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3.暗雲 (2)逃亡者

 ジュリアスは、急に明るくなったので目を覚ました。ギルフォードが寝室の遮光カーテンを開けたからだ。
”今日は日が差しているな・・・.ジュリー,そろそろ起きて空港に行く仕度をしないと間に合わなくなるぞ”
”昨夜はろくに寝てないんだぞ.まだ6時にもなってないじゃないか~.7時まで寝ててもだいじょうぶだよ~”
 ジュリアスは、そう言うとまた毛布を被った。ギルフォードはその毛布をバッと剥ぎ取ると諭すように言った。
”飛行機に乗ったら十分眠れる.それに,余裕を持って早めに行かないと,ことによっては空港内で走り回ることになるぞ”
”なんだよ,アレックス.ぼくをそんなに早く追い出したいのかい"
 ジュリアスがそう言いながら少しふくれっ面をした。
”四の五の言わねぇで,さっさとシャワーを浴びてシャキッとしろ!”
 ギルフォードはジュリアスを抱え上げ、横抱きにしてバスルームに向かった。驚いたジュリアスが、ギルフォードの腕の中で暴れた。
”うわぁ,やめろ! お姫さま抱っことか恥ずかしいよ”
”こら,じっとしねぇか,ばか.重いのに大サービスで運んでやっているんだぞ.・・・そういえば何日か前も,転寝していたおまえをこうやって運んだな.覚えているか?”
”・・・ん.何となくね”
”あの時はちゃんと服を着ていたけどな.ほら、着いたぞ”
 ギルフォードはバスルームに入ると、ジュリアスをおろしながら言った。
”バスタブに湯を張っておいてやったよ.少しゆっくり入るといい.昨夜はそれどころじゃなかったからな”
”ばか.でも、湯船に浸かれるのはありがたいな.じゃ、遠慮なく”
 ジュリアスはそう言いながらザッパンと景気良く湯に入った。
”言うほど狭くないよね。このバスルーム.ジャグジーなんかもついてるし”
”ああ.足を伸ばして入れるバスタブがあるってのを部屋を選ぶ時の基準にしたからな”
”そっか.確かに脚を伸ばせていいよね.僕が育った名古屋のばあちゃんちも、ちょっと狭かったからなー”
 と言いながら、ジュリアスはぐうっと背伸びをした。
「あ~、ゴクラク、ゴクラク」
”’ゴクラク’って、おまえ”
 苦笑するギルフォードに、ジュリアスが笑いながら言った。
”こういう時,日本人は’ゴクラク’って言うんだよ.極楽は天国(ヘヴン)とはちょっと違うんだ.きっと楽しくてカラフルでステキなところさ”
”そうかい? じゃあ、俺もちょっとゴクラクにお邪魔しよう”
 ギルフォードは、長身に似合わず身軽にスルリとジュリアスの横に入った。
”って,二人入ると流石にせまいな.ああ,こうすればいいのか”
 そう言いながら、ジュリアスの背に腕を回して彼の肩を抱く。
”ま,たまにはこういうのも悪くないな”
”でも、オイルサーディンの気持ちがよくわかるよね”
 二人は肩を並べて笑った。しかし、すぐにギルフォードが心配そうな顔で言った。
”じゃ,死後の世界があるとして,日本人の多くは死んだら俺たちと違う場所に行くのか?”
”そうだね.臨死体験もヴァージョンが違うようだから,違うのかもね”
”じゃあ,行き来が大変だな”
”地獄からよりは,ずっと簡単に行き来出来るんじゃない?”
”そう願いたいね"
”だけど,選べるとしたら僕は天国より極楽がいいな”
”こら,今から出かけようって時に不吉なことを言うんじゃない”
”そうそう飛行機も落ちやしないって・・・。でも、そう言われたらちょっと不安になってきたよ”
”帰るのを中止して,ずっとここに居ることは出来ないのか?”
”そうは行かないだろ.短期滞在の許可しかもらってないんだから.僕は,正式な依頼でこの事件に参加したいんだ.それに,帰ってからけじめをつけなきゃならないこともあるし”
 それを聞いたギルフォードが体を起こしたので、支えを失ったジュリアスの体が湯に沈みかかった。ギルフォードはとっさに彼を抱き上げながらも言った。
”あっちの恋人ときっちり別れるとか?”
”そんなの居ないって,再会した夜にわかっただろ.ばかだな”
”ふん”
”何,いじけてるんだよ”
 ジュリアスは、クスクス笑いながらギルフォードから抱きかかえられた状態から体を起こし、バスタブの中で彼と向かい合って座った。
”あんなこと言って,本当は寂しいんだろ?”
”悪いか?”
”君、意外とわかりやすいよね”
”だいたいお前が・・・”
 と言いながら、ギルフォードはジュリアスの鼻先に人差し指を向けた。しかし、ジュリアスは悪戯っぽく笑うと、ぱくっとその指をくわえてしまった。
”何をするっ! うわぁ,舐めるんじゃない,馬鹿野郎っ! そんなことをしたら,また・・・”
”わあ,しまった,ちょっとタンマ! お風呂の中はやめて,のぼせるっ”
”うるさい、馬鹿! おまえのせいだからなっ!”
”わ~~~~っ!!”
 ジュリアスは焦ってバスタブから出ようとしたが、敢え無く背後からつかまってしまった。

