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1.禍神(2)パニック

 黒岩伊都江が言った。
「長兄さま、古賀知事がお見えになりました」
「そうですか」
 教主はゆるりと立ち上がり、伊都江に向かうとにっこりと笑って言った。
「時間通りですね。私の部屋にお通ししましたか?」
「はい。仰せのとおりに。月辺の方が対応していると思います」
「では行きましょうか」
 教主はゆっくりと歩きだし、伊都江がその後に続いた。

 教団支部の広い廊下を歩きながら教主が伊都江に聞いた。
「新たなお名前はいかがでしょうか」
「まるで生まれ変わったような気持ちですの。天雪 眞輝慧、この素敵な名前この2か月の間にすっかり慣れましたわ」
「お名前と白いスーツがお似合いですよ。いつもお美しい」
「身に余る光栄でございますっ」
 黒岩改め天雪はほおを紅潮させて言った。

「これはこれは、古賀新知事、よくいらっしゃいました。遅くなりましたがご就任おめでとうございます」
「畏れいります。こちらこそご挨拶が遅れまして……」
 教主に祝福され、古賀はやや恐縮して言った。
 ひとしきりの挨拶を終え、教主が微笑みながら言った。
「県下のウイルス騒ぎも沈静化して、とりあえずひと安心ですね」
「いや、私はあのウイルスの存在には懐疑的な立場ですので」
「そうでしたね。前知事の妄想からF県を取り返すというのが公約の一つでしたね」
「そうです」古賀は答えると息巻いてつづけた。
「そのせいでわが県の経済はかつてなく落ち込んでしまいました。あのタレント上がりの男が怪しい教授の口車に乗ったせいですよ」
「時に、知事。あなたはその騒ぎの間、こちらにはいらっしゃいませんでしたよね?」
「ええ、まあ」
 と、古賀は少しばつが悪そうに答えた。
「私は出身はこちらで政治基盤もこちらではありますが、ほとんど東京で暮らしていましたから」
「では、ウイルス騒ぎで大変な時のこちらの空気を肌で感じてはおられない」
「ええ、まあ」
「この機に、無所属の森の内氏から県政を現政権下に取り戻そうというのが本音だったのではありませんか?」
 教主はまっすぐに古賀の目を見ながら言った。腹を探られたような気がしたのか古賀は歯切れ悪く否定した。
「いえ、けっしてそういうわけでは……」
「もともとこの県は現政権が主流でしたから、そう考えることは悪いことではありませんよ」
「いえいえ、ですからそうではなく、本当に私はウイルス騒ぎでガタガタになった地元を立て直したくて……」
「あなたの地元愛を信じましょう。しかし、当事者でないならウイルスの存在を否定されるのは仕方ありませんし、実際F県下にもそういう意見があります。実際にウイルスも見つかっていません。しかし、私はその間縁があってこちらで多くの日々を過ごしましたが、そのひしひしとした恐怖感は私にも十分肌で感じました」
「はあ、そんなものでしょうか?」
「ですので、ウイルス対策班は無くすべきだとは思いませんし、ウイルスが存在しないと決めつけるのも得策ではないと思います」
「では、教主さまはこのウイルスは存在すると思っていらっしゃる」
「私は私のルートを使って色々調べましたが、一連の死亡事件はウイルスXを代入すると一番すっきりとした回答が得られるのは確かです」
「しかし、その存在についての確固たる証拠が……」
「ない証明はできませんよ」
「悪魔の証明ですか」
「ましてや見えない・臭いもしないものです。病原体の発見を待ってからでは遅すぎます」
「はあ」
「端的に言うと私は憂いております。あなたはギルフォード教授を顧問から外そうと画策していますね」
「それはそうでしょう! 彼が余計なことを言わなければ、ウイルス騒ぎになることもなかったのです。しかも、自分自身は表に出ず、責任も取らず、のうのうと教授を続けているではないですか」
「まあ、縁も所縁(ゆかり)もない私が弁護するのも変ですが、ウイルスの存在を最初に疑ったのは彼の恩師である勝山教授とお聞きしていますし、表に出てこれなくなったのは週刊誌による誹謗中傷記事のせいだったそうではないですか?」
「よくご存じで」
「我が教団の情報網を甘く見ないでいただきたいと思います」
「しかし、ウイルスの広がりとテロと結びつけるのはやりすぎではなかったですか? 証拠はいたずらメールのみだとお聞きしていますが」
「わかりました。あなたの言うことも一理あります。しかし、ウイルス対策班とギルフォード顧問は存続させてください。それでなければ危機管理能力なしと見なし、今後、わが教団はあなたやあなたの党の支持を考えなければなりますまい」
 それを聞いて、古賀はいきなり落ち着きを失って言った。
「それは困ります。今、わが党は残念ながら支持率が著しく落ちております。そんな折に御教団の支持を失うわけにはいきません」
「私共も、教祖の悲願である碧珠の救済を叶えるのは、与党のお力が不可欠です。あなた方ももう二度と下野はしたくないのではありませんか?」
「わかりました。ウイルス対策チームを続行し、ギルフォード…さんにも今までどおり顧問でいていただきましょう」
「ありがとうございます。あなたが賢明な方で良かった」
 教主はにっこりと笑って言った。

