3.暗転 (2)ロスト・コントロール
黒岩るい子は、ホテルを引き上げた後H駅のロッカーに荷物を預け、身軽になると颯爽と歩き出した。
こちらのアパートを引き払い、お墓も処分し、住民票も長野に移した。次回はいつ帰ってこれるだろう。いや、もう「帰る」ははなく、「行く」になるんだな。そして、帰るのは長野だ。そう思うと黒岩は寂しさはもちろんだがそれ以上に感慨深かった。
夫にも両親にも死に別れ、他に身寄りのない黒岩にとって娘だけが家族と思って頑張っていたが、退職を余儀なくされてどんづまった挙句、止む無く兼ねてからあった夫の両親からの同居の申し入れを受け入れた。しかし、不安ながら実際に暮らしてみると存外上手くいきそうで、黒岩は長野で暮らしていくことを決めたのだった。
夫の両親は、まず、息子が死んだ時黒岩に辛い言葉を浴びせたことを謝ってくれた。一人息子故にそれを失った辛さや悲しみをぶつけてしまった。ずっと後悔していたと姑が言った。長年のわだかまりが解け、黒岩も長い間疎遠だったことをわびた。最初、他人行儀全開だった娘も徐々に新しい家族である祖父母に慣れていった。長野と九州ではいろいろ習慣や文化が違うところもあるし特に方言に戸惑ったが、ギルフォードの言うとおり、住めば都なのだろう。問題は夏コミだったが、まあ、なんとかなるだろうなどど黒岩は呑気に考えていた。
(さてっと、来年は来れるかどうかわからないなら、飾り山でも見ておこうか。どうせ新幹線の時間は午後4時だし、待ち合わせ時間は3時だからお土産はその前くらいに買うことにしても、時間は十分すぎるくらいあるよね)
黒岩が帰りの時間をギリギリ夕方にしたのは、次回いつ故郷を訪れることが出来るかどうかわからないと思ったからかもしれない。それで彼女は出発までの長い時間をつぶす計画をたて、先ずはK商店街の飾り山を見に行くことにした。
(ついでに名物のクソ甘いぜんざいを買って、甘党のお義母さんのお土産にしよう)
黒岩はそう決めると駅を出て商店街方面に向かった。
降屋は車でT神の街を流していた。
気分は最悪だった。熱は一時40度近くまで上がっていた。しかし、数時間前に遥音医師が病室に現れ痛み止めを打ってくれたため、頭痛や体の節々の痛みは軽減されていた。しかしそのせいか、少し頭の芯がぼうっとしていた。その反面、妙な気分の高揚があった。遥音医師は、病状が進むと普通の鎮痛剤では効かなくなるほどの痛みが出るといい、その時に飲むようモルヒネ系の服用薬を置いて行った。ただし、これは緊急用だから、もし飲んだら必ずナースコールで誰かを呼ぶようにと言い残し去って行った。
その後、降屋は月辺の言ったことを実現すべきかどうかまだ迷っていた。遥音の言ったことが本当なら、この後に訪れる痛みは想像を絶するものだろう。降屋は恐怖した。それならいっそ…。降屋はむくっと起き上がり、着替えると月辺から渡されたバッグを持って病室を出た。部屋を出る間際に、もらった鎮痛剤を無造作にポケットに入れた。
拍子抜けするほど簡単に、降屋はシェルター内地下の衣装施設を出ることが出来た。受付の女性も出口の警備員もにこやかに「退院おめでとうございます」と見送ってくれた。
(行けと言う月辺参謀の指示か)
降屋は悟り、ついに迷いを捨てたのだった。
(うん? あれは!)
