1.攪乱 (1)希望の命名
20XX年7月1日(月)
竜洞蘭子は、朝から部屋で本を読んでいた。
彼女は、この前の金曜日に隔離期間が終わり感対センターから解放されたが、その後大学から呼び出しを受けた。そして、身分詐称未遂の処罰として反省文を書かされた上、一週間の自宅謹慎処分をくらってしまったのだった。
蘭子が偽造パスポートで海外脱出を企てたという警察への情報は、ガセだった。彼女が企てたのはF県脱出で、それにあたって職質等に備え、自分に似た友人からパスポートなどの身分証を借り、飛行機のチケットもその友人名義で買ったが、行き先は国内でもF県から離れた北海道の旭川だった。
そういう訳で、蘭子は未成年でもあることで警察からは厳重注意で放免、感対センターに隔離後、無事に自宅に帰りつくことが出来た。
彼女が県外逃亡を企てたのは、もちろん健二の件で感染を疑われたためだった。しかし、実際、自分が感染するはずがないことは、蘭子本人が一番知っていた。
実は、蘭子は森田健二とはほとんど顔を合わせたことがなかった。そもそも通う大学のレベルから違っていた。とある理由から、蘭子は健二の存在は知っていたが、気が強く気位の高い蘭子にとって、BFランク大学の健二など、いくら見てくれが良くても空気以下の存在だった。そんな2人が何故接点を持ったのか。それは、彼女の親友が健二に騙され、さんざん利用されたと知ったからだった。蘭子が健二を知っていたとある理由とは、親友の彼氏だということであった。
蘭子は知人から間接的にそれを聞いた後、親友本人に確認して詳細を聞いてから腹を立て、その勢いで健二のマンションに乗り込んで抗議したが、蘭子の罵詈雑言に切れた健二が彼女に襲いかかってきた。そのまま床に抑え込められた形になった蘭子だが、さすが竜洞組組長の娘、負けじと健二の急所に蹴りを入れ、呻く健二をそのままに足音も荒く部屋を出て行ったのだ。しかし、その腹いせか、何故か蘭子が健二の部屋までおしかけて交際を迫ったという噂を広められてしまったのだった。
蘭子が健二に会ったのはその時一回限りで、噂の否定すら馬鹿馬鹿しくなった蘭子はそれを無視していた。そんな根も葉もないうわさなど、放っとけば消えるだろうと思ったからだ。ところがその矢先、あのサイキウイルスについての特別番組が放送されたのだ。その時はまさかそれが自分に関わろうとは夢にも思っていなかったが、人づてにそれが健二の遺体で、蘭子が何故か健二の女の一人とされ、保護隔離の対象とされたと聞いた。蘭子が健二の部屋にねじ込んで行ったのはウイルス騒ぎの起きる少し前の事で、当然蘭子が感染するはずがない。しかし、違うと証明するにも証拠は何もない。おそらく見つかれば隔離は間違いないだろう。あんなクソ野郎のために、なんで自分がそんな目に遭わねばならないのか。再び面倒くさくなった蘭子は、とりあえず県外に出てしまおうと考え、幼少時から蘭子と似ていると言われていた親友の身分証を借りて空港に向かい、御用となったのである。
蘭子の部屋のドアをノックする音がした。
「お嬢様、葛城でございます。御所望されたコーヒーを持ってまいりました」
ノックの主は、家政婦の葛城(かつらぎ)喜代子だった。
「入っていいわよ」
「失礼します」
蘭子の許可を得、葛城が室内に入って来た。蘭子は読書を中断して椅子を回転させ葛城の方に向いた。
「何かわかったの?」
「はい」
葛城は蘭子の机にコーヒーを置きながら言った。
「藤原茅野と今西柚奈ですが・・・」
「死んだの?」
「はい。藤原さんのほうは土曜の夜、今西さんは今朝早くに亡くなられたそうです」
「そっ。馬鹿な男のために命を落としたものよね。下らない」
「娘の雅美も、お嬢様が目を覚まさせてくれなかったら、森田健二への未練を捨てられずにひょっとしたら彼女らと同じ道を辿ったかもしれません」
「でも、身分詐称補助で厳重注意を受けたでしょ。状況が状況だけに下手すれば前科がつくところだったのよ。葛城には悪いことをしたと思っている」
「めっそうもない。言いだしたのは雅美の方でございましょ。雅美は、子供のころからお嬢様によく似ておりましたから」
「乗った私も悪かったんだ。まさか、国内線であんなに警官(マッポ)が張っているなんて思わなかったもの。いったい誰が密告ったんだろ」
「わかりませんが、旦那様を陥れようとする勢力もございますから・・・」
「ああ、鬱陶しい。なんでこんな家に生まれたんだろう」
「お嬢様は子供の頃、『やくざはきらい。おうじさまとけっこんする』と言っておられましたものね」
黒歴史を穿り返されて、蘭子は本気で嫌そうな表情をした。
「あ~、もう。子供の頃の戯言を蒸し返さないでよ」
「お嬢様は気のお強い方なので誤解されがちですが、ほんとはお優しい方です。娘がお嬢様と間違われないように、あんな派手なメークをなさっていたのでございましょ?」
「ちがうってば。あれは私の趣味!」
「行く先を旭川になさったのも、以前から旭山・・・」
「も、もういいわ」
蘭子は焦って葛城を制止した。
「続きを読みたいから下がって」
「承知いたしました。失礼いたします」
葛城が出て行った後蘭子は再び本と向かい合ったが、ぼそっとつぶやいた。
「居たのよね、あの病院に。王子様」
しかし、蘭子はすぐにぷっと吹き出すと、すぐに真顔に戻ってコーヒーを一口飲み、一息つくと再び続きを読み始めた。
場所は変わってこちらはギルフォード研究室。教授室では、経過報告に来た葛西を交えて話し合いが行われており、時を同じくして話題は竜洞蘭子のことになっていた。
「じゃあ、竜洞蘭子は結局シロだったのね」
「金曜に無事退院しましたよ」
と、ギルフォードがその問いに答えた。
「僕もセンターで彼女から少し話を聞きましたが、その時はすでに落ち着いていて、君たちが彼女に会った時のような印象はありませんでしたよ」
「彼女の話では、森田とは付き合った事実はないようでした。パスポートも偽造ではなく友人のものでした」
と、葛西が補足して言った。由利子は呆れて言った。
「そんなもので誤魔化そうとしてたんだ」
「それがですね、良く似てたんです。さすがに出国審査には通らないでしょうけど、普通の人は一瞥したくらいではわからないかもしれません。行く先も海外ではなく北海道でしたし」
「何よ、それ」
「彼女曰く、自分は森田健二とは付き合ってなどいないから感染していないんだから北海道くらい行かせやがれ、ばかやろー、と」
「あの時、かなりわめいてたのは知ってるけど、そんなことを言ってたのかい」
由利子がさらに呆れて言うと、葛西も当時を思い出しながら言った。
「かなり怒ってましたからねえ。あの時」
「まあ、モリタ・ケンジ関係で唯一発症しなかったのは確かですから。それにしても、バカヤローなんて言うんだ、彼女。僕には知的な女性ってイメージしかないですが」
「猫被ってたんだ。私には凶悪なイメージしかないわ」
ギルフォードと自分との印象との違いに由利子がまたまた呆れ顔で言ったので、ギルフォードが笑って言った。
「ニシザワ・モモカ(西澤桃華)並みの二重人格デスネ」
「そういうことばっか詳しいんだから。でも待って。ってことは、蘭子が国外逃亡を企てたってのは・・・」
「はい。残念ながらガセネタだったようです」
と、葛西がバツの悪そうな表情で答えた。
「なんで、そんなタレコミがあったの?」
「判りません。蘭子か蘭子の親を快く思ってない者の仕業か、あるいは・・・テロリストの攪乱か」
「それはどうでしょう」
と言ったのは紗弥だった。
「結果的に蘭子さんは捕獲、いえ、保護されたのでしょう? 攪乱の意味がないと思いますわ」
「確かに、言われてみるとそうだわね」
と、由利子が納得して言った。
「その結果、感染者が逃亡したかもしれないと言う、無駄な不安が一つ消えたわけだし。そう言えば、隔離されたっていう、森田健二のカノジョたちは?」
「それなのですが・・・」
ギルフォードがやや眉を寄せて言った。
「そのおふたりは土曜の深夜と今朝、相次いで亡くなられました」
「そっか。結局二人とも亡くなったのか・・・。容赦ないなあ・・・」
由利子がため息交じりに言った。何人亡くなっても慣れるものではない。
「それで、河部さんの奥さんの容体はどんな具合?」
「一時的に危機的な状態に陥りましたが、今は持ち直しています。今までの経験から、まだまだ油断できませんが」
と、ギルフォードが答えると、今度は紗弥が質問した。
「じゃあ、今、治療中なのは、千夏さんだけですの?」
「いえ、残念ながら、まだ一人おられます。不法投棄現場で遺体を見つけられたご家族のえっと・・・」
つっかえたギルフォードをすかさず葛西がフォローした。
「お父さんの山中久雄さんが、先週発症されました。彼と一緒におられたおじいさんの秀雄さんも隔離中ですが、今のところ兆候は無いと言うこと・・・でしたね、アレク」
「はい。ただ、ヒサオさんが発症されましたので、ヒデオさんの隔離期間はもう少し長引くでしょう」
「じゃあ、他の家族の人たちは?」
「高校生と中学生の息子さんも同行してましたが、悪臭がひどかったのでかなり離れていたと言うことで、隔離は免れました」
「そう。不幸中の幸いだったね。そういえば、あの時の遺体って結局ひったくり犯だったの?」
「ええ、歯科医から得たカルテから、その渡部太夫也だったと判明したそうです」
葛西はそう説明したが、あの時の遺体を思い出して顔をしかめ口を押えた。それを見て由利子が訊いた。
「あの遺体、そんなにすごかったの?」
「凄いなんてもんじゃありませんでした。凄まじいものでしたよ。出来ることならあの記憶を全てデリートしたいくらいです」
すでに葛西は涙目になっていた。
「すっかりトラウマだね。見せられなくて良かったよ」
うっかり見て、それが脳裏に焼き付いたままになってしまったらたまらない。由利子は心底ほっとしていた。
蘭子より一足先に隔離から解放された河部巽だが、妻の容体悪化のため、週末まで休みを取り、月曜の今日が隔離後初の出勤だった。しかし、巽は午後になって感対センターに訪れた。彼の足取りは重く、表情はかなり暗かった。
スタッフは、いつものように巽に明るく挨拶するが、巽の周囲に見えないどんよりとした空気を感じて、一様にそそくさと去って行った。その姿を巽は辛そうな表情で見送った。
病室の前に行くと、妻の千夏が驚いて言った。
「あなた、今日から会社じゃなかったの?」
「あ? ああ、午後から休暇を取った・・・」
彼は答えたが、やはり精彩がない。
「まあ、有給だいぶ余ってるからさ、いいじゃない。で、具合はどう?」
「ええ、今日はだいぶ調子がいいけど・・・」
千夏は答えたが、何となく腑に落ちない表情だった。
実は巽は出社早々解雇通知を食らったのだ。理由は巽がサイキウイルス感染疑惑で隔離されたため、決まりかかっていた商談がお釈迦になってしまったことと、社内で感染者が出たという噂が広まったことで、著しく会社に不利益を与えたと言うものだった。巽は必死で釈明したが、まったく取り合ってもらえなかった。中堅どころの会社故に、イメージダウンの影響は計り知れない。しかも、ネットで個人名どころか会社名まで貼られてしまったのである。それに対しての会社側の対応は早く、早期に削除さえたものの、いったんネットに出回ったものを全て消し去るなど無理な話だった。
しかし、解雇通知より巽にダメージを与えたのは、同僚の態度だった。それは危険物に接するようなものだった。1m以上は近づかず、それどころか挨拶にすら応えてくれなかった。巽がトイレに入ると中にいる者たちはこそこそと出て行き、巽が出るとマスクと手袋の完全防備した男が駆け入り、消毒する音が聞こえた。苦楽を共にし、飲み会ではよく話しよく飲んだ。そんな同僚たちの掌返しは、巽にとってどんな仕打ちよりも辛かった。もうこの会社ではやっていけない・・・。巽は絶望し、解雇に了承するしかなかった。
巽は午前中に身辺整理を終え、会社を出た。誰も送ってくれない寂しい退職だった。会社の門の前でふと振り返った巽は、窓から数人の同僚が様子を伺っていたのに気付いたが、彼らは巽は振り返るとともに、オフイスの奥に引っ込んでしまった。しかし、人影が一つだけ消えずにいた。それは、巽に対して深々と礼をしたように見えた。誰かよくわからなかったが、背格好から巽の直属の上司だと判断した。それだけがわずかな気休めだった。
そういう事情で、妻の千夏の病室の前に座った巽の様子は奇妙だった。快活に話すと思ったら、千夏が話しかけても上の空だったりした。それで、千夏はついに痺れを切らして言った。
「あなた、なにかあったんでしょ。正直に言って」
ガラス越しで、しかも若干の距離がある状態ながら、妻にまっすぐな眼で問われ、巽はもう誤魔化すことが出来なくなってしまった。彼はうなだれて言った。
「千夏、すまん。おれな、会社を辞めてきた」
「え?」
「解雇だって」
「え? どうして?」
巽はその理由を手短に話した。話を聞いた千夏の両目から、みるみる涙がこぼれた。
「そんな、ひどい。たっちゃんのせいじゃないのに・・・」
しかし、その涙は悲しみよりも憤りの涙だった。
「ひどい、ひどい! 病気を疑われて無理やり隔離されたのに、解雇だなんてあんまりじゃない!!」
巽は千夏が悲しむより自分のために憤っている姿を見て、我が身に起こっていることの実感と不安、そして自分に対する情けなさが一度に押し寄せ、堰を切ったように周囲を憚らず泣きだした。千夏は驚いて巽の方に手を伸ばしたが、窓までの隔たりに気が付いて力なくその手を下ろした。しかし、千夏は考え直した。これは、むしろ思い切り泣かせてあげた方がいい。近くにいるスタッフも気を遣って巽の方を気にしながらも、敢えて近寄らないようにしているように思えた。
数分後、落ち着いた巽はハンカチを出して眼鏡を外し涙をぬぐいながら、情けない笑顔を見せて言った。
「ごめん、千夏。おまえに辛い思いばかりさせるバカ夫でごめん」
「たっちゃん。あのね」
千夏は敢えて話を変えることにした。
「昨日あなたが帰った後ね、ギルフォード先生がお見舞いに来てくれたの」
「あの、イギリス人の教授が?」
「ええ。それでね、いろいろお話をしてくれたの。研究室にいる人たちの面白いエピソードとか巨大金魚の話とか、あとね、先生が援助で行ったいろいろな国の話とか。笑ったり、はらはらドキドキしたりしたわ」
「へえ、どんな話だったの?」
「うふふ。退院したら家でゆっくり話してあげる。それよりもね・・・」
千夏はそういうとクスクスと笑った。
「なんだよ、千夏。思い出し笑いは気味悪いぞ」
「ギルフォード先生がね、ひとしきり話した後、もじもじしながら色紙を出して見せてくれたの。そしたらそこに甲骨文字みたいな字が書いてあって・・・。私、なんだかわからなくてきょとんとしてたの」
ギルフォードは色紙を見せたものの、千夏の表情から彼女の困惑を察し、顔を赤らめながら言った。
「スミマセン。秘書か助手に書いてもらうべきだったのでしょうけど、なんだか照れくさくて・・・」
「なんですの? それ」
「えっとですね、えっと、チナツさん、亡くなった赤ちゃんの名前、どうされました?」
「いえ、まだ『赤ちゃん』としか・・・」
「センエツとは思いましたが・・・」
千夏は、イギリス人が『僭越』という単語を口にしたのを聞いてなんとなく可笑しくなった。ギルフォードは照れくさそうにしながら言った。
「僕、名前を考えてみたんです。コレ、循環の『環』と言う字です。バランスがヘンですケド・・・」
言われてみれば、その亀甲獣骨文字(甲骨文字)は確かに『環』と言う字に見えた。
「『たまき』ですか?」
「いえ・・・、あ、名前の場合普通はそう読むのでしょうけど・・・、僕は「めぐる」って読むのがいいなって思ったんです。またあなた方の元に還って来るようにって」
「先生・・・」
千夏はギルフォードの思いがけない気遣いに、涙を禁じえなかった。それ見て、ギルフォードが戸惑いながら言った。
「ああ、ゴメンナサイ。辛いことを蒸し返してしまったでしょうか」
「いいえ。嬉しいんです。こんなに気遣っていただいて・・・。環ちゃん。めぐちゃんね」
「女の子だったんですか?」
「ええ。かわいそうなことをしました。でも、これで戻ってくれるような気がしてきました。その為にも私、早く元気にならなくちゃいけませんね」
千夏は笑顔を取り戻して言った。
実は、千夏は危機を脱した後もしばらくは容態が優れず、依然予断を許されない状態が続いていた。人工呼吸器は外されたものの酸素マスクはとれず、千夏は、再びまたあの想像を絶する苦しみが襲ってくるかもしれない恐怖を戦っていた。そんな時に、ギルフォードはやってきた。
千夏は色紙の甲骨文字を見ながら、ギルフォードが大きな体を丸めて、一所懸命漢字を書き写している姿を思い浮かべた。彼の横には預かっていると言う犬が座って、首をかしげながらそれを見ていたかもしれない。きっと、文字も辞書と首っ引きで調べたのだろう。それを思うと、自然と笑顔がこぼれた。千夏が落ち着いたのを見届けたギルフォードは、安心したように去って行った。
「そんなことがあったんだ」
巽は妻の話を聞いて言った。
「ギルフォード先生はどうしてそんなに僕たちのことを気にかけてくれるんだろう」
「それはきっと、先生が同じような病気で苦しんだ経験があるからだと思うわ。あの後ね、看護師さんが教えてくれたの。ギル先生ね、ここに来たら、先生が関わった患者さんや感染の疑いで隔離されている人たちのところにお見舞いに行って、必ず励まして帰るんですって」
「へえ、マメな人なんだなあ」
「ええ。きっと日本人以上に律儀よ。あなたのこともすごく心配してたわ。あまり泣くと目も一緒に流れちゃうよって」
「うわ。困ったな。泣き虫と思われたなあ」
「仕方ないよ。本当に信じられないことの連続だもん。だからね、たっちゃん。私はもう大丈夫だから、あなたはこれから就活に専念して。帰って来ためぐちゃんを安心して迎えられるように」
「わかった。でも、一番大事なことは、君が回復することだよ」
「ええ、石にかじりついても死なないわ。絶対に」
「そう、その意気よ、千夏さん」
後で声がしたので、巽が驚いて振り返ると、山口医師が立っていた。
「山口先生!」
二人が異口同音に言った。
「あら、驚かしちゃったかしら? 旦那さんが来られたので、例の色紙を持って来たの」
「預かって下さってたんですか?」
千夏が言うと、山口は笑顔で答えた。
「正確には、奪ったと言うべきかしら? ギル先生は恥ずかしがって持って帰ろうとしてたけどね」
山口はそう言うと、ぷぷっと吹きだした。
「安物だけど、曲がらないように一応額縁に入れてあげたから、巽さん持って帰っていですよ。ほら、これよ」
山口は持っていたペーパーバッグから、細い縁のプラスティックの額に入った色紙を巽に渡した。
「おや、これは・・・、確かに・・・」
巽はそこまで言うと笑いをこらえて口ごもった。色紙には、見るからに一所懸命に書いたと思われる金釘文字で『命名 環』と記されていた。
「へっしょ」
研究室でギルフォードがくしゃみをした。
「Bless you! この暑いのに風邪ですの?」
「夏風邪はナントカがひくっていうけど・・・」
紗弥と由利子に言われ、ギルフォードが否定した。
「違います。これは、きっと誰かが噂してるんです」
「そう? じゃあ、ジュリーかな?」
「彼のことは言わないでください」
ギルフォードは少し口を尖らせ気味に言うと、仏頂面のまま調べものを続けた。由利子は首をかしげて紗弥に耳打ちした。
「何かあったの?」
「なんでも、ジュリアスの来日が一週間ほど遅れそうなんですって」
「2週間って言ってたけど、じゃあ、3週間?」
「ひょっとしたら、もう少し遅れるかもと言うことでしたわ。何かトラブルがあったようですの」
「それで、お冠なわけか。3週間くらい待ってやれよ。ったく、ウチの男どもときたら面倒くさいのばかりだな」
「それって葛西さんのことですの?」
「そ~ね。他にも長沼間さんとか、ああ、知事も面倒くさそうだねえ」
「まあ、知事も頭数に入ってるんですの?」
「ちょっと思い出しただけだよ。そういえば、山笠今日からだっけ」
「テレビをつけてみましょうか。夕方のローカル番組でやっているかもしれませんわ」
紗弥はそう言いながらリモコンを手にした。
「まあ、ちょうど『街角だより』のコーナーでその話題があってますわ」
「ほんとだ。注連(しめ)下し、ご神入れ、当番町お汐井(しおい)とり、今日の行事は無事終わったみたいね」
「飾り山は今日公開ですの?」
「うん。ご神入れが終わったら公開されるんだよ」
「まあ、見に行きたいですわ。去年はなにかと忙しくて見に行けなかったんですの」
「そうなの? じゃ、近々二人で見に行こうか」
「いいんですの?」
「うん、うん。デートしよっ」
「まあ、嬉しい」
二人が盛り上がっているのを見て、ギルフォードがそっと顔を上げて言った。
「あの、僕は?」
「ああ、忘れてた」
「ユリコ、それはないでしょう。ハブらないでクダサイ」
と、ギルフォードが恨めしそうな顔で言ったので、由利子は笑って言った。
「冗談よ。一緒に行こう。ボディガードは多いほどいいもんね。それにしても・・・」
由利子はテレビの画面に目をやって言った。
「ウイルス騒ぎのせいで、これから15日の追い山まで大変なの、わかってんのかね、この人」
画面には、法被(はっぴ)に締め込み姿の男たちに混じって満面の笑みでインタビューに答えている森の内がズームアップされていた。
| 固定リンク
最近のコメント