2.疾走 (7)夏祭り勇壮に
20XX年7月13日(土)
こちらはまだ前日金曜日の夕方、米国東部メリーランド州フレデリック。ようやくフォート・デトリックでの隔離から解放されたジュリアスが、フレデリック空港に向かうべく歩いていた。
「は~あ、ようやっとお天道様が拝めたわ。やっぱ娑婆の空気はえーて」
ジュリアスは傾いた太陽をの方を眩しげに見てつぶやいた。
「ったく、おかげさんで予定が狂いまくりだがね。本当なら今頃は日本におるはずなのによ。あー、ほんに祭り見たかったでよ」
そこまでつぶやいたところで横に黒いムスタングが止まって窓が開いた。そこから覗いた顔を見てジュリアスは驚いた。デズモンド・ストーク、一番会いたくない男だった。ストークは意外にもにこやかに言った。
”退院おめでとう,Dr.キング”
ジュリアスは露骨に嫌な顔をして言った。
”5時でご帰宅かい? 良い御身分だな”
”今夜は女房とディナーなんでね”
”そんじゃあもう僕に用はないだろ,ストークさん”
”そう邪険にするもんじゃない.君の隔離はこっちも上からの命令でね,すまなかったと思っている”
”どんなもんだか”
”空港までだろう,乗せてやってもいいが”
”遠慮しとくわ”
”そうか.まあそうだろうな.まあ,せいぜい日本で頑張ってくれ.ギルフォード君には私が会いたがってたと伝えるがいいよ.じゃ,寄り道せずに帰るんだぞ”
ストークはそれだけ言うと窓を閉め、さっさと車を発進させ去って行った。その後ろ姿にジュリアスはべーっと舌を出してから言った。
「けっ、余計なお世話だがね。たーけらしい((ばからしい)デスストーカー野郎が負け惜しみゆーとるわ。って、あーこんなことしとられんわ、タクシー拾うてから空港へ行って、ほんでこれからの予定を決めよーかね」
ジュリアスは景気づけで駆け足で公道まで行き、道路に向かってしばらく左右を見ていたががっくりした様子でつぶやいた。
「こりゃータクシーは呼んだがえーかね~。さっきのムスタングに乗った方が良かったかねー。まーそりゃーにゃーけどよ」
隔離生活で独り言がくせになったのか、ジュリアスはぶつぶつ言いながらタクシーを拾うために再び左右を確認した。
夜が明けるのももどかしく、極美は東の空に太陽が覗くのを待って降屋に電話をした。昨夜も電話を入れたのだが、電波の届かないところにいるのか、何度しても通じなかったのだ。しかし、朝早いためだろうか、電話はつながっているものの、出る気配はない。それで、仕方なく留守録を入れた。
(何度同じような要件の留守録をしたかしら…)
極美はそう思いながらため息をついた。しかし、雑誌記事の件について、何としても聞かねばならない。
しかし、果たして記事を編集部に送ったのは降屋だろうか? 極美はかなり不吉な不安が湧きあがってくるのを感じていた。それは、考えまいとするたびに大きくなっていった。なぜなら、教主の甘言に乗って、つい未完成のサイキウイルスレポートのデータを送ってしまったからだ。極美は降屋に第2弾の草稿を送ったがまだまだ未完成でしかも電子文書の形で送っていた。もし、データを送るとしたら降屋より教主の可能性が高いことは自明のことであった。しかし、今の極美は、昨夜の「カクテル」の後遺症か冷静で筋道の立った思考が出来なくなっていた。ベッドに横になって沈黙したままの携帯電話を枕元に置き、昨夜の寝不足も相まって、うとうととし始めた。
降屋は昨夜の強行軍がたたって、目覚めたのは朝8時をとっくに過ぎていた。
「しまった、朝の礼拝の時間が過ぎてしまった」
降屋は慌てて飛び起きた。その時、目の奥に激痛が走った。降屋はうっと声を上げると両目を押え、ベッドサイドにうずくまった。
(な、何だ、これは!?)
