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4.乱麻 (4)シンプル・ゲーム

 西原祐一は、あの事件以来すっかり明るさを失っていた。将来はジャーナリストも夢じゃないと言われていたほどの報道研究部もあっさりと辞め、昼休みや放課後を学校図書館で過ごすようになった。彼に付き合い、リーグのメンバー(『タミヤマ同盟(リーグ)』とリーグ発足者の彩夏が多美山刑事に因んで命名)良夫・勝太そして彩夏も図書館に入り浸るようになった。

 今日も放課後に祐一を筆頭に4人ゾロゾロと図書室に入って行くと、司書教諭の中谷悟朗が声をかけた。
「来たね、西原君と金魚のフン」
 それを聞いて彩夏がムッとした顔をしたものの、4人は会釈をして「こんにちはー」と言うと、いつもの席に向かった。不思議なもので、通い始めるといつの間にか居場所が決まってしまうが、それは人間が動物であることの証明でもある。中谷は声をかけて見事かわされたものの、懲りずに言った。
「錦織サン、怒った顔も可愛いねえ」
「セクハラだわ」
 彩夏は小声で言ったがそのまま無視して男3人を追い抜き、足早に席についた。彩夏に前を横切られて、足を止めた祐一に中谷が言った。
「おっと、金魚・・・やない、西原君、頼まれとった本、入ったけえね。ほら、これじゃが」
 中谷は屈んで数冊の厚い本を出すと、カウンターの上に置いた。祐一は急いで貸出カウンターに戻った。
「ありがとうございます。早かったですね」
「ああ、普通ならこんな専門的で高価な本をしかも同じテーマを3冊もなんて通らない可能性もあったけど、今、こういう事態やろ? 僕が口八丁手八丁で・・・」
「ありがとうございます。席に持って行っていいですか?」
 祐一は、中山の言葉をさえぎるように言うと、返事を待たずに本を手にした。中谷は半ばあきれたようにして言った。
「ああ、どうぞ」
「すみません」
 祐一は3冊を抱えると、急いで皆の待つ席に向かった。その背中に中谷はまた声をかけた。
「おい、西原君、2冊は新興ウイルス関連の本やけぇわからんでもないが、もう一冊の『悪魔の生物学』ってのは生物兵器の本やろ」
「ええ。そうです。それがなにか?」
 祐一は体を半分だけ中谷の方に振り向けて聞き返した。
「いや、実際にそういう噂を聞くんでね。だけど、西原君。変な噂に惑わされてはいけんよ」
「大丈夫です。僕はそんなものに惑わされません。微生物を知るために読んでみたかっただけです」
 祐一はそういうと、こんどこそ席に向かおうとしてとしたが、何かが気になったようでまた中谷の方を振り返った。
「先生、Y県の方ですか?」
「いいや、H県じゃが、何で?」
「お国言葉がダダ漏れですよ」
 祐一はそういうと、にこっと笑った。
「西原君。ようやく笑うたのう」
 つられて中谷は笑顔で言ったが、祐一が席について読書を始めると、首をかしげながらつぶやいた。
「なんで方言が出たんやろ?」
「あれ、なんか中谷先生、首かしげてるけど、どうしたと?」
 と、良夫がそれに気がついて言った。祐一は本から目を離さずに答えた。
「方言を指摘したからだろ」
「だって、普段からダダ漏れやったやろ」
 と、勝太が言ったので彩夏が少し驚いて言った。
「方言違ったの? そういえば、なんか違和感があったけどそのせいだったのね。海峡を挟んで言葉が変化してるんだ。面白いわ」
「九州じゃ『いけない』を『いかん』っていうけど、中国地方じゃ『いけん』になるからね」
 と、彩夏の言葉を受けて、良夫が言った。
「『いけん』のほうが『いけない』に近いけど、『いかん』って言葉自体は関東の方でもオジサンが使ってる言葉よね」
「ところがさ、『いけん』って北九州の一部も使うらしいんだ。でも、日本の方言は『いかん』が主流みたいなんだ。関西は『アカン』だけど。関門海峡で言葉が違ってるなかで、境界付近ではそういう共通点もあるんだよ」
「へえ、おもしろいわねえ」
「大まかな方言の体系は、中国地方と九州に分けられるんだけどね」
「やっぱり、昔は本州と九州は交通手段が船しかなかったからかしら?」
「多分そうやろうね。徒歩で行き来できるかそうでないかは重要だね。特に昔は」
「それでも一部の言葉が混ざるってのも不思議よね」
「うん。なんでか調べてみたら面白いかもね」
 と、二人は仲良く話していたが、ふと自分等が顔を突き合わせて話しているのに気が付いて、同時に「ふん!」と言って顔をそむけた。
「仲良いよね」
「うん。そう思う」
 勝太と祐一がボソッと言いあった。

「教授、こっちに帰ってきてから美月ちゃんと遊んでばかりじゃあありませんか。ちゃんとお仕事してくださませ」
 紗弥が、美月のそばから離れようとしないギルフォードに対して、しびれを切らして言った。そんなギルフォードを見ながら由利子が紗弥に小声で言った。
「電話の声が怒ってたって言ってたけど、なんか大丈夫そうじゃない?」
「いえ、多分センターで何かあったんですわ。報告がまったくありませんし、第一燥(はしゃ)ぎ過ぎですわ」
「う~ん、そう言われてみると・・・。でも、日頃からちょっとムリして明るくふるまっているようなトコあったからなあ」
「まあ、気付いておられたんですの?」
「なんとなくね」
 ジュリアスから聞いた話のせいでそう思うのかもしれないと思ったが、由利子はそれを口に出さなかった。
