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4.翻弄 (4)ジュリアス

アメリカ合衆国東部時間:7月14日午後3時頃(日本時間:7月15日 午前6時頃)

 

 由利子に電話した約1時間後、ジュリアスはとある田舎駅に到着した。
 駅を出たところで携帯していた26インチタイヤの折り畳み自転車を開くとそれに跨り、行き先設定をしたスマートフォンをセットすると勢いよく自転車を発進させた。
 明日はギルフォードの待つ日本に向かうのだが、その前にどうしても確認したいことがあった。大阪の友人が経営する独自のネットワークを通じてようやく連絡先を突き止めたジュリアスは、かつての恩師に恐る恐る電話をした。あることから世捨て人のようになったと聞いていたからだが、電話の声は思いのほか力強く、ジュリアスの知っていた頃の恩師を思わせた。それで、思い切って質問をしたいことがあるというと、わかったという快い返事がきた。そして、久々に会ってその質問を含め、昔話をしようということになったのだ。

 

 しかし、さすがは世捨て人と噂されるだけあって、道はどんどん山の中へ続いていく。それでも好天に恵まれ爽やかな風を切って走るジュリアスは、それをあまり気にしている様子はなかった。
 木々から無数に木漏れ日が零れ、小鳥たちのさえずりがあちこちから聞こえ、至極平和な道のりだった。夏とはいえ蒸し暑い日本とは違って格段に過ごしやすい。ジュリアスは鼻歌まじりで軽快に自転車を漕いでいた。もうすぐギルフォードや日本の仲間に会えると、心は既に日本に飛んでいる。打ちのめされているであろう由利子の支えにも早くなりたいと思っていた。

 

 30分を優に過ぎた頃少し森が開け、古い屋敷が見えてきた。門扉は施錠していないと聞いていたので、躊躇なく開けて中に入り50mほど先にある玄関に向かった。広い敷地は殆ど木々に覆われまるで森の中の遊歩道を思わせた。自転車を降りヘルメットを取るとドアの前に立ちノッカーを鳴らした。しかし、応答はない。数分待ったがふと横を見ると旧式のインターフォン%があった。ジュリアスは苦笑しながらインターフォンの呼び出しボタンを押した。
 数秒後に家主のぶっきら棒な声がした。
”キング君かね?”
”そうです。お言葉に甘えて参りました”
”入り給(たま)え。玄関のカギも開けておいた”
”はい”
 許しを得たジュリアスは重い扉を開けた。ギイイと蝶番の錆びた鈍い音がする。家からあまり外に出ることがないのだろう。
 エントランスは大きな窓がいくつもあり、暗い屋敷内を想像していたジュリアスは少し拍子抜けしてしまった。中央の階段から老人がゆっくり降りてきた。少し足が悪いのか杖を突いているが姿勢もよく足取りはしっかりしている。老人はジュリアスの近くまで来ると、笑顔で右手を差し出して言った。
”よく来たね、キング先生。また会えてとても嬉しいよ”
”以前のようにジュリアスでいいですよ”ジュリアスもそう言いながら右手を出しそれに答える。”僕も嬉しいです。ラヴェンクラフ先生も、お元気そうで……”
”レーヴェンスクロフト(Ravenscroft)だよ。君の人名の独特な発音も相変わらずみたいだね”
”すみません。僕は人名がどうも苦手で……”
”君のような天才が、不思議なものだね”
”アレックスにも以前よく注意されたものですが、最近はあきらめたようで訂正するだけになりました”
”まあ、その彼も確か人の顔をなかなか覚えなかっただろう。天才にはありがちな障害だよ。気にすることはないさ。それより久しぶりの再会を祝うことにしようか。テラスに案内しよう。細(ささ)やかだが歓迎の準備をしておいた”
”ありがとうございます”
 ジュリアスは恩師に言われるままに彼の後に続いた。

 

 そのテラスは明るく美しかった。ジュリアスは眩し気に周囲を見回すと言った。
”こんなに美しいテラスは見たことありません。それにすごく明るい”
”儂(わし)も年のせいで目が悪くなって暗いところは不便でね。この屋敷での儂の生活圏で暗いのは寝室くらいだよ”
”生活圏?”
”部屋数が多いのでね、儂ひとりでは使いきれんので未使用の部屋は放置しておるのだ。多分埃だらけになっておるよ”
”そうなりますよね。このテラスや庭のお手入れは?”
”年に数回業者に頼んどる。儂だって最低限の人付き合いはしとるよ”
”あはは、失礼しました。そういう意味でお聞きしたのではなかったのですが”
”とにかく用意した席に座ってれないかね”
”ああ、すみません” 
 ジュリアスはテラス中央に用意されている席についた。木製の大き目な丸テーブルで、同素材の椅子が2却向かいに並んでいる。中央には花瓶が置かれ庭で咲いていたであろうバラの花が彩りよく活けられていた。
”ちょっとレコードをかけさせてもらうよ”
 レーヴェンクロフトはテラスから室内に姿を消した。間もなくテラス内にピアノ曲が流れてきた。
”ブラームスのピアノ曲集だよ”
 レーヴェンクロフトがテラスに戻って来ながら言った。
”クラシックは好きかね?”