降屋の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。まさか…? その考えを降屋は声を出して打ち消した。
「いや、俺はちゃんとワクチンを接種していただいたんだ。ありえない!!」
しかし、降屋は遥音医師の不吉な言葉を思い出していた。それはワクチンを接種する前に降屋が彼女にワクチンを打てば感染しても発症しないか確認した時の答えだった。
『はい、もちろんです。すでに発症していない限りは』
(まさか…)
降屋は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
祭事会場の警察官詰所では朝礼が行われ、知事が警護の警官たちを前にして語っていた。タスクフォースチームとして警備に参加している葛西は、最前列でそれを聞いていた。富田林たちもいたが、警備部との合同チームであるため、怪我からすっかり回復した武邑もその中にいた。
「みなさん、連日の警備ご苦労様です。おかげで今のところ何事もなく各行事を終えることができております。今日は午後から知名士たちが台上がりする集団山見せがあります。すなわち、今日は最終日、いやそれ以上にテロの起きる可能性が高まります。あと3日、いや、最終日は早朝なのであと丸2日間、大変でしょうが、一瞬の気も緩ませず、警備を続けてください。よろしくおねがいします!」
森の内はそう言うと、深く頭を下げた。
「おい、葛西よお」
持ち場に向かいながら富田林が言った。
「ここ数日、やったら忙かったけど、懸念されている件に関してはまったく動きがなさそうだし、ホントにこの祭りが狙われたりするんかな」
「敵の目的がわからない以上、油断できませんし、特にこういった祭りなどの大規模な行事はテロの標的になりますから」
「うむ、そういえばボストンマラソン爆弾事件とかあったな」
「厳重な警備が行われていても、こういう時は必ずどこか手薄な箇所が出来てしまうものです」
「ボストンマラソン爆弾事件といえば、知っとったか、葛西。ヤラセだったって与太話があるらしいな」
「自作自演っていう、よくある陰謀論ですね。好きですよね、陰謀論者」
「今回の事件も陰謀とか言われてんのかねえ?」
「すでにあったじゃないですか。サンズマガジンのやつ」
「あ~~~あ!」
富田林はそういうと手をポンと叩いて言った。
「あの、アメリカの陰謀とかギルフォード先生が怪しいとか書いとったやつか!」
「名指しはやめてください。教授が聞いたら怒りますよ。ああいう憶測だけの記事が一番厄介なんですよね」
と、葛西はため息をついて言った。
ギルフォードが教授室でサイキウイルス対策用で民間に配る新しいチラシとパンフレットの仮刷りをチェックしていると電話が鳴った。
「教授。知事からです」
電話を取った紗弥が言った。
「おや、何の用でしょうかねえ」
と言いながら、ギルフォードは受話器を取った。それを見ながら由利子が小声で紗弥に言った。
「今日は嫌な顔も文句もなしで電話とったね。何かいいことでもあったの?」
「ええ、ジュリーがようやく解放されたそうなんです。それで、もう数日かかりそうですが、帰ってこれそうだとか」
「ええ? 良かったじゃない。あ、でも、お祭りの期間には帰れなさそうだね」
「本人も残念がってたそうですわ」
と紗弥が答えたところで、ギルフォードの電話が終わった。
「ふたりとも、なんかうれしそうですね」
ギルフォードが受話器を置きながら言った。由利子は笑顔のまま答えた。
「内緒。で、知事は何て?」
「15日のフィナーレまで開催出来そうだって、嬉しそうでしたよ」
「わあ、よかったね」
「本当によかったですわ」
「今日の集団山見せにも乗るから、中継があったら見てねだって」
「じゃあ、いっそ見に行こうよ。遠くからでもいいじゃん」
と、由利子が提案すると、紗弥も相槌を打った。
「そうですわね。私たちと一緒なら由利子さんも外出OKでしょう?」
「そうですねえ…」とギルフォードは少し考え聞いた。「時間は?」
「夕方3時過ぎだったと思うけど」
「その時間なら行けそうですね。じゃあ、3人でいきましょうか。ジュンの働きぶりも見てみたいし」
「やった!」
と、由利子がサムアップして言うと、紗弥が笑顔で応えた。
