだけど、河部さん、どうしても抱いてあげたいって言うから・・・。でも、やっぱりショックよね。赤ちゃん抱きしめて・・・」
 山口はそれ以上説明することが出来なかった。
「先生・・・」
「あ、ごめんなさい。冷静をモットーにしていたのに、情けないよね・・・」
「いえ、そんなことありません!」
「赤ちゃん、ほんとにひどい状態だったの。あんなに小さいのに・・・」
 山口は、再び怒りがこみ上げるのを感じた。
「もし、目の前にこのウイルスを撒いた奴がいたら、八つ裂きにしてやるんだから!」
「先生・・・?」
 いつもの山口からは想像もつかない言葉を聞いて、甲斐は怯えたような表情で言った。山口は我に返って言った。
「ごめんなさい。またやっちゃった」
「いいんです。気になさらないで。それに、そういう気持ちは貯めこまないで表に出された方がいいと思いますよ。それに私だって同じ気持ちになるかも・・・」
「ありがとう」
「私、春野さんと一緒に河部さんを看るように言われてるのですが、何か注意することは・・・?」
「そうね。とにかく、病気のこと以上に赤ちゃんのことの方がショックだったみたいなの。気を付けてあげて。特にこの病気は、患者を自傷行為に走らせる傾向があるわ。紅美さんの時みたいに」
「はい。わかりました」
「今は、女性だけの看護がいいと思うけど、何かあったらすぐに男性看護師も駆けつけるようにしておくから、手におえない時はすぐにスクランブルかけてちょうだい」
「はい! では、行ってまいります」
 甲斐は一礼するとドアの向こうに消えた。
 山口が、スタッフステーションに戻ると、河部千夏の病室の窓の前を、中年女性がおろおろとした様子で立ち、その傍でスタッフの一人が慰めるように接していた。山口は一瞬躊躇したが、すぐに彼女たちの方に向かった。
「谷口さん、私が代わるわ。あなたは持ち場に戻って」
 山口はスタッフを解放すると八重子の方を向いて言った。
「河部さんのお母様・・・ですね?」
 山口が訊ねると、母親は彼女の方を向いて戸惑いながら言った。
「はい、そうですけど、・・・あの?」
「私、担当医の山口と申します」
「あっ、お世話になります。私、千夏の母で山崎八重子と申します・・・。先に行きつけの産院の方に行ったのですが、そこがなんか混乱していて、ここにいることが判るまでずいぶんと時間が掛かりまして、たった今、ようやくここにたどり着いたのですが・・・」
「そうなんですか。うちのほうの不備もあったかもしれません。さぞかしご心配だったでしょうに、申し訳ありませんでした」
「いえ、それより、何がどうなっているのでしょう? 流産したことは電話で聞いていましたが、娘は半狂乱で泣くばかりで、看護師さんたちも娘の相手に手いっぱいで、何があったのかさっぱり・・・」
「お母様、気をしっかりお持ちになってお聞きください。今から説明いたしますので」
 山口はそう前置きして、千夏に起こった事を説明した。母親は、両手で顔を覆って声もなくよろめいた。山口は急いで手近にある椅子を持って来て母親を座らせた。
「先生、それでは千夏の夫は・・・、夫の巽は・・・?」
「今のところ、まったく情報がありません。出張先のアメリカの方にはすでに連絡しているのですが・・・」
「ああ、本当にこんな時に限って巽さんは・・・。私、どうしたら・・・?」
「お母様、しっかりなさってください。千夏さんのご主人の安否がわからない今、お母様だけが千夏さんの支えなんですから」
「はい。そうですよね。私がしっかりしないと・・・」
 八重子の気持ちが落ち着いたのを見届けて、山口はマイクに向かって病室に呼びかけた。
「河部さん、お母様がいらっしゃいましたよ」
 千夏は窓の方を見て、ようやく母親の存在に気が付いた。
「お母さん・・・。お母さん、ごめんなさい。私、私・・・、」
「いいと、いいとよ、あんたンせいやなかっちゃけん・・・」
「赤ちゃん、すごく苦しかったやろうに、あたし、気付いてあげれなかった・・・。死んじゃってたのにそれも気付いてあげれなかった。苦しかったねえ。寂しかったねえ。ごめんねえ。ママを赦してねえ・・・」
 千夏はまた絶えれずに泣き伏した。八重子はまたおろおろしながら山口に訊いた。
「あの、中に入って慰めてやることは・・・」
「だめです。それだけは出来ません」
「そんな・・・。あんなに取り乱しているあの子を抱きしめてやることすら出来ないなんて・・・」
「あなたを危険に曝すわけにはいかないのです。残念ですが、ここから励ましてあげてください」
 山口にはそう言うしかなかった。そしてさらに無情に告げるしかなかった。
「お嬢さんが落ち着かれたら、お母様に大事なお話がありますので・・・」
「はい」
 八重子は答えると、また病室の方に向き泣き続ける娘に言った。
「千夏、千夏。しっかりして。お母さん、千夏が生きているだけでもうれしいよ。もうすぐお父さんも来るからね」
「お父さん? いやよ。お父さんだって孫を楽しみにしてたんじゃない。合わせる顔がないよ」
「そりゃあ、お父さんもがっかりしとったよ。でもね、千夏だけでも生きとって良かったって・・・。だから、頑張ってちょうだい。その子の分も生きて・・・。お母さんたちを置いて行かんどって・・・」
 八重子はそこまでいうと、耐え切れずに号泣した。
「お母さん・・・」
 千夏は声を上げて泣く母の方に向かって手を伸ばしながら、春野たちに言った。
「看護師さん、ベッドを窓の近くにまで動かせますか?」
「出来るだけ近づけてみましょうね」
 春野と甲斐はベッドを押して窓の方に寄せた。なんとか千夏の手が窓に届くくらいに近づけることが出来た。千夏は母を呼んだ。
「お母さん・・・」
「千夏」
 八重子は窓に寄りガラス越しの娘の手に自分の手を合わせた。
「お母さん、ごめんね。ありがとう・・・」
「千夏・・・。辛かったね。かわいそうに・・・」
「私、頑張るね。お母さんにまでこんな思いさせたくないもんね」
 千夏は、泣き続けたせいで腫れた顔に力ない笑顔を浮かべて言った。その時、スタッフステーション内が急にざわめいた。八重子のそばに立っている山口に、先ほど八重子の相手をしていたスタッフが耳打ちした。
「え? 川崎五十鈴さんが?」
 山口は少し表情を曇らせると、八重子に言った。
「すみません。ちょっと失礼しますね」
 山口は八重子には笑顔で言ったが、すぐに厳しい表情をして駈け出した。八重子と千夏は不安な表情でお互いを見た。

