2.疾走 (2)夕日への祈り
20XX年7月9日(火)
降屋は逃走していた。
再解剖の結果、嶽下友朗の右大腿部から刺し傷が確認され、感染源がそれにほぼ確定されたために、美波を助けた男が重要参考人と認定された。それに伴い、件の似顔絵が大々的にばらまかれた。それ以前からネットで話題になっていたが、何の容疑かわからないが警察が本気で探しているらしいという複数の書き込みがあったことからさらに騒然としたネットでは、男を探すことに熱中する連中が現れ『F県警の面白似顔絵の中の人を捜すスレ』など各板にスレッドが立つまでになり、まとめサイトまで出来るまでになってしまった。
そんな中、降屋は教主に呼び出されたのだが、近しい者から教主がかなりお怒りらしいという情報を受け、恐ろしくなった彼は、そのまま極美にもなにも告げずに姿を消したのだった。
(何故だ? 何故こんなことになったんだ? 僕は長兄さまのために尽くしてきた。今回のことだって良かれと思ってやったことだし、長兄さまだって喜んでくれた。どこで歯車が狂ってしまったんだ?)
降屋は完全に目標を失い、戸惑っていた。
それとは対照的に、ミナミサこと美波美咲は無症候キャリアの疑いが晴れ、隔離病棟から解放されていた。美波は病室から出されると、センター長の許可をもらって河部千夏の病室の前に立った。
千夏の病状はかなり持ち直していた。予断は許されないものの、未だ赤視の症状もなく、サイキウイルスからの生還第1号になるかもしれないと、感対センター内では一筋の希望の光になっていた。
美波は千夏に笑顔で言った。
「河部千夏さん、初めまして。私、めんたい放送の美波美咲と申します」
「初めまして、美波さん。あなたのことは、よくテレビで拝見してます。お会いできて光栄ですわ」
と、千夏も微笑んで答えた。
「横になったままですみません。まだ起き上がれないんです。顔もひどい状態でしょ? これでもだいぶマシになったんです」
「あ、気になさらないで。お顔もきっともとに戻りますよ」
「ギルフォード先生にもそう言われました。自分もそうだったからって」
それを聞いた美波は驚いて言った。
「え? あの先生も同じ病気に?」
「いえ、出血熱であっても違う感染症らしいです。たしか、援助に行ったアフリカで感染した新型ラッサ熱だったとか」
「あ、そうですよね。サイキウイルスはまったくの新種でしたね。名前はついたもののまだ病原体は見つかってない」
と、美波は苦笑して言うと続けた。
「あの、いきなりぶしつけで申し訳ないですが…、小耳にはさんだのですが、ご主人がウイルス感染を理由に会社をクビになったって、ホントですか?」
美波に質問され、千夏は一瞬驚いて目を見開いたが、少し口ごもった後答えた。
「……ええ、事実です」
「ひっどい! どこの会社です、そこ?」
「いえ、もう終わったことです。主人は結果的に感染はしてませんでしたが、会社に迷惑をかけたことは事実ですし、これ以上迷惑をかけることは出来ません」
「でも、故意じゃないでしょ? たまたま感染者がいた現場を通っただけで、ご主人だって被害者なのに」
美波は長沼間が言ったことを思い出していた。
『いいか、おまえたちの本分は事件の解明ではないだろう。もっと他に取材することがあるんじゃないのか?
口蹄疫や原発事故のような大規模災害で、被災者がどのような思いをしたかを考えたら、このウイルス禍でも辛い思いをする人が大勢出てくるはずだ。いや、既にいるだろう。確かにそういう取材は派手ではないし、辛いだろうがな、そういう人たちの声を届けることも必要じゃないのか』
(そうか、あのオッサンが言ってたのはこういうことなのか)
美波は改めて思った。
「あっ、出てきた! ミナちゃ~ん」
美波が病院を出ようと病院のエントランスに向かっていると、待合室で小倉と赤間が待っていて、彼女の姿を見つけると駆け寄ってきた。
「良かった~。ミナちゃん退院おめでとう~」
二人は異口同音に言うと、美波の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「実物だ~」
「あたりまえやろ。外で待っとってって言うとったろーもん」
「だって、ミナちゃんが心配だし待ちきれなかったし」
「なによ、さっきから異口同音で気持ち悪いわね。で、ちゃんと取材の準備してきた?」
と、美波は男二人を暑苦しそうに見ながら言った。
「してきたけどさ、ホントに今から取材に行くの?」
「1日くらい休んだ方が…」
「十分に休んだわよ! 今まで病気でもないのに拘束されてたのよ。しかも一週間も!! 取り戻さなきゃ。行くよッ!」
美波はそういうとさっさと出て行った。男二人が「ミナちゃ~~~ん」と言いながら後を追った。
世間では、ウイルス禍を忘れたかのように祭り賑わっていた。F市内や近郊からの感染者が6月17日以降4週間以上出ていないため、人々から警戒が緩み、それまでの景気を取り戻そうと皆が祭り気分にシフトしていったからかもしれないが、元来の土地柄が祭り好きである所以だろう。しかし、やはり祭り目当てのツアー客は激減しており、特に海外からの客はほとんど望めない状況だった。そんな状況だったが、地元の参加者たちはそれを振り払うように快活にふるまった。彼らの体の中には伝統が脈々と受け継がれているのだろう。
(このまま何事もなく終わってくれるといいが…、いや、終わってくれ!!)