「じゃあ、このリーフレット(チラシ)とパンフレットのチェックをさっさと終わらせましょう。問題の根本はまだ未解決なのですから」
ギルフォードは自らを戒めるように言った。
西原祐一をはじめとするタミヤマリーグの4人が校門から出ると、濃いめのサングラスをかけた小柄な女性から声をかけられた。
「わあっ、ミナミサ!」
サングラスの下の顔を見て男3人が驚いて口々にi言うと、美波は人差し指で口を封じるそぶりをした。彩夏は不機嫌そうにつぶやいた。
「なによ、この女、こんなとこまで出しゃばって来たの?」
しかし、美波は気にせず笑顔で手を振った。
「こんにちは。ちょっと時間、いい? ランチ奢るわよ」
「知らない人に付いて行っちゃダメだって、先生とお母さんから言われてまーす」
と、良夫が言い、さっさと彼女の横を通って歩き出した。彩夏もそれに続いて「じゃ、そういうことで~♡」と手を振ってから良夫の後に続いた。残りの2人祐一と勝太もその後を追うように美波の横を通り過ぎて行った。
「ちょっと待って、4人とも! 話を聞いてよ。今日はクルーを置いて一人で来たの。私、あなたたちの力になりたいのよ!」
美波は彼らの背中に向けて大きめの声で訴えた。すると、祐一が振り向いて静かに言った。
「美波さん、僕らはマスコミと言われる人たちが信じられないんです。この前、どこかの週刊誌がこの事件について根も葉もないことを書きたて、被害者やそれにかかわる人たちについて憶測を並べ立てました。名前は伏せられてましたが、僕らのことについても書かれていて、学校でその記事を見せられた妹はひどく傷つきました。僕はともかく、妹には何の落ち度もなかったのに…。それだけじゃない、僕らの恩人であるギルフォード教授をロクな証拠もなくまるで犯罪者のように扱っていました。どんなにきれいごとを言ったって結局あなた方はスクープが欲しいだけじゃあないですか」
「ちょっと、あんな与太記事と一緒にしないでよ!」
思わす美波が怒鳴った。本気で怒っているようだった。
「少なくとも私たちは得た情報をなんの検証もなく記事や番組にしたりしない! 報道としての誇りがあるからね!」
美波が憤って大声を出したので、他の下校する生徒たちが彼女に気付き始めた。
「あれ、ミナミサ違う?」
「ミナミサ?」
「どこどこ?」
周囲からちらほらと声がして、美波は自分に注目が集まり、スマートフォンやカメラを向けられ始めたので、焦って言った。
「また電話する! 取材の件、考えていてね。私は敵じゃない。ただ、真実を知りたいだけ」
美波はそれだけ言うと、そそくさと立ち去って行った。
「なによ、逆切れしてんじゃないわよ」
と、美波の迫力に気圧されながらも不服そうに彩夏が言ったが、祐一は去って行く美波の後ろ姿を真面目な表情で見ていた。そんな中、勝太がおずおずと言った。
「ミナミサ、真面目に考えているみたいじゃない? 取材に応じてあげてもいいんじゃ…」
「なに甘いこと言ってんのよ!」
「なん甘いこと言いよーと!」
彩夏と良夫にほぼ同時に言われ、勝太は首をすくめて祐一を見た。
ギルフォードたちが、集団山見せという御披露目の催しを見るため、市役所前公園に到着すると、葛西が彼らを迎えた。
「みなさんの護衛を言付かってまいりました」
「オー嬉しいです、ジュン。ところで凄い人ですねえ」
「今年はウイルス騒ぎのせいで少ない方ですよ」
周囲を見回して驚くギルフォードに葛西が説明した。その後、葛西は3人を市役所から少し離れた沿道に案内した。
「このあたりで見ましょう。山が来るまでもう少し時間がありますし日差しもまだ強いですから、そこらへんで待ちましょうか」
4人は沿道の人ごみから離れて植樹帯の木陰に立った。ギルフォードがここぞとばかりに嬉しそうに葛西に警備状況を質問しているので、由利子と紗弥がそれを見てくすっと笑った。
「もう、浮気してる?」
「安心したのかもしれませんね」
「それにしても、良い天気で良かったけど、蒸し暑いねえ。また夕立でも降るかな?」
「まあ、それは困りますわね」
そんな他愛もない会話をしていると、沿道からわあっという歓声が上がった。
「来たみたいです。前の方に行きましょう。由利子さんは僕と紗弥さんの間から離れないで」
3人は葛西の指示に従っての人垣に加わった。
「ユリコ、見えますか?」