「カワサキ・イスズさんが亡くなられたそうです」
 ギルフォードが電話を切ると言った。
「え? 川崎さんが?」
 由利子が驚いて聞き返した。
「はい。残念ですが・・・」
「そりゃあ、容態が良くないってのは聞いてたけど・・・」
 と言うと、由利子は「はぁ・・・」とため息をついた。紗弥がカップを片づける手を止めて言った。
「川崎さんって、教授と由利子さんが保護しに行かれた犬の飼い主さんですわね」
「そうです」
「初音ちゃん、どうなるんだろ・・・。旦那さんも先に亡くなられてたよね」
「そうなんですが、カワサキさんのお子さんや身内の方も、引き取るつもりはないようなので、新たな飼い主サンを見つけないといけないでしょう。だけど、成犬となると、なかなか飼い主が見つからないようなので・・・」
 ギルフォードが説明すると、紗弥が珍しく非難するような口調で言った。
「ご両親が可愛がっておられたのに、子供さんたちはひきとりをされなかったのですか?」
「はい。マンションじゃ飼えないとか、庭が狭いとか動物は苦手だとかいろいろ言い訳してたようですが」
「ひっどい話よね、まったく」
「保護した手前、僕も何とかしたいとは思いますが、ミツキで手いっぱいなので・・・。とにかく、里親さんをがんばって探すしかないですね」
「それしかないよね・・・。川崎さん、きっと心残りだっただろうねえ。私は川崎さんご夫妻にはお会いしたことはないけど、初音ちゃんをすごくかわいがっておられたことはわかるよ」
「お二人とも少しぽっちゃりとされていましたが、旦那さんは少しせっかちで奥さんはおっとりとした感じでした。お似合いのご夫婦でしたよ。こんなことがなければ、今も初音ちゃんといっしょに穏やかな暮らしをされていたはずです」
「他の人たちだってそうだよ。平和に暮らしていたのに。みんな死ぬ理由なんかないのに・・・」
 由利子は、心の底からじわじわと怒りがわき起こるのを抑えきれないでいた。
「くっそぉ! いったい何人殺したら気が済むんだ・・・」
 その怒りが、由利子から一切の迷いを振り払った。彼女は、ギルフォードが言った命を背負うと言うことがどういうことかわかったような気がした。 

