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1.暴露 (8)コンスピラシー

 感染症対策センターの待合室で、中年夫婦がソファに座っていた。祐一と香菜の両親、西原夫妻だった。父親の方はそわそわとしていたが、母親は落ち着いた様子でテレビを見ていた。朝のニュースでは昨日の続報としてサイキウイルス関連のニュースが伝えられたが、特に進展はないようだった。昨日あまりにもいろいろありすぎたからかもしれない。
 今はニュースは終わり、生活情報のコーナーになっている。それは、母の真理子が日常的に見ているお気に入りのjコーナーだった。
「おい、きたぞ」
父親の慎也が病棟に通じるドアの方を指して言った。
 ドアが開き香菜と祐一が出てきた。香菜は祐一とギルフォードに手を引かれて嬉しそうにしていた。その後から高柳と春野看護師が並んで入ってきた。香菜は、すぐに両親を見つけるとつながれていた手を離して、二人の下に駆け寄った。
「おかあさん、おとうさん!!」
「香菜!!」
二人は幼い娘を抱きしめて無事を喜んだ。
「ごめんなさ・・・」
香菜はそこまで言うと、え~んと泣きだした。
「いいとよ、香菜。あんたが悪いっちゃないとやけんね」
そう言いながら真理子は改めて娘を抱きしめた。父親は娘を母親に任せ、立ち上がって祐一のほうを見て言った。
「元気そうでよかった」
「お父さん、お母さん。ご心配かけて申し訳ありませんでした」
祐一は深々と頭を下げながら言った。真理子は香菜を抱き上げながら立ち上がり、そのまま娘を父親に抱かせると、祐一のほうに近づいた。
「母さん・・・」
困ったような情けないような、なんともいえない表情で祐一は母を見た。母は、かすかに震えながら「祐一・・・」というと、わっと泣きながら息子に抱きついた。落ち着いているように見えたが、その実、じっと気持ちを抑えてきたのだが、無事な子供たちの姿を見て今、その感情が堰を切ったようにあふれ出したのだ。
 祐一は自分を抱きしめて泣く母親の背をさすりながら、いつの間にか自分よりずいぶんと小さくなったなと思った。真理子は程なく落ち着いて祐一から離れると、ハンカチで涙をぬぐいながら少し照れくさそうに言った。
「ごめん、取り乱しちゃったね。母さん、ここでちゃんと説明は聞いとったけど、そこまで恐ろしか病気やって思わんかったけん・・・。テレビで改めて聞いてぞっとしたよ。二人とも感染らなくて本当によかった・・・」
「うん・・・」
「あの刑事さんに感謝せんといかんねえ」
「うん・・・」
祐一は両親に続けさまに心配をかけたことで申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになり、うん、としか答えられないでいた。
「さて、そろそろいいですかな?」
高柳が頃合を見計らって言った。
「あ、すみません」
真理子が少し顔を赤らめて言った。
「みっともないところをお見せしてしまって・・・」
「いえ、事件に巻き込まれた上に一週間も隔離されていたのですから、当然です。さて、簡単に説明しましょう。香奈さんは、発症者と長時間過ごしましたが、お話によると接触はあまりしなかったようでした。しかし、万一を考え兄の祐一君と共に隔離させていただきましたが、この一週間特に異常はありませんでしたので、退院していいだろうということになりました。ただし、一ヶ月間追跡調査は行われますので、熱が出たり体調を壊されたりしたばあいは、すぐに連絡してください。いいですね」
「はい」
家族四人が、それぞれにうなづいて言った。
「では、祐一君、香菜ちゃん、退院おめでとう」
高柳は二人に向かって笑顔で言うと、すぐにまじめな表情になって祐一の方を見た。
「祐一君、もうご両親に心配をかけるようなことは二度としちゃいけないよ。いいね」
「はい・・・」
祐一は素直に言った。心からそう思っていた。そこに、ギルフォードがピンクのマーガレットの花束を持ってきて、香菜に渡した。
「カナちゃん。退院のお祝いですよ」
「わあ、かわいくてきれい」
香菜は花束を受け取ると、目を輝かせて
「アレク先生、ありがとう。お兄ちゃんの次に大好き!」
というと、ギルフォードの頬にキスをした。これには父親が驚いた。
「おいおい、いつのまにそげんことを覚えたとね。それにお父さんたちはランクに入っとらんと?」
「だって、お父さんとお母さんはベッカクだもん」
香菜は、父親の方を見て笑顔で言った。
(”この子は意外としっかりしてるようだ。兄の方も礼儀正しいし、良い環境で育ったんだろう”)
ギルフォードは、西原親子を見守りながら思った。
 西原兄妹は両親と共に深々と礼をして、感対センターを後にした。
 彼らがエントランスから出ようとした時、ギルフォードが祐一を呼び止めた。祐一は振り返ってギルフォードの元に引き返してきた。
「ユウイチ君」
ギルフォードは真剣な顔で言った。
「昨日からずいぶんと状況が変わりました。このウイルスについては、皆が知ることとなったし、君たちがその感染の疑いで隔離されていたことも周囲に知られているかもしれません。これからが本当に大変だと思います」
「はい」祐一が答えた。
「でも、ユウイチ君、君は強い子です。君の友人たちもきっと力になってくれます。だから、君はご両親を助け、カナちゃんを守ってあげてください。ダイジョウブ、君たちならきっとそれを乗り越えていけます」
「はい。多美山さんに対して恥ずかしくないようにがんばります」
「でも、ガンバリすぎちゃだめですよ。それから、もう二度と危ないことに関わらないようにしてください。いいですね?」
「はい」
「君の友人たち、小さいけれど勇敢なヨシオ君と、あの利発なおじょうさんにもよろしくお伝えください」
「はい。ギルフォード先生、いろいろとありがとうございました」
祐一はそう言うと、もう一度深く頭を下げた。

