« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2.焔心 (2)禍つ兆し

 由利子はジュリアスと大学内の道をそぞろ歩いていた。

 彼女は、午後からギルフォードに頼まれたとおりジュリアスに付き合って、学内の図書館で色々本を物色していたが、ジュリアス曰く、少し頭と目が疲れてきたので、学内を散歩することにしたのだった。最も、この学内散歩も本日のデートメニューであるのはご存知のとおりである。
 長身でブラックビューティーなジュリアスと歩いていると、否が応でも目立ってしまう。したがって、由利子は道行く学生達の注目を浴びながら歩く羽目になり、照れくささと若干の優越感が混じったような心持である。

「へえ、そうだったのかねー。アレックスのリアル・ナウ■カ、おれも見たかったな」
 ジュリアスが由利子の話を聞きながら、愉快そうに言った。
「ほんで、その犬は?」
「ええ」
 由利子が答えた。
「春先生が言うには、かなり弱っているしメンタル面でも少し心配があるけど、命には別状ないだろうって。後は、当面愛護団体の方で保護してくれるそうだよ」
「そうか、よかったな。住み慣れたところを出て行くのは不安だろうがね、そのままでおるよりは、ずいぶんえーだろうからね」
「でも、もし川崎さんの奥さんまで亡くなられたりして、その後の飼い主が決まらないと、最悪・・・」
「う~ん、厳しいねー」
「そうなのよ。出来るだけのことはしてくださるということだけど」
 由利子はそういうと、ため息をついた。
「しかも、他にも大問題があってね」
 と、由利子はまた続きを話し始めた。

 あの後、しばらくして春風動物病院の春先生こと小石川獣医師と、動物愛護団体の人が駆けつけてくれた。それで、後は彼等にお願いして、ギルフォードは少し道子から話を聞くことにした。様子を見に来た近所の人たちの様子に尋常でないものを感じたからだ。
「みんな、怖いんですよ」
 と、道子が言った。
「最初、秋山さんのとこで連続して死人がでたでしょ・・・」
 その後道子はしばらく沈黙したが、ぼつぼつ話し始めた。

 珠江の遺体を発見した五人はそれ以来、皆その病気が感染るかもしれないということが頭から離れなかった。しかも、道子を含め遺体の惨状を目の当たりにした三人のうち、30代女性でまだ若かった典子は、精神的にかなりダメージを受けて、今も通院中であるという。
 それでも、典子以外は年の功もあるのか比較的立ち直りも早く、まもなく日常生活に戻ることが出来た。しかし、秋山美千代が不可解な死を遂げ、川崎三郎が発症し、妻と共にどこかに連れ去られたという噂が広がると共に、彼女らに再び不安が広がった。うち一人は、この住宅地にいることに耐えられなくて、とうとう実家に帰ってしまったらしい。
 さらに、日曜の緊急放送が彼女らにダメ押しを食らわせた。この地区が疫病発生地のひとつと発表されたために、周囲から妙な噂が立ち始めており、ひょっとしたらこの住宅街が孤立するのではないかという不安が住民達に広がった。当然のことながら、道子たちへの風当たりも強くなった。幸い、道子の夫は流言飛語の類に惑わされるような人ではなかったために、彼女は家で孤立するようなことはなかった。さらに夫は町内の緊急集会でも冷静に対処すべきだ、この疫病の感染力はまだ弱い、それよりパニックのほうが深刻な事態を招くと、丁寧に住民を説得して回ったという。しかし道子は、今はなんとか町の均衡は保たれているようだが、いつバランスが崩れるかと思うと不安だと言った。
「中には過激なことを言う人たちもおっとですよ。病気の出た家は燃やしてしまえとか・・・」
 そう言うと、道子はぶるっと身を震わせた。ギルフォードは済まなさそうに道子を見ると言った。
「あなた達には申し訳ないと思っています。しかし、ウイルスを広めないようにするには皆に知らせ注意を喚起することが最良の手段であり・・・」
「知らせりゃあいいってもんじゃなかでしょうがっ!」
 ギルフォードの言葉を遮って、道子はやや語気を荒げて言った。
「私だってあの緊急放送は、必要だったとは思ぉとるとです。でも、そのせいで、私等の生活が脅かされとぉとは事実なんです。この家を見たら判るでしょう!?」
 ギルフォードは改めて周囲を見回すと、辛そうに言った。
「僕も、実際にこの光景を目の当たりにしてショックを受けています。力足らずでホント、申し訳ありません。この件については、知事に直接お知らせして早急に対策を練るよう要望しますから・・・」
「ああ先生、すみません」
 道子は、ギルフォードに突っかかったことを詫びた。
「この疫病はあなたのせいやなかとですもんね。むしろなんとかしようとしてくださっとぉとでしょう? しかも、外国の方なのに・・・。責めるようなことを言ってすみません」
「いえ、おっしゃることはごもっともですよ」
 ギルフォードは悲しげな笑顔で言った。
「あの、ところで・・・」
 道子は、遠慮がちに話題を変えた。
「川崎さん夫妻のご容態はどげんかご存知でしょうか?」
 ギルフォードは道子の質問にドキッとした。三郎は死に、妻の五十鈴も発症してしまった。だが、ここで道子にそれを知らせるべきなのか。ギルフォードは一瞬目を瞑った。道子はそのギルフォードの表情で、だいたいのことがわかったようだった。道子は目を見開いた。
「そんな・・・、先生、まさか・・・?」
 そう言うや、道子はガタガタと震え始めた。
「残念ですが・・・」
 ギルフォードは意を決して言った。
「ご主人の方は昨日亡くなられました。奥さんは、今、一所懸命病気と闘っておられます」
「ああ・・・」
 道子は両手で頭を抱えるようにしてうずくまった。ギルフォードは驚いてブロック塀を跳び越え、道子を支えた。
「先生・・・」
 道子は悲しみより恐怖に震えて言った。
「五十鈴さんまで感染っとったなんて・・・! 恐ろしか・・・。ひょっとして私も・・・」
「ミチコさん、聞いてください。カワサキ・サブローさんは、あの時蟲に咬まれたところに発疹が出来、それが膿(うみ)を持っていました。妻のイスズさんは、おそらく、サブローさんの衣類などについたその膿から感染したと考えられています。ミチコさん、あなたはあれから熱が出たり体のどこかに発疹が出来たりしましたか?」
「いいえ、いいえ。そういうことはありませんでした」
「ならば、多分ダイジョウブです。気をしっかり持って。ご主人サンがあなたを必死で守ってくださってるんでしょ? あなたもしっかりしなきゃあ」
「そうですね。私がしっかりしないと」 
道子はそう言うと、フラフラとしながらも立ち上がった。

「ひっどい話よね」
 由利子は話し終えると言った。
「しかも、意図的に撒かれたものでそんな目にあっちゃあ、たまらないわ」
 憤慨する由利子に、ジュリアスが言った。
「それが、感染症のおそぎゃー(恐い)ところなんだがや。見えにゃーものに感染する恐怖で人間関係がずたずたになるんだわ。おれに言わせれば、ウイルスより人間の方がでーらおそぎゃーて」
「そうだね。こんな恐ろしいウイルスを撒いたのも人間なんだよね・・・」
「ウイルスにとって、宿主の死は自分等の死も意味するんだがね。それだもんで、あいつらだって本当は人間と穏やかに付き合いてゃーんだがや」
「そうだよね。ウイルスが悪いわけじゃないんだ」
 由利子は納得して言った。
「おっと由利子、まあひゃあ(もうすぐ)目的地につくぞ」
 話に夢中になっていたので由利子はいつの間にか大学の裏庭に来ていることに気がつかなかった。雑木の林の中を未舗装の小道が木を避けるようにくねくねと通っている。やや中央に自然石の石積みと葦原に囲われた大き目の池が横たわり、水には数種類の水鳥が優雅に泳いでいる。
「へえ、こんなところがあったんだ。庭と言うより立派なビオトープだねえ」
「なかなかえーだろ? でも、ここを通り抜けたところの景色はもっと綺麗なんだ」
「そこが目的地?」
「そうだがね。えぇところだもんで、きっと由利子も気に入ると思うて」
「へえ、楽しみやねえ」
 二人は木漏れ日の中を歩いていった。あちこちで小鳥がさえずり、時折雲雀(ヒバリ)のせわしない鳴き声が空高くから聞こえてくる。
(なんて平和なんだろう・・・)
 由利子には、午前中の出来事がまるで別世界のように思われた。
(でも、現実は今のこの時間が別世界なんだ・・・)
 由利子は思った。

