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3.暗雲 (4)二人目のマリオネット

 九木が現場に駆けつけると、早くも報道陣が集まり始めていた。特に、メガローチ捕獲シーンを報道しためんたい放送のクルーは、今回も特ダネを得ようと警官たちと小競り合いを始めている。
「報道陣を近づけるな! 警察車輌と消防車輌で家の周りを囲めぇッ! ネズミ一匹入れるなッ!!」
 先に現場に駆けつけた早瀬が怒鳴っている。
「なあに? あの怖いオバさん!」
 めんたい放送の女性記者、美波が聞こえよがしに言った。早瀬はギロリとその方向を一瞥した。美人だけに迫力も半端ではなく美波は一歩後退った。
(おばさんってなひどいな。おっかねえ女ってのは賛同するが)
 九木は密かに思ったが、もちろんそれはおくびにも出さない。早瀬は九木の方を向くと言った。
「九木さん、早かったわね」
「早瀬警部こそ、お早いお着きですね」
「早瀬でいいわ。警部っておっさんむさくって嫌いなの」
 早瀬が少し不愉快そうに言った。
「それより、斉藤が2階の窓から姿を現して何かわめいているわ。あの馬鹿、こっちがせっかく報道から守ろうとしてやってるのに、台無しじゃないの!!」
「まったくですな。あれではご近所からも見えてしまう。急いで行きましょう。説得は・・・」
「私がやってみよう。男性がやるより安心するかもしれない。その間、あなたには現場の指示をお願いするわ」
「了解」
 二人は怒鳴り声の方向に向かって駆け出した。