降屋は歩道側を見て驚いた。若い女が4人の中高生らしい男女を連れて歩いていたのだ。女は髪をひっつめて束ねて帽子を被り、化粧っけのない顔に太い黒縁のメガネをかけており、「営業中」とは随分雰囲気が違っているが、降屋の目はごまかされなかった。
(美波美咲だ。もう解放されていたのか。それとあのガキ共は、秋山美千代が自滅した現場にいた奴らじゃないか。美波め、とうとうそこまで嗅ぎつけたか) 降屋は思った。(あの女は危険だ。ガキ共諸共葬り去るに値する)
降屋は彼女らの後を追おうとドアに手をかけた。
美波美咲はタミヤマリーグの少年たち4人とO線F駅で正午過ぎに待ち合わせ、近くの和食店に向かっていたのだった。
美波は話の内容が内容だけに人に聞かれるリスクを最小にするために個室を予約していた。部屋に入ると、美波と彩夏が入口側の席に座り、反対側の席に少年3人が座った。涼しい室内に入って落ち着いたのか、彩夏がくすくす笑って美波に言った。
「ミナミサ、それ、変装? めっちゃダサダサじゃん。西原君に言われるまで誰かわからなかったし」
「悪かったね。メガネとキャップ以外は普段の服装。窮屈なスーツにヒールはテレビ仕様なの。取材時はもっと身軽だし、あんな窮屈なカッコでプライベートを過ごしたくないからね」
「でも、黒キャップにブスメガネでユ○クロの無地Tにストレートジーンズとスニーカーで、その上ほぼすっぴんだなんて、どこのイモ女子かと思ったわ」
と、彩夏が意地悪そうに言うと、例によって良夫がつっかかった。
「うるさいよ。人のカッコなんてどうでもよかろーもん。君のカッコなんてほとんどゴスやん。もっと中坊らしい服着ろよな」
「なによ、アンタに指図される筋合いはないわよ。あんたこそ、何、白シャツにダメージデニムで決めてんのよ。ミナミサに会うからってお洒落してんじゃないわよ」
「あー、言ったな! それを言うなら田村君はなんだよ。思いっきりストリート系で決めとおやん」
勝太は思いがけず自分に火の粉が飛んできて豆鉄砲を食らったような顔をしたあと、目をきょろきょろさせた。祐一はまたかと言った顔で苦笑いしている。そんな祐一をチラ見して勝太が言った。
「あの、一人だけ制服着てる西原君は…」
「西原君はそれでいいの!」
二人が異口同音に言ったので、勝太はまた首をすくめた。ミナミサもとい美波はそんな中坊の攻防を無視して言った
「みんな、飲み物の注文決まった? 食事はおすすめランチ頼んでるから。今日は私の奢りだから遠慮しないでね!」
「ありがとうございます。オレは烏龍茶にします」
「あざっす、ぼ、ぼくはコーラで」
祐一と勝太がすぐに答えたので、件の二人は慌ててメニューを見た。美波はそれを見ながら思った。
(3人ともそれなりに似合って可愛いやん。でも、西原君は背が高いし制服でも高校生みたいだから、私、駅で会った時一瞬高校生に引率された中学生のグループかと思った。でもこれ言ったらまたもめるだろーな。この二人、いわゆるツンデレなんだろうけど、めんどくさいけど面白いな、中坊)
そう思ったら、自分の中学生時代を思い出して、懐かしくもほろ苦い気持ちになった。
黒岩は、K商店街付近の飾り山を順繰りに見ながら、気ままに歩き、それが意外と楽しいことに気付いた。
(やっぱり娘と来ればよかったかなあ。追い山見られなくても走る山笠はいくらでも見ることが出来たし、あの子も見たがってたし。何よりあの子はアレク様に会いたがってたし)
黒岩は昨日娘に電話した時のことを思い出していた。しかし、状況を考えたら連れてこない選択が最良だったんだと改めて思いなおした。
(さぁて、駅に帰るとするか。ここからだと歩いても食事してお土産買う時間は十分にあるな)
黒岩は時計を確認し、H駅に向かって足早に歩き始めた。
駅に着くと、さっそく数年前に新しく出来た食堂街に向かった。一時を回ったとはいえ、日曜だけあってまだまだどの店もけっこう待ち客がいた。黒岩は出来るだけ待ち客の少なそうな店を探して並んだ。若干お高いが、時間にあまり余裕がないのでそれは仕方あるまい。
並んで待つ間、黒岩は、ふと九州新幹線全線開通時の事を思い出した。この駅で行われる筈だったオープニングセレモニーの前日、あの東日本大震災が起きたのだ。そのためにすべてのセレモニーが中止された。誰もが打ちのめされていた。あの時は、故郷を捨てて別天地に逃げようとする一部の人たちを、なんて心無い連中だろうと思っていた。しかし、今自分はその人たちと同じようなことをしているのではないか。職を失い生活の道が絶たれたとはいえ、自分は結果的に故郷から逃げようとしている。そう考えると、一緒に並んで楽しそうに会話している人たちに申し訳ないような気がした。
