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1.暴露 (10)香草狂詩曲(ハーバル・ラプソディ)

 葛西とジュリアスが急行すると、緑原が心配で居ても立ってもいられないといった風情で待っていた。
「ト、トルーパー?」
 緑原は、葛西たちの姿を見て怯えながら言った。
「どう見ても違うだろ。良く見て。これは生化学防護服だって。僕だよ、葛西だ。K署の刑事だよ」
「え?」
「大丈夫かい、GF?」
 緑原は声をかけてきた重装備の警官の顔をまじまじと見て、ようやく誰かわかったらしい。駆けつけた警官が会った事のある人物だとわかって、不安げな表情が安心したものに変わった。
「ああ、あの時の刑事さんなの。良かった・・・」
 そう言って、彼は葛西に駆け寄ろうとした。
「おっと待った! 消毒はしているけど、念のため防護服には近づかないで」
 葛西が牽制すると、緑原はぎょっとして止った。
「・・・ですよね」
「何があったんだい?」
「それが・・・」
 緑原は、昼寝から覚めてからの一連の出来事を話した。
「そうか。偶然防虫スプレーが効いてよかったね。連中にたかられていたら、これからの状況によっては隔離されたかも知れないよ」
「うへえ、危ないところだったなー」
「後で、そのスプレーを見せてくれるかい?」
「はいはい。もちろんですよ」
 緑原は二つ返事で答えた。
「さて、問題は隣の部屋だな。ここ、管理人さんはいるのかい?」
「常勤はいないんで、管理会社に電話するしかないけど・・・」
「すぐに連絡して合い鍵を持ってきてもらって」
「もう連絡してるんで、もうすぐ来るはずだけど・・・」
「じゃ、もう少し待ってみよう。住んでるのは男性? 女性? 表札には『海老津』ってしか出てないけど」
「男性です。たしか・・・。あまり会ったことないけど」
 緑原はそう答えると、少し間を置いてから葛西の防護服を指して言った。
「ね、刑事さん。あのようつべのトルーパー映像って、それだったんだねえ」
「実はそうなんだ。ホントのこと、教えなくてごめんよ。あの時はまだ色々と微妙な時だったんで・・・」
「オレ、日曜の放送を見てわかったんだ。刑事さんが実はウイルスについて調べてたってこと。なんかオレ、トンチンカンなネタかましちゃったみたいだね」
「いや、役に立ったよ。一段落したらお礼に来ようと思ってたんだよ。こんな形で再会するとは思わなかったけど」
「オレもそう思うよ。ところで、このサイキウイルスって、ひょっとしてアンドロメダ・ウイルスなんじゃないの?」
「まだ、調査段階だからはっきりしないけど・・・」
(多分、それはない)と、葛西は心の中で続けて言った。
 そんな話をしている間に、60歳くらいの男性が階段を上ってきた。だが彼は葛西とジュリアスの異様な姿を見て驚いて、一歩後ずさりをした。
「あ、管理人さん、こっちで大丈夫です」
 緑原が手招きした。
「うちの隣の1号室に虫が大量発生しているみたいで・・・」
「ええっ?」
 管理人が汗を拭き拭き言った。
「虫って、まさか例の?」
「そんな感じです」
「管理人さん」
 葛西が言った。
「K署の葛西です。こういう格好なんで手帳はお見せできませんが」
「あの、ここに例の感染者がいるということですか?」
「様子を見ないことにはなんともいえませんから、合鍵を」
「あ、はいはい」
 管理人は急いで合鍵を出すと問題の部屋に向かおうとした。葛西が急いでそれを止めた。
「危険です。近づかないで!」
「えっ、危険!?」
 管理人が鳩が豆鉄砲を食らったような顔で言った。葛西はいまいち状況を飲み込んでいない管理人に指示をした。
「三歩こっちに来て鍵を置いて、緑原さんの傍まで戻ってください」
「ダメですっ! 鍵は困りますっ!」
「僕は警官ですよ。心配されなくても大丈夫ですから」
「そんなこと言ったって、私が怒られるんですっ!」
 躊躇する管理人に向かって、葛西はとうとう待ちきれずに怒鳴った。
「隔離されたくなかったら、そうしてください!!」
「は、はひっ!」
