1.暴露 (1)儚い夢
20XX年6月17日(月)
知事の重大発表から一夜明けた月曜、空には今にも雨の降り出しそうな鉛色の雲が広がり、本格的な梅雨の到来を誇示していた。
人々の間には、特に何か大きな変化があったような感じはないようだった。日ごろより若干マスクを着けた人が目立つ程度で、少なくとも人々は思ったより事態を冷静に受け止めたようだった。
ところが、そんな人々の冷静さを揺さぶる事件が起こってしまった。
朝のオフィス街に自動車のクラクションとブレーキ音が響き、ついで、ドン!という音がした。
「トラックに人が轢かれたぞ!」
通行人の一人が叫ぶ。蒼白な顔をして、トラックから運転手が降りてきて言った。
「こいつがいきなり飛び出してきたんだ! 避けられなかったんだ!!」
幾人かの男性が、様子を見に近づいていく。
「息はあるとか?」
「大丈夫か、あんた!」
「うわ、こりゃあだめばい!」
「うへぇ、頭が・・・」
その時、女性の制止する声が響いた。
「近寄らないで! その人は、新型の感染症です! とにかく救急車を呼んでください!!」
声の主は、笹川歌恋だった。彼女は蒼白な顔をして、立っているのがやっとの様子だった。
「昨日知事が言ってた、エボラ並みの出血熱ってヤツか?」
誰かがそう尋ねると、あちこちで悲鳴が上がって、事故現場を囲っていた人垣がザアッと引いた。
「また、感染者が現れたんですって?」
感対センターに駆け込んだギルフォードは、高柳の顔を見るなり言った。
「おはよう、ギルフォード君、キング先生」
高柳はギルフォードとその後から駆け込んできたジュリアスに、まず朝の挨拶から言うと、続けた。
「そうだ。一人は道路に飛び出した挙句走行中のトラックに巻き込まれて即死した。もう一人は、その男と関係を持っていたらしい若い女性だ」
「なんか、そんなのばっかりですねえ・・・」
と、ギルフォードが肩をすくめながらぼやいた。
「秋山美千代経由らしいからね」
高柳はギルフォードと肩を並べて歩きながら言った。もっともその身長差は20センチ近くあるが。その後ろを歩きながら、今度はジュリアスが尋ねた。
「ってことは、死んだ男は美千代と関係を持ったということですか?」
「いや、森田健二を轢いた本人らしい。僕もこれから件の女性に直接質問しに行くところだ。そうそう、先に葛西君が来てるそうだから」
葛西と聞いて、ギルフォードが複雑な表情をしてジュリアスを見た。ジュリアスは、ふん!という感じでそっぽを向いた。それを見て高柳は片眉を少し上げたが、さして気にする様子もない。
病室の前に行くと、葛西がすでに二人の刑事と共に、病室の前にスタンバッていた。彼は三人の姿を確認すると、笑顔で迎えた。
「おはようございます、みなさん。まるで昨日の告知が合図になったみたいに次々と出てきますね」
「おはようゴザイマス。え~っと?」
ギルフォードが連れの二人を見て怪訝そうに訊いた。
「あ、彼らはC野署で森田健二の事件を担当している中山刑事と宮田刑事です。こちらはここのセンター長の高柳先生と、ウイルス学者のギルフォード教授とキング先生です」
と、葛西は双方を紹介した。6人が挨拶をしあった後、高柳が刑事たちに言った。
「この方は発症者とかなり近い関係にあったために、感染の確率がかなり高いということで隔離されています。今は若干の発熱が確認されている程度ですが、それよりも知人の酷い死を目の前にして、かなりのショックを受けておられます。それで、事情聴取は出来るだけ、要点を押さえた短いものにしてください。いいですね」
高柳は念を押すと、病室内に問い合わせた。
「僕だ。刑事さんたちが事情聴取に来られている。僕たちもいくつか質問があるのだが、いいかね?」
「はい、少々お待ちください」
スピーカーから聞き覚えのない女性の声がした。高柳が言った。