 ジュリアスの言うとおり、林を抜けると下生えのイネ科の雑草がそのまま拡がった広場があり、そこはそのまま小高い丘になっていた。ジュリアスは右手を広げ、景色を示しながらうやうやしく言った。
「由利子、おれとアレックスのお気に入りの場所にようこそ」
「うわあ・・・」
 由利子は丘の上に立つと、感嘆の声をあげた。
「すご~い、きれ~い! 大学の裏がこんな綺麗な景色だなんて・・・」
「アレックスと夜に1回だけしか来たことがなかったけんど、昼間もえ~もんだな」
「夜に1回だけしかって、おい・・・」
「ここら辺に立って夜空を見上げて少し話をして、合間に2・3回キスしたくらいだがね」
「それですんだとですかぁ?」
「あたりみゃーだろー? 由利子、おみゃ~さんは青カンが好きかね?」
「ぜぇーったい、イヤ!! って、いやその、え~っと・・・」
 相変わらずあっけらかんとして言うジュリアスに、流石の由利子もタジタジとなった。
「まあそーゆーことだなも」
「はあ、そーですかい」
「まあアレックスは不満そうだったがねー」
「え~、アレクがぁ? 意外~」
「あいつ、あー見えてけっこーケダモノなんだわー」
「ケダモノって、アンタ」
 あきれて苦笑する由利子に、ジュリアスはまたニッと笑って言った。
「月が青くて綺麗で、月光が木や草の夜露にキラキラ反射しとってよ、蛍がふわふわ飛んで来るんだわー。ほーんとロマンティックだったね~」
「そーかいそーかい」
「ほんだで、アレックスがおれを抱きしめてよー、もう離さない、何ちって、いや~、で~ら恥ずかし~なも」
「・・・」
 なんでこんな風光明媚な場所で、こいつの臆面もないお惚気(のろけ)を聞かにゃならんのだと、由利子が空しくなったところで、ジュリアスがそれに気がついて、慌てて話題を変えた。
「・・・いやまあ、・・・えっと、ここはけっこう田舎にあるからねー。裏はざっとこんな田園風景なわけだなも」
「うん。あんなところに小川があるんだね。太陽の光でキラキラしてるねえ。向こうの里山も綺麗。きっと秋は紅葉が綺麗やろうねえ」
「そうだなも。その頃ここでみんな一緒に酒盛りしながら紅葉を見よみゃーよ」
「ジュリー、日本にはずっといるの?」
「ああ」
 ジュリアスはニッと笑って言った。
「今週末にいったんアメリカにきゃーる(帰る)けど、半月のうちにまた来るがね。今度は長期滞在になる予定なんだわー」
「そっかぁ。良かった」
「ウザイとか思わにゃーのかねー?」
「何で? せっかく友だちになれたんじゃない。葛西君だってすっかり懐いているし」
「懐いたって、あいつは子供かねー」
「あはは、お子ちゃまデカ。だっていつの間にか、あなたにタメ口になってるんだもん」
「そりゃー、二人してメガローチと格闘したんだがや。言ってみりゃー戦友みてゃーなもんだろ。半日もありゃーうちとけるってもんだわ」
「そりゃあそうだわね。まあ、それはともかく、秋頃にはこの騒ぎが収まっているといいね」
「そうだねー。そう願いてゃーねー」
 そう言いながら、彼は丘に生えたいくつかの木のなかで、目立って大きな木の傍に向かった。
「ケヤキだなも。この木陰が涼しげでえぇかね」
 ジュリアスはぽんぽんと木の幹を軽く叩きながら言うと、丘の斜面側を向いて木の根元あたりに座った。
「由利子もそこら辺に座りなせゃー。犬のうんこがにゃーか気をつけてちょーよ」
「もう、変なこと言わないでよ」
 由利子は笑いながら言ったが、言われると気になってしゃがんで草むらを注意深く見た。
「冗談だて。多分この辺りは大丈夫だがや。それに今日は朝からわりと天気がえーて、地面もだいぶ乾いとるし、草の上だったら心配しのーてもえーよ」
「あ、そう」
 由利子はジュリアスに言われて、安心して彼の傍に腰を下ろした。
「ねー、由利子。こうしとると端から見たらおれたち恋人同士に見えるかねー」
「そうね。見えるカモね。しかも男同士の」
「そう来たかね」
 ジュリアスはそう言うとカラカラと笑ったが、すぐに真面目な顔をして言った。
「気にするな、由利子。確かに乳はにゃーけどおみゃーさんは充分えぇ女だもんでよ」
「なんか、素直に喜べないけど、ありがとう」
 由利子が肩をすくめながら言うと、ジュリアスはその後さらに神妙な顔をして尋ねた。
「ところで、アレックスのヤツ、何かあったのきゃー? せっかく昼飯を一緒に食おうと思っとったのに、『ごめん急ぐから、事情は後で説明する』とか言って、ずいぶんと焦って出て行ったみてゃーだが」
「ああ、あれ」
 由利子が答えた。
「私たち、あの後すぐに大学まで行ったんだけど、あなたと会うまでに時間があったんで、せっかくだからアレクの講義を聴講させてもらってたんだ。そしたら、緊急の電話が入ったみたいで・・・」
「授業中に電話?」
「うん。こういう時だから、何かあった時のために電源を切らないようにしているらしいんだ。で、みんなに事情を説明して電話に出るために講義室を出て行ったんだけど・・・」
「だけど?」
「何やら当惑したような顔で帰ってきたんだよね。授業は最後までやったけどさ、なんとなくいつもの余裕みたいなんがなくなってたなあ。2・3回とちってたし・・・」
「そりゃあ妙だがや。何があったのかねー」
「気になるよね。だから講義の後、アレクにどうしたのか聞いてみたんだけど、返事が『わからないけどとんでもないことが起こったらしい』って、なんかアレクも状況が把握できていないようだったんだ」
「そりゃー、ますます気になるじゃにゃーか」
「うん、そうなのよ。でも、状況がわかってから聞くしかないものねえ」
「仕方にゃーか。まあそーだろーねー」
「で、ジュリー」
 今度は由利子が神妙な顔をして言った。
「そろそろ本題に入ろうよ。以前言った私に何か話したいってことを言うためにここに誘ったんでしょ?」
「ああ、そうだがや。ここならあまり人が来にゃーから、ゆっくり話が出来るからね。それに、昼間はけっこう見晴らしがえーから、おみゃーさんも妙な心配もしのーて済むしな」
「妙な心配って・・・」
 由利子が苦笑しながら言った。しかし、ジュリアスは今まで見た事が無いような真摯な表情をして、由利子を見据えながら言った。
「その前に聞きてゃーんだが、今から話すことはとても重い話なんだわ。おみゃーさんにそれを受け止めることが出来るかね? そして、それを知らにゃー振りをしながらアレックスをフォローすることが出来るかね?」
「なんだか恐いな。そんなにヘヴィーな話なの?」
「重いし、聞いた後後悔するかもしれにゃーて」
「え~っと、困ったなあ」
「それに、これは多分紗弥も知らにゃー話なんだ」
「紗弥さんも? 何で?」
「あー見えて、あいつにもトラウマがあってなー。まあ、そういうわけで教えておれせんらしいんだわ」
「えー、そうなの? 意外だなあ。でも、私は知っていた方がいいっていうことね?」
「おれは、そう判断した。だもんで話そうと思ったんだわ」
 ジュリアスは、真剣な顔で由利子をまっすぐに見ながら言った。
「わかった。腹を決めたわ。この際ドンちゃんドンと来い何でも来い、よ。さ、話して」
「なんか、懐かしいフレーズを聞いたよーな気がするけどよ・・・」
 ジュリアスはそう言って笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「これは、アレックスが子供の頃彼の身に起こった事件だて」
 ジュリアスはそう前置きすると話し始めた。

 その頃、感対センターのセンター長室では大の男が5人、厳しい顔をして座っていた。
「みなさんお忙しいところをご足労いただき、申し訳ない。私が今、ここから身動き出来ない状態なものでね」
 と、高柳が口火を切って言った。
「しかし、困ったことになってしまいましたな」
 高柳が組んだ腕を組み変えながら続けた。さっき来たばかりの松樹が手にした雑誌に目を通してから言った。
「これについては、昼頃、関連記事部分だけ『どういうことか』とう質問付で、本庁からPDFデータで送付されて来ていましたが、雑誌本体はまだこっちでは発売されていないはずです。いったいどういう経緯でここに?」
「今、知事がこの事件の関係で上京していてね。たまたま空港の本屋でそれを見つけたらしいんだ。それで、今日帰す予定の付き人の予定を早めて急いで帰らせてこれを届けさせたということだ」
「気の毒に、とんぼ返りですか」
 九木(ここのぎ)はそう言うと、両眉を上げ口を軽くへの字に曲げた。本気で同情しているらしい。その様子を見て高柳が言った。
「まったくですな。彼はそのせいで耳鳴りが悪化したと言って耳鼻科に行ったそうですが」
「まあ、それが一番早く届ける手でしょうけどね。しかし、私も松樹さんから送られてきた記事を見せられた時は  驚きました。この記事について、あなた方は何かご存知ですか?」
「九木さん」
 と、九木の隣に遠慮がちに座っている葛西が言った。彼は、新たに九木と組むことになったのだ。
「調書を読まれたならご存知と思いますが、祭木公園で美千代が自殺した事件を隠れて見ていた、真樹村極美という女性がいました。おそらく、彼女はこの雑誌記者だったんでしょう。しかし、あの時長沼間さんが写真データを全て削除したはずですが・・・」
「しかし、実際に雑誌にはその写真が掲載されているんですよね」
「はい。おそらく見つかる前にメールでどこかに写真を送付していたのでしょう」
「まあ、そういうところでしょうね。しかし、私が聞きたかったのはそういうことじゃない。この記事の内容についてなんだ。この写真の”ブラッディ・プロフェッサー(血まみれの教授)”、顔は目線で隠れているが、これは紛れもなくあなたですな、ギルフォード教授?」
「はい」
 今まで黙って雑誌の表紙をじっと見ていたギルフォードが、ようやく口を開いた。
「しかし、ブラッディというのは、とても不愉快です。たしかに僕は、アフリカで疫病で死にかけたときは血まみれになりましたがね、洒落になりませんよ」
 ギルフォードが眉を寄せながら言った。残りの4人はそれを聞いてまじまじと彼の顔を見た。一様に鼻白んでいる。ギルフォードは、いらんことを言ってしまったという顔をしたが、すぐに話を続けた。
「これは、知事に頼まれてアキヤマ家に説明をしに行った時のものです。その時アキヤマ・ノブユキさんの首吊り自殺現場に遭遇して、僕等も救出に協力しました。これはその時ついたノブユキさんの血です。この写真はノブユキさんが救急車で搬送される時に撮られたもののようですが、一体どこで撮られたのかは、さっぱり・・・」
「まあ、望遠レンズを使えば可能でしょう」
 と、松樹がフォローした。
「ええ、おそらくそうでしょうね」
 ギルフォードが続けた。
「その後、僕の秘書のタカミネが、アキヤマ家の様子を伺う不審な車に気がついて追跡しようとしましたが、その車はすぐに逃走してしまいました。おそらくそれにそのキワミとかいう女性が乗っていたんでしょう。ジュン、いえ、カサイ刑事の調書にあったように、彼女には協力者がいるようですから」
 葛西がその補足のためにギルフォードの後に続いて言った。
「しかも、その協力者は多美山さんが危篤であることを知っていました。そいつは、僕が極美という女性を発見して任意同行しようと試みた時、妨害をし彼女を逃がしたのです。かなり怪しい男です」
葛西の説明に、九木が尋ねた。
「おそらくテロリスト側だと?」
「はい。その可能性は高いですね」
 葛西は言った。
「では、この記事は、テロリスト側が記者に干渉して、世論のミスリードを図った記事を書かせた、ということなのか?」
「はい。その可能性は高いと思います。ただ、この雑誌はかなりタブロイド色が強いので、どこまで影響があるかは・・・」
「しかし葛西君」
 松樹が話に割って入った。
「そういう類の雑誌とは言え・・・、いや、だからこそ、まだ我々が公表を控えているテロという可能性をスッパ抜かれたのは非常にまずいことだよ」
「正式発表した時、この記事がどんな作用をするかわかりませんからな。すくなくとも良い状況ではありませんな。とりあえず、当分の間ギルフォード教授が表面に出ることは控えた方が良さそうだ」
九木がギルフォードの方を見ながら、冷ややかに言った。それに対してギルフォードは、不機嫌そうに答えた。
「僕は、もともと表に立つつもりは毛頭ないですケドね」
「まあ、それはともかく、まずこの記事の内容を検証すべきですな」
 高柳が二人が険悪になりそうな雰囲気を察して、話をすすめた。

続きを読む "2.焔心 (2)禍つ兆し"

|

2.焔心 (3)アレックス~前編~

 以下の話は、ジュリアスが由利子に話したギルフォードの過去に、いくつかの事実を補充したものである。話の進行上、特に中編後半以降に一部残酷な表現が入ることを前もっておことわりしておく。

*****

「ぼっちゃま、どこでございますかー?」
 森の中を年老いた教育係が、虫を追い掛けて遠くへ行ってしまった跳ねっ返りの小さな御曹子を探していた。
「じいは隠れんぼが嫌いでございますよ。もし、ぼっちゃまに何かあったら、じいは御館様に八つ裂きにされてしまいます~。後生ですから出て来てくださいまし」

「シーッ、静かにおし!」
 少年ギルフォード・・・ここではジュリアスに準じてアレックスと呼ぼう。彼は、崖の近くに生えた大木の陰に身を潜め、虫取り籠の中で騒ぐ虫たちに言った。
「出てなんか行かないよ。今日こそは母様に青いチョウを採ってさしあげるんだから。ポールなんかに付き合ってたら、また日が暮れちゃうじゃないか」
 アレックスは口を尖らせながらつぶやいた。

 さっきまですぐ傍で探していたらしいポールの声も今は遠く響き、アレックスはクスリと笑った。
「ようやく行ったね。でも、もう少し遠くに行ってからここを出るとしよう」
 そういうと彼は捕虫網を持ち替えた。
「ぼっちゃまぁぁぁ・・・・」
 ポールの声が風に紛れる程になったので、アレックスは立ち上がった。
「やった~! これで自由だぞ!」
 しかし、あまりにも勢いよく立ち上がったので、アレックスは半ば森の腐葉土になりかかった落ち葉の層に滑ってバランスを崩した。
「あっ!」
 アレックスは短い悲鳴を上げると、そのまま崖を転げ落ちて行った。
「ポール、ポール、助けて!!」
 しかし、ポールを撒いてしまったのは他ならぬアレックスである。彼は空しく助けを呼びながら崖下まで落ちていき、途中、気を失ってしまった。

