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4.翻弄 (5)冷たい雨

 日本時間 7月15日午後
 朝方に小康状態になりパラつく程度だった雨が、午後から再び本格的に降り始め、夕方3時を過ぎた頃にはかなりの大降りになっていた。
 甲斐看護師の容体は安定していたが依然意識のないままで、事情聴取のためにやってきた長沼間と武邑は今日は無理と判断したのかすぐに帰っていった。その後入れ替わりに振屋こと古河のマンションの検分に行った帰りの九木と葛西が甲斐の見舞いと事情聴取を兼ねてやって来たが、彼女の意識が早晩では戻らないと告げられ、病室に様子を見に行くだけに止めることにした。
「一般患者の受入れ体制を残していてよかった」
 甲斐の病室から帰り際に高柳が言った。
「うちの看護師が本当にお世話になりました。心から感謝します」
「仕事ですから、お構いなく」
 九木がこともなげに答えた。
「これから県警の方に?」
「古河のことについて報告せねばなりませんからね」
「なにか掴めましたか?」
「いえ、組織につながる目立った情報はありませんでした。生活感のない殺風景な部屋でしたよ」
「そうですか……」
 高柳はそう言いながら無意識に両手を握りしめた。甲斐の件は高柳にも想定外中の想定外だったのだろう。
「私は、看護師がここの病室に入る時は感染した時だと思っていました。なので、そうならないよう万全の処置をしていたつもりでした。しかし、結果はこの様(ザマ)です。一人は感染ですがもう一人は自殺未遂です。しかも2件とも敵の関与があった」
「心中お察ししますよ」
 九木が珍しく声に同情を表して言った。
「私は悔しい。だが、私はここで戦うしかない。だから、お願いします。必ずテロ組織を突き止めてください」
「全力を尽くします。そして首謀者を逮捕します。必ず」
 九木は端的に答え、頷いた。
 高柳と別れたところで、葛西たちは由利子に出会った。葛西が何か言いたげだったのを察知した九木が言った。
「先に車に乗っているから、話をしてくるといい。ただし、10分経って戻らなかったら置いていくぞ」
「すみません、九木さん」
 葛西が言い終わらないうちに九木はさっさと歩いて行った。
「相変わらず不愛想な人やね」
 由利子が笑いながら言った。最初にくらべてだいぶ印象が良くなってきたなと思った。
「葛西君、ご苦労様。甲斐さんのこと、ありがとうね」
 由利子に言われて葛西は頭を掻きながら言った。
「仕事ですから」
 九木と同じ返事をしてしまい、葛西は少しだけ可笑しくなった。由利子がすかさず言った。
「何笑ってんのよ」
「あ、いえ、大したことじゃあ……。それより明日はジュリーが帰ってくるんですよね?」
「そうだけど、どうしたの?」
「飛行機に乗る前に連絡とっておこうと思ったけど、電話に出ないしメールも既読にならないんです」
「そりゃあ、また電源入れ忘れているんじゃないの? 私には早朝かかってきたよ」
「そんなに早く?」
「心配してかけてきてくれたみたい」
「それでも、それから10時間以上経っています」
「大丈夫だよ。だってあちらは今頃夜中なんじゃない? 朝早いから寝てるんだと思うけど」
「まだ起きてる時間くらいにかけたんだけどなあ」
「それより、自爆犯の家に行ってたんでしょ? なんか手掛かりあった?」
「それが、妙に生活感のない奴で……」
「やっぱり」
「捜査途中なのであまり詳しくは言えませんが、奴の本棚にこの前由利子さんが見たカルト教団リストのうちの3教団に関連した本がありました。調査する必要が出てきました」