「あ、あの子たちだわ」
極美がセンターから出てくる西原親子を見つけて言った。
「うん? 出てきたかい? ね、ここで張っていて正解だったろ」
運転席でシートに寄りかかり半分眠っていた降屋が言った。彼らは感対センターの一般病棟出入り口近くに路上駐車していた。こちらの方は人通りも多いが、その分見張りも立っていない。物々しさを避けるためもあるのだろう。しかも、駐車場に入らずにここで家人を待つ無精者の車が何台か止まっており、カムフラージュにもなった。
「ええ、相変わらずな情報網ね」
「で、間違いないんだね」
「間違えるはずが無いわ。私が目撃した公園での事件現場にいた少年達よ。やっぱり二人は兄妹だったんだ。感染のおそれがあったので隔離されてたんだわ」
「あ、極美ちゃん、ほらこれ」
降屋が極美に一昨日使っていた望遠レンズ付一眼レフカメラを差し出した。しかし、極美は首を横に振って言った。
「今日は撮らないわ。あの子らは被害者だもの。もし大衆の目に晒されるようなことになったら、何を言われるかわかったもんじゃないわ。かわいそうよ」
「へえ、優しいんだねえ。もったいない。せっかくの情報なのに・・・」
そう言いながら降屋がカメラを構えた。
「やめて! 撮らないで!!」
極美が焦って降屋の撮影を阻止するためカメラに手を伸ばしたのと共にシャッター音がした。
「撮らないと言ったのに、どうして撮るの!」
極美は降屋の右手を掴むと非難するようなj目で彼を見た。そうこうする間に西原親子はタクシーを拾って去って行った。
「あ~あ、何するのよ。おかげでピンボケの後姿しか写らなかったじゃないの」
降屋がブツブツ言いながら極美に映像を見せた。モニターには西原一家のぼやけた姿が映っていた。
「ピンボケのせいで、妙な雰囲気が出ちゃったよ。こりゃモノクロ向きの絵だな」
「ごめんなさい。せっかく情報をくれた上に会社を休んでまで付き合ってもらったのに。でも、どうしても嫌だったの」
「まあ、いいさ。ここが間違いなく連中が感染者を収容する施設だということがはっきりしたし」
「はっきりって、一昨日の放送でしっかり言ってたじゃない」
「そりゃ覚えてるよ。僕が言いたいのは、口封じのために感染を理由にここに閉じ込めることだって出来るってこと」
「そんなこと、どうして?」
「君は、このウイルステロが陰謀臭いと思わないかい?」
「なぁに、テロの次は陰謀なの?」
極美が含み笑い気味に言った。
「そうだよ、陰謀だ。僕はこの事件に米軍の細菌学者が関わっている事から疑問に思って独自に調べてみたんだ。君は不思議に思わないかい。F県には全国的にもかなり大きな都市があるけど、あくまで地方都市だ。どうして九州なんて中央からずいぶん外れたところでウイルステロなんかおこしたんだい? それから、どうして政府は殺人ウイルスのことしか発表を許さなかったのかい? 後者においての理由は二つ考えられる。テロとしての決定的証拠がないか、隠さねばならない理由があるかだ。公安の友人の話では、テロに付き物の犯行声明が未だになされていないから、テロと決めかねているということだった。だけど、それじゃ、日本の端っこで起こったことの説明にはならない。だけど、実験だったらどうだろう」
「実験?」
「君は帝銀事件を知っているかい?」
「ええ、これでもジャーナリストの端くれだもの。そんな有名な事件を知らないなんて恥でしょ。昭和23年1月に帝国銀行で起きた有名な毒殺事件よね。」
「そう。犯人は、近所で赤痢が発生したのでその予防薬と偽って、銀行員たちに青酸化合物を飲ませ、現金を奪って逃げたんだ。結果、16人のうち12人が亡くなった」
「犯人のHは冤罪で、真犯人は元731部隊の人間じゃないかっていうのが有力よね。結局死刑は執行されなくて、Hさんは95歳で獄中死された」
「そう。強盗はカムフラージュで、犯人の真の目的は毒薬の効果が知りたくて、人体実験をやったという。731の連中、中国で散々人体実験をやってたからね。人を使って実験することに対する抵抗はあまり無かったと思うよ」
最初は小馬鹿にしていた極美だが、徐々に降屋の話に惹き込まれていった。降屋は話を続けた。
「当時アメリカ陸軍は、来たるべく生物兵器戦に備えて、元731部隊の隊長Iと裏取引をしていた。大陸に於ける膨大な人体実験の資料と引き換えに、彼を含む731部隊の隊員に対するお目こぼしを約束したんだ。中国であれほど残虐な行為をしておきながら戦犯として裁かれず、彼らはのうのうと生き延びた。そりゃあ米軍にとって魅力的な資料だったろう。老若男女、人種、それらのありとあらゆるかつて人では試されたことの無い貴重な実験のデータが存在したんだからね。まあ、そういった事情からGHQは731の連中を庇った。警察はその後捜査上に浮かんだというHを逮捕して自白を強い、Hは裁判で死刑を言い渡された。結局この事件に米軍がどれだけ絡んでいるかもわからない。だって、真犯人が捕まってないんだから」
「で、その事件と今回のテロ事件がどう関係するの?」
そう聞かれて降屋は的を射たといわんばかりの表情で言った。
「似ていないかい? 犯人は人体実験をしようとウイルスを撒いた。その犯人は米軍がらみの人間らしいってこと」
「あっ・・・」
「最初ホームレスだけで完結させるつもりだったけど、ウイルスは思わぬ形で広がってしまった。まさか、中学生たちが彼らと接触するなんて思わなかったから。そして、それが米軍の知るところとなった。米軍が開発した新型ウイルスを元関係者が持ち出してばら撒いてしまった、それを知った米軍はどう出ると思う?」
「まず保身にかかると思うわ。それから、持ち出した男を消して証拠隠滅を図るんじゃあ・・・。で、その後帝銀事件みたいに第3者を犯人に仕立て上げて・・・」
「そう、普通はそう考えるよね。自殺したアメリカの炭疽菌事件の犯人も、それじゃないかって言う人もいるしね。だけど、そうはいかなかった」
「どういうこと?」
「ウイルスはすでに拡散しきってて収集がつかなくなった。ワクチンがあったとしても、まさか、未知のウイルスなのに、持ってますから使ってくださいたあ口が裂けてもいえないだろ?」
その時、窓を叩く音がした。二人はびくっとしてそっちを見た。すると、50代くらいの男性警備員が窓を覗き込みながら言った。
「ずいぶん前からここに止まっとるでしょ。路駐は違反ですよ。どなたかをお待ちなら、中の駐車場に入ってくれんですか?」
「あ、すみません。そろそろ行かなくちゃって思ってたんです。ごめんなさい。すぐ出ます」
降屋はそういうと、エンジンをかけ、車を発進させた。
 車を走らせながら、降屋が極美に苦笑して言った。
「警備員でよかったね」
「ええ。ちょっとヒヤッとしたわね」
二人は笑った。その後、降屋は話を続けた。
「で、連中は決めたのさ。いっそ、この後どういう風に広がるか実験を続けてみようってね。どうせ、アメリカから離れた極東の国のさらに端の島にある都市だ。大陸に比べて封鎖もしやすいだろう。いや、それより上手く行くとF県に近い半島から大陸の方に広まって無駄に人口の多い邪魔な中国が壊滅してくれればもっと良い。その間、アメリカはウイルスを発見した、超特急でワクチンも出来たといって、自国民に摂取すれば良い。ついでにそのワクチンを接種できる人間を選別すれば、自国の掃除も出来るとすら考えているかもしれない」
「いくらなんでも、それは無いんじゃない? 中国より先にアメリカ大陸でアウトブレイクするかもしれないし、世界経済だって無茶苦茶になるわ」
「それだけ中国が脅威ってことだよ。このままでは近いうちに中国からナンバーワンの地位を奪われる。かつての大英帝国がそうなったように。今まで・・・特に、ソ連崩壊後1人勝ちしていたアメリカにとって、ナンバーワンの座から引きずりおろされるということは、屈辱以外の何物でもないだろう。特に歴史の無い国だからね。オンリーワンよりナンバーワンなのさ」
「でも、その間自分達だって危険なはずでしょ」
「だから、ワクチンは持ってるんだよ。既に、主要人物には接種されているんじゃないかな。そもそも歴代大統領が世界制服をたくらんでいるというフリーメーソン会員だって国だよ。これを機に自分らの野望を叶えようとしたって不思議じゃないくらいだよ。そういうわけで、あの病院にアメリカの息がかかっているとしたら、口封じのために使われたって不思議じゃないって思ったのさ」
「そんな・・・。信じられない話だわ。結局アメリカにとって日本はその程度の国なのね・・・」
「世界地図を見てご覧よ。アメリカにとって日本は、ユーラシア大陸に対する最前線基地なんだ。チェスでも重要なコマだと思う。日本国民なんてどうでもいいのさ。わざわざ日本が戦争を仕掛けるように工作して敗戦に追い込み占領したくらいだもの」
「それは聞いたことがあるわ。真珠湾攻撃については、知ってたのにわざと攻撃させたって。日本を攻撃する口実にするために」
「それについては、9.11テロと似ているよね」
「そうか、そういうことなのね。・・・でも、何であなたがそんなことを調べることが出来たの? 一介の会社員なんでしょ?」
「そうだよ。僕はただの会社員さ。だけどね、ある組織に入ってるんだ。表の顔は宗教団体だけどね。実は、世界平和を実現するために、国内外のあらゆる組織に入り込んで情報を集めている非営利団体でもあるんだ。僕は彼らにコンタクトを取って情報を集め分析したんだ」
「組織?」
「うん。秘密結社とも言って良いと思うけど、それじゃちょっと外聞が悪いからね」
「そういわなくても充分胡散臭いわよ。今までのことがなかったらね。でも、私が今まで色々調べてきた事と照らし合わせると、確かにそういう可能性も出てくるわ・・・」
「わかってくれたんだね、極美さん」
「このままでは、この地がスケープゴードになってしまうかもしれないのよね」
「そうだよ。だから君がどんどんこれについての記事を書いて、少しでも多くの人に危機を知らせないと」
「それを考えると、ウチの雑誌にタブロイド色が強いことが悔やまれるわ」
「大丈夫。近いうちに、ある権威のある先生がこのことを発表する。そうなれば、このことが正しかったということに気付く人が大勢出てくるはずさ。そうしたら、君のひとり勝ちだね」
「ひとり勝ち・・・。ステキな言葉ね。でも、私はそれより使命的なほうに魅力を感じるわ。これは、私しか出来ない」
「そうだよ。このことを知ったジャーナリストは君だけだ。だけど、それだけ君は危険な立場にいることになるよ」
「覚悟の上だわ。何とかして奴らの鼻を明かしてやるんだから」
「やつら?」
「そうよ。ウイルスを撒いてそ知らぬ顔をして警察内部にいる教授やその秘書とか言う女、私の写真をデリった公安の男、あいつらよ」
「でも、関わった者として君をむざむざ危険に晒すことは出来ないよ。君だって、あの病院に入ることになりたくないだろう? だから今のホテルを早く引き払うんだ。僕の所属する教団経営のホテルに移るといいよ」
極美は焦った。彼女にとって宗教関係なんてとんでもない話だった。
「え? だって、いちおう宗教団体なんでしょ。私、無神論者で、そーゆーのは苦手だし・・・」
「大丈夫、宗教の勧誘なんて一切しないから。基本的に勧誘はしてはいけないことになっているんだ。そのホテルはね、DVや闇金の被害等にあって逃げ場のない人を多くかくまっているんだ。弱いものを助けることが使命であって、それと交換に入心をさせることは教義に対する重大な違反なんだよ。そんな訳でセキュリティもしっかりしているし、必要なら外出時も護衛がついてくれる。君の身を守るにはちょうど良いと思うんだ」
「う~ん・・・」
極美はしばらく考えていたが、意を決したように言った。
「わかった。そこにお世話になる。まず、このことを知らしめることが第一だよね」
「よ~し、決まった! じゃ、善は急げだ。極美さん今からホテルに向かうから、急いでチェックアウトして」
降屋はそういうと次の交差点で向きを変え、アクセルを踏んだ。