 数分経っただろうか。アレックスは目を覚ました。崖が比較的緩やかだったのと、枯葉の山がクッションになって、奇跡的にかすり傷程度で済んだアレックスだったが、服はよれよれになり、全身泥まみれになってしまった。これでは彼がギルフォード家の御曹子とはだれも思わないだろう。
 アレックスは身体を起こしたが、地べたに座り込んだまま周囲を見回した。
(ここはどこだろう?)
 彼は最初混乱し、何があったか判らない状態であったが、徐々に自分の置かれた状況がわかってきた。アレックスは自分の落ちた崖の上を見た。かなり高く滑りやすそうで、とてもそこを逆につたって帰ることは不可能に思えた。彼の居る場所はまだギルフォード家の敷地ではあったが、がけ下の山道は、ギルフォード家が厚意で民間に解放しており、誰でも通ることが出来るようになっている。
 まだ幼いアレックスは、自分の家の敷地をまだ十分に把握していなかった。まあ、大の大人でも広すぎて迷うくらいのシロモノではあったが。30年以上前のことだから、今ほど通信機器も発達しておらず、当然携帯電話もGPSも存在しない。
 家人に連絡を取る術のないアレックスは、山道を通る車を止めて事情を話して屋敷まで連れて行ってもらおうと考えた。父親はかなり厳しかったが、それ以外の者は皆彼に優しく、従って、彼は今まで大切に育てられており、人の悪意に触れたことが無かった。それで、今回も心配することなく家に帰れると考えた。青い蝶は、また次回にしよう。彼はそう切り替えて、立ち上がった。
 そして彼の後を追うように落ちてきた捕虫網を拾って持ち、改めて虫かごの昆虫たちを見た。彼等はアレックスの落下によって激しく揺さぶられ、混乱していた。死んだようになっているものもいた。
「ああ、ごめんよ。ぼくのせいで・・・。すぐに逃がしてあげるからね」
 彼は再びしゃがみ込むと、虫かごの蓋を開け昆虫達を解放した。翅のあるものは飛立ち、そうでないものも一目散に逃げ出した。死んだようになっていた虫も、すぐにもぞもぞと動き出した。ショックで仮死状態になっていたらしい。昆虫には良くあることだった。
「ああ、良かった。みんな生きてた!」
 アレックスは、ほっとしながら虫かごの蓋を閉めると立ち上がった。午後からの夏の日差しが照りつけて来たので、アレックスは日陰に入って車を待とうとトボトボと歩き出した。

 アレックスは、じりじりと日に照らされて、その暑さに目を覚ました。道路わきに出来た木陰に座って車の通るのを待っていたが、いつの間にか眠っていたらしい。その間に日が動いて木陰が移動したのだ。アレックスはヨロヨロと歩いて移動した木陰に座りなおした。
 森の方では、ポールの知らせを受けアレックスの捜索が始まっていた。しかし、だれも彼が崖下に落下してしまったなどとは考えもしなかった。森の中で人が迷うことは珍しくなかったからである。
「のどがかわいた・・・」
 アレックスは軽い脱水症状をおこしていた。普段ならメイドやポールが至れり尽くせりで守ってくれた。喉が渇いたといえば、すぐに飲み物が用意された。しかし、こんな道端ではそんなことは当然不可能である。頼みの車もなかなか通らなかった。既に夕方の時間帯に入ろうとしており、影が長く伸びてきた。日が落ちてしまうと、いくら夏とはいえ、アレックスの軽装ではとても辛い夜になるだろうことは彼にも想像出来た。不安におののきながらも気丈な彼は泣こうとはしなかった。普通の子供なら泣き喚いてそれだけで体力を消耗してしまっただろう。彼は辛抱強く希望を失わずに待ち続けた。
 日も落ち周囲が黄昏て来た頃、1台の車がやってきた。アレックスはすかさず道路に立って、両手を振りながら車を止めた。件の車はアレックスのすぐ前で止まった。
「なんだ?」
 車の中から助手席の男が窓を開けて、アレックスを上から下まで見ながら言った。アレックスは礼儀正しく言った。
「あの、道に迷ったんです。よかったら家まで乗せてもらえないでしょうか」
「迷子のヒッチャー(ヒッチハイカー)か? しっかし小汚いガキだな」
「だが、奇麗な顔をしているぜ」
 男達はアレックスを見ながらヒソヒソ話していたが、ニヤニヤ笑いながらアレックスを舐めるように見て言った。
「おう、乗せてやるよ。後ろに乗りな」
 しかし男達の様子から、アレックスは不吉な悪意を察し数歩後退りをした。
「どうした? 乗れよ?」
「ごめんなさい。やっぱりいいです」
 アレックスはそう言うや否や、車の進行と反対方向に駆け出した。
「くそっ、追え、ジャコボ!」
「承知!」
 助手席から若い方の男が飛び出して、アレックスの後を追った。その後車はタイヤの音を軋ませながら、向きを変えた。
 アレックスは捕虫網を投げ出して必死で逃げた。彼の足は同年代の子の中では早い方だったが、所詮子供の足、若い男の脚力とは比べるべくも無い。アレックスは追っ手の距離がだんだん短くなっていることを察した。心臓が破裂するかと思った時、何かが目の前を遮った。さっきの車が先回りをして通せんぼをしたのだ。行く手を遮られたアレックスは、力尽きてその場にうずくまった。
「このガキ、手を掛けさせやがって」
 追いついてきたジャコボと呼ばれた男が、そんなアレックスを片手で抱えあげながら言った。アレックスはハアハアという荒い呼吸の中で、男をにらみつけて言った。
「無礼者! 何を・・・!」
「はあ?」
「愚かな・・・ぼくを誰だと・・・」
 アレックスはようやくそこまで言うと、激しく咳き込んだ。
「はあ、参ったな。頭のおかしいガキかよ。綺麗な顔をしてもったいない」
「いいから、早く車に乗せろ。誰か来る前にズラかるぞ!」
「判ってるって、ステュー」
「ついでに網も拾っておけよ。何で足がつくかわからないからな」
「へいへい」
 ジャコボはもがくアレックスを車の後部座席に放り込んだ。
「何するの、離しなさい! おまえたち、このままではすまされませんよ!!」
「あ~、五月蝿いガキだな。ジャコボ、黙らせとけよ」
「へえへえ、おいガキ、こっちむけよ」
 ジャコボはアレックスの顔を無理やり自分に向けると、自分のジーパンのポケットからハンカチを出してアレックスの口に押し込んだ。その上から頭に巻いていたバンダナで猿轡をした。アレックスは言葉を奪われたが、怒りの表情でキッとジャコボを見据えた。
「おお、恐。気の強いガキだね、こりゃあ。普通なら泣き出すところなんだが。・・・おっと、逃がしゃしねぇぜ」
 アレックスは、ジャコボの脇をすり抜けて逃げようとしたが、首根っこを引っつかまれ敢え無く阻止されてしまった。アレックスはじたばたしながら何か言ったが、当然唸り声にしかならなかった。
「生きの良いガキだな。妙に話し方がお上品だったが」
「面倒だから縛っとけよ」
「可愛そうだけど仕方ないなあ」
「心にも無いことを言うなよ、ドSの癖に」
「へっへ~」
 ジャコボは笑いながらアレックスの両腕を後ろ手に掴むとガムテープで縛った。ついで、両足も拘束する。アレックスはついに諦めて目を瞑った。悔しさで涙が滲む。彼は愚かな行動をしてしまった自分を呪った。
「これ、どうするよ?」
「そこにジャガイモを運んだ麻袋があるだろ? それを被せて後部座席の床にでも転がしとけ」
「OK。悪く思うなよ、ガキ。恨むなら俺達に出会った運命を恨みな」
 アレックスは頭から麻袋に入れられ、乱暴に床に投げ捨てられた。
「おっと、いけねえ」
 ジャコボは走って捕虫網を拾って来ると、それも後部座席に投げ入れ、助手席に滑り込んだ。と、同時に車が発進し、あっという間に姿を消した。

 数十分後、アレックスは車から出され、袋のまま担ぎ出された。後部座席の床で、車の揺れるがまま成す術もなく体のあちこちをぶつけ、しかも車酔いまでしてしまったアレックスはぐったりしていた。昼から飲まず食わずだったので、なんとか吐くことは免れたが、具合は最悪だった。
 彼はしばらく担がれたまま、どこかに移動させられていたが、いきなり床に投げ出され、麻袋から出された。アレックスは、床に座り込んだ状態で周囲を見回した。どこかの住宅の居間の様なところだったが、周りには一癖も二癖もありそうな40~20歳代の男達が4人ほどと、60歳くらいの太った女が居た。
「どうしたんだ、この汚ねぇガキは?」
 一番年長でリーダーらしい男が訝しげな顔で二人に尋ねた。
「ああ、オヤジ、こいつは・・・」
 年長のステューが説明した。
「昆虫採集で山に入って迷子になったらしくてね。山道にうずくまっていたんだ。自分ちも判らないようだし、少し頭もおかしいみたいだけど、上玉だろ? 高く売れそうなんで連れて来たのさ」
「どれどれ」
 太った女がアレックスに近づくと、彼のあごを掴み顔を自分に向けさせてジロジロと見ながら言った。
「ふん。ほんとに上玉だね。綺麗な子だよ。本当に男の子かい」
 女はそう言いながらアレックスの股間に手を伸ばした。アレックスはビクッとして、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
「あっははは。確かに男の子だ。さぁて、アル、おまえの出番だよ。その前にこいつを風呂にいれておやり。こんなに汚きゃ上玉が台無しだよ。ジャコボ、手伝っておやり」
 怒りに震えながら涙ぐむアレックスを尻目に、女は若い男二人に命令した。
「了解」
 女に呼ばれ、アルはツカツカとアレックスの傍に来ると、彼を抱きかかえて言った。
「さあ、ぼうや、おいで。小奇麗にしてやろうな」
 彼は、黒人で背が高く細身な30歳くらいの青年だった。ジャコボのほうは中背で労働者っぽくからだのがっしりとした、20代半ばくらいの白人だったが、少しイタリアなまりがあるような感じがした。アルという男の方も、少し言語体系が違うように思われた。アレックスは二人の男に連れて行かれながら『オヤジ』と『グラン・マ』の会話を聞いていた。
「おい、グラン・マ。大丈夫なのか、ジャコボなんかに手伝わせて」
「アルは優しい子だからね。飴と鞭でちょうどいいだろ?」
「なるほど、ちげぇねぇや」
 『オヤジ』はそういうとげらげらと笑った。