 そんな時、教授室の電話が鳴った。
「はい。ギルフォード研究室でございます・・・。あら、山口先生。・・・まあ、そうですの? 少々お待ちくださいませ」
 紗弥は電話を保留にすると、ギルフォードに言った
「教授、山口先生からですわ。携帯電話に電話しても出ないからと・・・」
「だって、帰ったばかりなんだもん。美月と遊びたいんだもん」
「幼児化していないで、さっさと出てくださいませ!」
 紗弥から怒られて、ギルフォードはしぶしぶ電話に出た。
「はい。トモさん。高柳先生は?」
 電話の向こうで山口が言った。
「高柳先生は、三原先生と手が離せない患者さんを診ておられます。今、二人の方が深刻な状態におられますが、そのうちの一人が危篤状態なんです。それで、私がお電話を差し上げているのですが・・・」
「何かあったのですか? まさか、また・・・」
 ギルフォードは、嫌な予感を覚えつつ訊いた。
「はい、また新たな感染患者が搬送されたそうで、もうすぐ到着するみたいですが」
「なんてことだ。それで、感染ルートはわかりますか?」
「ええ。一週間前の、F駅で感染者が亡くなった事件です。その時に感染者からの飛沫が眼鏡に付着した男性がいたらしくて・・・」
「それなのに、名乗り出なかったのですか」
「ええ。でも、発症されたのは、その方の奥さんなんです」
「オ~、最悪です」
「しかも、もっと最悪なことが・・・」
「なんです?」
「件の旦那さんが、今海外出張中らしいんです」
「海外・・・」
 ギルフォードは一瞬絶句したが、続けて言った。
「どの国へ出張されているのでしょうか」
「アメリカだそうです」
 それを聞いて、ギルフォードは憂鬱そうに言った。
「アメリカ・・・ですか。まずいですね。なんか嫌な予感がします・・・」
 由利子と紗弥は、不安と興味の入り混じった風情で様子を見ていたが、ギルフォードの電話が終わると、むしろ興味津々で質問してきた。
「何? また感染者?」
「最悪ってどういうことですの?」
「今回は、特にメンドクサイことになりそうです」
 と前置きすると、ギルフォードは再び美月のそばに座りこみ彼女の頭を撫で、そのまま電話の内容を説明した。
「じゃあ、その旦那さんが感染していたら・・・」
「アメリカ大陸にウイルスが上陸したことになります。早急に封じ込め対策がなされるでしょう。すでにアメリカ政府に連絡済みということですから、ダンナはおそらく日本に強制送還されると思いますが・・・」
「アメリカだったらなんかまずい訳?」
「まずいのはアメリカでもロシアでも中国でも北の国でも一緒ですけどね・・・」
「何故ですの?」
「新型の殺人ウイルスですよ。興味持たない方がおかしいでしょう」
「何それ? 上陸されたら困るんじゃないの?」
「ええ。自国に拡散するのは困る、でも、ウイルスは欲しいってとこですか。僕がCDCに送った検体ですが、アメリカ陸軍から再三、分けてほしいと言う要請があっているらしいのですが、CDC側は断固として断っているそうなんです」
「それって、やっぱ、悪用されそうだから?」
「その可能性もありますが、話はもっとリアルです。2001年の炭疽菌テロの時の確執がまだ影響しているんですよ。あの時、CDCは米陸軍に出し抜かれっぱなしでしたからね。以前お話したように、炭疽菌のノウハウは米軍の方が勝っていたとはいえ、ほんと、いいとこなしだったんですよ。もともと犬猿の仲だったってこともありますが・・・」
「ああ、あの、米軍のマッチポンプだったって・・」
「ではなくて、炭疽菌の内部流出ですってば。そういう機関としてはもっとマズイ」
「今サイキウイルス感染者の検体を持っているのはCDCと、どこ?」
「フランスのパスツール研究所、海外ではその2か所だけのはずです」
「パスツール研究所にも、そういった依頼が来ているんじゃないの」
「それどころか、センターや僕にも各国の研究施設や学者から熱いラブコールが来てますよ。新種のウイルスを発見することは名誉なことですから、競争率があがらないように、おそらく横流しは起きないを思いますが・・・」
「ふうん。まあ、ウイルスが流出しないに越したことはないけど、みんなで探した方が早く見つかるよね。科学者の世界もいろいろ大人の事情があるんだねえ」
 と、由利子がしみじみ言うと、ギルフォードが肩をすぼめて言った。
「むしろ、オトナの事情だらけですよ。ただ、君が言ったように、他国から悪用される可能性も十分考えられます。おそらく米軍もこのウイルスがテロに利用されていることは周知でしょうから、早く手に入れて正体を解明しないと心配で安眠出来ないんでしょう」
「なるほどね。確かにメンドクサイね」
「ところで、教授」
 紗弥が、改めて言った。
「園山さんのことですが、どうなったのですか。お帰りになってから、まったくそのことに触れられないので、気になっているのですか・・・」
 園山と聞いて、ギルフォードはため息をついて言った。
「ショックを受けるだろうと思って、言いたくなかったのですが・・・」
 ギルフォードは少し困った顔をすると、数時間前の出来事を話し始めた。
 由利子たちは、ギルフォードからの報告を聞いてさすがにショックを隠せないようだった。
「そんな・・・。園山さんが敵のスパイだったなんて・・・」
 と、由利子が見るからに愕然として言った。紗弥は黙っていたが、いつものポーカーフェイスに陰りが見えている。