 
 感染症対策センター隔離病棟B。ここは危険度のやや低い感染症患者の収容病棟だが、現在はサイキウイルス感染の恐れのある人たちが隔離されていた。その1号室に、川崎三郎の妻、五十鈴(いすず)と、昨日から同室になった窪田華恵が居た。
 20ほど歳の離れた彼女らは、最初馴染めなかった。しかも、華恵が夫をこの病気で亡くしたばかりと言うので、尚更五十鈴は彼女になんと語りかけて良いか悩んだ。しかし、お互い話さないのも間が持たないので、ぎこちなくぼつりぼつりと会話をしているうちに、その日の夜までにはお互い身の上を話せるくらいになっていった。二人は消灯後寝付けないので、どちらとも無く自分のことを話しだしたのだ。
 五十鈴が華恵の話を聞いて、すこし戸惑ったように言った。
「ご主人が浮気を・・・、そうやったとですか」
「ほんっと、馬鹿ですよね。挙句の果てに、変な病気を感染されて頭がおかしくなって自分から車に轢かれたっていうんだから、もう、馬鹿馬鹿しくって涙も出んかったですよ」
「何と言っていいか・・・」
「でもね、自分が勝手に死ぬのは構いませんよ。なんで私までこんな目に遭わんといかんとでしょう。最近ほとんどあの人とは触れとらんとですよ。感染るわけないでしょう。なのにここの連中と来たら、一緒に暮らしている限りは感染リスクが上がるとか感染症法で決まっているからとか言って、強制的にここに入れたんです」
「私らも、もうそれなりの歳ですからね、なんていうか、あまり身体に触れるとかいうことも無くなってましたからね・・・。でも、お風呂とかトイレとかどうしても共有部分が出てきますし、洗濯物にも触れたりしてますから、ある程度は仕方ないんじゃないでしょうかね」
五十鈴は華恵より達観しており、医者の説明も理解していた。だが、華恵にはどうしても納得出来なかった。
「私が朝掃除をしていたら、ここの車が来て夫が事故に遭ってここに運ばれたと言うことで、慌てて取るものも取らずそれに乗って来たとです。家の中も放りっ放しですよ。そんな中に保健所の人が消毒に入るって言うんです。もう、ほんとに嫌ですよ」
「うちもね、主人が急に高熱を出して倒れたんです。驚いて、私、無免許ですから急いで救急車を呼ぼうとしたら、主人が、救急車はイカン、保健所に電話せれって言うからそうしたら、間もなくここの車が来て、二人とも連れてこられましてね。まあ、夫がそんな状態だったので来るなと言っても来たと思いますけど・・・。で、私もそのままここに居るわけですよ」
「それからご主人の様子は? お会いになれたとですか?」
「いえ、私も隔離されている身ですから、容態しか聞いてませんけど・・・、・・・」
五十鈴はそこで言葉に詰まった。華恵は、五十鈴の夫の容態があまり良くないことを悟った。
「あ、あの、でも、川崎さんのご主人ってお優しそうな方ですね。ずっと一緒に居られる秘訣はなんですか」
「そりゃあ、我慢することですよ」
五十鈴が笑って言った。
「我慢・・・ですか?」
華恵が少し戸惑って言った。
「我慢です。ウチの主人もああ見えて・・・、って、窪田さん、会ったことないのにわかりませんよね。たいして良い男でもないのにけっこう浮気性でしてね、年とった今は落ち着いていますが、若い頃はもう・・・。流石に愛人とかはこさえませんでしたが、たまに帰って来ないこともあって・・・、とうとうたまりかねて、一度家を出たんです。へそくりを全部持って当ても無くフラフラしてたら、一週間経ったかな、主人が私の宿泊先に迎えに来たとですよ。誰にも言ってないのにですよ。もう、犬かと」
五十鈴はそこでくすりと笑った。
「後で聞いたら、会社をずっと休んで私の足取りを追ったそうですよ。主人は私の顔を見るなり土下座して、もう浮気をしないと平謝りしたんで仕方なく帰ったとですよ」
「じゃあ、それからはもう浮気は・・・」
「とんでもない。しまいには私もあれは病気だと諦めるくらいに達観しました。また会社を休ませることになっても会社に迷惑をかけるだけですからね」
「羨ましいですよ、川崎さん」
「どこが。私もあれから何度も離婚を考えたんです。でも、そのたびに迎えに来た時の、迷った駄犬が飼い主を見つけたようなしょぼくれた姿を思い出してですね。もう、情けないやら可笑しいやら・・・」
「そうですか」
「今回だって、ご近所の奥さん達に担ぎ上げられて、彼女らと様子を見に行ったら、そこの未亡人がこの病気で亡くなってたそうで、そこで感染されたっていうじゃないですか。しかも、感染ったのは主人だけですよ。もうあのお調子もんがって・・・。何度私を困らせればいいんでしょうかね。しかも、容態は悪くなる一方らしくて・・・」
そういうと、五十鈴はすすり泣いた。
「川崎さん・・・」
「ごめんなさい。ここの方たちはよくしてくれるけど、こんな話をすることも無くて・・・。窪田さんが来てくれて良かった。なんか胸の閊えが取れたような気がします・・・」
「私もですよ、川崎さん」
華恵はベッドから起き上がると、五十鈴の方を見て言った。五十鈴は布団を被って泣いていた。
「夫の浮気のことは知ってたけど、誰にも言えなかった。私にだってプライドがあるって意地になってた。でも、ひょっとして私が夫を問い詰めたら、プライドを捨てて別れてくれって言えていたら、夫は死ななかったかもしれない。本当は昨日からずっと後悔してたんです・・・」
華恵の声はかすれ、期せずして涙がこぼれた。
「窪田さん?」
五十鈴も起き上がって華恵の方を見た。お互いが頬を濡らしているのを見て、二人はクスクスと笑ったが、それは再び泣き顔になった。その後どちらともなく近づいていき、似たような身の上の女性二人は向かい合って泣き続けた。