「それで、秋山君のお母さんからあなたたちを守ったのが、亡くなられた多美山刑事だったのね」
美波は祐一の話が終わると、納得したように言った。
「ある程度のことは調べてたけど、当事者から聞くとまた印象がずいぶんと違うねえ。それで、君たちの作ったリーグ名がタミヤマリーグなわけね。命名者は西原君?」
「わたしです!」
と、彩夏が間髪入れずに言った。すると例によって良夫が口を挟んだ。
「相変わらず自己主張の強い女だな、君は」
「なによ。女が自己主張しちゃいけないっていうの」
「はいはい、君たち、いちいち突っかからないの。その度に話が止まるでしょ」
とうとう美波が注意した。しかし、二人が同時にしおらしく「すみません」と言ったので、美波はとうとう笑い出した。
「君たち、もっと素直になりなよ。ほんとは嫌いじゃないんでしょ、お互いに」
「ちがいます、こんなやつ!」
二人はまた同時に否定し、「ふん!」と言って顔を逸らした。美波はまだクスクス笑いながら言った。
「まあいいわ。わかったから、あまり話の邪魔はしないでちょーだい」
「はい」
「気をつけます」
二人が妙に神妙な様子で言った。その時、部屋の外でガチャーンという大きな音がした。
「な、何?」
5人は驚いて音のする方向を見た。
「あーびっくりした」
「なんなのよ、騒々しい」
「なにかあったっちゃないと?」
他の部屋もざわつき始めた。美波は戸を開けて通路を見、近くにいた仲居に訊いた。
「何事です?」
「いえね」
仲居の女性は申し訳なさそうな笑顔で言った。
「バイトの子が食器を下げる途中に手を滑らせて落っことしちゃったんですよ。お騒がせして申し訳ありません。ちょっとおっちょこちょいな子でして」
彼女はそう言うと、おほほと笑って去って行った。
「だってさ。じゃ、続きを始めよっか。あ、その前に休憩でデザートにしようか」
「ありがとうございまーす」
こんどは4人が異口同音に答えた。
その頃、降屋はH駅にいた。いったん美波たちの後を追おうと考えたが、道路のど真ん中にいることに気付き駐車場所を考えていたら、彼らの姿を見逃してしまったのだった。それで、場所を考え直し、人の出入りの多い玄関口の一つ、H駅を選んだ。あちこちにサーモグラフィのある空港を避けての判断だった。その頃には降屋は赤視も始まっていた。遥音医師の言った痛みに襲われる前に、降屋は手洗いに入り鎮痛剤を飲んだ。
食事を終えた黒岩は、土産も買い終えつつあった。あと、娘の欲しがっていた新発売のスイーツを買うだけだ。
(えっと、めんたいチーズクリームパイを売ってるお店はっと)
黒岩がお目当ての店を探していると、不審な男の姿が目に付いた。この暑いのに長そでのジャケットを着て、ミリタリーキャップを目深にかぶった上に濃いサングラスをかけ、大きなマスクで顔半分を覆っており、じっと飾り山を見ていた。黒岩は変な人だなとと思ったが気にも留めずにデパートの方に向かった。
由利子はギルフォードに迎えられて、彼の車で紗弥と共にH駅に向かっていた。
「気になってたんですが、午後4時の新幹線って、行き先は長野でしょ、間に合うんですか?」
と、ギルフォードが心配そうに言った。由利子は彼の疑問に答えた。
「大丈夫みたいよ。名古屋まで新幹線に乗って、そこから長野行の特急が出るみたいなの。6時間半くらいかかるらしいけど、それが一番安くて乗り換えも少ないルートみたいよ」
「そうなんですの。やっぱりそれなりにかかるのですわね」
「まあね。飛行機に乗っても乗り換えで最短5時間はかかるみたい」
そんな他愛もない話をしていると、黒岩から電話が入った。
「もしもし、由利子です。今噂してたんですよ。そっちに向かって…」
呑気な由利子の声に反して、黒岩の声はいつになく緊張していた。
「篠原さん、H駅にあの似顔絵の男らしい奴がいる」
「え?」
「怪しい男がいるって思っとったらさっき、うっかりそいつとぶつかりかけて避けたら、そいつのかけていたグラサンが外れたんだ。その時見てしまったとよ。しかもそいつ、間違いなく、発症しとお」