 アレックスはバスルームの中に放り込まれた。狭く汚いバスルームに驚いて、アレックスは一瞬キョロキョロした。
「何をビックリしているんだい?」
 アルは笑いながらアレックスの猿轡を解いた。ついで口に詰め込まれたハンカチを取る。
「こんな子供にひどいことをするなあ」
 アルは、唾液まみれになったハンカチを見て顔をしかめ、ジャコボの方を向いて言った。
「しかも汚ねぇハンカチをツッコミやがって・・・。キサマがやったのか?」
「仕方がなかったんだよ。コイツ五月蝿くてな」
「はやくぼくを解放しなさい」
 言葉を解放されたアレックスが二人に言った。ジャコボはそれを見て肩をすぼめながらアルに言った。
「こんな風だよ」
「急ぎなさい。でないとあなたたち・・・」
「うるせぇ!!」
 ジャコボがいきなりアレックスの左頬を殴った。
「てめえ、自分の置かれている状況を考えやがれ!! 今ここで絞める事だって出来るんだぞ!!」
 ジャコボはそう言いながら片手でアレックスの首を掴んだ。アルが驚いてジャコボの手を掴んでいった。
「やめろ!! 商品に傷をつけるなっ。オヤジから半殺しの目に遭うぞっ。いいから手を離せ。ぼうや、おまえもだ。ジャコボの言うとおり、今置かれている状況を理解しろよ。いいから大人しくするんだ」
 アレックスは頬を押さえ大きく目を見開いていたが、こっくりと頷いた。
「よし、いい子だ。今ガムテを外してやるからな。食い込んでいるからちょっと痛いかもしれないが、我慢しろよ」
 アルはそう言いながら、まず手のガムテープを取る作業にかかった。
「へっ、さすが子持ちだな。ガキの扱いに慣れてらぁ」
「暴力のせいで妻子に逃げられたキサマとは違うんだよ。ここはもう俺だけで大丈夫だ。もういいから出て行け!!」
「何ぃ?」
「俺に逆らうのか?」
「てめえ!! ちょっとオヤジに気に入られているからって、いい気になりやがって」
「おまえに写真技術を教えてやっているのは誰だ?」
「わーったよ、センセイ。けっ、ニグロがっ!! f*** *** *** ****!!」
 ジャコボは捨てゼリフを吐いてバスルームから出て行った。アルはあきれながらため息をついた。
「子供に汚い言葉を聞かせるんじゃねえよ」
「あの、あの人今何て・・・?」
「おまえは知らなくていい。さあ、ガムテープを外したぞ。きつく縛られてたんで痣になってる。痛くないか?」
「はい」
「強いな、おまえ。じゃ、服を脱がせてやろうな」
「ぼく、それくらいなら一人で出来ます」
「そうか?」
 そういうと、アルはいきなりアレックスの身体を引き寄せた。
「あ、何を?」
(シッ!)
 彼は黙れという仕草をすると、耳元に口を近づけて囁いた。
「今は無理だが、隙を見て逃がしてやる。それまで何があってもがんばるんだぞ」
「アルさん・・・?」
 アルはすぐにアレックスから離れると、立ち上がって言った。
「じゃあ、着ている物はこの籠にいれてドアから外に出しな。俺は戸口で見張っているからよ」
 アルはそのままバスルームから出て行った。アレックスは服を脱いで籠に入れると、そっとドアから外に出した。
「OK、ぼうや。じゃあ鍵を閉めるからな。風呂から上がったら言ってくれ。バスタブの使い方はわかるか」
「はい」
「そうか。ガキのころ俺んちなんてシャワーしかなかったがな」
 アルはそう言いながらドアを閉めて、ぴしゃりと鍵をかけた。アレックスは、風呂に湯を貯める前に、水道から直接水を飲んだ。午後からずっと水分補給をしていない上に、猿轡のせいで唾液が流れ続けたため、かなり脱水が進んでおり、もう限界に近かった。水道の水はサビと若干黴臭い臭いがしたが、贅沢は言っていられなかった。

 風呂から上がってからが、アレックスにとって本当の悪夢だった。
 彼は、裸のままバスタオルを被せられ、『オヤジ』と『グラン・マ』の前に引っ張り出された。その後素っ裸でベッドに寝かされ体中を調べられた。死にたいほどの屈辱だったが、アルの言葉を信じて彼はそれに耐えた。
「ふん。健康だし身体も綺麗だね。何箇所かの擦り傷と、あのジャコボの馬鹿のせいでついた頬と手足の痣はすぐに消えるだろうよ」
 グラン・マはそう言うと野卑な笑みを浮かべて続けた。
「しかし、洗ったらますます上玉に磨きがかかったねえ。着ているものも上っ面は泥だらけだったけど、後は綺麗なもんだったよ。しかも、全てが高級品だ」
「おい、ぼうず。おまえ、本当は良い家の子だろ?」
 オヤジがアレックスの顔を掴んで引き寄せながら言った。
「脅迫したら良い金になるぜ、きっと。さあ、言いな。どこの子だ?」
 しかし、アレックスは言わない意思表示に、口をぎゅっと結んで反抗的な表情でオヤジを見た。
「何だ? このガキ、ずいぶん気が強そうだな。お仕置きされたいのか、あ~ん?」
「オヤジ、やめてくれよ。それにこの子は自分の家もわからないそうじゃないか」
 アルが止めると、グラン・マも同じく言った。
「アルのいうとおりだ、止めときな。もしそれで足がついて逮捕されたら、全員終身刑だよ。いつもどおり写真を撮って、闇ルートで斡旋してどっかのスキモノに売り払っておしまいさ」
「ちぇっ」
「ちぇっ、じゃないよ。さ、アルや、さっさとコイツを撮影してやりな」
 グラン・マは、オヤジに解放さされた後、裸で不安そうにベッドに腰掛けたままのアレックスを指して言った。
「了解です。じゃ、ぼうや、はじめようか。そのままじゃ何だから、俺のシャツを着な」
 アレックスは、言われるままにアルが差し出した白いシャツに袖を通した。アルはそこでアレックスに言った。
「あ、ボタンは留めないで。前ははだけたままがいいや。袖口も折らないで、指先をちょっとだけ出して」
 それを見て、オヤジが口笛を吹いて言った。
「ヒュウ~、こりゃあ、素っ裸よりヤバくねぇか?」
「芸術と言ってくださいよ」
「気取るんじゃねぇよ。今のおまえは単なるポルノ写真家だろーが」
「とにかく、この子にはそういう行為は無しですからね。この子は綺麗なままの方が高く売れますよ」
「まあ、ここにはそういう趣味のヤツもいないしな。まあいい、好きにやんな」
「はい。じゃあ、左頬にはジャコボの馬鹿に殴られた痣があるから、右側から撮ろうね。擦り傷が目立たないようにソフトフォーカスをかけて・・・。ライトは、そうだな。変に色がついたのより自然光に近いのがいいか」
 アルはブツブツいいながらもテキパキと準備をすると、カメラを抱えて再びアレックスの傍にやってきた。
「じゃ、ぼうや。撮るからそのままベッドに横になって。大丈夫、誰も変なコトしないから」
 アレックスは言われるままに、横になった。今はアルを信じて言うとおりにするしか、彼には選択肢はなかったのである。

 男達が酒を飲んで乱痴気騒ぎをしている。その食堂のテーブルの片隅にアレックスは座っていた。彼の目の前には、彼が今まで見たことも無いような粗末な料理が置かれていた。アルはアレックスが隣で縮こまっているのに気がついた。
「どうした? 連中の大騒ぎにあきれているのかい?」
「・・・ええ、それは、まあ・・・」
「メシ、ちゃんと食えよ。口に合わないかもしれないけど、食わないとこれからもたないぞ」
「あの、ごめんなさい。さっきからなんだかお腹の具合が・・・」
「腹を壊したのか? すまん。ずっと裸同然だったから・・・」
「違うと思います。のどが渇いてて、我慢出来なくて、お風呂で水道の水を飲んだんです。多分それで・・・」
「水道水で腹を壊したのか? これだから、おぼっちゃんは・・・」
「あの、トイレ・・・。もう限界。。。」
「わ~~~~っ、ちょっと待て」
 アルは焦ってアレックスを抱えると、トイレに走った。オヤジが驚いて声をかけた。
「どうしたい、アル?」
「おぼっちゃんが、御腹痛で~~~す」
 アルは、声だけ残して食堂から姿を消した。
「へえ、えーとこボンでもやっぱ腹下しするんだな。・・・おい、ジャコボ。アルが妙な動きをしないか見張っとけ」
「承知」
 ジャコボは嬉しそうにアルの後を追った。

「あれ? ここは?」
 アレックスは、粗末なベッドで目を覚ました。そこは、何となく酸っぱいような薬品臭いような独特の匂いが漂っていた。後ろを向いて、なにか作業をしていたアルが、気付いて振り返った。
「おっ、気がついたか」
 アルは、銀色の容器を手にしてやって来ると、その容器をサイドテーブルに置いて、ベッドサイドに座った。
「あの、ぼく、どうしてここに?」
「おまえ、出すモン出してほっとしたんだろ。俺が抱きかかえたらそのまま眠っちまったんだよ。ここは俺の部屋だ。ちったぁ安心して眠れるぜ。俺はソファにでも寝るから」
「そんな。ぼくが居候なんですから、ぼくがソファで・・・」
 アレックスは言いながら起き上がろうとした。アルは驚いてそれを止め、無理やり寝かせると言った。
「馬鹿野郎。病気の子をそんなとこに寝かせられるか。それに、おまえだって好きでここに来たわけじゃないだろ?」
「すみません」
「だから、気を使うなって、えっと、あれ、名前を聞いていなかったな。何て名だ?」
「・・・」
「ま、言いたくなかったらいいけどさ」
「アレクサンダー・・・です」
「アレクサンダー? あの大王様と同じ名前か。あっはは、こりゃあいいや」
「変ですか?」
「まあ、彼も金髪の美青年だったようだから、ガキの頃はおまえに似てたかもな。目はオッドアイだったって話だが」
「オッドアイ?」
「左右で目の色が違うんだ、ボウイみたいに。彼はブラックとブルーだったかな」
「詳しいんですね」
「本が好きでね。特に歴史がさ。金がなくてハイスクールには行けなかったけど」
「・・・・」
「そんな気の毒そうな目で見るなよ。却って惨めになるんだせ?」
「ごめんなさい」
「まあいいさ。じゃあ、愛称は俺と同じアルだな。アル・ジュニアだ。俺は、アルバート。改めてよろしくな、ジュニア」
 アルはそう言いながら右手を差し出した。アレックスも毛布から右手を出して彼の方に伸ばし、それを掴んで言った。
「はい。こちらこそ、よろしくです」
「じゃあ、俺はちょっと作業の続きがあるからな。寝ててイイぞ」
 彼はそういうと、ベッドサイドにおいていた銀色の容器を持って、流し台に向かった。
「お部屋に流し台があるんですね。その容器は何ですか?」
「ああ、これは1本用のフィルム現像器だよ。この中で、現像・定着・水洗が、しかも、明るいところでできるんだ。ま、フィルムを入れる時だけは光はご法度だけどね。」
「へえ、何か判らないけど、すごそうですね」
「この部屋、変なにおいがしてるだろ? 現像液の臭いさ。そろそろ定着が終わるから、後は洗浄して乾燥させれば出来上がりだ。地下にちゃんとした写真室を作っているんだが、今日は1本だけだったし、おまえが心配だったんで、これですることにしたんだよ」
「それ、ぼくを撮ったフィルムですよね。一体あんな写真を何に使うんですか?」
 アルは答えなかった。
「それから、ぼく、これからどうなるんですか」
「・・・・・・」
 やはり、返事が無い。
「あの・・・」
「・・・あのな、おまえは知らない方がいいよ」
 アルは振り返って、手を拭きながらまたアレックスの方に歩いてきた。そして、彼の傍に手を付くと、顔を近づけて再び小声で言った。
「ジュニア、おまえは俺が絶対に逃がす。だから、先のことは心配するな」
「・・・はい」
 アレックスは小さく頷いた。

(中編に続く)

|

2.焔心 (4)アレックス~中編~

R18(後半、子供に対する過度な暴力表現があります。ご注意ください)