 そんなわけで、今朝起きた時は少し照れくさかったが、お互いの心情を吐露しあった二人は、なんとなく長年の友であったような気持ちになっていた。それに、二人とも感染の恐怖に怯えていた。五十鈴の言ったように、睦みあうことが無くとも同じ家に住んでいた限りは、感染の可能性は考えねばならない。共有部分が多いからだ。さらに洗濯を任されることの多い主婦の場合、汚れ物についた体液から感染する可能性があった。珠江がそうだったように。
 それで二人は、出来るだけ関係ない話をすることにした。
 華恵には子供が居なかったが、五十鈴には二人の子供が居た。一姫二太郎と理想的な順番で生まれてくれたと笑った。しかし、二人はそれぞれ県外に就職し、そちらで配偶者を見つけ、今では盆と正月くらいしか顔を見せないとぼやいた。
「今回だって父親が大変なのに一度も見舞いに来んとですよ・・・。子供なんて、居ても結局夫婦二人に戻ってしまうとやけん、寂しかもんですよ」
五十鈴は笑いながら言った。それで、今、犬を飼っているという。柴犬の雑種で、保健所から貰い受けてきたということだが、夫婦がこういう状態になったので、知人に世話を頼んでいるが、ちゃんとしてもらっているか心配だという。
「私ら二人ともどうかなったら、あの子がどうなるかと考えたら心配でねえ。また保健所に逆戻りされたりしたら、どうしようかと・・・」
「ここの人に頼んでみたらどうかしら? だって、無理やりここに押し込めたんだもの。そこら辺を何とかする義務がありますよ」
「ここん人たちは動物愛護の人たちやなかけん、そこまでしてくれんでしょう」
「そうですかね。困りましたね」
華恵がそう言った時、病室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
二人は声を会わせて答え、お互いを見て笑った。
「失礼します」
そういって入って来たのは、防護服に身を包んだ高柳だった。傍にはギルフォードと背後には看護師が二人、同じ装備で控えていた。
「今日は診察で来たのではありません」
高柳が神妙な顔で言った。五十鈴と華恵は嫌な予感に身構えた。
 高柳は五十鈴の方を向いて静かに言った。
「川崎さん、先ほど・・・ご主人の三郎さんが亡くなられました。昼過ぎ頃から容態が急変して、私たちも手を尽くしましたが、力が及びませんでした。本当に急でしたので、奥さんにご主人の危篤をお知らせすることも出来ずに申し訳ありません。ご主人は最後までうわごとであなたのことと、はつねさんのことを心配されておられました。はつねさん、お子さんでしょうか・・・?」
「初音は飼っている犬です・・・。あん人ったら、子供のことより犬のことを・・・」
五十鈴はへたへたと座り込んだ。下を向いた顔からハタハタと涙がこぼれた。ううっと嗚咽を漏らすと、五十鈴は両手で顔を覆った。
「うそ、うそです・・・」
五十鈴がか細い声で言った。
「あん人が私を置いていく訳がなかとです。あん人は私がおらんとだめな人なんです。そぎゃん人が私を置き去りにしていくことなんかありまっせん。死ぬわけがなかです」
「川崎さん、しっかりして」
華恵が慌ててしゃがみこみ、五十鈴の肩を抱いて言った。しかし、五十鈴はそれに気付かずにつぶやいた。
「あん人は必ず私を迎えに来てくれます。死んでなんかいません」
「川崎さん、そんな不吉なこと言わんと。しっかりせんね。あなたまで死んだら残された初音ちゃんがかわいそうやろ?」
「窪田さん・・・、私、私・・・どうしたら・・・」
五十鈴はそう言うと華恵にしがみついた。うわあ~っと五十鈴の号泣する声が病室に響いた。
「三郎さん、三郎さん・・・」
華恵にしがみつきながら、五十鈴は夫の名を呼び泣き続けた。高柳たちは黙って静かにそれを見ていたが、彼らの目も一様に潤んでいた。しかし、高柳にはこの後辛い説明をする義務があった。これから先、一体どれだけこういうことが起きるのだろう・・・。四人はやるせない気持ちでその場に立っていた。
 