「そんな。ありえない。あっちゃだめだ、そんなこと」
由利子は黒岩が何を言い出したか咄嗟に理解出来なかった。
「篠原さん、しっかりして。間違いないのよ!」
「大丈夫よ。黒岩さん、そいつに気付かれなかった?」
「何食わぬ顔で、スミマセンって言って自然に歩いて離れたつもり」
「ごめん。疑う訳じゃないけど、発症は確実なの?」
「そう言われると、自信なくなった。一瞬だったし。何ならもう一度確認して…」
「だめ! 危険だから、出来るだけそこから離れて」
由利子の緊迫した話しぶりに、ギルフォードが心配げに聞いてきた。
「ユリコ、どうしました?」
「黒岩さんが、H駅に似顔絵の男がいるって」
「それって、ともろうとかいうのにウイルスを感染させた男ですの?」
運転中の紗弥も聞いてきた。
「そうみたい。しかも、発症してるって」
由利子たちの脳裏に、F駅で発症者が放血して死んだ事件が浮かんだ。
「アレク、どうしたらいい? 場所が場所だけに、下手したらパニックになるよ! ましてや間違いだったとしたら」
「それでも、そういう情報があれば、通報して対処せねばならないでしょう。クロイワさんにそいつに気付かれないよう警察に電話するように言ってください。僕も今すぐキョウ…マツキ警視正に電話します」
「わかった。黒岩さん、聞こえる?」
「し、篠原さん」
黒岩の声は震えていた。
「気付かれてたみたい。こっちに近づいてきた」
「逃げて! 逃げて、黒岩さん」
「だめ! 私が逃げたら他の人に被害が広がる! どうしたら…」
「黒岩さん!」
電話の向こうで、黒岩の荒い息遣いと、周囲のざわめきが聞こえた。うきうきとした、未来を疑わない声に満ち溢れている。その向こうで、由利子は彼女を心底震え上がらせるような声を聞いた。
「しのはら? 確か、アンタ、しのはらとかいってたよな。しのはらゆりこか?電話の先はそいつか?」
「え?」
「おれ、唇読めるんだ。発症とかも言ってただろ? あんた、警察の犬か?」
「ち、ちがいます」
黒岩の声は上ずり、恐怖で今にも息が止まりそうになっていた。降屋は既にサングラスとマスクをむしり取っており、発症した顔を目の当たりにしていたのだ。
「逃げて、黒岩さん」
由利子は泣きそうになりながら叫んだ。
「ユリコ、キョウに連絡付きました。今すぐに部隊を向かわせるそうです!」
「とにかく今はそいつから逃げて! 黒岩さん、お願い!!」
「篠原さん、娘に! ごめんね、愛しているよ。ずっと見守って…」
その声を最後に一瞬衝撃音がして電話が途絶えた。
「黒岩さん? 黒岩さん! 黒岩さん!!」
由利子は切れた電話に呼びかけ、通じないのを理解すると、再度電話をかけた。
「もしもし、黒岩さん、何が…」
「この電話は電波の届かないところに…」
由利子はすぐに切ってからもう一度電話かけたが応答は同じだった。由利子が三度(みたび)電話しようとをしようとした時、ギルフォードがその手を押え首を横に振った。
「いやっ! 黒岩さんが、黒岩さんが…」
「ユリコ、落ち着きなさい! 紗弥さん、急いでください」
「急いでますわ!」
紗弥が言った。
「でも、どんどん渋滞していくみたいで、これが限界ですの!」
「黒岩さ…」
由利子は呆然として電話を手から落とした。そして頭を両手で押さえ否定するように頭を振った。
「うそだ。悪い夢だよ、こんなの。黒岩さん、そうだよ、タチの悪い冗談だよね。ねえ、アレク…」
「ユリコ…」
「うそだよね、嘘だって言ってよ、アレク!! お願い!!」
「ユリコ、落ち着いて、落ち着いて」
「降りるっ、急いで駅に行かなきゃ!」
由利子は車のドアに手をかけた。ギルフォードは由利子の両肩を掴んでそれを阻止した。
「こんなとこで降りちゃダメです!」
「黒岩さん、黒岩さんッ!」
(”まずいな,かなり取り乱している.無理もないか,相当嫌な音を聞いたのだろうからな.仕方がない”)
ギルフォードは半狂乱になった由利子の頬を軽く叩き抱きしめて言った。
「ユリコ、君のせいじゃありません。少し落ち着きましょう。君は覚悟してチームに加わったのでしょう。さあ、落ち着きましょう、ユリコ」
由利子の目から涙があふれた。自分の意思に反して体が歯の根が合わないくらいガタガタ震えており、自分がコントロール不能になっていることを理解した。
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