2.疾走 (5)ディテクティヴ
20XX年7月11日(木)
亀田次郎吉、彼は「鼈(すっぽん)のジロキチ」とあまりありがたくない二つ名をもった探偵だった。その名の通り、一度食いついたら離さないという少々面倒くさい男だが、見かけは坂○二郎というよりもカンニング×山といった風体である。彼は、めんたい放送情報部の藤森から、ある事件の調査依頼を受けていた。
その調査とはもちろん、感染死した嶽下友朗の周辺調査と美波美咲が無症候キャリアで隔離された件でカギを握る、「通りすがりの会社員(サラリーマン)」と記録されている男を見つけ出すことだった。しかし、その男についてはまったく資料がなく雲をつかむような現状であったため、まず、友朗の交友関係から洗っていくことにした。当然、警察の捜査と被ることになって、既に彼らから聞き込みをされていた者たちから煙たそうに応対されることもあったが、比較的安易に情報をペラペラ垂れ流す連中も多かった。そんな中、調査ターゲットの男の似顔絵が発表された。勿論、その男の容疑が何かは伏せられていたが、亀田は独自の情報網からそれが件の「リーマン」野郎であることを知ることが出来た。それで、警察の捜査がその男に集中し、ますます調査が難しくなると判断した亀田は、友朗の周囲をもう少し洗ってみることにした。そうしてある気になる男にたどりついた。それは通称「笑顔のセールスマン」と呼ばれる男で、置き薬屋を装って、麻薬まがいの危険ドラッグを売っているという。いささか都市伝説めいた話だが、亀田が仕入れた警察情報に、美優を除く4人は危険ドラッグの注射によって友朗から感染が広がったらしいとされるものがあった。それで、亀田はそのセールスマンに何かがあると確信したのだ。
実は、亀田も今回のウイルス事件に疑問を持つ一人だった。明確な理由があったわけではない。長年探偵という商売をやっていた勘のようなものが働いたのだ。もっとも、彼に来る仕事依頼は御多分に漏れず8割以上が浮気などの素行調査の類であったのだが。
それで、友朗の身体から、感染源であるだろう刺し傷が確認され、美波の無症候キャリア疑惑が消え解放されたあとも独自で調査を続けることにした。亀田は大胆にも大学生アルバイトの助手、香東を通じて友朗と同じ大学の学生に「笑顔のセールスマン」とやらにコンタクトをとらせる作戦に出た。それは思ったより上手くいった。数日後の今日、その学生は「セールスマン」をおびき寄せることに成功し、夕方、亀田は香東が仕掛けた超小型カメラの映像と音声で、学生の部屋で行われた交渉の一部始終を知ることが出来た。男の名前が中目黒大吉と言うのを聞いて噴き出しかけたが、自分の名前もあまり変わらないことに気付いて苦笑いした。その後、マンションから出てきた「セールスマン」の尾行を開始した。
学生の「友人」として一緒にセールスマンと会った香東は、超小型ビデオカメラで撮った男の姿とサンプルで置いて行ったハーブを事務所に持ち帰った。
香東には中目黒が心なしか焦っているように思えた。当面金が必要だったのか、やたら「ハーブ」を買わせようとしていたのだ。中目黒の押しに負けてつい購入しそうになった学生に、それとなく買わないよう忠告するのが大変だった。うっかり買わせてしまうと、犯罪行為になってしまう可能性があったためだ。なんとかサンプルだけもらって、後日また連絡するという確約をして、なんとか中目黒を帰らせたあと、香東は心身共にへとへとになっていた。
亀田は、電車を乗り継ぎ移動する中目黒を見失わず食いついていた。
降車後、中目黒はしばらく雑踏する街中を歩いていたが、徐々に人通りの少ない道に向かった。ところが途中電話を受けて急にそわそわし始めた。そして急に早足になり逃げ場を探すかのようにきょろきょろと周囲を見回し始めた。亀田は見つかってはヤバイと、とっさに建物の陰にかくれ、念のためにスマートフォンのカメラを準備した。中目黒が路地を見つけて入ろうとした矢先、その横に乗用車がすっと止まった。中目黒は一瞬逃げようとしたが、中の人物を見てほっとしたようだった。それでも、彼は用心しているのかなかなか車に乗ろうとしなかった。しびれを切らしたのか、中から男が降りてきて中目黒に二言三言何かを言った。亀田は咄嗟に暗視カメラ機能をつけたスマートフォンで彼らを撮ろうとして、画面を見て驚いた。肉眼では暗くて見えにくかった男の顔がはっきりと確認できたからだ。それは、似顔絵で手配されている例の重要参考人にそっくりだった。やはり彼らは関係があったんだ! 亀田が確信したのもつかの間、中目黒は車に乗り込み男と共に去って行った。亀田は何か見てはいけないものを見てしまったような気がして恐ろしくなり、そそくさとその場を離れた。
20XX年7月12日(金)
由利子が昼前にお使いから研究室に戻ると、葛西が来ていた。
「あら、葛西君がまたサボりに来てる」
「人聞きの悪いことを言わないでください。中間報告に来たんです」
由利子からからかわれて、葛西は少しお冠で言った。
「なんか、疲れてるねー」
「祭りの警備に僕たちサイキウイルス班も駆り出されて。昨日も早朝から駆り出されたんです。今日は、富田林さんたちが出ています。夕方にはまた大きな行事があるので僕も行きます」
「大変ねえ。でも、そういう警備って、警察には警備部みたいな専門の部署があるんじゃなかったっけ?」
「平時でも大きな行事の時は警備はありますし、所轄も駆り出されます。ただ、右翼の街宣みたいにおおっぴらにやるわけにはいかないんです。しかも、予告とかあったわけじゃなく、 あくまでもサイキウイルス散布の可能性を考慮した危機管理としての警備ですから、僕らが駆り出されるのは当然なんですが、やっぱり僕らは捜査の方がしたいです」
葛西は一気にまくしたてると、応接セットのテーブルに突っ伏して言った。
「つかれた…。マジ早く終わって欲しいっす、この事件」
「あらあら、葛西さん。コーヒーでも飲んで、少し休憩なさってくださいな」
紗弥がそう言いながらテーブルにコーヒーを置いた。ギルフォードがそれを見て言った。
「サヤさん特製のカフェラテですよ、ジュン。元気が出ますよ」
葛西はそれを受けてのっそりと起き上がった。
「いい香りですね。元気が出そうな気がします」
葛西はそう言うとカップに手を伸ばして一口飲んだ。
「美味い! これ、すっごく美味しいです、紗弥さん!」
葛西が目を輝かせた極上の笑顔で言ったので、紗弥は一瞬嬉しそうな表情を見せた。しかし、その後、照れくさそうにお盆をもってそそくさと湯沸かし室に退場してしまった。
「一撃必殺の笑顔ですねえ」
ギルフォードが感心して言うと、由利子も同意して言った。
「世界中の女性が胸キュンするね、きっと」
「男性だってキュンキュンですよ。いいなあ、サヤさん」
と、ギルフォードがぼそりと言ったが、由利子は華麗にスルーを決めた。
「ところでユリコ」と、ギルフォードが気を取り直して言った。「僕の車は運転どうだったですか?」
「全然問題なし。整備もされていたし、最初はちょっと不安だったけどスイスイ行けたよ」
「そうですか。それならこれからも気軽に運転を頼めますね」
「任せてちょ。あ、これ、品物とお釣りとレシートね。水槽用浄化器、これだったよね」
と、由利子は量販店の袋をギルフォードに渡した。ギルフォードは中身を確かめて言った。
「上等です。ありがとう、ユリコ。フィルター替えたばかりなのに本体が動かなくなってしまって」
「最近便利よね。写メで商品バッチリ判るもんね」
そう言った時、由利子の電話が鳴った。
「わあ、噂をすればと言うべきか」
由利子が急いで電話に出ると、それは黒岩からだった。由利子は夕方会うことを約束した。黒岩たっての願いで、ギルフォードや紗弥も一緒に行くことになり、黒岩は電話の向こうで大はしゃぎしていた。葛西は誘われたが、勤務の関係で泣く泣く辞退した。
「あー、ほんっと、早く終わって欲しいっ! 祭りもウイルス事件もっ!」
「切実ですねえ、ジュン」
「でも、早く終わって欲しいというのは、みんな同じでしょ。このまま滞りなく祭りが終わって、ウイルス発生も終わってしまえば…」
「そうあれば、いいですけどねえ。楽観は禁物です。万一を考えて最悪の想定をするのが僕たちの仕事ですよ」
(って、アンタが一番緊張感がないんですけど)
由利子は心の中でこっそりと突っ込んだ。
相変わらず極美はシェルター内に軟禁状態だった。デスクからはサイキウイルス事件続報記事はまだかという催促のメールが毎日送られてきていた。携帯電話にも幾度となくかかっていたが、なんとか誤魔化して締め切りを1週間延ばしてもらった。それでも、このまま待っていても埒があかないので、なんとか一人で取材する糸口を見つけようと、ネットで資料になりそうなネタを探したが、例のタワーマンションでの感染死以来ぱったりと感染者が途絶えていて、ネット民の関心は早くも薄れつつあった。シェルター内でのネットからの情報収集に限界を感じた、極美は大胆な行動に出ることにした。