 さて、朝っぱらからラブラブなバカップルはこの辺で放っておいて、こちらは昨夜ラブラブでなかった葛西。

 彼は、目覚ましの音で飛び起きた。途端に激しい頭痛が襲ってきて頭をかかえた。まさか感染したのかと、一瞬ひやっとしたが、よく考えたら宿酔い(ふつかよい)である。
「あいたたた、飲みすぎた・・・」
 しかし、その頭痛の中で、葛西の脳裏にいくつかの記憶の断片がよみがえった。今は素面(しらふ)に戻った彼は血の気が引くのがわかった。
「ああ、由利ちゃん、鬼の形相で怒ってた。わ~、どうしよう! いってぇ~~~!」
 しかも、どうやって寮に戻ったか、まったく記憶がないときている。なんとなくタクシーに蹴り込まれたような記憶はあるのだが。
「終わったな・・・」
 そう言うと、葛西はベッドの上にごろんと大の字に寝転がった。そして、「はああ~」と、大きくため息。その時携帯電話が鳴った。九木からであった。
「あ~、いてててて、九木さんはふつかよい大丈夫だったのかな」
 頭を抑えつつ、起き上がって電話に出た。
「おはようございます。葛西です」
「おはよう。君、宿酔いは大丈夫かね」
「はあ、頭痛はしますが、なんとか・・・」
「そうか。若いな」
「ってことは、九木さんも?」
「私はたいした量は飲んでなかったからな。少々頭は痛いが君くらいはがんばれるさ。さて、電話したのは今日のことだが・・・」
「はい」
「君、今日の9時頃空港に行く許可が欲しいって言ってたよな」
「やっぱりダメですよね・・・」
 葛西は、昨日の由利子のことを考えたら、だめで却ってよかったと少しほっとした。
「何を言ってるんだ。メガローチ捕獲に協力してくれた学者さんのお見送りだろう? 本来ならもっとお偉いさんが見送らねばならないところだ。だが、キング先生ご自身が見送りをお断りになってね。葛西君、むしろ、君に警察を代表してのお見送りをお願いしたいということになった」
「え? っで、でも・・・」
「なんだ、問題でもあるのか?」
「いえ、そんなことは・・・」
「じゃ、今からすぐに向かってくれ。俺も行く」
「えっ、今から? 起きたばかりだし、まだ7時前・・・」
 それにどうして九木さんまで・・・と口に出しかけて思わず口ごもった。
「実はな、森田健二と接触し、今も姿を隠している竜洞蘭子が、今日、空港から海外に高飛びするというタレコミがあった」
「海外逃亡って、もう空港にも手配書が回っているし、無理でしょう?」
「それがだ、偽造パスポートを使って、他人に成りすまして出国するらしいというんだ」
「名前に負けずすごい女ですね。どーゆー人なんです?」
「父親が暴力団の組長だからな。香港マフィアあたりと繋がっていてもおかしくないだろう」
「信憑性は?」
「松樹捜査本部長の話では、その可能性がないとは言い切れないということだった」
「そういえば、もともとマル暴の方でしたね」
「もし、これが事実だった場合、感染者を海外に放出することになる。そうなった場合、一気に世界規模の危機となりかねない。ガセである可能性も高いが、看過できない情報だ。それで、空港警察だけでは手に余るだろうということで、SVT(サイキウイルステロ)捜査本部からも4人ほど出ることになった。うち二人が君と私だ」
「了解。すぐに空港に向かいます!」
 電話を切った後、葛西は一転して気持ちが緊張するのを感じた。

 感染症対策センターでは、どんどん悪化していく歌恋の病状を考慮して、高柳敏江が家族を呼ぶべきだと判断した。しかし、連絡を入れても両親も兄も忙しくて来れないと言う。そのことを聞いて、敏江は深いため息をついた。
「実の娘さんが、こんな状態にいるというのに・・・」
 しかし、敏江はその先の言葉を濁した。歌恋に配慮したのだろう。もっとも、今の彼女がそれを理解したかどうかは疑問だが。
「敏江、やはりここだったか」
驚いて振り向くと、そこには高柳が立っていた。
「あな・・・センター長」
「『あなた』でも僕は構わないよ」
 高柳はそう言いながら敏江の横に立った。その時、歌恋がふっと目を覚まして高柳のほうを見た。彼女はにこっと笑うと、高柳のほうに手を伸ばして言った。
「おとうさん、きてくれた・・・」
 高柳は戸惑って妻のほうを見た。敏江は悲しそうに微笑んで言った。
「昨日から、ずっとこういう状態なの。可愛そうに・・・」
「話は聞いているよ。いろいろ大変なようだね」
「私のそばにいるから、あなたを父親だと思ったのね。ね、あなたに手を差し出してるわ。そっと握ってあげて」
「どうも、こういうのは苦手なんだがね」
 と言いながらも高柳は歌恋の手をとった。歌恋はすがるような目でたどたどしく言った。
「おとうさん、おかあさん、ずっと、そばにいてね・・・」
高柳は、そっと歌恋の頭を撫でて言った。
「わかったよ。だからちゃんとお休み。早くよくなろうね」
「うん」
 歌恋はうなづくと、安心したように再び目を閉じた。
「やりきれんなあ。こんな子をよく放っておけるものだ」
「でも、患者数が増えてきたら、これからもこういうことがないとは言えないわ」
「血のつながりが絶対ということはないからね。悲しいことだが・・・。敏江、今日は出来るだけこの子についていいなさい。今は落ち着いているが、おそらくこれからが峠だろう。越えられればいいが・・・」
 そう言うと、高柳は歌恋の頭をもう一度撫で、去っていった。敏江はベッドサイドに椅子を持ってきて、歌恋のそばに座った。そして、彼女の寝顔を見ながらつぶやいた。
「私には、もうこの子をこうやって見守ることしか出来ないのか・・・。医者なのに、何も出来ないのか・・・!!」
 敏江の両肩は、かすかに震えていた。
 