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4.乱麻 (6)ルーモア

「園山さん? あ、ウチの2階に入っとお人? え~っと、園山修二さん。礼儀正しい人やったけどね。管理人の僕にもいつも笑顔であいさつしてくれるんだよ。ゴミ置き場の掃除なんかも時々手伝ってくれてねえ。ほんと有難いよ。・・・彼に変わったこと? いや、特になかったけどねえ・・・。むしろまじめ過ぎてさ。最近、女っ気もなかったしねえ。最近よく行ってた場所? 昔は年替わりみたいにいろんな宗教にはまってたみたいやけど、最近はそういうの聞かなくなって落ちついとったみたいやね」

「ああ、彼ね。もう、ホント、クソ真面目っての? 話しかけても当たり障りのない返事が返って来てさ、後が続かないのよね。散髪にはよく来てくれて、お得意様だったわよ。そうそう、前にウチの旦那がここで倒れた時、ちょうど居てね、迅速に処置してくれたのよ~。その時、看護師さんって知ったの。ほんと、感謝してるわぁ。宗教とかセミナーとかの勧誘? やだあ、全然なかったわよ」

「あの兄ちゃんなら、よく儂の手を引いて横断歩道を渡ってくれたのお。いつもにこにこ笑って挨拶してくれて、なんか仏さんのごたる人やったばい」

「ときどき、キャッチボールしてくれたよ。妹は風でとんで木に引っかかったぼうしを取ってもらったんだよ」
「うん! とってくれたー」
「やさしいおじちゃんだよ、ね」
「うん!」

「ああ、園山さん。そこのアパートの人ね。いい子よ」
「そうそう。若いのにゴミ出しもきちんとしとったよね」
「むしろ、カラスが荒らしたごみをよく片づけよったやろ」
「だいたい、夜収集だから夜出せばいいのに、あのアパートの住人守らない人が多くてさ~。最近外国人も増えたし、マナーが悪いのが増えたからさ」
「あの笑顔のあいさつが好いっちゃんねえ」
「え~、宗教? そげんとは無かったっち思うけどねえ」
「そういや、ここ数日姿見んよねえ。どうかしたっちゃろか?」
「え? 亡くなった?」
「サイキウイルス? うそやろ?」