 話はこれから少し遡る。

 斉藤孝治が窓際にうずくまって救急隊員の姿に怯えていると、枕元に置いてあった彼の携帯電話が着信を告げた。孝治は飛び上がらんばかりに驚くと、這うようにして電話に近寄った。電源を落としていたつもりが、昨夜メールチェックをした後消し忘れていたらしい。
「誰からだ? まさか、警察・・・」
 しかし発信元は公衆電話からだった。孝治は振動しながら青いランプを点滅させる電話を怯えた目で見つめていたが、意を決して電話に出た。
「もしもし、斉藤孝治さんですね。ああ、やっと通じました」
 電話の主は、孝治の応答を待たずに相手から話してきた。抑揚のない男の声だった。
「だ、誰です?」
「ああ、申し訳ありません。私はとある筋からあなたのことを伺ってお電話をしているのですが・・・」
「とある筋って、どこです?」
「今はお答えできません」
「あんた、誰? 何で俺の名前とケータイ番号を・・・」
「それもお答えできません」
「何だ、気味の悪い・・・。イタ電なら切るぞ!」
 孝治の恐怖は薄れたがその分、だんだんイラつきながら言った。
「切らないで下さい。私はあなたの病気に効くワクチンのある医療施設を知っているんです」
「ワクチン? これは新型ウイルスで、そんなものがないことくらい知っているぞ」
「いえ、民間の医療施設に、ロシアの研究所にいらした方が居るのですが、その方が開発された万能ワクチンがあるのです。なんでも、純水にあらゆる病原体の遺伝子を記憶させたものだとか・・・」
「本当に効くんだろうな?」
「はい。エボラやサーズに罹った患者さんもそれで治したという実績がありますので」
「で、なんでそれを俺に? ひょっとして、俺の知り合いとか?」
「いえ、実は、私は笹川歌恋の身内のものでして・・・」
「歌恋さんの? なんでそのあんたが俺に電話をしてきたんだ?」
「あなたに歌恋を連れ出して欲しいのです」
「冗談じゃない、今は俺自身のことで精一杯なんだ。だいいち、誰のせいで俺がこんなことに!」
「申し訳ありません。でも、あの子は身内の情に薄い子なんです。両親どころか兄にまで疎まれて、子供の頃から孤独な子でした。あの子はその分も幸せになるべきでした。それなのに、あんな窪田なんて不実な男にたぶらかされて、その上病気までうつされて・・・。その前にあなたと親しくなっていればと思うと、あの子が不憫でなりません。お願いです。あの子を助けてやってください。あなたなら出来ます。あなたなら出来るのですよ」
 抑揚のない男の声は静かで妙に説得力があった。それは、催眠術者の語りかけそのものだった。男の話を聞いているうちに、孝治はだんだん歌恋への憎しみが消えていくのを感じていた。何よりもともと彼が好意を寄せていた女性である。
「それで、俺はどうすればいいんだ?」
「どんな手段でも構いません。歌恋を連れてきてくれればいいのです」
「でも歌恋さんは専門の病院でちゃんとした治療を受けているんだろう? そのままのほうがいいんじゃないか?」
「では、あなたは何故逃げ回っているのです?」
「それは・・・」
 問われて孝治は返事に詰まった。
「あそこは単にウイルスが拡散しないように感染者を収容しているだけの施設です。あんなところに居ては治るものも治りません。あなたもそれがわかっているから・・・」
「そのとおりだよ。だけど、俺にだってどうしようもないだろ」
「私は体が悪いので、あまり自由に動き回れないのです。だから歌恋を助けたくても何も出来ない。ですが、お金だけはあります。あなたが歌恋を連れ出してくだされば、あなた共々匿って差し上げることも出来ます。海外のリゾート地でゆっくりと療養しながら歌恋と過ごすことが出来るのですよ。もちろんお金の心配は要りません。しかも、完治した後は、私の会社で雇って差し上げましょう。歌恋の恩人になるのですから」
 男は巧みに孝治にささやきかけた。
「あなたはそこから歌恋を連れてくるよう要求すればいいのです。あなたの体は今、どんな兵器より危険な状態です。あなたを匿っている人を盾にすれば、警察はあなたに手出しできないでしょう。何せ狙撃も出来ないでしょうからね」
「あ、あんた、俺にばあちゃんを盾にしろっていうのか?」
「あなた、死にたくないのでしょう?」
 男が畳みかけるように言った。少し笑いを含んだような声だった。
「おばあさまについてのご心配は無用です。なにしろ万能ワクチンがあるのです。歌恋があなたの手元に来たら、暗くなるのを見計らってそちらにヘリを向かわせますので、おばあさまもいっしょにお連れ下さい。私を信じて。私の言うとおりにすれば、あなたは必ず助かります」
普段の孝治でも、さすがにこの出来すぎた申し出の怪しさや矛盾に気がついたことだろう。しかし、すでに正常な判断が出来ない状態の孝治は、男の話を鵜呑みにしてしまった。もとより孝治はこの苦しさや死の恐怖から逃れられるなら、悪魔にでもすがりたい心境だった。このまま死を待つくらいなら、やるだけやってみよう、彼はそう思った。
「わかった。なんとかしよう」
「そう言ってくださると思っておりました。しかし、くれぐれもワクチンのことは口外なさらないように。ワクチンの奪い合いを防ぐためです。いいですね。では、またこちらから連絡いたします。よいお返事をお待ちしておりますよ」
 男は慇懃に言うと電話を切った。孝治も電話を切ると、ごろりと布団に寝転がって呼吸を整え、電話の待ち受け画面をじっと眺めた。そこには笑顔の歌恋がいた。少し休んだ後、孝治は上半身を起すと部屋の中を物色した。すると棚の上に裁縫箱を見つけ、立ち上がってそれを下ろし中を見た。そこには良く手入れされた小ぶりの裁断バサミがあった。孝治はそれをそっと手に取った。かすかに手が震えた。彼は意を決して鋏を開くとハンドルを左右おのおのの手で掴み、力いっぱい引っ張った。パキッという乾いた音がしてビスが飛び、鋏は二つのパーツに離れた。