 古賀の去った後、教主を守るように背後に立っていた月辺が怪訝そうに言った。
「あの森の内と共に失脚すべきであった、目障りなギルフォードの首を繋げられるというのですか?」
「目障り? とんでもありません。ギルフォード先生は私の好敵手、彼なしではこのゲームは成り立ちません。碧珠は彼と私とに運命をゆだねられたのですから」
「ですが、今のままで彼の敗北は決まったも同然ではないのですか?」
「彼は、継がなかったとはいえ英国王室の懐刀ギルフォード家の御曹司です。そう簡単にギブアップはしませんよ。いずれまた私たちの前に立ちはだかってきましょう」
「しかし……」
「異存がおありですか?」
 微笑みながら言うその眼の冷やかさに、月辺はややうろたえた。
「失礼いたしました。碧珠の思し召しなれば仕方ありますまい」
「私はこれから遥音先生と少しお話をしなければなりません」
「承知いたしました。それではわたくしは席を外しましょう」
 月辺はそう言うと、恭しく礼をして部屋を出た。月辺と入れ違いに部屋に入ってきた遥音に教主はふっと笑って言った。
「それにギルフォード先生が同じステージにいないと面白くないじゃないですか。ねえ、遥音先生?」
 遥音は彼の屈託のない笑みをから何を言っているのか察し、不吉な予兆を感じとった。
「そうそう、遥音先生、そろそろ旦那様に預けていたものを返していただこうと思うのですが?」
「彼のことはもう夫とは思っておりません。なのでどうなさろうとかまいません。でも、彼に攫われた美葉さんは……」
「彼女のことはご心配なさらないで。丁重に扱わせていただきましょう。逃がすわけにはいきませんけどね」
 教主はそう言うと、そっと手を伸ばし遥音のほおに触れた。遥音は遥音は逃げ出したい気持ちを抑えるのが精いっぱいだった。遥音の心に変成(へんじょう)が起き始めていた。

20XX年9月17日(火)