「もう、みんな、おっそい! 何してんのよ!」
 由利子は、待ち合わせ場所のF空港の国内線ターミナル内の喫茶店で、ひとりやきもきしながら座っていた。早めに出たせいで一番乗りしてしまったのだ。しかし、30分経って約束の時間になっても誰も来ないので、だんだんイライラしてきて、確認をしようと携帯電話を手に取ったとたんに葛西から着信があった。
「うわっ」
 由利子は驚いたが急いで電話に出た。昨日の今日なので、なんだか電話に出るのが気まずい。すると、電話から葛西のおずおずとした声が聞こえてきた。
「・・・えっと、あのっ、由利子さん、すみません。もう空港に来てますよね」
「ええ、30分も前から来てるわよ。誰も来ないんだもん、もー」
 由利子は出来るだけいつもの調子で言った。それで葛西の緊張が解けたらしく、ほっとした様子で言った。
「すみません。実は僕も8時前から来てるのですが、ちょっとここで問題が起きていて・・・」
「ここでって、この空港でってこと?」
「はい」
「まさか、ばくだ・・・」
「こんなとこで物騒なことを言わないで下さい」
 葛西が焦って止めた。
「あ、ごめんごめん。で、何が?」
「ええ、実は・・・」
葛西は、状況を簡単に説明した。理由を聞いた由利子があきれ声で言った。
「名前もすごいけど、とんでもない女やね。でも、情報どおりにここに来たら、大変よね。特に発症してた場合、またパニックになってしまう」
「あの、由利子さん、たしか松樹さんに彼女の写真も見せられてましたよね」
「ええ。他にも見たくもない連中の顔をたんと見せられたわよ。見ただけで腹の立つ斉藤幸治の顔もね。あの人、私を警察犬代わりでもにしたいのかしらね」
「そんなことはないと思いますが、いっそ、そういう仕事を請け負ったらどうです? どこかの自称FBI超能力捜査官より当てになりそうですよ」
「ジョーダンじゃないわよ。これ以上面倒なことに首を突っ込んでたまるものですか」
「ははは。でも、もしそれらしい人を見つけたら連絡してください」
「そりゃあ、もちろん。じゃあ彼女、こっちに来るってこと?」
「直接海外に行くのか、まず、国内線で他の空港まで行くのか、そもそもどこの国に行くのか、そういう細かい情報がまったくないんです」
「そっか。国際線の本数少ないからね。あってもアジアが主だし。ジュリーも関空経由で帰るって言ってるもんね」
「僕はそういう状況なんで、見送りに間に合うかどうかわかりません。その時はジュリーによろしくと言ってください」
「うん、わかった。じゃ、お疲れ様」
 由利子は電話を切ると、ふうっとため息をついてつぶやいた。
「なんか、また大変なことになってるよなあ」
 しかし、電話を終えたあと携帯電話に記された時刻を見て、また少し由利子の眉間にしわが寄った。
(約束より10分過ぎと~やん。自分たちから少しお茶しようとか言っとおきながら、なにやっとるんじゃ、あの二人はっ! まさか別れを惜しんどるんやなかろーね)
 由利子は、やや乱暴に電話をバッグに収め、冷めたコーヒーを飲み干すと、追加オーダーのためウエイトレスを呼ぼうと周囲を見回した。すると、入り口のほうから背の高い外国人の男二人が現れた。周囲の注目がさっと二人に集まった。二人は由利子の姿を確認すると、さっさとそっちのほうに向かった。イケメン外人二人の連れということで、周囲の羨ましそうな視線が由利子のほうに向かった。なんとなく悪い気はしない。
「ハイ、ユリコ。待たせてすみませんね」
「もう、おっそ~い。何してたのよ!」
 それでも苦情を言いながら、目の前に並んだ二人の顔を見た由利子は、あきれて言った。
「何、二人とも目の下に隈作ってんのよ、もう・・・」
「あははは・・・」
 二人は照れ笑いをしながら、由利子と向かい合って座った。
 

 斉藤孝治は、激しい腹痛で目を覚ました。祖母を呼んだが返事がない。早朝から出かけた日課の畑仕事からまだ帰ってきていないようだった。孝治は仕方なく起き上がろうとした。しかし、その時右足首の痛みに気づいた。見ると、昨夜挫いた右足首がパンパンに腫れ、しかも内出血で赤黒くなっていた。孝治は驚いた。そこまで酷く挫いた覚えがなかったからだ。急いで右掌を見ると、かすった傷からまだ血がにじんでいる。普通なら血等ほとんど出ないていどの傷のはずだった。孝治はおかしいなと思ったが、腹痛が激しくなっていくのを感じてよろよろと立ち上がった。右足は痛いが歩けないほどではない。しかし、熱が高いせいでふらふらして、どうしても何かに寄りかからないと数秒で倒れてしまうそうだった。幸い、祖母の家は体が悪くなったときを考えて、家を改築していたので、バリアフリーの床や壁の手すりのおかげで何とか御手洗まではたどり着けた。しかし、用を足した後紙についたものを見た時、恐ろしくて確認せずにすぐに流してしまった。幸い、昨夜機転を利かせてつけておいた失禁用ナプキンは汚れていなかった。孝治はなんとなく妙な気持ちで立ち上がり寝巻きを調えて手を洗った。その時、ふと目の前の鏡を見てまたぎょっとした。昨夜右手とともに顔にも擦り傷を負ったのだが、その傷は腫れ、血の混じった汁がじわじわと流れていた。それは、ただでさえ内出血の染みだらけの顔を、更に凄みのあるものにしていた。孝治は「うわぁっ」と小さい悲鳴を上げて手洗いから飛び出すと、ドアの前でへたり込んだ。
 孝治はへたり込んだまま恐怖と戦っていた。
(いったい俺の体はどうなっている? これから俺はどうなる・・・?)
 心臓の鼓動は激しく打ち、体が小刻みに震えている。そんな時、年配の女性の声が聞こえてきた。
「あ~、暑かねえ。やれやれ、ようやくうちまで帰り着いた」
 そして、手洗いの近くにある玄関に老女の姿が映り、鍵を開けるとガラガラと引き戸を開け祖母の須藤絹代が入ってきた。彼女は手洗いの前に座り込んでいる孝治にすぐに気がついた。
「コウちゃん、どうしたと? きついんね? コウちゃんのために新鮮なトマトを採ってきたばってん、それじゃあ、食べれらんかねえ・・・」
「ばあちゃん、おれ・・・」
 孝治は恐る恐る祖母のほうを見た。明るい場所で初めて孝治の顔を見た絹代は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「コウちゃん、どうしたんね!?」
 絹代は作業用の長靴を脱ぐのももどかしく、家に上がって孝治のそばに駆け寄った。
「あっちこっちあざだらけやんね。足も腫れとおし・・・。あんた、ホントは事故に遭ったっちゃなかね?」
「ちがうよ、これ、昨日の晩トイレから帰ったとき、部屋でこけたっちゃん」
「あんた、家ん中でちょっとこけたくらいでこげんになるわけなかろーが。病院行かんと。ばあちゃんが軽トラではこんじゃるけん」
「大丈夫やって。寝とったら治るってば」
「いかん。あんたね、ばあちゃんが何ぼ馬鹿やっても、こん状態がまともやないことくらいわかるが。きついんなら救急車呼ぼうか」
「いらんことせんでんよか!」
 孝治は病人らしからぬ大声で怒鳴った。その激しい声に絹代は驚いて目を丸くした。
「あ、ごめん・・・」
 孝治は我に帰って言った。
「ばあちゃん、心配してくれとぉとにな。でも、ほんとうに大丈夫やけん。部屋でおとなしく寝とくわ」
 孝治は優しく言うと立ち上がり、手摺りにすがるようにして部屋に戻って行った。
 絹代はしばらく呆然と座り込んでいたが、何かに気づいたように立ち上がって居間のほうに向かった。そして、テレビの横にあるマガジンラックから一番新しい市報を手に取ってページをめくり、目的のページを開いた。それは、新型感染症の特集ページだった。
 