”ええ、もちろん。ブラームスはハンガリー舞曲とか好きですね。そうそう、アレックスもよくピアノ曲をかけていますよ。主にショパンですが”
”そうかね….…”
 ジュリアスはレーヴェンクロフトの機嫌が少し悪くなったのを見て、彼とギルフォードがよく口論をしていたことを思い出し話題を変えた。
”さっきレコードとおっしゃいましたが、先生は未だCDがお嫌いなんですね”
”年寄りの好みさ。どうもあの軽い音が許せなくてね”
”お変わりなくて安心しました”
 そう言うと、ジュリアスはもう一度テラスから見える景色を眺めた。
”いいところですね。きれいな庭園を眺めながらのティータイムは最高でしょう”
”ちょうど庭がきれいに見える場所を選んで設置したからね”
 レーヴェンスクロフトは紅茶を淹れながら誇らしげに答えた。
”隠居した老人の細やかな趣味だよ。さあ、ダージリンのセカンドフラッシュだ。王室にも献上されるレベルのハイクラスだ”
 ジュリアスは、華奢な陶器のティーカップに注がれた紅茶をふるまわれ、恐縮して言った。
”ありがとうございます。僕なんてティーバッグかインスタントのコーヒーでよかったのに”
 ジュリアスがあまりにも恐縮したのでレーヴェンスクロフトは笑いながら言った。
”そう、卑下せんでもよかろう。素直に飲み給え”
”はい”
 ジュリアスは、カップを手に取り一口飲んでみた。ふわりと独特の良い香りがした。
”ああ、いい香りです。それに、渋みも少なくてストレートでも飲みやすいですね”
”そうだろう、そうだろう。分けてあげるから日本のギルフォード君への土産にするといい”
”ありがとうございます。きっと喜びますよ!”
 ジュリアスは素直に喜んで言った。レーヴェンスクロフトは満足げに笑ったがすぐに真顔になって言った。
”前々から思っていたが、君はギルフォード君を憎いと思ったことはないのかね?”
”先生は僕と彼との因縁をご存知だったのですか”
”愛弟子については、いろいろと聞きたくない情報も知らされるのでね”
”何も知らなかった最初の頃は確かに憎いと思っていたこともありました。あいつさえいなければ父は死なずに済んだのに、って。それで、少年の頃、僕は彼にひどい言葉を浴びせてしまったこともありました。でも、アレックスがいたからこそ父の尊厳は守られたのだということを知りました。しかも、ギルフォード家は、逃げるようにアメリカに帰った僕ら一家を探し出してくれ、ずっと援助をしてくれていたのです。それで、僕も兄も最高の教育を受けさせてもらえました。憎しみはいつか尊敬に、尊敬は思慕に変わっていきました。彼と再会した時、彼は心身ともにボロボロでした。僕は彼の支えになろうと決めたのです”
”そうだったのかね。彼は昔はかなり不安定な部分もあったようだが、今は落ち着いているのかね?”
”はい。日本で居場所を見つけていました。彼は一生トラウマからは逃れられないでしょうけど、あの極東の国で生きる希望と自信を見出したように思います。なので、僕は彼を支えるために、彼の元へ行こうと決めたのです”
”そうか……。儂は君らがうらやましいよ。……では、確信に入ろうか。質問を聞こう。遠慮せずに率直に訊き給え”
”はい。今日本のF県に出現した新感染症の件でお聞きしたいことがあります”
”隠居の儂に何を聞きたい?”
”先生が研究職を退いた原因になった論文についてです”
”あれは、世間の言う通りの駄作だったんだ。儂もそういうことにしておきたい”
”先生ご自身はそうは思っていないということですね”
”もう、終わったことだ”
”終わっていません。先生の論文は、アレックス達がアフリカで感染した出血熱が変異した新型のラッサウイルスではなく、まったく未知のウイルスであったということを証明するものでした。そして、あなたは米軍がラッサ熱と発表したのは、その悪の枢軸国家やカルトやテロリストたちが兵器として使用するのを恐れてのことだと結論付けました。さらに、米国自身の生物兵器研究に使うために隠蔽したとまで言及されました。表向きは、米国は防御の研究しかできないことになっていますからね”
”君はあれを読んだのかね”
”当然です。申し訳ないことに、僕も、先生のあの論文については賛同しかねると思っていました”
”呆け老人が妄想を論文にしたと……”
”いえ、そこまでは……。ただ、やや荒唐無稽だとは思いました”
”素直な感想だな”
 レーヴェンスクロフトは自嘲気味に笑って言った。ジュリアスはそれには答えず続けて言った。
”残念なことに、あの論文は巷にあふれる陰謀論を唱える論文と一緒くたにされてしまいました。でも、明らかにそれらとは違う完成度の高い論文でした。しかし、先生は反論もせず、ついに論文は撤回されてしまいました。そして先生は大学を追われるように辞め、世間から忘れ去られていった”
”もう済んだことだ”
”先生!”