 管理人は急いで鍵を置くと、弾かれたようにして緑原の傍に行った。
「GF、念のため、例のスプレーを持って来て。ついでに管理人さんにかけてあげて」
「アレを? でも、ひどい匂いだけど」
「いいからいうとおりにして」
 そういいながら、葛西は鍵を取って件の部屋のドアに向かった。ジュリアスがその後に続く。葛西が鍵を開けていると、緑原の部屋の付近で、シューッと言う音と共に咳き込む声がした。
「ジュリー、開けるぞ、いいかい?」
「殺虫剤スタンバイOK。開けてちょーよ」
 葛西はそうっとドアを開けた。数匹黒い虫が這い出してきた。すかさずジュリアスが殺虫剤を散布した。
「いるようだて。応援部隊はどうなっとるんかね」
「もうすぐ来るとはずだよ」
「とにかく、中の様子を見よまい」
「OK、じゃ、突入するぞ」
「了解!」
 葛西がもう一度ドアを開け、二人はすばやく室内に入った。すかさず葛西がドアを閉め、ジュリアスがもう一度ドアの周囲に殺虫剤を散布する。殺虫剤に巻かれた葛西は顔をしかめた。防護服のため影響はないが、あまり気持ちの良いものではない。無意識に顔の前を手で仰ぎながら声をかけた。
「誰かいますか? 居たら返事をしてください!」
 反応なし。葛西は、灯りのスィッチを探しながらもう一度大声で言った。
「誰かいませんか!!」
 やはり返事がない。スィッチを探しあてた葛西が灯りをつけた。あちこちに黒い虫がちょろちょろしていたが、半開きの部屋の戸から、何かが横たわっているのが見えた。二人は急いで部屋に向かった。
「生存者はいますか? 殺虫剤を散布しますから、いたら口と鼻を押さえて!」
 葛西が言うや否や、ジュリアスが横たわったもの目がけて殺虫剤を散布した。横たわったものから黒いモノがわらわらと逃げていく。
「葛西、部屋の中の戸を全部開けてちょーよ。流しの扉や吊棚も頼むわ! 隅々まで散布するっ!! 一匹も逃がさにゃーぞ!!」
 ジュリアスは押入れの戸を開けながら言った。

「やっぱ、亡くなってた? じゃ、じゃあ、オレ、虫だらけになった死体のある部屋の隣で寝起きしてたってことなの?」
 緑原が鼻白んで言った。
 後は鑑識に任せ、葛西は緑原に説明をしていた。部屋の中には消毒しないと入れないという指示がでたので、彼らは緑原の部屋の玄関前で話をしていた。
 葛西が気の毒そうな目で答えた。
「そうだね。まあ、それは1日くらいのはずだけど」
「うぇぇぇ~、マジ、シャレになんね~」
 そう言うと、緑原はいきなり両手を合わせて隣の部屋に向かって拝み始めた。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ。お隣さん、ちゃんと成仏してくださいよぉ」
「君、隣の人との交流はなかったの?」
「交流も何も、お隣さん、お仕事が夜勤だったみたいで、オレ等とは正反対の生活でさ。ううっ、つるかめつるかめ」
「それじゃ仕方ないね。しかし、お隣さんがどういうルートで感染したかが問題だな。もし、このアパートで感染したんなら、かなり問題だ」
「なんで?」
「虫食い遺体の発生地の感染リスクがかなり上がるだろ? それに、ひょっとしたら死んだのは君だったかもしれないし、これからだって感染の可能性がある」
「ひぇ~、勘弁してくださいよぉ」
「この周囲一体の感染リスクが一気に上がるから、対策の再考もしなきゃならないだろうし」
 今まで二人の会話を黙って聞いていた管理人が、心配そうに言った。
「あのお、じゃあ、この辺一体が立ち入り禁止地区になるんで?」
「まだ、なんとも言えませんが、状況次第では、最悪そうなるかもしれません」
「大事じゃありませんか。この辺だって住宅も多いし小さな会社やお店が沢山あるんですよ。彼等の生活はどうなるんです?」
「守られなければなりません。だからこそ、早急に感染ルートの特定が必要なんです」
 葛西はきっぱりと答えた。そこに、現場に残って鑑識と一緒に遺体の検分をしていたジュリアスが戻ってきた。
「待たせたな、葛西」
「あ、ジュリー、どうだった?」
「初めて現場での遺体を見たけどな、生々しいだけで、まあ、例によって見事な食われっぷりだったがね」