「ねえねえジュリー、今のうちに聞きたいことがあるんだけど・・・」
 ギルフォードが高柳からかかった電話に出るために席を外したので、由利子は少し気になっていたことを聞くことにした。
「何かね」
「あのさ、アレクの親友だった女性って知ってる? アレクが私に似ているって言ったことがあるの」
「ああ、昔、2・3度だが会った事があるがや」
「どんな人だったの?」
「なんでおれに聞くのかねー?」
「なんとなく、本人には聞きづらくて・・・」
「まあええて。教えたるわ。彼女の名前はエマールダ。エメラルドが名前の語源だて、黒髪に名前を現すようなグリーンアイズで、南国的で情熱的な女だったよ。身長は160cmくらいで細身だけどけっこうグラマラスでね・・・」
「って、そのグラマー美人と私のどこが似てんのよ。どちらかというと美羽じゃん」
「見た目じゃのーて、なんていうか、男と親友になれるようなヤツだで、見かけによらずサバサバしとって、おれから見ても、ずいぶんと漢(おとこ)らしいヤツだったわー。そのせいか、ゲイの素養のある人間にもよー慕われとったんだと。彼氏もバイでね。ほだけど、そのせいで彼氏からエイズに感染してまったんだ。10数年前の話だから、今ほどエイズの薬もなくてね。今なら死ぬことはなかったと思うて」
「そうだったの」
「アレックスの嘆きはすごかったそうだがや。しかも、アル・新一に続いて身内以外でアレックスが慕った人間が死んだのは3人目だろ。ほいであいつのサバイバーズ・ギルトが悪化してね。ほだな、ちょこっとこれを見てくれーせんか」
 そう言うと、ジュリアスはいきなり右足のジーパンのすそをめくり上げた。その向う脛に大きな傷跡があった。
「ど、どうしたの、それ?」
由利子が驚いてたずねた。
「4年前のことだが車が歩道に突っ込んできてね、とっさに避けたけど避けきれにゃーで、ビルの壁と車の間に足が挟まって複雑骨折したんだわ。まだボルトが入ったままだがや。まあ、この時は命に別状なかったけど、駆けつけたアレックスの蒼白な顔は今でも忘れられにゃーて」
「この時はって、まさか」
「察しがええね。髪に隠れてわからにゃーけど、ここにも傷があるんだわ」
 ジュリアスは頭の右側を抑えて言った。
「3年くらい前になるかな。中東に支援に行った時、爆弾テロに巻き込まれてね、破片が直撃したんだわ。この時は1ヶ月意識がなかったらしいて。おれが意識を取り戻した時、アレックスは横で手を握って泣いとったけど、その後、あいつ、俺の前から姿を消したんだ」
「自分のせいだって思ったって訳?」
「そういうことだがね。しかも、たちが悪いことに、自分じゃそれを意識しておれせんのだわ。俺のほうから去ったって思っとったんだ。おれ、でらたまげたわ・・・」
「そりゃあ、驚くよね。私もちょっとびっくり・・・」
「ほだから、あいつはああ見えてけっこう不安定なとこがあるて、由利子、おれのいない間、頼んどくな」
「って、私はエマールダさんとは違うのよ。それに紗弥さんだっているじゃん」
「紗弥の仕事は秘書だが、もともとの役目はアレックスの護衛なんだわ。詳しいことは言えにゃーけどね。だもんで、おみゃあさんには紗弥と一緒にアレックスの支えになってもらいてゃーんだ」
「う~ん・・・」
 由利子は腕組をして考え込んだ。
「おれ、心配なんだわ。それでのーてもこの事件はアレックスのトラウマに触れすぎとる。ほだけど、あいつは敢えて真正面から向き合おうとするだろう。おれは、2・3週間で帰ってくる。その間でえーんだ。あいつのフォローを頼むわ」
「そう言われてもなあ、メンタル面で責任重大だし・・・」
 由利子は困ってつぶやいた。その時、ギルフォードが電話を終えて帰って来た。彼は席に着くと開口一番に言った。
「・・・おや、二人とも深刻な顔をして、どうしたんですか?」
「葛西君が見送り間に合うかなって話をしてたのよ」
「ああ、確かに心配ですね。それより、ユリコ、ササガワ・カレンさんの容態が良くないそうです」
「え? そんな・・・」
 昨日の状態を見て、そんな予感はしていたのだが、やはり現実にそれを聞くと愕然とする。
「まだ危篤とまではいかないようですが・・・。ユリコ、後でセンターに寄ってみましょうね」
「ええ、行きます」
「それから、紗弥さんももうすぐ着くそうです。事故渋滞に引っかかったので、バイクで出直したそうです」
「じゃあ、あとは葛西君だけね。まったくもう、たった一人の自己チュー女のせいで、とんだ迷惑だよ」
「発症してなければいいのですけど・・・」
「発症していたら・・・?」
「状態次第では、空港の一時閉鎖だな。おれ、帰れんがね」
「まあ、この前のF駅の感染者くらい病状が進んでなければ、それはないでしょう。いずれにしても、身柄確保は仰々しいものになるでしょうけど」
「・・・ったく」
 由利子がたんっとテーブルを叩いて言った。
「また、ニュースネタになるじゃん。ほんっとに困った女よねえ」
「まったくです」
「まったくだがや」
 ギルフォードとジュリアスがほぼ同時に同意した。
    

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3.暗雲 (3)フールズ・ラッシュ・アウト

 部屋に戻って横になり、うつらうつらしていた孝治は、ふと窓の前を何かがよぎったのがカーテン越しに見え、驚いて体を起こした。孝治は嫌な予感がして、だるい体に鞭打ち窓にそうっと近寄った。鍵を開け、カーテンをそっとめくって窓を1センチほど開けて外の様子を伺った。するとそこに数名の黄色い防護服をつけた救急隊らしき男たちの姿を認めた。孝治は震える手で窓をそっと閉めると鍵を掛けた。孝治はそのまま窓際に座り込むと、震える手で顔を覆いながら、うめくようにつぶやいた。
「ばばあ、ちくりやがったな」