「昨日の知事発表に備えて、かなり増員したんだ。今後の発生状況によっては一般外来を中止して全棟を専用の病院に使用することになるだろう」
彼が言い終わると、病室から返答が来た。
「センター長、笹川さんがご了承されました。ただし、あまり負担にならない程度にお願いします」
そして、すぐに窓が『開いた』。
病室には、まだ若い女性がベッドにではなく、サイドテーブルの椅子にうつむいて座っていた。その後ろに、これまた若い女性看護師が立っていた。女性の前には、やや年配らしい女性医師が座っている。もちろん二人とも防護服を着用しているので、容姿はよくわからない。医師が振り向いて言った。
「担当医の高柳敏江です。看護師は甲斐いず美。患者さんは笹川歌恋さんとおっしゃいます。質問の許可はしますが、くれぐれも患者さんのご負担にならない程度でお願いします」
「まあ、名前でわかるとは思うが、担当医師は僕の妻でしてね」
高柳が少しだけ照れ気味に言った。しかし、敏江の方はにこりともしない。
「さて、こちらから質問していいですかね?」
中山が言った。
「どうぞ」
敏江はそっけなく答えた。
「ただし、昨夜のようなことになった場合、即刻窓を遮断させてもらいますよ」
「昨夜?」
中山が不審そうに高柳/夫の方を見て尋ねた。高柳は一瞬苦笑いをするとすぐに真面目な顔をして答えた。
「昨日、公安調査官が別の患者さんに高圧な態度をとったものでね」
高柳はその後、鼻の横を掻きながら小声で続けた。
「もう、その情報が行ったらしいな」
その様子を見て、高柳以外の5人は同じことを思って一斉に顔を見合わせたが、すぐに中山が質問に入った。
「えっと、笹川さん、まず、森田健二が事故にあった当時のことを説明願いますか?」
「自殺・・・だと思ったんです・・・」
蚊の鳴くような細い声だった。中山が少し困った顔をして言った。
「あのぉ、もう少しはっきり答えてくださいませんか?」
「すみません」
歌恋は謝ると少し声量を上げて話し始めた。
「森田さんは車道をフラフラと歩いていたんです。ちょうどカーブのところだったんで、彼の姿がヘッドライトに浮かんだ時には、もう間に合わなかったんです。でも、課長が咄嗟に急ブレーキをかけたので、死ぬような衝撃ではなかったはずなんです。なのに、彼は、・・・何故か目の前で痙攣して血を吐いて死んでしまいました。服にはその前から付いていたらしい血が、既に半分乾いていました。だから、自殺で、きっと毒かなんか飲んでたんだと・・・」
「それなら、すぐに救急と警察に連絡すればよかったとやないですか? 何故遺体遺棄なんかしたとです?」
「課長も私も酒気帯びで・・・それに、一緒にいたことを知られたくなかったんです」
それを聞いて、宮田がやや激しい口調で言った。
「轢逃げと遺体遺棄ですよ! そんなことしたら、余計に罪が重くなるなんて考えなかったんですか!?」
「・・・」
答えに詰まる歌恋を宮田がさらに言及しようとしたので、中山が急いで止めた。
「おまえはちょお黙っときやい」
中山は、歌恋の方に向きなおして言った。
「飲酒はともかく、轢いたことについてはその時の状況が考慮されたと思いますよ。現に司法解剖で死因は感染によるショック死とし、事故の影響はほとんどなかったとされていますし」
「わ、私がいけなかったんです。課長は救急車を呼ぶつもりだったのに、私が止めたんです・・・。社則で飲酒運転で逮捕された場合、懲戒処分になることになっているんです。しかも、それで人を死なせたとなったら・・・。だから、自殺するような馬鹿な男の為に、私はともかくとして、課長の一生をふいにしたくなかったんです!! まさか、まさかこんなことになるなんて・・・」
そういうと、歌恋はわっと泣き出した。それを見て敏江が看護師に何か合図をしようとしたので、高柳が急いで止めた。
「敏江、ちょっと待ってくれないか? もう少し、ね、頼むから」
その姿を見て、ジュリアスが葛西にこっそり耳打ちした。
「ありゃあ、だゃ~ぶ尻にしかれとるようだね」
「うん、意外だね」
葛西も小声で答えた。
「ササガワさん」
見かねてギルフォードが声をかけた。
「だけど、あなたは今日、その課長さんが事故に遭われたとき、周囲に病気のことを警告しましたね。勇気ある行動だと思います。黙っていれば、少なくともモリタさんの事故とあなた方の繋がりは闇の中に葬られ、あなたは安泰だと思ったはずです。なのに、あなたは、咄嗟に感染が広がるのを防ぐ道を選んだ。それだけに、あなたがその勇気を、モリタさんの時に出せなかったのは残念です」
歌恋はなんとか落ち着きを取り戻して言った。
「昨日の・・・放送がなければ、多分黙っていたと思います。課長は、車道に飛び出す前に言ったんです。『赤い、なんで赤いんだ?』って。私は課長の感染を確信してゾッとしました。そして、私の感染も・・・。それで、これ以上病気を広げちゃいけないと思ったんです」
歌恋がそう言い終えた時、スタッフステーションのドアがバタンと開いて、血相を変えた中年の女性が入って来た。
「窪田栄太郎の妻です! 夫がこちらに運び込まれたそうで・・・」
窪田の妻と聞いて、歌恋がビクリとした。刑事たちと会話をするためにマイクがオープンになっていたので、通りやすい窪田華恵の声を拾ってしまったらしい。歌恋が何か訴えるような眼をして窓の方を見た。
「大丈夫、心配しないで」
ギルフォードが唇に人差し指を当てて言った。高柳がさっと華恵の方に向かった。
「奥さん」
高柳は華恵の傍まで来ると言った。
「残念ながらご主人は、ここに運ばれてきた時には既に亡くなられていました。ほぼ即死だったそうです」
「そんな・・・。確かに家を出る時なんとなく様子が変でしたが、心配して声をかけても病院に寄るから大丈夫だと言って・・・」
華恵は自分の意思とは関係なく、身体がわなわなと震え始めたことがわかった。死んだ? 夫が? そんな馬鹿な・・・。しかしその反面、冷え切っていた筈の夫婦関係なのに、なんでこんなに動揺するのかと、動揺し取り乱す自分を見つめる冷静な自分の存在を感じていた。
「奥さん、難しいでしょうが、出来るだけ落ち着いて聞いてください、いいですか?」
「は、はい」
「ご主人は致死性の感染症に罹られていました」
「感染症って、昨日知事の説明にあった・・・? そ、そんな馬鹿な・・・」
「いえ、これは事実なんです。それで、あなたにも感染の疑いが・・・、あ、奥さん、大丈夫ですか?」
華恵は高柳の説明の途中で、腰を抜かして座り込んでしまった。
「誰か、窪田さんを頼む」
高柳の声を聞きつけて、スタッフが何人か駆け寄ってきた。
「だれか、ストレッチャーを持って来い」
「だ、大丈夫です。驚いただけですから。そんな大仰になさらいでください」
華恵は焦って言ったが、自分でも倒れかけた事に対して驚いているようすだった。高柳は駆け寄ってきたスタッフに三原医師がいることに気がついて言った。
「三原君、窪田さんを診察室に連れて行ってさしあげて。落ち着かれたら、説明と問診を頼む」
「わかりました。さあ、奥さん、立てますか?」
三原は華恵に手を差し伸べながら言った。
「大丈夫です。自力で立てますわ」
華恵はそういうと気丈にも立ち上がって言った。
「説明をお聞きします。三原先生でしたわね、よろしくお願いいたします」
「では、ご案内しましょう。こちらへどうぞ」
三原は華恵を手招きすると、先に歩き始めた。華恵はしっかりとした足取りでその後に続いたが、急に高柳の方を振り返ると言った。
「多分、私は大丈夫と思うわ。それより夫の愛人よ。そっちのほうが感染してるんじゃないかしら?」
「それについては私共は何とも・・・」
高柳は空とぼけて言った。
「そっ」
華恵はそっけなく言うと、再び三原の後を追って歩き出した。二人がステーションから出て行くのを見届けて、高柳は歌恋の部屋の前に戻った。
由利子は10時にF県警察本部の受付に居た。ギルフォードによれば、受付で名前を言うだけで良いと言うことなので、早速受け付けの綺麗なお姉さんに自分の名を告げた。
「篠原由利子様・・・。えっとギルフォード様から伝言をお預かりしております」
受付の女性はそう言いながら由利子にメモを渡した。それにはこう書いてあった。
『ユリコ、また感染者が出たらしいのでセンターまで行かなければなりません。先に、案内された部屋に行ってください』
「え~っと、私ひとりで何をしろと・・・?」
由利子はそれを読みながら頭を掻いて周りを見回すと、受付の女性が言った。
「迎えの者が参りますので、少々お待ちくださいね。・・・あ、来ました来ました」
女性の向いた方向を見ると、スーツ姿の背の高い女性が由利子に向かって歩いてきた。年の頃は30代後半くらい、由利子とほぼ同年代のように思えた。彼女は由利子に気がつくとにこっと笑って言った。
「篠原様ですね。バイオテロ捜査本部の早瀬です。ご案内しますのでついていらしてください」
「あ、お世話になります」
由利子は軽く礼をすると、彼女の後をついて行った。
(バイオテロ捜査本部だって。うわ、うわ)
由利子は内心かなり興奮していた。しかも、警察棟内部なのですれ違う人のほとんどが警官なのだから、慣れない状況にさすがの由利子も若干萎縮しつつテンパっていた。エレベーターを登って当該階(階数は非公開)で降りる。そのまま廊下を歩くと突き当たりの部屋にたどり着いた。部屋の前によく映画やテレビで見るような筆書きの看板が儲けられており、そこには「平成2X年F県下に於ける新型病原ウイルス散布事件捜査本部」と、長々と書かれていた。
「長ったらしいでしょう? いつも思うのだけれども、もっとスマートに書けないものかしらね」
早瀬はそういいながらドアを開け部屋に入ると由利子を招きいれた。部屋は思った以上に広くて明るい。
「捜査員のほとんどは既に出かけているから、今居るのは私と部長の松樹だけなの。松樹捜査本部部長、篠原さんをお連れしました」
そう言いながら早瀬は由利子を手招きし、窓際の一際大きい机にの前に案内された。
「松樹警視、篠原さんです!」
机に背を向け・・・すなわち窓際を向いて男はなにやらごそごそしていたが、早瀬の声で慌てて振り返った。
年齢40代後半、右頬に傷跡が残るがなかなか渋い男性だ。しかし、左目に黒いアイパッチをして左手はなんと鉤状になっている。由利子は若干引き気味に会釈した。
「あ、ああすまん。まだ役職名に慣れてなくてね」
松樹は照れくさそうに言ったが、由利子が胡散臭そうな顔をして自分を見ているのに気付き、説明した。
「ああ、これは婦警からもらったディ○ニーランドのお土産でね。ちょっと試着してみてたんですよ。けっこう似合ってるでしょ」
松樹は仕上げに海賊帽子を被り、立ち上がったが、さすがに鉤手はマズイと思ったのかスポッとそれを外して言った。
「捜査本部長の松樹杏一郎です。よろしく」
「篠原由利子です。こちらこそ・・・」
「さて、篠原さん。実は、君にお願いがあってこっちに来て貰ったんですがね、本来なら一緒に来てもらう予定だったアレックス・・・いや、ギルフォード教授に説明してもらうつもりだったんで・・・」
松樹はそう言いながら部長席を離れ、由利子を手招きした。
「ちょっとこっちにきてくれませんか?」
「はい」
由利子ははっきりとした返事をすると、彼の後を追った。早瀬もそれに続く。松樹は由利子を若干大きめのパソコンが置いてある席に案内した。
「さ、ここに座って」
「あ、あの」
由利子はさっき松樹が言いかけたことが気になっていたので、先に聞いてみることにした。
「さっきアレックスって言われましたが、教授とはお知り合いなんですか?」
「ああ、彼とは大学時代からの腐れ縁でね。ま、オシリアイったって、彼と同じ趣味は持ってないから安心して・・・、いや、却ってアブナイかな?」
松樹はニッと笑いながら言った。
(アレクと気が合う筈ね。類は友を呼ぶとはよく言ったものだわ)
由利子は松樹とギルフォードの根っこに類似点を感じて思った。そこに早瀬の松樹へのダメ出しが入った。
「洒落になってませんよ。それに、いい加減その海賊のコスプレを解いてくださいませんか? 篠原さん、あきれておられるじゃないですか」
「おっと、失礼」
松樹は急いでアイパッチを取り帽子を脱いで言った。
「さて、そういうわけで早瀬君、説明してやってくれ」
「はい。・・・じゃ、篠原さん、遠慮なく座ってください。
早瀬はパソコンの電源を入れながら言った。
「あ、はい」
と、素直に席に着く由利子。窓機の立ち上がる起動音が室内に響いた。早瀬は何ヶ所かクリックした後開いた画面を指差しながら言った。
「警察の犯罪者データベースです。この中からあなたの記憶しているひったくり犯や、あなたが数人の刑事と見たCD-Rに記録されていた人物を探してください。まずはF県下の暴力団関係のデータから始めてもらえますか?」
「ええ~!? この膨大な人数から見つけ出すんですかぁ~?」
「申し訳ありません。でも、あなたしか出来ないことなんです。お願いできませんか? もちろん賃金はお支払いしますから」
「えっと、今まだ有給消化中で今週木曜までは在職しているのですけど。それに今日からギルフォード研究室に・・・」
「その辺については、後でお話があると思います。で、やってくださいますか?」
「当然やりますよ。でも彼らがデータ内に登録されているとは限らないですけど・・・。ひったくりなんてどー見てもチンピラだったし」
「今は、ちょっとした手がかりでも欲しいのです。今のところ、関係者の顔を鮮明に覚えているのはあなただけなのですから」
早瀬が『あなただけ』と言ったところで、由利子は背筋に薄ら寒いものを感じた。
「あのっ、私だけって、それ、警察内のみなさんが周知のことなんですか?」
「ご安心ください」
早瀬が笑顔で言った。
「関係者以外では、警視と私しか知らされていませんから」
「関係者?」
「ええ、当時あなたと一緒に居た刑事たちのことです」
「そうですか・・・」
由利子はほっとして言った。
「わかりました。地道な作業ですけどやってみます。どの辺りから攻めて行けばいいでしょうか?」
「そうですねえ・・・。まず、有名なところでここら辺あたりから初めてみては?」
「げげ・・・、イキナリそこですか?」
由利子はよくニュースで耳にする有名暴力団の名前を見て目を丸くした。
「じゃあ、私もお仕事に戻りますから、よろしくお願いしますね」
「あ、あのっ」
そのまま放置されそうになった由利子が焦って言った。
「私、多分、このデータ、見た人全員覚えてしまうと思うんですけど、問題ないでしょうか?」
「え? 全員覚えるんですか?」
早瀬があきれて言った。
「覚えたくて覚えるんじゃありませんけど」
「へえ~!」
松樹が興味深そうに言った。
「アレックスから聞いていたけど、そこまですごいとは思ってなかったな。てことは?」
「はい。もし道で会ったりしたらわかります。あ、この人ナントカ会の何の何兵衛だって」
「そりゃあ、便利だな。いちいち調べなくてもいいぞ。早瀬君、この事件が片付いたら、彼女に組織暴力対策課の非常勤にでもなってもらおうか?」
「まあ、それはいいですね」
「いえ、けっこうです!! 謹んでご辞退いたしますっ」