「僕だって信じられませんでしたから」
「多美山さんにあんなに献身的にしてたのも、罪滅ぼしだったの?」
「そういう気持ちもあったのでしょうけど、タミヤマさんに対しての献身は、本心からのものだったと思います。でなければ、自分が感染する程患者と接することなんて、怖くてできません」
「自業自得ですわ」
 と、紗弥が少し険のある口調で言った。
「紗弥さん?」
「それより、どういう経緯で園山看護師が送り込まれたかが重要ですわね」
「その通りです。さらに、あの病院がどの程度敵に浸食されているかも調べねばならないでしょう。内通者がソノヤマさんだけならいいのですが」
「むしろ、敵の目的はセンター内のかく乱じゃないの?」
「こちらの一枚岩を壊そうって魂胆ですか。確かにスタッフにかなりの動揺が見られました」
「っていうか、動揺しない方がおかしいよね。連中にとっては園山さんが感染して死ぬことなんかどうでもよくて、彼のスパイ発覚における動揺こそが目的だったとか」
 由利子が言うと、紗弥が深く頷いた。
「しかも、このテロの首謀者は愉快犯的な面がありますから、園山看護師の投入すら余興と考えているかもしれませんわ」
「ひどい。何の意味があってそんな」
「それは、自明のことですわ、由利子さん。彼あるいは彼女は最初にメールで明言していましたでしょ。ゲームだと」
「ゲーム? ゲームって、いったい何のゲームなのよ」
 由利子の質問に今度はギルフォードが答えた。
「そのまんまですよ。ウイルスを封じ込めて殲滅し、ラスボスまでたどりついて倒す・・・いえ、この場合は逮捕する・・・ことが出来れば僕らの勝ち。対して、テロリストの方はウイルスを世界中に拡散させれば勝ちです」
「明らかにこっちの方が不利じゃん。そもそも、今どのステージにいるかすらわからないのよ。」
 由利子はうんざりした様子で言った。
「正体不明の誰かさんから勝手に振られたゲームですが、負けるわけにはいきません。大袈裟ではなく、これは下手をすれば人類の未来にも関わるゲームなんですから」
「テロならテロで、なんで素直に首都を狙わないのよ。何考えてるのかさっぱり判らないわよ! はあ、またむかついてきたわ。もうこの話やめよ。そういえばアレク、センターには行かなくていいの?」
「危篤患者が二人いるところに新患が搬送されるんです。医療行為の出来ない僕が行っても邪魔になるだけですから、要請がない限りここでおとなしくしていますよ。さて、ミツキ姫、僕は秘書閣下の仰せのとおり仕事に戻らねばなりません。姫はしばしここでお休みくださいませ」
 ギルフォードは恭(うやうや)しく言うと、立ち上がって自分の席についた。美月は判ったのか、自分のペット用マットの上をうろうろしてちょうど良い寝場所を見つけると、大人しく横になった。

 祐一たちは閲覧を終え、例の如くぞろぞろとカウンターの前を横切ろうとしていると、またもや中谷が声をかけた。
「先生は嬉しいよ。最近インターネットや電子書籍の普及で図書館の利用者ががた減りしているんだよ。特に調べものなんかは、ネットで検索したらほとんど答えが出て来るからね。それでなくても、近年本離れが進んでいたからね。君たちのように頻繁に利用してくれる子達は逸材なんだよ」
 祐一は、立ち止まり真顔で言った。
「僕はネットも利用しますけど、やっぱり画面より本を読んだ方が、自分のものにしやすいと思うんです。図書館にはネットでは読めない貴重な本もありますし、それに・・・」
「それに?」
「操作次第では一瞬でデータがなくなったり、停電になるとまったく利用できなくなったりするようなものは、信頼できないんです」
 中谷は一瞬ぽかんとしたが、すぐに半ばあきれたように言った。
「君、本当に中学生?」
 祐一は肩をすくめてそれに答え、「失礼します」と言って図書館を出、先に退出して待っていた友人3人と合流した。
 4人は連れ立ってバス停に向かった。彼らは周囲からなんとなく注目されていた。祐一と彩夏が並ぶとかなり目立つからだ。
 面白くなさそうな顔をしていた良夫が、意を決したようについと前に出た。
「西原君、あの本借りよったと?」
 良夫が彩夏と反対側の祐一の横に並びながら訊ねた。
「いや、家では他にすることがあるから、休み前に借りようと思うんだ。きっとあんな本、オレ以外借りないよ」
 祐一の答えを聞いて、彩夏が興味津々な様子で言った。
「じゃ、あの生物兵器の本、明日私が借りようかな? 週末には返すから心配しないで」
「大丈夫? けっこう字が細かいし、女の子には退屈かもしれないよ」
「バカにしないで。私、これでも意外と読書家なんだから」
 彩夏はつんとして言うと、後ろに下がって勝太と並んだ。勝太は少し嬉しそうに笑った。対照的に祐一は、しまったという表情でつぶやいた。
「一言多かったな・・・」
「気にせんでいいよ、あんな女」
 と、良夫がつんけんした様子で言った。
(こいつも素直じゃないよな・・・)
 祐一は心の中でつぶやいた。
 その4人をやや離れた場所に止まった車からじっと見つめる人影があった。それは、彼らがバスに乗り去って行くのを確認すると、車を発進させて去って行った。 

 
  
 NY(ニューヨーク)出張中の河部巽は、ホテルで寝ているところを異様な姿の者たちに囲まれて飛び起きた。
”な、何です? あんたたちは? まだ4時ですよ!!”