森の内は、全流お汐井取り(※)の行事で浜に来ていたが、法被に締め込み姿の男衆たちが浜の真砂を掬う姿を見ながら切に思った。その後、夕日に向かって柏手を打ち祭りの無事を祈願する男衆と共に、祭りが何事もなく終わることと、ウイルス事件の早期解決を祈るのだった。
その頃、真樹村極美の元に思いがけない客が現れた。
極美は降屋と連絡が取れず、教団のシェルター施設であるマンションでやきもきしていた。
デスクからはサイキウイルスレポートの続きはまだかとせっつかれているものの、情報源がない上、降屋がいないため、建物内から出ることが難しいために、この2・3日の間足止めを食っていたのだ。
「え? 長兄さま…」
極美はモニターに映った男の顔を見て驚いた。教主とはシェルターに入る前に一度会ったきりだが、その時の印象は衝撃的で忘れられないものであった。
「こんにちは、極美さん。降屋のことでお話があります。中に入れていただいてよろしいですか?」
「あ…、は、はい」
極美は急いでロックを解き教主を部屋に招き入れた。驚いたことに、教主は護衛を誰も連れておらず単独で来ていた。極美は教主をソファに座るよう誘導しながら尋ねた。
「あの、おひとりで?」
教主はソファに座ると言った。
「ええ。正確を言えば、一番信頼できる者を外の車で待たせてます」
「その程度で大丈夫なのですか?」
「大勢では目立ちますし、私には身の危険を案じるような敵はいませんから。ただ、私は車の運転と公共の乗り物が苦手なものですから、運転手は絶対に必要なのです」
「まあ」
「男のくせに、変ですよね」
「いえ、そんなことありませんわ。あ、今お茶を淹れますから。お口に合うかどうかわかりませんが…」
「ありがとうございます。いただきます。あ、御自分のも淹れてくださいね。一緒に飲みましょう」
教主は屈託のない笑顔で言った。極美は教主の教主らしからぬ謙虚でつつましい態度に好感を持った。
「ああ、美味しい。極美さんはお茶を淹れるのがお上手ですね。お茶本来の味がします」
「いえ、あの、我流なのでお恥ずかしいですわ」
極美は褒められて少し照れくさそうに言った。
「それで、お話しというのは?」
「ああ、そうでした」
教主はそういうと湯呑を茶卓に置いた。
「極美さんは降屋さんからなにか連絡は受けていらっしゃいますか?」
「それが…、何もなくて私も困っているのです。取材の続きが出来なくて…」
「そうですか」
「裕己さん、何かされたのですか?」
「いえいえ、そんなことはありません」と教主はきっぱりと言ったが、すぐに悲しそうな表情になった。「降屋さんはなにか誤解されているらしくて…。それで、私もなんとか連絡が取りたいのです」
「誤解?」
「はい。私の不興を買ったと思い込んでいるらしくて…」
「不興を? どうして…」
極美が驚いて尋ると、教主はさらに暗い表情で答えた。
「警察の手配書の似顔絵に似ているということで、私に迷惑をかけたと思ったらしいのです」
「あ、あのネットで話題の? え~、あんなの全然似てませんよ」
「ご存知でしたか?」
「ええ、だって暇なんでネットやテレビばかり見てて」
「そんなことしてたら体がなまっちゃいますよ?」
「あ、それは大丈夫です。この建物にはジムがあるから毎日そこで2・3時間は鍛えていますわ」
「そうですか。気に入っていただけて嬉しいです。ジムは私の提案なのです。シェルターに閉じこもる生活は精神的にけっこう過酷ですから」
「そうですね。体を動かすことでかなりの気分転換になります。私もこうなってみて、外出がままならないという辛さが良くわかりました」
「ここから出たくなるでしょ?」
「はい。でも、降屋さんが危険だっていうので、取材もいつも彼とコンビみたいになって」
「おやおや、では、はやく誤解を解いて降屋さんに出てきてもらわないといけませんね」
「そうなのです。困ってるんです」
「極美さん、もし、降屋から連絡があったら、なんとか説得して会ってくださいませんか?」
「ええ、それは構いませんが、そこまで私が裕己さんに信用されているかどうか」
「大丈夫です。きっと極美さんには連絡を取ります。そんな気がするのです」
極美は、教主にそう言われて嬉しくなった。
「わかりました。必ずお知らせしますわ」