「あの、アルさん」
アレックスは作業中のアルに声をかけた。
「『さん』は要らない。アルでいいよ」
「じゃあえっと・・・アル、今何をしているの?」
「水洗が終わったんで、水切り液に浸けているところさ。フィルムを乾燥する時、フィルムについた水滴が乾いて出来る、まだらな汚れが残らないようにするんだ。さて、後はこれを乾燥させるだけだよ」
「へえ、面白いですねえ」
「じゃ、俺、ちょっとこいつを下の乾燥機で乾かしてくるからな」
アルはそう言いながら、濡れたままクリップに挟みぶら下げたフィルムを持ち上げアレックスに示すと、ドアに向かった。彼はドアに手を伸ばし開けながら、アレックスの方を振り向いて言った。
「ジュニア、鍵をかけておくからね。俺が帰って来るまで、絶対に開けるんじゃないよ。いいね?」
「はい」
アレックスは、ベッドの中から返事をした。
「じゃ、すぐに帰ってくるから。俺とオヤジ以外、この部屋の鍵は持ってないはずだからね。いいかい、絶対に開けちゃあだめだよ」
アルは念を押して言うと、部屋から出て行った。しかし、アレックスは閉まったドアの向こうで話し声がし始めたのが気になって、ベッドから起き出してドアの扉越しにそっと聞き耳を立てた。
「・・・だろう? だいたいジャコボ、キサマ、何でそんなとこに立ってるんだよ」
「何、オヤジからおめぇを監視するように言われてな」
「オヤジが?」
「ああ、おめぇが妙な行動をしねえように見張っておけってな。おめぇは気に入られているようだが、信用はされてねえみてぇだな」
「はっ、こんな商売をやってりゃあ、誰も信用出来なくなるさ。俺もキサマもな」
「あのガキを見つけたのは俺だぞ。返せよ」
「俺は、オヤジから許可をもらったんだ。キサマに預けるよりもはるかに安全だってな。同じ信用されていなくてもな、キサマとはレベルが違うんだよ。悪いな」
「てめえッ!!」
「猛獣の檻に兎を入れるようなもんだろ。違うか?」
 アレックスは、それを聴いて一瞬体が縮み上がった。
「てめえ・・・、許さねぇ・・・」
「おっと、やるか? 俺がボクシングで何回か地域優勝をしているのは知っているな?」
「くそ、ふざけやがって・・・」
「うるせえ。ほざいてねえで、さっさと行け。オヤジに伝えろ。あいつの面倒は最後までちゃんと俺がみるから心配すんなってな」
「手を出したら承知しねぇからな」
「俺にはそーゆー趣味はねえ!! クソッタレが、さっさと失せやがれ!!」
アルの怒鳴り声の後に「くそ、覚えていろ!」という捨てゼリフが聞こえ、ばたばたと足音が遠ざかっていった。
「ふん。下衆野郎が・・・。ま、俺も五十歩百歩か」
アルは、自嘲気味に言うと歩き出したようだった。
 ドアの向こうが静かになったのを確認すると、アレックスは体中の力が抜けたような感じがした。彼は、ドアにもたれながら、その場にへたへたと座り込んだ。

 
「・・・アレックスは、アルのおかげで危険を免れたって、その時初めて実感したわけだがや。ほんだで、あいつはなんとか自分を落ち着けて、ベッドに戻って横になっとった。そうしておったら・・・」
「ちょっと待って」
由利子が話に割って入った。
「なんか、映画みたいな話がずっと続いてて半ば信じがたいんだけど・・・。それに、あのアレクがそんなえーとこのボンボンだなんて、ますますピンと来ないわよ」
「まあ、事実は小説より奇なりってゆーじゃにゃーか」
「そうだけどさー。それに・・・」
口ごもった由利子にジュリアスが先を促がした。
「何かね」
「まさか、この先ちびアレクが・・・」
「あはは、ちびアレックスかね。えーことゆーにゃー。おみゃーさんが心配しとるのは、アレックスの貞操のことだろ?」
「貞操って・・・、まあ、そうやね。だったら聞くのがかなり辛いなって・・・」
「う~ん、レイプのほうがよっぽどましだったかも知れんて」
と、ジュリアスが、すこし表情を曇らせて言った。
「なんか嫌なことを言うなあ。余計恐くなったじゃない」
「ほんだから、最初にゆーただろ。聞いたら後悔するかもしれにゃーて」
「そうやった。腹を決めたんだったね。話をぶった切って悪かったよ。続けて」
「おっけー。・・・で、そうこうしておったらアルが急いで部屋に帰ってきた・・・」

 アルは息を切らして帰って来た。彼は部屋の鍵を開けるのももどかしく、部屋に入ると開口一番に言った。
「ジュニア、大丈夫だったか?」
「はい。誰も来られなかったです」
「そうか・・・」
アルはほっとした様子でベッドに近づき、傍に椅子を持って来て座った。アレックスは、そんな彼に質問をしてみようと思った。
「あの・・・」
「なんだ?」
「アルは良い人そうなのに、何であんな恐い人たちと居るの?」
「俺がいい人だって? 買いかぶりすぎだよ。俺はね、なんとなく言葉で判ると思うけど、もともとアメリカ人なんだ」 
「アメリカ人?」
「そうだよ。子供の頃、母が再婚してこっちに来たんだ。それで、こっちの話し方にはすぐに慣れたけどね。で、新しい父さんはすごく良いヤツでさ、俺にもすごくやさしくてね。趣味で写真をやってたんだ。で、俺も古いカメラをもらってね。撮影が面白くてはまったんだ。賞を取ったこともあったんだぜ。よく父さんと色んなところに撮影しに行ったなあ。でも良いヤツって早死にするのかね、再婚してから4・5年であっけなく病死してしまった。それで、俺が働かなきゃならなくなってね。学校を出てからわりと有名な写真スタジオで働いてたんだ。問題は」
アルはそこでいったん言葉を切って、一息ついて続けた。
「そこのセンセイがトンだレイシストでね」
「レイシスト?」
「人種差別する連中さ」
「人種?」
「俺とおまえは肌の色が違うだろ? 人種ってのはそういうことさ。おまえ、何にも知らないんだなあ。ま、まだ小さいから仕方ないか」
「だって、ぼくの父様は、そんなことでは差別しません。優秀な人なら肌の色が違ったって、採用してます」
「へえ、で、何の仕事をしてるんだ?」
「まだ早いって教えてくれません。でも、みんなが銃を撃つ練習やナイフで戦う訓練をしているのを見せてもらったことがありますけど」
「おまえんち、なんかヤバそうだなあ。まあいいや。で、ヤツは俺のことは弟子ではなく、召し使い程度にしか思ってくれなかった。それでも何とか技術を覚えた俺は、独立しようとしたんだ。そしたら、徹底的に妨害されてね。で、俺は職を失ったってわけ。その頃は結婚して子供もいたから、妻のパートの収入もたかが知れてるんで、無職でいるわけにも行かず、また、拾い仕事をしながら片手間で写真を撮って暮らしてたんだ。そんな時、女性を撮る腕のいいカメラマンを探しているって聞いて、応募したんだ。そしたら社長に気に入られて合格。俺は喜んだね」
「良かったですね」
「それが良くなかった。蓋を開ければそのカメラスタジオってのが裏でポルノ写真、それもかなりヤバイのを撮っているってのが判ってさ。そのうえ、人身売買にも・・・、あ、いや、これは忘れてくれ。・・・で、抗議したけど、俺は既に共犯だって言われて。しかも、女房子供に累が及びそうになった。俺の奥さん美人だから、なおさらな。でも俺が協力したら、何もしないし、むしろ充分な金をやるって言われて・・・」
「お金が欲しかったの?」
「ああ、子供たちには充分な教育を受けさせたかったしな・・・。それで、多少のことは目を瞑ることにしたんだ」
「『ぽるのしゃしん』って何?」
「あのな・・・。えっと、・・・とにかく良くない写真のことだ」
アルは説明に窮して誤魔化した。
「じゃあ、あなたはいけないことをしているのを知っててやってるってこと?」
アレックスは、邪気の無い顔でまっすぐにアルを見て言った。アルは、何かを見透かされたような気持ちになっていたたまれなくなった。気がついたら幼い少年に向かって怒鳴っていた。
「金持ちの家に生まれたおまえに何がわかる!?」
今まで優しかったアルに怒鳴られてアレックスは怯え、泣きそうな顔をして彼を見た。
「すまん」
彼は急に恥ずかしくなり、うなだれて言った。
「おまえの言うとおりだ。俺は卑怯者だ・・・」
アレックスはそんな彼を見ると今度は悲しくなって、ポロポロ涙をこぼして泣き始めた。アルはますますオロオロして言った。
「お、おい。おまえ、どうしたよ? 今までどんな目に遭ってもそんなに泣かなかったじゃないか」
「ごっごめんなさい・・・・」
「それでなくてもおまえは脱水気味なんだぞ。ほら、せっかくサクランボみたいな可愛い唇がシワシワになってきてるじゃないか」
アルは、アレックスの唇に触れながら言った。
「ちょっと待ってろ。おまえが腹を壊したんで、要るかと思って作ってたんだ。すぐに戻ってくる」
アルは部屋を走り出て行った。アレックスは、さっきアルに触れられた唇に自分でも触れてみた。すると、何故か頬がぽっと熱くなった。彼は、それに驚いてきょとんとした。

「持って来たぞ、ジュニア。・・・あれ、何で赤い顔をしているんだ?」
アルは言ったとおりすぐに部屋に戻ってきたが、アレックスが顔を赤くしているのを見て驚いた。
「ひょっとして、熱が出たのか?」
アルは持って来たピッチャーとマグカップをサイドデスクにおくと、急いでアレックスに駆け寄り、自分の額をアレックスの額に当てて、熱を診た。
「たいして熱は無いようだけど・・・」
アルは不思議そうに言ったが、アレックスの顔がさらに赤くなっているのに気がついた。
「そうか。おまえ、こういう感じのスキンシップになれていないんだね。ごめんごめん」
ますます赤くなるアレックスを見ながら、アルは笑い出した。笑いながら、ピッチャーの水をマグカップに注ぐ。
「これ、あまり旨くないけど飲んでごらんよ」
アレックスは、ベッドから上半身を起こすと、言われるままにそれを一口飲んだ。甘いようなしょっぱいような、妙な味がした。アレックスは、不思議そうな顔でアルを見た。
「水に砂糖と塩を混ぜたものだよ。脱水の時、水分の吸収を良くするんだ。あと、失ったナトリウムや糖分などの補給にもなる。不味くても全部飲めよ」
「はい」
アレックスは言われたとおりに、それを飲み干した。
「よ~し、いい飲みっぷりだ! 俺な、おまえの腹痛の原因を考えてたんだけど、多分、下手人は水道水じゃなくてジャコボの馬鹿の汚ねえハンカチだよ。あれのせいであの程度で済んだんなら、おまえ、ずいぶんと丈夫だってことになるぞ」
アルがそう言いながら笑ったので、アレックスも釣られてクスッと笑った。
「よし、ようやく笑ったな。じゃ、口直しだ、食えよ。俺も食うから」
そういうと、アレックスに丸のままのリンゴを渡した。アレックスはそれを手に持ってまたきょとんとした。
「あの、これ・・・?」
「リンゴだよ」
アルは、自分の分のリンゴをシャツの裾で拭きながら答えた。しかし、アレックスはやや首をかしげて言った。
「はい。それは判りますけど、あの、切ってないし・・・」
「かーーーーーっ、これだからおぼっちゃんは・・・。こうやって食うんだよ」
アルは、手に持ったリンゴに豪快にかぶりついた。アレックスは、それを見て一瞬躊躇したが、すぐの彼のやったようにかぶりついた。勢い余って口いっぱいほおばってしまい、目を白黒させていたアレックスだが、なんとかシャリシャリと咀嚼して飲み込んだ。そして、何か再発見したような表情で言った。
「あ、美味しい。まわりもしょっぱくないや」
「切ったら酸化防止のために塩水に漬けるからな。食塩がリンゴの周りに膜を張るから、酸化が防げるんだ」
「酸化?」
「錆びだよ。皮をむくと、リンゴの成分(ポリフェノール)が空気中の酸素に触れて、表面が錆びるんだよ」
「鉄じゃないのに錆びるの?」
「ああ、錆びるのは金属だけじゃないんだよ。人体だって錆びるんだぜ。ま、リンゴには整腸作用があるから、しっかり食っておけよ」
「物知りなんですね。本で読んだの?」
「そうだよ。本で得た知識だ。でもな、知識は本からだけじゃない。人からも自分の経験からも得ることが出来るからね。勉強は学校でだけするものじゃない。その気があれば、どこでも勉強が出来るんだ」
「でも僕、お勉強嫌いだし。今日だって、午後からのお勉強がしたくなくて・・・」
「贅沢言うんじゃない。世の中には勉強したくても出来ない子がいっぱいいるんだぞ。家に帰ったら、勉強はちゃんとしなさい」
「はい」
「でもな、ジュニア。ただ勉強して知っているだけじゃ、だめだ。それをちゃんと自分のものに出来て活用してこそ、知識を得る意味があるんだよ」
「このリンゴやさっきのお水みたいに?」
「そうだよ。じゃ、さっさと食って寝るんだ。子供はとっくに寝ている時間だぞ」
「だって、さっきまで寝てたんだもん。きっと、眠れないです」
「目を瞑ってりゃあ、いつの間にか眠れるって。おまえはひどく疲れてるんだから、とにかく眠るんだ」
「はい」
アレックスはそう答えると、リンゴを口に運んだ。