 ジュリアスはレーヴェンスクロフトをまっすぐに見て言った。
”僕は兄のクリスの命(めい)で、日本のアレックスのもとに向かい、ウイルス感染した患者を見て、何故かあなたの論文が頭に浮かびました。それで、アレックスの大学にある図書館であなたの論文が掲載された学術誌を探し出して読み直し、ある仮説をたてました。そしてそれは、僕が無理やりユーサムリッドに隔離されたことで確信に変わりました”
 ジュリアスの推理をレーヴェンスクロフトは腕組をしたまま黙って聞いている。ジュリアスはつづけた。
”考えたら辻褄が合うことがたくさんあります。ワタカ国には各国やWHOなどのチームより先駆けて米軍が入り、ワタカ政府に戒厳令を出させました。そのせいで米軍の医療チームや治安維持部隊以外入ることが出来なくなり、先に入国していたアレックス達は孤立させられました。せっかく山田先生が各研究所に送ろうとした検体はすべて米軍が保持してしまいました。
 チサ村に入った米軍の行動は早かったそうです。感染者とそれ以外の村人を分け、感染者の出た家は有無を言わさず焼却し遺体も半ば強制的に火葬して埋葬させました。敬虔なキリスト教徒だった村人には耐え難いことだったでしょう。そして、瀕死のアレックスと日本の少年を治療ということでさっさと連れて帰ってしまった……。おかげでアレックスの命が助かったのですから、それは感謝すべきなのですが”
”それは、ギルフォード君から聞いたのだね”
”そうです。あまりにも手際が良すぎます。最も感染拡大と言ってもワタカ国内だけの小規模感染でした。一瞬新種の病原体ではないかということで注目を浴びましたが、よくある風土病の変異型強毒種でウイルスは封じ込めたという米軍発表で、世間の注目は当時起きていたエボラ騒ぎの方に向き、ワタカ国は忘れられてしまいました。CDCなどの一部組織はしつこく検体の提供を訴えていたそうですが”
”まあ、フォートデトリックとは犬猿の仲だからな。先を越されてさぞかし悔しかっただろう”
”ええ、ここだけの話ですが、兄のクリスでさえその話になると、あいつら何か知っていて隠蔽したに違いない。先に情報を得てやがったんだ、などと言ってました”
”彼はCDCの職員だからな”
”僕もそう思って聞き流していました。でも、ラッサ熱でもカテゴリーAの大変な感染症ですから、それの変種となればもっと大騒ぎされてもいいと思いますが、まるで潮が引くように世界の関心が薄れていった……。そしてそれを蒸し返そうとした先生は世間から抹殺された。ラッサ熱とワタカで発生したウイルスとの違いの証拠とされた論文の研究資料は捏造と一蹴されてしまった”
”だから、もう終わったんだ。辛い話を蒸し返すのはもうやめにしてくれないか?”
”すみません。でも、これは重要な事なんです。もし、F県に出現したウイルスが、ワタカ国と同じものなら、ユーサムリッドがワクチンなり抗ウイルス薬なりを作っていると思うんです”
 レーヴェンスクロフトは無言で腕組をしたまましばらく目を閉じていた。重苦しい時間が流れたが、とうとうレーヴェンスクロフトは重い口を開いた。
”ジュリアス君”
”はい!”
”儂に娘がいたことは知っているね”
 急に質問と関係ないことを聞かれ、ジュリアスは戸惑いながら答えた。
”はい。確かお二人いらっしゃいましたよね”
”そうだ。妻は日本人で儂と同じウイルス学者だったが、癌に罹って早くに亡くなった。それで早々に父子家庭となってしまったが、まあ、それなりに仲良く平穏に暮らし、二人ともウイルス学者として立派に巣立っていったんだよ。しかし、長女のハルネは、軍傘下の製薬会社でワクチンや抗ウイルス薬の研究をしていたが、針刺し事故で、扱っていたウイルスに感染し、なんとか一命はとりとめたものの植物状態になってしまった。だが、会社はどんなウイルスを使っていたかは企業秘密として頑として教えてもらえなかった。次女のリョーコは軍の熱帯研究所に勤めていた。ところが、ある日数年ぶりに突然リョーコが帰ってきて、ある検体を儂に見せ、ここでそれの研究をさせてほしいと言った”
 ジュリアスは話が急に核心に近づいてきたのでさらに戸惑っていた。嫌な予感がした。
”儂は驚いた。検体のウイルスは不活性化してあったが、それは儂が見たこともない新種だった。リョーコは、それが姉を植物状態にしたウイルスで、ワタカ国で猛威を振るったものの正体だと言った”
”えっ? では、やはり論文の資料は本物だったのですか!”
”リョーコは危険を冒して無断で検体を持ち出したのだよ。リョーコは儂にこのことは公表しないでほしいと言ったが、儂は誘惑に耐え切れず、彼女に無断で論文を発表してしまった。
 彼女はしばらく儂の屋敷に身を隠し儂のラボで密かに姉を助けるための研究を続けていた。しかし、儂の論文が炎上したのを知ると、リョーコは検体と共に姿を消した。父に情報提供をしたことで身の危険を感じたのだろう。論文の決定的証拠となる検体を失った儂は論文の正当性を証明することが出来ず、あとは君の知っての通りだ”
”やはり、サイキウイルスはアレックスが感染したウイルスと同じもの……?!”
”厳密には少し違う”
”どういうことですか?”