「本当ですか? 良かったぁ。降屋はああ見えて思い込みが激しいので、私の信頼を失ったと思い込んでどれだけ落ち込んでいるかと思うと心配で心配で……」
教書の言葉からは、心底降屋を心配する気持ちが伺えた。極美は信者の身を案ずる教主の姿を見て心を打たれた。
「きっと、きっと連絡しますから!」
「ありがとう」教主は極美を頼もしそうに見て言った。「では、私の名刺を差し上げます。信用できる人だけに配る特別な名刺です。この電話にかけてくださると、私に繋がりますから」
特別な名刺と聞いて、極美はさらに嬉しくなって言った。
「光栄ですわ。必ずご連絡いたします!」
「ありがとう。たすかります」
教主は、講演で万人を虜にする笑顔を浮かべて言った。
その後、教主は15分ほど極美と世間話をすると、予定があるからと立ち上がった。玄関のドアを明け、部屋を出る間際に、教主は思い出したように振り返って言った。
「あ、極美さん。あなたが今取材している記事は何処まで出来ているのですか?」
「え? あ、あの三分の二くらいでしょうか」
「もしよかったら、読ませてくださいませんか?」
「ええっ、私の記事を?」
「はい。非常に興味があります。是非!」
「あ、はいっ、喜んで! 読み直して不備を修正したらお送りします」
「ああ、よかった。断られるかと思いました」
と、教主は安どの笑みを浮かべて言った。
「では、データを名刺のメール宛てに送ってください。これもホットラインですから私に直接届きます」
「まあ、長兄さま…、いいんですの? 私なんかにそんな…」
「極美さん、そんなにご自分を卑下されてはいけません。あなたは十分魅力的です。あなたはまだご自分の才能をわかっていらっしゃらないのです。この前の記事は素晴らしかったですよ」
「長兄さま…」
「では、極美さん、またお会いしましょう」
そういうと、教主はにっこり笑ってドアの向こうに消えた。
教主の去った後、極美はしばらく玄関のドアの前でぼうっとしていた。
「信じられないけど、長兄さまが直々会いに来られたのよね…」
極美は熱にうかされたように言った。
「信じられないけど、私なんかを頼ってこられたのよね」
そう口に出すと、今度はじわじわと感動が湧きあがっていった。
「素敵! 本当に素敵な方…!! そしてあんな素晴らしい方が私の才能を認めてくださったのよ。私、あの方のためならなんでも出来そう」
教主に最初会った時、極美はまだ若干の胡散臭さを否めないでいた。しかし、彼女は今、すっかり教主の魅力に憑りつかれたようになっていた。
教主は遥音涼子の待つ車に戻った。後部座席に座ると、すぐに涼子が訊いた。
「いかがでした?」
「ええ、極美さんは快く承諾してくださいましたよ。逃げ場を失った降屋君は極美さんに必ず連絡を取ります。教団に与していないのは彼女だけですから。少なくとも降屋君はそう思っているでしょう」
「はい…」
「降屋君にはもう一働きしてもらわねばなりませんからね」
「もう一働き…?」
「おや、何か不満そうですね」
「いえ、そんなことは…」
「まあいいでしょう。それより、真樹村極美さんはこれからいろいろ役に立ってもらえそうです」
「役に…」
「はい。実に魅力的な女性です。これから教団の広報としてがんばってくれたらと思います。しかし、ジャーナリストには向いていませんね。せっかくのチャンスに遭遇したのに、自分の考えで真実に向かうことをやめてしまいました。しかも、未完成の記事を他人に見せることを了承しちゃいけません。もっとも、もし真実に近づいていたら、例の病院で遺体袋に入ることになっていたかも知れませんが」
「……」
長兄が饒舌にしゃべるごとに涼子の表情は陰っていった。それに気づいた教主は、少しからかうような口調で言った。
「遥音先生、どうされましたか?」
「いえ、なんでもありません。私は何があっても長兄さまについて行きます。母なる碧珠(地球)を本来の姿に戻すために…」
涼子は答えたが、言葉とは裏腹に終始無表情のままだった。
「遥音先生、あなたはまるでロボットのように生真面目なんですね」
と、教主はやや呆れ気味に言った。
「まあ、いいでしょう。これから忙しくなります。遥音先生にも前にもましてがんばっていただかないとなりません」
「はい…」
「では、行きましょうか」
「はい」
涼子はすぐに車を発進させた。ハイブリットカーは静かに黄昏に消えて行った。
ギルフォード研究室では、葛西と森の内がやってきて祭りの報告をしていた。
「へえ。それはさぞかし壮観だったでしょうねえ」
葛西の報告後、ギルフォードが残念そうに言った。
「やっぱり僕も見たかったなあ」
「アレクには目の毒かもしれないけどね」
「余計なことは言わないでください、ユリコ。ところでジュンは祭りの衣装を着てたんでしょうか?」
「僕らは警備ですからこの格好のままです。てか、僕は地元じゃないんで、あの姿はちょっと恥ずかしいかも」
葛西に言われて森の内がすかさず反論した。
「葛西さん、なんば言いよっとですか。めちゃめちゃカッコよかでしょうが」
「あ、すみません、知事」
「そっかなあ。私もあれはちょっと。子供や若い人はともかく、おっさんやじーさんはねえ」
「あ、それ、セクシズムですよ、篠原さん」
「え~?」
「まあまあ、感想は人それぞれというコトで」
森の内がヒートアップしそうになったので、ギルフォードが慌てて止めに入った。
「それより、わざわざ来られたのは、他にも報告があったのではありませんか?」
「まあ、最近ご無沙汰していたから、近くを通るので挨拶代わりに寄ったということもありますが」
と言うと、森の内は姿勢を改めた。
「ここ4週間ほどF市内や近郊でウイルス患者の発生がないということで、このまま何事も無ければ祭りを完遂出来ることが正式に決まりました」
「そうですか。良かったですね」
「それも、先生や葛西さんたちタスクフォースの皆さんが頑張ってくれたおかげです」
「いや、僕は特に何もしてませんよ。知事、あなたの情熱の賜物だと思います。でも、最後まで気を抜かないでくださいね」
「もちろんです」
「で、ジュンは?」
「僕は知事の護衛を兼ねて来たのですが、お知らせが一つあります。例の似顔絵があまりにも『好評』だったので、もっとリアルな似顔絵が公表されました」
「えっ、そうなの? 見たい見たい」
「わたくしも見たいですわ」
「県警のHPでも公表されていますけど、一応お見せしますね」
と言うと葛西はスマートフォンで画像を見せた。
「これもミナミサのお墨付きです」
「まあ」
「へえ、けっこういい男じゃない」
「ホント、いい男ですねえ」
「これって同じ人が描いたの?」
「いえ、別の者です」
「いるんじゃん、ちゃんとした絵を描ける人」
「でも、こうして見るとあの絵はしっかりと特徴を捉えていたと思いますわ。見た目はシュールでしたけど」
「紗弥さんにそう言ってもらえると、波平も喜びますよ。紗弥さんはクールビューティーだって署内でもけっこう人気があるんですよ」
それを聞いて、紗弥は困った表情で言った。
「まあ、どうしましょう」
本気で戸惑っているようだった。ギルフォードがそれを見てにっこり笑って言った。
「サヤさん、ホントきれいですよ。もっと自信を持っていいです」
「そうだよ紗弥さん。戸惑うことなんかないんだよ」
「私も、今の嫁さんがいなきゃ、猛アタックしてますよ~」
「知事、そこで乗っからない!」
「すみません、つい」
由利子にたしなめられ、森の内は頭をポンとたたいて言った。
ギルフォードの研究室が妙な盛り上がりをしてから少し経った頃、感対センターでもその話題で盛り上がっていた。由利子が山口にメールで知らせたからだが、千夏に回復の兆しが見えてきたために、皆若干気持ちに余裕が出てきたのかもしれない。手の空いたスタッフがPCの周りでワイワイ言っている。
「けっこうイケメンねえ」
山口が興味津々で言った。
「なんでこんな人が美波さんを陥れようとしたのかしら」
それを聞いて、高柳が言った。
「おいおい、山口君。見た目で人を判断しちゃイカンよ」
「ああ、ごめんなさい。つい、もったいないって思ってしまって」
「ほんと、もったいないですよねえ」
と、横で春野看護師が同意したが、それを受けて男性スタッフの一人が肩をすくめて言った。
「まったくもう、女性はイケメンにはほんっと甘いんだからな」
「何言ってんの、男性だって美人には甘いじゃな~い?」
妙なテンションで盛り上がるスタッフの中、甲斐看護師だけが呆然とした表情でそれを見ていたが、一瞬ふらついたあと、そっとその場を離れていった。
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