「名前は?」
「海神(わたつみ)真教・大地母神(だいじぼしん)正教、それに碧珠(へきじゅ)善心教会です」
「そっか。やはり碧珠善心教会が出てきたか」
「やはり?」
「うん。教主が出しゃばってないところや、葛西君が指摘したように、あまりにキレイすぎるところとか、ね」
「なるほど! ところで」葛西がキョロキョロして言った。「アレクと紗弥さんは?」
「ああ、紗弥さんは用があるので大学に一足先に戻って、アレクは高柳先生に呼ばれて河部千夏さんのところに行ったよ。私もそろそろ帰ろうと思って迎えに行くところだったんだ」
「そうですか。おっと、僕もそろそろ行かなきゃ。ではまた」
 時計を見て10分が経ちそうなことに気付いた葛西は、駆け足で去って行った。
 由利子が病室の前に近づくと、ギルフォードが右手を上げ待てのポーズをし、病室に向かって何か言うと、窓を’閉めた’。そして嬉しそうな笑顔で由利子の方へ歩いてきた。
「すみませんね。チナツさんがまだ姿を見せたくないそうで」
「そんなにひどい状態なの?」
「いえ。以前よりだいぶ改善されました。ただ、まだまだ姿を見られたくないとおっしゃって」
「と、言うことは!」
「はい。病状は回復に向かっているそうです。食欲も戻ってきているし、高柳先生が生還第1号患者になるんじゃないかと」
「そうなんだ、アレク! 希望が見えてきたね!」
「ハイ。嬉しいです。ここの皆さんにも力強い希望になると思います」
 2人が喜びを分かち合っているところに、ギルフォードがスタッフステーションの看護師から呼ばれた。
「アレク先生。お電話ですよ」
「あ、ありがとうございます。誰だろう? わざわざここに電話してくるなんて……」
 ギルフォードはぶつぶつ言いながら電話に向かった。
(あー、みんなケータイの電源を切っているからか。何かあったのかな)
 由利子が少し不安そうにギルフォードを見守った。
「もしもし、ギルフォードです」
 ギルフォードが電話に出ると、先方から深呼吸のようなため息のような音が聞こえた。
「もしもし?」
”アレックスか? クリスだ”
”どうしたんだ? そっちはまだ深夜じゃないのか?”
”アレックス、落ち着いて聞いてくれ”
 クリスの今まで聞いたことのない力のない沈んだ声に、ギルフォードは嫌な予感がよぎった。
”何かあったのか?”
”夜10時頃にジュリアスからメールが来た。予約メールだった”
 ギルフォードの心臓が大きくドキンと打ち、足の裏にズンという衝撃が走った。
”内容は’このメールが届いた時は僕に何かあった時だ。この住所に僕はいるだろう。迎えに来てほしい’というものだった。私は一瞬何かの冗談かと思ったが、あいつにそんな悪質な冗談が出来る筈がない。それで急遽通報して警察に現場に向かってもらった”
 ギルフォードは無言だった。ただ、目を見開き、額から冷や汗を流している。その様子に気付いた看護師が心配そうにギルフォードに「大丈夫ですか」と声をかけた。
”場所はレーヴェンスクロフトの屋敷だった。駆けつけた警察が、玄関先にジュリアスの自転車を、テラスでレーヴェンスクロフトと、……ジュリアスの……遺体を発見した”
”嘘だ。悪い冗談はやめてくれ……”
”私は知らせを受けて現場まで車を飛ばした。遺体は間違いなくジュリアスだった。地元の警察に運ばれて、今、私もそこにいる”
”そんな筈はねえ。ジュリーは今飛行機の中で、明日には会えるはずなんだ……”
”私だって信じられない。だけど、これは現実だ”
”嘘だッ! 俺は信じない!”