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1.暴露 (9)メガローチ・エフェクト

「葛西! 右だ! 右に回れッ!!」
「ちょっと待て! そっちに行ったら・・・」
「い~から回れ! 橋壁に追い詰めるんだ」
「追い詰めるって、こいつ、飛ぶんだぞ!!」
「でゃ~じょ~ぶ、おそらくだが、こいつらはいきなり飛べにゃあって。くそ、そう言っている間にまた形勢が変わったじゃにゃあかっ! いいか、葛西、こいつはなんとしても捕獲するぞっ」
「りょぉぉかぁいっ!!」
 葛西がヤケ気味に答えた。

 二人は例の川でのメガローチ捕獲作戦の遂行中だった。
 今日が作戦の最終日ということもあって、ジュリアスはかなり意気込んでいた。対して葛西はいまいち引き気味だった。昨日の「足二本」がかなりショックだったらしい。それでも与えられた職務をこなすために、黙々と罠のチェックをしていた。しかし、かかっているのはほとんどゴキブリ以外の昆虫や小動物だった。昆虫はともかく小型哺乳類が罠にかかって死んでいたり虫の息だったりするのを見ると、可哀想なのと申し訳なさで、なんともいえない嫌な気分になる。葛西に元気がないのはそのためでもあった。ジュリアスは慣れているだけあって、顔色も変えずに淡々とそれらをサンプルとして採取していた。しかし、肝心のメガローチがまったく掛かっている様子が無い。3日目も昼を過ぎたのに、一向に成果の上がらないことに、ジュリアスは若干あせりの色をみせていた。
 しかし、二人が昨日罠にかかっていたメガローチを取り逃がした橋まで来ると、状況が変わった。橋台の近くに何か黒いものが見えた。ジュリアスは無言で葛西をとめた。
「なんだよ、ジュリー」
「シッ」
 ジュリアスが口の辺りに人差し指を当て、葛西にしゃべらないよう指示した。ジュリアスは続けて小さめの声で言った。防護服を着ているため、声の大小の判断が難しい。
「あれを見ろ、葛西。メガローチだわ。罠にかかってはいにゃぁが、なんか弱っとるようだなも。きんのう(昨日)逃がしたやつかもしれにゃぁぞ」
「昨日逃がしたやつなら、足が2本欠落しているはずだよ。再生能力があるならべつだけど」
「昆虫に再生能力はにゃあぞ。いくら変異体といっても昆虫である限りそれはにゃーと思うて。捕獲器の粘着剤には殺虫成分も含まれとるからな。かなり弱っとるようだわ、ありゃあ」
「だとしたら、捕獲のチャンスだね」
「ああ。じゃあ葛西、こそっと近寄ってみよまい」
 二人は足音を忍ばせて近づいた。それでもやはり敵は気配に感づいたらしい。ゆっくりと二人の方に身体をむけ、臨戦態勢に入ったようだった。ジュリアスは葛西に小声で言った。
「やはり気付かれたな。これから一気にカタをつけよう。走るぞ、それっ!」
 二人は目標に向けて駆け出した。

「案の定、きんのうまでの俊敏さはあーせんな。こりゃー追い詰める必要はなさそうだわ。このまま網で捕獲しよまい。葛西はフォローを頼む」
 ジュリアスはそう言うや、すぐに網を構えターゲットに対峙した。葛西はソレを中心にしてジュリアスと反対側に立った。
(フォローってどうすんだよ・・・)
 葛西は、背筋がざわざわするような嫌悪感を感じながら思った。その時、そいつが翅を広げぶぅんという羽音を響かせた。
「気をつけろ! 飛ぶぞっ!!」
 ジュリアスが言うか言わないかのうちに、そいつはふわっと飛立った。そして、ぶんという羽音を響かせながら、こともあろうに葛西の方に向かってきた。
「葛西ッ!!」
「うわぁああ~っ!」
 ジュリアスが葛西を呼ぶ声と、葛西の悲鳴が同時に響いた。

 ジュリアスは、とんでもないものを見た。あのメガローチが葛西の顔にべったりと張り付いたのだ。
「きゃーーーーー!」
 葛西が情けない悲鳴を上げた。
「嫌~~~っ! ジュリー、早く捕獲してくれぇ!!」
「葛西、うろたえるな、男だろ? そのままじっとしてろ、ええな!」
「蟲の腹が目の前にっ!! 気門が、気門がぁ~~~」
「うるさいやつだな。おれたちはサラトガ(NBC防護服)を着込んどるんだわ。感染りゃあせんがね」
「視覚的にキモいんだよ、腹の気門がっ! いいからさっさとしてくれぇ!!」
 葛西の声は裏返っていた。ジュリアスが肩をすくめて言った。
「おみゃーさんが自分で取ってもええんだが」
「無理ッ!」
 葛西は全力で否定した。ジュリアスはため息をついて葛西の方にそっと近づき捕虫網を上段に構えた。そしてそのまま葛西の頭目がけて振り下ろした。だが、僅差で彼奴は葛西の顔面に見切りをつけ飛立った。ジュリアスはあきれ返ってつぶやいた。
「ちくしょう、弱っとるくせに何てやつだ」
「ジュリー、もういいから網を取ってくんない?」
 葛西が網を被ったまま、仏頂面で言った。
 件の蟲は、ジュリアスの網は逃れたものの、すぐにフラフラと地面に着地した。ジュリアスの言うように相当弱っているのは確からしい。すかさずジュリアスは網を持って突撃した。蟲は逃げ出したが、さっきの飛翔が最後の力だったらしい。大きな身体でヨロヨロとしながらそれでも必死で逃げていた。その姿は、葛西にはなんとなく憐れに思えたが、ジュリアスは構わず網を振り下ろした。
「メガローチ、ゲットだぜ!」
 ジュリアスが右手の親指を立て、ニッと笑って言った。それを見て葛西は深いため息をついてしゃがみこんだ。
「葛西、気を緩めるのはまんだ早いぞ。これからコイツをきんのうのヤツかどうか確認した後、ケースに入れてから専用ボックスに入れるんだ」
 と、ジュリアスが捕虫網の中身を確認しながら言った。
「はいはい。もうひと頑張りしましょうかねえ」
 そう言いながら渋々葛西が立ち上がると、ジュリアスが尋ねた。
「さっき、顔に張り付いた時に足を確認できたか?」
「そんな余裕ねえよっ! ってか、思い出させんなっ!!」
 葛西は泣きそうな顔で言った。