 葛西は九木と共に園山修二の住んでいた地域で聞き込みをしていた。もちろん、園山が見えざる敵のスパイであったことの告白を受けてのことであった。しかし、誰に聞いても園山に対して良い評判しか返って来ず、彼が関わっていただろう宗教団体やテロ組織についてはまったく手がかりを得ることが出来ないでいた。しかも、皆園山の死や死因を知った途端に尻込みをして、口をつぐむか、そそくさと去ってしまうのだった。
 日もだいぶ傾いてきたので、缶コーヒーを手にして小さな公園のベンチに座って一服していた時に、葛西の電話に着信が入り、二人は五十鈴の訃報を知らされた。
「今日二人めの死者か・・・。やりきれんな」
 九木からくつろいだ表情が消え、コーヒーを飲むのを中断して言った。
「川崎さんは、確か先に夫を亡くされていたな」
「はい」
「彼女の夫は秋山珠江の遺体を発見した時に、遺体にたかっていた蟲に咬まれて発症したんだったね」
「はい。蟲に咬まれて発症した方からの感染ということになりますが」
「これでまた、不安要素が増えたわけだ。時に、君は川崎夫妻に会ったことがあるのかね?」
「僕はお会いしたことはありませんが、ギルフォード教授はお二人に会われたそうです。夫の死を知らされた時の奥さんの嘆きようは、気の毒で見ていられなかった・・・とか・・・」
 葛西は最後に少し声を詰まらせて言った。
「そうか・・・。ご主人も、奥さんには生きてもらいたかっただろうにな・・・。さて、ご夫妻の無念を晴らすためにも、もうひと踏ん張りするか」
 と言うと、九木が立ち上がった。葛西はそれに倣って立ち上がったが、少し不安そうに言った。
「それにしても、聞き込みを始めたばかりとはいえ、手がかりがなさすぎませんか?」
「だが、人のやることだ。絶対にどこかほころびがあるはずだ。現にアパートの管理人は、園山が宗教を何度か変えていたとか言ってただろう。蟻の穴から堤防が壊れることもある。とにかく蟻の穴を探そう」
「はい」
「まあ、なかなか『快刀乱麻を切る』とはいかないがね。警察の仕事とはこんなものさ」
 九木は少し自嘲的に笑うと歩き出した。葛西の脳裏に多美山の言葉がよぎった。
「ジュンペイ、刑事の仕事はな、地道の一言に尽きるったい」
 葛西は両手で自分の頬を叩いて気合を入れ、九木の後を追った。

 祐一が家に帰ると、香菜が庭にあるジョンの小屋の前に座っていた。ジョンは香菜に撫でられながら、気持ちよさそうに横になっていたが、祐一の姿を見つけると起き上がって嬉しそうに尻尾を振って「ウォン!」と吠えた。
「やあ、ジョン、ただいま。どうした、香菜?」
 祐一は妹と愛犬のそばに座り、ジョンの頭をなでると更に訊いた。
「お母さんは?」
「学校に呼び出された」
「え? なんで」
「あのね・・・」
 香菜はそこまでいうと口ごもった。
「どうした?」
「よくわかんない。お母さんは先に帰っときなさいって・・・」
「どうしたんだろう。で、香菜はどうしてここにいる? 鍵がないとか?」
「鍵はもらったよ。お兄ちゃん待っとったと」
「?。・・・まあいいや。はやく家の中に入ろう。もう蚊がおるやろ。刺されなかったか?」
「ジョンとこには虫除けがあるもん。でも、ここに来るまでにちょっと刺されたみたい」
 香菜は思い出したように腕を掻きながら言った。
「バカだな。薬つけてやるから、早く家に入ろう」
「香菜ね、ポケットかゆみ止め持っとおよ」
 香菜は、ランドセルを膝に置くと、中に入れているかゆみ止めを取ろうとした。祐一は、香菜がランドセルの中をごそごそしているのを何気なく見ていたが、ノートや教科書が薄汚れているような気がして訊ねた。
「あれ、香菜、教科書とか、なんか汚れとらん?」
 香菜は、焦ってランドセルを閉じて言った。
「ポケムナ、入れ忘れたみたい・・・」
「あのさ、ランドセル、留め金が壊れとおみたいやし、なんか形も少し歪んどらん?」
「ちょっと落としただけやけん・・・」
「なんだ、相変わらずドジやなあ」
「おにいちゃん、ひっどぉい」
「あはは、じゃあ、早くかゆみ止め塗らないといかんね。ジョン、またあとでな。さ、香菜、行くぞ」
 祐一は香菜を促して、一緒に家の中に入った。