 ほぼ食べ終えた頃、アレックスがまたアルに声をかけた。
「あの・・・」
「何だ? 食ったらベッドの傍にゴミ籠があるからそこに捨てな」
「はい。・・・で、あの、どうして僕の腹痛が、水道水ではなくハンカチのせいだって思ったんですか?」
「ハンカチの方に病原体が沢山いただろうって思っただけさ。水道水はそれなりに消毒してあるからね」
「病原体?」
「病原性微生物・・・ばい菌のことだよ。顕微鏡じゃないと目に見えないくらい小さい微生物が、生き物を病気にするんだよ」
「そんなに小さいもののせいで、病気になるんですか?」
「ま、病気の全てじゃないけどね、一部の病気はそうだよ。微生物には、原虫とか細菌とかウイルスとかいう大きなカテゴリーがあって大きさも全然違うんだよ。中でもウイルスは特に小さくて、顕微鏡でも見えないんだよ。電子顕微鏡って特殊なものを使ってやっと見られるくらいなんだ」
「そんなに小さくても生き物なの?」
「俺は専門家じゃないからわからないけど、ウイルスを生物とは考えていないやつもいるようだよ。微生物は時々生き物を殺すことすらあるんだ。猛獣すらね」
「すごい! そんな目に見えないくらい小さい生き物が、トラやライオンを殺しちゃうんだ」
「多分、T-レックスだって殺したと思うよ」
「恐竜も!?」
「そうだよ。微生物が身体に入ってしまったのを感染っていうんだ。でも、普通は感染しても体の防衛機構が働いて、微生物をやっつけるから、死ぬまでにはならないんだ。おまえがお腹を壊したのも、体が病原体や毒素を早く体外に出そうとしたからだよ。だから、下痢は出来るだけ薬で止めないほうがいいんだ。水分は補給しないといけないけどね」
「だから、あのお水を作ってくれたんですね」
「そうだ。わかったなら早く寝な。病気は寝るのが一番なんだからね」
「はい」
アレックスは、素直に横になって目を瞑った。アルの言ったように、すぐに睡魔が襲ってきた。

 アレックスは、深夜、恐ろしい夢を見て目を覚ました。昼間、車の男達に襲われ誘拐された時の夢だった。だが、夢の中では巨大な捕虫網に捕獲されて、沢山の虫の入った虫かごに入れられた。捕虫網が大きいのではなく、アレックスが小さくなっていたのだ。虫かごの中で、昆虫達と一緒に虫かごにしがみついたところでアレックスは目を覚ました。
 そこは、いつも見慣れた自分の寝室ではなかった。アレックスは、昨日のことが夢ではなかったことを実感し、心細くなった。アレックスは起き上がると、父と母を呼びしくしくと泣き出してしまった。アルがそれに気がついて目を覚ました。彼は、彼の言ったとおり部屋のソファで横になっていた。
「ジュニア、どうした?」
アルがアレックスの傍に来て心配そうに言った。
「アル・・・。ぼく、おうちに帰りたい・・・」
「無理言うな。今はだめだ。オヤジは俺を疑っているからね。でも、必ず帰してやるから、安心して寝な。寝不足は体力を失う。体力が無くなると、気力も無くなるぞ。わかるか?」
アレックスは、こっくりと頷いて、袖で涙を拭いた。
「よしジュニア、おまえは強い子だ」
彼は笑顔でそういうと、またソファに向かおうとした。その背中にアレックスが声をかけた。
「あのね、アル・・・。恐いから、一緒に寝て・・・」
「おいおい、赤ちゃんみたいなことを言うなあ」
「だって・・・」
アルは、アレックスの頬を、ぷにっと押すと、「仕方ねえな」と言い、彼の隣に横になった。
「さあ、おまえも寝ろ」
アルは、アレックスを寝かせると、安心させるように彼の背中を優しくポンポンと叩いた。それは、父親が幼い子供を寝かしつける仕草だった。アレックスは、アルの下になった方の手におずおずと手を伸ばした。アルの黒い大きな手にアレックスの白い小さな手が重なった。信頼できる人の手のぬくもりが伝わり、アレックスは安心したように目を閉じた。そのままアレックスは、深い眠りについた。
 眠りに落ちる前だったか夢の中だったか、アルがこうつぶやくのが聞こえた気がした。
「おまえ、ひょっとしたら、俺を救うために降りてきた天使かもな・・・」

 翌日、アレックスは一人でアルの部屋にいた。

 朝、アレックスが物音で目覚めると、朝食を持ってアルが部屋に入ってきたところだった。
「お、目が覚めたか? おはよう。だいぶ血色が良くなったな。腹の方は大丈夫か?」
「おはようございます。もう、大丈夫だと思います」
「そうか、良かったな。連中と食うのは嫌だろうと思って朝飯を持ってきた。俺のも持ってきたから一緒に食べよう。粗食だけどな」
彼の持ってきたメニューは、バターとオレンジジャムの塗ったトーストと、紅茶、焼いたベーコンと目玉焼き、そして丸のままのリンゴだった。
 二人は食べ終えると、アルが、ハンガーにかけ壁にぶら下げたアレックスの服を指差した。
「おまえの服だ。洗っといてやったよ。いつまでも俺のシャツとボクサーパンツで居るわけにはいかないからな。フィルム乾燥機にいれて乾かしたから早く乾いたんだ。ただなあ、ちょっと縮んじまったみたいでよ・・・」
アルは右手の人指し指で頬を掻きながら言った。
「大丈夫です。子供は成長が早いからって、いつも大きめのをもらうんです。たぶん、ちょうど良くなってますよ」
しかし、手にとってみると、たしかにかなり縮んでいる。まとめて洗濯機にかけたのが拙かったようだ。ただ、下着類はまあまあ大丈夫だったし、着てみると、他もおかしい程ではない。半ズボンが若干ピチピチ気味だが、全体的にむしろ昨日より野暮ったさがなくなっていた。
「そうしていると、やっぱりおぼっちゃんだなあ・・・」
アルが感心して言った。その時、ステューがアルを呼びに来た。
 アルは、アレックスに待つように言って出て行った。アレックスはベッドサイドに座ってぼんやり待っていたが、30分ほどしてアルが困ったような顔をして帰って来た。
「ジュニア、俺はこれからオヤジ達と出かけなきゃならなくなった。俺が居ないと商談が進まないってさ。グランマも出かけるらしいから、ここにはおまえとあの馬鹿だけになっちまう」
アルが説明すると、アレックスは不安そうに彼を見た。
「ジャコボのヤツめ、何でか妙におまえに執着しているからな。ま、あいつにはオヤジが釘を刺していたから大丈夫とは思うが、念のため、昨日みたいに鍵をかけておくんだよ。俺の鍵は置いていくから、おまえが持っとけな」
アレックスは不安な目の色のまま頷いた。アルは、部屋の隅の小型テレビを指差して言った。
「退屈だったら、あのテレビを見ているといい。だけど、部屋からは絶対に出るな。トイレも我慢しろよ。どうしても我慢できなかったら、あそこの流しでしろ」
「え? そんなこと出来ません!」
アレックスは半べそをかきながら言った。
「ジュニア、俺は本気だよ。俺の言いつけを守るんだ。いいな?」
「はい・・・」
アレックスが下唇を少し噛みながら言った。
「とりあえず、今からトイレに行っておけ。俺がついて行くから」
「はい」
アレックスは座っていたベッドから降りた。
 出掛けにアルは、部屋の戸口でアレックスの眼の高さに座って、くれぐれも言いつけを守るように諭した。そして小声で付け加えた。
「約束は覚えているな? 俺は必ずその約束は守る。俺を信じて待つんだ」
真剣な眼だった。アレックスはアルが自分を本気で心配してくれていることが嬉しくなった。
「ありがとう。でも、ぼく、アルと一緒ならここで暮らしてもいいや」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
彼は両手で軽くアレックスの両頬を同時に叩いた。そのまま彼の顔を自分に向けると言った。
「ノーブル・オブリゲ-ション(ノブレス・オブリージュ)がわかるか?」
アレックスは、こっくりとうなずいた。父親から何度も聞かされた言葉だった。
「そうか、やっぱりな。おまえはこんなところに居る人間じゃない。おまえには無限の未来があるんだ。しっかり勉強して、誰かを助けられるような立派な大人になるんだ」
「ごめんなさい・・・」
アルに諭されて、アレックスはうなだれて言った。
「わかればいい。じゃ、行ってくるからな」
アルはそう言って立ち上がろうとした。アレックスはその彼にさっと抱きつくと、唇に軽くキスをした。何故、そんな行為に出たのか自分でもわからなかった。驚くアルにアレックスは、はにかみながら言った。
「あの、いつも母様が出掛けにしてくれるから・・・」
ウソだった。母がいつもしてくれるのは、頬へのキスなのだから。
「あはは、そうか。おふくろさんがね。じゃ、行ってくるよ」
彼は笑いながら立ち上がり、今度こそ部屋を出て行った。一人残されたアレックスは、言われたとおりドアに鍵をかけると、とりあえずテレビのスイッチを入れた。
 二人は知らなかった。ジャコボがこっそりと、彼等のさっきの様子を嫌な目で見ていたことを。