 F空港の搭乗口前では、目立った男女4人がさりげなく人々の注目を引いていた。
「話は尽きにゃーが紗弥も間に合ったことだし、葛西が来れにゃーのは残念だがそろそろ行かにゃーて」
 そういいながらジュリアスがショルダーバッグを持って立ち上がろうとした時、彼を呼ぶ声がした。
「ジュリー! 待って!」
 見ると、Tシャツ姿のやたらラフな格好の若い男が走ってきている。よく見ると葛西だった。由利子がそれを見て少し顔をしかめた。
「あ、やっと来たよ。しかし、なんちゅ-格好だよ、もー」
「ジュン! よかった、心配しましたよ」
 ギルフォードは安心したように言った。
「はあ、間に合った」
 葛西は4人のそばまで来ると、座り込んで肩で息をした。
「久々に長距離を全力で走ったよ。まったくもー、何で国際線じゃないんだよ」
「国際線で蘭子を張っとったのか。まあ、おれだって色々都合があるがね」
「僕も、両方に可能性があるなら国内線がいいって思って、目立たないようにこういう格好をしてきたのに」
 前後ろに怪獣のシルエットと番組タイトルの某超人ロゴが赤くプリントされた白いTシャツに、小汚いストレートのジーンズを履いている。さらに、何故か足元はミリタリーブーツで頭には迷彩のバンダナを巻いていた。とどめには怪獣のイラスト付ペーパーバッグを持っている。
「上下と中間に違和感があるけど、ひょっとして、コンセプトは・・・」
 由利子がいぶかしげに聞いた。
「はい。アキバに向かうオタクです」
「そりゃあ、国際線じゃさぞかし目立っただろうねえ」
「ここでも十分目立ってますわ」
 由利子に続いて紗弥も少しあきれていった。
「そういえば、九木さんからかなり嫌な顔をされました。でも、入国し立ちのアメリカ人観光客団体さんから喜ばれて、写真を撮られましたよ」
「おみゃーさん、でらえー男なのに、ピントとセンスがちいとばっかずれとるわ。そこがまた可愛いのだが」
「はいはい、わかります」
 と、ギルフォードが仕打ちを打った。
「そーかぁ?」
 この二人のセンスにもついていけないと思う由利子であった。
「じゃあ、行くからな。諸君、しばしの別れだなも」
 ジュリアスがバッグを持ち替えながら言うと、今度は由利子が呼び止めた。
「ジュリー」
「何かね?」
「あの件、了解したから、心置きなく帰国して。でも、早く帰って来てよ」
「由利子、ありがとう!」
 ジュリアスはそう言うや否や、由利子の背に手を回すと唇に軽くキスをした。いきなりのゲリラキスに由利子は防ぐ余裕がなかった。
「何すんのよ!」
「おっと」
 ジュリアスは軽く由利子の手を交わすと、驚いて口をパクパクさせている葛西にすばやく近づいて、さっさと唇を奪ってしまった。
「ジュジュジュジュリーッ! なっ、なっ、ななな・・・」
葛西は口を押さえてわなわなと震えながら抗議したが言葉にならない。
「由利子との間接キスだがや。まあ、ミツバチが口に止まったと思ってちょーよ」
「何がミツバチよ、このキス魔っ!」
 由利子は怒って言ったが、この時ジュリアスは引き続き紗弥にキスしようとして、敢え無く羽交い絞めにされていた。それを見た由利子は怒るのも馬鹿らしくなって吹き出した。
「もう、馬鹿なんだから・・・」
「痛ぇ~~~~~~、紗弥、おれが悪かったがね、離してちょーよ。ギブギブ、死ぬ~」
 ジュリアスがジタバタしながら紗弥に懇願している横で由利子が笑い出して、その横で葛西がボーゼンとした様子で固まっている。その光景をギルフォードは複雑な表情で見ていた。ジュリアスは紗弥から開放されて乱れた髪と衣服を整えると、にっと笑って言った。
「葛西、おれが帰ってくるまでに由利子と直接キス出来る様になっとれよ」
「ジュリー! 馬鹿なこと言わないでよ」
 茫然自失の葛西に代わって由利子が抗議したが、ジュリアスは笑ってそれを交わした。その横でギルフォードが不満げに言った。
「ジュリー、僕へのキスは?」
「おみゃーさんへのキスは、こっちに帰ってくるまでお預けだがや。じゃあな、アレックス、今度こそ行くからな」
 ジュリアスは名残惜しそうにギルフォードを見て言うと、吹っ切るように翻って行こうとした。ギルフォードはその手を掴むと彼を引き寄せ腰に手を回し抱き寄せた。ジュリアスは驚いて眼を大きく見開いたが、抗うことなくギルフォードのキスを受け入れた。それを目撃した女性たちのきゃあ~という歓声が上がった。
「あ~あ、注目の的やん。空港のど真ん中で何やってんだか・・・」
 由利子があきれながらも流石に気恥ずかしくて、二人から目をそらし葛西の様子を見たが、幸いにもというべきか、彼は男性にキスされたショックで引き続き固まったままあさってのほうを向いていて二人の様子に気づいていないようだった。由利子は肩をすくめると、今度は紗弥のほうを見た。紗弥はというと、この状況にまったく動じず冷静に周囲を警戒している。と、携帯電話を二人に向けようとした不届き者の手から電話がはじきとんだ。男は何が起こったかわからずにきょろきょろと周囲を見回すと、焦って電話を取りに走った。
(え? ひょっとして指弾? この人、ほんとに何者? それにしても、葛西君の頼りなさときたら・・・)
 由利子は紗弥から再び葛西に目を向けると、ため息をついた。
 由利子が照れ隠しにあちこち様子を見ている間に二人はキスを終え、ジュリアスは笑顔で皆を見回して言った。
「すまにゃ~ね。これは想定外だったんだなも。じゃあ、今度こそ行くぞ。じゃ、またな!」
 ジュリアスは笑顔でそう言うと、出発口に向かって駆け出した。彼は入り口で立ち止まってもう一度振り返り、投げキスをすると笑顔で大きく手を振ってから出発口に消えて行った。
 イケメン外人二人の本格的キスがF空港職員の間で語り継がれ、伝説となったのは、後のお話。