 捕まえたメガローチはやはり足が2本欠落しており、予想通り昨日逃がした個体だった。いったん逃げたものの殺虫成分が回り、住処に帰ろうとした途中に動けなくなったのかもしれない。ようやく捕らえたメガローチをバイオハザードマークのついたボックスに収容し、葛西とジュリアスの任務は終わった。
「1528(ヒトゴォニィハチ)任務完了。葛西、頑張ったな」
「ふわぁ~。くそ暑いわ気持ち悪いわで、もぉ・・・」
 葛西はもう一度ため息をつきぼやきをいれると、河川敷にどかっと座り込んだ。
「疲れたっ!!」
「おい、葛西。衛生面からは感心出来にゃあぞ」
「防護服着てるんだから、大丈夫なんだろ?」
「それもそうだな。おれも疲れたからそうしよまい」
 ジュリアスは葛西の横に座ると改めて言った。
「葛西、ひょっとしておみゃあさん、昆虫がきりゃあ(嫌い)なのか?」
「うん、実はゴッキーに限らず、節足類は全般的に苦手なんだ。妙に機械的だし、そのくせ気持ち悪いし」
「そうか。何かそんな感じだったからな」
「いいな、ジュリーは。平気なんだもんな」
「ところがさ、実は、おれもおみゃあさんと同じなんだわ。仕事なんで仕方なく慣れたけどな」
「マジかよ?」
「マジだて」
「よく自分から捕獲を言い出したな」
「アレックスにやらせる訳にはいかにゃあだろう?」
「まあ、そうだけど」
「ほだから、仕事以外では関わりたくにゃあんだ」
「そっか。それで、あんなに作業が事務的だったんだ。好きならもっと楽しそうにやるよね・・・」
 そう言うと、葛西はくくくっと笑った。
「何が可笑しいのかね、葛西」
「だって、虫嫌いが二人、よりによって最大級のゴッキーと三日間悪戦苦闘してたんだよ」
 葛西はそう言うと、今度は盛大にあははははと笑い出した。
「しかも、テレビカメラにまで追われてさあ」
「そう言やあそうだな。ははは・・・」
 ジュリアスも釣られて笑い出した。二人はしばらくの間、梅雨空の下、仲良く笑っていた。
 

 由利子は、ギルフォードの研究室の方に来ていた。警察のデータベースを利用しての容疑者探しはいったん中断された。
 昨日駅で死んだ男の写真をマル暴、すなわち、松樹の古巣である組織犯罪対策部の捜査四課に見せ、確認を急いだ。その結果、広域指定暴力団D会の構成員であることがわかったからだ。
「事実上は、『だった』らしいですけどね。組の方では面子が立たないのか認めたがらないようですが」
 ようやく感対センターでのぎうぎうから解放されて、自分の研究室に戻ったギルフォードは、紗弥の淹れたミルクティーで一服しながら言った。
「どういうこと?」
 由利子が真っ先に尋ねた。彼女は自分が深く関わった事件だけに、誰よりも真相が知りたいと思っていた。
「半年ほど前に四課の刑事さんにね、こっそり言ってきたらしいんですよ。自分らは素晴らしい人に出会ったから、堅気になってやり直したいって」
「まあ、でも、そう簡単に足は洗えないんじゃありませんの?」
 紗弥が、パソコンのキーボードを打つ手を止めて聞いた。
「もちろんそうです。とても簡単に抜けられる組織ではないでしょう。ところが3ヶ月ほど前に、二人とも忽然と姿を消したらしいんです。まるで、神隠しに遭ったみたいに」
「二人ともって、ひょっとして?」
「そうです、ユリコ。おそらくもう一人も、ユリコのバッグを狙った片割れですよ。名前は・・・えっと、自爆したのがタムラ・コスモ(多村越百)、もう一人が・・・そうそうキョウからそいつの写真を預かってきました。ユリコに確認して欲しいということです」
 と言いながら、ギルフォードはジーパンのポケットから手帳を出し、中から一枚の写真を取り出すと由利子に渡した。
「これが、もう一人の男、ワタナベ・タユヤ(渡部太夫也)の写真です」
 由利子は写真を受け取ると、一瞥するなり言った。
「間違いないわ。この男よ」
「やはりそうでしたか」
 と、ギルフォード頷きながら言った。
「二人とも見事なドキュンネームで・・・。いえ、それはともかく、ということは・・・」
 由利子が言った。
「あの引ったくり事件の時は、二人とも『神隠し』の最中だったってことよね」
「そうなりますね」
「それで、彼らが出会った『素晴らしい人』っていうのは?」
「それが、断固として言わなかったらしいです。その刑事さんが言うには、多分宗教がらみじゃないかと」
「宗教? チンピラヤクザが宗教にねえ・・・」
 由利子が腕を組みながら、小首をかしげて言った。
「何かとアコギな商売です。宗教に逃避する人が居ても不思議じゃないでしょう。まあ、僕にも暴力団にあこがれる人の気持ちは理解できませんけど」
 そう言いつつ、ギルフォードは肩をすくめた。
「それにしても・・・」由利子が眉間にやや皺を寄せながら言った。「なんで、そんな素晴らしい人とやらに感化されたヤツがひったくり事件を起こし、さらには駅で『自爆』テロを起こすわけ?」
「たしかに、ロクでもなさそうですね」
 と、ギルフォードが相槌を打った。二人を見ながら紗弥が口を挟んだ。
「どっちにしても、想像の域を越えていませんわね」
「じゃあ、せっかく進展したって思ったのに、またどん詰まったってこと?」
 由利子が不満げに言うと、ギルフォードがフォローした。
「いえ、少しだけど前進しましたよ。こうやって少しずつでもピースを集めていけば、いずれ必ずなにかの形が見えてくるはずです」
「気の長い話・・・ですねえ」
「捜査と言うのは、地道に根気良くが基本ですよ。急(せ)いては事を仕損じます」
「まあ、そうですが」
「ところで、ユリコ、昨日の今日ですが、世間ではなにか変化はありませんか?」
「そうですねえ・・・」
 ギルフォードに急に聞かれて由利子は少し考え込んだが、すぐに答えた。
「ここに来るまでの道のりで思ったんですけど、なんか、梅雨空の下で、妙に掃除をしている家が多かったですね」
「そうですか。やはり、あの昨日の放送はショッキングだったんですね」
「あ、ガイアテレビのメガローチ写真ですか」
 由利子がぽんと手を叩いて言った。ギルフォードが嫌そうに苦笑いをすると言った。
「ひょっとしたら今週末は、大晦日のすす払いみたいになるかもしれませんね」
「九州各地で大掃除ですか。とんだメガローチ効果ですね」
「なんかバタフライ・エフェクト(効果)みたいですね。ワシントンで竜巻でもおきそうです」
「カオスですよねえ・・。」
 由利子が憂鬱そうに言った。ギルフォードは、そんな由利子を見てにやりと笑って言った。
「あのねユリコ、途中で気がついて敬語に直さなくてもいいんですよ。ジュンに話すように普通にお話ししてもらっていいですから」
「あは、あははは・・・」
(気付いていたか・・・)
 そう思いながら、由利子は笑って誤魔化した。
 