”就寝中,まことに申し訳ありません”
 隊長と思われる者が、巽の方へ近づきながら言った。どうやら女性らしかった。
”何者ですか、あんたたちは!”
”米軍海兵隊CBIRFです”
「シーバーフ・・・?」
 CBIRFについては聞いたことがあった。確か生化学災害に対応する部隊だったような・・・。巽は、時差のせいでなかなか寝付けず、ようやく眠ったところで寝込みを襲われたため半ば痺れたような頭で、何とかこの事態を把握しようとした。
「寝起きドッキリ・・・じゃないよな」
”ミスター・タツミ・カワベ.あなたをサイキウイルス感染の疑いにより,保護いたします”
”サイキ・・・,なんだって?”
”ミスター・カワベ,あなたの奥様がサイキウイルス感染症を発症され,感染源はあなたとされました,よって・・・”
”サイキウイルス? 妻が発症? 何の冗談だ? あいつはいま妊娠中で・・・”
”私たちはまだ,詳しいことはお聞きしていません.あなたの身柄を保護し,日本にお送りするよう指令を受けました”
”妻は,おなかの子は,大丈夫なのか? まさか私が帰るまで・・・”
”残念ですが,我々にはわかりません”
”なんということだ・・・! 夢なら覚めてくれ・・・”
 巽は両手で頭を抱えるようにして、髪を鷲掴みにし、呻いた。
”出来るだけ早く日本へお帰しします.急いでご用意をなさってください.”
”ちょっと待ってくれ.今叩き起こされたばかりで急に言われても何が何だか・・・”
”速やかに言うとおりにしてください.御身のためにも”
 隊長らしき女は、丁寧ではあるが有無を言わせぬ口調で言った。  

 長兄こと碧珠善心教会教主、白王清護(すめらぎしょうご)は、講演を終えて教団のF支部である碧珠会館の廊下を自室に向かって歩いていた。そこへ、月辺洋三が姿を現した。
「おや、月辺、どうしました?」
 教主に声をかけられ、月辺はさっと跪くと言った。
「長兄さま、園山の件でお話が・・・」
「わかりました。ちょうど部屋に帰るところでしたから、そこでお話を聞きましょう。一緒に来てください」
 教主は月辺に言うと、また歩き出した、月辺はすぐに立ち上がり、教主の後ろをついて歩いた。
「さて、月辺。話を聞きましょう」
 教主は部屋に入って机に座ると、前に跪いている月辺に言った。月辺は跪いたまま、ちらと教主の横を見て言った。
「その前に、恐れながら長兄さま。なぜそこに女医がいるのですか?」
「先生とはこの後大事なお話があります。月辺、あなたの話は彼女に聞かれると困るような内容ですか?」
「そうではありませんが、あまりにもその者を信用しすぎているのではないかと・・・」
「私のやりかたに不満ですか?」
 教主の口調は静かでものやわらかだったが、月辺は急に狼狽して言った。
「いっ、いえ、めめめ滅相もございません。出すぎたことを申し上げました。お許しください」
 月辺は言うなりひれ伏した。それを見ながら、教主は満足そうに微笑みながら言った。
「月辺、顔を上げてください。さあ、お話とはなんですか」
「ははっ」
 月辺は恐縮しながら顔を上げた。
「先ほど知らせがありまして、園山が死んだと・・・」
「おや、そうですか・・・。それは・・・かわいそうなことをいたしました・・・」
 教主は、少し目を潤ませながら言った。月辺はそれを見て言った。
「御慈悲は無用ですぞ。あの男はギルフォードめにほだされて神祖さまが尊いお教えを捨てた挙句に、我らの情報を漏らしたのです。幸い、病状が進みすぎていて、ほとんど伝わらなかったようですが・・・」
「彼の感染は予想外でしたが、発症後の彼がそうなるだろうことは予想しておりました。むしろ、よくもったといえましょう。彼のような子供のころから刷り込まれた宗教心にはなかなか完全に上書きすることは難しいですから。それより、敵の結束に毒を流し込んだ彼の功績のほうを評価してやりましょう。情報が漏れた件も、少しくらい相手にヒントを与えたくらいが、却って展開が面白くなるというものです」
「寛大なお言葉、痛み入ります」
「ところで、月辺。斉藤某の立てこもりですが、あれを画策したのはあなたですね?」
「お見通しでございますな。出過ぎた真似をいたしました」
「おかげで面白いものが見れました。しかし、くれぐれも敵に気付かれないように心配りをなさいますよう」
「伊達に参謀は名乗っておりません。電話も田舎街の公衆電話を使いましたから、斉藤某の携帯履歴から何も得ることは出来ないでしょう」
「あれはなかなか見ごたえのある事件に発展しました。ただ、今後はますます慎重に事を運びますように。我らの計画はこれからが大事なのですからね」
「承知いたしております」
「いいでしょう。これからも頼みますよ」
「では、私はこれで・・・」
 と、月辺は跪いたまま礼をすると立ち上がり、再び恭しく礼をして教主の部屋を出て行った。
「さて、遥音先生、お聞きの通りです。私の言ったようになったでしょう?」
 教主は、横に一言もしゃべらず立っていた涼子に言った。
「はい・・・」
 涼子は目を伏せたまま答えた。
「しかし、長兄さま。園山にワクチンを投与していさえすれば、命を失うこともなかったでしょう」