祭りの現場に戻った葛西は、早速不審物や不審者情報に翻弄されていた。夕方からフィナーレのリハーサル的な行事があり、沿道はすでに見物客でいっぱいになっている。こんな状態でウイルスが撒かれたら大惨事になるだろう。しかも、数日の潜伏期間の後に。それは、F県や周辺のみならず、日本中、最悪国外に広がることを意味する。葛西は自分等の責任の重大さに胃が悪くなりそうだった。
テロに関しては警察でも葛西たちサイキウイルス対策部他一部の者にしか詳しい内容は知らされていない。休憩と今後の打ち合わせのために詰所に戻ると、朝から警備に駆り出されている富田林たちが、暑さにうだりながら缶のアイスコーヒーを飲んでいた。その姿はどう見てもそこら辺にいるリーマンのオッサンである。
「お疲れさまです!」
葛西がカラ元気を出して挨拶すると、富田林が商店街の団扇で忙しく自分を仰ぎながら言った。
「よお、葛西。どんな具合だ?」
「相変わらずガセネタと冷やかしばっかですよ」
「そっか。ま、俺らもそんな具合やったけどね」
「まあ、本当に不審物があったらあったで大ゴトですけど」
「ははは、違いない。しかし、暑かなあ。俺、もう自分がしょっぱ臭くてかなわんよ。はやく家に帰ってひとっ風呂浴びて冷たいビールで…」
「トンさん、やめてくださいよう。余計に暑くなりますやん」
と、増岡が同じく団扇で激しく自分を仰ぎながら言った。
シェルターから抜け出した極美は、街中の、特に沿道に群がる人の多さに驚いていた。
(そうか、今はお祭りの真っ最中だったっけ)
極美は、こっちに派遣された時、この祭りについても調べたことを思い出した。もっとも、デスクに取材の申し入れをしたが、却下された。あまりにも女性の入れない行事や場所が多すぎるという理由からだ。
「なによ、おかみさんたちに密着取材とかいろいろ方法はあったじゃん」
極美は思い出して小声でぶつくさ文句を言った。その横で、おおーっという歓声が上がってすぐそばの道路を特有の掛け声と共に山が駆け抜けて行った。
「あ、せっかくだから写真撮るんだったわ」
極美は人垣の向こうに走り去る山を見送りながらつぶやいた。
その頃、ギルフォード研究室はみんなでテレビに釘付けになっていた。リハーサル的行事がテレビ中継されていたからだ。
由利子がテレビのチャンネルを合わせるなり言った。
「うわあ、山笠の舁手と見物人で埋まってら。テレビで見ると余計にすごいね。葛西君あの中のどこかにいるのよねえ」
「すごい。リハーサルなのに、あんなに本格的にやるんですねえ」ギルフォードが感心して言った。「見に行けばよかった」
それを聞いた由利子が言った。
「じゃ、最終日のフィナーレに行こうよ。迫力が違うわよ。朝早いけど」
「早いって?」
「まあ、走り出すのが4時59分だね」
「オー、早朝過ぎます。しかも、夜のニュース番組みたいな中途半端な時間です」
「しらんわよ」
由利子が例の如く突っぱねるように言った。
「あら、一際大きな山車が走ってますわよ。まあ、知事ですわ。山車に乗ってる前方3人の真ん中!」
「この流れだけが、昔ながらの飾り山で走るんだよ。だから、重すぎるんで競争には加わらないんだけど、やっぱり大きいとド迫力だねえ」
由利子が説明すると、ギルフォードがニコニコして言った。
「知事、念願がかなって良かったです」
「台上がり」の森の内は、中継で映っているのを知ってか知らずか、真剣な表情で力いっぱいに指揮をとっていた。
降屋が一仕事終えて部屋に帰り一息ついていると、呼び鈴が鳴った。モニターを見ると極美が立っていた。降屋は驚きながらも極美を招き入れた。
「極美さん、どうしたの? 一人じゃ危ないでしょう」
「ごめんなさい。でも、シェルターに何日も籠っているのに耐えられなくなったの。電話しても裕己さん捕まらないし、思い切って来てみたの」
「と、とにかく上がって。君、目立つし」
降屋は極美を居間に入れた。
「あの、裕己さん、この前はごめんなさいね。わたし、あなたの事、ホントに誰にも言わなかったのよ」
と、極美はまず、この前のお詫びを言った。降屋は大丈夫、気にしてないよと笑顔で言った。しかし、どうも降屋の様子がおかしい。妙にそわそわして落ち着かないのだ。
「裕己さん、どうしたの? なんか裕己さんらしくない」
「そんなことないよ。ただ、ちょっと大きな仕事を任せられたから、少しハイにはなってるかもしれないけど」
「大きな仕事?」
「うん。企業秘密なんで言えないけど、かなり大きなプロジェクトなんだ」
「そうなんだ。じゃあがんばらなきゃ」
「もちろんさ。だから、僕はしばらく君の取材につきあえないかもしれない」