 ギルフォードが叫び、由利子が驚いて駆け寄った。由利子を見たギルフォードの顔は真っ青で、体が見てわかるほど震えている。
「ユリコ、ジュリーが……」
「ジュリーが、どうしたの!」
 由利子は葛西の言葉を思い出していた。
「ジュリーが……。嘘です。信じません、僕は、ジュリー……」
 ギルフォードは弱弱しく言うと受話器を取り落とし、力なく床に崩れ落ちた。由利子はそれを支えようとしたが、力が足りずに一緒に床に倒れてしまった。しかしすぐに起きてギルフォードに取りすがった。
「しっかりしてアレク! 誰か、誰かお願い!」
「私たちが診ます! 由利子さんはアレク先生の代わりに電話を!」
 看護師たちが駆け寄り、ステーション内では医師を呼び出している。机からぶら下がった受話器からは必死にギルフォードを呼ぶ声がしている。由利子は意を決して受話器をとった。
「Alex! Alex! Say something, Alex!!」
 英語だったので一瞬躊躇したが、由利子はままよと日本語で答えた。
「助手の篠原です。アレクは、ギルフォード先生は、気を失われてしまって……」
「アナタがユリコさんですか?」 かえって来た言語は思いのほか日本語だった。「ワタシはジュリアスの兄でクリスいいマス。アレックスはどうしマシタか」 
「アレクは倒れてしまいました。今看護師さんたちが介抱しています」
「サヤは近くにイマスか?」
「いえ、紗弥さんは一足先に大学の方に帰られて……」
「では、アナタに説明します」
 クリスは由利子に何があったかを説明した。
 説明を聞いている間に三原医師が駆けつけてきて様子を見た後、ストレッチャーにギルフォードを乗せると、連れて行くからというジェスチャーをして数人の看護師と共に去って行った。由利子はそれを心配そうに見守るしかなかった。 
「ジュリー……なんで……?」
 クリスの説明を聞き終え、由利子はつぶやいた。他に言葉がなかった。今朝電話で話して励まされたばかりなのにと信じられなかった。
「わかりません。レーヴェンスクロフトはジュリアスの恩師デシタから、何かアドヴァイスを求めて行ったのだと思います。でも、あのようなメールを残していたというコトハ、何らかのリスクも感じ取っていたのデショウけれど……」
「信じられません。だって、だって私、今朝電話で話したばかりなんです。もうすぐ行くから待ってろって」
 言いながら涙が一筋零(こぼ)れた。しかし、それに反してまったく悲しさがわいてこない。だが、周囲の音は全く聞こえず、周囲がどうなっているかもわからなくなっていた。まるで白い空間に自分と受話器だけが取り残されたようだった。
「ワタシにも何が何だかワカリマセン。何かわかったら、またご連絡シマス。サヤには私から伝えマスので、アレックスをよろしくオネガイシマス」
 クリスはそういうと電話を切った。由利子は受話器を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。一人の看護師がそれに気づいて由利子の肩を軽く叩いた。春野だった。
「篠原さん、しっかりして! 何があったの?」
「ジュリーが、ジュリーが……」
「え? キング先生が?」
「死んだ……って……」
「うそっ。篠原さんってば、悪い冗だ……」
「私だって嘘だって信じたいよ!」
 自分でも思いがけなく怒鳴ってしまい、由利子は戸惑ってあやまった。
「ごめん。春野さんの反応が普通だよね」
「ごめんなさい、あの、私何も聞いてなくて、ただ、篠原さんをアレク先生のところにお連れするように言われて」
「わかった。連れて行って」
 由利子はこんなときこそ自分がしっかりしなければと思い、気丈を装った。しかし、この時すでに二人の心はボロボロになっていた。
 ギルフォードは仮眠室に寝かされていた。由利子は案内され、ギルフォードのベッド横に置かれた椅子に座った。三原が説明した。
「失神は激しい精神的ショックを受けたせいだと思われます。発熱などの異常は見当たりませんでした」
「無理もありません」由利子が小声で言った。「かけがえのないパートナーの突然の死を知らされたのですから」
「キング先生が? どうして? だってもうすぐ日本に来られるって……」
「まだ詳しいことは判らないのです。ただ、恩師に殺されたと……」
「殺された!?」
「しっ。声が大きいです」
「すみません、つい」
「私にも何がなんだか……」
「それで……。ここに寝かせてから、何度もキング先生の名前を呼んで起き上がろうとするので、やむなく鎮静剤を打って休ませたのです」
「そうですか」
「落ち着くまで、しばらくここにいてあげてください」
「はい。ありがとうございます」
 三原が去ると、由利子はギルフォードと二人きりになった。由利子は辛そうな表情のまま眠るギルフォードの涙の痕の残る顔を見てつぶやいた。