 午後になってもアルは帰ってこなかった。アレックスはだんだん不安になっていた。しかも、昼前から催していた尿意が限界に達しようとしていた。アルは我慢出来なければ流し台でするように言った。しかし、そんなことが出来るはずなかった。アレックスは、ウロウロして誤魔化していたが、意を決して部屋を出ることに決めた。
 彼は鍵を開けると、そっとドアを開け外の様子を見た。誰も居ない。アレックスは部屋から出ると、そっとトイレのある方向に向かった。
 その頃ジャコボは、地下の写真室でアルの焼いたアレックスの写真を整理していた。アレックスの写真はどれも妙な色気があり、しかも、彼は今までのどんな女性より綺麗だった。ジャコボは写真をまとめて重ねると、もう一度見直した。ふと見ると、アル専用の机の上に大判のパネルが伏せてあった。アルは時に、お気に入りの写真を引き伸ばして飾っていた。ジャコボはそれを表に向けた。黒い背景に白い天使が曖昧な笑みを浮かべ、眩しそうにこっちを見ていた。だが、その視線はジャコボではなくアルに向けられたものだった。彼の頭の中にはさっきの二人の行為が再現されていた。あいつら、何か囁きながら大胆にも・・・。
(くそ、やっぱりあいつら、出来てやがったんだ)
彼が苦々しくそう思った時、かすかにトイレの水が流れる音が聞こえた。ジャコボはにやりと笑った。
 アレックスは、用心深く足音を立てないようにしながら部屋に向かっていた。その時、廊下の先の方に一瞬人影がサッと走るのが見えたような気がした。アレックスは立ち止まると、きびすを返して反対方向に逃げた。だが、そっちの方でも人影を見たような気がした。彼は、キョロキョロとして隠れる場所を探した。すると、昨日のキッチン兼食堂があるのに気がついた。アレックスは迷わずそこに駆け込んで、流し台の下の戸棚に隠れ、身を屈めた。そこには何かが数匹うごめいていた。彼はしゃがんだまま悲鳴を上げそうになったがその口を自分で押さえた。それらはアレックスに向かうと、首をかしげて彼を見た。
 しかし数分後、ジャコボはキッチンまでやってきた。
「ちび! そこにいるのはわかっているんだ。さあ、そこか? ここか? それとも・・・」
ジャコボはそういいながら、アレックスを探し回った。だんだん近づくジャコボの気配と声を聞きながら、アレックスは身を縮ませ震えていた。心臓が口から飛び出しそうなくらい激しく打っていた。ジャコボの声がすぐ近くまで来たとき、アレックスは我慢できなくなって、流し台の下から飛び出した。それに続いて数匹のネズミが飛び出してきた。
「おっと、そんなところにいたのか、ネズミちゃんたち」
ジャコボはそう言いながら逃げるアレックスを追った。アレックスは悪夢の中に居た。必死で走っているはずなのに、恐怖で足がうまく動かない。それに対してジャコボは余裕で追いかけてきた。アレックスはとうとう自ら足を絡ませて転倒した。それでも這うようにして逃げるアレックスだったが、ジャコボに襟首をつかまれて身体が浮き上がるのを感じた。
「さあ、捕まえたぞ、子猫ちゃん」
ジャコボはアレックスを吊るし上げ、自分の目線まで持ち上げて言った。
「大人しくしてりゃ、乱暴はしねぇぜ。大人の女だったらまず、逆らえないように半殺しにしてやるんだが、おまえはそれをやると壊れそうだからな」
アレックスは、目の前の男の邪悪な笑みを目の当たりにしておぞましさに総毛立ったが、それでも、キッとした眼で男を見据えながら言った。
「ぼくを降ろして。アルの部屋に帰しなさい。あなたは何をしようとしているかわかってるの?」
「よ~くわかっているさ」
ジャコボはぶら下げたアレックスを左手で抱き寄せると、襟首を離して両手で彼を抱きしめた。アレックスは、彼の顔が近づいてくるのを避ける術を失った。
「や・・・」
アレックスは叫ぼうとしたが、その前にジャコボに口をふさがれた。アレックスは、必死に口を開けまいとしたが、彼の口をこじ開けるように男の舌が侵入してくるのがわかった。アレックスは反射的にそれに噛み付いた。
「おうっ、何をしやがる!」
ジャコボはアレックスを床にたたきつけた。床に転がったアレックスの襟元をつかむと、平手で彼の頬を手加減無しに打った。アレックスの鼻血が彼のシャツを染めた。しかし、アレックスはそれでもジャコボをにらむのを止めなかった。
「気の強いガキめ」
ジャコボは口の血を拭いながら言った。
「へへ、こりゃあ、調教のしがいがあるってもんだ。観念しな、子猫ちゃん。俺ンとこに行こうな。アルのとこより居心地がいいぜ」
ジャコボは再びアレックスの襟首をつかむと、彼を引きずって自分の部屋の方に歩き始めた。
「やめろ、やめなさい。ぼくをアルのところに帰して!」
アレックスは、引きずられながらも必死で抵抗した。あまりにも激しく暴れる少年に業を煮やしたジャコボがついに怒鳴った。
「大人しくしやがれ!! どうせ誰も居ないんだ。ここでやったっていいんだぜ」
男は暴れる少年の腕を後ろ手につかみ、うつ伏せに床に押し付けた。間髪を入れず、下着ごとズボンを引きずりおろした。アレックスは反射的に保護者の名を呼んだ。それは、意外にも父母の名ではなかった。
「いやあ、アル、助けて!!」
アレックスは本能的に、遠い父母ではなく、現実に今助けてくれそうな大人の名を呼んだに過ぎなかったかもしれない。しかし、それはジャコボにはひとつの確信しか与えなかった。
「いいケツしてるじゃねえか。昨夜はこの体にアルの薄汚ねぇ手が這い回ったのかい?」
アレックスは頭にかっと血が上るのがわかった。彼は押さえつけられた姿勢のまま、ジャコボの方に振り向き様に言った。
「馬鹿にしないで! アルは何もしなかった。優しく傍で寝てくれただけです。母様みたいに。それにアルの手は黒いけど、あなたの白い手の方がよっぽど薄汚いです!!」
「てめぇ・・・。ちったあ痛い目に遭わねえとわからないみたいだな。まず、逃げられねぇようにしてやるか」
ジャコボは、アレックスの右足を持ち上げると、大腿部に足をかけ踏みつけた。ボキッという嫌な音がした。
「きゃあーーーーーっ・・・、あっ、あああ・・・」
アレックスの悲鳴が家中に響いた。アレックスは床にのたうちながら痛みに耐えようとした。ジャコボはそんなアレックスの上にまたがり髪を引っ張って彼の顔を持ち上げながら言った。
「いい加減観念しな」
その時、ばあんとドアが開く音がした。ついで、低めだがよく澄んだ声が聞こえた。
「ジュニア、どうした!? 今の悲鳴は何だ!?」
「アル! 来てくれた・・・」
アレックスは痛みの中でほっとするのを感じた。アルは息瀬切って駆け込んできたが、廊下に転がるアレックスと、彼に馬乗りになったジャコボの姿を見つけ、怒りの声を上げた。
「ジャコボ、キサマァーーーーーーッ!!」
家全体が震えたようだった。
「アル、おっ、落ち着けよ。まだやっちゃあいないからよ。ちっと逃げねえようにしてやっただけだし」
ジャコボは、アルのあまりにも激しい怒りに鼻白んで言った。しかし、アルは雄叫びを上げながら雄牛のようにジャコボに向かって突進した。

(後編に続く) 

|

2.焔心 (5)アレックス~後編~

※R18(子供に対する過度な暴力描写があります)

 アルの恐ろしい勢いに驚いて、反射的にアレックスから飛びのいたジャコボだが、アルの拳を完全には避け切れず側頭部を打たれ床に倒れた。一瞬気を失ったジャコボが頭を振りながら眼を目を開けた。すると、目の前でアルがアレックスを抱き抱えて行こうとしていた。
「畜生ッ! 殺してやるッ!!」
そうわめきながら立ち上がったジャコボは、ジャケットに隠し持っていたナイフを握り締めていた。それを聞いて振り向こうとしたアルの左わき腹をジャコボのナイフが襲った。
「うおーっ」
アルは叫ぶと凄まじい形相で振り向いた。あごに見事なストレートをくらい、ジャコボはもんどりうって床に倒れた。もし、アルが負傷していなければ、致命的な打撃だっただろう。

 気がつくと、アレックスはアルに抱き抱えられていた。アルに助けられてほっとした途端、痛みで気を失ってしまったのだ。
「気がついたか?」
アレックスを抱きかかえて走っていたアルが言った。
「はい・・・あっ・・・イタ・・・ッ」
「足が痛いか? だいぶ腫れてきた。多分骨折している。一刻も早く医者に行かないと・・・」
「でも・・・」
「おまえが気になって、一足先に帰って来たんだ。間に合ってよかった」
「アル、ぼく、ぼく・・・」
「もう気にするな。・・・が来るまで待つつもりだったが、そうはいかなくなった。今、ここから出してやる」
「だめだよ。アルや家族が・・・」
「ジュニア、聞け。世の中には仕方なく悪い道に入るヤツが居る。だがな、根っこから腐ったヤツもいるんだ。ジャコボは真性の狂犬だ。このままじゃおまえは殺される。おまえは生き延びることだけを考えろ。いいな」
「は、はい・・・ゥッ」
「痛いのは生きている証拠だ。とりあえず安全なところまで逃げ切ったら、応急処置をしよう」
「はい・・・」
アルの走る振動でそのたびに激痛が右足を襲った。アレックスは、アルのシャツを握りしめて耐えていたが、アルの動きがおかしいことに気がついた。息も妙に荒い。見ると、左のわき腹あたりのシャツに血が滲んでいた。
「アル! 血が・・・!」
「致命傷じゃないから安心しろ。だが、正直・・・どれくらい逃げ切れるかわからん・・・」
アルは厳しい表情で言った。一瞬アルの腕に力が入り、アレックスは抱きしめられたような気がした。