「それは出来ませんよ。何がどう作用してこのウイルスの情報がもれるやもしれません。死のうが生き延びようが、彼の体は徹底的に調べられましょう」
「しかし、信徒を捨て駒にするのは・・・」
「それは、園山も納得していたことです。彼は喜んで私の要請を受けたのですから」
「でも・・・」
「遥音先生、これはゲームなのですよ。プログラムこそ我らが作成しましたが、私もあなたもギルフォード先生たちと同じプレイヤーであり登場人物でもあります。ただのゲームですが、人類の存亡をかけたリアルなゲームと言えましょう」
「でも、人の命がかかったゲームです」
「命のかかったゲームなど沢山ありましょう。私に言わせれば、戦争も大勢の命がかかったゲームです。しかも、かかる命は私の計画など足元にも及びませんよ」
 教主はそう言うと、嬉しそうに声を上げて笑ったが、すぐに真顔になって言った。
「これ以上は不毛です。さて、遥音先生、もう一つのプログラムの方はどうなりましたか?」

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4.乱麻 (5)サヴァイヴァーズ

 もう一つのプログラムと聞いて、涼子は少し表情を曇らせながら言った。
「『2nd(セカンド)』のほうも順調です」
「順風満帆ですね。これからも完成に向けて励んでください」
 教主は満足そうに言った。涼子はその様子を見ながら、思い切ったように訊いた。
「長兄さま、アレが完成したら本当に使われるおつもりですか?」
「使わないものをあなたにお願いすることはありませんよ」
「あんなものを使ったら、人類の医学は中世に戻ってしまいかねません」
「中世の黒死病も、実はペストではなくて出血熱ではなかったかという説があるようですね。実際、ペスト等の古くから知られた感染症と、近年発見されたエボラなどのいわゆるエマージング(新興)ウイルス、どちらも人類に対して脅威です。今彼らを制圧した、あるいは制御しようとしている人類は、いつか、彼らの反逆に遭いましょう。私はその時を少しだけ早めてあげるだけですよ」
 と言うと、教主はさも楽しそうに笑った。涼子は自分が加担している計画の恐ろしさと、自分が仕える男の狂気を改めて実感し、体が小刻みに震えるのを抑えることが出来なかった。
「おや、怖いのですか、遥音先生?」
「もちろん、怖いです。しかし、私は長兄さまに永遠にお仕えすることを誓いました。最後まであなたに従います」
 涼子はかすかに震えながら答えたが、彼女の眼は教主をまともに見ることが出来なかった。教主は涼子を一瞥すると、クスリと笑って言った。
「あなたの忠誠心を信じましょう。2ndの開発を急いでください。念を押しますが、それにはワクチン等は必要ありません。これを使う時は、我らも衆生(しゅじょう)と同等でなければなりません。いいですね」
「はい。承知しております」
「では、ラボにお戻りください」
 教主に言われて、涼子は恭しく一礼すると、その場を去って行った。残った教主は笑みを湛えたままつぶやいた。
「涼子、遺伝子操作の天才にして、僕の愛する傀儡。僕と共に、世界中の人々に、僕やチサ村の人々が味わった恐怖や苦しみを味あわせてあげようね」
 その後教主はくっくっと喉を鳴らして笑ったが、それは次第に哄笑へと変わった。だが、いつしか彼は椅子にうずくまるようにして座り、涙声でブツブツとつぶやいていた。
「お父様、僕は教主になんかなりたくなかったんだ。僕は兄さんと兄さんのお母さんと、普通に暮らしたかったんだ。どうして僕をあんなところへ連れて行ったの? そして、どうして僕を置いて逝ってしまったの? 僕は未だに夢を見るんだ。あの時死んだ人たちの苦しそうに歪んだ血まみれの顔、顔、顔・・・。そして、死にかけた僕の顔とそれに重なるもう一人の僕と言うべき彼の顔。みんなが僕に言うんだ。人々にこの苦しみを分け与えろって。疫病をばら撒けって・・・。だって、僕は生き残ってしまったから・・・。生き残って・・・」
 と、教主の声がふいに自信に満ちたものに変わった。
「そう、僕は生き残った。僕は、いや、僕らは選ばれて生き残った。そして、それぞれに陰と陽の役目が与えられた。疫病をばら撒く疫神とそれを払う除疫神だ。僕らはそういう運命なんだよね」
 教主の顔は再び輝きを取り戻した。彼はすっくと立ち上がり部屋を出た。ドアの外で待機していた御付の女性たちと『衛兵』が、恭しく頭を下げた。教主は女性たちに向かって言った。
「今からニュクスの間に参ります」
 颯爽と歩く教主の後を二人の女性が、静かに続いた。 

 河部千夏の母親、山崎八重子は、娘の掛かり付けの産院で戸惑っていた。
 娘が体の異常を訴える電話をかけてきたので、急いで産院に行けと指示したあとすぐに、自分もタクシーを呼んで件の産院に向かった。タクシーを使うには若干距離があったが、公共交通機関を使うよりその方が早いと判断したからだった。
 しかし院内に入ると、どうもいつもとは様子が違い、なにやら周囲がざわついている。しかも、どこにも娘の姿はない。これは、大事が起こったのかもしれないと恐れながら受付で訊ねると、娘は来ていないと言う。しかも、今まで過剰なまでに愛想の良かった医者も看護師も、八重子に対してけんもほろろな態度で接した。何が起こったかわからず、おろおろしていたが、仕方がないので待合室で椅子に座って少し自分を落ち着かせようとした。
 八重子は、まず周囲の様子を見ようと院内を見回した。壁にはいろいろなポスターや注意書きが貼ってあった。その中でひときわ目立つポスターがあった。サイキウイルスに対して注意を喚起するもので、赤の目立つセンセーショナルなポスターだった。八重子は、こんな病院には似合わない内容だなと思ったが、その前を院長が通りかかり、そのポスターの前で足を止めた。彼はそれに手をかけ剥がすようなしぐさをしたが、思いとどまったように手をおろし、歩き出した。八重子はここぞと声をかけたが、相手はまるで無視するように行こうとした。八重子は、何とか話を聞かないと娘の所在が判らないと、必死で呼び止めた。主治医は不機嫌に振り返ると語気荒く言った。
「あのね、あんたのお嬢さんのおかげで、ウチはとんだ迷惑をこうむってんの!」
 彼はそう言いながらチラリとあのポスターを見た。しかし、八重子には何が何だかわからずに戸惑って言った。
「え? どうして・・・? 娘は何処にいるのですか?」
「少なくともここには来ていないよ。しかるべき病院にぶち込まれたんじゃないの? おかげでこっちは沈静に大わらわだ。とにかくここにはお嬢さんはいないんだから、あんたも早く帰ってくれ。じゃあ、忙しいので失礼するよ」
「あの、せめて、何が起こったか教えてください! お願いし・・・」
 八重子の懇願も虚しく院長は逃げるように去って行った。八重子には、娘の身になにか尋常でないことが起きたのは判ったが、いったい何がどうなったのか依然見当がつかず、混乱して立ち尽くした。そんな八重子を指さし、あるいはちらちらと見ながら、皆がこそこそと話していた。いたたまれなくなって、病院の外に出た八重子を、玄関の陰で呼ぶ者がいた。それは、いつもよくしてくれている若い看護師だった。八重子は小走りで彼女のもとに行った。
「門田さん、いったい何が起こったと? 娘に何があったとですか?」
「しぃっ、静かに。落ち着いて聞いてくださいね。河部さんはサイキウイルスに感染されたそうなんです。そのせいで、保健所の方が来られて、今、院内がちょっとしたパニックになってしまっているんです」
「パニック? サイキウイルス?」
 八重子は一瞬混乱したが、すぐに事態を理解した。
「千夏があの殺人ウイルスとかいうのに感染したっていうとですか? それで・・・」
「はい。それで、ここには来られずそのまま救急車で感染症対策センターへ運ばれたそうです」
「それは何処に・・・」
「XX区の郊外に・・・あの、電話番号メモってますので、詳しいことはお電話されてお聞きください」
 門田看護師は、そういうとポケットからメモを出して八重子に差し出した。八重子は震える手でメモを受け取り言った。
「怖い話とは思ったけど、関係ないと思ってあまりあの放送を本気で聞いとらんかった・・・。まさか、自分の娘が感染するなんて・・・」
「あの、私もう行かないと・・・。悪いけどあなたと話したことが知れたら、叱られてしまいます。悪く思わないでください。サイキ病患者が出たって院内感染したみたいな風評被害が出たら、こんな病院なんてひとたまりもありません。・・・とにかく、急いでお嬢さんのところに行ってあげてください。じゃっ」
 門田看護師は、そう言うとそそくさと逃げるように裏口の方に走って行った。その後ろ姿を見ながら、八重子は不安と悲しさと悔しさがじわじわと湧いてくるのを感じていた。
(何で? 娘が恐ろしい病気にかかってしまったというのに、どうしてこんな思いまでせんといかんの?)
 メモの文字が涙でじわっとぼやけていく。しかし、八重子は落ち込んでいるわけにはいかなかった。娘は今頃さぞや不安な気持ちでいることだろう。一刻も早く行ってやらなくては。気力を奮い起こすと、八重子はハンカチを出して涙をぬぐい、産院を後にした。

 米軍機で輸送中の河部巽は妙なことに気が付いた。日本に向かっているならそろそろ夜が明けてもいい頃なのに、未だ窓の外は暗いままなのだ。巽は不安になって横に座っている兵士に訊いた。
”この飛行機は日本に向かってないように思います。どこへ行くのですか?”
”いったんメリーランド州に向かいます.そこであなたはウイルスの検査をした受けてもらいます.その後送還いたします”
”未知のウイルスなのに、調べることが出来るのですか?”
”ウイルスに感染しているかどうかなら、調べることが出来ます”
”それなら、日本に帰ってからでもいいと思います”
”検査の結果によって、これからの私たちの作戦が決まるのです.ご協力ください”
”私は妻が心配です.強制送還と言うのなら,早く私を日本に帰してください.お願いです”
 巽は懇願したが、彼の英語が未熟だったせいか、その兵士の気に障ったらしい。彼は声を荒げて言った。
”勝手なことを言うんじゃないッ! 貴様は殺人ウイルスを我が国に持ち込んだという自覚がないのか?”