 華恵は五十鈴のベッドの横で心配そうに座っていた。五十鈴は高柳から夫の死後の措置についての詳細を聞き、ショックに次ぐショックでついに倒れてしまったのだ。
 五十鈴が身じろぎし、ふっと目を開けて華恵を見た。
「窪田さん・・・・」
「あ、川崎さん、起きた?」
 華恵が喜んで五十鈴の手を握ろうとしたが、五十鈴はそれを止めた。
「待って、窪田さん。先生が言われたでしょ。発症してないからリスクは低いけど、万一を考えてあまりお互いに触れないほうがいいって・・・」
「川崎さん?」
「心配かけてごめんなさいね」
 五十鈴は華恵の方を向いて言った。
「ううん、気にせんでください。辛いのはお互い様だし」
「窪田さんは知っていたんですよね・・・。この病気で亡くなった人がどうなるか」
「ええまあ・・・。それを聞いたときは流石にショックで雷に打たれたような気持ちになりましたが、でも、今は全然実感がわかないんですよ。昨日のことなのに」
「相当お辛いんですね。きっと」
「そうでしょうか・・・」
「そうですよ・・・」
「黙っていてごめんなさいね。でも、こういうことを口にするのも不安が募るばかりでよくないと思って」
「いいえ、私こそ、そんなお気持ちを汲みもせずに、やたら話しかけてから・・・」
「いえ、おかげで気が紛れました。昨日の状態でこんな部屋にたった一人でいたら、きっと神経がまいっていましたよ」
「そう言ってくださると嬉しいです・・・」
「川崎さん、なんかまだキツそうですよ。もう少し眠られた方がいいですよ」
「ええ、そうですね。でも、昼間寝すぎると、夜寝られなくなるんじゃないかって」
「大丈夫ですよ。私、よくお昼寝しますが、けっこう夜も眠いですよ」
 華恵は笑いながら言って、五十鈴を安心させようとした。
「そうですか。じゃあ、もう少し眠らせてもらいますね」
 五十鈴はそう言った後、静かに目を瞑った。相当疲れていたのか、五十鈴はすぐに眠りに入った。同居人が静かに寝息を立て始めたのを見ると、華恵は自分も眠気を感じてふわあっとあくびをした。
「じゃ、私もお付き合いして少し眠ることにしましょうか」
 華恵はそう言いながらベッドに横になった。

 
 GFこと緑原蔵人は、身動き出来ずにいた。

 彼も日曜に緊急放送を聞いたのだが、持ち前の脳天気さから特に焦って対策をするようなことはしなかった。しかし、周りがゴキブリ対策をどんどんはじめ、さらに、昨日のNS10で放映された映像を見て流石に不安になった彼は、重い腰を上げて薬局に向かった。しかし、時は遅く、どこの薬局もゴキブリ対策の目ぼしいものはほとんど売り切れており、コンビニや量販店も同じことだった。仕方なく、適当に肌用の虫除けスプレーを買って帰った。蚊避けだが無いよりはマシかも知れない。あとは、押入の中に古い『ローチがっつりとれとれポイポイ』が残っていたはずだ。
 家に帰ってすぐに押入に入り込み、化石堀のようにいろんな『お宝』を掘り起こした末にようやく捜し物を見つけた。
「よしよし、期限は去年で切れているけど、まあ、大丈夫だろ」
 彼はそうつぶやくと、箱を開けようとしたが、なにかが箱からぱさりと落ちて、彼はぎょっとした。見ると、それは干からびたゴキブリのミイラだった。誘引剤の臭いに引き寄せられて来たのかも知れない。
「一体いつの死体だよ・・・」
 幸い、ミイラ化の様子から今回の騒動とは関係なさそうだった。緑原は、それをティッシュで掴んで手近なコンビニ袋に入れ、口をしっかりと結ぶとゴミ箱に捨てた。その後気を取り直して『ポイポイ』を箱から出し、組み立ててキッチンの隅に置いた。
「まあ、気休めにはなるだろ。ついでにこれも試してみようっと」
 緑原はさっき買ってきた防虫スプレーの包装フィルムを外すと、自分の腕に向けて軽くスプレーした。腕を中心に、独特の匂いが漂った。
「うわっ、く、臭ぇっ!」
 緑原はスプレーを放り出すと、右手で鼻の辺りを扇ぎながら言った。
「なんじゃあ、こりゃあ・・・」
 薄荷と唐辛子とシナモンを混ぜて煮込んだものに、レモンピールをぶちまけ、隠し味に正露丸を入れたような、自己主張の塊のような匂いだった。悪臭とは違うがかなり臭いがキツイ。これじゃあ、売れ残っているはずである。涙目になりながら、緑原は防虫スプレーの説明を読んだ。
「えっと、何々? 『12種類の天然ハーブを使った、人にも環境にも優しい虫除けスプレー。ナチュラル派もこれで満足』ぅ? なんじゃこら?」
 緑原はもう一度、今度は空中に軽く散布してみた。と、いきなり咳が出た。
「ぶはごほげほっ、ごほごほ。これじゃ、虫どころか人も近づかんぞ、と」
 緑原はそう突っ込むと、スプレーを本棚の適当な棚にぽんと置いた。それからすぐに窓を全開にした。すると、だいぶ臭いが緩和されてきた。
「ああ、ひどい目にあった」
 緑原はため息をついて言った。でもまあ、万全ではないがこれで気休めくらいにはなるだろう。そう思ったら、いきなり腹がぐうと鳴った。ふと時計を見ると1時を過ぎていた。腹のすくはずである。緑原は、流しの上の吊棚の扉を開けて、そこにずらりと並ぶカップ麺の中から1.5倍のカップ坦々麺を取ると、食べる準備をはじめた。
 食事が終わると睡魔が襲ってきたので、緑原は眠ることにした。受けなければならない講義は4時からである。今昼寝しても充分間に合うだろう。そう思うと、緑原は躊躇なくごろんとベッドに横になった。
 ところが次に目が覚めた時、時計を見ると既に4時を回っていた。
「わちゃっ!」
 彼は時計を見て飛び起きた。
「いけね、遅刻だ。この講義、代返効かないんだった」
 緑原はそう言いながら寝覚めに顔を洗おうと、椅子にひっかけていた汗拭き用のタオルをひっつかみキッチンの流し台に急いだ。しかし、キッチンに足を踏み入れた途端に彼の動きが止った。キッチンの隅に、何やら黒い塊があった。昼に例の『とれとれポイポイ』を置いた辺りである。昨日と一昨日のウイルス報道を思い出して、恐怖で彼は身動きが出来なくなった。彼はそのまましばらく銅像のように突っ立っていた。