「なんで、この人ばかりがこんな辛い目に遭わなくちゃいけないんだろう……」
 由利子はうつむいて両手で膝を掴んだ。体が小刻みに震えたが、もう涙は出なかった。ふと、これは悪い夢なのではないかと思い、目が覚めないかと願ったが、それは儚い願いであり、自分が紛れもない現実にいると思い知らされた。
 しばらくして、由利子は高柳に呼ばれ、スタッフステーションにギルフォードのことを頼むと、センター長室に向かった。高柳は由利子のためにコーヒーを用意して待っていた。高柳は由利子をソファにかけさせると言った。
「三原君に大まかなことは聞いたよ。昨日から大変だったね。君に大きな負担ばかりかけることになってすまない」
 由利子は力なく首を振って言った。
「先生のせいじゃありません」
「負担を増やすようで申し訳ないが、ギルフォード君の件で君がわかっていることだけでも教えてほしいのだが」
「はい」
 由利子はクリスから聞いたことを伝えた。高柳は驚きながらも最後まで聞き終わると言った。
「しかし、キング君が殺されたなんて、私も信じられない。ギルフォード君には自分が死ぬより辛いことだろうな」
「ええ、そう思います」
「しかし、キング君があのレーヴェンスクロフト博士の教え子だったとはな」
「え? ご存知なのですか?」
「ああ。彼は……」
 と、高柳が言いかけたところで内線が入った。
「どうした?」
「センター長、大変です! ギルフォード先生がいなくなりました!」
「なんだって!」 
 それを聞いて由利子が反射的に立ち上がった。
 二人が仮眠室に駆け込むと、ベッドはもぬけの殻になっていた。
「しまった。彼のことを全職員に知らせていなかったのが仇になったか」
「すみません。よく眠っていらっしゃったので、油断しました」
 看護師がおろおろしながら言った。
「駐車場にも車が見当たらないそうです。どうしよう」
「いや、私が篠原さんを呼んだのがまずかったんだ。あんな精神状態で、一体どこに行ったんだ」
 さすがの高柳も心配が隠せないようで、うろたえているのが判った。由利子がハッとして言った。
「私に心当たりがあります。タクシーを呼んでください」
(たぶん、あの場所に行ったんだ)
 由利子は、ジュリアスから紹介された場所のことを思い出していた。
 雨で道は混んでいたが、タクシーの運転手は由利子の顔を見てなにかあったのだと察したのか、抜け道の限りをつくして目的地まで急いでくれた。由利子は運転手に丁寧にお礼を言うと、Q大の裏門でタクシーを降り、傘をさすのももどかしく駆け出した。
 
 ジュリアスに連れられて一度しか行っていないが、道順はしっかり覚えている。由利子は必死で走った。大降りの雨で傘は殆ど役に立たず、由利子はあっという間にずぶぬれになってしまった。裏庭を通り雑木林を駆け抜けた。この前通った時は天気も良く、池には水鳥が遊んでいたが、今は雨を避けてどこかに潜んでいるのだろう。舗装されていない道はぬかるみ、レインブーツはすぐに泥だらけになった。林を抜けると目標の小高い丘が見えてきた。由利子は一瞬立ち止まったが、意を決して丘を駆け上がった。
(居た。やっぱりここやった)
 そこには欅の横にぼんやりと座るギルフォードの後姿があった。由利子はそっと近づくとしゃがんで傘をさしかけて言った。
「風邪を引くよ」
 ギルフォードはゆっくりと振り向くと、寂しさと苦しさの入り混じった泣きそうな表情で言った。
「僕に関わると死にますよ」
「アレク!」
 由利子は叱るような口調で強く言った。するとギルフォードは辛そうに笑った。
「ごめん。冗談ですよ」
「言ったはずよ」由利子が今度は声を和らげて言った。
「私は死なないって。何があろうとも! だから、そんな悲しいこと言わないで」
「ユリコ、僕は、僕は……」
 ギルフォードは濡れそぼった子犬のような顔で言った。
「苦しいんです。今にも砕けそうなんです。どうしたらいいかわからないんです」
 気が付くと、由利子はギルフォードを抱きしめていた。
「アレク、私もだよ。悲しいね。辛いよね」
「ユリコ……」
 ギルフォードは由利子にしがみつくと、堰を切ったように泣き出した。由利子の手から傘が滑り落ち、2・3メートルほど転がって止まった。
 幸せな思い出の場所は不幸が起きると悲しい場所に変わる。由利子がジュリアスとここに来た時は、穏やかな天気で景色がキラキラと輝き、小鳥がさえずっていた。もうジュリアスはいない。今は冷たい雨が降り、景色はまるで墨絵のように感じる。由利子は黙ったまま、ギルフォードを抱き優しくその背を撫でた。
 雨が由利子の顔を伝って落ちていく。その水に涙が混じっているのか、ただの雨水なのか、由利子にはわからなかった。

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