 緑原は、近くに来たジュリアスの顔を改めてまじまじと見て、小さい声で「萌え」と言った。ジュリアスは、三人を見比べながら言った。
「何、みんなで便秘したような顔をしとるのかね」
「便秘はねぇだろ」
 葛西は肩をすくめながら言うと、管理人の方に向きなおして聞いた。
「管理人さん、この人の名前とか経歴とかわかりますか」
 管理人は、玄関の表札を指差して言った。
「名前はそこに書いてあるのと同じやったです。後は、事務所に帰って調べないとわかりませんが・・・」
「勤め先とかわかりますか?」
「それも、調べてみないと・・・。多分仕事を変わってなければわかると思います」
「じゃあ、管理人さん。そこら辺の情報がわかったら、署まで連絡ください」
「わかりました。葛西さんでしたね。今から調べてきます」
 そういうと管理人は、そそくさとその場を離れようとした。その後ろ姿にジュリアスが声をかけた。
「管理人さん、今からこのアパート全体を消毒しますんで、ご了承ください」
「ご自由に」
 彼はそういうと、一目散に去って行った。それを見て、葛西がしみじみ言った。
「よっぽど恐かったんだねえ・・・」
「まあ、仕方がにゃーがね」
「さて、GF。それが例のスプレーだね。ちょっとこっちを向けてくれる?」
「あ、はいはい」
 緑原は、右手でスプレーを持ち、葛西が見えやすいようにした。
「ふうん。K製薬の『虫の嫌いなハーブで虫コネーーー』か。相変らずふざけた名前を付けるな、あの会社。GF、これ、預かってもいいかな?」
「冗談でしょ。オレはどーなるのさ」
「葛西」
 ジュリアスが言った。
「商品は覚えただろ。買って帰ればえーことだて」
「まあ、そうだけど」
「心配なら、写真を撮って帰ればえーだろ。・・・そうだ、写メしてアレックスに買っとってもらおうか?」
「写メって、携帯電話は汚染されるから持って来てないだろ」
「おれたちは、こうやって持っとるんだで」
 ジュリアスは、バッグから見たことのあるビニール袋に包まれた物体を取り出した。
「冷凍保存用バッグだがや。ジッパーがついとって真空パック出来る位気密性が高いだろ? 念のため2重にしとるんだ。若干扱い難いし精度は落ちるが、写真もちゃんと撮れるがね」
 そう言いながら、ジュリアスは袋に入ったままの電話を開いた。
「GFだったかね、悪いがそのスプレーを携帯で撮るから、こっちに向けてくれんかね」
「はいはい。こうですか?」
 緑原が嬉しそうにスプレーを差し出した。チャラ~ンと音がして、ジュリアスは画面を確認し、葛西に見せながら言った。
「ちーとソフトフォーカスがかっとるが、まあ、えーだろ?」
「これだけ写ってりゃ上等だね」
「よっしゃ、保存っと。じゃあ、これをアレックスに送ろまい」
 ジュリアスは、少し二人から離れると、メール本文を打ち始めた。
「あの~刑事さん、あのひとォ」
 緑原がジュリアスを指して言った。
「警察の方なの? 外国人みたいだけど」
「ああ、彼はアメリカのウイルス学者だよ。今回協力をしてもらっているんだ」
「へえ、女性なのに凄いねー」
「GF、あのね、ジュリーは男性だよ」
「ええっ?」
 緑原が、本気で驚いて言った。
「オトコ? だって、凄く綺麗な顔してんじゃね?」
「ああ、顔がマスクで隠れてるから・・・」
 葛西はそんなことは思っても見なかったが、確かに防護服ごしに見えるジュリアスの顔はかなり女性的に見えた。背は高いが防護服越しにもわかるくらい細い容姿もかなり女性的だった。
「防護服を脱いだら、れっきとした男だから。けっこう筋肉あるし、それに・・・」
 と、葛西は言いかけて少し頬を赤らめた。
「え~~~~、もったいない。長身で肌が浅黒くて青い目でハスキーヴォイスでちょっとなまってて、『レジェンド・オブ・イーヴル・アイ』ってゲームに出てくる女戦士『ユリウス』のイメージにピッタリだったのに~」
「そうなのかい。長身で浅黒い肌に青い目。・・・? あれ、あいつ、目ぇ青かったっけ?」
「なんだ、刑事さん、気付いて無かったの? オレ、すぐにわかったよ。凄く綺麗な青い目なのに」
「ヤローの顔なんて、仕事以外じゃあまりじっくりと見ないからなあ」
 葛西は苦笑いをしながら言った。
「あとで、確認してみよう」
「葛西ー」
 と、噂のジュリアスがメールを送り終えて戻って来た。
「も~ぉ電話はビニール越しだわ防護服を着とるわで、文字を打ちにくくておーじょうこいたがね。日頃の倍かかってまったよ」
 彼はブツブツと言った。葛西は笑いながらもジュリアスの顔をじっと見ながら言った。
「で、上手く送れたのかい?」
「多分ね。アレックスはケイタイでの文字うちは面倒くせーできりゃーらしいて、メールでの返事は期待出来にゃーがなー」
 ジュリアスはそう言ったが、すぐに着信があった。
「あれ、アレックスからメールだわ。珍しいがね。 何々、『了解。すぐに買いに行きます。代筆、紗弥』ァ? ま、そんなことだろーとは思うとったがね」
 ジュリアスはくすっと笑いながら言った。
「意外と不器用なんだ、あいつ」
「やっぱ、萌え~」
 緑原がつぶやいた。

「おみゃーさん、さっきからおれの顔たぁけり(ばかり)見とるよーだが、何か付いとるかねー?」
 帰りの車の中でも、運転しながらミラー越しにジュリアスの顔をチラチラ見る葛西に、ジュリアスがとうとう尋ねた。
「え?」
 葛西は焦ったが、正直に話すことにした。
「あのさ、僕、今まで気が付かなかったけど、君の目って青かったんだね」
「今頃何かね」
「さっきGFに言われるまで気が付かなかったからさ」
「・・・刑事のくせに注意力散漫だがや」
 ジュリアスがあきれて言った。
「黒人の目が青かったら変かね?」
「そんなことじゃないよ。改めてよく見たけど、綺麗だなあって」
「褒めても何も出にゃーぞ」
「お世辞じゃないって。宝石みたいだよ」
「褒めすぎだろ。まあ、言ってみりゃー、これがアメリカの黒人の現実ってーヤツだなも」
「え?」
「おれのおふくろは、先祖に色々混ざっとってね。アフリカやスペイン、ネイティヴ、さらにはインド、その他諸々ね。だからすごい美人なんだわ。だけど、親父の方は、どう見てもアフリカンなリアルブラックだったんだが」
「え~っと?」
「おみゃーさんも習っただろ。青い目は・・・劣性遺伝だで、両親ともに青い目の遺伝子を持たにゃーと出にゃーんだがや。親父の先祖にも、どっかで白人がちょっかいを出したんだな」
「隔世遺伝ってヤツか」
「まあ、そんなところだわ。ほんだでブルーアイズは、おれにとっては嫌な色ってことだ」
「そんなこと無いよ!」
 葛西が言った。
「ご先祖さんだって、好き合って一緒になったのかもしれないだろ。それに、凄く綺麗な色じゃないか。南の海みたいな色だもの」
 葛西は真剣になって言ったが、ジュリアスがきょとんとしているのに気付いて、顔を赤らめた。
「ま、まあ、・・・今頃気が付いてこんなこと言っても、説得力ないよね」
 そう言うと、彼はへへへ、と笑った。
「葛西。おみゃーは本当にえーヤツだなも」
 ジュリアスがそれを見てしみじみと言った。
 

 ギルフォードの研究室に向かう階段を、ボーイッシュな女性が軽快に駆け上がっていた。手には、近所のドラッグストアのレジ袋を提げている。彼女はそのまま足早に研究室に向かった。
「ただいま~。買ってきたよ~」
「ありましたか、ユリコ」
 ギルフォードが言った。由利子はレジ袋を高く差し上げながら言った。
「これだよーん。いっぱい残ってたよー。他の殺虫剤関係は全滅だったけど」
「さて、早速どんなものか確認してみましょうかねえ」
 ギルフォードがワクワクしながら言った。紗弥も仕事の手を止めてやってきた。
「楽しみですわね」
 由利子はレジ袋からそれを出して、ギルフォードに渡した。ギルフォードはそれを手にして、名前を読みながら言った。
「『虫の嫌いなハーブで虫コネーーー』? これが全部商品名なんですか?」
「あ~、よく見かけるわねえ、こういう名前。この製薬会社、特にこういうネーミングが好きみたい。もっと長いのもあったわよ、確か」
 由利子が、レジ袋をちんまりと畳みながら答えた。ギルフォードは呆れ顔で言った。