”それから数年後、ここにリョーコの代理人という男が訪ねてきた。日本で新興宗教の教主をしているという青年だった。彼はリョーコが教団のラボで働いていると言った。それで、姉のハルネをリョーコが病院から引き取りたいと言っているので許可が欲しいと申し出た。研究の傍ら姉の治療をしたいと言っているらしいと。儂は、リョーコの望み通りにしてくれと言った”
”それとウイルスがどう関係するというのですか”
 ジュリアスは、嫌な予感が確信に変わっていくのを感じた。自分は来てはいけないところに来てしまったのではないのかと。そんなジュリアスの不安をよそに、レーヴェンスクロフトは淡々と話をつづけた。
”彼は、リョーコからすべてを聞いたと言って、儂の’最後の論文’を素晴らしいと言ってくれた。しかも、驚くべきことに、彼がギルフォード君と一緒に米軍に保護され治療を受け一命をとりとめた少年だったということが判ったのだよ”
”ええっ!?”
 ジュリアスは驚いた。その男とならすでに、ジュリアスはギルフォードと共に感対センターで出会っている。しかし、彼は兄の会社で専務をしていると自己紹介をしたのではなかったか? 
”彼とは僕とアレックスも会いました。アレックスも彼も再会をとても喜んでいました。でも教主なんてことは一言も……!”
”そうかね?”
”お兄さんの会社で取締役をしていると言っていました。ほんとに同一人物なのでしょうか”
”年のころ30歳台の中背の少し華奢な優男だったよ。教主らしいカリスマ性のある魅力的な青年だった”
”同一人物のようですね。何故教主であることを隠したんだろう……”
”うさん臭く思われたくなかったんじゃないかね。新興宗教に拒否反応を示す者も多いからね。ギルフォード君もその類だろう?”
”それだけでしょうか”
 何か腑に落ちない様子のジュリアスと対照的に、レーヴェンスクロフトは少し高揚した表情で話をつづけた。
”彼は儂に世界を変えてみないかと言った。最初は眉に唾して聞いていたが、徐々に話に引き込まれていった。彼は儂が世の中に絶望していることを知っていた。彼は儂の説や警告を認めず責め立て世捨て人にまで追い込んだ世界を変えるためにこの大地を我々と共にきれいにしましょうと言った”
”大地をきれいにする?”
 ジュリアスは嫌な予感がよぎるのを感じた。
”そうだ。有害物質や最悪な原子力で大地を穢し、温暖化を招いて地球環境を壊しているその原因を極限にまで減らすのだ”
”その原因って、まさか……”
”そうだよ。ここ半世紀で数が倍以上の70億代に膨れ上がり、さらに増加し続けている類人猿ヒト科、すなわち我々だ。 
 ただし、絶滅させることは出来ない。本当はそれが一番いいのだが、少なくとも2万年はだめだ。原発の後処理がそれくらいかかるからだ。生き残った人類は自ら生み出した負の遺産を処理するためだけに、その周囲のみで細々と生きていくことになろう”
 聞きながらジュリアスは額に冷や汗が浮かぶのが判った。
”どうやって……それを実行するというのですか?”
 ジュリアスは恐る恐る尋ねた。
”核兵器や毒ガスなどの大量破壊兵器はだめだ。環境をさらに壊し罪のない他の生物も巻き込むからだ。かといって自爆テロなどでちまちまと減らしていくのも効率が悪い。一番有効な方法は、致死率が高く人間だけを殺す天然痘のような病原体を使うことだ。現に感染症で人が死ななくなってからの人口増加には目を見張るものがある。だが、天然痘は自然界では絶滅してしまっている。いや、させられてしまったが正しいか”
”僕は人類史上類を見ない偉業だと思います”
”人類にとってはね。しかし、人類が安泰になったぶん、他の生き物の絶滅は加速する一方だ。果たしてそれは正しかったことだろうか?”
”それは……”
 ジュリアスは言葉に詰まった。彼自身、時折そういう疑問を持つことがあったからだ。
”彼は言った。’それならば、さらに強力な病原体を作ればいいのです。我々がリョーコさんからもたらされたウイルスならそれが出来ます。彼女の手によってそのウイルスは最強のウイルスへと進化しました。ヒトだけに感染し発症させ、致死率は90%。理論上では人類を今の十分の一、18世紀以前の数にできます’と”
”本気ですか?”
 ジュリアスはあまりに荒唐無稽な話に半ば唖然としていた。SF小説やマンガではそういう話は珍しくもなかったが、現実にはB兵器の成功率は低い。それは過去カルトが試みて失敗した例からもわかることだった。
”彼は本気だったよ。それは彼自身の呪いでもあるからだ。リョーコが教団にもたらしたのは、ワタカウイルスS株。彼から検出されたものだ。彼の’こども’だよ”
”まさか、今日本でアレックス達が戦っているウイルスが?”
”そういうことだ”
”!!”
 ジュリアスは弾かれた様に立ち上がった。
”なんてことを!!”