 ジュリアスの姿が出発口に消えた後、ギルフォードは少しの間その方角を見つめていたが、由利子たちのほうへ振り返ると照れくさそうに言った。
「え~っと」
「それは、こっちのセリフでしょ!」
 すかさず由利子が突っ込んだので、紗弥がその場をとりなすように言った
「まあまあ、皆さん。4階の展望台で飛行機が飛び立つのが見られますわよ。みんなで行きませんこと?」
「あ、それいいわね」
「じゃあ、行きましょうか」
 由利子とギルフォードがすぐに同意した。葛西はというと、まだショックから抜け切っていない様子で固まったままだった。由利子は葛西の背をバン!と叩いて言った。
「何いつまでもショックから立ち直れないでいるのよ! 行くわよ」
「え?」
 葛西が驚いたような顔をしたので、紗弥が少し戸惑った表情で説明した。
「みんなで展望台に行くことになったのですけど・・・」
「え? ジュリーは?」
 目点で聞き返す葛西より、更に目点になった由利子が答えた
「あきれた。ほんとに意識が飛んじゃってたんだ。あのね、もう行ったわよ」
「ええっ? 行っちゃったの? なんか、さっき彼と会ってからの記憶があまりないのですが・・・」
「あ~、またこのお子ちゃまは~」
 由利子がまた怒りそうになったので、ギルフォードが慌ててフォローした。
「ユリコ、あまりジュンを怒らないで下さい。アレはやっぱりジュリーが悪いです。ユリコだって多少のショックはあったでしょ? ストレートの男性ならなおのことですよ」
「わかった。で、葛西君。そういうことだから、ジュリーの乗った飛行機を送るんで展望台に行くことになったの」
「そうですか。なんかまだ経移が把握出来てませんが、行きましょう。持ち場に帰るまでもう少し時間がありますから」
「OK、じゃあ、行きましょうか」
一行はエレベーターに向かって歩き出した。
 少し歩いたところで、由利子がはっとして葛西のシャツを引っ張った。あまりにもグイッと引っ張ったので襟元がのどに食い込んで、葛西はキュウと妙な声を出した。
「げほっ、何するんですか、由利子さん。ごほごほ」
 葛西が涙目で振り返った。由利子は自分の唇を人差し指で抑えながら言った。
「しぃっ。持ち場に帰る必要はなさそうよ」
 そう言いながら、由利子が一箇所に目線を向けた。

「敏江先生、笹川さんが・・・」
 川崎五十鈴の診察をしていた高柳敏江に、甲斐看護師の切迫した声で内線が入った。
「しきりにお母さんを呼んでおられます。熱もすごく高くて苦しそうなんです。先生、早く来てください」
 甲斐看護師の声の向こうで女の子の泣き声と看護師たちがなだめすかしている声が聞こえた。一瞬、敏江が動揺の色を見せた。それに気がついて、五十鈴が言った。
「先生、私はいいから早く行ってあげてください」
「川崎さん?」
「私とは少しの間だけ同室やったけど、身内の情の薄い可愛そうな子でした。私のことをお母さんだったらよかったのにって言うてくれました。なんか、他人の子じゃないごと思えてしもうて。先生、あの子に私の分もよくしてやってください」
「わかりました。でも、もう少しで診察は終わりますよ。終わったらすぐに行きますから、ご心配なさらずに」
 敏江は平静を取り戻すと落ち着いて言った。
 歌恋の病室では、看護師たちがぐずりながら邪魔な点滴の針を外して逃げ出そうとする歌恋を抑えていた。
「甲斐さん、このままでは針刺し事故がおきかねません。私たちが危険ですっ。もう、北山さんのように拘束するしか・・・」
「そうしましょう! これは、男の私でもきついっ。いったい、どこにこんな力が残っているんだ!」
「そ、そうね。先生を待つまでもたないかもしれないし・・・。でも、知能の退行したこの子にそれは・・・」
 甲斐は悩んだ。そんなことをしたらこの子に最悪の苦痛とストレスを与えることになる。見た目は成人女性でも、心は5歳くらいの幼児なのだ。あまりにも不憫ではないか・・・。それで甲斐に隙が出来たのか、歌恋は甲斐の手を振り払い右手の点滴の針を引き抜いた。それとともに刺し痕から血が飛び散り、針は歌恋の手の動きに沿って、空に弧を描いて移動し、甲斐の目前に迫った。甲斐は顔を庇おうと反射的に針を掴もうとした。

 由利子が目で示した方角には上りエスカレーターがあり、人々が間断なく上ってきていた。由利子は上ってくる人たちの中から地味な若い女性を示していた。
「蘭子よ」
「ええっ、あれが? だって写真とは別人じゃないですか」
「一見別人だけど、この由利子さんは騙せないわよ。いい? 写真の蘭子は派手な厚化粧でアイメイクもすごいでしょ。化粧を地味にして髪を黒く戻してストパーかけたらああなるの。目も普段は縁の黒いコンタクトレンズで黒目を大きく見せてたのね。それだけで印象が大分変わるわ」
「ってことは、あれが本来の蘭子ってことですか?」
「そうなるわね」
「へえぇ~、やっぱり女性は化け物だ」
 葛西は件の女をもう一度見て言った。その女は肩まで長さのまっすぐな黒髪で市松人形のように前髪を下ろし、化粧も地味なナチュラルメイクにして更に野暮ったい黒縁眼鏡をかけて、地味なグレーのパンツスーツをまとっている。写真の上げ上げ巻き毛茶髪で重たそうな長いまつげに目の周り真っ黒なアイメイクの派手な女性とはまったく別人だ。長期旅行のつもりか大きなスーツケースを持っている。
「一見、真面目なOLの出張って感じだけど、あの荷物はないなあ。機内に持ち込むつもりかしら? 入らないと思うけど・・・」 
「わかりました。由利子さんの目を信じます。すぐに皆を招集しますから、由利子さんはアレクたちと先に行ってて下さい」
「アレクには適当に言うわよ。ホントのことを言ったらこっちに残るって言うにきまってるんだから」
 由利子はそう言うとさりげないふりをして葛西から離れ、足早にギルフォードの方に向かった。

「気をつけなさい、甲斐さん! 針を掴もうとするなんて、もし手に刺さってしまったらどうするの! 何のための防護服とゴーグルなの!?」
 はっとして顔を上げると、敏江が点滴の管を持ち立っていた。五十鈴の部屋から駆けつけてきた敏江が、間一髪で歌恋の手を掴み、点滴の管を取り上げたのだ。
「おかあさん、おかあさん・・・」
 歌恋が嬉しそうに敏江の防護ガウンのすそを握って言った。敏江はかがんで歌恋の顔のそばに自分の顔を近づけると優しく言った。
「お出かけしてて、ごめんなさいね。これからは歌恋ちゃんのそばにいるからね」
「ずっといてくれるの?」
「大事な御用がない限りは、ずっと居るわよ。もし出かけしても、すぐに帰ってくるからね」
「わあい、かれん、うれしいな」
「だから、もう暴れちゃだめよ。これも邪魔だけど取っちゃだめ。頭の痛いのが治らないのよ」
「うん、わかった」
「じゃあ、もうちょっと寝ようか。お母さんが横に居るから安心でしょ」
「うん。かれん、なんかつかれた・・・」
 歌恋はそう言うと、ふっと目をつぶった。
「歌恋ちゃん?」
「笹川さんっ」
 周囲が一瞬ヒヤッとして声をかけた。しかしその後に聞こえた寝息で、スタッフ全員安堵の表情を浮かべた。