「まあ、わかりやすくていいですけどね、まんまやんけ」
 ギルフォードは口をとがらせ気味にして、商品の包装フィルムを外した。教授室の外側では、例によって興味津々の研究生達が戸口に集まってきた。
「消臭剤みたいな液体スプレーですね。では試しにちょっとだけ空中散布を・・・」
「あ、アレク、ちょっと待って、確かそれ、すごい匂いが・・・」
 由利子が気がついて焦って止めたが、すでに遅かった。シューッと音がして、えもいわれぬ匂いが広がった。

「アレックス、例のものは手に入ったかねー」
 ジュリアスが研究室に入るなり言った。その後に続いて入って来た葛西が、研究室内の妙な雰囲気に戸惑って言った。
「お邪魔しま~す・・・。って、あれ? みんなどうしたの? 何、この変なにおいは・・・?」
 二人の姿を見て、研究生たちは軽く会釈をしたが、その後ヒソヒソと話し始めた。葛西はジュリアスを見ながら言った。
「何かあったのかな?」
「実験ミスでもやってまったのかねー」
 二人は首をかしげながら教授室に入った。
「何を言ってるんですか」
 ギルフォードが二人を見るなり言った。
「君たちの言ったスプレーを撒いただけですよ。なんですか、あれは。ほとんど化学兵器ですよ」
「そんなにどえりゃー匂いだったのかね」
「ひどいなんてもんじゃなかったよ!」
 由利子が眉間に盛大な縦ジワを作って言った。
「あれじゃあ、虫どころか、人間だって落ちるわっ」 
「実際に、キサラギ君が落ちました。文字通り」
 ギルフォードが片をすくめて言った。
「匂いに驚いて研究室を飛び出して、そのままそこの階段から・・・」
「ええっ、大惨事!!」
「ま、とっさに手摺を掴んだので、若干の打撲で済みましたがね。向こう脛は痛かったでしょうね」
「良かった~。もぉ、脅かさないで下さいよ、アレク」
 葛西がほっとして言った。ギルフォードは肩をすくめたまま、首を横に振りながら言った。
「でも、匂いに耐えられないと言って、帰ってしまいました。困ってしまいます」
「いくら有効でも、この匂いじゃ使用に耐えませんわよ」
 と、一人涼しい顔をした紗弥が横から口を出した。葛西とジュリアスは顔を見合わせた。
「すさまじそうだねえ」
「聞きしに勝る、だなも」
 そんな二人を見て由利子が言った。
「何よ、あんたたち、まだこの匂い嗅いでないの?」
「あ~。防護服がC兵器にも対応してるんだで、匂いも入って来ーせんのだわ」
「ああそう。じゃあ、今喰らいなさいよ」
 そういうと、由利子は二人の鼻先に向けてシュッと軽くスプレーを撒いた。
「うわあ、臭っ!!」
「だ~~~、でらおそぎゃあにおいだっちゃ。こりゃーたまらにゃーわ!!」
「マジ、化学兵器レベルだーーー!!」
 パニックになった二人に向かって咳き込みながら由利子が言った。
「ど~だごほごほ、てめぇら参ったか! ごほごほごほっ」
「ユリコ、被害を広げるのはやめてクダサイ・・・けほけほ」
 ギルフォードはハンカチで鼻と口を押さえていたが、咳は押さえられないようだった。研究生達が口と鼻を押さえながら、急いで窓を開けに走った。ギルフォードはそれを恨めしそうに見ながら言った。
「ああ、また湿気が入ってきますねえ・・・けほっ」
「いくら有効だったとしても、これじゃ簡単には使えないですわね。下手をすれば、異臭騒ぎがおきますわよ」
 紗弥が比較的涼しい顔で言った。
「まったく、どういう鍛え方を、けほっ、してるんでしょうね、この人は・・・。ま、メーカーや専門家に分析させて、グスッ、この・・・スプレーの何が有効かが判ればな・・・んとかなるでしょう。けほっ。それまでは、これを我慢して使うしかないでしょうね。・・・クシャン」
 ギルフォードはそう言うと、ため息をついて自分の席に着いた。それからティッシュをひと掴み引っ張り出してビイムと鼻をかむと、それを屑篭に投げ入れて言った。
「とりあえず、僕はコレ、買って帰りますから」
 ギルフォードは、件のスプレーを手に取り、少し嬉しそうに言った。
  

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