4.翻弄 (1)分岐点
由利子は、なんとか起きていつものジョギングに出かけた。実際とてもそんな気にはならなかったのだが、いつも通りの生活をすることが日常を取り戻すための一歩だと由利子は思ったのだ。それに、何かしら体を動かしていないと心が奈落に落ちてしまいそうだった。自分に負けてチームから外されること、それだけは避けねばならない。
昨日ずいぶん泣いたのとほとんど眠れなかったことで頭の芯がしびれたようだった。起きるのもかなり辛かったが、体と心に鞭打って起き上がった。
外は雨の余韻が残っていて時折霧雨が降っていた。それでも景色はいつもの通りのどかで、時折出会う犬を散歩させる人や同じくジョギングやウォーキングをする人もいつも通りで、昨日大惨事があったことがまるで夢のように感じられた。いや、むしろ今が夢のような気がした。昨日のショックと睡眠不足で離人症のような状態になっているのかもしれない。
そんな状態で走っていると、後ろから声がした。
「篠原さん、おはようございます!」
声の方を見ると、武邑が駆け寄ってきた。
「あ、おはようございます」
由利子は挨拶を返したが、足を止めずジョギングを続けた。それは、煩わしいと思ったと共に、昨日と同じようなシチュエーションでの気持ちの落差に戸惑ったせいもあった。
「今日はそっと護衛するつもりでしたが…、すみません。昨日は大変でしたね。なんかふらふらしてますが大丈夫ですか?」
「はあ、どうも。なんとか大丈夫です。ありがとうございます」
と、由利子は苦笑いして言った。いつも通り走っていたつもりだったが、武邑が心配して声をかけてくるほどふらついていたらしい。
「僕も本当なら事故現場近くにいたはずなのですが、長沼間と共に別件で呼び出されたんで難を逃れました。富田林さんたちは気の毒でした」
「え? ふっけ、いや、富田林さんと増田さんが巻き込まれたんですか!? まさか…?」
由利子は驚いて立ち止まり、振り返りながら言ったが、まさかの後の言葉につまった。
「い、いえ」武邑は由利子の不安を払拭するようにすぐに答えた。「直接被害には遭わなかったのですけどね、近くにいたために真っ先に現場に駆けつけて救助に当たったのですが、そのせいで防護服を着ていなかったから…」
「では、感対センターに隔離されているのですね」
由利子は少し安堵した表情で言った。しかし、ウイルスに曝露された可能性がある限りは安心できないことを由利子は知っており、その表情はすぐにまた曇った。
「大丈夫ですよ。彼らはそう簡単に負けません。きっと無事に退院出来ますって」
と、武邑は由利子を力づけるように言った。
「そうですね。きっと大丈夫ですよね」
由利子はそういうと再び走り始めた。武邑は少し間をおいてその後に続いた。由利子は後ろの様子を見たが、ありがたいというより煩わしさが勝っているのを実感した。いつまでこんなことが続くのだろう。由利子は無意識にため息をついていた。すると、武邑がまた追いついてきて斜め後ろまで来て言った。
「ところで、朝のニュースは見られました?」
「各流れの山が行進しているのは見たけど、寝落ちしてしまって起きたら猫がリモコン踏んだみたいでテレビが消えてたんで…」
「おや、猫ちゃんが?」
「時々踏んで消していくので困ります」
「エコで良いじゃありませんか」
「逆に点けていくときもあります。会社から帰ったら消したはずのテレビの音がしてたことが何度か」
「それは困りますね。エコじゃないです」
「そうですよね…。では、そろそろ時間なので」
由利子はそういうと笑顔で会釈して、ジョギングの速度を上げた。なんとなく会話がちぐはぐなような気がした。正直、今、エコ何てどうでもいい。少ししてちらりと振り向くと、武邑の姿がかなり遠のいて見えた。由利子はほっとしている自分に気が付いていた。葛西や長沼間と違って安心できない何かを感じ取っていた。
部屋に帰ってテレビをつけると、引き続き昨日のH駅自爆事件のことでもちきりだった。チャンネルを替えたが、どの局も特番を組んで、芸能人や有識者の意見と似たような映像を垂れ流していた。由利子は無性に腹が立ってきて、テレビを消してしまった。それで、由利子が犯人の動画を確認するのはもう少し後のこととなる。
「ははっ、やってるな」
長兄こと碧珠善心教会教主白王翔悟は、朝の礼拝を終え執務室に帰ってすぐにテレビをつけ、愉快そうにそう言うと、椅子に腰かけた。そのまま足を組んで椅子の背にもたれかかった状態で組んだ手を膝の上に乗せ、視聴を続けた。若い女性を連れ、教主と共に入室した月辺洋三が机の斜め前に立ちともにニュースを見ながら言った。
「降屋は見事にお役目を果たしましたな」