”まあ、すわりたまえ。今更じたばたしても仕方がないだろう”
 ジュリアスはしかたなく椅子に座り直した。なんとか平常心を保とうとしたが掌は汗でびっしょりになっていた。半面口の中が乾いていくのがわかった。
”僕は、とんでもないところに来てしまったと……”
 ジュリアスはかろうじて言った。
”そういうことだ。日本では何と言ったかな。そうそう、’like a moth flying into the flame’”
 ジュリアスは下を向いたまま無言でいたが、膝の上で握りしめた両手が微かに震えていた。数分の沈黙の後、ジュリアスは口を開いた。妙に冷静な声だった。
”先生の論文を改めて読んだとき、僕は心のどこかで先生が今回の事件に関わっているのではないかと疑惑が浮かびました。でも、もしそうであってもお会いした時になんとか説得をしようと決めていました。先生、今からでも間に合います。自首して教団の計画を話してください。僕の第二の祖国をこれ以上苦しめないでください”
”もう遅いのだよ。ばらまかれたウイルスはいずれ加速して広がっていく。大陸に渡ってしまえばもう手が付けられなくなる。そしてその日は近いだろう”
”僕はこれまでもウイルスで苦しむ人たちを見てきました。しかし、あのウイルスはけた違いです。徹底的に発症者を苦しめながら殺していきます。日本のような衛生的で医学の進んだ国でさえ手に負えず、次々に患者が死んでいきました。それが貧しい国に渡ったら成す術もないでしょう。お願いです。もう罪のない人たちを苦しめないでください”
 ジュリアスは説得しながら体中に嫌な汗が流れていくのが判った。
”残念だが、人に生まれたことが罪なのだ。儂も君も、な”
”先生….…。あんなに慈悲深かった先生がどうして……”
”儂は慈悲深くなぞない。欲望まみれのタダの爺だ”
”先生……”
”儂は教主に言い遣っていたのだ。君が来たら、我らに加わるよう説得せよと”
”僕にアレックスや日本の友人たちを裏切れと……?”
”そうだ。そしてギルフォード君も仲間にしたいと”
”そんなことが出来るわけ……、…ッ!!”
 ジュリアスは激高して叫ぼうとしたが、不意に体の力が抜けていくのがわかった。ジュリアスはテーブルにしがみつく形になって恩師の方を見た。レーヴェンスクロフトはジュリアスの前に座ったまま無表情で彼の方を見つめていた。
”先生、何を……?”
”ソクラテスの処刑に使った毒のことは知っているね?”
”まさか……”
”儂はウイルスと共に生物毒についても研究していた。件のヘムロック(ドクニンジン)にいくつかの生物毒を調合して作った。儂は君が儂の誘いに激しい拒否を示すことはわかっておったのだ”
”紅茶……ですか”
”そうだ。すまなかったが儂にはこうするしかなかったのだ。せめて眠るようにして逝けるようにと。……許してくれ”
”せん…せ…い……”
 ジュリアスは急激な眠気に襲われて椅子からずり落ち床に倒れた。
(アレックス、すまない。僕は君にまた重荷を増やしてしまうみたいだ。由利子、ごめんよ。どうやら君を慰めてあげられそうにない。サヤ、ありがとう、そして、ごめん。クリス…)
 後悔が溢れ、涙がこぼれた。ブラームスのピアノの音色が遠くなり、ジュリアスはそのまま深い眠りに落ちて行った。
”ジュリアス君”
 レーヴェンスクロフトは椅子から立ち上がると、ゆっくりとジュリアスに歩み寄った。
”儂も、君を憎からず思っていた。儂はもう、すべてに疲れてしまったのだ。本当は世界などどうでもよかった。儂は道連れが欲しかったのだ”
 彼は、床に跪くとジュリアスの上半身を起こし、膝に抱いた。夕方の雲間から光りが漏れ、薄明光線が彼らの周囲に影をおとしていた。
”おお、なんと神々しい! この褐色の肌のキリストは、マリア(母)ではなく、年老いたユダに抱かれるのだ……” 
 それは、禍々しくも美しい狂気のピエタだった。ブラームスの「主題と変調 ニ短調」の音色がひときわ重々しく響き、やがて静かに終わった。動かないままの二人の周囲を天の梯子が静かに照らし、小鳥たちのさえずりが何事もなかったように聞こえ始めた。
 

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4.翻弄 (5)冷たい雨

 日本時間 7月15日午後
 朝方に小康状態になりパラつく程度だった雨が、午後から再び本格的に降り始め、夕方3時を過ぎた頃にはかなりの大降りになっていた。
 甲斐看護師の容体は安定していたが依然意識のないままで、事情聴取のためにやってきた長沼間と武邑は今日は無理と判断したのかすぐに帰っていった。その後入れ替わりに振屋こと古河のマンションの検分に行った帰りの九木と葛西が甲斐の見舞いと事情聴取を兼ねてやって来たが、彼女の意識が早晩では戻らないと告げられ、病室に様子を見に行くだけに止めることにした。
「一般患者の受入れ体制を残していてよかった」
 甲斐の病室から帰り際に高柳が言った。
「うちの看護師が本当にお世話になりました。心から感謝します」
「仕事ですから、お構いなく」
 九木がこともなげに答えた。
「これから県警の方に?」
「古河のことについて報告せねばなりませんからね」
「なにか掴めましたか?」
「いえ、組織につながる目立った情報はありませんでした。生活感のない殺風景な部屋でしたよ」
「そうですか……」
 高柳はそう言いながら無意識に両手を握りしめた。甲斐の件は高柳にも想定外中の想定外だったのだろう。
「私は、看護師がここの病室に入る時は感染した時だと思っていました。なので、そうならないよう万全の処置をしていたつもりでした。しかし、結果はこの様(ザマ)です。一人は感染ですがもう一人は自殺未遂です。しかも2件とも敵の関与があった」
「心中お察ししますよ」
 九木が珍しく声に同情を表して言った。
「私は悔しい。だが、私はここで戦うしかない。だから、お願いします。必ずテロ組織を突き止めてください」
「全力を尽くします。そして首謀者を逮捕します。必ず」
 九木は端的に答え、頷いた。
 高柳と別れたところで、葛西たちは由利子に出会った。葛西が何か言いたげだったのを察知した九木が言った。
「先に車に乗っているから、話をしてくるといい。ただし、10分経って戻らなかったら置いていくぞ」
「すみません、九木さん」
 葛西が言い終わらないうちに九木はさっさと歩いて行った。
「相変わらず不愛想な人やね」
 由利子が笑いながら言った。最初にくらべてだいぶ印象が良くなってきたなと思った。
「葛西君、ご苦労様。甲斐さんのこと、ありがとうね」
 由利子に言われて葛西は頭を掻きながら言った。
「仕事ですから」
 九木と同じ返事をしてしまい、葛西は少しだけ可笑しくなった。由利子がすかさず言った。
「何笑ってんのよ」
「あ、いえ、大したことじゃあ……。それより明日はジュリーが帰ってくるんですよね?」
「そうだけど、どうしたの?」
「飛行機に乗る前に連絡とっておこうと思ったけど、電話に出ないしメールも既読にならないんです」
「そりゃあ、また電源入れ忘れているんじゃないの? 私には早朝かかってきたよ」
「そんなに早く?」
「心配してかけてきてくれたみたい」
「それでも、それから10時間以上経っています」
「大丈夫だよ。だってあちらは今頃夜中なんじゃない? 朝早いから寝てるんだと思うけど」
「まだ起きてる時間くらいにかけたんだけどなあ」
「それより、自爆犯の家に行ってたんでしょ? なんか手掛かりあった?」
「それが、妙に生活感のない奴で……」
「やっぱり」
「捜査途中なのであまり詳しくは言えませんが、奴の本棚にこの前由利子さんが見たカルト教団リストのうちの3教団に関連した本がありました。調査する必要が出てきました」
「名前は?」
「海神(わたつみ)真教・大地母神(だいじぼしん)正教、それに碧珠(へきじゅ)善心教会です」
「そっか。やはり碧珠善心教会が出てきたか」
「やはり?」
「うん。教主が出しゃばってないところや、葛西君が指摘したように、あまりにキレイすぎるところとか、ね」
「なるほど! ところで」葛西がキョロキョロして言った。「アレクと紗弥さんは?」
「ああ、紗弥さんは用があるので大学に一足先に戻って、アレクは高柳先生に呼ばれて河部千夏さんのところに行ったよ。私もそろそろ帰ろうと思って迎えに行くところだったんだ」
「そうですか。おっと、僕もそろそろ行かなきゃ。ではまた」
 時計を見て10分が経ちそうなことに気付いた葛西は、駆け足で去って行った。
 由利子が病室の前に近づくと、ギルフォードが右手を上げ待てのポーズをし、病室に向かって何か言うと、窓を’閉めた’。そして嬉しそうな笑顔で由利子の方へ歩いてきた。
「すみませんね。チナツさんがまだ姿を見せたくないそうで」
「そんなにひどい状態なの?」
「いえ。以前よりだいぶ改善されました。ただ、まだまだ姿を見られたくないとおっしゃって」
「と、言うことは!」
「はい。病状は回復に向かっているそうです。食欲も戻ってきているし、高柳先生が生還第1号患者になるんじゃないかと」
「そうなんだ、アレク! 希望が見えてきたね!」
「ハイ。嬉しいです。ここの皆さんにも力強い希望になると思います」
 2人が喜びを分かち合っているところに、ギルフォードがスタッフステーションの看護師から呼ばれた。
「アレク先生。お電話ですよ」
「あ、ありがとうございます。誰だろう? わざわざここに電話してくるなんて……」
 ギルフォードはぶつぶつ言いながら電話に向かった。
(あー、みんなケータイの電源を切っているからか。何かあったのかな)
 由利子が少し不安そうにギルフォードを見守った。
「もしもし、ギルフォードです」
 ギルフォードが電話に出ると、先方から深呼吸のようなため息のような音が聞こえた。
「もしもし?」
”アレックスか? クリスだ”
”どうしたんだ? そっちはまだ深夜じゃないのか?”
”アレックス、落ち着いて聞いてくれ”
 クリスの今まで聞いたことのない力のない沈んだ声に、ギルフォードは嫌な予感がよぎった。
”何かあったのか?”