 川中幸子は、いつものように駅に向かって歩いていた。祝日の3連休明けで、テンションダダ下がりの幸子だったが、クラスメートの藤田希美が彼氏と仲睦まじく前を歩いているのを見てますますテンションが下がるのを感じた。
(あいつら、まだ続いてるんだ)
 彼氏と共に仲良く時折じゃれあいながら歩く友人を見ながら思った。幸子にしては、親友と思っていた希美が相談もなく彼氏を作ったことが面白くなかった。彼氏の上田については幸子の好みではなかったが、他人の物はよく見えるというか、なんとなくカッコよくみえてきたのも面白くない。おのずと幸子は希美と距離を置くようになった。
 そういうわけで、幸子は無視を決め込んで足早に歩いて彼女らを追い越そうとした。しかし、当然のことながら二人に気付かれてしまった。
「あ、さっちゃんおはよう」
「おー、さっちん、おっはー」
(だれがさっちんじゃい! おっはーとかもう古いし!)
 幸子は上田少年から「さっちん」と呼ばれて心の中で突っ込んだが、思いのほか悪い気はしなかった。仕方なく幸子は歩調を落とし、希美の横やや後方を歩くことにした。
「あー、おはよう。今日もいい天気だねえ」
「うん。秋晴れになりそうだね。今朝は昨日より涼しいし」
 青空を見上げる希美の横顔はなんかキラキラしてて、ずいぶんきれいになったなあと幸子は思った。好きな人が出来たらこんなきれいになれるのかな?
 幸子はプラットホームで二人と別れ、女性専用車両に向かった。
 女性専用車両には一部の人たちから逆差別などの批判や反発もあるが、女性の悲願でもあった。通勤ラッシュ時の乗り物で程度の差こそあれ痴漢被害に遭わなかった女性は殆どいないのではないだろうか? 筆者ですら数回ある。幸子も2回ほど怖い思いをしたことがあった。いずれも同一人物からで触られたような被害はなかったが、荒い息でずっと真後ろに立っている。気持ち悪いが直接被害がない分対処のしようがない。どうしようもないので最後部車両で色々不便だが、女性専用車両を使うようにしたのである。
 幸い座ることが出来たので、スマホで漫画でも見ながらまったりしていようと思った。しかし前夜ゲームで夜更かしをしてしまったせいか、ついうつらうつらとしていた。そのまどろみを、前方車両の騒ぎが邪魔をした。驚いて騒ぎ声のする方を見た。悲鳴やざわめきに混じって「感染者が出たぞ」という声が聞こえた。幸子はとっさに立ち上がった。希美ちゃんたちは大丈夫だろうか?

 希美は上田少年と中ほどの車両に乗り、戸口の近くに立って他愛もない会話をしていた。話をしながら、希美は斜め前に座っている20代くらいの男が気になっていた。顔色がわるく、額に脂汗を浮かべずっと口を押えている。なんか気持ち悪いなと思っていたら、急に腰を浮かし前のめりになると、床に膝をついて左手でのどを抑え右手で口を覆った。その手から赤黒い吐物があふれ出た。発酵したような嫌なにおいが車内に広がった。上田少年は希美を自分の身体でかばうようにして出来るだけ男から遠ざかろうとした。男の両側に座っていた会社員らしき男女がすごい勢いで立ち上がって座席から離れ、前方に立っていた数人も男から逃げようと後ずさりをする。事情の分からない周囲の人たちは押されてバランスを崩しとりあえずなんとか体制を整えた。「なにしとるんや!」「なんふざけよっとか!」と怒号が飛んだ。しかし、人の波は止まらない。「サイキ病や!」「誰か緊急停止ボタンを押してぇ!!」その声に触発されて、乗客は隣の車両に逃げようと双方の車両間のドアに一斉に殺到した。しかし、ドアが開かない。隣の車両の乗客たちが開かないようにドアをしっかりと抑えている。「開けてくれ! 開けろぉ!!」「感染者が出たんだよ!」感染から逃れようとする人たちがドアや壁をどんどん叩く音が激しく響く。
「緊急停止ボタンが押されましたので、電車を停止します」
 アナウンスと共に電車が鈍い音を立てて止まった。慣性でこらえきれずに数人がよろめき、つり革や手すりにつかまっていなかった乗客たちが転倒しかけ、周囲の人に支えられた。
「ただいま安全確認をいたします。指示があるまでその場に待機していてください。ドアを開けて外に出ないでください」
 車掌のアナウンスが車内に響いた。しかしパニック状態になった乗客の一人が緊急用ハンドルでドアを開けてしまった。しかし、ドアと線路にはかなりの落差があった。数人が飛び降りたがそのあおりを喰らって希美が落下しそうになった。上田はとっさに希美をかばい、彼女を抱いた形で線路に落下した。衝撃が体に走ったが、押されて落下する乗客たちが視界に入り体を転がしてそれを除けたところで意識を失った。