「そうですね。彼は今までも碧珠のためにいろいろ働いてくださいました」
「特に保育園の空調の件は鮮やかでしたからな」
「今思えばあれがプレリュードとなりました。そして今回の降屋の行為はいずれ衆生を目覚めさせる布石になるのです。解脱した彼はもう一次元上に転生できましょう」
「降屋も一時迷いがあったようですが、振り切ることが出来たようで、安心いたしました。しかも長兄さまが暗示で指名した2人のうちの一人、黒岩るい子を狙うことにも成功したのですから、あっぱれな最後でした」
「そうですね。このどちらかを見つけた場合、優先的にターゲットにするよう暗示を与えておりましたから…」
そう言いながら教主は机の抽斗から写真を2枚取り出すと机に並べ、笑みを浮かべながら眺めた。1枚はネットから入手したらしい美波美咲のプロフィール写真で、もう一枚は居酒屋の前らしき場所で笑っている黒岩るい子の写真だった。遠くから撮った写真を彼女だけ拡大したと思われる写真で隣に背の高い男性らしき姿が一部確認できた。教主は黒岩の写真のみを手に取ると、ドアの近くに控えていた連れの女性を手招きして言った。
「これをそこのシュレッダーにかけてください」
「承知いたしました」
女性は教主から写真を受け取ると、躊躇なくシュレッダーに入れた。写真はゆっくりとシュレッダーに消えていった。女性は表情も変えずにそれを見ていた。その美しくも冷徹な眼は、そこはかとなく月辺に似ていた。
写真がすっかり見えなくなると、教主は満足そうに言った。
「これでまた一人、彼の元からいなくなりました」
「しかし、長兄さま。黒岩のような彼との接点が1度だけの者よりあの忌々しい篠原由利子を消した方が今後のためにもなったのでは?」
「たった一度親しく話しただけで消されたと知った時彼はどう思うでしょう。また、黒岩の死は篠原にとって計り知れないダメージとなり彼女の強靭な精神を蝕んでいくでしょう。心の弱った人間は取り込みやすい。彼女がこちらに堕ちればいろいろ使い道があります。消すのは惜しい存在です」
「しかし、彼女は危険です。早々に消した方が…」
「月辺、私の言っていることが理解できませんか?」
「失礼いたしました。私ごときが口出しすることではありませんでした」
月辺は一歩下がると恭しく頭を下げて言った。
「すべては碧珠の御為に」
教主はそれを見て満足げに頷いた。
「さあ、月辺、それからお嬢さんも。立ったままでいないで、どうぞそこのソファにお座りください。しばし共に我らが降屋…いえ、古河勇君が打ち上げた新章の幕開けたる花火の成果を見ようではありませんか」
「はい。ありがたくそうさせていただきます」
月辺はそういうともう一度深く礼をし、女性もそれに倣って優雅に一礼した。そして二人はソファに並んで座ると80インチの画面に次々と映し出される特集映像に目を遣った。
真樹村極美はシェルターに帰ってから、カーテンも開けず電気もつけず暗い部屋の隅で、毛布にくるまりうずくまってテレビを見ていた。
早朝、自爆現場の駅近くに様子を見に行った時、たまたまスマートフォンで見たニュースで犯人と思しき男の映像を見て、危うく落としそうになるほど驚いた。それは降屋にとても似ていたからだ。しかし、極美は認めたくなかった。その犯人と称されていた『古河』なる男が確かに降屋なのか、テレビ画面で確認しようと思った。似ているだけの他人だと。
しかし、幾度となく再生される犯人と称される人物の映像は、やや不鮮明ながら極美には降屋だと認めざるを得なかった。極美は混乱してベッドに倒れ込んだ。何が何だかわからなかった。完成させた覚えがないのに編集部に送られていた自分名義の記事。信頼していた降屋に対する疑惑とそれを確認する前に起きた降屋本人の自爆事件。さらに公表された名前や経歴がまったく違っていたこと。何から何まで混乱することだらけだった。しかし、それらの事からひも解くと、極美には一つの結論にたどり着くことが出来る筈だった。だが、極美はそのように考えようとはしなかった。自分がテロリストの片棒を担いでいたなどということは認めることは出来なかった。
思い余った極美は震える手でスマートフォンを手に取り、以前教わった教主へのホットラインへ電話した。しかし、それはつながらず留守録になってしまった。仕方なく極美は至急お電話くださいというメッセージを入れて電話を切った。その途端、スマートフォンが激しく震え、極美は驚いて電話を取り落しそうになった。相手を確認すると、教主ではなくデスクの生嶋からだった。極美は急いで電話に出た。
「もしもーし」