”夜10時頃にジュリアスからメールが来た。予約メールだった”
 ギルフォードの心臓が大きくドキンと打ち、足の裏にズンという衝撃が走った。
”内容は’このメールが届いた時は僕に何かあった時だ。この住所に僕はいるだろう。迎えに来てほしい’というものだった。私は一瞬何かの冗談かと思ったが、あいつにそんな悪質な冗談が出来る筈がない。それで急遽通報して警察に現場に向かってもらった”
 ギルフォードは無言だった。ただ、目を見開き、額から冷や汗を流している。その様子に気付いた看護師が心配そうにギルフォードに「大丈夫ですか」と声をかけた。
”場所はレーヴェンスクロフトの屋敷だった。駆けつけた警察が、玄関先にジュリアスの自転車を、テラスでレーヴェンスクロフトと、……ジュリアスの……遺体を発見した”
”嘘だ。悪い冗談はやめてくれ……”
”私は知らせを受けて現場まで車を飛ばした。遺体は間違いなくジュリアスだった。地元の警察に運ばれて、今、私もそこにいる”
”そんな筈はねえ。ジュリーは今飛行機の中で、明日には会えるはずなんだ……”
”私だって信じられない。だけど、これは現実だ”
”嘘だッ! 俺は信じない!”
 ギルフォードが叫び、由利子が驚いて駆け寄った。由利子を見たギルフォードの顔は真っ青で、体が見てわかるほど震えている。
「ユリコ、ジュリーが……」
「ジュリーが、どうしたの!」
 由利子は葛西の言葉を思い出していた。
「ジュリーが……。嘘です。信じません、僕は、ジュリー……」
 ギルフォードは弱弱しく言うと受話器を取り落とし、力なく床に崩れ落ちた。由利子はそれを支えようとしたが、力が足りずに一緒に床に倒れてしまった。しかしすぐに起きてギルフォードに取りすがった。
「しっかりしてアレク! 誰か、誰かお願い!」
「私たちが診ます! 由利子さんはアレク先生の代わりに電話を!」
 看護師たちが駆け寄り、ステーション内では医師を呼び出している。机からぶら下がった受話器からは必死にギルフォードを呼ぶ声がしている。由利子は意を決して受話器をとった。
「Alex! Alex! Say something, Alex!!」
 英語だったので一瞬躊躇したが、由利子はままよと日本語で答えた。
「助手の篠原です。アレクは、ギルフォード先生は、気を失われてしまって……」
「アナタがユリコさんですか?」 かえって来た言語は思いのほか日本語だった。「ワタシはジュリアスの兄でクリスいいマス。アレックスはどうしマシタか」 
「アレクは倒れてしまいました。今看護師さんたちが介抱しています」
「サヤは近くにイマスか?」
「いえ、紗弥さんは一足先に大学の方に帰られて……」
「では、アナタに説明します」
 クリスは由利子に何があったかを説明した。
 説明を聞いている間に三原医師が駆けつけてきて様子を見た後、ストレッチャーにギルフォードを乗せると、連れて行くからというジェスチャーをして数人の看護師と共に去って行った。由利子はそれを心配そうに見守るしかなかった。 
「ジュリー……なんで……?」
 クリスの説明を聞き終え、由利子はつぶやいた。他に言葉がなかった。今朝電話で話して励まされたばかりなのにと信じられなかった。
「わかりません。レーヴェンスクロフトはジュリアスの恩師デシタから、何かアドヴァイスを求めて行ったのだと思います。でも、あのようなメールを残していたというコトハ、何らかのリスクも感じ取っていたのデショウけれど……」
「信じられません。だって、だって私、今朝電話で話したばかりなんです。もうすぐ行くから待ってろって」
 言いながら涙が一筋零(こぼ)れた。しかし、それに反してまったく悲しさがわいてこない。だが、周囲の音は全く聞こえず、周囲がどうなっているかもわからなくなっていた。まるで白い空間に自分と受話器だけが取り残されたようだった。
「ワタシにも何が何だかワカリマセン。何かわかったら、またご連絡シマス。サヤには私から伝えマスので、アレックスをよろしくオネガイシマス」
 クリスはそういうと電話を切った。由利子は受話器を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。一人の看護師がそれに気づいて由利子の肩を軽く叩いた。春野だった。
「篠原さん、しっかりして! 何があったの?」
「ジュリーが、ジュリーが……」
「え? キング先生が?」
「死んだ……って……」
「うそっ。篠原さんってば、悪い冗だ……」
「私だって嘘だって信じたいよ!」
 自分でも思いがけなく怒鳴ってしまい、由利子は戸惑ってあやまった。
「ごめん。春野さんの反応が普通だよね」
「ごめんなさい、あの、私何も聞いてなくて、ただ、篠原さんをアレク先生のところにお連れするように言われて」
「わかった。連れて行って」
 由利子はこんなときこそ自分がしっかりしなければと思い、気丈を装った。しかし、この時すでに二人の心はボロボロになっていた。
 ギルフォードは仮眠室に寝かされていた。由利子は案内され、ギルフォードのベッド横に置かれた椅子に座った。三原が説明した。
「失神は激しい精神的ショックを受けたせいだと思われます。発熱などの異常は見当たりませんでした」
「無理もありません」由利子が小声で言った。「かけがえのないパートナーの突然の死を知らされたのですから」
「キング先生が? どうして? だってもうすぐ日本に来られるって……」