 数分後、部屋の戸をノックする音がした。
「コウちゃん、大丈夫かい? ばあちゃん心配でとうとう救急車を呼んでしもうて。今玄関まで来とおけど、歩いて出てこれるね?」
 孝治は返事をしなかった。しかし、苦しい息を潜めながらそっとドアに近づいていった。
「コウちゃん、コウちゃん? ・・・どうかしたとね?」
 返事がないのに心配して、とうとう絹代は部屋に入っていった。様子を見るだけで、救急隊員からは絶対に部屋に入るなと再三注意されていたのだが・・・。
 部屋に入った絹代は、布団に孝治の姿がないのに驚いたが、背後の気配に気がついて振り向いた。
「コウちゃん?」
「ばあちゃんごめん。俺のためにしばらくの間、我慢してな」
 孝治は絹代を羽交い絞めにして部屋を出、玄関に向かった。
「コウちゃん、何ばすっとね!?」
「いいから騒がんで大人しくしとって。じゃないと怪我をするよ」
 孝治は玄関に姿を現すと、絹代を羽交い絞めにしながら鋏を突きつけ、彼の搬送に来ている防護服の救急隊員に怒鳴った。
「出て行け! さもないと、血を見ることになるぞ!」
「斉藤君、落ち着きなさい。君は早く病院に行かないと・・・」
「うるせえ! 病院に行ったって結局死んでしまうんじゃねえか! そんくらいならとことん逃げてやるよ!! さあ、出て行け!」
 孝治は言いながら鋏を自分の首に突き立て、ついで絹代ののど元に突きつけた。
「さあ、どっちの血が見たいかい? どっちにしても大変なことになるよねえ」
「くそっ、仕方がない、一旦退却する!」
 隊長らしい男が言い、救急隊員たちは去っていった。孝治は祖母を解放すると言った。
「玄関の鍵を・・・、いや、家中の鍵を閉めるんだ。妙な行動を取ったら、すぐに俺は自分の首を掻っ切るけん。わかっとおよね?」
 孝治は笑いながら言った。
「コウちゃん、いったいどうしてしまったのかい・・・?」
 絹代は何がなんだかわからずに、泣きながら孝治の指示に従った。

「斉藤君、要求は何? もう一度私に言って」
 早瀬が窓の下に立って聞いた。
「笹川歌恋を連れて来い! 期限は日が暮れるまでだ」
「それは出来ない。彼女は今、重篤な状態にいる。動かすことは出来ない」
「いいから連れて来い!」
「君は彼女を殺したいのか!!」
「病院にいたってどうせ死ぬんだ! そうだろ?」
「それは・・・」
 早瀬は言葉に詰まった。
「ほらみろ」
 孝治は高笑いしながら言った。
「どっちみち死ぬんだ。だったらここで一緒に残った時間を過ごしたい。さっさと連れて来い」
「もし発症していなくても、彼女は君のところへ行くのは拒んだだろう。理由は君が良く知っているね?」
「後悔しているんだ・・・。好きだったから振り向いて欲しくてあんなことをしてしまった・・・」
 孝治は搦め手に出た。
「俺を恨んどるとは判っとお。でも、どうしても歌恋に会いたいんだ。俺にだって時間がないんだ」
「君が感染症対策センターに行けば、会えるよう便宜を図ることも出来るだろう。君だって、今相当に苦しいはずだ。・・・さあ、おばあさんを開放して、そこから降りてきなさい」
「あんなところへ行けるか!! いいから俺の要求を聞け! 俺は病気を治す方法を知っているんだ! 歌恋を治してやりたいんだ!」
「治す方法? それは何だ?」
「水だよ。万能薬の水だ!」
「斉藤君、どこでそれを知ったかしらないが、そんな民間療法で治るような病気じゃないんだ。私を信じてくれ。せめて、おばあさんを・・・」
「うるせぇ!! ぐずぐずしとったら・・・」
 孝治は絹代を窓に突き出して言った。
「ばあさんがどうなっても知らないからな」
「彼女は実の祖母だろう? しかも、今まで匿ってくれたんだろう? どうしてそんなひどいことをするんだ!」
「御託はいいから早くしろ!!」
 ヒートアップする孝治に対して、絹代は蒼白な顔で震えている。早瀬は一旦引く判断をした。
「わかった。検討してみよう」
 早瀬はそう言うと、後方に下がった。同時に孝治は室内に姿を消し、窓が閉まった。すぐに部下が駆け寄ってきて言った。
「もう、冷や冷やしましたよ。危険ですから防護服をお付けください。ほら、九木さんも」
「あれ、暑そうだから着たくないのよね。臭そうだし」
「わがまま言わないで下さいよ、もう」
「わかったわよ。九木さん、行きましょ」
「私は着るのがちょっと楽しみですよ」
「変な人ね」
 早瀬が肩をすくめながら言った。