 気が付くと上田は病院のベッドに寝ており、傍に希美と幸子が心配そうに座っていた。
「あれ? 俺、どうして……?」
「上田君、良かったあ……」
 希美はそう言うとわんわんと泣き出した。横で幸子も涙をこぼしながら言った。
「上田君、希美ちゃんを助けてくれてありがとう」
「ああ、そうか。おれたち電車から落っこちたんだっけ」
「受け身が上手かったのか、右肩の脱臼と肋骨に少しひびが入った程度で済んだみたい。さすが柔道部のエースやね」
「そっか、藤田が無事で良かったよ」
 上田は安堵のためいきをついたが、そのせいで胸に痛みが走った。
「あいててて……」
「肋骨やってるからね、しばらくは痛いわよ」
 ちょうど病室に入ってきた女性医師が言った。
「目が覚めたね、本日のヒーロー君」
「先生ですか?」
「担当の山口よ。ここは感対センター。2か月ぶりに大量に搬送されてきて、さっきまで野戦病院みたいだったわ」
「感対センター? じゃあ、やっぱりあれは……」
「大丈夫よ。話を聞いたら、朝まで友達とワインを飲んでいたそうよ」
「はあ?」
「なによ、あれ、ワインゲロやったん?」
 希美がハンカチで目を拭きながらあきれて言った。
「熱もたいしてないし、飲み過ぎの急性アルコール中毒ね。一緒に食べてたチーズと相まってとんでもない匂いになってでしょうね」
「たしかにすごい匂いでした! こっちまで吐きそうになっちゃって」
 と希美が思い出して口元を抑えながら言った。
「本人もこんなに騒ぎが大きくなってしまって、恐縮していたわ。でも悪気があったわけじゃないし、周りが勝手にパニックになっただけで責めるわけにもいかないわね」
「人騒がせなヤツ!」
 幸子が言った。
「ほとんどが軽傷だったし、不幸中の幸いね。なので君たちも無罪放免。上田君は念のため数日ここで入院よ。多分、大人の事情で転院は難しいからね」
「でもここって感染症専門の病院なんじゃあ?」
「もともと1類感染症対応が出来る総合病院だから。じゃあ、上田君、何かあったらコールして。君たちも落ち着いたら帰りなさい。お家の方たちが心配してるよ」
 山口は幸子たちに早く帰るように促すと、病室を出て行った。幸子たちは安堵で顔を見合わすと、笑い出した。
「あはは、いてててて……」
「大丈夫?」
 あわてて希美が上田のそばによる。
(お邪魔虫は去りますか)
 幸子はそっと病室を後にして待合室で希美を待つことにした。

 死者の出る被害は免れたものの、重軽傷者を複数出してダイヤも大幅に乱れたあわや大惨事のこの事件は大問題になった。世論も終息宣言をはやく出さないからこういうことになるのだという意見が多数を占めた。
 翌17日に行われた県議会では、一週間の猶予を以って終息宣言をすることを強引に決めた。高柳ら感染対策チームの医師たちの猛反対はほとんど無視された。顧問のギルフォードもまだ早いと資料を提示して激しく抗議したが、聞き入れられなかった。ただし、タスクフォースは縮小するが廃止せず、ギルフォードも当面顧問を継続ということを厭味ったらしく告げられた。