 葛西が連絡を終えると、横に由利子が立っていたので驚いて飛びのいた。
「ゆ、由利子さん、いつの間に・・・」
「ちょっと、お化けでも見たように驚かないでよ」
「アレクと一緒に行かなかったんですか?」
「ええ。葛西君がうんこしに行ったんで、私もついでにトイレに行くから先に行っててって言っといたから」
「ちょ、ちょっと、うんことか変なこと言わないで下さいよ」
「声が大きいっ」
 周囲の人たちが振り向いたので由利子はちょっと焦った。
「ただでさえ、さっきのことで目立ってんのに・・・」
「何かありましたっけ?」
「もう、いいわよ。で、蘭子は?」
「あ、荷物を預けに行ったようですね」
「さすがにあれは持って入れないか・・・。で、これからどうなるの?」
「防護服の救急隊を待ちます。九木さんたち国際線組ももうすぐこちらに来るようです。国内線組は既にここで張ってますから、もし蘭子が不審な行動をとった場合、取り押さえにかかると思います」
「って、そんな普通の格好で? もし蘭子が発症してたら危ないじゃない」
「さっきこれで確認したところ・・・」
「何それ?」
「携帯サーモグラフィーです。赤外線を探知するので発熱していたらすぐにわかります」
「へえ、すごいじゃん」
「空港のあちこちがサーモグラフィーで監視されていますよ。導入はこの事件以前からですが」
「ああ、サーズや新型インフルエンザとかの」
「はい。で、特に発熱はしていないようだったので、大丈夫とは思いますが・・・」
「じゃあ、感染してないってこと?」
「いえ、日にちは経ってますが、感染後10日経って発症した川崎さんという男性がいます。予断は許せません。隔離は妥当だと思います」
「そうなんだ」
「でもまあ、発症してないならまだ感染のリスクはかなり低いでしょうね。でも、もし危険があっても行かざるを得ないでしょう」
 危険があっても、と葛西が言ったので、由利子は一瞬動揺した。
「・・・葛西君・・・、も?」
「当たり前じゃないですか」
「そうよね。警官だもんね」
 由利子はそう言いながら、心に不安がよぎったのに気がついた。
(なんとなく多美山さんの奥さんや葛西君のお母さんの気持ちがわかったような気がする・・・)
「由利子さん、だから僕のそばは危険です。早くアレクのところに行っててください」
「そうはいかないわよ。だって、私が発見したのよ。見届ける義務があるわ」
「もう、頑固なんだから。じゃあ、危険を感じたらすぐに退避してくださいよ」
「わかってるって・・・あら、あそこにいるのはふっ○い君じゃない?」
 由利子が新聞を読みながら壁に寄りかかっている男を見て言った。
「いつからいるのかしら?」
「もともとエレベーター前で張ってましたが、こちらに移動したようですね。それから由利子さん、ふ○けい君て言うの、やめてください。あれ以来、富田林さんの顔を見るたびに笑いそうになるのをこらえるのが大変で・・・」
「それは悪かったわね。・・・ということは、相方の増岡さんもいる?」
「彼は搭乗口のほうを張っていましたから、そろそろ来るんじゃないでしょうか・・・。あ、蘭子が動き出しましたね。誰か待っているのかな、きょろきょろしてますね」
 蘭子は荷物を預けて身軽な足取りで戻ってきたが、周囲を見回すと少し不機嫌な表情で歩き出した。その後、彼女は出発口の前で腕組をしながら立ち止まった。作業員が来て、出発口に移動式柵を並べ始めたのだ。柵にはお断りとして「点検作業のため30分程通行止めをいたします」と書かれていた。蘭子は作業員の一人を呼び止め文句を言った。しかし、マスクをつけた職員は丁寧に謝りながら慇懃に頭を下げるだけだった。
「ぷっ、あれ、増岡さんじゃん」
「まったく、由利子さんのいるところでは、顔見知りは使えないな」
 葛西が困ったようにつぶやいた。
 蘭子は不安げな表情で周囲を見回すと、携帯電話を取り出して電話をかけはじめた。
「どこに電話しているのかしら?」
「親父か彼氏かそこら辺ですかねえ」
「なんか様子が変だって気付き始めたのかも」
 その時、葛西に無線が入った。
「え?」
 聞いていた葛西の表情が急に厳しくなった。
「なんて馬鹿なことを・・・」
「どうしたの?」
 由利子が心配そうに聞いた。
「斉藤孝治が、祖母を盾にして祖母宅に立て篭もったそうです」
「うそっ」
「残念ながら現実のようですね。祖母宅に潜伏していたようですが、発症に気付いた祖母が保健所に連絡し、救急隊員が駆けつけたところ、隔離を恐れていた斉藤孝治が強硬手段に出たようです」
「なんて考えなしの馬鹿男なんだろ」
「あ、ちょっと待って、電話だ。九木さんからだ」
 そう言うと、葛西は急いで電話に出た。
「はい、葛西です」
「葛西君、無線は聞いただろ?」
「はい」
「私は今から斉藤孝治の立て篭もり現場の方に行く。君はここに残って代わりに指揮をとってくれ」
「え? 私がですか?」
「そうだ」
「そんな、無理です! 僕・・・いえ、私は一介の巡査ですよ」
「松樹対策本部長の判断だ。君に断る権限はないぞ」
「・・・了解。では、これが終わり次第、私もそちらに駆けつけます」
「よし、よろしく頼むぞ」
 九木はそこまで言うと、さっさと電話を切った。
「まいったな・・・」
 葛西が困ったような顔をして言った。
「ベテランたちを差し置いて僕に指揮をとれって・・・。こんなの前代未聞の命令です」
「すごいじゃん。大丈夫、君なら出来るよ」
 由利子が戸惑う葛西を励ますように言った。

「ジュンもユリコも長いうんこですねえ」
 4階の展望台で、ギルフォードが時計を見ながら言った。
「いやですわ、教授。それではお二人がうんこみたいじゃないですか・・・。あらやだ、わたくしったらうんこだなんて・・・」
「って、2回も言ってるじゃん」
 と、すかさずギルフォードが突っ込んだ。
「何かあったのかもしれませんわ」
 気を取り直すように紗弥が言った。
「様子を見にもう一度2階まで行ってまいりましょうか?」
「考えられることは、ユリコがランコを見つけたということです。まあ、せっかく気を遣ってくれたのだから、ここにいましょう。警察の仕事だし、僕らが行ってどうなることでもありませんしね」
 と言いながらも、ギルフォードの口が若干尖り気味なのを紗弥が見逃さなかった。しかし、ギルフォードはすぐにくすっと笑って言った。
「そういえば、ランコとうんこって言葉、字面も発音も似てますね」
「教授、そんな身も蓋もない・・・」
 紗弥がため息をついて言った。

 葛西は、すばやく手袋をはめ、マスクをつけゴーグルを被った。由利子に離れて待つように指示すると、富田林と増岡を含む三人の警官とともに、蘭子に近づいた。
(あの紙袋には、あんなものが入ってたんだ)
 由利子が改めて驚いた。が、周囲を見回してもっと驚いた。いつの間にか由利子以外の一般客が人払いされていた。少し向こうからは、完全防護の救急隊員が駆けつけている。
 蘭子は突然現れた奇妙な格好の男たちに驚いて数歩後退った。
「竜洞蘭子さんですね」
 葛西が警察手帳を見せながら言った。
「あなたをサイキウイルス感染濃厚者として、保護します」
「人違いです! 私は葛城i雅美です」
「だめです。もう、あなたにはごまかすことは出来ません」
「ほら見てよ、身分証明もあるし、パスポートだって・・・」
 蘭子は急いでバッグから一式を取り出した。葛西は受け取ると中身を確認した。確かに名前は葛城雅美で写真も良く似ている。
「ほら、間違いないでしょ? 人違いにもほどがあるわ」
 蘭子が勝ち誇ったように言った。
「こんなことしてもし捕まえたりしたら、訴えてやるわよ」
 葛西たちは一瞬顔を見合わせた。その時由利子が叫んだ。
「その人は間違いなく竜洞蘭子よ! かく乱されないで!」
「何よ、あのオバサン!」
 蘭子はキッとした顔で由利子の方を見た。
「源田君、これらのものからこの葛城雅美という女性が存在するか調べて」
 葛西は若い警官に「葛城雅美」の身分証明等を渡した。
「了解」
 と、言うや否や、彼はそれを持って駆け出した。
「さて、『葛城』さん。あなたが『ホンモノ』かどうか、もうすぐ照合されますが、とりあえず保護させてもらいます」
 葛西が合図すると、防護服の救急隊が近づいてきた。蘭子はすばやく周囲を見回すと、富田林の方へ駆け出した。比較的小柄な彼を見て手薄と見たのだろう。しかし、富田林は機敏に動いて彼女の逃亡を阻止した。
「竜洞さん、観念しなさい。手荒なマネをすることになりますよ」
 富田林は厳しい表情で言った。それはマスクとゴーグルでいつもと雰囲気が違い、迫力があった。しかし、蘭子は今度は葛西の方に向かって突進した。葛西は彼女の腕を掴んで言った。
「仕方ありませんね」
 葛西は悲しそうな顔をして後ろに控えていた防護服の警官たちを呼んだ。
「救急隊の皆さんと協力して、この女性を救急車まで運んでください。出来るだけ手荒なことは避けて・・・って、無理か・・・」
 あくまで人違いだと抵抗する蘭子は、とうとう拘束されてストレッチャーに載せられた。蘭子は最後まで抵抗して叫んだ。
「パパに頼んで人権侵害で訴えてやる! そこのババアも覚えてろ! 暴力団の怖さを思い知らせてやる!」
「あ~あ、言っちゃった」
 と、増岡が肩をすぼめて言った。散々わめきながら、蘭子は救急隊員とともに裏口の方に消えていった。
「ババアって、失礼ね! あんたが私の歳にはメッチャ老け顔になってるわよ」
 由利子がやや憤慨気味に言った。しかし、その顔は少し青ざめている。
「由利子さん、心配しないで」
 葛西が声を掛けた。
「単なる脅しですよ。それに、僕らがそんなことにはさせません」
「あ、葛西君。任務完了お疲れ様」
「ご協力ありがとうございました。おかげで蘭子を保護できました」
「保護というより捕獲だったわね」
「あれじゃあ仕方ないでしょう。ほんとに名前負けしてない女性でしたね。これから僕はもうひとつの現場の方に行きます。アレクによろしくお伝えください」
 そういうと、葛西は富田林・増岡とともに駆け足で去っていこうとしたが、由利子が呼び止めた。
「葛西君!」
「なんですか?」
 葛西が立ち止まって振り向いた。
「葛西君・・・それに富田林さんも増岡さんも、気をつけて。無理しないで・・・」
 心配そうな由利子に葛西は笑顔で言った。
「わかってますって、由利子さん。大丈夫です」
「なんか、ついでのごたりますが、ありがたいです」
 富田林も振り返って言うとびしっと敬礼をした。二人はまた駆けて去っていった。増岡はとっくに走り去っていた。
 一人残された由利子は、ゆっくりとエレベータに向かった。エレベーターの前に立つと、ポーンという音がして上から下ってきた箱が2階で止まった。
(ああ、動き出したんだ。戒厳令は解除されたんだ)
 そう思っていると、ドアが開いた。中には他の客に混じって、遅いので心配してやってきた紗弥が乗っていた。紗弥は周囲を見回してつまらなさそうに言った。
「あら、捕り物はもう終わってますのね」
「なんだ。わかってたんだ」
 由利子が少しばつの悪そうな表情で言った。

 展望台に行くと、ギルフォードが空を見上げて立っていた。由利子たちが近づくと、振り返って言った。
「もう、飛び立ってますよ。あれです」
 ギルフォードが指す方向には、曇天の中旋回しつつ徐々に姿を小さくしていく機影があった。由利子と紗弥はギルフォードと一緒に空を見上げた。由利子は無意識に手を振っていた。
 機影が厚い雲の中に消えると、ギルフォードは空を見上げたまましんみりと言った。
「とうとう行ってしまいましたね」
「すぐ帰って来るんじゃん。2週間なんてあっという間だって」
 由利子はそう言って慰めたが、その2週間の間にもいろんなことが起こるのだろうなと思い、少し憂鬱になった。
  

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