”何を騒いでいる!”
 件の女性隊長がそれを聞きつけて駆けつけてきた。
”申し訳ありません。この者が非協力的な態度をとったものですから”
”この方は大事なお客人だ.敬意を以て接しろ.威嚇は許さん”
 隊長は兵士に厳しく言うと、今度は河部に向かって癖のある日本語で言った。
「それから河部サン、アナタはご自分の立場を理解してクダサイ。ココにいる間はワレワレの指示に従ってもらいます。逆らえば、アナタの身の安全は保障しません。事態はソレだけ深刻なのです」
 隊長は口調こそ穏やかだが、明らかに態度を威圧的に変えていた。巽は自分がかなり拙い立場にあるということに愕然として、あきらめたようにシートに身を沈めた。

 隔離病室内に、悲鳴に近い女性の泣き声が響いた。その横で、春野看護師が彼女を慰めている。山口医師は春野に後を任せて病室を後にした。しかし、その表情は怒りと悲しみに満ちていた。
 シャワーを浴びて隔離病棟から一時解放された山口は、これから病棟に向かう甲斐看護師と出入り口で出会った。甲斐がぎょっとした表情で言った。
「や、山口先生、何かあったのですか? すごく怖い顔をされてますよ」
「え? あ、ああ、ごめんなさい。怖がらせちゃったかしら?」
「いえ、とんでもない。・・・新しく入られた患者さん、どうですか?」
 甲斐の質問に、山口は表情を曇らせて言った。
「あまり、良くないわ。・・・妊娠していたけど、彼女の子供も紅美さんの時と同じでもう死んでたの。でも、紅美さんの時と違って22週過ぎてたから・・・」
「出産・・・」
「そうよ。でね、見ない方がいいって言ったんだけど、河部さん、どうしても抱いてあげたいって言うから・・・。でも、やっぱりショックよね。赤ちゃん抱きしめて・・・」
 山口はそれ以上説明することが出来なかった。
「先生・・・」
「あ、ごめんなさい。冷静をモットーにしていたのに、情けないよね・・・」
「いえ、そんなことありません!」
「赤ちゃん、ほんとにひどい状態だったの。あんなに小さいのに・・・」
 山口は、再び怒りがこみ上げるのを感じた。
「もし、目の前にこのウイルスを撒いた奴がいたら、八つ裂きにしてやるんだから!」
「先生・・・?」
 いつもの山口からは想像もつかない言葉を聞いて、甲斐は怯えたような表情で言った。山口は我に返って言った。
「ごめんなさい。またやっちゃった」
「いいんです。気になさらないで。それに、そういう気持ちは貯めこまないで表に出された方がいいと思いますよ。それに私だって同じ気持ちになるかも・・・」
「ありがとう」
「私、春野さんと一緒に河部さんを看るように言われてるのですが、何か注意することは・・・?」
「そうね。とにかく、病気のこと以上に赤ちゃんのことの方がショックだったみたいなの。気を付けてあげて。特にこの病気は、患者を自傷行為に走らせる傾向があるわ。紅美さんの時みたいに」
「はい。わかりました」
「今は、女性だけの看護がいいと思うけど、何かあったらすぐに男性看護師も駆けつけるようにしておくから、手におえない時はすぐにスクランブルかけてちょうだい」
「はい! では、行ってまいります」
 甲斐は一礼するとドアの向こうに消えた。
 山口が、スタッフステーションに戻ると、河部千夏の病室の窓の前を、中年女性がおろおろとした様子で立ち、その傍でスタッフの一人が慰めるように接していた。山口は一瞬躊躇したが、すぐに彼女たちの方に向かった。
「谷口さん、私が代わるわ。あなたは持ち場に戻って」
 山口はスタッフを解放すると八重子の方を向いて言った。
「河部さんのお母様・・・ですね?」
 山口が訊ねると、母親は彼女の方を向いて戸惑いながら言った。
「はい、そうですけど、・・・あの?」
「私、担当医の山口と申します」
「あっ、お世話になります。私、千夏の母で山崎八重子と申します・・・。先に行きつけの産院の方に行ったのですが、そこがなんか混乱していて、ここにいることが判るまでずいぶんと時間が掛かりまして、たった今、ようやくここにたどり着いたのですが・・・」
「そうなんですか。うちのほうの不備もあったかもしれません。さぞかしご心配だったでしょうに、申し訳ありませんでした」
「いえ、それより、何がどうなっているのでしょう? 流産したことは電話で聞いていましたが、娘は半狂乱で泣くばかりで、看護師さんたちも娘の相手に手いっぱいで、何があったのかさっぱり・・・」
「お母様、気をしっかりお持ちになってお聞きください。今から説明いたしますので」
 山口はそう前置きして、千夏に起こった事を説明した。母親は、両手で顔を覆って声もなくよろめいた。山口は急いで手近にある椅子を持って来て母親を座らせた。
「先生、それでは千夏の夫は・・・、夫の巽は・・・?」
「今のところ、まったく情報がありません。出張先のアメリカの方にはすでに連絡しているのですが・・・」
「ああ、本当にこんな時に限って巽さんは・・・。私、どうしたら・・・?」
「お母様、しっかりなさってください。千夏さんのご主人の安否がわからない今、お母様だけが千夏さんの支えなんですから」
「はい。そうですよね。私がしっかりしないと・・・」