 由利子は歌恋の病室の前にいた。歌恋の病状悪化を聞いて、11時から講義のあるギルフォードたちと別れて、一足先に空港から直接向かったのである。
「こんなになっても、誰も身内の方が来ないなんて・・・」
 病室の歌恋を見ながら由利子がつぶやいた。歌恋は酸素吸入のマスクの下で荒い息をしていた。横で敏江が彼女の手をじっと握っていたが、時折用事で敏江が手を離すと、すぐに「オカアサン、オカアサン・・・」と泣き声で敏江を探した。敏江はその度に、優しく歌恋の頭を撫でている。
(あれじゃ、敏江先生も大変だわ。休む暇もないじゃない。旦那の高柳先生の方は、蘭子のことで取り込んでいるようだし・・・。それにしても歌恋さんは私のこと忘れてしまってるし、私、ここに居てもあまりお役に立てないなあ。でも、こんな時に誰もお見舞いの人がいないってのもかわいそうだし、どうしよう・・・)
 由利子がなんとなく居心地の悪さを感じていると、誰かがステーションに駆けつけてきた。
「笹川歌恋の兄の代理できました。妻の美紗緒です」
「歌恋さんのお義姉さん、来てくださったんですね」
 由利子はほっとして言った。美紗緒は由利子の方を見て言った。
「ああ、良かった。誰も居ないと思っていました。私も早く来たかったのですが、なかなか時間が取れなくて・・・」
 そう言いながら、窓に近寄ってきた美紗緒の表情が曇った。彼女は震える手で顔を覆った。
「ああ、歌恋さん・・・」
 それ以上言葉が続かなかった。美紗緒は歌恋の様子から、もう先がないことを悟った。

 早瀬と九木が防護服を着用してから現場に戻った頃、葛西と富田林が到着した。他の2名は報告のため本部に向かっていた。
 葛西が九木の姿を見つけて駆け寄った。
「九木さん、どういう状態ですか?」
「おお、葛西君、そっちは無事に済んだかい?」
「あ、はい。竜洞蘭子は無事に保護出来ました」
「保護というより捕獲じゃあなかったか?」
 九木がからかうように言った。
「はい。そんな感じでした。まだ発症してなかったせいもあるのでしょうけど、元気すぎるのも考え物ですね」
「その元気すぎるのがここにもいてね。こっちは大分病状が進んでいるようだが」
「秋山美千代もそうでしたが、彼らはきつくないんでしょうかね」
 葛西が不思議そうに言うと、九木が腕組をしながら言った。
「何かをしたいという欲求が勝っているんだろうな。斉藤孝治の行動には不審な点も多いが・・・」
「不審・・・ですか?」
 富田林が聞き返した。
「ああ。早瀬警部と斉藤のやり取りを聞いていていくつか気になったことがあってな。とにかく二人とも防護服を着て来なさい。斉藤の病状はかなり進んでいるからね。話はそれからだ」
「はっ、では行ってまいります」
 二人はそう言うと駆け出した。

「もう、顔を出してくれたのはいいけど、これじゃあどこの放送局も同じような絵面(えづら)だらけになっちゃうわよ」
 めんたい放送の美波は焦りを見せながら言った。カメラマンの赤間がなだめるように言った。
「仕方ないよ、ミナちゃん。そもそも精神状態の不安定な病人の犯行だろ、ガンクビ(顔)撮ったって放送できない可能性のほうが高いんだぜ」
「顔なんてどうでもいいの! 伝えたいのはこの現場の臨場感よ。今私たちが感じている! それにはもっと近くに寄らないと!」
「だけど、周囲は俺たちを入れまいとする警察でガッチリガードされているんだぞ。どうしようってのよ」
「これよ」
 美波は小型のホームヴィデオを見せて言った。
「この家は一面だけ隣家に密接しているでしょ。しかも境界は生垣だわ。上手くいくとどこか入れる場所が見つかるかもしれないわ。だいたいが私、小柄だから、虫とかが気持ち悪いのさえ我慢すればいけるはずよ。でも、報道用のカメラなんか無理でしょ。だから、これを使うのよ」
「ちょっと待ってくれ、ミナちゃん」
 音声の小倉が驚いて言った。
「危険すぎる。あいつは殺人ウイルスに感染しているんだぞ。万一のことがあったら・・・」
「大丈夫よ」
 美波は携帯用傘をポケットから出して言った。
「いざとなったらこれで飛沫を防ぐから」
「おまえ、それは冗談で言ってるのか?」
「いやまあ、それはともかく・・・」
 美波は少し戸惑って話題をそらした。その様子を見て、赤間と小倉がため息をついた。
(本気だったな・・・)
「私たちはメガローチの撮影で他社に一歩抜きん出ているのよ。なのに今回横並びの取材で終わるわけには行かないわ。それに見てよ」
 美波は上を指差した。
「げっ、クレーンかよ。金持ってんなあ」
「そうよ。あんなものを持ち出してきてるのよ。負けられないじゃないの」
「だけど、せめてデスクの指示を得ないと・・・」
「ダメって言うに決まってるじゃん。じゃ、行ってくるから、あなたたちはここで取材を続けてていーわ」
 彼女はそう言うと、駆け足で隣家に向かった。
「ミナちゃん!!」
「もう、ほっとけ。あいつは一回走り出したら何かにぶつかるまで止まらん」
 止めようとする小倉に赤間が言った。
「どうせダメで帰ってくるさ」
「ってイノシシかい。・・・だけどさ、アカマちゃん。記者が居ないのに誰が報道するのよ? カメアシにでもやらせるか?」
「あ・・・」
 赤間は頭の中が真っ白になって、固まってしまった。