 研究室に戻ったギルフォードは、怒りを表すこともなく淡々と仕事を進めていた。
 ここ2か月ほどのグダグダにあきれたのか、すでに達観の境地にいるかのように思えた。しかし、由利子にとっては今まで通り臨時職員を続けられるか研究室助手のアルバイトになるかという、切実な事態である。
(まっ、アルバイトでも給料は出るし、とりあえず私も達観しとくかなあ)
 そう思った時、ギルフォードが言った。
「ユリコ。大丈夫ですよ。対策チームが当面無くなることはありませんし、僕の首も繋がりましたから」
「(なんでわかったんだ)そうなの?」
「それだけでも良かったと思います。僕は、ウイルスが急に影を潜めたことが却って不安なのです。このまま消えてしまったのならそれはそれで万々歳なのですが」
「まあ、そうだけど」
「真夏に居なくなったのは意味があるように思えてならないのです」
「たしかに、あの自爆事件のあとふっつりと感染が止まったみたいに思えるけど」
「もし、僕がかつて感染したウイルスと同じものならば思い当たることがあります。やや高地に位置していたワタカ国には日本ほど顕著ではありませんが季節はありました。一年で最も気温が高い時期に感染拡大が滞った時があったのです。日本の真夏は気温湿度ともにアフリカの国々すら超えますから、一時的に姿を消した可能性があります」
「なんか嫌な感じだなあ」
「米軍からはなんと?」
 紗弥がいつの間にか横に立っていて質問をしたので、由利子はぎょっとして声の方を見た。
「もう、紗弥さん、気配消して横に立つの禁止!」
「あら、失礼いたしました」
 紗弥は口元を少し抑えて言った。ギルフォードは若干仏頂面でその問いに答えた。
「知らぬ存ぜず意に介さず、だそうですよ」
「なにその超訳」と、由利子。
「あくまでそれは新型の強毒性ラッサウイルスで、国防に関わるので公表できない。今日本で感染を広げているウイルスに関しては関知していないと」
「それで終わり?」
「日本政府は米国には強く出られませんから」
「責任取りたくないだけだろ」
 今度は後ろで声がした。
「長沼間さん」
「もう、なんで気配消してくる人ばかりなんだよ。アレクからは見えてるんだから教えてよ」
「やあ、失敬失敬」
「久々に聞いたよその昭和ゼリフ」
「アレクサンダー、首がつながったようで良かったな」
「茶化しに来たのなら帰ってクダサイ」
 長沼間は勝手知ったるなんとやらで教授室入るとソファにドカッと座った。紗弥のこめかみに#マークが見えたギルフォードが言った。
「あ、サヤさん、お茶は出さなくていいですから」
「すまん。なんか疲れてな。今日は篠原さんに残念な知らせを持ってきたんだ」
 それを聞いて、紗弥が湯沸かし室に向かった。由利子は急いで長沼間の前のソファに座り食い気味に言った。
「ひょっとして美葉のことですか?」
「そうだ。結城が親子と偽って潜伏していたアパートを突き止めたんだが、捜査員が急行したが、すでにもぬけの殻だった」
「逃げられたってこと?」
「まあ、そういうことだ」
「俺もすぐに向かったが、手荷物だけ持って逃げ出したという感じだった。まあ、もともと大したものはなかったようだが、遺留物から二人のDNAが確認されたので、そこにいたことは間違いない」
「遺留物?」
「まあ、この場合毛髪とか体液とか」
「っ……!!」
「ナガヌマさん、女性にあまり生臭い話は……」
「アレク、私は平気です! それで?」
「その後の足取りを捜査中だ。すまんな、こんな程度で」
「いえ、生きてることが判っただけでもうれしいです。長沼間さんもそれを伝えたくて来られたんでしょ?」
「職務だからだ。あんたには俺が公安だってことも教えているしな」
 そこに紗弥がコーヒーを持ってきて、テーブルに置きながら言った。
「前から気になっていたのですが、草が紛れ込んでいる可能性はありませんの?」
「ははっ、まさか。もしあったなら……大失態だ」
 長沼間は自嘲的に言うと、コーヒーに口を付け「あち」といった。

 その後、しばらく世間話をしてから、長沼間は帰っていった。ギルフォードは教授室の窓から、遠くに去っていく長沼間の背を見つめていた。残暑が残る熱い日差しに温められたアスファルトから陽炎が沸き立っているのか、その姿が不自然に揺らいでいるように見えた。

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