 しかし、いつまでもそうやっているわけにはいかない。彼はにじにじと横にゆっくり動き、蛍光灯のスイッチに手を伸ばし、明かりを点けた。急に部屋が明るくなり、黒い塊はうろたえてワラワラと動き出した。
「うへぇっ!」
 能天気な緑原も流石に悲鳴を上げた。彼は一部自分に向かってくる虫たちに向かってスリッパを投げ牽制した。そのまま彼は部屋に逃げ込み、咄嗟に本棚の虫除けスプレーに手を伸ばした。
「食らえっ!!」
 彼はそう叫ぶと闇雲にスプレーを撒いた。近所から苦情が来そうなほど、臭いが立ちこめた。緑原は口と鼻をタオルでふさぎ、咳き込みながら涙目で様子を見た。苦し紛れの攻撃で、彼は、それが効くとは思っていなかった。しかし、思いがけず、虫たちは部屋の戸口で止まり、方向転換をはじめた。しばらくすると、あれだけいた虫はすっかりいなくなっていた。ポイポイに捕まった数匹を残してだが。
 緑原はほっとした。しかし、何で例の虫がこんなに大発生したのか。緑原は嫌な予感がして、外に様子を見に行くことにした。玄関を出て周囲を見た。緑原以外に異変を感じた者はいないようだった。もっとも、ほとんどが学生や独身の会社員の住む安アパートである。昼間は皆出勤で留守をしているのだ。居るのは数人の学生くらいだろう。
 緑原が様子を見ていると、どうやら右隣の部屋の玄関先で、チョロチョロする黒いモノが見えた。おそらく虫の出所はそこだろう。その部屋は、アパートの角部屋で、道路に面している。しかし、当然のことながら緑原は確かめる勇気がでなかった。それで取りあえず110番してみることにした。
「うう、嫌なことになってきたなあ・・・。単位大丈夫かな、オレ」
 緑原は、ブツブツ言いながら部屋に帰った。
 

 華恵は、自分の名を呼ぶ声に目が覚めた。ちょっと仮眠するつもりがすっかり眠ってしまっていた。華恵は跳ね起きると隣のベッドを見て驚いた。五十鈴が苦しそうに喘ぎならが華恵を呼んでいたからだ。
「川崎さん!!」
 華恵はベッドから飛び降りると、同居人の傍に駆け寄った。
「だめ、近づかないで・・・!」
 五十鈴が華恵を制止して言った。
「熱が出たごとあります。多分発症したとでしょう。すみませんが、先生を呼んでくれませんか?」
「川崎さん、そんな・・・」
 華恵は愕然として言った。五十鈴は悲しそうな笑顔で言った。
「せっかくお友だちになれたのに、ごめんなさいね」
五十鈴はそう言うと、華恵に背を向けてむせるように咳き込んだ。
「川崎さん!!」
 華恵は急いで緊急ボタンを押した。
「すみません、川崎さんが・・・!! 先生、先生! 早く来てください!!」
 華恵は必死でそれだけ言うと、再び五十鈴の傍に寄ろうとし、また制止された。
「窪田さん、近寄ってはだめです。あなたは生きてください。・・・そして、ここを出たら、お願いがあります・・・」
「何?」
「初音を・・・あの子がどうしているか、様子を見に行ってください。近所の方にお世話をお願いしとぉとですが、それだけがずっと気がかりなんです」
「初音ちゃん? あ、ワンちゃんね。わかった、わかったから安心して。私がなんとかしますから」
 華恵が言うと、五十鈴は苦しい息の中、嬉しそうに笑った。その時、重装備の医師と看護師が、ストレッチャーと共に部屋に入ってきた。
「窪田さん、あなたは大丈夫ですか?」
 部屋に入るすぐに、山口医師が尋ねた。
「はい、私は・・・」
「川崎さんは、これから一類感染用の病室に移します。この部屋も消毒しますから、窪田さんも別の部屋に移動していただきます。よろしいですか?」
「は、はい。・・・あの、それで、川端さんは・・・」
「はい、出来る限り手を尽くしますから、心配なさらないで」
 山口が、五十鈴の容態を診ながら言った。しかし、それが気休めであることは、華恵にもわかった。
 ストレッチャーに乗せかえられ、五十鈴は病室から出て行った。華恵は呆然としてそれを見送った。五十鈴の姿は遠のき、無情に病室のドアが閉められた。
「川崎さん・・・。そんな、そんな・・・」
 華恵はつぶやきながら、ベッドサイドに力なく座った。

 
「葛西、行き先変更だ」
 ジュリアスが、無線を切ると言った。
「A町のK荘というアパートの緑原って人から通報があったらしい。ローチが大発生しとるんだと」
 緑原と聞いて、葛西は驚いた。
「緑原・・・? GF、あいつか!」
「何だ、知り合いかね」
「うん、例の『トルーパー』の動画を教えてくれたやつだよ」
「なるほど、C川の傍のアパートかね。ローチが大量発生しても不思議じゃにゃーか」
「しかし、また会うことになるとはねえ・・・」
 葛西はしみじみと言ったが、すぐに姿勢を正した。
「じゃ、行こうか。こんな車と格好じゃ目立って仕方がなさそうだけど」
「これ以上適切な格好はにゃぁだろ」
 ジュリアスが、にやりと笑って言った。

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