電話からは聞き慣れただみ声が聞こえてきた。極美は何故かほっとした自分に気が付いて少し驚いた。いい意味でも悪い意味でも判りやすい男だった。
「はいっ、極美です。おはようございます!」
「おはようさん。昨日今日で何か特ダネはあったのか?」
「い、いえ、今のところ、現場にも近づけないし…」
「なんだって!? バッキャロー!!!! おまえ、せっかく現場の近くに居ながら何をやっとった! 観光気分なら帰ってこいッ! 取材費は打ち切りだッ!」
「ま、待ってください」
極美は驚いて言った。軍資金を切られてはたまったものではない。極美は数週間前の窮状を思い出してぞっとした。
「特ダネになりそうなネタならあるんです。ただ、確信が持てないのでもう少し待っていただかないと」
「あるんだな」
「もちろんです」
生嶋の念押しに極美は咄嗟に答えてしまった。ついさっき生嶋の声を聞いた時なんでほっとしたんだろうと思い情けなくなった。
「そーかそーか。すまんな、つい新聞社に居た時の気持ちになって焦っちまった。自爆事件で情勢が変わったんで次号掲載予定の記事は、申し訳ないが没になったんだ。それで、来週掲載に間に合うよう急遽、今の状況に沿った記事に書き直してくれ」
「承知しました! 近いうちに必ず!」
「頼んだぞ!」
生嶋は、言いたいことを言うとさっさと電話を切った。
「ああ言ったけど、どうしよう…。降屋さんの写真なら何枚かあるけど、まさか出すわけにはいかないし…。頼れる人はもういないし、もう、本当に何が何だかわからない。怖い、怖いよ…」
極美は自分の置かれた状況が今どんなに危ういかということが、漠然とではあるがわかってきた。極美は毛布を引きずって這うようにベッドに上がった。そのまま毛布をかぶり、震えながら丸くなった。不安と恐怖でそうせずにはいられなかった。
由利子たちは朝の合同会議を終え、感対センターに向かっていた。安置されている黒岩の遺体に面会にくる娘に会うためだった。ウイルスに汚染されたかもしれない遺体は検死が終わって火葬が終わるまで返すことが出来ないため、黒岩の遺体は感対センター保管という状況にならざるを得ないからだ。
昨日の今日で、何となく空気が重く雑談もし辛い雰囲気だったが、それに我慢が出来なくなったのか運転中のギルフォードが言った。
「しかし、ひどい会議でしたね。縦割り社会の悪い面が浮き彫りにされたようでした」
「そうですわね」
と紗弥が答えた。
「各々が勝手な言い分を通したがって譲らないし、知事はつるし上げ同然で責められても謝るばかりで打ちひしがれているし、その分あの厚労省のイヤミ男が幅を利かせていましたわ」
紗弥が珍しく多弁になっていた。ギルフォードは森の内の姿を思い出したのかため息交じりで言った。
「知事のあんな姿は見たくないです。早く浮上して欲しいですが無理でしょうかねえ」
「大丈夫だよ」
そう言ったのは、今まで黙ってうつむいた由利子だった。
「きっと立ち直るよ。だって、モリッチーの眼は死んでなかったから。私、知事と目があったんだ。その時力強く頷いてくれた。頑張ろうって」
「そうですか。でも、ユリコ。本当にあなたはルイコさんのお嬢さんに会うのですか? 大丈夫ですか?」
「だって、黒岩さんと最後に…最後に話したのは私だから、だから…ちゃんと伝えなくちゃ…」
「時を置いて手紙に書いてもいいと思いますよ」
「だめだよ。時が経ったらどうなるかわからないよ。急に住所が変わるかも知れないし、私たちだっていつ何が起きるかわからない」
「ユリコ」
「黒岩さんだって、こんなことになるなんて誰が想像できた?」
「確かにそうですが…」
「心配しないで。それに、肩の荷を背負ったままなのはもっと辛いんだ」
由利子はそういうとギュッと下唇を噛んだ。
長沼間は、武邑と共に公安第二課課長の大野に呼ばれて古巣に戻っていた。
「長沼間君。昨日N浦崎に上がったエビスさんだが、検視結果が上がってきた。それによって身元も判明したよ。兼ねてより我々がマークしていた仲川庄吉に間違いないことがわかった」
「昨日我々を呼びつけて確認させたアレですか。海産物にはごちそうだったようですが」
と、長沼間が思い出してゲンナリしながら言った。「明らかに沈められた体(てい)のエビスでしたが、夏場でしかもかなり太った男だったので思いの外早く浮いてきたんでしょうな。それにしても身元判明が早かったですね」
「君の確認があったし、歯科のカルテも入手済みだったからな。それにヤツには詐欺の前科もあった」
「タワーマンションの馬鹿共に例の赤いドラッグ…っと、なんて名だっけ?」
長沼間に聞かれて武邑が答えた。
「ヴァンピレラ・シード、通称Vシードです」