「いじめ?」
 祐一は、母から聞いて愕然として言った。母は夕食の下ごしらえに牛蒡を削ぎながら答えた。
「そうなんよ。最近、香菜、元気なかったやろ? だから心配はしとったんやけど・・・」
「なんでまた・・・。まさか・・・」
「うん。祐一が気にするから言わんどこうかと思ったんやけど・・・」
「じゃあ、ランドセルや教科書が傷んどったとは・・・」
「誰かがゴミ捨て場に捨てたらしくて・・・」
「でも、学校では香菜は風邪をこじらせて休んだことになっとるんやろ?」
「それがね、どこからか本当の欠席理由が漏れたみたいなんよ」
「そんな・・・」
「香菜は負けないって言ってるけど、事の次第によってはしばらく休学させた方がいいのではないかって」
「そんなこと言われたと?」
「祐一は大丈夫なの?」
「オレには仲間がいるから、大丈夫だよ」
 と、祐一は少し誇らしげに言った。それを見て、母の暗い表情が少し明るくなった。
「そう、心強いね。でも、その子たちに迷惑かからんと?」
「大丈夫だよ。あいつら意外と根性あるから。特にヨシオと錦織って女子は」
「錦織さんって、あのかわいい子?」
「うん」
「へ~え・・・」
 母親が意味深な笑みを浮かべたので、祐一は急いで話を戻した。
「それより、もし、休学とかなったら、勉強どうなると?」
「長引くなら家庭教師を雇うとか、最悪転校も視野に入れておいてくれって・・・」
「なんだよ。体の良い厄介払いじゃないか!」
「お母さんもそう思ったっちゃけど、香菜のこと思ったらそれも仕方ないかなって・・・」
「香菜は? なんて言うとるん?」
「大丈夫って言ってくれとるんやけど・・・。祐一は先生から何か言われとらんね?」
「オレの学校は中学校長は頼りないけど、学校総長がしっかりとした人だから、大丈夫だよ。呼び出されたけど、成長するための試練だと思ってがんばれって逆に檄を飛ばされた。学校も最大限のフォローをするからって」
「そうね。それなら安心やけど・・・」
「香菜だって、ああ見えて芯が強いから大丈夫だよ」
「だったらいいけど・・・」
 そう言いながら母はため息をついたが、はっと気が付いて言った。
「どうしよう。牛蒡、削ぎ過ぎた~。洗い桶いっぱいになってしもーた」
「いいよ、オレ、きんぴらごぼう好きだし、余ったら明日食パンにはさんで食べるけん」
「きんぴら牛蒡サンド・・・。あんた、変なものが好きやけんねえ」
「美味しいんだってば」
 祐一は笑いながら言った。

 ギルフォードは玄関のドアを開けると美月に言った。
「お嬢様、ここが当面のお住まいにございます。むさくるしいですが、ご辛抱のほど」
 美月はお座りをしたまま、首をかしげてギルフォードを見た。
「あはは、ミツキ、そんな顔しないで。さあ、入ってクダサイ」
 ギルフォードは美月を連れて部屋に入ると、リードを外し居間の隅にしつらえた犬用ベッドを指して言った。
「居心地悪いでしょうから、ジュンに頼んでミハの部屋からあなたのベッドとトイレとおもちゃを持ってきてもらいました。寝るのはここで、トイレはこっちです。部屋の中は自由にしてていいですよ」
 美月はしばらく部屋の中の臭いをかぎながらうろうろしていたが、安心したように自分のベッドに行き、中で寝ころんだ。
”よかった.思った以上に落ち着いてくれたぞ.やはり雌だから性格が穏やかだな.まあ,どこかのお嬢さんの飼い犬は雌でもかなり狂暴だったが”
 ギルフォードがつぶやいた。
”たしかに,サヤの言うとおり寂しさは紛れるな.ジュリーもミツキとの同居は同意してくれたし・・・”
 それから日本語に戻って言った。
「あとはミハが戻ってくるだけですね」
 言葉がわかるのか、美葉と言う名を聞いて美月は悲しそうな顔でギルフォードを見た。
「ダイジョウブ,無事に戻ってきます.そんな顔しないで」
 ギルフォードが美月にそう話しかけた時、電話に着信が入った。
”ギルフォードだ.なんだ、クリス、どうした?”
 電話の主は、ジュリアスの兄、クリスだった。
”ジュリアスじゃなくて残念だったな”
”クサるなよ.しかし,早起きだな.そっちはまだ朝方だろ? 何かあったのか?”
”そうなんだ.やられたよ”
”何を?”
”先ほど情報があった.例のこっちに来ていた日本人感染者・・・えっと,カワベ=サンだったかな.彼が軍に持って行かれたらしい”
”なんだって!?”
”保護すると言う名目で,CBIRFがさっさと連れ去っただと”
”CBRIF? たった一人の感染者にすごいのを出してきたな”
”それだけ脅威ということだろう.なにせ既に20人以上殺している’殺人鬼’だからな.迅速に動ける海兵隊の実行部隊を出してきたんだろう.まあ,建前はカワベ=サンを日本へ安全で速やかに帰すためということらしいが”
”厄介なことになったが,CBIRFならあいつがいる”
”何年も会ってないだろ.宛てになるもんか.それに,今回の彼らの役割はパシリみたいなもんだ.おそらく,カワベ=サンが連れて行かれた先は・・・”
”ああ,多分フォート・デトリック(※)だ”
”上層部には『デス・ストーカー』野郎が返り咲いているらしい.あの時おまえをひどい目にあわそうとしたやつだ”
”さぞかし出世したんだろうな”
”大佐だと聞いたが”
”ふん! しかし,一抹の不安てやつが当たったな”
”うちの所長もカンカンさ.朝っぱらから政府に猛抗議を入れたらしいぞ”
”そりゃそうだろう.気の滅入る話だが俺にはどうしようもねえな.それでも,そういう情報は助かるよ.知らせてくれてありがとう”
”ところで,ジュリーとはしっかりと連絡取れているのか?”
”それが,時差とかお互いのスケジュールとかでなかなか繋がらなくてね”
 と、ギルフォードが少し気落ちした声で言った。
”それにおまえ,時々携帯電話の電源を入れ忘れているだろ? ジュリーがぼやいていたぞ”
”ジュリーだってそうだぞ”
”あはは,お互い様か.・・・そろそろラボに行く準備をしなきゃならんので、失礼するよ”
”ちょっと待ってくれ.肝心のウイルスはまだ見つからねぇのか?”
”せかせるな。砂漠に落ちたコインを探すようなものだってことくらい、知ってるだろ?”
”わかっている・・・.だけど・・・”
”じわじわ被害が広がっているのは知っている。だが、それを抑えるために君がいるんだろ? そもそもウイルスが発見されただけでは防ぐに至らん.ワクチンが出来るまではひたすら封じ込めるしかないぞ”
”ああ、わかっている”
”僕たちも必死で探している.いろいろと辛いだろうが,がんばってくれ”
”ありがとう”
”じゃな,良い子は早く寝ろよ!”
 そういうと、クリスは電話を切った。ギルフォードは時計を見てぼやいた。
”こんな時間に寝れるか,馬鹿”
 しかしギルフォードはその後電話をしまいながら、ふうっとため息をついてつぶやいた。
”だがな,クリス.ウイルス発見はそれだけでみんなの希望になるんだ・・・”
 ギルフォードは再び美月のそばに座ると、頭を撫で話しかけた。
「ミツキ、あまり聞きたくない名前が出てきました。僕は、またあのサソリ野郎に追われるのでしょうか・・・」
 美月はおもちゃのぬいぐるみにじゃれていたのをやめ、ギルフォードの方を見るとキュウンと鳴いて、彼の手をなめた。
「言っていることが判るんですかねえ。不思議な子です」
 ギルフォードがつぶやくと、美月は彼の前に座って右前足を彼の膝に乗せ、しっぽを振りながら軽く「ワン!」と吠えた。
「そうですね。今から不安になっても仕方ありませんよね。さて、テレビでも見ましょうか」
 と言うと、彼は不安を振り払うようにして立ち上がった。

 由利子は、家に帰るとすぐに夕刊を開いてみた。河部夫妻のことについては間に合わなかったようだが、朝の女子中学生自殺については、三面記事にしっかりと掲載されていた。ただし、サイキウイルス感染ではなかったために、普通の自殺事件として扱われていた。
 しかし、夜には各局のニュース番組がサイキウイルス感染による新たな死者のことと、河部夫妻の感染について伝えていた。特に河部夫妻については、夫が末期感染者の近くを通っただけで感染し、しかも妻に二次感染させたことがかなり脅威と捉えられたようだった。しかも、その夫は海外に出張しているという。ニュースでは、早々とNYの現地記者が通行人にインタビューしていた。

”え? なに、Psyche? ギリシャ神話の?”

”新手のコンピューターウイルス?”