「まだ詳しいことは判らないのです。ただ、恩師に殺されたと……」
「殺された!?」
「しっ。声が大きいです」
「すみません、つい」
「私にも何がなんだか……」
「それで……。ここに寝かせてから、何度もキング先生の名前を呼んで起き上がろうとするので、やむなく鎮静剤を打って休ませたのです」
「そうですか」
「落ち着くまで、しばらくここにいてあげてください」
「はい。ありがとうございます」
 三原が去ると、由利子はギルフォードと二人きりになった。由利子は辛そうな表情のまま眠るギルフォードの涙の痕の残る顔を見てつぶやいた。
「なんで、この人ばかりがこんな辛い目に遭わなくちゃいけないんだろう……」
 由利子はうつむいて両手で膝を掴んだ。体が小刻みに震えたが、もう涙は出なかった。ふと、これは悪い夢なのではないかと思い、目が覚めないかと願ったが、それは儚い願いであり、自分が紛れもない現実にいると思い知らされた。
 しばらくして、由利子は高柳に呼ばれ、スタッフステーションにギルフォードのことを頼むと、センター長室に向かった。高柳は由利子のためにコーヒーを用意して待っていた。高柳は由利子をソファにかけさせると言った。
「三原君に大まかなことは聞いたよ。昨日から大変だったね。君に大きな負担ばかりかけることになってすまない」
 由利子は力なく首を振って言った。
「先生のせいじゃありません」
「負担を増やすようで申し訳ないが、ギルフォード君の件で君がわかっていることだけでも教えてほしいのだが」
「はい」
 由利子はクリスから聞いたことを伝えた。高柳は驚きながらも最後まで聞き終わると言った。
「しかし、キング君が殺されたなんて、私も信じられない。ギルフォード君には自分が死ぬより辛いことだろうな」
「ええ、そう思います」
「しかし、キング君があのレーヴェンスクロフト博士の教え子だったとはな」
「え? ご存知なのですか?」
「ああ。彼は……」
 と、高柳が言いかけたところで内線が入った。
「どうした?」
「センター長、大変です! ギルフォード先生がいなくなりました!」
「なんだって!」 
 それを聞いて由利子が反射的に立ち上がった。
 二人が仮眠室に駆け込むと、ベッドはもぬけの殻になっていた。
「しまった。彼のことを全職員に知らせていなかったのが仇になったか」
「すみません。よく眠っていらっしゃったので、油断しました」
 看護師がおろおろしながら言った。
「駐車場にも車が見当たらないそうです。どうしよう」
「いや、私が篠原さんを呼んだのがまずかったんだ。あんな精神状態で、一体どこに行ったんだ」
 さすがの高柳も心配が隠せないようで、うろたえているのが判った。由利子がハッとして言った。
「私に心当たりがあります。タクシーを呼んでください」
(たぶん、あの場所に行ったんだ)
 由利子は、ジュリアスから紹介された場所のことを思い出していた。
 雨で道は混んでいたが、タクシーの運転手は由利子の顔を見てなにかあったのだと察したのか、抜け道の限りをつくして目的地まで急いでくれた。由利子は運転手に丁寧にお礼を言うと、Q大の裏門でタクシーを降り、傘をさすのももどかしく駆け出した。
 
 ジュリアスに連れられて一度しか行っていないが、道順はしっかり覚えている。由利子は必死で走った。大降りの雨で傘は殆ど役に立たず、由利子はあっという間にずぶぬれになってしまった。裏庭を通り雑木林を駆け抜けた。この前通った時は天気も良く、池には水鳥が遊んでいたが、今は雨を避けてどこかに潜んでいるのだろう。舗装されていない道はぬかるみ、レインブーツはすぐに泥だらけになった。林を抜けると目標の小高い丘が見えてきた。由利子は一瞬立ち止まったが、意を決して丘を駆け上がった。
(居た。やっぱりここやった)
 そこには欅の横にぼんやりと座るギルフォードの後姿があった。由利子はそっと近づくとしゃがんで傘をさしかけて言った。
「風邪を引くよ」
 ギルフォードはゆっくりと振り向くと、寂しさと苦しさの入り混じった泣きそうな表情で言った。
「僕に関わると死にますよ」
「アレク!」
 由利子は叱るような口調で強く言った。するとギルフォードは辛そうに笑った。
「ごめん。冗談ですよ」
「言ったはずよ」由利子が今度は声を和らげて言った。
「私は死なないって。何があろうとも! だから、そんな悲しいこと言わないで」
「ユリコ、僕は、僕は……」
 ギルフォードは濡れそぼった子犬のような顔で言った。
「苦しいんです。今にも砕けそうなんです。どうしたらいいかわからないんです」
 気が付くと、由利子はギルフォードを抱きしめていた。
「アレク、私もだよ。悲しいね。辛いよね」
「ユリコ……」
 ギルフォードは由利子にしがみつくと、堰を切ったように泣き出した。由利子の手から傘が滑り落ち、2・3メートルほど転がって止まった。
 幸せな思い出の場所は不幸が起きると悲しい場所に変わる。由利子がジュリアスとここに来た時は、穏やかな天気で景色がキラキラと輝き、小鳥がさえずっていた。もうジュリアスはいない。今は冷たい雨が降り、景色はまるで墨絵のように感じる。由利子は黙ったまま、ギルフォードを抱き優しくその背を撫でた。
 雨が由利子の顔を伝って落ちていく。その水に涙が混じっているのか、ただの雨水なのか、由利子にはわからなかった。

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