 一足遅れてきた葛西たちを交えて、これからの作戦を話し合っていた早瀬は、目の前をよぎった影を追って上を見た。みるみる早瀬の表情が不機嫌になった。
「誰か、あのクレーンを引っ込ませろ!」
「はっ!」
 早瀬の声に若い警官が二人走って行った。早瀬が腕を組みながら仏頂面で言った。
「ったく、報道馬鹿共め、感染が怖くないのか?」
「仕方ないでしょうな。何せ、今までの事件とはかけ離れたことが起こっているんですからね。まるで映画だ。連中が尋常ない興味を持つのは無理からんことですよ」
 九木が早瀬と対照的に飄々として言った。
 美波は、既に黒山の人だかりとなった野次馬に紛れ、斉藤家の前から隣家の前まで移動したが、隣家周辺も警官たちがしっかりとガードしていた。住人は既に避難させられているようだった。美波は何食わぬ顔で野次馬から離れ、周辺を散歩しているかのように歩いてみた。が、数秒もしないうちに警官から声を掛けられた。
「すみません、この先危険なので、お戻りください」
「あ、ごめんなさ~い」
 美波はそう言うと斉藤家の又隣まで小走りした。そこでまた様子を見る。この生垣に囲まれた家の住人も避難しているようだが、この辺になると警備がかなり手薄になっていた。美波は知らぬ顔をして生垣の前に立ち、様子を見た。すると、一箇所何かがぶつかったのか、下のほうの枝が折れているところがあった。若干拡張すれば、美波程度の体格なら通れそうな感じだった。しかし、良く見ると蜘蛛の巣やらなんやらがけっこうついている。美波は一瞬躊躇した。しかし、チャンスは今しかない。
(猫よ、猫ならこんなの平気。私は猫)
 美波は自分にそう言い聞かせると、きょろきょろと周囲を見回し人目のないことを確認すると、「にゃあ」と鳴いて生垣にもぐりこんだ。

 その頃歌恋は必死に死神と戦っていた。
「オカアサン、オカアサン・・・」
「ここに居るわ。もうどこにも行かないから・・・」
 敏江が歌恋の手にそっと触れて言った。
「オカアサン、イタイよぉ、クルしいよぉ・・・。かれん、シンじゃうのかな・・・?」
「大丈夫よ、お母さんがついているわ」
「ウレシイなあ、オカアサン、かれんとイッショ・・・」
「そう、ずっと一緒よ」
「オトウサン、オトウサンは? クルの?」
「ええ、もうすぐ来るわよ。もうちょっと待ってね」
「ウン、かれん、オトウサン、クルの、まてる・・・」
 歌恋は一所懸命笑顔を作ろうとしながら言った。しかし、表情筋までウイルスに冒されたその顔に笑顔は浮かばなかった。敏江は歌恋の横に座って、祈るような仕草をしたままじっと動かなかった。もはや、祈るしか術はなかった。甲斐看護師がその傍で出来るだけ歌恋の苦痛を取り除こうと作業を続けていた。
「うううっ、うくっ・・・」
 病室を見守っていた由利子の傍で、嗚咽する声が聞こえた。美紗緒がとうとう我慢できずに泣いてしまったのだ。由利子は美紗緒の方に手を伸ばし、彼女の手をそっと握った。
「美紗緒さん、がんばって。歌恋さんもがんばってるんだから・・・」
 美紗緒は由利子のほうを見ると、涙をぬぐってうなづいた。

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