「え?」極美は驚いて目を丸くして降屋を見た。
「すまない。その間、一人で取材してほしい。ネタは提供するし、長兄さまにお願いして、ボディガード兼助手もつけてもらうから」
「う、ううん、一人で大丈夫よ。裕己さんに会うまでは一人でやってたんだし、きっと大丈夫」
「いや、そうはいかないよ。君は命を狙われるかもしれないんだから。だから、助手が来るまでもう少し待機してて」
「ええ? でもいい加減仕上げなきゃあ、デスクからもう鬼の催促で…」
「大丈夫、あと、1・2日程度のことだから」
「……」
極美が当惑して黙り込んでしまったので、降屋は強めの口調で念を押した。
「わかってくれるね?」
「わ、わかったわ」
「よし、いい子だ。じゃあ、僕はそろそろ行かなくちゃ。やり残した仕事があるんだ。ついでに送るから。取材、がんばれよ」
降屋は極美の肩をポンとたたいて立ち上がった。ところが、極美は「待って!」と叫んで降屋にしがみつくようにして言った。
「ごめんなさい、本当は不安なの。だって、知り合いもいない初めて来た街に、たった一人で何日もいるのよ、しかも、ウイルステロの秘密に迫ろうとしている。ほんとは恐いの。判って。お願い、もう少し一緒にいて…!」
もとより精神的に不安定になっている降屋は、不意を突かれていつもの冷静さを失った。なんと言っても極美はもとグラビアアイドルで、その魅力はまったく衰えていなかった。
「極美さん…」
降屋は誘惑に抗えず、そのまま極美を抱きしめた。
極美が目を覚ますと、いつの間にかシェルターの自分のベッドにもどっており、降屋の姿はすでに無かった。極美はけだるそうに半身を起すと、頭を振った。何故か記憶がほとんど飛んでいた。
あの時降屋は極美を激しく抱きしめた後、彼女をベッドに運び、キッチンからグラスに入った赤い液体を二つ運んできた。ワインとも違った、透明な、赤と言うより紅と言った方がピッタリな色で、もしルビーを溶かしたらこんな色だろうといった感じの美しい飲み物だった。
「これはね、レディ・ヴァンパネラという、ノンアルコールのカクテルだよ。飲酒運転できないから、これで乾杯しよう。二人の初めての夜に」
極美は言われるがままに、降屋と乾杯して紅いカクテルを飲んだ。それは甘酸っぱい中に脳髄に染み入る様な、不思議な刺激のある危険な香りのするカクテルだった。
ところが、その後の記憶がはっきりとしないのだ。ただ、獣のように理性のかけらもなく降屋を求め、あられもない姿を晒したような自己嫌悪に陥りそうな記憶がおぼろげにあった。しかし、それ以上に何故か妙にすっきりした、なにかの殻から抜け出して生まれ変わったような快感が脳髄に残っていた。
極美から解放された降屋は、次の行動に移るためにシェルター地下の駐車場に来ていた。車の前にはロキと呼ばれたあの男がいた。彼の姿を確認した時、目の奥に一瞬痛みが走った。しかし、ワクチンを接種した筈の降屋は感染のことは微塵も考えず、あんなことの後だからと、気にも留めずに仲間に声をかけた。
「来てくれたんだね。待たせたかい?」
「よお、存外早かったな」
「まあ、部屋に連れて行っただけだからな」
「それで、今からゴミ捨てに行くのか?」
「ああ、粗大ゴミだから慎重にやらないとな」
「しかし、アレを飲んだのなら、運転マズイだろ?」
「あんなヤバイもん、俺は飲んでねえよ。コンタミ君からの押収物を試してみただけさ」
「どうだった?」
”ロキ”が興味深そうに訊いた。
「まあ、ご想像通りさ。役得ってやつだな」
「くくっ、そうか。羨ましいな」
「まだ残ってるが、誰かに試してみないか? けっこうすごいぞ」
「いや、遠慮しよう。アレはラボに返すべきだ。あんなものが闇ルートで広まったらこの国は滅びてしまう」
「どうせ、いったん滅ぼす予定だろ?」
「何を言っている! 長兄さまの御宣託通りにならねば人類も碧珠も救えないんだ!!」
「じょ、冗談だよ。そんなことわかってるって」
降屋は”ロキ”が思いの外語気を荒げて言ったので、驚いて取り繕った。
「それより、早く行こう。こんなものはさっさと捨てないと験が悪い。君、途中まで付き合ってくれるんだろ?」
「ああ、同業者対策でな。途中までですまないが、時間までには署に帰らねば怪しまれるからな」
「じゃあ、急ごう」
二人は急いで車に乗り込んだ。車はゆっくりと発進し地下駐車場を出ると、まだ明るさの残る夜の街の道路に連なる赤いテールランプの中に紛れていった。
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