「そいつを売りつけた中目黒大吉と仲川が同一人物なのは我々の聞き込みで判明しています。仲川が今回のテロを行っている組織の一員であったとして、何の目的でばら撒いていたのでしょう」
「Vシードの成分分析から、旧ソ連軍が開発していたアッパー系の強力な麻薬クラースヌイヴァムピラに酷似しているらしい。赤い吸血鬼という意味らしいが、量にもよるようだが、使用するとソフトに言えば色情狂のようになるらしい」
「ソフトでそれですか」
「副作用も強く、常習者は無気力になり思考力を奪われる。さらに麻薬供給者や性交相手の意のままに行動するようになる。そもそもは冷戦時、抵抗勢力の無力化の目的で作られ、実際に使用された事実もあるようだが、その特性を利用して女性をスパイにするためなどにも使用されたようだ。ソ連版『くノ一(※)の術』だな」
「まさにヴァンパイアに血を吸われた状態じゃあないですか。そんなものを売りつけるなんて何てやつだ!」
と、武邑が憤慨して言った。長沼間はそれを制して言った。
「そんな冷戦時の遺物を、なんでリニューアルしてばら撒く意味があるのでしょう…」
「Vシードは覚醒剤の数倍精神に及ぼす効果があり常習性も強く、使い方によっては数回の使用で廃人になる可能性があるそうだ。そんなものが危険ドラッグ、いわゆる脱法ハーブなどと称して水面下で若者の間などに流通していくと、とんでもないことになる。この国は亡びるぞ。しかも、例の馬鹿者共のケースからサイキウイルスの劇症化を促進する可能性もでてきた」
「くそっ、連中はウイルスと薬物の両方を使って本気でこの国を滅ぼすつもりか…」
「しかし、それを担っていたらしい仲川は消された…。何故だと思うかね」
「タワーマンションの件でVシードが表沙汰になったから…ですか」
「おそらくな。もっと水面下で流通させるつもりだったのかもしれん」
「人を操れるなら、昨日の自爆犯もVシードの常習者だったのでしょうか。感染もかなり進んでいたようですが」
「それは何とも言えん。検死では薬物の反応はなかったようだが。…ところで武邑」
突然大野に呼ばれた武邑は驚いて返事をした。
「はいっ」
「ずいぶんと大人しいが、なにか気にかかる事でもあるのか?」
「すみません。敵のやり方に怒りがこみあげて言葉がありませんでした」
武邑はいかにも憤慨を隠せないという表情をして答えた。大野はそんな武邑を見据え厳しい表情で言った。
「それならその気持ちを忘れるな。我々はいち早く情報を得ていたにも関わらず、後手続きだ。とうとう自爆と言う暴挙まで許してしまった。我々が背水の陣に居ることを肝に銘じておけ」
「はっ!」
武邑は姿勢を正して返事をした。長沼間はそれをちらりと横目で見ると、
「Vシードの出自からしてやはりロシアとの関係が濃厚になりましたな」
「あの国はソ連崩壊のあと武器や大量破壊兵器さらには薬物と流出が続いているからな。そっちは別働隊が調査中だ。君たちは引き続き結城の行方と古河の身辺を洗ってくれ。特に古河の方はなにか引っかかるかもしれん」
「わかりました。私もこれ以上後手後手でいることは我慢できませんから。多少強引な手を使ってでも手掛かりをつかんでやります」
長沼間はそういうと一礼して踵を返した。
「行くぞ、武邑」
「はい! では、失礼します」
武邑も一礼し足早でさっさと出て行った長沼間の後を追った。
「長沼間さん、待ってくださいよ」
武邑は駆け足で長沼間に追いつくと少し恨めしげに言った。
「まったくもう、何で歩いているだけなのにそんなに早いんですか」
しかし、長沼間はまったく意に介さず足を緩めなかった。彼は忌々しそうな表情でぶつぶつ言っていた。
「くそっ、こっちだって好きで後手に回っているんじゃねえっ。やはりなにか見えない手が妨害している…」
「え?」
「すまん、戯言だ。忘れてくれ」
その後、二人は特に会話もなく駐車場に降り、車に乗った。長沼間は運転席にドカッと座ると背もたれに寄り掛かって目をつむりながら武邑に訊いた。
「ところで、今朝は篠原の護衛には行ったのか?」
「はい。昨日の事件の後だったんでどうかと思いましたが、行ってみました。彼女はいつもの時間にジョギングしていました。少し辛そうではありましたが大丈夫そうでしたよ」
「そうか。そう見えたか」
長沼間はそういうと、体を起しシートベルトをしめた。
「さてと、先ずは新たな手掛かりの古河の方からだ」
「はい。彼に関する資料はタブレットからアクセスできます」
「じゃあ、取り敢えず奴の棲家に行くぞ」
長沼間は勢いよくエンジンをかけると車を発進させた。
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