「うん大丈夫。アレクは楽勝だね」
「なんなら、おんぶして差し上げますが」
「ううん、遠慮しとく。私より紗弥さんの方が小さいから…」
「わたくしも遠慮しますわ」
と、紗弥が間髪入れずに言った。
最初に締め込み姿の小さい子たちが集団で走ってきた。
「まあ、可愛い!」
「可愛いね~」
紗弥と由利子が口々に言った。ギルフォードがあることに気付いて言った。
「おや、女の子もいますね。女性は参加できないんじゃなかったですか?」
「えっと、初潮前の子供だったら大丈夫みたいよ。小学校以下の子が多いみたいだけどね」
「因みに」と葛西が付け加えた。「子供山笠の写真は許可なく撮影出来ません。けしからん目的の撮影を禁じるためですが。それでも撮影して検挙される人が出ますね」
「日本の暗部よねえ」
と、由利子がつくづくと言うと、ギルフォードが言った。
「まあ、アメリカで子供に街中でこんな恰好させたら親が逮捕されそうですから、それだけまだ日本は平和なんですよ」
「そうなのかなあ」
由利子は答えながら複雑な気分になった。
しばらく子供や年寄りといった集団が続いた後、山が見えてきた。勢い水が乱舞し、山を担ぐ男たちに襲いかかる。
「来ました。一番山です。これに知事が台上がりしています」
「オー! すごいです」
「頑張って見なきゃ。これは撮影して大丈夫よね」
「大丈夫です。おっさんは問題ないです」
「おっさんて」
由利子が苦笑しながら言った。
おっしょい、おっしょいという、独特な掛け声と共に山が近づいてくる。リハーサル的なならしの時と違って、これはいかにも祭りと言った按配で、勇壮ながらどこか泰然とした様子を思わせた。山はだんだん由利子たちに近づき由利子は小型デジタルカメラを構えた。
「おや、ケータイのカメラじゃないんですね」
「せっかくだから、しっかりと撮らないとね」
そう言いながら由利子がギルフォードを見ると、一眼レフを構えている。
「って、本格的じゃん」
「どうもこのファインダーから見ないと写真を撮った気がしないんですよね」
と、ギルフォードが言った。
「って、来ましたよ」
「わあっ」
由利子は急いでカメラを構えなおすと、目の前を掛け声と共に山が通過していった。ギルフォードはカメラのファインダーを通して、森の内が嬉しそうに赤い指揮棒を振っているのを見、数回シャッターを切った。
(”ほんとに嬉しそうだな.このまま何事もなく終わってくれればいいが”)
ギルフォードは一抹の不安を感じながら思った。護衛で由利子の隣に立つ葛西も同じように祭りの無事終了を祈っていた。
(早く15日の朝が滞りなく終わって欲しい)
その後、各流れが随時勇壮に通過して行った。四つ目の流れが通った後にギルフォードが言った。
「台上がりの方はむさいじーさまやオッサンばかりですねえ」
「仕方ないよ。だって、今日の台上がりは地元の名士とかいう人たちだし、そもそもベテランしか上がれないからそれなりのオッサンしか上がれないし。しかも女性は参加出来ないし」
「そういうところは僕としては賛同しがたい風習です」
「黒岩さんも似たようなこと言ってたな。私の解釈は、本来荒っぽい祭りで危険だから女性を寄せ付けないようにしたんだと思う。不浄の者って考えは許せないけどね」
「そうですか。そういう解釈もありますね。担いでいる若い衆には時折いい男を見かけます。あ、ほら、あの右端の舁き手…っていうんですか、彼、素敵ですね」
「うん、私もさっきから気になってた」
そう答えてから、由利子はギルフォードと男の趣味が合致したことに少々複雑な気分になった。
「ところでユリコ、今日はあの大きな飾り山は出ないんですか?」
「今日のはエキシビジョンみたいなものなんだけど、飾り山は出ないよ。でも、最終日にはトリで走ったと思う。重いから競争には参加しないけどね」
「そうですか。楽しみですね。あれは迫力があります」
ギルフォードが「楽しみ」と言ったので、由利子は嬉しくなった。5つ目の山が近づいてきたので、由利子は少し後ろに下がってギルフォードの後から写真を構え、彼の後ろ姿と通過する山を一緒に撮ろうとカメラを構えた。その前を勇壮な掛け声と共に、山が駆け抜けて行った。
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