由利子は即答した。
感対センターでは、歌恋への質問が続いていた。C野署の刑事たちの質問はほぼ終わり、その後は感染ルートの確認だった。森田→窪田→歌恋というルートは確定だが、問題はその後だった。特に窪田が発症していたらしい金曜から先のルートが問題だ。
「旅行でY温泉に?」
高柳の表情が険しくなった。ギルフォードとジュリアスも眉をひそめている。
「温泉地か。厄介だな・・・」
高柳が腕組みをしながら言うと、ギルフォードが相槌を打った。
「そうですね。高温の湯内ではウイルスがどれだけ生きられるかわかりませんが、そういうところばかりじゃありませんし、このウイルスの生命力自体わかってないのですから、かなり問題ですね、これは・・・」
それを聞いて、歌恋が泣きそうになりながら言った。
「でも、そこは全室が離れになっていて露天風呂も備え付けになってたから・・・、だから、他人とは接触してませんっ」
「でも、あなた方の後にそこに泊まった方はどうなります?」
「そ、それは・・・」
「とにかく、泊まった宿の名と部屋名を教えてください。即刻電話をして封鎖してもらわないと・・・」
高柳は事を深刻と受け止めて、厳しい表情で言った。歌恋は今更ながらに事の重大さを悟って震えながら両手で口の辺りを覆っていたが、なんとか答えようと重い口を開いた。
「と、泊まったところはY温泉の・・・『山荘月光の宿』、泊まった部屋は・・・『茅(ちがや)の間』でした」
高柳は、すぐにそれをメモすると近くの職員を呼び止めて言った。
「すぐにここを検索してくれ。連絡を急ぐので、わかったらすぐに知らせて!」
「はい、わかりました!」
メモを受け取った女性職員は、すぐにパソコンに向かい検索を始めた。高柳が続けて聞いた。
「他に行ったところはないのかね?」
「はい。後は会社と家との往復で、特にどこへも・・・」
歌恋が答えると、ギルフォードがすかさず口を挟んだ。
「大事なことを忘れています。森田さんの事故の後、どうされました?」
「あの・・・」
「もともと、どこかで酔いを醒ますつもりだったんじゃないですか?」
「え? あの、・・・どうしてわかったんですか?」
「簡単な人間の心理ですよ。で、どこに?」
「あの時は二人とも気が動転していて、とにかく目に付いたところに入ったので、場所も名前も全く思い出せないんです・・・」
「重要なことです。少しの手がかりでいい、思い出してください」
「は・・・、はい。ところであの」
歌恋はずっと気になっていたことを質問した。
「会社の方はどうなるのですか? やはり全員隔離なのでしょうか?」
高柳がその質問に答えた。
「今保健所の者が君の会社まで説明に行っているところですよ。空気感染はしないようだし、汗や唾液などの薄い体液飛沫からの感染も今の所報告がないので、会社の人たちの感染リスクはかなり小さいだろう。だから、経過の監視はされるだろうが、隔離については心配ないと思うよ」
「そうですか、良かった」
「でもね」高柳が続けた。「問題は今日の事故なんだ。昨日の知事の報告にもあった、感染した少年が電車に飛び込んで亡くなった事件だが、そこに居合わせた人たちから少なくとも一人の感染者が出ている」
「じ、じゃあ・・・」
「呼びかけてもバカ正直に名乗り出る人もあまり居ないだろうから、君が近づくなと叫んだ、その効果を期待するしかないな」
「ああ・・・」
歌恋は両手で顔を覆って下を向き嘆いた。
「一体どうしてこんなことに・・・。私、ただ、課長と一緒に居たかった、それだけだったのに・・・」
「恋愛というものは、本来身勝手なものですから・・・」
ギルフォードが、慰めとも皮肉とも取れるような口調でぼそりと言った。
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