 八重子の気持ちが落ち着いたのを見届けて、山口はマイクに向かって病室に呼びかけた。
「河部さん、お母様がいらっしゃいましたよ」
 千夏は窓の方を見て、ようやく母親の存在に気が付いた。
「お母さん・・・。お母さん、ごめんなさい。私、私・・・、」
「いいと、いいとよ、あんたンせいやなかっちゃけん・・・」
「赤ちゃん、すごく苦しかったやろうに、あたし、気付いてあげれなかった・・・。死んじゃってたのにそれも気付いてあげれなかった。苦しかったねえ。寂しかったねえ。ごめんねえ。ママを赦してねえ・・・」
 千夏はまた絶えれずに泣き伏した。八重子はまたおろおろしながら山口に訊いた。
「あの、中に入って慰めてやることは・・・」
「だめです。それだけは出来ません」
「そんな・・・。あんなに取り乱しているあの子を抱きしめてやることすら出来ないなんて・・・」
「あなたを危険に曝すわけにはいかないのです。残念ですが、ここから励ましてあげてください」
 山口にはそう言うしかなかった。そしてさらに無情に告げるしかなかった。
「お嬢さんが落ち着かれたら、お母様に大事なお話がありますので・・・」
「はい」
 八重子は答えると、また病室の方に向き泣き続ける娘に言った。
「千夏、千夏。しっかりして。お母さん、千夏が生きているだけでもうれしいよ。もうすぐお父さんも来るからね」
「お父さん? いやよ。お父さんだって孫を楽しみにしてたんじゃない。合わせる顔がないよ」
「そりゃあ、お父さんもがっかりしとったよ。でもね、千夏だけでも生きとって良かったって・・・。だから、頑張ってちょうだい。その子の分も生きて・・・。お母さんたちを置いて行かんどって・・・」
 八重子はそこまでいうと、耐え切れずに号泣した。
「お母さん・・・」
 千夏は声を上げて泣く母の方に向かって手を伸ばしながら、春野たちに言った。
「看護師さん、ベッドを窓の近くにまで動かせますか?」
「出来るだけ近づけてみましょうね」
 春野と甲斐はベッドを押して窓の方に寄せた。なんとか千夏の手が窓に届くくらいに近づけることが出来た。千夏は母を呼んだ。
「お母さん・・・」
「千夏」
 八重子は窓に寄りガラス越しの娘の手に自分の手を合わせた。
「お母さん、ごめんね。ありがとう・・・」
「千夏・・・。辛かったね。かわいそうに・・・」
「私、頑張るね。お母さんにまでこんな思いさせたくないもんね」
 千夏は、泣き続けたせいで腫れた顔に力ない笑顔を浮かべて言った。その時、スタッフステーション内が急にざわめいた。八重子のそばに立っている山口に、先ほど八重子の相手をしていたスタッフが耳打ちした。
「え? 川崎五十鈴さんが?」
 山口は少し表情を曇らせると、八重子に言った。
「すみません。ちょっと失礼しますね」
 山口は八重子には笑顔で言ったが、すぐに厳しい表情をして駈け出した。八重子と千夏は不安な表情でお互いを見た。

「カワサキ・イスズさんが亡くなられたそうです」
 ギルフォードが電話を切ると言った。
「え? 川崎さんが?」
 由利子が驚いて聞き返した。
「はい。残念ですが・・・」
「そりゃあ、容態が良くないってのは聞いてたけど・・・」
 と言うと、由利子は「はぁ・・・」とため息をついた。紗弥がカップを片づける手を止めて言った。
「川崎さんって、教授と由利子さんが保護しに行かれた犬の飼い主さんですわね」
「そうです」
「初音ちゃん、どうなるんだろ・・・。旦那さんも先に亡くなられてたよね」
「そうなんですが、カワサキさんのお子さんや身内の方も、引き取るつもりはないようなので、新たな飼い主サンを見つけないといけないでしょう。だけど、成犬となると、なかなか飼い主が見つからないようなので・・・」
 ギルフォードが説明すると、紗弥が珍しく非難するような口調で言った。
「ご両親が可愛がっておられたのに、子供さんたちはひきとりをされなかったのですか?」
「はい。マンションじゃ飼えないとか、庭が狭いとか動物は苦手だとかいろいろ言い訳してたようですが」
「ひっどい話よね、まったく」
「保護した手前、僕も何とかしたいとは思いますが、ミツキで手いっぱいなので・・・。とにかく、里親さんをがんばって探すしかないですね」
「それしかないよね・・・。川崎さん、きっと心残りだっただろうねえ。私は川崎さんご夫妻にはお会いしたことはないけど、初音ちゃんをすごくかわいがっておられたことはわかるよ」
「お二人とも少しぽっちゃりとされていましたが、旦那さんは少しせっかちで奥さんはおっとりとした感じでした。お似合いのご夫婦でしたよ。こんなことがなければ、今も初音ちゃんといっしょに穏やかな暮らしをされていたはずです」
「他の人たちだってそうだよ。平和に暮らしていたのに。みんな死ぬ理由なんかないのに・・・」
 由利子は、心の底からじわじわと怒りがわき起こるのを抑えきれないでいた。
「くっそぉ! いったい何人殺したら気が済むんだ・・・」
 その怒りが、由利子から一切の迷いを振り払った。彼女は、ギルフォードが言った命を背負うと言うことがどういうことかわかったような気がした。 

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