”知らないわよ.ニュースにもなってないわ.じゃね,急ぐから”

”NYに出血熱? エイプリルフールはとっくに終わったよ”

”日本でそんなものが流行ってるなんて初耳だね.だいたいF県ってどこよ? え~,そこ? Okinawaじゃないの?”

 ほとんどの人がそういう感じだったので、由利子は却って驚いてしまった。しかも、F県の名を聞いて、けしからんフォーレターワーズを口にする輩すらいた(もちろん「F」以下はピー音で消されていたが)。アメリカ国民にはまだ日本のウイルス騒動についてはあまり知られていないのか、単に興味がないだけなのか。しかし、インタビューでは
”ああ、サイキウイルスについては知っているよ.大変だね.でも、この街に感染者が居たことは,まだニュースになってないなあ”
 と答える人もいたので、少なくとも、NYに危険なウイルスが入り込んだかもしれないということは、伝えられていないのだろう。
「何よ。辺境の田舎都市で悪かったわね」
 由利子は口を尖らし気味に言った。
「そりゃあ、地震や津波よりは地味だけどさ、それでも死者が20人以上出ているんだぞ」
 そう言いながら、由利子はパソコンを開き、ネットで掲示板やツイッターなどのチェックを始めた。もちろん検索するキーワードは、サイキウイルスである。

 一方、ギルフォードの方もテレビを見ながら若干の不安を感じていた。CBIRFまで出して大捕り物をやった割に、情報公開がされていない。だが、まだ時間があまりたっていないし、しかも、かつて炭疽菌テロのあった街なので、無用な恐怖をあおらないように、公表に慎重になっているのかもしれない、と、ギルフォードは思った。おそらく、公表は感染の有無がはっきりしてからになるのだろう。そう結論付けた時、由利子から着信が入った。
「はい。ギルフォ・・・」
「アレク、大変!」
 ギルフォードが返事を終えるのを待たずに由利子が言った。
「掲示板やツイッターがすごいことになってる! 今日亡くなった園山さんたちや、新たな感染者の河部夫妻の住所が、ほぼ特定されてる!」
「なんですって?」
「テレビとかじゃあ、住所などはハッキリ言わなかったし、河部夫妻なんて名前も公表されなかったのに、ネットではどんどん情報が集まってきて・・・。しかも、根も葉もない尾ヒレまでつき始めているよ」
「みんな不安なんでしょう。感染者保護が、却ってアダになってしまったのかもしれません」
「でも、確かこの前の新型インフルエンザの時も、氏名や詳しい住所は伏せられてたわ」
「今回のウイルスは、感染力こそインフルエンザに到底及びませんが、感染した時の破壊力は凄まじいものがあります。あの新型は、いわゆるトリインフルではありませんでしたから、今回の不安度はあの時の比では無いでしょう。それが、あたかも犯人探しの時のような連携を生んだのかもしれません」
「それにしても、早すぎだよ。もし、これが魔女狩りみたいなものに発展したら・・・」
「もしそうなったら恐ろしいことですが、今は住民の理性と秩序を信じるしかないでしょう」
「でも、初音ちゃんを保護しに行った時見た川崎さんの家の惨状を考えたら怖いよね」
「それは、周辺の警備を厳重に行うしかないでしょう。しかし、そうなったら警察の手だけではどうしようもなくなるかもしれません・・・」
「自衛隊? まさか米軍・・・」
「米軍は他国のこういう事件には介入できませんよ。彼らの宿敵であるアルカイダのような組織のテロだった場合は断言できませんが・・・」
「でも、自衛隊は出てくるかもしれないってこと?」
「彼らには独自のBCテロや生物災害に対応する部隊がありますから、そちらの方で頑張ってもらいうことになるでしょう。こちらのほうは、被害がこれ以上広った場合、知事が要請する可能性はあります」
「だんだん大事になってきたなあ。正直怖いよ」
「僕もです」
 二人は同時にため息をついた。

「葛西君も大変だなあ」
 電話を切ると、由利子はもう一度ため息をついて言った。その頃、葛西は対策本部で今日行った聞き込みの調書を書くのに四苦八苦していた。

 (「第3部 第4章 乱麻」 終わり)

  (※)アメリカ陸軍の医学研究所がある。

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