 玄関近くまで来た時、アルが呪いの声を上げた。
「クソッ! 先回りされている」
そこには、手に鍵を持ったジャコボがドアに寄りかかり立っていた。アルはきびすを返すとまた走り出した。もつれる足で、なんとか自室に逃げ込み鍵をかけた。
「おまえの応急処置をしたら、おまえを背負って窓から逃げる」
アルはアレックスを抱いたまま、ドアにもたれかかり床に座り込みながら言った。
「その傷じゃ、無理だよ。僕はいいから、アルの手当てをしないと・・・」
アレックスは、そう言いながら床に下りた。右足に激痛が走る。歯を食いしばって耐え、何とか床に座った。悲しくも無いのに痛みで涙が流れた。
「アル・・・、傷を見せて」
アルのシャツをめくると、左のわき腹がザックリと切れて血が流れていた。良く見ると、黒いジーンズにも流れ出た血が大きな染みを作っていた。
「ひどい傷じゃない!」
「大丈夫だ。その辺には大した臓器は無いから」
「でも、血が・・・。とにかく血を止めないと・・・そうだ」
アレックスは、シャツとアンダーシャツを脱ぎ、アンダーシャツを折りたたんでアルの傷口を押さえた。アルは痛みに顔をしかめると同時に驚いて言った。
「圧迫止血法・・・どこで覚えた?」
「父さまがやってるのを見たことがあるの。でも、僕の力じゃだめだ。何かで縛らないと・・・」
アレックスは自分のシャツを手に取った。だが、どう考えても布の量が足らない。
「俺が自分のTシャツで縛る。おまえはシャツを着ろ。すっぽんぽんじゃないか」
アルは言いながらTシャツを脱ぎ、アレックスのアンダーシャツをパッド代わりにして腰に巻いた。
「よし、おまえもシャツを着たな。急いでおまえの足を・・・」
その時ドアがドン!と音を立て、だみ声が響いた。
「てめえら、そこにいるのはわかってるんだ! 出て来な。ドアをぶち破るぜ」
声の終わらないうちに、ドン!ドン!とドアを何かで叩きはじめた。
「ジュニア、負ぶされ! 急いで窓から出るぞ」
「えっ?」
「一か八かだ。ここは2階(事実上は3階※)だから、万一落ちてもなんとかなるかもしれない。早く乗れ!」 
だが、その時ドアノブが破壊され、バン!と勢い良くドアが開いた。ドアが危うくアレックスに激突しそうなのを見てとっさに彼を庇ったアルが、彼を抱きかかえたまま吹っ飛んで気を失った。
「このニグロがぁッ! 今まで散々っぱら俺の邪魔をしやがって」
ジャコボが叫びながら部屋に入ってきて、気絶したアルを蹴り始めた。
「アル!!」
アレックスがアルの下から飛び出して、彼の上に覆いかぶさり全身で庇った。
「どけッ! このクソガキがぁっ!!」
激高したジャコボは、容赦なくアレックスごとアルをけりつける。それでもアレックスは必死でアルを庇い続けた。右足の痛みは限界を超え、むしろ麻痺したように痛みを感じなくなっていた。
 ふと、ジャコボが蹴るのをやめた。アレックスは、恐る恐る振り向いた。
「そんなにアルがいいか?」
ジャコボはアレックスの左手をつかんでひねり上げ持ち上げた。左腕がミシミシというのがわかる。
「あっ、あーーーーッ!」
アレックスは激痛に悲鳴を上げた。
「いい声だ。そうやって俺を楽しませな」
ジャコボはアレックスをそのまま小脇に抱えて連れ去ろうとした。しかし、アレックスはその腕に思いきり噛み付いた。
「オウッ!!」
ジャコボは悲鳴を上げるとアレックスを床に放り出した。
「てめえ、また食いつきやがったな!? 今度と言う今度は許さねえ!!」
ジャコボは、床から起き上がろうとしていたアレックスに向かってナイフを振り下ろした。そのアレックスの上を何かが覆った。同時にアレックスの耳にブツッという鈍い音が聞こえた。
「ぐ・・・はッ・・・」
アレックスを庇って背に刃を受けたアルは、胸の辺りを押さえ2・3歩よろけて立ち止まった。口から血が糸を引いて落ちた。
「きゃあっ、アルッ!!」
アレックスはとっさにアルの方に手を伸ばしたが、その手をすり抜けてアルの身体は床に崩れ落ちた。背にはナイフが突き刺さったままで、その場所はほぼ心臓の真上だった。
 アレックスは右手と左足で這うようにしてなんとかアルの傍に行き、取りすがって叫んだ。
「アルッ、アルッ、しっかりして!!」
うつ伏せに倒れたアルは、顔を上げアレックスに手を伸ばした。彼は、血と汗と涙で汚れたアレックスの頬に触れ、微かに笑顔を浮かべて何か言おうとしたが、不意に痙攣が襲い口からは言葉の変わりに血が溢れた。アルの手から力が抜けてぱたりと床に落ちた。
「アル・・・ウソでしょ・・・。返事をして・・・お願い・・・」
アレックスは彼を何度も揺すぶりながら言った。だが、アルの反応はなく両目からは生きた光が失われていくのがわかった。
「そんな・・・。アル・・・。アルってばあ・・・アルゥ・・・。・・・うわぁーーーー」
「あ~あ、残念だったなあ、ちび」
ジャコボは、アルに取りすがって泣くアレックスを引き剥がすようにして抱きかかえた。
「はなせ! 許さない! よくも、よくもアルを・・・!!」
「おめぇに何が出来る。アル、ご苦労だったな。コイツが今からおめぇのベッドでどんな目に遭うか、そこでゆっくり見てな」
「はなせ、はなせえ!!」
アレックスは出来る限りの抵抗を試みたが、その甲斐なくベッドに放り投げられた。折れた手足にまた激痛が走る。アレックスは歯を食いしばり、右手でシーツを掴んでそれに耐えた。それを眺めながら、ジャコボが野卑な笑みを浮かべて言った。
「う~ん、ゾクゾクするねえ」
「黙れ! 僕に触るな、外道!!」
アレックスが怒りに身を震わせて叫んだ。が、次の瞬間彼の頬を容赦ない平手打ちが襲った。
「ご主人様に逆らうんじゃねえ! もっと酷い目に遭いてぇのか!」
だが、アレックスは冷ややかな眼をして言った。
「ご主人様? 誰が! 傍によるな、汚らわしい!!」
「て、てめぇッ!! もう容赦しねえぞ!」
ジャコボはアレックスのシャツの胸元を掴むと、高々と持ち上げ殴りつけた。アレックスの身体が宙に浮き、2mほど先の床に投げ出された。アレックスは壊れた人形のように床に転がりそのままピクリとも動かなくなった。
「し、しまったぁ・・・」
ジャコボは急いでアレックスを抱き上げた。まだなんとか生きているようだが、かなり危険な状態にいることは間違いなかった。
「おい、、起きろ、起きろよ!!」
焦るジャコボの背後で怒号が飛んだ。
「ジャコボォッ!! キサマァ、何勝手なことをしてやがる!!」
「お、オヤジぃ・・・、いや、これはアルのせいで・・・」
「下手な言い訳はやめろ、クソ野郎が!!」
オヤジは怒鳴りながらジャコボに近づくと、腹に思いきり膝蹴りを食らわせた。ジャコボは腹を押さえ、声も立てずにうずくまった。
「ステュー、アルの様子はどうだ?」
「あ~あ、ダメだなあ、こりゃあ・・・」
アルの様子を見るなりステューが言った。オヤジは残念そうに首を振りながら言った。
「良い腕のカメラマンだったがなあ。また探さんとならんか。ステュー、ディエゴと一緒にアルとガキを居間に運べ。善後策を考えよう。アルは毛布にくるんどけよ。俺はコイツを引きずって行く事にしようか」

 気がつくと、アレックスは無造作に部屋の隅に転がされていた。身体のあちこちがうっ血し、右足と左手が不自然に曲がっている。顔も、原形が想像出来ないほど腫れあがっていた。彼は朧げな意識の中で、男達の会話を夢現(ゆめうつつ)のように聞いていた。
「・・・キサマ、おれ達のいない間に勝手なことをしやがって! せっかくの上玉だったのにどうするんだよ! その上、仲間にまで手を掛けやがって」
「おまえの性癖にも困ったもんだな。コトに及ぶ前に相手を痛めつけないといられないなんてよ。このド変態が!」
「今回は男だからって油断してたら、これだよ。まあ、そこらへんの女よりよっぽど綺麗だったことは認めるがね。今はザマァないが」
男達は一言言うたびに、ジャコボを殴りつけているようだった。
「もう勘弁してくれよお・・・。結局犯っちゃいねえだろ」
「この大馬鹿野郎がぁあ!!」
オヤジの声がして、ジャコボを蹴り上げる音がした。ジャコボは吹っ飛んでテーブルごと壁にぶち当たった。
「痛めつけすぎて、犯る前に死にかけたからビビッただけだろうが!! 犯るよりタチが悪いわぁ!!」
「だってよ、あのガキ、最後までオレを馬鹿にした目つきで見やがって・・・」
ジャコボはオヤジの足元にはいずり半泣きで懇願した。
「許してくれよお・・・」
その時、グラン・マが慌しく帰って来た。
「大変だよ、ギルフォード家の次男坊が昨日から行方不明だって大騒ぎになってるよ」
「なんだって? マジかよ、グラン・マ」
男達はいっせいに床に転がった少年を見た。グラン・マは、アレックスより毛布にくるまれたアルを見て驚いた。
「アルッ! どうして・・・?」
「ジャコボの馬鹿がこのガキをハメようとして、それを止めようとしたらしい」
グラン・マはアルの傍に座り込んで言った。
「なんてことだい! あたしゃこの子を気に入ってたのに」
「俺もさ」と、オヤジが言った。「それよりグラン・マ、ギルフォードのってな本当だな」
「なんであたしがそんなウソをつかなきゃならないんだよ」
「ギルフォードってあの、昔ワケ有りで王室を抜けたとかいう噂の、あのギルフォード家か?」
「そのギルフォード家の御曹司が、なんで山の中でたった一人で虫取りをして遊んでたんだよ、え?」
「おい、おめえら、ひょっとしてギルフォードの敷地から攫ってきたんじゃないだろうな??」
オヤジがジャコボとステューを見て言った。ステューがジャコボを見、ジャコボはおどおどしながら答えた。
「そんなの知らねえよ。ただ、車で流していたら、綺麗なガキが目に付いて売り物になるだろうって・・・」
「そいつをこんなにしちまったのかい?」
グランマがあきれて言った。
「本当に馬鹿な男だよ、おまえは」
「どうするよ。ギルフォードの連中、絶対におれ達を探し出すぞ。この馬鹿に息子をこんな目に遭わされちまってよ、おれら八つ裂きにされっちまうぞ」
「こうなったらここをズラかるしかないね」グラン・マが無情に言った。「その前に証拠を消してしまうよ。アルはどこか山奥に捨ててくるとして、このガキは・・・。こいつのせいでアルが死んだようなもんだ。そうだ、食油をぶっ掛けて地下の元食料倉庫に転がしときな。腹をすかせた住人のネズミやゴキブリが、身元不明死体になるまで食ってくれるさ」
(いや! やめて! 殺さないで!)
アレックスは叫びたかったが声にならなかった。

 アレックスは抱えあげられ地下に連れて行かれ隅に転がされた。かろうじて身にまとわりついている、血と泥で汚れた白いシャツを引っ剥がされ、トドメに頭から古い食油をかけられ放置された。無情にも地下倉庫のドアが閉められ鍵のかかる音がした。男達が去ると、やがて周囲から黒いモノたちが、ガサガサと寄ってきた。
(助けて!! 父様,母様!!)
アレックスはもがこうとしたが、身体がピクリとも動かない。ショックでだんだん息も苦しくなってきた。と、目の前に黒いモノが近づいてきた。痛めつけられたせいで霞んだ目にも、それが何かわかった。アレックスの恐怖は頂点に達した。
 その時、上の方がいきなり騒がしくなり、悲鳴と銃声が響いた。しばらくすると、地下倉庫のドアからドン!という音がして、武装した警官が二人駆け込んで来た。
「あそこだ!」
「酷いな、虫だらけになっているじゃないか」
警官達は、アレックスに近づくと虫を追い払って一人がアレックスを抱きかかえた。
「よかった、生きているぞ! だが急いで病院に運ばないと・・・」
「発見しました!!」
もう一人が無線で連絡した。
「ただし、重体です!! 急いで病院に搬送する必要があります!」
「ぼうや、もう大丈夫だ。すぐに病院に運ぶからね」
アレックスは、力なく頷いた。
 アレックスは担架で運ばれていた。途中、例の居間を通り過ぎた。その時、さっき何が起きたかを見てしまった。男達はみな射殺されていた。薄れ行く意識の中で、アレックスはアルの遺体が検分されているのを見た。アレックスはアルの方に右手を伸ばした。当然届くわけが無い。アレックスの右手が力なく落ちた。彼の眼から大粒の涙が流れていた。

「後でわかったことだがね、アルがヤード(ロンドン警視庁)に通報しとったから、間に合ったんだ」
「なんか、すごすぎて・・・」
由利子が若干鼻声気味で言った。
「なんだ、おみゃーさん、泣いとるのかね」
「チビアレクとアルがかわいそうで・・・」
「鬼の目にも涙だなも」
「鬼はひどいなあ」
由利子は恥ずかしそうに言いながら、ハンカチで涙を拭き続けて聞いた。
「それじゃあ、立ち直るのに時間がかかったんじゃない?」
「養生に1年程費やしたらしいて。その後もずっと悪夢に悩まされ続けたそうだ。未だに時々夢に見とるようだで・・・」
「30年以上経った今でも悪夢を・・・。辛いね」
「聞いて後悔しとるんじゃにゃーか?」
「ううん」
由利子は首を横に振った。
「聞いてよかったよ。そんな事情だから、ゴッキーが苦手なわけよね。このことでからかわないようにしなくっちゃ。でも、詳しいんだねえ、ジュリー」
「まあね。これに関してだけは・・・」ジュリアスは意味深な笑みを浮かべて言った。
「だがね、アレックスがアフリカで死にかけたっていう話は、あまり詳しく教えてくれにゃーんだ」
「え? 何で?」
「よっぽど辛い話なんだろうね。それにあいつの初カレの話だもんで、おれには言いにくいのかもしれにゃーね」
「そっかあ・・・」
「でもまあ、知っとる限りのことは教えてやるわ」
そう言った後、ジュリアスは一息入れると話し始めた。
 

|

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »